モリちゃんの酒中日記 7月その3

7月某日
図書館で借りた「恋にあっぷあっぷ」(田辺聖子 集英社文庫 2012年1月)を読む。巻末に「この作品は1988年4月に集英社文庫として刊行され、再文庫化に当たり、加筆修正されました」と付記されている。単行本された年月が明らかにされていないのは残念。というのは田辺の現代小説、とくに若い女性を主人公にした小説ではその時代の風俗(ファッション、食事、遊びなど)が特徴的に描かれ、「あーそうだったなぁ」とうなずかされることが多いのでね。それはともかく本作の主人公はアキラと呼ばれる夫と結婚して5年の31歳の人妻。大阪の郊外の文化住宅に住み、夫はサラリーマン、アキラは近所のスーパーで経理のバイトをしている。文化住宅とは作品中で「いわば西洋風棟割り長屋である。……5軒あるどの家も、それぞれ、入り口とそれに続く3、4段の階段を持っている」とされている。結論から先に言ってしまうと、この作品は大阪郊外の文化住宅で夫に庇護され、それなりに満足していたアキラが、R市の高級住宅地のブティックに勤め始めたことをきっかけに自立していく物語である。裏表紙の惹句に「夫がいて恋人がいてパトロンを持つという贅沢を知った女の心の成長を描く大人の恋愛小説」とうたわれているが、ことはそう単純ではない。
「恋人」とは隣家に越してきた一家の主人のジツである。アキラにはジツの3人家族が「三片がどこかデコボコしておさまりきれぬパズル」だったが、ジツの急病によって「いまやっとうまく嵌まり……しごくなめらかにおちついておさまっていると思わせられた」となる。ジツのアキラに対する魅力はそれまでしかなかったと言ってよい。「パトロン」とはアキラの勤めるブティックを訪れた海亀のような容姿のお金持ち「鷹野さん」で、アキラと鷹野さんは深く愛し合うようになる。アキラの夫の博多への転勤が決まり夫は当然、アキラもついてくるものと思うが、アキラは「あたし、好きなひと、できたの、そのひとと暮らしたいの」と拒否する。夫との協議離婚が成立し、離婚が成立するまで控えていた鷹野さんへ連絡すると待っていたのは鷹野さんの訃報であった。アキラは夫と恋人とパトロンを失ったのだ。鷹野さんを失った深い悲しみのなか、アキラはまた夫と別れてからの「演技のいらない人生の快適さをたっぷり楽しんでいる」のである。本作は恋愛小説というよりも、一人の既婚女性の自立への道のりを描くビルディングロマン=教養小説である。

7月某日
図書館で借りた「愛の夢とか」(川上未映子 講談社文庫 2016年4月)を読む。著者初の短編集で谷崎潤一郎賞受賞作。単行本として出版されたのは13年3月、雑誌の初出は1作のみが07年で、他の7作は11年と12年である。表題作の「愛の夢とか」と最後に収められている「十三月怪談」には東日本大震災のことがさりげなく触れられている。「愛の夢とか」では「川の近くに家を買って、二カ月したらとても大きな地震が来て」「「たまに原発関連のニュースなんかをみているときに」というふうに、「十三カ月怪談」では「それはもちろん時子が亡くなる二年前に起きた巨大地震が原因で、彼らは地震のほんの数カ月前、海にほど近いその高層マンションを購入したばかりであった」というふうに。東日本大震災に私の感性は少なからぬ影響を受けた。具体的に言ってみろと言われると困ってしまうが。川上未映子の心にも何らかの痕跡を残したと思われる。いずれにしても良質な短編集である。

7月某日
図書館で借りた「よその島」(井上荒野 中央公論新社 2020年3月)を読む。主人公の碇谷蕗子は70歳、夫の碇谷芳朗は76歳、夫妻とともに島に移り住んできた元作家の野呂晴夫は蕗子と同じ70歳である。市場経済の中にシルバーマーケットというのは確かに存在し、高齢化の進展とともに、その規模を拡大させているのは承知している。しかし老人を主人公にしたからと言って老人文学というジャンルが存在するかといえば、私は否定する。谷崎の「瘋癲老人日記」や深沢七郎の「楢山節考」など老人を描いた優れた作品は多いが、それは老人という存在を通して人間という普遍的な存在を描いているからなのだ。「よその島」はその観点からすると優れた文学作品だし、エンターテイメント文学としても読みごたえがあった。碇谷夫妻には殺人を犯したという思い込みがある。野呂には別れた妻の間に生まれた子供が28歳で死んだときに葬式にもいかなかった自分を責める。過去とどう向き合いどう清算するか、が作品のテーマになっていると思う。物語の終盤で芳朗は認知症を発症し、蕗子のことも蕗子と認識できない。蕗子と認知症になった芳朗の会話が感動的である。
「奥様をお好きでした?」(と蕗子が芳朗に聞く)
「どうしてそんなことを聞くんです?」
「ごめんなさい……。碇谷さんは少し、私の夫に似ているんです」
蕗子は急いで答えを拵えた。
「夫が私のことをどう思っていたのか、碇谷さんのお答えに賭けてみたくて」
「ご主人は……」
「今はここにいないんです」
「どちらに?」
「今は、よその島におります」
「ああ、そうなんですね」
芳朗はほっとしたように頷いた。
「もちろん、好きでしたよ、妻を。とても好きでした」
「本当に?」
「ええ。あなたのご主人も、きっとあなたのことを好きですよ」
その言葉を保証するように、芳朗はにっこりと笑った。

7月某日
厚労省の医系技官で健康局長を務めた高原亮治さんが亡くなってから何年になるのだろうか。毎年命日に堤修三さんと高原さんの遺骨が納骨されている四谷の聖イグナチオ教会にお参りしている。教会の前のベンチに座って堤さんを待ったが約束の16時になっても来ない。「待っても来ないので先にお参りして帰ります」とメール、折角なので聖イグナチオ教会を覘く。会堂には数人の信者と思しき人が座っていた。曇天にも関わらずステンドグラスから射す柔らかな光、荘厳なパイプオルガンの調べに誘われて、信者ではない私も思わず正面のイエス像に向かって高原さんの魂の平安を祈る。四谷から地下鉄丸ノ内線で淡路町へ。大谷源一さんと「花乃碗」で待ち合わせているのだ。17時過ぎに着席、大谷さんに「着きました」とメールすると「今、有楽町、6時過ぎになります」と返信がある。ジントニックを頼み、2杯目のウオッカトニックを呑み終わる頃に大谷さんが来る。堤さんから返信があり高原さんの命日は明日ということ。私が日にちを間違っていたわけだ。「花乃碗」は、社保研ティラーレの吉高会長と佐藤社長に連れて来てもらったのが最初で、今回は2度目。なかなかしっかりした料理を出す店だ。

モリちゃんの酒中日記 7月その2

7月某日
「湿原(上)」(加賀乙彦 岩波現代文庫 2010年6月)を読む。本書は朝日新聞社より1985年に刊行され、新潮文庫として1988年に刊行されたと巻末に記されている。上巻での小説の舞台は1968年から1969年にかけての東京と北海道根室の原野だ。根室から釧路にかけての根釧原野は開拓の斧も立ち入ることが許されなかった一大湿原である。小説のタイトルもここから考えられたものだろう。上巻だけで630ページだが一気に読んでしまった。1968~69年は学生反乱が日本だけでなく全世界的に燃え盛った時代だ。この小説でも学生のからんだとされる公安事件が、重要な背景をなしている。主人公の神保町の小さな自動車整備工場の工場長、雪森厚夫は複雑な過去を持つ50代。中国戦線の従軍経験があり、戦後も窃盗や詐欺により刑務所暮らしが長かった。だが刑務所で習得した自動車整備技術を活かして自動車整備工場では工場長として尊敬されている。ヒロインとして描かれるのが美貌の女子大生、池端和香子24歳、四谷のR大学の理工学部の学生、父は紛争が激化しているT大の刑法学の教授である。親子ほど年の違う雪森と和香子は恋に落ちて、雪森の故郷の湿原を旅する。が帰京した次の朝、雪森は新幹線爆破事件の容疑者として逮捕される。上巻は雪森の死刑、和香子に無期の1審判決が下されたところで終わる。
68年から69年は私が早大に入学して学生運動に加わり、69年9月には早大第2学館で逮捕起訴され、留置されていた大森警察署から池袋にあった東京拘置所に移送された。小説では68年の10.21に雪森と和香子が新宿でデモと遭遇し、和香子の行きつけのゴールデン街のバーに避難する情景が描かれている。私はこの頃はまだ反帝学評(社青同解放派)の青ヘルメットを被っていた。午後3時頃、早大の本部前に集結し、全体のデモ指揮は当時3年生のKさんが執り、国会議事堂への突入を図るが敢え無く機動隊に蹴散らされてしまった。あの時は、反帝学評は国会、社学同は防衛庁、中核派は新宿と各派ごとに行動地域が分かれていた。私は機動隊に蹴散らされた後、新宿が面白そうと思って新宿駅に向かった。多分、電車で向かったと思うが直後に電車は動かなくなった。あの頃、学生のヘルメット部隊とは別に群衆が戦闘的で、私も新宿駅構内では群衆の一人として機動隊に投石した。ひと暴れしてそろそろやばくなってきたので、高田馬場方面へ帰ろうとしたが、日付の変わる頃には新宿の街角は機動隊にほぼ制圧されていた。「どうしようか」と思っていたとき、早稲田の解放派の文学部の女子大生と出会い、恋人同士を装って新宿から新大久保、高田馬場、早稲田まで腕を組んで歩いて帰った。新大久保のラブホテル街を通ったときは「入ろう!」と言われたらどうしようかとドキドキしたが、そのようなことは微塵も起きなかった。早稲田に着いたらその女子大生は仲間を見つけたようで「じゃあね」とあっさりと行ってしまった。「湿原」とは関係ありませんが私の「青春」の一コマである。

