モリちゃんの酒中日記 7月その3

7月某日
図書館で借りた「日本共産党-『革命』を夢見た100年」(中北浩嗣 中公新書 2022年5月)を読む。日本共産党は1922年7月15日、堺利彦や山川均ら8名によって正式に結成された。そのほかの創立メンバーには荒畑寒村、徳田球一らがいた。それからの100年を概説したのが本書である。著者の中北は1968年生まれ、東大法学部、同大学院博士課程中退、立教大学教授を経て2013年より一橋大学大学院教授。「あとがき」で本書を坂野潤治先生に捧げると記している。坂野先生は日本近代史の泰斗(1937~2020年)、東大国史学科では樺美智子さんの先輩で60年安保ブンドの指導者のひとりだった。私は坂野先生の本は何冊も読んだがとてもわかりやすくて実証的だった。明治時代の自由民権運動、大正デモクラシー、昭和初期の立憲政治について学ぶことは多かった。
本書で私は初めて日本共産党の通史を読んだ。私は学生時代、反日共系の学生運動に参加していたので日本共産党とその青年組織の民主青年同盟(民青)とは敵対していた。敵対していたが当時の早稲田大学は革マル派の牙城で、我々、全共闘派の学生にとっては革マル派が主要な敵であって、民青は「その他」であった印象である。本題に入ると、戦前、さらに戦後も1960年代までは共産党もソ連共産党、中国共産党の支配下にあった。思想的、理論的にはもちろん財政的にもソ連や中国からの援助に頼っていた。そもそもロシア革命後、1919年に第1回のコミンテルン大会が開催され、各国共産党はその支部とされたから、コミンテルンが廃止される1963年までは組織上も、ソ連共産党の指導を受けていた。六全協以降、党内の指導体制を確立させた宮本顕治は中ソ対立の当初は、中国共産党寄りだったが、ソ連、中国双方に批判を強め自主独立路線をとり始める。
宮本は「国際共産主義運動の支援を受けて暴力革命を遂行するのではなく、日本国民の支持を得て大衆的な党組織を建設し、国会で議席を増やして平和革命を実現する」路線を確定させる。50年前反日共系の学生運動は、量的にも理論的にも日共系を凌駕していたと思うが、50年後残っている反日共系の党派は革共同の中核派、革マル派くらいのものであろう。日本共産党は100年かけて大きく変化したことは間違いない。しかしだからといって日本革命に向けて大きく前進したというわけでもない。直近の参議院選挙でも日本共産党は議席を減らした。党員数も機関紙「赤旗」の購読者数も減っている。著者は①イタリア共産党のような社会民主主義への移行②マルクス主義を含む多様な社会主義イデオロギーに立脚し、直接的な市民参加に活動の力点をおく民主的社会主義への移行-もあり得るのではと示唆する。どうする日本共産党?

7月某日
「両手にトカレフ」(ブレイディみかこ ポプラ社 2022年6月)を読む。どのような内容なのか、まったく知らずに著者がブレイディみかこという理由で我孫子市民図書館にリクエストした。表紙は金髪の制服女子と黒髪の和服の女子が手をつないでいるイラストだ。イギリスの公営住宅にアル中でドラッグ中毒の母と小学生の弟と住むミアが主人公。ミアはある日図書館でホームレスっぽいおじさんから、一冊の本を進められる。表紙には「ある日本人女性の刑務所回顧録」とあり、その女性の名はカネコ、フミコというらしい。大正末期に摂政宮(後の昭和天皇)暗殺未遂事件により逮捕された金子文子のことである。文子は共犯で同棲相手だった朴烈とともに死刑判決を受けたのちに、無期懲役に減刑されるが、収容先の栃木女子刑務所で自殺する。後に自伝的手記「何が私をこうさせたか 獄中手記」が公刊される。「両手にトカレフ」では貧困と弟の世話に追われながらもラップのリリックに挑戦するといったミアの日常が活写される一方で、ミアが読み進む文子の手記が掲載される。私が最近、無政府主義に興味を持つようになったのはブレイディみかこの「女たちのテロル」を読んだのがきっかけだ。そこでは唯一の日本人として金子文子がとりあげられていた。それから瀬戸内寂聴の文子の伝記小説「余白の春」、「何が私をこうさせたか」を読んだ。ブレイディみかこも金子文子も私にとっては無政府主義の先導者なのだ。ちなみに表紙の金髪少女がミアで黒髪の少女が金子文子ということだ。

7月某日
「70歳、これからは湯豆腐-私の方丈記」(太田和彦 亜紀書房 2020年12月)を読む。太田和彦はグラフィックデザイナーで東北芸術工科大学教授も務めたりしたが、私には「全国居酒屋巡り」のような居酒屋番組の司会進行役にして主演者の印象が強い。居酒屋番組としては吉田類の「酒場放浪記」やきたろうの「夕焼け酒場」をよく見るが、吉田類は庶民的で酒場の客とも乾杯を繰り返したりしている。「夕焼け酒場」は宝焼酎がスポンサーということもあってか酒場と酒場の主人の紹介がメイン。これに対して太田和彦は居酒屋で孤独に酒と向き合う。これは太田が東京教育大学芸術科を卒業、電通に勤務した後、グラフィックデザイナーとして独立したという経歴とは無縁ではないように思う。よく言えば孤高、悪く言ってしまえばキザ。この本のタイトルにもそれは現れている。これといった趣味のない私にとってレコード収集や登山、写真、焚火などの趣味の話は多少の嫌味をともなう(個人の感想です)。しかし最終章の「誰かのために」では安倍元首相や麻生某をきちんと批判している。この項は「すぐ言い訳し、まともに謝ることができず、責任転嫁するのは小人物の証明で恥ずかしい、気をつけよう」という文章で結ばれている。

7月某日
「オリーブの実るころ」(中島京子 講談社 2022年6月)を読む。6つの短編が収められている。それぞれの短編が描くのはさまざまな家族の形と愛の形だ。「家猫」は離婚して高層マンションに一人で暮らす息子の姿を、母親、息子、息子の同棲相手のそれぞれの視点から描く。同棲していることはときどき息子のマンションを訪れる母親には秘密だ。同棲相手の気配を「猫」と言いくるめることからタイトルになっている。「ローゼンブルグで恋をして」は、5年前に妻を亡くした馬淵豊が妻と結婚する前に結婚していた女の娘が中国地方の市議会議員選挙に立候補する話。馬淵は東京から選挙の手伝いに行くが、支援者の青年が都道府県名をドイツ語に言い換えることに凝っていて、馬淵が最初に結婚したのがローゼンブルグ、すなわち茨城県だ。「川端康成が死んだ日」は子どもの頃、家を出て行った母親の話。父の海外出張中に知り合った青年と恋に落ちた母親は、青年の実家がある葉山へ家出する。葉山に行く前に寄った鎌倉で乗ったタクシーの前の車に乗っていたのが川端康成。渋滞で車が進まなかったとき、川端は車を降りて母親へ「今日の鎌倉は美しいね」と告げ「でもそれはねえ、あなたが僕と同じ、末期の眼でそれを見ているからだ」と語る。翌日、新聞の一面にはノーベル賞作家の自殺が報じられていた。後の3編も実に面白かった。中島京子の作品は、短編であっても筋が複線、複々線に分かれ私には多少難解。この小説も私は続けて二度読んで理解した。

