社長の酒中日記 6月④

6月某日
元厚労省で京都に隠棲している(実際は隠棲などでなく世のためになることをやっているそうだが)A沼さんから「今日、京都に帰るので東京駅近くで呑もう」とメール。昔、行ったことのある東京駅丸の内口の三菱UFJ信託銀行の地下1階にあるワインバー「ヴァン・ドゥ・ヴィ」を予約。5時頃「仕事が終わったから5時半頃行っている」の電話。10分前に行くと、店のソムリェのお姉さんが「久しぶりですねー」と迎えてくれる。5時30分にA沼氏登場。しばらくしてこの4月に筑波大から神奈川大学教授に転じたこれも元厚労省のE口さんが来る。遅れて当社のI佐も来る。さらに遅れて厚労省から内閣府に出向しているY本さんも参加。E口さんはこのところ外国人労働問題に取り組んでいるという。労働力人口が減る中で、移民や外国人労働に対してどうすべきか結論を出さなければならない問題だ。私は原則として「自由化」論者だが、異文化の融合の問題や閉鎖的に思われる日本社会の問題など慎重に考えなければならない問題もある。議論が進むとワインも進む。いささか呑み過ぎ。

6月某日
夕方、高田馬場でグループホームを経営する社会福祉法人サンに行く。空気が不安定で天候が変わりやすく、ときどき強い雨が降る。サンでは理事長のN村さんに訪問介護の利用者・家族向けのフリーペーパーの執筆者の相談。ケアマネのO野さんを紹介してくれたのでこちらには「ケアZINE」の執筆をお願いする。N村さんを誘って久しぶりに早稲田大学へ。私が入学したのが1968年だから46年前、半世紀近く前だ。当時と変わらないのは大隈重信の銅像くらい他は様変わり。都電の早稲田停留所近くのおでん屋「志乃ぶ」で食事。私はビール、N村さんはウーロン茶。おでんの汁がちょっと驚くほどおいしかった。2皿目を頼んだが、さすがにあきた。早稲田から都電荒川線で町屋まで出て千代田線に乗り換え北千住で常磐線へ。

6月某日
社会保険庁OBのK野さん、S木さんと呑みに行く。会社近くのレストラン「かまくら橋」へ。ここはセットを頼むと1800円でオードブルとビールまたはワインが2杯呑めるのでそれを頼む。K野さんは今は悠々自適の身。書道家でもあるのだが今は全然筆を握ることもないそうだ。S木さんは国民年金の自治体向け広報の支援をするNPO法人を立ち上げボランティアで事務局長をやっている。社会保険庁はいろいろあったが、私の付き合っている人はみんな普通の人だ。うーん。K野さんは普通の人の範疇を超えるかな。スケール、物差しがちょいと違うかもしれない。セットの後、赤ワインを1本空け、国産のウィスキーを2,3杯呑む。保険庁OBの話になるが、私の知っている人は大半が完全リタイアしたようだ。S木さんは大手町へ、私とK野さんは神田へ向かう。K野さんともう一軒行こうということになり、神田駅前の以前行ったことがあるスナック「おしゃ麗」へ。ここはママと従業員の女性が全員中国人。お客はもちろん日本人のおじさんたちで、カラオケを歌っていた。ママと女の子と話をして1時間ほどで退散。中央線で帰るK野さんと別れ、私は山手線で上野へ。我孫子に着いたら路上で白桃を売っていたので4ケ1080円で買って家に帰る。

6月某日
芝公園にあるSMSで介護サービスを受ける本人や家族向けのフリーペーパー創刊の打ち合わせ。10月1日の福祉機器展に間に合わせるということなのでかなりの力仕事。介護の事業者向けの媒体は経験があるが、利用者・家族向けとなると本格的なものは初めて。何とか成功させたい、というか成功させなければという気持ちで一杯。社外スタッフの起用がカギとなるが、SMSでの打ち合わせ後、フリーライターのK川さんとの打ち合わせに当社のS田と目黒へ。目黒鍼灸院の王先生に紹介された中国飯店「全家宝」へ。K川さんには今回、ライターというより編集として参加してもらうつもり。台湾ビールと紹興酒を少々。料理は皮蛋、スペアリブなどどれもおいしかった。K川さんは浅草に行っていたそうでお土産にお饅頭をいただく。

6月某日
東商傘下のNPO「SFK21」の理事会、総会に参加。総会後の懇親会は欠席して公益社団法人「国際厚生事業団」の総会へ。総会後、厚労省の今別府医薬品食品局長の講演を聞く。講演後の懇親会で事業団の角田専務と今別府局長に挨拶。今別府局長は10数年前当社に在籍していたT井さんのご主人と厚生省入省が同期。T井さんのご主人が若くして亡くなってしまったので、厚生省で1年先輩の唐沢さんから「頼むよ」と言われて入社してもらった。その後、T井さんは再婚相手が現れて当社を退社するのだが、なかなかの美人でしたね。監事の佐野さん、都村先生と懇談。有楽町電気ビルの「あい谷」で「SFK21」の懇親会に出た人と合流。

6月某日
SMSのフリーペーパーの相談に当社のS田と介護福祉士会の副会長をやっている内田さんに会う。内田さんは赤羽で「あいゆうデイサービス」を運営しているのでそちらに向かう。住宅地のマンションの1階にそのデイサービスはあった。認知症対応のデイサービスということだが、スタッフ、利用者双方の表情が明るいのが印象的だった。内田さんも以前にも増して生き生きと利用者の世話をしていて心なしか若返ったようだ(もともと若々しいのですが)。デイサービスの入野所長が紹介できるデイサービスを当たってくれると言ってくれた。デイサービスは参入が比較的簡単なのか、供給過剰気味な地域が増えているようだ。しかし内田さんのところのように本当に利用者本位に考えているところは多くはないのかもしれない。入野所長は「デイサービスなので4時にはサービスは終わるのですが、オウチに帰った利用者さんがどうしているのかなってすごく気になるんですよ」と言っていたが、そこまで利用者のことを考えているんだ。でも介護って「ここまでやればいい」というものでもないからなかなか大変な仕事であることは確か。今頃になってようやくわかりかけてきた。

6月某日
「ケアの社会学」(上野千鶴子)の第Ⅱ部「「よいケア」とは何か」を読む。第4章「ケアに根拠はあるか」の「家族に介護責任はあるか」の節で、上野は今回のJR東海の鉄道事故賠償訴訟を予見したかのように議論を展開している。上野は民法学者の上野雅和に依拠しながら「現行民法のもとでは家族に(法的)介護義務はない」と断言し、上野雅和の「介護は扶養義務者によって任意に履行されれば、扶養義務の履行といえる―対価の請求権はない―が、これを法的に強制することはできない」を引用している。要するに直系親族および夫婦間に、身辺介護が必要な事態が生じたらどうなるか?という問いに対しては、民法が規定する義務は「生活扶助義務」という経済的義務だけであり、身辺介護義務は存在しないとしている。ここら辺は名古屋地裁、名古屋高裁では議論になったのだろうか?弁護側も上野千鶴子を参考人とすればよかったのに。

6月某日
健生財団のO谷常務が関西方面の出張帰りに来社。当社のH尾と健生財団の広報物について打合せ。打合せ後、O谷さんと呑みに出る。今回は外堀通りの外側で呑もうと外堀通りの横断歩道を渡ったところで10年くらい前に3月に亡くなった当社のO前さんと行った店に行ってみようと思い立つ。その店は淡路町にあり会社から歩いて10分余り。引き戸を開けると顔に覚えのあるオバサンがいる。生ビールと〆サバ、ホッキの刺身を頼む。ベビーコーンが美味しいというので注文すると、皮付きのが出てきた。髭まで食べられるというので食べてみると意外に美味だった。おばさんに10年くらい前に何度か来たことがあると告げると「そうでしょう。何か見たことがあると思って」と言ってくれた。店のテレビで「鶴瓶の家族に乾杯」を見る。佐々木蔵之介がゲストで蔵之介の実家と同じ商売の造り酒屋を訪問していた。酔ってよく覚えていないが、この番組はいい番組と思う。O谷さんと別れ、根津の「ふらここ」へ。常連の「ミヤちゃん」が4月に転勤で岩手県の一関勤務となったが、出張で東京に出てきて店に寄るという。ミヤちゃんは仕事場近くの社宅住まいのうえ、奥さんと一緒なので外に呑みに行く機会がずいぶん減ったそうだ。私は明日早いので早々に店を出る。

社長の酒中日記 6月③

6月某日
東京ディズニーランドのアンバサダーホテルで民介協のO田専務、浜銀総研のT中さん、当社のA堀と打合せ。民介協の接遇の研修がアンバサダーホテルでやられているため舞浜の駅に来る羽目に。学期中のウィークデイのためか学齢前の子供を連れた若い夫婦が多いように思う。まぁ私などの来るところではない。帰りは京葉線の東京で下車。京葉線の東京駅は有楽町寄りにあるので東京商工会議所に近い。で東商のT田さんに電話してお昼を一緒に食べることにする。T田さんはカラー検定担当で当社のS田と一緒に前向きに仕事に取り組んでいる。午後HCMで打合せ。夕方、健康生きがい財団のO谷常務が来社。そのまま葡萄舎へ。

6月某日
シルバーサービス振興会の総会が東海大学校友会館で開かれた。総会の議長は社会保険研究所の川上社長が務める。多少緊張気味。総会後の懇親会に参加。振興会の監事で竹中工務店に勤めていた吉竹さんが千葉経済大学の教授になっていた。民介協の前理事長でジャパンケアの馬岱社長らに挨拶。振興会の新しい常務、中井さんに紹介される。パーティには当社から岩佐、迫田が参加。総会後、フィスメックの小出社長、岩佐、迫田と富国倶楽部へ。弁護士の計良先生と会食。計良先生は20数年前、早稲田大学法学部卒業後、新聞の募集広告を見て当社に入社。退社後に司法試験に挑戦して合格。顧問契約を結んではいないがいろいろと相談に乗ってもらっている。迫田とマンガの話で盛り上がっていた。

6月某日
3月に亡くなった当社の大前さんを偲ぶ会が新宿歌舞伎町のレストラン「ナパバレー」である。当社の社員はじめ社会保険研究所の社員やHCMの会長、社長、社員、年住協の理事長、理事、富国生命の社員など30名近くが集まってくれた。司会はHCMの森社長がやってくれた。ややしゃべり過ぎの感はあったが名司会であった。冒頭、私が献杯の挨拶をした。自分で言うのも何ですがこれがなかなかよかったので最後に再録します。各自自己紹介し、何人かがスピーチしたが、今更ながら大前さんが愛されていたことがわかったし、何よりも大前さんには人に好かれる「何か」があった。飾らないしだれにでも優しかった。お見舞いに行ったときお母様にお会いしたが、実に優しそうな方で、そのとき「大前さんは母親の血を引いたんだ」と思ったものである。富国生命の矢崎さんと中条さんも「新入社員の頃、大前さんのところへ営業に行くと心が安らいだ」という風なことを語ってくれたが、私は「大前さんは酒とタバコと麻雀、それに若い男が好きだったんだよ」と茶化したが男女に関わらず若い人の面倒見が良かったように思う。最後にご主人の崎谷さんが挨拶したが、歌舞伎町は大前さんとご主人が出会った街であり、2人で酒を呑み、麻雀をやった街でもあるという。大前さんの麻雀は「好きだったけど腕前はたいしたことない」というのが本当のところらしい。

