社長の酒中日記 3月その2

3月某日
家の近所に昨年、喫茶店がオープンした。店の前で古書を売っているのでときどき覗く。文庫本、新書は3冊200円だ。床屋の帰りに寄ると「烈士と呼ばれる男―森田必勝の物語」(文春文庫 中村彰彦 03年6月)が目についたので買うことにする。つい先週、岩波の「ひとびとの精神史」第5巻で鈴木邦夫の「三島由紀夫―魂を失った未来への反乱」を読んだばかりということもある。森田は私より2年早く早大に入学している。私が入学したのは68年で、5月くらいに何を名目にしたのか忘れたが、政経学部自治会でストライキを打った。ストライキ反対派が抗議に来たがそのとき先頭にいたのが森田だった。私は新入生でストライキの防衛隊の一人。自治会の前委員長のこれも森田さんという人が「まぁまぁ森田」となだめてその場は収まった。今から考えると政経学部バリケードの入り口という狭い空間に、偶然ではあるけれど私を含めて森田が3人いたわけで少し可笑しい。私はつい最近まで三島事件=反革命ととらえていた。確かに三島事件の前年、69年の10.21の3派全学連などによる新宿騒乱事件が三島に危機感を抱かせたことは間違いない。だが本書や鈴木邦夫によると三島や森田の考えは当時の体制とは、そして現在の体制とも全く相容れないものだった。つまり「反体制」である。これは主として我が国の防衛、アメリカとの関係をどうするかということなのだが、より根本的にはこの国の成り立ち、この国のありように関わってくると思う。たぶん自民党も民主党もこのことに気付いていないか気付かないふりをしている。三島事件は反革命ではなく反体制だったと思う。ただ僕らが目指した共産主義世界革命ではなく三島は、天皇を戴く「昭和維新」を思想としてではなく行動として表したかったのではないか。

3月某日
日曜日なので10時過ぎまで寝る。携帯を見ると川村学院女子大学の吉武副学長からの着信履歴。電話をすると「駅の北口で被災地の復興支援でコンサートがあるから行かないか?」という。迎えに来てくれるというので行くことにする。行くと我孫子市立布佐中学のブラスバンド部が演奏していた。これが結構上手い。次いで東京芸大の鈴木名誉教授が率いるトランペットのアンサンブル、我孫子在住の夫婦の声楽家によるアリア、我孫子駅前のマンション在住者によるデキシーランドジャズが続く。演奏はまだ続くのだが、寒いので6時からの打ち上げに参加することにして中座、私は近くのセントラルスポーツへ行って、プールで水中歩行。6時に打ち上げに参加、ジャズバンドでクラリネットを吹いていた人と話す。立教大学でジャズをやっていたということだが退職を期に再開したという。

3月某日
日本経済新聞の経済教室の「電機不振は何を映す(上)典型的な多角化企業の罠」(牛島辰男慶大教授)が面白かった。電機不振とは鴻海の傘下となったシャープ、不正会計問題に端を発して経営危機に陥った東芝、企業としては消失してしまった三洋電機などを指す。牛島教授は多角化企業の特質として「事業間に直接・間接の資金の流れが存在する」ことを上げている。こうしたことは敢えて多角化企業と言わずとも複数の事業展開をしている企業なら当たり前のことだと思う。教授は「この流れをうまくつくることで、企業は利益成長力を高く維持できる」としている。換言すると「市場シェアが高く競争力はあるが成長性に乏しい事業(金のなる木)の余剰資金を、高い成長が見込めるスター事業や、将来スターとなる可能性を秘めた事業(問題児)への投資へと回していくという流れである」。企業社会主義では、「成長性と競争力に乏しい『負け犬』事業に向かって『金のなる木』や資金の受け手であるべき『スター』の資金までが流れていく」構図となる。「負け犬」事業は早期に撤退を進め、投下されている資本や人材を成長力のある他部門へ回さなければならないにもかかわらずである。当社のような零細企業にもそれは当てはまる。ましてこのところの経営環境の変化の速さもある。「見極め」が肝心なのである。

3月某日
日本橋小舟町のSCNの事務所で高本代表理事と「介護職の看取り及びグリーフケアの在り方に関する調査研究」の報告書について打合せ。事務所から高本代表の夫の社会保険出版社の高本社長に「今晩、飲みに行きませんか?」と電話。「空いています」との返事で「葡萄舎」で待ち合わせ。現代社会保険の佐藤社長、フィスメックの小出社長も顔を出す。結構、いい機嫌になった。

3月某日
食材の宅配システムを開発し全国展開を目指しているワンマイルの堀田社長が主催する情報交換会に昨年から当社の迫田と参加している。ドローンを使って買い物困難者の支援ビジネスを展開しているMIKAWAYA21の鯉渕社長(若い女性)の話が面白かった。この会の幹事をやっている伊藤忠商事のロジスティクス事業部の渡辺課長が異動するため、この情報交換会もひとまず休止する。打ち上げを外苑前の「かに料理屋」でやった。

3月某日
今、ちょっとしたマイブームが三島由紀夫。関西出張の折、「肉体の学校」(ちくま文庫 16年2月第13刷)を買う。巻末に「この作品は1964年2月、集英社より刊行された」とあった。三島は確か1925年生まれだから、30代後半の作品である。服飾デザイナーの妙子は離婚経験者でなおかつ旧華族の家柄。ゲイバーでボーイをしていた美青年、千吉を恋人にする。三島の小説を読むのは何十年ぶりかだが、かつては感じなかったであろう文体の古風さに魅かれた。たとえばこんな一文。「妙子は寂しさと不安に耐えられなくなって、居間も食堂も寝室も、あるだけの灯りをみんなつけた。部屋部屋は花やいで、その中をうろうろと歩きまわるうちに、ふと妙子は、誰かが自分の背後を通り過ぎる影を感じて、ぞっとした。するとそれは、洋服箪笥の鏡の中をすぎる自分の影であった」。こういう小説から三島の復古主義的な思想を感じることはできない。爛熟する資本主義を経済的な基盤とする旧世代の退廃を感じるだけだが、しかし退廃の香りこそ文芸には似合うと思う。

社長の酒中日記 3月その1

3月某日
認知症で徘徊しているうちに列車にはねられ死亡した事故を巡って、IR東海が家族に損害賠償を求めた裁判の判決が出た。家族に賠償を求めた1、2審判決を覆し最高裁は妻と長男は監督義務者にあたらず賠償責任はないとしJR東海の敗訴が確定した。1審の名古屋地裁では「妻と長男は約720万円を支払え」、2審の名古屋高裁では「妻は360万円を支払え」だったから家族の側の逆転勝訴だった。判例も絶対的なものではなく社会の変化に対応すべきなのだと思う。すでに上野千鶴子は「ケアの社会学」(2011 太田出版)のなかで、民法学者の上野雅和を引用する形で「現行の民法のもとでは家族に(法的)介護義務はない」(P100 第4章ケアに根拠はあるか 6、家族に介護責任はあるか)と断じている。上野雅和によれば「民法が規定する義務は『生活扶助義務』という経済的義務だけであり、身辺介護義務は存在しない」という。今回の裁判で争われたのは「監督義務」であり「身辺介護義務」とは同一ではない。しかし「身辺介護義務」が存在しないのなら「監督義務」も存在しないと考えるのが妥当であろう。5人に1人が認知症になる社会が到来する。権力による強制によって家族が支えるのではなく、社会が全体として認知症患者や家族を支えるべきだろう。

