モリちゃんの酒中日記 4月その2

4月某日
「ミス・サンシャイン」(吉田修一 文藝春秋 2022年1月)を読む。大学院生の岡田一心は指導教官に往年の大スター、和楽京子の家の整理をアルバイトでやってみないかと言われる。和楽京子の豪華なマンションを訪ねると、80代の女性とは思えないほど艶めかしい女性があらわれる。和楽京子、本名は石田鈴の登場である。一心と鈴さんはなぜか気が合い、心を通わせるようになる。二人とも生まれが長崎だった。鈴さんは被爆者であり親友の林佳乃子を白血病で亡くしていることが明らかとなる。物語の横糸が鈴さんと佳乃子の友情物語、というか幼馴染がともに原爆の爆風で投げ飛ばされ、一人は映画スターの道を歩み、一人は故郷の長崎で闘病生活を送る、それでも二人の友情はゆるぎない。縦糸は和楽京子の肉体派としてのスタートからハリウッド進出、文芸映画での成功、テレビや舞台での活躍といった女優としての成功譚である。肉体派としての彼女の成功は「洲崎の闘牛」に主演してからである。戦後の赤線・青線でたくましく生きる女を描いた映画というから、これは「肉体の門」をモデルにしているのではないか。鈴さんは次に巨匠、千家監督の声掛けで「竹取物語」の主演に抜擢される。これは黒澤明監督、京マチ子主演の「羅生門」であろう。というようなことを考えながらこの小説を読むのも一興である。そして鈴さんが幼馴染の佳乃子と死別したように一心も小学校5年生のときに9歳の妹を病気で失っている。少年期、青年期の親しいものとの別離も隠れたテーマであろう。なおタイトルの「ミス・サンシャイン」はハリウッドに進出した和楽京子につけられたアメリカでのニックネームである。

4月某日
大学の同級生だった清夫妻(眞人君と百合子さん)が上京してくるというので西新橋の弁護士ビルにある雨宮弁護士の事務所へ。同じ同級生の岡超一君はすでに来ていて日本酒を呑んでいる。私も日本酒をいただく。18時に清夫妻も来たので弁護士ビルにある日本料理店に向かう。清君はノンアルコールビールを呑んでいたようだ。私と雨宮先生、岡君はもっぱら日本酒。岡君は早めに帰る。私は日本酒をしっかり呑んで千代田線の霞ヶ関駅から帰る。清夫妻は上野のホテルに宿泊ということで銀座線の虎ノ門駅に向かった。皆、雨宮先生の指示に従う。

4月某日
「日独伊三国同盟-『根拠なき確信』と『無責任』の果てに」(大木毅 角川新書 2021年 11月)を読む。独伊とくにドイツと同盟を結ぶことは当時の日本の陸軍指導部では強い願いであった。しかしこの願望にさしたる根拠はなかった。当時の流行語「バスに乗り遅れるな」に表されるようにドイツ軍の西部戦線と東部戦線の破竹の進撃に陸軍指導部と、日本外交を仕切っていた松岡外相が乗せられたのである。私はこの本を読んで安倍晋三元首相の対ロシア外交を思い出した。プーチン大統領と何度も会談し北方領土返還に糸口を付けたかのように安倍首相は語っていたが、北方領土は帰ってくる兆しも見えない。むしろロシアのウクライナ侵攻により北方領土の返還は絶望的になったのではないか?「根拠なき確信」と「無責任」は21世紀の今も日本の政治を覆っているのだ。

4月某日
「五つ数えれば三日月が」(李琴峰 文藝春秋 2019年)を読む。李琴峰は1989年台湾生まれの台湾育ち。国立台湾大学卒業後、2013年に早稲田大学大学院修士課程入学。本名は非公開でレズビアンである。「彼岸花が咲く花」と「ポラリスが降り注ぐ夜」を読んだが、「彼岸花」は沖縄と台湾の間にある離島を舞台にした作品で「ポラリス」は確か新宿2丁目のレズビアンバー「ポラリス」が舞台。「彼岸花」を読んだときはずいぶんと土俗的な作家だなと思ったものだが、「ポラリス」は一転して都会的な印象だった。私はこの小説を読むまでポラリスが北極星の意味であることを知らず、もっぱらアメリカが開発したミサイルとしか認識していなかった。で「ポラリスが降り注ぐ夜」も第三次世界大戦でミサイルが東京に降り注ぐ話かと思ってしまった。恥ずかしい。「五つ数えれば三日月が」は日本で働く台湾人女性と台湾人と結婚した日本人女性の物語である。二人で食べに行く池袋の台湾料理屋のシーンが楽しいし、台湾人女性が作る漢詩も二つほど紹介されている。江戸時代おそらくは明治時代までは漢詩や論語などの漢文は、日本人にとっての基礎的な教養だった。現代では詩吟を唱える人は少数いるにしても漢詩を作る人はほとんどいないのでは。李琴峰が卒業した台湾大学は日本でいえば東大。日本語で小説を書くほどだから日本語はペラペラ、おそらく英語も堪能であろう。さらに漢詩まで。李琴峰恐るべし。

