社長の酒中日記 10月その2

10月某日
図書館で借りた「人情時代小説傑作選 親不孝長屋」(新潮文庫 縄田一男選)を読む。著者は池波正太郎、平岩弓枝、松本清張、山本周五郎、宮部みゆきの5人のアンソロジー。平岩と宮部を除くと物故者。池波は90年に67歳で、松本は92年に81歳で、山本は67年に64歳で亡くなっている。松本は平均寿命といえそうだが池波と山本はいかにも若い。現代では早死にの部類だろう。ストーリーはいずれも単純な人情もの。とは言ってもいずれも一流の書き手だけにそれぞれ「読ませる」。なぜ人は、そして自分は人情ものの時代小説に惹かれるのだろうか?ひとつの答えは江戸の下町という時間、空間がもたらすものだと思う。現代とは時空を隔てること2~300年というのが逆にストーリーにリアリティを生むということではなかろうか。

10月某日
図書館に行ったら文春新書の「ポスト消費社会のゆくえ」(辻井喬、上野千鶴子 2008年5月)が目についたので借りる。辻井は堤清二のペンネームで西武セゾングループの総帥、池袋の地元デパートに過ぎなかった西武百貨店を、流通、ホテル・リゾート、金融などの一大グループに育て上げたがバブル崩壊とともにグループの経営が危機に瀕し、堤は百億円の個人資産を提供、グループは解体した。一方、辻井喬のペンネームで多くの詩や小説を発表している。父は自民党の代議士で衆議院議長も務めた堤康次郎。清二は戦後、東大に入学し共産党に入党しのちに除名されたことでも知られる。上野のインタビューに辻井が答えるという形式になっているが、楽しそうに語り合っている雰囲気が伝わってきそうな対談集である。上野が以前、西武百貨店の社史を分担して執筆したことがあり、西武グループの内情に詳しいということもあるが、上野も京大で学生運動を体験したということから同じような匂いがするのかもしれない。堤清二、辻井喬という複雑な人格の一端に触れることが出来たような気がする。

10月某日
茨城県の笠間市役所を取材。クラウドを使って意欲的に地域包括ケアシステムを進めている。介護保険制度が始まったのが確か今から15年くらい前。パソコンも今ほど普及していなかったしクラウドというシステムもなかった。今後さらに少子高齢化が進み、労働力人口は減る。ICTやロボットの活用、外国人労働者の活用も視野に入れて行かざるを得ないし、ICTの活用はすでに始まっている。逆に言うとICTの活用なくして介護の労働力不足を補うことはできないという現実がある。それは民間も自治体も一緒だと思う。

10月某日
笠間市の取材を終わって帰社。会社近くの「ビアレストランかまくら橋」で唐牛健太郎氏の未亡人真喜子さん、堤修三さん、昔、厚生省で堤さんの部下だった岩野さんと会食。岩野さんは京都生まれの大阪育ちということで京都育ちの真喜子さんと話が合ったようだ。少し飲みすぎたが、私は我孫子駅前の「愛花」へ。

10月某日
「シルバー民主主義-高齢者優遇をどう克服するか」(八代尚宏 中公新書 2016年5月)を読む。国民皆保険にしろ国民皆年金にしろわが国の社会保障の大枠は昭和30年代に決められた。その頃は人口に占める高齢者の割合はまだ低かったし経済は高度成長期を迎えたときでもある。それから半世紀を経た現在、事態は大きく変化している。高齢者比率は増大し、高齢者を支える現役世代は減少に転じている。経済は低迷し長くデフレ状態が続いている。しかも高齢者世代の投票率は高く、現役世代の投票率は低い。だから政治家はどうしても高齢者の既得権を守ろうとする。必要な改革が一向に前進しない。これがすなわち「シルバー民主主義」である。著者の言うことは実に全うだと思う。その中でも子育てを家族の負担だけでなく、広く社会全体でシェアするという「育児保険」の考え方は目から鱗が落ちる考え方だ。世代間の所得の再分配だけでなく高齢者世代間の所得の再分配を強化せよというのも卓見と思われる。高齢者には貧困層もいれば富裕層もいる。高齢の富裕層に対する年金課税や資産課税を強化して貧困層に給付するというものだ。今は年金受給者というだけで富裕層も年金課税を免れている。これもシルバー民主主義である。高齢者の多くが救済されるべき時代は終わり、高齢者も応分の負担をしなければならなくなったわけである。私たち団塊の世代から始めないとね。

10月某日
「健康・生きがいづくり財団」の大谷常務と神田の葡萄舎で待ち合わせ。約束の7時に行ったら大谷さんは、和歌山で「地域に根ざした健康生きがいづくり支援」をやっているNPO法人和歌山保健科学センターの市野弘理事長を伴って来ていた。市野さんは花王の元社員でヨーロッパを中心に海外でビジネスを展開してきた経験を持つ。NPO法人だけでなく和歌山いのちの電話協会や和歌山高齢者生活協同組合にもかかわっているというマルチな人だ。和歌山には生活福祉科学研究機構の土井さんもいるし、医療法人の輝生会の理事を退任した伊藤隆夫さんも、奥さんの実家がある和歌山に移住すると言っていた。今度、紹介しようと思う

社長の酒中日記 10月その1

10月某日
昨日は京都府南草津の医療機器メーカー「ニプロ」の研修施設に行って「胃ろう・吸引」と「気管カニューレ」のシミュレーターの売り込み。看護師3人が熱心にこちら(といっても説明役はもっぱら開発者の土方さん)の説明を聞いてくれた。続いて大阪の介護支援専門員協会で福田次長と雨師部長に説明。こちらも看護師なので理解が早い。シミュレーターは介護士の医療行為の一部解禁を契機に介護職を主なターゲットとしていたが、やはり医療職の方が理解は早いようだ。今日は私だけ名古屋へ。建築家の児玉道子さんと単行本やシミュレーターについて打合せ。

10月某日
田辺聖子の「私の大阪八景」(岩波現代文庫 2000年12月)を読む。田辺の分身である主人公トキコの戦中時代を描く自伝的小説である。小説は「その1民のカマド(福島界隈)」、「その2陛下と豆の木(淀川)」「その3神々のしっぽ(馬場町・教育塔)」「その4われら御楯(鶴橋の闇市)」「その5文明開化(梅田新道)」の5部構成。その1は同人誌「のおと」8号に昭和36年に発表されている。その4は「文学界」の昭和40年9月号に掲載され、その5は単行本(文芸春秋新社)刊行時に書き下ろされている。田辺はその4と5の間に「感傷旅行」で芥川賞を受賞している。作家の環境には大きな変化があったのだが文体に大きな変化は少なくとも私には感じられない。これは田辺の初期の名作「花狩」にも言えることであり、田辺はデビュー当時から完成された文体を持っていたのである。写真館の娘であるトキコの小学生がその1に、女学生がその2、その3、女子専門学生がその4、敗戦後の商店事務員がその5で描かれている。戦中、トキコは無論のこと軍国少女であるが、淡い初恋もするし戦争を嫌う若い女教師との交流や朝鮮人牧師ボク先生との出会いもある。私の母は田辺よりもやや年長だが、子どものころ「戦争だけは絶対いけない」と聞かされた記憶がある。田辺には他に戦争で結婚の機会を失ったオールドミスを描いた短編など戦争の痕跡を感じさせるものがいくつかある。