それでは私の献杯の辞を再録します。
3月7日の朝、私は当社の石津さん、田島さんと東武練馬の駅で待ち合わせ、大前さんの入院している薬師堂病院に向かいました。大前さんは昨年の8月、福岡の出張から体調を崩し、とくに腰痛が酷いと訴えるようになりました。私たちは「麻雀のやり過ぎじゃないの」と軽口を叩いていたのですが、痛みは尋常ではなかったようで9月に入って江古田の練馬総合病院に検査入院することになりました。結果は「すい臓がんで専門病院での治療をすすめられた」ということでした。私は早速、厚労省の唐沢政策統括官に相談、有明の癌研病院を紹介してもらいました。癌研病院は開発が進む湾岸エリアにあり、大前さんの病室は比較的高層階にあったこともあって見舞いに行ったときは眺望を楽しませてもらいました。また月島や門前仲町にも近く、さらに足を延ばせば森下、立石などディープな飲み屋街もあり、私は大前さんを見舞った後、こうした飲み屋街を徘徊するのが楽しみでした。
12月、八戸出張中のことでした。大前さんから携帯に電話が入り、主治医から「治癒の見込みがないので積極的な治療はしない」と告げられたことを知りました。私は元八戸の駅で「えっ死んじゃうのか」と人目もはばからず泣き出してしまいました。逆に私が「泣くなよー」と大前さんに励まされたのでした。大前さんとは彼女が当社に入社する以前、彼女が今はない新宿のクラブ「ジャックの豆の木」で働いていたときから知っていましたから、知り合ってから40年近くになります。私が年友企画に勤め始めたころは社会保険も年金住宅融資も伸びる一方で、今から考えるとさしたる努力もせずにお金が儲かった時代でした。しかし私が社長になってからしばらくして舞台は暗転、年金住宅融資の新規融資は中止、社会保険庁の不祥事が発覚したこともあって社会保険庁自体が廃止に追い込まれます。会社の売上は最盛期の4分の1以下に落ち込み、毎年毎年、数千万円の赤字を背負い込むことになりました。社内的にも孤立し私としては非常につらい時期だったのですが、そんなとき社内で唯一私を支えてくれたのが大前さんでした。大前さんが病に倒れたら今度は私が支える筈だったのに、逆に私が励まされたのでした。

3月7日に話を戻します。いつもの病室を訪ねたら大前さんがいません。病室を替ったのかと看護師さんに尋ねると昨夜遅く亡くなったとのことでした。自宅を訪問すると大前さんはベッドに横たわって、本当に眠っているようでした。9日が通夜、10日が告別式とのことでしたが私は8日の夜に横浜で元宮城県知事の浅野さんの誕生パーティがあり、そのまま大阪への出張が組んでありました。横浜に行く前に大前さんの好きだったウヰスキーを霊前に供え、通夜、告別式は失礼する旨、ご遺族には伝えました。出張をキャンセルすることはもちろん可能だったのですが、泣き顔を知り合いに見られるのが嫌で欠席しました。告別式の正午、私は大阪の堺にいました。私は大前さんの携帯に「大前さんありがとう。さようなら」のメールを送り私だけの告別式をしました。本日、偲ぶ会を開催するに当たりもう一度言わせてもらいます。

「大前さん本当にありがとう。本当にさようなら」

2014年6月20日
年友企画代表取締役社長 森田茂生

6月某日
「教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化」(竹内洋 中公新書 2003年7月)を読む。日本経済新聞の読書欄に確か「私の読書遍歴」というコラムがあり、経済人が毎回登場して愛読書などを披露している。これは先週、日銀の副総裁をしていた人が紹介していたなかにあった本である。私は竹内洋の「革新幻想の戦後史」(中央公論新社 2011年10月)を読んでえらく面白かった経験があるので、幸い我孫子市民図書館に在庫があったことから早速借りることにした。序章で著者は「大正時代の旧制高校を発祥地として、1970年ころまでの日本の大学キャンパスにみられた教養と教養主義の輝きとその没落過程をあらためて問題として考えたい」と書いている。私は大学を1972年に卒業しているから、教養主義の没落を身をもって体験しているはずだが、私の身の回りでは教養主義が大きな顔をして跋扈していた。もちろん教養主義とは表立っては言わないが、今考えれば教養主義そのものであったように思う。だいたい私は中学生のころから教養主義にかぶれ出したようだ。勉強もそれほどできずスポーツも苦手、女子生徒には相手にもされない。かといって不良にもなれないそういう少年だった私は本にのめり込んでいく。といういか本を読むことによって優越感をもつわけね。それが浅薄な私の教養主義のスタートだった。だけど田舎の高校生の教養主義などたかが知れていて、私が一浪して早稲田に入ったとき「埴谷雄高」を「ウエタニオダカ」と読んで笑われたことを思い出す。それこそ学生時代は乱読の日々。マルクス、レーニン、吉本隆明、黒田寛一、谷川雁、寺山修二、ドストエフスキーなどなど。でも私の教養主義の限界ははっきりしている、マルクスなら初期マルクスの「経済学哲学草稿」「ドイツイデオロギー」にはじまって「フランスの内乱」「経済学批判」止まり。「資本論」は読もうともしなかった。吉本も「擬制の終焉」「情況への発言」などの情勢論や転向論は理解できたが「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論」はほとんど理解できなかった。でも、今本を読むのを苦にしないのはその頃の乱読のおかげかもしれないと思ったりもする。

6月某日
上野千鶴子の「ケアの社会学―当事者主権の福祉社会」(2011年8月 太田出版)を読み始める。この本は確か出版直後に上野の講演会で求めたものだが、菊判二段組本文470頁を超える大著だけに読むのを躊躇していた。しかし医療と介護の問題はこれからの日本社会にとって避けて通れない問題だし、団塊の世代の私にとっては近未来の切実な問題だ。当社のビジネスにとっても介護は成長分野という位置づけ。腰を落ち着けて読むことにする。ただしいつ読み終わるか分からないのでⅣ部構成の部ごとに感想を記すことにする。第Ⅰ部は「ケアの主題化」。ケアを原理論的に語っているわけだが、その前に本書でが「注」が巻末や章の最後にまとまって掲載されているのではなく、見開きのページごとに記載されている。これはすごくいい。「注」が巻末や章末に記載されていると、私などは面倒くさくて「注」は飛ばしてしまう。その点、本書は良くできていると思う。第3章「当事者とは誰か」で「家族介護が『自由な選択』であったとしても、機会費用を失うことと引き換えの選択か、それとも所得保障をともなう福祉制度のもとの選択かででも異なっている」というインド出身で貧困や不平等の研究を手がけたセンに依拠した論述に「注」が付されている。ちょっと長いが内容が面白いので書き写す。「センがあげている興味深い例は、『断食』と『飢え』の違いである。『断食とは他に選択肢がある場合に飢えることを選択することである。飢えている人の『達成された福祉』を検討する場合、その人が断食しているのか、それとも十分な食糧を得る手段がないだけなのか、を知ることは直接的な関心事である』。また『達成された福祉』だけを評価基準とする立場をも以下のように批判する。『標準的な消費者理論では、たとえ選択された最善の要素以外のすべての要素を選択可能な集合から取り除いたとしても、それは何ら不利益をもたらすものではない』。この立場が不適切なことは、開発独裁の結果もたらされた国民経済の繁栄が、国民による選択の自由(民主主義的決定)をともなわないかぎり、抑圧とかわらないこことからも支持できるだろう」。センも上野も急進的な民主主義者と言ってよい。第Ⅰ部は結局、当事者主権を理論的に位置付けていると言えるが、先験的な当事者以外、当事者能力を欠いた個人、子どもや認知症高齢者の場合はどうか。その場合も上野は次のように断言する。「一次的ニーズの正当性は、一次的ニーズの帰属先である当事者によって最終的な判定をくださなければならない。たとえ、その時点で『当事者が不在だったり判定能力を持たなかったりしたとしても、事後的に『当事者になる』者によって』」。

社長の酒中日記 6月②

6月某日
ルポライターの沢見涼子さんから「世界」の7月号が送られてくる。巻頭の「世界の潮」に沢見さんが書いた「認知症列車事故裁判 『介護の社会化』に逆行する判決」が掲載されている。昨年8月の名古屋地裁判決は、家族の監督が不十分だったとして妻と長男に約720万円の支払いを命じたが、名古屋高裁判決は長男の責任は認めず、妻にのみ責任があるとして半額の約360万円を支払うように命じた裁判について論じている。沢見さんは「認知症の人を介護する家族はもちろん、認知症とその予備軍が4人に1人という以下の時代に会っては、すべての人にとって衝撃的な判決だ」と論じている。そして厚労省が進めている「地域包括ケアシステム」に触れて「鉄道会社こそ沿線住民とともにある会社なのだから、当然、地域で高齢者を支えるべき一員のはず。JR東海も賠償請求訴訟を起こすよりは、この事故を機にどうしたら同じような事故を繰り返さずに済むか、住民と一緒に考えて取り組んでいくことがむしろ求められているのではないか」と結んでいる。住民、市民にとっての足という鉄道会社の原点をJR東海はどのように考えているのだろうか?

6月某日
社会保険庁OBのM本さん、M木さん、I田さん、W辺さんと私の5人で栃木県鹿沼市のディアレイク・カントリー倶楽部でゴルフ。この会はもう20年以上も続いていて、一時は4組、5組で廻ったこともあるし会員数も20人を超えていたように思う。メンバーも高齢化し亡くなった人もいて現在は2組がせいぜい。今日は5人なので2人と3人に別れる。天気予報では9時頃から雨足が弱まるという予測だったが午前中はどしゃ降りに近い降りになってしまった。ときどき強風も加わって足の悪い私は午前中でリタイアを宣言、早々と風呂に入らせてもらった。4人が上がってくるのを待って、私とI田さんはM木さんの車で東武日光線の新鹿沼駅まで送ってもらう。ここから電車で私は北千住、I田さんは春日部までI田さん持参のワインを呑みながら2時間近く年金制度や社会保険庁時代のおしゃべり。これが楽しい。

6月某日
三井住友海上のN込さん主催で同社顧問で元厚労省老健局長の宮島さんと食事会。三井住友海上からN村課長が参加、折角だから宮島さんの本「地域包括ケアの展望」(社会保険研究所発行)の編集をやった当社のH尾、出版記念パーティの司会をやった高齢者住宅財団のO合さんにも声を掛ける。会場は大手町センタービルの「小洞天」。三井住友海上は駿河台、高齢者住宅財団は八丁堀で当社が一番近いのだが、私とH尾が遅刻、改めて乾杯。宮島さんの山形県庁出向時代の話など楽しかった。山形は温泉良し酒良しで私も昔は良く行ったものだが最近は全然。「小洞天」の中華料理でおなか一杯になったところで解散。私は内神田の会社の近くにある「渦」へ。ここは安倍首相の奥さんが経営している店だそうだが、もちろん奥さんは店にはいなかった。おなか一杯でつまみはほとんど喉を通らず、焼酎を2杯ほどいただく。

6月某日
ブックオフで買ってあった井上靖の「わが母の記」(2012年3月 講談社文庫)を読む。何で買ったのか理由は覚えていないが、「昭和の文豪」と言われた井上靖の実母が今でいう認知症になっていく話である。小説ともエッセーとも言えない、その中間のような語り口である。認知症を描いた小説としては有吉佐和子の「恍惚の人」(1972年)、耕治人の「そうかもしれない」(1988年)がある。「恍惚の人」はフィクションかも知れないが、「そうかもしれない」は妻の認知症を描いている実話である。自分の身近な母や妻の精神が壊れて行くのを体験するのはつらいことだし、それを文学としてしまうのも辛いことではあるが、そこに小説家の業のようなものも感じてしまう。

6月某日
医療介護福祉政策フォーラム(中村秀一理事長)の第2回実践交流会がプレスセンタービルで開かれるので、土曜日だが出勤。報告は4つ。社会福祉法人新生会の名誉理事長の石原美智子氏の「介護の専門性とは」、社会福祉法人きらくえん理事長の市川禮子氏の「きらくえんの歩みとユニットケアの到達点」、社会福祉法人恵仁福祉協会常務理事で高齢者総合福祉施設アザレアンさなだ総合施設長の宮島渡氏の「地域でねばる」、地域密着型総合ケアセンターきたおおじ「リガーレ暮しの架け橋」グループ代表の山田尋志氏の「社会福祉事業の共同事業の実践」である。私は宮島氏と山田氏の話を面白く聞いた。宮島氏は長野県上田市の旧真田町地区での実践。「地域で暮らすニーズ」に対して施設機能を出前する=施設機能分散という発想で対応し、これによって自宅の施設化と施設の自宅化(個室・ユニットケア)を実現した。そして結果として、地域社会から要介護者を隔離しないと、地域住民の「気づき」が高まったという。山田氏は介護人材の確保・育成のため中小法人の共同事業を発案したという。限られた資源を有効に活用するためにも、施設系、訪問系に限らず共同化は避けられないように思う、これは当初は経営田としての法人にメリットがあるのだが、経営の安定化や介護技術の向上、標準化によって利用者にもメリットは還元されると思われる。このフォーラムには厚労省の現役やOB、それから関係者がたくさん来ていた。

