モリちゃんの酒中日記 9月その3

9月某日
図書館で借りた「レヴィナス入門」(熊野純彦 ちくま新書 1999年5月)を読む。熊野純彦という人の本を読むのは「資本論の哲学」に続いて2冊目。レヴィナス入門を書いたころは東北大学の助教授だったが、その後東大に移って確か文学部長もやっている筈。本書の「あとがき」で「私はもとよりレヴィナス研究者ではなく、フランス現代哲学研究者ですらない」と書いている。「じゃぁ何が専門なの?」と突っ込みたくなるが、昨年「本居宣長」(作品社)も上梓しており、マルクスからカント、ヘーゲル、本居宣長から和辻哲郎、埴谷雄高までととにかくフィールドの広い学者先生なのだ。本書は「入門」と銘打たれてはいるが、レヴィナスを齧ったこともない私には難解だった。レヴィナスの人物紹介による入門ではなく思想そのものに分け入っていく入門故なのだろう。しかし私はレヴィナスの人物紹介によって熊野純彦の「レヴィナス入門」を読んだ痕跡を残したいと思う。エマニュエル・レヴィナスは1905年にリトアニアのカナウスにユダヤ人の家庭に生まれた。第一次世界大戦によって一家はウクライナのハリコフに逃れる。やがてロシア革命。両親がユダヤ人でありブルジョアであったことから「革命が意味しているものが両親を脅えさせた」という。レヴィナスは1928年、ドイツのフライブルグに遊学、フッサールとハイデガーに学び、とくにハイデガーに強い影響を受けたようである。30年パリに移住し最初の著作を刊行、翌年フランスに帰化、40年ナチスのパリ侵攻のさい捕虜となり45年のパリ解放まで捕虜収容所に捕らわれる。61年国家博士号を取得し、ポワティエ大学助教授になり67年パリ第10大学、73年パリ第4大学の哲学科教授となる。76年退官し1995年に死去。熊野教授はレヴィナスの思想を丁寧に解説してくれるのだが、私には正直歯が立たない。しかし分からないなりにレヴィナスの性愛論や存在論には魅かれるものがあった。レヴィナスには再挑戦したいと思う。

9月某日
「火影に咲く」(木内昇 集英社 2018年6月)を読む。幕末の京都を舞台にした6編の短編が収められている。共通するのは「火影」。「灯火に照らされてできる影」のことだ。冒頭作の「紅蘭」は詩人梁川星厳の妻、紅蘭を主人公とし、「薄ら日」は池田屋事件で新選組の襲撃により重傷を負い、長州屋敷の門前までは逃れるもののそこで果てる吉田稔麿の生き方を綴る。「呑龍」は沖田総司と会津藩士の青年、労咳を病む総司と同病の老婆との交流が描かれる。「春疾風」は祇園の芸子、君尾を巡る長州の高杉晋作、品川弥二郎、井上聞多らの物語、「徒花」は坂本龍馬の身辺警護の任に着いた岡本健三郎と止宿先の美貌の娘の恋物語である。最後の「光華」は薩摩の中村半次郎と煙管店の娘との結ばれぬ恋を描く。京都の人は京ことばを話し、江戸、会津、長州、土佐、薩摩から京に上った侍たちはそれぞれの奥に言葉を話す。それがこの短編集に魅力を添えている。

9月某日
社会保険出版社の高本哲史社長と戸田秀徳さんがHCM社に来社、勉強会の講師選定に協力を依頼される。その後、神田のベルギー料理店「シャン・ドゥ・ソレイユ」でフィスメックの小出建社長とセルフケアネットワークの高本真佐子代表と食事の約束があるというので合流することにする。料理とベルギービールを堪能。小出社長にご馳走になる。

9月某日
社会保険出版社の戸田さんと勉強会の講師の件で厚労省の横幕章人審議官を訪問。日程的にちょっと無理ということだった。折角なので雑談を少々。社会保険出版社に行って高本社長と現代社会保険から出版社に移った佐藤さんを交え相談。連休明けに私が知り合いに当たってみることにする。18時近くなったので高本社長に「飲みに行きましょう」と誘われる。出版社近くのイタリア料理店に行く。地ビールとワインを頂く。経営者もシェフも若い人がやっているらしいがしっかりした料理を出していた。高本社長にご馳走になり佐藤さんには新御茶ノ水駅まで送ってもらった。

9月某日
「孤独な夜のココア」(田辺聖子 新潮文庫 昭和58年10月)を図書館で借りて読む。文庫本の初版は昭和58年だが、一度改版されていて、この本の奥付は平成23年6月43刷となっている。解説は小説家の綿矢りさ。綿矢りさは1984(昭和59)年生まれなので、文庫本の改版時に解説者も変えたのだろう。綿矢は解説で「私は子どものころから田辺作品を読んでいて」と書いているが、田辺聖子は女流作家にも大変人気がある作家だ。フェミニストにも評価は高く、確か全集に上野千鶴子が執筆か対談をしているはず。田辺作品は女性の自立を声高に叫んだりはしないが、女性の登場人物の生き方がそれぞれオノレの足で立っているのである。田辺聖子の短編は随分と読んだ記憶があるのだが本書は未読。12編収められているが、いずれもテーマは恋愛だ。田辺の恋愛小説は必ずしもハッピーエンドでは終わらない。というか恋の成就が必ずしも幸福とは言えないことを示唆する作品もある。「愛の罐詰」という作品は、高校の図書館司書をしている遠田が国語教師のジャガイモこと越後先生に片思いする話である。遠田は学校事務の富永ミキに思いを告白するが、いつの間にかミキは越後先生に接近、二人は結婚する。何年か後、遠田は映画館で二人に再開する。先生は私に話しかけたそうであったがミキに前の席に「引き立てられていった」。遠田は「それをみるとどうも、あんまり幸福ではない、先生の結婚生活」を思ってしまう。「あの恋は、私の心の中では、愛の罐詰にされていた」のだ。
「ひなげしの家」は、「わたし」と叔母さん、叔母さんの連れ合いの叔父さんの物語である。二人は結婚していない。けれども深く愛し合っていることは「わたし」にもわかる。叔父さんは妻と子のいる家を出て叔母さんと暮らしているのである。「わたし」はしかし二人を見ていると「いい年をしていやらしいな」とも感じるのである。叔父さんにガンが発見され70日の入院で死ぬ。病室で叔母さんは「叔父さんにとりすがり、その頬をやさしく撫でて泣いていた」。叔父さんの妻と子供たちがかけつけたとき、叔母さんは「あの、あたしちょっと家へ帰ってきます。持ってくるものもありますし‥‥」と病室を出て行った。「いつまでたっても、叔母さんは帰らなかった。叔母さんはひなげしの家で、首を吊って死んでいた」。ラストがかっこいい。「遺書もなかった。叔母さんは、いさぎよかった。/ひなげしの家は、いまは人手に渡った」。叔父さんは売れない絵描きで叔母さんは小さなバーを経営していた。叔父さんの一族からすれば家族を放り出して水商売の人と一緒になってヒモ同然の暮らしを送っていた叔父さんは人生の落後者でしかない。しかし二人深く愛し合っていた。人生を測る尺度とは何かを、考えさせられる作品である。

モリちゃんの酒中日記 9月その2

9月某日
図書館で借りた「いやな感じ」(高見順 共和国 2019年6月)を読む。高見順は1907年生まれ1965年に58歳で没している。「いやな感じ」は雑誌「文学界」の1960年1月号から63年5月号まで連載された。今からおよそ60年前の作品ということになるが、全く古さを感じさせない。舞台は関東大震災後の東京、主人公はアナキストの青年、加柴四郎。四郎の様々な階層の人々との交流を通して軍国主義に傾斜していく戦前の日本の社会を描く、と通り一遍な紹介では、この魅力的な小説は語れない。様々な階層とはアナキスト仲間もいれば、仲間と通った淫売窟の女たち、下層社会にうごめくアウトローもいる。その人物造形がいずれも個性的なのだ。アナキズムとテロリズム、ニヒリズム、デカダン。さらに国家主義や大陸侵略、2.26事件までが小説の舞台となる。今年読んだ小説の中でも面白さでは抜群であった。