10月某日
「怒り」(吉田修一 中公文庫 2016年1月 単行本は2014年1月)を読む。上下巻で500ページ以上の作品だが一気に読んでしまった。東京郊外の住宅地で夫婦が惨殺される。新宿でソープランドに勤めていた娘を故郷の房総の漁港に連れ戻す男、沖縄の波留間島で民宿に勤める母と暮らす女子高生、東京の広告代理店に勤めるゲイの青年、犯人を追う刑事、などなどいくつかのエピソードが目まぐるしく交差する。交差するのだけれどストーリーは非常に秩序だっていてわかりやすい。吉田修一の作家としての並々ならぬ力量を感じさせる。「怒り」は渡辺健主演で映画化されている。映画を観た原作を読んでいない私の奥さんが「映画ではこうだったけど原作はどうだったの?」と聞くのだけれど私は「さぁーどうだったかな」とはなはだ頼りない。ストーリーが面白いと物語にのめり込みすぎて筋の細部は記憶から飛んでしまうということってありませんか?

10月某日
船橋リハビリテーション病院でお世話になった伊藤隆夫さんが輝生会を退職したという話を聞いたので青海社の工藤社長に連絡を取ってもらって我孫子で会うことにした。何故、我孫子かというと工藤社長も私も我孫子に住んでいるし、伊藤さんは我孫子の先の藤代在住だからだ。ついでと言っては何だけど我孫子在住の吉武民樹川村女子学生大学教授も誘う。前にも一度利用したことのある我孫子駅南口の「海鮮処いわい」を6時に予約。私が6時前に到着してビールを吞んでいると伊藤さんが来る。吉武さんが少し遅れるということなので工藤社長が来たところで乾杯。工藤社長は糖尿ということで酒は控え気味ということだった。吉武さんも加わって話はさらに盛り上がった。3人と別れて私は一人で我孫子駅前の「愛花」へ。

10月某日
介護職に一部医療行為が解禁されたことを受けて、介護職の手技トレーニング用にデザイナーの土方さんが開発したのが「胃ろう・吸引」マスター。これに「気管カニューレ吸引」のシミュレーターが加わったので、開発者の土方さん、販売のHCMの大橋社長、それに当社から私と迫田、酒井が加わって実技演習と販売会議をHCM社で。当初想定していた介護職からの関心は一部を除いて低いものの、看護職の多くは高い関心を示してくれる。途中から開発に協力してくれた「硬質ウレタン樹脂」成型メーカーの亀井社長も参加してくれた。会議が終わって、打合せがある亀井社長を除いて西新橋の「おんじき」へ。

社長の酒中日記 9月その4

9月某日
三島由紀夫賞の受賞会見で著者、蓮見重彦のとぼけた受け答えで話題となった「伯爵夫人」(新潮社 16年6月刊)を読む。舞台は戦前の東京、中国大陸と欧州の戦火が拡大し太平洋での新たな戦争も予感される昭和16年。主人公は来年、帝大の受験を控える二朗と二朗の屋敷に同居する謎の伯爵夫人。伯爵夫人は倫敦で高級娼婦やスパイもどきの冒険を経験した過去を持つ。伯爵夫人の性体験が「熟れたまんこ」「金玉」という俗語、卑語とともに明らかにされる。この小説はひとつの文化の成熟、爛熟と退廃を背景にして成立する。明治から大正、昭和にかけて成熟してきたひとつの文化は、昭和戦前期の爛熟、退廃を経て敗戦により終焉を迎える。同じように江戸の文化は文化・文政期の爛熟と退廃を経て明治維新により終焉する。小説の本旨とは違うが小説を読みながらそんなことを考えた。

9月某日
夜半に目が覚め何気なくNHKBS1にチャンネルを合わせるとチェ・ゲバラの映像が。キューバ革命が成功してからゲバラは中央銀行総裁、工業相などを歴任しながら、やがてすべての要職を辞任しアフリカ、コンゴや南米ボリビアでの武装ゲリラ闘争に赴く。番組ではその背景には現実主義者のカストロと世界革命の理想を追うゲバラとの確執があったことを、当時のゲバラの側近や歴史家、ジャーナリストのインタビューを通して明らかにしていく。キューバとアメリカが国交を回復し、日本とも国交を回復した。カストロは昨年、国家評議会議長の座を弟のラウルに譲った。一方、ゲバラは50年近く前の1967年10月、ボリビア山中で政府軍に捕えられ銃殺されている。カストロの路線が正しかったことは明らかだが、ゲバラの考えや彼が理想としてきたことは人民の記憶に永久に残ると思う。

9月某日
佐野真一の「唐牛伝-敗者の戦後漂流」の出版記念報告会に参加。受付で唐牛さんの未亡人、真喜子さんと浪漫堂の倉垣君に挨拶。報告会は2部構成で1部は元外務省の孫崎と佐野の講演。孫崎と佐野の講演はそれなりに面白かった。講演会後のパーティでは唐牛さんの墓をデザインした秋山祐徳太子や元ブント叛旗派の三上治といった人たちが挨拶していた。結核予防会の竹下さんと途中で抜け出し、新橋の「鯨の胃袋」へ。フィスメックの小出社長も来る。3人で神田のスナック「昴」へ。

9月某日
図書館で借りた佐藤雅美の「物書同心居眠り紋蔵-魔物が棲む町」(講談社文庫 2013年2月 単行本は2012年2月)を読む。物書同心とは今でいう調書を取る人。居眠り紋蔵は今でいうナルコレプシーなのか、所かまわず居眠りをしてしまう。ついたあだ名が居眠り紋蔵である。町奉行の長官には直参の旗本が就任する。今でいうキャリア官僚である。しかしその下の与力、同心は一代限りの御家人が当たる。ノンキャリアである。したがって佐藤の捕物シリーズは現代でいう警視庁の刑事ものということになる。佐藤の時代小説は時代考証がしっかりしているからだろうか、読んでいると自分もその時代に生きているよう気がしてくるのである。