7月某日
「ホモ・エコノミクス-『利己的人間』の思想史」(重田園江 ちくま新書 2022年3月)を読む。経済学が前提とする人間は「自分の利益を第一に考えて合理的に行動する主体=経済人」であり、この経済人が利己的人間であり、すなわち「ホモ・エコノミクス」である。ヒュームやスミスをはじめ、ヨーロッパの思想史の素養がない私にとって読み通すのは、かなりしんどいものがあったが、読後感は悪くない。著者の本をもうちょっと読んでみようという気になった。だいたいこの本は図書館で借りたので傍線を引くことも出来なかった。ならば新刊を買ってみようかという気にもなった。著者の重田園江は1968年生まれ、早稲田大学政経学部政治学科卒業後、日本開発銀行を1年で退社、東大大学院博士課程を経て現在、明治大学政経学部教授である。早稲田の政治学科で私の20年ほど後輩である。もっとも私は学部の授業に面白さが感じられず、5月以降は当時盛んだった過激な学生運動に参加、授業にはほとんど出席したことがなかった。重田も学部生であった1980年代を振り返り、「60年代に(大学の費用で)アメリカ留学したであろう教員陣による、熱意も新鮮味もないアメリカ政治学の授業が行われていた。聞くに耐えない退屈な授業に辟易し、経済学科への編入を試みたほどだ」と書いている。それでも重田は藤原保信ゼミに参加したぐらいなのだから優秀だったのは間違いのないところ。本書の感想は本屋で新刊を入手し再読してからということにしよう。

モリちゃんの酒中日記 7月その2

7月某日
「資本主義の方程式-経済停滞と格差拡大の謎を解く」(小野善康 中公新書 2022年1月)を読む。経済の長期低迷が続いている。株価は回復し雇用も安定しているが、肝心の給料が上がらない。ロシアのウクライナ侵攻を契機に石油や小麦価格を押し上げているが、所得の上昇をともなわない典型的な「悪いインフレ」だ。本書でも触れられているが、国内総生産(名目GDP)は1997年の534兆円に対して2015年は531兆円で、18年間、経済はまったく成長していない。私の理解したところによると日本経済は1980年代を境に成長経済から成熟経済に移行した。成熟経済の下では国民の多くは消費よりも貯蓄に関心が向かう。消費選好から資産選好への移行である。成長経済では個人の勤勉と質素倹約という美徳が、そのまま経済成長につながるが、成熟経済では、これらは経済の低迷をもたらす。著者はこれらを打破するために、政府による富の再分配や教育、医療、介護、保育等の充実を挙げている。真っ当な意見だと思うけれど。

7月某日
「ひなた」(吉田修一 光文社 2006年1月)を読む。「JJ」(光文社)という雑誌に2003年5月号~2004年8月号に連載された。まだバブルの余韻があるころかな。茗荷谷の一軒家に住む大学生の尚純が主人公。かなり広い一軒家と想定されるのは、後に兄夫婦や兄の友人が同居することになることからも分かる。実は尚純は父母の実の子どもではないことが明らかにされ、ストーリーは吉田修一っぽくなるのだが…。

7月某日
「樽とタタン」(中島京子 新潮文庫 令和2年9月)を読む。小学生の女の子が学校が終わると喫茶店で過ごす。女の子は店でタタンと呼ばれ、働いている母親が仕事を終えて迎えに来るまで喫茶店の、前はコーヒーの豆を入れてたであろう樽で主に過ごす。で、タイトルが「樽とタタン」。小説家が少女時代を回想するという形式は悪くない。悪くないけど私にはピンと来なかった。

7月某日
「私と街たち(ほぼ自伝)」(吉本ばなな 河出書房新社 2022年6月)を読む。(ほぼ自伝)となっているが「まえがき」では「これは自伝っぽいある種のフィクションだと思ってくださるとありがたい」と書いている。同じく「まえがき」で「今なら立派な発達障害と呼ばれるであろう私は、学校で地獄を見たし、実際生きるためのことが何もできない」とも書いている。吉本ばななは戦後最大の思想家と呼ばれる吉本隆明の次女で、表紙には海水浴にときの一家の写真などが使われている。本扉はどこかの神社(根津神社か)にお参りしている親娘の写真である。「私と街たち」の街たちとは親と一緒に過ごした根津界隈やバイトに明け暮れていた東上野の呑み屋の思い出であったりする。街とそこに生きる人たちを描いて、ばななの筆は冴えるのである。

7月某日
林さんと15時に我孫子駅前の「しちりん」で待ち合わせ。林さんは元年住協で福岡支所長や東京支所長を歴任、営業の第一人者だった。私も年友企画で営業の面白さを知ったこともあり仲良くなった。まぁ林さんは新松戸に住んでいて家が近いというのも仲良くなった理由だ。以前は新松戸界隈で呑むことが多かったが、最近は我孫子が多い。と言ってもコロナ禍で去年は呑まなかったはずだから今回は久しぶりである。

7月某日
梅雨は終わった筈なのに雨が続く。11時30分から近所のマッサージ屋でマッサージを受ける。マッサージ屋の前のバス停から我孫子駅へ。我孫子駅から千代田線で霞が関へ。飯野ビルの地下でランチ、「生姜焼き定食」(1000円)を頂く。日土地ビルの弁護士事務所で打ち合わせ。虎ノ門から銀座線で新橋、新橋から山手線で上野、上野から常磐線で我孫子へ。最近は週1回くらいで東京に行くが、何もなくても楽しい感じがする。

7月某日
図書館で借りた「信仰」(村田沙耶香 文藝春秋 2022年6月)を読む。村田沙耶香の小説は割と好きで「コンビニ人間」「地球星人」「生命式」などを面白く読んだ記憶がある。現実との違和感をシュールに描くという感じが気に入ったのだと思う。ただ今回読んだ「信仰」は「ちょっとついて行けないかな」というのが素直な感想。ただ村田沙耶香ってよしもとばななに感性が似ているのでは感じた。何か月か後にまた挑戦してみようと思う。

モリちゃんの酒中日記 7月その1

7月某日
図書館で借りた「奇跡」(林真理子 講談社 2022年2月)を読む。この本は「多くの人の予約が入っています。なるべく1週間くらいでお返し下さい」という赤い紙が裏表紙に貼ってあった。奥付の横に「本書は、取材に基づいたフィクションです」と印刷されているが、読んだ感じでは事実に基づいたノンフィクションかな。写真家の田原圭一(私はこの人のことを知らなかったが、長くフランスに滞在した写真家で日本に帰国後、亡くなった)と梨園の人妻、博子との出会い、不倫の恋、離婚と結婚、そして2017年の田原の癌による死までを描いている。博子は近江屋という屋号の歌舞伎の名門に嫁ぎ一人息子、清之助を授かる。博子は息子を連れて田原に会いに行く。清之助も田原になつく。田原と博子、清之助の3人家族のようだ。ウィキペディアで検索すると博子が最初に結婚した歌舞伎役者は片岡孝太郎、息子は片岡千之助ということがわかる。もちろん小説では実名では描かれてはいないが、最近はウイキペディアで大概のことは分かっちゃうからね。「奇跡」は1日で読んじゃったので明日、図書館に返します。