9月某日
図書館で借りた「まなざしの地獄-尽きなく生きることの社会学」(見田宗介 河出書房新社 2008年11月)を読む。図書館で永山則夫を検索したら、彼の著作以外にも彼を題材にした評論がいくつかヒットした。そのうちの一つである。2008年というと今から11年前の刊行だが初出はもっと前で雑誌「展望」の1973年5月号である。永山則夫と言っても今の人は知ることもないだろうが、今からほぼ50年前の1968年から翌年にかけて米軍宿舎から盗んだ拳銃でタクシー運転手など4人を殺害、1969年4月に逮捕された。私は同年9月に早大第2学生会館屋上で現住建造物放火、公務執行妨害、凶器準備集合、傷害その他の容疑で現行犯逮捕、10月には起訴のうえ池袋の東京拘置所に移送された。東京拘置所は現在、足立区の小菅に移され池袋の跡地には高層ビルのサンシャインシティが建っている。私は何か月か東京拘置所で永山と一緒だったことになる。と言っても池袋の東京拘置所でも確か1舎から5舎まで3階建ての建物が5つほどあり、永山則夫とは顔を合わせたことはない。拘置所は裁判が確定するまでの未決囚を収容する施設で、原則として未決囚同士の会話は禁じられていた。永山などの殺人犯やわれわれ学生は独居房に入れられ、私の隣の房には安田講堂で逮捕された学生がいて壁越しに話した記憶がある。
永山は1949年6月、北海道網走で生まれ、私は前年に同じ北海道の苫小牧に生を受けた。永山は小学生の時に青森市に転居、中学校卒業と同時に渋谷の西村フルーツパーラーに就職している。1965年である。私は64年4月に北海道室蘭市の高校に入学、67年3月に卒業、1年間の浪人を経て68年4月に早大に入学した。高校の同級生だった川崎君は現役で明治に入っていて京王線の明大前に下宿していた。川崎君と川崎君の友人と新宿で終電過ぎまで吞んで、タクシーを捕まえたら運転手から「タクシー運転手の強盗殺人事件が続いているので、若い人一人だったら絶対に乗せないね」と言われたことを記憶している。おそらく68年の暮れのことだろうと思う。私と永山の生は東京拘置所で、あるいは新宿で、もしかたしたら北海道で交錯しているのだ。
「まなざしの地獄」において永山則夫はN・Nと記述される。記号化することによって永山則夫の抱えた問題、永山が起こした事件、永山の環境、風景総体が永山個人に還元されてしまうことを避けたためと私は理解する。「〈上京〉はN・Nにとって、その存在を賭けた解放の投企であった」。何からの「解放」か? 見田によるとそれは「家郷」ということになる。しかもその家郷とは「共同体としての家郷の原像ではなく」「近代資本制の原理によって風化され解体させられた家郷」なのだ。家郷からの解放はまた家郷の「斥力」とも表現される。斥力とは私にとって初めてお目にかかる言葉だが、引力に対して「互いに遠ざけようとする力」のことらしい。なるほどN・Nと家郷の関係をあらわすのにふさわしい言葉ではある。N・Nら「家郷を後にする青少年」に対して旺盛な「引力」を働かせるのは都市、具体的には東京である。しかも都市の事業主が要求するのは抽象的な「青少年」ではなく具体的な「新鮮な労働力」である。「家郷からの解放」を望むN・Nら青少年と「新鮮な労働力」を期待する都市の事業主の間には明らかな落差が存在する。私はここで唐突にNHKの朝の連続ドラマを連想する。たとえば有村架純が主演した「ひよっこ」は茨城県の農村で生まれ育ったヒロイン、谷田部みね子が東京に出稼ぎに出ていた父の失踪をきっかけに集団就職で上京、仲間や雇い主に恵まれて東京にしっかりと根を下ろしていく話だ。みね子は茨城県の自作農の娘で、父が失踪してもなんとかやってこれた。しかしこれが貧農の娘だったらどうか?実家は借金を重ね、挙句の果てに娘は借金のかたにソープランドに売られたかもしれないのだ。まぁNHKだからそうなるわけはないのだが。東京にしっかりと根を下ろした無数のみね子の背後にはN・Nがいたことを忘れてはならない。
N・Nが罪を犯した50年前と現在はどう変わり、どう変わっていないのか?農村の解体は進み平均的な所得は上昇した。高校への進学率はほぼ100%となり、大学、専門学校への進学率も向上した。N・Nのように中卒で集団就職などということもなくなった。だが貧困層は確実に存在するし、経済的な格差は拡大しているという指摘もある。本書のいう「履歴書のいる職業」と「履歴書のいらない職業」の差別も存在する。「履歴書のいる職業」とは普通の仕事で「履歴書のいらない職業」とは売春、ヤクザなどの闇のお仕事である。何より京都アニメーションの事件や川崎市登戸駅での無差別殺人事件は記憶に新しい。そして児童虐待事件は確実に増加している。50年前より確実に状況は悪化していると言えるのではないか? 「家郷からの解放」は半面で「家郷の喪失」も意味している。ここで「新しい家郷の創造」を言うことは易しいのだが、それを可能にする条件とは何なんだろう。

9月某日
霞が関ビル35階の東海大学校友会館で「月見の会」。前日、安倍内閣の改造があり厚生労働大臣が交代したため、厚労省からの出席予定者が何人か来られなくなったが、それでも鳥居陽一さんが参加してくれた。今回から会費を1000円上げて9000円としたので何とか赤字は免れることができた。グッドバンカーの筑紫みずえ社長の紹介でSBI証券の加藤由紀子部長とキャピタル アセットマネジメントのフランクリン・クスマン部長が新しく参加、クスマンさんはジャカルタの高校を卒業後、1年間東京外大で日本語を学び、その後筑波大学で金融工学その他を学んだという。平成と同時に来日したというから滞日歴30年、ほぼ完璧な日本語を話し、メールでもやり取りしたが、文章もしっかりしていた。20時30分に会は予定通り終了、吉武民樹上智大学客員教授が「オレ何にも食べてない!」というので虎ノ門の「ハングリータイガー」へ。途中、ビルの谷間に満月を観ることができた。

モリちゃんの酒中日記 9月その1

9月某日
「日米地位協定―在日米軍と『同盟』の70年」(山本章子 中公新書 2019年5月)を読む。首都圏の我孫子という田舎に住み都心の千代田区、港区あたりをフラフラしているわが身にとっては日米安保条約などすでに遠い存在とはなっているし、ましてや日米地位協定となると、「そんな協定あったけ?」ということなのだが、本書が朝日新聞の書評で好意的に取り上げられているのを目にして我孫子市民図書館にリクエストした。本書を読んで一番感じたのは構成の巧みさ。副題に「在日米軍と『同盟』の70年」となっているように、終戦から戦後史をたどりながら安保条約と日米地位協定の在り様と問題点を提示している。
日本共産党が占領当初、占領軍を解放軍と規定したが、日本国民の多くは不安を抱きながらも米軍=占領軍に対して徐々に好意的な感情を抱くようになる。アメリカの物量に圧倒されて「ギブミーチョコレート」的な対米感情が支配的になってきたのではないか。日本国民の多くが日常的に米軍と顔を突き合わせていたわけではないしね。しかし本書によるとマッカーサーが上陸したその日に横須賀に上陸した米海兵隊員2人による36歳の母親と17歳の娘に対する強姦事件が起きている。占領軍による報道規制もあって占領下においてはこのような米兵の犯罪は隠蔽されたようだが、独立後は日本のマスコミも米軍による事件や事故を堂々と報道するようになる。
本書の「はじめに」では2004年の、訓練中の米軍ヘリが米海兵隊普天間基地に着陸しようとして隣接する沖縄国際大学に墜落した事故が紹介されている。米軍は直ちに道路も含めた事故現場一帯を封鎖、大学の教職員、事故を把握すべき自治体の責任者、現場検証や事故処理を担当する沖縄県警、外務省の担当者の誰もが1週間もの間、現場への立ち入りを禁止された。例外は米兵から注文を受けたピザ屋の配達員だけだった。訓練から事故対応までの米軍の行動はすべて日米地位協定にもとづいている。協定は、米軍が日本に駐留できるように①基地の使用②米軍の演習や行動範囲③経費負担④米軍関係者の身体の保護⑤税制・通関上の優遇措置⑥生活などの諸権利を保障するものとなっている。
本書は内容的にも面白く、新書としても水準を大きく超えたものになっていると思う。著者の山本章子は1979年、北海道生まれ。一橋大学に進学するが親の理解を得られず、学部から博士課程まで働きながら学生生活を送る。編集者として働いていたとき沖縄県公文書館に米政府資料が集積されていることを知り、そこに通い始める。年に2回は公文書館に通い続けたころ夫(野添文彬沖縄国際大学准教授)の沖縄赴任にともなって住まいも沖縄に移した。ふーん人間としても面白そうである。

