モリちゃんの酒中日記 11月その2

11月某日
天王洲アイルで開かれている半田也寸志写真展を観に行く。フリー編集者の浜尾さんが半田カメラマンのアシスタントをやっている関係で誘われた。フリーライターの香川喜久江さんと天王洲アイル駅南口で13時半に待ち合わせ。10分ほど遅れて南口に着いたが香川さんの姿が見えない。携帯に電話すると香川さんはりんかい線の天王洲アイル駅にいるという。私はモノレール羽田線、お互いに自分に都合のいい天王洲アイル駅で待っていたわけだ。香川さんと合流して会場のamang squareへ。半田さんはもともと広告、ファッション業界をフィールドとしたカメラマンだったが、東日本大震災を契機に関心が地球に向かう。だからだろうか人類史のなかでの野生動物というとらえ方が軸になっている。野生動物の表情が哲学的なのだ。表情だけではない大草原、ジャングル、雪原、天空など大自然の中の野生動物の存在が我々に何か問いかけている写真だ。もっと注目されていい写真家だ。
17時過ぎに東京駅丸の内口、三菱UFJ銀行地下の「ヴァン・ドゥ・ヴィ」へ。阿曽沼真司さんと「竹下さんを偲ぶ会」の打ち合わせ。この店にはワインに詳しい新潟出身の女性がいたのだが、このところ見かけない。阿曽沼さんにご馳走になる。東京駅のガード下なら17時前からやっているので次回はそこで呑むことに。

11月某日
元厚労省の堤修三さんと神田の鎌倉河岸ビルの「跳人」で呑む。前回「跳人」で呑んだとき堤さんが帽子を忘れたため。堤さんは東大法学部出身で昭和46年の入省。在学中は全共闘に参加、ヘルメットの色は緑色だったという。緑色のヘルメットはセクトで言えばフロント、社会主義学生戦線である。フロントは日本共産党の「構造改革派」の一派で、反日共系の学生運動の一翼を担っていた。堤さんが厚労省を辞めてから、私と亡くなった高原亮治さんの3人でよく呑んだ。高原さんは厚生省の医系技官で岡山大学医学部出身、彼は赤ヘルメットのブント、社学同である。堤さんは今、頼まれて社会福祉法人の理事長をやっている。大きな法人で職員は2000人ほどいるという。そう言えば堤さんの高校の同級生が経済学者の間宮陽介さん。堤さんと間宮さん、それに60年安保の全学連委員長、唐牛健太郎の未亡人の真喜子さんと4人で呑んだことがある。高原さんも唐牛真喜子さんも亡くなった。寂しい限りである。

11月某日
「ママがやった」(井上荒野 文藝春秋 2016年1月)を読む。表紙に英語で「mama killed him」とある。ママが殺した彼とは夫の拓人である。ママ百々子は79歳、夫は72歳。百々子は27歳の学校教師だったとき不純異性交遊の女子生徒を指導し、女子高生の相手だった年下の拓人と出会う。百々子と拓人は付き合いはじめ百々子の妊娠をきっかけに二人は結婚し、百々子は教師を辞めて居酒屋を始める。8つの短編連作小説が一家の半世紀を綴る。なぜ百々子は拓人を殺したのか、その理由は小説をラストまで読んでも明らかにされない。確かなのか不確かなのか、幸福なのか不幸なのか、平成時代も終わろうとするときの一種の「不条理小説」として読んだ。

11月某日
向田邦子は「思い出トランプ」で直木賞を受賞した1年後に航空機事故で亡くなっているから、小説家として活躍した期間は短い。向田をテレビドラマの脚本家としての面から論じたのが「向田邦子 名作読本」(小林竜雄 中公文庫 2011年2月)である。私も1970年代、だれが脚本を書いたか全く気にも止めず、向田脚本の「だいこんの花」「寺内貫太郎一家」を毎週、楽しみに観ていた。私も日本もまだ貧しかったのだろう、仕事を終わればまっすぐに家へ帰り、風呂に入って食事をして9時台のテレビドラマや旧作の洋画を楽しんでいたのである。それはさておき本書は「だいこんの花」「寺内貫太郎一家」以外にも「冬の運動会」「阿修羅のごとく」「家族サーカス」「あ・うん」「隣の女」など向田のドラマについて丁寧に論じている。ドラマに向田の私生活、親との葛藤や恋人の存在が微妙に反映しているという指摘も面白かった。向田の脚本を読んでみたいと思う。

11月某日
HCMサービスの会長だった平田高康さんの一周忌ということで、西新橋の「京の里」に会長の息子さんをお呼びして小宴を開催、私にも声が掛ったので出かける。「京の里」は名前の通り京料理の店で、会長が健在だったころは毎日のように昼と夜に通っていたということだ。料理に腕を振るっていたご主人と客の相手をしていた奥さんも昨年、平田会長と同じころ亡くなったそうだ。平田会長は永大産業出身ということは聞いていたが、息子さんに聞くと永大産業が倒産する10年ほど前に辞めているそうだ。私の知らなかった平田会長の一面を知ることができて楽しかった。

11月某日
企画を手伝っている「地方から考える社会保障フォーラム」を傍聴。厚生労働省からは成松英範家庭福祉課長が「子どもの貧困」、山口正行障害児・発達支援室長が「障害児政策」、伊原和人審議官が「2040年の社会保障」について、白梅大学の山路憲夫先生は「地域包括ケア」、宮本太郎中央大学教授は「地域共生社会」について講演した。伊原審議官は2040年には高齢者人口は現在とそれほど変わらないが、後期高齢者の割合が増え、若年人口が大幅に減ることを示し、健康寿命を延ばし現役で働ける人を増やすことが重要なことと、中央官庁も地方自治体も縦割り行政に横ぐしを刺していくことが重要という話が聞けた。社会保障関連予算の伸びを抑制しつつどのようにメリハリをつけていくかだろう。参加した地方議員は極めて熱心、高度成長期には地方自治体の課題は公営住宅や道路、公園などのインフラの整備だったが現在の課題の中心は完全に福祉、社会保障に移っていると感じた。
フォーラム終了後の夕方、大谷源一さんの携帯に電話すると「今、厚生労働省を出るところ」。というわけで経産省の別館前で待ち合わせる。どこに呑みに行くか迷ったが本日は新橋の「焼き鳥センター」にする。5時過ぎに焼き鳥センターに着く。この店のウエイターは外国人労働者が多かったが今回はアルバイトの高校生。7時ころまで呑んでいたが、出るころにはほぼ満席。安くて味も悪くないので若い人、女性だけのグループも多い。お勘定は2人で約4000円。新橋からは上野-東京ラインで帰る。男性に席を譲られる。

11月某日
「火環(ひのわ)-八幡炎炎記完結編」(村田喜代子 平凡社 2018年5月刊)を読む。前編の「八幡炎炎記」では広島市内の紳士服の仕立屋で働く瀬高克美が親方の妻、ミツ江と駆け落ちし、ミツ江の実家のある北九州の八幡に身を寄せる。克美は市内に店を出し、ミツ江の長姉サト夫婦のもとには女の赤ん坊がもらわれてくる。離婚した娘の百合子が生んだヒナ子である。帯に「著者初の本格自伝的小説・完結編」とある。ということはヒナ子は著者の村田がモデルということになる。ウイキペディアで村田喜代子を検索すると「福岡県八幡市(現在の北九州市八幡西区)出身、両親の離婚後生まれたため、戸籍上は祖父母が父母となる。市役所のミスで一年早く入学通知が来たため、1951年小学校入学。八幡市立花尾中学校卒業後、鉄工所に就職」とある。ほぼヒナ子と重なる。小説ではヒナ子が観る映画「ゴジラ」「楢山節考」が重要な役割を担う。ゴジラは南太平洋の海底に眠っていた恐竜が水爆実験で目を覚まし日本の首都東京に上陸して荒れ狂うというストーリー。ゴジラもウイキペディアで検索すると「日本の東宝が1954年(昭和24年)に公開した怪獣特撮映画」とあって、私も観た記憶がある。ゴジラは水中酸素破壊剤(オキシジェン・デストロイヤー)なる薬によって溶かされるのだが、小説では「ゴジラの断末魔の長い咆哮に、ヒナ子の胸は破裂しかけた。流す涙でゴジラの姿がぼやけた」と描写される。1954年と言えば原爆投下、敗戦から10年も経っていない。観客にも戦争や原爆の記憶が鮮明に残っていたのである。私も小学生の頃、シリーズの「二等兵物語」を母親に連れられて観に行ったが、映画を見終わったとき母親に「隣のオジサンが泣いていた。きっと戦争に行ったんだわ」と言われたことを覚えている。「二等兵物語」は喜劇役者の伴淳三郎と花菱アチャコが主演する喜劇である。喜劇であるが観客はそこに戦中の自分の姿を見て泣くのである。話がそれたが村田喜代子が中卒とは初めて知った。人間は学歴ではないとしみじみ思う。

モリちゃんの酒中日記 11月その1

11月某日
元厚労省の末次彬さんと高根和子さんに誘われてゴルフに行く。ゴルフは昨年の3月に静岡の函南カントリーへ行って以来。7時30分に吉武民樹さんが車で迎えに来てくれる。30分ほどで常陽カントリー俱楽部に到着。天気は最高だったし、やる前は少し「億劫感」があったが、やってみると楽しかった。来年は少しやってみようかな。3月の常陽カントリーは私が予約することにする。末次さんから京都の銘菓、高根さんから「珍味」を頂く。

11月某日
フリーライターの香川喜久江さんと上野の公園口で待ち合わせて東京都美術館の「ムンク展」を観に行く。ムンク(1863~1944年)はノルウェーの画家で「叫び」が有名。今回は「叫び」を含む101点の油彩画、リトグラフ、エッチングなどが展示されている。美術には門外漢だが、何しろ「障害者手帳」を交付されているので本人及び介助者は無料になるのが魅力。ムンク展で感じたのはこの作家の繊細な感受性だ。「叫び」もそうだが作家の心象が作品に反映されているのだ。ムンクも神経症で入院歴があるという。自分の耳を切ったというゴッホと同じような精神的な傾向があるのかも知れない。「死せる母とその子」「病める子」など死や病に対する強い関心も興味深い。何度かの恋愛を経験したが生涯独身だった。香川さんから「船橋屋のくず餅」を頂く。帰りは地下鉄千代田線の根津まで歩くことにするが途中で道が分からなくなる。上野高校の校門で香川さんが女子高生に「根津駅まではどう行くのでしょうか」と聞くと、小柄な美少女が「私も根津駅まで行くので一緒に行きましょう」と言ってくれる。10分ほど歩きながら一緒に話す。女子高生と話すのはおそらく50年ぶり。私が「我孫子へ帰るところ」と伝えると少女は「私の好きな作家が住んでいるところ」という。女流でファンタジー作家というから上橋奈津子のことだと思う。彼女は高校3年生、来年は大学受験。合格を祈る。

