モリちゃんの酒中日記 1月その1

1月某日
正月3が日というか年末から「家呑み」を続ける。奥さんが買っておいてくれたビール、日本酒、焼酎を順番に呑む。といっても夕食のとき限定だけど。我が家で食事どきに酒を呑む習慣を有するのは私だけ。家族は10分か15分かで食事を終えるのだが、私だけぐだぐだと小一時間食事をとりながら酒を呑む。私の考えでは酒を呑めるというのは肉体的にも精神的にも健康な証拠。私が30代~40代でうつ病になったときは少しも酒を呑みたいと思わなかったし、呑んでも楽しくなかった。胃潰瘍と脳出血で入院したときも、もちろん院内飲酒は禁止だったし、このときも呑みたいと思わなかった。ただ退院してしばらくして飲んだ酒はうまかった。そういえば学生時代、留置所と拘置所で3か月ほど禁酒を余儀なくされたがこのときも全く禁断症状は出なかった。ミシェル・フーコーが病院と監獄の類似性について触れていると思うが、病院は個室と言えども病院の完全な管理下にあり、酒はご法度。その点ではいかに快適とは言え、病室と監獄は本質的に変わりはないのだ。

1月某日
「抱擁 この世でいちばん冴えたやりかた」(辻原登 小学館文庫 2018年8月)を読む。惹句に「現代最高の物語作家の傑作2冊を合本にして初文庫化!」とあるように「抱擁」は2009年に、「この世でいちばん冴えたやりかた」は2002年に「約束よ」というタイトルで、同じく新潮社で単行本として出版されている。「抱擁」は単行本化されたときに図書館で借りてすでに読んでいるが、例によって内容をほとんど覚えていないので再読する。舞台は東京駒場の前田侯爵邸、2.26事件の翌年だから1937年か。「わたし」は前田侯爵邸の小間使として侯爵の末娘、5歳の緑子に仕えることになる。「わたし」の前任者は「ゆきの」といったが、新婚の夫が青年将校として2.26事件に参加、夫の刑死の報を聞いて京王帝都電鉄の電車に飛び込み自殺する。緑子の周囲で不思議なことが起きる。緑子の英語の家庭教師、バーネット夫人は「キツネ憑き」を疑う。「わたし」はキツネ憑きを払うために緑子に刃を向け渋谷署に連行される。「わたし」の検事への供述として物語は始まるのだが、検事は「わたし」が緑子に危害を加える気持ちが無かったことを認め「起訴はしないから、今後、子供に会わないほうがいい」と「わたし」を諭す。釈放され実家に戻った「わたし」はおいとまの挨拶に屋敷へ出掛け、緑子に再会する。緑子は「わたし」の首を強く抱きしめ「さよなら、ゆきの」とささやく。解説の冒頭で宮下奈都という小説家が「辻原登さんの小説を読んで、すべてが腑に落ちたということは一度もない」と書いているが、「抱擁」もその通りの作品である。だが私にはとても魅力的だ。
「この世でいちばん冴えたやりかた」には7編の短編が収められており、三つが中国、四つが日本を舞台にしている。中国もののうち、「青黄(チンホアン)の飛翔」は浮浪児出身の中国青年が旅客機の車輪にぶら下がって米国行きを目指し、結果的に日本の入管に保護、拘留される話。「河間女」は北宋の首都東京(トウケイ)第八代皇帝徽宗治下、公開処刑された私が、その後2度転生し現在は日本の東京・高輪の魚籃坂で写真館を営んでいる。写真館の主が公開処刑されるに至った顛末を語る。中国ものの最後が表題にもなった「この世でいちばん冴えたやりかた」。第2次天安門事件に参加した後、北京、上海、香港、ニューヨーク、東京などでコンピュータ関連やファイナンスのエキスパートとして成功している青年たちが「黄河水源調査行」を実現させる。調査行の過程で私たちは村人が穴居している洞窟の村にたどり着く。村の祭礼へ出席した私は生贄として供物ともども断崖から突き落とされるが、断崖の途中で同じような洞窟の村に助けられる。驚いたことにここの村人は天安門事件のリーダーたちで、一人の女性は天安門事件で生き別れとなったかつての恋人だった。中国ものの特徴は「時空を超えるファンタジー」だ。
日本を舞台にした4作のうち「約束よ」は妻(まさる)と夫(雅美)という似た名前を持つ夫婦とまさるのセラピストを巡る物語。「かみにさわった男」は女子美出のソ子(正式には麤子、当用漢字にも人名漢字にもあるとは思えない!)はある日、見知らぬ男から自宅近くの船堀駅に誘い出され、船堀から都営地下鉄線に乗り小川町でおりて歩いて湯島のラブ・ホテルへ。トミーと名乗るその男は「おれたち、明日、結婚するんだから」とソ子を連れまわす。象潟のホテルでトミーは逮捕され、ソ子は警察の「いったいこの男はだれなんですか?」という問いに「私の夫です」と答える。「いまのところ彼女には、これ以上、最良の答えはみつからなかった。」というのが結びである。「かみにさわったおとこ」にも盲目の噺家の遊動亭円木が狂言回し役で軽く登場するが「窓ガラスの文字」「かな女への牡丹」では円木は準主役級の扱い。両作とも主人公は白河出身のかな。かなは九九も満足にできず漢字もろくに書けないが、物覚えは悪くないし着物を着せれば「映える子」と、かなが勤める塩原の旅館の女将は思う。かなは旅館の板前の修二と婚約する。修二は流れの氷屋佐伯に博打で300万円の借金を負う。佐伯は白河でかなと援助交際をしていたという噂を振りまく。佐伯はかつて殺人を犯していて警官に逮捕される。連行される佐伯を見かけたかなに佐伯は土下座して謝ると、かなはひざまずいて佐伯の両手をつかみ泣きながら「いいんです、いいんです」と佐伯への愛を語る。逆上した修二はかなを刺し、修二は逮捕されてかなは入院するが修二のことも佐伯のこともほとんど記憶にない。「かな女への牡丹」は傷が癒えたかなは深川は牡丹2丁目の料亭にいる。料亭の客の一人が刺青師の彫朝。彫朝はかなの肌を一目見て刺青を彫りたいと強く思い、かなに睡眠薬を飲ませ願いを成就する。かなは死のうと思うが大工の一八と祝言をあげることになる。披露宴に招かれた遊動亭円木が酔って自宅に帰る。「そのとき、かなの声がした。『円木さん、見て』 ふり向くと、かなの背一面に大輪の牡丹の花が咲いている。風に吹かれていた。円木も揺れた」。これがエンド。
辻原登は現代日本の作家で最も物語性の高い一人だと思う。かつての谷崎潤一郎かと思ったがむしろ石川淳か。石川淳は私の学生時代、文学青年の間では結構人気があった。1899年生まれだからその頃70歳になったばかり。日本文学の主流だった自然主義や私小説の伝統と対立するロマネスクの作家だと思う。の苫小牧市で古書店を営んでいた私の徳蔵叔父さんも、実は石川淳のファンで何冊か初版本を持っていた。「紫苑物語」だったか初版を一冊もらった覚えがある。私が辻原を最初に読んだのは大逆事件に題材をとった「許されざる者」(2010年)だから割と最近。読んでいない著作も多いので楽しみである。

1月某日
本棚にあった「失恋」(鷺沢萠 新潮文庫 平成16年)が目に付いた。例によって読んだ記憶はあるが、内容は覚えていない。鷺沢萠は1968年生まれで1987年「川べりの道」で文学界新人賞を受賞、女子大生作家としてデビュー(Wikipedia)。2004年4月自殺。都会的で繊細な作風が好きで彼女の小説は何冊も読んだ。自殺したから言うのかもしれないが彼女の作品にはある「切実さ」が込められていたように思う。待てよ2004年に自殺したということは、この文庫本が出版された年ではないか。解説を作家の小池真理子が書いているが、その日付は平成16(2004)年1月である。もっとも単行本が出版されたのは平成12年9月、当然だが作者の自殺を予感させるものは何もない。学生の頃から仲は良かったが恋人ではなかった男女二人。女は学生時代の仲間の一人と結婚するが夫は借金を重ね、覚せい剤にも手を出し離婚を余儀なくされる。男は映画評論家となり映画祭の取材帰りに女の赴任先のベルリンへ。女の部屋で二人は結ばれる。女の帰国後、元夫の自殺による通夜にかつての仲間が集まり、男と女は再会する。自然な形でふたりはセックスするが男は女がベルリンでの一夜を全く覚えていないことに驚愕する-短編集冒頭の「欲望」の粗筋である。男、悠介の想いは「人間は無力だ。思ってもみなかったほど、無力だ。それを悠介は、今日はじめて痛いほど思い知らされた」と表現されるが、「けれど、そんな無力なものにもできることは必ず、ある……」と続く。「絶望、そしてそれからの回復」が本作のテーマではないだろうか。そして現実の鷺沢は絶望からついに回復することがなかった。作家的な力量からすれば鷺沢は辻原登の足元にも及ばないかもしれない。しかし作品の「切実さ」において鷺沢は記憶されることになると思う。

