モリちゃんの酒中日記 4月その3

4月某日
大学の同級生、雨宮君は卒業後司法試験に合格して検事に。その後、弁護士を開業した。現在のオフィスは西新橋の弁護士ビル。私が机を置かせてもらっているHCM社から歩いて5分ほどの距離だ。末っ子が早稲田大学の法学部へ入学、お祝いに家族でベトナム旅行へ行ってきたという。お土産があるというので弁護士ビルへ行くとベトナムコーヒーをくれた。ジャコウネコが食べたコーヒー豆を糞から取り出し、焙煎したものという。ありがたくいただく。弁護士ビル近くの「山本魚吉商店虎ノ門店」という日本酒の旨そうな店に入る。茨城県日立市の日本酒を頂く。雨宮君が西新橋1丁目の交差点まで送ってくれる。霞が関から千代田線で我孫子まで帰る。

4月某日
御徒町の台湾料理店「大興」で大谷さんと年友企画の石津さん、酒井さん、元年友企画の浜尾さん、村井さんと呑むことに。前日、京大理事の阿曽沼さんから京大の東京ブランチがある新丸ビル10階に5時に来てくれとのメール。神田の社保険ティラーレで「地方から考える社会保障フォーラム」の打ち合わせの後、新丸ビルへ。新丸ビル5階のバーへ。シャンパンとロゼ、ジントニックを頂く。京都へ帰る阿曽沼さんと東京駅で別れ御徒町へ。御徒町の「大興」には大谷さんと東京介護福祉士会の白井幸久さん、埼玉福祉専門学校の飯塚さん、石津さん、酒井さんが来ていて盛り上がっていた。金曜日の夜ということもあって、私の入る余地がない。大谷さんを誘って別行動をとることに。日比谷線の仲御徒町駅から入谷へ。5~6年前、兄嫁の弘子さんと作家の車谷長吉先生、奥さんで詩人の高橋順子さんと行った店を目指すが満員で入れず。入谷駅近くの2階に入りやすそうな居酒屋があったので入る。「さんたけ」という店で脱サラして店を始めた78歳のマスターと、秋田県能代出身のおばちゃん、30代くらいのお姉さんがやっている店だ。1人2000円でお釣りが来た。我孫子へ帰って駅前の「愛花」に寄る。常連の新井さんがいた。

4月某日
図書館で借りた「マルクス 資本論の哲学」(熊野純彦 岩波新書 2018年1月)を読む。一言でいえば「資本論でマルクスが言いたかったこと」について哲学的に読み解いたということになると思う。だが、本文は断片的には理解できたものの著者の論述を十二分に理解できたとは言い難い。理解できないのに魅力的な本であった。機会を改めて挑戦したいと思う。私がなんとなく理解しえたと思ったのは「まえがき」と「終章 交換と贈与」、「あとがきにかえて」である。「まえがき」には「世界革命と世界革命とのあいだで」というサブタイトルが付されている。一度目は、ほぼヨーロッパ全土を席巻した1848年であり、2回目は日本を含む先進諸国で同時多発的に発生した1968~69年の学生反乱である。I・ウォーラーステインのことばという。著者の問題意識は、「この世界が存続するためだけにも、大きな変化が必要とされる」ということであり、そのため「資本論」で展開されているマルクスの原理的な思考の深度と強度に焦点を当てたという。「終章」に「コミューン主義のゆくえ」という副題が付いている。コミューン主義とは我が国でコミュニズムの訳語として多く用いられている共産主義のことであるが、あえて共産主義という「手垢に汚れた」訳語を用いずコミューン主義という訳語を用いた著者の意図は理解できる。
 終章ではマルクスは資本主義体制に代わるどのような体制を思い描いていたのかが、マルクスとエンゲルスが残したいくつかの文献をもとにして述べられる。共産主義は私的所有の廃絶を目標とするというのは高校の世界史の教科書にもあるほどの常識なのだが、マルクスの思考はそんな単純なものではない。著者は「経済学・哲学草稿」からマルクスの考えを「手にすること、ひとりのものとし、使用し、また濫用すること、すなわち私的に所有することだけが『じぶんのものとする』ことではない。世界を見、その音を聞き、感じ、しかも他者とともにそうすること、他者とともに世界にはたらきかけて、世界を受苦においても能動的にも享受することもまた、世界をともに持つこと、わかち合うことである」と紹介している。著者、熊野純彦が言うように、このマルクスの所論は「ある種の豊かなイメージを喚起する」と言えよう。「あとがきにかえて」では、わが国の資本論研究の流れが紹介されているが、宇野弘藏や廣松渉、柄谷行人の著作と並んで大川正彦という人の「マルクス いま、コミュニズムを生きるとは?」(NHK出版)が評価されている。読んでみようかな。

4月某日
1969年と言えば今から49年前である。私は20歳、早稲田の政経学部の2年であった。当時、政経学部の学生自治会(学友会)は社青同解放派(反帝学評)の拠点だったが、全学的には革共同革マル派が制圧していて、政経学部学友会の活動家だった私は学内に入ることができなかった。1969年の4月17日、前日から明治大学の学生会館に泊まり込んだ私たち(反戦連合を主体にした反革マル連合)はヘルメット、ゲバ棒で武装して大学本部に突入した。革マル派の本体は晴海での沖縄闘争に行っていて、留守部隊が大学本部を防衛していた。数分のゲバルトの後、革マル派は潰走、私たちは大学本部を封鎖した。学生運動での私の数少ない「成功体験」である。私の記憶によると私たちの隊列の先頭にいたのが高橋ハムさん(のちに自治労幹部、現在ふるさと回帰支援センター理事長)と鈴木基司さん(政経学部卒業後、群馬大学医学部へ進学、現在群馬で小児科医を開業)だった。ハムさんと昔話をしていたら、当時の仲間が集まろうということになり、市ヶ谷の勤寿司にハムさんや基司さんたち10数人が集まった。皆70歳前後のジジイであるが、当時のことを鮮明に覚えていた。早稲田の全共闘は「反革マル派」が原点。医学部の不当処分撤回闘争が始まりだった東大闘争、大学当局の不正経理に端を発した日大闘争とはそもそもの始まりが違う。違うけれども反セクト、自主・自立の気風だけは強かったし、それは現在の自分にも受け継がれていると思う。

