モリちゃんの酒中日記 4月その2

4月某日
「1969年早大闘争を振り返る集い」の打ち合わせを東京交通会館の「ふるさと回帰支援センター」で高橋ハムさん竹石さん、大谷さんと。終って大谷さんと神田へ。このところよく行く「鳥千」の手前に気になる店があるのでそこに行くことにする。店の名は「からつ」。長崎県は五島列島出身の川口とし江さんという女将が一人で切り盛りしている店。出汁の効いたおでんと水に馴染ませた焼酎を「黒じょか」で呑む。

4月某日
早稲田のリーガロイヤルホテルで「早大闘争を振り返る集い」の打ち合わせを宴会予約係の柳川勉チーフと大谷さんと。45人の申し込みがあったがドタキャンを1割程度見込んで料理とお酒は40人前にする。終って都電荒川線で早稲田から町屋へ。面影橋から鬼子母神、巣鴨、王子を過ぎて町屋までおよそ30分、ちょっとした小旅行を楽しむ。町屋では迷わず千代田線町屋駅直結の「ときわ」へ。生ビールとお酒、鰺のたたき、卵焼き、ポテトサラダ、焼き物はイワシを頼む。今度、香川さん、浜尾さんと食事をすることになっているので予約を入れておく。

4月某日
「生産性とは何か―日本経済の活力を問い直す」(宮川努 ちくま新書 2018年11月)を読む。日本経済の長期低迷が言われて久しい。私の拙い経済学の常識では、経済成長は労働力人口の増大と生産性の向上によってもたらせる。日本の高度成長もまさにこの二つによって実現したと言える。少子化によって日本人による労働力人口の増加は望みえない。とするなら生産性の向上によってしか日本の経済成長は果たせないのだが。宮川は日本経済の現状について必ずしも楽観していないが、スポーツと観光に日本経済の活路を見出しているのが特徴的だ。「スポーツにおけるメダル数や観光客数は、ある種の産出物であり、これらの増加は生産性の増加を窺わせる」(第6章 日本経済が長期低迷を脱するには-アベノミクスを超えて)。宮川はまた市場経済とサッカーの類似性をあげる。ふたつとも基本ルールが少ないために世界に広がったが、サッカーのスタイルはチームによってそれぞれのスタイルがある。スタイルは個性であり、日本経済にも競争性、合理性、多様性などに基づく個性が必要ということである。

4月某日
図書館で借りた「不意打ち」(辻原登 河出書房新社 2018年11月)を読む。5編の短編が収められている短編集。辻原は長編も読ませるが短編も巧みである。冒頭の「渡鹿野」は風俗嬢と風俗嬢を客のもとにデリバリーするドライバーの物語。なのだがこの話を読み進むうちに「この話、読んだことがある」と気が付く。以前に読んだ辻原の短編集に収録されていたのかもしれないと読み進む。次の「仮面」は阪神淡路大震災で活躍した神戸のボランティアが東日本大震災に際してもいち早く活動を開始、被災地の子供たちとともに東京で募金活動に励む。主人公の男女は募金の横領を図るのだが、このストーリーも前に読んだ気がする。次の「いかなる因果にて」「Delusion」「月も隈なきは」も読んだことがある。本の奥付を何度も見るが2018年の11月である。辻原の単行本としては最新刊である。4作目の表題「Delusion」は「妄想」の意味らしいが、大学病院の精神科医を訪ねる女性の宇宙飛行士の話。その宇宙飛行士は「幻覚が現実に再現されることが続く」ので、その意味を精神科医に尋ねに来るのだが。私も「不意打ち」に収められた5作はすべて読んだ記憶がある。そんなことはありえないはずだが。

4月某日
杉の花粉の最盛期が過ぎて今はヒノキの花粉だそうである。私は両方ともダメ。しかしマスクをすることは止めることにした。鬱陶しいしメガネが曇るからね。朝、起きると鼻がぐずぐずし鼻水が出る。これは私の鼻が花粉に反応し体外に異物を出そうとしているからで「生きている証拠」と思うことにした。図書館で借りた田辺聖子の「おいしいものと恋の話」(文春文庫 2018年6月)。単行本は2015年7月に世界文化社から出版されている。田辺の「恋愛もの」は定評があるが「おいしいもの」の描写もなかなか巧み。いつだったか読んだ田辺の小説に、恋人と2人で美々卯の「うどんすき」を食べるシーンがあり、そのスープの黄金色の旨そうな描写に感心したことがある。本書には9作の短編が収められている。「百合と腹巻」は夏でも細毛糸の腹巻をしている三杉と牡丹(通称ボタ)との恋の物語。ボタが職場の青年瀬川くんに恋を告白され、三杉が嫉妬するというたわいのない話。「大阪名物は阪神・吉本・たこ焼きや」と信じて疑わないこてこての大阪人の三杉と、西宮のいいうちのぼんぼんで阪神間の坊ちゃん大学を出たという瀬川くんの対比がおかしい。瀬川くんとのデートは高級ホテルのレストランにふかふか絨毯の高級バーだが、三杉が好むのは大阪でネギ屋と呼ぶ「お好み焼き屋」で、最後に三杉が「ボタ。一緒に暮らそか」と愛を告白するのもネギ屋であった。

