社長の酒中日記 4月その3

4月某日
結核予防会の竹下専務と高田馬場の「だるま」で5時半くらいから呑み始める。竹下さんとは30年来の付き合い。この間、一緒に呑んだ回数はもっとも多いのではないか。よく飽きないものである。焼き鳥をつまみに秋田県由利本庄の「天寿」、東北大震災で蔵元自体が福島から山形へ引っ越した「親父の小言」などを呑む。

4月某日
「介護職による看取り、およびグリーフケアのあり方に関する調査研究」を一般社団法人のセルフ・ケア・ネットワークとやることになった。社会保険福祉協会が助成してくれることになり、関西学院大学の坂口先生に全般的な監修をお願いすることにする。明日、朝の9時半に先生の研究室にうかがうことになっているので神戸に泊まることにする。旅行代理店に頼んだが手ごろなホテルがどこも一杯で「ケーニヒスクローネホテル」がやっととれた。朝食付きで1泊1万2、3000円だったと思う。当社の出張規定では宿泊費は一律9500円だから差額は自腹である。昔仲人をした佐々木健君がこっちに住んでいるので呑みに行くことにする。ホテルに迎えに来てくれた佐々木君が「なんでこんなお洒落なホテルに泊まっているんすか」と驚くほどのホテルである。あとで調べたら「ケーニヒスクローネ」とは神戸の有名な洋菓子屋さんらしい。三宮の居酒屋で新鮮な刺身と灘のお酒を御馳走になる。

4月某日
坂口先生をセルフ・ケア・ネットワーク(以下SCNと略)の高本代表理事と訪ねる。調査にいろいろとアドバイスをいただき監修も引き受けてもらった。三宮に戻り生田神社に参拝。お昼ご飯を高本代表理事に御馳走になる。インタビュー調査のため尾道へ。福山で「のぞみ」から「こだま」に乗り換え新尾道へ。新尾道からバスで尾道へ。最初のインタビューは在宅医療やチーム医療の先駆者である片山先生。片山先生は診察があるのでインタビューは6時から。それまで時間があるので私は尾道の繁華街を散策。小洒落た喫茶店でビールをいただく。尾道ゆかりの作家、林芙美子の坐像も見ることができた。片山先生からは「主治医の立場」での在宅緩和ケアや長期にわたるグリーフケアの話を伺うことができた。グリーフケアというのは人間同士のマナーであり、ヒューマニィティとフィロソフィーが必要という話が印象に残った。片山医院からタクシーで黒瀬歯科医院へ。歯科医院の前で先生と奥さんが待っていてくれる。内装を黒で統一したお洒落なレストランに案内される。地元の食材をふんだんに使った創作料理と広島の日本酒をいただく。口腔ケアや医科と歯科、歯科と介護の連携の話も伺ったのだが、料理と酒に夢中で覚えていない。近くのバーに寄って私はウイスキーのソーダ割りを頼む。先生はウオッカベースのモスコーミュール。すっかり御馳走になってしまった。

4月某日
早起きして尾道の港のほうを散策。尾道は「しまなみ海道」の起点。サイクリング客の誘致に力を入れている。港の空き倉庫を改修してホテルにしている。1階はレストラン、喫茶、物産店になっている。私は尾道の柑橘類と野菜を買う。11時に昨夜の黒瀬先生に紹介された小規模多機能「森のクマさん」を訪問。看護師で地区統括本部長の佐古田さん社会保険労務士でこの施設を運営するブレークスルーの相川社長が応対してくれた。佐古田さんは「誰にでも死は必ず来る。入居施設として入居者の最期まで責任を持ちたい」と語り、当初は介護職も看取りには抵抗があり、辞めていく職員もいたが1年半たつと職員の離職率はずいぶん減ったという。「疾患や障害しか見てこなかったのが入居者を全人的にみられるようになったからだと思う」と語ってくれた。昼食を近くのイタリアンレストランで御馳走になる。私はあさりのスパッゲティをいただく。非常においしかった。相川社長によると尾道の飲食店は総じて平均点が高いということだった。古くから港町として栄えてきたこととも関係するのだろうが文化度が高いのだ。
東京へ帰る高本さんと別れ、私は名古屋へ。名古屋では社会福祉士でケアマネの小藤さんに「対人援助DVD」の制作について相談。その後、児玉道子さんとその夫の隆夫さん、それから隆夫さんの社会福祉士の研修仲間と沖縄料理の居酒屋へ行く。沖縄出身者が集まる店のようで沖縄方言、うちなー口が飛び交っていた。若い人たちと呑めて楽しかった。

4月某日
3泊4日の出張も終わり。今日は日曜日なので東京駅から我孫子へ直帰。我孫子の駅前の「しちりん」と「愛花」による。

4月某日
映像プロデューサーの横溝さんと社会保険福祉協会の内田さん、岩崎さんと4人で西国分寺の社会福祉法人にんじんの会が運営する「にんじんホーム」を訪問。理事長の石川さんと介護事業者のための危機管理をテーマとしたDVDの教材の製作の打合せのためだ。にんじんの会の在宅サービスの職員、老健や特養、グループホームの職員も参加してディスカッション。老健のドクターやナースも参加したので医療的な危機管理についても話すことができた。終わって横溝君は次の打合せへ。社会保険福祉協会の2人と私は西国駅前の割烹で理事長に御馳走になる。新潟の酒と肴が絶品だった。

4月某日
厚生労働省の武田審議官を訪ねて1階のゲートを出ようとすると共同通信の城から声を掛けられる。今日、健康生きがい財団の大谷常務と福井Cネットの松永さんと呑むという。私も予定した呑み会が先方の体調不良で中止になったこともあって参加することに。会社近くのレストランかまくら橋に6時に行くと「今日は貸切です」と断られる。同じビルの地下1階の津軽料理の店「跳人」にする。6時半ころ大谷さんと松永さんが到着。遅れて城が参加。松永さんは福井県で障碍者の就労に取り組んでいる。松永さんと話していると障碍者の問題は健常者の問題であり、市民社会全体の問題であることがよくわかる。

4月某日
今日は「緑の日」で休日なのだが東京福祉専門学校の白井孝子先生に用があるので出社。西葛西の東京福祉専門学校へ。大谷さんにも付き合ってもらう。キタジマ印刷の金子さんのところへ。金子さんにも休日出勤してもらう。キタジマ印刷は都営地下鉄の森下の近く。近辺には良さげな呑み屋さんが多いのだが、休日の4時過ぎということで空いている店が少ない。いっそのことと京成立石まで足を伸ばすことにする。「中みっちゃん」という居酒屋に入り、ビール、お酒、ニラ玉、アジのなめろう、ホウレンソウのバター炒めなどをいただく。安くておいしかった。

4月某日
「舟を編む」(三浦しおん 光文社文庫 15年3月 単行本初版は11年9月)を読む。玄武書房に勤める馬締光也青年が国語辞書「大渡海」の制作のために辞書編集部に異動する。下宿の女主人との交流、その孫娘との出会い、恋愛、結婚、同僚、先輩、編集顧問の老いた国語学者たちとのさまざまなエピソードがこの小説に大小の起伏を与えている。馬締は自らがノメリコムことができる「辞書作り」という仕事につけて幸せであった。私自身のことを言うのはいささか憚られるが、私も介護や福祉というジャンルに雑誌作りを通して出会えることができて幸せであった。

4月某日
私が理事をやっている高田馬場の社会福祉法人サンで理事長の西村さんと評議員で税理士の伊藤さん、理事で弁護士の川島さんと打合せ。ここの社会福祉法人は職員はもとよりほとんど無報酬の理事や評議員によっても支えられていることを実感する。打合せを終わって有楽町電気ビル地下1階の「あい谷」へ。ここは10数年通っているが今日が閉店ということだ。新宿に「あぐら」という店があり、厚生省の官僚がよく使っていた。そこの雇われママさんのような人が「あい谷」でもママさん役をやっていた。今日聞くと経営者のマスターは当時学研の社員で客として「あぐら」に来ていたという。おそらく脱サラして「あい谷」を始めたものと思われる。阿曽沼氏と南極の氷でウイスキーを呑む会をやったり、私の母校である室蘭東高校の首都圏同級会をやったりいろいろと思い出のある店だ。さみしいが店も客も老いてゆくのだ。

社長の酒中日記 4月その2

4月某日
珍しく8時台に帰宅する。水割りを啜りながらテレビのチャンネルをガチャガチャやっているとBSで吉永小百合が薬局を経営する姉役、笑福亭鶴瓶が役者を夢見ながら年齢を重ねてしまった無頼の弟役の山田洋次監督の「おとうと」をやっていた。私は山田洋次の類型的なストーリー展開は好きになれないのだが、この映画でも何度か泣いてしまった。出来の悪い弟に翻弄される美人でかしこい姉、これはもう類型以外の何物でもないと思うのだが、何というか姉と弟双方の類型的な「健気さ」が泣かせる。