11月某日
「うらおもて人生録」(色川武大 新潮文庫 1987年11月)を読む。「はじめに」で色川は「この世の原理原則、不確実でないと思える部分については、一生懸命に記さねばならない」と書いている。色川は旧制中学を中退、一時博打(主に麻雀)で生活をしのぐ。のちに小さな出版社を転々とし娯楽小説誌に時代小説を書くようになる。1961年中央公論新人賞を受賞するが、その後純文学の創作から離れて週刊誌に浅田哲也名で「麻雀放浪記」を連載、人気作家となる。1977年「怪しい来客簿」で泉鏡花賞、1978年「離婚」で直木賞を受賞する。きわめて起伏に富んだ人生を送った人なのだが、その人の言う「この世の原理原則」とは何か? この世=人生において大事なことは、相撲で言えば「全勝」を目指すのではなく「9勝6敗」をコンスタントに維持することだという。これは私にとって妙に納得の行く話であった。唐突な話になるが現在の安倍首相、佐藤栄作や吉田茂を抜いて戦後の首相として最長記録になろうとしている安倍首相だが、どうみても運を使い過ぎている。ふがいない野党の責任もあるが13勝2敗か12勝3敗のペースで政権を維持し続けている。来年の統一地方選では連立与党は議席を減らし、参議院選挙では連立与党は限りなく過半数割れに近づくのではないか。つまり、13勝2敗ペースから5勝10敗ペースへ転落しかねないのだ。それはさておき解説は今年1月に自裁した西部邁。これがまたいい。西部も色川にも「自分の傷を晒す」という共通項があるような気がする。そして2人に共通する「無頼」という生き方。無頼は「無法な生き方をする人」という意味もあるが、ここで言う無頼は「頼みにするところがないこと」だ。無頼って自立のことだと思う。

11月某日
図書館で借りた「『医療的ケア』の必要な子どもたち」(内多勝康 ミネルヴァ書房 2018年8月)を読む。「第二の人生を歩む元NHKアナウンサーの奮闘記」という副題のついた本書、私の身近に医療的ケアが必要な人がいるわけでもないし、著者の元NHKアナウンサーが知り合いでもない。その私がなぜ本書を読むようになったか。実は数年前から「胃ろう・吸引シミュレーター」の販売にわずかだが手を貸している。開発にあたってアドバイスを頂いた群馬大学のドクター、吉野先生は確か医学部じゃなくて教育学部の所属だ。おそらく「医療的ケア」の必要な子どもたちへの教育をどうあるべきか研究し実践している。そんなこともあって本書を読むことにした。本書で明らかになったことのいくつかを記しておきたい。一つは小児医療の進歩により、未熟児で生まれた子の生存率が飛躍的に高まったこと。NICU(新生児集中治療室)の普及でそれまでは助からなかったも知れない多くの赤ちゃんの命が救われるようになった。しかしそうであるが故に障害を持って生まれる子も多くなった。その子が病院から在宅に返されるとき、在宅の受け皿が整備されているとは言い難い。女性の社会進出が進み、障害児のお母さんの多くも出産後の仕事復帰を願っている。そんな障害児と家族のために設立されたのが「国立研究開発法人国立医療研究センター」の医療型短期入所施設「もみじの家」。NHKアナウンサーの職を投げ打って「もみじの家」の管理者(ハウスマネジャー)となったのが著者である。障害児の母親の声が紹介されている。彼女は「生まれてきただけ、よかったよ」という言葉に反発する。人間として選択でき、自由であり、社会のなかで生きていく、障害児にもそうしたことが保障されるべきと訴える。「生まれてきただけ」ではだめなのだ。すごく真っ当な考えと思う。

11月某日
HCMの大橋進社長に誘われて富国生命の経済講演会に行く。毎年、帝国ホテルで開催されるこの講演会は講師の選定がいつもユニーク。今回は「編集工学」の松岡正剛。要するに経営も生活も人生すべてに編集的なセンスが必要ということなのだろうと思う。今日の話で印象に残ったのが「見えるオプションで勝負しないほうがいい。大切なのはプラス1のオプション」。私になりに解釈すると「見えるオプション」とは社会的な地位とか学歴、家柄であり、「プラス1のオプション」とはその人の個性だと思う。講演後のパーティで白ワインを呑みながら大橋社長にとってもらったローストビーフなどを頂く。さすが帝国ホテル、ワインも料理も一流である。帝国ホテルを出て有楽町のガード下で大橋社長にご馳走になる。この店は大橋社長が明治生命時代から通っていたということだ。店主が「家賃が高くて」とぼやいていた。

11月某日
「彼方への忘れ物」(小嵐九八郎 アーツアンドクラフツ 2016年5月)を読む。2年前に上梓されたものだが、書評に取り上げられることもあまりなかったのだろう、私はひと月ほど前の新聞広告で知った。小嵐九八郎は早稲田大学で社青同解放派の活動家だった。私が1969年の9月、第二学生会館に立て籠ったとき「全共闘運動は反帝学評(解放派の学生組織)に包摂されるんだよ」と青ヘルメット(当時、セクトごとに被るヘルメットが色分けされていた。ちなみに中核は白、社学同は赤)を被ることを勧められたことを覚えている。もちろん断ったけれど小嵐(本名は工藤さん、当時彼は5年生だったので2年生の私からすれば大先輩)は覚えていないだろうなぁ。小説のストーリーは新潟県村上市の大瀬良騏一が高校に入学し、バーのママと初体験を済まし一浪の後、早大政経学部に入学、学生運動に巻き込まれる。その間、初恋の人を一途に思い続けるがその人は自殺してしまう。私と工藤さんは学年で3年違うのだが、観た映画が「唐獅子牡丹 昭和残侠伝」だったり、政経学部の教授や授業のレベルを低いと感じたりするのは同じ。騏一が唯一「面白い」と思った授業が人類学の井伊玄之介教授。これは社会学の井伊玄太郎先生のことだろう。授業を選択した全員に、講義に出る出ないに関わらず「優」をくれるので人気の先生だった。もちろん私も選択した。当時の早稲田の政経は、学生自ら「学生一流、建物2流、先生3流」と言っていた。「純血主義」なのか早稲田出身の教授がほとんどだったからね。社青同解放派の活動家、小清水は第一次早大闘争の全共闘議長だった大口昭彦を連想させるし、行動隊長で中核派の中星はテレビキャスターもやった彦吉さんだ。騏一は留年後、縁あって新潟の地方紙に就職するのだが、実際の工藤さんは、確か川崎市役所に就職したのじゃないかなぁ。社青同解放派の活動を続け、解放派の分派のより過激な狭間派に所属、入獄体験もある。20年ほど前だろうか早大全共闘出身者が赤坂プリンスホテルでパーティをやったことがあるが、そのときは新進の小説家として参加していたっけ。「彼方への忘れ物」は60年代末の物語だが、小嵐は70年代を描いた「あれは誰を呼ぶ声」を先月、出版している。これも読まねばと思う。

11月某日
弁護士の雨宮英明先生から「関さんと新橋で食事しよう」という連絡があったので新橋の「ビストロ・エドギン」へ行く。雨宮先生は早稲田大学の同級生。私たちのクラスは民青が強く、私がクラス委員選挙に出てもいつも民青の清真人君に負けていた。雨宮先生はノンポリながら私たちのグループだった。ちなみに後に清君は私たちのグループだった近藤百合子さんと結婚する。清君は政経学部を卒業後、文学部の大学院を経て近畿大学の教授になった。関さんは政経学部に少なかった女子大生の一人で、中退後エレクトーン奏者をやった後、新宿と赤坂でクラブを開店した。赤坂のクラブ「邑」へは私もよく行った。クラブは閉店し関さんは悠々自適の身。三味線や小唄の勉強を続け、今月、西荻窪で発表会をするそうでビラをもらった。食事会には関さんの元カレと「邑」のチーママ?だったチエちゃんも参加、料理もワインもおいしかった。

モリちゃんの酒中日記 10月その5

10月某日
「へるぱ!」の特集「私が介護職を辞めた理由(わけ)」(仮題)の事前取材で年友企画の迫田さんと千駄木の駅で待ち合わせ。千駄木からタクシーで駒込病院へ向かう。「介護ユーアイ」の馬木功社長が入院しているためだが、「肺炎だけど、私は全然構わないよ」ということなので病棟のラウンジで取材させてもらう。いろいろと面白い話が聞けたが、「職員のキャリアアップのための社内外の研修に力を入れている」という話は大切なことだと思った。それと転職を繰り返す人は、普通の仕事では敬遠されがちだが、介護事業ではちょっと違うようだ。圧倒的な人手不足が背景にあると同時に、転職でキャリアアップを図っているという側面もあるようなのだ。板前さんとか美容師さんと同じ感じだ。勤め人というより「職人」感覚なのかもしれない。駒込病院からタクシーで地下鉄南北線の本駒込駅へ。四谷で丸の内線に乗り換え南阿佐ヶ谷へ。ケアセンターやわらぎのデイサービスへ向かう。理事長の石川はるえさんに取材。石川さんは30年来の古い友人だが、早くからISOに取組み、介護事業に標準化、合理化といった近代的な経営を推進してきた人だ。もっとも私は、いつも石川さんにご馳走になる人なのだが。石川さんは「介護保険は第2ステージに入った」として大胆な政策転換が必要なことを示唆した。取材を終わって荻窪の角打ち(酒屋の立ち飲み)「酒ノみつや」に行って青森の地酒「安藤水軍」を2杯いただき、寿司屋「日本海」で握り寿司をご馳走になる。

10月某日
社福協の「保健福祉活動支援事業」運営委員会に出席。社福協が開催するセミナーや調査研究事業等について報告を受けるのだが、その後の意見交換が私にはとてもためになる。介護事業の経営コンサルをやっている堀口直孝先生とホームヘルパー出身で自身もNPO法人楽の理事長を務め、川崎で小規模多機能事業所を経営している柴田範子先生が委員なので、お二人の味わい深い話が聞ける。外国人労働者についても日本人が使う日本語の微妙な言い回しを理解させるのは至難の業という話になった。本当はケアをやってほしい利用者が「いやぁいいですよ」というと外国人は額面通りに受け取ってケアをしない。また逆にやさしさからケアをし過ぎてしまう外国人労働者もいたそうだ。自立支援の観点から「違うのよ」と言っても「どうして」と理解されない。ちなみにこの労働者はフィリピン人で、確かにフィリピンの女性は働き者で男性にとっては大変優しい。こんな話はよそではなかなか聞けない。
「胃ろう・吸引」のシミュレータを開発したデザイナーの土方さんとHCM社の大橋社長と新橋の「焼き鳥センター」で待ち合わせ。ここのウエイトレスも外国人が多い。この前来たときは男性の確かネパール人だったが、今回は東南アジア系の美人ウエイトレスだった。大橋社長が「どこから来たの?」と聞くと愛想よく「タイです」と答えていた。2次会は近くのスナック「八田」。ママは岩手県の滝沢村(現在は滝沢市)出身で、旧丸ビルの小岩井農場に勤めていたとのこと。大橋社長とは卓球つながりだそうだ。昭和の香りのたっぷりあるスナックだった。我孫子へ帰って「愛花」による。