4月某日
「1969年早大闘争を振り返る集い」を早稲田のリーガロイヤルホテルで開催。裏方なので18時開場、18時30分開演だが16時30分には受付へ。17時頃から人が集まりだす。当初は地方からの出席者もいるから開始時間を早めたほうがいいと17時受付開始で案内したためだ。17時30分には司会の鈴木基司さんが、少し遅れて高橋ハムさんが来る。45人の予定だったが当日は取材を含めて50人近くが参加。私が知っているのはそのうち10人程度で政経学部の村瀬春樹先輩と奥さんの由美子さん、倉垣光孝君、政経学部を中退して群馬大学の医学部を卒業して医者になった辻さんなどだ。早大の前総長鎌田さんも法学部の学生大会の議長をやったということで参加してくれた。辻さんは現在、埼玉で内科医をする傍ら沖縄の反基地闘争にも関わっている。「森田も今度、沖縄に行こうよ」と誘われる。2次会は都電の早稲田近くの居酒屋で。20人くらい参加したので2か所に分散、私の隣には鎌田前総長が座っていた。

モリちゃんの酒中日記 4月その1

4月某日
新元号が決まる。「令和」。出典は万葉集からで日本の文献に依ったのは初。官房長官が発表し首相が決定に至る経緯を説明する。今回の天皇の生前譲位と改元は、時の政権にとってプラスの効果をもたらすのは間違いのないところだろう。図書館から借りた「愉楽にて」(林真理子 日本経済出版社 2018年11月)を読む。日経の朝刊に2017年9月から2018年9月まで連載されたもので、前半は連載中に新聞で読んでいたが、途中で購読紙を朝日に替えたため後半は未読。現代の大金持ち2人が主人公。一人は大手製薬メーカーの9代目、会社経営に関心がなく父親から副会長のポストを与えられ、本拠を置くシンガポールと東京を往復しながら人妻や客室乗務員と情事を繰り返す。もう一人は老舗精糖会社の三男、子会社の社長という飼い殺しの身が急逝した妻の莫大な遺産により一変する。京都で芸者を囲うことになるがなぜかなじまない。中国の名門出身で自身も大富豪である人妻と恋におちる。林真理子の小説らしくセックスシーンは濃厚に描かれるが、今回私が感心したのは現代の大金持ちの生活がリアルに描かれているところ。宿泊するホテルや食事をするレストランや和食の店、京都での芸者遊びなどがリアルに描かれる。相当な取材費がかかっていると思われるが、林真理子ならではであろう。物語の主人公が現代の大金持ちなら林真理子は現代の「文豪」というべきだろう。改元を審議する有識者会議の一人にノーベル賞の山中博士などと一緒に選ばれているし。

4月某日
神田の「鳥千」で年友企画の石津さんと酒井さんと呑む。「鳥千」は20年ほど前に何度か行ったことがあるが、今年になってから大谷源一さんと2度ほど呑んだ。刺身が美味しいのである。「鳥千」という屋号から焼き鳥屋を想像しがちだが、むしろ日本の正しい居酒屋と言ってよい。シラスと生のりのお通しもおいしかった。今日は団体客は私たち3人だけだった。神田駅で2人と別れ我孫子へ帰る。我孫子駅前の「愛花」へ。元介護士の常連さんとその友人は私の息子と同じくらいの年頃だが、楽しく会話できた。

4月某日
我孫子に着いたのが6時台だったので、駅前の「しちりん」に寄る。我孫子でボトルを置いている店は2軒。「愛花」と「しちりん」だ。「愛花」は5~6人が座れるカウンターとテーブル席が一つ、ママが一人で切り盛りする居酒屋。「しちりん」は主に常磐線沿線に展開するチエーン店、1階は10人ほどが座れるカウンターとテーブル席がいくつかある。2階は行ったことがないが、おそらくテーブル席だろう。「愛花」では常連どうしで話すことが多いが、「しちりん」ではカウンターで独り飲みがほとんど。しかし今回は私が一人で呑んでいると「愛花」の常連の市橋さんが隣に座る。市橋さんは我孫子中学(地元の人はアビ中という)出身で内装業を営んでいるが、もともとは会津若松。実家は漆器の塗師だったらしい。