3月某日
中学校の時、ブラスバンド部で一緒だった花田文江さんが石巻市で大震災に遭遇、津波に巻き込まれて行方不明になったという話は前に聞いていた。その花田さんの遺骨の一部が発見されたという。高校の同級生の品川君が何人かに声を掛けてくれて、ささやかに「偲ぶ会」を開いた。メンバーは男子が品川君、中沢君、阿部君、今井君、女子が中田さん、小原さん、みきちゃん。場所は銀座の銀波。北海道新聞に遺骨が発見されたという記事が掲載され、そのコピーを見せてもらった。

3月某日
当社の主力取引銀行は三菱東京UFJ銀行の神保町支社ということになっているが今まで幸か不幸か運転資金に困ったことがないのでお付き合いはほとんど無かった。去年ぐらいから松田君という小樽商大出身の若手行員が良く顔を出すようになり、当社の大山専務と応対することが多くなった。先月、松田君が本店に転勤となり槙得君という学生時代バレーボールをやっていたという長身の青年が担当となった。今日も何かの営業に来たようだが、時間の大半を世間話に費やした。まぁ私としては金融業の将来像というか「金貸し」が銀行の本業でいいのかということを問いたかったのだが、如何せん知識が無いので。東京介護福祉士会の白井幸久会長と健康生きがいづくり財団の大谷常務が来社。向かいのビルの地下1階の「跳人」へ。ここは肴がおいしい。刺身はもちろんだが今日は「めひかり」のから揚げ、フキノトウの天ぷらがおいしかった。大谷さんが神戸出張とのことで7時に切り上げる。私はHCMの大橋社長と西新橋のバー「カオス」へ。ここはHCMの平田会長が贔屓ということだが、落ち着いたいい店だ。「跳人」で日本酒、「カオス」でウィスキー。いつものことだが呑み過ぎである。

3月某日
愛知県半田市、大阪、淡路島、京都と4泊5日の出張。半田市では福祉住環境コーディネータの児玉さんと社会福祉士の古藤さんと面談、大阪はグループ経営会議に出席し、そのあと大阪介護支援員協会の福田次長に面談、淡路島は旧知のカメラマンの津田さんを洲本市に訪ね、町興しの現状を聞いた。京都では京大の阿曽沼理事にご馳走になり、近況を聞く。阿曽沼さんは厚労省の元次官だが関連団体や民間企業への天下りはせず、京大にも「請われて」行ったらしい。最近も八戸の農業高校と京大との協同研究を実現させるべく奔走しているとのこと。それはともかく阿曽沼さんにご馳走になったのは「京甲(かぶと)屋」という日本料理屋。阿曽沼さんも初めての店らしいが、経営者兼板長らしき人と雑談しているうちに、彼は北海道のなんと私と同じ室蘭出身と言うではないか。「高校はどこ?」と聞くと、これも私と同じ室蘭東高校。もっとも卒業年次は私より20年以上後だが。室蘭東高校は生徒数の減少から数年前に室蘭商業高校と統合、東翔高校となったことは風の便りに聞いていた。名刺を交換すると「京甲屋代表池田泰優」とあった。東高校卒業後、大阪の料理学校で学び、京都で修業したのち開業したということだ。東高校は私のころで1学年、普通科3クラス、商業科2クラスの小規模な学校で当然、卒業生も少ない。その卒業生と京都の料理屋さんで会うとは思ってもいなかった。まぁ縁ですね。

3月某日
西新橋のバー「カオス」にマフラーと帽子を忘れてきた。HCMに届けてくれたということなのでHCMに行く。HCMの大橋社長と新橋の「うおや一丁」という店で呑む。北海道から東京に進出した店らしいが安くて美味しい。5時半ころ店に入ったのだがすぐ満員になった。

3月某日
出張中に図書館で借りた「ひとびとの精神史第5巻、万博と沖縄返還1970年前後」を読む。「劇場化する社会」「沖縄―『戦後』のはじまり」「声を上げた人々」の3章構成。なかなか面白かったのだが、ここでは「劇場化する社会」の中から「三島由紀夫 ―魂を失った未来への反乱」を取り上げたい。執筆したのは新右翼で元一水会代表の鈴木邦夫。もちろんテーマは1970年11月25日の三島事件。この日、三島は自ら作った「盾の会」のメンバー4人を率いて市ヶ谷の自衛隊駐屯地に乗り込み憲法改正と自衛隊の決起を呼びかけ、盾の会の学生長だった森田必勝と割腹自殺した。私は早大の3年生で食堂のテレビの昼のニュースで、作家の三島由紀夫が自衛隊の東部方面総監を人質にとってたてこもっていることを知る。当時付き合っていた今の奥さんとバスで早稲田から市ヶ谷まで行ったことを覚えている。三島はバルコニーから自衛隊員に「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであろう」と演説する。鈴木は確かに「アメリカの傭兵化」は進んでいるとして、現政権は「改憲して自衛隊を国軍とし、アメリカと一緒になって、どこへ行っても戦争をできるように」志向しているという。鈴木の思いは「同じく改憲を唱えた三島の考えとは全く反対ではないか」というところにある。鈴木は三島の「ぼくは吉田松陰の『汝は功業をなせ、我は忠義をなす』という言葉が好きなんだ」という発言をひいて、三島は敢えて「有効な道=功業」を捨て無効の「忠義」をやった。そのことで有効・無効を超えた大きな影響を与えられると思ったのではないかとしている。なるほどである。三島事件に対する今までの論評の中で最も納得できるもののように思う。

社長の酒中日記 2月その3

2月某日
土曜日だが民介協の事例発表会があるので出社。懇親会に胃ろう・吸引のシミュレータを展示させてくれるというのでHCMの大橋社長、三浦さんそれにネオユニットの土方さん、当社の迫田にも参加してもらう。参加した介護事業者からはいい反響があったようだ。懇親会終了後、サンケイビルの「ビストロ・リオン」で軽く打ち上げ。神田駅まで土方さんの車で送ってもらう。神田駅北口の津軽料理「跳人」で大橋、迫田、私の3人で腹ごしらえを兼ねて飲みなおし。「跳人」は会社の向かいの鎌倉河岸ビルの地下1階にも出店しているのだが、今日はそこのお兄ちゃんも手伝いに来ていた。北口店では隔週の土曜日、津軽三味線の演奏を聞かせてくれるが、今日はたまたまその日で、青森出身の大橋さんは喜んでいた。

