モリちゃんの酒中日記 2月その1

2月某日
図書館から借りた「異次元緩和の終焉-金融緩和政策からの出口はあるのか」(野口悠紀雄 日本経済新聞出版社 2017年10月)を読む。野口悠紀雄は中公新書の「『超』整理法」や週刊新潮に連載されていた「世界史を創ったビジネスモデル」を読んだくらい。アベノミクスを支える異次元緩和を野口はどう評価をしているのかという興味から読み始めた。有効求人倍率が過去最高となり、円安株高も進んでいる。人手不足感から春の賃上げも2%に届きそうな勢いだ。しかし野口はこれらは誤った政策の結果に過ぎず、金融の異次元緩和というカンフル剤が日本経済を支えているに過ぎないとする。野口の経済理論を私が十分に理解したとはいいがたいが、産業の構造改革を伴わない異次元金融緩和は大いに疑問だ。本書でも明らかにされているが、今、アメリカでもっとも株の時価総額が高いのはアマゾンで2番目はグーグル、どちらも20年前には存在しないか、吹けば飛ぶような会社だった。対して日本はソフトバンクを除けば、時価総額上位は20年前とほとんど変わらない。著者は「日本は、産業構造改革という手術をせずに円安という麻薬を飲んでごまかしてきた」とする。労働力が減少している今、そしてロボットやICT、AIの技術開発が飛躍的に進んでいる今こそが生産性を高めるチャンスであろう。野口悠紀雄の考えに私は賛成である。

2月某日

図書館で借りた「日本の路地を旅する」(上原善広 文藝春秋 2009年12月)を読む。ここでいう路地とは被差別部落のことである。和歌山県、新宮出身の中上健次が自身のルーツの存在を路地と呼んでいた。上原は昭和48年、大阪府南部の更池という路地に生まれた。父は食肉を扱っていた。著者は幼い時に更池を離れるのだが、路地の魅力に魅かれて、離れた後も兄と一緒に更池を訪ねる。成人してからは全国の路地を歩く。本書は著者のルーツと成人してから路地の旅のドキュメントである。上原はあからさまにと言っていいほどに被差別部落の過去と現在を描く。上原自身が被差別部落の出身であるからできることと言えるかもしれない。上原がとまどいながら手探りで路地をたどる姿には好感が持てる。上原は自身の心境を「路地の歴史は私の歴史であり、路地の悲しみは、私の悲しみである。私にとって路地とは、故郷というにはあまりに複雑で切ない、悲しみの象徴であった」と綴るのである。

2月某日
図書館で借りた「石垣りん詩集」(伊藤比呂美編 岩波文庫 2015年11月)を読む。石垣りんの名前は知っているが詩はほとんど知らない。今度初めて詩を読んで「あぁいいな」と思った。表現が直截的でわかりやすく、そして私には彼女の独特な抵抗の姿勢が気に入ってしまったのである。伊藤比呂美の解説によると石垣りんは1920年生まれ(1923年生まれの私の母と同世代)、14歳で高等小学校を卒業して日本興業銀行に就職、55歳で定年退職して2004年、84歳で亡くなっている。高小を卒業して大銀行に就職したということは、お勉強はできたが家には上級学校に進学させる余裕がなかったということであろう。実際、父が病気に倒れ、弟は失職するなど一時、一家の生活は彼女の興銀での月給に支えられる。そのころの生活を描いた詩を抜粋しよう。

 縦二十糎
 横十四糎
 茶褐色の封筒は月に一回、給料日に受け取る

 一月の労働を秤にかけた、その重みに見合う厚味で
 ぐっと私の生活に均衡をあたえる
 分銅のような何枚かの硬貨と紙幣、 (月給袋)

 半身不随の父が
 四度目の妻に甘えてくらす
 このやりきれない家
 職のない弟と知能の遅れた義弟が私と共に住む家  (家)

生活には余裕はなかったが、石垣りんは積極的に組合活動に参加し、戦争反対を訴える詩を組合の機関誌に発表する。

 平和 
永遠の平和
平和一色の銀世界
そうだ、平和という言葉が
この狭くなった日本の国土に
粉雪のように舞い
どっさり降り積っていた。 (雪崩のとき)

分かりやすい。彼女の同世代の男たちの多くは戦地で死に、女たちも空襲に晒された。私の母の生前「シゲオ、戦争だけはやっちゃだめよ」と言っていたっけ。

モリちゃんの酒中日記 1月その5

1月某日
寺岡さん、本郷さん、角田さんと我孫子のレストラン「コビアン」で待ち合わせ。「コビアン」に着くと3人ともすでに来ていてビールを飲んでいた。土曜日のお昼時で「コビアン」は大繁盛。私たちはビールからワインへ。角田さんは前橋高校から確か都立大学に進学、石油連盟に勤めて何年か前に退職した。前橋では鈴木基司さんや小峰さんの仲間で、その縁から仲良くなった。本郷さんは角田さんと石油連盟時代の知り合い。本郷さんは石油連盟を早くに辞めて石油関係の会社に勤めていた。本郷さんの友達が寺岡さん。やはり石油関係の会社にいて、今も足利の会社に週何回か出社しているようだ。寺岡さんは一番の年長で80歳くらい。本郷さんは昭和21年生まれ、角田さんは22年生まれ、私が23年生まれだ。昼飲みするにはちょうど良い仲間だ。ワインをかなり飲んだが勘定は1人1600円。安い!