4月某日
小熊英二の「1968【下】-反乱の終焉とその遺産」(新曜社 2009年7月)を読み進む。本文に注、索引、年表を入れると1000ページを超す大著である。当時のビラや新聞記事、雑誌の記事や論文、さらには個人の回想記を丹念に調べた労作である。この本の執筆時でも半世紀前のことを主として文献だけに頼って再現する―こういうことを思いつき実行した小熊英二を誉めたいね。1968年は早稲田大学に入学した年で、私が学生運動を始めた年でもあるから、私は当事者の一人でもある。表紙はヘルメット姿の学生が両手をヘルメットの上に乗せて機動隊に投降している写真である。学生はややうつむきながらも毅然としている(ように私には見える)。おそらく東大の安田講堂が機動隊の手によって封鎖解除されたときの写真であろう。60年年の安保闘争で盛り上がった学生運動はその後沈静化、65年、66年の日韓、早大闘争で一時的な盛り上がりを見せるが、一気に火が付いたのはベトナム反戦運動からで、具体的には67年の10月8日の三派全学連による第一次羽田闘争からである。【上】では時代的背景や個別の大学闘争、東大、日大闘争が描かれているが【下】では高校闘争や新宿事件、新左翼の「戦後民主主義批判」そしてべ平連、連合赤軍が描かれる。私は各章とも面白かったのだが、ここでは第15章「べ平連」を取り上げる。私は浪人中だった67年の10.8に衝撃を受けて「大学に行ったら学生運動をやろう!」と秘かに決意していた。しかし最初から過激な三派のデモに行く自信がなく、当時、清水谷公園が集合場所だったべ平連のデモに行くことにした。月一回のデモの四月と五月に参加した記憶がある。六月からは政経学部の自治会が属していた社青同解放派のデモに参加することになる。
小熊の見解では1968年の後半から東大、日大闘争にも翳りが見え始めセクトの動員数も頭打ちになっていたという。69年の佐藤訪米阻止闘争で反乱側は機動隊の「軍事力」に完敗する。ここで学生側には二つの選択肢があったと思う。一つは火炎瓶とゲバ棒だった反乱側の武力を銃と爆弾までに飛躍的に高め、学生部隊も「軍団化」するという方向である。これは後に連合赤軍となる赤軍派と京浜安保共闘の路線でもあるが、当時の革マル派を除く新左翼は多かれ少なかれ軍事化の方向を向いていたと思う。革マル派も対権力ではなく内ゲバ向けに武装を強化し軍団化していたのではないか。もう一つは非暴力で多くの大衆の支持を得てゆく方向である。これはべ平連の方向でもあった。ベトナム戦争の激化に対応して米軍の戦闘機の訓練中の事故やジェット燃料運搬中の事故が派生し、ベトナム反戦運動は社共や総評を中心に一定程度の盛り上がりを見せた。これに対し小田実や後にべ平連事務局長となる吉川勇一は、日本人は米軍の被害者だけでなくベトナム人民に対しては加害者となっているのではないか、という議論を展開し、これがのちのべ平連に繋がってゆく。べ平連は普通の市民のパートタイムの運動であり、メンバーシップをもたない、だれでも入れる組織であった。これは軍団化したセクトの職業革命家、職業軍人として24時間、活動を強いられる組織とは真逆の組織である。70年代の新左翼にこうした方向はなかったのであろうか? ないのだろうなやはり。

モリちゃんの酒中日記 4月その1

4月某日
「1968【上】-若者たちの叛乱とその背景」(小熊英二 新曜社 2009年7月)を読んでいる。注を含めると1000ページを超えるし定価6800円+税と極めて高価。もちろん我孫子市民図書館から借りてます。1968年は私が早稲田大学に入学した年で、前年の1967年10月8日に佐藤首相の南ベトナム訪問に反対して三派全学連が羽田空港周辺で激しいデモを行い、学生がひとり死亡した。私は当時、浪人生で予備校に通っていたが秘かに大学に受かったら学生運動をやることを決意したものだ。親は国公立大学に行くことを望んだのだが、私は受験に合格した早稲田の政経学部に入学することを希望し、結果的に私の我儘が通った。「1968【上】」では時代的・世代的背景と当時、闘争をけん引した反代々木系各セクトの歴史的経緯と活動家の心理、闘争スタイルに触れた後、個別の学園闘争について叙述している。
【上】を読み終えるだけで一週間はかかりそうなので、中間報告として第4章「セクト(下)-活動家の心情と各派の『スタイル』」と第8章「「激動の七ヵ月」-羽田・佐世保・三里塚・王子」に触れてみよう。第4章で冒頭に出てくるのが「ベストセラーになった活動家の手記」で、これは横浜市立大学の学生で中核派に属していた奥浩平の手記「青春の墓標」のことである。奥は学生運動に行き詰まると共に早稲田大学で革マル派に傾斜して行く恋人との別離を悲観して自殺する。私は早稲田に入学して入ったサークルの先輩の家で読んだ。先輩は商学部の四年で革マルシンパ、卒業して製薬メーカーに入った。私は入学した当時、日本共産党系以外ならどこのセクトでもいいと思っていた。政経学部学友会は社青同解放派が握っていて、私は学友会の幹部と政経学部の革マル派の両方からオルグを受けていた。何となく解放派の青ヘルメットを被ってデモに行くこととなり、68年の暮れには革マル派から早稲田を追い出されることになる。とは言えそれまではキャンパスは比較的平穏で、私のサークルの部室でも革マル派と解放派、社学同が平和に共存していた。
67年10月8日の佐藤南ベトナム訪問反対デモにも11月12日の佐藤訪米反対でも参加していないし、佐世保のエンタープライズ寄港反対でも行っていない。真面目な予備校生だったからね、当たり前と言えば当たり前。だが4月の王子野戦病院反対には参加した。まだ入学前だったと思う。だから野次馬としての参加。本書でも王子における戦闘的な野次馬について述べられているが、私はまだ初心者、遠くから眺めるしかなかった。だが、このときの機動隊から逃げる経験はその後の学生運動でプラスになったようである。機動隊との戦いにも二種類ある。野戦と攻城戦である。野戦はデモンストレーションで多くは街路で闘われる。攻城戦は安田講堂や学生会館に立て籠って戦うものだ。関ヶ原の合戦が野戦で大坂冬の陣が攻城戦である。攻城戦の場合は逃げようがないが、野戦の場合はなるべく先頭近くにいることが肝心である。戦局が見渡せいち早く逃げることができるからである。だがこれも69年後半くらいから通用しなくなる。運動が過激となりデモの武装も鉄パイプとときには火炎瓶にエスカレートして行くからである。

4月某日
厚生労働省のキャリア官僚だった間杉純さんの告別式が「おおのやホール小平」で行われた。間杉さんが亡くなったことは阿曽沼さんからの電話で知ったが、葬儀の日程は樽見さんからメールで教えてもらった。大谷さんと小平駅で合流、会場へ向かう。焼香の前に娘さんからお礼の言葉があった。娘さんは立命館大学の学生劇団のあとプロの劇団新感線で事務方を担当していた。劇団新感線の東京公演のときは当時、吉武さんが館長をしていた表参道の「こどもの城」で上演、私も観に行った。間杉さんは豪放磊落に見える半面、非常に繊細なところのある人だった。そんな間杉さんの一面を的確に表していた娘さんの挨拶だった。帰りは大谷さんと小平から池袋に出て日暮里へ出る。日暮里で大谷さんの知っている台湾料理屋に行く。大変おいしかった。