2月某日
図書館から借りた田辺聖子の「お気に入りの孤独」(91年1月 集英社)を読む。初出はLEE(88.10-90.8)とあるから20年近く前の作品である。田辺の作家としての最盛期は50代のころと私は考えているので、それからすると成熟期、晩熟期の作品といった方がいいのかも知れない。どこが違うかというと最盛期の奔放さ、明るさよりも、秩序とある種の暗さを感じてしまうのだ。ブルジョアのマザコン男、涼と結婚したデザイナーの風里は結婚生活を楽しみながらも夫の浮気や夫の実家との付き合いに倦んでくる。最終的に風里は夫と別れ、東京支店への転勤を希望する。ちょうど平成から昭和に年号が変わったころかな。携帯電話やパソコンが普及する前ね。田辺の最盛期と私が勝手に思っているのは「昭和」だと思う。女性の自立が現在ほどではなかった。だからこそ田辺の小説の主人公の女性たちが専業主婦にしろOLにしろ、その自立ぶりがかっこよかったのではないかと思う。「お気に入りの孤独」の主人公、風里は「夫の浮気や実家との付き合い」に悩んでいるように描かれているが実は「時代」に翻弄させられているようにも見える。

2月某日
6時半に結核予防会の竹下専務と西新橋の「鯨の胃袋」。鯨の刺身をいただく。確かに珍味。この店は食べ物も美味しいが日本酒がそろっているのがうれしい。ニュー新橋ビルの「うみねこ」という店に流れる。

2月某日
「俳優・亀岡拓次」(戌井昭人 15年11月 文春文庫)を読む。横浜聡子という人の監督で映画化され、現在全国ロードショー中だという。面白かった。私の小説の評価基準は面白いか面白くないかであり、それは主人公に共感できるか否かにかかっているように思う。そういう意味でこの主人公、亀岡拓次37歳、独身。職業・脇役俳優には共感できる。人生にはいい加減だが役作りには真剣。酒と女が好きだがぎりぎりで溺れない。いーなぁ。私は今年68歳になるのだが、まぁかなりまじめに生きてきたつもり。他人の評価は知らないけれどまじめ人間と自分では思っている。だいたい40年以上サラリーマンをやっているということは「逸脱」は×なんだよね。亀岡は酒で、女で、微妙に逸脱する。逸脱するけれどぎりぎり溺れない。私も亀岡を見習わなければならない、真剣に「逸脱」してみようと思う。

2月某日
堀子友廣税理士事務所の堀子先生と大島洋子先生をお招きして有楽町の「牛や」で懇親会。当社からは私と大山、石津が参加。NPO法人から佐々木局長が参加してくれた。堀子先生は北海道の稚内、大島先生は新潟県の糸魚川の出身。大島先生のご主人は長野県の諏訪出身で諏訪神社の「御柱」の話で盛り上がった。昔、友人の村松君に「この祭りは凄いぞ」と聞かされたことを想い出した。我孫子で「愛花」による。

2月某日
シルバーサービス振興会の月例研究会に参加する。テーマは「暮らしの中での尊厳のある看取り」で講師は看護師・保健師で元特養の副施設長をやっていた鳥海房江さん。鳥海さんの話は非常に共感できるものだったが、とくに「死んでいく人の人生を肯定する」ことがよい看取りにつながるという話には「なるほど」と思わされた。ということは良い人生こそが良い死を準備するということでもある。社会保険出版社の高本社長とSCNの高本代表理事(2人は夫婦)も参加していた。新橋のおでん屋、お多幸でご馳走になる。お多幸の社長が高本社長の学生時代の友人とか言っていた。今日は神田で飲み会があるので、お多幸は早目に切り上げて会社近くの「ビアレストランかまくら橋」へ。すでに元阪大教授の堤さん、元京大教授の間宮さん、60年安保のときの全学連委員長、唐牛健太郎さんの未亡人の真希子さんが来ていた。堤さんは阪大教授の後、職に就いていない。「論客商売(心得)」という名刺をもらう。堤さんは池波正太郎の読者なので「剣客商売」をもじったらしい。

2月某日
桐野夏生の最新作「バラカ」(16年2月)を新聞広告で見かけたので早速、金曜日の夜に我孫子駅前の東武ブックストアで購入する。650ページの長編小説だが「巻を措くに能わず」という感じで土曜日1日で読んでしまった。大震災後の群馬県T市から物語は始まる。原発事故による警戒地域で犬猫保護のボランティアに志願した「爺さん決死隊」は「バラカ」と名乗る少女を発見し保護する。バラカは日経ブラジル人夫婦の間に生まれたが、両親の出稼ぎ先のドバイで誘拐され、ドバイの「赤ん坊バザール」で日本人に買われる。バラカを買った日本人の女性編集者は帰国後、大学の同窓生と結婚する。この男が学生時代とは大きく変貌(外見も内面も)して後半のストリーを盛り上げるのだが、女性編集者はこの男の転勤で仙台市の閖上に転居する。転居後、日も措かずに地震と津波に遭遇し、女性編集者は津波に呑まれ行方不明となる。大震災から8年、バラカは「爺さん決死隊」の人たちに育てられ、美しい少女に成長する(ここから小説は近未来小説となっていく)。しかし水面下で原発推進派との抗争は続き、バラカもそれに巻き込まれていく。ストーリーがやや荒唐無稽との批判があるかもしれないが、私の考えでは大震災も含め金融も経済も、中東もヨーロッパもすでに荒唐無稽な世界に入っているように思う。桐野はそこを書きたかったのだと思う。エピローグではハッピーエンドになっているのだが。それが私たちの世界の希望なのかもしれない。

社長の酒中日記 2月その2

2月某日
「コーポレート・ガバナンス」(花崎正晴 岩波新書 14年11月)を読む。コーポレート・ガバナンスは企業統治とも訳されるが、広い意味で「会社はどうあるべきか」という話だと思う。会社は利潤を上げ出資者に配当を行うのが第一義的には求められているが、果たしてそれだけでいいのか?ということだ。会社には株主だけでなく多くのステークホルダー、利害関係者がいる。従業員、販売先、仕入先、地域住民等々。これらのステークホルダーとどのような関係を取り結んで行くか、というのもコーポレート・ガバナンスだ。本書によるとコーポレート・ガバナンスの出発点は、企業における所有(株主)と支配(経営者)が分離し、両社の利害は必ずしも一致しなくなることにある。経営者は日常的に経営情報に接することができるが、株主はそれができないという問題もある。コーポレート・ガバナンスの当初の目的は、いかにして経営者に株主利益に合致した経営をさせるかにあった。しかし社外取締役を活用した経営者のモニタリングやストックオプションなどによる経営者へのインセンティブ付与などアメリカ型のガバナンスでは株主と経営者との間の「エージェンシー問題」を完全に解決するには至らなかった。日本においてはメインバンクが顧客企業に対してモニタリング機能を発揮して日本経済の発展を後押ししたとの説があるが花崎の実証研究によれば、日本の製造業においては市場競争こそが企業経営に対して有効な規律付けを与えたという。経済はますますグローバル化していくにしても、企業行動、企業文化はそう簡単に1国の枠を超えられるとは思えない。グローバル化に対応しつつ日本独自のあるいはその企業独自のコーポレート・ガバナンスを追究していかなければならないのかも知れない。