9月某日
久しぶりに大谷源一さんと高齢者住宅財団の落合明美さんと食事することに。神田司町の上海台所をネットで予約する。ここは「2時間呑み放題食べ放題」コースのコストパフォーマンスが高いのが特徴。つい食べ過ぎ呑み過ぎになってしまうのが難点。それと大谷さんは香辛料アレルギーなので食べられないメニューが何点かあった。それでも割り勘!2時間を少しオーバーしたが満足のうちに終了。神田駅から帰る落合さん、大谷さんと別れ、私は千代田線の新御茶ノ水から我孫子へ帰る。

9月某日
佐藤雅美の「美女2万両強奪のからくり 縮尻鏡三郎」(文春文庫 2019年9月)の広告が新聞に出ていたので内幸町のプレスセンター1階にあるジュンク堂書店で早速購入する。読み始めた次の日の朝刊に佐藤雅美の訃報が掲載されていた。でも一段のベタ記事扱い。ファンの私としては少々不満である。それでウイキペディアを参考にしながら佐藤雅美の経歴をたどりたい。佐藤は1941(昭和16)年1月兵庫県生まれだから78歳で死んだことになる。早稲田大学法学部出身で企業に就職するも新人研修が馬鹿馬鹿しく3日で退職、1968(昭和43)年に「ヤングレディ」にフリーライターとして採用されるが、3カ月で退社。「週刊ポスト」「週刊サンケイ」の記者を経て小説家となる。処女作の「大君の通貨」は幕末の通貨戦争を描いた傑作。長い間鎖国を続けていた日本と欧米では金貨と銀貨の交換比率が異なっていた。日本は欧米よりも銀の価値が高かったことに着目した欧米の貿易商は、当時流通していたメキシコ銀貨で日本の小判を買い漁った。相当量の小判が国外に流出した筈である。歴史を丁寧に掘り返すという作法は、処女作以降の佐藤の作品にも受け継がれる。私は未読だが1984(昭和59)年に「恵比寿屋喜兵衛手控え」で直木賞を受賞している。シリーズものが得意で、物書同心居眠り紋蔵シリーズ、八州廻り桑山十兵衛シリーズ、医者崩れの啓順シリーズ、その続編ともいうべき町医北村宗哲シリーズ、半次捕り物控えシリーズそれに今読んでいる縮尻鏡三郎シリーズである。佐藤は静岡県伊東市に住んでいたとウイキペディアに載っていたが、私の想像では作家同士の付き合いも少なかったのではと思う。これだけ歴史考証がしっかりしたものを書くには資料調べに相当時間を掛けたはずだ。酒を呑む時間も惜しかったのでは。佐藤雅美先生の冥福を祈ります。

9月某日
「美女2万両強奪のからくり」は縮尻鏡三郎シリーズでシリーズ5作目。舞台は天保4年の江戸。この年は飢饉のため百文で1升1合買えた米が5、6合しか買えなくなった。こういうときに備えて幕府は寛政4年向柳原に町会所という民営の救恤機関を設けさせた。天保4年の米の価格や当時の救恤機関について調べ上げたうえで、佐藤は小説を執筆している。こういう時代小説作家を私は知らない。鏡三郎は捕縛したものを取り調べる仮牢兼調所「大番屋」の元締めを勤めている。ただ今回は鏡三郎の出番はそれほど多くはない。もっぱら足と頭を使って捜査と推理に活躍するのが江戸北町奉行所の同心、梶川三郎兵衛である。町会所には米だけでなく金も備蓄されている。町会所から2万両という大金が強奪されたのが事件の発端。今回も楽しませてもらいました。

9月某日
「ラーメンと愛国」(速水健朗 講談社現代新書 2011年11月)を読む。我孫子市民図書館の「衣食住」のコーナーにひっそりと埋もれていた。手にとってパラパラと内容を辿るとどうも歴史的に社会学的にラーメンを論じているらしい。早速借りて家に帰って読むとこれが実に面白い。まず「まえがき」から本書が書かれた目的を紹介しよう。著者の速水は「戦後の日本の社会の変化を捉えるに、ラーメンほどふさわしい材料はない」とし、さらに著者のラーメンへの興味はグローバリゼーションとナショナリズムの2つに集約されると述べる。たかがラーメンにグローバリゼーションとナショナリズムを持ってくる一種の強引さに魅かれるが、これは著者によると次のようなことである。幕末の開国後の日本に、つまりグローバリゼーションのとば口にあった明治時代に中国から伝わったラーメンは日本で独自の進化を遂げ国民食と呼ばれるようになった。これを著者は「かつての稲作技術、火縄銃、近代化以降は自動車や半導体、文化産業ではアニメやゲーム、和製ヒップホップやジャパレゲなんかもそうだ」とし「こうしたケースの中に、ラーメンも加えることができる」という。つまり外来の技術や文化を巧みに日本化してきた、この国の歴史の中にラーメンを位置づけているのである。速水健朗という著者の本を読むのは初めてだが、なかなかの力量である。

モリちゃんの酒中日記 8月その4

8月某日
大木毅という人の書いた「独ソ戦-絶滅戦争の惨禍」(岩波新書 2019年7月)を読む。これがなかなか面白かった。独ソ戦とは1941年6月から45年5月まで4年にわたって戦われたドイツとソ連との文字通りの死闘のことである。著者の大木は膨大な資料を読みこなしてその実情に迫る。巻末の「文献解題」に参照、引用した資料が紹介されているが、邦訳されているものだけでなく、英語、ドイツ語、ロシア語の文献にまで及んでいる。独ソ戦は戦いの当初こそドイツ軍がその機動力にものを言わせてソ連軍を圧倒するが、やがてソ連軍の物量と極めて戦略的な作戦そして「大祖国防衛戦争」というイデオロギーによる国民総動員によってドイツ軍を追い詰めていく。そこらへんの描写がたいへん巧みで読者を飽きさせない。
本書によると1937年から38年のスターリンの大粛清によりソ連軍の34301名の将校が逮捕、もしくは追放され、そのうち22705名は銃殺されるか行方不明になっている。このため一時期、ソ連軍は弱体化していたともみられるが、それを補ったひとつがソ連軍の「用兵思想」である。この思想を完成させたのがトゥハチェフスキー元帥で、彼は「現代の戦争は規模と激烈さにおいて第1次世界大戦を上回る消耗戦になると解釈し、それに勝利するためには、無停止の連続攻勢を行い、戦略的な広域レベルで突破が必要不可欠であると考えた」。そのためには空軍、戦車、機械化部隊、空挺部隊といった新しい時代の軍備が必要と説いたという。彼の思想を概念化・言語化したのが1936年の「赤軍野戦教令」で大木によるとまず、戦争目的を定め、国家のリソースを戦略化するのが「戦略」で、作戦術はその目的を達成すべく、戦線各方面に「作戦」を、相互に連関するように配するということになる。
なるほどねー。1939年の満蒙国境のノモンハン事件で日本陸軍がソ連軍にかなわなかったのもうなづけるものがある。
著者の大木毅(たけし)という人は巻末の著者紹介によると1969年生まれ。立教大学大学院後期課程単位取得退学(専門はドイツ現代史、国際政治史)。千葉大学ほかの非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師などを経て、現在著述業となっている。ウィキペディアで大木毅を検索すると赤城毅(つよし)が出てきて「日本の小説家、軍事史研究者、翻訳家、本名は大木毅」とあった。帝都探偵物語、ノルマルク戦史などの小説も書いているそうだ。文章に迫力が感じられるもんなぁ。

8月某日
上野駅の公園口でフリーライターの香川さんと待ち合わせて西洋美術館に「松方コレクション展」を観に行く。もともと西洋美術館の収蔵美術品は松方コレクションがもとになっている。ロダンの「考える人」や「地獄門」が名高い。松方という人は名門の家に生まれ若くして造船会社を興し、第1次世界大戦で巨万の富を得、それを元手にヨーロッパで多数の美術品を購入した。クロード・モネの「睡蓮」はじめ名画をたくさん鑑賞できたが、どうも蒐集にあまり一貫性が感じられず私など素人にはちょいとつらかった。見終わって御徒町まで歩き、「吉池食堂」で食事。

