モリちゃんの酒中日記 1月その3

1月某日
「トーキョー・キル」(バリー・ランセット 白石朗訳 2022年11月 集英社)を読む。四六判ハードカバーで本文だけで400ページを優に超える。定価は税別3000円。いわゆるハードボイルド、図書館で借りなければ私はまず読むことはない本だ。読み終えるのに3日かかったが、実に面白かった。粗筋は巻末に付されている解説(杉江松恋)に述べられているので、それをさらに削って紹介する。主人公のジム・ブローディは両親ともにアメリカ人だが、17歳まで東京で育つ。父親は東京では初の調査とセキュリティ全般の探偵社を起業する。ブローディは長じてサンフランシスコで古美術商を開業するが、父からは探偵社の経営権も遺贈される。ブローディは第2次世界大戦中に日本軍の士官として満洲に赴任した過去がある三浦晃から身辺警護を依頼される。いくつかの殺人事件が起こり、ブローディにも危険が及ぶ。事件の全体像は物語の最終部に明らかにされるが、ここでは満洲国皇帝の溥儀の隠された財宝を巡るとだけ明かしておこう。竹刀や日本刀によるアクションシーンはなかなかのものでした。

1月某日
庭の金柑の木から実を収穫。奥さんと二人で1時間、3分の2ほどを取り終える。残りはリクエストしていた友人のために残しておく。金柑の実を水洗いして金柑酒造りに挑戦する。果実酒ブランデーに漬け、3カ月ほどで熟成するらしい。今年は4月に夏みかん酒、11月には柚木酒に挑戦したい。

1月某日
「きみはポラリス」(三浦しをん 新潮文庫 2011年3月)を読む。新潮文庫は発行年を平成、令和という元号で記している。本書も奥付では平成23年となっていたのを「ほぼ日手帳」の「満年齢早見表」をみて、西暦に書き換えた。平成23年って2011年だったんだ。しかも3月、東日本大震災があったときである。あの日からもうすぐ12年になるわけね。三浦しをんは1976(昭和51)年生まれ。昭和の場合は昭和の年数に25を加えると西暦の2桁になる。たとえば終戦の年、昭和20年は25加えて45、すなわち1945年である。さて解説(中村うさぎ)によると、本書にはさまざまな形の「恋愛」をテーマにした11の短編が収められている。男同士の「恋愛」だったり、1日限りの車泥棒と車に紛れ込んだ8歳の少女との「恋愛」だったり。この歳の差恋愛は「冬の一等星」というタイトルで、中村うさぎも「私の一番好きな作品」としている。私も同じです。

1月某日
「すれ違う背中を」(乃南アサ 新潮文庫 2012年12月)を読む。前科者(前持ち)二人組女子の物語。前作「いつか陽のあたる場所で」に続くシリーズ2作目。芭子はホストに貢ぐためにカード詐欺を働き、綾香はドメスティックバイオレンスから逃れるために夫を殺害、それぞれ懲役刑を済ませて出所、根津界隈で綾香はパン職人の修業中、芭子はペットショップでバイト中。本作で芭子は愛犬用のチョッキなどの服飾作家としての才能を発揮する。乃南アサには「女刑事音道貴子」シリーズがあるが、こちらは「前持ち二人組」シリーズ。私も学生運動で留置所の経験があるが、そこで出会ったいわゆる犯罪者にも悪い人はいなかった。社会人になってからも学生運動、労働運動で刑務所に行った人や、普通の犯罪(傷害や公務執行妨害など)で刑務所に行った人と知り合ったが、普通人と何ら変わりなかった。むしろ人の好い人が多かった気がする。綾香と芭子も「人の好さ」にかけては人後に落ちない。むしろ「人の好さ」故に様々な「事件」に巻き込まれていく。乃南アサは多彩な作家で様々な人生模様を描くが、私は「前持ち二人組シリーズ」のような人生肯定モノが好きですね。

1月某日
前の会社で一緒だった石津さんと呑みに行く約束をしていたら第一生命の営業ウーマンの本間さんも一緒に行くことになった。本間さんの指定は八丁堀の「串武」という焼き鳥屋。八丁堀は以前付き合いがあったCIMドクターズネットワークの事務所があったところで、私には多少土地勘がある。18時スタートということだが、少し早く地下鉄の駅に着いたので近所を散策する。早稲田大学が社会人向けのスクールを開設している早稲田大学エクステンション講座も近くだ。私も10数年前、貸借対照表や損益計算書の読み方を学びに3カ月くらい通った経験がある。それから1階がお酒や食料品売り場で2階がバーになっている店も健在だった。「串武」では本間さんにお刺身や焼き鳥、焼酎をご馳走になる。

1月某日
「トリップ」(角田光代 光文社文庫 2007年2月)を読む。日本の東京から私鉄で2時間ほどの中都市が舞台の短編集。そこで暮らす普通の人々が各短編の主人公だ。「普通の人々」というのが角田文学の肝ではないかと私は思っている。「八月の蝉」では普通のOLが愛人の生まれたばかりの赤ん坊を誘拐、我が子として育てる話である。普通のOLは誘拐という犯罪を犯したりはしない。しかし私は誰にでも犯罪を犯す可能性はあるのではないかと思う。乃南アサの「すれ違う背中を」の二人組の主人公も前科持ちだったし。「トリップ」の主人公たちも犯罪は犯さない。LSDを常習する主婦いたけれどね。でもこれは普通の主婦がLSDに親しんでいるという話だ。つまり普通の日常こそに小説の種は潜んでいるということなのだ。

1月某日
「可能性としての戦後以降」(加藤典洋 岩波現代文庫 2020年4月)を読む。加藤典洋は1948-2019年、明治学院大学教授、早稲田大学教授を務めた。加藤典洋の本はよく読むほうだが、私にとって難解である場合が多い。なのになぜ読むかというと、テーマが私にとって魅力的だからだ。本書の最初の論文「『日本人』の成立」も「日本人とは何か?」を含む魅力的かつ難解なテーマではある。日本列島には稲作が始まる遥か以前から人間が居住していた。その人たちは日本人という意識はなかったと思われる。ひとが自分の所属を○○人と意識するのは他国の人、他言語を発する人を意識してからと思われる。中国の歴史書「三国志魏志倭人伝」に日本のことが倭、そこに住む人が倭人として紹介されている。当時の倭国の指導者は中国の皇帝から冊封されることによって自らの権力の正統性を確認し、被支配者層にも確認させたものと思われる。のちに大和王権も推古天皇のとき、聖徳太子が「日出ずる処の天子、日没する処の天子へ」と書簡を送り、日本列島にも中国大陸と同等の王朝=皇帝が存在することを宣言した。これを中国の皇帝政府がどう認識したか、正確には分からない。加藤典洋の本は難解ではある。しかしそれだけ私の知的好奇心を刺激してくれることは確かである。亡くなったのが惜しまれる。

モリちゃんの酒中日記 1月その2

1月某日
「帝国軍人-公文書、私文書、オーラルヒストリーからみる」(戸高一成×大木毅 角川新書 2020年7月)を読む。大木毅は以前、「独ソ戦」(岩波新書)を読んだ。この本は後に「新書大賞」を受賞している。第2次大戦のヨーロッパ戦線の専門家と思っていたが、本書を読むと戦前の帝国陸海軍、さらに草創期の自衛隊にも詳しいことがわかる。戸高一成は呉市海軍歴史科学館(大和ミュージアム)館長。本書には普通の歴史書には書かれていないことも語られていて面白かった。例えば「陸海空の自衛隊の中で『我々は旧軍の後継者である』といっているのは海自だけです」(大木)「堂々と言ってましたね…旧海軍の歴史を正しく継承する組織だという認識がある」(戸高)。さらに「情報を得る能力はもちろん必要ですが、それを判断する能力のほうがさらに重要です。日本は陸海軍とも、願望に沿った情報を重視するという、はなはだ情けないことをしています」(戸高)の発言には現代に通じるものがある。

1月某日
11時30分に予約していたマッサージ店へ行く。15分のマッサージ+15分の電気治療。今日は最高気温が9度で寒い。その上風が冷たく強い。寒さに耐えながら帰宅。お昼は奥さんの作ってくれたチャーハンを頂く。午後、昨日から読み進んでいた「日本の新宗教」(島田裕巳 角川選書 平成29年9月)を読む。島田は1953年生まれの宗教学者。今は安倍元首相の銃撃事件を受けて旧統一教会が問題になっているが、30年前は地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教が大きな問題だった。だからといって新宗教のすべてに問題があるというわけでもない。むしろ旧宗教(日本の場合は神道、仏教、キリスト教)を革新させる過程で新宗教が生まれたケースは少なくない。キリスト教も誕生した当初はユダヤ教の革新派としての新宗教の側面があった。本書で面白いと感じたのは明治以降の国家神道を新宗教と断定していることだ。明治維新の復古派は神道の国教化を目論んだがそれはかなわなかった。新宗教として生き残りを図ったということだろう。創価学会の2代目会長の戸田城聖は大変ビジネス感覚に優れた人であったなど興味深いエピソードも。ただ天理教、立正佼成会、PL教団など多くの新宗教が信者の数を減らしていることも明らかにされている。創価学会も信者の高齢化が言われている。