4月某日
民介協の扇田専務とSCN(セルフケアネットワーク)の高本代表とグリーフサポートの打合せ。介護事業者の看取りについてインタビュー調査先についてアドバイスをもらう。打合せ終了後、会社の近くの「木花」に呑みに行く。扇田さんは常連のようだが私は初めて。タコの刺身や山芋の千切りなど居酒屋の定番メニューを注文するが、それぞれ美味しかった。酒は長野の焼酎。結局1本空ける。扇田さんは今、「孫に知ってもらうため」に自分史を執筆中。県立奈良商業を卒業して富士銀行に入行、八重洲支店や広島支店での扇田さんの活躍は折に触れて聞いているが、私には興味深い話ばかりだ。我孫子へ帰って駅前のバー「ボン・ヌフ」でジントニックとウォッカのソーダ割り。

4月某日
日本橋小舟町のSCNの事務所を訪問。調査研究事業の費用の件などを話し合う。SCNの事務所で体操の先生に会う。高齢者にストレッチや体幹を鍛える体操を教えているらしい。私もすでに前期高齢者の仲間入り、なかなか体を鍛えるまでには至らないが、毎朝、ストレッチ等の体操を15分くらいやるように心がけている。夜、神田明神下の「章太亭」へ。以前、当社で働いていた村井由美子と待ち合わせ。ビールを呑もうとしたら村井が来たので乾杯。村井は昨年結婚したが、相手はこれも当社にいた寺山君。付き合い始めたのは2人が会社を辞めてからだから、こういうケースは職場結婚とは言えないのだろうな。村井は章太亭を気に入ったようだ。というか章太亭はたいていの客が喜ぶ。押しつけがましくないけれど心のこもったサービス、古き良き時代、小津安二郎の映画に出てくるような小料理屋なのだ。

4月某日
昔の仲間と馬事公苑の八重桜を見ようということになった。昔の仲間というのは、私がこの会社に入る前の会社、日本プレハブ新聞で同僚だった高橋博君。その当時から仕事の付き合いがあり、今はフリーライターをやっている香川喜久江さん、デザイナーの山沢美紀子さん、それに初期の年友企画に在籍して今はフリーの編集者をやっている川瀬春江さんだ。私は八重桜は苦手なので花見はパスして呑み会から参加することにする。小田急線の経堂駅の改札で待ち合わせ。経堂は山沢さんの地元。目当ての焼肉屋に行くがお休み。駅の近くの居酒屋へ。これが正解で安くて美味しい。高橋君は今、実家の定食屋を手伝っている。シェフは80歳代のお母さん。固定客が高齢化し亡くなる人も多く、経営は厳しいとか。高橋君は昔から物事に凝るほうで、昔は酒、きのこ、オートバイなどなどだが、今は酒もたばこも辞めてノン・アルコールビールを呑んでいた。今の趣味は演歌以外の音楽と本だそうだ。昔の仲間とたまに会うのもいいものだ。

4月某日
「新たな縁を結ぶ会」に出席。この会にはこのところご無沙汰していたのだが、今年は当社の迫田が「申し込みをしているが仕事が忙しくて行けないので行って」ということで出かけることにする。会場はイイノホール。会場に行くと厚労省健康局の伊原総務課長に「日記、読んでますよ」と声を掛けられる。パネラーの唐沢保険局長に挨拶。私は第3部の立体シンポジウム「地域包括~ニセモノ・ホンモノ~創造編」から出席。コーディネーターは一橋大学の猪狩教授と朝日新聞の生井さん。パネリストは39歳でアルツハイマー型認知症と診断されたトヨタのトップセールスマンだった丹野智文さん、新宿食支援研究会代表で歯科医の五島朋幸さん、茅ケ崎のあおいけあ社長の加藤忠相さん、全国福祉用具専門相談員協会理事長の岩元文雄さん、元夕張市立診療所所長の森田洋之さん、社会福祉士の猿渡進平さん、東近江市永源寺診療所の花戸貴司さん、それに厚労省の唐沢保険局長だ。
印象に残った発言をいくつかあげておきたい。茅ケ崎市で認知症高齢者のためのデイサービスを運営する加藤さんは、質の高いサービスを提供できるのは「マニュアルではなくミッション」という。施設のハードの作り方でも利用者同士、利用者と援助する側の「距離感が大事」で要は「広すぎない」のが「居心地の良い空間」ということだ。夕張市立診療所の元所長の森田さんは、一人暮らしの認知症のおばあちゃんが、自分の家の前だけでなく他人の家の前まで雪かきしている例を挙げて、「認知症になっても世話される側でなくお世話する側にいる」として「役割を持つ」ことが大切と語る。また「自分たちがどういう医療介護を受けたいかみんなで考えること」によって市民全体が変わっていくと夕張市でも確実に市民の意識改革が進んできたことを報告した。花戸さんは「医療や介護に携わる人以外も地域の人みんながみんなを支え合う」ことと、こうしたことは「次世代の子供たちに受け継がれなければならない」と語った。これらを受けて唐沢局長は「社会保障だけでなくあらゆる政策分野の柱に地域包括ケアを」と語っていたのが印象的だった。若年性認知症の丹野さんは「認知症と診断され、落ち込んでいた気持ちを前向きにしてくれたのは認知症の当事者だった。私も人のために何かをしたいと願っている」と語り会場から大きな拍手が送られた。

4月某日 
「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」(橘玲 単行本10年9月 文庫本15年3月 幻冬舎文庫)を読む。この人の本は震災関連で読んだ記憶がある。ウィキペディアで調べると「大震災の後で人生について語るということ」(講談社)だった。1959年生まれ。早大一文卒、宝島の元編集者ということだ。橘の主張はいちいちもっともと私には思える。「もしもぼくたちの人生が「やればできる」という仮説に拠っているならば、この仮説が否定されれば人生そのものがだいなしになってしまう。それよりも「やってもできない」という事実を認め、そのうえでどのように生きていくのかの「成功哲学」をつくっていくべきなのだ」という主張にもうなずける。橘の成功哲学はたった二行に要約できる。

 伽藍を捨ててバザールへ向かえ。
 恐竜の尻尾のなかに頭を探せ

同感ではあるが今年67歳になろうとする私にも可能だろうか? いやむしろ67歳のジジイだからこそ「伽藍を捨て」られるのだと思う。

4月某日
新宿区の高田馬場でグループホームを運営している社会福祉法人サンの理事長、西村美智代さんが来社。社会保険研究所の営業に引き合わせる。介護報酬の改定に関わる図書の広報を要請。会社の向かいの「ビアレストランかまくら橋」へ。後から共同通信の城、NHKの堀家、SMSの長久保氏が参加、当社の迫田、健康生きがいづくり財団の大谷常務も来る。

社長の酒中日記 4月その1

4月某日
大分市長選挙に立候補した椋野美智子さんを「勝手に応援する会」で集まったカンパを集めに大分へ。大分空港からバスで1時間ほどで大分市内へ。市役所のほうと勝手に思い込んでいたけれど事務所が見当たらないので電話したら駅の反対側だった。慌ててタクシーで事務所の住所へ向かうと新築のビルの1階に大きな「椋野事務所」の看板があった。さっそく、椋野さんと選挙の応援をしてくれている吉良さん(吉良代議士の弟さん)にカンパを渡す。椋野さんは元気そうで「1月までは選挙に出ようなんて思ってもいなかったのよ」と明るく話す。私が「子育て支援など社会保障政策の推進を訴えれば勝てるよ」というと「そこまで聞いてもらうのが大変なのよ」と。なるほどね。長居してもなんなので、今夜の宿の別府へ。別府行きの特急に乗ったつもりが熊本行きで最初の停車駅で大分に戻る。そんなこんなで別府のホテルに着いたら10時近かった。温泉には翌朝入ることにして寝る。

4月某日
大分空港から伊丹空港へ。伊丹空港から京都嵐山の天龍寺へ。かなり前から会社が維持会員か何かになっているようで毎年、花見に呼ばれる。天龍寺に着くとHCM社の平田会長が迎えてくれる。平田会長は天龍寺の前管長、平田晴耕師の実弟。前管長は確か東大の印度哲学を出てドイツへ留学したという英才だが、平田会長は同志社大学に入ってスチールギターを弾いていたという変わり種。大変、洒脱な人で私は尊敬している。花見の前にはいつも講演があるが、今年は同志社大学の先生が白隠について話してくれた。宴席に移ってビール、日本酒、お弁当、おでん、お蕎麦をいただく。2次会は祇園のバー「くろこ」へ。平田会長は神戸に住んでいる。私も京都に宿をとれず、尼崎のホテルにしたので新幹線で新大阪まで一緒に帰る。