9月某日
休日出勤。国際厚生事業団に出向している伊東和也君が出勤していた。午後、花小金井のベネッセの経営する有料老人ホームに入居している荻島道子さんを訪問。道子さんは20年ほど前に亡くなった厚生官僚の荻島國男さんの奥さん。私は荻島國男さんとは老人保健制度のパンフレットづくりを手伝ったことから親しくさせてもらった。というか荻島さんをきっかけに同期の江利川さんや酒井さん、川邉さんたちと親しくなり、厚生省のネットワークが次々と広がっていったような気がする。私の大恩人なのだ。私が11月で社長を退任することを伝え、退任パーティでご子息の良太君にサックスを演奏してもらいたい旨お願いする。花小金井から池袋の芸術劇場へ。社会福祉法人にんじんの会の理事長で立教大学大学院の客員教授の石川はるえさんと現在進めている虐待防止パンフレットの打合せ。芸術劇場のレストランでビールとワインをご馳走になる。我孫子へ帰って駅前の「愛花」へ。しばらく店を閉めていたがママの実家に不幸があったようだ。

9月某日
「コーポレート・ガバナンス―経営者の交代と報酬はどうあるべきか」(久保克行 日本経済新聞出版社 2010年1月)を図書館で借りて読む。コーポレート・ガバナンスについて論じた本は多いが、経営者の交代や報酬にからめて論じられたものは少ないように思う。本書はそれをアメリカと日本を対比して分かりやすく論じている。日本に比べてアメリカの大企業の経営者の報酬は驚くほど高い。ストックオプションなど自社の株価に連動した報酬体系になっているからだ。だがそれがエンロンなどの不正を呼んだとの指摘もある。さらにアメリカの経営者は株価に反映される短期的な利益の追求に走りがちという批判もある。著者の考えを乱暴に要約すれば、日本の経営者の報酬は企業への業績の連動性がアメリカのそれに比べると圧倒的に低い。アメリカ並みにせよとは言わないがもう少し高めた方が企業にとっても経営者にとってもいいのではないか、というものだ。この考えは正しいと思うが、そもそも経営マインドとは金銭的インセンティブのみに左右されるものなのか、という疑問が残る。私としては金銭的インセンティブも大切だが、会社の業績が悪いときは「武士は食わねど高楊枝」というのも大事だと思いますね。

社長の酒中日記 9月その3

9月某日
共同通信の城さんには日頃から色々とお世話になっているので夕食に誘う。当社の迫田、アルバイトの酒井君にセルフケア・ネットワークの高本代表理事、SMSの竹原さんが参加。
場所は西新橋のイタリア家庭料理の店「LaMamma」。私以外は全員女性なので、西新橋で弁護士事務所を開業している大学の同級生、雨宮君を誘う。雨宮君は検事出身の弁護士。通称「ヤメ検」だが、最近の若い人には通じなかった。

9月某日
厚労省の老健局長、蒲原さんにインタビュー。総合事業などについて丁寧に説明してくれる。当社の迫田が「現場をよく知っているし、偉そうじゃないし、いい人ですね」と言っていた。午後、社会保険出版社で打合せ。このところ社会保険出版社からの受注が増えている。中村秀一さんの単行本を現在進行しているが発売元を社会保険出版社にすることについて大筋合意。その後、虎ノ門フォーラムに中村さんを訪ねて報告。

9月某日
民介協の研修会に参加。テーマは「すぐに始めたい中小介護事業者の災害対策」、講師は東日本大震災で被災した石巻市のパンプキン、渡邊智仁社長。私は震災の2か月後、石巻市に入り当時常務だった渡邊さんと今は会長となっているお父さんに取材した。今は柔和な笑顔で話をしてくれる渡邊さんだが、当時は震災直後なだけに随分と厳しい表情だったのを覚えている。だが、私がそのとき一番感心したのは渡邊さんのお父さんの話だ。それも震災の話ではなく彼の半生についてだ。彼は20歳ごろトラックの運転手をしていて交通事故に巻き込まれた。私と同い年と言っていたから50年近く前の話である。「最初の病院に担ぎ込まれたらここでは治せませんっていわれてさ。そりゃそうだよ、そこは産婦人科だったんだ」と彼はなかなかユーモアのセンスもあるのである。大腿部から足を切断するほどの大ケガだったが、足の切断は免れた。しかし体はギブスで固定され身動きもままならなかった。20歳を超えたばかりの青年は荒れに荒れ、様子を見に来る看護師に当たり散らしたという。そんな彼を変えたのは看護師長の献身的な看護だったという。病院で勉強を続け、各種の資格試験にも合格した。2年間の入院生活を経て、入院中に取得した無線技士の資格を活かしてタクシーの配車係に就職。結婚した相手が栄養士だったこともあり、タクシー会社を経営する傍らレストランにも進出する。これがのちの配食サービスや移送サービスにつながることになる。ギブスで体を固定された絶望の日々からみごとに復活したわけである。看護師長の献身的な看護に触れ「いつかはそんな仕事がしてみたい」という思いが今の介護の仕事につながっているわけである。大震災であれ大事故であれ、生きてさえいれば、希望を捨てなければ復活できるのである。渡邊智仁さんの話を聞きながらお父さんの話を思い出した。

9月某日
みずほ銀行の清木さん、フィスメックの小出社長、社会保険福祉協会の内田さんと富国倶楽部で会食。この3人は年金転貸融資の団体、全住協の出向仲間。当社もシンポジウムの開催、運営やパンフレットや機関誌の制作でお世話になった。約束の5時半に少し遅れて富国倶楽部へ着くと小出社長がすでに来ていた。少し遅れて内田さんが来る。富国生命ビルに一番近い旧第一勧銀の本店ビルで働いている清木さんが一番遅れて6時半過ぎに登場。銀行は忙しいのである。

9月某日
SMSの山田浩平君とSMSで打合せ。当社の迫田とアルバイトの酒井佳代君が同行。山田君は介護事業関連のコンサルを経て入社、カイポケマガジンの編集の他、コンサルタント業務もやっているとのこと。酒井君は9月からアルバイトとして手伝ってくれている。酒井君は昨年、拓殖大国際学部を卒業、シルバー産業新聞に入社、8月に同社を退社するとの挨拶メールをもらった。当社も慢性的な人手不足だが新たに社員を雇用する余裕もないことから取り敢えずアルバイトとして入社してもらった。打合せ後、山田君も一緒に会社近くの「跳人」で呑み会。健康生きがいづくり財団の大谷常務も参加。大谷常務に川村女子学園大学の吉武さんから修猷館高校の同窓会があり、福岡の羽田野弁護士が上京しているので根津の「ふらここ」に9時頃行くとの連絡が入る。大谷さんと福岡に出張したとき羽田野弁護士にはたいへんご馳走になった。「跳人」のあと、大谷さんと「ふらここ」へ。吉武さん、羽田野さん、大谷さんと私は同じ年。羽田野さんだけが髪黒々であった。