1月某日
「祝宴」(温又柔 新潮社 2022年11月)を読む。温又柔は台湾生まれ、日本育ち。ウィキペディアによると都立飛鳥高、法政大学国際文化学部、同大学国際文化専攻修士課程修了。学部では川村湊、大学院ではリービ英雄のゼミに所属となっている。以前、「魯肉飯のさえずり」を面白く読んだ記憶がある。本書を読んで台湾という国の複雑な来歴、台湾人の微妙な帰属意識を感じることができた。台北に本社のあるIT関連会社の社長の明虎(ミンフー)とその家族(妻、2人の娘)と親族の物語。明虎は妻と幼い長女と3人で来日、後に次女が生まれる。現在は台北に本社のあるIT企業の社長で東京、台北、上海などを飛び歩いている。長女と次女は日本語を母語のように話すが、明虎と妻は日本語は話せるものの母語はあくまでも台湾語である。おまけに明虎の父は大陸から来た外省人のため明虎は北京語も話せる。本書のテーマの一つは言語とコミュニケーションだ。印象に残ったシーンとして台北の超一流ホテルが、日本統治時代に伊勢神宮をモデルにつくった台湾神社の跡地に建てられたことに対して長女が「日本の神社なのに、台湾神社、だなんてね」とつぶやくシーンだ(正確には娘がつぶやくのを明虎が思い出すシーン)。これは長女が自分のアイデンティティに不安を感じる表象でもあるわけだ。中国に留学した長女の想い。-上海に留学してはっきり気づいたの。わたしはどこに行っても、ヨソモノでしかないんだって。これは台湾で生まれ日本で育って、中国に留学した長女の想いでもあるし、中国本土から逃れてきた外省人の想いでもある。それは恐らく現在、世界各地に逃れているウクライナの人の想いでもあるだろう。

1月某日
「げんきな日本論」(橋爪大三郎×大澤真幸 講談社現代新書 2016年10月)を読む。日本の歴史を縄文時代から幕末、明治維新までを二人の社会学者が語り合う。社会学者が語り合ったって歴史が変わるわけではないが、何でそうなったのか?というか歴史の解釈の仕方がかなり独特で私には面白かった。日本の天皇制は仮に5世紀くらいに成立したとすると1500~1600年くらい続いていることになる。これは現存する王制としては世界に例のない古さである。天皇制の根拠は神話である。天照大神の子孫が日本を統治するように高天原から降臨したわけだ。中国の王朝は天が命じる。革命という言葉は天命が革まるという意味である。天皇家には姓がない。中国の皇帝には姓がある。清王朝は満州族の愛新覚羅、漢王朝は漢民族の劉という具合だ。というか王家に姓があるのが普通でロシアのロマノフ、フランスのルイなどといった姓がある。日本の社会や政治制度、文化は中国大陸や朝鮮半島の影響を受けつつも非常に独特な形で発展してきたことがよくわかる本である。

1月某日
「近所の犬」(姫野カオルコ 幻冬舎文庫 平成29年12月)を読む。姫野カオルコは1958年滋賀県甲賀市生まれ、県立八日市高校を経て青山学院大学文学部日本文学科卒業。「昭和の犬」で直木賞受賞。「はじめに」によると「前作『昭和の犬』は自伝的要素の強い小説、『近所の犬』は私小説である」。どこがちがうか。「私小説のほうが、事実度が大きく」、カメラ(視点)の位置も語り手の目に固定されているそうである。「私」が「近所の犬」及びその飼い主との出会いについて綴るまさにタイトル通りの私小説である。爺さんに連れられたラニ(ゴールデン・レドリバー)に出会う章を読んでいたとき、「あっこの話は読んだことがある」と気づく。爺さんは昭和元年生まれでぎりぎり召集されなかった。大学は明治で卒業後、進駐軍関係のアルバイトをした後、小さな出版社を起業してエロ本を出版、そこそこもうけて家を建てた。このストーリーは覚えている。ところが、これ以外はまったく覚えていない。どういうこと?

モリちゃんの酒中日記 1月その1

1月某日
「明治維新を考える」(三谷博 有志舎 2006年8月)を読む。三谷博は1950年生まれ、72年に東大国史学科卒、78年に同大学院博士課程単位取得退学。東京大学教授を2015年に定年退職。ウイキペディアに「共産党から離脱した反共産主義・保守派の伊藤隆と佐藤誠三郎に師事する」と記載されている。しかし菅義偉首相に日本学術会議会員への選任を拒否された加藤陽子東大教授も伊藤隆夫門下であることからすると、門下生が師匠と同じ思想傾向をとるとは限らない。事実、本書を読んで私は三谷博にリベラルの風を感じた。著者の日中戦争観は、8年という長期間、主要な中国領の主要部で戦われ、軍隊だけでなく、庶民も当事者となり、戦火と徴発、しばしば殺戮とレイプが行われたという、私からすると至極、真っ当な歴史観である。そしてまた私の保有していた歴史観に修正を迫るものであった。例えば日本の朱子学受容に関して私は江戸時代、朱子学は幕府公認とされ官学の大道を歩んでいたと理解していた。しかし朱子学を徹底的に受け入れた朝鮮と違って、その受容に最も抵抗したのが日本という。そして日本の朱子学受容は、明治天皇による教育勅語の発布と、高等文官試験の実施(プロイセンの官僚制を媒介にした科挙の受容)ということになる。日本が朝鮮や清国と違って、一応の近代化を果たせたのは「近隣2国と同じく閉鎖的な体制をとりながら、エリートが外部にある西洋や世界に対して注意を向け続け、外部環境が変化した場合に鋭敏な対応ができるようになっていた」からという。勝海舟や坂本龍馬、福沢諭吉などが代表的な例だろう。これからは私の想像だが松下村塾や福沢の学んだ適塾、さらに竜馬が通った北辰一刀流の道場など、私塾や剣道場(いずれも官立ではない)が幕末に幕臣や重臣層の子弟だけでなく、下級武士や浪人にも開かれていたことも大きいのではないか。つまり勉学における機会均等である。
ネットで検索していたら伊藤隆のインタビューがあった。先生は新聞は産経新聞1紙を購読するのみでテレビは「YOUは何しにニッポンへ」「私が日本に住む理由」「ポツンと一軒家」を好んで観るそうである。ちなみにこの3つの番組は私も好きで観ている。先生、88歳、意外といい人かもしれない。

1月某日
「夢も見ずに眠った。」(絲山秋子 河出文庫 2022年11月)を読む。かつて絲山秋子が双極性障害(躁うつ病)を患っていたことはよく知られているし、彼女の小説にもうつ病患者が登場するケースがある。本書はエリート銀行員の沙和子と沙和子の夫で双極性障害の高之の物語であり。話の途中でふたりは離婚し沙和子も銀行を辞めるのだが、ストーリーは淡々と続く。「淡々と」というのが絲山文学の魅力の一つと私は思っている。しかし「淡々と」した日常の中でふたりの感情は微妙に行違う。離婚したふたりは最終章で山陰へ旅をする。「なにもかもが愛しい。そう思うことは一瞬でも、重みは永遠に等しいのだった。同じ場所にいることは、かけがえのないことなのだった」という文章は、ふたりの愛の復活を示していないだろうか。

1月某日
「私の1960年代」(山本義隆 金曜日 2015年10月)を読む。山本義隆は東大全共闘の元代表、東大闘争のときは東大物理学の大学院博士課程に在学中だった。闘争終息後も大学には戻らず駿台予備校で講師を務めるなどした。山本は1941年大阪生まれ。60年に大阪の大手前高校を卒業し東大に入学。64年に東大物理学科を卒業。物理学科に進学したころ大管法闘争に参加している。この闘争は「当時の東大自治会中央委員会の議長をしていた医学部の今井潔君、そして理学部の豊浦清君が指導した」(4 62年の大学管理法反対闘争)と記載されている。豊浦さんは晩年、社会保険研究所の関連会社の役員をやっていて私も親しくさせてもらった。第2次ブンドやML同盟の政治局員を務めた「偉い人」なのだが、偉ぶることのまったくない人だった。豊浦さんを偲ぶ会に私も出席したが、そういえば山本義隆も来ていたように思う。東大全共闘を担ったのは山本義隆のような大学院生や助手だった。それが東大闘争の幅と厚みを支えたのかも知れない。69年の3月に始まった早大闘争は学部の1年と2年が主体だったからね。とにかく「革マル粉砕!」が最優先、大学解体や安保粉砕も叫んでいたが中身はなかった。