4月某日
尼崎から西宮へ出てタクシーで関西学院大学へ。人間福祉学部坂口先生にグリーフサポートの調査研究についてアドバイスをいただく。坂口先生はたいへん謙虚な方で私のつまらない話にも真剣に付き合ってくれる。関西学院大学から京都の同志社大学へ。厚生労働省から同志社に移った井上恒夫さんを訪問。井上さんには東京へ来たら連絡ください、呑みましょうと約束する。同志社大学から京大へ。本部に厚労省の事務次官から京大の理事になった阿曽沼さんを訪問。ほどなく元住宅情報の編集長の大久保京子さんが来る。大久保さんが予約してくれた焼き鳥屋へ向かう。ここの焼き鳥は、モツとモツの間にタマネギの小片を挟んでいるのが特徴。私の故郷、北海道室蘭の焼き鳥は、豚肉の正肉にタマネギを挟んで洋辛子で食べる。ちょいと故郷のことを思い出した。

4月某日
京都から名古屋へ。我が家ネットの児玉さんと面談。福祉住環境コーディネーターのフォローアップ研修について意見を聞く。ニーズはありそうだ。途中から住快護創造ネットの小多美恵子さんが参加。小多さんは30過ぎてから大工に転身したという。体つきは華奢だが精神がタフなのだろう。

4月某日
「月次決算の進め方」(金児昭 日経文庫 05年12月)を読む。著者は信越化学で経理財務部門一筋で来た人。月次決算の基本というか、なぜ月次が重要なのかがわかったような気がする。つまり本決算や半期決算、四半期決算を待っていたのでは迅速な経営判断ができないということに尽きると思われる。

4月某日
「財政危機の深層―増税・年金・赤字国債を問う」(小黒一正 NHK出版新書 14年12月)を読む。著者は京大理学部卒業後、糸唾し大学の博士課程を修了、大蔵省に入省。現在は法政大学経済学部准教授。専門は公共経済学。先月読んだ「社会保障が経済を強くする」では財政再建のためには社会保障を中心とする歳出削減を行わなければならないとする考えは誤りと主張していたが、本書は年金を中心に社会保障には大ナタを振るわざるを得ないし、そうしなければ日本は沈没するだろうという指摘だ。
私は将来世代にできるだけ負担を先送りしないという観点からは財政再建派である。と同時に「子育て支援」など社会保障の充実によって経済成長を図るという意味からは社会保障推進派である。ただ社会保障ならばなんでもかんでも推進すればいいという考えではない。年金については世代間の公平性という観点からは削減はやむを得ないだろう。生活保護には自立支援の考えが大切で社会復帰をどう図るかが必要だ。また社会保障を税金と保険料のみで賄うのではなく互助的な考えも必要になってくると思っている。メリハリの効いた社会保障改革が必要なのだ。

4月某日
社会保険研究所発行の介護報酬関連の図書を介護関連団体へ営業支援を行っている。研究所の志賀ちゃんに頼まれた。今日はCIMネットワークの二宮理事長の後、介護クラフトユニオンへ。副事務局長で政策部門長の村上久美子さんに会うためだ村上さんとは数年前に2,3度呑んだ出だが覚えていてくれた。図書の紹介などをお願いする。雑談をするうちに当社の元社員が介護クラフトユニオンの幹部の奥さんになっていることが判明。世間は狭い。竹橋もホテルKKRで「へるぱ!」の編集会議。会議が終わった後、社福協の本田常務も交えて食事。私も当然、参加しなければならないのだが、我孫子で会合があるので失礼する。我孫子の会合は川村女子学園大学の副学長の吉武さんと、吉武さんと厚労省同期で元衆議院議員の大泉博子さん。場所は以前使ったことがある我孫子駅北口の「美味小屋」(うまごや)。6時の約束だったが30分ほど遅れた到着すると2人はすでにビールを飲んでいた。遅れた我孫子で「地産地消の会」をやっている中沢さんが登場。中沢さんは富山県砺波市出身。なかなかの資産家らしいが感じの良いフツーのおっさんだ。

4月某日
社内でグリーフケアの打合せを高本さんと当社の浜尾と3人で。引き続きSMSと打合せ。6時半過ぎにSMSの長久保さんと葡萄舎で合流。大分空港で買ってきた麦焼酎を2本空ける。

4月某日
社会福祉法人サンの職員採用の面接を西村理事長と。出版社の採用面接とはずいぶんと違う。今日面接した人は優しそうな人だった。私にはそれぐらいしかわからない。勉強します。元厚生労働省の宇野裕さんが来社。「椋野さんを勝手に励ます会」には参加できなかったけどと言って、1万円カンパをいただく。宇野さんは厚労省を辞めた後、社会事業大学で専務理事を務めた後、今は住友生命の顧問と筑波大学の准教授。2つの名刺をくれた。筑波大学では被災者支援の研究をやっているということでグリーフサポートにも関心を示してくれた。一緒に研究をできればと思う。山形・庄内料理の店「このじょ」へ。結核予防会の竹下専務が参加。

社長の酒中日記 3月その3

3月某日
国際厚生事業団の会員となっているので年1回の総会に参加。総会後厚労省の二川医政局長の講演を聞く。二川さんの講演を聞くのは初めてだが、わかりやすく、ユーモアを交えた語り口で好感を持てた。私は医療機関相互の機能分担と業務連携の推進のために新しく創設される「医療連携推進法人制度」の話が興味深かった。川本三郎の「君のいない食卓」(新潮社 11年11月発行)を机の上に置いていたら、顔見知りの事業団監事の佐野さん(元社会・援護局長)から「おや、川本三郎なんか読んでいるの」と声を掛けられる。川本は佐野さんの小学校の後輩、高校も麻布で一緒だそうだ。川本は東大法学部だから大学も一緒かも。川本の奥さんは08年の6月、食道がんで57歳で亡くなっているが、「食べ物と奥さんへの想い」を綴ったエッセーが「君のいない食卓」だ。川本の本を読んだのは初めてだがなかなかよい。川本は確か朝日ジャーナルの記者をしていた頃、「赤衛軍」を名乗る青年を匿った疑いで逮捕起訴され、朝日新聞社を馘首された。(あいまいな記憶で書いているので正確ではないかもしれない)。川本を支えたのが奥さんだったわけね。講演の後、懇親会に顔を出し、角田専務にあいさつして途中で抜け出す。日刊企画に寄って小宮山社長と寿司屋へ。
私が大学を卒業した時は第1次オイルショックの直前の1972年。世の中は空前の好景気に沸いていたが、この日記にもたびたび書いたように私は授業にはほとんど出たことがないうえ学生運動の活動家の端くれだったし、逮捕起訴経験もあった。まともなところには就職できるはずもなく、友人の村松君の親戚がやっている印刷屋にもぐりこんだ。その印刷屋にいたのが小宮山さんで、私は当時の最先端印刷技術だった写植のオペレーターに配属され、小宮山さんは「大組」といって活版印刷でいえば組版を担当していた。その印刷屋には2年ほどいて私は住宅建材の業界紙に転職した。小宮山さんは確かその会社が倒産するまでいたと思う。小宮山さんはその後、フジサンケイグループの日本製版という印刷会社に移り、20代で独立、日刊企画という印刷会社を始めた。地下鉄丸ノ内線で再会したとき、私は日本プレハブ新聞という業界紙に移っていたが、単行本の印刷をお願いしたりした。今の会社に移ってからも付き合いは続いているが、最近は印刷の仕事のウエートが低下し申し訳なく思っている。でもたまに会うと二人とも青春時代に戻ってしまう。

3月某日
「わがやネット」の児玉道子さんは、普段の生活の根拠は愛知県の知多半島の半田市。仕事で上京してきたので会うことにする。北綾瀬で仕事があるというので千代田線の根津で会うことにする。言問い通りと不忍通りが交差する根津の交差点近くに「海鮮茶や 田すけ」という看板を掲げている店があったので入ることにする。40前後の店主が一人でやっている店で、おいしそうな日本酒、焼酎をそろえていて、しかも料理が美味しく、さらにこれが重要だが値段もリーズナブルだった。8時過ぎに同じ根津「ふらここ」のママに「児玉さんが来ているんだけど今日帰るからちょっとだけ顔だすね」と電話。「ふらここ」でウイスキーの水割をいただく。

3月某日
大分市長選挙に元厚生労働省の椋野美智子さんが出馬表明した。江利川さんや中村秀一さん、社会福祉法人にんじんの石川理事長、ふるさと回帰支援センターの高橋ハムさんに発起人になってもらい「勝手に励ます会」を霞が関ビル35階の東海大学校友会館でやることにする。当日、受付をやってくれる当社の迫田、石津、浜尾と一緒にタクシーで会場へ。15分くらい前から参加者が続々と集まってくる。義理で来てもらったHCMの大橋さん、青海社の工藤さん、社保研てぃらーれの佐藤さん、グリーフサポートの高本さんたちに感謝。発起人を代表して江利川さんがあいさつ。「私たちは椋野美智子さんが大分市長となって、福祉の基盤を整備し新しいふるさとを創生していくことを強く望みます」という共同アピールを採択した。羽毛田さんや浅野史郎さんからも心のこもったあいさつがあった。大分からわざわざ大分選出の吉良代議士が来てくれて最近の状況について話してくれた。予想以上に盛り上がった「勝手に励ます会」だが、椋野さんの仁徳でしょうね。私の選挙応援は浅野さんの宮城県知事選が最初。それから阿部さんの参議院選挙なども応援した。根が好きなのだと思う。