1月某日
西部邁の生前、最後の単行本となった「保守の真髄-老酔狂で語る文明の紊乱」(講談社現代新書 2017年12月)を読む。書店のレシートが本に挟まっていた。それによると去年の12月19日に買っている。そのうち読もうと枕元に積んでおいた。西部の自死の報を聞いて読むことにする。西部は頸椎摩滅と腱鞘炎から筆記をできなくなり本書は娘さんの西部智子さんによる口述筆記でまとめられている。口述筆記ではあるが最後の書にふさわしい内容と私には思える。深い絶望感が本書には溢れている。だがその深い絶望感はもっと深い愛、妻や家族、友人に対する愛に裏付けられていると私には感じられる。

1月某日
唐牛健太郎の未亡人の真喜子さんとは何年か前に浪漫堂の倉垣君に紹介してもらい、その後何度か一緒に呑んだことがある。唐牛さんは西部とも仲が良かったので気落ちしていないか電話することにする。「アトモス」という唐牛さんの会社に電話する。電話に出た唐牛さんと思しき女性に「モリタですけど」と伝えるが話が通じない。女性が「唐牛さんは昨年11月に亡くなりました」と言うではないか。驚愕である。一昨年の秋だったか佐野真一の「唐牛伝」の出版記念パーティでお会いしたときは元気そうだったのに。高橋ハムさんに電話すると「そうなんだよ」。毎年7月に高橋さんたちが函館の唐牛健太郎の墓参りをしている。高橋さんは「そん時お前も来いよ」と言ってくれたけど。

1月某日
御徒町の駅前、スーパー吉池の吉池食堂で年友企画の社員だった村井由美子さんと現在、年友企画の総務を担当している石津さん、それと京都大学産学官連携本部の東京事務所長の大谷源一さんと呑む。村井さんとは久しぶりで楽しかった。帰りに我孫子駅前の「愛花」に寄る。

1月某日
神田駅南口の「葡萄舎」は年友企画の入社以来通っているお店。社会福祉法人にんじんの会事務長の伊藤さんと待ち合わせ。店長のケンちゃんが「この間、カメラマンの岡田が来ていたよ」と言う。カメラマンやデザイナー、編集者、イラストレーターなどが集まる店だった。伊藤さんは3月いっぱいでにんじんの会を辞めるという。伊藤さんは私より1歳うえだから無理もないけれど。

1月某日
「月のしずく」(浅田次郎 文春文庫 2000年8月)を読む。単行本は1997年10月、初出は「オール讀物」などで1996~1997年。浅田は1951年生まれだから著者45~46歳ころの作品である。97年上半期の直木賞を「鉄道員(ぽっぽや)」で受賞しているから、受賞前後の作品であろう。浅田の小説には外れがない。というか「あざとい」くらいに上手いと私は思うのだ。表題作「月のしずく」の主人公は、コンビナートで働く「蟻ン子」と呼ばれる荷役労働者、ひょんなことから若いホステスを匿うことになる。ホステスは妊娠中で主人公は腹の子供の父親になろうと決意する。主人公は勤労学生だったり功成り名遂げた会社社長で会ったりするのだが、まぁ常民である。その常民に注ぐ作者の視線が、とてつもなく優しいのだ。

モリちゃんの酒中日記 1月その4

1月某日
図書館で借りた「榎本武揚と明治維新-旧幕臣の描いた近代化」(黒崎秀久 岩波ジュニア新書 2017年12月)を読む。榎本武揚は戊辰戦争の最後の戦闘となった五稜郭の戦い(箱館戦争)の幕軍側の総司令官。下士官以上の入札(投票)によって蝦夷共和国の初代総裁に選ばれている。敗戦後、官軍に捕らわれるが2年半の投獄生活を経て、明治政府の高官に登用され、ロシア全権公使や逓信大臣、外務大臣などを歴任する。榎本は1836(天保7)年8月、旗本の次男として俗にいう三味線掘(今の浅草橋当たり)で生まれる。家格は5人扶持55俵というから御家人であろう。幕末の面白いところは薩長にしろ幕府にしろ、それまでの厳格な身分制を支配者自身が壊し、家格にとらわれることなく才能、力量のある者を積極的に登用した点であろう。榎本は若くして秀才の誉れ高く18歳で昌平黌を卒業後、箱館奉行の小姓として蝦夷地(北海道)、北蝦夷地(樺太)の巡視に同行している。このころから北海道に縁があったのである。その後、長崎海軍伝習所で西洋式海軍兵学を学ぶとともにオランダ語と数学を学ぶ。27歳から32歳まで1862~1867年の5年間、オランダに留学して航海術、蒸気機関学、鉱物学、化学、電信技術を学ぶだけでなく国際法も学んでいる。帰国してほどなく鳥羽伏見の戦いが勃発、榎本は幕府海軍を率いて大阪湾、江戸湾さらに東北と転戦を重ねる。五稜郭の敗北後、榎本は自決を図るが部下に止められる。箱館戦争の官軍側の総指揮官が黒田清隆で、黒田が榎本の才を惜しんで除名嘆願に奔走したという。明治の近代化に榎本の知識と才能、統率力が不可欠と見たのであろう。

1月某日
一般社団法人セルフケアネットワークの日本橋小舟町の事務所を訪問。厚生労働省OBの川邉新さんに今後の課題についていろいろとアドバイスをもらいたいという高本代表の意向で、私もそれに付き合う形。一時間ほど議論をした後、食事をしに行く。川邉さんは日本橋にある製薬工業会の常務をやっていたことがあるのでこの界隈には土地勘があるという。昼飯はもちろん夜も飲みに通っていたという蕎麦屋があるというのでそこに行くことにする。日本橋堀留町の「高松」という蕎麦屋である。川邉さんお勧めの焼酎のそば湯割りに赤唐辛子を入れた「そば金魚」を頼む。口当たりが良く4杯ほどいただく。刺身や「納豆座布団」「卵焼き」などのつまみ、締めのそばもおいしかった。庶民的な雰囲気も◎。川邉さんにすっかりご馳走になる。

1月某日
大学の同級生で弁護士の雨宮英明君に電話。5時頃事務所を訪ねる。雨宮君の事務所は西新橋の弁護士ビルにあり、私が今お世話になっているHCMから歩いて5分ほど。10分ほど世間話をした後で近くの「花半」へ。ここは私が昔、よく使っていた店で雨宮君もたまに来るようだ。日本酒をぬる燗でいただく。雨宮君は昔から日本酒党だ。新橋駅から上野-東京ラインで我孫子まで帰る。我孫子駅前の「愛花」に寄る。看護大学で助教をやっている「佳代ちゃん」が来ていた。