1月某日
11時30分にマッサージを予約しているので近所のマッサージ店へ。ここは健康保険が適用されるので1回の料金は450円。マッサージを終えて帰宅、簡単な昼食をとって市立図書館へ行き「私の1960年代」を返却。新着の黒川創の小説を借りる。図書館2階の学習コーナーで読書。図書館から10数分歩いて駅前の関野酒店でバーボンウイスキーを購入、駅前からバスに乗って帰宅。

1月某日
「耳の叔母」(村田喜代子 書肆侃侃房 2022年10月)を読む。村田喜代子は1945年北九州市生まれ。中学校を卒業後、鉄工所に就職。結婚後、2児を育てながら小説を書き始める。戦後生まれで中卒作家というのは珍しい。私の知るところ昨年亡くなった西村賢太くらいか。村田は日本芸術院会員にも選ばれているし確か勲章も受賞している。勲章も芸術院の会員も文学的な価値とは関係ないと思うが、それと同じように学歴も関係ないと私は思う。村田の中編や長編小説は面白く読んだ記憶があるが、短編は初めてじゃないかな。長編でもそうだが、村田が描くのはもっぱら庶民。それも九州あたりの土着庶民だ。私は中学生の「わたし」と転校生の「トモエ」の交情を描いた「雷蔵の闇」と「わたし」の出産経験をもとにした「花影助産院」がお気に入り。図書館で借りたこの本は人気があるらしく「読み終わったらなるべく早くお返しください」の黄色い紙が貼られている。これから返してきます。

モリちゃんの酒中日記 12月その4

12月某日
大学時代、サークルで一緒だった森幹夫君と東京駅丸の内中央口で5時に待ち合わせ。千代田線の大手町から乃木坂へ。乃木坂のフレンチレストラン「シャルトル―ス」へ。このレストランは森君の娘さんの夫がオーナーシェフで、娘さんが営業と給仕役を担っている。今日はクリスマスイブの土曜日で満員の盛況。私たちが所属していたサークルは「ロシヤ語研究会」で大隈講堂の裏にプレハブの部室だった。森君は理工学部、私は政経学部だったが、二人ともロシヤ語の勉強は全然しなかった。ロシヤ語以外の学業にもまったく熱が入らなかった。授業に出はなくともサークルの部室で駄弁ったり、麻雀の面子を捜していた。森君はブンド、共産主義者同盟の活動家で大学を中退後も続けていた。森君と結婚したのが尾崎絹江さんで確か私たちが4年生のとき、法学部へ入学、ロシヤ語研究会にも入部してきた。絹江さんもブンドの活動家になった後、フリーライターとして活躍した。本も何冊か出していた。残念なことに数年前に乳がんで亡くなった。
森君の実家は大阪のタバコ屋で、森君は現在は実家で暮らしている。関西電力への反原発の抗議行動など現在も活動中だ。レストランはクリスマスイブということもあってカップルが多かったが、私たちの話題はもっぱら前世紀のサークルや学生運動についてだった。私が入学した政経学部の学友会の執行部は社青同解放派が握っていたから、私もさして考えることもなく同派の青ヘルメットを被ってデモに行っていた。68年の12月に革マル派によって早稲田を追われた解放派は東大駒場の教育会館に立て籠り、革マル派とお互いに全国動員で対峙した。翌年の4月17日、解放派と中核派、反戦連合などの部隊が、革マル派の戒厳令を突破、本部封鎖に成功する。4.28の沖縄デーでブントの森君は逮捕され、北千住署に留置される。同じ警察署に留置されていたのが勝っちゃんこと水野勝吉さんで、水野さんは警官と口論、公務執行妨害で逮捕されていた。留置所内で水野さんは警官から暴行を受けるが、水野さんは警官を告訴、森君は裁判で証言することになる。その縁で私たちは水野さんのもとで土方のアルバイトをすることになる。レストランで常連客らしき人から焼き菓子をもらう。東京から浦和へ向かう森君と霞が関で別れ、私は真っ直ぐ我孫子へ。

12月某日
「昭和史講義」【戦後篇】(上)(筒井清忠編 ちくま新書 2020年10月)を読む。岸田政権は現在、防衛費を増額しその財源を増税で賄おうとしている。私からすると立法府たる国会での議論がなされないままに決められようとしていることに納得が行かない。本書は戦後改革、東京裁判、吉田茂内閣、再軍備から自衛隊創設まで、サンフランシスコ講和条約・日米安保条約、砂川闘争・基地問題、戦後賠償問題など20のテーマで戦後史を概観する。私は占領軍によって与えられた民主主義を、日本国民がとまどいながらも我がものとしていく姿を垣間見た思いがした。岸田政権の現在の姿はその思いを踏みにじるものではないだろうか。私たちは先の大戦で膨大な人命、財産を失った。その犠牲のもとに現在の繫栄があることを忘れてはならないと思う。本来の自民党は「軽武装、経済発展重視」という思想だったはず。岸田首相の属する宏池会にはとくにその伝統が色濃かった。防衛は軍事だけではなされない。外交や経済、文化の交流などと併せて考えるべきものと思う。「軍事費増強に舵を切った政権」と歴史に刻まれてもいいんですか?岸田さん。

12月某日
我孫子から上野-東京ラインで東京駅へ。東京駅から歩いて東京サンケイビルの24階にある北洋銀行東京支店で送金手続きをする。親切な銀行マンが手伝ってくれる。東京サンケイビルから内神田の社保研ティラーレへ、吉高会長と懇談。社保研ティラーレを出ると15時を過ぎていた。昼食をとるのを忘れていたが神田駅から上野経由で我孫子へ。駅前の「しちりん」に寄る。「豚耳」「国産ニンニクオイル焼き」「五目ひじき煮」を注文。これが今日のランチ。

12月某日
「秘密の花園」(三浦しをん 新潮文庫 平成19年3月)を読む。横浜の中高一貫のカトリック系女子高校に通う3人の少女、那由多、淑子、翠。この3人が語る日常がストーリーである。ウイキペディアによると三浦は横浜雙葉中学校・高等学校を卒業後、早稲田大学第一文学部へ入学している。とすると3人の女子高生の日常は三浦の体験とそこから来る想像力によって描かれていると思う。三浦にとっては初期の作品。私にとって三浦はユーモアを絡ませた作風が特徴なのだが、本作はそれが薄い。もちろんにじみ出てくるユーモアはあるのだが。病院院長の娘で鎌倉の邸宅に住む淑子、サラリーマンの娘で横浜線沿線のマンションに住む那由多、東横線沿線の商店街の本屋の娘である翠。3人の性格分けが面白い。

12月某日
「敗者の想像力」(加藤典洋 集英社新書 2017年5月)を読む。加藤典洋の本は私にとって難解、でも好きで読んでしまう。加藤は1948年生まれだから私と同年だが、確か早生まれなので学年は1年上。残念ながら2019年5月に亡くなっている。本書もそうだが、加藤は日本の敗戦にこだわった思想家である。「敗戦後論」という著作もある。「敗者の想像力」とは、「自分が敗者というような経験と自覚をもっていないと、なかなか手に入らないものの見方、感じ方、考え方、視力のようなもの」(はじめに)である。このことを加藤は安岡章太郎や多田道太郎、吉本隆明や鶴見俊輔などの著作から読み解いて行く。面白いのは、その論が映画「ゴジラ」やアニメ「千と千尋の神隠し」にまで及んでいることである。「ゴジラ」は何度か映像化されているが、加藤が論じるのは主として第一作である。1954年11月に封切られたこの映画は私もリアルタイムで観ている。加藤はこのゴジラ映画を「戦没兵士の霊と怨念と希求の念とを体現している」とする。ゴジラは「やってくるのではない。帰ってくる」のだ。これは卓越したゴジラ論と私には思える。ディズニーを目指した手塚治虫に対してまったく独自の道を歩んだ宮崎駿を評価しているのも加藤らしい。「大江健三郎の晩年」では、敗戦間際の沖縄の集団自決事件を巡る裁判での大江を強く擁護し、全体としての大江作品を高く評価している。

12月某日
週刊文春の新年特大号に高齢者は健康(骨)のために1日4400歩こうという記事が載っていた。それで昨日は自宅から我孫子の農産物を売っている「アビコン」まで歩きレタスを買ってきた。自宅からバス停「我孫子高校前」を経てアビコンへ、アビコンから我孫子高校前で5000歩を超えた。我孫子高校前からはバスで停留所2つ目の「アビスタ前」で降車。本日は手賀沼公園を横切って新しい道を通って成田街道へ。成田街道を左折して「八坂神社前」を右折、我孫子駅の構内を通って我孫子駅北口へ。北口から5分ほど歩いてショッピングモール、イトーヨーカドーへ。3階の本屋で絲山秋子の文庫本「夢も見ずに眠った」を購入。イトーヨーカドーを出て我孫子駅に着いたら空は暗くなってきた。そのまま旧道を経由して自宅へ。万歩計は辛うじて4400歩を超えていた。