4月某日
厚生労働省の事務次官を務め、退官後はJPIFや医療経済研究・社会保険福祉協会(社福協)の理事長をやった近藤純五郎さんの「偲ぶ会」が竹橋のKKRで開催されたので参加する。開会前に会場に着くとすでに多くの人たちが会場前のロビーで待っていた。社福協の前常務で私の中学校と高校の同級生だった中沢優一さんがいたので世間話。時間が来て、全員で近藤さんの遺影に献花の後、厚生省入省が近藤さんと同期だった方がスピーチ、「私心がなく自分に厳しいが、友人を大切にする人だった」と語る。私は近藤さんと話したのは2~3回しかないが、温かくて秘かなユーモアを感じさせる人だった。竹橋から根津の青海社へ。校正を手伝う。根津から虎ノ門のフェアネス法律事務所。18時30分過ぎに西新橋の「花半」へ。堤修三さん、大谷源一さん、神山弓子さん、谷野浩太郎さん、落合明美さんと呑み会。堤さんは元厚労省の官僚、大谷さんは元滋慶学園、神山さんは元JALの客室乗務員、谷野さんは社会保険旬報の編集長、落合さんは高齢者住宅財団の部長。一種の異業種交流である。

4月某日
土曜日だけど「ふるさと回帰支援センター」で高橋ハムさん、竹石さん、大谷さんと4月17日の「1969年早大闘争を振り返る会」の打ち合わせ。現在のところ参加申し込みは37人、40人参加が目標なので「あと少しなので頑張ろう」とハムさんに発破をかけられる。司会進行が鈴木基司さん、発起人代表挨拶がハムさん、乾杯の音頭を村瀬春樹さん由美子さん夫妻にお願いすることが決まる。この日は呑み会はなしなので大谷さんと二人で呑みに行くことにする。北千住に行こうと上野から常磐線に乗ったが途中で気が変わって南千住へ。回向院近くの「エビス南千住店」へ行くが開店前だった。回向院を覘くと「小塚原の刑場で処刑された吉田松陰や頼三樹三郎の墓がある」との案内板があった。空いている呑み屋を探して南千住駅前を一回り。開店時間の5時を過ぎたので「エビス南千住店」へ。1時間ほど呑んで大谷さんは日比谷線、私は常磐線の南千住へ。

4月某日
「王朝懶夢譚」(田辺聖子 文春文庫 2019年2月新装版第1版)を読む。初出は「別冊文藝春秋」1992年200号~1994年208号。田辺聖子は1928年生まれだから作者が60代初めから半ばの頃の作品。田辺聖子は樟蔭女子専門学校国文科卒だからといってしまえばそれまでだが、彼女の国文学の素養は半端ではないことがこの作品を読んでもよくわかる。解説は漫画家の木原敏江で、それによるとこの作品の時代設定は「醍醐天皇のころ、平安中期より少し前のころ」という。その頃は平安京といっても町中でも夜は漆黒の闇が支配していた。というか、夜がこんなに明るくなったのは明治維新以降、ガス灯に続いて電気灯が出てきて以来であろう。漆黒の闇はさまざまな妖怪を呼び寄せる。本書の主人公は摂関家に連なる月冴姫。彼女は小天狗の外道丸と知り会いになり、続いて医師の麻刈や女狐の紫々、鮫と人間の間に生まれた鮫児に出会う。そして悪来丸という盗賊、実はやんごとなき王族、康尊親王にさらわれるが常陸の国は真壁出身の武士、晴季に救われ結ばれるというハッピーエンドのストーリー。田辺聖子の王朝ものは源氏物語やその他の古典に題材をとったものなど数多くあるのだが、もう少し暇になるまで読むのはとっておこう。

吉武民樹さんがこの4月から上智大学で教え始めたという。結構広い研究室もあるらしい。今度遊びに行こう。

モリちゃんの酒中日記 3月その4

3月某日
春分の日。日本医大病院に。「愛花」の常連の福田一三さんが入院している。偶然だけれど「青海社」の工藤良治社長も入院しているので、休日だし両方まとめて見舞いに行くことにする。2人ともこれまた偶然に東館の2階に入院していた。福田さんは昔、足の手術をしたとき入れた金属を取り換えることになったそうで1月に入院、4月の初めには退院できるそうだ。幾分ほっそりして元気そうだった。工藤さんは3月に脳出血で倒れ日医大病院に入院した。私の経験から「障害者」の認定と「要介護認定」を受けられることを説明。本人によると社員が辞めたりしてすごく忙しかったのが原因という。「私は基本的に年金生活者だから手伝えることは手伝うよ」と声を掛ける。日医大病院は千代田線の根津駅と千駄木駅のちょうど中間にある。行きは根津駅から来たが、帰りは千駄木の「よみせ通り」商店街から「夕焼けだんだん」に抜け、日暮里から常磐線で帰った。