6月某日
埼玉県認知症グループホーム・小規模多機能協議会(西村美智代代表)の総会後の講演会を聞きに行く。これは日曜日だが講演する演者が熊本大学の池田学先生なので聞きに行くことにする。この日はワールドカップの日本対コートジボワール戰の日。池田先生は午前中、国際会議に出席していたが、先生方のトイレが長く、どうもトイレを口実にテレビ観戦していたようだ、とかオランダ戰に負けたスペインの先生が元気がなかった、と笑いをとる。先生の本日のテーマは「BPSDに対する治療とケア」の原則。BPSDは決して周辺ではないし問題行動とも言えないとしBPSDをコントロールできなければ認知症そのものが進行する。そしてBPSDに対する介入の原則として①BPSDを正確に評価し②標的症状を緻密に定め、理論的な仮説から治療方法を選択する、をあげる。さらに「まず、非薬物療法を検討し、効果が不十分な場合に薬物療法を検討する」としている。先生の講演態度は極めて真摯で医療職と介護職の連携に対しても積極的というか、日ごろ認知症の患者と接している介護職の仕事を正当に評価しているのが印象的だった。

社長の酒中日記 6月

6月某日
神戸の帰りに愛知県半田市の亀崎地区に転居したK玉道子さんのところに寄ることにする。K玉さんは建築家で家具の転倒防止活動を名古屋市中心に行ってきた。昨年、知多半島の半田市に引っ越して新たに町興しに取り組んでいる。そんなわけで半田の亀崎を訪れるのは昨年から3回目。気候温暖で住みやすそうな街だ。今回は民家を改造した集会場に呑み会を設定してくれて、いろいろとコミュニティ活動をやっているI川さんとK玉さんの旦那さんと一緒に呑むことになった。呑み会に入る前にI川さんに集会場を案内され、亀崎地区のお祭りの山車の説明を受ける。写真で見るとなかなか立派な山車で、江戸時代は海運、醸造、漁業で栄えた町らしい。呑み会でI川さんといろいろ話をするうちに私と同じ歳ということがわかった。I川さんは集団就職で上京、日暮里の工場で働いていたという。十何年東京で働き、故郷に戻って結婚、離婚の経験もある。発想が自由で柔軟、すっかり気が合ってしまった。

6月某日
ブックオフで購入した遠藤周作の「イエス巡礼」(文春文庫 1995年1月刊)を読む。遠藤には「イエスの生涯」「キリストの誕生」があり、本書と合わせてキリスト3部作と私が勝手に名付けた。「イエス巡礼」は聖母マリアがイエスを身ごもったことを大天使ガブリエルから告げられる受胎告知から磔刑にされるゴルゴダの丘、イエスの復活までをアンジェリコ、ベラスケス、ルオー等の名画を通してその生涯を辿ろうという意図のもとに企画され、月刊文芸春秋に連載されたものだ。マリアの処女懐胎やイエスの復活はもちろん現代の科学では受け入れることはできないだろう。しかし遠藤は「これらの物語は人間にとって真実だった」としこれらの物語の創作は「事実よりはるかに高い真実だった」と繰り返し書く。イエスは十字架の上で死に臨みながら「父よ、彼等は為す所を知らざる者なれば、これを赦し給え」と言ったという。このへんにキリスト教が世界宗教となった一つのカギがあるような気がする。遠藤はこの言葉は彼を死に追いやった大祭司や衆議会の議員たちや群衆だけに向けられたのではない。彼を裏切ったユダや弟子たちにも向けられたと考えるべきであると書く。遠藤はイエスの「この言葉を知ったから」、弟子たちはふたたびイエスのために集まり、イエスの教えのために生きようと決心したのだという。旧約聖書的な神は裁く神、怒りの神である。厳しい父性の神と言ってよい。これに対してイエスが体現する新約の神は赦す神、母性の神である。だからこそ民族宗教に過ぎなかったユダヤ教とは違って世界性を獲得できたのではないだろうか。

6月某日
「ハンナ・アーレント―『戦争の世紀』を生きた政治哲学者」(矢野久美子 中公新書 2014年3月)を読む。ハンナ・アーレントの著作も読んだことはないし、ハンナ・アーレントのまともな評伝も読んだことはなかった。しかしアイヒマン裁判においてアイヒマン養護ととられかねない論説が批判され、ユダヤ人社会の多くの人から弾劾されたことは知っていた。実際はハンナ・アーレントはアイヒマンを擁護したわけではなく、彼女は「アイヒマンを怪物的な悪の権化ではなく思考の欠如した凡庸な男」と述べたのであるが。「まえがき」に彼女の一生が簡潔に述べられている。それによると「彼女は、1906年にドイツのユダヤ人家庭に生まれ、75年ニューヨークで生を終えた。少女時代から文学や哲学に親しみ、大学で哲学を専攻し、マルティン・ハイデガーとカール・ヤスパースの下で学んだ。1933年、ナチ支配下のドイツからパリへと亡命し、そこでユダヤ人の青少年やドイツ占領地域からの避難民の救出にたずさわった。第2次世界大戦勃発後には数ヵ月間フランスの収容所に送られたが脱出し、アメリカ合衆国へと渡る。以後、時事問題や政治的・哲学的問題について書きつづけ、1951年には大著「全体主義の起源」を刊行、その後も「人間の条件」(1958年)、「革命について」(1963年)など、20世紀の古典ともいうべき数多くの著作を発表した」。妻子あるハイデガーとは恋愛関係に陥り、最初の結婚は破たんするなど、学問一筋では決してなく、情熱的な生を生きたようだ。ナチズムとスターリズムを全体主義としてとらえるのは当時としては斬新な見方であったと思われる。人間、個人に対して抑圧的な体制に対して彼女は同じような人間に対する犯罪を感じたのだと思う。

6月某日
川村学園女子大学の現在は副学長をやっているY武さんから「今日、国際展示場に行くのだけど帰りに呑まないか?」と電話がある。「ゆりかもめで行くから場所は新橋がいいな」と場所まで指定。相変わらず勝手な人である。雨が降っているから駅の近くがいいだろうと、ネットで調べてニュー新橋ビルの「つむぎ屋」を6時30分から予約。Y武さんと2人だけじゃ変わり映えしないなと厚労省のY幕さんに「来ませんか?」と電話、「少し遅れますが行きます」との返事。つむぎ屋でビールを呑んでいると「久しぶりだなぁ」とY武さんが入ってくる。そういえば先月、博多でY武さんの高校時代の友人、羽田野弁護士にご馳走になったけど、その報告もしていなかった。3月に亡くなった前山口県知事の山本繁太郎さんを偲ぶ会への出席を確認。「死んだの知らなかったんだ」とY武さん。「新聞に出てたでしょ。新聞読まないの?」と私。もちろんY武さんは新聞は読んでいるが、死亡記事を読み落としたんだろうね。注意力散漫だから。遅れてY幕さんが来る。Y武さんの年金局の審議官、局長時代の話になる。Y武さんの面白いのは自分の立場とか地位にほとんど興味が無いように感じられること。そんなことより、そのとき自分がしなければならないこと、日本にとって社会保障にとって何が必要か?に関心が集中している。そういえば退官後、表参道の「こどもの城」の理事長になったときも、どうやって魅力的な会館、劇場を運営するか一所懸命だった記憶がある。で、Y武さんは「俺はすごいだろう」という自慢が入るが、それが嫌味じゃない。いつだったか「偉そうに!」と私が言ったら「俺はエライんだもん」と反論されたことがある。敵いません。新橋でY幕さんと別れ、Y武さんと根津の「ふらここ」へ。

6月某日
東京商工会議所傘下のNPO法人生活・福祉環境づくり21の勉強会「ビジネス研究会」に参加。今日の講師は江戸川区の副区長の原野さんでテーマは「生涯現役熟年者の居場所と出番・雇用促進~江戸川区の実践事例から~」。原野副区長は福祉部長から副区長に登用されたということで、江戸川区のいわゆる高齢者対策を熱心に語ってくれた。江戸川区は西葛西にある東京福祉専門学校の入学案内を数年に亘って受注していたことがあり、多少の土地勘はあるが、区役所の人の話を聞くのは初めてで新鮮だった。日本では一般的には65歳以上を「高齢者」と呼ぶが、江戸川区は約30年前から、60歳以上をすべて熟年者と呼んで地域で積極的な役割を担う存在として位置付けるとともに”健康第一“として「介護予防」の視点を施策に取り入れてきたという。実際データによると要介護者の認定率が14.7%で23区中最も低く、後期高齢者の一人当たりの年間医療費は870,977円とこれも23区中最も低額になっている。感心したのは江戸川区が熟年者の居場所と出番づくりに工夫して、熟年者を家から出そうという試みを行っていること。しかもかなりの部分を熟年者の自主性に任せていること。熟年者が自ら動き、自ら工夫する。そうすれば熟年者は自ずと健康になり認知症予防にもなると思った次第だ。研究会後懇親会に参加。

6月某日
大分前に古本屋で買ったままになっていた文庫本「夜のピクニック」(新潮文庫 恩田陸)を読む。文庫本のカバーに著者の写真が掲載されていたが、ショートカットのオバサンふうの人が微笑んでいる。オバサンふうのオジサンもいないではないのでネットで調べると女流小説家となっていた。陸と漢字で書くと何となく男っぽいが「りく」と平仮名で書くと確かに女性の名前だね。この小説は第2回の本屋大賞をとっている。本屋さんの支持を集めたということだろうが、私にはあまりピンとこなかった。高校の学内行事で夜通し歩かせるというのがあって(これが「夜のピクニック」というタイトルの由来)主人公の女子高生と男子高生が参加する。二人は同じクラスなのだが実は父親が同じ。つまり2人の父親が同じ年に妻と不倫相手に産ませたのがこの2人というわけ。うーん、設定に無理があるんじゃないかな?そんな近場で不倫するもんかね?私は女子高校生同士で交わすガールズトークにもなじめなかった。だいたい高校時代なんて私にとっては半世紀近い前だもんな。リアリティがないよ。

6月某日
当社が編集しているWEBマガジン「けあZINE」のオフ会に参加。20分ほど前に発行元であるSMSの介護室に行くとすでにSMSのN久保氏とM氏が来ていた。雑談をしていると投稿者の訪問介護事業所を経営している「ママさん経営者」や地域包括の責任者、若年性認知症のケアに携わっている人、ジャーナリストなどが集まってくる。まずひと通り自己紹介をしてもらう。それぞれが介護という事業に真剣に取り組んでいることがひしひしと伝わってくる。また、一口に介護事業と言っても人手不足の様相も大都市と地方では違うし、人口減少に悩む過疎地では散在する利用者宅を回るのだけで一苦労だ。冬季には積雪の問題もある。私たち東京やその近郊に住んでいる者にとって医療機関や公共交通機関、コンビニエンスストアの存在が常識だが、それは大都市圏の常識に過ぎないことがよく分かった。そしてとくに訪問系の事業者には情報を発信、受信する機会に恵まれないこと、横のつながりが弱いことも確認できた。予定の2時間はすぐに過ぎてしまい、みんなで2次会の居酒屋に。2次会にはオフ会に参加できなかった神奈川のNPO法人の副理事長も参加、それぞれ介護事業に対する思いや悩みを語って時間の経過を忘れそうだった。

社長の酒中日記 5月③

5月某日
 年金・福祉推進協議会のS木事務局長と当社のI津さん、総務・経理を手伝ってくれているパートのK隅さんとT島さん、それに日本医療保険事務協会のM田さんと東京駅のキッチンストリートにあるステーキハウス「ビモン」で食事。S木さんとM田さんは元日本国民年金協会の職員。その縁でM田さんは推進協議会の経理をときどき手伝っている。推進協議会の事務局は当面、当社に置くことになっており、S木さんのデスクも当社の私の隣にある。そんなこともあってS木さんが気を遣って、ご馳走してくれることになったのだろう。K島さんとT島さんにはずいぶん助けられているとI津さんが言うのを何度か聴いたことがある。2人とも性格が明るくて真っ直ぐなのがありがたい。彼女たちがいるといないでは職場の雰囲気が微妙に違うと感じるのは私だけではないと思う。各種ステーキを注文してみんなでシェアして食べた。