12月某日
「せんせい。」(重松清 新潮文庫 平成23年7月)を読む。重松清は「文庫版のためのあとがき」で教師を主人公や重要な脇役とする小説をたくさん書いてきたとし、「本書は、その中でも特に、いわば教師濃度の高い作品集である」としている。私は小学校、中学校、高校と勉強の方はまずまずだったが、教師に対しては割と反抗的であった。性格的に合う先生はいたが、尊敬できる先生はいなかった。大学は重松と同じ早稲田だが、私は団塊の世代で学園紛争の世代でもあるから、バリケード封鎖で授業に出た記憶はあまりない。バリケードが解除された後も、当時、早稲田を牛耳っていた革マル派に敵対していたから授業に出られなかった。学期末試験を受けに登校したら「お前らは来ちゃぁいけねぇんだよ」と革マル派にすごまれたこともある。実際はそれをいいことに授業をサボっていただけだけれど。重松清の描く先生はとても共感できる。生徒にとって教師は「尊敬できる」存在でなくともいいから「共感できる」存在でありたい。

モリちゃんの酒中日記 12月その3

12月某日
「人間の経済」(宇沢弘文 新潮新書 2017年4月)を読む。宇沢弘文は2014年に死去しているが本書は「新潮新書」編集部が2009年、宇沢に「人間と経済」の刊行を依頼、翌年にかけて行ったインタビューや近年の講演等をもとに原稿をまとめた。インタビューや講演をもとにしているので、宇沢の思想と人間の全体像が非常にわかりやすく提示されている。宇沢は1945年4月、戦争直前に旧制一高に入学、東大理学部数学科に進学後、特別研究生として数学を学ぶ。河上肇の「貧乏物語」に触発されて経済学に転向する。56年に米スタンフォード大学、ケネス・アローの研究助手となり36歳で日本人初のシカゴ大学教授となる。68年に東大に復帰するが、自身の思想を深めるとともに環境問題に関わっていくことになる。本書は経済学と社会、環境とのかかわりについて述べたものがまとめられている。宇沢は一高東大時代にマルクス経済学に魅かれたり、スタンフォードやシカゴでは数理経済学の権威となるが思想的バックボーンはリベラリズム。「本来リベラリズムとは、人間が人間らしく生き、魂の自立を守り、市民的な権利を十分に享受できるような世界をもとめて学問的営為なり、社会的、政治的な運動に携わることを意味します。そのときいちばん大事なのが人間の心なのです」(教育とリベラリズム)。
私は本書を読んで宇沢が経済学者以外のさまざまな人から影響を受けたことがわかった。宇沢はリベラルアーツの重要性を強調し、日本でリベラルアーツを代表する人物として福沢諭吉を挙げる。哲学者、教育学者でプラグマティズムを代表する思想家、デューイ、戦前からの自由主義者でジャーナリストの石橋湛山も高く評価する。宇沢は空海も評価しているが、こちらは宗教家としてというよりもcivil engineeringとして。空海は唐に留学するが当時の留学僧は仏典だけでなく、唐の社会制度や工学的な知識も学んで帰国した。空海は学んだ土木工学の知識を生かして讃岐の満濃池をはじめとした灌漑工事を行った。宇沢は帰国後、水俣病や成田空港問題ともかかわるようになるが、そこでも水俣病の被害者たる漁民、空港反対同盟の農民と対等な関係を結び、ともに学ぶという姿勢を貫いたのではないか。ウイキペディアによると宇沢の健康法はジョギング、趣味は山登りでランニングと短パン姿は都内でも目撃されていたという。また自他認める酒好きであった。

12月某日
NHKBS1の「ビルマ 絶望の戦場 インパール後の大惨劇」を観る。インパール作戦はイギリス領のインド攻略を目的として1944年に戦われた作戦。指揮官の牟田口廉也中将の主導によって強行されたが、航空兵力や輸送力、軍備全般に優れる英軍に惨敗した。映像は惨敗後の日本軍を当時の映像や生き残った日本兵、当時のビルマの人々の証言からたどる。またイギリスに保管されている日本軍将兵への尋問資料からも明らかにされる。当時の日本軍の責任者は陸軍中将の木村兵太郎(後に大将)。英軍が首都のラングーンに迫りつつあるとき、多くの将兵や在留邦人を残したまま、飛行機でタイへ逃げる。牟田口といい木村といい情けない限りである。牟田口は戦後も生き残り自己を正当化する証言を残している。木村はA級戦犯として起訴され死刑を宣告され、東条らとともに絞首刑にされた。しかし何といっても最大の被害者はビルマ国民だ。大東亜共栄圏の現実とはこんなものなのだろうか。

12月某日
週2回通っているマッサージへ。15分マッサージ、15分電気。その後、我孫子市の農産物直売所アビコンへ。レストランの米舞亭でランチ「生姜焼き定食」1000円。「玉ねぎスープ」を購入。帰りにスーパーカスミでウイスキー「ティチャーズ」を購入。バスを利用しようと思ったらスイカが見当たらない。アビコンでスイカを使っているから引き返すと売店のお姉さんが保管してくれていた。バス停「我孫子高校前」からバスに乗車、「アビスタ前」で下車。乗車賃は障害者割引を使って半額。家にあった「ランチ酒」(原田ひ香 祥伝社文庫 令和4年6月)を読む。読みだしてすぐ以前読んだことを思い出す。発行が今年の6月だから、つい最近に読んだはず。バツ1で子供を元夫のもとに残してきた祥子が幼馴染の亀山の下で「見守りサービス」に従事するというストーリー。見守りサービスは基本的に夜から翌日の午前中まで。仕事を終えた祥子が食べるランチとちょい飲みする酒がもう一つのストーリー。テレビの「孤独のグルメ」の女性版。もっとも「孤独のグルメ」の主人公、松重豊が演じる井の頭五郎は下戸ですが。

12月某日
「力と交換様式」(柄谷行人 岩波書店 2022年10月)を読む。柄谷行人の本は難しい。読んでも理解できないことの方が多い。でも新刊が出ると読んでしまう。自分では買わない。図書館で借りるだけですが。本書は「マルクス主義の標準的な理論では…中略…生産様式が経済的なベース(土台)にあり、政治的・観念的な上部構造がそれによって規定されているということになっている」のに対して、柄谷は「そのベースは生産様式だけではなく交換様式にあると考えた」(序論)。交換様式には次の四つがある。
 A 互酬(贈与と返礼)
 B 服従と保護(略取と再分配)
 C 商品交換(貨幣と商品)
 D Aの高次元の回復
Aが原始社会、Bは王権が確立して以降の部族社会、日本史で言うと古代大和王権から中世を経て幕藩体制の確立まで。江戸時代になって商品経済、貨幣経済が発達してCに至る。Dは共産社会で「贈与と返礼」の高次元の回復がなされる。宇沢弘文との絡みで言うと「環境危機は、人間の社会における交換様式Cの浸透が、同時に人間と自然の関係を変えてしまったことから来る」「交換様式Cから生じた物神が、人間と人間の関係のみならず、人間と自然の関係をも致命的に歪めてしまったのである」ということになる。環境問題からしてもD(Aの高次元の回復)は必至ということになるのだ。

12月某日
「家裁調査官・庵原かのん」(乃南アサ 新潮社 2022年8月)を読む。家裁調査官、正式には家庭裁判所調査官。裁判所法によって家裁と高裁には家裁調査官を置くことが定められている。身分は国家公務員。未成年者が事件を起こした場合、家裁によって処分が決定されるが、その際、家裁調査官が少年の置かれた環境や事情を調査し家裁の裁判官に報告する。庵原かのんは福岡家裁北九州支部の調査官、動物園の飼育係の恋人を東京に残し、罪を犯した少年少女や親たちとの面会に追われる。殺人や強盗などの凶悪犯罪は家裁ではなく地裁に送られるはずだ。したがって家裁調査官が扱うのは窃盗や暴行傷害などの比較的軽微な犯罪に限られる。そこにドラマを見出すのが小説家、乃南アサの凄いところ。「思い通りにならない人生」「でもそこでけなげに生きてゆく庶民」を描く!