モリちゃんの酒中日記 4月その2

4月某日
高田馬場栄通の「清龍」で大谷源一さんと。高田馬場での会議が長引き、18時半には行けるはずだったが19時半を過ぎていた。「清龍」は埼玉県蓮田市の清龍酒造が経営する居酒屋。「安くて美味しい」と言ってよいと思う。高田馬場店のウエイトレスは私の見た限り外国人。おそらくは中国と中南米系、一生懸命働く姿は感じが良い。我孫子に帰って駅前の「愛花」に寄る。福田さんとケイちゃんが来ていた。ケイちゃん持参の日本酒を頂く。

4月某日
HCM社の大橋社長と新橋から上野-東京ラインで赤羽へ。友人の李さんが社外スタッフとして協力している蓼科情報㈱へ。李さんが30分ほど遅れてきたのでそれまで世間話。李さんが来たので打ち合わせ開始、終了後、李さん、大橋さん、私の3人で赤羽で呑むことに。5時前なのでまだやっている店は少なかった。赤羽の居酒屋としては割と小奇麗な店に入るとすでにサラリーマンらしき人たちが何組か入っていた。ビールと焼き鳥、「梅水晶」「キムチ」などを頼む。ビールの後はホッピー。2時間ほど呑んで食べて会計はひとり3000円に行かなかった。安い!盛り場としての赤羽は居酒屋の数が多いのが特徴、それだけ競争が激しいのである。

4月某日
図書館で借りた「路上のX」(桐野夏生 朝日新聞出版 2018年2月)を読む。真由は高校1年生、レストランを経営していた両親が夜逃げ、真由は叔父(父の弟)の家に、弟は伯母(母の姉)に預けられる。真由は叔父の妻と折り合いが悪く、家出して渋谷の中華料理店でアルバイトをすることに。休憩室で寝泊まりするがある夜、チーフに犯される。バイト先も失った真由が会ったのがJKビジネスをやっているリオナ。リオナはヤンキーの母と同居していたが義父に毎晩のように性的虐待を受け、家出する。リオナはJKビジネスの客だった東大生の秀斗のマンションに性的サービスと交換に同居している。同居には真由にリオナの二人にリオナの友達で育児放棄されたミトが加わる。ミトは同棲相手に妊娠させられたうえ捨てられたのだ。桐野夏生の「奴隷小説」(文春文庫 2017年12月)の解説で政治学者の白井聡が、桐野夏生の作品は平成のプロレタリア文学と言っていたことを思い出す。桐野文学の本質を突いているように感じられる。「現代作家のうち、桐野氏こそ『階級』に、『搾取』に、より一般的な言い方をすれば『構造的な支配』に、最も強くこだわっている書き手ではないだろうか、と私は思うのである」(「奴隷小説」解説)。しかし小説のエンディングは意外にも真由とリオナの未来を感じさせるLINEであった。

4月某日
児童虐待防止のための勉強会に出席。これはケアセンターやわらぎの石川はるえ代表の呼びかけで始まったもので今回は2回目。やわらぎの南阿佐ヶ谷のデイサービスが会場。出席者は3つのテーブルに分かれて着席。私はフリー編集者の浜尾さんの隣に座る。一通りの自己紹介が終わった後でNPO法人Child First Labの高岡昂太さんが「今後の日本における子ども虐待の対応」についてレクチャー。児童相談所での対応件数は1990年から2015年で約100倍になっているにもかかわらず児相職員の配置数は1999年から2015年で約2倍にしかなっていないことを指摘、虐待などの通告が急増しているにもかかわらず、手が回らない実態を説明し、児相と司法や警察との連携の必要性を訴えた。具体的には「児童保護局・子ども権利擁護センター」を設置し「司法・医療・福祉が協働し、対応を効率化するシステム」の構築を提案していた。驚いたことに高岡さんは国立研究開発法人産業技術総合研究所の人工知能研究センターに所属、名刺によると「確率モデリング」というのを研究しているらしい。

4月某日
李さんがオリジナルで検討している「年金受給者情報」のチェックシステムについて社会保険庁OBの浅岡淳朗さんの意見を伺う。浅岡さんは飯田橋の厚生年金病院に用があるというので西新橋のHCM社に来てもらう。浅岡さんは李さんの説明を聞いてからいろいろ貴重なアドバイスをしてくれる。印象的なのは浅岡さんの「政策っていうのは論理で組み立てられている。そのとき政策を作っている奴らの頭には現場のことは浮かばない。だからいかに精緻な論理な論理で組み立てられた政策でも、現場でとても実施しずらいということがまま起きるのさ」という言葉。なるほどねー。あらゆる政策は実施されてこそ意味がある。政策を実施するのはあくまで現場。現場の意見を聞け、ということなのだろう。新橋から神田へ。西口通り商店街の「磯じまん」という店でフィスメックの小出社長と社会保険出版社の高本社長と呑む。小出社長から「魚と日本酒のおいしい店」と聞かされていたが、その通りのお店で、店長のおすすめのままに呑む日本酒がどれも個性的であった。小出社長にすっかりご馳走になる。

モリちゃんの酒中日記 4月その1

4月某日
上野の国立西洋美術館へ。プラド美術館展を観る。「ベラスケスと絵画の栄光」というサブタイトルの通りベラスケスの作品7点を軸に17世紀の絵画60点が展示されていた。ベラスケスはスペイン王室お抱えの宮廷画家で国王フェリペ4世はじめ、王子の肖像など「泰西名画」というべき名画を楽しんだ。上野公園に出ると今年最後の花見を楽しむ人たちで大賑わいであった。御徒町から上野へ。上野駅構内のバーで時間をつぶし、川口へ。大谷源一さんと根津のスナック「ふらここ」のママに会う。西川口の山東料理の「異味香」へ行く。ここは芸能人も多数訪れている名店らしく秋元康やサマーズの写真が飾られている。大変おいしい中華であった。

4月某日
図書館で借りた「日本経済入門」(藤井彰夫 日経文庫 2018年1月)を読む。著者の藤井は日本経済新聞の上級論説委員。平成の30年間を総括しつつ今後を展望する。バブルの発生とその消滅、異次元金融緩和などについてわかりやすく解説していた。少子高齢化の経済的な影響にも的確に論評していたように思う。優秀な新聞記者なんだろう。

4月某日
元年住協の林弘幸さんと新松戸の「グイ呑み」で待ち合わせ。林さんは永大産業出身の営業の叩き上げ。年住協では名古屋支所長や福岡支所長を務めた(多分、東京支所長もやったと思う)。昔からなぜか気が合う。気が合う理由について考えると、私が林さんに対して持つ営業マンとしてのリスペクトの感情なんだと思う。商品は売れてなんぼの世界だ。林さんは「年金住宅融資」という商品を最前線で金融機関や住宅メーカーに売っていたものね。