2月某日
CIMネットワークの二宮理事長に八丁堀の「月山」でご馳走になる。二宮さんは老年医学会とやった「末期認知症患者への胃ろうの適応について」の調査研究とシンポジウムを一緒にやってからのお付き合いだ。PDN(ペグ・ドクターズ・ネットワーク)の支援をずっとやっている。ときどき私に声をかけてご馳走してくれる。医療関係のネットワークを独自に築いていて、いろいろな人を紹介してもらったことがある。

2月某日

土曜日だが仕事が溜まっているので会社へ。16時に民介協の扇田専務に会いに新浦安へ。新浦安から徒歩5分のタワーマンションへ。談話室に通される。扇田さんのマンションの老人会、入船長和会の関根会長に紹介される。それから東京精密㈱の太田会長も顔を出す。太田会長は富士銀行で扇田さんの後輩らしい。東京精密が開発した高齢者の見守りシステムの実証実験を浦安市でやりたいということだ。高齢者のみ世帯や高齢夫婦のみ世帯が増えているし、認知症の夫婦の認認介護これから増えていくに違いない。大都市のマンションだけでなく戸建て住宅や限界集落でも見守りは必要となってくる。コストを考えると何らかのシステムは必ず必要となってくる。システムと同時にバックアップするマンパワーも必ず必要となってくるはずだ。打合せ後、談話室で扇田専務に焼酎をご馳走になる。

2月某日
SCN(セルフ・ケア・ネットワーク)の高本代表理事を日本橋小舟町のオフィスに訪ねる。一般社団法人の社会保険福祉協会からの補助を受けてSCNが「介護職の看取りとグリーフケア」の調査研究をやっており、その報告書について相談をしたいという。「はじめに」の原案を読んだが、私はなかなか面白いと思った。ありきたりの調査報告書の「はじめに」とは一味違って「なぜ、この調査研究が必要か」について自分の言葉でしっかり描かれていると思った。一般的に言えば少子高齢化が進むと社会には高度経済成長期のような「ノビシロ」は期待できなくなくなってくると思う。「ホンモノ」しか市場、社会では生き残るのが難しくなってくるだろう。そのとき生き残れる条件は社会にとって必要か否かということだろう。高本代表理事はそこのところを模索しているように感じる。翻って私はどうなのか?当社は生き残れるのか?

2月某日
「営業をマネジメントする」(石井淳蔵 岩波現代文庫 12年11月)を読む。製造業で言うと、企業は生産現場、営業、管理に分けられる。当社のような出版ないしは編集プロダクションは生産現場が編集に置き換えられる。私は編集者として入職したが、何時のころからか営業の方が面白くなってきた。会社を支えるのは顧客に他ならず(ドラッカー)、その「顧客との関係の絆をつくりあげる仕事を担っているのが営業」(はじめに)である。私は「顧客との関係をつくりあげる」という仕事に魅力を感じたのだと思う。第8章「マネジメントを深く考える」で石井は「私たちが生きていく上で一番大事な知恵は、何とも手の打ちようがない状況(つまり「マネジメントが可能でない状況」)を何かしら手が打つことができる状況(つまり、「マネジメント可能な状況」)に切り替えることにある」と言っている。私の言葉で言うと「マネジメント可能な状況」とは「顧客とイー感じで話ができる関係」になったときである。その関係は顧客によって異なるし、同じ顧客でも変化する。私はそこに「営業」の魅力を感じたのだと思う。

2月某日
東京精密の太田会長と子会社の東精ボックスの高野社長が当社のビルの3階の民介協へ扇田専務を訪ねてくる。高齢者の見守りについて意見交換。神田駅の近くで太田会長にご馳走になる。太田会長と扇田専務は若いころ富士銀行大阪営業部で一緒だったという。富士銀行時代の話で盛り上がっていた。私にはチンプンカンプンの話ではあるものの、組織のガバナンスやマネジメントという意味では会社の大小に関わらず同じような問題があるものだと感じた。皆酒が強く、焼酎を2本空けた。

2月某日
「医療にたかるな」(村上智彦 新潮選書 13年3月)を読む。著者は2006年から財政破綻した夕張市の医療再生に取り組んだ人。北海道薬科大学を卒業後、研究者を志望して大学院に進学、病院で薬剤師のバイトをしていたとき、医者に薬のことで進言したら「薬剤師の分際で何をいうか!医者になってからものをいえ!」と言われたのがきっかけとなって医者を志望、金沢医大に進んで医者になったという。夕張の医療再生に取り組みを著者は日本再生とアナロジィしているように思う。膨大な財政赤字、既得権にしがみつく市民たち、夕張はある意味で日本の縮図だ。日本の医療を考え直す良書だと思う。

2月某日
我孫子駅北口の小川眼科で白内障の手術。2週間前に左目、今度は右目だ。実際の手術時間は15分もかからなかったが、目の手術は嫌ですね。でも翌日、眼帯を外すと付近の光景が違って見えた。視力も0.9まで戻った。私は小学校4年生から眼鏡を掛けているから裸眼で風景を目にするのは50年ぶり以上だ。手術日と手術の翌日は会社を休むつもりだったが、翌日、検査で異常なしだったので出社することにする。

社長の酒中日記 2月その1

2月某日
フリーライターの香川喜久江さんと会社近くの「跳人」で呑む。香川さんは私が日本プレハブ新聞の記者をしているころからの知り合い。展示場運営会社のナショナル開発というところに勤めていて、香川さんの同僚の伊藤さん、私の同僚の岡田さんを交えてよく呑んだ。香川さんはナショナル開発を辞めてフリーライターとなった。当時のナショナル開発の話で盛り上がったけれど、どうも最近昔話で盛り上がることが多いような気がする。年をとったことにもよるだろうが、甘利大臣への献金疑惑をはじめとして、世の中「変わっていねー」ことが多すぎる。昔話をしても今につながってしまうのである。

2月某日
HCMの大橋社長、三浦さんと港区スポーツセンターへ。ここで介護予防事業を港区から受託しているセントラルスポーツの話を聞くためだ。セントラルスポーツは執行役員の相川さんと介護予防総合センターの國井センター長が丁寧に応対してくれた。説明を聞いた後、三浦さんと大橋社長、私の3人で年友企画へ。迫田を交え、シミュレータの打合せ。打合せ後、会社近くの「福一」へ。海鼠を2日続けて食することができた。

2月某日
セルフ・ケア・ネットワークの高本代表理事と社会保険福祉協会の本田常務と内田次長へ来年度の調査研究事業のお願いに。終わってから弁護士ビルの雨宮弁護士事務所へ。雨宮君は大学の同級生。司法試験合格後、検事に任官、30代半ばで弁護士を開業した。雨宮君に昼ご飯をご馳走になる。夜、当社の大山とM銀行の当社担当の松田君と神保町の「あい谷」で。「あい谷」は有楽町の電気ビル地下1階で営業していて厚生省のOBや現役が割とよく使っていた。少し早く着いたのでご主人とおしゃべり。ご主人は元学研の編集者。札幌北高の出身で千葉大教育学部を卒業後、学研へ。児童向けの科学雑誌の編集を長く続けていたという。新宿の末広亭の近くにあった「安具楽屋」の常連で、学研を定年前に早期退職し料理屋さんを始めることになったそうだ。時間通りに当社の大山、少し遅れて松田君が来る。松田君は小樽商大を出てM銀行に就職、最初の支店が神保町支店ということだ。