8月某日
「茗荷谷の猫」(木内昇 平凡社 2008年9月)を読む。木内昇は「きうち・のぼり」と読んで女性である。日経新聞に「万波を翔ける」という幕末を舞台にした小説を何年か前に連載していたが、しっかりとした時代考証とストーリーの展開が面白く愛読していた。「茗荷谷の猫」は9編の短編が収められているが、9つの短編が幕末から昭和にかけての江戸・東京を舞台にしていて、各短編が舞台=住居を軸に連関しているという凝った構成になっている。うーん、「凝った構成」という自覚がなく読み始めたものだから最初は「何が面白いのか?」と思ったが、読み進むうちに「これは!」と感動に代わっていく。木内昇は1969年生まれだから今年50歳、これからが楽しみな作家である。

8月某日
橋本治の遺作となった「黄金夜界」(中央公論新社 2019年7月)を読む。尾崎紅葉の「金色夜叉」の現代版で主人公名前の間寛一はそのままだが、ヒロインの宮は同音の美弥に改められている。さすがにヒロインが宮では古すぎる。両親が亡くなった寛一は、父親同士が親友だった美弥の家に引き取られる。美弥の父、鴫沢隆三は高輪で老舗のレストランを経営しているがバブルがはじけて以来客足は減ってきている。東大に進学した寛一と美弥は愛し合うようになり、鴫沢はレストランの後継者に寛一を据えようと思う。そこに登場するのがIT経営者の富山で、美弥の美貌に心を奪われた富山は美弥に求婚する。「金色夜叉」での富山の職業は高利貸しだが、現代版ではIT長者なのだ。美弥は富山の求婚に応じるがその時点で、寛一は愛と同時に居場所さえも失う。寛一は川口に本店のある居酒屋チェーン店に就職し、「東大中退」のイケメン店長として居酒屋チェーンの拡大に貢献する。桐野夏生の小説を「現代のプロレタリア文学」と評したのは政治思想家の白井聡だが、私は「黄金夜界」にも現代のプロレタリア文学を感じた。寛一を引き取った鴫沢家は高輪でレストランを経営するプチブルジョアジーである。そこに居場所を失った寛一は「失うべきものを持たない」プロレタリアートに転落する。一方の美弥はIT長者と結婚、新興ブルジョアジーの仲間入りを果たす。現代の富と貧困を描いて橋本の筆は冴えまくる。橋本は確か私と同じ昭和23年生まれ、今年5月に亡くなった文芸評論家の加藤典洋も同年。昨年亡くなった竹下隆夫さんも昭和23年生まれで70歳だった。

8月某日
医療介護福祉政策研究フォーラムの中村秀一理事長と単行本の打ち合わせ。終った後晩ごはんをご馳走してくれるというので、蕎麦を希望。近くの「砂場」に連れて行ってもらう。中村さんは夏休みに奥さんとオーストリアに行ったそうだ。人口は890万人ほどで日本の10分の1以下だが、かつてはヨーロッパの強国でナポレオン失脚後のヨーロッパの新秩序を議題に「ウィーン会議」が開かれたのは首都のウィーン。経済学のハイエク等のウィーン学派、精神分析ではフロイトなどが、音楽ではハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン等をウィーン楽派と呼ぶらしい。映画「サウンドオブミュージック」はナチスドイツに併合されたオーストリアからスイス経由でアメリカへ逃れる音楽家一家の話だった(多分?)。

8月某日
(社福)にんじんの会の石川はるえ理事長に荻窪でご馳走になることに。吉武民樹さんに「石川さんにご馳走になる」と言ったら「俺も行く」と。荻窪駅前の「源氏」というお店で待ち合わせ。カツオのタタキや刺身の盛り合わせを肴に日本酒を頂く。美味しい日本酒を何種類か頼んだのだが銘柄名を忘れてしまった。楽しく呑めればそれでいいのだが、折角だから銘柄名くらいメモしなさいよ。

8月某日
「資本主義と民主主義の終焉-平成の政治と経済を読み解く」(水野和夫・山口二郎 祥伝社 2019年5月)を読む。2人とも現在は法政大学法学部教授で水野は民主党政権下で内閣府の審議官を務めたし、山口は旧民主党のブレーンにして応援団。したがってアベノミクスには極めて批判的。安倍首相がアベノミクスの成果として失業率の低下と有効求人倍率の上昇を挙げるのに対して水野は、「単純計算ですが、各学年で200万人もいる団塊の人たちが引退して、120万人しかいない新卒者が就職するのですから、どう考えたって有効求人倍率は上がっていきます」とバッサリ。消費税についても水野は増税の先送りはナンセンスとしつつも「消費税で財政赤字の全部を埋めるというのは、実に安直」「消費税は若年層にも所得の少ない人にも税率は一律ですから、消費税を上げるなら、高額所得者への累進課税と同時に行わなければ、不公平感は募るでしょう」と言う。山口は平成という時代を総括して「理想が終わった時代」「戦後が終わった時代」「発展が終わった時代」の3つの側面を挙げる。平成のスタートした年はベルリンの壁が崩壊した年で、明るい希望を持たせたのだが、湾岸戦争やユーゴ紛争など地域紛争が続発、国内政治では政治改革や民主党政権が登場したものの結局は元の木阿弥、前よりも悪くなったと見る。「戦後が終わった」では野中広務らの戦争経験者の政界引退により、自民党の歴史修正主義に対する歯止めが利かなくなったとする。「発展が終わった」では経済の衰退に「呼応するかのように、自民党だけでなく、社会全体にみずからを慰めるようなナショナリズムが頭をもたげてきました」と述べる。2人の話はなるほどと思わざるを得ないではないか。

モリちゃんの酒中日記 8月その3

8月某日
図書館で借りた絲山秋子の「絲的ココロエ―『気の持ちよう』では治せない」(日本評論社 2019年3月)を読む。知らなかったけれど、絲山秋子って双極性障害(躁うつ病のことを最近はこう呼ぶらしい)だったんだ。自殺未遂の経験も5カ月間の入院生活を送ったことも初めて知った。30代前半にはじめの発病をしたというから双極性障害は20年に及ぶわけだ。私も30代後半から50代前半にかけて何度かうつ病に苦しめられた。「苦しめられた」と書くと一方的に被害者のようだが、この本を読んで「あぁ、家族や同僚、友人に迷惑をかけていたんだ」と思った。文中にリーマスや炭酸リチウムといった薬の名前が出てくるが、私も同じような名前のくすりを服薬した記憶がある。私が最後に発病したのが40代半ばだと思うが、確か湯島の心療内科の女医さんに診てもらった。処方された薬も全く効かず、私の奥さんがネットで赤坂クリニックを見つけ、そこを受診することにした。そこで処方された薬を2~3週間飲んだら「霧が晴れるように」気分が良くなったことを記憶している。それでも5年くらい赤坂クリニックに通ったのかもしれない。佐々木先生という東大の精神科の医者が主治医だったが、毎回、「お酒の飲み過ぎはダメですよ」と注意されたことを思い出す。後半は仕事の息抜きに受診していたかも。赤坂クリニックには自然と足が遠のいてしまったが、その後全く「うつ」の症状は現れない。ということを懐かしく思い出させてくれた「絲的ココロエ」であった。

8月某日
我孫子市民図書館にはお世話になりっ放し。何しろわが家から徒歩5分という立地条件!さらに冷暖房完備!涼みに図書館を利用するという手もありなのだ。さらに「リサイクル本」といって図書館は「不要」と判断した本は図書館の入り口付近の棚に置かれ、必要な人が持って行っていいことになっているのだ。先日、涼みがてら市民図書館に行ったら井上荒野の「切羽へ」(新潮社 2008年5月)がリサイクル本になっていたのでありがたく頂戴することに。帯に「直木賞受賞」と大きな活字で印刷され、さらに「「切羽」とはそれ以上先へは進めない場所。宿命の出会いに揺れる女と男を、緻密な筆に描ききった哀感あふれる恋愛小説」というコピーが。「切羽」は「きりは」と読むがネットで調べると「坑道の先端」の意味という。井上荒野の父親は小説家の井上光晴で彼は確か炭鉱夫の経験があるから、こんなところに父親の影響が出ているのかもしれない。「切羽」また「せっぱ」という読み方もできる。こちらもネットで調べると「日本刀の鍔(つば)の両面に添える薄い楕円形の金物のことで、これが詰まると刀が抜けなくなる」と解説、さらに「これが詰まると刀が抜けなくなる。窮地に追い詰められた時に切羽が詰まると、逃げることも刀を抜くことも出来なる」として「切羽詰まる」の意味を「為す術が無くなる意味となった」と説明している。ところで小説の「切羽」は南の離島の児童数9人の小学校の養護教員の「私」が主人公。長崎弁に似た方言を使っているので五島列島当たりが舞台か。画家の夫、小学校の同僚の「月江」、「月江」の不倫相手の「本土さん」(本土に住んでいるから島の人から本土さんと呼ばれている)、さらに新任の音楽教師などが織りなす濃厚で、それでいてどこか牧歌的(南方的?)な人間関係が読みどころである。