7月某日
引き続き「湿原(下)」を読み進む。下巻では第2審から厚夫の弁護士に選任された阿久津弁護士が、厚夫の新幹線爆破当日のアリバイを証明して行くところから始まる。解説でロシア文学者の亀井郁夫が加賀乙彦をドストエフスキーと比較して論じている。ドエストエフスキーの「罪と罰」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」などは優れた思想小説と言えるが、これらの作品群は同時に優れた犯罪小説としても読める。「湿原」にも同様のことが言えると思う。阿久津弁護士の活躍によって厚夫と和香子の犯行当日のアリバイは証明され、厚夫と和香子、厚夫の甥の陣内勇吉、共謀共同正犯とされた革命党派R派の3人は2審では無罪となる。検察側は最高裁への上告を断念し、厚夫たちの無罪は確定する。獄中で厚夫は自身の少年期から盗みを常習としてきたこと、重機関銃隊として中国戦線に従軍、戦争とは言え多数の中国兵を殺戮したこと、また、戦後も掏摸、横領、強盗などを繰り返し、人生の大半を軍隊と刑務所で過ごしてきたことを手記にまとめる。和香子に真実の自分を知ってもらいたいためだ。この手記が「湿原」に厚みをもたらしているが、同時に作品に劇場的な効果も与えている。獄中で拘禁ノイローゼを発症した陣内勇吉は精神病院で首吊り自殺し、R派の3人も対立するK派に殺害される。ここら辺はドストエフスキーの「悪霊」的悲劇だ。
R派の指導者だった殺害された守屋牧彦は和香子に、自分が書いた「国家と自由」という論文を残す。和香子は厚夫にこの論文の「開発不能の湿原と石油の出ない砂漠をまず、国家の領土から切りはなして、地球連邦の共有地にせよという意見が、とくに面白かった」と語る。私はそこに無政府主義的ユートピア思想を感じてしまった。ところで厚夫は大正8年生まれ、和香子は昭和20年生まれに設定されているから、年齢差はおよそ27歳。生まれ育った環境もまったく違う。しかし二人は深く愛し合っている。湿原を観ながら厚夫が和香子を力一杯に抱きしめ「ねえ、この土地で二人で生きよう。もろともに、風蓮仙人となって暮らそう」と語るところで小説は終わる。風蓮仙人とは湿原に暮らす不思議な老人のことだ。

7月某日
林弘幸さんと我孫子駅前の「七輪」で16時に待ち合わせ。5分ほど前に店に行きカウンターで呑み始めたが、林さんはなかなか来ない。「おかしいな」と思っていると林さんが置くから「こっちにいるよ!」と声を掛ける。10分前から来てるんだって。2時間ほど呑みかつ食べる。林さんとは30年来の付き合いだがなぜか気が合う。林さんは永大産業出身で永大でも年住協でも「営業一筋」というか、営業という仕事に誇りを持っている。私は編集制作出身だが、サラリーマン生活の後半は営業が面白くなった。そんなところが気が合うのかも知れない。

7月某日
雨で外出するのが億劫なので家にある本を読むことにする。目に付いた藤沢周平の「静かな木」(新潮文庫 平成12年9月)を読む。藤沢周平はデビュー当時は作風が暗かった印象があるけれど、売れ出すにつれて「ユーモア時代小説」と言ってもいいような作品も書くようになった。私はどっちも好きですけどね。藤沢は山形の師範学校を出て県内で小学校の教師をしていたが結核を発病、上京して5年間の闘病生活を送る。教師への復帰はかなわず食品関係の業界紙に就職、編集長と作家を兼ねていたときに直木賞を受賞、作家に専念する。業界紙の記者って公務員や一流企業からこぼれた人の受け皿でもあったわけね。私も学生運動経験者で前科持ち、出版社への就職はできず住宅建材関係の業界紙に就職したからね。そんなわけで藤沢周平はよく読んだ。「静かな木」は表題作含めて3作の短編が収録されている。2作はユーモアが勝ち、表題作は不正を働いて出世したもと上司との対決を描いた情念もの。藤沢は1927年に生まれて1997年に死んでいる。享年70歳。今の私より年下だよ!

7月某日
図書館で借りた「あなた上下」(乃南アサ 新潮文庫 平成19年2月)を読む。乃南アサは結構好きで何冊も読んでいるのだけれど、この本は上巻を少し読んで「外れかな?」と思ってしまった。主人公がどうもいけ好かない。作品中では「ちゃらんぽらんで、何ごとに関しても真剣味がなくて、軽薄。単純。意外に小心、しかも計算高い。女好き。助平。浮気者。格好だけ」と表現されていて、この文章はそのまま解説(重里徹也毎日新聞編集委員)で引用されている。解説によると、この小説は2002年の1月から12月まで、新潮ケータイ文庫に連載されたという。小説の発表携帯としてとても今日的、想定される読者としても20代が中心だったのではなかろうか。だとすれば造形された主人公は、ほぼ読者と等身大かそうでなくとも多くの読者は「いるいる、こういう奴」と思ったはず。つまり乃南アサはそれらを織り込んだうえで主人公を造形したのだ。小説の前半は主人公の恋愛模様が描かれ、後半はその過程で主人公とその恋人、友人がホラー現象に巻き込まれていく様を描く。ホラー現象自体、現代科学では照明できていないと思うのだが、それをリアルに描くのがまさに乃南アサの筆力だと感じ入った。

モリちゃんの酒中日記 7月その1

7月某日
図書館で借りた「半次捕物控え―御当家七代お祟り申す」(佐藤雅美 講談社文庫 2013年7月)を読む。佐藤雅美には江戸時代を題材にした幾つかのシリーズがある。今、思い出すのだけでも「町医北村宗哲」「八州廻り桑山十兵衛」「縮尻鏡三郎」「居眠り紋蔵」そして「半次捕物控え」である。町医北村宗哲以外は今で言う「法曹・刑事もの」である。もっとも北村宗哲の前身と言える啓順シリーズは、御典医の妾腹に生まれた啓順が官許の医学校を中退、無頼と交わるうちに人を殺め、追手から逃亡を続ける姿を描く「犯罪・逃亡もの」である。本作は「第1話 恨みを晴らす周到な追い込み」から「第8話 命がけの仲裁」までの8つの短編で構成されている。8つの短編はそれぞれが独立しているのだが、全編を通すと大和郡山の柳沢家にまつわるお家騒動とその復讐劇という形式になっている。おそらく最初は雑誌に連載されたものと思われるが、連載当初からこのような形式を考えていたに違いない。佐藤雅美の優れた構成力というしかない。で、「半次捕物控え」の時代設定は、本文中に「およそ40年前の寛政元年、幕府は棄捐令を発した」という記述がある。寛政元年=1789年だから、それから40年後、1829年(文政12年)ごろになる。ということは「居眠り紋蔵」とほぼ同時代ということになる。

7月某日
図書館で借りた「加賀乙彦 自伝」(ホーム社 発売・集英社 2013年3月)を読む。300ページ近い本だが面白くて1日で読んでしまった。といっても年金生活者の身だから時間だけはあるからね。それと自伝と言っても書下ろしではなく、雑誌「すばる」2011年8月号・11月号、2012年7月号に掲載した「加賀乙彦インタビュー」を基にした語り下ろしだからかもしれない。加賀は1929年生まれ、東京山の手の比較的裕福な家に育った。42年に府立6中(現新宿高校)に入学、翌年に名古屋陸軍幼年学校に47期生として入学。45年敗戦により6中に復学、9月に都立高等学校(現首都大学東京)理科に入学、49年東大医学部に入学というのが主な学歴。陸軍幼年学校は敗戦により、都立高校(旧制)は学制改革により消滅している。53年に医師国家試験に合格、55年には東京拘置所に医系技官として採用、1年半の間死刑囚や無期囚に数多く面接する。57年、28歳のとき精神医学及び犯罪学研究のためフランス留学、60年に帰国、「日本に於ける死刑並びに無期受刑者の犯罪学的精神病理学的研究」により医学博士号を取得。この辺まで作家というよりは精神科医の印象が圧倒的に強い。作家として知られるようになるのは「フランドルの冬」が芸術選奨文部大臣賞を受賞してからだろうか。私がこの作家に親しんだのは朝日新聞に連載されていた「湿原」を読んでから。「宣告」「高山右近」も読んだとは思うが、例によって内容は覚えていない。加賀は87年、58歳のときに妻とともにカトリックの洗礼を受けている。私は10年ほど前に亡くなった社会保険庁のOBの福間基さんのことを思い出した。福間さんも陸軍幼年学校出身で奥さんとカトリックに入信していた。陸軍幼年学校とカトリック以外に共通点を見出すことはできないが。

7月某日
「女帝 小池百合子」が面白かったので同じ作家の「日本の天井―時代を変えた『第1号』の女たち」(石井妙子 角川書店 2019年6月)を図書館から借りて読む。「天井」とはガラスの天井のことで、米大統領選挙でクリントンがトランプに負けたときに使われたのが私が新聞記事の中で目にした最初だと思う。著者は、日本にももちろん「ガラスの天井」は存在し、それは「ガラスではなく鉄や鉛でできており、見上げても青空を見ることさえできない。それが少なくとも近年までの日本社会であったと思う」(まえがき)と述べる。「女帝小池百合子」を読んで石井妙子は優れたノンフィクション作家だと思ったが、本作を読んで彼女はインタビュアーとしても卓越した能力を持っていると感じた。優れたインタビュアーの条件とは何か?私が思うに、第一は問題意識、時代認識である。第二にインタビュー対象者への事前の資料調べである。石井は日本の女性にとっては鉛や鉄でできた個人の意識(男だけでなく女も)や社会の意識、制度の壁などに対する問題意識、時代認識は非常に鋭いし高いと思う。それとインタビュー対象者に対する共感力の高さね。本書では上場企業初の取締役となった石原一子、女性プロ囲碁棋士第1号の杉内壽子、中央官庁の女性局長第1号の赤松良子、エベレスト登山の田部井淳子、漫画家の池田理代子、アナウンサーの山根基世、落語家の三遊亭歌る多が紹介されている。個人的には赤松が一番面白かったかな。「『…私は気が強かったからね。仕事で男に引けを取ることはなかったわよ』/そう言い終わると、『さあ、約束の時間が過ぎたから失礼するわね』とインタビューを自ら締めくくり、かたわらの杖を取ると出口に向かって颯爽と去っていった」。格好いいね。