5月某日
 社会保険研究所で「月刊介護保険情報」の校正をやっているナベさんと葡萄舎に行く。ナベさんとは私が当社に入社する前の前の会社、日本木工新聞社で机を並べていた仲だから、40年近い付き合いだ。葡萄舎は当社に入社してから通いだした店だから、こちらも35年くらいの付き合い。店主のケンちゃんは北千住出身。私の記憶が確かなら高卒後、東京電力に入社したが、ひょんなことから呑み屋を手伝いだし、これまたひょんなことからインドを放浪することになったらしい。インドで身に着けた「カレー料理」がこの店の売りでもある。そういえばユニセフの仕事でインドに駐在したことのある元厚労省のO泉さんをこの店に連れてきてカレーを食べさせたら「ホンモノだ」と言っていた。神田駅南口徒歩5分なのでぜひ、一度行ってみる価値あり。なおランチタイムのカレーも絶品。

5月某日
 「へるぱ!」の取材で埼玉県幸手市の東埼玉総合病院の中野智紀医師を訪問。浅草から東武線の特急で東武動物公園駅へ。在宅医療連携拠点推進室に通される。中野先生がやって来て名刺交換。名刺には地域糖尿病センター長、在宅医療連携拠点推進室長、経営企画室長とあった。診察・治療といった医師本来の仕事以外に地域と関わる仕事や経営に係る仕事を幅広くやっていることが名刺からもうかがえる。東埼玉総合病院はURの幸手団地に隣接しており幸手市と杉戸町を主な診察圏とする。「地域と密着しなければこの地域では病院経営は成り立たない」というのが中野先生の考えだ。中野先生の運転で幸手団地の元気スタンド・ぷりズム合同会社の代表社員、小泉さんを訪問。小泉さんは40代後半だが、どうみても30代にしか見えない。大手スーパーを辞め、介護予防型コミュニュケ―ション喫茶を立ち上げ、今は配食サービスなどにも手を広げている。小泉さんの取材を終え、再び先生の運転で今度は杉戸町のNPO法人すぎとSOHOクラブの小川理事長を訪問。小川さんはNTTを定年で退職した後、NPO法人を立ち上げた。裏山での筍掘りやカブトムシの幼虫採集など様々な住民参加型イベントを企画している。その様子を小川さんはかなり使い込んだと見られるタブレットで見せてくれた。東武動物公園駅まで先生に送ってもらい特急に乗車。北千住で同行した編集のS田とライターのMさんと一杯。

5月某日
 以前、古本屋で100円で買った遠藤周作の「イエスの生涯」(新潮文庫)を読む。単行本の初版は昭和48年10月、遠藤が50歳のときである。私が25歳の時です。キリスト教は仏教、イスラム教と並ぶ世界三大宗教のひとつである。恐らくは最初はユダヤ教の一つの分派として原始キリスト教団は始まったと思われる。弟子たちがイエスの死後、イエスの残した言葉を拾い集めてマルコ、マタイ、ルカなどの新約聖書の原型を形づくるうちにユダヤ教とは全く異なる「愛」の宗教が生まれたと見るべきだろう。捕縛された以降の「受難時代」のイエスは全く無力であった。遠藤はそこに着目する。イエスは「(ガリラヤやその他の地で病人を癒し、死者も生き返らせたと言われるのに)全くの無力、無能しか見せられなかったということである。受難物語を通してイエスは全く無力なイメージでしか描かれていない。なぜなら愛というものは地上的な意味では無力、無能だからである」(第12章主よ、御手に委ねたてまつる)と遠藤は書く。これは遠藤の棄教した宣教師を描いた「沈黙」にも通じるテーマである。

5月某日
 元建設省の住宅技官で現在、株式会社日本建築住宅センターの社本社長は、私がこの会社に入る前の日本プレハブ新聞社の頃に、社本さんが住宅局の住宅生産課か民間住宅課の課長補佐をしていて、取材で知り合った仲だからもう30年以上の付き合いになる。その社本さんが70歳を迎えたというので、神保町の新世界菜館でお祝いの会が開かれた。会の音頭をとったのは元週刊住宅情報の編集長で現在「風」という会社を経営している大久保恭子さん。集まったのは元住宅局長の那珂正さん、元住宅局の審議官で、現在、ビルディング協会の小川冨由さん、小川さんの後任でURに出向している水流潤太郎さん、住宅金融支援機構や住宅・建築省エネルギー機構の出向を経て今年、国土交通省を退官した合田純一さん、それに合田さんの後任で住宅金融支援機構の理事に出向している坂本さん、そして現職の住宅生産課長の伊藤明子さんだ。私が知っている旧建設省の住宅技官は優秀な人が多い。東大や京大で建築や都市工学を学んだ秀才だが、日本の住宅や都市を変えて行こうという気概を持った人が多いのだ。それでいて適度の遊び心を持っていて、私は妙に気が合うと思っている。そんなことから社本さんの70歳のお祝いに、やや部外者ながら私にも声が掛かったのだろう。美味しい料理と楽しいおしゃべりで2時間半はあっという間に過ぎた。

5月某日
 民介協の総会。当社は賛助会員なので国際展示場正門前の東京ファッションタウンビル9Fの会場へ。理事長がジャパンケアの馬袋社長からソラストの佐藤専務に代わった。民介協との付き合いは4,5年前の厚労省の補助事業を一緒にやろうと扇田専務に持ちかけて以来だが、馬袋さん当社のような零細企業も差別することなく尊重してくれた。深く感謝。佐藤さんもいろいろと当社のことを気にかけてくれる。民介協とは今後、いろいろな仕事を共同でやって行きたい。総会後の懇親会では石巻で取材に協力してくれたパンプキンの渡辺常務と渡辺社長などに挨拶。記念講演をした厚労省の朝川課長には「けあZINE」を宣伝。課長はすでに知っていたらしく「ああ、これいいよね」と言ってくれた。

5月某日
 社会保険出版社の池谷前専務の告別式に参列。池谷さんは当社の故大前役員と親しく麻雀仲間でもあった。今頃あっちの世界で亡くなった小牟礼さんたちと麻雀を楽しんでいるだろう。しかし65歳を過ぎると急に訃報が多くなったような気がする。

5月某日
 ブックオフで買った桐野夏生の「顔に降りかかる雨」(講談社文庫)を読む。桐野は好きな作家で刊行された小説の6割くらいは読んでいるような気がするが、これは未読。カバーに第39回江戸川乱歩賞受賞作とあり、確かに犯人探しの謎解きの要素もあるから推理小説というジャンルなのだろうが、私はむしろ良質なハードボイルド小説として楽しめた。夫が自殺した村野ミロは勤めていた広告代理店も退職、調査探偵業を引退した父の事務所兼マンションで無為な日々を送っている。ある日、親友のノンフィクションライター宇佐川燁子が1億円を持って消えたと燁子の愛人、成瀬時男がミロを訪ねてくる。成瀬は元東大全共闘、拘置所でヤクザの幹部と知り合い、拘置所を出た後、この幹部の仕事を手伝っている。元東大全共闘というのは藤原伊織の「テロリストのパラソル」とも共通する。元全共闘しかも東大が付くから一種の凄みがあるわけ、というのは私の思い過ごしか。私にとっては元東大全共闘は明治期の元新撰組隊士のような意味がある。

5月某日
 第4回地方から考える社会保障フォーラムの講師のお願いに社保研ティラーレの佐藤さんと厚労省へ。健康局の伊原総務課長に「がん対策」でどなたかにお願いできないかお聞きする。がん対策官の江副さんを紹介してもらう。その後、社会援護局の古都審議官、政策統括官の唐沢さんに挨拶。佐藤さんは民主党政権のとき環境政務官を務めた樋高剛さんの秘書をやっていた。そんなわけで環境省の地球環境審議官をやっている白石順一さんも訪ねることにする。白石さんとは白石さんが厚生省国際課の課長補佐のときからだから20年以上のつきあい。佐藤さんと飯野ビルの地下のベトナム料理の店「イエローバンブー」に行く。佐藤さんは樋高さんの秘書になる前は飯野ビルに有ったインド綿の服を売る店にいたそうだ。建て替える前の飯野ビルである。

5月某日
 我孫子駅前の東武ブックストアを覗いたら文庫本コーナーの一角に、藤沢周平の「雲奔る 小説・雲井龍雄」が平積みにされていた。藤沢周平も昔から好きな作家で刊行されている小説はほとんど読んでいると思っていたがこれは未読であった。さっそく購入する。雲井龍雄は幕末の米沢藩の下級武士の家に生まれ、江戸で安井息軒の門に学ぶ。勤王の志強く京都で反幕府の情報活動を行う。雲井の活動のユニークなのは王政復古の大勢が決して以降、薩長連合に楔を打つべく反薩摩を掲げて長州と土佐の連携を図ろうとするところだ。しかし巻末の解説で関川夏央が書いているように「雲井龍雄の活動は、すでに京都で終わっていた。より酷ないいかたをすれば、活動開始以前に終わっていたのである。それは背景と同志を持たない『草莽の士』の宿命であった」のである。雲井は学問に秀で詩作もよくした。しかし新政権は雲井を捕え、小伝馬町の牢で斬首した。首は小塚原にさらされた。28歳であった。時流に乗れない男だった。時流に乗ることは仕事をするには必要なことと思う。だが時流に乗るのはあくまでも手段でしかない。時流に乗ることを自己目的としてはならないと思った。

5月某日
 企業年金基金のT口常務と社会保険研究所のK林氏と神田明神下の「章太亭」で呑む。この店は去年の春先だったか御茶ノ水の順天堂大学で認知症の勉強会の終わった後、ふらふらと迷い込んだ店だ。女将さんは元芸者で芸者のときの名前を店の名前にしたそうだ。女将さんのいとこだったか姪っ子だったか、昔はさぞかし美人だったと思われる女性が手伝っている。お客の年齢層も高く落ち着いた店なので、それ以来ときどき使っている。T口さんとは同じゴルフ場、鹿沼のディアカントリーのメンバー。最近はあまり行かないが、以前は2人とも月1回の例会に良く出席していた。昔話も出て楽しかった。

5月某日
 4月から兵庫県立大学に移った国立保健医療科学院の筒井孝子さんが社会保険研究所から「地域包括ケアのサイエンス」という本を出した。編集は当社のS田女史が担当した。その筒井さんや老健局の宮島前局長が兵庫県立大学の「医療・介護マネジメントセミナー」でシンポジウムに出るというのでS田女史と本をセールスしに出かける。筒井さんの講演は初めて聞いたが極めて明快で「地域包括ケア」の必然性が私なりによく理解できたように思う。筒井さんの講演を私は次のように理解した。①少子高齢化と財政的な制約により、限られた医療と介護資源をより効率的に利用することが求められている②同時に複雑な疾病と医療ニーズを抱えた高齢者に対するケアや生活の質、患者満足度、及び制度の効率性を高めることが求められている―これらが地域包括ケアシステム構築の前提としたら、ケア提供主体の役割としては(1)サービス提供事業者は①統合的なサービス供給デザインを考える②医療が必要な人に医療を届ける仕組みを考える③意思決定や自己管理を推進する仕組みを考える③利用者の情報を事業所内外で活用できる仕組みを考える(2)地域住民は①資源が有限であることを理解し、政策を理解する②生活や健康を自己管理する(3)自治体職員は①住民のニーズを政策に反映する施策立案と管理を行う②当該自治体が関わる圏域の医療資源を把握し地域住民へ効率よく還元できる仕組みを考える③住民の生活や健康を自己管理を推進する施策を展開する(4)保健・医療・福祉の実践家は①自己管理を促進するサービスの開発②意思決定を尊重する支援の提供③床情報の積極的活用(共通言語の使用等④地域資源の実践への活用⑤多職種によるケアの提供(臨床的統合)-などがあげられている。包括的な連携という考え方は医療・介護の世界だけでなく一般のビジネスでも有効と思う。

