モリちゃんの酒中日記 7月その3

7月某日
午前中、月1回の高血圧治療のため我孫子南口駅前の「中山クリニック」へ。治療と言っても「お変わりありませんか?」「特にありません」という簡単な問診のあと、中山先生が血圧を測って「お大事に」「ありがとうございました」で終わり。高血圧は自覚症状がほとんどないので厄介だ。私も11年前の2010年3月、HCM社のゴルフコンペの朝、フラフラしてズボンをはけず、HCM社のMさんに「こういうわけでコンペは欠席します」と電話した。そうしたらMさんが「親父が高血圧で倒れたときと同じだから直ぐに救急車を呼んだ方がよい」と言われてそうした。会社の検診で高血圧と診断され、当時から中山クリニックに通っていたのだが、何しろ自覚症状がないもので服薬もサボり勝ちだった。今は真面目に服薬を続けています。中山クリニックから我孫子薬局でいつもの薬を調剤してもらい帰宅する。

7月某日
厚労省の医系技官だった高原亮治氏。上智大学の教授を務めた後、高知県の医療法人で働いていたが持病の心臓病が悪化、急死した。高原さんの生前、堤修三さんと私の三人で何回か呑みに行った。高原さんが岡山大学医学部の全共闘、堤さんが東大駒場、私が早大政経の全共闘という全共闘つながりだった。7月の命日には堤さんと奈良女子大学元教授の木村陽子さんとの3人で高原さんの墓参りに行くことにしている。お墓と言っても高原さんの遺骨は四谷の聖イグナチオ教会の納骨堂に納められているから、そこにお参りする。お参りした後、近くの喫茶店で休憩。木村さんにCDを頂く。

7月某日
家にあった「それからの海舟」(半藤一利 ちくま文庫 2008年6月)を読む。前に一度読んだことがある筈だが、例によって内容はほとんど覚えていない。著者の半藤は元文藝春秋社の編集者で最後は専務を務めた。東京は向島の生まれで、先祖は越後長岡藩の出。江戸は幕府のおひざ元だし、長岡も薩長の倒幕勢力に抵抗して敗れた。半藤は根っからの薩長嫌いなのである。勝海舟も江戸っ子だが、三河以来の幕臣ではなく「祖父の平蔵が三万両で株を買い、千石取りの男谷家をついだ」。父の小吉が男谷家から勝家の養子に入る。勝小吉は無役の貧乏旗本だったが勝海舟、幼名麟太郎は幼い頃から文武両道に励み優秀だった。表題の「それから」について半藤は「あとがき」で三田薩摩屋敷での勝・西郷隆盛の会談のときと記している。会談の結果、「江戸城は無血開城となり、近代日本は華やかに幕を開いた」のである。海舟は1823(文政6)年に生まれ1899(明治32)年に75歳で没している。当時としては長命だったのではないか。ちなみに維新の三傑といわれる西郷隆盛、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通の終焉についても本書に触れられている。西南戦争の最終局面、城山で政府軍の総攻撃を受ける西郷軍。「流れ弾が股と腹に当たるに及んで、傍らの別府晋介を顧みて言った。『晋どん、晋どん、もうこん辺でよか』」。1878(明治10)年9月24日、享年51。木戸は西南戦争の真っ最中の同年5月26日に「西郷、もういい加減にせんか」の一言を最後に病死した。享年45。翌年、1879(明治11)年5月14日、大久保利通が暗殺される。享年49。三人ともずいぶん若くして死んだことが分かる。そういえば半藤さんも今年1月に亡くなっている。こちらは享年90。

7月某日
林弘幸さんと我孫子駅南口の「しちりん」で呑む。林さんは元年金住宅福祉協会の幹部職員。確か九州支所長や東京支所長を務めた。九州支所長のとき博多でご馳走になった覚えがあるが、仲良くなったのはむしろ林さんが年住協を止めて以降だ。林さんは年住協の前の職場が永大産業。この会社は合板とプレハブ住宅のメーカーだったが、オイルショック後に倒産した。年住協の実質的な創業者だった坂本専務、その後を継いだ中谷、米田さんも永大出身だ。年住協の創業当時の話を聞けた。

7月某日
「ロッキード」(真山仁 文藝春秋 2021年1月)を読む。600ページ近い大著だが、週刊文春に2018年~2019年にかけて連載されていた「ロッキード 角栄はなぜ葬られたか」をもとにしているだけに読みやすかった。私が大学を卒業したのが1972年、田中角栄が首相になったのがその年の7月、文藝春秋に立花隆の「田中角栄研究」が掲載されたのが74年の10月、田中内閣が総辞職したのが11月だ。角栄は首相は辞めたが最大派閥の田中派を率いて自民党の実力者であり続けた。角栄が逮捕されたのは76年の7月である。東京地裁は83年10月に角栄に懲役4年、追徴金5億円の判決を下す。85年2月に角栄は脳梗塞で倒れ入院、退院後も本格的な回復を見ないまま93年12月に波乱に満ちた生涯を閉じている。私が23歳のときに角栄は首相となり、死んだのは私が45歳のときである。感慨深いものを感じながら読了した。角栄の起訴、有罪判決は無理筋であったのでは?と思わせるものがあった。今度、弁護士の雨宮先生に会ったら聞いてみよう。

7月某日
「夫・車谷長吉」(高橋順子 文藝春秋 2017年5月)を読む。最後の文士とも呼ばれた小説家、車谷長吉との日々を描いたエッセー。本作で高橋は講談社エッセイ賞を受賞している。
車谷との出会いから車谷の直木賞受賞、豪華客船による世界一周、そして車谷が晩年、体力と同時に執筆意欲を失ってゆく様子が赤裸々にかつユーモラスに描かれる。私は実は車谷と高橋と二度ほど酒を呑んだことがある。私の兄の奥さん(義理の姉)が小学館に勤めていて高橋順子さんと親しく、酉の市に鳳神社にお参りした後、入谷で4人で呑んだのだ。私が車谷のファンであることを知った義理の姉が誘ってくれたのだ。高橋さんは東大、車谷は慶應の仏文を出たインテリなのだが、お会いしたときは普通のオジサンとオバサンに見えた。高橋さんの方が1年、年長なのだが高橋さんがかいがいしく車谷のお世話をしているように見受けられた。「夫・車谷長吉」を読んで、そのときのことを思い出した。

モリちゃんの酒中日記 7月その2

7月某日
11時45分に社会保険研究所の入るビルでキタジマの金子さんと待ち合わせ。「真の成熟社会を求めて」のゲラを返すつもりだったが、肝心のゲラを自宅に忘れてしまった。後でメールすることにする。年友企画の石津さんとランチ。「跳人」で三色丼をご馳走になる。「跳人」でホールを担当している大谷さんと話す。大手町から霞が関へ。厚労省1階ロビーで社保研ティラーレの佐藤社長と待ち合わせ。樽見事務次官に「地方から考える社会保障フォーラム」への出席のお願い。厚労省で佐藤社長と別れ、虎ノ門の日土地ビルで打ち合わせを済ませた後、霞が関から千代田線で帰る。北千住で快速に乗り換え我孫子へ。南口駅前の「しちりん」に寄る。

7月某日
「政治家の責任-政治・官僚・メディアを考える」(老川祥一 藤原書店 2021年3月)を読む。著者の老川は読売新聞グループ本社会長・主筆代理、同グループではナベツネこと渡辺恒雄主筆に次ぐナンバー2ということだろう。1941年東京都出身、早稲田大学政経学部政治学科卒業後、1964年読売新聞社に入社。入社以来、多くの期間を政治部で過ごし政治部長も務めた。この本を一読して私も色々な感慨を持ったが、一つは衆議院選挙制度の中選挙区から小選挙区への移行であろう。一選挙区に3~5人程度の定員を設ける中選挙区制は選挙に金がかかり過ぎる、同一政党から複数の候補者が立候補するため派閥政治が助長される、などの批判があり小選挙区制への移行が決まった。政党には税金から政党助成金が交付されるようにもなった。中選挙区時代は派閥のボスから盆暮れ、選挙時に金が配られていた。党執行部の力が強まり派閥の力は低下した。現在の菅首相(総裁)は無派閥だが、かつては考えられなかった。安倍一強を謳歌できたのも小選挙区制の賜物と言えまいか。政治家が小粒になったのも小選挙区制に源がありはしないだろうか。