4月某日
セルフケアネットワークの高本代表理事と千代田線根津駅の改札で待ち合わせ。根津駅近くの医療系出版社、青海社を訪問して工藤社長に会う。高本さんからセルフケアやグリーフサポートについての説明をする。青海社は緩和ケアの書籍を発行するなど終末期ケアにも取り組んでおり、高本さんの説明もよく理解してくれたようだ。私から高本さんの本を青海社から発行できないか、企画書を書くので検討してくださいとお願いした。お昼になったので根津界隈の工藤社長行きつけのオーガニック料理の店に向かう。工藤社長は糖尿病なのでカロリー制限されておりハーフサイズを頼んでいた。私はカレーライスを頼んだがなかなかおいしかった。工藤社長と別れ私と高本さんは「へび道」を通って千駄木へ。「へび道」とは蛇行して流れていた愛染川を暗渠にしてできた道で、当然、蛇行しているので「へび道」と呼ばれるようになったようだ。千駄木の「さんさき坂」に突き当たる。趣味の小物を売っている「伊勢辰」に寄る。
HCM社でシステムエンジニアの李さんに来てもらい、パソコンのメール環境を変更してもらう。これで年友企画時代のメールアドレスとはお別れ、moritashigeo@outlook.jp
あるいはmorita@morichan.meを使うことになる。李さんと新橋駅前の居酒屋へ。日本年金機構が年金情報の処理を外部の会社に委託したところ大部分が中国の業者に再委託していたことが発覚したことが話題になった。入ったときは客がまばらだった居酒屋も出るときはかなり混んでいた。確かに値段の割にはおいしいと思う。

4月某日
高齢者住宅財団の落合明美さんと内神田の「ビアレストランかまくら橋」へ。新年度ということからかお店は結構な賑わい。そう言えば最初は同じビルの「跳人」を電話で予約したのだが、テーブル席がいっぱいだったのでこちらに変更した。仕事の話ではなくAI(人工知能)やBI(ベーシックインカム)の話をして楽しかった。落合さんとは上野駅で別れ、私は我孫子で「しちりん」に寄る。

モリちゃんの酒中日記 3月その5

3月某日
名古屋の「我が家ネット」の児玉さんが上京。SCNの高本代表と神田の葡萄舎で会うことにする。児玉さんが家でウサギを飼っていたことを思い出して日本橋の「うさぎや」で和菓子を買う。6時に葡萄舎に着くと児玉さんと高本さんはすで来ていた。児玉さんから「ふりかけ」、高本さんからはお菓子を頂く。「森田さん、最近どうですか?」と聞かれたので「絶好調!」と答えると「本当にそうみたいですね」と返ってくる。組織に所属しないというのは実に気分がいいものだ。児玉さんが飼っていたウサギは昨年、亡くなったそうだ。遅れて高本さんの旦那さん、社会保険出版社の高本社長が参加。高本社長にすっかりご馳走になる。

3月某日
西新橋の「びんちょろ」で元厚労次官の阿曽沼さんと5時半に待ち合わせ。少し前にHCMを出ると阿曽沼さんが前を歩いていたので声を掛ける。せっかくなのでHCMに戻って大橋社長に阿曽沼さんを紹介する。「びんちょろ」では昼ご飯は食べたことはあるが夜は初めて。お刺身はじめなかなかおいしかった。阿曽沼さんは新幹線で京都に帰るというので7時過ぎにお開き。阿曽沼さんにご馳走になる。

3月某日
HCM社にデザイナーの土方さんと映像の横溝さんが来る。家具転倒防止の研修用ビデオの打ち合わせ。HCM社の真ん前が「南桜公園」で桜が満開なので、大橋社長の提案でブルーシートを敷いて花見をすることに。ビール、日本酒、焼酎ですっかりいい気持になる。電車で寝てしまい終点の取手まで乗り過ごす。

3月某日
年友企画で編集に携わっていた雑誌「へるぱ!」の編集会議を社会保険福祉協会で。その後、医療介護福祉政策研究フォーラム(虎ノ門フォーラム)の中村秀一理事長を訪問。私は3月から社会福祉法人にんじんの会の評議員を務めているが、この日は評議員会が法人本部のある立川で開催されるために、先輩評議員の中村さんが一緒に行ってくれることになった。虎ノ門から銀座線で赤坂見附へ。赤坂見附から丸ノ内線で四谷、四谷で中央線に乗り換える。ちょうど通勤ラッシュ時だったが中野あたりから座ることができたが中村さんは立ちっぱなしだった。定刻の10分ほど前に法人本部に着く。中村さんが議長になって評議員会が始まる。主に中長期計画を審議。職員が主体となって計画を練り上げたというがなかなか立派な計画で感心した。評議員会には遅れて川村女子大学の吉武民樹さんが参加。
評議員会の後の懇親会に中村さんや吉武さんと参加。懇親会では「吉武節」がさく裂。佐川前国税庁長官の国会喚問から始まり、吉武さんの厚生労働省時代のエピソードが明かされる。隣に座った法人の石川常務に「面白いでしょう?」と聞くと「面白いですねー」と感服していた。吉武さんと私のために法人が立川のパレスホテルを予約してくれていたのでそこに宿泊する。

3月某日
朝、吉武さんから「昭和記念公園」がホテルの近くにあって桜の名所らしいから行こうとの電話。昭和記念公園に着くと桜が満開であった。公園内を巡回する列車仕様のバスに乗車。桜を満喫する。吉武さんが車で来ていたので一緒に花小金井の荻島道子さんを訪問することにする。荻島さん20年以上前に亡くなった厚生省の荻島国男さんの奥さん。吉武さんや阿曽沼さん、唐沢さん、今、アゼルバイジャン大使の香取さんたちが当時の部下で同期には江利川さんや川邉さん、宮城県知事をやった浅野さんがいる。
茅ヶ崎へ向かうという吉武さんと別れ、私は花小金井から西武線で新宿へ。虎ノ門で打ち合わせた後、京大東京事務所の大谷さんと神田駅北口で待ち合わせ。前に2人で行った「トリ酒場」へ行く。ここは「全品290円」という安さが魅力の店。2人でいい気持ちになってひとり2000円ほど。私は大谷さんと2人の呑み会を勝手に「千ベロの会」と名付けている。「1000円でべろべろ」という意味である。我孫子で駅前の「愛花」に寄る。看護師養成の大学で助教をしている佳代ちゃんがいる。4月から大学を移るという。