8月某日 
毎年、終戦記念日前後には70数年前の太平洋戦争を巡るドキュメントがテレビで放映される。今年はインパール作戦を描いたNHKBSテレビのドキュメントが良かった。90歳を超える当時の兵隊さんが口ごもりながら戦争の悲惨さを訴えていたのが印象的であった。現場で指揮した第31師団長の佐藤幸徳中将は、現状を正確に認識して、「作戦継続は困難」と判断してたびたび進言するが、第15軍の牟田口廉也中将に拒絶される。佐藤中将は日記に大本営、参謀本部、南方方面軍、第15軍を一括して「馬鹿の四乗」と記している。私はここに戦場のなかにあっても冷静さを失わない佐藤中将のユーモアを感じるのだけれど。それとBS日本テレビでは「ラストエンペラー」を放映していた。1987年公開だから今から30年以上前である。どうりで満映理事長の甘粕を演じた坂本龍一の若いこと。この映画は清朝最後の皇帝にして満州国の最初で最後の皇帝となった愛新覚羅溥儀の誕生から文化大革命さなかの死までが描かれる。溥儀は日本の敗戦とともに中国共産党軍に身柄を拘束され思想改造を命じられる。溥儀と刑務所長の友情も後半の主要なテーマになっていて、文革のデモの渦中に糾弾される刑務所長に駆け寄り「この人はいい人なんです!」と叫ぶ溥儀が描かれる。「お前は誰だ!」とデモ隊のリーダーに問われ、「ガードナー(庭師)」と答える溥儀がいい。

8月某日
半藤一利の「『昭和天皇実録』にみる開戦と終戦」(岩波ブックレット 2015年8月)を読む。半藤は文藝春秋や週刊文春の編集長を務め、文芸春秋社の専務で退社、「歴史探偵」を名乗り日本の近現代史に関する著作が多い。歴史的事実に立脚しつつ文献のみでは分からない登場人物の心理を読み取るのが巧みである、と私は思っている。純粋な歴史学とは距離をおきつつ歴史ドキュメントを志向していると言ってよいのではないか。ただ東大の加藤陽子との共著もあり、半藤の学識や直感には加藤教授も一目置いているのである。本書は「昭和天皇実録」から開戦時と終戦時の昭和天皇とその周辺の言動を明らかにしつつ、開戦と終戦はどのような過程を経て決断されたかをたどったものである。戦前の天皇は絶対的な権力を握っていたように思われるが実態は違っていた。昭和天皇は戦後になって「国務各大臣の責任の範囲内には、天皇はその意思によって勝手に容喙し干渉し、これを掣肘することは許されない」と語っている。だから御前会議においても天皇は原則として発言しない。ポツダム宣言の受諾を決めた御前会議は例外であった。「実録」では天皇は「防備並びに兵器の不足の現状に鑑みれば、機械力を誇る米英軍に対する勝利の見込みはないことを挙げられる。ついで、股肱の軍人から武器を取り上げ、臣下を戦争責任者として引き渡すことは忍びなきも、大局上三国干渉時の明治天皇の御決断の例に倣い、人民を破局より救い、世界人類の幸福のために外務大臣案にてポツダム宣言を受諾することを決心した旨を仰せになる」と記されている。天皇以外の御前会議のメンバーには終戦の決断は出来なかったのである。

8月某日
夏休みを1週間取ったので久しぶりに西新橋のHCM社に出社。午後、大谷源一さんが来社。今日10時に全国社会福祉協議会の古都賢一副会長を一緒に訪問することになっていたのをすっかり忘れていました。「月見の会」の案内を全然、出していないので近所を一緒に回ることにする。先ずHCM社から徒歩数分の長寿社会開発センターへ。理事長の高井康行さんが打合せ中だったので大谷さんと旧知の薬師寺部長に案内の紙を渡す。次いで御成門のシルバーサービス振興会に久留善武さん、住宅保証機構に小川冨由さんを訪ねるが、いずれも外出中。芝公園の基金連合会の足利聖治さんにメールすると「どうぞお出で下さい」と返信があったので大谷さんと伺う。30分ほど話しをしていたら5時近くなったので帰ることにする。浜松町からJRで神田へ。「鳥千」に寄る。

モリちゃんの酒中日記 8月その2

8月某日
厚労省社会援護局の伊藤彰浩課長補佐が亡くなった。伊藤さんが阿曽沼真司次官の書記をやっている時からの付き合い。いつもニコニコとして人間的な温かさを感じさせる人だった。がんを患って入退院を繰り返していたようだ。大谷源一さんから連絡があり、蓮根の葬祭場で行われた通夜に出席する。自分より年齢の若い人の死は辛い。蓮根からバスで赤羽へ。赤羽で大谷さんと呑む。携帯で久しぶりに阿曽沼さんと話す。我孫子へ帰って「愛花」に寄ると常連さんが何人かいた。

8月某日
「新版 障害者の経済学」(中島隆信 東洋経済新報社 2018年4月)を読む。前に旧版の「障害者の経済学」を読んで、私の障害者に対する考え方を修正させられた思いがあるので「社保研ティラーレ」の佐藤社長にお願いして買ってもらった。なんで佐藤社長かというと、社保研ティラーレの主催する地方議員向けの「地方から考える社会保障フォーラム」の次回の講師に中島さんを予定しているからだ。旧版は2006年の出版だから10年以上も前である。中島さんは「はしがき」で「『障害者総合支援法』や『障害者差別解消法』など法整備が進み」「10年間の新たな変化を踏まえ、今回の『新版 障害者の経済学』が誕生した」としている。今回もたいへん多くのことに「なるほど」と思ったわけだが、その一つが「医学モデル」「社会モデル」の考え方。日本は視力、聴力、知力、運動能力などが一定の基準を満たさなければ障害者として認定される。その判断をするのは医師であることから、こうした障害の定義づけを「医学モデル」という。一方、車椅子利用者にとって日本の社会は不自由極まりないが、今後、社会全体のバリアフリー化が徹底されれば、障害者でなくなる日が来るかもしれない。こうした障害の原因が機能不全ではなく、社会にあるという考え方を傷害の「社会モデル」という。「社会モデル」の考え方に立脚すれば、障害者を固定的に捉えるのではなく、障害者にとっても健常者にとっても暮らしやすい社会づくりを目指すことになると思う。