7月某日
4回目のワクチン接種。マッサージを受けた後、マッサージ店の真ん前にあるバス停から我孫子駅前へ。12時過ぎに会場のイトーヨーカ堂の3階に行くと受付開始は13時からとのこと。ランチを北海道ラーメンの「ヒムロ」で食べることにする。以前は結構、混んでいた店なのだが、12時過ぎというのにお客もまばらだった。これもコロナの影響か。つけ麺に煮卵をトッピング、これで1000円。会場に戻ってワクチン接種を受ける。駅前からバスでアビスタ前へ。バス停から歩いて5分で我が家。部屋を冷やして図書館から借りた「幕末史」(佐々木克 ちくま新書 2014年11月)を読み進む。

7月某日
「幕末史」を読了。著者の佐々木は立教大学、同大学院博士課程で日本近代史を専攻、京都大学で助教授、教授。2016年7月に亡くなっている。本書は遺作ということになるが「あとがき」で「幕末の日本が立ち直っていく姿を伝えたいというおもいと気力がエネルギーとなった。74歳の、癌と共生しながらよたよたと歩いている老人の、生きている証である」と記している。本書は維新史の通説にも果敢に挑んでいる。とても74歳のよたよた歩む老人とは思えない。一例をあげると文久3(1963)年の8月18日、朝廷から三条実美らの過激派公卿が排除された「8月18日の政変」である。通説では公武合体派が尊攘派を追放したクーデターとなっているが、佐々木は「そもそも公武合体論と尊攘論は相反するものではない」と言い切る(詳しくは同書第3章「尊王攘夷運動」の4「文久3年8月の政変」参照)。

7月某日
「生皮 あるセクシャルハラスメントの光景」(井上荒野 朝日新聞出版 2022年4月)を読む。小説講座の人気講師がセクシャルハラスメントで告発され、報道でも大きく取り上げられる。「桐野夏生さん激賞」と帯にあった。私も大変面白く読ませてもらったが、「俺はセクハラやっていないだろうか?」という疑問が残った。セクハラは被害者が「セクハラを受けた」と告発すれば、ほぼ100%アウトだ。今まで告発されたことはないが、社長をやっていた小さな出版社も女性の多い会社だったからね。この小説の直接の感想とはならないかも知れないが、セクハラも人権の問題だ。相手の女性を人間として尊重していればセクハラは起きないと思う。「セクハラも人権問題」と私に考えさせたこの小説と井上荒野に感謝!

7月某日
ふれあい塾あびこ公開講座をアビスタに聴きに行く。13時開講なので15分前に行くとほぼ満席状態。ウイークデイの昼間なのでおじいさん8割、おばあさん2割というところ。今回のテーマは「義時の東アジア」で講師は東大教授の小島毅先生。洒脱な語り口で1時間30分、飽きなかった。さわりを2つほど。ひとつは東国の坂東武者たち、すなわち鎌倉幕府が農業重視の鎖国派なのに対して、西国の平氏、後白河法皇、源義経、後鳥羽上皇は通商重視の開国派ということ。そういえば昔、「平家、海軍、国際派」という言葉を聞いたことがある。格好は良いが最終的な実権は握れないという意味か。もうひとつはテムジン(1162~1227)は1206年にクリルタイを開いて即位しチンギスハンとなる。1163年に生まれた北条義時が父の時政を追放したのが1205年。1164年生まれの南宋の史弥遠(シビエン)がクーデターを起こしたのが1207年。義時が2人の存在を知っていたとは思えないが、東アジアにける同時代性を感じるではないか。

7月某日
「幕末維新の個性⑤ 岩倉具視」(佐々木克 吉川弘文館 2006年2月)を読む。同じ著者による「幕末史」が面白かったので我孫子市民図書館で借りる。岩倉具視って昔の500円札のイメージしかないんだけど。策謀家の印象も強い。しかし著者は明治6年の西郷遣朝使節問題、7年の島津久光問題、14年の憲法問題を典型として挙げ、「本来の岩倉は調整・調停役を自分の役目と心得ていたが、この際における岩倉は、明快な主張のもとに敢然と決断を下していた。…権力の座を求めない、しかし責任感の強い、そして私利にも恬淡な岩倉だからできたこと」と絶賛に近い誉め方である。幕末維新の小説やドラマで人気のあるのは坂本龍馬、桂小五郎(木戸孝允)、西郷隆盛らで、岩倉具視や大久保利通にはどうも人気がない。人気って歴史上の功績を必ずしも反映していないのではないか、そう思ってしまった。

7月某日
安倍晋三元総理が近鉄西大寺駅前で銃撃され亡くなった。新聞やテレビでは安倍元総理の功績を伝え続けている。私は違和感を感ぜざるを得ない。「失われた30年」すべてを安倍元総理の責任とするわけにはいかない。しかし黒田日銀総裁と二人三脚で2%の物価上昇を公約したが、安倍元総理の任期中にそれが実現することはなかった。皮肉なことに今年2月のロシアによるウクライナ侵攻により、小麦や原油価格が上昇、さらに円安も加わって世界的に物価上昇、インフレが進む。しかし今回のインフレは所得の上昇を必ずしもともなっていない。典型的な悪いインフレである。話がそれたが、私はアベノミクスは失敗だと思っている。この30年ほど実質賃金はほとんど上がっていない。経済だけではない。森友、加計学園問題、桜を見る会などで権力の私物化が目に余った。安倍元総理の突然の死去もあって参議院選挙での自民党の勝利は間違いのないところであろう。日本の民主主義の将来を憂います。

モリちゃんの酒中日記 6月その2

6月某日
「絢爛たる悪運 岸信介」(工藤美代子 幻冬舎 2012年9月)を読む。岸信介は60年安保改定時の首相で、国会で安保法案が通った後に辞職、池田勇人に首相の座を譲った。誤植の多い本で私が気付いただけでも5か所はあった。多くは変換ミスと思われるが鈴木繁三郎は鈴木茂三郎の間違い、才脳は才能が正しい。校正ミスというよりは校閲ミスか。書下ろし原稿というから作者が変換ミスしたものをそのまま通してしまったものと思われる。出版社には猛省を促したい。ところで岸が首相を務めていたのは今から60年以上前、私が小学校6年生の頃が60年安保だ。岸の娘と後に外相や自民党の幹事長を歴任した安倍晋太郎が結婚し、生まれたのが安倍晋三だ。岸というとゴリゴリの右派の印象がある。それはそうなのだが、神がかった右翼というよりむしろ国家社会主義者というべきだろう。満洲国時代は計画経済を実践したし、首相のときは国民年金法を成立させている。自由主義の経済とは一線を画していたように思うのだけれど。そこが孫の晋三とは大いに異なるところだ。

6月某日
「マイスモールランド」(川和田恵真 講談社 2022年4月)を読む。これ何か月前にテレビドラマを観たんだよね。映画にもなったらしい。トルコから日本に逃れてきたクルド人家族の物語。埼玉県の川口市に住んでいるが、入管当局に無断で県境を越えることは禁じられているらしい。主人公のサーシャは高校3年生、大学の学資にしようと荒川を超えた赤羽のコンビニでバイトしているが、厳密に言えばこれも許されない。作者の川和田も英国人の父と日本人の間に生まれた。テレビと映画の監督もやっている。入管の問題は人権の問題だと思う。国籍に関係なく等しく人権は保障されなければならない。現実にスリランカの人が入管で適切な医療を受けられずに亡くなっている。ウクライナからも多くの難民がポーランドなどに逃れており、一部は日本でも受け入れている。ウクライナだけでなくクルド人やミャンマーの軍事政権から逃れて日本にやってきた人も多いと聞く。明治時代の日本は多くの亡命清国人や韓国人(朝鮮人)を受け入れてきた。戦前の日本にはそういう度量があったと思うのですが。