10月某日
「ヴィルヘルム2世-ドイツ帝国と命運を共にした『国民皇帝』」(竹中亨 中公新書 2018年5月)を読む。ヴィルヘルム2世のことは第一次世界大戦で敗北し、玉座から追われた皇帝くらいの認識しかなかったし、ドイツ帝国の成立についても高校の世界史の教科書程度の知識しかなかったので、私にはとても面白かった。ドイツ帝国はプロイセンが中心になって小国部分立にあえいでいたドイツを統一し1871年に生まれた。薩長が中心になって幕府を倒し明治政府を樹立したようなものである。違うのは幕藩体制における諸藩は版籍奉還や廃藩置県により明治新政権に統合されていくが、ドイツ帝国を構成するプロイセンをはじめとする各国(邦と呼ばれる)は存続し、独自の憲法、君主、政府、軍隊を保有した。世界大戦で連合国側と戦ったドイツ軍とは、法的にはプロイセンやバイエルンなどの邦の軍隊であった。ただしヴィルヘルム2世が創設したに等しいドイツ海軍は帝国直轄の軍であった。著者の竹中は「ドイツ帝国は、国家連合と統一国民国家という相反する二つの原理を連邦国家という形で糊塗したものといえる」とし、次第に「時代の要請に合致しない国家連合の要素が後退し、代わって統一国民国家の要素が強まっていく」と述べている。ドイツ帝国は明治国家のモデルと考えられていたし、明治憲法や陸軍さらに医学をはじめとした諸科学においてドイツは先達であった。だが中央集権国家としては、明治政府のほうがドイツ帝国よりも進んでいた面がある。

10月某日
「彼女は頭が悪いから」(姫野カオルコ 文藝春秋 2018年7月)を読む。姫野は何年か前「昭和の犬」で直木賞を受賞した人だが私は初めて読む作家。帯に「非さわやか100%青春小説」とある。この小説を読み終わった後に再びこのコピーを目にし「巧い!」と思った。横浜郊外の青葉区に住む神立美咲はもともと地元の農家の家系で、父方も母方も法事や正月に集まると「うちはもともと百姓だったから」とおおらかに語る。父は学校の給食センターに職を得、母は実家のクリーニング店を手伝う。通う大学は第3志望の、河合塾の女子大生偏差値ランキングでは48枠に位置されている水谷女子大学総合生活学科である。東京大学理科Ⅰ類から本郷の工学部へ進学した竹内つばさは、渋谷区広尾の申し分のない環境で育ち、兄は東大法学部から法科大学院に進み、つばさも大学院を目指している。美咲とつばさは出会い恋に落ちたはずだったが…。美咲はつばさへの恋心を募らせるがつばさの心は離れていく。つばさに池袋の呑み会に誘われた美咲は、巣鴨のつばさの友人のマンションに連れ込まれ友人たちに服を脱がされる。何とか逃げ出した美咲は公衆電話から110番する。東大生たちは強制わいせつで逮捕、起訴される。しかしネット上で非難されたのは美咲のほうであった。【のこのこついてったんだから、合意だろ】【これ、女の陰謀じゃねーの? 怖いねー】などなど。加害者対被害者の関係は容易に東大生対3流女子大生の関係に置き換わり、世論は東大生におもねる。「非さわやか100%」である。救いは美咲の大学の教授が自分が学生の頃、男子学生に乱暴されそうになった経験を話し「神立さんがどれだけいやな気持ちだったか、私は完全にはわかりません。ただ察することしかできません。でも、どうか元気を出して」と語りかけるシーンである。人間の本当の強さ弱さ、賢さ愚かさを考えさせられる小説である。

10月某日
年友企画の総務・経理を担当している石津さんと御徒町のスーパー吉池の9階にある「吉池食堂」で待ち合わせ。スーパー吉池は食品スーパーの老舗、吉池食堂は食材が良くて値段もリーズナブルなことから人気の店で、忘年会シーズンなど予約でいっぱいのときもある。本日は予約なしで6時前に入ると余裕で席に着けた。私のような年寄りのグループも多いが若いOLのグループもいる。生ビールを呑んでいると石津さん来る。石津さんと世間話。話題はどうしても最近亡くなった竹下さんのこと、そして竹下さんと同じくすい臓がんで亡くなった石津さんの上司だった大前さんのこと。石津さんに「森田さん死なないでよ!」「まぁ死にそうにもないか」と言われる。石津さんにすっかりご馳走になる。

10月某日
常連だったスナック「ふらここ」のママ、半谷さんと西新橋の「花半」へ。「花半」は純子さんというママが取り仕切っている店だが、お店に行くと違う女性が「姉は骨折で入院して今週、退院です」という。「予約の電話に出てたじゃない」と言うと「あれは私です」。姉妹、兄弟は声も似るものだ。ビールの後、私は富山の地ウイスキーを呑むが、これがスモーキーで私の好みに合った。ママは日本酒を頼んでいた。我孫子へ帰って駅前の「愛花」による。

10月某日
石川はるえに「ちょいと相談が」とメールすると「今日なら18時30分ころ東京駅周辺で」返事が来る。京都大学東京事務所の大谷源一さんに電話して、東京駅丸の内北口の居酒屋で時間をつぶす。18時30分に新丸ビルの1階ロビーで石川さんと会う。別の居酒屋で3人で食事。石川さんにすっかりご馳走になる。

モリちゃんの酒中日記 10月その4

10月某日
向田邦子の文庫本を図書館で借りた。文庫本の向田邦子のコーナーには10冊ほど並んでいたので一番薄そうな「きんぎょの夢」(文春文庫 1997年)を借りる。扉をめくると「この作品は向田邦子氏の放送台本を中野玲子氏が小説化したものです」とあった。そうだった。向田邦子は放送作家として「だいこんの花」「七人の孫」「寺内貫太郎一家」などの代表作がある。昭和55年に初めての短編小説で直木賞を受賞したが翌年8月、台湾で航空機事故により亡くなったのだ。だから残された作品は小説よりも放送台本のほうが圧倒的に多いに違いない。この文庫本には表題作はじめ3編が収められている。長編では無論ないが短編としては長めである。表題作の「きんぎょの夢」は次のような構成になっている。①主人公の砂子が末の妹の信子と暮らすアパートで父の七回忌の法要が行われ、他家に嫁いだ和子も駆けつける。法要が終わったあと僧は帰り、姉妹で寿司をつまむ②砂子は父が勤めていた新聞社の近くでカウンターだけのおでん屋をやっていて、かつての父の同僚が常連客となっている。常連客のひとりの良介と砂子は恋仲である。新聞社の週刊誌の編集部員である良介におでんを出前して店に帰った砂子を待っていたのは良介の妻みつ子である③砂子が帰宅すると和子が待っている。夫の浮気が発覚し家を出てきたのだ④良介が熱を出し、みつ子の頼みで砂子は四谷の二人の家へおでんを出前する。二人の様子を見て、砂子は二人が一生別れられないであろうと気付く。店に帰った砂子を、カウンターの金魚鉢の金魚にエサをやっている常連客の折口が待っていた。折口は「赤いべべ着た可愛い金魚」と低い声で歌いだし、砂子もごく自然に唱和する。「①から④で1時間のドラマかな」と想像する。放送の台本であるから構成がしっかりしている。基礎がしっかりしているから初めての短編小説でも直木賞を受賞することができたのだろう。

10月某日
アベノミクス批判の急先鋒、エコノミストの浜矩子の「自国第一主義という病-リーダーたちが招く破綻のシナリオ」(毎日新聞出版 2018年7月)を読む。本書の第1章は書下ろし、第2章~第4章は毎日新聞連載の「危機の真相」(2015年11月~2018年3月)を編集したもの。今年2018年は明治元年から150周年の年だが、浜矩子はむしろ第一次世界大戦終結(1918年)から100年に着目する。1年後の1919年にヴェルサイユ条約が締結され、その20年後の1939年に第二次世界大戦がはじまる。この20年間は「戦間期」と呼ばれるが、浜は戦間期と現在の類似性を指摘する。1929年の株価大暴落⇒2008年のリーマン・ショック、1930年代の大不況⇒2009年以降のグローバル・デフレ、英米仏の通貨戦争⇒日米中の通貨戦争、英米独仏の通商戦争⇒米対その他の通商戦争、ファシズムの台頭⇒自国第一主義者たちの出現であり、これらをまとめると狂乱の1920年代⇒金髪の2000年代ということになる。2000年代初頭にgoldilocks economy 金髪経済という言い方がはやったそうである。ゴルディロックスは金髪のお下げが似合う小さな女の子、「ちょうどいい」という感じで「ほどよく低金利で、ほどよく低インフレで、そこそこの成長率が達成されている」状態だ。浜は「戦間期」と「今」の間には驚くべき二重写し関係があるとし、私たちは「このことを脳裏に焼きつけ、胸に刻み込んでおく必要がある」という。浜矩子はたんなるエコノミストではないと思う。経済分析が的確な歴史認識に支えられており、的確な歴史認識は浜の幅広い教養に支えられているのだ。本書でも旧約聖書やアイザック・アシモフのSF、不条理演劇の「ゴドーを待ちながら」などに触れられている。それだけではない。引用は毎日新聞の「仲畑流万能川柳」にまで及ぶのである。

10月某日
「活動寫眞の女」(浅田次郎 双葉文庫 2000年5月 単行本は1997年7月)を読む。舞台は昭和44年の京都、その年、京大文学部に入学した三谷薫が「僕」として物語を進行する。古い映画館で知り合った京大医学部の2回生、清家忠昭と友人になる。2人は清家の知人のつてで太秦の映画製作所に映画エキストラのアルバイトに行くようになる。撮影現場で出会った美人の大部屋女優、伏見夕霞がヒロイン。実は夕霞は山中貞夫監督(人情紙風船の監督で知られる戦前の名監督。中国戦線で戦死)と相思相愛の仲だったが、山中監督の死を知って世をはかなんで自殺している。つまり2人が出会った夕霞は亡霊である。前に読んだ浅田次郎の「沙高楼奇譚」では同じ京都の太秦を舞台に、幕末の勤王の浪士が時空を超えて池田屋事件の撮影現場に登場するという短編があった。ファンタジーは浅田次郎のジャンルの一つであろうが京都の太秦というか、撮影現場に強いこだわりがあるのだろうか。それはともかく、私には舞台となった昭和44年には強いこだわりがある。つまり1969年だ。前年に早稲田の政経学部に入学した私は学生運動にのめり込む。一方で同級生の女子大生と恋に落ちる。つまり恋愛と学生運動に一途だったわけ。ついでに言えば土方仕事のバイトもまじめにやった。学生運動と恋愛、バイトに忙しく勉学にいそしむ暇はなかった。授業に真面目に出たのは1年生の1学期まで。ゴールデンウィークが明けたら教室から足が遠のいた。それでも4年で卒業させてくれた早稲田大学はエライ。

10月某日
愛知県を中心に家具の転倒防止活動に取り組んでいる建築家の児玉道子さんが東京出張の帰りに西新橋のHCMのオフィスに寄ってくれる。東京出張は老年学会に出席のためだとか。児玉さんの活動はもう少し注目されてもよいと思うけれど。お昼に本陣坊のそばを食べる。児玉さんに「森口漬」をお土産にいただく。

10月某日
元厚労省の堤修三さんと神田の鎌倉河岸ビル地下1階の「跳人」で呑む。社会保険研究所の鈴木俊一社長も参加、遅れて今は京都大学の東京事務所の仕事をしている大谷源一さんも来る。堤さんは厚生省で経済課長をやったことがあるので鈴木さんとの話は「薬価」で盛り上がっていた。私は薬価についてはほぼ門外漢なのだが、医療政策や福祉政策と少し違うのかなと思ったのは、医薬品を巡る政策は産業政策的な側面が強いということだ。厚生行政よりも経済産業政策に近いのではないか? 医療や福祉についても技術の進歩や高齢化によって、日本の経済に占めるウエートは今後も増えていかざるを得ない。産業政策的な配慮もより必要になってくるということだろう。