7月某日
「何とかならない時代の幸福論」(ブレイディみかこ×鴻上尚史 朝日新聞出版 2021年1月)を読む。ブレイディみかこは一昨年だったか、金子文子らの女性テロリストを描いた「女たちのテロル」(岩波書店)を読んで以来のフアン。鴻上尚史の芝居は観たことはないけれど、彼が司会をやっているNHKBSの在日の外国人を集めてのトーク番組「COOLJAPANN」はときどき観る。二人とも日本社会を外から(批判的に)見ているのが共通点と言えようか。コロナで同調圧力が高まっている現在、二人の視点は重要だ。コロナと言えば、明日から東京に緊急事態宣言が発出される。これに関連して西村担当大臣が、酒類を提供する飲食店には金融機関や種類の卸業者を通じて圧力をかけるとか発言して批判を浴びた(後に撤回したらしいが)。西村大臣は灘高から東大を出て通産省に入った秀才らしいが、だめだねぇ。コロナで窮地に立たされている飲食店等の弱者に対する想像力が欠けている。「何とかならない時代の幸福論」でも「『エンパシー』とは、その人の立場を想像する能力」としてブレイディみかこが「『エンパシーという能力を磨いていくことが多様性には大事なんだよ』と、息子が学校で習ってきた」と語っていた。そういうことなんだよなぁ。

7月某日
家にあった「幕末維新変革史」(下)(宮地正人 岩波書店 2012年9月)を読むことにする。上巻を10年近く前に読んで下巻は読まずに放っておかれた。読まずに死んでしまうのももったいないので読むことにする。下巻は第Ⅲ部「倒幕への道」、第Ⅳ部「維新史の課程」、第Ⅴ部「自由民権に向けて」という構成。著者の宮地正人は1944年生まれ、東大の史料編纂所教授、国立歴史博物館館長を務めている。東大の国史学科を卒業しているから昨年亡くなった坂野潤治先生の後輩にあたる。ウイキペディアでは宮地のことを「左派」としているが、そういう決めつけは如何なものか。第Ⅲ部は政治史的に言うと薩長同盟の成立から大政奉還までを扱っている。そうそうこの本を読むきっかけとなったのはNHKテレビの大河ドラマ「青天を衝け」がちょうど、渋沢栄一が一橋慶喜に仕官し、慶喜が大政奉還をする当たりを扱っているからだ。渋沢を演ずる吉沢亮という役者がなかなかいい。二枚目なんだけれど三枚目的でもあるし、熊谷あたりの方言「だっぺ」丸出しなのも好感が持てる。
本書が面白いのは中央の政治史だけでなく経済や地方、文化や学問にも焦点を当てている点だ。第Ⅲ部ではこれまであまり知られていなかった蘭学者や東国の平田国学者、豪農や豪商にも言及している。「青天を衝け」でも渋沢家が熊谷の豪農で藍玉を扱う商人を兼ねていることが描かれている。第33章「幕末期の東国平田国学者」では宮和田光胤という国学者が紹介されている。この人は今は取手市と合併した藤代町宮和田の出身、今でも宮和田という地名は残っているし宮和田小学校も存在する。水戸街道沿いということもあって水戸学の影響も受けたらしい。本陣の当主だから名字帯刀は許されたが基本は農民ないしは町民であった。この辺は渋沢家と一緒だ。新選組の近藤勇や土方歳三も三多摩の農民出身。だけれども剣術も学問も学び江戸へ出て道場を開く。道場を開く資金はおそらく実家からも出ていただろう。米だけでなく生糸も扱っていたと思われる。開国によって藍玉や生糸の価格が乱高下した。渋沢や近藤らの生産者が攘夷思想に魅かれていく一因となったのでは。

7月某日
「幕末維新変革史」(下)の第Ⅳ部「維新史の過程」を読み進む。明治維新の性格については、講座派(日本共産党系)の絶対主義革命と労農派(戦後の日本社会党に繋がる)のブルジョア民主主義革命という二つの見方があった。本書はそのどちらに与するものではない。講座派と労農派の論争そのものが観念的であったのかも知れない。本書は明治維新が政治体制、経済社会、暮らしを含めて幅広い変革であったことを明らかにしていく。私としては士農工商の近世的身分制度の解体など、明治政府の民主的、進歩的な性格は評価する一方、後の大逆事件をはじめとした反動的な性格も見逃せないと思っている。そういえば坂野潤治先生は明治時代から大正デモクラシー、5.15事件まで日本は民主的とファシズム的の政権交代が繰り返されてきたと述べていたように思う。

7月某日
「幕末維新史」(下)を読了。今回読んだのは第5部「自由民権にむけて」。第48章「福沢諭吉と幕末維新」、第49章「田中正造と幕末維新」の2章で構成される。福沢は九州中津の中津藩、奥平家の下級武士の家に生まれる。天保5(1835)年生まれだから、ペリー来航がなければ九州の片田舎で平凡な一生を送った可能性が高い。しかしペリー来航が福沢の運命を一変させる。蘭学の習得を命じられた福沢は長崎、次いで大阪の緒方洪庵の塾で学ぶ。オランダ語を学んだ福沢は開港した横浜に出かけるが、欧米世界での共通語は英語であることを知り愕然とする。オランダ語を学んだ友人の多くは「今さら」と英語学習に背を向けるが福沢は果敢に挑戦する。これが福沢の咸臨丸による渡米、さらに帰国後の幕臣への登用につながる。幕臣としての福沢は、統一中央政府の幕府という形で幕府をとらえ、幕府権力の維持、強化を訴える。維新後の福沢は幕臣の静岡移住にも加わらず、新政権にも参加しなかった。維新前からの英語塾、のちの慶應義塾の経営に務めることになる。明治という時代は薩長を中心とする藩閥政府とそれと結びついた三井、三菱、住友、安田らの政商(後の財閥)の時代と理解されやすいが、福沢らの慶應義塾の力も無視できない。なにしろ東京大学が1977年に設立され、最初の卒業生を出すまでは、慶應義塾は最大の管理養成校だったらしい。それ以降は経済人を輩出していくが、彼らが明治期のブルジョア民主主義を担ってゆくことになる。田中正造は下野国小中村の庄屋の家に生まれる。幕末期には近隣の農民や浪人たちと共謀して倒幕の挙兵を試みるが鎮圧される。この辺の反権力の志は後の足尾銅山の鉱毒反対闘争に引き継がれてゆく。本書を読んで感じたのは、われわれが享受している民主主義や平和は当たり前のように存在しているように見えるが、そうではないということ。先人たちの命がけの労苦のうえに成り立っている。事実、幕末から明治期にかけて倒幕運動や反政府運動に携わった者のうち少なからぬ人が死罪となっている。当時の死罪は斬首だからね。文字通り「首を賭けた」闘いだったわけだ。

モリちゃんの酒中日記 7月その1

7月某日
社保研ティラーレで次回の「地方から考える社会保障フォーラム」の打ち合わせを吉高会長、佐藤社長とする。缶ビールをご馳走になる。キタジマの金子さんと「真の成熟社会を求めて」のスケジュールを打ち合わせ。金子さんに車で上野まで送って貰う。我孫子で営業再開した「しちりん」に寄る。

7月某日
「アンソーシャル ディスタンス」(金原ひとみ 新潮社 2021年5月)を読む。コロナ禍の5組の若い男女の恋愛とセックスを描いた5編の中編小説が収められている。恋愛もセックスも引退の身ですがそれなりに面白かったけれど、最近は「厨房」が罵倒する言葉となっていることを学ぶ。中学生を意味する「中坊」が同音の「厨房」となったらしいけれど、わけがわからないよ。