1月某日
西部邁が多摩川で入水自殺した。78歳だった。西部は札幌南高校出身で一浪後、東大に進学。60年安保のときは教養学部の自治会委員長。唐牛健太郎などとともに60年安保のリーダーの一人だ。西部の著書「60年安保センチメンタルジャーニー」に詳しい。西部の著作はかなり読んだ。若いころはブントの活動家、大学院に進学し東大教授として論壇にデビューしたころは反米保守の論客になっていた。ブッシュのイラク侵攻に対しては反対の急先鋒であり数少ないフセイン擁護派だった。そうか、西部は一貫して少数派だったんだ。東大教授を辞めたのも教授会の多数派と喧嘩したのが原因だった。札幌南高の親友の一人が在日朝鮮人で後にヤクザとなっているが、これも少数派。落語家の立川談志とも交流があったが談志も落語協会の多数派に反旗を翻し「立川流家元」を称していた。

モリちゃんの酒中日記 1月その3

1月某日
図書館で借りた「吉田松陰の時代」(須田努 岩波現代新書 2017年7月)を読む。吉田松陰の評伝を読むのは、は小学校のとき学校の図書館で借りた偉人伝シリーズ以来。内容は覚えていないけれど同級生の佐藤寿男君(秀才、後に東北大学に進学)が「ヨシダマツカゲ」と読んだことを思い出す。著者の須田は日本近世史、近代史を専攻する明治大学情報コミュニケーション教授。幕末の長州藩、山鹿流兵学師範の家に生まれた吉田松陰は維新の英雄を輩出した松下村塾を主宰し、30歳にして安政の大獄で処刑された……程度の知識しか私は持ち合わせていない。しかし高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、前原一誠らが松下村塾に学び、松陰の考えや行動に大いなる影響を受けたのは事実であろう。須田は後世、神格化された松陰像からできる限り余分な修飾を剥ぎ取り実像に迫ろうとする。
松陰は文政13年8月に生まれる。西暦では1830年、7月にはフランス7月革命が勃発し9月には維新の元勲、大久保利通が生まれている。4年後の1834年には江藤新平、橋本左内、近藤勇が生まれているが、近藤は戊辰戦役の渦中に官軍に捕縛され斬首、江藤は佐賀の乱に敗れ処刑、橋本は松陰と同じく安政の大獄に連座し刑死している。幕末の志士のなかには、運よく明治維新を乗り切って名誉や財産を手に入れた人も多くいたであろうが、志、半ばにして死んでいった人も少なからずいたのである。松陰もその一人である。さて本書を読んだ感想であるが、松陰は尊王攘夷の思想家としては未熟、革命家としては軽率、教育者や指導者としては未完と言わざるを得ない。しかしその現場主義~足跡は長崎、平戸から水戸、仙台、弘前にまで及んでいる~とことに当たる純真さには驚嘆せざるを得ない。未熟さや軽率さは「青春」の美質と言えないこともないのである。

1月某日
「音楽運動療法研究会」を新宿駅南口の貸会議室で。会場に行くと事務局長の宇野裕さん、委員長でドクターの川内先生がすでに来ていた。音楽療法士の丸山さん、研究のスポンサーである社福協の本田常務、特養の施設長の黒沢さん、依田さんが来て全員が揃う。音楽療法は多くのデイサービスなどの高齢者施設で実施されているが、言葉の定義そのものが曖昧なうえ効果測定も十分になされているとはいえない。この研究が「音楽運動療法」にスッポトがあたるきっかけの一つになればと思う。研究会を終えて近くの台湾料理の店「夜来香」で新年会を兼ねた食事。日曜日の夜にもかかわらずお店は満員なだけあって、料理はとてもおいしかった。依田さん、黒沢さんの現場の話はとても刺激的だった。介護保険の施設として介護医療院というのが新設されることになったが、現場の2人からは疑問の声が。こういう話を聞けるのはとても貴重。

1月某日
HCMの平田高康会長を偲ぶ会を霞が関ビル35階の東海大学校友会館で行う。4時スタートだが会場の確認があるので30分ほど前に会場へ。長男の高也さんが遺影を持ってきてくれる。年住協の川崎元理事長の献杯の挨拶で会はスタート、社会保険研究所の川上会長の挨拶に続いてHCMの川島美幸取締役がしんみりと平田会長を偲ぶスピーチをしてくれた。HCMの元常務の中村さんはじめHCMの元社員やカメラマンの和田さん、結核予防会の竹下さんが会長の思い出を語ってくれた。HCMの大橋社長はインフルエンザで急遽出席できなくなったのでメッセージを私が代読、最後に高也さんが謝辞を述べて会はお開きに。平田会長の人柄があらわれた温かい「偲ぶ会」であった。

1月某日
「消費低迷と日本経済」(小野善康 朝日新書 2017年11月)を読む。小野は東京工大社会工学科出身で大学院は東大、博士号は東大から経済学博士。今までの言動からすると正統派のケインジアンの印象が強い。と言っても私がケインズ経済学に造形が深いわけではないので、「不況のときは政府が公共投資でじゃんじゃん金を使うべき」と言っていたような記憶がするだけなのだが。私は戦後最長とも言うべき景気回復局面を迎えていると言われながら、実感に乏しいのは多くの庶民が認めるところだろうし、2%という物価上昇の目標も依然として達成できていない現実とのギャップ、それを小野善康はどう解くのかという興味から本書を読み始めた。日銀が異次元の金融緩和で金利を引き下げ、貨幣量の流通を増やしても物は売れず、物価も賃金も上がらない。小野によれば物不足の時代、高度経済成長期ならばこの理論は通用したが、とりあえず物はそろっていて人々はお金を持っている今、この理論は通用しない。この辺りは水野和夫の経済理論とも似ている。小野は菅直人の水野は仙谷正人の経済ブレーンを務めているから二人とも民主党系? 小泉内閣のブレーンだった竹中平蔵、安倍内閣の参与を務める浜田宏一などは新自由主義になるのだろうか?それはともかく、小野の消費税を上げて公共サービスを質量とも確保すべしという主張はうなずける。小野は成熟社会におけるあるべき財政支出の特徴として①生産力の増強や金儲けではなく、国民の生活の質の向上に結びつく②民間の製品の代替品でない③安定した雇用創出を継続的に保証するものとしている。芸術・観光インフラと並べて教育・保育・医療・介護・健康を上げている。同感である。