7月某日
NHKのBSプレミアムで「シェナンドー河」を観る。日本公開は1965年、主演はジェームズ・スチュアート、舞台は南北戦争の末期で南軍の劣勢が明らかになった頃のバージニア州。ジェームズ・スチュアートが演じる農場主はシェナンドー河のほとりで広大な牧場を経営しつつ、妻亡き後7人の子どもを育て上げた。ある日末子の「ボーイ」が北軍に捕らえられる。河で拾った南軍の帽子を被っていたためだ。農場を長男一家に預け、農場主は残りの兄弟とともに「ボーイ」を探しに旅に出る。「ボーイ」は見つからず、一家は家路を急ぐが兄弟の1人が北軍の少年兵に誤って殺される。長男夫妻も暴漢に殺害され、赤ん坊1人が残された。ラストシーンは日曜日の教会。赤ん坊の機嫌が悪く、乳母の黒人の腕の中で泣き叫ぶ。そこに行方不明だった「ボーイ」が帰ってきて農場主と抱き合う。ジェームズ・スチュアートが頑固な農場主を好演。反戦映画として私は観ました。

7月某日
「新版昭和16年夏の敗戦」(猪瀬直樹 中公文庫 2020年6月)を大変面白く読んだ。猪瀬は石原都知事に乞われて副知事に就任、石原の後任の都知事にもなったのだが、確か徳洲会グループからの政治献金がらみの疑惑で辞任を余儀なくされた。しかし猪瀬はもともとは優れたジャーナリストだったんだよね。「天皇の影法師」「ミカドの肖像」「ペルソナ・三島由紀夫伝」などは率直に言って優れたドキュメンタリーだと思う。さて本書はもともと世界文化社の「BIGMAN」に6回にわたって連載されたものに大幅加筆されたもので、最初の単行本は1983年に世界文化社から刊行され、文庫は86年に文春文庫、2010年に中公文庫として上梓されている。今回「新版」とされているのは巻末に政治家の石破茂との対談が掲載され、さらに新型コロナウイルスに触れた「我われの歴史意識が試されている―新版あとがきにかえて」が収録されているためであろう。で本書はタイトルだけでは内容は皆目わからない。石破との対談で猪瀬本人が語っていることをもとに本書の内容を紹介しよう。昭和16(1941)年4月に政府は「総力戦研究所」を立ち上げ、当時の大蔵省、商工省、内務省、司法省らの若手官僚、さらに陸海軍の少佐、中佐クラスの将校、民間からは日本製鐵、日本郵船、日銀、同盟通信(後の共同通信)の記者が集められた。彼らの任務は「もしアメリカと戦争したら、日本は勝てるのか、そのシミュレーションを」することであった。大蔵官僚は大蔵官僚、日銀の行員は日銀総裁、記者は情報局総裁に就任し「模擬内閣」をつくり、出身の省庁や会社から資料、データを持ち寄って検討していった。彼らの結論は「緒戦は優勢ながら、徐々に米国との産業力、物量の差が顕在化し、やがてソ連が参戦して、開戦から3~4年で日本が敗れる」というものだった。開戦に至る過程で昭和天皇には戦争を回避する気持ちが強く、海軍も開戦には否定的であった。陸軍では主戦論が勝っていたが、主戦論者であった東篠陸相も昭和16年10月に首相に就任するやその意志は揺らぐ。私は結局、当時の政治家にも軍部にも「責任を持って決断する」人材がいなかったのではと思わざるを得ない。「昭和16年夏の敗戦」は80年後の「令和2年夏の敗戦」につながらないとは言えない。令和2年の敗戦は新型コロナウイルスに対する敗北だけどね。

モリちゃんの酒中日記 6月その4

6月某日
厚生労働省の1階で社保研ティラーレの佐藤社長と待ち合わせ、老健局の栗原正明企画官を訪問する。「地方から考える社会保障フォーラム」の打ち合わせ。厚生官僚で若くして亡くなった荻島國男さんに初めて会ったのは、彼が老人保健部の企画官になった頃だ。彼は優秀かつやや強引な行政マンで、企画官ながら老人保健部全体を仕切っていたような印象がある(あくまで個人の印象です)。栗原企画官にも優秀さが感じられたが強引さは微塵も感じられなかった(あくまで個人の感想です)。厚生労働省から社保研ティラーレに戻り、佐藤社長、吉高会長と打ち合わせ。7月30日の「例の会」の会場に神田のイタリアンの店を紹介してもらう。虎ノ門の日土地ビルで打ち合わせがあるので虎ノ門へ。打ち合わせまで時間があるので日土地ビル地下の蕎麦屋へ。山形出汁おろしそばを食べる。山形出汁というのは山形県の郷土料理で「夏野菜と香味野菜を細かくきざみ、醤油などであえたもの」である。私は20年ほど前、阿部正俊さんが参議院選挙に立候補したとき、選挙事務所で食べた記憶がある。

6月某日
図書館で借りた「へこたれない人 物書同心居眠り紋蔵」(佐藤雅美 講談社文庫 2016年3月)を読む。佐藤雅美は昨年7月、78歳で死んでいる。佐藤の訃報の新聞記事の扱いが小さいことに腹を立てた覚えがある。「物書同心居眠り紋蔵シリーズ」は物書同心という今で言えば検察官の書記のような役目の奉行所の同心、紋蔵が遭遇する市井の事件を解決していくというシリーズ。紋蔵にはナルコレプシーのように突如居眠りをしてしまう奇癖があることから「居眠り紋蔵」と言われている。舞台は幕末にはちょいと間のある頃、本作の「帰ってきた都かへり」では「(現在から)70年ほど前の宝暦11年のこと」とある。ウイキペディアで調べると宝暦は「1751年から1764年までの期間」とあるから宝暦11年は1762年、それから70年ほど後の小説の舞台上の現代は1832年で天保3年である。天保の改革が行われ「天保六歌撰」の舞台ともなった時代で江戸文化の爛熟期の頃か。同心というのは与力の下役で、幕臣ではあるが「お目見え」以下、つまり将軍には目通りを許されない。現在で言えばノンキャリア、たたき上げの巡査部長か警部補といったところか。現代の刑事小説などでもそのクラスが主人公になることが多いでしょ。事件の現場に一番接するのが彼らということなのだろう。

6月某日
「へるぱ!」の編集会議をZOOMでやるという。年友企画の酒井さんの指示に従いつつ、奥さんの援けを借りながら何とかスマホで参加することができた。リアルな編集会議では割と発言するのだが、ZOOMではほとんど発言する機会はなかった。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」というマッカーサー元帥の言葉が頭をよぎる。ZOOMでの会議もそうだが新型コロナウイルスでずいぶん世の中は変わったし、今後も変わっていくと思う。リーマンショックを上回る経済的な打撃などコロナのマイナス面を捉えるだけでなく、日本社会の構造転換を図る好機と見ることも重要と思う。

6月某日
図書館で借りた「物語の向こうに時代が見える」(川本三郎 春秋社 2016年10月)を読む。川本三郎が文庫本の解説や各種媒体に発表した書評を1冊にまとめたもの。川本三郎ってすきなんだよねぇ。文体に嫌味がないし文章に「優しさ」を感じる。川本は1944年生まれ。確か麻布高校から東大法学部、朝日新聞というエリートコースを歩んでいたが、「朝日ジャーナル」の記者をしていた1971年、朝霞の自衛官殺害事件にからんで犯人隠避、証拠隠滅で逮捕され、朝日新聞を解雇される。川本の文章に「優しさ」を感じるのはこの経歴とも無縁でないように思う。この本で川本が解説や書評で取り上げた本は、私には未読のものが大半。だが、川本の筆にかかると私に強く「読んでみようかな」という気を起こさせる。川本は作品と作家と土地にこだわる。徴兵忌避で偽名を名乗りながら日本各地を逃走する「笹まくら」(丸谷才一)、東日本大震災で被災した出稼ぎ労働者の生と死を描く「JR上野駅公園口」(柳美里)、生まれ育った北海道の寂れた風景を背景に庶民の暮らしと愛を綴る桜木紫乃、他所者として「諫早の町にあっていつもアウトサイダーの位置に自分を置いた」野呂邦暢、夫亡き後の一人暮らしの老いの準備の日常を描く「故郷のわが家」(村田喜代子)などである。この中では野呂邦暢はまだ1冊も読んでいない。私が死ぬ前に1冊くらいは読むべきでしょうね。

6月某日
桐野夏生の「デンジャラス」(中公文庫 2020年6月)を読む。新聞広告で文庫化されたのを知って、すぐに上野駅構内の書店で購入した。文豪、谷崎潤一郎を巡る女たちの物語である。そう言えば「文豪」という言葉も使われなくなった。私が小説を読み始めた頃は文豪と呼ばれたのは夏目漱石、森鴎外そして谷崎である。志賀直哉は「小説の神様」であっても「文豪」ではない。永井荷風は文化勲章は受賞しても文豪とは呼ばれなかった。純文学でなおかつベストセラーを出す、そして「一家を構える」というイメージが必要なんだと思う、「文豪」には。「デンジャラス」は谷崎の三番目の妻、松子の妹で谷崎の長編小説「細雪」の主人公雪子のモデルとなった田邉重子が語り手となって進行する。谷崎の関心が義理の妹の重子から松子の連れ子の嫁の千萬子へ移っていく、そのことに対する重子や松子の嫉妬と葛藤が小気味の良いほど描かれている。物語は戦争末期から終戦、谷崎が亡くなる昭和40年まで続く。谷崎は晩年、「瘋癲老人日記」や「鍵」といった「老人と性」にまつわる傑作を書いているが、その女主人公のモデルとなったのが千萬子である。作家にとって最も大切なのは作品であって、谷崎にとって「細雪」の執筆当時は重子の行動や考えにこそ関心があったが、戦後はその関心が千萬子へ移ってゆく。小説家の業ですかね。桐野夏生は1951年生まれだから今年、69歳、今もっとも注目すべき女流作家の一人である。