6月某日
11時にマッサージ、そのまま床屋さんへ。この床屋さんは65歳以上は1800円(通常の大人料金は2000円)、今回はスタンプが10個たまったのでさらに500円引き。大変お得です。15時から虎ノ門の弁護士事務所で打ち合わせ。18時から御徒町の吉池食堂で大谷源一さんと呑む。家に帰ると渡辺眞知子さんから書籍小包が届いていた。渡辺さんが執筆した「ラブレター-わが愛しの野良猫に捧げる」(土曜美術出版販売 2022年6月)という本が送られて来た。渡辺さんは明治大学の演劇科出身、確か高校は名門、甲府一高だったと思う。新宿歌舞伎町でクラブ宴を経営していた。亡くなった竹下隆夫さんとよく通いました。「竹下さんを偲ぶ会」にも出席してくれた。本には幡ヶ谷界隈での野良猫たちとの出会いが綴られている。

6月某日
「パンとサーカス」(島田雅彦 講談社 2022年3月)を読む。四六判500ページを超える大著、読み終えるのに4日かかった。現代の日本が舞台なのだが、そこには作者、島田の現代社会認識が色濃く反映されている。一言でいうと「戦後日本は一貫してアメリカの支配下にある」ということ。戦前の講座派=日本共産党は明治維新を絶対主義体制の確立と捉え、当面する革命の性格をブルジョア民主主主義革命とした。戦後の日本共産党もこの路線を引き継いでいる。講座派に対抗した労農派は明治維新を不完全とはいえブルジョア民主主義革命とし、当面する革命の性格を社会主義革命とした。戦後、労農派の理論を引き継いだのが社会党左派と共産主義者同盟(ブンド)や革命的共産主義者同盟などの新左翼である。ということは日本をアメリカの支配下にあるとする島田の認識は、講座派的認識に極めて近いと言える。日本帝国主義は自立していると捉える新左翼に対して講座派、日本共産党の認識は日本の独占資本はアメリカ帝国主義に従属していると捉えている。「パンとサーカス」を読むと、日本がアメリカの支配下にあるという現実にも頷かざるを得ない面がある。私が大学を卒業してから半世紀が経つ。この間、短い政権交代はあったものの基本的には自民党の支配が続いている。本世紀のうち前半はなんとか経済成長が維持できたが、後半は低成長、マイナス成長に喘いでいる。ロシアのウクライナ侵攻もあり、世界経済はインフレ基調。どうするニッポン!

6月某日
社保研ティラーレを訪問。吉高会長と佐藤社長と懇談、話題があっちへ飛びこっちへ飛びで予定時間を大幅に経過、次の訪問先の虎ノ門の弁護士事務所への訪問が30分近く遅れてしまった。弁護士との打ち合わせを済ませ、千代田線の霞が関から根津へ。根津の医療系の専門出版社の青海社で工藤社長から「輝生会20周年記念誌 石川誠と共に歩んだ20年間」を頂く。輝生会は初台リハビリテーション病院や船橋リハビリテーション病院の経営母体で都市型リハビリ病院経営の草分け的存在。私が2010年に脳出血で倒れ、急性期の病院から回復期の病院への転院を迫られたとき、当時、厚労省の中村秀一さんから船橋リハ病院を紹介された。熱意に溢れるスタッフのおかげで社会復帰することができて、船橋リハ病院とスタッフ、紹介してくれた中村さんには未だに感謝している。工藤社長と根津界隈を散歩、18時から根津の沖縄料理屋、「ぬちいぬ島」で会食があるので、ベンチに座っておしゃべり。18時になったので工藤社長と別れて「ぬちいぬ島」へ。

6月某日
「2022年の連合赤軍-50年後に語られた『それぞれの真実』」(深笛義也 清流社 2022年2月)を読む。裏表紙に我孫子市民図書館から「この本は、次の人が予約してまっています。読みおわったらなるべく早くお返しください」という黄色い紙の「おねがい」が貼られていた。連合赤軍なんかに関心を持つ人がいるんだ、私のような全共闘崩れかしらと思いながら読み進む。私は連合赤軍には直接には関わっていないが、1969年の9月3日に早稲田大学の第2学生会館屋上で機動隊に逮捕され大森警察署に留置されたとき、1日遅れで女子房に留置されたのがこの本にも出てきて、後に山岳アジトで殺される京浜安保共闘の大槻節子だった。留置場の金網越しではあったが楚々とした美人であった。彼女は愛知外相訪米訪ソ阻止闘争で羽田空港に火炎瓶を投げた容疑で逮捕されたそうだ。何日か遅れて当時彼女の恋人であった渡辺正則も留置された。私はノンセクトで規律にも規範にも縁のない活動家だったが、大槻や渡辺は私の記憶では留置場内でも姿勢を崩さず、私は「ホンモノの活動家は違う」と感心したものだ。69年の9月と言えば2か月後の佐藤訪米を控えて「何ごとかが起きる」という雰囲気がキャンパスにはあった。直接の面識はないが政経学部で私の1年下だった山崎順もこの頃、赤軍派に参加、72年に処刑されている。私は69年の9月に逮捕されていなかったら、赤軍や京浜安保共闘に加わっていた可能性がある。火炎瓶とゲバ棒では機動隊の壁は崩せないのは自明であり、「次は銃と爆弾」という認識は私にもあった。私などは真っ先に処刑されていただろうから、まぁ9月に逮捕されていてよかったのかも知れない。

モリちゃんの酒中日記 6月その1

6月某日
「笹の舟で海をわたる」(角田光代 毎日新聞社 2014年9月)を読む。左織が風美子と出会ったのは22歳のとき、風美子から「坂井左織さんでしょ? 違いますか」と話しかけられたのだ。小学校の疎開先の修善寺で一緒だったという。左織の修善寺の記憶には風美子の姿はなかったが、それから二人の長く続く友情が始まる。左織は大学院で学ぶ温彦と見合い結婚し、風美子は温彦の弟の潤治と結婚、二人は義理の姉妹となる。温彦は大学で教えるようになり、学者として順調なスタートを切る。一方、潤治は職が定まらないが、風美子は新進の料理研究家として頭角を顕して行く。左織は女の子と男の子に恵まれるが、風美子には子が出来なかった。一種のファミリーヒストリーと言えるが、この小説のファミリーは左織と風美子の義理の姉妹が軸となっている。著者の角田は1967年生まれ、左織と風美子は終戦のときに8歳ぐらいだから1937年前後の生まれである。左織と風美子は角田の親の世代であり、角田は左織の娘、百々子と同じ世代である。左織は百々子と価値観を共有できずに悩むが、これが非常に巧みに表現されている。角田の母子関係が反映されているのかも知れない。タイトルの「笹の舟で海をわたる」はラストで左織が川縁で遊ぶ二人の女の子を見て、疎開先の川で笹の舟を作って風美子と遊んだことを思い出すことにちなむ。