7月某日
「敗戦後論」(加藤典洋 ちくま学芸文庫 2015年7月)を読む。「敗戦後論」は①「敗戦後論」②「戦後後論」③「語り口の問題」-の3部構成になっていて、初出は①が「群像」95年1月号、②が「群像」96年8月号、③が「中央公論」97年2月号で、単行本は1997年8月に講談社より刊行されている。2005年12月にちくま文庫で再刊され、2015年7月にちくま学芸文庫に収録された。単行本、ちくま文庫、ちくま学芸文庫のそれぞれに、著者の「あとがき」が掲載され、ちくま文庫には内田樹の「卑しい街の騎士」、ちくま学芸文庫には伊東祐史の「1995年という時代と『敗戦後論』」というタイトルの解説が付けられている。単行本、文庫の「あとがき」も文庫の解説も、学芸文庫にすべて収められており、これは加藤典洋のことをあまりよく知らない私のような読者にとっては大変ありがたい。以下、「敗戦後論」の内容紹介を「あとがき」と解説に沿って進めたい。
単行本の「あとがき」で、加藤は「この本は互いに性格の異なる三本の論稿からなっている」と述べ、「敗戦後論」が政治編、「戦後後論」が文学編、「語り口の問題」がその両者をつなぐ蝶番の編と位置付ける。これに対して学芸文庫版の解説で伊東祐史は、加藤の位置づけを肯定しつつ第二論文「戦後後論」が「加藤のすべての著作の“扇の要‟に位置」し、「加藤の『文学』の原論である」とし、それをもとに、日本の戦後を論じたのが第一論文「敗戦後論」であり、デリケートな政治社会問題を論じたのが第三論文の「切り口の問題」となる。私は「あとがき」も解説も本文を読んでから読んだから、3つの論文のそういった関係はこれらの文章を読んで初めて知った。何しろ私にとってはいささか難解で、しかも巻末の注釈にも目を通しながら読んだので、文庫本一冊を読み終わるのに三日かかってしまった。
第二論文は太宰治とサリンジャーを軸に戦争(第2次世界大戦)と文学の関りを論じたもので、第三論文はハンナアーレントが戦後、ユダヤ人大量虐殺の罪で裁かれたアイヒマンを描いたルポルタージュ「エルサレムのアイヒマン」を軸に批評を展開している。二つの論文共に私が完全に理解したとは思えないが、文学や思想に真剣に向き合おうとする加藤の姿勢には共感できた。しかし私が一番問題意識を持って読んだのが最初の「敗戦後論」であった。第一論文の「敗戦後論」を貫く加藤の最大の問題意識は「ねじれ」である。日本の現行憲法は日本人の手によって書かれたものではなくGHQの英文の原文を翻訳したものであることはもはや常識である。進駐軍の圧倒的な武力を前に、日本国および日本国民は憲法を「押し付けられた」。しかしその「押し付けられた」憲法は、戦力の放棄をうたう世界に誇るべきものだった。これが加藤の言う「ねじれ」の一つである。もう一つの「ねじれ」は先の戦争(日中戦争、太平洋戦争)の犠牲者は日本人は3百万人、アジア・太平洋地域は併せて2千万人に及ぶ。これらの犠牲者に我々は真摯に向き合っていないのではないか? というのが加藤の提起する第2の「ねじれ」である。
「ここには二種の死者がいる。死者もまた私たちのもとでは分裂している。この分裂を超える道はどこにあるのか」と加藤は書いて、吉田満の「戦艦大和ノ最期」から兵学校出身の哨戒長、白淵大尉の言葉を引用する。「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目覚メルコトガ最上ノ道ダ」。加藤は「ここにいるのは、どれほど自分たちが愚かしく、無意味な死を死ぬかと知りつつ、むしろそのことに意味を認めて死んでいった一人の死者だからである」と書く。私は2、3カ月前、我孫子の香取神社の朝市で「戦艦大和ノ最期」を入手、初めて読んで今までにない何とも言えない気持ちになった。だから加藤の気持ちはよく分かる。だが私は同じ朝市で買った「総員玉砕せよ!」(水木しげる)という戦争マンガを取り上げたい。昭和18年末、陸軍部隊の一支隊が中部太平洋ニューブリテン島に進駐する。マンガは重労働と下士官のビンタに明け暮れる一人の新兵の視点で描かれる。偵察に行った同僚が鰐に襲われたり、熱病に倒れていく。そんななかで戦局は確実に悪化していき、昭和20年3月部隊に玉砕命令が下される。玉砕戦でも生き残る兵や士官がいる。それを察知した司令部はさらなる玉砕戦を命じる。兵たちは猥雑で娑婆に未練たっぷりに描かれる。海軍士官の白淵大尉のような高潔さやインテリジェンスは微塵もない。私はそこにむしろ感動した。白淵大尉は自分の死に意味を見つけた。だがニューブリテン島の兵たちは意味を見つけることもなく死んでいく。

7月某日
社保研ティラーレで佐藤社長と吉高会長と雑談。その後、社会保険出版社の1階でキタジマの金子さんから「真の成熟社会を求めて」の最終ゲラを貰い、次いで社会保険出版社の高本社長に挨拶、金子さんに上野まで送って貰う。上野駅で大谷源一さんと待ち合わせ。一緒に有楽町の交通会館の「ふるさと回帰支援センター」に行って高橋公理事長に挨拶。交通会館地下1階の博多うどんの店「よかよか」に行く。ビール、シャンペンと日本酒を頂く。この店は博多うどんの店だが、おいしい日本酒と日本酒にあったつまみを揃えている。店を仕切っているのはネパール出身の青年。日本語は日本人と変わらないし、顔もほぼ日本人である。

7月某日
近所の「髪工房」という床屋で散髪。髪工房は私より2~3歳年上のご主人とその娘さんがやっている。65歳以上は1800円のうえ、スタンプが5回になるとさらに500円引きになる。今日は500円引きの日だったので1300円だった。申し訳ないほど安価。床屋さんのすぐ前が坂東バスのバス停、我孫子高校前だ。床屋さんを出るとすぐバスが来たので乗る。終点の我孫子駅で降りて南口駅前の「ココ一番屋」に入って「野菜カレー」を食べる。雨が降ってきたので帰りもバス。このところ障害者割引を利用しているので片道75円である。「モリちゃんの酒中日記」を読み返していたら6月に加藤典洋の「敗戦後論」を読んでいたことが判明。認知症発症か?「どっかで読んだことが…」と思ったのは事実ですが1カ月前に読んだことを忘れる?

モリちゃんの酒中日記 6月その4

6月某日
香取神社の朝市で買った古本「戦艦大和ノ最期」(吉田満 講談社文芸文庫 1994年8月)を読む。戦争文学の名作として名前は知っていたが読むのは初めて。吉田は1923年生まれ、1944年東京帝大法学部在学中に学徒動員で海軍に入隊、少尉、副電測士として戦艦大和に勤務。「戦艦大和ノ最期」は終戦後、1日で書き上げたという。全編文語体で書かれているが、文語体が米軍機との戦闘場面、大和の撃沈場面、その後の漂流、救助の極度に緊迫した場面を描くのに効果を挙げている。吉田は復員後、日本銀行に就職、国庫局長、監事を務めたが、1979年56歳で亡くなっている。戦争文学は戦争を体験したものにしか書き得ないものではない。現に浅田次郎の優れた戦争小説を読んだことがある。しかし「戦艦大和ノ最期」は、体験したものしか書き得ないものだ。大和は1945年3月、母港呉港を出港、豊後水道を下り沖縄島を目指す。米軍機に襲われ激闘2時間の末、轟沈される。乗員3332名のうち約3000名が艦と運命を共にした。制空権を完全に失った状況で大和はよく戦ったというべきだろう。しかし、私はミッドウェー海戦以降、勝ち目のない戦を継続した東条英機らの戦争指導者を憎むね。

6月某日
「ハコブネ」(村田沙耶香 集英社文庫 2016年11月)を読む。本書の初出は「すばる」の2010年10月号、単行本化は2011年11月である。精神科医で批評家の斎藤環は「村田沙耶香は闘っている。何と? 異性愛主義、ならびにそれに由来する性交原理主義と」と、村田の「消滅世界」(河出文庫 2018年7月)の解説で述べている。村田の闘いは「ハコブネ」においても同様に展開されている。この小説の書かれた2010年頃は現在よりももっとLGBTなど性的少数者に対する理解は進んでいなかったと思う。「ハコブネ」は異性とのセックスが辛く、自分の性に自信が持てない19歳の里帆、セックスに実感が持てない31歳の知佳子、知佳子の友人で女であることに固執する椿の、それぞれの性を巡る物語である。斎藤環の言うように村田の異性愛主義と性交原理主義との闘いは一貫している。文学は元より孤独な闘いであるが、村田の孤独は「性的観念、性的通念」を相手にしているだけにその孤絶感はまたひとしおだろう。私は村田沙耶香を支持します。