2月某日
白内障の手術を我孫子の眼科で。手術室に入って15分ほどで「はい、ご苦労様でした」。実際の手術時間は5分もなかったのではなかろうか。翌日、眼帯をとると実にクリアな世界が目の前に現れた。とくに色彩がね、彩度というのか明度というのかわからないがクリア。近視も改善されていた。2週間後に右目も手術する。待ち遠しい。

2月某日
先日呑んだM銀行の松田君が本店への異動ということで後任の槙得(まきえ)君と一緒に挨拶に来る。槙得君は松田君の1年後にM銀行に入行、九大の法学部出身。槙得君も松田君も性格は良さそう。午後、デザイン会社のスタジオパトリの女性デザイナーが2人営業に来る。若くて美人に見えたけれど会議中だったので当社の担当者に紹介する。夕方、当社が入っているビルの3階に事務所のある民介協の扇田専務が来社。今日は出勤日ではないが碁を打ちに来たという。扇田専務と呑みに行くことにする。神田駅南口の葡萄舎に連れていく。タコの刺身としめ鯖を肴に40度の焼酎を呑む。扇田専務は確か私の3歳上の昭和20年生まれ。県立奈良商業を卒業後、当時の富士銀行に入行、高卒ながら支店長をいくつも歴任した「切れ者」。とは言え私とはなぜかウマが合う。銀行時代の話や介護業界の課題など楽しいながらも為になる話を聞かせてくれた。

社長の酒中日記 1月その3

1月某日
社会保険倶楽部霞ヶ関支部(幸田正孝支部長)の新年賀詞交換会に出席。幸田支部長や社福協の近藤理事長、元参議院議員の阿部正俊さんたちに挨拶。小林チーさん、百軒さん、池田保さんといった昔、下野カントリーで一緒にゴルフをした懐かしい顔もいた。四谷の健康保険組合の会議室を借りての新年会だったので帰りに四谷に事務所のある編集者で元社会保険研究所の保科さんに電話して一杯飲もうと誘う。「今日お化粧していないし普段着だからな。まぁ森田さんだからいいか」と率直なお答え。当社の大山と3人で呑む。

1月某日
「五稜郭の戦い―蝦夷地の終焉」(菊池勇夫 吉川弘文館 2015年10月)を読む。五稜郭の戦いについては榎本武揚率いる幕軍(新選組や彰義隊の残党プラス幕府海軍や陸軍の正規軍)が官軍に函館五稜郭で最後の抵抗を試みた程度のことしか知らなかったが、本書を読んでその全貌をいささか知ることができた。著者の官軍にも旧幕府軍にも偏しない公平な史観には共感できるし、庶民、民衆の視点を大切にするという立場もよくわかる。民衆からすればまさに外から「持ち込まれた」戦争でしかないのだから。そうは言っても私の故郷であるところの北海道を舞台にした近代的な戦闘としての五稜郭の戦いには興味は尽きない。これは会津の戦いにも言えることだが、官軍が自軍の死者のみを丁重に葬るのに対して旧幕軍は敵味方を問わず死者を哀悼する傾向がある。これは薩長を中心とする官軍と、会津や桑名、旗本をなどの旧幕軍の文化程度の違いと見えるのだが。私の父方の祖父は彦根出身、母方の祖母は幕臣の末裔と聞いたことがある。私には反薩長、反藩閥の知が流れている?

1月某日
スタジオパトリというデザイン会社を経営する三浦哲人さんから久しぶりに呑もうという電話があった。元社会保険研究所の保科さんを誘って3人で会社近くの「跳人」へ飲みに行く。三浦さんとは私がこの会社に入る前、日本プレハブ新聞社に在籍していた当時からだからもう30年以上も前からの付き合いである。「日本海苔食品新聞社」とかいう『業界紙の争議』の支援を通じて知り合った。当時三浦さんは四谷3丁目当たりのエロ本を出版する会社の編集者だった。確か元信州大学の全共闘で私より1歳若い昭和24年生まれだ。途中からSCNの高本代表理事が参加。高本さんは私たちより20歳近く若い。でグリーフケアの団体であるSCNを立ち上げる前は冠婚葬祭のコーディネータをやっていた。高本さんが「ソウギ」で思い浮かべるのは「葬儀」だが、私と三浦さんがイメージするのは「争議」でなんとも面白い。

1月某日
「地方から考える社会保障フォーラム」の講師をお願いしに「オープン・シティ研究所」の日下部元雄所長を訪ねる。市ヶ谷の高級住宅地の一角にあるマンションが自宅兼研究所。所長は東大の数学科を出た後修士課程を2年修めた。そして当時の大蔵省に経済職で入省した。世界銀行の副総裁を務めたこともあるという。世銀はワシントンだが世銀の後はロンドンにあるナンチャラ復興投資銀行の顧問も務めたという。おいしいお茶とお饅頭、大粒のイチゴを出された。所長と奥さんの笑美さんは「エビデンスに基づく子育て支援システム」を研究、実践している。フォーラムの講師も快く受けてもらった。

1月某日
日暮里駅前の「喜酔」という店でフリーライターの福田さんと待ち合わせ。ここは魚料理の店でマグロが旨い。福田さんのお嬢さんはピアノでチェコのプラハに留学。今もかの地で暮らしているという。また息子さんも国際的な運送会社に勤め、一時シンガポールに駐在していた。要するに福田さんは娘や息子の住まいをホテル代わりに海外旅行を楽しむことができるのである。

1月某日
東商傘下の「生活福祉健康づくり21」というNPOに加入している。この下にビジネス研究会というのがあり不定期ながら勉強会を開催している。勉強会のあとの懇親会が楽しいのでできるだけ参加するようにしている。今回はセントラルスポーツが港区から委託されている介護予防事業の見学に港区スポーツセンターへ。8階建てのビルで中に体育館、弓道、アーチェリー、卓球などの施設、プールがある。一緒に行ったHCMの大橋社長と感心することしきり。懇親会は近くのワインバーで。アテナの常勤監査役の小笠原さんが大橋さんと青森で道教であることが判明、おおいに盛り上がった。懇親会が終わった後、フィスメックの小出社長と神田へ。

1月某日
霞ヶ関ビルの東海大学校友会館で「森民夫長岡市長を囲む会」。会は6時からだが5時半からケア・センターやわらぎの石川代表理事と社保研ティラーレの佐藤社長と認知症予防の「だんだんダンス」の打合せ。元厚労省の辻さん、江口さん、清水さん、元建設省の小川、合田さんたちが来る。現在内閣府に出向している伊藤明子さん、JCHOに出向している藤木さんも駆けつけてくれる。森市長は長岡長岡の日本酒、久保田の万寿を持ってきてくれる。さすがに旨い。