9月某日
図書館から借りた「自由の思想史―市場とデモクラシーは擁護できるか」(猪木武徳 新潮選書 16年5月刊)を読む。猪木は「まえがき」で本書について「一学徒が人間精神の自由、政治経済体制としての自由の問題を、個人的な思い出をまじえて著した回想の記ともいえる」と書いているが、ソクラテス、アダム・スミス、ヒューム、福沢諭吉、ケインズ等々内外、古今の学説を紹介をしつつ、そこに個人的な回想(たとえば学生時代の麻雀から学んだことなど)を交えたエッセーである。たいへん魅力的な語り口で好感が持てたが、私の知識不足、それは教養不足と言い換えてもよいが、理解は不十分だったと思う。

9月某日
高校の同期会が銀座の「銀波」で16時から。私の卒業した高校は北海道室蘭市の道立室蘭東高校といって、私が入学したのは昭和39年、前年に創立されたばかりの学校であった。普通高校としては旧室蘭中学の栄高校、旧室蘭高女の清水が丘高校に続く市内で三番目の高校。要するに急増するベビーブーマー世代の受け皿だったのだろう。とうに役割を終えて何年か前に室蘭商業高校と統合されて名前も東翔高校となったらしい。普通科3、商業科2の小さな高校だが、普通科3クラスは仲が良く何年か前から出光のOBの品川君が幹事になって年に1回、首都圏の同期が集まっている。隣に座った竹本君ともっぱら話す。竹本君は高卒後、千葉県の民間企業に就職、県警に入り刑事畑を歩み警部まで昇進するが親の介護で早期退職した。介護や福祉について驚くほど詳しい。

社長の酒中日記 9月その2

9月某日
介護ロボットの取材で厚労省老健局高齢者支援課の介護ロボット開発普及推進官の小林毅さんに取材。小林さんは作業療法士で現場経験も豊富で教員の経験もあるという。ロボットにしろ車椅子やスライディングシートなどの機器や道具は上手につかいこなせるかどうかがカギのような気がする。過度に期待するのは禁物と思いながら、人工知能の開発などを見聞きすると鉄腕アトムのような人型ロボットも夢とは言えないかもしれない。夜、フィスメックの田中会長と神田の「福一」へ。当社にバイトで来ている川隅さんから頂いた日本酒、「酒一筋 赤磐雄町」を持ち込む。

9月某日
日経朝刊の「経済教室」で岩本康志東大教授が「現在の財政政策は、リーマン危機からのケガが癒えても治療を続けているところに、次のケガに備えてさらに治療を上乗せするようなものだ」とし「注力すべきは財政・金融政策ではなく、構造改革だ。そして政府に頼らない民間の強い活力が必要だ」と書いていた。消費増税を延期し追加の財政出動を行うという現状の財政・金融政策に対する批判である。同感です。夜、国立病院機構の古都副理事長と東京駅丸の内口の三菱東京UFJ信託銀行本店ビル地下1階の「ヴァン・ドゥ・ヴィ」で待ち合わせ。6時過ぎに当社の迫田とまずビールで乾杯、次いで東京介護福祉士会の白井会長と健康生きがい財団の大谷常務が来る。7時ごろに古都さんが来て全員が揃う。

9月某日
図書館で借りた「ニシノユキヒコの恋と冒険」(川上弘美 新潮文庫 平成18年8月初版 単行本は15年11月)を読む。西野幸彦は姿よしセックスよし。女には一も二もなく優しい。だけど最後は必ず女性に去られてしまう。交情があった10人の女性が思いを語るというこの連作小説、私には面白いと感じられた。恋愛とは結局のところ思い込みであり、すれ違いなんだということが書かれているような気がする。川上の「センセイの鞄」もそんなことが書かれていたように思うが、どうなんだろう。

9月某日
「へるぱ!」の取材で茨城県日立市へ。「日立市における新しい総合事業の取組み状況」を取材。総合事業を立ち上げた黒澤さん、保健師の大森さん、看護師の白木さんが取材に応じてくれる。日立市は既存の地域コミュニュティの組織力を上手に活用しているのが特徴。社協やシルバー人材センター、社会福祉事業団がうまく機能しているようだった。それと町内会や老人会、地区社協など市内の23団体で構成される「地区コミュニティ推進会」の働きも見逃せない。保険料と税金だけではこれからの高齢者の暮らしを支えていくのは困難だ。日立市の取組みは住民の互助と行政の連携のモデルケースと言えそうだ。
元三井海上の公務部にいた宮本良雄さん(現在かんぽ生命)と元年住協(現在環境協会)の林さんと会社近くの「跳人」で吞む。医療事務協会に勤める町田智子さん(元国民年金協会)から大分土産の焼酎とカボスをいただいたのでビールで乾杯のあと、早速焼酎の水割りにカボスのスライスを浮かべて頂く。3人とも酒好きなので頂いた焼酎を1本空け、ボトルを預けていたバーボンの残りも空ける。相当酔ったようで、次の日左腕に着けていた腕時計の金属のバンドが破損していることに気付く。そういえば左足の靴が泥で汚れているうえ、左腕に鈍痛が。おそらく帰宅途中に転倒したものと思われるが全然覚えていない。気を付けないとね。反省!

9月某日
桐野夏生の新作「サルの見る夢」(講談社 16年8月刊)を我孫子駅前の書店で購入。桐野は我孫子市民図書館でも大人気で、新作が出るとリクエストは数十人に及ぶ。で、桐野の新刊は書店で買うことになる。450ページの大作だが土曜日の午後に買って日曜日の午前中には読み終わっていた。「巻を置く能わず」という感じで読み進んだ。主人公は元銀行員で現在は女性衣料品製造小売業の「OLIVE」の財務担当取締役、薄井正明59歳である。薄井には銀行の元部下だった愛人がいて彼女のもとに週2回通っている。そのうえ「OLIVE」創業者で現在会長の秘書にも魅力を感じて近づこうと思っている。まぁ女好きでケチな野郎である。だが読み進むうちに主人公に同化していく自分に気付く。「こいつって俺みたい」。社内のセクハラ、母の死と妹夫婦との遺産争い、妻の呼び寄せた謎の占い師といくつかのストーリーが交錯する。それらのストーリーを巧みにつないでいくのは作者の力量であろう。この本の帯に桐野が「これまでで一番愛おしい男を書いた。」というメッセージを寄せている。桐野の意図はわからないけれど、男の欲望(愛欲、物欲、出世欲)が嫌らしくも切なく描かれているのは事実。読後感はちょいとやるせない。