モリちゃんの酒中日記 3月その4

3月某日
春分の日。ブルゾンのファスナーが動かなくなったので北千住の駅ビルの「ユニクロ」で買い替え。昼間から空いている居酒屋が結構あるのがさすが北千住。「ちょい飲み酒場 酔っ手羽食堂」に入る。チェーン店のようだが、中ジョッキ380円、大関1合390円、串焼きが1本100円と手ごろな値段が魅力。隣の1人で呑んでいた中年の女性に話しかけられる。お彼岸のお墓参りの帰りだそうだ。木場の材木商の生まれで今は高井戸で商売をやっているという。高井戸にはミサワホームの総合研究所や日本年金機構、浴風会などがあるので多少土地勘があり話が合った。

3月某日
図書館から借りた「98歳になった私」(橋本治 講談社 2018年1月)を読む。橋本は東大生の頃、五月祭か駒場祭のポスターで有名になった。「止めてくれるなオッカサン、背中のイチョウが泣いている」というコピーに、上半身裸の東大生が日本刀を抜いて背中にはイチョウのマークの彫り物が彫ってあるイラストだったと記憶している。コピーもイラストも橋本の作だったと思う。1968年のことだと思うからよく覚えていると我ながら思うし、それだけ衝撃的なポスターだったのかもしれない。その後橋本は「桃尻娘」で小説家としてデビュー、古典の現代語訳にも手を染めている。橋本は私と同じ1948年生まれだから今年70歳である。ということは1968年には20歳、98歳のときは2046年ということになる。その頃の「私」は震災に襲われた東京を離れ、栃木県の杉並木の近くの仮設住宅に住んでいる。家族はいない。介護士やボランティア、そして「私」のファンがときどき訪ねて来る。私は面白く読んだ。98歳になる自分はとても想像することさえできないのだが、この小説は確かに想像力を刺激してくれるし、一人ぽっちの98歳も悪くないかもと思えてくる。

3月某日
音楽運動療法研究会で宇野裕事務局長とヘルパーさんをインタビュー。JR板橋駅で待ち合わせ。すでに板橋に着いているという宇野さんが見当たらないので東口に出る。近藤勇の墓が駅前にありそこを過ぎるとインタビュー場所の喫茶店「ケルン」が見える。北区の高齢者施設の施設長で音楽運動療法研究会のメンバーでもある黒沢さんが、ヘルパーの箭内道子さんを連れてきたので3人でケルンに入る。遅れて宇野さんが登場。箭内さんは介護保険の開始前から北区でヘルパーをやっているというベテラン。もともと歌が好きということもあって「だまって車椅子を押すよりは」ということで歌を唄いだしたという。ただ音楽を嫌いな人もいるし、箭内さんが唄うのはもっぱら歌謡曲だが、歌謡曲が苦手という人もいるから決して「押し付けない」のが鉄則。だが歌を聞くことで認知症の利用者の表情が明るくなるし、利用者とのコミュニケーションを図る上でも有効らしい。箭内さんは今年70歳でヘルパーを始める前は「普通の主婦」だったというが「普通の主婦」畏るべしである。帰りに宇野さんと近藤勇の墓所に寄る。近藤は戊辰戦争の転戦中に下総流山でとらえられ板橋で斬首される。首は京都で晒されたが胴体は板橋に葬られた。のちに新選組副長の土方歳三、永倉新八も合葬されている。しかし土方は五稜郭の戦いで戦死しているが遺体は確認されていないと思うから、遺骨が葬られているわけではないはず。

3月某日
愛宕山で花見。待ち合わせ場所は曲垣平九郎が馬で登ったという愛宕神社の階段前。HCMの大橋社長と少し早めに着いたので先に花見を終え、階段近くの小西酒店でワインを呑んでいると中村秀一さん、次いで吉武民樹さんが顔を出す。3人で呑んでいると待ち合わせ時間の18時になったので階段前に行くと住宅保証機構の副社長の小川さんが待っていた。次いでNHKの堀家さんと「福祉の街」の安藤会長が来る。2人が花見から帰るのを待って呑み会会場の霞が関ビルの東海大学校友会館に向かう。「にんじんの会」の石川理事長、「ふるさと回帰支援センター」の高橋理事長も来たので取り敢えず乾杯。元長岡市長の森民夫さん、厚労省の濱谷老健局長、伊原審議官、元宮城県知事の浅野史郎さんなども来てくれた。新潟県佐渡市の副市長をやっている藤木さんから日本酒が差し入れられた。国土交通省の伊藤明子住宅局長も来てくれた。花見の会は4年ぶりくらい。これだけ来てくれるのなら毎年やろうかな。

モリちゃんの酒中日記 3月その3

3月某日
新丸ビルの京大産官学連携本部東京事務所に大谷さんを訪問。大谷さんの現在の勤務時間は16時までなので、16時過ぎに東京事務所を出る。久しぶりに日暮里駅前の「いづみや」に行くことにする。まだ17時前なのに店はほぼ満席。チェロと思しき楽器ケースを傍らに吞んでいるのは場所柄、芸大生だろうか。その隣に座っている老人は手を激しく震わせながら瓶ビールをグラスに注いでいる。持参のピンセットのような箸を使って器用につまみを食べている。テレビで相撲の中継が流されている。隣のホッピーを吞んでいたオジサンが話しかけてくる。日馬富士は引退し白鵬と稀勢の里は休場、「鶴竜は頑張ってるね」と言うと「本当にそうだよ」と相づちを打ってくれた。

3月某日
監事をやっている一般社団法人全国年金住宅融資法人協会の理事会に出席、理事会が東京駅の八重洲口だったので丸の内口にまわって京大産官学連携本部の東京事務所に大谷さんを訪ね、「花見の会」の相談。その後、有楽町の「ふるさと回帰支援センター」によって理事長の高橋ハムさんに「花見の会」の報告。ハムさんとは50年前の1969年4月17日、当時革マルが制圧していた早大本部に一緒に突入した仲。早大全共闘はそれからスタートしたようなものだが、9月5日の全国全共闘の結成大会を前にした9月3日、第2学生会館を拠点にしていた全共闘派、大隈講堂を拠点にしていた革マル派はともに機動隊に排除された。そのとき私と一緒に第2学館で逮捕されたのが、のちに滋賀県の県職労のトップとなる桧山君。ハムさんが桧山君に電話してくれ久しぶりに話すことができた。電話の声は50年前と変わらなかった。ハムさんが声を掛けて来月17日に突入した「同窓会」を開くことになった。政経学部の1年上だった鈴木基司さんや辻さんも来るそうだ。2人とも群馬大学の医学部に進み医者をやっている。我孫子へ帰って駅前の「しちりん」へ。次いで「愛花」に行くと常連の坂田さんが来ていた。しばらくすると看護大学で助教をやっているケイちゃんが来る。