6月某日
「春のこわいもの」(川上未映子 新潮社 2022年2月)を読む。川上未映子と言えば数年前に読んだ「ヘブン」の衝撃が忘れられない。学校で繰り返し壮絶な苛めにあう中学生の男の子と女の子の話だけど苛めのシーンがリアルで何度か読むのを中断したほどだ。だから川上未映子が虐めに抗う正義感に溢れた作家かというとそれも違う。小説の作家というのは何か?と問われれば現在の私ならば「文章を通じておのれの想いを世間=社会に発する人」と答えるだろう。川上未映子が本作で何を伝えたかったのか?それが私には明確には分からない。本作には6作の短編が収められている。比較的長めの短編もあれば掌編と呼んでもいいものがある。6作の共通点は帯の惹句によれば「感染症が爆発的流行(パンデミック)を起こす直前、東京で6人の男女が体験する、甘美きわまる地獄めぐり」ということになる。「地獄めぐり」というコピーは「春のこわいもの」というこの短編集のタイトルとも通底するものがある。この短編集の最後に収められそして一番長い「娘について」という短編が私には最も面白かった。作家である主人公が高校以来の親友で、最近では音信が途絶えがちな見砂杏奈からの電話をきっかけに見砂との過去を回想する。回想の過程で主人公が見砂やその母を裏切っていたことが明らかにされる。これが「春のこわいもの」であり「地獄めぐり」なのだ。

6月某日
神田の社保研ティラーレを訪問。吉高会長、佐藤社長と次回の社会保障フォーラムの講師について相談。厚労省のしかるべき人にアドバイスをもらう方向で一致。社保研ティラーレは以前は日比谷通りの東側(神田駅側)にあったが、この春に日比谷通りの西側のビルに移転した。前のビルは2階で眺望は期待できなかったが、今回は9階なので神田駅方面への眺望が広がる。帰りに屋久島の焼酎を頂く。

6月某日
「あたしたち、海へ」(井上荒野 新潮文庫 令和4年6月)を読む。有夢と瑤子、海の3人は同じ中高一貫校の中学に通う親友同士。クラスを仕切るルエカの意向に反して海はマラソン大会を欠席する。それから海に対する陰湿な苛めがスタートする。苛めって同調圧力に屈しないことから発することが多い。ロシアのウクライナ侵攻も「同じスラブ民族だから」と同調圧力をかけてきたロシアが、それに抗するウクライナ、ゼレンスキー大統領にしかけた軍事侵攻=苛めである。海は有夢と瑤子と連帯して苛めに対抗する。ウクライナも同じ価値観を共有する西側諸国と連帯して侵攻に抗するべきなのだ。

6月某日
「星月夜」(李琴峰 集英社 2020年7月)を読む。日本のW大学で日本語講師の職についた台湾人・柳凝月は新疆ウイグル自治区出身の留学生と惹かれ合い恋人同士に。二人はともに女性である。著者の李琴峰は台湾生まれ台湾育ちで中国語が母語。しかし日本語を学んで日本語で小説を書き、2019年に芥川賞を受賞している。「彼岸花が咲く島」を読んだことがあるが、私としては伝奇的な印象が残りつつも李琴峰の小説家としての力量を強く感じた。「星月夜」は日本での留学生生活と恋愛を描く。ロシアのウクライナ侵攻により台湾海峡の緊張も高まっている。新疆ウイグル自治区にも中国の少数民族の問題がある。李琴峰の小説には地球規模の課題が詰まっている。

モリちゃんの酒中日記 5月その3

5月某日
大谷源一さんに「セパ交流戦」のヤクルト・日本ハム戦を見に行かないかと誘われる。東京ドームには何回か観に行ったことがあるが神宮球場は初めてなので行くことにする。地下鉄の神宮前で待ち合わせ、球場まで歩く。都立青山高校(青高)や日本青年館の近く。青高は亡くなった竹下さんの母校、高校生運動が盛んで竹下さんの頃は中核系の反戦高協の拠点だったという。竹下さんは高校生運動のリーダーで法政大学経済学部に入学、学生運動のエリートだったわけね。野球は日本ハムが逆転サヨナラ勝。ヤクルトファンがヤクルトのユニホームを着て応援、7回には小さな雨傘を手にもって東京音頭を歌っていた。見た感じ4割方は若い女性ファン、ほぼ満席だった。日本青年館が立派な高層ビルに建て替えられていた。日本青年館の前が明治公園。日比谷公園や清水谷公園、礫川公園などと並んで昔は左翼に集会の場を提供していた。

5月某日
「辺野古入門」(熊本博之 ちくま新書 2022年4月)を読む。海兵隊の航空基地としては岩国と並んで国内最大吉の普天間基地の移転先として日本政府が決定したのが名護市辺野古。反対運動が続く一方で名護市長選挙では容認派の市長が再選されている。そして知事選挙では翁長、デニー玉木と反対派の知事が2代続く。著者の熊本は明星大学の社会学の教授、フィールドワークとして辺野古に取り組んでいる。反対派、容認派と分け隔てなく泡盛を酌み交わし議論する姿勢には好感が持てる。沖縄が日本に復帰して50年が経過する。私も数回、沖縄には行っているが基地の現実を肌に感じたことはない。沖縄と本土との関係はロシアとウクライナの関係を私には連想させる。もっと沖縄のことを知らねばと思う。

5月某日
「タラント Talant」(角田光代 中央公論新社 2022年2月)を読む。我孫子市民図書館で借りたんだけれど、裏表紙に「この本は多くの人の予約が入っています。なるべく1週間くらいでお返しください」と印刷された赤い紙が貼ってあった。大変人気があるようだ。3日ほどかけて読み通したが、確かに面白かった。しかし帯に記されている「学校に行けなくなった甥、心にふたをした義足の祖父、〝正義感″で過ちを犯したみのり。小さな手にも使命(タラント)が灯る慟哭の長編小説」というコピーには少なからぬ違和感を持った。主人公のみのりの甥は確かに不登校になるのだが、「学校に行けなくなった」というより「自ら不登校を選択した」のだし「心にふたをした」祖父だって、口数は少ないがそれは「心にふたをした」のではなく、自分の心を表現する適切なワードが見つからなかったためじゃないのかなぁ。総じて帯のコピーはみのりはじめ登場人物に否定的な感じがする。そうじゃないと思う。「自分はなにものか?」。みのりも祖父も、甥も真剣に問うているのだ。高松で東京で、そしてみのりの大学時代の友人、玲はベイルートやアフリカ、メキシコで。ロシアのウクライナ侵攻に見られるように時代の空気は明らかに不穏だ。しかし、みのりたちはそれにたじろぎつつも果敢に挑んでいるように私には思えた。

5月某日
「戦後『社会科学』の思想-丸山眞男から新保守主義まで」(森政稔 NHK出版 2020年3月)を読む。タイトル通り、戦後の丸山眞男から最近の新自由主義、新保守主義の思想について概観した内容。全体が①「戦後」からの脱却②大衆社会の到来③ニューレフトの時代④新自由主義的・新保守主義展開の4部構成になっている。第2次大戦の終結から75年以上が経過し1960~70年代の学生運動の時代からだって半世紀を経過している。とすると③ニューレフトの時代のあとに④新自由主義的・新保守主義的展開が来るのは「早すぎ」とも思えるが、著者は「ニューレフトの退潮後の世界は、市場経済とグローバル資本主義の展開する世界となって今に直接つながっている」(はじめに)としている。著者の森は東大教養学部で学部の2年次後半から4年次までの学生を対象に「相関社会科学基礎論Ⅰ」という入門的な授業を行っており、本書はその授業ノートをもとに書き下ろされている。森政稔という人の著作を読むのは初めてだし名前も聞いたことがなかった。巻末の略歴によると1959年生まれ東大法学部、同大学院博士課程中退とある。ネットで調べると筑波大学に務めていた頃から取手の団地暮らしとある。筑波新線で守谷から通勤しているのかしら。明治大学政経学部の重田園江教授とは大学院で机を並べていたらしい。重田氏によると森は無類の猫好きらしい。ちなみに重田氏は早稲田の政経学部の藤原保信ゼミ出身で一流銀行に入行したが肌に合わず1年で退社、東大の大学院へ。専門は無政府主義らしい。今度、この人の本も読んでみたい。