3月某日
浜矩子の「『通貨』の正体」(集英社新書 2019年1月)を読む。著者は基本的には経済学の人で、一橋大を卒業後、三菱総合研究所に入所、ロンドン駐在員事務所長を経て現在、同志社大学大学院ビジネス研究科の教授だ。だから経済学の人であるの間違いないのだが、この人の本を読むとその半端ではない教養に驚かされる。本書でも「不思議の国のアリス」やシェイクスピアからの引用(それも著者の訳で!)やオペラ「トスカ」を日本通貨の「円」になぞらえたりしている。著者は英国駐在の商社マンの父について、小学校はロンドンだったらしい(この辺の私の記憶は曖昧)。そのせいか広い視野ととらわれないフラットな視点が魅力だ。本書のテーマである通貨については「通貨は、人がそれを通貨だと認定しなければ、通貨にならない」「金(きん)という金属もそうだ。金は金だったから通貨になったわけではない。人がそれを通貨扱いするようになったから通貨になったのである」(いずれも第1章)といきなり本質論から始まる。EUの共通通貨である「ユーロ」の先行きや、「仮想通貨」の問題点、IMFの「SDR」の本質などについて著者の筆は鋭く迫るのである。

3月某日 
TKP新宿カンファレンスセンターで「介護×音楽療法研究会」。今年度最後なので時間は3時間を予定。この場所はいつも迷うので時間に余裕をもって10分前に会場へ。会場に着くと座長で医師の川内基裕先生、事務局の宇野裕さんが来ていた。定刻前に委員5人が揃う。ホームヘルパー協会東京支部の副会長の黒澤加代子さんから訪問介護における音楽を取り入れたケアの実証実験の報告がされた。スマホを使った音楽検索が利用者にたいへん好評だったという話が印象的だった。要介護度の改善までの効果は見られなかったものの「笑顔が見られた」「会話がスムーズになった」などの効果があったとの報告がされた。特別養護老人ホームの苑長の依田明子さんからは特養入居者に対する実証実験の結果が報告された。特養の入居者は在宅に比べると重度化が進んでいる印象。それでも音楽を聴くと手拍子をとったり口ずさんだり表情が変化したりと、入居者の「気分」がよくなっていることが分かった。私はこの研究会に参加して2年になるが、高齢者というか人にとって音楽とのかかわりの奥深さを感じないではいられない。弁当を挟んで研究会は3時間に及んだが結論は出ず、場所を四川料理の店に移して1時間ほど議論。
実はこの研究会に参加する直前、我孫子市民図書館で借りた「音楽療法はどれだけ有効か-科学的根拠を検証する」(佐藤正之 化学同人社 2017年6月)を読んでいた。著者は音楽学部の器楽科を卒業した後、音楽教師を経て医学部に入学、三重大学大学院医学系研究科博士課程修了という経歴を持つ変わり種。現在は同大学院の認知症医療学講座准教授で付属病院の音楽療法室室長で神経内科医である。著者は音楽療法を含む認知症の非薬物療法の長所として①日常生活での活動がそのまま治療になりうる ②患者や介護者の社会生活の改善につながる ③医療職でなくとも施行可能で施設や自宅でも活用できる、としている。本書を読んで初めて知ったがEBMの情報インフラに「コクランライブラリー」というのがあって認知症に対する音楽療法の効果がレビューされていて、報告数は多くないが、認知症の中核症状に対する音楽療法の有効性を示す報告がされているという。著者は、音楽には汲めども尽きぬ力がある。医学と音楽の境界がなくなり、両者が一体となって患者に提供されるようになったとき、音楽療法は本当の意味で現場に根ざすと言っている。

3月某日
東海大学校友会館で「平成最後の桜を見る会」の打ち合わせ。大谷源一さんにHCMに来てもらう。2人で有楽町の交通会館にある「ふるさと回帰支援センター」の高橋ハムさんを訪問、「早大闘争50周年の集い」の打ち合わせ。大谷さんと別れ私は上野へ。不忍口で元年住協の林弘幸さんと待ち合わせ。松戸で呑むことを提案し松戸へ。林さん推奨の「日本海」へ行くが予約でいっぱい。西口の焼き鳥屋へ入る。昭和の香りがする店で常連客が大半。満足して帰る。

3月某日
社会福祉法人にんじんの会(石川はるえ理事長)の評議員会が19時から立川であるので虎ノ門から銀座線に乗り、赤坂見附で丸ノ内線に四谷で中央線に乗り換える。四ツ谷駅で同じ評議員の中村秀一さんに会う。東京駅で何かトラブルがあったらしく中央線に遅れが出て、四ツ谷駅のホームも大混雑。やっとホームに着いた電車に中村さんは何とか乗車できたが、私は乗れず仕舞い。次の電車で行くことにする。次の電車も遅れに遅れて評議員会の会場に着いたのは30分遅れ。評議員会は中村さんを議長にすでに進められていた。石川正紀常務の報告を聞いた後に各事業所からの報告があって評議員会は無事修了。近くのお寿司屋さんで懇親会、バーに席を移してジントニックを一杯飲んだところで石川理事長がタクシーを呼んでくれたので私と吉武民樹さんは帰ることにする。