6月某日
「人口減少社会の未来学」(内田樹編 文藝春秋 2018年4月)を読む。内田が序論「文明史的スケールの問題を前にした未来予測を執筆、構造主義生物学の池田清彦やブレイディみかこ、平川克美、隈研吾、姜尚中ら10人が寄稿している。人口減少は自然過程というのが各論者にほぼ共通した認識。そのなかで内田は今後、我々がやらなければならないのは「後退戦」と位置付ける。「どうやって勝つか」ではなく「どうやって負け幅を小さくするか」だ。確かに労働力人口が増加し、高度経済成長が続いた時代には「勝つこと」が求められていた。池田は「動物の個体群動態(人類の場合は人口動態)を考える上で、一番重要な概念はキャリング・キャパシティ(環境収容力)である」とする。そのうえでAIやロボットが普及すれば労働者は失業し、社会環境は悪化する。ベーシックインカムの支給によってそれを防止すれば定常経済が当たり前の世界になり、「そうなればキャリング・キャパシティがほぼ一定で、人口もほぼ一定という、生物種の生存戦略としては最適な社会になる」と予言している。人口問題について考えるには人類史的な視点が必要ということか。

6月某日
2回目のワクチン接種。1回目は駅前のイトーヨーカドーの3階だったが2回目は中山クリニック。中山先生は私の高血圧症の主治医で東京大学医学部出身の秀才。名前を呼ばれて接種室に行くと中山先生が「あぁ森田さん」と一言。無事接種を終え15分ほど休憩して中山クリニックを出る。イトーヨーカドーのCDで現金を降ろし、レストラン「コビアン」でランチ。「ハンバーグ&ウインナー」のBランチ(660円)と生ビール(550円)を頼む。「コビアン」を出て公園通りを下って手賀沼公園で休憩して帰る。

6月某日
10日ほど前に読んだ「現代思想の冒険者たち」シリーズの⑰「アレントー公共性の復権」の月報に森まゆみが早稲田の政経学部の藤原保信ゼミでアレントやローザ・ルクセンブルグを学んだことを記していた。ウイキペディアによると藤原保信は1935~1994年、父が戦死して祖父に育てられ南安曇農業高校を卒業後、働きながら第2政経学部で学び大学院に進んだ。我孫子市民図書館で藤原保信を検索すると「自由主義の再検討」(岩波新書 1993年8月)がヒットしたので借りることにする。藤原は1994年に亡くなっているので、本書は彼の最後の著書になるのかも知れない。「あとがき」で「本書は、ほんらいならばもう少しはやく書き上げられるはずであった。しかしちょうど半分ほど書き進んだところで体調を崩し、中断を余儀なくされた」と記されている。病魔と闘いながらの執筆だったのだろうか。ソ連が崩壊したのが1991年だから、「社会主義に勝利した自由主義」という当時の一般的な風潮に一石を投じたかったのかも知れない。序章の「自由主義は勝利したか」で藤原は自由主義を経済的には資本主義、政治的には議会制民主主義を基本とする社会と定義したうえで、「自由主義そのものが自己修正し、自己克服を遂げていかなければならない」としている。また自由主義の遠い将来は「形を変えた社会主義かも知れない」とも記している。第Ⅱ章「社会主義の挑戦は何であったか」ではマルクスの思想を好意的に概説している。この章の終わりは、完成した共産主義社会では「まさに『各人の自由な発展が、万人の自由な発展』の条件になり、各人はその能力に応じて働きつつ、必要に応じて受けとる。そこにひとつのユートピアをみるのは間違いであろうか」と結ばれている。完成した共産主義社会に「ひとつのユートピアをみる」のは高卒で現場の労働者であった経験がいわせているのだろうか。

モリちゃんの酒中日記 6月その3

6月某日
「花桃実桃」(中島京子 中公文庫 2016年6月)を読む。中島京子の小説は比較的よく読む。直木賞を受賞し映画化もされた「小さいおうち」は広い意味での反戦小説として読んだ。「花桃実桃」は親の遺産で古いアパートを取得して、家主としてそのアパートに住む40代、独身の花村茜とその身辺の物語。中年独身女性の茜は田辺聖子の小説では「ハイミス」として描かれるが、女性の生涯独身率もこの頃では高率を維持していることに伴い「ハイミス」も死語に。小説では不動産屋の親父は中年独身女性のことを「行かず後家」と表現して茜の顰蹙を買うが「行かず後家」も死語でしょう。中島京子の小説には悪人が出てこない。市井の人々の平凡なように見えて非凡な日常に光を当てる。その意味では田辺聖子の後継者の一人だ。

6月某日
「AIは人類を駆逐するのか? 自律世界の到来」(太田裕朗 幻冬舎 2020年6月)を読む。著者の太田はもともと物理学者を目指し京都大学で研究生活に入り、工学研究科航空宇宙工学専攻の助教を経て、カリフォルニア大学サンタバーバラ校で研究に従事、2010年に帰国後、マッキンゼー・アンド・カンパニーでコンサルタント。2018年から自律制御システム研究所を経営という経歴の持ち主。ロボットが自動的に動くとは、自動制御(オートメーション)によって動くことを指し、一方、ロボットが自律的に動くとは、それが自律的(オートノミー)を獲得していることを意味する(はじめに)。このことから太田はAIを備えたロボットが人間の代替物として稼働する近未来を予測する。例えば次のように。①物質(食料、エネルギー)のシンギュラリティ(技術的特異点)が来る。これによって生命維持に必要な物質が飽和する。働かなくても食べられる時代が来るかもしれない。②少ない人口で現状維持できる社会が誕生する。自律ロボットになれば少ない人口で現在のGNPは維持できる。人が減り、自律生産能力が上がれば、豊かになり、出生率もどこかで定常化する。③自律頭脳が全員が正しいと思えるコンセンサス形成に論理的な助言をするようになる。主義主張や感情論、ポピュリズム政治は、行政や富の分配といった国家の役割の中で相対的に弱まり、集団としての意思決定はより論理的なものとなる。④教育も変わる。人工知能を使うべき人が持つべき精神や設計者としての頭脳は、単に知見を得る、作業を学ぶという学問をするだけではなく、その根本を設計するための価値観や倫理が大事になるからだ。⑤私たちの脳そのものも変わる。脳の持つ力を別のことに振り向け、より豊かな精神生活を送れるようになる。なるほどねぇ、方向性としては大変良いと思うけれど。

6月某日
「ファウンテンブルーの魔人たち」(白石一文 新潮社 2021年5月)を読む。近未来私小説かな。私小説というのは作家自身を主人公にして、作家の近辺に起こったことを題材に小説化したもの、というふうに一応は定義してみる。小説の主人公、前沢倫文は福岡出身の親子2代の小説家だ。この設定は白石と重なる。しかし舞台は近未来の東京、新宿だ。どのくらいの近未来かというと、南北朝鮮が統一されてから十数年後という記述があるから、すくなくとも今から30年後、2050年頃の設定と考えていいのではないか。前沢は新宿御苑近くのタワーマンション、ファウンテンブルーに同性の恋人、英理と暮らす。このタワーマンションは新宿2丁目のゲイタウンの跡地に建設された。なぜ跡地かというと4年前に大きな隕石が新宿2丁目に激突、ゲイタウンは跡形もなくなってしまったからだ。同じマンションには皇居前の楠木正成像を模したAIロボット、マサシゲ(マー君)、天才IT技術者で音楽家でもある茜丸鷺郎(アッ君)も住む。マー君はどのような人物にも変態することができるし、両性具有的存在で前沢とも肉体関係を結ぶ。さらに人工子宮の開発を巡って日本、中国、インドの政財界を巻き込んだスキャンダルが描かれる。「ファウンテンブルーの魔人たち」というタイトル通り「魔人たち」の物語だ。AIロボットのマー君が「人間が死を恐れている限り、僕たちの能力には太刀打ちできないけど、死を恐れないという理にかなわない選択をしたとき、人間は、僕たちが到底できないような生き方をすることができるんだ」と語る場面がある。人間にとって生は有限だからこそ時間に意義があるということかも知れない。それにしても四六判600ページ超えは読みでがありました。

6月某日
我孫子市民図書館で本を探していたら大谷源一さんからスマホに電話。大谷さんはワクチン接種の2回目も終わったそうだ。私は2回目が6月28日なので7月に入ったら我孫子で一緒にお酒を呑むことに。手賀沼公園のコブハクチョウを確認して家へ。家に着いたらスマホに年友企画の迫田さんから電話。「へるぱ!」の編集会議への参加の確認。私が参加しても役に立つとは思えないので、先日、酒井さんには「老兵は死なず消え去るのみ」といって不参加を伝えたのだけれど。なんか気を使わせているのじゃないかな。