モリちゃんの酒中日記 6月その3

6月某日
6月22日の朝日新聞朝刊に「在日米軍と国内法」という解説記事が載っていた。在日米軍への国内法の適用は国際法によって制限される、というのが半世紀近く続く日本政府の見解。しかし、その一般国際法とは具体的に何かと問われても日本政府は、説明を避けてきた。この解説を執筆した藤田直央という記者が、一般国際法に言及してきた根拠について、情報公開法で文書開示を求めたところ、外務省は「探索したが確認できなかった」と回答。米国は、駐留外国軍に関する国際法はなく個別の地位協定で権利確保の姿勢という。「嘉手納爆音訴訟」ではこうした国際法の有無が問われていて、解説は「最高裁が原告の上告を受け入れて実質審理に入るかどうかが注目される」と結んでいる。民主主義は権力者の高度な情報公開が原則と思われるが、わが国の現状はそうでもなさそうだ。
年友企画の迫田さんと神田のベルギー料理店でランチ。2月と3月に迫田さんの仕事を手伝ったギャラが先日振り込まれたため、お礼の意味でのご馳走である。その足で社保研ティラーレの佐藤社長と吉高会長に面談。新型コロナウイルスの影響で次回の社会保障フォーラムの厚労省の講師が決まらないための相談。吉高会長が「江利川さんに頼んだらどうやろう」というので医療科学研究所に電話、江利川毅理事長は出勤してきているということなので赤坂の事務所へ佐藤社長と向かう。江利川さんは快諾してくれたので一安心である。

6月某日
「行政学講義-日本官僚制を解剖する」(金井利之 ちくま新書 2018年2月)を読む。著者の金井は1967年生まれ、東大法学部卒、同助手、都立大法学部助教授を経て、現在、東大大学院法学政治学研究科教授と略歴にある。東大法学部を卒業して学者の道を希望する人の中でも、優秀な人は大学院に進学せずに学部の助手に採用されるという噂があるが、金井はまさにそれに当てはまる。政治学者の御厨貴や確か丸山眞男を同じ道をたどっているから意外と真実かも知れない。それはともかく私は厚生行政を外から30年以上にわたって眺めてきているので金井の分析や主張には「なるほど」と思わせるものが多かった。日米関係をどうとらえるかは、戦後の政治史の要となるものと思われるが、それに対する金井の見解は次のようなものである。サンフランシスコ講和条約の本質は、支配された「被占領地(植民地・自治領土)」の日本側「自治」政府にできたことは、「本国」=米国側の了解の範囲内で、独立または高度な自治を獲得することだった。「本国」にとっては日本支配の最大かつ究極の価値は、「自治領土」日本内に軍事基地を置き自由に使用することだ。こうしてサンフランシスコ講和条約と同時に、日米安保条約が締結された。なるほどねー、戦後の自民党政権は吉田茂から現在の安倍晋三に至るまで、基本的には対米従属路線を歩んできた背景がよく分かる。
もうひとつは権力と行政の関係である。最近、黒川東京高検検事長の定年延長問題や河井前法相と妻の参議院議員の逮捕によって権力と検察の関係に注目が集まっている。本書はこれらの事件の2年も前に刊行されているにも関わらず、権力と検察の関係の問題点を正確に指摘している。戦後日本の政治・検察関係を決定づけたのは1954年の「指揮権発動」である、と金井は指摘する。これは造船疑獄の捜査で東京地検特捜部は与党自由党幹事長の佐藤栄作を逮捕する方針を決定したが、犬養健法相が指揮権を発動し逮捕中止を検事総長に指示した事件である。金井は「この事件を契機に、政治は指揮権発動をしない、検察は指揮権発動させるほどの強引な捜査をしない、という微妙な間合いを忖度し合う関係に」なったとする。金井はまた「政治指導は政治の暴走とも紙一重」とも書いている。政治指導=政治主導によって黒川検事長の定年を延長しようとした安倍政権に通じるものがあるのではないか。ちなみに造船疑獄で指揮権発動によって逮捕を免れた佐藤栄作は安倍首相の大叔父に当たる(安倍首相の祖父が岸元首相で岸は佐藤の実兄)。なにか因縁を感じてしまう。

6月某日
図書館で借りた「皇国史観」(片山杜秀 文春新書 2020年4月)を読む。片山の本は難しいテーマでもわかりやすく解き明かしてくれるのが特徴。大学院時代から「週刊SPA!」のライターをしていたことと関係があるのかもしれない。片山は音楽評論家としての顔もあって伊福部昭(ゴジラの映画音楽を作曲した)を評価している。思想史研究家としては左右のイデオロギーに捕らわれることなく時代と思想(家)の関係を探ろうとしているところに私は好感を持つ。本書もまさにそうで「皇国史観」というタイトルそのものが「ヤバイ」でしょ。皇国史観という言葉自体が肯定するにしろ否定するにしろイデオロギーにまみれちゃっているからね。しかし「さすが片山先生」である、読後感はむしろ爽快であった。皇国史観をどうとらえるべきか、片山は「水戸学」「五箇条の御誓文」「大日本帝国憲法」「南北正閏問題」「天皇機関説事件」「平泉澄」「柳田国男と折口信夫」「網野善彦」「平成から令和へ」というキーワードから解き明かす。皇国史観は江戸時代初期に水戸学から発生した。将軍よりも天皇を上位とする価値観は幕末に至って尊王攘夷思想に発展する。尊王攘夷の本家は水戸徳川藩だが、天狗党が攘夷を唱えて筑波山で蜂起、それ以降凄惨な内ゲバを繰り返し、明治維新の頃には人材は払底してしまったらしい。五箇条の御誓文の「万機公論に決すべし」には民主主義の萌芽が認められるものの、明治憲法はプロシアに学ぶ反動的なものであった、というのが通俗的な理解で実態はそれほど単純なものではなかった。現在の天皇も明治天皇も北朝であるが、明治政府は南朝を正統とした。そうしないと楠木正成が逆臣となってしまい、当時の庶民感情を納得させられなかったのである。天皇機関説も学会の主流は機関説であったが、昭和の軍部が「天皇を機関車や機関銃と一緒にするのか」という庶民感情に乗じて美濃部達吉を非難、美濃部は貴族院議員を辞職する。大変読みやすい本なので、歴史好きには一読をお勧めする。

6月某日
図書館で借りた「仁淀川」(宮尾登美子 新潮文庫)を読む。巻末に「この作品は2000年10月、新潮社より刊行された」とある。宮尾登美子は1926(昭和元)年の生まれだから著者が70年代前半の作品ということになる。宮尾が中央の文壇にデビューしたのは1972年に太宰治賞を受賞した「櫂」で、以下、「春灯」「朱夏」と高知の女衒、岩伍に嫁いだ喜和、娘の綾子を主人公とした自伝的な連作を発表している。「仁淀川」は喜和と岩伍の死と、綾子が後に「家の職業についても、自分の手で描いてみようと決心した」までを綴った「綾子自立へ」の章で終わっている。宮尾は40代の半ばから自伝的な連作小説を書き始め、70代半ばの本作で主人公、綾子が作家を目指す方向を示すことで完結するのである。といっても本作では20歳の綾子が夫と生まれたばかりの娘と3人で満洲から着の身着のままで高知の夫の生家に帰り、農作業に駆り出されていく様が描かれる。綾子は女衒の娘である。女衒とは若い女性を遊郭などに売る一種の仲介業であり、遊郭は都市でなければ成立しない商売であり、女衒もまた極めて都市的なビジネスであった。綾子の嫁ぎ先における苦労とある種の戸惑いは農村と都市の対立であり、それは生産者(農村)と消費者(都市)との対立でもある。綾子は遂に農村に馴染むことはできず、嫁ぎ先の姑にとっては綾子は労働力以上のものではなかった。しかし、だからこそ綾子は自立の道を目指したのだし、作家、宮尾登美子も誕生したのだとも言える。年代がほぼ同じの宮尾、瀬戸内寂聴、田辺聖子を比較すると、寂聴は徳島市内の仏壇屋に生まれ東京女子大に進学、結婚離婚して作家デビューを果たしている。田辺は大阪の大きな写真館の娘に生まれ、樟蔭女子専門学校に学び同人誌に掲載された「センチメンタル・ジャーニー」で芥川賞を受賞、後に開業医の川野氏と結婚している。三者三様ではあるが、宮尾の満洲の荒野、高知の農村の経験が、常套句ではあるが「作家の肥し」となったのは間違いのないところだ。

モリちゃんの酒中日記 6月その2

6月某日
厚労省の1階で社保研ティラーレの佐藤社長と待ち合わせ。15分ほど遅刻してしまった。伊原政策統括官を訪問、「社会保障フォーラム」についてアドバイスを頂く。その足で社保研ティラーレへ。吉高会長と3人で協議、次回の「社会保障フォーラム」はWEB上で開催する方向を確認。決定まではWEBに詳しい若い人の意見を聞くことにする。私などはチンプンカンプンです。虎ノ門の「フェアネス法律事務所」で渡邉弁護士と懇談、新橋まで歩く。上野でアイリッシュパブへ寄り、ギネスとジントニック、ウオッカトニックを頂く。