社長の酒中日記 5月②

5月某日
 今度の金曜日、元厚労省の中村秀一さんにお願いして「日本の社会保障の将来」について講演をお願いしている。対象は主として社会保険研究所グループの社員だが、それ以外にも高橋ハムさんや石川治江さん、健生財団のO谷さんなどにも声を掛けている。その中村さんが理事長をしている医療・福祉・介護政策研究フォーラムが郵政互助会ビルに移転したのでちょっと覗きに行ってきた。昨日引っ越したばかりだそうで中村さん自ら段ボールの整理をしていた。講演会の打合せを軽くやって雑談して帰る。夜、社会保険研究所のK上社長に神田のいく代寿司でご馳走になる。いく代寿司のご主人は年末年始、体調を崩して入院していたがこのほど復帰した。ご主人とは会社の近くの銭湯で会ったことがある。脱衣場で「よお!」と声を掛けられたが、いつもの白衣ではなく裸だったので咄嗟には分からなかったっけ。私が脳出血で入院し、退院した後も銭湯で会ったら「大変だったね」と言って背中を流してくれた。気分よく我孫子に帰り、「愛花」によるとK地さんがいたのでもう1軒。

5月某日
 大学の同級生だった弁護士のA宮君の事務所が京橋から西新橋の弁護士会館に移転したので表敬訪問。A宮君の年の離れた末っ子が来年高校受験だとか。上の2人は中学校から私立だし、A宮君自身、中学から開成。ということはA宮家始まって以来の高校受験ということになる。中高一貫の私立出身の人はA宮君はじめ皆おっとりしている感じがするが、高校受験がなかったからなのかな。U海君と3人で呑もうと約束。当社の総務・経理部門のオフコンソフトを作っているサンクリエのI上さんが6月で退社するというので挨拶に見える。18時過ぎに会社近くの東京オーブンで軽く送別会。後から当社のI津さんが合流。I津さんもとはI上さんの紹介。I上さんとはかれこれ30年以上の付き合い。別れるときI津さんに「社長、我孫子でまた呑むのでしょ!」と言われた。「うん」と答えたので我孫子の「七輪」でウヰスキーのソーダ割りを2杯。

5月某日
 中村秀一さんを講師に迎えて第1回の「社会保障勉強会」を社会保険出版社で行う。グループ各社などから40人ほどが集まった。高橋ハムさんや石川治江さん、白梅大学の山地さん、年住協の岩也理事長などグループ外からも参加してくれた。中村さんの講演は社会保障の戦後50年を振り返ったとても意義深いものだった。社会保障にとっての非自民党政権の意義として自民党では岩盤のような各種団体の壁が厚く政策の優先順位を替えられなかったとか、高度成長期には企業も企業内福利厚生を充実していれば良かったが低成長、マイナス成長になってくると厚生年金や健康保険の事業主負担が事業主にとって負担感を感じさせるものになったうえに企業年金の積立不足などが企業財務ひいては企業経営に大きな影響を与えるようになってきたなど非常に勉強になった。厚生労働省の官僚は優秀だが目先の問題の処理に忙殺され、政策課題がどのように解決され、どのような課題が残っているのかという、そのときどきの政策の「総括」が不十分な気もした。中村さんの講演はその辺も匂わせるまさに「自由人」だからこそできる講演だったと言える。この勉強会は今後も続けていきたいと思う。

5月某日
 2004年の4月に自殺した鷺沢萠のエッセー「かわいい子には旅をさせるな」(04年6月 大和書房)を読む。鷺沢の小説は好きでずいぶん読んだ。内容は覚えていないが「ある切実さ」を内包した文学だったように思う。このエッセーは大和書房のホームページやwebダ・ヴィンチに連載されたものでネット文芸の走りかも知れない。エッセーも軽妙でなかなか旨いと思うのだが、自殺したこと知っているからだろうか、何か「痛さ」を感じてしまう。私としては「死んでしまえばオシマイヨ」とつぶやくだけである。

5月某日
 赤羽の「トロ函」で健生財団のO谷常務と東京福祉専門学校の1期生、M浦君と呑む。O谷さんは健生財団に来る前、滋慶学園グループで専門学校の運営を手掛けていたから、その関係だ。M浦君は北海道の福祉施設で働いていたが、奥さんと離婚、3人の子どもたちはM浦君が引き取ったが、福祉施設の給料では暮らせず、単身で上京してトラックの運転手をしながら仕送りをしているという。ただM浦君自体は明るい好青年、といっても40歳をすぎているそうだが。ロックをやっていたそうで、そのせいか今も髪はリーゼント。U木君の「介護ユーアイ」を紹介しようと思う。我孫子で「愛花」に寄ると早稲田出身の元証券マンK地さんがいた。

5月某日
 今日から京都、岡山、下関、福岡へ3泊4日の出張。出張の時は文庫本を持って行くことにしている。今回は以前、古本屋で100円で買った遠藤周作の「イエスの生涯」と西部暹の「保守思想のための39章」を持って行くことにする。京都ではまず「認知症家族の会」の三宅先生に会う。先生はドクターだが、医者は卒業して認知症の奥さんの介護に専念されているようだ。家を長時間空けるわけにはいかないので、自宅近くの山陰本線の太秦で落ち合うことにする。先生の車に乗せてもらって嵯峨天龍寺近くの喫茶店で話す。今回は社会福祉法人サンの西村理事長も一緒だ。先生に嵐山駅まで送ってもらって京福電車で帷子ノ辻へ。そこからタクシーで西洞院通りの「SOU」へ。元厚労省のA沼さんと健生財団のO谷常務と合流。ホテルが近かったのでA沼さんに送ってもらう。

5月某日
 岡山駅の近くのホテルグランヴィアで障害児施設の施設長をしているH川さんと待ち合わせ。昼ご飯をご馳走になりながら昨年亡くなった高原さんを偲ぶ会について意見交換。岡山から広島へ移動してグループ経営会議と会議後の懇親会に参加。2次会は失礼してホテルへ。

5月某日
 下関で下関市会議員の田辺よし子先生に会う。先生は自身も障害者で障害者の雇用に熱心に取り組んでいる。最近は刑を終えた人の雇用にも乗りだして、車を運転してくれた礼儀正しい青年もそうだということだ。唐戸ワーフというところで昼食にフグの刺身などをご馳走になる。昼食には田辺さんのご主人も参加、昼食後、ご主人の運転で安徳天皇を祭っている赤間神宮などを見学させてもらった。田辺さんのご主人は早稲田大学法学部を出て、下関で予備校を経営している。宮崎学なども良く知っているようだ。ご夫妻と別れて下関厚生病院の山下副院長に会う。

5月某日
 下関から船で門司へ、5~6分の船旅を楽しむ。小倉から博多へ。博多では羽田野弁護士にご馳走になる。羽田野先生は元厚労省のY武さんと修猷館高校の同級生。去年、今年と滋賀県のアメニティーフォーラムで会っている。稚加榮という料亭で食事。新鮮な烏賊や魚を刺身でいただく。仕上げは雲丹ごはん。先生が良く行くらしいオールデイの店と「風鹿」というミニクラブをはしご。

5月某日
 「へるぱ!」の取材で仙台へ。まず昼飯で駅前の「牛タン喜助」へ。それからタクシーで東北福祉大学へ。本部のあるキャンパスへ行ったのだが目指す「認知症介護研究・研修センター」は違うキャンパスとのこと。再びタクシーに分乗してセンターへ。今回はセンター長で福祉心理学科の教授も兼ねる加藤伸司先生へのインタビュー。認知症患者との接し方も一般の人との接し方も基本は同じという。もちろん認知症の方にはより丁寧なアプローチが必要となるのだが、うそをつかないとか怒らないというのは人間として基本のように思う。加藤先生のあとは仙台で医療職や介護職のネットワークを作り上げている「笹かまhands」の取材。ジャパンケアの須藤さんと「せんだんの丘」の三浦さんに取材。「顔の見える関係」を築くためまず呑み会から始めたという。夕食はHCM社のO橋さんの紹介で「小料理・凛」へ。吉田美由紀さんというママさんが応対してくれる。フリーライターのS見のスペイン旅行の写真で盛り上がる。小腹が空いたので近くの「炭火焼き料理と旬の魚・小福」へ。これが大正解。筍や日本酒をいただく。ここでS見と編集者のS田と別れ、私はホテル近くの「Bar Laid Back」へ。スコッチの水割りとジントニック。

5月某日
 バスで石巻へ。昼ごはんは駅前の富貴寿司へ。ここは国年協会のS木さんと前に来たことがある。近海物を選んだ「金華寿司」を頼む。鯨の握りもあって満足。パンプキンの渡辺常務に取材。震災直後に取材で知り合ったのだが、会うたびにたくましくなる。石巻で多職種連携を進めているOkaiの会を取材。呑み会にも参加させてもらう。医療職はドクターを頂点にヒエラルヒーがしっかりしているが、介護福祉系はそれがあまり感じられない。老全共闘として言わせてもらえば医療職は党派の全学連、介護福祉系はノンセクトラジカルの全共闘と言えなくもない。重症心身障害児を守る会の高橋さんとも話をすることができたが、高橋さんは今、私の住んでいる千葉県我孫子市から30数年前に嫁に来たという。私の家から歩いて10数分のところだ。

社長の酒中日記 5月

5月某日
 当社は9月決算だが、上半期3月までの売上、利益は売上げが15%ほどダウン、利益は前年同期が数百万円の黒字だったのに、一転して2,000万円の営業損失。下期の始まった9月にO前役員が入院し3月に亡くなった。O前役員は経理と営業を担当していたから大きな痛手であることは確かだが、それを理由にするのは潔くない。やはり社長の責任は重大である。下期必ず2,000万円以上の黒字を出して通期でも黒字としてO前役員の霊前に報告したい。5月は本当に良い季節だ。良い季節になったのでグループ会社のK出社長、T本社長、結核予防会のT下さんと「葡萄舎」で痛飲。銀座に流れる。後半良く覚えていません。

5月某日
 連休。どこへ行く予定もなかったが外房の勝浦に行ってみることにする。何年か前、祖父が勝浦出身の女性のドキュメント作家が自らのルーツを記録した作品を読んで面白かったことを思い出したからだ。彼女の祖先は和歌山から黒潮に乗って房総までやってくるのだ。イワシを獲るためだ。当時は近畿地方の漁法の方が関東より進んでいたわけだ。そんなわけで武蔵野線で海浜幕張まで出て、そこから特急わかしおに乗って勝浦へ。沿線の新緑がまぶしい。勝浦の駅を降りると「朝市」という看板が目に付く。10数分歩くとお寺の門前で朝市が開かれていた。時計の針は11時を回っていたので店仕舞いの準備を始めている店も多かったが私は「かますの干物」とわかめ、ヒジキなどを買う。漁港の周りを少し歩いて駅前の漁協直営の土産物屋で「くじらのハム」を購入。12時過ぎの特急に乗車。「くじらのハム」を肴に駅の売店で買ったワンカップ大関を2本呑む。

5月某日
 「コーポレート・ガバナンス―経営者の交代と報酬はどうあるべきか」(久保克行 日本経済新聞出版社 2010年10月)を読む。最近、会社は誰のものかというようなテーマの本をよく読むようになった気がする。それは経営者の端くれとして、私は「誰のために経営し利益を上げようとしているのか」と自問することが多いからであろうか? もっともいつもそんなことを考えているわけではない。普段は目の前にある事案をどう解決するかに追われていると言っても過言ではない。
 ところでこの本はなかなか面白かったし勉強になった。まずコーポレート・ガバナンスについて重要なことは2つ。「一つは、業績の悪い経営者が退出し、業績の良い経営者が在任し続けることを促すようなメカニズムである。もう一つは経営者に、業績向上のための適切なインセンティブを与えることである」。納得。
 さらに「業績が悪化した企業では社長が交代することが望ましい。しかし、そのようなメカニズムは日本企業では機能していない」「業績の悪い社長を解任するためには、その解任を主導するような存在が必要である。解任のための明示的な仕組みが必要であろう」とも書いてある。そして取締役会の重要な役割は「経営者を選任し、適任でない場合は交替させること」「社外取締役を活用することにより、経営者の交代や事業の撤退をより客観的に行っている企業もある」。そして企業は誰のものか? という問いには「『企業は株主のものである』というのは、経済学から見て当たり前の議論ではない。企業特殊的人材が重要な場合、従業員の利害を考慮して企業を経営することは、効率性からみて、必ずしも悪いことではない」。なるほどねぇ。当社の場合は生産設備、資本が特に必要なわけではない。従業員も一般社会に広く通じる能力というより社会保障関連の情報とネットワークという企業特殊的な能力が求められているのだが。