3月某日
図書館から借りていた「物書同心居眠り紋蔵 わけあり師匠事の顛末」(佐藤雅美 講談社 2014年4月)を読む。佐藤雅美は好きな作家の一人だが「居眠紋蔵シリーズ」はそのうちでもお気に入りのシリーズだ。シリーズがこれで13冊目というからずいぶん続いていることがわかる。「わけあり師匠事の顛末」を読んで初めて気が付いたことがある。全体が8章で構成されており、それぞれが独立した物語なのだが、安芸広島浅野家の浪人、青野又五郎と奥女中奥林千賀子の恋物語が各章を通じて語られる。当たり前かもしれないが「綿密に」構成されているのである。佐藤雅美独特の時代考証、これがあるから物語にリアリティを与えているのだろう、と合わせて私には「堪らない」。

3月某日
社会保険研究所の谷野編集長のご尊父のお通夜に出席。最近のお通夜では故人の在りし日の画像が放映されることがある。今日のお通夜もそうで画業にいそしむご尊父の映像が流されていた。高校か中学の美術の教師でもされていたのであろうか。私とは一面識もないが、画像を目にすることによって故人にいささかなりとも近づけた思いがする。浦和の焼き鳥屋南蛮亭にフィスメックの田中会長と流れる。

3月某日
元社会保険庁の池田保さんに会社に来てもらって私の年金相談。とにかく4月中に何らかの手続きをすることを勧められる。日本の年金は社会保険方式による申請主義。皆さんはちゃんとやっているのだろうけど。まぁとにかく時間を作って手続しなければ何も始まらない。年金相談を切り上げて会社の向かいの「ビアレストランかまくら橋」へ。セルフケアネットワークの高本代表が打合せに。関西学院大学の坂口教授との打合せの相談である。こちらもちゃんとやらねば。

3月某日
「社会保障が経済を強くする―少子高齢社会の成長戦略」(盛山和夫 光文社新書 2015年3月)を読む。盛山氏は専門は数理社会学。社会保障や経済学の専門家ではないところが味噌である。「社会保障の充実と経済成長の両立は可能なのか」という市民の疑問に経済学や社会保障の専門家ではない著者が見事にこたえていると私には思われた。著者は、財政再建のために社会保障を中心とする歳出削減を行わなければならないとする考え方は誤りと断言し、「小さな政府論によって日本経済の成長戦略を描くことは不可能なのです。日本の将来のためには、もはや、そうした誤った考えからは脱却しなければなりません」と説く。家族は弱い存在なのだ、という認識から著者は出発する。だから家族を社会全体で支えるという考えと仕組み、すなわち社会保障が必要なのだというのだ。

社長の酒中日記 3月その2

3月某日
「へるぱ!」のインタビューで厚労省老健局の高橋振興課長にインタビュー。質問に誠実に答えてくれた。高橋さんは国土交通省との交流人事で老健局へ。福祉の仕事は初めてと思うが勘所はきちんと押さえている。しかしわたしが高橋さんのような優秀なキャリア官僚に望みたいのは「現場を見てほしい、現場の声を聴いてほしい」ということ。中央官庁の情報は役所(都道府県などの自治体)や市町村長、団体を通してのものが多いのではないだろうか?それはそれで結構なのだが、現場との微妙な「ズレ」を感じてもらいたい、そのためには現場を見てもらいたい、ということである。
社会保険出版社の高本社長を訪問。今後の事業の展開などについて意見交換。フィスメックの小出社長も合流。3人で社会保険出版社の近くの新潟の「へぎそば」の店に。「栃尾の油揚げ」などを肴に八海山や麒麟山、吉乃川、越乃景虎などの新潟の銘酒をいただく。途中から元厚労省で現在、川村女子学園大学の副学長をやっている吉武さんが参加。吉武さんが入ると「座がもつれる」ケースがあるが、この日は終始上機嫌。まぁ高本さんも小出さんも吉武さんとは初対面みたいなもの。初対面の人に対してはさすがの吉武さんも「紳士」にならざるを得ないのであった。高本社長にすっかり御馳走になる。

3月某日
大学時代の同級生、A宮弁護士と神田の鎌倉橋の交差点で待ち合わせ「葡萄舎」へ。法律問題を相談してあとは焼酎。僕らのクラスは優秀な民青とあまり優秀ではない全共闘派(僕ら)がいたが、クラス委員選挙ではいつも民青に負けていた。クラス討論で、民青から「お前は偉そうなことを言うけれど、日米安保の条文を読んだことがあるのか?」と聞かれ、「読んでねーよ。ベトコンの少年兵は共産党宣言や資本論を読んでいなくっても立派に米軍と闘っているじゃねえか」と答えたら、民青から「今、ベトコンと言ったな。それは解放勢力に対する蔑称なんだぞ」と噛みつかれ、クラス討論は終了した。勉強嫌いは今に至るも変わらない。

3月某日
「けあZINE」のインタビューで株式会社介護コネクションの奥平代表取締役に会社に来てもらう。奥平さんは沖縄出身。新聞奨学生をやりながら早稲田大学社会科学部を卒業、不動産鑑定事務所に勤める。この事務所で高齢者住宅や施設の鑑定に携わったのが介護の仕事と出会ったきっかけ。新聞奨学生だった経験を活かして介護施設で働きながら、大学や専門学校で学ぶというシステムを考案して現在、試行中。卒業後、介護関係の仕事に就くのもいいが、奥平さんはむしろ、介護の仕事を通して仕事の厳しさや楽しさを学んで一般のビジネスに生かしてほしいという考え。介護に対する正しい理解が市民の間に広がってほしいと最近、強く思う。奥平さんのビジネスが成功することを祈る。インタビューが終わった後、当社のS田、SNSのN久保氏と「レストランかまくら橋」へ。奥平さんはお酒は呑めないそうで、ジンジャーエールで付き合ってもらう。わたしらは持ち込んだウイスキーをいただく。

3月某日
東商傘下のNPO,「生活福祉健康づくり21」の横田さんが3月いっぱいで退職するというので民介協の扇田専務と送別会。神田駅南口の扇田専務いきつけの居酒屋へ。中国吉林省出身の女の子が注文取りやお運びをやっている。横田さんは退職して地元川越の町内会で伝統のある山車の回収・保存に力を入れるという。こういうひとが地域を根っこから支えているんだろうと思う。

3月某日
企画を手伝ったオヤノコトサミットが有楽町の交通会館で開かれているので覗きに行く。白梅大学の山地先生の「介護保険制度改正」、浴風会ケアスクール服部さんの「認知症患者家族の悩みにこたえる」、わがやネットの児玉さんの「親の安全な住環境のために」、大田区西新井の地域包括支援センターの澤登さんの「地域で楽しくクラスためのヒント」をきかせてもらう。聴衆がちょっと少ないのが残念だったがなかなか聞きごたえのある講演だった。会社へ帰ってグリーフサポートの高本さんと当社の浜尾の3人で「介護職にとってのグリーフサポート」の調査事項について打合せ。児玉さんも合流。高間と、児玉さんと私の3人で神田の葡萄舎へ。高本さんは夫の社会保険出版社の高本社長が葡萄舎のファンなので一度来てみたかったという。高本さんと児玉さんは初対面だが年齢もほとんど一緒で、気が合ったみたいで今度児玉さんが住んでいる知多半島へ行こうという話になっていた。遅れて高本社長も参加。私は我孫子へ帰って駅前の「愛花」で焼酎のお茶割を2杯ほどいただく。

3月某日
オヤノコトサミットの2日目。長寿社会開発センターの石黒理事に講師をお願いしているので覗きに行くことにする。10時からと思っていたら11時からだったので地下1階の喫茶店で時間をつぶす。11時近くなったので会場に行くと徐々に人が集まりだした。石黒さんの講演テーマは「親の老いと親孝行の心得」。石黒さんは自らの体験を踏まえながら軽妙に話す。午後、会社に帰り17時から高田馬場の社会福祉法人サンへ。

3月某日
市民図書館で借りた「会社をどう変えるか」(奥村 宏 ちくま新書 03年12月)を読む。10年位前に出版された本だが日本経済を替えていくにはそれを支えている会社を変革していかざるを得ない、という著者の考えは基本的に正しい。日本の会社の現状はバブル崩壊の後遺症、それに加えて人口の減少による市場の縮小により、20年の間、低迷を続けてきた。現在は円安効果によって経済は回復の兆しを見せているが、個人や企業のもたれ合い、責任の回避といった日本の風土それ自体を変えていかなければ、本当の構造改革はできないと思っている。改革には痛みが伴う。その痛みをできるがけ少なくしながら改革の効果を上げていくのが経営者の責任である。