6月某日
企業年金連合会の足利聖治理事を訪問。江利川毅さんや川邉新さんとの呑み会を7月中に企画することにする。17時に御徒町の食品スーパー「吉池」へ。17時50分に前の会社の社員との呑み会が吉池の最上階の「吉池食堂」であるため。2人が来るということなのでお土産に「弦付きトマト」を2つ買う。17時30分から独りで生ビールを「マグロブツ」を肴に飲み始める。17時50分に予定通り二人が登場。お土産に日本酒を貰う。2時間ほど他愛のない話をして別れる。御徒町から上野へ出て常磐線に座って帰る。家呑み用のウイスキーがなくなっていることを思い出し、駅前の関野酒店によってギルビージンを購入する。

6月某日
社保研ティラーレで佐藤社長、吉高会長、社会保険研究所の水野氏、UAゼンセンの永井氏と次回の「地方から考える社会保障フォーラム」の打ち合わせ。新型コロナのこともあるので次回は会場参加とネット参加の二本立てで行く方向を確認する。永井氏はネット会議も経験もあるということなのでいろいろと調べてくれるそうだ。我孫子へ帰って駅前の「しちりん」に寄る。

6月某日
監事をしている一般社団法人の総会が東京駅八重洲口の貸会議室で1時半からあるので出かける。八重洲口地下の北海道料理の店で昼飯に「豚丼」を食べる。総会では監査報告書を読み上げる。総会は30分ほどで終わったので次回の「地方から考える社会保障フォーラム」の会場に予定している「AP東京丸の内」を観に行くことにする。社保険ティラーレの佐藤社長と現地で待ち合わせる。東京駅からも大手町駅からも直結している日本生命丸の内ガーデンタワーの3階で皇居外苑の緑が見渡せる。料金は従来の倍以上ということだが、これなら地方議員の先生方にも喜んでもらえると思う。次回は会場とインターネット対応の二本立てだが「AP東京丸の内」はその経験も十分あるようなのでひとまず安心。続いて「虎ノ門フォーラム」の中村秀一理事長を訪問、次回の講師に予定している堀田聡子先生の連絡先を教えてもらう。社保険ティラーレで吉高会長、佐藤社長と懇談、17時30分になったので鎌倉河岸ビル地下1階の「跳人」へ向かう。大谷源一さんと高本真佐子さんと会食。途中から社会保険出版社の高本社長も参加、高本社長にすっかりご馳走になる。「跳人」の大谷君に日本酒のワンカップを頂く。

6月某日
東京都知事選が18日告示された。開投票日は7月5日だ。現職の小池百合子の再選がほぼ確実視されている。このタイミングで「女帝 小池百合子」(石井妙子 2020年5月 文藝春秋)が上梓された。奥さんに「無茶苦茶面白いらしいよ」と言われて早速、上野駅の「BOOK EXPRESS」で購入した。1刷が5月30日で私が買ったのが3刷で6月20日だから確かに売れているのだろう。一読して確かに面白かった。小池百合子という類い稀な個性を豊富な資料とインタビューで浮き彫りにさせていく、石井妙子の力量は本物だと思う。カイロ大学卒業という小池の経歴の真贋が話題となっているが、それは小池という個性の一つの表出であり、必ずしも本質ではない。石井妙子の綿密な取材によって、カイロ大学卒業はかなり怪しいことが暴露されてはいるが。石井が小池のノンフィクションを書くに至った経緯が「終章 小池百合子という深淵」で明らかにされている。それによるとカイロで小池と同居していた女性から、石井は小池の学歴詐称の告発の手紙を受け取る。石井は十分な調査をしたうえで「文藝春秋」に「小池百合子『虚飾の履歴書』」を発表した。しかし既存のジャーナリズムからはほぼ黙殺され、都議会で小池は「法的な対応を準備している」と述べたが、現在まで石井は小池から訴えられていない。石井は「学歴が教養や能力に比例するとも考えていない」と述べる。しかし、卒業していない大学を出たという「物語」を作り上げ、それを利用してしまう小池の人間としての在りようを問題視している。石井はさらに「本来、こうした『物語』はメディアが検証するべきであるのに、その義務を放棄してきた」とし、メディアの無責任な共犯者としての罪も指摘している。女性の政治進出において日本は欧米先進国のみならずアジア諸国にも遅れをとっている。そのなかで小池の快進撃を女性の解放として受け取り、喜ぶことはできないと石井は言う。小池は石井に答えるべきと思う。そして久しぶりに骨太のノンフィクションを読んだというのが私の率直な感想である。

6月某日
田辺聖子の「あかん男」(角川文庫 1975年初版 2020年6月改版初版)を読む。帯に「『ジョゼと虎と魚たち』アニメ映画化記念 いま読みたい田辺聖子」と印刷してあった。田辺聖子の作品の中でも「ジョゼと…」はちょいと異色。体の不自由な女の子と彼女を世話する男の日常を描いた小説だが、池脇千鶴と妻夫木聡で映画化もされている。「あかん男」には表題作含め7編の短編が収録されている。表題作から読み始めたが、もてない髪の薄くなった30代の独身男を主人公にしたこの作品は、私にはちょいと期待外れであった。年譜によると田辺は1966年に神戸の開業医、川野純夫と結婚している。川野は確か4人の子持ちで家事育児に加えての小説執筆だから、期待外れもしょうがないかと思いながら読み進むと、随所に田辺聖子らしさが滲んだ短編が登場する。田辺聖子らしさというのは「苦さとユーモア」であって作品によって苦さが増す場合とユーモアが優る場合があるわけである。苦さが増すのは例えば「さみしがりや」という作品である。着物の仕立てで暮らしを立てている文治は小料理屋の仲居をしている安江と再婚した。文治は亡くなった前妻の連れ子のことを哀れと思い出す。前妻も亡くなっているのだがこちらの方には愛情を感じないのだった。ここら辺の人情の機微、苦さを描かせると田辺の右に出る作家はいないと私は信じるのである。最後の「かげろうの女―右大将道綱の母―」は平安時代の日記文学「蜻蛉日記」を題材にした田辺の王朝物の源流をなすもの。

モリちゃんの酒中日記 6月その1

6月某日
NHK BSで韓国映画「タクシー運転手―約束は海を越えて」を観る。事前の知識はまったくなかったが1980年の光州事件に巻き込まれたタクシー運転手の話だ。ソウルのタクシー運転手が学生や市民が民主化を叫んでいる光州市へドイツ人記者を乗せる。妻に死なれ一人娘と生活する運転手にとって高額な報酬が魅力だったのだ。ドイツ人記者の映像取材に同行するうちに、運転手は次第に光州市の市民や学生に同情的になっていく。いったんはドイツ人記者を光州市に置いて、ソウルの娘のもとに帰ろうとする運転手だが、知り合いになった市民や学生、ドイツ人記者が気になって光州へ引き返す。軍隊や警察の弾圧はさらに激しさを増し、取材に協力してくれた学生も虐殺される。「この現実を世界に伝えてくれ!」という学生の声を胸に運転手と記者は空港を目指す。軍の追跡を阻むために光州のタクシーが何台も参加してカーチェイスを展開するのが後半の山場だ。天安門事件もそうだが光州事件、そして香港の民主化闘争の映像は涙なしには見られない。年を重ねて涙もろくなったこともあるのだろうけれど。

6月某日
白人警官が黒人青年を死なせたことをきっかけに全米各地でデモが広がっているとニュースが伝える。トランプ大統領はデモの鎮圧に軍隊の出動も考慮しているという。光州事件や天安門事件の再来か?「アンティファ」という組織が過激な行動を煽っているとの報道もあった。アンティファってアンチ・ファシストのことでヒットラー時代のドイツに実際に存在した組織ということだ。現在のアンティファの組織の実態はよく分からないらしい。放火や略奪はいけないがデモはどんどんやったらいい。警官隊への投石?個人的には許容します。
今日の昼ご飯はチャーハンを自分で作った。玉ねぎ4分の1、ピーマン2分の1、ニンジン少々、ニンニク少々を予め刻んでおく。レタスの皮をちぎっておく。生卵をご飯にかけ混ぜておく(こうしたほうが卵とご飯のくっつきがいいような気がする)。中華鍋をガスに掛け、温まったら油を引く。ニンジン、ニンニクを入れ、卵とご飯も入れ、玉ねぎ、ピーマンを入れる。昨日の夕ご飯のおかずの残りの豚肉も少々入れる。最後にレタス、醤油、胡椒を入れて味を調えて完成。味は満足できるものでした。

6月某日
図書館で借りた「君がいないと小説は書けない」(白石一文 新潮社 2020年1月)を読む。白石一文っていわゆる私小説作家ではなかったと思うけれど、これはどう読んでも私小説。帯に「小説史をくつがえす自伝的小説、堂々刊行」「鬼才の叡智、作家の業、ここに結集す」と刷り込まれている。白石は小説家の白石一郎を父として福岡に生まれ、早稲田大学政治経済学部を卒業後、文藝春秋社に入社し雑誌記者や編集者を経た後、小説家としてデビューした。小説の主人公、野々村保古も小説家の父を持ち早大政経学部を卒業して出版社に入社して、記者や編集者として活躍後、作家となっている。一子を設けた後、離婚、現在の同棲相手ことりと事実婚(前の妻が離婚に応じないため)というこの小説のストーリーも事実乃至はそれに近いのだろう。それにしても作家とはすごいものだとつくづく実感。相対性理論はアインシュタインが発見しなくても、いずれ誰かが発見しただろうがピカソのゲルニカはピカソでなければ描かれなかったというような記述が文中にあったが、それは白石の小説家としての自負なんだろうね。

6月某日
1週間ぶりの上京。13時から社保研ティラーレで打ち合わせがあるため。先ずは鎌倉橋ビル地下1階の「跳人」でランチ。暑かったので「刺身定食」と生ビールを頼む。生ビールを飲み干すと店員の大谷さんが「お代わりは?」と聞いてくるが断る。食後のアイスコーヒーをサービスしてくれる。児谷ビル3階の社保研ティラーレで佐藤社長、吉高会長と打ち合わせ。社会保障フォーラムの日程を確認し来週から講師の依頼を進めることに。我孫子へ帰って「いしど歯科」へ。虫歯の治療と歯石取り。これで今回の治療は終了ということで「歯ブラシ」を頂く。「いしど歯科」から手賀沼湖畔へ。ほぼ日課になっている白鳥の親子を鑑賞。親白鳥が2羽、子どもの白鳥が5羽。親白鳥は夫婦なんだろうな。