12月某日
今年最後の散髪に近所の「髪工房」へ。10分ほど待って散髪開始。ここの主人は私より3~4歳年長だからすでに後期高齢者。年とってから床屋さん替わるのやだからね、ご主人の長命を願う。帰りにスーパー京北で「サーモンパテ」を購入。家に帰って遅い昼食。図書館で借りていた「八日目の蝉」(角田光代 中公文庫 2011年1月)を読了。読売新聞の夕刊に2005年11月~2006年7月まで連載された。テレビで同名のドラマが放映されていて面白かったのがきっかけで読み始めた。今日の夜、BSNHKで放送される。読書の感想はドラマを観てから。

12月某日
「八日目の蝉」はテレビドラマと小説では微妙に違っている。ドラマでは岸谷五朗が演ずる
文次は小説では出てこない。だいたいドラマが最初に放映されたのが2010年だから10年以上前の作品。写真館の主人を演じた藤村俊二も2017年に死んでいるしね。映画にも2011年になっている。テレビでは壇れいが演じた主人公は永作博美らしい。不倫した上司との間の子を妊娠した女は中絶させられる。上司の家庭の一瞬の隙をついて女は生まれたばかり赤ん坊を盗み出す。薫と名付けられた赤ん坊は逃避行の末に小豆島にたどり着く。小豆島でのやすらぎに満ちた日々も長くは続かない。祭りの日に撮影された親子の写真が写真コンクールで佳作となり全国紙に掲載されてしまったのだ。親子は捜索の手から逃れようと港に向かうがそこには刑事たちが待っていた。逮捕される女、保護される薫。ここまでが1章。2章は大学生になった薫(本当の名前は秋山恵梨香)が主人公。逃避行していたときに会った千草と小豆島へ向かうのがラストシーン。小豆島へ向かうフェリーを見送るのが刑期を終えて岡山で働く犯人の女。こう書くとストーリーは犯罪小説のようだが、実は家族がテーマ。小豆島へ向かう恵梨香は実は不倫相手の子を妊娠している。「この子を産もう」という決意のもとの小豆島なのだ。

モリちゃんの酒中日記 12月その2

12月某日
「私の文学史-なぜ俺はこんな人間になったのか?」(町田康 NHK出版新書 2022年8月)を読む。町田康は「ギケイキ」を読んで以来、割と気に入っている作家だ。今回「私の文学史」を読んで尊敬の念を抱くようになった。「ギケイキ」自体、鎌倉だったか室町時代につくられた「義経記」を底本にしている。義経記は源義経の生涯をたどった古典で私は図書館で日本古典文学全集の義経記を借りて確かめたが、確かに「ギケイキ」は義経記を底本にしていた。ということは町田には古典の義経記を読みこなす力があるということだ。ウイキペディアによると町田は府立今宮高校卒である。高卒だから古典を読みこなす力はないと断言はできないし、大卒だから院卒だからできるとも断言できない。いずれにしても私は「ギケイキ」を読んで町田の古典の読解力の確かさと現代文による構成力に感心したものである。町田には「土俗・卑俗にこそ真実がある」という信念がある。そして「文章を書くことの衒いとか、自意識を失のうた人がプロの物書きなんです」ともいう。しかし「自分の文章的な自意識と、普通という、社会とか世間の自意識みたいなものを勝手に意識して、勝手に意味なく忖度して、そこにたどり着けない」のである。そして「なぜ古典に惹かれるのか」では「僕は、熱狂のさなかにあるあるというのは、人間として不幸なことやと思うんですね」とし「古典の得の一つ」として「現代の熱狂から遠くにある、流行りものの熱狂の嘘くささから遠くにあること」をあげている。うーん、深いお言葉。

12月某日
「この父ありて-娘たちの歳月」(梯久美子 文藝春秋 2022年10月)を読む。梯久美子は1961年、熊本市生まれのノンフィクション作家。北大文学部を卒業後、編集者を経て文筆業。本書には茨木のり子、田辺聖子、石牟礼道子ら9人の女性である。そして彼女らの共通点は「書く女性」だ。「『書く女』とその父 あとがきにかえて」で梯は「彼女たちが父について書いた文章には、『近い目』による具体的で魅力的なエピソードが数多くあるが、一方で、父の人生全体を一歩引いた地点から見渡す『遠い目』も存在する。そこから浮かび上がるのは、あるひとつの時代を生きた、一人の男性としての父親の姿である」と書く。「近い目」と「遠い目」はノンフィクション作家にとっても必須であろう。私は石牟礼道子の章に一番心が魅かれた。石牟礼道子の父、吉田亀太郎は石工で水俣の道路づくりの事業を手がけていた。「この世の土台をつくる仕事ぞ」「わしゃあ、まだ見ぬ未来を切り拓くつもりで石と語ろうとる」「石は天のしずくだ。天のしずくが石になるには、とても数えきれない年月がかかる」と幼い道子に語ったそうである。道子の作家としての感性はこの父を源とするに違いない。

12月某日
「宇沢弘文-新たなる資本主義の道を求めて」(佐々木実 講談社現代新書 2022年10月)を読む。宇沢弘文は早くから社会的共通資本の重要性を指摘した経済学者で、私は何年か前に佐々木実による宇沢の評伝を読んでいる。地球温暖化の危機がこの数年来叫ばれているが宇沢は半世紀以上前からそれを指摘していたわけだ。宇沢は1928年米子市生まれ、1931年3歳のとき一家で上京。府立一中、一高を経て東大理学部数学科入学。数学を学ぶかたわらマルクス経済学も独学、理学部物理学科に在籍していた上田健二郎(不破哲三)の主宰していたマルクス経済学の研究会にも参加していた。数学科を卒業した後。研究所や生命保険会社に勤めるが長続きせず、東大経済学部の近代経済学の研究会に参加、経済学研究の道に入る。米国スタンフォード大学のケネス・アローに論文を送ると高い評価を得て大学に招かれる。1956年宇沢が28歳のときである。スタンフォード大学では業績も上げ学生にも人気があったが、1964年にシカゴ大学の正教授に就任した。当時のシカゴ大学はフリードマン率いる市場原理主義者のシカゴ学派の牙城であったが、宇沢はフリードマンとは対局の見解をもち、議論を戦わせる仲だったという。当時はベトナム戦争のさ中で宇沢は反戦運動にも積極的だった。シカゴ大学の教え子の中からスティグリッツとアカロフが2001年にノーベル経済学賞を受賞している。
1968年4月、宇沢は東大経済学部に着任。シカゴ大の教授が東大の助教授に移籍したことは当時、話題となった。実際、給与と研究費の総額はシカゴ大時代の15分の1程度まで減った。宇沢が日本で取り組んだのは公害問題で、水俣病患者とも積極的に交流した。患者を支援していた原田正純医師は「胎児性水俣病との出会いのとき、先生は怒りを隠そうとされなかった…そして眼鏡の奥に涙が光る…」と記している。1974年、宇沢は「自動車の社会的費用」を出版しベストセラーとなる。この本により「新古典派理論を根源から批判し、同時に、新古典派理論の分析テクニックを駆使する」という、矛盾に満ちた境界領域を踏破してゆくことになる。同書を執筆した40代半ばから86歳で生涯を終えるまで、宇沢は社会的共通資本の経済学の構築に全精力を注いだ。社会的共通資本で宇沢が次に注目したのがコモンズである。日本の入会林野などが伝統的コモンズであり、パブリックとプライベートの中間的な所有形態とみなせる。コモンズの重要性については若手の思想家、斎藤浩平も指摘している(人新世の「資本論」)。産業革命以降、石炭や石油といった化石燃料が動力源となって燃やされ地球環境を悪化させてきた。これ以上の悪化を防ぐために宇沢の思想と経済学はもっと注目されてよい。

12月某日
「ひとり遊びぞ我はまされる」(川本三郎 平凡社 2022年9月)を読む。川本は1944年生まれ。麻布中学、麻布高校を経て東大法学部卒。朝日新聞社入社後、陸上自衛隊朝霞駐屯地での自衛官刺殺事件に関与して逮捕される。執行猶予付きの判決であったが朝日新聞社は懲戒免職となる。フリーライターから文筆業となる。私見ですが新聞社にそのままいても出世はしなかったと思う。懲戒免職はむしろ良かった。本書は雑誌「東京人」2018年8月号~2021年12月号掲載「東京つれづれ日誌」を単行本化したもの。川本の好きなものにこだわったエッセーである。荷風、街歩き、酒、ローカル線の旅そして台湾。川本はそれ以外にもクラシック音楽や絵画にもこだわりがある。本書で建築家の津端修一さん夫婦の穏やかな老後を描いたドキュメンタリ「人生フルーツ」が紹介されている。私は30年くらい前に津端さんに会ったことがある。おそらく津端さんは当時、日本住宅公団を退職したばかりで、住宅の周辺を緑化して環境を保つ「クラインガルテン」を普及させようとしていた。戦争中、台湾の少年工が日本の軍需工場に動員されたが、津端さんはその少年工とも交流があったという。

12月某日
「歴史探偵 忘れ残りの記」(半藤一利 文春新書 2021年2月)を読む。歴史探偵を名乗った半藤は文藝春秋の編集者出身で週刊文春や月刊文藝春秋の編集長を務めた(最終的には専務)。1930年生まれで2021年の1月に亡くなっている。死後、本書のゲラが自宅の机の上に置かれていた。半藤は軽快な筆致で日本の近代史と切り結んでいるが、その裏には該博な知識と深い教養があった。経歴からすると川本三郎と似ていなくもない。二人とも東京生まれの東京育ち、東京大学卒業後、新聞社と出版社へ入社。同じ東京生まれだが片や下町、片や山の手、東大も片や文学部、片や法学部という違いはあるが。永井荷風好きも共通している。「あとがき」に「わたくしは、ゴルフもやらず、車の運転もせず、旅行の楽しみもなく、釣りや山登りも、とにかく世の大概の方がやっている趣味は何一つやらない」と書いている。では何をやってきたか。「ただただ昭和史と太平洋戦争の〝事実″を探偵することに」のめりこんできた」のである。本書は「のめりこんできた」一方での彼の人生のエピソードを随筆というかたちで披露している。彼の出版社時代は高度経済成長の準備期、最盛期と時を同じくする。まさに「良き時代」である。