4月某日
「1968【上】」を読み進む。後半の第9章「日大闘争」と第10章「東大闘争(上)」と第11章「東大闘争(下)」である。日大闘争は1968年5月に東京国税局により多額の使途不明金があることが公表されたことに始まる。神田三崎町の経済学部から始まった不正経理糾弾の闘いはそれこそ燎原の火のように全学に広がった。ただこの頃は学生運動の各セクトは日大闘争にそれほど関心を抱いていなかった。私および早稲田の社青同解放派(反帝学評)も日大へ支援に赴くこともなかったと思う。しかし今にして思うと日大の古田総長はロシアのプーチンだね。さしずめ日大全共闘はウクライナで秋田明大全共闘議長はゼレンスキー大統領だ。東大闘争は日大と同じ頃、68年5月の医学部の不当処分撤回闘争に始まる。ただ日大と同じく東大闘争も学内闘争の域を出るものではなかった。日大全共闘は全学部封鎖の方針で機動隊と果敢に戦ったが、それでも各セクトの支援の動きは鈍かった。日大では当局の弾圧体制もあって、学生運動がほとんどなくセクトの活動家もほとんどいなかったためであろう。私の記憶では日大全共闘の存在を強く感じたのは68年11月22日、東大闘争安田講堂前で開催された「東大日大闘争勝利全国学生総決起集会」のときである。日大全共闘は機動隊の規制にあって到着が遅れていたが、各セクトの歓声と拍手のなか、会場に到着する。前日から東大に泊まり込んでいた学生部隊も多く、私も早稲田の反帝学評の部隊として泊まり込んだ。11月末だからね、とても寒かった。新聞紙をかぶって寝た記憶がある。泊まり込んだ教室では解放派の創始者だった滝口弘人が「スペイン革命以来のスターリニストとの抗争に決着をつける」という演説を記憶している。
そうなんです。東大闘争が学内闘争に止まらなくなったのは全共闘と日共民青の対立が互いに外人部隊を導入したことからである。反帝学評とくに早稲田の反帝学評の場合は革マルとの抗争を抱えていたから、この時期大変だったろうと思う。私は一年生だったからその深刻さはわからなかったけれど。この後、解放派と革マル派の内ゲバが激しくなる。12月に入って私ともう一人の一年生が早稲田の三号館地下の学友会室にいると突然、革マル派が乱入、当時の指導者だった浜口さんを殴り始めた。浜口さんが激しくなぐられ、メガネが飛んだことを覚えている。私たち一年生は「チンピラは出ていけ」と言われ、理工学部の反帝学評の拠点まで逃げた。理工の反帝学評とタクシーに分乗して東大の駒場へ。駒場の教育会館に立て籠る。東大駒場寮の革マルの拠点を襲うが返り討ちに会う。私は2,3日教育会館にいたのだが、内ゲバの緊張感に耐えられず「服を着替えてくる」と言ってアパートへ帰る。この冬は帰郷したんだろうか?まったく記憶にない。冬休みに下宿でぼんやりと内ゲバから逃げ出したという罪悪感に浸っていた。同じクラスの小林君が「森田、東大を見に行こう」と誘ってくれた。東大の本郷に機動隊の導入が迫っていたのだ。私も小林君もジーパンにジャンパーという恰好、年齢も私が二十歳で小林君が十八歳。怪しまれることもなく安田講堂の中にも入ったと思う。私は一浪だが小林君は現役、しかも1950年の3月生まれだから私よりも一年半も若い。でも早熟で当時はジャンジュネやロートレアモンを読んでいた。小林君はセクトとは距離を置いていたが、後にブントの戦旗派(荒派)に行くことになる。荒派が消えてしまって彼の消息も行方不明だ。

モリちゃんの酒中日記 3月その4

3月某日
バイデン米大統領が訪問先のポーランドでロシアのプーチン大統領について「この男が権力にとどまってはいけない」と演説したことが報じられている。私はこの演説を支持する。しかし1960年代に米国はケネディ、ジョンソン、ニクソン大統領のもと、南ベトナムを侵略し北ベトナムへの空爆を行った。このとき北ベトナムを支持したのは旧ソ連、今のロシアと中国だった。1930年代に日本は中国大陸への侵略を開始した。このとき中国国民党軍や共産党軍を支援したのは米英と旧ソ連だった。アメリカはベトナム戦争当時、南ベトナム政府を民主主義陣営として位置づけ、東南アジア全体の共産化を防ぐために南ベトナム政府を支援した。米国および米国民はこのことを忘れてはならない。どうように日本および日本国民は中国大陸への侵略や朝鮮半島支配の現実を忘れてはならないと思う。

3月某日
「戦争は女の顔をしていない」(岩波現代文庫 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 三浦みどり訳 2016年2月)を読む。巻末の澤地久枝による解説によると、作者は1948年生まれで私と同年である。母の故郷ウクライナで生まれ、育ったのは父の故郷ベラルーシ。本書は第二次世界大戦中に対ドイツ戦に従軍した女性兵士たちへの聞き書きである。男女平等の観点からだと思うが、アメリカでも日本でも女性の兵士や士官が誕生してきている。しかし第二次世界大戦で女性兵士が活躍したのはソ連くらいだろう。社会主義体制のソ連には男女平等の観点ももちろんあったと思うが、最大の要因はソ連の兵力不足だったろう。緒戦においてソ連はドイツ軍の奇襲を許し敗走を余儀なくされた。兵士や兵器の損耗率も高く軍医や看護兵だけでなく女性の戦闘員も必要だったのである。と同時に本書を読んでわかったのは志願した女性たちの祖国防衛意識の高さである。作者はこうした意識の高さを描くだけでなく戦争の残酷さ、理不尽さも女性兵士たちに語らせる。復員した多くの女性兵士たちは戦争中の自分について語ろうとしない。彼女たちは世間からむしろ白眼視されたという。作者は2015年にノーベル文学賞を授与されているが、作者を日本に紹介した訳者の三浦は2012年にガンで死去している。このエピソードも壮絶である。

3月某日
「思いがけずに利他」(中島岳志 ミシマ社 2021年10月)を読む。中島岳志には私には保守的な思想家のイメージがあった。本書でも西部邁に大きな影響を受けたことを明らかにして「二十歳以降の私は、保守思想家の西部邁先生に多大な影響を受けました。三十代以降は直接、お話をお伺いする機会ができ、多くのことを学びました」と書いている。文体からも西部のことを敬愛していることがうかがえる。今、なぜ利他なのか? 「はじめに」で中島は「自己責任論が蔓延し、人間を生産性によって価値づける社会を打破する契機が、『利他』には含まれていることも確かです。コロナ危機の中で私たちの間に湧き起こった『利他』の中にも、新しい予兆があるのではないでしょうか」と述べている。本書で中島は落語の「文七元結」を手掛かりに利他の問題を解明しよう試みる。「文七元結」は明治中期に三遊亭圓朝が創作したもので、腕のいい左官職人の長兵衛が娘を吉原から身請けしようと用意した五十両を、店の金五十両を紛失したために身投げしようとしていた番頭、文七に差し出すという話だ。まさに利他である。三遊亭志ん朝は文七への共感から長兵衛が五十両を差し出すという解釈、立川談志の解釈は長兵衛の「江戸っ子気質」というものだ。中島は談志の解釈に共感を示すのだが…。中島の語り口は易しいが、相当高度なことを言ってるね。