1月某日
ポプラ社のポプラ文庫に田辺聖子コレクションというシリーズがある。田辺の短編をテーマ別に再編集したものだ。私には田辺の魅力が再発見できるようでうれしい。シリーズの5冊目「うすうす知っていた」を読む。5編の短編が収められているが私はどの短編も既読である。だがそれだけに前回気づかなかった点にも気づかされ興味は尽きない。私が好きなのは「クワタさんとマリ」だ。仲の良い夫婦がいる。夫婦には子供がいない。ある日自宅に乳母車とぬいぐるみが届けられる。夫には外に愛人と子供がいたのだ。夫婦はしかし深く愛し合っている。だが夫は妻も愛人も愛人に産ませた子供も愛しいのだ。これは大いなる矛盾であり解決のつかない問題である。こういう恋愛短編小説は本当に田辺の真骨頂だと思う。

1月某日
「複眼で見よ」(本田靖春 2011年4月 河出書房新社)を図書館で借りて読む。本田は1933年、朝鮮京城生まれ。早大政経学部卒業後、読売新聞社に入社、社会部記者として活躍。71年退社してノンフィクション作家に。私は戦後の愚連隊の一つの頂点を究めた花形敬の生涯を描いた「疵」や遺作となった「我、拗ねものとして生涯を閉ず」を読んだことがある。いずれも面白く読ませてもらったが本田のノンフィクションを続けて読んでみようとはならなかった。だが本書にはちょっと違う印象を持った。ジャーナリストとはジャーナリズムとはについて考えさせられるところが大きかった。本田の死後、単行本未収録作品を集めたというのが本書の趣旨だが、それだけに本田のジャーナリズムないしはジャーナリストに対する本音のようなものがうかがえる。テレビや大新聞などのマスコミに対する批判、なかでも政治部の派閥記者に対する批判はジャーナリズムの本質に迫るものと思う。72年の沖縄返還前の文芸春秋71年11月号に掲載された「沖縄返還 もうひとつの返還」は現在の沖縄の辺野古移設問題と通底する問題意識が感じられてきわめて読み応えがあった。このドキュメントを読む限り沖縄問題の本質は戦後70年経っても変わっていないように感じられた。

社長の酒中日記 1月その2

1月某日
中島京子の「東京観光」(集英社 2011年8月)を読む。中島京子は「小さなお家」(直木賞、映画化もされた)を読んで面白かった。表題作は生保レディの主人公が研修で初めて東京に出てくるが、宿泊したビジネスホテルには、ホテルに内緒で棲み込んでいる先客がいた。その先客は出稼ぎの外国人であった。この先客の女性との交流がなんともファンタジックで面白い。

1月某日
社会保険研究所のグループ経営会議に出席。グループ会社の社会保険出版社の会議室で3時半から。懇親会は5時過ぎから近くの中華屋さんで。私は社会保険出版社の田中一也顧問の向かいに座る。川村学園女子大学の吉武副学長から東京に来ているので根津の店で落ち合おうと電話がある。吉武さんの言う「根津の店」とは「スナックふらここ」のこと。9時半ころ「ふらここ」へ。吉武さんが10時ころ来る。常連の「あやちゃん」と「いずみちゃん」が来る。

1月某日
会社の新年会を会社近くの「廣豊楼」で。社員と社外役員の鈴木さん、NPO法人の佐々木さん、民介協の扇田専務、天野さん、医療保険事務協会の町田さん、結核予防会の竹下さんなどが参加。竹下さんが鹿児島の焼酎「魔王」を一升寄贈してくれる。二次会は竹下さん、当社の大山、迫田らと葡萄舎へ。

1月某日
株式会社日本住宅建築センターの特別顧問(前社長)の社本さんは30年以上前、私が日本プレハブ新聞社にいたころ、建設省住宅局の住宅生産課や民間住宅課の課長補佐として取材でいろいろお世話になった。久しぶりに新年会をやろうということになる神保町の新世界菜館に集合。元建設省住宅技官の小川ビルジング協会常務、合田プレハブ建築協会専務、それに菊田建築住宅センター常務、住宅情報の元編集長の大久保さんが集まった。私にとっては非常に心温まる会であった。

1月某日
当社が編集している季刊雑誌「へるぱ!」の発行元の社福協の方々をお招きして新年会。場所は有楽町の「牛や」。社福協からは本田常務、内田さん、高橋さん、岩崎さんが参加、当方からは私と迫田、それにSCNの高本代表理事が参加した。私たちは本田さんから宮内省御用達の日本酒をいただいた。本田さんはメルボルンの領事も経験しているが前任が角田さんでその前が酒井さんだそうだ。宮内省に出向したときは上司は環境次官をやった森さんで、森さんご夫妻には私は年住協主催のヨーロッパ旅行で大変お世話になった。何か縁を感じる。
今日は富国生命ビルの富国倶楽部で慈恵学園の平田さんと川村学園女子大学の吉竹副学長との打ち合わせがあるのでそちらに向かう。だいぶ時間に遅れたから打合せはすでにすんでいた。平田さんが持ち込んだワインをいただく。

1月某日
元東海銀行の菅沢さんからメール。菅沢さんがコールセンターの常務をやっているときに何度か仕事をした。現在、会社はリタイアしているが「自分史」づくりのお手伝いやDVDの制作をやっているという。菅沢さんは取手市在住で我孫子の名戸ヶ谷病院や我孫子市立図書館に行くことがあるというので図書館のあるアビスタで待ち合わせ。喫茶室でいろいろ意見を言わせてもらう。リタイア後も菅沢さんのように半分ボランティアかもしれないが社会に参加するのはとてもいいことだと思う。

1月某日
木造住宅産業協会(木住協)に松川専務を訪問。福祉住環境コーディネータ制度の広報をお願いする。松川さんは国土交通省出身。私が日本プレハブ新聞社の記者だったころ(今から30年以上前の話だ)、当時の住宅生産課にいた松川さんにお世話になった記憶がある。厚生労働省の唐沢保険局長が山形県に出向していたとき松川さんも山形県に出向していて官舎が近所だったという話を聞いたことがある。珍しく都心にも雪が積もる。早く帰ることにしたが我孫子駅前の「七輪」で軽く一杯。「愛花」によったら常連の「そのちゃん」が呑んでいた。

1月某日
午前中、福祉住環境コーディネータの件で日本ツーバイフォー協会に川本専務を訪問。同じビルの2階に全住協があるので加島常務、桜井さんに挨拶。会社に帰ってSCN]の高本代表理事とフリーの編集者の浜尾さんと「介護職の看取り、グリーフケア」の報告書の打合せ。引き続き社保研ティラーレで「地方から考える社会保障フォーラムの会議。品川のJCHOで看護師パンフの打合せのある当社の岩佐に同行。虎ノ門、内幸町で2件ほど打合せ。健康生きがいづくり財団の大谷常務に「今どこ?」とメールすると「日比谷の交差点当たり」という返事。「花半で待つ」とメール。大谷さんは元日本航空のキャビンアテンダントだった神山さんを連れてくる。3人で楽しく歓談。