9月某日
高橋ハムさんが代表を務める「プロジェクト猪」からニュースレターに同封されて「日大闘争の記録-忘れざる日々」が送られてきた。日大闘争とは不正経理の追求に端を発した日大の全学共闘会議と大学当局、右翼暴力団、警察権力との一連の闘いである。1968年の11月22日の東大安田講堂前で開かれた「東大日大闘争勝利!全国学生総決起集会」には私も青ヘルメットを被って参加した。当時私が1年生として在学していた早大政経学部の自治会が社青同解放派で、当時はセクトによって被るヘルメットの色が決まっていた。ちなみに社学同が赤、中核派が白、革マルは白ヘルの縁に赤いテープを貼って、ヘルメットの正面に大きくZと画いていた。Zは全学連のこと。11月以降、早稲田では解放派と革マルの緊張が激化、解放派は早稲田から放逐され東大駒場に逃れる。私も当初は東大駒場に詰めていたのだが、激化する内ゲバに耐え切れず敵前逃亡した。翌年の1969年の1月18日、19日の安田講堂の攻防戦を経て、4月17日早稲田の反戦連合を核とする反革マル連合は革マルの戒厳令を突破、大学本部封鎖を敢行する。私も前夜から明治大学の学生会館に泊まり込み、確か東西線の神楽坂から隊列を組んで早稲田の正門に向かった覚えがある。早稲田の全共闘運動は、東大や日大に比べると大変に甘く底の浅いものであったと言わざるを得ないけれど、私の人生に与えた影響ははかり知れないものがある。

社長の酒中日記 9月その1

9月某日
日刊企画の小見山社長とニュー新橋ビル2階の「初藤」で待ち合わせ。小見山氏は私が大学を出て初めて務めた「しば企画」という印刷屋の同僚。私は「スピカ」という写植機で文字を拾い、小見山氏は私たちが印字したフィルムを切り張りして新聞やチラシの原版に仕上げていた。私は学生運動に挫折して、当時付き合っていた女性(今の奥さん)と所帯を持とうと思ったものの、志望した出版社の試験には軒並み落ちてしまった。学生運動の流れで大学2年のとき懲役1年6カ月執行猶予2年の判決を受けており試験に落ちるのも当然なのだが、「どうしようか?」と思っていたら、友人の村松君が「俺の親戚がやっている印刷屋に行かないか?」と誘ってくれたのが「しば企画」である。私や村松君だけでなく就職にあぶれた学生運動崩れが何人かその会社に拾われた。私や村松君は2年ほどでその会社を辞めたのだが、小見山氏は踏みとどまって苦労したらしい。小見山氏は日本製版というフジサンケイグループの印刷会社に移り、その後、日刊企画という会社を立ち上げた。23歳からの付き合いだからもう45年の付き合いである。とは言え小見山氏には一方的にご馳走になる関係が続いている。本日もご馳走になってしまった。

9月某日
茨城県の常陽カントリー倶楽部でゴルフ。元社会保険庁長官の末次さん、元社会援護局の高根さん、それと我孫子在住で川村女子学園大学の教授の吉武さんと回った。吉武さんのベンツに乗せてもらってゴルフ場へ向かう。私はゴルフは元々下手なうえ脳出血で右半身の自由が利かなくなってからさらに下手になった。それでも末次さんたちは私の「健康のため」を思って誘ってくれる。ありがたいことである。今日はミドルコースでパーをひとつとることが出来ました。

9月某日
吉武さんに誘われて医療事務を教えている大学や専門学校の団体、日本医療福祉実務教育協会全体研修会に参加する。輝生会の小林由紀子常務理事の講演は、初台のリハビリテーション病院の例を上げての講演で、私が入院していた船橋市立リハビリテーション病院も輝生会の経営なのでなつかしかった。講演会後、隅田川を遊覧しながら懇親会にも参加。

9月某日
健康生きがい開発財団の大谷常務から借りた「唐牛伝-敗者の戦後漂流」(佐野真一 小学館 16年8月刊)を読む。唐牛とは60年安保の全学連委員長だった唐牛健太郎のことだ。唐牛は函館で生まれ北大に入学、60年安保の前年に全学連委員長に就任、60年安保後、右翼の田中清玄から資金が渡っていたことが暴露され、北海道で漁師をしたり新橋で居酒屋を経営したりした後、最期は徳洲会と組んだ。唐牛は函館の実業家が芸者に産ませた庶子だった。そのことが唐牛に大きな心理的な影響を与えたというのが作者の佐野の考えだ。佐野が正しいかどうか分からないが、唐牛は戦後日本が生んだ最大の異端児だと私は思う。60年安保闘争は大衆運動としては空前絶後の規模で戦われ、その実質的な指導は全学連が担っていた。全学連は当然、共産主義者同盟(ブント)の指導を受けていたわけだが、全学連の委員長と言えば文句なしのスターだった。当時のブントや全学連の指導者は青木昌彦、西部邁、加藤尚武のように学者になった人も多いが唐牛の生涯は異彩を放っている。佐野がその異彩を十分にとらえられたかどうか、私は「惜しい」と思うものです。

9月某日
大谷さんと元全社協副会長で東京海上日動の顧問をしている小林和弘さん、東京海上日動の公務開発部の小林中部長、国際厚生事業団の角田専務、健康生きがい開発財団の藤村次長とで「ビアレストランかまくら橋」へ。6人で赤ワイン2本、白ワイン1本を空ける。このメンバーは仕事と関係ないわけではないけれど、仕事の話をするでもなく楽しく歓談させてもらった。

9月某日
三田国際ビルのヤマシタコーポレーションのショールームで杖を購入。今持っている杖は6年前に船橋リハビリテーション病院に入院しているときに購入したものだが、先日、社会福祉法人にんじんの会の石川理事長を訪ねた際に忘れてきてしまった。事務長の伊藤さんに保管をお願いしたが、この際新しいのを買うことにした。新しい杖をつきながら経済産業省の産業機械課ロボット政策室に、介護現場に適応するロボット開発の現状を取材に行く。当社の迫田に同行。取材に応じてくれた栗原優子補佐は、役人にしておくのはもったいないほどの美人であった。聞くと着任して3か月、それまではアメリカに留学していたとのこと。天はときに二物を与えるものですね。インタビュー後、西新橋の社会保険福祉協会が入っているビルの地下の「風林火山」へ。HCMの大橋社長と待ち合わせ。迫田と生ビールを吞んでいると大橋社長が来る。「風林火山」は小林さんと角田さんがよく利用すると言っていたが、確かに料理は安くて美味しかった。