モリちゃんの酒中日記 1月その2

1月某日
新宿の「ジャックの豆の木」の常連だった橋本さんと神田駅の西口で待ち合わせ。近くの「天狗」という居酒屋へ入る。チェーン店の天狗とは「別です」と店員。橋本さんは元渋谷区の職員。今は沖縄で基地反対闘争にかかわっている。渋谷区の職員のころは職員組合の活動家だったし、若いころは三里塚に常駐していたことも今回初めて知った。戦いの現場が似合う人なのである。新宿のホテルに泊まっている橋本さんとは神田で別れ、私は根津の「ふらここ」へ。

1月某日
図書館で借りた「飼う人」(柳美里 文藝春秋 2017年12月)を読む。柳美里は1968年神奈川県生まれ。「家族シネマ」で芥川賞を受賞。私は日本統治下の韓国のマラソン選手と従軍慰安婦にさせられた娘との恋愛を描いた「8月の果て」や原発事故で非難を余儀なくされ家族も崩壊した農夫を描いた「JR上野公園口」などが記憶に残っている。本作はペットとして小動物を「飼う人」がテーマ。「イエアマガエル」は避難地域の近郊に引っ越してきた少年と柳美里と思しきその母、そして母子に飼われるイエアマガエルの物語。小動物との関係を通して家族関係や人間関係の本質、支配と被支配について考えさせる作品だ。

1月某日
「革命的福祉革命論」(栗原徹 文芸社 2012年3月)を図書館で借りて読む。著者は1959年岡山大学法文学部卒業、日本信販(現三菱UFJニコス)入社、常務、専務を経てコンサルタント会社を設立、1999年社会福祉法人エスポワールわが家の設立に就任、デイサービス、グループホームの経営に従事という経歴。つまり営利企業の経営者の感覚で社会福祉法人の経営を見直したらというのが主要なテーマ。しかも著者は日本福祉大学や社会事業大学の通信課程で福祉経営論も学んでいる。グループホームやデイサービスの2種福祉事業は営利企業の参入が認められ、社会福祉法人といえども厳しい市場競争にさらされている。ケアの質を上げながらどうやってコストダウンを図り、市場競争に打ち勝っていくかという一貫した問題意識に支えられている。著者の経営する社会福祉法人は我孫子市新木にある。機会があれば見学したい。

1月某日
「ビギナーズ地域福祉」(牧里毎治・杉岡直人・森本佳樹編著 有斐閣 2013年8月)を図書館で借りて読む。編著者の森本先生は立教大学コミュニティ福祉学部教授で、同学部客員教授の石川はるえ(社福)にんじんの会理事長の同僚だったが、昨年亡くなっている。石川さんから何度か先生の人柄などを聞いたことはあるのだが、実際に会って話したことはなかった。私も今年70歳になるので余命は長くて20年。いろんな人と会えるとき、話せるときに会ったり話したりしないとね。森本教授は第7章「地域福祉実践とは何か」、第8章「地域福祉の基盤整備と情報化」、第9章「地域福祉計画と地域包括ケア」を執筆している。「地域福祉」について、従来の社会福祉の概念には位置付けられないが地域住民にとって有益なものを提供する、地域住民にとっての困りごとを解決することと整理している。著者によると「社会福祉」は狭義の福祉(つまり、制度化されている部分)で、地域福祉は広義の福祉(制度化されていないものも含む)とされる。高齢化と労働力人口の減少が進む中で、ますます地域福祉が重要になってくると思われる。

1月某日
図書館で借りた「人物ノンフィクションⅠ 1960年代の肖像」(後藤正治 岩波現代文庫 2009年4月)を読む。後藤は1946年生まれ、京大農学部卒のノンフィクション作家。私は「清冽 詩人茨木のり子の肖像」を読んだ記憶がある。本書には吉本隆明のことを書いた「海を流れる河」が掲載されているので読むことにした。吉本の評伝ではなく埋もれていたエピソードを発掘して積み重ねたドキュメントである。後藤の著す吉本のエピソードはその飾らぬ人柄を示してどれも興味深かったが、勁草書房版の吉本隆明全著作集を個人編集した川上春雄について触れているところが私の目を惹いた。川上は会津若松の市役所に勤務しながら吉本の全著作だけでなく初期の草稿の類まで蒐集している。思想家でもなく研究者でもなくである。そういう人ってすごいと思う。本書では他に藤圭子、ファイティング原田、ビートルズ&ボビー・チャールトン、シンザンを巡る人々が掲載されているが、どれも読み応えがあった。

モリちゃんの酒中日記 1月その1

1月某日
正月だが初詣もせず初日の出を見に行くでもなく普段と同じ休日。テレビのザッピングと読書。テレビに関してはBSが地上波とは一味違う番組を放映していると感じた。大みそかに見たBSNHKの黒澤明特集の「七人の侍」はさすがであった。侍のリーダー、志村僑が「本当に勝ったのは百姓よ」と語っていたのが印象的だった。映画が製作された1950年代は民衆史観が素直に信じられていたのだろうか?
図書館で借りた「いまも、君を想う」(川本三郎 新潮社 2010年5月)を読む。川本は東大法学部卒業後、朝日新聞社に入社。朝日ジャーナルの記者のとき全共闘運動の取材の過程で致命的なミス犯し、朝日新聞社を解雇される。のちに妻となる恵子との婚約解消を申し出るが彼女は「私は朝日新聞社と結婚するのではありません」と揺るがなかった。7歳下の恵子が癌で逝ってしまう。30余年の結婚生活、足掛け3年となる闘病生活を切々と振り返る。「なぜもっと早く異常に気づかなかったのか」と何度も悔やむ。私も自分の奥さんより長生きしたいとは思わない。私の奥さんは酒もたしなまず、ほとんど病気らしい病気をしたことがないので多分、大丈夫とは思うのだが。
鷺沢萠の「大統領のクリスマスツリー」(講談社 1994年3月)を読む。ワシントン留学中に知り合った治貴と香子は、クリスマスのデートでホワイトハウス近くの大統領のクリスマスツリーを見に来る。やがて治貴と香子は結婚。治貴はアメリカで司法試験に合格し弁護士となる。ストーリーの大半はアメリカで成功し家も手に入れ、子供にも恵まれた夫婦の物語である。しかし夫婦の破綻を予感されるシーンで小説は終わる。鷺沢萠だからハッピーエンドで終わるはずはないと思っていたが、それにしても見事な展開と私には思える。鷺沢萠は1968年生まれ。2004年4月に自死。理由は明らかにされていない。