モリちゃんの酒中日記 10月その3

10月某日
卒業した中学と高校のクラス会があるので3泊4日の日程で北海道へ。初日は格安航空券で成田から新千歳空港、空港からは電車で登別、登別からタクシーで中学のクラス会会場の虎杖浜温泉ホテルほくようへ。中学のクラス会は何年か前、室蘭でやって以来。卓球部だった向井君、野球部だった晴山君や武田君は半世紀ぶりの再会だが、みんな面影はしっかりあった。宴会の後はカラオケルームで2次会。翌日はほとんどの人がバスで札幌方面へ帰るが、私は宮野君の車で東室蘭のホテルまで送ってもらう。室蘭では弟夫妻と夕食を一緒にとることになっているが、時間があるので卒業した蘭東中学まで歩く。同じ場所に中学校はあったが名前は変わっていた。中学校から自宅のあった水元町まで歩く。水元町からバスで東室蘭へ行く。途中、卒業した室蘭東高校前を通ったが、こちらも名前が変わっていた。私らが中高生の頃は室蘭も高度成長経済の波に乗って景気も良く、人口も膨張していたのだが、「鉄冷え」の時代が続き人口は激減、公立の学校も統廃合されたということだろう。夜、弟がホテルへ迎えに来てくれてホテル近くの居酒屋へ。私はもっぱら北海道の地酒を頂く。

10月某日
高速バスで高校のクラス会のある札幌へ。時計台前で下車、創成川沿いを歩いて会場の第一ホテルへ。高校のクラス会は普通科の3クラスが合同なので50人近くが集まる。倫理社会の先生だった富森先生が出席してくれる。中学のクラス会もそうだったが高校も女性の元気さが目立つ。夫に先立たれた女性も結構いた。おじいさんが朝鮮半島出身の女性がいたが、B型肝炎で国から補償金を得たり、今も病院で清掃の仕事を続けているそうだ。子供の頃近所だった山本君と同室。朝食後、数人とおしゃべりして解散。私は札幌駅まで歩き千歳空港まで電車。格安航空券で羽田へ。

10月某日
札幌行きの飛行機で読了したのが「オウム真理教事件とは何だったのか?-麻原彰晃の正体と封印された闇社会」(一橋文哉 PHP新書 2018年8月)。麻原が教団を設立した前後にブレーンとなった「神爺」「長老」「坊さん」の3人の証言からオウムの深層に迫ろうとしているのだが、この3人の証言の信ぴょう性が検証されていないのが難点。むしろ裁判記録を徹底的に検証して裁判で明らかになったことと、解明されなかったことを示すべきではないかと思う。麻原を「詐欺師」と断定する著者の視点にも疑問が残る。宗教的にも検証されるべきと思うのだが。

10月某日 ‘
飛行機の中で新書を読み終えてしまったので室蘭在住の弟に「薄めの文庫本(小説)を下さい」とメールしたら「指の骨」(高橋弘希 新潮文庫 平成29年8月)を用意してくれた。帯に石原慎太郎が「大岡昇平の名作『野火』『俘虜記』に匹敵する戦争文学だ。」という推薦の言葉が印刷されている。著者の高橋は1979年生まれだから私の子どもと同じ世代、太平洋戦争はもちろんベトナム戦争だって知らないはずだ。そういう人が書く「大岡昇平に匹敵する戦争文学」ってどういうことなのだろう、俄然興味を抱いてしまった。主人公の「私」は「赤道のやや下に浮かぶ、巨大な島。その島から南東に伸びる細長い半島」に米軍基地を占拠する目的で上陸するが、戦闘で負傷し後方の野戦病院へと担送される。「巨大な島」とはおそらくニューギニアのことだ。物語の前半はこの野戦病院での日常が淡々と描かれる。絵の巧い負傷兵や現地の子供たちに紙飛行機を折ってやる病兵、サナトリウに勤務していた軍医。彼らにとっての野戦病院は、まさに日常なのだが、野戦病院である以上、傷やマラリアが悪化して死亡する兵もいる。「指の骨」は死者の指を切り離し、遺品として持ち帰ることからタイトルとされている。戦闘の悪化にともない、野戦病院は撤収し歩ける兵はジャングルを転進する。銃も鉄兜もどこかへ行ってしまい「私」はいつか一人の敗残兵となる。ここら辺の描写が「野火」を連想させるのかもしれないが、私はむしろその乾いた文体からか、初期の大江健三郎の作品「飼育」や「死者の奢り」を思い出した。それにしても高橋弘希は日本の軍隊のことをよく調べ上げたと言わざるを得ません。

10月某日
図書館で借りた「日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実」(吉田裕 中公新書 2017年12月)を読む。たまたまなんだけど「指の骨」で描かれた兵士の太平洋戦争を、資料から明らかにしようとしたユニークで意欲的な新書である。「はじめに」によると、ある時期まで軍事史研究は防衛省防衛研修所などの旧陸海軍幕僚グループによる「専有物」だったという。おそらく開戦に至る経緯とか戦時中の銃後の政変、あるいは敗戦に至る政治過程とか、そういうところに歴史学の学問的関心があり、戦場や兵士の暮らしについてはあまり重視されてこなかっただろうと思う。「あとがき」で著者は、無残な死を遂げた兵士たちの死のありようを残しておきたいと強く思うようになり、1999年に靖国偕行文庫で部隊史や兵士の回想録を閲覧できるようになったのも書き残しておきたいという想いを一層強くしたと述べている。たしかに本書で紹介されている兵士の回想録や部隊史には、あの戦争がいかに無謀な戦争であったかが赤裸々に語られている。ようするに日本の生産力、国力が米英に比較すれば著しく劣っており、短期戦ならばともかく4年にもおよぶ長期戦を戦うべくもなかったのである。昭和天皇はじめ当時の権力者、指導者の責任は非常に重いと言わざるを得ない。本書を読んでもっとも感じるのは「兵隊さんは可哀想だね」ということと戦場となったアジアの人々に「迷惑をかけたんだなぁ」ということである。

モリちゃんの酒中日記 10月その2

10月某日
大谷源一さんと上野の「養老乃瀧」で吞む。焼酎をボトルで頼む。その方が安上がりではある。しかし「養老乃瀧」はボトルキープができない、2人でボトル1本はかなりハードである。2人とも今年70歳だからね。隣のテーブルで吞んでいた中年女性2人組と話す。「清掃の仕事をやっている」という女性は確か72歳と言っていた。「生涯現役」ってわけだ。本当にエライと思う。

10月某日
「人口から読む日本の歴史」(鬼頭宏 講談社文庫 2000年5月)を読む。「新時代からの挑戦状」(厚生労働統計協会)の金子隆一論文を読んでから「歴史人口学」に興味を抱く。で、本書は1983年にPHP研究所から刊行された「日本2000年の人口史」が底本になっているというから、まぁ大筋は35年前の内容なんだけれど私には全然古さを感じなかった。むしろ新鮮でさえあった。「人口の推移を歴史的に読み解く」という「歴史人口学」の存在自体を知らなかったので無理はないけれど。人口は奈良時代以降はある程度、残された文献や江戸時代以降は寺の過去帳や宗門改帖で推し量ることができる。それ以前の縄文、弥生時代は遺跡から推計するしかない。集落の遺跡を調査し、住戸が何戸あり1住居には何人居住したかを推計するのである。その過程で当時の人々が何を食べていたかも分かってしまう。人骨や過去帳を調べることによって過去の寿命がどれくらいだったかもわかる。「人生僅か50年」というけれど出生時平均余命が50歳を超えたのは、第2次世界大戦後の1947年で男50.1歳、女54.0歳だった。男も女も平均余命では還暦を超えることがなかったのだ。
著者は「人口は自然環境の変動によって影響を受けるとともに、文明システムの転換や国際関係の変化とも密接に関連していた」(P253)という。自然環境の変動というのは、たとえば気候の変動によって採取する植物や魚、動物が激減したり、冷夏によってコメの収穫がほとんど期待できなかったりすることである。文明システムの転換とは、日本の場合は採取、漁撈、狩猟から水稲農耕を基盤とする農業生産への転換、さらに産業革命を経て工業化社会に至ったことを示す。国際関係の変化とは江戸時代の鎖国や、明治以降の近隣諸国への進攻、侵略を指す。さて、これからである。現代文明を特徴づけるのは生物的資源から非生物資源への、エネルギー利用の転換だ。農業社会は牛馬や人間自体の労働に依存し、水力、風力などの自然力が補っていたが、工業社会では石炭、石油、天然ガス、ウランなどの非生物エネルギー資源の利用が進んだ。だがこれらの非生物エネルギーはいずれは枯渇する運命にある。著者は「簡素な豊かさ」という表現で、エネルギーと資源を、再生可能な自然力と生物へ転換することを主張する。さらに「必要以上の消費をせずに、効率的な資源利用を実現することによって、環境汚染を防ぐとともに、南北間の資源の公平な分配に寄与しうる」(P273)とする。そして人口減少社会、超高齢化社会に適合したシステム、ライフ・スタイルの確立を訴える。正しいと思います。

10月某日
「思い出トランプ」(向田邦子 新潮文庫 昭和58年5月 単行本は55年12月)を読む。山本夏彦が「向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である」と評したのは有名だが、向田は本作に収められている「花の名前」他2作で昭和55(1980)年の直木賞を受賞、翌年の8月、台湾旅行中に飛行機事故で亡くなる。ということは亡くなってもう40年近く経過していることになる。そんなに時間が経っているなんて信じられないが、当時の直木賞の選考委員で向田を推した山口瞳、水上勉、阿川弘之の3人もすでに故人だから、そういうことなのだろう。直木賞受賞作の「花の名前」は結婚25年の夫婦の話。妻の常子に「ご主人にお世話になっているものですが」と女から電話があり、ホテルのロビーで会うことになる。つわ子と名乗った女は、二流どころのバーのママらしかった。帰宅した夫と妻の会話。「電話があったわよ。あのひと、一体・…」/追い討ちをかけると、夫の足が止まった。/「終わった話だよ」/そのまま入っていった。/またひと廻り、躯が大きく分厚く見えた。その背中は、/「それがどうした」/と言っていた。
結婚する前、夫は花の名前を桜と菊と百合しか知らなかった。夫は子供の頃から勉強一筋、「数学と経済学原論だけが頭にあった。真直ぐ前だけ見て走ってきた」のだ。「花の名前。それがどうした。/女の名前。それがどうした。/夫の背中は、そう言っていた。/女の物差しは25年たっても変わらないが、男の目盛りは大きくなる」。向田は平成の代を見ることなく亡くなったのだが、ここに描かれた夫婦の姿は明らかに昭和のものだ。向田は1929年生まれで私の父母が1923年生まれだからほぼ同世代。「花の名前」の夫婦も同じようなものだろう。戦後生まれは、いや少なくとも私は妻に「それがどうした」とは、口が裂けても言えません。