モリちゃんの酒中日記 3月その3

3月某日
小学校以来の友人の山本君と北千住の室蘭焼き鳥の店「くに宏」で待ち合わせ。ところが「くに宏」がコロナで休業中なので近くの「九州人情酒場 魚星」へ。女性客が多い店だった。家に帰ってネットで調べたらチムニーの経営だった。チエーン店なんだけれど鯨やゴマサバの刺身はそれなりに美味しかった。山本君は20歳で結婚して孫の女の子に子供が生まれたと言っていた。ひ孫ということになる。

3月某日
「武士論-古代中世史から見直す」(五味文彦 講談社選書メチエ 2021年5月)を読む。現在のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の12人」、北条泰時が主人公で泰時の姉で頼朝の妻となる政子や頼朝、義経兄弟ら、それに源氏、平家の武将たちが物語を回していく。そんなわけで本書を読むことにしたのだが、私にはちょいと難しかった。源氏は清和天皇、平家は桓武天皇を先祖とする。皇族の血筋なのだが歴史が下るにしたがって藤原氏や天皇家、皇族などの暴力装置となる。関東以北の蝦夷を討った前九年後三年の役の源義家、保元平治の乱を戦った平清盛、源義朝らがそうだ。ただ彼らは単なる暴力装置ではなく、所有する荘園の経営者でもあった。さらに清盛は日宋貿易にも乗り出したし、下って足利義満は明との貿易にも努めた。暴力だけでは権力は維持できない。これは現代にも当てはまる。無論、プーチンのことである。

3月某日
ランチを東京の鎌倉橋ビル地下1階の「跳人」で「海鮮丼」。フロアーを担当する大谷君に挨拶。「跳人」は夜も営業しているそうだ。「お客はサッパリですけど」と大谷君。食事を終えて社保研ティラーレへ。吉高会長と雑談。吉高会長は私より2歳ほど年上の筈だが、精神的にはとても若い。世間への好奇心には見習うべきものがある。佐藤社長と厚生労働省へ。次回の「地方から考える社会保障」のチラシを講演予定の皆さんに配布。霞ヶ関駅で佐藤社長と別れ、私は千代田線で我孫子へ。途中、柏で下車して高島屋でウイスキーを購入する。我孫子駅北口の居酒屋「やまじゅう」で一杯。

3月某日
たまたまNHKのBSにチャンネルを合わせたら日本にいるクルド人の女の子を主人公にしたドラマをやっていた。クルド人についてはよく知らないがトルコ、シリア、イランに分散して生活し独自の文化を持つが独立した国家は持たない。それどころか自分が所属する国家の政府からは抑圧されている。日本にいるクルド人は母国の政府の迫害から逃れてきた人たちらしい。ドラマのタイトルは「マイスモールランド」。劇中で女の子の父親が自分の胸を叩いて「私たちの国はここにある!」と叫ぶシーンがあるが、それがタイトルに繋がったと思う。途中でニュースをはさんで前後編併せて90分以上の長編だがまったく飽きなかった。女の子の一家は在留資格を取り消され、建設現場で働いていた父親は不法就労で入管に収容される。父親は帰国を決意する。帰国すれば逮捕は必至だ。自分の逮捕と引き換えに子供たちに日本のビザが発行される可能性があるからだ。
父親の拘留が続くままドラマは終わる。理不尽である。これはそのまま日本の入管制度の理不尽さを表現している。しかし救いもある。それは主人公のボーイフレンドやその母親、あるいは主人公一家のために奔走する弁護士の存在である。制度や政府は理不尽だが、庶民は暖かいのである。もっとも庶民の中にも主人公に不埒なことを仕掛けようとする理不尽なオジサンもいるのだが。私はこのドラマを観て昨年読んだ中島京子の「やさしい猫」を思い出した。日本で働くスリランカ人男性と日本のシングルマザーの物語で、スリランカ人は入管に収容されるのだが、日本人の仲間たちや弁護士の働きによって釈放されるというストーリーだ。日本は亡命希望する外国人に対して冷たい。亡命希望の理由を精査し帰国すれば逮捕やことによると命の危険さえあるものについては在留を認めるべきである。考えてみれば戦前の日本は亡命朝鮮人や中国人、ビルマ人などについて寛大だったように思うけど。

モリちゃんの酒中日記 3月その2

3月某日
桐野夏生の最新刊、「燕は戻ってこない」(集英社 2022年3月)を読む。桐野夏生の小説を「現代のプロレタリア文学だ」と評したのは政治思想家の白井聡だったが、本書も現代のプロレタリア文学と言える。主人公の29歳の女性、リキは派遣社員として病院の事務を仕事にしている。給料は手取りで14万円、部屋代の58000円を除いた、残りの82000円で生活する。リキはまさしく現代のプロレタリアートである。プロレタリアートの解放をめざす日本共産党の眼もリキのもとには届かないし、労働者の味方である労働組合の存在もリキには遠い。そんなリキに1000万円の仕事が舞い込む。代理母出産である。不妊症の妻に代わって夫の精子を人工授精し、妊娠出産するという仕事である。不妊症の夫、草桶基はバレーのダンサー、母も著名なダンサーで資産家の娘。母は不妊治療の治療費も援助してくれる。
基母子はさしずめ現代のブルジョアジーだ。リキは双子の男女を妊娠し出産する。リキは妊娠中、日本画家のりりこの事務仕事を手伝う。りりこは基をお金でリキの頬っぺたを叩いたと言い「こういうのって、経済格差を利用した搾取っていうんですよ」と非難する。リキはどうする?ネタバレになるので結末は書かないが、リキはある方法によりブルジョアジーに報復する。「蜂起」に成功するのだ。

3月某日
上野駅で香川さんと待ち合わせ。東京国立博物館平成館に「ポンペイ展」を観に行く。約2000年前の紀元79年、イタリア中南西部にあった人口1万人ほどの都市が街の北西10㌔にあるヴェスヴィオ山が噴火、大量の噴出物が住民ごと街を呑み込んだ。18世紀以降発掘が進んだが、今回の「ポンペイ展」ではイタリア・ナポリ国立考古学博物館が所蔵する宝飾品や彫像、日用品など150点が出品されている。2000年前のポンペイの生活は考えようによっては今の私たちの生活より快適だったかも知れないと思った。上水道は完備だし装飾用の美術品も各家庭に備わっていた。といってもこれらの生活は奴隷の存在によって支えられていた。ブドウの栽培やワインの製造などがポンペイの経済を支えていたようだが、これらも奴隷労働があったればこそであろう。観終わって根津まで歩き沖縄料理屋に入る。