6月某日
「現代思想の冒険者たち⑰ アレントー公共性の復権」(川崎修 講談社 1998年11月)を読む。我孫子市民図書館の思想のコーナーを眺めていたら「現代思想の冒険者たち」シリーズが目についた。アレントはハンナアーレントのこと。1906年ドイツのユダヤ人家庭に生まれ、大学で哲学と神学を学ぶ。指導教官のハイデガーと恋愛関係に。ナチスが政権をとったあとにアメリカに亡命。戦後、「全体主義の起源」をあらわし、政治思想家としての名声を不動にする。第2次世界大戦中のユダヤ人虐殺に重要な役割を担ったとされるアドルフ・アイヒマンの裁判を記録した「イェルサレムのアイヒマン」は、アイヒマンを上司の命令に従った平凡な小役人で、「悪の陳腐さ」として描き大論争になった。アレントは1975年、69歳でニューヨークの自宅で亡くなっている。「現代思想の冒険者たち」シリーズは、アレントをはじめとした現代思想家の概説書である。第1章「19世紀秩序の解体」第2章「破局の20世紀」にはそれぞれ「『全体主義の起源』を読む」というサブタイトルがついている。アレントが全体主義として分析の俎上に載せたのはナチズムとスターリン主義である。戦後まもなくナチズムは敗北したとはいえ、スターリンは絶対的な権力を握り、ソ連とスターリンは米国に対抗して冷戦の一方の旗頭であった。その時代にナチズムとスターリン主義の同質性を指摘したのは慧眼という他ない。
日本の新左翼運動も多くが反スターリン主義を掲げたのだが、その内実はスターリン主義を克服し得てはいなかったと思う。新左翼の内ゲバには「公共性」の理念がなかったと思う。あったとしてもきわめて薄かった。内ゲバの後に来る連合赤軍によるリンチ殺人事件に至っては公共性のかけらもない。まさにリンチ=私刑である。つまり国家権力と対峙し、それを転覆しようとする以上、革命勢力には国家権力を上回る「公共性」を求められる。アレントが指摘するようにナチズムにもスターリン主義にもその意識が薄かった。話は飛ぶが現在のNHKの大河ドラマは渋沢栄一を主人公にした「青天を衝け」で、豪農のせがれの榮一は当初は尊王攘夷のテロリスト志向であった。ドラマで描かれた天狗党の乱もテロリスト集団である。しかし尊王攘夷という一点で公共性に繋がっていたような気がする。救国ということでね。

6月某日
「アレントー公共性の復権」を読み終わる。政治思想家としてのアレントの概説書なんだけれど私にはちょいと難しかった。月報も添付されていたけれど執筆者のひとりが文筆家の森まゆみ。アレントが世を去った1975年、早稲田大学政治経済学部政治学科に在籍、藤原保信ゼミで西洋政治思想史を学んでいた。「群れをなすことなく、女性であることを否定せず、この学生時代を(生きのびる)ことができたのは、ローザ・ルクセンブルグやシモーヌ・ヴェイユ、そしてハンナ・アレントのおかげである」と書いている。私は1972年に同じ政治学科を卒業しているが、授業に出席した記憶をほとんどないし、自分で言うのもなんですが、最低の成績で卒業させてもらいました。当時私らは自分の大学のことを「学生一流、校舎二流、教師三流」と言っていましたが今から思うと無知でした。モリカケ問題や桜を見る会などで政権の私物化が問題になったが、学術会議の任命拒否問題も含めて、広い意味での政治の公共性の問題と思う。

モリちゃんの酒中日記 6月その2

6月某日
「総員玉砕せよ!」(水木しげる 講談社文庫 1995年5月)を読む。あとがきで水木自身がこの物語は「90パーセントは事実です」と書いている。大東亜戦争下の南方戦線における兵隊の現実を巧みに描いている。兵隊の現実とは「軍隊で兵隊と靴下は消耗品といわれ」「将校、下士官、馬、兵隊といわれる順位の軍隊で兵隊というのは“人間”ではなく馬以下の生物と思われていた」(あとがき)ということである。解説で足立倫行が、水木は妖怪マンガ家として広く知られ評価されているが「戦記マンガ家としての水木氏の業績がもっと注目されてもいいと思う」と記している。まったく同感である。

6月某日
「〔続〕少子化論-出生率回復と〈自由な社会〉」(松田茂樹 学文社 2021年3月)を読む。一般的な少子化対策論とはやや趣を異にする論旨で私にはそこが面白かった。出生率が2.0となるためには2つの方向性があるとする。方向性1はほぼ全員が結婚して、夫婦はおよそ2人の子どもを持つようにする。方向性2は、結婚する人しない人、子どもを多くもうける人とそうでない人がいながら、全体の出生率をおよそ2.0に回復させるものである。松田は方向性2を目指すことを提案する。方向性2のような社会は、「人々の結婚・出生に関して〈多様〉である。個人が結婚・出生するか否かが〈自由な社会〉」だからだ。書名のサブタイトルに〈自由な社会〉と謳われている意味がやっとわかる。日本社会の将来的なイメージは〈自由な社会〉であるべきだと思う。そのためには市民が選べる選択肢をできるだけ豊富に社会が用意することが必要だし、その前に市民ひとり一人が自由な市民であることが必要だ。

6月某日
「私はスカーレット Ⅳ」(林真理子 小学館文庫 2021年4月)を読む。あの大作、「風と共に去りぬ」を林真理子が新しく翻訳、というか「翻訳協力」として巻末に2人の名前が記されているから、林が翻訳をもとに林版の「風と共に去りぬ」を創作したということか。私は「風と共に」は未読、主人公のスカーレット・オハラをビビアンリーが演じた映画は観たけれど。しかし、「私はスカーレット」は私にとっては滅法面白い小説である。第4巻は夫を南北戦争で失ったスカーレットが北軍の猛攻に晒されるアトランタを逃れ、故郷の「タラ農園」にたどり着いたところから始まる。スカーレットを待っていたのは最愛の母の死と、老耄が進行する父の姿であった。農園で働いていた黒人奴隷たちの多くは逃亡し、スカーレットは自ら食料を調達したり綿花摘みに勤しむことになる。一種の逆転人生だよね。南北戦争は共和党の北部と民主党の南部による奴隷解放を巡る戦争だった。一面では工業化が進んだ北部の新興ブルジョアジー対南部の綿花栽培に依存する大農場主との戦いでもあった。つまり新興ブルジョアジー対封建的大農場主の階級闘争という側面があるのだ。

6月某日
「歴史認識 日韓の溝-分かり合えないのはなぜか」(渡辺延志 ちくま新書 2021年4月)を読む。著者の渡辺延志(のぶゆき)は元朝日新聞記者のジャーナリスト。日本と韓国には主に歴史認識を巡って対立があることは認識していた。そして私の見るところ、韓国政府や韓国世論の方に日本政府や日本世論よりも分があると考える。日本は豊臣秀吉の時代に二度にわたって朝鮮半島を侵略し、さらに明治以降、日清・日露戦争では朝鮮半島を経由して中国本土、満洲に進出した。挙句、韓国民衆の気持ちを無視する形で韓国併合を強行した。どう考えても日本は加害者で韓国は被害者。というのが私の素朴な考えだった。今回、本書を読んで私の考えが大筋において間違っていなかったと思うことができた。著者の渡辺は、私が感性的に感じていたことを資料を駆使して立証している。1904年から1905年にかけて闘われた日露戦争に勝利した日本は、朝鮮半島への支配を強め、ついに1910年、韓国は日本に併合される。韓国の民衆は日本帝国主義の意のままに併合されたわけではなかった。1907年から1911年にかけて日本の支配に抵抗する民衆蜂起、義兵闘争が戦われ日本軍から徹底した弾圧を受けた。これに先立って「日清戦争の原因になった」とされる東学農民戦争が1894年に戦われる。これに対しても日本軍は徹底した弾圧で臨む。そして1923年の関東大震災では東京、横浜で多くの朝鮮人が「武装蜂起を企てている、井戸に毒投げ入れた」などのデマ情報のもとに虐殺された。虐殺したのは自警団として組織された日本の民衆である。私が思うに虐殺した日本の民衆には、朝鮮半島での民衆蜂起に対する弾圧の記憶が残っていた。「関東大震災の混乱に乗じて復讐される」という潜在的な恐怖心があったのではなかろうか。

モリちゃんの酒中日記 6月その1

6月某日
「おれたちの歌をうたえ」(呉勝浩 文藝春秋 2021年2月)を読む。四六判で600ページ近い長編ミステリー。ミステリー好きとは言えない私の興味を読み終わるまで持続させた作家の力量はなかなかのものである。本年度上半期の直木賞ノミネートは確実でしょう。戦争から長野県の現在は上田市に編入されている真田町に復員し、中学校の国語教師となった竹内と、竹内の五人の教え子、そして竹内の二人の娘を中心にして物語は回る。教え子の一人、サトシが変死体で見つかり、暗号が残される。暗号の解読を求めて元刑事で教え子の一人でもある河辺と、サトシの同居人であった茂田との奇妙な旅が始まる。ロード・ノベルでもあるわけなのだが、私にとっては登場人物が多過ぎ、ストーリーが複雑過ぎ。