1月某日
思い立って初詣に行くことにする。まず家から歩いて10分ほどの香取神社へ。巫女(の扮装をした若い娘)が舞を奉納している。案内板に8代将軍の吉宗のころ創建されたとある。所有地の一部を市に売却、それが市立の緑保育園の敷地となり、売却益を活用して社殿を建て替えたとも書いてある。我孫子市に半世紀近く住んでいるが初めて知った。香取神社の次は公園坂通りの八坂神社に向かう。八坂神社も300年ほど前の創建。我孫子駅から各駅停車に乗って北柏へ。北柏駅から歩いて5分ほどの北星神社へ。北星神社は中世にこのあたり一帯を支配していた相馬氏ゆかりの神社らしい。八坂神社も北星神社もコンクリート造の立派な社殿だが、八坂神社の社殿は質素な佇まい。だが、八坂神社の夏祭りは何台も山車が出てとても盛んだ。北星神社から20分ほど歩いて我孫子ショッピングセンターへ。1階のベーカリーのコーヒーショップでカフェオレを頂く。4時になったので我孫子駅南口の「しちりん」へ。樽酒を振舞われる。

1月某日
図書館で借りた江國香織の「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」(集英社文庫 2005年2月)を読む。解説で山田詠美は「泳ぐのに、安全でも適切でもない所に、あえて飛び込んだらどうなるか。そのことについて考えてみる」と問題を提起する。山田は、もがき、苦しみ、溺れ、自分が生きているのか死んでいるのか解らなくなるが、解っているのは「いずれにせよ、自分が、ようやく水を獲得したということだ」とし、この短編集は「そのような水を獲得した人々の物語であると思う」と述べる。いくつかの愛の形を切り取った短編集。切り取った残りのストーリーを想像させる余韻に満ちた短編集である。

1月某日
机を置かせてもらっているHCM社の仕事始め。缶ビール、日本酒(越乃寒梅)、高そうなワインをいただく。ワイン通の三浦部長によると製造年からして旨いワインだそうだ。大橋社長に新橋駅烏森口のスナックに連れて行ってもらう。

1月某日
年友企画の仕事始めにお呼ばれ。ビール、日本酒、仕出しのオードブルを頂く。我孫子に帰って「愛花」に寄る。常連のソノちゃんが来ていた。ソノちゃんから新潟の日本酒、今代司とオカキを頂く。

モリちゃんの酒中日記 12月その5

12月某日
図書館で借りた「日本史に出てくる官職と位階のことがわかる本」(「歴史読本編集部編 KADOKAWA 2014年6月」を読む。日本史に出てくる官職とは太政大臣、左右大臣、大中小納言、越前守、伊豆守などであり、位階とは従一位、正三位などでいずれも朝廷から賜ることになっている。朝廷の官職とは別にときの政権から任命される官職もある。江戸幕府ならば老中、若年寄、町奉行、勘定奉行などである。厄介なのは江戸時代の大名や幕臣は、幕府の官職と朝廷から賜る官職と位階を二重に持っていた。例えば三代将軍の徳川家光は征夷大将軍と左大臣にして従一位の位階を持っていた。諸大名も同様で御三家の紀伊と尾張は極官(位の上限)を従二位大納言、水戸は従三位中納言とされた。ちなみに水戸黄門の黄門とは中納言の中国風の呼称である。加賀藩は従三位参議、彦根藩は正四位掃部頭、薩摩藩と伊達藩は薩摩守と陸奥守で従四位上というのが極官であった。薩摩と伊達、加賀藩や土佐藩などの雄藩は領地と官命の一致が見られるが、大半の大名にとって官名は実際の領地や幕府での役割とは関係がなかった。吉良上野介は上野(群馬県)に領地をもっていたわけではない。さらに大名は江戸城での控室でも細かくランク分けされていた。これらの差異を諸大名が十分に意識していたかどうかは分からない。でも浅野内匠頭が吉良上野介に江戸城内松の廊下で刃傷に及んだのも、この辺が背景にあったのかも知れない。

12月某日
御徒町のスーパー吉池の9階が「吉池食堂」。年友企画の石津さんと酒井さんと会食。食堂と名前はついているが夜は居酒屋状態。寿司、和食、洋食がそろって値段もリーズナブル。女子だけのグループも目に付く。2時間半、呑んで食べてしゃべった。我孫子で「愛花」による。

12月某日
フリーライターの香川喜久江さん、社保険ティラーレの佐藤聖子社長と神奈川県議の京島けいこ先生をインタビュー。地方議員を紹介する単行本の取材だ。神奈川県議会の民進党控室で名刺交換。思ったより小柄でとても気さくな印象。民主党の藤井裕久の選挙運動を手伝ったのが政治にかかわるようになったきっかけ。もともとは山梨県出身。地元の高校を卒業して事務職として病院に就職、20歳で結婚して出産、28歳で離婚。医療事務の経験を生かして損保会社に就職。現在は損保の代理店と訪問介護事業を営む。「私のたどってきた道を本にしてみたいんです」というだけあって波乱万丈の人生だ。女性や高齢者、障がい者、子供たちへの本物のやさしい視点がユニーク。東京へ戻って東京駅のガード下で結核予防会の竹下隆夫専務とフィスメックの小出社長と呑む。2次会は銀座のクラブへ。小出社長にすっかりご馳走になる。