3月某日
日曜日、BSでクリントイーストウッド監督、主演の「グラントリノ」を観る。イーストウッドはデトロイトの引退した自動車工。最愛の妻に死なれ2人の息子とは疎遠になり、老犬と孤独に暮らす。隣家にラオスの少数民族モン族の一族が越して来る。モン族の姉弟と仲良くなるイーストウッド。イーストウッドは弟タオに絡むモン族の不良を撃退するが、報復に姉は強姦されてしまう。イーストウッドは一人で不良のアジトに向かう。イーストウッドが銃を抜く仕草を見せたため、不良たちの銃弾を浴びて死ぬ。自らの命と引き換えに不良たちを監獄へ送り込んだのだ。イーストウッドの愛車がフォードのグラントリノ。遺言でタオに与えられる。モン族はベトナム戦争で米軍に協力したため、故郷にいられなくなりアメリカに移住した。イーストウッドは朝鮮戦争の生き残りでもある。アメリカの戦後のアジア政策が作品に陰影を与えているが、基本はモン族の姉弟とイーストウッドの友情物語である。ラストは泣けますね。

3月某日
家から歩いて5分ほどの「ノースレイクカフェ」。まだ入ったことはないんだけれど古本も置いている。先日、西部邁の単行本が3冊600円で売られていたので買うことにした。その1冊が「大錯覚時代」(新潮社)。発行は1987(昭和62)年10月。今から30年前である。肩書は辞任する前の東大教養学部教授である。30年前だけれど西部の言っていることはほとんど変わっていないし、反進歩主義の伝統主義の保守主義者というも変わらない。西部は1939(昭和14)年生まれだから、この本の執筆当時は40代後半。60年安保のときは東大教養学部の自治会委員長、安保の裁判を抱えながら経済学部を卒業、大学院に進学した。そのころからマルクス経済学に疑問を持つようになり、保守主義者へ思想的な転換を果たした。トクヴィル、チェスタトン、ハイエク、オルテガ、アリストテレス、プラトンなどなど膨大な思想書を読み込んだ上に独自の保守思想を立ち上げた。独自の思想を構築する以外に安保闘争の敗北を総括する途は無かったのであろう。

3月某日
内神田の児谷ビル3階の「社保険ティラーレ」で4月の「地方から考える社会保障」の打ち合わせ。同じ階の「民介協」で扇田専務に挨拶。扇田専務からHCMの大橋社長に会員になるように勧めてくれと言われる。次いで阿佐ヶ谷の星野珈琲店で(社福)にんじんの会の石川はるえ理事長と「花見」の打ち合わせ。その後、石川さんは六本木へ私は「花見」の後の「呑み会」の会場、霞が関ビルの東海大学校友会館で担当の小林さんと打ち合わせ。阿佐ヶ谷から中央線で四谷へ、四谷から丸ノ内線の国会議事堂前で降りると首相官邸前である。森友学園問題に抗議する人が三々五々集まっている。若い人が少なく私と同年代のジジババが多いようだ。小林さんとの打ち合わせ後、新橋の「亀清」へ。HCMの大橋社長が明治生命時代の後輩と呑んでいるので「よかったらどうぞ」と誘ってくれた。不動産投資法人の執行役員の内田さんがその後輩。二重橋前の明治生命本館の話で盛り上がる。終戦後GHQの本部が置かれたのが同じお堀端の第一生命の本社ビル。GHQ総司令官のマッカーサーの執務室が残されている。内田さんによると明治生命本館には米空軍の司令部が置かれたそうで、歴史的建造物としては明治生命本館のほうが第一生命ビルより価値があるという。

モリちゃんの酒中日記 3月その2

3月某日
東急住生活研究所の元所長で住宅金融支援機構の理事もやった望月久美子さんが、私が現在机を置かせてもらっているHCM社を訪ねてくれる。近くで会議のあったついでに寄ってくれた。望月さんとは住文化研究協議会以来の付き合いだから20年以上の付き合いだ。望月さんが帰った後、ネオユニットの土方さんとHCM社の大橋社長、三浦部長と打ち合わせ。4人で新橋の「亀清」へ。

3月某日
新丸ビルの京都大学東京事務所に大谷さんを訪問。花見の打ち合わせ。次いで有楽町の交通会館で「ふるさと回帰支援センター」の高橋理事長、神田橋の「高齢者住宅財団」の落合部長を訪問、いずれも花見の打ち合わせ。神田駅から帰る。我孫子駅前の「しちりん」に寄る。勘定を済ませて帰るお客から「森田さん、お先に」とあいさつされる。「愛花」の常連さんだ。ということで「愛花」にも顔を出す。

3月某日
年友企画でパソコン環境をアドバイスしてくれていた李さんがHCM社を訪ねてくれた。HCM社で使っているパソコンは年友企画で使っていたものを無償でもらったものだが、アドレスは年友企画のまま。それで「替えたいんだけど」というと「前にちゃんと教えたでしょ!」と怒られる。メールを検索すると確かに確認すべきことがメールで送られていた。新橋駅前のいろり焼の店へ行く。店の名前は忘れたが魚がおいしかった。李さんは在日韓国人だが日本に帰化していて日本名は大山、でも韓国系にこだわりがあるらしく通称はもっぱら李。もともとは亡くなった大前さんの友人で、私とも30年近い付き合いだ。新橋から上野-東京ラインで我孫子へ。座れなかったがそんなに若くもない婦人に席を譲られる。老人が老人に席を譲るのもいいけれど、若人が我が物顔にシルバーシートに座ってスマホをいじっているのを見ると情けないね。