モリちゃんの酒中日記 12月その5

12月某日
図書館で借りた「わたしの家族の明治日本」(ジョアンナ・シェルトン 文藝春秋 2018年10月)を読む。原題はA Christian in the Land of the God-journey of faith in japanである。
「神の国のクリスチャン-日本での信仰の旅」だろうか。西南戦争が終わって数か月後の日本に赴任した宣教師、トーマス・アレクサンダーとその家族の物語である。1878年に来日したトーマスは1902年に病を得てアメリカに帰るまで24年間、日本で暮らした。もちろん何度かの里帰りはあったが。殖産興業、富国強兵というスローガン通り、日本と日本国民が「坂の上の雲」を見つめながら近代化にまい進した時期である。トーマスがアメリカに帰る前、1894年に日本は中国相手の戦争(日清戦争)に勝利、アメリカに帰った後、1904年にロシア相手の戦争(日露戦争)に辛勝する。今から思えば日本が精神的に健康だった時代と言ってもいいかもしれない。日清日露の戦役に勝ってから日本は中国をはじめとするアジア諸国を蔑視するようになり、軍事大国化の道をひた走ったように思う。それはともかくトーマスは敬虔で真面目、日本語も堪能な良き宣教師だったようだ。日本で居住した家屋の写真も掲載されているが、なかなか立派。日本における明治以降のキリスト教の受容が、主として中流階級以上もしくは知識階級が主だったことも何となくうなづける。

12月某日
天皇誕生日。天皇がステートメントを読み上げている映像が何度もテレビで流れる。天皇はときどき感極まってだろうか、涙声になる。天皇は小学生の時に終戦を迎え、米国人女性の家庭教師から英語と欧米文化、民主主義を学んだ。おそらく皇太子時代から平和憲法のもとでの天皇の役割とは何かを考え続けて来たと思われる。天皇の思想と行動で特徴的なのは「祈りと旅」だ。災害の被災地と太平洋戦争の戦跡をたどる「祈りと旅」である。自らの思索と行動で象徴天皇像を作り上げてきたと言ってもいいのではないか。天皇誕生日の一般参賀に平成になってから最高の8万人余が訪れたという。天皇の想いが国民に通じたのだろう。現存している日本人のなかでは、現天皇は最も尊敬すべき人の一人である。

12月某日
「どんまい」(重松清 講談社 2018年10月)を読む。重松清の小説はあまり読んだことはないけれど、朝日新聞朝刊の連載小説「ひこばえ」は途中からだが読んでいる。なんてことはないストーリーなのだけれど、心がじんわりと温まってくるような話なんだ。「どんまい」もそんなストーリー。夫に若い女出来て離婚することにした洋子は中学生の娘、香織とともに人生を再スタートさせる。そんなときに出会ったのが団地の野球チーム「ちぐさ台カープ」の選手募集のポスター。洋子は小学生のとき野球チームに所属、投打に活躍したことを思い出す。「カープ」が付いているのは監督が広島出身だから。ポスターに見入っているのには先客がいた。地元の高校で甲子園球児、ポジションは捕手だった将大、大学で野球部に所属するもついにレギュラーにはなれなかった。高校の教員試験に落ちて浪人中だ。高校時代にバッテリーを組んだのが現在プロ野球で活躍する吉岡亮介。洋子と香織、将大はちぐさ台カープに入団、元ヤンキーや妻子を札幌に置いて単身赴任中の男、中学受験の子どもを持つ中年サラリーマン、洋子の前夫、将大の野球部の監督などが織りなす群像劇が描かれる。
要するに庶民の日常って奴。でも庶民の日常、それも平和な日常こそが大切なんだよね。

12月某日
デザイナーで「胃ろう・吸引シミュレーター」の開発者の土方さんがHCM社の大橋社長、ITエンジニアの三浦さんと卓球用品の通販サイトの打ち合わせのため来社。打ち合わせが終わったので烏森口の焼き鳥屋「まこちゃん」へ。「まこちゃん」のあと烏森口の大橋社長の行きつけのスナック「陽」へ。ここのママは明治生命の元外務員。大橋社長も明治生命だったからその縁。年末だけど客は私たちだけだったのですっかりくつろいでしまった。家に帰ったら久しぶりに12時を過ぎていた。

12月某日
仕事納め。午前中に川崎市のNPO法人楽が経営する小規模多機能「ひつじ雲」を訪問、理事長の柴田範子先生を訪問して年末の挨拶。HCM社の仕事納めは16時からなので、それまで本を読んだり手紙を書いたりする。HCM社の大橋社長が15時過ぎに帰社、社会保険研究所の松澤総務部長が年末の挨拶に見える。ビデオ映像のクリエイター横溝君、土方さんも仕事納めに参加、女子社員3人と嘱託の向坂さんも交えて総勢9名の仕事納めとなったが、横溝君は仕事が残っていると早めに帰る。ビールを少々と日本酒をかなりいただく。土方さんが買ってきたつまみが美味しかった。霞が関から千代田線で根津へ。「ふらここ」へ寄ってママにコーヒーを渡す。

12月某日
「日本型組織の病を考える」(村木厚子 角川新書 2018年8月)を読む。村木厚子さんは厚労省の社会援護局長に在任中、郵便不正事件で大阪地検に逮捕起訴されるが無罪が確定し復職、のちに厚生労働事務次官になる。村木さんは高知大という地方大学出身で公務員上級職に合格、旧労働省に入省した。私は個人的な接触は無かったのだが、この本は大変面白く読んだ。逮捕起訴される前の村木さんは同期入省の夫と、二人の娘に恵まれた、丁寧に人の話を聞き仕事を進める「できる官僚」の一人だった。起訴されたからは「やっていないことはやっていない」と頑として否認を貫く。今までの自分の仕事に対するプライド、そして家族に対する愛があったから貫けたのだと思う。村木さんは拘置所で見かけた、あどけなさが抜けない少女たちのことが気にかかる。どんな罪を犯したのか検事に尋ねると「売春や薬物が多い」という答え。こうした少女と支援がうまくつながっていないと考えた村木さんは事務次官を退職後、一般社団法人を設立。「若草プロジェクト」と名付けた活動を始めた。活動の柱は「つなぐ」「ひろめる」「まなぶ」。「つなぐ」は少女たちと支援者、支援者同士をつなぐ、「ひろめる」は、少女たちの実情を社会に広める、「まなぶ」は彼女たちの実態を学び、信頼される大人になるための活動という。村木さんの逮捕起訴がなければ、こうした活動は生まれなかったと思う。検察による間違った逮捕起訴はあってはならないことだが、村木さんはこの経験を見事に生かしているようだ。

12月某日
図書館で「曾根崎心中」を検索したら「純愛心中-『情死はなぜ人を魅了するのか』」(堀江珠喜 講談社現代新書 2006年1月)がヒットしたので借りることにする。著者の堀江珠喜は1954年兵庫県生まれ、神戸女学院大学を経て神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了、学術博士で大阪府立大学教授だ。「団鬼六論」(平凡社新書)、「『人妻』の研究」(ちくま新書)も書いていることから「なかなか面白そう」ではある。「第1章 現代の近松」で曽根崎心中は同じ近松の「天の網島」などと一緒に論じられている。堀江は1978年に初演された宇崎竜童と人形遣いの桐竹紋寿、吉田文吾とが組んだ現代風文楽の「曾根崎心中」、さらに2001年の宇崎によるフラメンコ曽根崎心中についても論じている。もしかしたら新国立劇場の「Ay曾根崎心中」にも来ていたかもしれない。堀江はこの章で日本を舞台にした米国の小説「サヨナラ」に論を進める。米軍占領下の日本を舞台にしたこの小説では、米兵のジョーと彼と交際していた日本女性カツミとが心中する。ジョーに帰国命令が出され2人の前途を悲観したためであった。この小説は映画化されカツミを演じたナンシー・梅木はアカデミー賞の助演女優賞を受賞している。堀江はさらに三島由紀夫の情死小説「憂国」に筆を進める。新婚ゆえに2.26事件の参加を慮られた陸軍将校の武山は反乱軍の討伐を命じられ死を決意する。新婚の妻も共に死ぬ。これも義理と人情の板挟みと言えなくもない。軍の命令(義理)からすれば反乱軍を討伐しなければならない。だが同志を討伐することは人情としてできない。ならば死ぬしかないと武山は思い、妻は従う。実際の心中の例や文学作品、たとえば「ロミオとジュリエット」や渡辺純一の「失楽園」などで描かれた心中事件を通して堀江は論を深め広げてゆく。堀江はなかなかの才女ではなかろうか。

12月某日
図書館でたまたま手にした三浦しをんの文庫本「天国旅行」(新潮文庫 平成25年1月 単行本は2010年3月)を借りることにする。作者自身が巻末に「本書は、『心中』を共通のテーマにした短編集である」と記されているが、「純愛心中」に取り上げられている「曽根崎心中」や「失楽園」のように成功した(つまり2人とも死んでしまう)心中を取り上げているわけではない。冒頭の「森の奥」。富士山の樹海で首吊り自殺を試みた明男は、若い男に助けられる。青木と名乗る若い男は元自衛官。自衛官のときに「ちょっと面倒な筋と知りあいになって」「除隊してからもそいつらと仕事してたんだけど」「ちょうど母親も死んだし、もういいかなあと」思って死にに来たことが明かされる。明男は青木と樹海をさまよい歩くうちに死ぬのが馬鹿らしくなる。明男は助けられるが青木はいない。青木はテントの存在を示すようにロープを二本の木の間にピンと張っていたのだ。青木はどうなったか、明らかにはされてはいないが、私は明男と青木の未来に「希望」がわずかに見えるような気がする。2作目の「遺言」は駆落ち同様に結ばれた老夫婦の物語。ラストの「きみと出会い、きみと生きたからこそ、私はこの世に生を受ける意味と感情のすべてを味わい、知ることができたのだ」「私のすべてはきみのものだ。君と過ごした長い年月も、私の生も死も、すべて」という文章は、恥ずかしながらも美しい。