8月某日
図書館で借りた「江藤淳は甦る」(平山周吉 新潮社 2019年4月)を読む。四六判で本文が760ページを超える大部な本だが江藤淳という複雑な個性を証言と資料によって炙り出したもので、夏休みの4日を掛けて読み通した。それほど面白かったということである。内容を要約するのは私の手に余る。そこで本書を江藤の住まいという観点から見てみる。江藤の自筆年表によると昭和8(1933)年12月25日、東京都豊多摩郡大久保町字百人町309番地に生る。江頭隆の長男、淳夫と命名さる。父は海軍中将江頭安太郎の長男、三井銀行本店営業部勤務。母廣子は海軍少将宮路民三郎の次女となっている。この自筆年表の生年は事実と異なり江藤は昭和7年生まれである。結核により高校を休学し学年が遅れたことを隠したかったようだ。それはさておき大久保の百人町は戦前の屋敷町であった。海軍中将の祖父が入手したものである。祖父は大正2年に49歳で亡くなっている。佐賀中学、海軍兵学校、海軍大学校と首席を続けた秀才だった。祖父の死亡記事に「記録破りの昇級」とあるように49歳で中将というのは異例だったのだろう。戦前は役人は厚遇され民間に年金制度が導入される以前から退職者には恩給が支給されていた。なかでも軍人は軍人恩給によって遺族の生活が保障されていた。江藤の祖父は中将まで昇進しているから軍人恩給もそれなりに支給されていたと思われ、三井銀行勤務の父の給与と合わせれば十分に百人町の屋敷は維持できたと思われる。
 百人町の屋敷で最愛の母を27歳で亡くしている。父は後添いを貰うのだが、江藤は義母千江子の提唱で昭和16年9月、義祖父の鎌倉の隠居所に転地させられる。昭和19年に父は鎌倉極楽寺に別宅を構え、百人町の屋敷はそのままに一家は鎌倉に転居する。百人町の家は昭和20年5月25日の山ノ手大空襲で焼失する。昭和23年春、江藤は北区十条の三井銀行の社宅に転居、学校も湘南中学から都立一中(日比谷高校)に転校する。祖母も亡くなり軍人恩給も停止され、社宅に住まわざるを得なかったのであろう。十条には昭和30年に父親が練馬区関町に新居を建築するまで住んでいたから、日比谷高校、慶應大学も十条から通ったことになる。江藤は十条の7年間を「穢土」と感じたとエッセーに記しているようだが、百人町の屋敷町や鎌倉で育った江藤はそう感じたかもしれない。私からすれば東京の下町なのだが。江藤は昭和32年に大学1年生のときの同級生、慶子夫人と結婚し吉祥寺駅南口の鉄筋アパートで新婚生活を送る。その後下目黒や麻布笄町(今の西麻布)の邸宅へ転居するが、屋敷の主が外国にいるので「留守番」役だった。昭和39年、市ヶ谷の分譲マンションを購入しここには1982年に鎌倉西御門に新居を建てるまで住むことになる。新宿に「ジャックと豆の木」というクラブがあったが、ここのマスターの三輪さんが慶應文学部出身で「江藤先生の市ヶ谷の家に行ったことがある」と話していたっけ。
「江藤淳は甦る」は全体で45章で構成されているがこのうち2章は吉本隆明に費やされている。第23章60年安保の「市民」江藤淳と「大衆」吉本隆明と第38章「儒教的老荘」吉本隆明vs.「老荘的儒教」江藤淳である。江藤は体制派、保守派のイメージが強いし事実、佐藤首相や福田首相に信頼されていたらしいが、吉本とは互いに認め合う関係だった。吉本は江藤への追悼文で江藤が雑談のなかで「僕が死んだら線香の一本も上げてください」と語ったエピソードをあげ「この文章が一本の線香ほどに、江藤淳の自死を悼むことになっていたらこれ幸いに過ぎることはない」と結んでいる。飾らない吉本らしいいい文章である。住居で言えば、十条以外は鎌倉、市ヶ谷、吉祥寺と山ノ手派だった江藤に対して吉本は佃に生まれ御徒町や駒込と終生下町派であった。この対比も面白い。

8月某日
青海社の工藤社長と大阪日帰り出張。松戸リハビリテーション病院に入院している工藤さんとは、私が我孫子から上野東京ラインのグリーン車に乗車、同じ車両に松戸駅で工藤さんが乗車することでドッキング。病院の医師もOT、PTも大阪行きに反対だったと工藤さん。当たり前である。大阪出張は厚労省委託の「がん総合相談に関わる者に対する研修事業」の「手引き」作成の会議に参加するため。新大阪駅には工藤さんの息子さんで理学療法士の啓太君が迎えに来てくれていた。啓太君は普段は熱海で活動しているが今日はお父さんの付き添いということだ。予定の3時間で会議を終え、新大阪の駅構内の居酒屋で3人で軽く一杯。熱海へ帰る啓太君と別れて我々は「のぞみ」で東京へ。品川駅で降りて行きと同じように上野東京ラインのグリーン車に乗車、ワンカップ大関を呑む。松戸駅で工藤社長は下車、私は我孫子へ。「愛花」へも寄らずタクシーで自宅へ。ウイスキーを呑んで爆睡。

モリちゃんの酒中日記 8月その1

8月某日
神田の「鳥千」で大谷源一さんと神山弓子さんと呑む。金曜日なのでほぼ満席。神山さんから神山さんの故郷、石巻の銘酒「勝山」を頂く。

8月某日
「執念深い貧乏性」(栗原康 文藝春秋 2019年4月)を読む。栗原の本を読むのは「村に火をつけ、白痴になれ-伊藤野枝伝」「死してなお踊れ-一遍上人伝」「アナキズム-一丸となってバラバラに生きろ」に続いて4冊目。今まで読んだ3冊はいずれも書下ろしだが今回のは「文學界」(2017年5月号~2018年4月号)に連載されたものをまとめたもの。栗原はアナーキストを自ら認めていることもあって書いていることは、世間一般の常識からするとかなり過激。だけどそこがいいと言う読者(私もその一人)もかなりいるのでは。今回の参院選で令和新選組が2議席獲得したこととも似通っているように感じる。栗原は高校生の頃、大杉栄の著作を読みアナキズムに魅かれる。早稲田の政経学部から大学院の博士課程に進み、まじめな研究者になろうと思ったが、研究室の権威的な体質に馴染めず現在の肩書は山形県にある東北芸術工科大学の非常勤講師。非常勤講師というのはかなり悲惨な待遇で、常勤講師になると年収800万円くらいになるらしいのだが非常勤講師だと年収300万円がいいところらしい。で大学院では栗原も日本学生支援機構から奨学金を受けるのだが、それが635万円。月5000円の返済で105年かかるという。このように連載のテーマは多岐にわたるのだが、栗原の読書量は半端ではない。平岡正明の著作を全部読もうと思っているそうだが、平岡正明は50年前、私が大学生だったころ一部の若い人たちに熱狂的に支持された思想家というか活動家だった。もう死んだと思うけれど、一時は竹中労、太田竜と3人で「ゲバリスト」「世界革命浪人」を自称していた。栗原は1979年生まれ。私の息子たちと同じ世代だが、何か惹かれるものがある。

8月某日
愛知県内で開催されている「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止された。「表現の不自由展」には慰安婦を表現した少女像などが展示され、それに対する抗議電話が殺到したためと言われる。朝日新聞によると、企画展の会場には少女像や憲法9条をテーマにした俳句、天皇に関する作品など、各地の美術館から撤去されるなどした20数点を展示していた。まさに「表現の不自由」がこの日本で大手を振っていることを象徴している事件と思う。美術館から撤去されるという作品はどのような作品なのか、撤去という美術館の判断は正しかったのか、市民が企画展を観ることによって判断すればいいだけの話ではないか。企画展を中止した実行委員会の判断は苦渋の選択だと思うが、それにしてもこの国の「言論・表現の自由」は危機に瀕している。

8月某日
「柄谷行人 中上健次全対話」(講談社文芸文庫 2011年4月)を読む。中上健次は私が30代から40代によく読んだ作家だ。「19歳の地図」とか「枯木灘」「蛇淫」などだ。都会の根なし草的な雰囲気と和歌山新宮の路地の土着的な雰囲気を併せ持つ魅力的な作家だった。冬樹社の編集長だった竹下隆夫さんと知り合って、竹下さんが中上健次と親しかったことを聞いたころはあまり中上の小説を読まなくなっていたかも知れない。中上は1946年、和歌山県生まれ。新宮高校卒業後、大学に行かずフーテン生活を送りながら小説修業をする。「路地の消滅と滅亡」という最後の対談では中上がと柄谷がこの頃を振り返っている。「柄谷 早稲田の学生運動に、偽学生みたいに紛れ込んだ時期があるでしょう。中上 それは10.8の羽田に僕が行く前か、羽田闘争のときは何年だっけ?」という会話が交わされ、当時、中上が早稲田の法学部の地下に会った社学同の拠点に出入りし、のちに共産同戦旗派の指導者になった荒袋介とも交流が会ったことが明らかにされている。柄谷は1941年、兵庫県生まれ。60年安保のときは東大で安保闘争を経験、経済学部を卒業後、東大大学院英文学修士課程修了。2人の出会いは1968年、遠藤周作が編集長をつとめる「三田文学」編集室、それ以来、2人の付き合いは1992年の中上の死去まで続く。この対談集を読んでいまさらのように驚くのは中上の読書量。それも小説だけではなくデリダなどの現代思想にまで及んでいる。こういう小説家は今はいない。柄谷は今年78歳、評論活動は健在で私も今年、柳田国男論や憲法論を新書で読んだ記憶がある。

モリちゃんの酒中日記 7月その3

7月某日
伊藤允博さんと神田の「跳人」で17時30分に待ち合わせ。伊藤さんとの出会いは私が「日本プレハブ新聞」という住宅業界の業界紙の記者をしていた頃だから、35年以上前になる。伊藤さんは住宅展示場を運営していた「ナショナル開発」という会社にいて、プレハブ新聞に広告を出してくれていた。伊藤さんと久しぶりに「呑もう」となったのは私が「バブル経済事件の深層」(岩波新書)を読んで、そこに高橋治則のことが書かれていたからだ。高橋治則と言っても現在は知る人も少ないだろうが、高橋はバブル期に日本長期信用銀行から金を引き出しオーストラリアや南太平洋の開発に乗り出した。結局、長銀から見放されて高橋は破綻するのだが、伊藤さんはナショナル開発の後、高橋の事業を手伝っていたことがある。確かオーストラリアにあるボンド大学の日本の事務局長とか、インドネシア旅行社という会社にも関係していたと思う。こう書くと伊藤さんはバブル紳士のいかがわしい人物と思われがちかもしれないが、私の知る伊藤さんは物腰の柔らかいジェントルマンである。伊藤さんによると、学生時代に日本航空でアルバイトしたときに日本航空の社員だった高橋と知り合ったらしい。