3月某日
年友企画で迫田さんと打ち合わせ。今日は神田の「葡萄舎」でフリーライターの岡田憲治さんたちと呑み会。呑み会まで時間があるので同じフリーライターの香川喜久恵さんを誘って東京国立博物館の特別展「仁和寺と御室派のみほとけ-天平と真言密教の秘宝」を見に行く。上野駅公園口で香川さんと待ち合わせ。博物館の入り口で障害者手帳を提示すると私は無料、香川さんも付添いということで無料。仁和寺は西暦888年、宇多天皇により創建される。真言宗御室派の総本山で特別展では仁和寺を中心に御室派の寺院の寺宝が公開されていた。葡萄舎に着くと松下さんが来る。松下さんは住宅産業新聞社で記者をやった後、国立の谷保で呑み屋をやっていたがこの1月で辞めたという。フリーライターの福田さんや寺島みどりさん、元日刊木材の記者、小林さん、元ミサワホームの小山さん、元住宅展示場運営会社の伊藤さんらが来る。要するに住宅に関係したジャーナリストを中心とした呑み会だったわけ。一番若いのが寺島さんでそれでも「50歳は過ぎました」。それ以外は皆、65歳以上。その割にはよく呑んだ。

3月某日
図書館で借りた「日本人ための第一次世界大戦史-世界はなぜ戦争に突入したのか」(板谷敏彦 毎日新聞出版 2017年10月)を読む。第一次世界大戦ってヨーロッパ中心に戦われた戦争だし、日本にとってはドイツ領だった山東半島の青島要塞攻撃や英国の要請によって地中海に軍艦を派遣したことくらいしか思いつかない。事実、本書の「はしがき」によると第一次世界大戦の日本人の戦死者は415人で、第一次世界大戦の軍人・軍属の戦死者、約230万人のおおよそ5千分の1でしかない。しかし第一次世界大戦は人類が初めて経験した地球規模の戦争(主戦場がヨーロッパではあったが)であり、鉄鋼業や軍需産業、食糧生産を含めた生産力の戦いであり、交通や通信網の整備が勝敗の結果を左右することもあるイノベーションの戦いでもあった。板谷は個々の戦闘だけでなく、各国の生産力や技術力含めた総合的な経済力を分析、第一次世界大戦の全貌とそれが日本にどのように影響を与えたかを詳述する。株価、為替レート、各種の統計を踏まえた論述も説得力があるが、エピソードの積み重ねが読んでいて飽きさせない。著者の板谷は関西大学経済学部卒業後、石川島播磨重工業を経て日興証券へ。ウオール街勤務が長かったというから、経済や社会を観る目が養われたのかもしれない。

3月某日
日曜日だけれど「音楽運動療法研究会」で新宿へ。会場に行くとメンバーの宇野裕さん、医師の川内先生、音楽療法士の丸山さん、特養ホームの施設長をやっている依田さんと黒沢さんがすでに来ていた。3月末で中間報告を出さなければならないので、今回はその内容の検討。この研究会に宇野さんから誘われたときは「音楽療法?」とその効果に懐疑的であったが、インタビュー調査に同行したり、実際の音楽療法の現場を観させてもらって、私自身のこの療法に対する印象がずいぶんと変わった。あまりうまく言えないが私たちがイメージする音楽は、小中学校の音楽の時間に代表される教育であったり、和洋の古典を中心とする芸術であったり、歌謡曲やポップスなどの娯楽であったりする。しかし人類にとっての音楽はもっと深くて幅が広いような気持がする。よくわからないが仏教やカソリックの声明、アフリカなどの土俗的な音楽、それは日本の民謡にも通じると思うが、ある種の人類と共に共生してきたものを感じる。

3月某日
高校時代スキー部に所属していたことがある。もちろんちっとも上達せず、1年ほどで退部したのだが。スキー部で活躍していたのが佐藤正輝。今札幌でシステム会社を運営している。正輝からスキー部のOBが正輝の東京出張に合わせて集まるので来ないか?というメールが。17時半に品川駅のトライアングルクロックの前で待ち合わせ。中田(旧姓)志賀子さんが来る。正輝も来たので会場の「グリルつばめ」へ。幹事役の井出君がすでに来ていた。私と同学年と私の1年下に声をかけたようだが、私は1年しか在籍しなかったので1年下はあまり知らない。キャプテンだった前野が来る。前野のお母さんと私の母は仲が良かったので、昨年母が亡くなったことを伝えるとお悔やみの言葉を掛けられる。正輝から洞爺湖の銘菓「若狭芋」を頂く。

モリちゃんの酒中日記 3月その1

3月某日
HCM社の大橋社長と新橋の亀松へ。入り口に提灯が下がった居酒屋らしい居酒屋。瓶ビールを頼んで後はホッピー。赤ナマコがあったので頼む。薄切りの赤ナマコをモミジおろしでいただく。最近、ナマコを置いている店が少ないので味わって食べる。元気のいいウェイトレスに大橋社長が「あんた日本人?」と聞くと「日本人です」という答え。生まれはと聞くと「横浜」。大橋社長が「俺は青森」と答えると「この辺に青森料理の店がありますよ」「ウン知ってる、知ってる」と盛り上がる。新橋はやはり居酒屋がいい。

3月某日
東京駅丸の内口の京大の東京オフィスに大谷源一さんを訪問、3月23日に予定している「花見」の打ち合わせ。ほんの20分前まで京大の理事をやっている「阿曽沼さんがいたんだよ」。地下鉄丸ノ内線で南阿佐ヶ谷の「ケアセンターやわらぎ」の南阿佐ヶ谷事業所へ。引き続き「花見」の打ち合わせ。立教大学大学院の卒業生「トナミさん」を紹介される。トナミさんはカーエアコンの設計に長く携わっていたエンジニア。石川さんの福祉の仕事のお手伝いを希望しているという。阿佐ヶ谷のパール商店街の角打ちで日本酒をご馳走になる。阿佐ヶ谷から西荻窪の兄の家へ向かう。昨年亡くなった母の遺産分割の手続きで、何枚かの書類に署名捺印をする。兄嫁の弘子さんの手料理をご馳走になりながらビールと日本酒を頂く。安倍政権やトランプ政権への批判で盛り上がる。11時半ころ我孫子に着く。駅前の「愛花」に寄る。看護大学の助教をやっている「カヨちゃん」と2時過ぎまで呑む。