モリちゃんの酒中日記 12月その4

12月某日
日曜日だが「音楽運動療法研究会」があるのでTKPカンファレンスセンター新宿へ。ここは何度か研究会で使用したことがあるのだが迷ってしまった。時間に余裕を持って出かけたのだが、着いたのは開始10分前。事務局長の宇野裕さんと本日の講師がすでに来ていた。
講師の経産省のロボット政策室の宇賀山在課長補佐と名刺交換。そういえば3年ほど前ロボット政策室の美人の課長補佐に取材したことを思い出す。宇賀山さんは「介護分野でのロボット活用の展望」について話してくれた。介護業界に限らず日本は慢性的な人手不足が続いており長期的にも労働力人口の減少は確実、ロボットや外国人労働力の活用は不可避と言われている。宇賀山さんは2020年に介護ロボットの市場規模500億円を目指しているが、現場の抵抗感もあって簡単ではないと語っていた。研究会のメンバーのうち川崎市の特養「かないばら苑」の施設長、依田さんから介護現場での人手不足は深刻で省力化のための投資は積極的に考えたいという発言があった。研究会のメンバーにはロボットに対する抵抗感は無いようだった。宇賀山さんが退席した後、今年「かないばら苑」でやった音楽療法の実証実験について依田さんから、ホームヘルパー協会東京都支部の協力を得て実施したヘルパーへの調査について研究会のメンバーの黒沢さんから報告があった。音楽療法は要介護者だけでなくヘルパーにとっても「スムースに介護ができた」等の効果があるようだ。研究会の後、宇野さんと研究会のメンバーである小金井リハビリテーション病院副院長の川内先生と近くの台湾料理屋へ。

12月某日 
「永続敗戦論-戦後日本の核心」(白井聡 太田出版 2013年3月)を読む。白井は「未完のレーニン」で論壇にデビューしたのだが、「永続敗戦論」以降は戦後論、国体論を論じることによって日本社会のありようを批判的に解明しているように思える。白井の論を私なりにまとめるとすればこうだ。太平洋戦争で日本はアメリカを主とする連合軍に無条件降伏したのにも関わらず、国民ならびに支配者層にはその自覚がない。そして自覚のないままにアメリカに従属している。それが日本人の政治意識をはじめ精神構造にさまざまな歪みを与えているというものだ。例えば、とこれからは私の考えなのだが、普天間基地の移設で紛糾を重ねる沖縄について考えてみる。任期途中で死去した翁長知事の後継知事を選ぶ選挙で、翁長知事が後継者に指名したデニー玉木が当選した。玉木知事は民意が示されたとして安倍首相や菅官房長官に普天間移設の白紙撤回を要求するが、安倍や菅はその要求に一顧だにすることなく工事を再開する。安倍や菅は明らかに沖縄県民の民意よりもアメリカの意向に従っているとしか思えない。永続敗戦の極めて分かりやすい姿である。白井は戦中戦前の指導者の戦争責任も容赦なく追及する。終戦の決断が遅れたために沖縄、広島、長崎はじめ多くの軍人と民間人の命が奪われた。これらに対する昭和天皇を含めた戦争責任の追及は極めて不十分に終わっている。不十分であるが故に敗戦は終わることなく現在までも続いているというのだ。ネットで調べると最近、白井は日本共産党との共闘を模索しているようである。国会あるいは院外の大衆行動において、共産党との共闘に一歩踏み込むのは私も賛成。共産党も私も「大人」になったのである。

12月某日
元社会保険庁長官の堤修三さんから近著「社会保険の政策原理」(国際商業出版 2018年11月)を贈られる。ハードカバーで450ページを超える大著、今までいろんな媒体に発表した論文や個人通信(柿木庵通信、柿木坂摘録)を収録したもの。堤さんは厚労省の要職を務めながら、現在の政策に遠慮のない批判を加えるものだから現役の官僚諸氏には煙たがられているかもしれない。しかし彼の批判は筋の通ったものと私は思っている。第5章の「Ⅱ 社会福祉事業・社会福祉法人制度の混迷~2016年社会福祉法の改正を考える~」が興味深かったので紹介する。2016年の改正は社会福祉法人(以下、社福と略)の内部留保や一部経営者の私物化への批判を受けて行われた。社福のガバナンスの強化、内部留保を吐き出させるための社会福祉充実計画の仕組みの導入などが骨子。ガバナンスの強化は、評議員選任・解任委員会による評議員の選任・解任、評議員会の必置とその権限の強化(経営基本方針等の決定、理事・監事・会計監査人の選任・解任)、理事・監事・会計監査人の職務の明確化、理事会の職務の明確化(業務執行の決定、理事の職務執行の監督、理事長・業務執行理事の選定・解職)、理事長・業務執行理事の職務の明確化が主な内容である。ここで問題となるのは法律上、制度上は社福のガバナンスの強化がなされたが、実態上はどうなのか。現に社福の評議員や理事がそういう意識を持っているかということである。評議員や理事には「善管注意義務」が課せられている。これを怠ると損害賠償請求を負わされることもある。「理事長のお友達だから」と「軽い気持ち」で引き受けるべきではないのである。

12月某日
国立病院機構の古都賢一副理事長に面談。地下鉄半蔵門線の駒澤大学で下車、15分ほど歩くと東京医療センターと同じ敷地内にある国立病院機構だ。副理事長室でたわいのない話を小一時間。帰りは東急バスで渋谷まで出て渋谷から地下鉄銀座線で虎ノ門へ。HCM社へ戻ると大谷源一さんが待っていた。大谷さんは6時から国会議員のパーティに出席することになっている。その前に「ちょっと行きますか」と新橋烏森口の「焼き鳥センター」へ。1時間ほど呑んで一人1000円ちょっと。大谷さんと別れて我孫子へ。我孫子で久しぶりに愛花に寄る。

12月某日
朝日新聞のベタ記事に、「医師が奈良県知事選に出馬」と「川島実」という医者が現職知事に挑むということが報道されていた。「もしかしたら」とネットで検索すると、プロボクサーの経験もあるドクターということで昨年、「へるぱ!」の取材であった川島医師であった。川島さんは京大医学部在学中にプロボクサーとしてデビュー、戦績は15戦9勝5敗1分け。徳洲会病院などで経験を積んで東日本大震災では気仙沼に派遣される。震災後、院長不在だった本吉病院の院長を引き受けたりする。奈良に戻って東大寺で得度、在家の僧侶でもある。「へるぱ!」のインタビューでPTA会長や自治連合会の会長もやっているとして「自分の住んでいる地域を通じて、コミュニティって何かをいつも考えさせられています」と語っていた。知事選は来年ということだが、健闘を祈るのみ。

モリちゃんの酒中日記 12月その3

12月某日
「物書同心居眠り紋蔵 密約」(佐藤雅美 講談社文庫 2001年1月)を読む。単行本は1998年3月に出版されている。文庫本は2017年9月に第19刷発行とあるから、佐藤雅美のこのシリーズも根強い人気を持っていることが分かる。佐藤雅美の時代小説は、ストーリー自体はフィクションにしてもそれがしっかりとした史実、時代考証に支えられているのが特徴。とくにこの「物書同心居眠り紋蔵シリーズ」は、時と場所を選ばず居眠りしてしまうという奇癖を持つ同心、紋蔵がその奇癖故にエリートコースたる外回り(今でいう刑事)ではなく、裁判所(町奉行は警察権と裁判権を持っていた)の書記兼資料係たる物書同心という立場での活躍を描く。資料係としての物書同心は例繰(判例)与力の下で、過去の判例や記録を調べるのが仕事である。つまりこのシリーズそのものが膨大かつ細密な史実、時代考証によってできていると言っても過言ではない。
江戸庶民や悪党どもには絶大な権威と権力を持っていた与力や同心だが、幕臣としては将軍に拝謁できないお目見え以下の身分で、武家社会の中では中層ないし下層に位置する。今日のキャリア官僚とノンキャリアの差をつい思い浮かべてしまうが、その意味では本シリーズはサラリーマンものとして読めなくもないのである。上役の無理難題に頭を抱え、小料理屋の美人の女将にほのかな恋心を抱く紋蔵は、髷を結ったサラリーマンである。おそらく日本のサラリーマンの源の一つは明治時代の官員であろう。その官員の源は幕藩体制における幕臣、藩士である。グローバルスタンダードも良いが、日本のサラリーマンの心情を真に理解するには、明治からさらに遡る必要があるということかも知れない。

12月某日
新聞に天皇皇后ご夫妻が「Ay曾根崎心中」を新国立劇場で観たという記事が載っていた。何でもプロデュースした阿木燿子と親交があるらしい。先代の昭和天皇は明治憲法のもと即位し、「天皇は神聖にして侵すべからず」という地位にあり、戦後、一転して現行憲法のもと象徴天皇となった。だが昭和天皇は共産主義の脅威に対する感情から、日米安全保障体制や米軍沖縄基地の存在に対して強い賛意を持っていたと言われる(岩波新書の「日米安保体制史」)。これに対し今の天皇は平和憲法のもと即位し一貫して憲法を擁護する姿勢が強いように感じる。思想的には安倍首相とは相容れないのではないか。そう露骨な発言はしないけどね。そういう意味で私は今の天皇夫妻のフアン。日にちは違うけれど同じ劇場で同じ演目を観られたのは光栄です。