社長の酒中日記 8月その5

8月某日
当社の石津さんが会社の帰りに御徒町の歯医者さんに行くという。「それじゃ御徒町で吞もう」ということになった。なんでもその歯医者さんは「奥さん公認酒場 岩手屋」の近くらしい。岩手屋というのには、私が日本木工新聞社という業界紙の記者をしていたころ、何回か行ったことがある。もう40年近く前になるのだが、その業界紙を印刷している工場が湯島にあり、校正の帰りに校正部の石渡さんに連れて行ってもらったのだと思う。でも今回は岩手屋ではなく、御徒町駅前のスーパー「吉池」の8階にある「吉池食堂」にする。
ここは「食堂」と言う名前がついているだけにつまみが充実している。石津さんが歯医者さんに行っている間、私は吉池食堂に先行。「晩酌セット」を頼む。晩酌セットは日本酒1合か生ビール1杯につまみが3点ついて、確か800円くらいだったと思う。「セット」と名がついているとつい頼みたくなってしまう私である。30分くらいで生ビールの「晩酌セット」を吞み終わり日本酒に。日本酒を3杯くらい吞んだ頃に石津さんが来る。

8月某日
土曜日だけど出社して残務整理。あまり気が乗らないので14時頃帰ることにする。吉池食堂で抽選券をもらったことを思い出し、御徒町のスーパー吉池に寄ることにする。地下2階の抽選会場に行くと、「3回、抽選機を回してください」と言われる。茶色い球が3つ出て「うどん」か「鮭」を選べということなので「うどん」を選ぶ。日曜日の昼食に食べたが意外においしかった。

8月某日
図書館で借りた「森は知っている」(吉田修一 幻冬舎 15年4月)を読む。何ページか読んで「あれっ読んだことがある」と気付く。奥付を見ると去年の4月の発行だから1年位前に読んだことになる。読み進むうちにストーリーは思い出してくるのだが、細部は思い出せない。ボケてきたのかもしれないが同じ本を短期間に2度読んで、違った感慨を抱くというのも悪くないと思った。吉田修一にしてはストーリーは荒唐無稽な冒険譚だ。AN通信という通信社を装うある種の秘密結社がある。企業や国家の機密情報を入手して高値で売るという組織だ。組織員は孤児によって構成されている。石垣島の南西60キロの南蘭島の高校に通う鷹野が主人公だ。鷹野は知的障害の弟と暮らす柳とともに高校に通う傍ら構成員としてのトレーニングを受けているのだ。最初に読んだときはAN通信と構成員の裏切りと言ったスリルとサスペンスが主題と思ったのだが、今回読んで感じたのは「子どもの無垢」ということだ。鷹野は幼いころに児童虐待を受け、実の母親に弟とともに自宅にわずかな食べ物とともに監禁される。餓死した弟を抱きながら糞尿にまみれた姿で発見された鷹野はAN通信に引き取られる。この時点の鷹野は完全な被害者であり「無垢」である。柳の知的障害の弟も「無垢」として描かれる。離島の高校生の鷹野も柳も「無垢」である。さてこれからである。柳は知的障害の弟と海外で暮らす資金を得ようと組織を裏切る。鷹野もそれに手を貸す。「目的は手段を浄化できるか?」という話にもつながるのだが、いずれにしても粗削りなストーリーもまた私には魅力的であった。

8月某日
「日本財政 転換の指針」(井手英策 岩波新書 12年12月)を読む。著者は東大経済学部、同大学院博士課程修了で現在、慶應大学の経済学部教授。専攻は財政社会学。財政社会学とは聞いたことがないが、財政を収支で見るのではなく「社会的」に見て評価するということだろうと、本書を読んで思った。「国の借金、1000兆円」というのが独り歩きしたのかも知れないが、私なども財政再建は「待ったなし」だし、消費増税の再延期に対して「愚かなこと」だと思っている。いまさらその考えを変えようとは思わないが、本書を読んで財政の「入り」と「出」だけに目を向けて財政再建を至上命令とする考え方には疑問を持つようになった。人口が増大し経済が成長し続ける時代は終わった。成長の果実を分配する財政から、人口が減少し高齢化が進むなかで負担を公平に分担する財政へと転換しなければならないのだが、それができていない。それを訴える政治家も政党もいないのではなかろうか。

8月某日
元年住協の青木さんと久しぶりに吞む。青木さんとは年住協の広報誌「年金と住宅」の編集をやってからの付き合いだからもう30年の付き合いになる。向かいのビルの地下1階の「跳人」で昔話に花が咲く。近くの「神田バー」に寄って秋葉原で別れる。我孫子で駅前の「愛花」に寄ると、看護師で今は東京有明大学の助教をやっている上田さんが大阪の病院で一緒だった先輩の看護師と来ていた。先輩は今は休業中で「訪問看護」をやりたいと言っていた。

8月某日
「健康・生きがいづくり財団」の大谷常務と神田の葡萄舎へ行く。5時半過ぎに葡萄舎に行くとまだお客は誰も来ていない。店主の賢ちゃんと店を手伝っている賢ちゃんのお姉さんと雑談しているうちに大谷さんが現れる。大谷さんは佐野真一の「唐牛伝-敗者の戦後漂流」(小学館)を貸してくれる。唐牛伝とは60年安保のときの全学連委員長、唐牛健太郎のドキュメントである。私は60年安保のときは小学校の6年生で、6月15日の翌朝、母親が真剣な顔をして「昨日、女子学生が死んだの」と告げ、子どもながらにただならぬ雰囲気を感じたことを覚えている。私自身は唐牛健太郎と面識はないが、唐牛の未亡人の真喜子さんとは何度か吞んだことがあるが、さっぱりしたいい人である。思えば60年安保から60年近く経過しているわけだ。

社長の酒中日記 8月その4

8月某日
西国分寺の「にんじんホーム」で石川はるえ理事長に面談。石川さんが進めている虐待防止の絵本制作プロジェクト「いのちすこやかプロジェクト」について意見を具申。共通の友人である長岡市長の森さんが新潟県知事選挙に出馬することについても意見交換。そのあと西国分寺駅北口のイワシ料理の店「たつみ」でご馳走になる。この店は何度か連れて行ってもらったが、料理が美味しいうえお店で働いている人がとても感じがいい。

8月某日
SMSで「カイポケマガジン」編集長の田中君、当社の迫田と次号以降の打合せ。SMSは住友不動産芝公園タワービルの2フロアを使用している。世間的な知名度は高くないが介護事業者に介護報酬請求などのソフトを販売したり、介護人材情報の提供などで業績を伸ばしている新興の優良企業。ネットマガジンの編集などを請け負っていたが「カイポケマガジン」は介護事業者向けの活字媒体だ。田中君はなかなかの好青年で打合せを終えた後で「吞みに行こう」と約束していたが、頚椎を痛めたとかで今回は参加できず。元厚労省で長崎県立大学の客員教授をしている堤修三さんに声をかけていたので「飲み会」の方は予定通りに実行。SMSの長久保君に声をかけたら「空いてます」ということなので誘うことにした。西新橋の「花半」に行くと堤さんはすでに来ていた。ビールで乾杯のあと冷酒に。遅れて長久保君が来た頃にはだいぶ酔っていた。