5月某日
 図書館から借りていた田辺聖子の「金魚のうろこ」(集英社 1992年6月)を読む。この小説も読むのは2回目。20年以上前に書かれた小説だが中身は全然古くない。これはやっぱり田辺は古典になったということ。でも以前読んで記憶にあるのは冒頭の表題作くらいで、金持ちのわがまま娘とその継母への大学生のうぶな恋愛感情が主題だが、読み返すと十いくつはなれた青年とハイミスの甘い恋とその破たんを描いた「魚座少年」やいくつかの恋を経て、結局、外見は冴えないが人間的に魅力のある「中島ピロピロ」とむすばれるであろう「みさかいもなく」の方が面白く感じられた。同じ小説を何回も読むということは以前感じられなかった魅力の発見でもあるわけだ。

5月某日
 図書館で借りた「マイ・ラスト・ソング 最終章」(久世光彦 文芸春秋 2006年8月)を読む。久世は職業軍人の家に生まれ、8歳で終戦を迎える。二浪して東大の文学部に入学、美学を専攻。東京放送(TBS)に入社後、ドラマのディレクターとして活躍、「七人の孫」「寺内貫太郎一家」「時間ですよ」などを手掛ける。私はこれらのドラマはほとんどリアルタイムで観ているが、久世の名前を知ったのはTBS退社後、小説やエッセーを発表しだしてからだ。もっとも決して良い読者だとは言えず、読んだのはこの「マイ・ラスト・ソング」の1から4そしてこの最終章といくつかのエッセーだ。
 「死ぬ間際にたった1曲聴けるなら何を選ぶ?」というテーマで連載(諸君)が開始されたこのエッセーは私にとっては大変お気に入りのものだった。歌とそれにまつわる事柄を虚実とりまぜて回想するというのは、久世の該博な知識とときおり漂わせる退廃の匂いと合わせて私にはたまらないものだった。この「最終章」も実に味わい深くまた気になる歌が多いのだが、私は「大川栄作の孤独」の章で取り上げられている「哀しき子守歌」という死刑囚の歌に魅かれた。
 
 雪がちらほら 降ってきて
 カラカサ片手に やや抱いて
 坊やよい子だ ネンネしな
 父さん出世の 血の涙

 学校へゆくと 先生が
 親のないもの 手をあげろ
 四十九人の その中で
 坊や一人が 手をあげた

 学校がえりの 友達に
 親のない者 馬鹿にされ
 いいえおります 天国に
 小石並べて ねています
 ねています

 これは大川栄作が連合赤軍の浅間山荘事件の前年に出したアルバム「孤独の歌」に収められているという。俗にいう監獄ソング、すべて放送禁止という。ちなみに「哀しき子守歌」のメロディーはいろいろあるらしいが一番ポピュラーなのは「練鑑ブルース」だそうだ。私は20歳のとき、学生運動で逮捕された留置場で「練鑑ブルース」を口ずさんだ覚えがある。「格子窓から眺めたら きらり光った流れ星 あれはおいらの母さんか それとも可愛いスーちゃんか」という一節を好んでいたように覚えている。

5月某日
 「下流の宴」(林真理子 10年3月 毎日新聞社)を読む。「下流の宴」というタイトルから内容も思い浮かばなかったが、林真理子は好きな作家なのでGWに図書館で借りた。読み始めたら面白く400ページを超える長編を1日で読み終えてしまった。ストーリーは中流家庭で中高一貫校の高校に通学していた福原翔が高校を中退し、沖縄出身のタマちゃん(宮城球緒)と同棲を始めることから始まる。翔はタマちゃんを両親に紹介するが、翔の両親とくに母親由美子の理解が得られない。由美子の母親は医者に嫁いだが夫は若くして亡くなり、由美子の母親は下着の訪問販売で成功し2人の娘を大学にやり、由美子は早稲田の理工出と結婚し妹は医者に嫁ぐ。対してタマちゃんは沖縄の離島出身で、両親は離婚、それぞれ再婚しタマちゃんの母親は離島で呑み屋をやっている。由美子にしてみれば医者の家系にタマちゃんのような家出身の娘は迎えがたいのだ。タマちゃんは医者がそんなに偉いのか、だったら私が医者になってやると宣言し、苦しい受験勉強の結果医学部に合格する。ざっとこうしたストーリーなのだが、合格後、翔はタマちゃんのもとを去る。林真理子の小説は現代社会の歪みをさりげなく切り取って読者に提示するところがある。この小説で言えば「格差社会」や「学歴社会」の歪みなのだろうが、林真理子は物語として昇華しているところが凄いと思う。

社長の酒中日記 4月②

4月某日
 大学時代の同級生A宮弁護士を事務所に訪ねる。当社のI佐が同行。若干の相談を終えた後、事務所近くの「新橋やきとん京橋店」へ。八海山と三千盛をしこたま呑む。A宮、U海、S崎、O、Y下それに私、女性ではコンちゃん、後に私の奥さんになるO原がクラスの仲良しグループだった。A宮は卒業後司法試験に挑戦、見事合格、検事に任官した。10数年検事をやった後、弁護士になった。久しぶりに学生時代の昔話をして楽しかった。楽しさの余韻を楽しみたくなって我孫子駅前の「七輪」に寄ったのが間違いのもとだった。青海社のK藤社長がいるではないか。もう一軒行こうとバーに行ってしまった。気が付いたら家で寝ていたといういつものパターンだ。

4月某日
 「地方から考える社会保障フォーラム」の第3回目が今日と明日、社会保険研究所で開催される。愛知県半田市で住宅改造や町おこしの団体をやっているK玉道子さんや健康生きがい開発財団のO谷常務に今回、講師をお願いした。当社のS田を交え富国生命ビルの富国生命倶楽部で夕食を食べることにする。共同通信のJ記者にも声をかける。富国生命倶楽部にはルオーやルーベンスなどの絵が掲げられている。夜景もきれいだ。赤ワインをいただく。K玉さんをホテルに送って、私とO谷常務は上野駅構内の「森香るバー」へ。

4月某日
「地方から考える社会保障フォーラム」2日目。午前中にO谷常務、午後にK玉さんの話を聞く。2人ともしゃべりは◎。それで思うのだが如何に内容が良くてもしゃべり方が今ひとつだと思いは十分に伝わらない。私の知人のなかでしゃべりのうまさでは元宮城県知事の浅野さんがピカイチであろう。内容は今一のとき(失礼!)でもしゃべりで聞かせる。元事務次官の辻さんは「辻説法」と言われたぐらいだから情熱的な語りでは右に出るものはいないだろう。聞く方は少し疲れるが。元社会保険庁長官の堤さんは内容は高度で深いのだが滑舌に難あり。話が逸れたが「フォーラム」終了後、O谷常務とK玉さんに我孫子市議の関さん、由利本荘市議の梶原さんと会食。梶原さんは70過ぎの老人だがとても魅力的な人だ。市民のために地域を替えていくために市議になったと目的が明確だ。若いときに炭鉱や自衛隊の経験があるという。「体験してみたかった」というのが動機という。秋田訛りで訥々とした喋りだが聞かせます。

4月某日
 国土交通省のG田さんが役所を辞めたので「跳人」で高齢者住宅財団のO合さんとご苦労さん会。G田さんは彼が旧建設省住宅局の住宅生産課の工業化住宅の係長だったころの付き合いだからおよそ30年。私が日本プレハブ新聞の記者時代、取材でずいぶんお世話になった。偉ぶることのない誰にでも親切な、本当の意味で「いい人」。田酒など青森の酒をのむ。翌日はHCM社のコンペがあるので私は神田泊。

4月某日
 HCM社の春季ゴルフコンペに参加。江東区の若洲ゴルフリンクス。私は2組目で三井住友海上のN込部長、年住協のM田部長、HCMのK島さんと廻る。乗用カートだったが、プレーが終わってから万歩計を見ると歩数は2万歩を超えていた。N込さんは公務部長で何かと厚生労働省に人脈があり私と共通の知人も多かった。M田部長は私の同郷の北海道室蘭市出身。ただ私と違って高校から道内有数の進学校である凾館ラサールへ。大学は東北大学、就職は大手損保というエリート、でもとても気さくな人柄だ。K島さんはHCMのベテラン女性社員。そんなわけで、廻っていても和気あいあいで楽しかった。私の成績はグロス131、ハンディキャップ36、ネット95で参加19人中17位。銀座のクラブのママも特別参加したが、表彰式は土曜日なのでママの店を借り切って盛り上がる。

4月某日
 図書館で借りた「鴨川食堂」(柏井壽 小学館 2013年11月)を読む。新聞の書評などで結構取り上げられていた本だ。元刑事の鴨川は刑事を辞めたあと、和洋中なんでもありの「鴨川食堂」をオープン。娘の「こいし」が手伝っているが、実はこいしは食堂の奥で探偵事務所をやっている。この探偵事務所、普通の事件は扱わず、依頼人の記憶に残っていて「ぜひもう一度食べたい」と思っている食事を探し出し、再現するという探偵事務所だ。私はこのところ弁当作りに目覚め、「レシピ」の再現は面白く読ませてもらったが、小説としての味付けは今ひとつと感じた。でも作者は京都のカリスマ案内人として有名な人らしく初の小説集ということなのでこれからに期待しよう。

4月某日
 「<働く>は、これから―成熟社会の労働を考える」(猪木武徳編 岩波書店 2014年2月)を読む。現役生活も終盤に差しかかっている私は、この頃とみに「私が私であることの意味」を考える。もちろん結婚して家庭を築いたことも大きな意味である。そして私にとっては「働いてきたこと」も大きな意味を持っているように思う。私自身のことだけでなく、日本社会にとっても「働く」ことの意味を再確認、再定義すべきときに来ているようにも感じる。そんなことから本書を読むことにした。
 杉村芳美は成熟社会にふさわしい働き方として「自分にも全体(組織・社会)にも偏らないこと、個人と全体また他者との相互依存の関係を知ること、特定のイデオロギー・価値観に偏ないこと、経済的な利益を追求しすぎないこと、そして働き方と仕事意識・仕事観の多様性に寛容であること」をあげている。岩井八郎は多様化し個別化する日本人の人生全体に変化をもたらす仕組みとして、すべての日本人が一五歳になると五〇〇万円のライフコース基金が支給され、これを教育資金や職業訓練資金として使える構想を提案する。
 藤村博之は生涯現役社会の実現に向けて、経営者が高齢者雇用の可能性と重要性をしっかりと受け止め、先頭を切って挑戦するようになれば、日本は世界中から尊敬される国になるという。猪木武徳はフランスの思想家トクヴィルの言う「結社」(association)に着目して「個人の生活のためだけではなく、国家のためだけでもなく、その中間に存在する具体的な共同体や組織の共同の利益のために、自発的に働くことに意味と価値を見出す」とする。その具体的な共同体こそ「結社」だとし、そして労働が労働たり得るためには「他人と連携して」「全体のために」という要素がなければならないともいう。
 私がもっとも面白いと感じたのは宇野重規の「労働と地域」の意味論というべき論文であった。宇野は労働の三つの要素「稼ぎ」「仕事」「暮らし」のなかで現代は「稼ぎ」の比重があまりに大きくなっていると指摘する。かつて日本の伝統的な労働概念では、「稼ぎ」にはならなくても、所属する共同体を維持するための諸活動「仕事」があったし、「稼ぎtがなくとも共同体のなかで「暮らし」を継続することも可能であったという。自らの暮らすべき「地域」を見出した人々には「存在論的安心」が確保されているのだ。