12月某日
西新橋に新しくオープンした「Barrack st.64」というレストランに行く。共同通信の城記者と専門学校の事務長や財団法人の常務理事を歴任した大谷源一さんと一緒。このレストランはオーストラリアから食材を直輸入しワインも当然オーストラリア。私と大谷さんは白ワインをいただく。城さんは妊娠中のためソフトドリンク。雰囲気も味も◎のレストランだ。
食事を終わって私と大谷さんはレストランの目と鼻の先にあるHCM社へ。HCMで納会に参加。今年亡くなったHCMの前会長の平田高康さんの息子さんに挨拶する。「胃ろう・吸引シミュレーター」の開発者の土方さん、映像でフォローしてくれている横溝君も参加。HCMの大橋社長に大谷さん、土方さん、横溝君と私の5人で年友企画の納会へ。

12月某日
16時に年友企画の石津さんと品川駅で待ち合わせ。品川駅周辺は再開発ですっかり面替わりしてしまったが、港南口の一部にはかつての面影が残っている。中華食堂に入って石津さんはビール、私は日本酒。ナス炒めや皮蛋豆腐などを肴に飲む。私の奥さんが東京駅で買ってくれたスイーツを渡す。明日名古屋の友達を訪ねるので「お土産にしようかな」と言っていた。石津さんにご馳走になる。

12月某日
you tubeで美空ひばりのテネシーワルツを聞く。病に倒れる10か月ほど前、長野県佐久市の小さな音楽祭で歌ったものだ。伴奏の日野皓正がまたいい。ミュート(消音器)がわりに紙コップを使っている。テネシーワルツはもともとパティ・ペイジの持ち歌で白人ジャズの系統。日本では江利チエミの歌が有名であった。you tubeでもひばりは「亡き親友の江利ちえみを偲んで歌います」と語っている。でもひばりのテネシーワルツはパティ・ペイジともちえみとも違って、ブルースだ。続いて高倉健の唐獅子牡丹と網走番外地を聞く。

12月某日
唐獅子牡丹の歌詞について久世光彦が書いていることを思い出して、図書館で「歌が街を照らした時代」(久世光彦 玄戯書房 2016年 5月)を借りて読む。「読み人知らず」のタイトルのエッセーに「大きな声で歌えない歌、世を憚る歌というのも〈読み人知らず〉のことが多い」として「監獄ソング」のいくつかが紹介されている。1960年代から70年代にかけて、久世は池袋の人生坐や新宿の昭和館に通って「日本侠客伝」「唐獅子牡丹」などのシリーズを飽かずに見続ける。「三白眼の健さんを、とにかく撮りたかったのである」。翌朝のデモに出かける学生で映画館は一杯だったという記述もあるが、私もそんな学生の一人だった。耐えに耐えてついにドスを抜くという花田秀次郎(唐獅子牡丹の主人公)の心境に自己を投影していたのだろう。久世も健さんもひばりも死んだ。昭和は遠くなったのだ。

モリちゃんの酒中日記 12月その4

12月某日
後楽園ホールにボクシングを観戦しに行く。年友企画の迫田さんが大山社長からチケットを譲られ、それが私にも回ってきたというわけ。大山社長は印刷会社のキタジマの社長から招待されたということだ。5時半に水道橋駅で待ち合わせて会場に入る。6時から試合開始。第1試合はどちらもデビュー戦で初々しい。ちなみに席はリングサイドのS指定席でチケットを見るとなんと1万円だ。「右だ、右!」「腹狙え!」「足使え、足!」といった、声援なのか、コーチなのかよくわからない声が観客席からかかる。これは生の醍醐味ですね。セミファイナルを見終えたところで8時半から虎ノ門で打ち合わせがあるので残念ながら中座した。当日のメインイベントはWBOアジアパシフィックSライト級王座決定戦だったが、翌日の日経新聞のスポーツ欄にはべた記事扱いで数行報じられていた。会場の熱気との落差がまたいい。

12月某日
大学の同級生で弁護士をやっている雨宮君の呼びかけで同級生が集まった。いすゞ自動車の関連会社の会長をやった後、今イタリアで自動車関連の仕事をしている内海君、伊勢丹を定年まで務め今は悠々自適の岡君、それにクラスは違うが、女性の関さん。西新橋の弁護士ビルにある雨宮君の事務所に行くとすでに内海君が来ていた。弁護士ビルは私が今お世話になっているHCMから歩いて5分だ。岡君も顔を出して4人で会場に向かう。会場は弁護士ビル1階の「しゃぶしゃぶ芋つる」。富山料理の店である。お店には関さんがすでに来ていた。もしかしたら4人が顔を揃えるのはほぼ半世紀ぶりかもしれない。でも同級生ってのは面白いもので、話を始めるといつも会っているように話が弾む。おいしい料理と酒を楽しんであっという間の3時間だった。私以外は虎ノ門から私は新橋から上野-東京ラインで帰る。新橋から成田行きに座ることができた。我孫子で「愛花」に寄る。

12月某日
名月庵ぎんざ田中屋総本店で社福協の本田常務、内田さん、高橋さん、岩崎君、年友企画の大山社長、迫田さん、酒井さんと私のご苦労さん会を兼ねた忘年会。女性に人気のありそうな和食とそばの店。ビールで乾杯の後、福井の黒龍酒造の「九頭竜」をいただく。次に宮城の「蒲霞」。私の場合ですが日本酒は値段の高いものからいただくことにしている。酔ってだんだん味が分からなくなるからね。最後はぬる燗で締める。こう書くと日本酒にうるさい人のようだがそんなことはありません。ただ日本酒の「ジワーッ」とした酔い方が好きなだけ。本田常務から「皇室カレンダー」をお土産にいただく。