6月某日
「12人の手紙」(井上ひさし 中公文庫 1980年4月)を読む。私が読んだのは2020年3月改版8刷発行で、帯に「井上ひさし没後10年」と刷り込まれてあった。井上ひさし(1934~2010)は私が小学生の頃のNHKテレビ「ひょっこりひょうたん島」の作者として私には身近だ。ということは1960年前後だから当時、井上は20代ということになる。それはともかく本作は単行本として1978年6月に中央公論社から出版されている。井上が40代、作家として最も脂が乗り切っていた頃と言ってもいいかも知れない時期の作品である。プロローグ、エピローグ含めて13の短編が収録されているが、エピローグ以外はすべて書簡を中心とした構成となっている。プロローグの「悪魔」は両親の不仲に悩んで家出同様に上京した娘が、就職先の社長の甘言に惑わされ関係を持つ。社長の離婚を信じていた娘は社長の不実を知り、社長の子どもを殺めてしまう。最後は娘から同級生への「差し入れありがとう」という東京拘置所からの手紙で結ばれる。「葬送歌」は小説家への劇作家志望の女子大生への手紙とそれへの小説家の返信という形式。女子大生は去る作家の小品をもとにした「帰らぬ子のための葬送歌」という戯曲を小説家に送る。テロ未遂事件を起こした青年が留置場で虐殺され、青年の恋人が遺骨を北国の母に帰しに来るという筋の戯曲だ。戯曲を読んだ小説家は、リアリティがないという感想を綴った手紙に続けて「去る作家の小品」とは昭和10年ごろ同人誌に発表した自分の作品ではないかという手紙を送る。学園祭に展示する小説家の自筆の手紙が欲しいが故の女子大生のトリックという種明かしだ。しかし私は「帰らぬ子のための葬送歌」という戯曲が、特高に虐殺された小林多喜二とその母のことを思い出されて切なかった。全体的に非常に凝った、それでいて作者の社会の底辺にいる人々への温かいまなざしが感じられる作品であった。

6月某日
図書館で借りた「占(うら)」(木内昇 新潮社 新潮社 2020年1月)を読む。木内昇(のぼり)は1967年生まれの女流作家、「漂砂のうたう」で直木賞受賞。日経新聞連載中から愛読していた「万波を翔ける」は蘭学に励む幕臣の次男坊が幕末の外交官として活躍する姿を描いたもの。幕末から明治、大正時代の江戸、東京を舞台とする小説を得意としているようだ。本作はタイトル通り占いをテーマとした短編連作集。作中の雰囲気は高音というよりは中低音、つまり暗め。冒頭の「時追町の卜い家」は翻訳を業とする独身女、桐子が主人公。瓦の修繕を頼んだ若い大工と関係を結ぶことになるが、若い大工には苦界に売られた妹がいて、彼は妹のことになると他のことが眼に入らなくなる。桐子は迷い込んだ時追町で一軒の「卜い家」に出会う。「卜い家」は今で言う「占いの館」で、何部屋かに占い師が控えている。桐子が通された部屋には汀心と名乗る初老の女が待っていた。とこういうような話が七つ並ぶ。他の6作のタイトルだけ示すと「山伏村の千里眼」「頓田町の聞奇館」「深山町の双六堂」「宵町祠の喰い師」「鷺行町の朝生屋」「北聖町の読心術」。地名は架空と思われるが地名も中低音だ。

モリちゃんの酒中日記 5月その4

5月某日
「未完のファシズム-『持たざる国』日本の運命」(片山杜秀 新潮選書 2012年5月)を読む。発売直後、結構評判になって買ったものだが、今回再読して内容をほとんど覚えていないことに驚いた。新型コロナウイルス対策で我孫子市民図書館が閉鎖され、家にある本を読んでいるのだが、こういうこともあるのでコロナ禍もまんざら悪いことばかりじゃないのである。 片山杜秀は1963年生まれで本書が出版された当時は慶応義塾大学法学部の准教授だったが今は教授である。音楽評論家としても知られ著作もある。映画にも詳しく本書の「あとがき」では平田昭彦(1927~84)という映画俳優に触れている。平田は東宝映画「ゴジラ」(1954)に芹沢大助という科学者役で出演し、ゴジラを破壊する水中酸素破壊装置を発明させる役を演じている。平田は敗戦時には陸軍士官学校生徒で、長野県松代で本土決戦に備えていた。「あとがき」からその辺を引用すると「一億玉砕の覚悟で最後の勝利をつかみとろうとしていた平田さんが、9年後には映画俳優になって、「ゴジラ」に出演し、間に合わなかった対米決戦兵器を抱いて放射能怪獣に神風アタックを行い、平和を訴えて死んでゆく。歴史の面白さです」。こういうことを「あとがき」に書く歴史家、思想史研究家はなかなかユニークと言わなければならないだろう。
片山は第一次世界大戦に注目する。第一次世界大戦では日本はそれほど大きな軍事行動はとらなかったものの、主戦場となった欧州各国に対する輸出で大儲けをする。戦争成金の登場である。日本はこの戦争を契機にして産業の重化学工業化を図ることができたし、その一方で戦後アメリカのウイルソン大統領によって提唱された国際連盟の常任理事国の地位を手に入れる。片山はこの戦争で日本がとった唯一と言ってもよい作戦行動、青島攻略戦を取り上げる。青島攻略戦で日本は大口径の榴弾砲でドイツ軍の要塞を徹底的に攻撃する。要塞砲や機関銃坐を破壊したのちに歩兵が占領するというパターンである。これは第二次世界大戦で米軍が日本軍に対して、艦砲射撃や空爆で攻撃したのちに歩兵が上陸するという作戦を髣髴させる。要するに青島攻略戦の頃は帝国陸軍も合理的な思想を持っていたということであろう。第一次世界大戦後の日本の仮想敵国はアメリカとソ連に絞られる。アメリカにしろソ連にしろ石油、鉄鉱石など資源に恵まれた「持てる国」であった。それに対して日本は資源を輸入に頼らざるを得ない「持たざる国」である。石原莞爾の世界最終戦争論では日米の最終戦争に備えて日本は満洲を手に入れ「持てる国」となる戦略が示されている。しかし石原の構想は実を結ばず、日本は太平洋で米軍と、中国大陸で国民党軍や中国共産党軍と、ビルマ戦線では英軍と戦わざるを得なかった。敗戦の年の8月にはソ連と満洲の国境にはソ連軍が押し寄せてくる。勝てる戦いではなかったのである。戦争指導者の責任は重いと言わざるを得ない。

5月某日
手賀沼湖畔の喫茶店兼の古書店で購入した「白く塗りたる墓」(高橋和巳 筑摩書房 1971年5月)を読む。高橋は71年の5月に死亡しているから絶筆となるのかもしれない。第11章まで書き進められ未完で終わっている。本書は高橋の小説には珍しくテレビ会社を舞台にした現代小説である。六全協の頃の前衛党の内部を描いた「日本の悪霊」、戦前の新興宗教を描いた「邪宗門」など高橋には高度成長にいたる前の日本を描いた小説が多い。タイトルの「白く塗りたる墓」はマタイ伝の一節から取られている。「偽善なる学者、パリサイ人」を「白く塗りたる墓」に例え、「外は美しく見ゆれども、内は死人の骨とさまざまなの穢れとにて満つ」と告発しているのだ。主人公の三崎省吾は報道部の解説室長で解説番組に出演している。テレビ局の労働組合にも反戦派の影響が及び始め、三崎は会社側と労働組合の板挟みにあって次第に健康を害していく。三崎はほとんど高橋その人ではないかと感じられた。執筆当時の高橋は京都大学文学部の助教授で全共闘の主張に理解を示す。助教授に就任したのが67年4月、69年3月に学生側を支持して辞職、71年5月に死去。高橋は三崎の苦悩を通して革命運動と知識人の関係性を描くと同時に「パリサイ人」としての知識人の偽善性を明らかにしたかったのではないか。

5月某日
NHKBSプレミアムで映画「遥か群衆を離れて」(1967年のイギリス映画)を観る。先日、やはりはりBSプレミアムで「ドクトルジバゴ」でラーラ役を演じていたジュリー・クリスティが主演しているためだ。ラーラは知的でありながら情熱的な役柄だったが本作でジュリー演じるが女性、バスシェバもそんな役柄だ。叔父からの遺産として農場の女主人となるバスシェバに3人の男が絡む。1人は以前、バスシェバに求婚したが「その気はない」と振られた羊飼いの男。自分の牧場は失いバスシェバの農場に雇われる。1人はバスシェバの農場の隣で広大な農地を所有する男性。最後の一人は騎兵の伍長。バスシェバは色男で女にモテモテの伍長と結婚するが、賭け事にのめり込んだ伍長は海で溺死する。農場主の男性から求婚されたバスシェバは悩みつつも受け入れる。農場主の邸宅で開かれた婚約披露のパーティーに死んだと思っていた伍長が現れ、場主は伍長を射殺し捕らわれる。で、結局は羊飼いの男と結ばれるというハッピーエンドなのだが、私は殺された伍長や捕らわれた農場主に哀れを感じた。映画としてはまぁ二流。でも私、ジュリー・クリスティのファンなので…。