12月某日
「不意撃ち」(辻原登 河出書房新社 2018年11月)を読む。辻原登は1945年和歌山県の印南町生まれ。印南町は御坊市や田辺市に隣接する和歌山県南部の町で新宮市にも近い。私が初めて読んだ辻原の作品も大逆事件で刑死した医師の大石をモデルにした「許されざる者」だったと思う。長編、短編、フィクションに歴史もの、そして私小説と作品の幅はかなり広い。私にはどれも面白くたぶん相性がいいのだと思う。本作は5つの短編が収められている。風俗嬢と風俗店の送迎ドライバーの話(渡鹿野)、東北大震災にボランティアに駆けつける神戸のNPOが募った募金の略取を図り事故死する(仮面)、作家の分身と思しき「私」が中学校のときの友人を執拗に殴った教師に会いに行く(いかなる因果にて)、大学附属病院の精神科を受診する女性宇宙飛行士が受診中に大地震に遭遇する(Delusion)、出版社を退職した奥本さんが妻と娘に黙って近所にアパートを借りて失踪し、あっけなく発見される(月も隈なきは)という5作品である。「渡鹿野」はたぶん辻原に何作かある「風俗もの」、「仮面」はフィクション、「いかなる因果にて」は私小説、「Delusion」は近未来小説、「月も隈なきは」はフィクションと勝手に分類するが、どれも面白く読んだ。多彩な才能と言っていいように思う。

12月某日
幻冬舎の見城徹社長の「読書という荒野」(幻冬舎 2018年6月)を読む。見城は角川書店時代にベストセラーを連発、幻冬舎を創業して以降も石原慎太郎の「弟」、郷ひろみの「ダディ」、渡辺和子の「おかれた場所で咲きなさい」など24年間で23冊のミリオンセラーを送り出した。優秀な編集者でありプランナーであり経営者なのだろう。見城個人について私はほとんど知ることがないので、今回図書館から借りて読むことにした。前半は見城の個人史だがこれはかなり面白かった。見城の母は裕福な医師の娘で旧姓を多紀という。手塚治虫に「陽だまりの樹」という自身の先祖を主人公とした作品があるが、敵役の将軍の御典医で多紀という姓だった。それからすると日本でも指折りの医師の家系ということになる。父親の実家は材木商で父は小糸製作所の静岡工場に勤めるサラリーマン。この父は見城に言わせると「僕がものごころついたころには、酒に溺れ、ほとんどアルコール依存症」のようだったという。見城にとって父親は「血がつながっているというだけで、いないも同然の人だった」としているが、この「父親の不在」が見城の精神の形成に大きな影響を与えたのは間違いないだろう。生まれたのは静岡県清水市で1950年。私より2歳年少である。小学校中学校は「いじめられっ子」。高校は清水南高、進学校の静岡高校、清水東高校より偏差値のランクが低い新設校だった。これが見城に幸いした。自分の偏差値で楽に入れる高校に進学したので成績はトップクラスになり、小中時代の「いじめられっ子」から一転、高校のリーダー的な存在となる。
大学は現役で慶應大学の法学部に進む。私は早稲田に一浪して入ったので私が早稲田の2年のとき彼は慶應に入ったわけだ。その年の1月、東大の安田講堂の攻防戦があり、東大日大を頂点とした全国の学園闘争が最高に盛り上がった1969年である。見城は入学後すぐに授業に出なくなり、高校時代から関わっていた学生運動にのめり込む。そのとき最も影響を受けたのが吉本隆明。「転位のための十篇」や「マチウ書試論」は今も読み返すという。学生運動の渦中に自死した高野悦子の「二十歳の原点」奥浩平の「青春の墓標」も愛読書に上げている。見城に大きな衝撃を与えたのがイスラエルのロッド国際空港で日本赤軍の奥平剛士ら3人が乱射事件を起こした。見城は「彼らの戦いに比べたら、自分の戦いなど些細なものだ。ビジネスでどんなリスクを冒そうと、命をとられることはない」とし、吉本の詩や評論、高野や奥のノートや日記、奥平らの生き方に、仕事への原動力を与えられたという。ここまでは大変共感できた。いや有名出版社の入社試験に落ちて廣済堂出版に入社、角川書店に転職するまでも共感できる。共感できないのは現在である。幻冬舎を立ち上げヒット作を連発し、安倍首相の取り巻きとも言われている。世間的には大成功と言ってよい。しかしこの本の後半はほとんど自画自賛の本ではないか。社長であり絶対権力者の自画自賛本を自社から出版するという神経が分からない。新聞、雑誌、報道を含めて出版というのは公器の筈なのに。

モリちゃんの酒中日記 12月その2

12月某日
吉田修一の「ウォーターゲーム」(幻冬舎 2018年5月)を読む。通信社を装っているが実は国際的な産業スパイ組織のAN通信、その組織員の鷹野を主人公とするシリーズは「森は知っている」「太陽は動かない」に続いて本作は3作目。AN通信は児童福祉施設に収容されている子供たちの中から、潜在的に産業スパイの能力を持っている子供を選抜、沖縄の南蘭島で高校を終了させた後、AN通信に入社させる。「ウォーターゲーム」という題名通り本作は水の利権を巡る争いが日本、カンボジア、ロンドン、キルギスなど地球を何周も回るほどに展開される。吉田修一は「パーク・ライフ」で芥川賞を受賞しているからスタートは純文学かも知れないが、このシリーズは立派なアクション、サスペンスもの。テンポもよくて私好み。

12月某日
「ウオーターゲーム」は「水の利権を巡る争い」と書いたが、前国会で水道法が改正され、水道の民営化が進められるようになったらしい。小説が現実を追いかけ、次に現実が小説に追随するという、そういう時代になってきたのかもしれない。ふるさと回帰支援センターの高橋公代表を訪問したら前国会では水道法だけでなく漁業法も改正され、ハムさん(高橋さんの愛称)によると、浜の利権に大手資本が介入してくることになるという。安倍政権はかなりとんでもないことをやっているのではなかろうか。ハムさんから「来年4.17の50周年だからみんなで集まってパーティをやろう、ついてはお前が事務方をやれよ」と言われる。
4.17とは1969年4月17日、革マル派によって早稲田から締め出されていた私たち反革マル連合が革マルの戒厳令を突破、全学封鎖への道を開いた日だ。ハムさんから「死んだ奴もいるしそのままドロップアウトした奴もいる。お前も一応社長をやったんだから何とかなったほうだよ」と言われる。おっしゃる通りです。

12月某日
「小暮荘物語」(三浦しをん 祥伝社文庫 平成26年10月)を読む。三浦しをんは新刊が出ると買うというほどではないが、本屋に寄って読んでいない文庫本があったりすると買うことがある。この本がそうで、タイトルの「小暮荘物語」と著者名だけで買うことにした。タイトルからして小暮荘というアパートを舞台にした物語ということは想像がつくが、最初に感想を言っておくと、私としてはかなり楽しく読んだ。三浦しをんはウイキペディアによるとは今年42歳の女性、早大一文の演劇専修出身。2006年に「まほろ駅前多田便利軒」で直木賞を受賞している。小説は小暮荘の住人および小暮荘に関わる人を主人公にした6つの短編の連作となっている。

12月某日
笹塚の新国立劇場へ大谷源一さんと「Ay曽根崎心中」を観に行く。(社福)にんじんの会の石川はるえ理事長からチケットを頂いたからだが、誘った女性にみな断られたけれど、大谷さんには断られなかった。大谷さんにHCMに来てもらい内幸町から都営三田線、神保町で都営新宿線に乗り換えそのまま京王新線の笹塚へ。笹塚の駅から新国立劇場へは地下道が通じている。入口と書くに石川さんがいたので挨拶、席に着くと川村女子学院大学の吉武民樹さんも同僚と来ていた。「Ay曽根崎心中」のAyとはフラメンコの掛け声の「アイ」で、ということはもともと近松門左衛門作の人形浄瑠璃だった(後に歌舞伎にも)曽根崎心中をフラメンコに仕立てたもの。舞台と衣装がなかなか絢爛豪華だったし、音楽もフラメンコを基調としながら三味線や和太鼓も取り入れなかなかの迫力だった。終演後、帰りのエレベーターで大谷さんに「なかなか良かったけど最後の歌謡ショーみたいのはいらないね」と話していたら、エレベーターに同乗していた私たちと同じくらいの年代の女性(ということははっきり言えばばあさん)が「私もそう思います。2人が心中で果てたところで終わるべきでした」と。都営新宿線で岩本町まで行って秋葉原でJRに乗り換え上野へ。上野不忍口で降りて「養老乃瀧」で大谷さんと吞む。

12月某日
午前中、東大の辻哲夫教授を訪ねる。辻さんの研究室は工学部8号館なので地下鉄千代田線の根津駅が近い。11時に研究室に行くと辻さんは校正刷りに目を通している最中だった。辻さんに「何時頃研究室に来ているんですか?」と尋ねると「10時頃来て8時頃帰ります」。
「私は11時過ぎに会社来て4時には帰りますよ」(だいたいそんなに仕事ないし)というと「私は病気なんですよ」と。つまり仕事病ということ。辻さんからこれからは地方が大切、人口が減少するなかでどうやって乗り切っていくか、知恵を絞っていかなければと熱弁を聞かされる。辻さんの熱弁は現役の厚生官僚の頃から「辻説法」として有名だった。しかし辻さんがこの国の将来を真剣に憂えているのは事実。「健康に気を付けて下さいね」と心の中でつぶやいて研究室を去る。午後は社会保険福祉協会の「介護職のためのグリーフケア実践講座」を聞きに行く。講師は高本眞佐子さん。今から3年ほど前、社福協から助成金をもらって「介護職の看取り及びグリーフケアのあり方」という調査研究の成果が実践講座にも生かされていた。高本さんは専門学校や社協などでグリーフケアの講義や講演の依頼が増えているようで、講師ぶりも板についてきた。5時前に研修を中座して新橋烏森口改札へ。新宿の有名なクラブで10年ほど前に閉店した「ジャックの豆の木」の店長、三輪泰彦さんと待ち合わせ。寒いので駅の近くの焼鳥屋へ。店には真鍋という棋士はじめ何人かの棋士も常連だった。昔話で2時間はあっという間に過ぎた。三輪さんは現在、鹿児島在住、お土産に軽羹と桜島のみかんを頂く。