社長の酒中日記 1月その1

1月某日
正月やることもないので本を読む。年末に買っておいた「永田鉄山 昭和陸軍『運命の男』」(早坂隆 文春新書 2015年6月)を読む。私はどちらかというと2.26事件を引き起こした青年将校たち、いうところの皇道派に同情的である。理由は簡単でテレビドラマや小説では事件を青年将校のがわから描いたものが圧倒的に多いからだろう。永田鉄山は皇道派と対立した統制派のリーダーであり、2.26事件の前年、皇道派の相沢三郎中佐に白昼、陸軍省軍務局長室で斬殺されている。永田は長野県諏訪の出身。幼少期から頭脳明晰で陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸大を通じて成績優秀だったという。それだけでなく同僚、部下に慕われ、上司の評価も高かった。彼の考えは本書によると決して「好戦的」なものではなく、むしろ戦争を防ぐために国民総動員体制の確立を急いだとされる。彼は機動戦における自動車の重要性に早くから着目、揺籃期にあった自動車産業に陸軍から補助金を出したというエピソードも紹介されている。
皇道派が天皇親政による昭和維新を掲げたのに対し、永田はむしろ議会を重視したようだ。統制派は永田の生前から問題を抱えていた。それは関東軍を中心として陸軍中央のコントロール(統制)が効かなくなってきたことである。関東軍の指導部は石原莞爾、板垣征四郎はじめ統制派が占めていたにも関わらずである。国家社会主義内部の路線闘争として統制派と皇道派をとらえれば、統制派は統制経済による急速な重化学工業化を主張したのに対し、皇道派は昭和恐慌によって疲弊した農村の救済を主張した。皇道派の主張は心情的には理解できるものの昭和初期の日本における経済政策としては統制派に軍配を上げざるを得ないのではないか。2.26事件以降、陸軍は完全に統制派の支配となるのだが、永田なき統制派は、統制なき統制派となり大東亜戦争への道を突き進むことになる。

1月某日
日立製作所の前会長、川村隆の「ザ・ラストマン」(角川書店 2015年3月)を読む。ラストマンとはその組織にとって最後の人、切り札のことである。会社でいえば社長である。川村は69歳で子会社の会長から日立本社の社長に就任、V字回復を成し遂げた。川村は日経新聞の「私の履歴書」にも執筆、それはそれで面白かったが、本書はむしろビジネスパーソンの「心構え」について語っている。といっても堅苦しいものではなくごく平易な言葉で語られているのが特徴だ。大変勉強になったが一つだけ挙げるとすれば「戦略は変えるな、戦術は朝令暮改でよい」というもの。現実への柔軟な対応力と現実を見る高い戦略的視点の重要性を言っている。同じように「君子は豹変す、小人は革面す」という言葉を上げている。「徳の高い人は過ちに気づけば直ちに改めるが、小人は表面上は革めたように見えるが内容は変わらない」という意味だ。もって瞑すべし。

1月某日
図書館で借りた「忘れられたワルツ」(絲山秋子 新潮社 2013年4月)を読む。7編の短編が収められている。最初の「恋愛雑用論」を読みだして「あれっ読んだことある」と気づいた。たぶん出版された直後、図書館で借りて読んだんだろう。でもストーリーはほとんど覚えていない。だから最後まで楽しませてもらった。

1月某日
向田邦子の「無名仮名人名録」(文春文庫 2015年12月新装版)を本屋で見かけてためらわずに購入した。昔「だいこんの花」や「寺内貫太郎一家」といった向田作のテレビドラマをよく見た覚えがある。あれは何時頃なんだろう、30年も前かしらと思って、カバーの著者紹介を見ると、向田は昭和4(1929)年生まれ、55年に直木賞受賞、56年に航空機事故で急逝している。ということは35年前に死んでいるんだ。私が見たドラマは35年から40年前のものなのか。あの頃は比較的早く家に帰っていたということでもある。向田邦子って頭がよさそうで嫌味がなさそうで料理がうまそうではっきり言って私の好みではあるのだが、生きていれば今年87歳だからね。それはともかく彼女の感覚や文体の瑞々しさといったら、ちょっと比類すべきものがないのじゃないかな。なんでもない日常茶飯のことでも彼女の手にかかるとひとりでに輝きだしてしまうようなそんなエッセーでした。

社長の酒中日記 12月その3

12月某日
西新橋の洒落た小料理屋屋風の店で昼食をとっていたら奥のカウンター席に元厚生次官の幸田正孝さんがいた。幸田さんが店を出るとき「今日は協会(社会保険福祉協会)ですか?」と尋ねると「そう」と答える。「後でご挨拶に伺います」と言って別れる。私はHCMに向かって大橋社長と雑談。その後、社会保険福祉協会に行き、まず4階の内田さんに挨拶、続いて2階の幸田さんに挨拶。幸田さんは若いころに北海道の国民年金課長をやっている。そして幸田さんが全社連の理事長をやっているときの常務理事が北海道出身の河崎さんだ。河崎さんは残念ながら数年前に亡くなっているが、すこしばかり思い出話ができた。会社へ戻って当社の寺山とプレハブ建築協会へ。専務理事の合田さんに会うためだ。合田さんは国土交通省の住宅技官。今から30年以上前、合田さんが住宅局住宅生産課の係長のころ日本プレハブ新聞の記者だった私は取材で大変お世話になった。今日は東商がやっている福祉住環境コーディネータ試験のPRのお願いに伺った。
小川町のプレハブ協会の事務所を出て寺山は会社へ。私は近くの堀子税理士事務所で堀子先生と大島先生に挨拶。今日はフィスメックの小出社長、社会保険出版社の高本社長と忘年会なので会場の上野広小路の「さくらい」へ。従業員教育がよくされているしっかりした洋食屋さんだった。小出社長にすっかりごちそうになる。帰りに我孫子駅前の「七輪」でウイスキーのソーダ割りを一杯。

12月某日
理事長をやっている高田馬場の社会福祉法人の理事会、評議員会。グループホーム2ユニットにデイサービスを併設しているのだが、人員不足からデイサービスは休止しているのだが、先の理事会で10月からの再開が決議されていた。私が10月から理事長に就任して以降もグループホームの運営に手いっぱいで開設準備は遅れていた。それで理事会に再度延期したいと提案したのだが圧倒的多数で否決されてしまった。早期再開の方針が再度議決されてしまったのである。私としては開設に向けて人員に余裕があるならともかく、現状で再開するとなると入居者や職員の負担が増すと考えた。したがってデイサービスを早期再開するのなら社会福祉法人全体の運営に責任を持てないことから辞任を申し出了承された。わずか3か月の理事長であったが社会福祉法人の在り方、介護保険事業への取り組み姿勢等、勉強させてもらった。至らない理事長を支えてくれた事務局や現場のスタッフに深く感謝である。

12月某日
年金住宅福祉協会の2代目理事長が中村一成さん。援護局長で退官、年金福祉事業団の理事を経て年住協の理事長に就任した。今から30年くらい前の話である。当時私は「年金と住宅」という年住協のPR雑誌の編集を任されていた。理事長に古地図を見ながら東京の名所旧跡を回るという企画を提案したら採用された。毎月1回、江戸城や町奉行所跡、刑場あとの小塚原などを取材に回った。取材のあとの食事も楽しかった。10年位前だろうか中村さんから「故郷の宮崎に帰ることにしました」という連絡をいただいた。それからは年1回の賀状と私からのささやかなお歳暮だけのお付き合いとなった。今年も我孫子名物のお煎餅を送ったところ、義理の弟さんから宮崎名産のデコポンと一緒に「今年8月に亡くなった」という手紙をいただいた。中村さんは東大を出てから海軍経理学校を経て海軍に。戦後厚生省に入省した。90歳を超えているから天寿を全うしたということなのだが、やはり悲しい。合掌。