8月某日
久しぶりに吞もうとプレハブ建築協会の合田専務と高齢者住宅財団の落合さんにメール。今日が都合がいいということなので神田駅前の葡萄舎に集合。6時半過ぎに行ったら合田さんがすでに来ていた。落合さんが遅れてくるということなので先に始める。合田さんは元建設省の住宅技官。私が日本プレハブ新聞で建設省住宅局の住宅生産課を取材していたとき、プレハブ住宅担当の係長だった。昔話をしていると落合さんが来る。落合さんは高齢者住宅財団で企画や調査、機関誌の編集などをやっている(と思う。仕事の話はあまりしないのでよくは知らない)。合田さんとは30年以上、落合さんとは20年以上の付き合い。
合田さんは熊本地震への仮設住宅の対応で今週は熊本出張ということだ。

8月某日
図書館から借りた佐藤雅美の「八州廻り桑山十兵衛 花輪茂十郎の特技」(文春文庫 08年4月 単行本は05年4月)を読む。佐藤雅美は物語の筋が面白いうえに時代考証がしっかりしていて私にはお気に入りの作家。主なシリーズに「半次捕物控」「物書同心居眠り紋蔵」「縮尻鏡三郎」「町医北村宗哲」それにこの「八州廻り桑山十兵衛」などがある。八州廻りとは関東取締出役の通称。八州は武蔵、相模、伊豆、下総、上総、下野、上野、常陸の八か国のこと(だと思う、多分)。将軍家お膝元の江戸近郊ということになるが、小藩と天領、旗本領が入り組み、治安の維持に苦慮した幕府が勘定奉行の配下に八州廻りをおいた。八州廻りの日当は一人一日銀十二匁六分、両に換算すると0.12両となり、年に実働300日として63両になる。その他「使い捨て(領収書の要らない出費)が日に300文、年に13両の合計76両。これに桑山十兵衛の90俵3人扶持を金に換算するとおよそ40両弱。つまり年収で言えば116両と言ったところ。八州廻りは町奉行で言えば同心と同格のようだから「お目見え」以下の御家人、幕府の官僚組織では直参の旗本をキャリア官僚とすれば御家人はノンキャリの専門職か。と言うようなことを考えながら読む楽しみも佐藤雅美の小説にはあるのだ。

8月某日
図書館でたまたま手にした新潮文庫の「消費税 政と官との『10年戦争』」(清水真人 2015年)が面白そうだったので借りることにする。文庫本でも500ページを超えると読み応えがあるが、この本はボリュームだけではなく中身も十分読み応えがある。著者の清水は1964年生まれ。東大法学部卒の日経の記者だが政治家と官僚を中心に、相当なネットワークを築いているとみられる。消費税を巡る政官の10年戦争と言うことだが、絞ると政は自民党、公明党と民主党、官は財政省と厚労省である。なぜ厚労省かと言えば、消費増税分はすなわち社会保障の充実に費やされることになっており、もし消費増税がなかりせば高齢化に伴う社会保障給付費用の増大を賄いきれず、国家財政は破たんを余儀なくされるからである。したがって本書にも江利川、香取、山崎、阿曽沼といった私の知っている厚生官僚たちも登場する。
自公政権から民主党へ、さらに民主党から自公へと、この国は2度の政権交代を経験した。政権交代は無用な混乱を招くことも多々あるが、「政権交代も悪いことばかりじゃないな」と本書を読んで感じた。ときの政権が不安定であることが政権交代の一つの要因だと思うが、不安定であるがゆえに与野党ともに真剣に政策論議を深めるのではないかと思う。その意味では自民党が圧倒多数を占める国会、安倍首相の1強他弱状態の自民党、どっちも緊張感に欠けているのじゃないの?と言わざるを得ません。

社長の酒中日記 8月その3

8月某日
「健康生きがい財団」の大谷常務と日暮里駅で待ち合わせ。日暮里駅前に騎馬の銅像があったので見ると太田道灌の像とあった。狩りの途中、雨にあった道灌が百姓家の娘に蓑を乞うと娘は黙って山吹の花を差し出した。道灌は訳が分からず立ち去って、後で知人に聞くとこれは「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき」という古歌に則ったもので「貧しくてお貸しする蓑はない」ことを「実の一つだに無きぞ悲しき」に込めたものだと知る。学問を軽んじていた道灌はそれ以降学問にも精進するようになった、というような説明文が書かれていた。たぶんこのエピソードは戦前の小学校の教科書にのっていたのだろう、戦前世代には広く知られた話だと思う。私は50年以上前、小学生向けの歴史の本かなんかで読んだ記憶がある。これは私には実話とは思えないのだが、そうだとしたらこのような「伝説」はいつ頃どのように形成されるのだろうか。というようなことを考えていると大谷さんが来た。大谷さんが前に行ったことがあるという「ただいま」という店に入る。値段もリーズナブルでつまみ類も充実していた。大谷さんには先日、偲ぶ会が開かれた新木正人さんのことをいろいろ聞いた。

8月某日

その新木正人の「天使の誘惑」(論創社 16年6月)を読む。40年以上前に「遠くまでいくんだ」誌に掲載されたものと書き下ろしなどから構成されている。それにしても「遠くまでいくんだ」に掲載されたものの原型は新木が埼玉県立浦和高校時代に構想されたものというからその早熟さに驚かされる。巻末の小田光雄による解説(「天使の誘惑」に寄せて)に依ると亀和田武が「保田與重郎全集」の月報に新木の文章を保田與重郎の文体に重ね合わせて「私の場合なら、この新木正人という当時もそしてその後もほとんどその名を知られることのなかった人物の書いたものこそ、まさにそうした美しさといかがわしさとあやしさとを兼ね備えた種類の文章であった」と書いているそうだ。「美しさといかがわしさとあやしさ」ね。うーん確かに。ただ私は書き下ろしの「ただの浪漫とただの理性がそこにころがっている」のなかの日本語論「日本語の本質は主語述語ではなく分泌性としての助詞助動詞」という断定に理解できたわけではないが感じ入った。それと新木の定時制高校の教師時代を回想した文章は文句なく素晴らしいと思う。いい先生だったんだろうな。こういう教師に出会った生徒は幸せである。

8月某日
元年住協の林弘之さんと我孫子の「七輪」で6時30分に待ち合わせ。林さんの自宅は新松戸だがわざわざ我孫子まで出向いてくれる。東海銀行で東京営業部の部長をしていた深谷さんのことが話題に出た。深谷さんは亡くなった大前さんとも仲が良く一緒にご馳走になったことがある。深谷さんは私より1~2歳上だと思うが早稲田の法学部出身で学生時代は革マルシンパだったらしい。たまたまその世代の法学部出身者を何人か知っているが、評論家の呉智英が全共闘で下関市会議員の田辺さんの旦那さんが民青で宮崎学をよく知っていると言っていた。多彩ですね。昔話をして吞みすぎた。