モリちゃんの酒中日記 5月その2

5月某日
「現代ロシアの軍事戦略」(小泉悠 ちくま新書 2021年5月)を読む。ロシアのウクライナ侵攻以来、テレビで顔を見ない日はない小泉悠の著作である。もっとも今回のロシアの侵攻は今年の2月24日に開始され現在に至っている。本書が執筆されたのはそのほぼ1年前だから現在のウクライナ情勢は本書には反映されていない。しかしクリミアがロシアに併合された2014年のロシア・ウクライナ戦争については触れられている。本書を読んで感じるのだが小泉はしっかりとロシアおよび周辺やNATO、米英仏独の情報を収集、分析しているということだ。しかもイデオロギー的な見地からではなく科学的、客観的な分析が光る。小泉にそれがなぜ可能だったのか、「あとがき―オタクと研究者の間で」その秘密の一端が明らかにされている。小泉は「長らく研究者よりは『職業的オタク』という自己認識を強く持ってロシア軍事研究を進めてきた」と書く。「職業的オタク」は実は強い自負心のあらわれと思う。ロシア軍事研究については誰にも負けないぞという自負心である。

5月某日
「夢見る帝国図書館」(中島京子 文春文庫 2022年5月)を読む。谷根千(谷中・根津・千駄木)など上野周辺を舞台にした小説である。小説家志望でライターをやっている「わたし」が上野公園のベンチで休んでいると、初老の女性に話しかけられる。小説の主人公である喜和子さんとの出会いである。「かれこれ十五年前のことだ」とされる。この小説が単行本として刊行されたのが2019年5月、その前に雑誌に連載されているから、この小説の現在は2015年頃、喜和子さんは60歳代の前半だったと推定される。物語のなかで喜和子さんは終戦後に生まれたこと、結婚後、婚家に一人娘を残して出奔し数奇な運命をたどったことが明らかにされる。ところでタイトルの「夢見る帝国図書館」は戦前、上野に存在した帝国図書館のことで戦後は国際こども図書館として建物は引き継がれている。ライターの「わたし」は国際こども図書館の取材の帰りに喜和子さんに遭遇したのだ。喜和子さんに取材の帰りということを話すと、「あたしなんか、半分住んでいたみたいなものなんですから」と告げられる。喜和子さんの元恋人で元大学教授の古尾野先生、喜和子さんの二階に住んでいた藝大生で女装趣味の谷永雄之助くんなど登場人物も多彩。

5月某日
沖縄が日本に復帰して50年、復帰の日は確か1972年5月15日だったと思う。復帰50年を記念して各種の催し物が開催されている。朝のNHKの連ドラ「ちむどんどん」も沖縄出身の女の子が上京して料理人となる話だ。国立東京博物館でも「特別展 琉球」が開催されているので、いつものように香川さんを誘って観に行くことにする。琉球の文化は、中国大陸と日本本土の影響を強く受けながらも琉球独自のものを形成していったというのが私の印象だ。明治の琉球処分によって考えようによっては「無理やり」日本の政治経済、文化圏に統合されたと言えないだろうか。沖縄と日本本土との関係はウクライナとロシアの関係に似ていなくもないと思う。そうした意味では沖縄独立論にも根拠があるのでは。博物館を出て近所の国際子ども図書館に寄る。残念ながら17時を過ぎていたので閉館。根津まで歩いて沖縄料理屋「ぬちいぬ島」で夕食。私はアルコール度数30度の泡盛を頂く。締めは沖縄そばを香川さんと食べる。

5月某日
「小隊」(砂川文次 文春文庫 2022年5月)を読む。著者の砂川文次は1990年生まれの32歳、神奈川大学卒業後、自衛官に任官、現在は都内区役所に勤務。「小隊」には表題作のほか「戦場のレビヤタン」「市街戦」の短編3作が収められている。「小隊」はロシア軍が北海道に侵攻し陸上自衛隊の安達3尉は小隊を率いて応戦する。安達は一般の大学を出て幹部候補生学校を出て任官した。著者の砂川と同じような経歴だ。中東に派遣された傭兵たちを描いた「戦場のレビアタン」、久留米近辺での陸上自衛隊の行軍訓練を描いた「市街戦」も作者の経験に裏打ちされて圧倒的にリアルだ。文庫本の帯に「ロシア軍、北海道に侵攻」「あまりのリアルさに話題沸騰!」「元自衛官新芥川賞作家、衝撃の戦争小説」とあるのも大げさではない。ちなみに「レビヤタン」は英語読みではリバイアサン(怪物)のことだそうだ。

モリちゃんの酒中日記 5月その1

5月某日
先ごろ亡くなった見田宗介の「まなざしの地獄-尽きなく生きることの社会学」(河出書房新社 2008年11月)を読む。以前にも読んだことがあるが例によって内容を覚えていない。N・Nというひとりの実在する少年を通して現代日本の都市というもの、その意味の一つの断片を追っている。この本ではN・Nというイニシャルで表記されているが、内容を読んでいくと永山則夫のことだと分かる。永山は私の一歳下、1949年北海道網走の生まれである。65年に青森県内の中学を卒業、集団就職の一員として上京して渋谷駅前の西村フルーツパーラーに就職する半年ほどで離職する。その後、転々として職業を変えるが忍び込んだ米軍人宅で拳銃を入手する。永山はこの拳銃でタクシー運転手ら4人を射殺、69年4月に逮捕されている。起訴後、当時東池袋にあった東京拘置所に移管される。私の推測ではこの東京拘置所はいわゆる巣鴨プリズンで東条英機らの戦犯が収容されていたところである。私も69年の9月に学生運動で逮捕され大森警察署に留置され、10月には東京拘置所に移された。私は分離反省組で12月にはシャバに出たが、2か月ほど拘置所で永山と一緒だったことになる。といっても当時の東拘(東京拘置所の略称)は3階建ての拘置施設が3つ(5つだったかもしれない)あり、顔を合わせたことはない。
「まなざしの地獄」に戻ろう。見田は「都会は一つの、よく機能する消化器系統である。それは年々数十万の新鮮な青少年をのみこみ、その労働力を吸収しつくし、余分なもの、不消化なものを凝固して排泄する」と書いている。「凝固して排泄」されたのは、永山らの未成年の犯罪者またはその予備軍である。私も分離反省組とはいえ、現住建造物放火(火炎瓶を投げたため)、傷害(石を投げて警官に傷を負わせた)、公務執行妨害(排除しようとする警官に逆らった)などの罪で懲役1年6カ月、執行猶予2年の判決を受けた罪人である。しかし私が永山と決定的に違うのは、永山が逮捕後、死刑を執行されるまでシャバに出ることもなかったのに対して、私は何とか大学を4年で卒業し、これも何とか社会に受け入れられたことである。永山の最初の著作のタイトルは「無知の涙」である。永山は中学にもまともに通っていない。貧困と周囲に馴染めなかったためである。永山の貧困は「1968」で小熊英二が分類した「近代的不幸」である。当時われわれ学生が感じていた「現代的不幸」(私の感覚では漠然とした疎外感、精神的欠乏感)ではない。永山の覚醒しようとする意識が「近代的不幸」に阻まれたのに対して、私は「現代的不幸」に甘えきることができたのだ。