6月某日
「新型コロナウイルスワクチン接種のお知らせ」が届く。市内に住む吉武さんがパソコンでの申し込みについていろいろアドバイスしてくれる。「どーせモリちゃんはできないだろうから奥さんにやってもらえ」と。その通りです。奥さんに申し込んでもらって来週に第1階の接種、6月最終週に第2回の接種が決まる。

6月某日
「野の春 流転の海第9部」(宮本輝 新潮文庫 令和3年4月)を読む。「流転の海」シリーズの完結編である。巻末の解説によると「流転の海」は37年間にわたって宮本輝が書き続けた。「流転の海」は福武書店の「海燕」1982年1月号から1984年4月号に連載されたが「第2部 地の星」以降は「新潮」に連載され、単行本化、文庫本化も新潮社である。30年ほど前に「流転の海」シリーズの最初の方は読んだ記憶がある。50歳で房江と結婚した熊吾は伸仁に恵まれる。伸仁はほぼ宮本輝と考えて間違いない。熊吾と房江は実の父母である。「野の春」では高校を卒業した伸仁が一浪の後、追手門学院大学に進学、テニス部での合宿費用を稼ぐために房江の勤めるホテル(多幸クラブ)のボーイのアルバイトに精を出す。熊吾は中古車販売業に勤しむ一方、浮気相手の森井博美と同棲するために家を出る。熊吾という男は面倒見も気前もいいが、女にも持てるのである。時代は1966年から1968年にかけてである。小説のなかにも中国の文化大革命やベトナム戦争の日本への影響が影を差す。10.8羽田闘争はじめ激しくなっていく学生運動も時代の空気を彩る。「流転の海」全9巻は日本の敗戦から高度成長の絶頂期を生きた男、熊吾の一代記であるとともに、あの時代の鎮魂歌でもあると思う。私の1966年は道立室蘭東高校の3年生、受験勉強に身が入らずボーっとして生きていたように思う。1967年は東京の叔母さんの家から予備校に通った。10.8に衝撃を受け大学に行ったら学生運動をしようと秘かに決意した。

6月某日
家の近くの香取神社で月1回、第1土曜日に開かれる朝市に行く。11時頃の起床だったので朝食もとらずに香取神社へ。何しろ朝市なので午後にはお店が撤退してしまうのだ。さして広くもない境内には野菜やコーヒーなどの飲み物、アクセサリーを売る店が揃い、想像以上に賑やかだ。私は古本のコーナーで水木しげるの「総員玉砕せよ!」と吉田満の「戦艦大和ノ最期」を購入(2冊で600円)。香取神社から手賀沼公園を通ってわが家へ。香取神社の手賀沼公園も子連れの若い夫婦をたくさん見かけた。少子化なんてどこの国の話ですかと思ってしまう。

6月某日
ワクチン接種に行ってきた。場所は我孫子駅南口のイトーヨーカ堂の3階。南口のイトーヨーカ堂は1、2階は店舗で3階はスポーツジムと催事場になっているが、今回は催事場がワクチン接種会場となっている。会場は名戸ヶ谷我孫子病院が運営していて、看護師さんと女性の事務職員が体温測定や受付を担当していた。年配のドクターから問診を受けた後、ワクチン注射、チクッとした程度だった。15分ほどパイプ椅子に座って会場を出る。あっけないほど簡単だった。

モリちゃんの酒中日記 5月その4

5月某日
「ブロークン・ブリテンに聞け」(ブレイディみかこ 講談社 2020年10月)を読む。ブレイディみかこを読んだのは一昨年の「女たちのテロル」(岩波書店)を読んだのが初めて。ブレイディみかこが何者かも知らず、図書館の新着案内で書名だけでリクエストした。金子文子はじめ、アイルランド独立戦争の女スナイパーや大英帝国の女性参政権運動のリーダーの生き方を追った本だった。それからすぐに「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(新潮社)がベストセラーになった。こちらは図書館にリクエストが殺到していたので書店で購入した。ブレイディみかこは左翼である。それもアナキスト系のかなり過激な左翼で、日本共産党系や旧社会党系の旧左翼とも反日共系の新左翼とも一線を画す。本書でも英国のデヴィッド・グレーバーの階級論を「マルクスではなくクロポトキンの思想の延長上にある」とし、「人間には他者をケアしたい本能が備わっていて、人はそれをしながら生きる方向を転換せねばならない」と彼の思想を紹介している。ステレオタイプの左翼思想ではない。ブレイディみかこは福岡修猷館高校を卒業後、ロック好きが高じて渡英、アイルランド系のトラック運転手と結婚して男児を得る。この男の子が「ぼくはイエローで…」の「ぼく」である。英国で保育士の資格をとり「最底辺保育所」で働きながら、ブログでエッセーを発表していた。英国在住ということも彼女の視点のユニークさと関連しているかも知れない。島国で「王制」であるということから日本と英国は共通点が多いように日本人は勝手に思っているが、それは大いなる勘違いであることを本書は示してくれる。それもアッパーミドルや上流階級ではなく、労働者階級の視点で、英国のEU離脱やロイヤルファミリー、エリザベス女王に対する庶民の評価、コロナウイルスへの対応などについて縦横に筆をふるう。私は70歳前後になってブレイディみかこと加藤典洋の著作に出会えたことは幸運だと思っている。

5月某日
図書館でサンデー毎日の最新号に目を通していたら下山進という人の「2050年のメディア」という連載コラムが目についた。萩尾望都という女流漫画家の語り下ろしの「一度きりの大泉の話」(河出書房新社 2021年4月)を取り上げていて、なんでも萩尾と当時(1970年代)、萩尾以上に人気のあった漫画家、竹宮恵子との出会いと別離の話がメインストーリーのようだ。私は大学生が漫画を読むようになった1960年代後半から70年代にかけて学生生活を送ったからもちろん漫画は読んでいた。ただその頃の大学生は圧倒的に男子学生が多く、「右手に少年サンデー、左手に朝日ジャーナル」というように、私らが愛読していたのはもっぱら少年漫画だった。したがって私の場合、萩尾望都や竹宮恵子は名前を知っている程度で作品は読んだことはない。というわけで「一度きりの大泉の話」にもそれほど興味を持ったわけではなかったが、図書館の新刊コーナーにはその本が並んでいるではないか。早速、借り出して読んでみるとこれが面白い。萩尾は1949年生まれで私の一歳年下、同じ時代の空気を吸ってきたわけだ。萩尾は上京後、大泉で竹宮と共同生活をしながら、漫画の制作に励むのだが、ある日竹宮から絶縁を宣言される。それは半世紀後の今も続く。今日の朝日新聞(5月29日)の書評欄でトミヤマユキコという人がこの本を取り上げ、読者としての私たちの仕事は「真相究明でも善人悪人のジャッジでもなく、彼女の戸惑い、恐れ、苦しみにそっと触れることだろう」と記している。その通りだと思う。思うのだが、この本のきっかけとなったのは同時期を描いた竹宮の「少年の名はジルベール」だという。我孫子市民図書館のHPで検索したら在庫と出た。さっそくリクエストした。

5月某日
「少年の名はジルベール」(竹宮恵子 小学館 2016年2月)を読む。この間読んだ「一度きりの大泉の話」は竹宮や萩尾望都が参加した大泉サロンとその周辺について萩尾の視点から描いたものだが、「少年の名は…」竹宮側の見方が明らかにされている。竹宮はもちろん漫画家なのだが、2000年に京都精華大学教授に、2014年には学長に就任している。竹宮は漫画家として優れているだけでなく教育者、あるいは大学の管理者、経営者としても名をなしたと言えるだろう。「少年の名は…」にも「一度切りの…」にも1972年に竹宮、萩尾、山際涼子(漫画家)に加えて、その頃から竹宮のプロデューサー的存在だった増山法恵の4人で行ったヨーロッパ旅行のことが記されている。旅行の準備や旅行中の庶務的なことは竹宮が引き受けていたようだ。やはり管理能力が抜群なのだと思う。それに対して萩尾望都はやはり芸術家肌何だなぁ。竹宮はこの本のラストで萩尾や増山らの若いころ友人たちを振り返り、「あの一瞬とも思える時間のなかで、なぜ巡り合えたのだろうか。それ自体がこの世の奇跡だ」と記している。同じ体験を共有しながら萩尾は傷つき、記憶を封印し、竹宮は追憶し懐かしむ。面白い。