10月某日
桐野夏生の「リアルワールド」(集英社文庫 2006年2月 単行本は2003年3月)を図書館で借りて読む。図書館で借りた本の奥付は(2018年6月第5刷)とある。実は家に帰って本棚を見たら「リアルワールド」の文庫本があった。こちらの奥付は(2006年2月)。文庫本になった直後に買ったらしい。でも読んだこと自体覚えていないし、読み進んでも内容も全く覚えていない。認知機能の衰えか?同じ本を時間をおいて2冊買うというのは以前にもあったことだが。それはともかく「リアルワールド」は同じ高校に通う4人の女子高生と、母親を殺害して逃亡中の少年の物語である。桐野夏生の小説を「プロレタリア文学」と評したのは白井聡である(「奴隷小説」の文春文庫解説)。白井は「桐野氏こそ『階級』に、『搾取』に、より一般的な言い方をすれば『構造的な支配』に、最も強くこだわっている書き手ではないだろうか」と主張する。「リアルワールド」も「構造的な支配」に強くこだわった作品と言える。支配される側は4人の女子高生と逃亡中の少年である。支配する側は親、学校、大人を含めて社会である。少年の親殺しも女子高生の1人が逃亡に同行してタクシー運転手を脅し事故死するのも、1人の女子高生の自死も、社会に対する単独の「蜂起」と言えなくもない。単独の「蜂起」は当然、失敗し支配される側には絶望が残る。ただ、最近の桐野の作品には「バラカ」「夜の谷を行く」など結末に「未来」へのほのかな希望を示すものもある。

10月某日
「思い出トランプ」に続いて向田邦子の「男どき女どき」(新潮文庫 昭和60年5月 単行本は昭和57年8月)を読む。向田が台湾を旅行中に航空機事故で亡くなったのが昭和56年の8月だから、単行本は死後の刊行である。遺作となった短編小説が4編、あとは雑誌などに掲載されたエッセーである。短編小説を読んで改めて「うまいなぁー」と思う。「鮒」は中年サラリーマンの塩村が主人公。小料理屋の手伝いをしているツユ子のアパートに週に一度通うような関係になり、ツユ子は鮒を鮒吉と名付けて飼い始める。塩村の出張や病気で寝込んだのをしおに、塩村はアパートから足がごく自然に遠のいて一年がたつ。日曜日、家族4人で笑いあっていると台所で音がする。行くとポリバケツに入れられた鮒がいた。塩村はツユ子とのことが家族に露見しないか気を揉むが、息子の守が鮒を飼いたいと言いはじめ水槽も買ってくる。鮒が来た次の日曜日、塩村は息子を誘ってツユ子のアパートのあったあたりを訪ねる。ツユ子は引っ越したらしい。「塩村はもっと自分をいじめたかった。鮒吉の世話をしてくれている守を連れて、一年前の古戦場を葬って歩きたかった。そうするのが守に対しての仁義だと思った。ツユ子に対する罪ほろぼしというところもあった」。うちへ帰ると鮒吉は浮いていた。終り方がいい。「『ねえ、パパとどこへ行ったの』/守は、もう一度そっと鮒を突いて水の中へ沈めてやると、/「ワン!」/犬の吠えるまねをした」。息子もなんか気が付いているわけね。向田邦子は一度も結婚していないし子供も持たなかったわけだけど「家族」を描くと実にリアリティがある。「鮒」では幸福な家族とその異物としての夫の「浮気」、そして息子の成長といったものが「鮒吉」の一家への闖入と退出を通して語られる。
エッセーでは向田邦子の実像がより迫ってくる。「ゆでたまご」というエッセーでは小学校の足の悪いクラスメイトのことを綴る。足だけでなく片目も不自由だった彼女は家も貧しく性格もひねくれていた。運動会の徒競走で彼女は当然、とびきりのビリ、走るのをやめようとした瞬間、女の先生が一緒に走り出し、彼女を抱え込むようにしてゴールする。この先生はかなりの年配で叱言の多い学校で一番嫌われていた先生だった。向田は「私にとって愛は、ぬくもりです。小さな勇気であり、やむにやまれぬ自然の衝動です」と書く。エチオピアとカンボジアで出会った少年たち、内戦をどうくぐり抜けたのかと気遣うエッセー(えんぴつ)、伝統的な日本人の価値観について「人さまの前で『みっともない』というのは、たしかに見栄でもあるが含羞でもある。恥じらい、つつしみ、他人への思いやり。いやそれだけではないもっとなにかが、こういう行動のかげにかくれているような気がしてならない」と綴り、「私は日本の女のこういうところが嫌いではない。生きる権利や主張は、こういう上に花が咲くといいなあと、私は考えることがある」(日本の女)と結ぶ。こういうことを嫌味なくあっさりと書ける人はなかなかいません。

10月某日 
「山本周五郎名品館Ⅳ 将監さまの細道」(沢木耕太郎編 文春文庫 2018年7月)を読む。山本周五郎の長編は結構読んできた。「樅ノ木は残った」「さぶ」「虚空遍歴」「青べか物語」など。短編はあまり読んだことがなかったし、沢木耕太郎編というのが気になって読むことにする。9編の短編が収められておりそれぞれが面白かったが、私が勝手に分類すると居酒屋と娼家を舞台にしたのが2編ずつ、市井ものが3編、武家ものが2編。沢木耕太郎の「悲と哀のあいだ」と題された「解説エッセイ」で、山本周五郎と山手樹一郎を対比している。このエッセーで初めて知ったのだが、山手樹一郎は作家になる前は編集者で、売れない前の周五郎は金銭的にも編集者時代の樹一郎に世話になったらしい。戦後、樹一郎が時代小説作家としてデビューし流行作家になる。樹一郎の小説は戦後の大衆に支持されたのだが、彼自身は「大衆作家」としての自分に不満だったらしい。周五郎は今の路線でいいのではないかと樹一郎に言うのだが、沢木はそこに周五郎の「勝者」としての「傲り」のようなものが滲んでいないかと書く。このエッセーは周五郎の短編みたいな味がある。

10月某日
「のろのろ歩け」(中島京子 文春文庫 2015年3月 単行本は2012年1月)を読む。映画で言うと海外ロケ物の中編小説が3編。舞台は台湾、北京、上海。「天燈幸福」は生前、母から台湾旅行を誘われていた美雨が一人で台湾を訪ね、母の知人に会う話。旅の途中で知り合った台湾人青年の「トニー」がエスコートしてくれる。台湾は1985年日清戦争の結果、日本に割譲され1945年の日本の敗戦まで日本の統治下にあった。朝鮮半島では日本の植民地支配に対して、例えば従軍慰安婦問題のように鋭い告発が今でもされるのだが、同じ旧植民地でも台湾とは温度差があるように思う。台湾は日本の植民地支配が終わった後、蒋介石の国民党が軍隊と共に台湾に逃れ、これがかなりの圧政、暴政を敷いたらしい。私の想像だが、これが日本の植民地支配の印象を薄めているのではないか。「北京の春の白い服」は、中国の女性向けファッション誌の創刊に日本人スタッフとして招かれた夏美が雑誌の中国人スタッフやビジネスセンターの常盤貴子似のスタッフとの交流、日本人留学生のコージとの出会いを通して、彼女の中国への想いが変化していく様子が描かれる。夏美のアメリカ人のボーイフレンドは天安門事件のときに中国に滞在し、中国政府の民衆弾圧を目撃している。彼と夏美の意識のズレも読みどころの一つ。「時間の向こうの一週間」は夫が赴任する北京で二人で住むためのアパートを探しに来た亜矢子は、夫が仕事の都合で北京を離れざるを得ず、中国人ガイドのイーミンと二人で物件をまわらざるを得なくなる。亜矢子とイーミンの束の間の交情。海外を舞台にした小説って「束の間の交情」がいいんだよね。

モリちゃんの酒中日記 10月その1

10月某日
「死と生」(佐伯啓思 新潮新書 2018年7月)を読む。著者の佐伯は東大の大学院で西部邁の下にいたことがあったんじゃなかったかなぁ。今は京大名誉教授で京大こころの未来研究センター特任教授。保守派知識人と呼ばれることが多いが、私は西部や佐伯を「日本会議」を根城にする所謂「保守派知識人」と一緒にするのには大いに抵抗がある。それはさておき本書は日本人の死生観について佐伯の年来の考えを表出したもの。佐伯はもともとは経済学の出身なのだが近年は社会思想家として「西田幾多郎」の著書もある。東大の経済学部、大学院で佐伯とほぼ一緒だったと思われる間宮陽介も、京大経済学部長も務めた「経済学者」なのだが、「丸山眞男を読む」を著したり「経済学」におさまらないフィールドで活動している。また話が横道にそれた。佐伯の考える日本人の死生観は、「仏教的なるもの」に多くの基礎を置いている。これはまぁ当たり前なのだが、佐伯の「仏教的なるもの」は古くはゴータマ・ブッダの原始仏教に始まり、平安時代の源信の浄土思想、さらに法然、親鸞、道元、鴨長明、現代の松原泰道に及ぶ。
佐伯は1949年生まれだから私より1歳下である。年齢的なこともあって「死」について思索するようになったのであろうか。また経済学的な思考をはじめ近代合理主義に包括される社会科学全般に限界を感じて「仏教的なるもの」に惹かれて行ったのか、そこは分からない。しかしキリスト教、ユダヤ教、イスラム教といった一神教と比べると仏教は異質である。ゴータマ・ブッダは仏教の開祖であるが、唯一神ではない。大日如来は密教では教主、主尊とされるが、浄土宗、浄土真宗では阿弥陀仏が本尊である。キリスト教、イスラム教にも宗派、分派があるが、仏教ほど多くはないのではないか。仏教はおおむね分派や他宗派に寛容だが、キリスト教は宗教戦争を戦ったし、イスラム教は現在でもISその他の勢力が聖戦を戦っている。佐伯は仏教の多くの宗派、分派を超えて「仏教的なるもの」に着目する。それは日本人の自然観―農耕社会的な生成の観念、つまり次々と命を生み出し、やがて朽ちてゆくという一種の植物的な生命観―に通じる、という(第7章「あの世」を信じるということ)。ふーん、何となくうなづけるものがある。

10月某日
浅田次郎の「沙高楼奇譚」(文春文庫 2011年11月)を読む。浅田次郎は最近好きな作家で、随分と読んだような気がするのだが、何しろ量産型の作家なのでとても追いつけない。浅田は多作という意味では量産なのだが、私が読んだものは私にとってはどれも面白かった。その点「外れ」のない作家で、私のようにさしたる目的もなく「ただ本を読むのが好き」なものにとってはありがたい。私は原則として一度読み始めた本は、つまらなくとも読み通すので、「外れがない」のは時間を有効に遣っているように思えるのだ。本書の狂言回しを務めるのは浅田とおぼしき、元刀剣売買の世界にいた作家である。ある日上野の国立博物館に刀剣を観に行きそこで旧知の鑑定家に会い、その日開かれるという会に誘われる。連れていかれたのが青山墓地ほとりの高級マンションの最上階で、玄関のホールには「沙高楼」と書かれた扁額が掛けられていた。その沙高楼の広いラウンジで出席者が自分の体験を語るというのが物語の骨格。1人目は作家を誘った鑑定家で、贋作に奇妙な情熱と技巧を凝らすある刀剣作家の話、2人目は名門私立の小学校を転校していった美少女と自分との30年に及ぶ奇妙な出会いを語る精神科医、3人目は戦後すぐの京都太秦の撮影所で、池田谷事件を題材にした時代劇を撮影中のキャメラマンの時空を超えた体験、4人目は本家の指令で自分の親分を殺害せざるを得なくなるヤクザの話である。2話目はたぶん親の破産で学校を転校せざるを得なかった浅田の体験が元になっていると思うが、他の3作は純粋な創作だろう。純粋な創作故に、1作目は日本刀、3作目は映画製作、4作目はヤクザについての実情、実態が綿密な資料調べの下に行われている。それがややもすれば荒唐無稽に取られかねないストーリーにリアリティを与えていると思われる。