5月某日
「あの空の下で」(吉田修一 木楽舎 2008年10月)を読む。吉田修一は多彩な作品を産み出していると思う。もともとは芥川賞受賞作家だから純文学出身ということなのだろうが、近年は新聞や週刊誌の連載も多く、現代の人気作家の一人と行って良い。「あの空の下で」はANAの機内誌「翼の王国」に連載された短編小説とエッセーをまとめたものだ。吉田は長編、中編小説に力を発揮すると思っていたが、短編もなかなかのものだ。一言で言うと「洒落ている」。吉田は1958年長崎生まれだから私の10年年少。私と同年の堤修三氏は長崎出身だが「洒落好み」は似ているかも知れない。

5月某日
13時30分から社保研ティラーレで打ち合わせのつもりだったが、佐藤社長が遅れるということなので近所を散策。私が年友企画にいた頃には開店していなかった店がチラホラ。そのうちの一店の定食屋に入る。ご飯を少なめにすると50円引きというのがうれしい。焼肉定食を頼むと大きな肉が二切れついて、肉を切る鋏が添えられている。名前をネットで検索したが出てこない。今度また行こう。佐藤社長から「お待たせしました」との電話。打ち合わせを終えて西日暮里へ。喫茶店で時間をつぶした後、「焼き鳥道場」へ入る。大谷源一さんへ「フラメンコを観に行った『アルハンブラ』の向かいの『焼き鳥道場』にいます」とメール。何年か前に落合明美さんからフラメンコの発表会に招待されたのが「アルハンブラ」だった。

5月某日
「御当家七代お祟り申す 半次捕物控」(佐藤雅美 講談社文庫 2013年7月)を読む。佐藤雅美の時代小説はほとんど読んできたつもりだが、これは見逃していた。我孫子市民図書館の文庫本のコーナーをブラブラしていたら目に付いたので早速、借りた。佐藤雅美は1919年に79歳で死去している。新聞の死亡記事が一段のベタ扱いだったので憤慨した覚えがある。半次捕物控シリーズは目明しの半次が遭遇する事件を軸に物語が展開する。半次は主人公というよりも狂言回しという役回り。狂言回しに付随する登場人物が弁慶橋で剣術の道場を営む蟋蟀小三郎。今回、主役を務めるのが甲州浪人の武田新之亟。大和郡山の大名、柳沢家を巡る敵討がメインストーリーだ。 

5月某日
近所の鍼灸・マッサージのお店『絆』で週2回ほどマッサージをやって貰っている。マッサージを終わって店を出たら目の前のバス停(若松)にちょうど我孫子駅行きのバスが来たので迷わずに乗ることにする。終点の我孫子駅で降りて駅構内を通って北口へ。北口のイトー―ヨーカドー3階の書店に行く。角田光代のトリップ(光文社文庫)を購入。南口に戻って「喜楽」という中華屋さんに入って「焼きそば」を食す。喜楽から歩いて手賀沼公園へ。ベンチに座って白鳥と戯れる子連れの夫婦をぼんやりと眺める。連休は昨日で終わったが、私は「毎日が日曜日」の身分、身も心も連休気分に浸りきっている。

モリちゃんの酒中日記 4月その4

4月某日
「決定版 日中戦争」(新潮選書 波多野澄男 戸部良一 松元崇 庄司潤一郎 川島誠 2018年11月)を読む。ロシアのウクライナ侵攻が進む現在、戦前の日本帝国主義の満洲を含む中国大陸の侵略はどうだったか、興味を抱いたためである。ロシアがクリミア半島を自国領土としてウクライナから奪い、東部に親ロシアの共和国政権を樹立したまでは、日本の満洲国建国までと非常に似通っていると思う。満洲国建国以降、日本は中国大陸で蒋介石軍(中華民国軍)と紅軍(中国共産党軍)との戦闘を続けることになる。私の見るところ現在のウクライナ情勢は満洲国建国当時の状況に似通っていると思う。日本は国際的に孤立し、国際連盟を脱退する。ロシアも国際的な孤立を深めてはいるが、中国はロシアに手を差し伸べようとしているし、インドも米欧などの対ロシア制裁に同調しようとはしていない。冷戦構造が崩れてから初めての世界戦争の危機とも言える。バイデン大統領は早々と軍事力の行使はしないと表明している。プーチンの思う壺ではないかとも思えるのだが。

4月某日
第26回の「地方から考える社会保障フォーラム」。会場は従来と同じ日本生命丸の内ガーデンタワー。今回は山本麻里(厚労省社会・援護局長)さんの「コロナ禍の経験を踏まえた地域共生社会の実現、鳥井陽一(会計課長)さんの「22年度の厚労省予算」、川又竹男(大臣官房審議官)さんの「子ども家庭政策の現状と課題」。終ってから同じビルの2階のタイレストラン「メナムのほとり」で有志と会食する。

4月某日
社保研ティラーレで「社会保障フォーラム」の反省と次回の打ち合わせを佐藤社長、吉高会長と。社保研ティラーレは今週、引っ越しとのこと。神田駅で小学生以来の友人の佐藤正輝、山本良則プラス高校時代の友人、中田(旧姓)志賀子、大郷、小川と待ち合わせ。予約してあった「上海台所」へ向かう。正輝は札幌でITの会社を経営しており、元NECの大郷はその会社を手伝っている。今回は東京にも拠点を設けるために出張したとのこと。コロナ禍で東京出張は2年半ぶりだそうだ。北海道土産に「わかさいも」とチョコレートを頂く。

4月某日
「老人支配国家 日本の危機」(エマニュエル・トッド 文春新書 2021年11月)を読む。エマニュエル・トッドはフランスの歴史人口学者、家族・人類学者である。巻末の歴史家の磯田道史や本郷和人の対談によると日本の歴史人口学者の速水融(1929~2019)の影響を受けたという。独自の歴史観に立脚して注目すべき提案をしている。
・新型コロナの被害が大きかった先進国がすぐに取り組むべきは、将来の安全のために、産業基盤を再構築すべく国家主導で投資を行うこと
・日本にとっての少子化対策は安全保障政策以上の最優先課題
・米国は信頼できる安定勢力ではなくなりつつあり、日本も核保有を検討してもいいのではないか等々である。
ただ現在のウクライナ危機からすると首をかしげざるを得ない提言もある。曰くロシアの対外政策は拡張的ではなく理性的。軍事大国ロシアの存在は、世界の安定に寄与している…など。ロシアのプーチン大統領の言動はとても理性的とは思えないし、ロシアのウクライナ侵攻は世界の安定に脅威を与えていると言わざるを得ないからだ。