12月某日
成城大学の名誉教授、村本孜先生とHCM近くの「64barrack st.」で会食。先生は住宅金融が専門で30年ほど前、年住協が住宅金融の国際会議を主催したとき知り合ったと思う。竹下隆夫さんとも親しく、1月25日の「偲ぶ会」のお知らせをしたら会議で虎ノ門方面に行くことも多いので「一度食事でもどうですか」ということで、今回の会食となった。先生は成城大学に社会イノベーション学部を立ち上げたときの原動力となったが、「いやーたいへんでした」という。こういう率直なところが先生の魅力だ。食事の後、HCMに寄っていただいて四方山話。大学も研究費が削られる一方ということで「このままでは日本の将来は危うい」ということで一致。

モリちゃんの酒中日記 12月その1

12月某日
浅野史郎さんの出版記念パーティ。神保町の学士会館で17時30分から開始。会場に行くと福井Cネットの松永さんがいたので挨拶。浅野さんは先日の秋の叙勲で勲章を授与されたのでそのお祝いも兼ねている。パーティの前にミニシンポジウムがあった。前のほうの席に元厚労省で前参議院議員の阿部正俊先生と同じく元厚労省で今は社会福祉法人の理事長をしている河幹夫さんがいたので、彼らの後ろに座る。シンポジウムの出席者は小山内美智子さん、田島良昭さんら古くからの浅野さんの友人と厚生労働次官を務めた村木厚子さん。田島さんは浅野さんが教わったことが2つあるとして、人権の尊重と「どんなにつらくとも自分の想いを貫くこと」をあげていた。村木さんは冤罪での拘置所で犯罪者と呼ばれる人たちに「生きずらい人」が多いとして、彼らの学歴で一番多いのが中卒、次いで高校中退そして三番目に高卒が来ると言っていたのが印象的。役所にいたのでは実感としてわからないだろうな。パーティで「森田さん」と声を掛けられる。厚生省入省ながら法制局が長く、今は京大法学部で「立法過程?」を教えている茅野千江子さんだった。

12月某日
「日米安保体制史」(吉次公介 岩波新書 2018年10月)を読む。日米安保を通してみる戦後史、新書ながら労作、読み応えがあった。吉次は安保体制下の日米関係について、「非対称性」「不平等性」「不透明性」「危険性」に焦点を当てその歴史をたどっている。安保の「非対称性」というのは、米国は日本の防衛義務を負うが米国の領土が攻撃されても自衛隊は来援する義務はないということ。「不平等性」は刑事裁判権はじめ米軍に様々な権利を認めているということ。「不透明性」というのは、いわゆる「核持込み」などの「密約」である。「危険性」は在日米軍による事故や犯罪である。日本本土の米軍基地は縮小されつつあるが、問題は沖縄である。沖縄の米軍基地は高度化しつつ存続している。本土においても戦後、米軍がらみの事故、事件が頻発したが米軍基地の縮小にともない自己、事件も少なくなったが沖縄ではいまだに頻発していると言っていい。本書を読んで改めて日米安保の不平等性と危険性、さらには沖縄の犠牲の上の本土の安全があることを強く感じた。もう一つ上げるとすれば安全保障に関する昭和天皇の強い関心だ。「天皇は、安保条約と沖縄の米軍基地で日本を共産主義の脅威から守ろうと考えており、講和後も、日米協力や在日米軍を重視する旨を日米政府高官に伝え続けた」(P12)のだ。

12月某日
18時30分から虎ノ門の日土地ビルで打ち合わせ。でも17時以降は仕事をしたくない。それで居候をしているHCMの大橋社長に「6時半まで時間あるんだけれど」というと「それまで事務所にいていいですよ」という。「そうじゃなくて、それまで呑みに行こうよ」と連れ立って虎ノ門へ。日土地ビルの向かいにある新虎ノ門実業会館の地下2階の居酒屋へ入る。ビールで乾杯した後、ハイボールをジョッキで呑む。2杯目を途中まで呑んだところで6時15分。ハイボールを少し大橋社長に手伝ってもらって飲み干す。6時25分に店を出て日土地ビルへ。何喰わぬ顔で打ち合わせへ。この場合、「何呑まぬ顔」が正しい。

12月某日
学士会館のレストラン「ラタン」で建築家の児玉道子さん、年友企画の編集者、迫田さんとランチ。ここは味よし雰囲気よしで値段もリーズナブル。児玉さんは知多半島の常滑市で空き家を活用したホテルを活用する構想を話してくれた。迫田さんと別れてプレハブ建築協会の合田純一専務を訪問。児玉さんから岐阜県伊賀市の「伊賀越漬」を頂く。ウリの種を抜いた跡にいろいろな野菜を詰めた漬物で、「伊賀越え」に備えて忍者も食べたという優れモノだ。西新橋のHCMで大谷源一さんと待ち合わせて鶯谷の「やきとり ささのや」へ。ここは以前から大谷さんから聞いていた店で「安くて旨い」と評判の店だ。17時前だったがほぼ満員。店の手前は「キャッシュ&デリバリー」で常連さん向けの立ち飲み、店の奥は椅子席である。運良く椅子席が空いていたのでそこに座る。漬物と生ビールで乾杯。ハツ、ナンコツ、レバー、ニンニクなど焼き鳥を食べる。焼き鳥もおいしかったが、大谷さんお勧めの「煮込み」は絶品。

12月某日   
「戦争の論理―日露戦争から太平洋戦争まで」(加藤陽子 勁草書房 2005年6月)を読む。加藤陽子は1960年生まれ。現在、東大大学院の人文社会系研究科の教授である。日本の近代史が専門だが、史料を駆使した平易な文章で歴史を解明する姿勢には以前から私は好感を持っている。マルクス主義的な歴史理解ではなくそれでいてリベラル。「はじめに」で加藤はコリンウッドという人の言葉を引いて歴史家の仕事を「歴史の闇に埋没した作者の問いを発掘することである」としている。ここでいう「作者」とは政治家や軍人、経済人といったリーダーだけでなく実際に戦争を戦った兵隊やそれを支えた銃後の庶民も含まれると思う。近代の戦争がそれ以前の戦争と様相を異にするのは、それが総力戦として戦われたことであり、最終的に戦局を左右したのは国力、生産力だからである。
個人的には第六章の「統帥権再考―司馬遼太郎の一文に寄せて」に最も興味が惹かれた。司馬の論旨は「統帥権の独立によって、その番人たる参謀本部=統帥機関が暴走し『明治人が苦労してつくった近代国家は扼殺された』」というものだ。加藤は「それは小説家による単純化でことはもう少し複雑ではないか(もちろん、こう書いているわけではない)」と参謀本部が陸軍省から独立した1878(明治11)年から解き明かす。参謀本部の独立により、軍政は陸軍省、軍令は参謀本部という「軍政二元主義」が確立するが、軍部が政治的に台頭したのはむしろ軍部大臣現役武官制であったというのが加藤の理解である。軍部大臣現役武官制はシビリアンコントロールの対極に位置する。そして陸海軍大臣を現役としたことで、内閣あるいは総理大臣に対する拒否権を軍部に握られたことを意味する。大本営(戦時における統帥機関の最高の形態であった)の設置を巡っても統帥機関の参謀本部・軍令部(海軍の参謀本部に相当する)と陸軍省・海軍省で応酬があった。結局、加藤は戦時のリーダーが「戦争指導を直接的に行なう統帥機関になりがち」なことは一面の真理としつつ「20世紀の戦争は、作戦の集積にとどまるものでなくなった」ために、権力の統合強化が図られていったとしている。加藤の見方は総力戦の時代にあっては「統帥権の独立」はひとつの幻影に過ぎなかったということだろうか。

12月某日
年友企画の忘年会に誘われる。手ぶらで行くのも何なので、神田の食料品のディスカウントショップ河内屋でアイリッシュウイスキーの「ジェムソン」1本とバーボン1本を買って持って行く。会場は高級中華料理店の「桃園」年友企画の社員の皆さんと社会保険研究所の鈴木社長、谷野常務、フィスメックの小出社長も参加、全体で15、6人の参加であった。普段は少人数での呑み会が多いのだが、たまには大勢で吞むのも楽しい。