5月某日
石巻市の地酒、日高見(平孝酒蔵)が6本届く。送り主は石巻出身の神山さん。石巻の母上のところに帰郷するので石巻の地酒を贈るというので日高見を所望した。6本も送られてきたのでひたすら恐縮。東日本大震災のとき石巻に取材に入り、確か駅前の物産館で買ったのが初めて。日高見国とは古代日本または蝦夷の地を美化していて用いた語とある。具体的な地名というよりも王権の東方の地、太陽が出てくる地域を意味していたらしい。北海道の日高地方(サラブレッドの産地として有名)も日高見国に因んでいるという。平安時代初期まで蝦夷は東北地方まで進出していた。坂上田村麻呂の蝦夷征討を高校の日本史で習った記憶がある。田村麻呂に与えられた征夷大将軍の称号が、後に源頼朝や足利尊氏、徳川家康へ武家の棟梁として与えられた。朝日新聞朝刊(5月31日)に「北海道・北東北の縄文遺跡群」のことが紹介されていた。数千年から1万年以上さかのぼるこれらの遺跡を築いた縄文人は蝦夷やアイヌの祖先だったのか、弥生人との関係は、興味は尽きない。なおこの記事によると、縄文文化は農耕・牧畜と定住がほぼ同時に始まった世界の他地域と異なり、農耕以前の「狩猟・採集・漁労の段階で定住を確立したのが特徴だ」としている。

モリちゃんの酒中日記 5月その3

5月某日
「敗戦後論」(加藤典洋 ちくま学芸文庫 2015年7月)を読む。巻末に「本書は1997年8月5日、講談社より刊行され、2005年12月10日、ちくま文庫で再刊された」とある。本書には加藤の3つの論文が収められているが、それぞれの初出誌は「敗戦後論」が「群像」95年1月号、「戦後後論」が「群像」96年8月号、「語り口の問題」が「中央公論」97年2月号である。今年が2021年だから今から25年前に発表された論文である。私が50歳になる手前、40代後半の頃である。その頃、加藤典洋なんていう批評家の存在を知っていたのだろうか? 名前くらいは知っていたかも知れないが、ほとんど興味を覚えなかったと思う。加藤の本を読んだのも昨年の「戦後入門」(ちくま新書 2015年10月)が初めてだ。それも我孫子の香取神社境内で月一で開かれる朝市で500円で購入したものを数カ月、放っておいて読みだしたのだ。加藤は私と同年で彼が早生まれのため学年は一つ違い(大学では私が一浪したため学年は二つ違い、私が早大に入学したとき、彼は東大の3年生)だ。私は20歳のころ(1968年)、25年前は昭和18年、戦中であった。それは歴史としてしか存在しなかった。現在から「敗戦後論」が書かれた25年前を振り返ると、それは現在(現代)としてしか意識されない。私が年を重ね時間の流れる速度を短く感じるようになったためだろうか。あるいは逆に経済が高度成長から減速経済に移行し、時間がゆっくり流れるように感じるようになったためだろうか。
「敗戦後論」は先の大戦で敗れた国家としての日本と日本人を問い直そうとする試みである。敗戦そして戦後を日本人はどうとらえたか?加藤は日本古代史の津田左右吉や天皇機関説の美濃部達吉の戦後の言説に注目する。津田は戦前、実証的な古代研究で当局からの弾圧を受け、戦後は民主主義陣営に立つ学者として期待された。しかし津田が「世界」に寄せた論文は「建国の事情と万世一系の思想」と題するもので「天皇は『われらの天皇であられる』。『われらの天皇』はわれらが愛さねばならぬ」と「世界」の編集者を困惑させるものだった。美濃部は新憲法を審議する枢密院でただ一人反対する。理由は憲法改正を定めた帝国憲法73条は日本がポツダム宣言を受け入れた時点で無効である、というものだった。加藤によると津田も美濃部も敗戦による「ねじれ」の感覚に自覚的だったことを示している。この「ねじれ」に自覚的な文学者として加藤は中野重治と太宰治をあげる。中野や太宰の作品にあらわれるのは「ねじれ」の感覚と戦後の一種の解放感に対する違和感である。この違和感は大岡昇平の「俘虜記」や「レイテ戦記」にも通底する。大岡はエッセーにテレビの1日の終わりに日の丸が画面一杯に映るのに「いやな感じがする」と書く。大岡はさらに外国の軍隊が日本にいる限り、絶対に日の丸をあげないと断ずる。大岡のエッセーが書かれたのは1957年である。半世紀以上たった今も沖縄には米軍が駐留している。「敗戦後論」は十分に存在の意味があるのである。

5月某日
「南北戦争-アメリカを二つに裂いた内戦」(小川寛大 中央公論新社 2020年12月)を読む。南北戦争については奴隷解放を巡って、それに賛成する北部の州と反対する南部の州が戦ったアメリカの19世紀の内戦、程度の知識しかなかった。今回この本を読んでアメリカにおける南北戦争の存在の大きさが分かった。戦前戦後という言葉は日本ならば太平洋戦争の前と後ということで理解されるが、アメリカでは戦前(antebellum)と戦後(postbellum)は1861年から1865年にかけて行なわれた南北戦争の前か後かを指す言葉という。戦死者は南北両軍併せて約60万人。アメリカ独立戦争のアメリカ側の戦死者2万5000人、第二次世界大戦では約40万人、ベトナム戦争では約5万人である。南北戦争は、最も多くのアメリカ人が命を落とした戦争なのだ。南北戦争は奴隷制の維持か否かを争って戦われた戦争であることは正しいのだが、より正確に言うと奴隷制の維持を主張する南部諸州が合衆国から脱退、南部連合国という新国家を作り、それを認めない合衆国と戦闘状態に入ったということであろう。当時の黒人奴隷は主として南部で綿花の栽培、収穫に使役されていた。それに対して北部では小麦、トウモロコシなどの穀類が主要な農作物であり、牛や馬を使役していた。南部は綿花に完全に依存した地域であったのに対し、北部は多様な農産物、さらに鉄鋼業や造船業などの諸工業に依存していた。南北の格差は明らかなのだが、それでも4年間にわたって南部は抵抗したと言える。よく知られているように当時の大統領はリンカーンで戦争中に再選され、戦後に暗殺された共和党の大統領である。南部は民主党の地盤であった。現在のアメリカはバイデン、オバマ、クリントンらの民主党大統領にはリベラルの印象が強い反面、トランプ、ブッシュらの共和党大統領には保守のイメージが強い(個人の感想です)。どうなっているのでしょうか?

5月某日
「百合中毒」(井上荒野 集英社 2021年4月)を読む。井上荒野は好きな作家で図書館に新刊が入るとリクエストする。「百合中毒」もひと月ほど待ったが読むことができた。八ヶ岳の麓で園芸店を営む一家の物語。女主人の歌子は25年前に夫に出て行かれるが、現在は園芸店の従業員との再婚を考えている。夫はイタリア料理店のイタリア人の女と暮らすようになるが、女がイタリアへ帰国し、夫は園芸店に戻ってくる。長女は元銀行マンと結婚し夫婦で店を手伝っているが、夫の不倫を疑っている。次女は勤め先の上司と不倫の仲だが雲行きが怪しくなっている。タイトルの百合中毒は、園芸店で売られた百合に飼い猫が中毒したとクレームを付けられた作中のエピソードによる。不倫がテーマなのだが、より正確に言うと男と女が主題なんだろうね。そう言えば井上荒野の父は井上光晴。瀬戸内晴美と長く不倫関係にあった。瀬戸内はその関係を清算するのも出家の一因という説がある。井上荒野には光晴と瀬戸内の関係をモデルにした「あちらにいる鬼」という作品があるが、これももちろん面白く読んだ。

5月某日
今日の朝日新聞朝刊の千葉版に「千葉県の新型コロナウイルスワクチンの高齢者への接種率が、全国ワースト2の4.3%」という記事が出ていた。ちなみに全国平均は6.1%で最も高かったのは和歌山の17.5%、次いで山口の14.3%だった。首都圏は東京が6.6%、神奈川が4.6%、埼玉が4.5%と軒並み低い。人口が多ければ高齢者の数も多く準備も大変だろうと自治体関係者に同情はするが、なるべく早めに接種してもらいたいものだ。近所の80歳過ぎの高齢者には6月接種のお知らせが届いたということなので、私は7月かな。