12月某日
図書館で借りた「無知の涙 増補新版」(永山則夫 河出文庫 1990年初版)を読む。1971年に合同出版から刊行されたものを河出書房新社が増補して文庫化した。永山は1949年、北海道の網走に生まれる。青森の中学を卒業後、上京。渋谷の高級果物店(多分、西村フルーツパーラー)の店員となる。その後、職を転々としてその間、横須賀の米軍基地から拳銃を盗み出し、その拳銃によって4人の連続射殺事件を1968年に起こす。1969年に逮捕され、1990年死刑確定。1997年に執行される。文庫本でも500ページ以上あり、文章も決して読みやすいとは言えず、読み終えるのに1週間以上かかってしまった。時間はかかったが私は永山という人に強く惹かれるものを感じた。1歳違いで同じ北海道出身ということもあるかもしれない。それ以上に共通点は、私は1969年の秋口、永山と同じ東京拘置所に拘置されていたということだ。本書によると永山は東京拘置所の4舎1階に拘置されていたとあるが、私は確か東京拘置所の4舎3階だったのではないかなぁ。永山と私の人生が東京拘置所で一瞬交差するのだ。当時の東京拘置所は東池袋にあり、その跡地にはサンシャインシティビルが建っている。1959年の9月、私は10数人の学生と一緒に早大の第2学生会館に立て籠り、機動隊の攻撃に火炎瓶や投石で抵抗したため逮捕起訴された。罪名は現住建造物放火、傷害、暴行、公務執行妨害、不退去だったと思う。もう半世紀も前のことだが、永山は刑死し私は何とか生きている。この差って何なんだろう。

12月某日
神保町にデザイン事務所を構えている三浦哲人さんと現在、その事務所に机を置いているフリー編集者の保科朋子さんが激励会を開いてくれるというので、神保町の「スタジオ・パトリ」を訪問。近くのこじゃれた料理屋さんに案内される。三浦さんと知り合ったきっかけは「海苔食品新聞社」の争議の支援がきっかけ。40年近く前の話である。当時、私は日本プレハブ新聞社という業界紙に勤め、三浦さんは確か檸檬社というエロ出版社の編集者だった。その後、三浦さんはデザイナーとして独立し、表参道の骨董通りに事務所を開き、私は年友企画に転職した。争議の支援共闘会議の同志という関係から編集者とデザイナーという関係に変わったわけだ。グリーピア津南のパンフレットや、年住協のリーフレットやってもらった記憶がある。

モリちゃんの酒中日記 12月その3

12月某日
新宿歌舞伎町にあったクラブ、「ジャックの豆の木」の元マスター、三輪さんは今、奥さんの実家のある鹿児島で暮らしているが、病気治療のためときどき東京に出てくる。慈恵医大の帰りに西新橋のHCMに寄ってもらう。HCMから烏森口へ。私が年友企画の前に勤めていた日本プレハブ新聞があったビルに案内する。そこは「魚金総本店」となっていた。せっかくなので「魚金総本店」で呑むことにする。歴博で見た日大闘争のルポライターの橋本克彦さんの映像の話をすると、三輪さんは「橋本さんと言えば」と携帯電話を取り出してもう一人の橋本さんに電話を入れる。もう一人の橋本さんとは「ジャックの豆の木」の常連で、当時、渋谷区の職員だった。「森田さん、職員向けの旅行優待チケットがあるんだけど来年度から廃止されるから行こうよ」と確か水上と鬼怒川温泉に行ったことがある。現在は沖縄に移住して基地反対闘争をやっているらしい。電話にでは会議中とのことだったが、来月上京するのでそのとき3人で会うことを約束。

12月某日
中村秀一さんの新刊「2001-2017年 ドキュメント社会保障」(発行・年友企画、発売・社会保険出版社)が刊行されて好評発売中だ。著者の中村さんが関わった人たちにお礼がしたいと、広尾のイタリアン「ラ・ビスボッチャ」に招いてくれた。編集を担当した年友企画の酒井さん、装丁の工藤強勝さん、帯の文章を書いてくれた慶應大学の権丈善一先生、それに私が招かれた。お店に酒井さんと連れ立って行くと、中村さんと工藤さんはすでに来ていてシェリー酒を呑んでいた。少し遅れて権丈先生が到着したところでシャンパンで乾杯、料理とワインとおしゃべりを堪能した。中村さん国際医療福祉大学の教授もやっているし、工藤さんは最近まで首都大学東京で教授としてデザインを講義していた。ということは私と酒井さん以外は大学教授か教授経験者ということになる。図らずも「ドキュメント社会保障」は私の年友企画での最後の仕事になった。「いい仕事をさせてもらった」と中村さんに感謝である。

12月某日
現在、お世話になっているHCM社の忘年会が西新橋の「虎ノ門パスタ」で。大橋社長、川島役員、三浦部長に社員2人、ゲストがデザイナーの土方さんと映像担当の横溝君。「虎ノ門パスタ」は床に銀杏の落ち葉を敷き詰めてしっかり冬化粧。土方さんは「胃ろう・吸引シミュレーター」の開発者、横溝君は映像その他でシミュレーターの販売をフォローしてくれている。川島役員から京都の漬物、土方さんから紅茶、三浦さんからは青森のスルメをお土産にいただく。2次会は烏森口の「陽」。久しぶりにカラオケを歌う。

12月某日
「40歳からの介護研修」の打ち合わせで日本橋小舟町のセルフケアネットワークへ。奈良県天理市のあいネットグループの中川社長とNPO法人つむぎの山本代表はじめ、関西から4人が参加、セルフケアネットワークの高本代表と私の6人。なかなか身のある議論ができたと思う。事務所の近くの「恭悦」で食事。日本酒をぬる燗でいただく。我孫子へ帰って「愛花」による。常連の市橋君とケイちゃんが来ていた。市橋君は今年、奥さんを亡くした。「立ち直れないよ」とポツリ。愛妻家だったんだ。市橋君がボトルを入れてくれる。