3月某日
「平成最後の桜を見る会」を霞が関ビル35階の東海大学校友会館で。ここ2回ほど赤字が続いたので会費は1000円値上げして9000円に。受付は神山さんにお願いしたが神山さんにも会費を頂いているので、18時過ぎには年友企画の酒井佳代さんに受付を頼む。今回はNPO法人「楽」の柴田範子理事長や弁護士法人「フェアネス法律事務所」の遠藤代表弁護士も参加してくれて盛り上がる。今回は黒字になる。

3月某日
常陽カントリー倶楽部で末次彬さん、高根和子さんとゴルフ。吉武民樹さんは新しい大学での用事があるとかで欠席。いつもは吉武さんの車に乗せてもらうのだが、この日は息子に運転してもらう。ゴルフは行く前は多少億劫感があるのだが、行くとやはり楽しい。5月もいくことを約束する。帰りは末次さんの車で家まで送ってもらう。高根さんからお土産まで頂いてしまい重ね重ね恐縮です。

3月某日
「AI×人口減少-これから日本で何が起こるのか」(中原圭介 東洋経済新報社 2018年11月)を読む。人口減少もAIも最近の私が気になっているテーマ。中原圭介という人の本は初めて読むがなかなか鋭い指摘が随所に見られる。私が感心したのは「第4次産業革命の隆盛によって生産性を上げる企業が次々と現れてくれば、富裕な資本家や投資家は株価の上昇によって大いに喜ぶことになるでしょう。しかしその一方で、失業から生活苦に陥る人々が増加の一途を辿り、格差の拡大が史上最悪の水準を更新するという事態も避けられなくなるでしょう」というくだり。AI等の技術革新によって社会の生産性は飛躍的に高まるが、問題はその果実を手にするのは誰かということだ。技術革新を手放しで喜んでばかりはいられないのである。

モリちゃんの酒中日記 3月その3

3月某日
友人の毛利建夫さんと上野駅不忍口で待ち合わせ。毛利さんと知り合ったのは1980年前後。私が日本木工新聞社に勤めていたときだ。私が労働組合の委員長をやっていたとき、専門紙労働組合協議会(専門紙労協)という団体に加盟、そこからオルグとしては派遣されてきたのが毛利さんだった。当時、毛利さんは機械工業新聞という業界紙にいてそこが争議中だった。70年安保が過ぎて学生運動は連合赤軍の事件もあって退潮していく。学生運動の活動家が潜り込んだ一つが業界紙だった。私も毛利さんもその一人だったわけだ。当時は高度経済成長期だったから業界を取材してもそれなりに面白かったし給料も「それなり」だった。私は知らなかったが毛利さんは機械工業新聞争議の事件で逮捕起訴され入獄経験もある。毛利さんはその後、山谷闘争やブンド系の組織に関わったり、私生活では2度の結婚と離婚をしたりする。傍から見ると波乱万丈の人生。私とは40年近い付き合いとなるのだが、2-3年に1回は会って酒を呑む。毛利さんは北千住に住んでいるので今回は北千住で焼き鳥屋に行く。話題はあっちへ飛びこっちへ飛びだったが面白かった。

3月某日
監事をやっている一般社団法人の理事会に出席。東京駅から高田馬場へ。学バスで早稲田大学へ、150円。50年前は確か15円、50年という歳月を感じます。バスの中から学生時代に通った喫茶店「早苗」の看板を見つける。リーガロイヤルホテル東京で担当の青木さんと「早大闘争から50周年の集い」の打ち合わせ。早稲田大学から高田馬場へ。レストランの「高田牧舎」や居酒屋「源兵衛」を確認。大学構内を少し散策したが建物がほとんど建て替えられて、懐かしい思いは無かったが喫茶店や居酒屋には懐かしさを感じる。大学には行ったが授業に真面目に出たのは1学年の1学期まで。それ以降は学生運動でデモに明け暮れていた。私は1969年の「9.3」の第2学生会館攻防戦で逮捕起訴され、封鎖も解除された。私の学生運動もほぼこれで終了。しかし授業に戻ることはなく酒と麻雀の日々だった。高田馬場の駅前広場で本郷さんと待ち合わせて、本郷さんは中央大学を卒業後、石油連盟に入社、その後石油の輸入商社へ転じた。業界紙が学生運動の活動家の受け皿の一つとしたら、業界団体もそうだったかもしれない。高田馬場駅近くの「静岡おでんガッツ」へ行く。静岡おでんは美味しかったが私には味が濃すぎ。高田馬場で本郷さんと別れ我孫子へ帰る。我孫子駅前の「愛花」に寄ったら常連のタキさんがいた。