5月某日
「昭和史講義【軍人編】」(筒井清忠編 2018年7月 ちくま新書)を読む。これも2年前に買って読んだはずだが内容をほとんど覚えていない。昔から物覚えは良かったはずだが、これも老化か!まぁ今年72歳だからね、受け入れましょう。最初に筒井清忠が「昭和陸軍の派閥抗争―まえがきに代えて」を執筆している。筒井は昭和史の著作、とくに戦争や軍隊・軍人を扱ったものには不正確なものが多いと苦言を呈し、その理由として出版社の需要が多いのに研究者側の供給が少ないことをあげ、「戦後かなりの間このテーマに関心を抱き研究をすること自体が戦争を肯定しているという誤解が生じがちでそのためテーマとして避けられ続けた」としている。筆者(筒井)の世代が研究成果を発表し出した1970年代ころから客観的な研究が行われ始めたという。筒井は1948年生まれだから私と同世代、そんなもんですかね。それはともかく筒井は、派閥抗争の観点から昭和陸軍の歩みを振り返る。それによると明治以来、山県有朋を頂点とする長州閥が陸軍をけん引していたが、大正後期・昭和初期には人材が切れ、準長州閥の宇垣一成を軸にした宇垣閥へと展開した。長州閥、宇垣閥に対抗したのが大山巌に始まり上原勇作を中心とした薩摩閥で、これが真崎甚三郎、荒木貞夫を擁する九州閥に転生していく。そうしたなか、陸士同期の永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次がドイツの保養地、バーデン・バーデンに集い第一次世界大戦の教訓を基に、総力戦体制確立、長州閥専横人事の刷新などで合意した。彼らは帰国後「二葉会」を結成し、それは「木曜会」「一夕会」につながり、永田や東条英機らの中堅幕僚による日本を高度国防国家に作り替えていこうとする「統制派」に続く。一方、北一輝や西田税の影響を受けた青年将校グループは真崎を押し立て陸軍と国政の改革を進めようとした。のちに2.26事件と呼ばれるクーデター未遂を起こした「皇道派」である。2.26事件後、首謀者は逮捕処刑され皇道派は壊滅、統制派が陸軍の主流となるが、統制派も後に首相、陸相、参謀総長を兼務することになる東条の派閥と世界最終戦論を唱える石原莞爾派に分かれることになる。本書では14人の陸海軍人が取り上げられている。皆それぞれ優秀な人であるが、日本軍全体としてはダメだったわけ。「日本はなぜ開戦に踏み切ったかー『両論併記』と『非決定』」という本を読んだことがあるが、要するに決定できないんだよね。それで両論併記に逃げる。「新型コロナ対策」にもそのことは言えないか?

5月某日
図書館が一部再開。リクエストした本を受け取れるようになった。今日は林真理子の「綴る女 評伝・宮尾登美子」(中央公論新社 2020年2月)を読むことにする。評伝は1990年の4月14日にホテルニューオータニの別館で開かれた「第8回宮尾杯争奪歌合戦」から始まる。当日の進行表によると出席者は朝日新聞社、角川書店、講談社、集英社、新潮社、世界文化社、中央公論社、テレビ朝日、東宝、文藝春秋、東映といった日本を代表する出版社やマスコミである。ゲスト審査員は女優の浅利香津代、藤真利子、作家の中上健次、画家の灘本唯人、歌手の都はるみである。直木賞を「一絃の琴」で受賞した宮尾は「序の舞」「陽暉楼」「鬼龍院花子の生涯」と言ったベストセラーを次々と発表し、その多くが映画化やテレビドラマ化されていた。そんな華々しさとは裏腹に宮尾は孤独であった。生前、宮尾と親交のあった林真理子がその孤独に迫る。林は「前書き」で「私は宮尾さんの評伝を書くにあたって、どうしても知りたいことがあった。いや、そのために評伝を書こうと思い立ったのだ」とし「私をあれほど熱狂させた『宮尾ワールド』は、本当に存在していたのだろうか。の登場人物の女衒の岩伍は実在していたのだが、隆盛を誇った土佐の花柳界の話は本当だったのか…」と記している。

5月某日
大谷源一さんが我孫子来訪。我孫子駅の改札で待ち合わせ、成田街道から嘉納治五郎邸宅跡、柳宗悦宅だった三樹荘、天神坂を歩く。手賀沼周辺を散策し、レストラン「コビアン」で食事。私にとっては50年近く住む我孫子の風景は日常だが、大谷さんにとっては湖畔の風景はちょっとした非日常だったようだ。

モリちゃんの酒中日記 5月その2

5月某日
松浦玲の「勝海舟」(筑摩書房)を読了。結局、読み終わるまで1週間ほどかかってしまった。本文のみで700ページを超え、(注)と(参考文献)を加えれば900ページという大著ということもあるが、海舟の日記や書簡を原文のまま引用することが多く、その解読に手間取ったこともある。松浦玲は昭和6年生まれだから古文や漢文は基礎的な教養は小学校、中学校で身につけたうえに、京大は放校処分されたが立命館大学大学院修了後、京都市史料編輯主幹を務めている。幕末や明治時代の文章を原文で読むことなど容易なことだと思われる。私はというと引用された原文の意味もよく分からなかったが、さすがに地の文は理解できた。そのうえで言うと幕末、明治の日本を生きた勝海舟という「傑物」の生涯を残された資料から等身大に描き切ったと言える。本書を読んで私は勝の生涯は5期に分けることができると思った。第1期は誕生(1823年)から剣術修業、蘭学修業を経て幕府に海防に関する建言書を提出、蕃書翻訳勤務を命じられる(1855年)まで。第2期は長崎伝習を命じられてから咸臨丸艦長として太平洋を往復する(1860年)まで、幕府海軍の草創期である。第3期は1867年の大政奉還、王政復古のクーデターまで。幕臣として兵制改革に尽力する一方で第2次長州征伐の後片付けに奔走する。第4期は江戸城明け渡し(1868年)から明治維新政府に協力し参議海軍卿に就任し、辞任する(1874年)まで。第5期は海軍卿を辞任して以降、死ぬまで。元老院議員としての肩書は残るがもっぱら政界、官界の指南役として明治の社会で重きをなす。
私はこの本を読んで初めて知ったが、海舟は経済的に困窮する旧幕臣に対して経済的な援助を行っていた。資金は海舟の懐から出たこともあるし、徳川家から出たこともある。援助は旧幕臣に止まらず、明治維新で没落した士族にも及んでいたらしい。もうひとつは海舟の長男、小鹿はアメリカの海軍兵学校を卒業後、明治海軍の士官となるが健康に優れず40歳で病死する。小鹿の長女と結婚させたのが徳川慶喜の10男、精である。慶喜と海舟はときに対立することもあったが、海舟は終生、徳川家の恩顧を忘れることはなかった。海舟は日清戦争に反対していたことも初めて知った。これは後の幸徳修水や内村鑑三の非戦論や反戦論とは少し違うと思う。海舟は清国はもとより韓国も独立国として見ており、文化的にはむしろ尊敬していたと思われる。日清戦争で得た遼東半島を独仏露の三国干渉によって日本は清に返還するのだが、海舟は返還するのが筋という立場である。明治政府の主流は薩摩、長州を主流とする藩閥政府なのだが、海舟は薩摩贔屓である。西郷隆盛と親しかったことが大きかったと思えるが、長州流の合理主義とは肌が合わなかったのではないか。海舟と言えば福沢諭吉の「瘦我慢の説」を外すことはできない。福沢は「戊辰戦争のとき徳川は徹底的に抗戦し、最後は城を枕に討死すべきだった」と言うのである。海舟は「行蔵は我ニ存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せず存候」と突っぱねたという。「私の行動は自らの信念によるもの、けなしたりほめたりは他人の主張、私は知らぬこと」という意味か。これは海舟に軍配が上がったと私は見る。

5月某日
林真理子の「我らがパラダイス」(集英社文庫 2020年3月)を読む。我孫子市民図書館が6月まで休みなので家にあってまだ読んでいない本を読んできたのだが、小説を読みたくなって我孫子駅北口のイトーヨーカドーの3階にある書店に行く。林真理子の文庫本の新刊があったので買ったのだ。私の読んだ林真理子の小説はどれも面白かった。秘かに田辺聖子先生の後継者と私は考えているのですが。まぁたんに私が考えているだけですが。この小説の初出は2016年に毎日新聞に連載され、単行本は2017年3月に毎日新聞社から刊行されている。日本で最高級レベルとされる有料老人ホームを舞台に、受付職員の細川邦子、看護師の田代朝子、食堂のウェイトレスの丹羽さつきの人生が交差する。3人とも高齢の親を抱えどこかの施設へ入居させたいと思っているが、自分の勤めるホームは入居一時金が8600万円と高嶺の花なのだ。文庫本の帯に「国民の大問題、『介護』と『格差』に切り込む長編小説」とあったが、このことである。受付職員と看護師はホームの管理者や職員の眼を欺いて自分の親をこの有料老人ホームに入居させることに成功し、丹羽さつきは入居者のダンディな元編集者と結婚する。管理者は庶民=さつきが有産階級の入居者と結婚することが認められない。結構を認めることはさつきが有産階級となることを認めることだからだ。結局、庶民の3人は「蜂起」し、一部の入居者も同調し上層階に立て籠る。入居者で元学生運動家も登場し、彼の指導でバリケードを構築し火炎瓶も製造、投擲する。解説の上野千鶴子は「入居者の元活動家は自分が差別者の側にいることを自覚しないのだろうか」と疑問を投げかけるのだが。

5月某日
近所の喫茶店「NORTH LAKE」には古本も置いている。高橋和巳の本が3冊あったので買うことにする。3冊で150円!。「堕落」(河出書房新社 1969年2月)から読み始める。孤児院の園長、青木隆造が主人公で、青木は満州国建国の理想に破れた引揚者の設定。青木が新聞社から表彰されるシーンが冒頭である。孤児を救うという理想に燃えている青木は、しかし秘書の水谷を犯し公金を横領する。そして金を奪おうとした青年を持っていた傘で刺す。高橋和巳の小説は「救い」のないのが特徴、初版の出た1969年は私が学生運動で逮捕起訴された年でもある。その頃、私たちに圧倒的に支持されていた小説家が高橋だ。「自己否定」という熱に浮かされていた私の眼に、高橋も同じ熱に浮かされていると映ったのかもしれない。