7月某日
乃南アサの「女刑事 音道貴子」シリーズにはまっている。最初に読んだのが「花散る頃の殺人」(新潮文庫 平成21年2月)、次いで「風の墓碑銘(上下)」(同 平成21年1月、2月)。この3冊は我孫子市民図書館で借りたが、「嗤う闇」(同 平成18年11月)は図書館に行く暇がなかったので上野駅構内にある書店で購入した。乃南アサは何冊か読んで面白かったのだが、続けて読むことはなかった。女刑事の音道貴子を主人公にしたこのシリーズは男社会の警察で至極真面目に事件に取り組む主人公の姿勢に好感が持てるし、背が高くオートバイを乗り回す活動的な一面とバツイチ、短い結婚生活を経験しているという設定も小説に陰影を与えていると思う。音道刑事の脇を固める警察官もなかなかに多士済々。停年も近いと思われる老刑事、滝沢や沖縄出身で京大農学部出身のノンキャリア、玉城警部補の性格設定も興味深い。音道と付き合っている椅子職人の昂一との将来はどうなるか?要するに登場人物が魅了的なんだろうな。女刑事シリーズの第一作目で直木賞受賞作ともなった「凍える牙」を早く読まねば。

7月某日
「ニワトリは一度だけ飛べる」(重松清 朝日文庫 2019年3月)を読む。文庫本の扉裏に「本書は「週刊朝日」2002年9月13日号から2003年3月7日号に連載された「ニワトリは一度だけ飛べる」を加筆修正したものです」と断り書きが記されている。重松清の小説ってたとえて言うとNHKのテレビドラマの原作が似合う。残虐シーンや愛欲シーンもないし、まぁホームドラマが基本だしね。主人公の酒井裕介は冷凍食品会社のサラリーマン。家族は妻と息子2人。妻の実家の母が倒れたのを期に実家を2世帯住宅に建て替えて同居することを迫られている。会社では営業2課から「イノベーション室」(通称イノ部屋)への異動を命じられる。「イノ部屋」はリストラ要員が集められる部署で裕介の同期で出世頭の羽村もなぜか異動されてくる。イノ部屋の室長、江崎は冴えない五十男で会社改革に乗り込んできた鎌田に頭が上がらない。実はこの江崎、かつては学生運動のリーダーで会社でも労働組合活動に積極的に取り組んできたのだが、長男が腎臓病を患ったことから一切の運動から身を引く。関西からイノ部屋に送り込まれた中川の内部告発を契機に、江崎はチェ・ゲバラの語録を暗唱するような闘士に変身、裕介や羽村、中川と協力して鎌田一派の追い落としに成功する。うーん、重松のこの小説は現代のお伽噺だね。でも世間はクソ暑く参議院選挙でも安倍自民党が勝利するとき、現代のお伽噺も悪くない。山本太郎の令和新選組のようなものである。

7月某日
フィスメックの小出社長から電話があり、山梨県の大月に住んでいるフリーの編集者、阿部孝嗣さんが出てくるので一緒に呑みましょうと言う。その前に虎ノ門フォーラムの中村秀一理事長から「ちょっと事務所に寄ってくれますか?」という電話。中村さんの厚生労働省時代を振り返ったオーラルヒストリーを単行本にしたいという。中村さんの本は以前に2冊ほど手掛けたことがあるのでもちろん快諾。編集を阿部孝嗣さんにお願いすることにする。17時にフィスメックで阿部さんと会うことにしたので、そこに印刷会社の金子さんも呼んで見積りも依頼する。小出さん、阿部さん、私の3人でフィスメックを出て、神田駅北口近くの「ふくの鳥」へ向かう。ここは私には初めての店だが美味しい日本酒を揃えている店だそうだ。しばらくして社会保険出版社の高本社長も合流。この店の基本は「焼き鳥屋」だが刺身も美味しかった。小出社長にすっかりご馳走になる。

モリちゃんの酒中日記 7月その2

7月某日
図書館で借りた「暴君 新左翼・松崎明に支配されたJR秘史」(牧久 小学館 2019年4月)を読む。松崎明は国鉄の動力車労働組合(動労)の委員長を長く務め、国鉄の民営化前は反マル生闘争や反合理化闘争で当局との非妥協的な闘いを主導し、民営化後は東鉄労、JR東日本労組の委員長として一転して労使協調的な路線への転換を行った。そして労働運動の指導者としての顔ともう一つ、新左翼の革共同革マル派の副議長という革命組織の指導者としての顔も持っていて私たちの世代では有名人であった。新左翼は共産同(ブンド)にしても革共同中核派、社青同解放派にしろそれぞれ労働運動に拠点は持っていたが、動労のような基幹産業の労組の委員長ポストを長く独占するというのはほとんど例がない。動労から別れた千葉動労は中核派が執行部を握っていたけれど。松崎はそれだけ労働運動の指導者として傑出した指導力を持っていたということになる。
本書によると松崎は国鉄が民営化して以降、当局と労使協調的な路線を歩むと同時に組織の私物化が目立ってくるという。ハワイや沖縄に組織の金で別荘を購入したり、動労の組合員ではない息子を関連会社の社長に据えたりしたりしたというのだ。松崎は高卒(川越工業高)のたたき上げの労働者である。それがインテリ集団の革マル派の副議長になり、労働運動ではJR東日本労組の委員長として旧国鉄だけではなく、日本の労働運動に大きな影響力を持った。それなのに、いやそうであるが故にかもしれない晩年は腐敗堕落していく。どうしてなのか、権力の座に長くいるということはそういうことなのだろうか。権力の座には長くいないことが一番である。創業者で後継者がいない場合はどうか?中小企業ではよくあるが、民間会社の場合は経営を誤ると倒産する。労働組合や革命組織にはそうしたチェックがなかなか働かない。働いても緩慢だよね。だからこそ組織の指導者は「批判の声を聴く」耳が必要ということなのだ。

7月某日
「バブル経済事件の深層」(奥山俊宏、村山治 岩波新書 2019年4月)を読む。平成元(1989)年暮れに日経平均は3万8915円を付け株価バブルは最高潮に達したが、それはバブル崩壊の始まりでもあった。本書はバブル経済事件のうちから「尾上縫と日本興業銀行」「高橋治則vs.特捜検察、日本長期信用銀行」「大和銀行ニューヨーク支店事件」「大蔵省と日本債権信用銀行の合作に検察の矛先」という4つの事件を取り上げた4つの章と序章、終章「護送船団を支えた2つの権力の蜜月と衝突」で構成されている。今から30年以上も前の事件であるが、あれから30年も経ったのかという想いがする。4つの事件の舞台となった日本興業銀行、日本長期信用銀行、日本債権信用銀行、大和銀行はともに今は存在しない。興銀、長銀、日債銀は割引債を発行して資金を調達し、企業に長期貸付を行ってきた。高度経済成長期で資金不足の時代、加えて企業が直接、金融市場から資金調達ができない間接金融が主体の時代には日本経済にとっても十分な存在意義があった。しかし日本経済の成長の結果もあって資金不足は解消し、企業も直接市場から資金調達できるようになり、これらの銀行も新たな顧客層を開拓することが迫られた。新たな顧客が尾上縫であり高橋治則であったわけだ。高橋治則は投資の一環でオーストラリアのボンド大学を手中に収めたが、私の友人の1人がそのボンド大学の東京事務所長を務めていたことがある。早速メールして今度、「高橋治則さんを肴に一杯やりましょう」ということになった。