社長の酒中日記 3月その1

3月某日
社保研ティラーレの佐藤社長と厚労省の武田審議官を訪問。地方議員を対象とした「地方から考える社会保障フォーラム」の講師、テーマの選定についてアドバイスをもらう。その後、虎の門フォーラムの中村理事長と面談。虎の門フォーラムを出たら6時近くなっていたので結核予防会の竹下氏に電話。「東商の近くで呑み始めたばかり」という。大手町ビル地下1階の「玉の光酒蔵」で待つことにする。福祉住環境コーディネータ資格などについて話す。竹下さんは現在、福祉住環境コーディネータ協会の会長だ。

3月某日
元衆議院議員の樋高剛先生とティラーレの佐藤社長と富国生命ビル28階の「富国倶楽部」で会食。樋高先生は民主党、生活の党を通じて小沢一郎氏の側近。奥さんは平野貞夫氏の娘でもある。樋高先生の単行本つくりを手伝って以来の付き合いだが、早稲田大学応援部出身の好漢。「政界再編へ向けて民主党、維新などといろいろやって行きたい」と話す。今の政治状況は自民党の1強体制、自民党も安部総理の1強体制。民主主義にとっては如何なものかと私も思う。樋高先生は純粋にこの国の将来を憂えている。こういう人を野においておいてはいけない。国政復帰を切に願う。

3月某日
元社会保険庁長官で全社協の副会長もやった末次彬さんたちと会社の向かいのレストランかまくら橋で会食。5時半過ぎに会場に行く。6時少し前に末次さん、6時半丁度にゴルフ仲間で援護局で中国の帰国子女とかかわってきた高根さんが来る。高根さんはお酒を飲まないのでジンジャーエール、わたしと末次さんはビールで乾杯。末次さんはアサヒのスーパードライは呑まないから念のため銘柄を確認するとキリンとの答え。しばらくして現在国際医療大学の教授で「虎の門フォーラム」を主宰している中村秀一さんが参加。中村さんも末次さんも社会保険診療報酬支払基金の理事長をやっている。中村さんが課長補佐の時、沖縄出身で医系技官の仲村さんが課長で仲村課長は「にんべんのなかむらさん」と呼ばれ、中村課長補佐は部下をギリギリと締めたこともあって「ひとでなしのなかむらさん」と呼ばれていたと「ひとでなしのなかむらさん」が話して盛り上がった。だいぶ遅れて地域医療支援機構の理事に出向している藤木さんが来る。藤木さんは東日本大震災のとき、北海道厚生局長で、震災発生後すぐにボランティアで被災地に入った。その後の人事異動で東北厚生局長として仙台に赴任し、被災地の支援に走り回った。末次さんと高根さんが帰った後、中村さんがカレーライスとスパゲッティをごちそうしてくれた。

3月某日
グリーフサポートの高本代表理事のご母堂の葬儀に参列するため浅草の東本願寺に。導師2人の読経の声が心に響く。男声2部合唱ですね。午後、製薬協の伍藤理事長を訪問。伍藤さんが社外役員をしているSMS社の件を報告。しっかりやるように激励される。夜は社会福祉法人サンの西村理事長と上野の駅近くのぶんか亭で打合せ。この店はJR東日本の子会社が経営するレストラン。西村さんはお酒を呑まないのでそばを注文。わたしは生ビールを1杯と日本酒を冷で3杯ほど。我孫子に帰って駅前のバーでジンバッグとボンベイサファイアというジンをロックで。

3月某日
伊達政宗の誌に「馬上少年過ぐ」という詩があり、近頃この詩がよく頭をよぎる。

馬上少年過ぐ
世平らかにして白髪多し
残駆天の許すところ
楽しまざればこれ如何せん

司馬遼太郎に同名の小説があり、わたしがこの詩の存在を知ったのも司馬の小説によってである。この詩の大意は、つぎのようなものだ。
若いころは馬に乗って戦場を駆け巡ったが、天下は平定され私もすっかり白髪頭となってしまった。私がここにこうしていられるのも天が許したからだ。人生を楽しまないでどうしよう。
私の青春時代は学生運動華やかりしころで大学はバリケード封鎖で授業はほとんど出たことがない。警察との攻防だけでなく他党派との抗争もあり、何日も下宿のアパートに帰らなかったことも度々あった。政宗が戦場を甲冑で身を固め馬で駆け巡ったように私たちも長髪にヘルメット、片手にゲバ棒を握りしめ、学園や街頭を駆け巡ったわけである。私としてはまさに「残駆天の許すところ楽しまざるを如何せん」という心境なのである。

3月某日
全国社会保険共済会の会長、植田さんが肝臓がんで亡くなった。私と同年だから66歳のはず。お通夜に行く。会場が橋本なので途中、立川のケアセンター「やわらぎ」で石川はるえさんに会う。立川から八王子へ出て橋本へ。時間前に着いたのだが、すでに会場は参列者で一杯だった。お浄めの席で江利川さんはじめ多くの知り合いに会う。当社の大山、間杉さんも参列。植田さんは社会保険業務センターの副所長とノンキャリアのトップまで登り詰めた人だが、わたしたちにもフランクに接してくれたし、江利川さんはじめキャリアの信頼も厚かった。通夜の橋本の駅前で大山さんと一杯。通夜帰りの何人かに声を掛けられる。

3月某日
有楽町の交通会館に「ふるさと回帰支援センターの高橋ハムさんを訪問。ハムさんは早大全共闘時代からの知り合い。全共闘運動の敗北後、魚河岸で働いたり呑み屋の用心棒をやったりしたが自治労の書記局に採用された。20年以上前に厚生省の前で宣伝カーの上に載ってアジ演説をしているハムさんを見かけてから付き合いが再開した。ハムさんは福祉6法の改正で当時の若手厚生官僚の辻さんや吉武さんらと付き合うようになる。ハムさんとは大分市長選挙に立候補を表明している椋野美智子さんを「勝手に支援する会」の打合せ。今日は学芸大学前で5時半に堤修三さん、大谷源一さんと間と合わせ。駅近くの山内農場へ入る。遅れて元自治労副委員長の徳茂さんが参加。

社長の酒中日記 2月その4

2月某日
しまった。2月は28日までしかなかった。前回アップしてから3日しかないのでね。今日もいろいろとごちゃごちゃあったが、夕方、埼玉グループホーム・小規模多機能協議会の西村会長に会いに行く。転んで腰を打ったとか言っていたが、わたしは一言「老化だね」。私も5年前に患った脳出血の後遺症で右半身が不自由。不自由には慣れたけど、不自由からくる肩こりに悩まされている。右側に負荷がかかるためか、右肩、腰、臀部が異常に張るんですね。1週間に1回はマッサージに通う。わたしは「みんなのてもみ」神田中央通り店に通っている。店も施術者も感じがよく、気にいってるのだが1回60分、2980円(税別)というのが痛い。話が逸れてしまったが、西村さんとは終末期、グリーフサポートの研究に協力してくれるようにお願いする。帰りは南浦和から武蔵野線で新松戸へ。新松戸には「GUI呑」という呑み屋があり、今日はそこで元年住協の林弘行さんと待ち合わせ。林さんはすでに来ていた。さっそく生ビールと焼き鳥を頼む。林さんは現在、日本環境協会で会員増強の仕事をしている。最近は環境教育の普及にも力を入れているようだ。新松戸で林さんと別れ、我孫子駅前のバーに寄る。バーテンダーは私のことを覚えておいてくれた。ジントニック、バーボンのクレメンタイン、アイリッシュウイスキーをいただく。

2月某日
目黒のパーシモンホールで「認知症の人の看取りを考えるフォーラム」が開かれるというので聞きに行く。少し遅れて行ったら、パネラーの一人、長寿社会開発センターの石黒秀喜さんに「社長、暇つぶしかい?」と声を掛けられる。ゆきぐに大和病院長の宮永先生、それと昨日会った西村さん、NPO法人楽の柴田理事長、山形保健医療大学の小澤さんがパネラー、医療や介護の専門家ではない石黒さんの話の「医療や介護する人に迷惑かけたくないのよねぇ」という発言が会場の共感を呼んでいた。パーシモンホールは柿木坂にあるからパーシモン、柿木坂と言えば堤修三さんが住んでいるし近くの国立病院機構には古都さんがいる。しかし三軒茶屋に住んでいる香川喜久江さんのことを思い出し、電話して三軒茶屋で待ち合わせ。三軒茶屋で呑むのは初めてだが、一歩路地を入るとなかなか渋い店が並んでいる。「ごしき」という和食の店に入る。香川さんは何年か前にリンパ腺ガンになり完治したのだが、それ以来酒を辞めている。だが酒席には付き合ってくれる。福島の酒を3杯ほどいただく。我孫子の駅前の愛花に寄ったら大越さん夫妻が来ていた。夫の大越さんは国士舘大学出身なので今日、三軒茶屋で呑んだことを話す。「学生時代、ドレメのねーちゃんと付き合ってたんだよ」と懐かしそうに話す。