8月某日
ラシスコという発送業者に当社の在庫を預かっているが、確認のために倉庫を見せてもらうことになり当社の大山専務とラシスコの営業マン、江藤さんが運転する車でまず埼玉県三芳町の三芳業務センターを訪れる。昔、当社を担当していた大野さんに挨拶。ついで朝霞市根岸台の物流センターを見に行ったが、私の勉強不足もあるけれど機械化、情報化が進んでいるのに驚いた。江藤さんに朝霞台駅前の料理屋でご馳走になる。埼玉県は海なし県なのだがお刺身のおいしい店だった。

8月某日
地域包括ケアのパンフレットを制作中で、このところ神保町のデザイン会社に足を運ぶことが多い。デザイン会社の帰りに古本屋を覗いたら単行本が3冊500円とあったので、田辺聖子2冊、宮部みゆき1冊を買う。田辺聖子の「男の城」(講談社 昭和54年2月初版)を読む。初出は「女運長久」が文学界の昭和41年9月号で一番古く、一番新しいのは「花の記憶喪失」で問題小説昭和52年12月号であった。田辺聖子は昭和3年生まれだから30代後半から40代後半にかけての作品。小説家としてどのようなスタイルをとるべきか思い悩んでいた時期なのではないだろうか、「男の城」におさめられた短編には作者のそんな思いが私には感じられた。「ミルクと包丁」は田舎の食品スーパーの店員、吉平は窃盗の前科があるうえ妻を病気で亡くし借金で身動きが取れないという身の上。食品スーパーの主人と2人だけの忘年会の帰りにふと民家に忍び込む。民家には美人の後家と子供が寝ていた。吉平は美人の後家に身の上話をするうちにこの後家と再婚することを想像する。そのうちに寝込んでしまった吉平は、後家の機転で警官に踏み込まれてしまうのだが、私には田辺の同情心はさえない男、吉平に注がれているような気がする。「ミルクと包丁」の初出は昭和48年、高度経済成長の真っ只中である。高度経済成長から零れ落ちた男を描いた佳品である。

社長の酒中日記 8月その2

8月某日
図書館から借りた「里山資本主義―日本経済は「安心の原理」で動く」(角川oneテーマ21 13年7月 藻谷浩介・NHK広島取材班)を読む。今から3年前に出版された本だが、「地方から考える社会保障フォーラム」のテーマとして「里山資本主義」はどうかと思い、図書館から借りた。里山資本主義はマネー資本主義の対極にある概念である。マネー資本主義とは金融が支配するアメリカ的なグローバリズム経済のことで強欲資本主義とほとんど同義と私は感じた。「里山資本主義」は「足るを知る」経済である。岡山市内から車で1時間半、中国山地の山あいにある岡山県真庭市が舞台だ。建材メーカーの銘建工業が、建材の製造過程で出てくる木くずに着目、「木質バイオマス発電」に挑戦、発電所は24時間フル稼働で、出力は1時間に2000キロワット、一般家庭2000世帯分という。発電だけでは使い切れない木くずは円筒状のペレットに圧縮され、一般家庭の暖房用や農業用ハウスのボイラー燃料として売り出される。これは木材資源の豊富な中国山地の山あいだから成立する特殊解なのだろうか?真庭のような例は特殊解ではなく日本全国に通用する一般解であると藻谷は論ずるのだが、藻谷の射程は空間的にはグローバルに広がっているし、時間的には50年後を見据えている。

8月某日
SMSの発行する「カイポケMagazine」の取材、「介護事業者のICTへの取組み」で日本政策金融公庫総合研究所の竹内英二主席研究員に会う。場所は会社から歩いて5分の大手町ファイナンシャルシティのノースタワー。午後、同じテーマで大田区の介護事業所「カラーズ」の田尻社長に取材する。取材して分かったことはICTは目的ではなく、経営合理化の手段であること。手段ではあるがICTによって組織のムリムダを排除していかないと事業者は市場から退去せざるを得ないこと、ICTの導入にあたってはボトムアップではなくトップダウンでやらなければうまくいかないことなどだ。
夕方、川村女子大学の吉武民樹先生から「モリちゃん、「ふらここ」へ行こうよ。9時頃行くから」という電話。「私は6時半ころ三河島で人に会ってそのまま我孫子へ帰るつもり」と返事すると「いいじゃないか。じゃ9時頃ね」と電話を切られる。仕方がないので時間をつぶして9時頃「ふらここ」へ。しばらくして吉武先生が果物を抱えて登場。私は時間つぶしにワインを6杯も吞んでいるのでほとんど酩酊状態。タクシーで帰る。

8月某日
年住協の川崎理事長へ挨拶。川崎理事長は厚生省のキャリアだが社会保険庁の経理課長や総務課長、次長も経験し保険庁のノンキャリアにも共通の知人がいる。亡くなった葛原さんとは麻雀の卓をよく囲んだようだ。国民年金福祉協会の理事長もやったということでそのときは浅岡さんが下にいたという。午後、国保中央会に入札の資料を取りに行く。そのついでと言ったらなんですが、新しく国保中央会の理事長になった原勝則さんに挨拶、原さんは理事長室で打合せ中だったが、わざわざ部屋から出てきてくれた。夕方、当社の大山専務、三菱東京UFI銀行神保町支社の当社担当のマキエ君と3人で「ビアレストランかまくら橋」で吞むことになっている。マキエ君からは「少し遅れます」との連絡があったが私と大山専務は6時から「かまくら橋」で吞むことにする。7時近くにマキエ君は到着したがそのころには私も大山専務も出来上がっていた。

8月某日
土曜日だが出社。15時から「新木正人君を偲ぶ会」に出席するために四谷の「プラザエフ」(主婦会館)に行く。新木という人を私は全く知らない。もちろん生前会ったこともない。しかし早稲田で1年上だった鈴木基司さんや高橋ハムさんが発起人に名を連ねているうえ、大谷さんから「「遠くまでいくんだ」の人だよ、一緒に行こう」と言われて顔を出すことにした。会場に着くと大谷さんが案内してくれた。慈恵学園の平田さんや元社会保険研究所の金山さんなど懐かしい顔に出会う。詩人の佐々木幹郎も来ていて挨拶していた。佐々木幹郎は1967年の10.8(ジュッパチと読む、10月8日のこと)羽田闘争で死んだ山崎博昭と大阪の大手前高校の同級生。「遠くまで行くんだ」は中核派の運動から離れた人が多かったようだが基司さんやハムさんもセクト中心の学生運動に疑問を抱き、早稲田で反戦連合を組織した。それはさておき新木という人は定時制高校の先生を長く勤めた人だという。いろいろな人が挨拶していたが、故人の人柄だと思うが「みんなに好かれていたんだな」ということが分かるスピーチだった。