3月某日
「愚かな薔薇」(恩田陸 徳間書店 2021年12月)を読む。腰巻のコピーに曰く「14年の連載を経て紡いだ吸血鬼SF」。巻末の掲載誌一覧によると「SF Japan」という雑誌に2006年から11年まで掲載され、続いて「読楽」という雑誌に2012年から20年まで隔月に掲載されている。四六判で580ページだから読み終わるのに三日も費やしてしまった。内容はというと…。私なりに単純化すると、1万数千年後に地球は太陽に吸収されてしまう。それまで地球外の星に人類は移住しなければならない。日本のある地方で船と呼ばれる宇宙船によってそれが何代も前から実践されている。というようなことを物語として14年間も連載する、ウーン、ご苦労さま。

3月某日
「東京23区×格差と階級」(橋本健二 中公新書ラクレ 2021年9月)を読む。橋本健二先生は早稲田大学人間科学学術院教授。格差と階級についての研究を40年近く続け「新・日本の階級社会」「アンダークラスー新たな下層階級の出現」「〈格差〉と〈階級〉の戦後史」「中流崩壊」などの著書がある。戦後、日本が経済成長を遂げる中で格差は拡大し続けているというのが先生の基本的な立場である。しかし格差を解消し階級対立を止揚するために「革命を!」という立場はとらない。先生は「しばしば共産主義者と誤解される」とし、「定義にもよるが共産主義とは、私有財産制を廃止して階級のない社会=無階級社会をめざし、最終的には国家すら廃止しようとする思想と運動である。しかし私は、階級をなくすことは不可能だし、そもそも望ましくないと考える」としている。そして「問題は、階級間に大きな格差があること、そして階級間に障壁があって、所属階級が出身階級によって決まってしまう傾向があることである」(終章 交雑する都市へ)と主張する。都市政策としては公営住宅の供給拡大や家賃補助を重視する。思想的にはリベラルなんだね。なお、先生にはフィールドワークとして居酒屋考現学を実践し著作も何冊かある。居酒屋の歴史をたどるという学術的な側面と居酒屋紹介的な側面を持つ楽しい著作である。

モリちゃんの酒中日記 3月その1

3月某日
「関友子さんを偲ぶ会」に出席。関さんというのは赤坂にあったクラブ邑のママである。1968年に早稲田の政経学部に入学したので私の同期生、というより私の奥さんとも同期生で奥さんとは仲が良かった。私は在学中にはほとんど面識がなく、クラブ邑からの付き合い。関さんは最初、新宿歌舞伎町でクラブを開業したが私はその頃、会社の金を使える立場になかったので上司に便乗して同じく歌舞伎町にあった「ジャックの豆の木」というクラブに通っていた。偲ぶ会は関さんが所属していた早稲田の出版研究会の人が出席していた。友子さんの一人娘、一奈さんがゲスト。一奈さんはタイ在住で一時帰国中、今月中にタイへ帰るそうだ。一奈さんのワインの呑みっぷりが大変気持ちよかった。会には邑で友子さんを支え、邑が閉店した後も友子さんと仲が良かった千恵さんも参加していた。会場を提供してくれた浪漫堂の倉垣君に感謝!

3月某日
「同志少女よ、敵を撃て」(逢坂冬馬 早川書房 2021年11月)を読む。早川書房主催のアガサ・クリスティー賞受賞作である。第2次世界大戦中のスターリングラード攻防戦や大戦末期の要塞都市ケーニヒスベルクを舞台に赤軍の女性の狙撃兵、セラフィマと彼女の属する射撃訓練学校の生徒たち、そして射撃訓練学校の教官、イリーナの群像劇として描かれる。第2次世界大戦はナチスドイツの電撃的なソ連侵攻から始まった。そう思うとこの何日かのロシア軍のウクライナ侵攻に思いが及ぶ。スターリングラード攻防戦は1942年、今から80年前である。プーチンは80年前のヒトラーと同じようなことをしようとしているのではないか。週刊文春の今週号(3月10日号)で林真理子が「夜ふけのなわとび」でソ連の対独戦と本書に触れている。以下抜粋。
「それにつけても不思議なのは、最近この対独戦を描いた『戦争は女の顔をしていない』が、日本ではベストセラーになったことである。ソ連はなんと百万人を超える女性兵士がいたというから驚く。
そしてこの本に影響された『同志少女よ、敵を撃て』は、日本の作家によるものであるが、こちらも大ヒット、直木賞の候補にもなった。フェミニズムの気配もあり、若い読者がついた」。
著者の逢坂冬馬は1985年生まれ、明治学院大学国際学部卒の新鋭作家。物語の組み立ては新人作家とは思えないほど緻密だし、歴史考証も正確。次作にも期待したい。とりあえず私は我孫子市民図書館に「戦争は女の顔をしていない」をリクエストした。

3月某日
「幕末社会」(須田努 岩波新書 2022年1月)を読む。幕末という言葉から私がイメージするのは尊王攘夷というスローガンや、倒幕運動のなかで闘われた桜田門外の変や佐幕派への討幕派のテロル、池田屋事件、寺田屋事件などの討幕派に対するテロル、さらには大政奉還から鳥羽伏見の戦いから五稜郭の戦いに至る戊辰戦争である。著者の須田努という人は違うアプローチで幕末に迫る。「はじめに」で著者は「本書でこだわりたいのは、政治や制度ではなく、社会の様相である」と記している。「社会の様相」は何から見えてくるのか? 著者はそれを百姓一揆や騒動から読み取ろうとする。一揆や騒動を主導したのは多くは若者であった。彼らは世襲的身分を超えて社会的ネットワークを作り出していったのである。一揆や騒動は暴力をともなった。「あとがき」で「幕末という時代、若者が現状から抜け出す途が開けた、といえる。(中略)現状打破と自己実現を可能にしたのは暴力であった」としている、私はここから1960年代末の学生運動をイメージしてしまう。あの頃も「現状打破と自己実現」を投石とゲバ棒によって暴力的に実現しようとしていた。須田は「暴力を選択した若者の多くはその暴力の中で死んでいった」とし「しんどいが事実である」と書く。これも過激な学生運動の末路を連想させるではないか。