10月某日
「未完のレーニン-〈力〉の思想を読む」(白井聡 講談社選書メチエ 2007年5月)を読む。本書はおそらく白井聡の初めての単行本である。「あとがき」にあるように本書は白井の修士論文がもとになっている。とは言え出版当初はそれなりに話題になったし、その後の白井の論壇での活躍は言うまでもないだろう。本書の書かれた意図はソ連邦をはじめ、いくつかの例外を除いて社会主義諸国が消滅した今日、レーニンが考えたこと、目指したことは何かを明らかにしていくことにある。そのため白井はレーニンの「何をなすべきか」と「国家と革命」を取り上げる。個人的なことを述べると私がレーニンの著作を初めて読んだのが「国家と革命」で大学に入学した直後、「ロシヤ語研究会」(露語研)というサークルの読書会で読みあわせた。もちろん露語研とは言え読んだのは日本語。国家とは階級対立の非和解的な産物であり、警察、軍隊は国家の暴力的な機構に過ぎないというレーニンの論に若い私は「その通り!」と思ったものである。「何をなすべきか」を読んだのは、私が過激な学生運動から召喚して、大学ももう卒業していたかも知れない。しかし自分の敗北経験からしても、労働者の自然発生的な意識からは革命的な意識は生まれないし、確固とした前衛党、すなわち労働者からの外部から意識を注入しなければ労働者は革命化しないという論にも「まぁそうだよな」と思ったものである。「国家と革命」の読後感が「その通り!」に対して「何をなすべきか」のそれが「まぁそうだよな」というのは、学生運動からの転向前と転向後の私の「意識」の違いをあらわしていて面白い。
今、「未完のレーニン」を読み終わって私は何を思うか。第一次世界大戦の前に、帝国主義諸国の領土争奪戦はほぼ終わっていた、そうであるが故に「遅れてきた」帝国主義国家であるドイツ英仏露に対して宣戦布告し、社会主義の国際組織だった第2インターナショナルは雪崩を打って「祖国防衛戦争」を支持した。ロシア社会民主党・ボルシェビキのなかでも「祖国敗北主義」を唱えるレーニンは少数派であったが、亡命地スイスで2月革命の報を聞いたレーニンは封印列車でロシアに帰り、武装蜂起を主張しその準備を進める。そのとき書かれたのが「国家と革命」である。革命によって国家権力を奪取した労働者階級とその前衛党は当面、プロレタリア独裁によってブルジョア階級を抑圧する。やがて抑圧すべきブルジョア階級は消滅し、階級抑圧の機関としての国家は必要なくなる。レーニンは一国で社会主義が成立するとは考えていなかったから、国家の消滅とともに国境も消滅する。少なくともロシア革命時、「国家と革命」を執筆していた当時、レーニンはそう考えていたに違いない。レーニンは革命後、数年にして死亡する。レーニン死後、スターリンが権力を掌握し一国社会主義を唱え、トロツキーはじめ、多くの反対派が粛清される。ソ連が実現した「社会主義」を見たらレーニンはどう思っただろうか?歴史に「if」はないけれど。

10月某日
長年の友人だった竹下隆夫さんが亡くなった。10月5日に未明に亡くなりその日、フィスメックの小出社長から訃報を聞いた。通夜は7日、告別式は8日だった。通夜の前日、奥さんの敦子さんから弔辞をお願いしたいという連絡があり、我ながら「心に沁みる」弔辞を書いた。ところがである、通夜の当日、武蔵野線の北朝霞を乗り過ごし斎場に到着したのは通夜開始のギリギリであった。「時すでに遅し」。結核予防会理事長の弔事に続いて友人代表として弔辞を述べたのは社会保険研究所の川上会長であった。献花のときに奥さんと娘さんに「申し訳ありませんでした」と謝り「竹下さんもモリちゃん、しょうがないなぁ、と許してくれると思いますが」と付け加えました。お清めの席で元厚労省の末次さん、高根さん、江利川さん、宮島さん、唐沢さん、ふるさと回帰支援センターの高橋理事長、高齢者住宅財団の落合さん等と話す。帰りは大宮まで出て落合さん、大谷さんと吞む。大宮から東武野田線で柏まで出て我孫子に帰る。我孫子駅前の愛花による。

モリちゃんの酒中日記 9月その3

9月某日
上野の東京都美術館に「藤田嗣治展」をフリーライターの香川さんと観に行く。没後50年ということだ。今回初めて知ったのだが藤田の父は陸軍軍医で軍医総監までやった人だそうだ。第一次世界大戦の直前にパリに留学しているということは、実家はそれなりの財力があったということか。それはさておいても展示されていた藤田の作品は風景画、ヌード、静物、晩年の宗教画までどれもなかなか味わい深いものがあった。当時の芸術の中心地だったパリでアジア人として独自性を発揮しつつ西欧の先端的な芸術に溶け込むというのは大変な才能と努力だったと思う。藤田の戦争画が2点展示されていた。「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」である。戦争画は戦意高揚のために画家が描かせられたということになっているが、藤田の絵は「アッツ島」にしろ「サイパン島」にしろ、戦意を高揚させる目的を達したとは言い難い。戦争の理不尽さ無意味さがリアルに徹した筆使いのなかに私には感じられる。上野駅入谷口近くの居酒屋で香川さんと呑む。香川さんにメイプルシロップを頂く。

9月某日
「はじまりのレーニン」(中沢新一 岩波現代文庫 2005年6月)を読む。本書は1994年6月に岩波書店から刊行されている。ソ連が崩壊したのが1991年だから、「はじめに」で中沢は「レーニン主義を体現すると言われてきたもののすべてが、いまや解体した。器が壊れたのだ。(中略)私たちは、器が破壊されたことに、よろこびを見いださなくてはならない」と述べているのだ。「レーニンはよく笑う人だった」をはじめとして今まで流布されてきたレーニンの像とは全く異なる像を本書から読み取ることができる。レーニンはもちろんマルクス、エンゲルスの著作から唯物論を学ぶのだが、それにとどまることなくヘーゲルや「靴屋の親方」で「ドイツ観念論の父」ヤコブ・ペーメにまでさかのぼる。ペーメの「三位一体論」がヘーゲルの弁証法やマルクスの資本論の形成に影響を与えたという。正直、これらの論説は私の手に余り理解の範疇を超えるのだが、興味を持って読み進むことはできた。「グノーシスとしての党」という章ではレーニン主義の党=ボルシェビキが古代キリスト教の異端、グノーシスと極めて類似した思想を持っていたことが明かされる。中沢新一の本を読むのは、歴史学者の網野善彦のことを描いた「僕の叔父さん」以来だけれど、もう少し読んでみたい気がする。

9月某日
中島京子の「長いお別れ」(文春文庫 2018年3月)を読む。単行本は2015年5月。認知症の東昇平は中学校の校長を定年退職したのち、名誉職の図書館長をやり今は悠々自適の身。クラス会の会場にたどり着けなかったことから認知症が発覚、妻と3人の娘を巻き込んだ認知症と共に暮らす日々が始まる。認知症を題材にした家族をテーマにした小説。夫を思いやる妻と3人の娘、ときには頑なになりながらも教師時代と同じように誠実に生真面目に生きる認知症の夫の姿が温かい筆致で描かれる。認知症の人との接し方は「なるほど、こうあるべきなのか」と思わせる。認知症の母を赴任先の中国から一時帰国して見舞う工藤晴夫のエピソードがいい。中国土産のシルクのマスターを渡すと母は、自分の息子とは認識できず「あなた、とっても優しい人ね」「私、あなたのことが好きみたい」と告げる。晴夫は少し泣きそうな顔で笑いだす。いいよなぁ。

9月某日
「死してなお踊れ 一遍上人伝」(栗原康 河出書房新社 2017年1月)を読む。栗原は最近「村に火をつけ、白地になれ 伊藤野枝伝」(岩波書店)を読んで面白かったので、我孫子市民図書館で「栗原康」を検索、最新作を借りる。一遍上人は鎌倉期の僧侶で時宗の開祖として知られる。実際には宗派の名称としてとして時宗が用いられるようになったのは江戸時代以降で、一遍のころは念仏を唱えることによって成仏ができるという教えのもと、念仏を唱えながら踊るという宗教的な集団であった。栗原は「一遍聖絵」「一遍語録」を底本にしている。町田康が古典の「義経記」を底本にして「ギケイキ1、2」を執筆したのと同じだが、そこは小説家の町田と研究者の栗原の違いか、「ギケイキ1,2」のほうが話としては圧倒的に面白い。しかし栗原も町田も偶然、名前は「康」だ。栗原は「やすし」、町田は「こう」と読むにしても、軽妙な文体にも共通点がある。栗原はまだ若いのでこれからの精進に期待。

9月某日
「行きつ戻りつ」(乃南あさ 新潮文庫 2002年12月)を読む。初出は同社の月刊誌「ミセス」で、1年間の連載であったことから12の短編が収録されている。「ミセス」の読者を意識して12の短編の主人公は主婦、妻である。夫や子どもとの葛藤、金銭的な悩みなどを抱えた妻たちが、それぞれの事情から日本各地、北海道斜里町から熊本県天草町まで12か所を訪れる。「まことによい読後感」と題する解説(立松和平)が載せられているが、いずれの作品も未来を予感させる心地よいエンディング。新潮文庫には栞が付いている。栞が付いているのは多分、岩波文庫と新潮文庫だけ。奥付の発行年の記載が昭和とか平成といった元号なのも新潮文庫の特徴。こだわりかね。

9月某日
「世界経済の『大激変』-混泳の時代をどう生き抜くか」(浜矩子 PHPビジネス新書 2017年)を読む。自民党総裁選挙で安倍晋三が三選された。対抗馬の石破茂が予想以上の善戦、勝者の硬い表情と敗者の笑顔がテレビのニュースで繰り返し流される。反アベノミクスの急先鋒のエコノミストが浜矩子だ。今回の著作では安倍政治とトランプの類似性やヨーロッパの極右勢力、フランスのルペンなどとの共通性に警鐘を鳴らしている。ルペンは「もはや、右翼も左翼もない。あるのは、グローバル主義対愛国主義の対立のみだ」という。浜はこのルペンの発言にかぶせて「あるのは、ニセポピュリズムと真のポピュリズムの対立のみだ」とする。真のポピュリズムとは人民主義、人民本位と浜は主張する。おそらく来年の参院選挙で与党勢力は後退し、円安を基調に回復してきた景気も先行き不透明になるのではないか。浜の主張に耳を傾けていきたい。

9月某日
「日本の『運命』について語ろう」(浅田次郎 幻冬舎 2015年1月)を読む。浅田次郎の講演をまとめたもの。浅田が歴史小説を執筆するにあたっていかに資料を読み込んでいるかがよくわかる。浅田は酒を一滴も飲めないそうだが、資料の収集とその解読で確かに酒を呑んでいる暇はなかろうと思う。浅田は中国文明に尊敬の念を抱き、清朝と徳川政権を比較して、徳川政権は270年、清朝は300年続いたが徳川将軍は15代、清の皇帝は12代、徳川は30年短いにもかかわらず15代の将軍が交替という事実を指摘する。家康、吉宗を除いて英明な将軍はいない、対して清の皇帝は皆それぞれに優秀だったというのが浅田の主張。浅田は真のインテリ、知識人だと思う。真の知識人は差別意識からも自由なのだ。