3月某日
「帝国と立憲-日中戦争はなぜ防げなかったのか」(坂野潤治 筑摩書房 2017年7月)を図書館で借りて読む。坂野は近代日本が対外進出に着手したのは1874(明治7)年の「台湾出兵」からであるとする。翌年の明治天皇による「立憲政体樹立の詔勅」は近代日本の立憲制の導入に向けた具体的な第一歩だったとする。前者を「帝国」化、後者を「立憲」化として、1937(昭和12)年の日中全面戦争が始まるまでの62年間余りの間、「帝国」化も「立憲」化も拡大の一途をたどるが、1937年以降、「立憲派」は陸軍とそれを支持する「帝国派」に屈服し、1941(昭和16)年の対米戦争から1945(昭和20)年の敗北に至る。坂野が今、なぜこの本を執筆しようと考えたかは終章の「『立憲』なき『帝国』の暴走」に述べられている。近年、民間の保守派の間で尖閣列島を脅かす中国に備えよという出張が唱えられ始めている。坂野は「1874年の台湾出兵以来60年余りにわたる日中対立の歴史は、決して昔話ではなくなってきている」とする。そして安倍内閣の安全保障政策は、「日中間での領土問題にアメリカを巻き込もうとするもの」で「現行憲法と日米安保条約だけで尖閣諸島は自衛権で守れるし、アメリカも守ってくれる」とする。しかし日中有事の時に「アメリカが本気で日本を守ってくれるのか」、日本政府は「現行憲法が自衛隊を認めていることだけを頼りに自衛隊に出動を命じられるか」。こうした疑問を背景として「安倍内閣は日米同盟の強化と憲法改正を唱えている」というのが坂野の主張である。「なるほど」とうなずかざるを得ないではないか。

3月某日
新丸ビルの京都大学産官学連携本部の大谷源一さんを訪問。新丸ビルの10階で向かいが東京駅。辰野金吾設計の東京駅駅舎を見下ろす絶好のロケーションだ。大谷さんが仕事を終えるまで景観を楽しませてもらった。新丸ビルから神田まで歩き途中、八千代銀行に寄る。17時少し前だったのでお目当ての店は準備中。駅前の飲み屋街で「全品均一270円鳥酒場」という看板が目に入ったのでそこにする。これが大正解でお刺身、ポテトフライなど非常においしかった。お勘定は一人2000円。店の名前は「とり焼きんぐ」、なかなかいい居酒屋であった。家に帰って「鶴瓶の家族に乾杯」を見る。ゲストは伊達公子、訪ねたのは震災7年の宮城県利府町だった。

3月某日
先崎彰容(あきなか)の「違和感の正体」(新潮新書 2016年5月)を読む。「未完の西郷隆盛」が面白かったので図書館で検索して借りる。今どきの「正義」に対する違和感について考察する。先崎は東日本大震災時、いわき市で被災し避難生活を送る。震災から考えたことが文章の端々に顔を出す。思想的に誠実な人と思う。

モリちゃんの酒中日記 2月その5

2月某日
大谷源一さんと神田駅の改札口で待ち合わせ。大谷さんは現在の職場、京都大学産官学連携本部東京事務所のある丸ビルから歩いてきたといっていた。まぁJRで一駅だからね。ガード下の「庄屋」へ。お通しに「クラゲ」が出たが、鷹の爪が添えられていて体質的に香辛料を受け付けない大谷さんにはOUT。店員に言うと「シラスおろし」に代えてくれた。HCMの大橋進社長が合流。「庄屋」は安くて料理もまずまずと思うが、客が注文を頼むと店員がいちいち「喜んで!」と対応するのはいかがなものか。私としては「お新香を頼んだくらいで喜ぶんじゃねーよ」と思うのである。

2月某日
浅田次郎のエッセイ集「まいっか。」(集英社文庫 2012年5月)を読む。主として「MAQIA」という雑誌に連載されたものを収録している。女性向けのファッション誌らしい。浅田次郎は小説もうまいがエッセイも巧み。もちろん才能のなせる技と思うが、努力とか才能に触れた「一途」と題されたエッセイがあった。40にして小説家を自称するようになったのは「積年の努力が実ったわけでもなし、ましてや眠れる才能がついに花開いたわけでもなし、たぶん神様がその一途さを不憫に思って、何とかしてやろう、というつもりになったからであろう」と綴っている。高校を卒業した後、大学に進学せず自衛隊に入隊、除隊後ファッション業界に身を投じるが原稿用紙を手放したときはなかったという。その一途さは確かに半端ではないが、浅田の小説にもエッセイにも広く深い学識と教養が伺え、これには感服するしかないのである。

2月某日
土曜日だけど、民介協(「民間事業者の質を高める」全国事業者協議会)の事例発表会を聞きに行く。会場はエッサム神田ホール2号館。会場に着くとちょうど厚労省の濱谷浩樹老健局長の「地域包括ケアシステムの構築と民間事業者への期待」と題する講演の終わるところだった。濱谷局長は事例発表会を最後まで聞き、懇親会にまで付き合っていた。私は今まで面識はないが、現場を重視するということではなかなかいい局長さんではなかろうか。懇親会の会場では「胃ろう・吸引シミュレーター」を展示させてもらった。ネオユニットの土方さんにご足労いただいた。年友企画からは酒井さんが参加、中村秀一さんの「ドキュメント社会保障改革」の販売のためである。セルフケアネットワーク(SCN)の「看取り」の調査でお世話になった鳥取の新生ケア・サービスの生島美樹さんと浜銀総研の田中さんが買ってくれた。懇親会後、神田の「蔵」という「Japanese Bar Style」の店に酒井さんと行く。月曜日に酒井さんと石津さんと呑み会があるので「蔵」を予約する。

2月某日
浅田次郎と吉岡忍の対談「ペンの力」(集英社新書 2018年1月)を読む。浅田次郎は1951年生まれの小説家、吉岡忍は1948年生まれのノンフィクション作家。2人にどういうつながりがあるかというと、浅田が日本ペンクラブの第16代会長(2011年~2017年)、吉岡が第17代会長(2017年6月~)でしかも浅田会長を吉岡専務理事が支えたという関係だ。吉岡は早稲田大学政経学部卒で学生時代、新宿区大久保の神田川のほとりの下宿に住んでいた。対談で明らかになるのだが同時期、早稲田に落ちた浅田も近所に下宿していた。1970年11月25日、三島由紀夫は盾の会の4人とともに自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れ、東部方面総監を監禁、自衛隊員に決起を促すが入れられず割腹自殺をする。浅田はこの事件をきっかけに翌年、自衛隊に入隊する。私もこの日、早稲田界隈の定食屋で昼飯を食べていたら、定食屋のテレビが三島がバルコニーで演説しているところを中継していた。私はその頃付き合っていた女子学生(今の奥さん)と市ヶ谷にバスで向かった。もちろん駐屯地に入ることはできなかったが、評論家の村上一郎を目撃している。村上は何とか駐屯地の中に入ろうと歩哨と交渉していたように記憶している。
それはさておき、本書の眼目は「まえがき」の浅田の次の文章につきる。「私たちが生きている地球の平和を、けっして他人事のように考えてはならない。また、その平和を担保する言論表現の自由を、けっして損なってはならない」。そしてそれは「あとがき」で吉岡が危惧することとも通底する。「特定秘密保護法、集団的自衛権と安保法制、共謀罪、さらには憲法改正の動き。これらが絡み合って狙っていることは、主権在民・平和主義・基本的人権をベースにしてきた戦後日本に強権的な軍事機構をじわじわと呼び込んで、社会構造それ自体を変えてしまうということだろう」。「ペンの力」でこのような動きに抵抗しようという姿勢をふたりは貫いている。リベラルの再結集、再評価が求められているのではないか。