モリちゃんの酒中日記 11月その4

11月某日
我孫子駅に着くとまだ18時前。駅前の「しちりん」で少し呑んでから帰ることにする。社会保険研究所の手塚愛子さんにもらった「哲学すること-松永澄夫への異議と答弁」(中央公論新社 2017年11月)を拾い読みする。手塚さんは東大の哲学修士課程だったか博士課程を修了した才媛で、彼女も彼女の連れ合いも松永澄夫に師事したということだ。700ページの大著で「本体5800円+税」という自費であれば絶対に買わない本。巻末の松永自作の「松永澄夫略年譜」をパラパラと読む。松永は1947年12月生まれ、私の1歳年長。熊本に生まれ県立熊本高校卒業後、ストレートで東大理科Ⅰ類から1968年に理学部生物化学科に進学。激化していた東大闘争の影響で実験室が閉鎖されたこともあって、文学部哲学科への転部を考えるようになり、1970年に転部、特例で1年で卒業して修士課程博士課程に進む。私は北海道室蘭市の高校を卒業した後、一浪後、1968年に早稲田大学政経学部に進学したのだが、授業がつまらないこともあって積極的に学生運動に参加した。政経学部の学生自治会は社青同解放派だったが、1968年の12月に革マル派から早稲田を追い出され東大駒場に逃れた。確か駒場の教育会館に立て籠った記憶があるけれど、真面目な東大生には迷惑な話だったかもしれない。「しちりん」の後、「愛花」に寄る。看護師養成大学の助教のケイちゃん、エロ小説作家のお姉ちゃん、その他常連が来ていた。

11月某日
古巣の神田の年友企画に行って迫田さん、酒井さんと「へるぱ!」の打ち合わせ。大山均社長と少し話す。年友企画の総務担当の石津さんと浜松町の「秋田屋」に呑みに行く約束だったが、神田に変更。南口駅前の居酒屋へ。石津さんが酒井さんを呼んで三人で呑む。

11月某日
フィスメックの会長を退任した田中茂雄さんと奥さんのマキコさんと食事。2人は国分寺に在住だったから西国分寺の「オステリア西国分寺」をネットで調べて17時30分から3人で予約する。オステリアというのはイタリア語で居酒屋という意味らしい。フランス語のオーベルジュか。西国分寺駅でキョロキョロしていると「森田さん!」と声を掛けられる。見ると白梅大学の山路憲夫先生だ。山路先生は毎日新聞の論説委員を辞めた後、白梅大学で教授に就任、定年で教授は辞めたが「小平学」の研究所を設立した。障がい者福祉の社会福祉法人の理事長もやっている立派な人だ。「こんなところで何やっているの」「いやちょっと食事会があって」という会話を交わして、私は西国分寺の北口飲み屋街へ。2~3分歩くと「オステリア西国分寺」があった。お店に入ると何か一度来たことがあるような記憶が…。そういえば(社福)にんじんの会の打ち合わせの前か後に、フリーの編集者の浜尾さんと食事に来た店であった。お店の人に「5時半から予約している森田です」と伝えると「お連れ様が見えています」。奥のテーブルに田中さんが座っている。2人でビールを呑み始めたところで、奥さんが登場。いろいろ昔の話ができて楽しかった。ここのお勘定は私が持つつもりだったが、奥さんに払われてしまう。奥さんから「これ奥さんに」とお土産までいただく。西国分寺から武蔵野線で新松戸へ。新松戸から我孫子へ。

11月某日
浅田次郎の「ブラック オア ホワイト」(新潮文庫 平成29年11月)を読む。浅田次郎は現代小説でデビューした人だけど「鉄道員(ぽっぽや)」で直木賞をとり、任侠モノや時代小説、大陸モノ(中国を舞台にしたもの)など幅広い分野で活躍している。「怪異モノ」もその一つでこの小説はそれに入る。それにしても浅田次郎は今や文豪だね。「何を読んでもそれなりに面白い」などというと作家に対して失礼かもしれないが、ある一定の水準を上回る作品を次々と上梓できるというのはたいした才能だと思う。解説によると本作は週刊新潮2013年10月3日号~2014年7月24日号に連載され、単行本は2015年2月に刊行されたとある。友人の通夜の帰り「私」は都築のマンションに誘われる。都築は満鉄の理事から商社の役員を務めた祖父、その入り婿となった父と三代にわたる資産家の家に生まれ、現在の住まいはその邸宅の跡地に建てられたものだ。資産家とか満鉄の元理事という設定からして怪しい。都築は父と祖父の勤めた商社に入社し、スイスに出張する。「そのホテルは、いわゆるベル・エポックの典型だった」で始まる物語では、ホテルのバトラーが就寝時、「ブラック オア ホワイト」と言って二つの枕を持ってくる。白い枕で都築が見た夢が物語の骨子である。夢だから話の中身に荒唐無稽なところも無論ある。それが物語に対する興味を削ぐかというとそれが逆。浅田のストーリーテラーとしての巧みさに脱帽するばかりである。

モリちゃんの酒中日記 11月その3

11月某日
千葉県の「地域型年金委員」というのを日本年金機構から委嘱されている。平成30年度の「年金委員・健康保険委員表彰伝達式」と「年金委員・健康保険委員研修会」が千葉市文化センターであるので出席することにする。会場に行くと8割方の席は埋まっていてしかも若い人が多い。年金委員というのは職域型と地域型の2種類あり、健康保険委員は健康保険協会(かつての政府管掌健康保険)が委嘱するので職域型のみだから、職場の委員さんが参加しているので若い人が多いのだろう。伝達式の後の研修会で千葉年金事務所の鈴木和彦適用調査課長の「年金制度改正等について」の講演を聞いて退席。千葉市文化センターの1階にある千葉市の物産店に立ち寄り「もみ海苔」1袋100円を2袋買う。消費税込みで200円、安い!千葉駅に戻って「築地日本海千葉駅前店」へ。室蘭東高の同級生だった品川英昭君と待ち合わせているのだが、約束の5時より前に入り口で出会う。ビールで乾杯の後、ぬる燗。品川君は北大工学部卒業後、出光に入社。63歳で退職後、今は悠々自適の身。出光時代の話を聞く。現役時代は苫小牧、徳山、姫路、千葉などの製油所勤務が多かったようだ。私は大学卒業後、印刷屋や業界紙を転々としていたので大会社に勤めた経験がなく、大会社しかも石油会社という特殊な経験を聴けて面白かった。昭和42年の室蘭東高卒業生で千葉在住は私と品川君以外にも上野、阿部、坂本、竹本らがいるので今度は船橋当たりで首都圏同窓会千葉支部会をやろうと思う。

11月某日
「ヘルパ!」の取材で(社福)にんじんの会の石川正紀常務理事に会う。介護の業界では老舗の社会福祉法人にどのように現代的な改革を施していくか、悩みつつ実践している姿がうかがえた。午後、社福協の「サービス提供責任者セミナー」の吉澤努さん(よしざわ社労士・社会福祉士事務所代表)の「介護事業者がおさえるべき労務管理のポイント」を聞いてから吉澤さんに取材。「介護職の定着率を高める決め手はない。経営者や管理者には継続的かつ複合的な努力が求められる。ひとことで言えば労働環境をコンプライアンスに則って整えるということだ」と語る。なるほど。

11月某日
フィスメックの小出建社長と竹下家を弔問。奥さんとお嬢さんに挨拶。亡くなってまだひと月。まだまだ悲しみに浸っている様子だった。南古谷から大宮に出て居酒屋へ。ここは奇しくも竹下さんの通夜の帰りに大谷源一さんと落合明美さんと来た店だった。小出社長にすっかりご馳走になる。

11月某日
社福協の高橋さん、岩崎さんと内幸町から本郷三丁目へ。「Join for kaigo」の野沢悠介取締役を取材。介護職の採用、について取材。「誰でもいいから来てください」という採用はダメ、先ずは社内で「どのような人材が必要か」話し合うことが重要とのこと。私などは高度経済成長時代の採用しか知らなかったからこれは新鮮だった。会社の現状を分析したうえで採用計画を進めるべきという考え方だと思うが、ということは採用も経営の重要な一環ということである。今回の取材は実に勉強になる。本郷三丁目から年友企画の迫田さんと丸ノ内線で淡路町へ。社会保険研究所の鈴木社長に挨拶。大谷源一さんから「今、東西線の東陽町」というメールが来たので「大手町で千代田線に乗り換えて北千住で会おう」と返す。私はJRの神田から上野経由で北千住へ。北千住の改札で大谷さんとドッキング。北千住西口の居酒屋へ。

11月某日
吉田修一の「国宝」上下(朝日新聞出版 2018年9月)を読む。朝日新聞に2017年1月から2018年5月まで連載されたものに加筆修正したもの。吉田修一の作品は割と読んでいるが、「国宝」については事前に書評も読まず、その意味では先入観なく読み進むことができた。長崎のヤクザの家に生まれた喜久雄が主人公。ヤクザの抗争の末に父を殺された喜久雄は大阪の歌舞伎役者、花井半二郎の家に引き取られる。花井の家には一人息子で喜久雄と同年の俊介がいて、すでに花井半弥の芸名で初舞台を踏んでいた。喜久雄と俊介は直ぐに打ち解けながらも互いに芸道に打ち込む。大方の予想と期待を裏切って半二郎の名跡は喜久雄が継ぎ、俊介は出奔する。俊介は地方の芝居小屋やお座敷で踊りを披露しながらも修業を続ける。二人は再開し、俊介は歌舞伎に復帰し東京に進出する。その間、喜久雄の映画出演や新派への移籍など数々のエピソードがこの小説に盛り込まれている。
地の文が「ですます調」なのが異色。冒頭、喜久雄の生まれた立花組の新年会のシーンでは「黒紋付の正装で次々に降りてくる親分衆を、『ご苦労さまです』と恭しく迎えますと、その声だけでなく、若衆たちの白い息も揃います」という具合である。吉田修一はこの小説を新聞に連載するにあたり、歌舞伎役者に頼んで黒衣を誂え、舞台裏から歌舞伎を相当取材したらしい。その甲斐かどうか舞台裏、役者の控室の描写がリアル、それだけでなく役者の会話や役者の家族の会話が、東京に進出して標準語に替っていく様がリアルに描かれる。吉田修一は1968年、長崎生まれ。私より10歳年少だがすでに現代を代表する作家となったと言ってよい。