3月某日
「沈黙と軌跡」という高原駿という人の文章がネットに公開されているらしい。「文学部の解放派らしいけれど」とコピーを渡される。高原駿は私より一年早い1947年生まれ。戸山高校から一浪後、早稲田の文学部に入学。当初は革マル派にオルグされたが文連の社思研に入ったのがきっかけで社青同解放派へ。1968年の「4.17」本部突入にも、1969年の「9.3」第2学生会館の攻防戦にも参加している。「4.17」と「9.3」の両方に参加したのは何人もいないはずだが私には高原駿は記憶にない。高原駿は逮捕起訴後も非転向を貫き、大学中退後世田谷区役所に就職、世田谷反戦青年委員会で合法活動を進める一方、対革マルの内ゲバも担うことになる。高原と私は「4.17」と「9.3」は共通体験だが、それ以降は全く違う人生を歩む。高原は解放派が狭間派と労対派に分裂以降も労対派に所属、10数年間活動を続ける。活動を離脱した以降トラック運転手として働き、カネを貯めてフィリピンに移住、現在はフィリピンでダイビングを楽しんでいるらしい。うーん、人生ですなぁ。

3月某日
「近代日本の右翼思想」(片山杜秀 講談社選書メチエ 2007年9月)を読む。片山は1963年生まれだから本書執筆時は40代と思いがちだが、「あとがき」によると第1章は慶應大学法学部の学生論文集に掲載された論文がおおもと、第2章は1991年に提出した明治大学政経研究科修士論文が素材、第3章は1991年に慶大の院生論文集に出た「日本ファシズム期の時間意識」が原型という。とすれば第1章は20代前半、第2章は20代中ごろ、第3章は20代後半に執筆されたということになる。早熟ですねー。片山は「はじめに」で右翼と左翼、保守と保守反動ということばについて整理している。それは「反動は反り返って動く。保守は現在を大事にする。左翼は未来に期待する」ということだ。これからすると安倍首相は保守ではなく反動だね。
私は本書を読んでいろいろ感じるところがあった。一つは戦前右翼=天皇主義者の悲劇性である。彼らは天皇に限りない期待を寄せる。たとえば北一輝の「日本改造法案大綱」は天皇大権によって憲法を停止し、天皇の名のもとに私有財産の制限や都市部の土地の全国有化、華族制度の廃止など社会主義的な国家改造プランを示している。北の理論に影響されて決起したのが2.26事件の青年将校であった。しかし昭和天皇は彼らの主張に一顧だにすることなく、彼らを反乱軍として鎮圧を命ずる。青年将校にしてみれば「片思いの挙句、片思いの相手に石を投げられた」ようなものである。もうひとつあげるとすれば権藤成卿の「社稷」という考え方である。片山はここで言う「社稷」とは原始的な自治村落共同体の理想型を意味すると述べる。唐突ではあるが私は「社稷」は地域包括ケアシステムと通じるものがあると思うのだけれど。「おわりに」で片山は「大川周明の『東西対抗史観』や石原莞爾の『世界最終戦争論』は、ハチントンの『文明の衝突』などよりもはるかに構想力豊かであり、権藤成卿の自治主義や橘孝三郎の農村論は、肥大しすぎ、ついに地球温暖化まで招いた現代文明の警鐘として、現在も有効だろう」という。なるほど。

3月某日
神田司町にある中華料理屋「神田台所」で大谷源一さんと食事。大谷さんに私のPCを見てもらったのでお礼に「ご馳走する」ことに。年友企画の迫田さん、HCMの大橋社長も誘う。「神田台所」に予約を入れた時点で財布を忘れてきたことに気づく。大谷さんに「お金貸しておくれ」とメール、「トイチだよ」との返事。店に行くと神山さんと大谷源一さんが来ていた。少し遅れて大橋さん、迫田さんが到着。この店は中国人がやっている店で味もしっかりしているし値段もリーズナブル。2時間呑み放題食べ放題で5人で15,550円、一人3,000円とちょっとである。

3月某日
虎ノ門フォーラムに参加。今回は狭間研至氏による「地域包括ケアにおける薬局・薬剤師の役割~外科医が薬局に戻って・見えてきたもの~」。狭間氏は薬局の次男坊、勉強を頑張って阪大医学部に合格、外科医として活躍するが親の仕事を継いで薬局経営にも乗り出す。この話がとても面白かった。話を要約するとレジュメの最初にある「薬剤師が薬を渡すまでではなく、薬をのんだあとまでフォローすれば、薬物治療の質は飛躍的に向上する」につきる。薬剤師の養成課程は医師、看護師と同じ6年間、その割には薬剤師の存在感が薄いのではないかとは私も感じてきたところ。ぜひ、薬剤師にもっと地域医療に関わって欲しいと思った。薬局・薬剤師って重要なインフラなんだ。