モリちゃんの酒中日記 12月その1

12月某日
「還りのことば-吉本隆明と親鸞という主題」(吉本隆明 芹沢俊介 菅瀬融爾 今津芳文 雲母書房 2006年5月)を読む。菅瀬と今津は浄土真宗本願寺派の僧侶である。親鸞に関する本を何冊か読んできたが、私には吉本隆明の言う親鸞の偉さがよく理解できなかった。私は仏教にしろキリスト教、イスラム教、オウム真理教にしろ教団と過激党派との類似性が気になった。イスラム原理主義者たちはいまだに世界各地でテロを繰り返しているし、中世の十字軍はキリスト教徒によるアラブ世界への侵略だったと言えなくもない。日本の中世でも仏教教団が僧兵という軍事組織を持っていたし、浄土真宗の門徒が各地で蜂起(一向一揆)している。半世紀近く前になるが日本の過激派もテルアビブ事件や連合赤軍事件、連続爆破テロ、凄惨な内ゲバ殺人を繰り返した。過激な党派は一種の教団と言えるのではないか。現代日本の宗教各派が平和的に宗教活動を行っているのは、各派が一応は「外に開かれている」からではないか。政治党派にしろ宗教教団にしろ「内にこもった集団」となると危険な暴力集団へ変身してしまう可能性がある。オウム真理教や連合赤軍がその例である。

12月某日
サッカーのW杯カタール大会で日本はドイツに続きスペインにも勝利、2大会連続で準決勝に進出。12月3日の朝刊ではこのように報じられていた。私は昨日、朝4時起きでスペイン戦をテレビ観戦した。予定をしていたわけではなくちょうど目が覚めてしまったのだ。もともとサッカーファンでもないし。でも試合を見ていると不思議に引き込まれてしまった。欧米や南米でサッカーが人気ナンバーワンのスポーツであることもなんとなく理解できたように思う。サッカーやラクビーのゲームを観ていると戦争映画の戦闘シーンを観ているような気がする(個人の感想です)。スポーツって戦闘の代替行為と言えなくもない。テレビ観戦を終え6時過ぎに再び就寝。11時に起床、朝食後マッサージへ。マッサージ師の青年との話題もサッカー。

12月某日
「世界は五反田から始まった」(星野博美 ゲンロン叢書 2022年7月)を読む。著者の星野博美は1966年生まれ、国際基督教大学卒。ノンフィクション作家だが写真家でもある。私は星野が自身のルーツを探った「コンニャク屋漂流記」を面白く読んだ記憶がある。星野のルーツは千葉県の房総なのだが、祖父の代から五反田に居を構え、住居にバルブなどを製造する工場(星野製作所)を併設した。星野製作所は父親の高齢化や取引先の事業終了にともない昨年、事業を終えている。で、本書は主として五反田における星野家三代の歩みと五反田という街の歴史をたどったものだ。五反田というと私にとっては取引先の全社連(全国社会保険協会連合会)があって、何回か通ったことがある。駅前に五反田有楽街という盛り場があって、かなり場末感の漂う街だったように思う。もっとも全社連はその後、品川に引っ越してしまい私が行くこともなくなった。星野製作所は五反田から東急池上線で2つ目の戸越銀座の近くにあった。銀座の名前が付く商店街は日本各地にあるようだが、東京では戸越銀座と江東区の砂町銀座の存在が知られる。祖父が始めた星野製作所は昭和一桁生まれの父が継承する。戦前の五反田界隈は町工場が密集する地域だった。今では町工場の跡地にはマンションが林立している。町工場が密集していたということはそこに働く労働者が多かったことを意味する。それで戦前はそれらの労働者をオルグするために日本共産党員も五反田あたりにはいたようで、かの小林多喜二の「党生活者」に出てくる倉田工業は実在の藤倉電線の五反田工場がモデルであった。戸越銀座の近くにある武蔵小杉の商店会から満洲へ移住した人が多かったエピソードや太平洋戦争末期の数次にわたる東京大空襲の被害の模様も綴られる。棄民とされた満洲移民に星野はもちろん同情を隠さない。しかし星野の視点は満洲移民によって土地を奪われた中国の民衆にも及んでいる。中国大陸や朝鮮半島、東南アジアへの日本軍国主義の侵略にも目を背けないという姿勢ですね。

12月某日
「小説家の一日」(井上荒野 文藝春秋 2022年10月)を読む。井上荒野は1961年うまれだから来年62歳になるんだね。父親は小説家だった井上光晴。出家する前の瀬戸内寂聴(晴美)と井上光晴との恋愛を描いた小説「あちらにいる鬼」は寺島しのぶと豊川悦司の主演で現在上映中。「小説家の一日」にも井上光晴と思われる父親が出てくる一編がある。「好好軒の犬」というタイトルの短編がそれで妻の「私」の目から見た小説家の夫、光一郎と娘の海里が描かれる。「小説家になる前、光一郎は革命家になろうとしていた。この世界を変えようとしていたのだ」「小説は光一郎にとって、革命の手段だった。けれども運動の矛盾点を批判する小説を書いたことで、党から除名された」と書かれているが、まぁ事実でしょう。「好好軒の犬」では「私」が夫の勧めで小説を書き、それが文芸誌に掲載されることも描かれているが、これもまぁ事実でしょう。表題作の「小説家の一日」は小説家となった海里とその夫で古本屋の敏夫の八ヶ岳の麓の別荘での日常が描かれる。

12月某日
今年亡くなった馬木さんを偲ぶ会を六本木のフレンチレストランで。私と友野君、渡辺さん、井上さんが千代田線乃木坂駅で待ち合わせ。フリーライターの友野君以外は年金生活者だ。
馬木さんと私たち4人は江古田の国際学寮という学生寮で一緒だった。国際学寮とは日本力行会という団体が経営する学生寮で都内の大学に通学する学生に宿舎と食事を提供していた。通学する学生といっても当時は大学闘争の真っ盛りで大学に通った記憶は余りない。井上さんは東京教育大学の出身で卒業後、電通に就職したので学業成績も優秀だったろうと思っていたのだが、聞いてみると「全然」ということだった。当時、教育大学は筑波への移転阻止闘争で学問どころではなかったのだろう。私も4年で卒業することはしたのだが、学業は「全然」であった。友野君は東京外語大学に在学中から学生運動に参加、結局7年かけて卒業したが、当然の如く成績は「全然」だし、卒業後学内立ち入りを禁止されたそうだ。渡辺君は卒業せずに中退して私と同じ「しば企画」に入社、印刷機を回していたが「プロミス」に転職、本社の総務部長も務めた。学生寮にいた頃から半世紀も経つが食事しながら話題は尽きなかった。

モリちゃんの酒中日記 11月その4

11月某日
「親鸞-主上臣下、法に背く」(末木文美士 ミネルバ書房 2016年3月)を読む。サブタイトルの「主上臣下、法に背く」は、親鸞が主著の「教行信証」で仏法に背いて念仏教団(後の浄土真宗)を弾圧した朝廷を厳しく糾弾した文章の一部である。著者の末木文美士(すえき・ふみひこ)は1949年山梨県生まれ、1978年東大大学院博士課程単位取得退学。現在、東大名誉教授。親鸞はいうまでもなく浄土真宗の開祖である。私の世代では吉本隆明が「最後の親鸞」などでその思想を高く評価したことで知られる。私は「最後の親鸞」も数十年前に読んだ覚えはあるが中身はよく覚えていない。しかし親鸞の言葉を弟子の唯円が残したとされる歎異抄の「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人おいておや」という親鸞の言葉は覚えている。親鸞は私にとって「気にかかる人」であったことは確かだ。仏教についての基礎知識が乏しい当方にとって本書を読み進むことはかなりしんどいことではあった。だが著者の示す親鸞像の一端は理解できたかもしれない。著者は終章で、従来の親鸞像は、「中世という暗黒時代に、突如宇宙人が舞い降りるように出現した宇宙人」のように描かれてきたが、そうではなく、「中世という時代の中で、その時代を最も真摯に生き抜いた思想家として親鸞を読み直そう」と書いている。
著者は親鸞についての史料をA親鸞自身が書き残したものB弟子等による伝聞を残したものC親鸞死後の伝聞や伝説に分類している。Aは教行信証をはじめとした親鸞の著作でありBの代表的なものが歎異抄である。著者は近代以降、歎異抄がきわめて重視され教行信証以上に評価されてきたことは「きわめておかしなことであり、今日、根本的に改められなければならない」としている。著者の立場としては歎異抄の価値を否定することではなく、記録した唯円の主体的な立場という観点から読み取り、評価すべきと主張する。唯円の主体的立場とは「親鸞の教えを東国において真摯に受け止めた」唯円の立場ということである。中世の東国は中心地の京都からすれば辺境であったろう。親鸞は越後での流人生活のあと京都には帰らず東国へ向かう。東国での拠点は常陸国笠間郡稲田郷の稲田草庵であった。越後から笠間まで当然、徒歩による移動である。親鸞は90歳まで生きたとされる。当時としては相当な長寿である。本書で私が学んだことの一つは史料批判の大切さである。それと伝記の類は情緒的に読まないほうがよろしいのでは、ということである。