2月某日
土曜日だけど残務整理で会社へ。グリーフケアの研究企画書を点検。グリーフサポートの高本さんに若干の修正をお願いする。老健補助事業の申請について、健康生きがいづくり財団の大谷常務と打合せ。上野駅前の大統領という焼き鳥屋で待ち合わせたが、満員で入れず近くの「浜ちゃん」にする。ここもはぼ満員。以外に若いカップルが多い。安くておいしいからなのだろうか。上野駅近辺を歩くという大谷さんと別れ我孫子へ。我孫子では癒し堂というマッサージによる。ここは中国人がやっていて価格は税込みの2980円。腕は悪くない。
図書館で借りていた桐野夏生の「奴隷小説」(2015年1月 文芸春秋)を読む。これは短編集。桐野は長編もいいが短編もいい。今回は新潮、オール読物、文芸春秋などに掲載された7編の短編が収録されている。「奴隷小説」というタイトルをつけていることからも分かるようにテーマは隷属である。隷属は普通に暮らしていると恐怖である。しかし人は隷属にも慣れてくる。同じ境遇にあっても隷属する側に迎合する人と迎合できない人が出てくる。そこらあたりのことを短編にちりばめられているように思う。私はこの小説を読んでイスラム国や北朝鮮、川崎の少年殺人事件を思い浮かべた。

社長の酒中日記 2月その3

2月某日
3泊4日で大阪、西宮、京都、名古屋、常滑へ出張。大阪では私が唯一仲人した佐々木君と会う。私がこの会社に入って間もなくリクルートの月刊ハウジングの編集を手伝っていたことがある。その頃新入社員としてリクルートに入社したのが佐々木君。何人かと連れ立って銀座、新橋、神田でよく飲んだ。しばらくして佐々木君が結婚することになり仲人を頼まれた。リクルートからすれば私はたんなる出入り業者の一人にすぎない。だから「そりゃ部長さんか誰かに頼むべきでしょう」といったんは断ったのだが「どうしても」というので引き受けるハメに。佐々木君はその後、月刊ハウジングの編集から離れ、勤務地も名古屋や大阪となった。20年近く前になると思うがリクルートを早期退職し大阪に編集企画会社エディウスを立ち上げ社長に。今回は大阪出張をきっかけに当社と何か連携できないか模索するつもりだった。ところが佐々木君はなかなか仕事を抜けられず、7時の待ち合わせが8時過ぎになってしまった。こちらは結構、酔っぱらってしまったので連携の話は持ち越しに。

2月某日
大阪介護支援員協会の研修部長、福田弘子さんに今回の介護報酬改定について取材。「私は介護報酬が上がった下がったでは動じません」ときっぱり。それより「利用者のためにも医療保険と介護保険の一本化が必要です」と力説。同感である。福田さんは看護師出身。富田林市の市立病院などで訪問看護師を歴任。第1回のケアマネの試験で資格を取った。看護師からケアマネになると医療職から事務職となるため給料は減る。でも福田さんはケアマネという仕事が好きだからケアマネを選択したという。
午後は関西学院大学へ。お昼頃、阪急の仁川という駅に着く。周りを見回したが店らしい店がない。駅前のビルの1階に「うどん屋」の旗が立っていたので入ることにする。カウンターとボックスだけの店。メニューから「冷たい野菜天ぷらうどん」を注文すると、「10分ほど時間がかかります」という。たべて驚いた。麺に腰があり野菜のてんぷらも美味しかった。帰るとき店の名刺をもらうと「讃岐Dining&Horse Bar」とあり店名はFrankelという。Frankelというのはイギリスの馬名だそうだ。仁川は阪神競馬場があるからHorseにこだわったのだろう。
タクシーで関学の正門に行くと、すでにグリーフサポートの高本代表理事が待っていた。関学の人間福祉学部の坂口幸弘教授を一緒に訪問するためだ。関学は始めてきたが南欧風の低層の建物が並んだ非常に雰囲気のある学園だ。坂口先生によると介護士へのグリーフケアの研修が昨年から多くなってきたそうだ。それまでは看護師への研修が中心だったが、先生もこれから介護士へのグリーフ研修が必要になるという意見だった。
坂口先生の元を辞して京都へ。京都は元厚労省で京大理事の阿曽沼さんとの会食だが、まだ時間があるので高本さん手がけたという結婚式場を見に行くことにする。高本さんは空間デザイナーでもあり、その時やった仕事がAZEKURAという結婚式場。社長の市田さんが案内してくれる。京都にも最近は他県や異業種からブライダル産業への進出があり市場は厳しいとのことだが、社長は「価格競争に巻き込まれないようにやっています」と独自の道を歩んでいるようだった。社長の愛車ロータスを見せてもらう。阿曽沼さんとの待ち合わせ場所、河原町の「いろめし黒川」へ高本さんと向かう。この店は以前、HCMの平田会長に連れてきてもらった。阿曽沼さんは6時半頃到着。東京出張の帰りだそうだ。お刺身や「もろこ」、おからなどを美味しくいただく。高本さんが東京へ帰る。阿曽沼さんは京大でインドネシアやマレーシアなどの留学生を迎え入れることに関心があるようだった。

2月某日
民介協の事例発表会。いつもは東京だが今回は名古屋の国際会議場。金山から地下鉄に乗って日比野で降り5,6分歩くと巨大な建物群が見えてくる。それが名古屋国際会議場。会場に行くと扇田専務が「記者席が空いているよ」というので最前列の記者席へ。事例発表会は何回か参加しているが、今回はいつにも増して興味深かった。介護福祉士だけでなく看護師、作業療法士の発表もあり地域包括ケアの現場での実践、利用者の終末期への対応、視覚障碍者への寄り添いや利用者の状況に合わせての環境整備、住宅改修など発表者が真剣に利用者とかかわっていることがわかった。懇親会はパスして名鉄で常滑へ。建築家の児玉さんと社会福祉士の小藤さんと居酒屋へ。貝類の煮つけ、青柳のてんぷらなど非常に美味そして安い。2次会は陶器を焼く窯をバーに改造した「共栄窯」へ。タイルの内装がなんとも美しい。

2月某日
9時に児玉さんがホテルに迎えに来てくれて、「焼き物散歩道」を歩く。整備されてはいないし人通りも多くないが、私にはそれが好ましい。市民文化会館で「とこなめ陶の森」の館長、渋木さんに紹介される。資料館、陶芸研究所を案内してもらう。INAXライブミュージアムで児玉さん、渋木さんと食事。渋木さんに地域包括ケアは何も高齢者に対象を限ったものではなく、障碍者、児童、市民みんなが参加するものと一席ぶってしまう。渋木さんは興味を示してくれたように見えたが。渋木さんと別れホテルに荷物を取りに行く。3泊4日の充実した出張だった。

2月某日
会社の本棚に埋もれていた「国の死に方」(2012年12月 新潮新書)を読む。東日本大震災と福島原発事故を受けて歴史家として「この国の形」について考えることを文章にしたものである。片山という人は一見すると関係ない事柄を紡ぎ合わせ、歴史的な意味を考えるという意味で稀有な人だと思われる。たとえば本書ではゴジラ、進化論、江戸幕府の職制、明治の元老、生命保険、関東大震災、米騒動、内地米と朝鮮米などキーワードにして鮮やかに日本近代史を切り取っていく。本書の序章は映画「ゴジラ」の映画音楽を作曲した伊福部達の生き方から始まるが、終章もまた「ゴジラ」で終わる。ゴジラの日本襲撃は日本に対する核攻撃と明らかに重ね合わされていると片山は言う。そしてゴジラを鎮めたのは、一民間科学者の平田昭彦扮する芹沢博士であった。日本社会は古来から利益社会と自己犠牲的精神風土の共存であり、広島長崎に対する原爆投下、無条件降伏から9年後に封切られた映画「ゴジラ」はそのことを明らかにしていると片山は言う。

2月某日
ケアマネの全国研修会に参加した愛知県のケアマネとビアレストランかまくら橋で呑み会。今回の介護報酬の改定で中重度の利用者に対する報酬がアップされることについて「要介護度を改善するインセンティブとならない」という声があった。本人の自立度が上がると、要介護度が下がり介護報酬は減額される。つまり事業者にとっては減収となる。要介護度が低下するということは本人にとっても社会にとっても良いことには違いがないのだが、その結果、事業者にとっては介護報酬の減収となってしまう。その矛盾は介護保険制度のスタート以来言われてきたことなのだが。