4月某日
「日本人の宿題-歴史探偵、平和を謳う」(半藤一利 保阪正康(解説) NHK出版新書 2022年1月)を読む。昨年1月に90歳で亡くなった半藤さんがNHKラジオの「ラジオ深夜便」と「マイあさラジオ」に出演した「語り」をもとに再構成したものに盟友だった保阪が解説を加えている。半藤さんがインタビューに答えて半生を振り返るという体裁なのだが、いやぁー迫力がありますね。戦争末期に母親の実家があった茨城県で米軍機の機銃掃射を受けたこと、母親と妹を茨城県に残して帰った向島で体験した1945年3月10日の東京大空襲、半藤さんの著作でも紹介されている話だが「語り」だけに著作とは違った迫力がある。米軍の空襲からロシア軍のウクライナ侵攻を連想してしまう。国際連盟の非難決議に対して国際連盟を脱退した日本に、安全保障理事会で拒否権を発動したロシアを重ね合わせてしまう。人類は歴史から学ぼうとしないのか、同じ過ちを繰り返しているのではないか。

モリちゃんの酒中日記 4月その3

4月某日
「1968【下】」を読み進む。第16章「連合赤軍」と第17章「リブと『私』」を4日かけて読む。1969年1月の東大安田講堂の攻防戦、同年4月28日の沖縄デーを経て革マル派を除く新左翼各派はヘルメットと投石、火炎瓶の武装では機動隊に勝てないと思い知る。ひとつの方向は非暴力のデモンストレーションと脱走米兵の援助という非合法活動を含む活動を持続させたべ平連の活動だろう。もうひとつが「銃による革命、武装蜂起」を主張した共産主義者同盟赤軍派と日本共産党革命左派(大衆組織は京浜安保共闘、中京安保共闘)であり、のちに両派が合同した連合赤軍である。連合赤軍は山岳アジトを追われた彼らの一部があさま山荘に立て籠り、数日間に及ぶ銃撃戦の後に全員逮捕される。連合赤軍の委員長だった森恒夫と副委員長だった永田洋子は逃亡の途中で逮捕される。のちに山岳アジトでの凄惨なリンチ殺人事件が明らかとなる。著者の小熊英二は「連合赤軍事件は、追い詰められた非合法集団のリーダーが下部メンバーに疑惑をかけて処分していたという点では、偶然ではなく普遍的な現象である。森も永田も、赤軍派や革命左派に加入する以前は「人格者」「いい人」という定評があった。(中略)人間として致命的な欠陥があったわけではない。あのような状況と立場に置かれれば、その人間の持っている特徴が醜悪な形態で露呈してしまうということだったと思われる」とまとめる。「それはそうなんだけれど…」というのが私の感想。
第17章の「リブと『私』」は前章の「連合赤軍」を読み終わった後だけに面白かった。だいたい私はリブにはほとんど関心がなく、日本のリブの代表的な活動家である田中美津も名前を知っているぐらいで著作も読んだことはない。1943年生まれの生まれの田中は、高卒後OLとなるも上司との不倫が原因で職場を辞める。在日ベトナム青年に出会ったことからベトナム戦災孤児救援活動を始め、そこからベトナム反戦運動に転じ「反戦あかんべ」という市民グループを結成する。同時に家が本郷通りにあったので、東大闘争に関心を抱き神田カルチェラタン闘争にも参加する。反戦運動の活動家と言えないこともないが、一方で彼女は「自分の心にあいた穴しか見えなくて、どうしてもその穴を埋めたかった」と当時を回想する。空虚感を埋めるために闘争に参加したという点では全共闘メンバーが抱えていた「現代的不幸」を彼女も抱えていた。リブを始めた当初の彼女をそれまでの婦人運動と分かつものはそのカッコ良さであろう。田中たちの女性解放運動は「カッコイイことを主張していた」。集会に黒づくめの恰好や高いハイヒールであらわれたり、白いミニスカートでビラ配りする様は確かに目立ったであろう。田中はその後、武装闘争論を展開したりするが、メキシコへ移住、帰国後は鍼灸師の資格を取得している。「1968」はここまで読んだところで共感できるのは田中美津の思想、べ平連と全共闘の組織論である。

4月某日
「1968【下】」の「結論」まで読み進む。結局、あの時代は何だったのか?ということだ。ひとつは当時が高度経済成長の真っただ中だったということ。本文中にもある反戦青年委員会のメンバーの、逮捕されて解雇されても職はいくらでもあるという発言が紹介されていたが、不況期や恐慌期に運動が盛り上がるのではなく、好況期だからこそ盛り上がったのである。さらに当時の学生運動なかんずく全共闘運動には「解放」のイメージが強くあった。バリケード封鎖は、右翼・秩序派、国家権力からのストライキ派の防衛という側面があったにしろ、全共闘派にとっては「解放区」のイメージが強かった。そして日頃、権威を振りかざしていた教授陣に対する大衆団交による追及。民衆蜂起で相手への辱めの行為を「シャリバリ」と呼ぶそうだが、大衆団交で教授に対して「テメー、それでも教師か!」といった罵詈雑言が発せられたのもそういうことであった。団塊の世代が大学生になったとき、大学進学率もアップした。母数が増えたうえに率も増大した。大学側はマスプロ教育で対応せざるを得ないが、学生側には旧来の真理の探究と言った旧来の大学イメージが残っていたから不満は高まらざるを得なかった。
そうした学生側の不満を底流に各党派や無党派の全共闘はストライキを提起し、多数の学生の支持を受け学園を封鎖する。「一種の祝祭状態ともいえる蜂起の興奮状態は長く続かない」と小熊は書く。小熊によると祝祭的な盛りあがりは「数週間から一ヵ月ていど」だったとされる。私の不確かな記憶によっても早稲田の場合は、69年の4月17日に革マルの戒厳令を突破して本部を封鎖し、その後5月の学生大会で各学部がストライキに入る。6月には学生大会でスト解除が議決され、バリケードを撤去した記憶がある。その後、学生大会で再度ストライキが決議され再封鎖となった。そのまま夏休みに入り9月3日に機動隊が導入され封鎖は解除される。私たちの親世代が直面した貧困・飢餓・戦争などのわかりやすい「近代的不幸」に対して私たち団塊の世代は、言語化しにくい「『現代的不幸』に集団的に直面した初の世代であった」と小熊は分析するが、おおむね納得である。当時の学生叛乱に対して「甘ったれたラジカリズム」という批判があったことは知っている。というか、新聞、テレビの論調はおおむねそうだった。今となってはそうした批判も甘受せざるを得ないと私は考える。小熊は内田元亨の1968年の論文から当時の日本の資本主義は「軍隊の組織」にも似た「ピラミッド構造」となっており、これは若者たちが嫌った「管理社会」にも重なるが、同時に共産党やセクトなどの組織形態とも類似しているという。内田は「ピラミッド構造」に対して各ユニットが独立しつ関係しあう「マトリックス構造」を提示している。私はそこにべ平連や全共闘運動の可能性を見るし、さらに言えば無政府主義の可能性も見たいと思っている。

4月某日
久しぶりに東京神田の社保研ティラーレを訪問。吉高会長と佐藤社長と懇談。その後、神田界隈を散策、16時に15時から店を開けている神田駅前の「魚魚や」(ととや)へ。この店は元年住協の林さんと何度か来たことがある。最初は会社をリタイヤしたとみられるジーサンたちのグループが多かったが、17時を過ぎた頃から現役と見られる青年、中年グループに置き換わり始めた。女性もチラホラ。私が会社員生活を始めた50年前には、そもそも女性が会社に少なかったし、忘年会や新年会以外で女性を交えて呑むこともなかった。「呑む」ということに限れば男女平等に近づいているのかも。