9月某日
「自民党本流と保守本流-保守二党ふたたび」(田中秀征 講談社 2018年7月)を読む。田中秀征は自民党を離党して1993年、武村正義らと新党さきがけを結成、同年の細川護熙政権で首相特別補佐、第一次橋本龍太郎内閣で経済企画庁長官を歴任。ここで言う自民党本流とは、岸-福田-小泉-安倍と続く、自主憲法制定と防衛力の強化を軸とした流れであり、保守本流とは池田勇人の宏池会を源流とする池田-大平-宮沢のグループと、佐藤栄作の後継となった田中-竹下-橋本のグループである。流れからすると小沢一郎や細川護熙、羽田孜、鳩山由紀夫もこのグループになる。保守本流の思想的なバックボーンとして著者は石橋湛山の小日本主義をあげる。石橋湛山は戦前すでに朝鮮、台湾、樺太はいらないという考えを表明していた。植民地支配の経済コストから日本にとっては過重と判断した。戦後、日本の政治的な対立軸は長く保守の自民党と革新の社会党の二大政党であった。しかし冷戦の終結後、社会主義を主なイデオロギーとする社会党の存在意義は薄れる一方で、現在は社民党として辛うじて国会に議席を維持しているに過ぎない。著者の考えは現在の自民党は自民党本流と保守本流に分裂すべきというもの。

9月某日
「新時代からの挑戦状-未知の少親多死社会をどう生きるか」(金子隆一・村木厚子・宮本太郎 厚生労働統計協会 2018年7月)を読む。厚生労働統計協会の常務理事の西山隆さんからいただいた。第一部の金子明治大政経学部特任教授(前国立社会保障・人口問題研究所副所長)の論文が、長期的で人類史的な視点で人口減少問題を解き明かし、私にとっては「目からウロコ」であった。旧石器時代の人類の総人口は数万人から最終的には数百万人程度と推定され、人口に目立った増加が現れたのは、約1万年前に人類が農耕を開始し定住生活を始めてから。といっても人口の増加は極めて緩やかなカーブを描いていたが、産業革命以降は爆発的な人口増加に見舞われる。肥料や農業技術の改良、アメリカ大陸などでの新しい農地の開拓による食糧増産、近代化による衛生環境の整備、医療技術の発展が人口増加に寄与した。日本では関ヶ原の戦いのあった1600年には1227万人が江戸中期の1721(享保6)年には3128万人に達する。開墾による農地拡大や農業技術の発達、貨幣経済の進展などが環境の人口収容力を大幅に拡大させた。後半期には人口が収容力の上限近くに達したうえ世界的な寒冷化による天候不順(享保・天明・天保の3大飢饉もこの時期)もあって人口は一定水準を超えなかった。再び本格的な人口増加を迎えたのは幕末で、以降、明治,大正、昭和と太平戦争の一時期を除いて2008年に1億2800万人のピークを迎える。これからが本論に入るのだが、日本の総人口が1億人に達したのは1967年で、将来最後に1億人を維持する年は2052年である。しかしその中身は1967年の高齢人口、高齢化率は667万人、6.6%であるのに対して2052年は3793万人、37.9%と全く違っているのだ。著者は「多数決原理に基づく民主主義と、市場原理を基礎とする資本主義は、人口高齢化とともに、社会の資源配分を高齢者に偏らせ、青少年層や子育て世代の生活に不利をもたらす働き」があるとし、「社会経済システムを再構築する必要がある」と警鐘を鳴らす。エライこってす。

モリちゃんの酒中日記 9月その2

9月某日
「資本主義を語る」(岩井克人 ちくま学芸文庫 1997年2月)を読む。岩井のインタビューや対談をまとめたものだが、単行本は94年4月、収録されたインタビューや対談の初出は86年から93年、ということは今から30年ほど前だ。30年前は今ほどパソコンも普及していないし、インターネットも登場していなかったころだが、岩井の思想は全くと言っていいほど色褪せていないと私は感じた。私の読書歴からすると、最初に岩井と出会ったのは彼の「法人資本主義論」、当時私は零細出版社の社長をしていて「会社はだれのものか」に興味があったからだ。次いで異なる共同体間の交易を巡る差異と贈与、貨幣を巡る問題に行き着いた。本書で一番面白かったのは網野善彦との対談「『百姓』の経済学」、よく理解できなかったが興味深かった対談は柄谷行人との「貨幣・言語・数」だ。網野とは歴史と経済について2人が楽しそうに語り合っているのが行間からも感じられる。一方、柄谷との対談は真剣に「切り結んでいる」感じがする。内容を論評するのはおこがましいので今回は形式のみ。

9月某日
佐藤雅美の「物書同心居眠り紋蔵」シリーズの「わけあり師匠 事の顛末」(講談社文庫 2017年5月 単行本は14年5月)を読む。佐藤雅美は1941年生まれだから今年77歳、さすがに昔のように書けなくなったようで、私も佐藤の小説を読むのは久しぶり。「物書同心」というのは取り調べに同席して調書をまとめる仕事と各種裁判の先例を調べるのが主な仕事。江戸幕府ではもちろん三権が分立していたわけではなく、江戸府内における行政、司法、立法はともに幕府が一手に掌握していた。検察、警察、裁判についても江戸町奉行が独占していた。まぁ細かく言うと勘定奉行や評定所などが絡むのだが、詳しく知っているわけでもないのでそれは省く。「居眠り」というのは主人公の藤木紋蔵が今で言う「ナルコレプシー」で、取り調べ中に居眠りをすることから「居眠り紋蔵」と綽名されたため。今回も面白く読ませてもらったのだが、私も年をとったのか敵役の描き方が気になった。2人の孫を育てていた老爺が死んで、月に何両かの家賃を稼いでいた家作を後見人を名乗る親戚に乗っ取られるというストーリーでは「なまじ財産などあるから人は醜い争いをしてしまう」と思ってしまう。佐藤雅美は私のような庶民の正義感に「さりげなく」訴えるのが巧みなのだ。今度の北海道の胆振東部地震でも思うのだが庶民の正義感や同情心が実は社会を支えていると言えないだろうか。

9月某日
「どアホノミクスへ 最後の通告」(浜矩子 毎日新聞出版 2016年10月)を読む。2010年から2016年にかけて毎日新聞や週刊エコノミストへ掲載された連載やインタビューをまとめたもの。浜矩子は以前からアベノミクス批判の急先鋒の一人。アベノミクス=アホノミクスという論調は、私は真っ当な批判と評価している。本書でも多くの浜の指摘には同感した。なかでも安倍政権の異次元の金融緩和と財政の拡大による景気刺激策について、「財政と金融が同じ方向を向かないと政策が効かない」とするリフレ派の主張に対して「全くナンセンスですね。金融政策は通貨価値の保全が最大の任務です。財政が拡張的になった時は、そのことに伴う通貨価値棄損の懸念に金融政策が対応する。それでこそ、財政・金融の名コンビが機能する」と反論する。本書ではイギリスのEU離脱についても触れられているが、浜はEUの当初の理念は正しいにしろもはや、時代に合わなくなっているうえに通貨統合は誤りだったと断言、イギリスのEU離脱にも理解を示す。巻末に少女時代からの浜の人生が語られているが、それによると商社員だった父の勤務の都合で、8歳から12歳までロンドン郊外のウインブルドンに住んでいたという。ロンドンでは学校にもそこでの暮らしにもなじんだものの、帰国子女として過ごした都内の公立学校ではかなり浮いた存在だったらしい。いずれにしても彼女の国際感覚は「ホンモノ」だと思う。テレビで見る彼女のファッション感覚は独特、パンクの系統か?

9月某日
厚生労働統計協会の西山裕常務を訪問。同協会が出版した単行本「新時代からの挑戦状-未知の少親多死社会をどう生きるか」(金子隆一・村木厚子・宮本太郎)の販売についてアドバイス。台湾から帰った大谷源一さんからメール。厚生労働統計協会の後はフリーなので、入谷の「さんたけ」へ。協会のある八丁堀から入谷までは日比谷線で一本なのだが、まだ早いので協会から神田まで歩き、神田から山手線で上野へ。上野から「さんたけ」まで歩くとちょうど4時過ぎ。「さんたけ」には大谷さんがすでに来ていた。ホッピーセットを頼む。安くてくつろげる店。

9月某日
図書館で借りた「連合赤軍物語 紅炎(プロミネンス)」(山平重樹 徳間文庫 2011年2月)を読む。1960年代末から1970年代の初めにかけて日本の学生運動は、60年の安保闘争に並ぶ高揚期を迎えた。私が北海道室蘭市の高校を卒業したのが1967年。大学受験に失敗して上京した浪人中の秋、10月8日と11月12日に当時の佐藤首相の訪米阻止闘争、訪ベトナム阻止闘争がそれぞれ羽田空港周辺で闘われた。私は真面目な浪人生だったので闘争には参加しなかったが、「大学に受かったら学生運動に参加しよう」と密かに思ったものだった。68年の3月、第一志望だった東京都立大学の入試には落ち、早稲田の政経学部には何とか合格することができた。当時、政経学部の自治会は社青同解放派の拠点で、私もその年の12月までは青ヘルメットを被っていた。12月に早稲田で解放派と革マル派の内ゲバが発生、解放派は東大駒場に逃げて駒場の教育会館に立てこもる。東大はその頃、東大闘争の真っ最中。授業は行われていなかったし、各セクトの部隊が東大に常駐していたと思う。東大の民青と全共闘がそれぞれ応援部隊を全国動員していたのだ。年が明けて1月18日、19日が東大安田講堂の攻防戦。そして早稲田の反革マルの活動家に「圧殺の森を解放せよ」という電報が配信され、4月17日に反戦連合を主体にした反革マル連合が革マルの戒厳令を突破、大学本部の封鎖に成功する。東大、日大に限らず全国の多くの大学、高校でバリケード封鎖が行われたが、政府は大学正常化のため夏頃から封鎖解除に乗り出す。早稲田では全共闘、革マルのそれぞれの拠点だった第2学生会館と大隈講堂に対し大学側が機動隊に封鎖解除を要請、9月3日の早朝から機動隊が導入された。私は第2学館に立て籠もったのだが、10時過ぎには機動隊に制圧され全員が逮捕された。
私が逮捕された9月3日の2日後の9月5日には全国全共闘の結成大会が日比谷野音で予定されていた。4日には愛知揆一外相の訪米訪ソに反対して京浜安保共闘が羽田空港の滑走路に火炎瓶を投げ、坂口弘、吉野雅邦らが逮捕される。そして本書によると羽田空港突入の陽動作戦として高速道路からの火炎瓶投擲が準備され、これは未遂に終わったものの、後に山岳アジトで殺害される大槻節子が逮捕される。私が第2学生会館屋上で逮捕されて留置されたのが大森警察署、大槻節子が留置されたのも大森警察で、私が留置されて2日後くらいに楚々とした女子大生が送られてきたが、それが大槻節子だった。
大槻節子の逮捕後何日かして、小柄な若い男が大森警察に留置された。彼が大槻節子の当時の恋人で、昭和45年の12月18日に板橋区の上赤塚交番で拳銃を奪取しようとした3人組の1人、渡辺正則だった。3人組の1人、柴野春彦は現場で警官により射殺されている。東大日大をはじめ、各大学でバリケードが次々に解除され「火炎瓶とゲバ棒」の限界は明らかだった。限界を突破するには武装をエスカレートして「銃と爆弾」しかないと思い詰めたのが赤軍派と京浜安保共闘であり、連合赤軍だった。「銃と爆弾」路線は、連合赤軍が「あさま山荘」銃撃戦とその後に明らかになった同志へのリンチ殺人事件で壊滅したのちも、アラブ赤軍によるイスラエルのロッド空港での銃乱射事件や東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件へと受け継がれていく。今から50年前、「そんなこともあった」のである。当時は高度経済成長の時代で日本は繁栄を謳歌していた。その一方で反体制の学生運動は激化し、その頃19歳で盗んだ拳銃でタクシー運転手を3人殺害した永山則夫事件も起きている。本書を書いた山平重樹は鈴木邦男による解説によると民族派の学生運動家だったという。革命派と民族派という違いはあっても志半ばで倒れざるを得なかった学生運動家への想いが伝わってくる。