社長の酒中日記 12月その2

12月某日
元厚労次官で現在、京都大学の理事をしている阿曽沼さんからメール。「明日健康診断で酒は呑めないけど食事はできます」。おいおい12月の金曜日だよ、空いているわけないだろと手帳を見ると今週は金曜日だけ空いているではないか。「君は幸運だね。空いています」とメール。5時過ぎに事務所に来てもらう。場所は末次さんにいただいた佃煮を章太亭に忘れてきたので章太亭にする。とりとめのない話をしていると、阿曽沼さんが「京都工芸繊維大学の副学長と会ったんだけど」と言う。「その人が福山の出身でさ。友野さんと大親友なんだって」と続ける。何、友野!思い出した。今から10年以上前、阿曽沼さんが最初に局長になったころだ。「何か面白いことないかなぁ」と言うから「カヌーなんかどう?」と誘ったら「面白そうだな」と乗ってきたのだ。そこに当時カヌーのインストラクターをやっていた友野君が登場する。友野君は私が早稲田の4年のとき東京外語大学に入学、私と同じ江古田の国際学寮に入寮してきた。外大がつまらないというので早稲田に連れて来たり、一緒にデモに行ったりした。そのうちブンドの戦旗派にオルグられあっちへ行ってしまった。40過ぎてから革命運動から足を洗い、カヌーのインストラクターをやりながらフリーライターになった。それからいろいろあったが、いずれにしても私の青春の1ページを飾る人であることは間違いない。

12月某日
土曜日だけれどセルフ・ケア・ネットワーク(SCN)の高本代表理事との打合せがあるので出社。高本さんが5時半にならないと事務所に戻らないというので私も会社でたまっていた雑用をこなす。5時半にSCNのオフィスへ。「介護職の看取り、グリーフケアについての調査研究」の報告書について打合せ。高本さんは江戸時代の事例を盛り込みたいと提案。考えてみると江戸時代を通じてあまり人口増加はなかったはずだ。つまり人口構成的には基本的には人口安定社会ではなかったか。と言うことは江戸時代の事例を検討するのは意味があるということなのだ。

12月某日
本郷さんから我孫子の「美味小屋」で食事をしようとメールがある。了解とメールを返したのだが、日曜日ですっかり忘れていた。約束は12時だったが1時過ぎに顔を出す。本郷さんと本郷さんの友人の寺田さんは当たり前だがもう出来上がっている。それでも西南戦争のはなしなどで盛り上がる。本郷さんと寺田さんは近くのレストラン「コ・ビアン」にいくということだが、私は失礼してマッサージへ。

12月某日
吉川弘文館の人物叢書「近衛文麿」(古川隆久 15年9月)を読む。この評伝の特徴は「従来の近衛研究で重視されてきた、近衛の回想手記や関係者の近衛没後の回想の使用は最小限にとどめ、近衛が生前に行った言説や関係者の日記類を重視した」ことにある。近衛の回想手記は弁明を目的として史実と異なる点が見られ、関係者の回想も多分に近衛に同情的なものが多いからである。本書はできるだけ史実に基づいて近衛像を明らかにする。結論から言うと近衛は「自由主義的国家社会主義思想を奉じる啓蒙的政治家」だった。それは間違いないし、それと同時に近衛のリーダーとしての責任を厳しく追及しており、歴史書、評伝として高い水準にあると感じた。

12月某日
川村学園女子大学の吉武副学長(元年金局長)から携帯に電話。「モリちゃん、5時半に我孫子駅南口に来られる。台湾からのお客さんとご飯を食べるのだけど」。もちろんウイークデイだから行けるはずがない。「6時過ぎなら行けるかもしれない」と返事して、理事長をしている高田馬場の社会福祉法人へ向かう。30分ほど事務仕事をこなして我孫子へ。我孫子駅南口の「串揚げOGAWA」と言う店だ。店に入るとあびこ地産地消協議会の米沢会長や川村学園の福永淑子先生の顔が見える。台湾からのお土産と言う26年物の紹興酒を頂く。たいへんマイルドな味だし陶製の容器がいかにも高そうだった。主賓である台湾の桃園市私立至善高級中学の張理事長を紹介される。市会議員や農事組合の方、市役所の農政課長とも名刺交換する。会合の意味はよくわからないが楽しい会だった。

12月某日
会社を休んで新松戸の年金事務所へ行く。まだ働いているのなら国民年金は70歳から受給したほうがいいでしょうということだった。70歳まで働くのかね?あと3年だよ。厚生年金は僅かながら受給している模様。そういえば元社会保険庁の池田保さんがいろいろと手続きやってくれたんだっけ。深く感謝。帰りに駅前の「しちりん」によってウイスキーのソーダ割りを2杯ほど。ふと思い立って床屋さんに行くことにする。我孫子市若松の「髪工房」が行きつけの床屋でもう10年位行っている。店主は九州天草の生まれで昭和19年生まれ。昭和47年ころ府中で修業中に3億円事件があったとか、松戸の伊勢丹の理容室で働いていたとかいろいろな話をしてくれた。私以外に客はいなかったし手伝いの女性も今日はいなかったからかな。

12月某日
「テロリストのパラソル」(藤原伊織)を読む。95年に江戸川乱歩賞、96年に直木賞を受賞。当時はずいぶんと話題になったものだが私は読むのは初めて。アル中のバーテンダー島村は元東大全共闘、そのなかでも駒場共闘だ。新宿中央公園で朝からウイスキーを呑みながらウトウトしかけたとき、何らかの爆発物が爆発し、死傷者が多数出る。島村は疑いがかかることを恐れ中央公園のホームレスのテントに潜む。私は東大全共闘の支援に行ったし、10数年前には新宿中央公園のホームレス支援に行ったこともある。そんなわけでこの小説は妙に懐かしかった。ミステリーとしてはその分、感傷的に過ぎるきらいはあるが。

12月某日
中村秀一さんが理事長をやっている介護医療福祉政策研究フォーラムへ。椋野美智子さんが今日のフォーラムを聞きに来るというのでご挨拶に。椋野さんは4月の大分市長選挙で惜敗。近況を聞いた。そこから神田の「おさかな市場」へ。民介協の理事会の忘年会。佐藤理事長や扇田専務に挨拶。ぱんぷきんの渡邉社長や社会福祉法人うねび会の酒井理事長がビールを注ぎに来てくれる。渡邉社長や酒井理事長は間違いなく介護業界の次世代を担う人材だ。株式会社ホームヘルパー協会のケアマネ春日さんとも名刺交換。頼もしい若い世代だ。続いてシミュレータの販売をお願いしているHCMの大橋さん、三浦さん、当社の迫田と鎌倉橋ビル地下の「跳人」で忘年会。