モリちゃんの酒中日記 3月その2

3月某日
「夢も見ずに眠った」(絲山秋子 河出書房新社 2019年1月)を読む。大学で一緒だった高之と佐和子は結婚して熊谷の佐和子の実家の離れに住む。佐和子は企業に勤めキャリアを積むが高之はアルバイト先が一定しない。高之は佐和子の両親と気が合っている。佐和子が札幌に転勤となっても佐和子の実家からは離れない。高之は鬱病を病み2人の気持ちは次第に離れていって離婚する。佐和子はシンガポールの会計事務所に転職、帰国後、知人の弟と起業する。高之は青梅で女住職の紹介で便利屋のような仕事を始めるが、女住職の信用もあって徐々に仕事が増えていく。というような2人の日常が淡々と綴られていく。それが何とも言えない絲山秋子の「味」を出している。札幌、函館、岡山、佃島、奥出雲と日本各地を訪れる2人、それが日常に彩りをあたえてもいるのだろう。大学の同級生と結婚して奥さんの実家に住み、鬱病になるというのはワタシと一緒です。

3月某日
お茶の水の山の上ホテル裏の明治大学14号館に政経学部の金子隆一特任教授を訪問する。社保険ティラーレの佐藤聖子社長と一緒に5月の「地方から考える社会保障フォーラム」の講師をお願いするためだ。先生は人口学の権威。日本の人口は江戸時代中頃に新田開発や農業技術の改良によって3000万人ほどに拡大、その後天明の飢饉などによって拡大にストップがかかるが、明治以降、戦争中の一時期を除いて増加する。しかし数年前から人口は減り始め、この傾向に歯止めを掛けるのは難しいのではという論旨の論文を読んだことがある。フォーラムでは地方議員の先生方に「地方ごとに人口減少という課題をどう乗り切っていくか考えてもらいたい」と訴えてもらえたらと思う。社保険ティラーレに伺い、吉高さんにUAゼンセンの常任執行委員の永井崇大さんを紹介される。永井さんは武田薬品の労組からゼンセンに来ているが、日本の製薬会社も人口減=マーケットの縮小という現実に直面している。永井さんのような若い人に頑張ってほしいと思う。
今日は元厚労次官で人事院総裁も務めた江利川毅さんを囲む会があるので、神田の「カクヤス」という酒の量販店に行きアイリッシュウイスキーのジェムソンを買う。会場の鎌倉橋ビル地下1階の「跳人」に行く。スタートは6時からだが、6時前に江利川さんが厚労省年金局資金課長時代の課長補佐だった岩野さん、江利川さんの次の資金課長だった川邉新さん、社保険ティラーレの佐藤社長が来る。6時になると川邉さんの次の資金課長の吉武民樹さん、元厚労省で現在、埼玉医科大学教授の亀井美登利さん、社会保険旬報の手塚優子さん、私の飲み友達の大谷源一さん、その飲み友達の一般社団法人LeLien代表理事の神山弓子さん、同じく一般社団法人セルフケアネットワークの高本真佐子代表理事も来る。吉武さんは台湾土産の紹興酒を持参、これが香が高く絶品。「竹下さんを偲ぶ会」に出席できなかった茅野千江子さんが竹下さんの闘病の様子を知りたいというので今回、フィスメックの小出建社長にも出席してもらい話してもらう。この会は最初、江利川さんや川邉さんの資金課長時代の補佐と、竹下さんと私というメンバーで始まったが、その後私が勝手にメンバーを広げていった。それを江利川さんは笑って許してくれている。

3月某日
「なきむし姫」(重松清 新潮文庫 平成27年7月)を読む。文庫の巻末に「本作は、主婦の友社『Como』に2005年4月号から2006年9月号まで掲載された『なきむし姫』に加筆修正した、文庫オリジナル作である」と記してある。「なきむし姫」ことアヤと哲也は幼稚園の頃からの幼馴染。結婚した今は4月から小学校に入学するブンちゃんと地の都の幼稚園に通うチッキの2児の親でもある。もう一人の幼馴染でバツイチの健は子供のころから何かとアヤと哲也のことをかばってくれていた。4月から哲也が神戸に単身赴任し翌年の3月に哲也が神戸から帰り、健はシングルファーザーとして育ててきた娘を再婚する元妻のもとに返すことになる。その1年間を描く中編小説の主人公はもちろんアヤだ。しかし隠れた主人公は健であろう。言ってみれば健は「フーテンのトラ」の新興団地版である。そう言えば重松清の小説は舞台は違ってもどれも同じような味わいである。毒がないのも「フーテンのトラ」に似ている。