モリちゃんの酒中日記 11月その2

11月某日
天王洲アイルで開かれている半田也寸志写真展を観に行く。フリー編集者の浜尾さんが半田カメラマンのアシスタントをやっている関係で誘われた。フリーライターの香川喜久江さんと天王洲アイル駅南口で13時半に待ち合わせ。10分ほど遅れて南口に着いたが香川さんの姿が見えない。携帯に電話すると香川さんはりんかい線の天王洲アイル駅にいるという。私はモノレール羽田線、お互いに自分に都合のいい天王洲アイル駅で待っていたわけだ。香川さんと合流して会場のamang squareへ。半田さんはもともと広告、ファッション業界をフィールドとしたカメラマンだったが、東日本大震災を契機に関心が地球に向かう。だからだろうか人類史のなかでの野生動物というとらえ方が軸になっている。野生動物の表情が哲学的なのだ。表情だけではない大草原、ジャングル、雪原、天空など大自然の中の野生動物の存在が我々に何か問いかけている写真だ。もっと注目されていい写真家だ。
17時過ぎに東京駅丸の内口、三菱UFJ銀行地下の「ヴァン・ドゥ・ヴィ」へ。阿曽沼真司さんと「竹下さんを偲ぶ会」の打ち合わせ。この店にはワインに詳しい新潟出身の女性がいたのだが、このところ見かけない。阿曽沼さんにご馳走になる。東京駅のガード下なら17時前からやっているので次回はそこで呑むことに。

11月某日
元厚労省の堤修三さんと神田の鎌倉河岸ビルの「跳人」で呑む。前回「跳人」で呑んだとき堤さんが帽子を忘れたため。堤さんは東大法学部出身で昭和46年の入省。在学中は全共闘に参加、ヘルメットの色は緑色だったという。緑色のヘルメットはセクトで言えばフロント、社会主義学生戦線である。フロントは日本共産党の「構造改革派」の一派で、反日共系の学生運動の一翼を担っていた。堤さんが厚労省を辞めてから、私と亡くなった高原亮治さんの3人でよく呑んだ。高原さんは厚生省の医系技官で岡山大学医学部出身、彼は赤ヘルメットのブント、社学同である。堤さんは今、頼まれて社会福祉法人の理事長をやっている。大きな法人で職員は2000人ほどいるという。そう言えば堤さんの高校の同級生が経済学者の間宮陽介さん。堤さんと間宮さん、それに60年安保の全学連委員長、唐牛健太郎の未亡人の真喜子さんと4人で呑んだことがある。高原さんも唐牛真喜子さんも亡くなった。寂しい限りである。

11月某日
「ママがやった」(井上荒野 文藝春秋 2016年1月)を読む。表紙に英語で「mama killed him」とある。ママが殺した彼とは夫の拓人である。ママ百々子は79歳、夫は72歳。百々子は27歳の学校教師だったとき不純異性交遊の女子生徒を指導し、女子高生の相手だった年下の拓人と出会う。百々子と拓人は付き合いはじめ百々子の妊娠をきっかけに二人は結婚し、百々子は教師を辞めて居酒屋を始める。8つの短編連作小説が一家の半世紀を綴る。なぜ百々子は拓人を殺したのか、その理由は小説をラストまで読んでも明らかにされない。確かなのか不確かなのか、幸福なのか不幸なのか、平成時代も終わろうとするときの一種の「不条理小説」として読んだ。

11月某日
向田邦子は「思い出トランプ」で直木賞を受賞した1年後に航空機事故で亡くなっているから、小説家として活躍した期間は短い。向田をテレビドラマの脚本家としての面から論じたのが「向田邦子 名作読本」(小林竜雄 中公文庫 2011年2月)である。私も1970年代、だれが脚本を書いたか全く気にも止めず、向田脚本の「だいこんの花」「寺内貫太郎一家」を毎週、楽しみに観ていた。私も日本もまだ貧しかったのだろう、仕事を終わればまっすぐに家へ帰り、風呂に入って食事をして9時台のテレビドラマや旧作の洋画を楽しんでいたのである。それはさておき本書は「だいこんの花」「寺内貫太郎一家」以外にも「冬の運動会」「阿修羅のごとく」「家族サーカス」「あ・うん」「隣の女」など向田のドラマについて丁寧に論じている。ドラマに向田の私生活、親との葛藤や恋人の存在が微妙に反映しているという指摘も面白かった。向田の脚本を読んでみたいと思う。

11月某日
HCMサービスの会長だった平田高康さんの一周忌ということで、西新橋の「京の里」に会長の息子さんをお呼びして小宴を開催、私にも声が掛ったので出かける。「京の里」は名前の通り京料理の店で、会長が健在だったころは毎日のように昼と夜に通っていたということだ。料理に腕を振るっていたご主人と客の相手をしていた奥さんも昨年、平田会長と同じころ亡くなったそうだ。平田会長は永大産業出身ということは聞いていたが、息子さんに聞くと永大産業が倒産する10年ほど前に辞めているそうだ。私の知らなかった平田会長の一面を知ることができて楽しかった。

11月某日
企画を手伝っている「地方から考える社会保障フォーラム」を傍聴。厚生労働省からは成松英範家庭福祉課長が「子どもの貧困」、山口正行障害児・発達支援室長が「障害児政策」、伊原和人審議官が「2040年の社会保障」について、白梅大学の山路憲夫先生は「地域包括ケア」、宮本太郎中央大学教授は「地域共生社会」について講演した。伊原審議官は2040年には高齢者人口は現在とそれほど変わらないが、後期高齢者の割合が増え、若年人口が大幅に減ることを示し、健康寿命を延ばし現役で働ける人を増やすことが重要なことと、中央官庁も地方自治体も縦割り行政に横ぐしを刺していくことが重要という話が聞けた。社会保障関連予算の伸びを抑制しつつどのようにメリハリをつけていくかだろう。参加した地方議員は極めて熱心、高度成長期には地方自治体の課題は公営住宅や道路、公園などのインフラの整備だったが現在の課題の中心は完全に福祉、社会保障に移っていると感じた。
フォーラム終了後の夕方、大谷源一さんの携帯に電話すると「今、厚生労働省を出るところ」。というわけで経産省の別館前で待ち合わせる。どこに呑みに行くか迷ったが本日は新橋の「焼き鳥センター」にする。5時過ぎに焼き鳥センターに着く。この店のウエイターは外国人労働者が多かったが今回はアルバイトの高校生。7時ころまで呑んでいたが、出るころにはほぼ満席。安くて味も悪くないので若い人、女性だけのグループも多い。お勘定は2人で約4000円。新橋からは上野-東京ラインで帰る。男性に席を譲られる。

11月某日
「火環(ひのわ)-八幡炎炎記完結編」(村田喜代子 平凡社 2018年5月刊)を読む。前編の「八幡炎炎記」では広島市内の紳士服の仕立屋で働く瀬高克美が親方の妻、ミツ江と駆け落ちし、ミツ江の実家のある北九州の八幡に身を寄せる。克美は市内に店を出し、ミツ江の長姉サト夫婦のもとには女の赤ん坊がもらわれてくる。離婚した娘の百合子が生んだヒナ子である。帯に「著者初の本格自伝的小説・完結編」とある。ということはヒナ子は著者の村田がモデルということになる。ウイキペディアで村田喜代子を検索すると「福岡県八幡市(現在の北九州市八幡西区)出身、両親の離婚後生まれたため、戸籍上は祖父母が父母となる。市役所のミスで一年早く入学通知が来たため、1951年小学校入学。八幡市立花尾中学校卒業後、鉄工所に就職」とある。ほぼヒナ子と重なる。小説ではヒナ子が観る映画「ゴジラ」「楢山節考」が重要な役割を担う。ゴジラは南太平洋の海底に眠っていた恐竜が水爆実験で目を覚まし日本の首都東京に上陸して荒れ狂うというストーリー。ゴジラもウイキペディアで検索すると「日本の東宝が1954年(昭和24年)に公開した怪獣特撮映画」とあって、私も観た記憶がある。ゴジラは水中酸素破壊剤(オキシジェン・デストロイヤー)なる薬によって溶かされるのだが、小説では「ゴジラの断末魔の長い咆哮に、ヒナ子の胸は破裂しかけた。流す涙でゴジラの姿がぼやけた」と描写される。1954年と言えば原爆投下、敗戦から10年も経っていない。観客にも戦争や原爆の記憶が鮮明に残っていたのである。私も小学生の頃、シリーズの「二等兵物語」を母親に連れられて観に行ったが、映画を見終わったとき母親に「隣のオジサンが泣いていた。きっと戦争に行ったんだわ」と言われたことを覚えている。「二等兵物語」は喜劇役者の伴淳三郎と花菱アチャコが主演する喜劇である。喜劇であるが観客はそこに戦中の自分の姿を見て泣くのである。話がそれたが村田喜代子が中卒とは初めて知った。人間は学歴ではないとしみじみ思う。

モリちゃんの酒中日記 11月その1

11月某日
元厚労省の末次彬さんと高根和子さんに誘われてゴルフに行く。ゴルフは昨年の3月に静岡の函南カントリーへ行って以来。7時30分に吉武民樹さんが車で迎えに来てくれる。30分ほどで常陽カントリー俱楽部に到着。天気は最高だったし、やる前は少し「億劫感」があったが、やってみると楽しかった。来年は少しやってみようかな。3月の常陽カントリーは私が予約することにする。末次さんから京都の銘菓、高根さんから「珍味」を頂く。