2月某日
この間、年友企画の酒井さんと行った神田の「蔵」へ行く。6時過ぎに酒井さんと石津さんが来る。「蔵」は料理がおいしく値段もリーゾナブル。その割にはお客さんが少ない。穴場と言っていいかもしれない。

2月某日
銀座風月堂ビルに移転したSCN(セルフケアネットワーク)を訪問。厚労省OBの川邉さんと一緒。新規事業の企画書を検討。終わって西新橋のおでん屋「お多幸」へ。ここの経営者は確かSCNの高本代表のご主人の大学時代の友人。三代目の老舗である。高本さんが予約を入れておいてくれたので入れたが、ほぼ満員の盛況で出るときは何組か並んでいた。高本さんにご馳走になる。新橋から上野-東京ラインで我孫子へ。駅前の「愛花」に寄る。

モリちゃんの酒中日記 2月その4

2月某日
「佐藤栄作-最長不倒政権への道」(服部龍二 朝日選書 2017年12月)を図書館で借りて読む。佐藤栄作は昭和39(1964)年の1月の自民党総裁選挙に出馬するも3選を目指す池田勇人に敗れる。が、池田が病に倒れ同年11月後継首班に指名され、佐藤政権は昭和47(1972)年7月まで7年8か月も続く。その佐藤の評伝である。多分私の高校3年間、浪人の1年、大学の4年間はすべて佐藤政権と重なる。浪人中ではあったけれど私が政治運動に目覚めたのが、67年の10月8日の佐藤のベトナム訪問阻止の羽田闘争で京大生の山崎博昭が死んだときだったし、69年の9月3日に早大第2学館屋上で逮捕、起訴されたのも佐藤政権の大学立法に反対というのが大義名分であった。当時、佐藤栄作は学生運動をはじめとした反体制勢力にとって「不倶戴天」の敵だった。佐藤としてはまぁ党内の派閥抗争や社共などの野党勢力が主敵で、学生運動はそれほど眼中にあったわけではないだろうけれど。
 昨年、佐倉市の国立歴史博物館で「1968」と題して東大、日大闘争や三里塚闘争、水俣、べ平連などの市民運動を特集した展示会が開かれていたが、そのとき全共闘運動も「歴史」になったのだと感慨深いものがあった。その意味では佐藤栄作も立派に「歴史上の人物」なのである。佐藤栄作の業績と言えばなんといっても「沖縄返還」であろう。京都産業大学の教授で佐藤のキッシンジャーへの密使を務めた若泉敬の「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(文藝春秋 1997)にその交渉過程は詳しいが、同書の記述は本書では必ずしも真実ではないとしている。佐藤栄作は岸信介の実弟だが二人とも戦前からの官僚で、岸は商工省から満州国の官僚、戦後は戦犯容疑で巣鴨に収監されている。佐藤は鉄道省の官僚で終戦を大阪鉄道局長で迎え追放を免れる。戦後、運輸事務次官を経て政界入りし池田勇人とともに「吉田学校の優等生」と言われる。戦前と戦後の間には大きな隔たりがあるというのも事実であるが、とくに保守政党のイデオロギー的な系譜や人脈的な系譜を見るとある種の連続性も感じる。そんなことも考えさせられた本であった。

2月某日
「黙殺-報じられない〝無頼系独立候補″たちの戦い」(畠山理仁 集英社 2017年11月)を図書館で借りて読む。無頼系独立候補というのは国政選挙、地方選挙に立候補するいわゆる泡沫候補のこと。著者の畠山の密着取材によってその知られざる選挙が明らかにされる。私はこの本を読んで日本の民主主義の「危うさ」を感じた。例えば供託金。日本の選挙では立候補するには供託金が必要で、この供託金は当選するか有効投票数の一定割合の得票数を得なければ没収される。供託金の額は衆議院、参議院の選挙区、都道府県知事選は300万円、国政の比例では600万円である。今まで当たり前と感じていた供託金だが著者の調べによると、フランス、ドイツ、イタリア、アメリカなど供託金制度そのものがない国が大半で、制度がある国でもイギリスが7万5000円、カナダが9万円、高いといわれる韓国でも150万円程度である。日本で供託金制度ができたのは1925年、普通選挙法の制定により「直接税3円以上の納税者である満25歳以上の男子」に制限されていた選挙権が「すべての満25歳以上の男子」に拡大されたときだ。当時の供託金は2000円で公務員の年棒の約2倍にあたる高額だったという。普通選挙による選挙権の拡大に対して高額な供託金により事実上、立候補を制限したといえないか。ルポライターの畠山は志の高い無頼系独立候補への密着取材を通して日本の民主主義のありように鋭く迫る。感心しました。

2月某日
女優の藤真利子が書いた「ママを殺した」(幻冬舎 2017年11月)を図書館で借りて読む。藤真利子は作家の藤原審爾の娘、「ママ」とは藤原審爾の妻である。本の前半は藤が聖心女子大学に入学するまで、藤原審爾が外に愛人をつくり家庭を顧みなかったこと、その分、母と娘の絆が深まったことなどが描かれる。正直言って私には前半はつまらなかった。親の夫婦関係はうまくいっていなかったかもしれないが、本人は有名女子大学に進学し女優デビューまで果たしたのだから、まぁ半分、自慢話である。しかし後半ががぜん面白くなる。ママが脳梗塞で倒れ要介護5と判定される。入退院を繰り返しながら基本は在宅で支える日々が描かれる。介護保険の存在がどれほど家族の支えとなっているかがわかると同時に、制度だけでは支えきれない「家族の絆」「親子の絆」についても考えさせられた。