モリちゃんの酒中日記 2月その4

2月某日
「むずかしい天皇制」(大澤真幸 木村草太 晶文社 2021年5月)を読む。大変面白かった。面白かったけれども、社会学者の大澤と憲法学者の木村の対話により構成されている本書をすべて理解できたわけではもちろんない。しかし昨日(2月23日)はたまたま徳仁天皇の誕生日であった。天皇誕生日に天皇制を論じる本書を読んだのも何かの縁、本書に沿いながら天皇制について勝手に考えてみた。日本書紀や古事記では最初の天皇は神武天皇ということになっているが戦後の歴史学では神話上の存在として否定されている。では誰が最初の天皇かというと、山川の教科書では雄略天皇(第21代)で、天皇という言葉は使わずにワカタケルの大王の解説として出てくる。「ワカタケル」(池澤夏樹)という小説を読んだことがあるが競争相手の王子を殺してしまうなど、かなり暴力的だ。もっともそう思うのは現代人の発想で古代人はもっと荒々しく人間や自然と対峙していたのかも知れない。雄略天皇はじめ古代の天皇は実際に武力に基づいて権力を保持していたと考えられる。天皇ではないが推古天皇を補佐した聖徳太子や奈良の大仏の建造を命じた聖武天皇などは、相当強い権力を持っていたんでしょうね。
しかし天皇親政は日本史のなかではむしろ例外で、そのことは著名な法制史学者である石井良助の「天皇 天皇の生成および不親政の伝統」という著作で明らかにされているようだ。平安時代になって藤原氏の摂関政治が天皇親政にとって代わる。摂関政治は平氏に受け継がれ、平氏を打倒した源頼朝が鎌倉幕府を開く。頼朝の血筋は三代で途絶えるが、以降は北条氏が執権として権力を握り、将軍は京都から親王や上級の貴族を招いている。北条氏が滅んだあと、例外的に後醍醐天皇が建武の新政により親政を敷くが長続きしないで南北朝、室町幕府の時代となる。応仁の乱を経て戦国時代になるが、この頃、朝廷は本当にお金に困ったらしい。費用の捻出ができず即位の儀式も出来ないこともあったという。それでも天皇制は生きのびる。むしろ武力も財力もなかったからこそ生きのびたと言っていいかも知れない。大澤先生によると「天皇のことを信長ほど蔑ろにした武士はいない」。天皇から左大臣や征夷大将軍などの地位を提案されるが信長は歯牙にもかけなかったという。信長は明智光秀に殺されるが、光秀は天皇をバカにしている信長に憤慨したわけではない。大澤先生は、日本史に内在している「論理」からすると「天皇をそこまで蔑ろにする人は排除される運命にある」と説く。
短い豊臣政権を経て徳川政権が250年続く。江戸時代を通じて朝廷の存在感はかなり薄い。存在感が一気に増すのが幕末、ペリーが来航しアメリカと条約を交わし、その勅許を幕府が朝廷、孝明天皇に求めたことによる。それ以前に何か問題があって、幕府から朝廷に意見を求めたことはない。天皇及び公家は幕府から僅かな禄を与えられ、学問や和歌、書道などに励んでいたのだろう。朝廷は文化的な存在として生き延びた。それが黒船の来航により180度変化する。自信を失った幕府は朝廷の後ろ盾、勅許を求める。尊王攘夷の嵐が吹き、江戸では桜田門外の変が起こり、京都では開国派へのテロが横行する。尊王攘夷が尊王開国に転換し倒幕の密勅が薩摩と長州に下される。というか岩倉と大久保利通あたりが共謀して、幼い明治天皇に密勅を出させた。天皇の政治利用である。明治維新から20年ほどたって大日本帝国憲法が制定される。「天皇は神聖にして侵すべからず」とされる一方、国会が開設される。現在の憲法下では衆議院の多数の賛成を得て総理大臣が指名されるが、戦前は総理大臣は衆議院の多数に拠らず、元老の指名であった。それでも大正デモクラシーから5.15事件まで衆議院の多数を握る政党が総理大臣を指名するという慣習が成立した。
現憲法下で皇室、天皇の在り方は大きく変わった。戦前、皇室が所有していた膨大な財産は国有財産とされた。皇居は天皇家の財産ではなく国有地である(要確認)。天皇は家賃、地代は払っていないと思うけど。イギリスの王家はウインザー城などの邸宅をいくつか私有しているしタイの王室などはけた外れの金持ちらしい。日本の皇室のメンバーは終身の公務員と言ってもいいと思う。逃げ出したくなるんじゃないかな。眞子さんの気持ちがちょっぴり理解できるような…。

2月某日
「ミーツ・ザ・ワールド」(金原ひとみ 集英社 2022年1月)を読む。銀行OLの由嘉理は焼肉擬人化漫画をこよなく愛する今どきの腐女子。新宿の合コンで酔っ払った由嘉理はキャバ嬢のライに助けられ、ライの歌舞伎町のマンションで生活するようになる。由嘉理が歌舞伎上で出会うホストやオカマバーの店主、作家などを通して由嘉理は新しい世界を知るようになる。私の読後感では由嘉理は「新しい世界を知る」のではなく「新しく生き始める」なのだが、なんだか前向き過ぎてね。金原ひとみの作風は退廃的と思っていたが、本作を読むとどうも違うようだ。新宿歌舞伎町の友情を描いた小説とも読めた。

2月某日
監事をやっている一般社団法人の理事会が東京駅八重洲口の貸会議室であるので出席する。今回は新しい理事の承認だけなので理事会は5分で終わる。その後、理事さんたちは運営委員会に出席するが監事は退席する。八重洲口から日本橋を経て神田へ。神田からお茶の水まで歩く。御茶ノ水でカレーの専門店へ入り「エビカレー」(1000円)を食べる。きらぼし銀行で通帳に記帳、新御茶ノ水から千代田線で我孫子へ。家へ帰ってスマホの万歩計を見ると16,000歩を超えていた。

モリちゃんの酒中日記 2月その3

2月某日
「浮沈・踊子 他3編」(永井荷風 岩波文庫 2019年4月)を読む。持田叙子の解説によると、「浮沈」は昭和16年12月8日に書き始められたという。日本軍による真珠湾奇襲の日というのも何やら因縁めく。戦争中は発表を見送られ、戦後、中央公論の昭和21年1月号から6月号に連載された。ヒロインさだ子が女給として生活を維持しながら、かつての常連だった越智と上野駅で偶然に再会、恋に落ちてゆく。反時代的と言おうか、時局に批判的だった荷風の面目躍如たる作品である。

2月某日
「この国のかたちを見つめ直す」(加藤陽子 毎日新聞出版  2021年7月)を読む。日本の近代史を専門にし、東京大学文学部で教鞭をとる加藤教授の本だが、この本には毎日新聞に連載されたコラムやインタビューが収録されている。加藤教授は日本学術会議への任命を拒否された6人の学者のひとり。任命拒否についても極めて論理的に反論しているが、私は加藤教授の豊富な読書量に驚いた。日本近代史を専門にする大学教授なら当然かもしれないが、シナリオライターの笠原和夫の「書いたものは必ず読むようにしてきた」とか、橋本治や井上ひさしを愛読している。加藤教授の歴史書が面白いのも彼女の幅広い読書によるところが大きいのではないか。