11月某日
フリーライターの香川喜久江さんと上野の公園口で待ち合わせて東京都美術館の「ムンク展」を観に行く。ムンク(1863~1944年)はノルウェーの画家で「叫び」が有名。今回は「叫び」を含む101点の油彩画、リトグラフ、エッチングなどが展示されている。美術には門外漢だが、何しろ「障害者手帳」を交付されているので本人及び介助者は無料になるのが魅力。ムンク展で感じたのはこの作家の繊細な感受性だ。「叫び」もそうだが作家の心象が作品に反映されているのだ。ムンクも神経症で入院歴があるという。自分の耳を切ったというゴッホと同じような精神的な傾向があるのかも知れない。「死せる母とその子」「病める子」など死や病に対する強い関心も興味深い。何度かの恋愛を経験したが生涯独身だった。香川さんから「船橋屋のくず餅」を頂く。帰りは地下鉄千代田線の根津まで歩くことにするが途中で道が分からなくなる。上野高校の校門で香川さんが女子高生に「根津駅まではどう行くのでしょうか」と聞くと、小柄な美少女が「私も根津駅まで行くので一緒に行きましょう」と言ってくれる。10分ほど歩きながら一緒に話す。女子高生と話すのはおそらく50年ぶり。私が「我孫子へ帰るところ」と伝えると少女は「私の好きな作家が住んでいるところ」という。女流でファンタジー作家というから上橋奈津子のことだと思う。彼女は高校3年生、来年は大学受験。合格を祈る。

11月某日
「うらおもて人生録」(色川武大 新潮文庫 1987年11月)を読む。「はじめに」で色川は「この世の原理原則、不確実でないと思える部分については、一生懸命に記さねばならない」と書いている。色川は旧制中学を中退、一時博打(主に麻雀)で生活をしのぐ。のちに小さな出版社を転々とし娯楽小説誌に時代小説を書くようになる。1961年中央公論新人賞を受賞するが、その後純文学の創作から離れて週刊誌に浅田哲也名で「麻雀放浪記」を連載、人気作家となる。1977年「怪しい来客簿」で泉鏡花賞、1978年「離婚」で直木賞を受賞する。きわめて起伏に富んだ人生を送った人なのだが、その人の言う「この世の原理原則」とは何か? この世=人生において大事なことは、相撲で言えば「全勝」を目指すのではなく「9勝6敗」をコンスタントに維持することだという。これは私にとって妙に納得の行く話であった。唐突な話になるが現在の安倍首相、佐藤栄作や吉田茂を抜いて戦後の首相として最長記録になろうとしている安倍首相だが、どうみても運を使い過ぎている。ふがいない野党の責任もあるが13勝2敗か12勝3敗のペースで政権を維持し続けている。来年の統一地方選では連立与党は議席を減らし、参議院選挙では連立与党は限りなく過半数割れに近づくのではないか。つまり、13勝2敗ペースから5勝10敗ペースへ転落しかねないのだ。それはさておき解説は今年1月に自裁した西部邁。これがまたいい。西部も色川にも「自分の傷を晒す」という共通項があるような気がする。そして2人に共通する「無頼」という生き方。無頼は「無法な生き方をする人」という意味もあるが、ここで言う無頼は「頼みにするところがないこと」だ。無頼って自立のことだと思う。

11月某日
図書館で借りた「『医療的ケア』の必要な子どもたち」(内多勝康 ミネルヴァ書房 2018年8月)を読む。「第二の人生を歩む元NHKアナウンサーの奮闘記」という副題のついた本書、私の身近に医療的ケアが必要な人がいるわけでもないし、著者の元NHKアナウンサーが知り合いでもない。その私がなぜ本書を読むようになったか。実は数年前から「胃ろう・吸引シミュレーター」の販売にわずかだが手を貸している。開発にあたってアドバイスを頂いた群馬大学のドクター、吉野先生は確か医学部じゃなくて教育学部の所属だ。おそらく「医療的ケア」の必要な子どもたちへの教育をどうあるべきか研究し実践している。そんなこともあって本書を読むことにした。本書で明らかになったことのいくつかを記しておきたい。一つは小児医療の進歩により、未熟児で生まれた子の生存率が飛躍的に高まったこと。NICU(新生児集中治療室)の普及でそれまでは助からなかったも知れない多くの赤ちゃんの命が救われるようになった。しかしそうであるが故に障害を持って生まれる子も多くなった。その子が病院から在宅に返されるとき、在宅の受け皿が整備されているとは言い難い。女性の社会進出が進み、障害児のお母さんの多くも出産後の仕事復帰を願っている。そんな障害児と家族のために設立されたのが「国立研究開発法人国立医療研究センター」の医療型短期入所施設「もみじの家」。NHKアナウンサーの職を投げ打って「もみじの家」の管理者(ハウスマネジャー)となったのが著者である。障害児の母親の声が紹介されている。彼女は「生まれてきただけ、よかったよ」という言葉に反発する。人間として選択でき、自由であり、社会のなかで生きていく、障害児にもそうしたことが保障されるべきと訴える。「生まれてきただけ」ではだめなのだ。すごく真っ当な考えと思う。

11月某日
HCMの大橋進社長に誘われて富国生命の経済講演会に行く。毎年、帝国ホテルで開催されるこの講演会は講師の選定がいつもユニーク。今回は「編集工学」の松岡正剛。要するに経営も生活も人生すべてに編集的なセンスが必要ということなのだろうと思う。今日の話で印象に残ったのが「見えるオプションで勝負しないほうがいい。大切なのはプラス1のオプション」。私になりに解釈すると「見えるオプション」とは社会的な地位とか学歴、家柄であり、「プラス1のオプション」とはその人の個性だと思う。講演後のパーティで白ワインを呑みながら大橋社長にとってもらったローストビーフなどを頂く。さすが帝国ホテル、ワインも料理も一流である。帝国ホテルを出て有楽町のガード下で大橋社長にご馳走になる。この店は大橋社長が明治生命時代から通っていたということだ。店主が「家賃が高くて」とぼやいていた。

11月某日
「彼方への忘れ物」(小嵐九八郎 アーツアンドクラフツ 2016年5月)を読む。2年前に上梓されたものだが、書評に取り上げられることもあまりなかったのだろう、私はひと月ほど前の新聞広告で知った。小嵐九八郎は早稲田大学で社青同解放派の活動家だった。私が1969年の9月、第二学生会館に立て籠ったとき「全共闘運動は反帝学評(解放派の学生組織)に包摂されるんだよ」と青ヘルメット(当時、セクトごとに被るヘルメットが色分けされていた。ちなみに中核は白、社学同は赤)を被ることを勧められたことを覚えている。もちろん断ったけれど小嵐(本名は工藤さん、当時彼は5年生だったので2年生の私からすれば大先輩)は覚えていないだろうなぁ。小説のストーリーは新潟県村上市の大瀬良騏一が高校に入学し、バーのママと初体験を済まし一浪の後、早大政経学部に入学、学生運動に巻き込まれる。その間、初恋の人を一途に思い続けるがその人は自殺してしまう。私と工藤さんは学年で3年違うのだが、観た映画が「唐獅子牡丹 昭和残侠伝」だったり、政経学部の教授や授業のレベルを低いと感じたりするのは同じ。騏一が唯一「面白い」と思った授業が人類学の井伊玄之介教授。これは社会学の井伊玄太郎先生のことだろう。授業を選択した全員に、講義に出る出ないに関わらず「優」をくれるので人気の先生だった。もちろん私も選択した。当時の早稲田の政経は、学生自ら「学生一流、建物2流、先生3流」と言っていた。「純血主義」なのか早稲田出身の教授がほとんどだったからね。社青同解放派の活動家、小清水は第一次早大闘争の全共闘議長だった大口昭彦を連想させるし、行動隊長で中核派の中星はテレビキャスターもやった彦吉さんだ。騏一は留年後、縁あって新潟の地方紙に就職するのだが、実際の工藤さんは、確か川崎市役所に就職したのじゃないかなぁ。社青同解放派の活動を続け、解放派の分派のより過激な狭間派に所属、入獄体験もある。20年ほど前だろうか早大全共闘出身者が赤坂プリンスホテルでパーティをやったことがあるが、そのときは新進の小説家として参加していたっけ。「彼方への忘れ物」は60年代末の物語だが、小嵐は70年代を描いた「あれは誰を呼ぶ声」を先月、出版している。これも読まねばと思う。

11月某日
弁護士の雨宮英明先生から「関さんと新橋で食事しよう」という連絡があったので新橋の「ビストロ・エドギン」へ行く。雨宮先生は早稲田大学の同級生。私たちのクラスは民青が強く、私がクラス委員選挙に出てもいつも民青の清真人君に負けていた。雨宮先生はノンポリながら私たちのグループだった。ちなみに後に清君は私たちのグループだった近藤百合子さんと結婚する。清君は政経学部を卒業後、文学部の大学院を経て近畿大学の教授になった。関さんは政経学部に少なかった女子大生の一人で、中退後エレクトーン奏者をやった後、新宿と赤坂でクラブを開店した。赤坂のクラブ「邑」へは私もよく行った。クラブは閉店し関さんは悠々自適の身。三味線や小唄の勉強を続け、今月、西荻窪で発表会をするそうでビラをもらった。食事会には関さんの元カレと「邑」のチーママ?だったチエちゃんも参加、料理もワインもおいしかった。