4月某日
 SMSのN久保さんからメールで日本社会福祉教育学校連盟の役員名簿が送られてきて「誰か知っている人いますか?」という。もちろん知っている人はいるが「何のために知りたいの?」とSMSに出向く。結局、日本介護福祉士養成協会がいいんじゃないのという話になった。SMSはなかなかいい会社と思うが、自分たちが立脚している医療・介護・看護業界の知識が今ひとつ。だからこそ当社と連携する意味があると思う。三井住友海上の顧問となった元厚労省のM島さんにランチをご馳走になりながらいろいろな話をきかせてもらう。顧問業もしっかりやるとなかなか大変なんだ。結核予防会のT下理事のところに寄り、夕方「葡萄舎」で一杯。

4月某日
 国民年金委員というのを厚生労働大臣から委嘱されている。その千葉県委員会の理事会があるので千葉市に出かける。理事会中に高校の同級生だったS川君からメール。6月に予定していたブルーベリー摘みに行けないというメールだ。そういえばS川君は千葉だったなと思って4時には会議が終わるので千葉で一杯やろうとメール。4時10分前に千葉駅着のメールが来たので会議もそこそこに千葉駅へ。築地日本海で乾杯。韓国の海難事故が話題に。「昔の日本だね」で一致。話が盛り上がっているところへ国民年金委員会のメンバーが店に入ってきた。S木さんが私たちの席に合流。S木さんは一緒に札幌へ出張したとき、私の高校の同級生と一緒に呑んでいるので話はさらに盛り上がった。

4月某日
 川村学園女子大学の学部長からこの4月に副学長になった元厚労省年金局長のY武さんと我孫子で食事。Y武さんが我孫子駅北口のビストロ・ヴァン・ダンジュというフレンチの店を予約してくれた。私には健生財団のO谷常務が同行。5,000円のコース料理を注文したが、これが正解。フォアグラ、鯛の香草焼きなど本格的なフレンチだ。かなり高いワイン、といっても8,000円くらいだが、を頼んで、白ワインを追加。食後のコーヒーも美味しかった。私は我孫子に住んで40年以上たつが我孫子ではほとんど外食したことがない。Y武さんは蕎麦屋などいろいろな店を知っている。私も職を退いたら、我孫子のグルメ巡りを楽しみたい。

4月某日
 去年まで阪大の教授をやっていた元社会保険庁長官のT修三さんからメール。認知症の高齢者が電車に跳ねられ、遺族にJR東海が損害賠償の訴訟を起こしていた件だ。名古屋高裁は妻に約365万円の支払いを命じ、Tさんはこの判決に「怒り心頭」のメールを寄越したわけ。早速、神田明神下の「章太亭」で会うことにする。Tさんは朝日歌壇に掲載されたという「檄にいま「脱原発」を飛ばしたし全共闘は老いたるもなほ」という短歌を「章太亭了解しました」のメールに添えてきた。Tさんも団塊の世代で元東大全共闘という噂。元全共闘と言えば、午前中に早大全共闘の先輩で、自治労書記局から今は「ふるさと回帰支援センター」の事務局長をやっているT橋ハムさんに会って、名古屋の一件について「団塊の世代が動かなきゃ」と訴えた。ハムさんはもちろん賛同してくれた。午後、高田馬場でグループホームを運営しているN村美智代さんにも同様のことを話す。N村さんの夫は医者で数年前にがんで亡くなっている。私は会ったことはないが東大医学部で安田講堂に籠城したメンバーだそうだ。

4月某日
 東海銀行のOBで、亡くなった当社のO前役員と親しかったF谷さんから「O前さんの亡くなる前の様子を知りたい」というメールが入る。F谷さんは南柏に住んでいるので我孫子駅前の「七輪」で会うことにする。5時半の待ち合わせ10分前に行くとF谷さんはすでに来ていた。O前さんの発病から亡くなるまでをメモにして渡す。F谷さんは麻布高校から一浪して早大法学部に進学。私より2、3年上で第一次早大闘争のころは革マルのシンパだったらしい。F谷さんも名古屋の一件には憤慨していた。私が北海道出身で父親が室蘭工業大学の教師をしていたというと、F谷さんの父親も室工大の卒業生だという。世間は狭い。

4月某日
 図書館で借りた「夢に見た娑婆 縮尻鏡三郎」(佐藤雅美 文藝春秋 2012年4月)を読む。有能ではあるが故に大番屋に左遷された縮尻鏡三郎が難事件を解決するシリーズ。今回は食用の鳥を捕獲したり商ったりする鳥問屋をめぐる物語。佐藤雅美の他のシリーズにも言えることだが、時代考証とくに江戸の経済を支える経済的な下部構造と、その上部構造としての法制度や官僚組織の説明が半端ではない。

4月某日
 4月最終日。有楽町の交通会館の「ふるさと回帰支援センター」のT橋ハムさんを訪ねる。前の山口県知事で亡くなった山本繁太郎さんを偲ぶ会の打合せ。次いでHCMに寄り、M社長が休みなのでO橋さんと雑談。17時に会社で健康・生きがい開発財団のO谷常務と実務者研修のeラーニングの打合せ。当社のA堀が同席。知り合いのO嬢が相談があるといってベルギーワッフルを手土産に来社。真面目だから悩むんだよなー。私はほとんど悩みがないというか悩まない。30代、40代に結構重たい(とそのときは思った)鬱病を何回か患ったことが嘘みたいだ。隣の鎌倉橋ビルの「跳人」でO谷常務とO嬢と食事。3人でウヰスキーのボトルを1本近く空ける。今週も呑み過ぎ。

社長の酒中日記 4月

4月某日
 京都嵐山の天龍寺ではこの季節、桜を見る会、観桜会が開催される。観桜会に合わせて厚労省の元次官A沼さんと京都での呑み会をセットしたので行くことにする。住宅情報の元編集長O久保さんもその日は京都にいるというので一緒に呑むことにする。会場はO久保さんにお任せ。午後1時東京駅発の「のぞみ」に乗車、京都駅で山陰本線に乗り換える。嵯峨嵐山が最寄りの駅なのだが、以前だいぶ歩いたことを思い出し、ひと駅手前の太秦からタクシーで行くことにする。しかしこれが大間違い。太秦駅周辺にはタクシーの影さえないではないか。20分くらい歩いて幹線道路に出てしばし空車を待つ。何とか空車にありついたが30分以上も時間をロスしてしまった。芥川賞作家にして禅僧の玄侑宗久の講話も1時間ほど聞き逃す。でも「泥の中にこそハスの花が咲く」という言葉が印象的だった。
 17時から花見の宴が始まる。HCMのH田会長が手配してくれた席に座り。用意された弁当をつまみに日本酒を呑む。1時間ほどで中座し、A沼さんやO久保さんが待っている料理屋へタクシーで向かう。御幸町三条上ルの「つばき」という店だ。タクシーに三条上ルと店の名前を言っただけでタクシーは店の前へ。私ら外の人間からすると京都の地番は分かりにくいが、京都の人にとってはとても分かりやすいのだろうと感心する。美味しい京都料理と日本酒をご馳走になる。カウンター越に料理人のつくる領地をいただくというのは何も京都でなければ味わえないということではないが、京都はまた格別と田舎者の私は思うのであった。

4月某日
 天龍寺で講演を聞いた玄侑宗久の「祈りの作法」(新潮社 2012年7月刊)を読む。玄侑は慶大文学部中国文学科失業後、さまざまな職に就いた後天龍寺道場で修業、現在は福島県三春の臨済宗妙心寺派の福聚寺の住職。もちろん芥川賞受賞作家でもあるのだが、本書は小説じゃなく東日本大震災、とりわけ福島原発事故に見舞われた生々しい被災の記録であると同時に、日本人として今、原発とどう向き合うかを問うていると思う。玄侑は震災後、皇室と自衛隊の存在感が自分の中で大きくなったという。今回の震災で感じられた皇室、とりわけ天皇皇后両陛下の慈愛、そして自らの危険を顧みず救援、捜索にあたった自衛隊の活動については全く同感。そして低線量の放射線とどう付き合っていくか、感情論ではなく、また福島県民の問題ではなく、日本国民全体の課題であることがよくわかった。

4月某日
 今朝の日経新聞の経済教室で松井彰彦という東大教授が「経済なき道徳は戯言であり道徳なき経済は犯罪である」という二宮尊徳の言葉を引いて「道徳と経済原理の融合を」と説いていた。「経済と道徳の融合をわれわれ一人ひとりが心がけ、自分の身近なところから行動を起こせば、日本の潜在力はまだまだ引き出せる」とも書いていた。全く同感である。だが言うは易し、行うは難しである。身近なところからこつこつとやっていくしかないのだろう。私も絶望せずに頑張らなければ。

4月某日
 HCM㈱のO橋取締役とO橋さんの高校の卓球部の後輩、M浦さんと葡萄舎で呑む。O橋さんが後輩で面白いのがいるからとM浦さんを紹介してくれたのだ。M浦さんは高卒後坊都市銀行に就職、その後いくつかの会社の経営に携わっている。私が面白く感じたのは、靴磨きの会社を立ち上げた話。靴磨きのイメージを一新して国際ビルや大手町ビルに出店、料金も1回千円と高めに設定した。店は繁盛したが内紛が発生してM浦さんは追放されたという。M浦さんは靴磨き会社の経営だけでなく、靴磨き技術も修行、「今でも靴磨きは日本で一番旨いと思っています」という。靴の皮の種類や状態によって靴磨きの材料や磨き方を変えるのだそうだ。実にうなずける話であった。この話を民介協のO田専務に話したら「面白い」と言ってくれたうえ、「僕だったらフットマッサージと靴磨きを組み合わせてみたいな」とも。新しいビジネスの可能性があるような気がするが。

4月某日
 愛宕山で花見。6時に愛宕神社あたりでと約束したが、私が大幅に遅刻。メンバーは東急住生活研究所のM月久美子さんと健康生きがい財団のO谷常務、元住文化研究協議会のK原さん、それと当社のI佐。もっともI佐は仕事で花見には参加できず、呑み会から参加。呑み会はHCMのM社長に何度か連れて行ってもらった西新橋の「ぜん」。おいしい日本酒をいただく。

4月某日
 健康生きがい財団のO谷常務と打合せ。石巻の介護事業者「ぱんぷきん」が厚労省の「老人保健健康増進等補助事業」で行った「高齢者『ボランティアマッチング』実践ハンドブック」を見せたらえらく共感していた。打合せ後、神田駅東口の津軽料理の店「跳人」へ。ホタテの貝味噌料理などをいただく。日本酒は田酒、凡など青森の地酒。税理士のH子先生が数人の税理士の先生方と「跳人」に見える。先生にO常務を紹介する。結核予防会のT下常務から携帯に電話。神田駅南口の三州屋にいるという。O常務と別れて三州屋へ。フィスメックのK出社長とFPのW辺さんが同席。4人でスナックへ流れる。フーッ、今週も呑み過ぎ。

4月某日
「てらさふ」(朝倉かすみ 文藝春秋 2014年2月刊)を読む。我孫子図書館のパソコンで新着図書を検索していたら「在庫」となっていたので借りる。朝倉かすみという作者は初めて。1960年北海道生まれだから私より12歳、一回り若い。小樽在住の中学生・堂上弥子と鈴木笑顔瑠(にこる・ニコ)の物語。小説の新人賞への応募原稿を見つけた弥子は、賞をとりやすいように文章を改竄し、ニコが書いたことにして投稿、ついには芥川賞を受賞する。思春期の少女の揺れる心情が巧みに描かれていると思った。文体は「1Q84」の村上春樹を連想させる(と私は思った)。ファンタジーではあるが、私はなにか「STAP細胞」の小保方さんや佐村河内の騒動ともつなげて考えてしまう。小説とは別に本当の「真贋」ってなんだろうと思う。

4月某日
 民介協のO田専務と○○で焼酎を呑む。O田専務は県立奈良商業高校から富士銀行に就職、高卒ながら支店長を勤め、介護業界に出向そのまま転籍して訪問入浴の会社経営にあたり、現在に至っている。高卒で都銀の支店長を勤めただけあってなかなかの人物で、介護業界にも幅広い人脈を持っている。この日もいろいろと面白い話を聞けた。今週末、ゴルフに誘ったら「いいよ」とのこと。一緒に行くT根さんに浦安の家まで迎えに行ってもらうことにする。呑んでいる最中にそのT根さんから電話。待ち合わせ場所を決める。