社長の酒中日記 2月その2

2月某日
松戸の聖徳大学の篠崎先生に「介護マスト」の原稿を頼みに行く。松戸駅西口近くのドトールで待ち合わせ。篠崎先生は前任校の八戸学院大学へ取材に行ったのが最初。筑波大学出身で出版社での編集経験もあり、フラットで飾らない人柄に人気がある。介護業界には魅力的な人が多いということを話すと賛同してくれた。午後、日本の福祉現場力を高める研究大会に出席。もともとは東京福祉専門学校や埼玉福祉専門学校を傘下に持つ滋慶グループの卒業研究の発表会だったが、最近は学生たちが企画委員会を立ち上げて自主的にやっているらしい。そのためなのか、今年はメインタイトルが「介護がデザインする未来の社会」で内容も今日的で面白かった。私は2部からの参加となったが、「LGBTの介護」「介護と葬儀の連携」「ピープルデザインが描く『超福祉』」はいずれも興味深かった。LGBTとはレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランス・ジェンダーの頭文字をとったものでセクシュアルマイノリティの人たちを指すらしい。講演した佐藤さんは都内の特養で働く男性介護士だが戸籍上は女性で、介護現場でもいろいろと苦労があるとのことだ。LGBTの当事者の話を聞けただけでも貴重な体験をさせてもらったと思う。閉会後のレセプションにも顔を出す。

2月某日
建国記念の日で休日だが、引き続き「介護マスト」の執筆依頼で休日出勤。長野県上田市で地域ケア総合研究所を主宰している竹繁さんと上野駅で会う。竹繁さんが午後、日立大田で講演があるので上野発11時の特急に乗るため上野駅での待ち合わせとなった。今回の介護報酬の改定に限らず介護の経営が難しさをますであろうという方向は竹繁さんと一致。現場の「悩める経営者にメッセージをお願いしたいと依頼した。

2月某日
厚労次官をやって現在は医科学研究所と県立埼玉福祉大学の理事長をやっている江利川さん、江利川さんと同期で江利川さんの後に年金局資金課長をやった川辺さん、そのときの課長補佐で去年まで支払基金の専務理事をやっていた足利さん、それに当時、年金住宅福祉協会の企画部長で現在は結核予防会の常務の竹下さんと会社の近くの「レストランかまくら橋」で呑み会。メンバーの看護大学の岩野さんは欠席。話題は元厚労省で大分大学教授の椋野美智子さんの大分市長選挙への出馬に。自民党はすでに元資源エネルギー庁の次長の出馬が決まっているとのこと。少子高齢化や地域包括ケアへの地方都市への対応ということでは、厚労省OBで研究者でもある椋野さんが適任と思うのだが。

2月某日
元社会保険庁で国民年金協会の専務理事だった河野さんと神田明神下の「章太亭」で6時から呑み会。寒いので日本酒の熱燗にする。河野さんは現在は完全にリタイアしていて週末は府中競馬場へ通っているそうだ。河野さんと初めて会ったのは、は河野さんが社会保険庁の年金保険課の庶務班長のときだから30年位前かもしれない。仕事上以外でもいろいろお世話になったというか、わたしの知っている社会保険庁OBの中では浅岡純朗さんなどと並んで異色で面白い人。

2月某日
土曜日だが残務処理で会社へ。ひと段落したのでオヤノコトマガジンの大澤社長に電話。今なら時間があるというので有楽町の交通会館へ。意見交換の後、高田馬場の社会福祉法人サンへ。10年位前、当社に勤めていた今泉友香さんに会う。今泉さんは社会福祉士の国家試験が終わったばかりで多少時間があるというので高田馬場の駅ビルの「文流」で食事。介護の世界についていろいろ教えてもらう。今泉さんと別れ我孫子駅前の「しちりん」でウイスキーのソーダ割り。

2月某日
図書館で借りた「悪い恋人」(井上荒野 朝日新聞出版 2014年12月刊)を読む。夫の両親と2世帯住宅に住む沙知に裏の森の開発計画がもたらされる。開発業者としてあらわれた高校の同級生と肉体関係を結んでしまう。こう書いてしまうと湿っぽい人妻の不倫小説となってしまうのだが、井上はあくまでも小説の登場人物とは距離を置くというスタンス。
現代の庶民の生活に潜む「闇」を鮮やかに切り取っていると私は思う。ところで井上荒野は井上光晴の娘で、私は20年位前にパーティで会ったことがある。井上光晴の娘と紹介されて「お父さんに似てますね」と私が言ったことを覚えている。井上光晴には会ったことはないけれど写真などで見ると、面長な顔に特徴があった。荒野も面長だった。井上光晴をネットで調べたら66歳で亡くなっている。今の私の年だ。当時の井上光晴は巨匠だったけどね。

2月某日
社会保険出版社に高本社長を訪問。厚生年金と共済年金の一元化に向けて意見交換。その後、日本橋小舟町の一般社団法人セルフケア・ネットワークへ。ここの代表理事の高本さんと社会保険出版社の高本さんは同姓だが、夫婦なので当たり前である。高本社長の紹介で高本代表理事を紹介された。セルフケア・ネットワークでは理事の城下さんを紹介される。高本代表理事とは今週、一緒に関西学院大学を訪問することになっているので、その打合せをする。その後、高本社長と寿司屋さんへ。「たぬき」というとぼけた名前の寿司屋さんだが、ご主人と思われる温厚そうな人が握ってくれる。遅れて高本代表理事と城下さんも参加。高本社長にご馳走になってしまう。「今夜も最高!」だったが、いささか日本酒を飲みすぎ。「こんなことをしていていいのだろうか?」という反省の気持ちが一瞬心をよぎるが、もちろんよぎっただけである。

2月某日
SMSの長久保さんと当社で打合せ。6時から打合せだったので終了後、当社の向かいにある「レストランかまくら橋」で食事。近くの酒屋「藤田屋」で購入した日本酒(日高見と出羽桜)、焼酎(壱岐の35度)を持ち込む。この日は根津のスナック「ふらここ」のママから「あやちゃん(常連客)が熊本の馬刺しを持ってきてくれるから吉武さん(元厚労省)を誘ってきて」と言われていたので、吉武さんも「レストランかまくら橋」に来てもらう。日高見と出羽桜を空け、壹岐を半分くらい呑んだところで「ふらここ」へ。馬刺しをいただく。さすがに美味い。

2月某日
朝、テレビのニュースでアメリカのオバマ大統領が「IS(イスラム国)の過激思想に青少年が影響されないように地域社会の再構築を」と言っていた(ように思う。集中して見ていなかったので)。私は少子高齢化社会を支えていくためには、税金や社会保険料による公助や共助だけでなく地域社会による互助が必要、と思っているからオバマの考え方には共感する。これからの社会を考えるのに必要なキーワードの一つは間違いなく「地域」だ。

2月某日
医療、福祉系の専門出版社の青海社の工藤良治社長とは我孫子駅前の呑み屋「愛花」で出会った。ママが「こちらも出版社の社長さん」と紹介してくれたのだが、工藤さんはすでに酔眼朦朧としていた。その後、根津の青海社を訪ねたり、一緒に呑んだことも何度かある。工藤さんのお酒は「好きだけれども弱い」のが特徴。焼酎をロックで呑んだりするのだが、すぐに酔ってしまう。その工藤さんが同社が隔月刊で発行する「臨床作業療法士」を毎号贈呈してくれる。最新号が送られてきたのでページを開くと印象が違う。特集「住民が主役のコミュニティづくり―作業療法士ができること」もいい視点だと思うし、新連載の「列島情熱作業療法」「勝手にOT番付」も面白かった。工藤さんに「面白かったよ」と電話したら、「デザイナーと編集委員を替えたの」という返事だった。「臨床作業療法」誌はお勧めです。

社長の酒中日記 2月その1

2月某日
「イスラム国」に囚われていた後藤健二さんの処刑がネットで確認され、テレビは朝からそのニュースで持ちきりだ。もちろん誰にも人の命を奪う権利などはない。イスラム国の今回およびこれまでの「蛮行」は文明に対する許しがたい挑戦であることは確かだ。イスラム国に対する空爆や周辺国に対する援助の強化も必要であろう。しかしイスラム国がシリア、イラクの広範な地域に「国家」を樹立したことをどう考えるかが大事なのではないか?シリアのアサド政権の圧政、スンニ派とシーア派の抗争、それに根底にはこれらの地域の貧困があるのではないか?原油価格が下がったとはいっても、オイルマネーはこれらの地域では貴重な収入源なはず。それが貧富の差を拡大していることはないのか?民衆の生活向上に回っているのだろうか?処刑に対する怒りだけではなく、イスラム国を生み出す背景にまで迫った冷静な分析が必要と思うのだが。