9月某日
我孫子市会議員で公明党所属の関勝則さんが公明党の代表質問をするというので市議会を傍聴しに行く。同じ我孫子市民で元社会保険庁の中西富夫さんも傍聴に行くという。我孫子市民となって45年以上になるのだが市議会を傍聴するのは初めて。代表質問は1時間。これは質問時間が1時間ということで市側の答弁を加えるとほぼ2時間。関さんは社会保障中心に高齢者への就業支援や我孫子市での地域包括ケアシステムについて質問、市側から前向きな答弁を引き出していた。ただ市民の傍聴は私と中西さんの2人だけ。議会の開催時間もウイークデイの昼間。これでは日中、仕事を持っている市民は傍聴できないし、第一、普通の市民は市会議員への道を実質的に閉ざされていると言えないだろうか。市議会の夜間の開催は検討されてよい。

9月某日
図書館で見かけた「村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝」(栗原康 岩波書店2016年3月)を読む。伊藤野枝は大杉栄の妻で関東大震災のときに甘粕正彦憲兵大尉らによって、大杉と大杉の3歳の甥とともに虐殺されたことで知られる。といって私もそれ以上のことは知らない、ということもあって読むことにした。読み始めて「評伝」にしては文体がやけに軽いことに気が付いた。「はじめに」で著者の栗原は伊藤野枝について「やりたいことだけやって生きていきたい。ただ本が読みたい、ただ文章が書きたい、ただ恋がしたい、ただセックスがしたい、もっとたのしく、もっとわがままに。(中略)不倫上等、淫乱好し」と書く。ちょっと町田康の文体を思い浮かばせるものがある。著者の栗原は1979年生まれ。まだ40歳になっていない。早稲田の政治学の大学院博士課程満期退学という学歴ながら現職は東北芸術工科大学非常勤講師のみ。栗原は恐らく伊藤野枝を自分の理想の女性像として描いている。それがとても生き生きと描かれているということは、栗原の力量はもちろんのこと伊藤野枝という人格とアナーキズムという思想の魅力なんだと思う。

9月某日
尾久で訪問介護事業所を経営している馬木君から幕張メッセで開かれる「医療と介護」をテーマにした展示会に誘われる。東京駅の京葉線ホームで待ち合わせて海浜幕張へ。中村秀一さんの講演を聞いたところで久しぶりの人混みに疲れてしまい退散。上野駅のエキュートの「はいり屋」で馬木君にご馳走になる。馬木君とは学生時代、練馬区江古田にあった学生寮「国際学寮」で一緒だった。馬木君は上智大学で大学は違ったのだがよく吞みに行った。馬木君は卒業後、仕事をしながら鍼灸師の資格を取得、介護保険のスタート時にケアマネジャーの試験に合格、尾久で訪問介護事業所を開業した。がんが見つかったりいろいろ大変らしいが、介護事業所の経営は順調のようだ。

モリちゃんの酒中日記 9月その1

9月某日
図書館で見かけた「Black Box」(伊藤詩織 文藝春秋 2017年10月)を借りて読む。ジャーナリスト志望の若い女性が、TBSワシントン支局長の山口敬之氏に薬物で意識を失わされ、ホテルで強姦されたと記者会見したことは記憶に新しい。しかしその後、森友・加計学園問題、日大アメフト事件、ボクシング連盟や体操協会の一連の騒動が続き、伊藤詩織さんの事件は忘れ去られた。まぁ私も忘れ去った一人ではあるのだが。事件の真偽のほどは分からない。山口氏は不起訴処分になり、伊藤さんが申し立てた検察審査会でも「不起訴相当」とされたことから、起訴に相当する犯罪性はないという判断がされたということであろう。だがいったんは山口氏の逮捕の決断をした警視庁が当時の刑事部長の判断で逮捕を見送り、その刑事部長が菅官房長官の秘書官の務めたことや、山口氏が安倍政権と近いジャーナリストとみられていることから、逮捕の見送りに何らかの「忖度」がされた可能性も否定できない。伊藤さんは現在、民事で山口氏に1100万円の損害賠償を求めているという。正邪、理非曲直を明らかにすべきなのに、それが有耶無耶にされたり隠蔽されたりすることが多すぎないか。これは日本社会の劣化につながる問題だ。

9月某日
図書館で借りた「ギケイキ② 奈落への飛翔」(町田康 河出書房新社 2018年7月)を読む。2016年に上梓された「ギケイキ 千年の流転」が面白かったのでね。「ギケイキ」とは「義経記」つまり源義経とその主従を中心に描いた室町時代初期に成立した作者不詳の軍記物を下敷きにした町田の創作である。義経はじめ登場人物が現代語というか「町田語」を話し、それが何とも物語にリアリティを与えている(と少なくとも私には思える)。「ギケイキ②」では義経が源頼朝の対面を許されず京に帰り、頼朝の命により義経邸を襲撃する土佐房正尊の一隊を撃退、四国への撤収を図るが嵐に阻まれ吉野へ逃れ、愛妾静御前と別れるまでが描かれる。「ギケイキ」と「義経記」はどれほど違うのか、図書館で岩波書店の「日本古典文学大系」の㊲「義経記」を借りて調べてみる。奥付を見ると初版は1959年5月、1977年で16刷発行とあり、定価は2100円であった。ちなみに「ギケイキ②」は1700円+税だから、日本古典文学大系は当時としてかなり高価だったことが分かる。
月報が添付されていたが、何と巻頭は柳田国男のエッセーである。柳田先生は「義経記」は関東の土には合わなかったと述べている。確かに義経は京の鞍馬山で修業し、奥州藤原氏に庇護され、頼朝挙兵の報に関東に馳せ参じるが、すぐに平家追討のため西国を転戦する。関東にはあまり縁がなかったようだ。頼朝に異心のないことを伝えるために関東に赴くが面会は許されない。「ギケイキ②」の物語はここから始めるのだが、当たり前だけど大筋は「義経記」のストーリーを踏襲している。町田は古典文学の「義経記」を読み込んだ上で「ギケイキ」を創作した。当時の義経の心情と現代の私たちの心情が交錯するような文体、なかなかたいしたものだ。

9月某日
図書館で借りた「デジタル資本主義 未来予測の決定版」(此本臣吾監修 森健 日戸裕之 東洋経済新報社 2018年4月)を読む。AIやロボットの普及で社会はどうなるのか、最近とても気になるので興味深く読んだ。「年間2%の物価上昇」という日銀、アベノミクスの公約はさっぱり実現されないが、私は漠然とICT化などによって経済構造が変化している影響ではないか?と思っていたが、本書でも同じようなことが指摘されていた。「イントロダクション」で「GDPでは捉えきれないデジタル化の影響」として野村総研(NRI)の「1万人アンケート調査」の調査結果が紹介されている。それによると2010年頃を境に、自分の生活レベルが「上」、あるいは「中の上」である回答が増えているという。これらの回答者に共通しているのは「インターネットで生活情報、お得情報を集めることで賢い消費ができるようになった」と回答していることである。ITの活用により、「賃金の伸びがなくとも生活水準を高く維持している様子が定量的に」実証されている。デジタル化により消費者はインターネットで価格を徹底比較できるようになったため、「モノの製造コストは変わらなくても価格だけがどんどん押し下げられ」ている。レコードやCDの音楽コンテンツもデジタル化により複製コストはほぼゼロになり、生産コストも劇的に低下する。「アナログ時代と同じ機能を持つ製品でも、デジタル化によって価格とコストが大幅に切り下げられ」のである。
デジタル化が主導する、本書で言うデジタル資本主義は商業資本主義→産業資本主義の次に位置づけられる。私が最も興味をそそられるのは、デジタル資本主義によって資本主義は変化するにせよその変化は「革命的」なものなのだろうか、ということだ。本書では柄谷行人の「世界史の構造」を援用しながら「交換様式と社会構成体」を次のように分類する。【A・共同体(互酬:贈与と返礼)】【B・国家(略取と再分配:支配と再分配)】【C・資本(商品交換:貨幣と商品)】。A~Cは現代社会では併存しているが、最も支配的な交換様式はCである。ちなみに現代でいうAはプレゼント、歳暮、中元、無償ボランティアなどで、Bは社会保障や国防、治安維持があげられる。柄谷によるとDの領域は「理念的なもの」としているが、概念としては普遍宗教、社会主義、無政府主義、カントが提唱した世界共和国を挙げている。本書ではデジタル資本主義はDの領域を生み出そうとしているとする。デジタルは単なる技術であるだけでなく、社会や経済システム、さらに価値観にも変革を促す存在である、と本書はいう。まぁそうなんだろうね。だとしたら我々は原子力という技術を、正しい意味で使いこなしていないということを思い出す必要もあるのじゃないか。

9月某日
「禅とジブリ」(鈴木敏夫 淡交社 2018年7月)を読む。鈴木敏夫は「魔女の宅急便」や「もののけ姫」など多くのアニメ動画をヒットさせた敏腕プロデューサー。ウイキペディアによると1948年愛知県生まれ。慶應大学文学部を卒業後、1972年徳間書店入社とある。私と同年であるし、私も1972年に早稲田大学政経学部卒業、徳間書店の入社試験を受けて面接で落とされた。それはさておき本書は鈴木と禅宗の和尚さん、龍雲寺住職の細川晋輔和尚、円覚寺派管長の横田南嶺師、福聚寺住職の玄侑宗久和尚との対談集である。細川和尚はスタジオジブリの作品を観て育った世代。横田師は筑波大卒で世襲ではなく禅の道に入った。玄侑和尚は慶應大学中国文学科卒後、様々な職業を体験の後、京都の天龍寺で修業、芥川賞作家でもある。あらゆる宗教はそうなのだろうが、禅には深い精神性が感じられる。それと昔、天龍寺の平田精耕管長に講演をお願いに行ったとき「仏教は宗教というより哲学なんだ」と言われたことが印象に残っている。スタジオジブリの作品は見たことはないが、たんなる娯楽作品を超えて深い精神性と哲学を備えているのではないか。それがヒットした理由のひとつでもあろうと思う。