4月某日
 成田のレイクウッド総成ゴルフクラブでゴルフ。メンバーは元厚労省のS継さん、Y武さん、T根さん、元社会保険庁のS木さん、N西さん、元報知新聞のKさん、民介協のO田専務、それに私。元報知のKさんは湯島のスナック、マルルでママに「こちら報知新聞の前の社長のKさん」と紹介されたのが始まり。私が「記者のときの担当はどこですか?巨人軍?」と聞いたら「読売の社会部で厚生省を担当していました」というではないか。それで「へぇ、そのときの広報室長は誰でした?」と重ねて聞くと「Y武さんです」と。私を初めてマルルに連れて来たのはY武さんなので不思議な偶然にびっくり。
 このゴルフ場には何度か来たことがあるが、植栽が丁寧に手入れされており、おまけにグリーンも十分に手入れされていて「速い」のが特徴。T根さんがメンバーで、今日はT根さんの誕生日ということで特別料金でプレーできる。おまけに帰りには参加賞までいただいてしまう。

4月某日
 町屋の「ときわ」で「介護ユーアイ」のI上さんとU木社長と待ち合わせ。I上さんは私と同い年、U木社長は1年か2年下で学生時代、同じ練馬区江古田の国際学寮で過ごした仲。U木社長は上智大学を卒業後、いろいろな職業を転々とした後、鍼灸専門学校で鍼灸師の資格を得、介護保険スタート時にケアマネージャーの資格も取得、訪問介護事業所を荒川区で開設した。I上さんは東京教育大学を卒業後、電通に入社、電通を定年で辞めた後、U木社長のもとで利用者の送迎をやっている。I上さんは送迎の仕事のなかで介護現場で働く仲間と出会い、いろいろな利用者と向き合う中で、新しい何かを発見したようだ。「けあZINE」への執筆を依頼する。今週も呑み過ぎだが我孫子駅前の「愛花」に寄る。

4月某日
「言い寄る」(田辺聖子)を読む。私は同じ小説を何度も読むということはほとんどしないのだが、田辺聖子だけは別。「言い寄る」も確か2回目。この小説の初出は「週刊大衆」の昭和48年の7月~12月までの連載小説。単行本は49年11月に文芸春秋から。文庫は53年8月に文春文庫で出ている。私が最初に読んだのはたぶん図書館で借りた集英社の「田辺聖子全集6」だと思う。31歳の独身のデザイナー乃里子が主人公。40年近く前に書かれた小説だが中身は全然古くなっていない。恋愛の切なさ、ときめきがときにユーモアを交え伝わってくる。で田辺は恋愛を描く一方で男性に従属しない女性の生き方を提案しているように思う。それも上から目線ではなく、自立して生きるということの困難さと困難を経た後の歓びの等身大の実像を伝えているような気がする。

社長の酒中日記 3月

3月某日
 HCM社のM社長が富国生命の後輩、Y崎さんの部長昇格祝いの呑み会をするというので便乗することに。HCM社の近くの焼き鳥屋「南部どり」へ。2人で始めているとほどなくY崎さんが来たので乾杯。そしてやはりMさんの後輩で、今度常務に昇格するというS井さんも見えたのでまた乾杯。S井さんは初対面だが、札幌出身で大学は弘前大学だそうだ。私の知っている富国生命の社員は、だいたいが体育会系のノリで良く呑む。後半、富国倶楽部の美人のお姉さんも現れて、座は一層盛り上がった。

3月某日
 幼馴染の佐藤正輝が出張で東京に来るというので、首都圏周辺の高校の同級生に声を掛けたら8人ほどが集まった。正輝は専門学校でコンピュータを学び、現在は札幌でシステム会社を経営している。その他はやはり幼馴染で舞台照明をやっている山本や、青学を出てJALのパーサーになった上野、北大工学部から出光興産に入った品川、確か青学の工学部を出て家具メーカーに入社した益田が来た。女子は中田さんら3人が参加した。女子の一人が百合丘で都市農業をやっていて今度、ブルーベリーを摘みに行くことにする。

3月某日
 かねてすい臓がんで入院加療中だった当社役員の大前幸さんが入院先の病院で亡くなる。昨夜遅く亡くなったということで、亡くなったことを知らず病院に行ったら、看護師さんに亡くなったことを告げられ、病院の近くの自宅に弔問へ。死に顔を拝ませてもらったが眠っているようだった。通夜、告別式は出張が入っているので欠席することにした。出張を延期することもできたのだが、泣き顔を知り合いに見られるのが嫌さに欠席とした。大阪でグループ経営会議に出席後、京都で阿曽沼さんに会って、酒をご馳走になりなぐさめ、励まされる。大前さんとは大前さんが新宿のクラブ「ジャックの豆の木」に出ていた頃からだからもう30年以上になる。当社に入社してからだって30年近くなる。私が社長になってから10年以上も私の片腕だった。というか存在感は大前さんの方が私よりもはるかにあって、むしろ私が「片腕」。本体が亡くなって「片腕」だけでどうやって生きて行こうか。しかし私も65歳になって、去年は畏友高原さんが死に今年は大前さんが死んでしまった。歳をとるというのはこういうことなのだ。

3月某日
 厚労省の元局長で今は内閣で「税と社会保障の一体改革」に取り組んでいるN村さんと白梅女子大学の教授で毎日新聞の元論説委員のY路さん、それに自治労の元副委員長で現在は横浜の寿町で介護のNPOの理事長をやっているT茂さんと会社近くのそばや「周」(あまね)で呑む。4人はたまに会って呑む仲だが、最初はどういう集まりだったか、記憶にない。実はY路さんは私も学生時代お世話になった江古田の国際学寮出身。寮にいるときは重ならなかったようだが、U木さんのことなど良く知っているそうだ。T茂さんは同じ自治労で早稲田の反戦連合だったT橋さんの紹介。当社のS田も遅れて参加。

3月某日
 田町の「女性就業支援センターホール」で全国介護事業者協議会の研修会が開催されるので参加。この研修会は何度か参加させてもらったことがあるが、発表者の真摯な態度にいつも感心する。私は「せんだい医療・福祉多職種連携ネットワーク~ささかまhands」の事例の報告が面白かった。個人のネットワークを顔の見える関係から着実に広げていくというのが目新しい。佐藤副理事長やカラーズの田尻さん、扇田専務に挨拶して、約束があったので中座して西国分寺へ。西国分寺の「味の山家」で呑む。

3月某日
 山口県知事を病気で1月に辞めた山本繁太郎さんが亡くなった。肺がんだった。山本さんは国土交通省出身で自治労の執行委員だった高橋ハムさんや「ケアセンターやわらぎ」の石川治江さんと旧厚生省の辻さんや吉武さん、旧建設省の小川冨吉さんや水流さんなどが参加する「シャイの会」の有力メンバーだった。うるさ型が多い中でどちらかというと他人の話をじっくり聞くタイプで、退官後、衆議院選挙に2度挑戦したが、2度とも惜敗。山口県知事選に当選後、間もなく病に倒れた。以前「国会議員よりも知事がやりたかった」と話したことを覚えている。思い半ばでの死は無念だったろうと思う。合掌。

3月某日
 「コンプライアンス革命―コンプライアンス=法令順守が招いた企業の危機」(郷原信郎著 文芸社 2005年6月)を読む。著者の郷原は東大理学部から三井鉱山に入社、半年で辞めて司法試験に合格、検事に任官したという経歴の持ち主。郷原の言いたかったことは「真のコンプライアンスを実現するためには、組織の構成員一人ひとりが組織内の慣行に流されず、自分たちが社会から求められているものを敏感に受け止め、問題意識を持ち、そのつどコンプライアンス対応を考えて実行することが必要である」ということだ。そのためには「法令順守コンプライアンス」ではなく「法令に適応し、法令の背後にある社会的要請に適応していくことがコンプライアンスの本質」ととらえなければならないという。なるほどと思う。そして当社にとっては、コンプライアンスと同時にコーポレート・ガバナンスも極めて重要な課題となってくるように思う。

3月某日
 社会保険研究所とその子会社である当社は、公的年金制度や健康保険、つまりは社会保険をベースにしたビジネスモデルを築いてきた。しかし公的年金制度は高齢化にともない給付に重点が移っているし、そもそも社会保険庁が解体されてから日本年金機構が発足してもPR予算は絞られたまま。厚生年金基金は10年以内の解散が決まっているし、健保組合も厳しい財政状況が続いている。つまりビジネスとして「延び代」があまりないのだ。ただ社会保険は社会保障の一部である。社会保障全般で見れば医療、介護、福祉など延び代はまだまだあるように思う。そんなことから、社会保険研究所グループで「社会保障研究会」を組織することにした。第1回は元年金局長で現在、川村学園の現代創造学部の学部長をやっている吉武さんにお願いすることにした。

3月某日
 吉武さんと「社会保障研究会」の打合せで我孫子へ。吉武さんの勤め先の川村学園が我孫子にあり、吉武さんも私も我孫子だからという理由。我孫子のレストラン「コ・ビアン」で6時の待ち合わせ。電車の中に吉武さんから電話があり教授会の関係で30分ほど遅れるとのこと。私は予定通りコ・ビアンの新しい方の店へ。コ・ビアンは数年前に我孫子のメインストリートに新店がオープンした。そもそもコ・ビアンという名前はABIKOを逆さまにしてKOBIANとしたところから付けたらしい。日本酒とサラミとチーズを頼んで待つことにする。今まで店内をゆっくり見ることはなかったが、壁を見回すと私の正面にダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が掲げられていて。改めて店内を見渡すと、宗教画と思しき絵が数枚掛けられていた。絵のほかにも何かそれらしき石膏像が何点か飾られている。へー、なかなか文化的なんだ、と思っていると吉武さん登場。赤ワインを1本頼む。赤ワインが1本なんと700円!またたくまに1本を飲み干し、2本目に。私はハンバーグを頼んだが、どんな味だったか良く覚えていない。打合せた内容もおぼろ…。

3月某日
 「市場社会の思想史―『自由』をどう解釈するか」(間宮陽介 中公新書 1999年3月)を読む。間宮氏は元阪大教授で元厚労官僚のTさんの高校の同級生ということで、この前3人で呑んだ。間宮さんは東大経済学部、大学院で学んだあと神奈川大学に勤め、最後は京都大学で教授を務めた。で、間宮さんに会うというので急遽、間宮さんの本を図書館で借りたというわけ。新書とは言え、経済学は門外漢の私には少々敷居が高く、間宮さんに会った時には半分も読めていなかった。というわけで今回やっと読了。感想を述べるほど読み込んだわけではないので印象に残った文章を書き写そう。
 「彼ら(ウェブレンとケインズ)は自由放任を市場経済の枠のなかで批判したのではなく、貨幣経済を背景において批判したのである。自由放任の経済は経済の金融化を促し、それが産業としての経済を不安定化させ、弱体化させる」。これはまさに日本経済のバブルとその崩壊を言い当てているように思える。そして「二度にわたるオイル・ショックが経済成長を鈍化させた結果、財政赤字が深刻な問題となり、その元凶がケインズ主義の総需要管理政策に、さらには大本のケインズ理論にあり、と論じられるようになってきた。代わって台頭してきたのがマネタリズムや合理的期待学派など、人間の合理性に全幅の信頼を置き、政府の諸規制を緩和して経済主体の自由度を最大限まで高めようとする経済学であった。彼らの合言葉は『自由化』『規制緩和』『小さな政府』といった自由放任主義の金科玉条であった」。
 さらに「そしていまや、自由のインフレーションに対して再度疑念が呈せられつつある。レーガノミックスやサッチャリズムは社会的不公正を増大させずにはおかなかった。また東西冷戦構造の崩壊後、人々の目は地球環境問題に向き始めている。地球環境を保護するためには企業や消費者の『自由』を直接間接に制限せざるを得ないだろう」とも言っている。なるほどなー。ちなみに間宮さんは東大闘争の頃、反帝学評の青いヘルメット被っていたそうだが、今度またTさんと3人で呑みたいものだ。