モリちゃんの酒中日記 5月その2

5月某日
「〈階級〉の日本近代史-政治的平等と社会的不平等」(坂野潤治 講談社選書メチエ 2014年11月)を読む。本書は日本近代史を「階級」という視点から描いたものと言える。士農工商という身分制度をはじめとした封建制度は1871年の廃藩置県で完了する。主導したのは武士階級それも幕藩体制下では下層の武士階級であった。その3年後に「民撰議院設立建白書」が、租税を払う者には参政権が与えられるべきであると主張している。明治初期の租税は大部分が地租であったから、租税を払う者とは上層農民、地主を意味していた。1890年に第1回の総選挙が実施されたが、当選者の多くは地主階級であった。一定以上の税金を納めている者にしか選挙権を与えられなかった制限選挙だったからこれは当然であった。制限選挙は徐々に緩和されると同時に、所得税を払う都市ブルジョアジーが台頭してきた。殖産興業のスローガンのもと、日清・日露、第一次世界大戦を経て繊維産業中心から重化学工業化も進められた。1925年に男子の普通選挙法が成立し、無産階級にも選挙権が与えられた。この動きは坂野先生によると明治維新、自由民権運動、大正デモクラシー、昭和デモクラシーに対応し、担い手は「士」⇒「農」⇒「商」⇒「工」の順で時間をかけて広がってきた。この流れは総力戦体制のもとでも、戦時下でも、占領下でも進んで、時代を動かしていったというのが坂野先生の考えである。これぞ坂野史観である。

5月某日
監事をしている一般社団法人の監事監査があるので東京虎ノ門へ。小1時間で監査が終わり、お茶の水の社会保険出版社の1階で印刷会社の金子氏と待ち合わせ。若干の打ち合わせをした後、社会保険出版社の高本社長を訪問。日経新聞の「交友録」に高橋ハムさんが書いたエッセーのコピーを貰う。金子氏に車で御茶ノ水駅まで送って貰い我孫子へ帰る。

5月某日
「大きな字で書くこと」(加藤典洋 岩波書店 2019年11月)を読む。加藤典洋は1948(昭和23)年4月1日生まれ。私と同年だが4月1日生まれなので学年は1947年と一緒。1966年に東大に入学、1967年10月8日の第1次羽田闘争に衝撃を受け、11月の第2次羽田闘争に初めてデモに参加、それまでは非政治的な人間だったという。私は1948年の11月生まれで加藤と同年だが、学年は1年下。大学は一浪したので大学の学年は2年下。第1次羽田闘争は浪人生のときだった。「大学に入学したら学生運動をやろう」と秘かに決意した。加藤はその後、東大全共闘として全共闘運動に参加、卒業は私と同じ1972年だ。大学院の入試に落ちて国立国会図書館に勤務、1978~1982年、カナダのモントリオール大学東アジア研究所に派遣される。カナダでフランス文学者の多田道太郎と知りあい、多田から大学教師になるきっかけを与えられ、明治学院大学の教師となる。「大きな字で書くこと」には、加藤の「自分史」にまつわることが記されているのだが、時代的に共通するところもあって、私には面白かった。加藤の父は1916(大正6)年生まれ、20代で山形県巡査となり「特高」(特別高等警察の略、政治犯や思想犯を取り締まった)に配属される。全共闘運動に参加した加藤は、後に干刈あがたに「じつは父親が警察官だったので捕まるわけにはいかなかったんです」というと、「干刈さんが、あ、私のところもそうなんです、といって私の顔を正面から見た」と書かれている。当時の活動家(今や死語、学生運動に主体的に参加し暴力も辞さなかった)にとって「親が警察官」というのは深刻な問題だった。加藤典洋はなかなかいいと思うのだが、残念ながら2019年5月に亡くなっている。

5月某日
NHKBSプレミアムで「タクシー運転手-約束は海を越えて」を観る。1980年に起きた光州事件を題材にした韓国映画で日本公開は2018年4月。ソンガンホが演じるソウルのタクシー運転手は妻を亡くして娘と2人暮らし。光州での取材を希望するドイツ人の記者を乗せて光州事件真っ只中の光州市に入る。記者と運転手が目撃したのは、軍に抗議する市民、学生と彼らを容赦なく銃撃する軍の姿だった。2人を案内してくれた学生も銃撃され死亡する。運転手は記者から謝礼を渡され、いったんはソウルへ帰りかけるが、記者と市民のことが心配になり引き返す。記者と運転手はタクシー運転手仲間の援けもあって無事に金浦空港に脱出、記者のレポートはドイツで放映される。私はこの映画を観て、現在のミャンマーの状況に思いを馳せた。ミャンマーでも軍事政権に反対して市民が立ち上がったが、軍は発砲で応じ何百人単位での死者も出ている。光州事件も軍事クーデターで実権を握った全斗煥大統領のもとで起こった。「歴史は繰り返す」という言葉を思い出す。

5月某日
BSフジのプライムニュースを観る。反町というキャスターが偉そうでもなく、庶民的でちょっと気に入っている。識者を3人呼んで異なった角度からニュースを解説する形式も悪くない。新聞のテレビ欄には「気鋭哲学者×伊吹文明 コロナ感染と資本主義 緊急事態宣言と日本人」となっていたのでチャンネルをBSフジに合わせる。伊吹文明は自民党の重鎮で衆議院議員、気鋭哲学者というのは昨年「人新世の資本論」で注目を集めた斎藤幸平と日本思想史の先崎彰容。伊吹は80代、先崎は40代、斎藤は30代なので議論は嚙み合うのかと心配したが、コロナ禍の世界の現状についての認識は危機感の深刻度に違いはあっても、おおむね一致していた。伊吹は京大経済学部から大蔵省を経て政治家になった。政治家としての哲学を持った人だと思う。こういう人は与野党を通じて少なくなった。斎藤は産業革命以降の資本主義の過剰な発展による地球温暖化などの環境破壊について危機感を強く表明していた。

5月某日
朝日新聞の「科学季評」で山極寿一京大前総長が「環境問題は技術のせいか」を投稿していた。新型コロナウイルスの感染源は正確には特定できていないが、中国の市場で売られていたセンザンコウやコウモリではないかとし、エボラ出血熱に直面したアフリカ、ガボンでの体験を記している。ゴリラがエボラウイルスに感染して死に始めた。森林伐採で樹木が減り、ゴリラが寝ている木に感染源のコウモリがやってきて接触、ゴリラが感染し人間にも広がった。さらに森林伐採によって現金経済が奥地まで浸透し、伐採会社が去って失業した人々が野生動物の肉を都市で売りさばき始め感染が広がったという。山際は「地域の自然に合った人間の幸福な暮らしとは何かを考え、実現するための技術を導入する必要があると思う」とする。科学者としての山際の結論はそれでいいと思うが、私たちにはポスト産業資本主義を見つめた議論が求められていると思う。

5月某日
「ウィーン近郊」(黒川創 新潮社 2021年2月)を読む。表紙にエゴン・シーレの「死と乙女」が使われている。ベッドの上で乙女が黒衣の男に抱きついている図柄で黒衣の男が死をあらわしているのだろうか、気持ちのいい絵とは言えない。黒川創の小説を読むのは初めてだが、私には面白かった。「ウィーン近郊」を読んでいて途中から辻原登の作風に似てるなと感じた。イラストを生業とする西川奈緒のもとにウィーンの兄、優介が自殺したという連絡が入る。奈緒は新生児の特別養子縁組制度で迎えた洋を連れてウィーンへ向かう。ウィーンの兄の友人たちや在オーストリア日本国大使館の久保寺領事との交流が描かれる。ニューヨークやロンドン、パリではなくウィーンが舞台というのが面白い、というか作品的にはある種の必然性がある。ウィーン滞在最後の日、奈緒が訪れた美術館はクリムトやエゴン・シーレのコレクションで知られる。領事の久保寺は奈緒を日本に送った翌週に美術館でエゴン・シーレの大作「死と乙女」に目をとめる。この本の表紙に使われた絵である。ギャラリーの売店で求めた解説書によると、これは1915年、作者が25歳のときの作品だという。久保寺は大学生の英語のテキストだったグレアム・グリーンの「第三の男」を思い出す。映画にもなったこの小説の舞台もウィーンだった。小説の中で話が連関していく、ロンドのように。この感じが辻原の作風に似ているのかも知れない。