5月某日
1週間ぶりで電車に乗って東京へ。鎌倉河岸ビル地下1階の「跳人」へ寄ってランチ。お店の大谷君に聞くと夜も営業を再開したそうだ。「7時ラストオーダー、8時終了ですけどね」。児谷ビル3階の社保研ティラーレで次回の「社会保障フォーラム」の打ち合わせを佐藤社長、吉高会長、社会保険研究所の水野氏らと。帰りに上野駅の本屋「BOOK EXPRESS」で月刊文藝春秋とPHP新書の「満洲事変」を購入する。文藝春秋は新型コロナウイルスの特集を読みたかったためだが、中央省庁の人事の噂を掲載している「霞が関コンフィデンシャル」をのぞくと、鈴木俊彦事務次官(58年)の後任レースは吉田学医政局長(59年)がトップで、次官と同期の樽見英樹新型コロナウイルス感染症対策推進室長も見逃せないとしていた。まぁ人事は所詮「ひとごと」ですから。

モリちゃんの酒中日記 5月その1

5月某日
西部邁の「ニヒリズムを超えて」(日本文芸社 1989年7月)を読む。西部が東大教養学部教授を辞めたのが1988年3月だから、東大を辞めてから1年4カ月後の出版ということになる。ただし収められている文章は85~88年11月に雑誌等に発表したものだ(ひとつだけチェスタトンについて論じた「保守の情熱」は書下ろし)。東大を辞める以上、国家公務員としての糧秣を絶たれるわけだから、それなりの覚悟が必要だったように思う。そのためかチェスタトン論はじめ三島由紀夫論の「明晰さの欠如」などは私には難しかった。私が西部の本に親しんだのは、西部の個人的な回想(「60年安保 センチメンタルジャーニー」「友情 ある半チョッパリとの45年」「妻と僕 寓話と化す我らの死」)が最初だったためか、彼の文学や哲学、経済学の本格的な論考は閾値が高いのである。しかし書名「ニヒリズムを超えて」の意味はささやかながら理解できたように思う。「保守の情熱」でチェスタトンを借りて「知識や道徳の絶対基準はない」とする相対主義は「現代人にとっての陥穽」である、と言い切っている。方法論としての相対主義は、意味論としては虚無主義=ニヒリズムに他ならない。ということは西部が言論戦に当たって掲げた保守主義とは、虚無主義、相対主義に抗するものであったと思われる。西部の言う保守主義は私なりの理解では精神の孤高に近しい気がする。それは本書に収録されている3人(田中美知太郎、清水幾太郎、福田恒存)の知識人論からも伺えるのである。

5月某日
西部は60年安保のとき東大教養学部の自治会委員長であり、このときの全学連委員長が唐牛健太郎である。二人の交流は唐牛が1984年享年47歳でがんで死ぬまで続く。私は唐牛健太郎の二番目の奥さん、真喜子さんとは知り合いでその縁だったのかどうか「唐牛伝―敗者の戦後漂流」(佐野眞一 小学館 2016年8月)の出版記念パーティに出席したことがある。西部は2018年1月に多摩川で入水自殺しているが、その前年の17年に真喜子さんは亡くなっている。西部と真喜子さんが仲が良かったことも知っていたから、真喜子さんを元気づけようと電話したら「唐牛は昨年亡くなりました」と聞かされた。出版記念パーティのときはいつもと変わらず元気だったのにと思ったものだった。「唐牛伝」を久しぶりに読み返すことにする。佐野眞一は文献もよく調べ何よりも関係者(このなかには真喜子さんも含まれる)も丹念に取材している。再読しても70年前の安保闘争の指導者として活動し(指導者としての活動期間は3年に満たなかったと思う)、36年前に市井の一私人として死んだ唐牛の評伝として非常に面白かった。おそらく唐牛の評伝としては最初で最後のものとなると思われる。唐牛は1937年北海道函館市に庶子として生を受け、北大に入学。それまでは東大や京大から選出されるのが常だった全学連委員長に就任した。安保闘争の敗北後、「何者でもない死を遂げるまで」高度成長期の日本を駆け抜けた。真貴子さんも「イイオンナ」だったが、唐牛も負けずに「イイオトコ」だったのだろうと思う。

5月某日
NHKテレビのBSプレミアムで映画「ドクトルジバゴ」をやることが新聞のテレビ欄に告知されていた。「ドクトルジバゴ」は高校生のとき、同級生の小川邦夫君と観に行った記憶がある。なんだけれど、今回テレビで観ると高校生の私は筋を全然理解していなかったことが判明した。ジバゴ役を演じたオマー・シャリフだったこととジバゴの奥さん役がジュラディン・チャップリンだったことは覚えているが、それ以外はほとんど忘れているというか、最初から理解していなかったとしか思えない。日本で公開されたのが1966年6月とあるからその頃私は、北海道の田舎の高校3年生、外人の俳優の顔と名前を覚えられなかったとしても無理ないかもしれない。それまでアメリカ映画を中心に外国映画を見たことはあった。しかしその大半が西部劇か戦争映画で、筋も比較的単純でわかりやすかった。
今回、私なりに筋を要約すると次のようになる。幼くして両親を失ったジバゴは資産家の家に引き取られる。ジバゴは優秀な成績で医学校を卒業し医師となり資産家の娘、Tonyaと結婚する。ジバゴは医師としてだけでなく詩人としても注目されるようになる。ときはロシア革命前夜で、労働者の反政府デモやそれを弾圧するロシア騎兵隊の姿も描かれる。デモの中でワルシャワ労働歌やインターナショナルが歌われているが、それは今だからわかることで、田舎の高校生には「外国の歌」という感覚しかなかった。ジバゴも医師として従軍するが、そこでかつて見かけたLaraと再会する(再会にもドラマがあるのだが話が複雑になるので割愛)。Tonyaという愛する妻がありながらLaraとも恋におちてしまうのだ。当時の私はここら辺が全く理解できていなかったようだ。全編に主題曲「Laraのテーマ」が流れるのだが、当時の私は「妻以外の女性と恋愛する」ということが理解できなかったうえにLaraとTonyaをごっちゃにしていたと思う。復員してきたジバゴはTonyaと息子、それにTonyaの父親と再会するが、革命前に住んでいたTonyaの邸宅は革命政府に接収されてしまう。粗筋をゴチャゴチャ述べてもしょうがないのでまとめてしまうと、戦争と革命という激動の時代に翻弄されながら「愛」に生きた一人の知識人を描いた映画というわけですね。

5月某日
「瘡瘢旅行」(西村賢太 講談社 2009年8月)を読む。瘡瘢は「そうはん」と読む。意味は分からないのですが。この本も以前に買って一度読んだ本なのだが、何しろ図書館も休み、不用不急の外出は自粛ということなので、再読することにする。発行日からして10年ほど前に買った本で、内容は例によってほとんど覚えていない。表題作を含む3作が納められている。著者の分身たる貫太と秋恵の同棲ものである。女性にほとんど持てたことのない貫太は漸くにして秋恵という娘と所帯を持つに至る。定職もなく戦前の作家、藤澤清造の古書の収集に異常な情熱を持つ貫太、そんな貫太をレジのバイトで支える秋恵。何か気に喰わないことがあると殴る蹴るの暴力を働く貫太。立派なドメスティックバイオレンスである。本の帯に「こういう風にしか生きていけない」というコピーが印刷されているが、まさにその通りである。私はしかし西村賢太の小説には魅かれるものがある。けっこうユーモラスな描き方もしているのだが、その根底には哀しさがあると思う。「こういう風にしか生きていけない」という哀しさが。

5月某日
監事をしている一般社団法人の監事監査があるのでほぼ1か月ぶりで東京は虎ノ門へ。会計のことはもとより詳しくないので、もう一人の監事さんのやることに従う。監査報告書に署名捺印して終了。神田の社保研ティラーレに向かう。佐藤社長、吉高会長に社会保険研究所の2人を加えて地方議員向けの「地方から考える社会保障フォーラム」をどうするか協議。当初は5月開催を予定していたのだが新型コロナウイルスによって延期を余儀なくされたのだ。とりあえず開催を8月まで延期することにして、来週また会議をすることに。

5月某日
大谷源一さんにもらった「勝海舟」(松浦玲 筑摩書房 2010年)を読み始める。上製本で900ページを超える大著なので1章の「剣から蘭学へ」から8章の「大政奉還から彰義隊戦争まで」を読み終えたところでの感想を記す。海舟は1823(文政6)年、勝小吉の長男として生まれる。父親の勝小吉という人は面白い人で幕臣ながら生涯無役、剣の腕に優れ道場破りをして回り、不良旗本として恐れられたという(ウイキペディア参照)。勝海舟は剣でも頭角を現すが、世間で知られるようになったのは蘭学である。幕末、ペリー来航以前からアメリカだけでなくロシア、イギリス、フランスが日本への接近を図る。当時、日本と西欧世界の唯一の窓口であったオランダの学問、蘭学とオランダ語の需要が高まったのである。海舟は長崎海軍伝習所でオランダの海軍士官から航海術や数学や物理を学び、幕府の遣米使節に咸臨丸で随行する。帰朝後、幕府海軍の本格的な創設に着手する。この辺が海舟の前半生のハイライトの一つだろう。前半生のもう一つのハイライトは大政奉還から王政復古の大号令、江戸城無血開城を経て江戸幕府の実質的な幕引きを図ったことだろう。海舟は徳川慶喜が主導した大政奉還は公だが薩長が主導した王政復古は私である、と主張している。確かに王政復古は薩長と岩倉具視らの一部公家のたくらんだクーデターとも言えるのである。著者の松浦玲という人は京都大学を学生運動で放学処分され立命館大学大学院を修了している。昭和6(1931)年生まれだから今年89歳か、他の著作も読んでみたい。