7月某日
医系技官だった高原亮治さんと私は高原さんが現役のころからたまに酒を呑む関係だった。高原さんが健康局長で厚労省を退官した同じ日に社会保険庁長官退任の辞令を交付されたのが堤修三さん。岡山大学医学部全共闘の高原、東大全共闘の堤、早大全共闘の森田と「全共闘崩れ」が3人を結び付けた共通点だったと思う。高原さんは上智大学教授を定年で辞めた後、高知の医療法人へ医師として赴任、間もなく急死したのが2013年の7月。「偲ぶ会」もやらないままだったが、遺骨が上智大学傍らの聖イグナチオ教会に安置されているということで、このところ毎年、堤さんと木村陽子さんとお参りに行っている。木村陽子さんは奈良女から阪大の大学院へ進み奈良女の教授を務めた後、総務省系の法人の理事長をやっている。私はたぶん高原さんの墓参りで会ったのが初めてと思うが、気さくなおばちゃんである。この日は4月から上智大学人間科学部の特任教授に就任した吉武民樹さんも参加。お参りした後、4人で上智大学の職員食堂へ。男3人はビールとワインを呑んだが、木村さんはこの後上野で勉強会があるというのでジュースを飲んでいた。上野へ行く木村さんを四ツ谷駅で見送った後、吉武さんお勧めの「隠れ岩松」という店へ。昼はうどんを提供する店らしいが夜は長崎料理の店になるという。確かに美味しかったし値段もリーズナブルだった。

7月某日
本郷さんと水田さんと呑むのは確か今年3回目。本郷、水田、私の3人の関係を説明しよう。本郷さんは石油連盟というところで角田さんと同僚だった。角田さんは前橋高校で東京都立大学出身、前橋高校では私の早大政経学部の1年先輩、鈴木基司さんと同じ学年だった。10年ほど前から角田さんや同じ前橋高校出身で東大の中核派だった人とかと呑むようになった。水田さんは私より10年ほど若いようだが、北大の叛旗派だったらしい。安い店がいいとのことで町屋の「ときわ」で16時に待ち合わせ。16時少し過ぎに「ときわ」に着くと2人はすでに呑み始めていた。水田さんは私より10年若いだけあってネットを利用していろいろ情報をやりとりしているらしい。私は「へー、なるほどね」と肯くばかりである。3人ともつまみをあまり頼まなかったので3時間近く呑んだが1人2000円だった。

7月某日
「現代に生きるファシズム」(佐藤優 片山杜秀 小学館新書 2019年4月)を読む。佐藤は1960年生まれ、片山は1963年生まれだから50代後半か。2人のファシズムを巡る対談である。この対談のキーワード、そして2人のファシズム理解のキーワードの1つが「持たざる国」。第1次世界大戦で敗北したドイツ、辛うじて戦勝国となった日本、イタリアも遅れてきた帝国主義国家であり、先進的な帝国主義国家の英米仏に比べれば「持たざる国」であった。ここからは私のファシズム理解になるのだが、遅れてきた帝国主義国家「持たざる国」であった日本が、英米に拮抗していくためには国内的にはファシズムによる統制的な国家体制が必要であった。だが王制や帝政を否定したイタリア、ドイツと違って日本は天皇制とファシズムが両立したというか相互に補完し合った。1945年の8月に最終的には御前会議で日本の敗戦が決定したということは、天皇自らがファシズムとの絶縁を宣言したことにならないだろうか。終戦の詔からはそこまでは読めないけれど。

モリちゃんの酒中日記 7月その1

7月某日
「日高見」という石巻の地酒がある。2011年の東日本大震災の後、取材に入った石巻で駅前の物産店で買ったのがこの酒との付き合いの始まり。田酒や十四代のように名前が売れているわけではないが、それでも都内の居酒屋で置いているところはある。「日高見」という名前はなぜ日高見なのか、考えたこともなかったが今回、「天孫降臨とは何であったのか」(田中英道 勉誠出版 2018年4月)を読んで日高見とは何かが分かった。日高見とはヤマト政権が成立する以前の関東・東北を広く束ねた国家、日高見国のことであった。著者によると、日本神話の天孫降臨は、日高見国の中心のあった鹿島(鹿島神宮のある茨城県の鹿島市である)から鹿児島へと向かう一大軍事船団の記憶が神話として残されたものである。この説の真偽はともかく、神話から日本歴史の源流を辿るという著者の発想は大変、私には新鮮だった。ギリシアの叙事詩「オデッセイア」に描かれたトロイの木馬の実在を信じて、ついにその遺跡を発掘したシュリーマンのことを思い出した。

7月某日
「早大闘争50周年を記念する会」で事務局をやってくれたのが出版社、ウェイツの中井健人社長。そのとき中井社長から購入したのが「東大闘争-50年目のメモランダム」(和田英二 ウェイツ 2018年11月)だ。著者の和田が法学部の3年生だった1968年6月、医学部学生の不当処分をきっかけとして東大闘争は始まった。和田は当時はノンポリ学生だったが大学当局と全共闘の対立がエスカレートしていく中で、法学部闘争委員会の一員として成長していく。翌1969年の1月18日、東大に機動隊が導入され安田講堂に立て籠った学生たちは翌日の19日までに逮捕されほとんどが起訴された。和田が調べたところでは逮捕者377人、起訴されたのは295人であった。起訴されたのは東大65人、同志社15人、法政14人、明治13人、早稲田12人などである。 完全黙秘を貫いて氏名不詳のまま起訴された者も相当数いたことから和田は、起訴された東大生は80人は超えると推定している。法学部は20人。東大法学部はもともと国家の中枢を担う官僚の養成機関として開学した。したがって学生の多くは良くてリベラル、極左が育つ土壌があるとも思えない。60年安保のときもブンドの書記長だった島成郎が医学部、6.15で殺された樺美智子が文学部、駒場の委員長だった西部邁は経済学部である。東大闘争でもストライキに突入したのが最も遅かったのが法学部で、ストライキ解除が最も早かったのが法学部と記憶している。しかし安田講堂に籠城したのは20人で、多分、工学部や医学部より多かったかもしれない。東大闘争の肝のひとつが「自己否定」。エリートを約束された法学部生だからこそ「自己否定」を貫いたのだろうか。

7月某日
「女たちは二度遊ぶ」(吉田修一 角川文庫)を読む。吉田修一は長編で力を発揮するが短編もいい。これは時にはバイト学生だったり時には非常勤だったり、傍から見るととても勤勉とは言えない現代の青年とその青年と一時期は付き合ったり、同棲したりするのだが、結局は「逃げていく女」の物語である。無気力で自堕落に生きること、それは決してほめられたことではないが、長い人生の一時期そうした時間だって必要じゃないかなと私は思う。多分作者の吉田修一も作家を目指しながらも無気力、自堕落に陥ったことがあるのじゃないか、と思わせる短編小説集であった。

7月某日
図書館で借りた「障害者の経済学」(中島隆信 東洋経済新報社 2006年2月)を読む。中島は慶應大学商学部教授で子どもの一人が脳性マヒで、子どものための施設探しを経験したことがこの本を書く動機のひとつになったようだ。「他の親たちが真剣な顔つきで質問するなかで妙に醒めた自分がいた」(あとがき)と書いている。これはわかりやすいフレーズではない。私なりに解釈すると「他の親たちが真剣な顔つきで質問」すればするほど、障害者の問題は普遍から遠ざかり特殊の世界に入っていくということではないだろうか。日本社会が「転ばぬ先の杖」社会であるという著者の考えとも通底する。「転ばぬ先の杖」社会ならば障害者にとっても健常者にとっても安全な社会と言えるかもしれない。しかしそれは人生の選択権を奪うことにならないだろうか。障害者や高齢者への「配慮」は必要である。だがそれは、障害者や高齢者が自分自身の障害や衰えた機能と向き合い、健常者とも対等な人間関係を結べるという方向性においてである。

7月某日
「元禄五芒星」(野口武彦 講談社 2019年3月)を読む。野口は1937年東京生まれ、早大一文卒後、東大大学院から神戸大学教授へ。順調な学者人生を歩んできたように見えるが野口が早大生のときは60年安保闘争と重なり、確か日本共産党の構造改革派の活動家だったはず。本書は忠臣蔵外伝ですな。「チカラ伝説」は大石内蔵助の長男で討ち入りのときは吉良邸の裏門攻撃を担当した大石力が主人公、「元禄不義士同盟」は討ち入りに参加しなかった大野九郎兵衛親子をネタにし、「紫の一本(ひともと)」は、元禄時代の江戸地誌「紫の一本」を題材にしている。「算法忠臣蔵」は赤穂藩の藩財政の内情を特産品であった塩と経済成長を支えた藩札の流通から考察している。「徂徠豆腐考」は元禄時代の大儒学者、荻生徂徠と若い徂徠が下宿していた豆腐屋の話でこの話は落語、講談、浪曲で「徂徠豆腐」として取り上げられている。