11月某日
テレビでクリントイーストウッドが監督と主演した映画「グラントリノ」を見る。フォードの工場を定年で退職し妻にも先立たれた孤独な老人ウォルトをクリントイーストウッドが好演。自分の住む町に引っ越してきたモン族の少年タオとの交流が始まる。モン族はベトナムやラオスに分布する山岳民族だが、ベトナム戦争で米軍に協力したことから共産政権の成立に伴いアメリカに亡命したらしい。タオを付き合っていたモン族の不良グループと訣別、ウォルトの紹介で手に職をつけ始める。ウォルトは肺がんで余命が幾ばくも無いことを知る。不良グループは報復にタオの姉を強姦する。不良グループに面談するウォルト、ピストルをちらつかせる不良グループ。ポケットに手を入れたウォルトは短銃を取り出そうとしたと誤解した不良グループに射殺され、不良グループは収監される。もちろんすべてはウォルトが仕組んだことで葬儀のときに自宅は教会へ、愛車のグラントリノはタオに遺贈されると発表される。クリントイーストウッドは1930年5月生まれ。高倉健は1931年2月生まれ、同じ学年である。クリントイーストウッドは西部劇から高倉健は仁侠映画からスタートして演技派俳優に変身した。どちらも好きなんだよね、私。

11月某日
「韓国併合-大韓帝国の成立から崩壊まで」(森万佑子 中公新書 2022年8月)を読む。私は韓国の歴史についてはほとんど無知であったことをこの本を読んで知らされた。朝鮮半島には古くから朝鮮民族による国家が成立していた。日本列島に国家が成立した以前から朝鮮半島には国家が成立していたと考えられる。その差は中国に対する距離的な遠近が影響したと思われる。朝鮮半島に成立した国は中国と朝貢関係を結んだが、日本列島に成立した国は相対的に独立していた。もっとも福岡県で出土した金印に「漢委奴国王」と記されていたように中国に冊封されたケースもあるし、豊臣秀吉のように朝鮮半島、中国大陸への侵略を企てた者もいる。大韓帝国の源は1392年に建国された朝鮮王朝で中国大陸は女真族の清王朝が支配していた。朝鮮王朝は清から冊封を受けたが、清に倒された明王朝に親近感を持っていたとされる。明王朝は漢民族であり朝鮮は明から儒教、科挙、衣冠制度などを受け継ぐ。中華文明は清ではなく朝鮮が受け継いでいるというプライドがあった。明治維新以降朝鮮半島はロシアと日本、清からの干渉にさらされる。日清戦争を経て朝鮮は清からの支配を脱し、清との冊封関係を絶って大韓帝国が成立する。しかし日本からの間接的な侵略、直接的な干渉は続く。大韓帝国は日本の保護国となり、1910年に併合される。日本にとって朝鮮は江戸時代まで文化の先進地域であった。仏教も文字も朝鮮半島を経由して日本にもたらされた。明治維新までは日本人は朝鮮とその背後の中国王朝には尊敬の念を抱いていた。明治以降、欧米列強と同じように帝国主義的な進出を意図し、ついには植民地支配や侵略に繋がっていくわけである。

11月某日
学生時代、同じサークル(早大ロシア語研究会)だった長田君と同じく学生時代、同じ寮(江古田の国際学寮)だった友野君と千代田線乃木坂駅の青山霊園側改札で待ち合わせ。亡くなった尾崎(森)絹江さんの娘さんが夫とやっているフランス料理に行く。政策研究大学院大学の脇を通ってお寺もある静かな通りにその店はあった。店には私たちしかいなく結局、13時から16時過ぎまで店にお邪魔していたことになる。尾崎さんの夫でやはりロシア語研究会にいた森君とも電話で話すことができた。乃木坂で長田君と友野君と別れ、私は国会議事堂前で南北線に乗り換え市ヶ谷へ。市ヶ谷ルーテルホールへ。荻島良太さんのサキソフォンリサイタルに行く。川邉さん、吉武さん、大谷さんと一緒。荻島さんのリサイタルは久しぶり。素人の私が言うのもなんですが、難曲と思われる現代音楽風の曲を体も使いながらこなしていた。コロナ禍ということもあって客の入りはいまいちだったが、生意気を言わせてもらえば若い人の成長する姿を見るのはいいものだ。

11月某日
「悪と往生-親鸞を裏切る『歎異抄』」(山折哲雄 中公文庫 2017年1月)を読む。末木文美士の「親鸞」に続いての親鸞本である。末木は唯円が親鸞からの聞き書きを記録した歎異抄を主著の教行信証以上に評価されているのは如何なものかという立場であったが、本書はもっぱら歎異抄から親鸞と聞き手の唯円の思想を探ろうというものだ。山折は唯円に対して聞き手としてだけではなく、歎異抄の編集者としての立場を認めている。親鸞の思想をどのようにインタビュー記事としての歎異抄のなかで表現していくか、そこに編集者としての唯円の立場がある。山折はそうした唯円の立場を「唯円の二重性」と表現する。「師の言葉をひとしずくももらすまいと耳を澄ましている唯円」と「親鸞の言葉を背にして『異端』の道にふみ迷う弟子たちに立ち向かっていく、戦闘的な唯円」である。前者がインタビュアー、後者が編集者としての唯円である。本書には巻末に「『歎異抄』の参考テキスト」が収録されている。初めて通読したが、十分に理解したとは言い難し!

モリちゃんの酒中日記 11月その3

11月某日
「日本仏教の社会倫理-正法を生きる」(島薗進 岩波現代文庫 2022年9月)を読む。私の宗教への関心は、ひとつはオウム真理教や旧統一教会などのいわゆるカルト集団への関心につながる。もうひとつは吉本隆明が親鸞を思想者として高く評価していることだ。私どもの世代にとって吉本の存在は別格で、吉本に心酔する若者たちを評して「吉本教」信者と揶揄されたりしたものだ。それはともかくヨーロッパにおけるキリスト教、中東からアジアに及ぶイスラム教、東南アジアから中国大陸、日本列島に及ぶ仏教-これらは世界の三大宗教と呼ばれる-の存在は、人間の存在や人間社会の存在について、それぞれ根源的な思惟を迫った(らしい)。本書のタイトルは「日本仏教の…」となっているが、著述は当然のように原始仏教から始まる。第1章は「在家と出家」で、乞食という生き方が仏教僧団の在り方を絶対的に決定するという。在家と出家の関係は私には前衛党員(職業革命家)とシンパの関係を連想させる。出家は生産活動に従事しない。職業革命家も革命が仕事なので労働はしない。出家は乞食によって生き、職業革命家はカンパによって生きる。オウム真理教も信者の寄進によって教団は運営され、旧統一教会も基本は同じであろう。
本書のサブタイトルは「正法を生きる」となっているが、島薗は日本仏教における正法の概念を重視する。正法は末法思想の末法に対立するもので正しい思想、考え方で政治や社会が運営される世の中とでもいえばいいであろうか。昭和戦前期において北一輝や青年将校に影響を与えたのが日蓮宗であり、その影響は宮沢賢治や満州事変を企てた石原莞爾にも及んでいる。彼らの「革命思想」を支えたのは末法=正法思想だったのかもしれない。社会倫理という観点から宗教を見直すといろいろなことが見えてくる。宮沢賢治の童話も社会倫理の観点から読み直しても面白そうだ。島薗は戦前の日蓮主義が昭和維新と呼ばれる革命的な政治運動に寄与する一方で、文化的な側面として宮沢賢治の物語作品をあげている。「賢治は仏教本来の教えを、現代人の生き方、感じ方に即して分かりやすく伝えるものとして童話を構想した」のだとしている。終章の「東日本大震災と仏教の力」で島薗は「正法を広めることの中には、困っている人に寄り添い、癒しの場を提供することが含まれている」としている。被災地支援に「正法を具現する人々」を見たのであろう。