2月某日
「それからの海舟」(半藤一利 ちくま文庫 2008年6月)、「幕末史」(半藤一利 新潮文庫 平成24年11月)を続けて読む。「それからの海舟」は筑摩書房のPR誌「ちくま」に連載されたもの、「幕末史」は慶應丸の内シティキャンパスの特別講義として、2008年3月から7月まで12回にわたって講演したものをまとめたものである。私は半藤さんに講演を依頼したことがある。20年ほど前だったか、会社で「森田さん電話ですよ」と言われて出たら「半藤だけど」。その頃は半藤さんの本を読んでいなくて「半藤さんって誰だっけ?」と一瞬思ったが幸いすぐに思い出した。確か厚労省OBのSさんにお願いされたのだ。講演の依頼にも快諾してもらって、当日、私も講演を聞いたはずだが内容はまったく覚えていない。当時、私は文藝春秋社=保守的出版社と思い込んでいて、「そこの専務をやった奴(半藤さんのこと)ならゴリゴリの保守だろう」と思っていたのだ。のちに半藤さんの著作を読むにつけ、半藤さんが反戦の高い志を持つ人だということを知るわけである。学術会議への任命を拒否された東大の加藤陽子教授との対談もあるくらいで、この人の日本近代史に対する学識の深さは半端ではない。その深い学識を平明な語り口で叙述するのが、歴史探偵たる半藤さんの真骨頂なのだ。
「それからの海舟」の「それから」とは大政奉還後ということである。大政奉還をしてから、つまり幕府が幕府でなくなってから、幕府と最後の将軍、徳川慶喜を支えたのが勝海舟である。半藤さんの先祖は長岡藩に仕えていたそうである。戊辰戦争に際して河井継之助に率いられて官軍に抵抗したあの長岡藩である。したがって半藤さんは官軍という呼称は用いない。官軍はあくまでも西軍であり、長岡藩や会津藩、五稜郭に立て籠った幕軍の残党まで、東軍と称する。「それからの」で描かれる海舟は頭脳明晰なうえに肝が据わっており、世の中を見通す眼力は薩長の藩閥政治家たちの遥か上をいっていた。「それからの」の主演はもちろん海舟だが、助演男優賞を上げたいのが二人、徳川慶喜と西郷隆盛だ。慶喜と海舟は必ずしも互いに好意を抱いていたとは言えないが、海舟は家臣として生涯、慶喜を支える。西郷は江戸城明け渡しの交渉相手だが、その人間的度量の大きさに海舟は感服してしまう。西南戦争の最終局面、城山で西郷は別府晋介の介錯で死ぬが、海舟は西郷の息子の留学の面倒を見たり西郷の碑を建てたりしている。
「幕末史」も反薩長史観に貫かれている。「はじめの章」で永井荷風の薩長罵倒の啖呵が紹介されている。「薩長土肥の浪士は実行すべからざる攘夷論を称え、巧みに錦旗を擁して江戸幕府を転覆したれど、原(もと)これ文華を有せざる蛮族なり」(「東京の夏の趣味」)。慶應が明治に改元されたころの狂歌に「上からは明治だなどといふけれど 治まるめい(明)と下からは読む」というのがあるという。江戸の庶民が明治維新に対して冷ややかな感情を抱いていたことがわかる。「五箇条の御誓文」という明治維新の一つのイデオロギーを示したものがある。このもとが坂本龍馬の「船中八策」にあることも、半藤さんは明らかにする。後藤象二郎が坂本から船中八策を示され、後藤は坂本案であることを伏せて藩主の山内容堂に伝える。容堂は船中八策をもとに「大政奉還に関する建白書」を朝廷と幕府に提出し、これが五箇条の御誓文のもととなった。最近の歴史の教科書ではどうなっているのか。教科書ではないが「幕末維新変革史(下)」(宮地正人 岩波書店 2012年)によると、「3月15日江戸城総攻撃期日の前日の14日、京都紫宸殿の明治天皇が出御、公卿諸侯を率い天神地祇に誓う形式で5カ条の誓文が示された」とあっさり記述されている。歴史としてはこういうことかも知れないが、半藤さんは歴史をより深くとらえようとしていると私には思える。

モリちゃんの酒中日記 2月その2

2月某日
「大杉栄伝-永遠のアナキズム」(栗原康 角川ソフィア文庫 令和3年2月)を読む。本書はもともと2013年に夜光社から刊行された単行本に加筆訂正したものだ。「おわりに」では次のように書かれている。「今年(2013年)の3月初旬だったろうか。この原稿を書きはじめたころ、わたしは名古屋をおとずれた。友人のYさんがよびかけた勉強会合宿に参加するためだ。2011年3月12日以降、おおくの友人たちが東京を去った。放射能を避けるためだ」。「文庫版あとがき」では「目下、コロナの大フィーバー、わたしにとって、大杉栄とカタストロフはセットなのだろうか」と記されている。原発事故のさ中に初版、コロナ禍の渦中に文庫化という過酷な運命の本書は、大杉栄という激しい人生を歩んだ人の伝記にふさわしい運命を歩んでいるようだ。栗原の「サボる哲学-労働の未来から逃散せよ」(NHK出版新書)によると、アナキズムの語源はギリシャ語の「アナルコス」、「無支配」からきているそうだ。そういえば大杉栄や伊藤野枝、金子文子など伝記小説を読むと、彼ら彼女らは人から支配されることを拒絶しつつ、人を支配することも拒んだ。天皇や皇太子の暗殺を企てるほど過激な彼らは、一方で家族や友人たちには優しく接している。見返りを期待しない相互扶助ね。

2月某日
「激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972」(池上彰・佐藤優 講談社現代新書
2021年12月)を読む。私が高校を卒業したのが1967年で、東京の予備校に通っていた10月8日、当時の佐藤首相の南ベトナム訪問に反対して三派全学連を中心とした学生集団が機動隊の阻止線を突破、羽田空港に迫った。翌日の朝刊1面に「学生、暴徒化!」というような大きな活字が躍っていたことを覚えている。私は「大学に入ったら学生運動をやろう」と秘かに決意したものだ。68年4月早稲田の政経学部に入学、自治会は社青同解放派が握っていて、5月の連休明けには私も解放派の青ヘルメットを被っていた。68年の12月に解放派は革マル派によって早稲田を追い出され、東大駒場へ逃げた。本書で佐藤は「新左翼の本質はロマン主義であるがゆえに、多くの者にとって運動に加わる入り口になったのは、実は思想性などなにもない、単純な正義感や義侠心でした。そのために大学内の人間関係を軸にした親分・子分関係に引きずられて仁侠団体的になり、最後は暴力団の抗争に近づいていった」と話しているが、まぁ「あたらずと雖も遠からず」だ。私ら解放一家は革マル組によって早稲田のシマを追い出されたのである。