2月某日
「地域包括ケアの構築と住民参加」というシンポジウムを聞きに行く。保険者事例報告は北海道喜茂別町の東原弘行氏の「テレビ電話・IP告知端末を活用した健康管理や見守りシステム」武蔵野市の笹井肇氏の「まちぐるみの支え合いの仕組みとしての地域包括ケア」、富士宮市の土屋幸己氏の「地域包括ケアシステムの考え方とその実践」はそれぞれ興味深かったが、わたしはフォーマルなサービス連携だけでなくインフォーマルなケアの担い手に着目した土屋氏の話が面白かった。私も今年67歳、近所を見回しても一人暮らしの老人が急に増えているし、介護は他人事ではないのだ。わたしたち団塊の世代が75歳となる2025年に向けて、税金と介護保険によるフォーマルなサービスだけではなく、土屋氏の言う地域住民等の「コモンな互助」が必要になってくると強く感じるからだ。
パネルディスカッションでは堀田聡子氏の「欧米では親子の扶養の義務感がないだけ親子の関係が崩れにくい。日本は義務感にしばられているためいったん親子の関係が崩れると脆い」という話が面白かった。また夕張市民病院の医師で現在は鹿児島で「医療介護塾」を主宰している森田洋之氏が「夕張市は高齢化率46%を超え、高齢世帯率は6割、高齢独居は3割。だが高齢者は生き生きと暮らしているし、重度の認知症のおばあちゃんが向かいの家の雪かきを自分の仕事として認識して毎日やっている」と語り「介護されることが果たして幸せなのだろうか?」と疑問を投げかけていた。

2月某日
社会保険出版社の高本社長から「筒井孝子先生に原稿を頼みたいのだけれど」と相談される。筒井先生とは5年ほど前、当時、筑波大学の教授だった江口先生(現在は神奈川大学)の紹介で会ったのが最初。社会保険研究所が版元となって筒井先生の「地域包括ケアのサイエンス」を出版した時も当社の迫田が編集を担当した。先生はその間、保健医療科学院の主任研究官だったが、昨年、兵庫県立大学に転じている。先生の携帯に電話をすると快く会ってくれるという返事。しかも打合せが重なっているので当社まで出向いてくれるという。高本社長と社会保険出版社の担当編集者も当社に来てもらう。原稿は連載で1年間、地域包括をテーマにという注文だった。筒井先生は快諾した後「8時から打合せがあるのよ」と風のように去って行った。残された私と高本社長、担当編集者の須賀君は当社の迫田、打合せに来ていたフリーライターの沢見さんを誘って近くの居酒屋へ。今年初めて「なまこ」をいただくが、もう少しコリッとしているほうが美味しい。

2月某日
元年金住宅福祉協会の小峰昇さんがミサワインターナショナルを退職することになった。小峰さんは、今から25年ほど前、私が日本プレハブ新聞社で業界紙の記者をしていたときに知り合った。あるとき、「君は早稲田の政経学部出身というが鈴木基司を知っているか?」と聞かれたが、鈴木さんは私の1年上で一緒に革マルとの内ゲバを闘った仲。小峰さんは群馬県前橋市で鈴木さんと高校生運動で一緒で、それから急速に仲良くなった。その小峰さんから「森田君、生涯一記者もいいけれど、新しい会社が出来たので行ってみないか?」と誘われたのが今の会社、年友企画だ。
わたしが入ったころは年金住宅融資も社会保険も伸び盛り。しかもほとんどが随意契約で「ノーリスク・ハイリターン」の仕事をさせてもらった。給料も私のような学生運動の活動家崩れにはもったいない額をいただいた。しかし上手くしたもので小泉改革以降、舞台は暗転、年金住宅融資も社会保険庁も廃止された。しかし今の私を支えてくれているネットワークは、現在の会社に入ってから形成されたものがほとんど。つまり小峰さんとの出会いがなければ今の私はないと言っても過言ではない。そんなことで小峰さんの退職を祝う会を企画することにした。ところが小峰さんから「「祝う会」はダメ「小峰さんの退職を口実にみんなで一杯やる会」なら私も会費を払って参加する」との申し出があり、そうさせてもらうことにした。
当日は雨にもかかわらず、23人ほどが竹橋のホテルKKR東京「さくらの間」に参集、盛会であった。旧厚生省からは元参議院議員の阿部さん、元年金局長の吉武さん、元社会援護局長の中村さん、元保険局長の木倉さんが参加、旧建設省住宅局からは小川さん、合田さんが参加、住宅業界からは加藤さん、小山さん、岡田さん、望月さん、桑原さんらが参加、小峰さんのあいさつも素晴らしく、なかなか素敵な会だった。高齢者住宅財団の落合さんから「仕事で行けないが2次会に行くなら声かけて」の連絡があったので、吉武、合田と3人で葡萄舎へ。ほどなく落合さんが来て、3人で乾杯。わたしと吉武さんは3次会へ。

2月某日
SMSの介護業界の経営者、管理者向けのサイト「けあマスト」を立ち上げることになり、今日は大田区蒲田のカラーズの田尻社長の取材。詳しくはサイトを見ていただきたいが田尻さんのこだわりの一つは人材。というか介護業界は人材の確保と育成につきると言ってよいのではないか?問題は市場が「質の競争」となっていないところにあると思う。話は変わるが田尻さんの夫は、私と同郷の北海道室蘭市出身。彼は進学校の室蘭栄高校を卒業後、東京学芸大学数学科に進学。シャンソン歌手となったという変わり種。今や3児の父でもある。取材後、神田へ。愛知県で家具の転倒防止をやっている児玉道子さんがHCMの森社長と「福一」で待っている。わたしが着いたのが6時半過ぎ。2人はすでに出来上がっていた。

2月某日
先日亡くなった宮尾登美子の「天璋院篤姫」上下(講談社文庫)を読む。宮尾登美子は昔よく読んだ。「岩伍覚書」とか「朱夏」ね。どちらも自伝的な小説で前者は娼妓のあっせんを業とする親子の話、後者は確か結婚して満州に渡った著者の半生を描いたものだ。対して「天璋院篤姫」は薩摩藩の分家、今泉家から島津斉彬の養女となり、のち13代将軍、家定の御台所となる篤姫の物語だ。斉彬の養女となってからもいったんは近衛家の養女となってから大奥入りするなどいろいろとややこしいのだが、やはり宮尾登美子というべきか、しっかりと読ませる。前半は篤姫の成長譚、ビルドゥイングスロマン、後半は何と言っても、未亡人となった篤姫と、14代将軍家茂に輿入れした皇女和宮との嫁姑の物語である。そうなのだが和宮は京都から何十人も侍女を連れて行ったものだから、江戸派と京都派に大奥を二分する闘いとなる。
もともと篤姫は、家定の後継に水戸の徳川斉昭の男子である徳川慶喜を擁立するために、島津斉彬から大奥に送り込まれたのだが、慶喜はこの物語で徹底して敵役となっている。考えてみると鳥羽伏見の戦いに幕軍が敗れ大阪城に退いたとき、幕軍の大勢は薩長との雪辱戦に向かっていたが、慶喜は数人の側近とともに軍艦で密かに江戸へ逃げ帰った。確かに将としては如何なものかと思わせる。鳥羽伏見の戦い後、江戸城の表、幕閣は政治的に機能しなくなるのだが、大奥は篤姫の元、一糸乱れぬ統率を保つ。篤姫は徳川家に輿入れした嫁として実家の薩摩の攻撃により斃れても止む無しという考えだ。江戸城の明け渡し後、和宮は京都に帰り、篤姫も徳川家の当主となった田安(徳川)亀之助と同居する。明治天皇が江戸を首都としたことから和宮も江戸、東京に帰って来て、平穏な嫁姑関係となる。別の本で読んだことがあるが、勝海舟の屋敷を篤姫と和宮が訪ね、昼食となった。お櫃からご飯をよそうとき、篤姫と和宮が「わたしがわたしが」といって譲らなかったという。勝がお櫃をもう一つ用意して互いによそいあったという。くだらないけど「女の意地」というか面白い。

2月某日
青梅線の可部駅の近くにある介護事業所「こころの広場」の井上社長を取材。千葉県我孫子市の我が家から2時間半はかかった。井上さんは東京福祉専門学校の卒業生。卒業後、特養に勤めたが入居者への職員の態度等、「何か違う」と退職、トラックの運転手に。2年後に別の特養へ。また「何か違う」とトラック運転手へ。そして介護保険がスタートするころ訪問介護事業所を立ち上げた。介護業界には魅力的な人が多い。医療・看護に比べると給料も低いし、介護福祉士養成系の大学や専門学校の偏差値も高いとは言えない。このことは何を意味するか?人間は収入の多寡、学歴の高低では測れないという当たり前のことをわからせてくれるのだ。
夕方、健康・生きがいづくり財団の大谷常務が、健康・生きがいづくりアドバイサーの「バッチ」を作りたいのだがと相談に来る。アドバイサーにとってどんなデザインが適当か内部で議論が必要ではと答える。打合せ終了後、神田駅近くの「千両箱」へ飲みに行く。ここは刺身が旨い。「うまずらはぎ」の刺身がおすすめで確かにうまかった。寒かったので熱燗2合徳利を2人で3本。