11月某日
マッサージのあと我孫子の農産物直売所「アビコン」によってレタスとたまねぎスープを購入。図書館で借りていた「神聖天皇のゆくえ―近代日本社会の基軸」(島薗進 筑摩書房 2019年4月)を読み進む。明治以降の日本の政治体制は天皇制のもとにあったのは確かだろう。そのなかで天皇制の廃止も視野に入れた無政府主義者や共産主義者の運動があり、それにたいする苛烈な弾圧もあったし、自由民権運動や大正デモクラシー、民本主義など、民主主義的な動きもあった。戦前をすべて民主主義が圧殺された暗黒時代だったとみるのもまた一面的なのであろう。中島京子の小説で映画化された「小さいお家」を読んでもそのことはうかがい知れる。日本人は天皇制をどのように受容してきたかという観点から本書を読むと面白い。古代、天皇親政が行われていたのはほぼ間違いないところであろう。もっともその頃は天皇という呼称はまだなく大王(おおきみ)と呼ばれていたらしい。平安時代には天皇は直接的に政治の表舞台に立つことは少なくなり、藤原氏や平氏が権力を握り、こうした体制は明治維新まで続く。江戸時代の庶民にとって天皇は遠い存在であり、身近な権利者は領主である殿様であったろう。本書は幕末の尊王思想の高まりから天皇崇拝が国家の柱となった明治時代、天皇崇敬による全体主義的動員の時代を経て敗戦に至る日本の近代を概観しながら最後に象徴天皇制を評価する。天皇が憲法で定める日本国の象徴であることには日本国民の多くが同意している。前の天皇や現在の天皇の人柄もあって、多くの日本国民は天皇及び天皇家を敬愛している。しかし私の理解では天皇は、天照大神の子孫として神道の祭主でもある。この立場をどう評価すべきか。秋篠宮は大嘗祭への公費支出について「内廷会計」で行うべきだと発言した。著者は「象徴天皇制の理念が、自ずから指し示す方向」と評価する。同感です。

11月某日
3年前に亡くなった福田博道さんを偲ぶ会を御徒町の吉池食堂で。13時30分からなので10分前に予約していた席に着く。定刻には松下、高橋、伊藤、岡田、友野、香川、林そして私の8名が揃う。献杯してそれぞれ福田さんの思い出を語る。福田さんは1950年生まれ、福井県武生市出身、早稲田大学文学部文芸学科卒業。家具関係の業界紙の記者をしていて私とはその頃知り合ったと思う。その後ライターとして独立、年友企画でいろいろな仕事を助けてもらった。娘さんと息子さんがいてそれぞれ立派に成人して、娘さんはピアニストで東欧のチェコかハンガリーに留学していた。息子さんは大手の運送会社に勤めてシンガポール支店勤務という話をしていた。福田さんは自分のことを「売れっ子」ならぬ「売れん子ライター」といっていたが娘さんの留学先や息子さんの赴任先に遊びに行っていた。家族、友人に恵まれたということか。お酒を呑まない香川さんと岡田さんは1次会でさよなら。残りの6人で2次会へ。

11月某日
11時30分から予約していたマッサージの絆へ。いつもの通り15分の電気療法と15分のマッサージ。本日は歩いて7~8分の床屋さん「髪工房」へ。途中で乾物屋さんの「手賀の屋」でレトルトカレー、干しエビなどを購入。髪工房では待ち時間ゼロ。「お客さんがいないなんて珍しいですね」というと「こんなもんですよ」と親方。親方は今年、78歳になったそうだ。「夜にテレビを観ていると寝ちゃうんですよ」。まぁ私も似たようなものです。「髪工房」は65歳以上は料金2000円が1800円に割引されるうえ、スタンプが5個たまるとさらに300円引かれる。ありがたいがお客の高齢者割合が上昇しているので経営は大丈夫かと心配になる。帰りにスーパー「カスミ」によってスコッチのティチャーズを安売り(1078円=税込み)してたので購入する。

モリちゃんの酒中日記 11月その2

11月某日
「乱れる海よ」(小手鞠るい 平凡社 2022年10月)を読む。小手鞠るいという作家には今まで関心がなかった。図書館で新刊コーナーに並んでいたこの本を手に取るまでは。本文が始まる前に次の文章が掲げられていた。献辞のように。
 まだ何もしていない
 何もせずに 生きるために
 多くの代償を支払った
 思想的な健全さのために
 別な健全さを浪費しつつあるのだ
 時間との競争にきわどい差をつけつつ

 天よ 我に仕事を与えよ
                 ―奥平剛士
奥平剛士って今じゃぁ知らない人の方が多いと思うけれど、1972年5月30日に起きたイスラエルの「テルアビブ空港乱射事件」の3人の犯人の一人で主犯格だった。奥平は事件の最中に銃弾を浴びて死亡、他の一人は手榴弾で自爆した。残った一人が岡本公三でイスラエルの法廷で終身刑を宣告された。本書の末尾に注意書きのように「本書は、実際の事件に着想を得て書かれたフィクションです。歴史的事実を盛り込んでありますが、登場人物はすべて、著者によって創作されています」と記載されている。ではあるけれど主人公の渡良瀬千尋が奥平剛士を、生き残った岡部洋三が岡本公三をモデルとしたことは明らかだ。千尋は京大文学部に進学、セツルメント活動で貧しい子供たちの面倒を見る一方、自分を追い込むように肉体労働に勤しんでいた。魅力的な人物として描かれているが、当時の活動家連中のなかにはそういった人間が確かにいたね。「あとがき」で著者の小手鞠は事件のときに高校生で、校長が「我が校出身の奥平さんが仲間ふたりと共にイスラエルで自動小銃を乱射し、罪のない人々を大勢、殺してしまった…奥平さんの為した行為は間違っていたが、平等な社会、差別のない社会を作ろうとしていた彼の理想は間違っていなかった」と話したそうである。なかなかの校長である。ちなみにこの高校は岡山県立岡山朝日高校、私の記憶に間違いがなければ岡山きっての進学校である。

11月某日
「私にとってオウムとは何だったのか」(早川紀代秀 川村邦光 ポプラ社 2005年3月)を読む。川村邦光という人の本は先月、荒畑寒村の評伝を読んだけど本業は宗教学者のようだね。早川紀代秀は1949年生まれ、神戸大学農学部、大阪府立大学大学院修士課程修了。86年にオウム神仙の会(後にオウム真理教に改称)に入会。95年に逮捕、死刑判決確定、2018年死刑執行。川村が旧知の弁護士から早川の裁判での証言を求められたことから二人の交流は始まった。すでに早川は麻原彰晃からのマインドコントロールは解けており、自分が犯した罪を激しく後悔している。早川は麻原からの指示に〝自らが認める権威が示す正義”に従うという習性は、決して特殊なことではなく、人間誰しもが持っている特性、と書いている。これは確かに旧統一教会にも当てはまるし、イスラム教徒によるテロにもそういった側面があると思う。宗教ではなくとも日本の新左翼による内ゲバにも「権威が示す正義に従ってしまった」結果があるのではないか。連合赤軍によるリンチ殺人事件もそうだ。オウム真理教の信徒たちはグル麻原の指示に盲目的に従った。私にはそれがスターリンによる反対派の粛清、連合赤軍によるリンチ殺人を連想させるのだ。

11月某日
オウム真理教は仏教をベースにしながらも、ハルマゲドンなどキリスト教の概念を盛り込んだりした麻原彰晃が考え出した新興宗教の一つと考えられる。仏教といっても幅広いが、激しい修行による個人の解脱を重視した小乗仏教に近いとも考えられる。こうした考え方に真っ向から対立すると思われるのが親鸞であろう。ということから図書館の宗教コーナーの仏教の棚を眺めていたら「吉本隆明が語る親鸞」(糸井重里事務所 2012年1月)という本が目についたので早速借りることにする。2011年の東日本大震災を経て、糸井重里は親鸞は「どんな立場でどんな言葉を民衆に投げかけていたのか」という問題意識から、吉本と対談する。冒頭が吉本と糸井の対談で、以下に過去の吉本の親鸞に関する講演が収録されている。吉本には「最後の親鸞」という著作もあり、以前から親鸞の思想に注目していた。この本は私も読んだが、よく理解できなかった記憶がある。今回は講演録ということもあり、何となくわかったような気がする。
吉本にとって親鸞が生きた戦乱と天変地異の中世は「ある意味で現在と同じ」で「目に見えない戦いや、人を支配していたり支配していなかったりというような問題が、目に見えないかたちで重なっています」と語る。私はロシアのウクライナ侵攻や旧統一教会問題を思い起こしてしまう。吉本はまた「肉体を痛みつけたり、精神を痛みつけたりする修行の果てに、浄土を思い浮かべたり、仏様の姿が眼の前に思い浮かぶようになったりすることには本当はなんの意味もないんだ、ということが、親鸞のなかに重要な考え方としてあった」と思うとする。それはまた「人間が自力でできることに見切りをつけたということ」でもある。修行によって浄土へ行くことはできない、「ただ本当に阿弥陀如来を心の底から信ずる、そして名前を称える、そうしたら浄土へゆけます。それ以外のことをやったら駄目ですよ」というのが親鸞の信念だった、と吉本は言い切る。60年安保のときに吉本は既存の日本共産党や社会党、総評などの「擬制の終焉」を唱え、「自立の思想的拠点」を築けと叫んだ。その頃と変わっていないね。