12月某日
「地方から考える社会保障フォーラム」の単行本の件でフリーライターの香川喜久枝さんとHCMの事務所で打ち合わせ。私はその後、7時半から虎ノ門で打ち合わせがあるので、虎ノ門界隈で2人で食事をする。「桂園」という中華料理屋に入る。中国人のやっている店だ。こういう店は値段の割に安い店が多いがこの店もそうだった。香川さんと別れ虎ノ門で打ち合わせ。打ち合わせ後、千代田線で根津へ。「ふらここ」へ寄る。佐倉の歴博へ行ったことなどを話していると、サラリーマンは引退したが、近所の子供たちに囲碁を教えている常連の大橋さんが来る。大橋さんが持ち込んだ新潟の日本酒をいただく。これも常連の板前さん、キヨチャンが作って持ってきてくれたというカラスミをママが出してくれる。日本酒に最高の肴であった。終電近くに我孫子に帰る。

モリちゃんの酒中日記 12月その2

12月某日
先週に続いて佐倉の歴史民俗博物館へ。先週は京成佐倉駅に「ふらここ」のママと「ふらここ」の常連の「ミヤ」ちゃんと14時半に待ち合わせた。企画展示の「1968年」(無数の問いの噴出の時代)を観るためだが、見落としたものが多くあるように感じたのと、今回は前回、買い求め損なった「資料集」を購入するため。前回はJRの金町から京成金町→京成高砂→京成佐倉というルートだったが今回は成田線で我孫子から成田、京成成田→京成佐倉というルートをとる。成田線の時間さえ合えばこちらのほうが早い。企画展示は明日で終了なので、平日なのにそこそこ混んでいた。学生らしい若い女性が数人、引率の教官らしき人に連れられてきていた。日大全共闘の映像をじっくり見る。やはり新宿の「ジャックと豆の木」の常連だったルポライターの橋本さんがアジ演説をやっているのが映っている。来週にでも元マスターの三輪さんに会うので報告しよう。資料集を購入して帰る。我孫子駅前の「七輪」で一杯。

12月某日
東大全共闘の代表だった山本義隆の「私の1960年代」(金曜日 2015年10月)を図書館で借りて読む。山本の1960年代は60年安保の年に東大に入学し、物理学の大学院に進学し学究の道を歩みながら大管法反対闘争やベトナム反戦闘争にかかわり、学園闘争の頂点だった東大闘争の代表を引き受けた10年間だった。大管法つまり大学管理法反対闘争の章に豊浦清さんのことが紹介されていた。豊浦さんは確か日比谷高校から東大に進学、第2次共産主義者同盟の結成に参加、政治局員となり後にマルクス・レーニン主義者同盟の幹部となった。東大闘争の安田講堂防衛隊長だった今井潔が国会議員になったとき秘書を務めた。私が知り合ったのは豊浦さんが秘書を辞めた後、社会保険研究所の関連会社の社長に就任したころだ。経歴とは関係なくちっとも偉ぶらない立派な人だった。数年前、がんで亡くなったが、そういえば「偲ぶ会」には山本義隆も来ていたっけ。「東大闘争のころの話、聞かせてよ」と私がせがんだら「俺、そのころ川崎に労働者として入ってたからよく知らないんだ」と答えられたことを覚えている。
「私の1960年代」は、東大闘争の話がメインであるのだが、山本は「なぜ、東大闘争に至ったか」を幕末、明治維新にさかのぼり論じている。日本の科学はそのころから軍事や産業の振興のためという性格が強かったということだろう。もうひとつ東大闘争が特異だったのは闘争の主体が院生や助手だったことだ。「学問とは何か?」を真剣に問いかけざるを得なかったのだ。翻って私の場合は浪人時代の1967年の10.8羽田闘争にショックを受け、1968年4月に早大に入学、4月にはべ平連のデモに参加、王子野戦病院反対闘争にも野次馬として参加した。5月のゴールデンウイーク前まではそれでも真面目に授業に出ていた覚えはあるけれど、6.15で日比谷野音で中核派と反帝学評が小競り合いを起こしたあたりから学生運動にのめり込んでいった。私が入学した政経学部の自治会執行部は反帝学評が握っており、行きがかり上私も反帝学評の青いヘルメットをかぶっていたのだ。7月の都学連大会の後、夏休みで帰省し、東京に戻ってきたら三里塚闘争が待っていた。「学問とは何か?」なんて真剣に問いかけることもしなかったし、だいたい授業もろくに受けていないのだから学問を論じる資格もなかったわけだ。

12月某日
桐野夏生の文庫本の最新刊、「奴隷小説」(文春文庫 2017年12月)を読む。単行本になったとき図書館で借りた記憶はあるのだが内容は覚えていないのがほとんど。私の記憶力に問題があるにせよ、読むたびに新鮮な気持ちで読めるというメリットもある。文庫本には解説が付いているが、奴隷小説は政治学者の白井聡が書いている。白井は1977年生まれの40歳。早大政治経済学部卒業、一橋大の大学院を満期終了、「永続敗戦論」「未完のレーニン」などの著書がある。白井は桐野の小説は平成のプロレタリア文学ではないかと論じる。「現代作家のうち、桐野氏こそ『階級』に『搾取』に、より一般的な言い方をすれば『構造的な支配』に、最も強くこだわっている書き手ではないだろうか」というのである。私はこの数年、桐野の小説に強く惹かれるものを感じてきたのだが、白井の解説を読んで「そういうことかも」と腑に落ちた。

12月某日
大谷源一さんと日暮里駅前の「いづみや」へ。10数席のカウンター席と小上がりにテーブル3つほどの店。大谷さんが来るまでに日本酒を常温で呑む。つまみはマグロのぶつとポテトサラダ。大谷さんが来る。大谷さんは長岡出張の帰りで日本酒をお土産にもらう。大谷さんは生ビールに肉豆腐を頼む。2時間ほど呑んで日暮里から常磐線で我孫子へ。駅前の「愛花」による。お土産にもらった日本酒をママに渡す。日本酒好きの常連「ソノちゃん」が来た時にでも呑みましょうということ。