2月某日
「自壊する官邸-『一強』の落とし穴」(朝日新聞取材班 朝日新書 2021年7月)を読む。安倍首相が辞任して菅政権が誕生した時点で本書が執筆されているので、短命に終わった菅政権、菅のあとを継いだ岸田政権についての論評はないけれど、それでも十分に面白かった。新しいことが書かれているわけではないが、保守政権としてはかなり異質であった安倍政権の本質が活写されていると思う。7年8カ月という憲政史上最長の安倍政権はなぜ、可能だったのか?党内に大きな反対勢力が存在せず、総務会で発言するのも石破茂、村上誠一郎などに限られていた。さらに安倍政権は選挙に強く強力な野党が存在しなかった。反対勢力が弱いと権力を握っている側はどうしても説明責任を果たさなくなりがちである。内閣人事局の存在も大きかったようだ。安倍政権以前は各省の局長級の人事には各省からの人事案がすんなり通っていたが安倍政権では差し替えられることもあったという。学術会議の任命拒否もこれに繋がっている。巻末に御厨貴東大名誉教授らに対するインタビューが掲載されているが、牧原出東大教授の「恣意的人事、やめるのが先決」というインタビューが印象的だった。牧原教授は「安倍、菅政権での官邸官僚の影響力は、無理を通して道理を引っ込ませる力でした」とし具体例としてアベノマスクをあげている。官邸官僚が全戸配布を首相に無理に押しつけたが、それを無理だとは官邸官僚も気付いていなかった。こうした構図が長期間繰り返されたというのだ。恐ろしい!

モリちゃんの酒中日記 2月その1

2月某日
新型コロナウイルスワクチンの3回目の接種を我孫子駅南口のイトーヨーカ堂3階で受ける。65歳以上ということなので会場はジジババで溢れていた。わがままと言われてきた団塊の世代だが、接種会場では素直に係の指示に従っていた。接種後10分ほど椅子に座って安静にしてから解放。昼飯をネットで評判の良かった「あちゅ庵」でとろうと思い、行ってみたら休みだった。家まで歩いて帰り奥さんが作ってくれた炒飯を食べる。
NHKBSの「アナザーストーリー」を観る。今回のテーマは「ノルウェーの森」。1969年に舞台を設定した村上春樹の恋愛小説である。実はアナザーストーリーのディレクターから当時の早稲田の学生運動について教えてもらいたいという連絡があった。製作会社に行って当時の状況を説明し、「村上春樹のことだったら倉垣光孝君が詳しいと思うよ」と伝えた。映像では倉垣君が当時の村上春樹について語っているところが映されていた。見終わった後、担当ディレクターに「大変面白かったです。1969年は私にとっても特別な年です」とメールしておいた。ディレクターからは「観てくださってありがとうございます!嬉しいです」という返信が来た。
ワクチンの副反応か体が痛い。筋肉痛ですね。おとなしく家で過ごすことにする。

2月某日
近所の床屋「髪工房」へ行く。2人待ちだったので近くの天ぷら屋「程々」で天丼定食を食べる。990円。海老2本にイカ、カボチャ、白見魚の天ぷらとお吸い物、お新香が付いてだから安いと思う。「髪工房」で散髪。ここは大人料金2000円だが65歳以上は1800円、申し訳ない。床屋の帰りにスーパーカスミでアルコール度数55度の「奥飛騨ウオッカ」を購入、こちらは税込1320円。ついでにマッサージ「絆」でマッサージを受ける。
図書館で借りた「民主主義のための社会保障」(香取照彦 東洋経済新報社 2021年2月)を読む。著者の香取さんは元厚労官僚。昨年、「地方から考える社会保障」の講師をお願いした。現役時代から優秀で知られ、介護保険制度の発足時には山崎史郎さん、唐沢剛さんとの3人組で厚生省のYKKと称された。今度の著作にもいろいろと考えさせられるところが多かったが、とくに第6章の「日本再生の基本条件-経済・財政・社会保障を一体で考える」、第7章の「ガラパゴス日本「精神の鎖国」-二つの海外勤務から見えてきたこと」を取り上げたい。著者の論を乱暴に要約するとこの30年間、日本は先進国中で最低ランクの成長率だった。本文中で2019年12月末と1989年12月末の経済指標が示されている。平均株価(3万8915円87銭⇒2万3656円62銭)、名目GDP(421兆円⇒557兆円)、1人当たりの名目GDP(342万円⇒441万円)、世界経済に占める日本経済の割合(15.3%⇒5.9%)、政府債務(254兆円⇒1122兆円)、政府債務の対GDP比(61.1%⇒198%)、企業の内部留保(163兆円⇒463兆円)。株価は4割下落し、名目GDPは32%、1人当たり名目GDPは29%上昇したが、世界経済に占める日本経済の割合は大きく後退した。この間、政府債務は4.4倍になる一方、企業の内部留保は2.8倍に増加した。株価を企業の成長力に対する期待の反映とすれば、株価の低迷は日本経済の減速の反映であろう。内部留保の増大は有効な投資先の見えなさと、企業家の投資マインドの減速感を著しているようにも見える。著者は、「富の増加をもたらす政策としての所得再分配、安定的な需要を生み出す自立した中間層の創出」を主張し、「社会保障はそのための政策ツール」として位置づけられる。非常に明快な論だと思う。

2月某日
「ひとりでカラカサさしてゆく」(江國香織 新潮社 2021年12月)を読む。篠田莞爾(86歳)、重森勉(80歳)、宮下佐知子(82歳)はかつて一緒の会社に勤めていたことがあり、現在も親交がある。篠田は重度のがんを患っている。篠田は自ら死することを決意し重森と宮下もそれに従うことにする。物語は3人と3人と付き合いのあった何人かの暮らしをなぞりながら進む。230ページの中編小説ながら登場人物が多い!私的には重森の生き方に魅かれた。何人かの女と暮らしたが結婚経験はない。羽振りの良かったこともあるが今は家賃も滞納しているほどだ。重森は在日の外国人に対する日本語教師をしていたことがあり、中国人の教え子とは今でも交流がある。3人は大晦日に猟銃で自殺することになるのだが…。

2月某日
何日かぶりで東京へ。上野経由神田駅下車。鎌倉河岸ビル地下1階の「跳人」でランチ。「漬け丼」ライス少な目で。社保研ティラーレを訪問。コーヒーと水割りをご馳走になり吉高会長、佐藤社長と雑談。上野駅構内の本屋で「激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972」(池上彰 佐藤優 講談社現代新書 2021年12月)を購入。我孫子で「しちりん」による。