3月某日
本郷の東大工学部8号館に辻哲夫さんを訪ねる。5月の「地方から考える社会保障フォーラム」の講師をお願いに社保険ティラーレの佐藤社長と千代田線の根津駅から東大へ向かう。辻さんは「これからの社会保障は市町村がカギを握っている」と「社会保障フォーラム」の考え方にも全面的に賛成してくれた。辻さんの部屋に海上自衛隊幹部学校の校長からの感謝状が掲げられていたので「あれは何ですか?」と聞くと「幹部学校で講演をしたため」という。「外に向かっては外交と防衛、内に向かっては社会保障」と辻さんは考える。「成程」である。辻さんに高橋ハムさんが「俺は厚労省では辻が一番気が合う」と言ってましたと伝えると「そうですか。学生時代から彼は全共闘で私はどちらかというと保守派。考え方は違うのですがなぜか気が合うのですよ」と嬉しそうだった。
元厚労省の山崎史郎さんは現在、リトアニアの大使。社会保険研究所の谷野浩太郎編集長が「会うので一緒に来ませんか?」と誘ってくれたので東大から待ち合わせ場所の読売新聞社へ。佐藤社長がタクシーを奮発してくれた。山崎さんは北海道庁に出向していたことがあるので「リトアニアは北海道に似ているかな。十勝平野や美瑛のイメージ」という。リトアニアはロシア革命前はロシア帝国に併合され、革命後、いったんは独立したもののスターリンによってふたたび併合、第2次世界大戦ではナチスドイツに占領される。そのときナチスドイツから逃れるユダヤ人に日本経由のビザを発行したのが当時の領事、杉原千畝だ。そんなこともあって対日感情は大変いいそうだ。「町並みはきれいだし、女性も美人が多いね。遊びに来なよ」と山崎さん。美人が多いというのは魅力だけれど。

3月某日
有楽町の交通会館にある「ふるさと回帰支援センター」で代表の高橋ハムさんと出版社ウエイツの中井社長、法学部闘争委員会OBの竹石さんと「早大闘争50周年の集い」の打ち合わせ。中井さんは私たちより数年若い。早大闘争の後、革マルのリンチによって殺された早大生、川口君の「虐殺に抗議する闘い」を担った。ハムさんとは新宿のゴールデン街で知り合ったらしい。終って交通会館地下1階の「よかよか」でハムさんにご馳走になる。ここは日本全国の日本酒が揃っている。

3月某日
机を置かせてもらっている西新橋のHCM社に大谷さんに来てもらって、「早大闘争50周年の会」と「桜を見る会」の打ち合わせ。終って2人で内神田の「社保険ティラーレ」へ。吉高さん、佐藤聖子社長と話す。佐藤社長には「桜を見る会」への出席をお願いする。終って2人で「鳥千」へ。ここは屋号が焼き鳥屋のようだが刺身がうまい。4月の呑み会の予約もしておく。

モリちゃんの酒中日記 3月その1

3月某日
フリーライターの香川喜久江さんと上野駅公園口で待ち合わせ、東京都美術館で開催中の「奇想の系譜展」を観に行く。伊藤若冲、曽我蕭白、狩野山雪、長沢芦雪、岩佐又兵衛、鈴木其一、白隠慧鶴、歌川国芳の絵を展示している。パンフレットには「江戸のアバンギャルド一挙集結!」「江戸時代の奇想画家8名の傑作が勢揃い!」とあるように伝統的な日本画の枠を踏み越えた画家たちという括りなのだろう。私が思うに本人が意識的に枠を超えようとしたというよりも美を追求する過程でそうなったということであろう。岩佐又兵衛は戦国武将の荒木村重の子供で、村重が信長に反逆を企てたため一族は滅ぼされた。又兵衛は母方の姓を名乗り京都で日本画の修業をする。「山中常盤物語絵巻」という絵巻では荒くれ武者たちに身分の高いと思われる女性が惨殺される場面が描かれているが、一族が滅ぼされるという又兵衛の出自が影響しているかも知れない。会場で社会保険研究所OBの仙波さんに会う。会場を出て上野駅に付随している「ぶんか堂」で食事。東京文化会館の向かいにあるため「ぶんか堂」か。大谷源一さんを呼び出す。水割りを3杯ほど呑んだ後で解散。私は「音楽運動療法研究会」の「ホームヘルプ部会」があるので池袋へ。
「プレゴバケット」というイタリアンの店が会場。事務局をやっている「ひつじ企画」の宇野裕さんから「場所が分かりづらいから池袋駅で待ち合わせて行こう」という電話があったが、「西口から立教に向かう途中でしょ、分かると思うよ」と自力で行けると伝えたのが間違いのもと。会場は西池袋3丁目なのだが西池袋2丁目からなかなか抜け出すことができず、そのうち携帯の電池も切れて、連絡も取れなくなったし、携帯のマップも使えなくなくなった。なんとか西池袋3丁目にたどり着きしらみつぶしに番地を探し歩いたが、地番のプレートを掲げている建物が少なく気持ちは絶望的に。街角に掲げられている公共の地図があったのでそれを頼りにさ迷い歩く。そしてついに「プレゴバケット」を発見。約束の時間から小1時間経っていた。フーッ。宇野さん、ホームヘルパー協会の黒沢さんとリハビリ病院の副院長の川内先生が「よかったねー」と迎えてくれる。万歩計を見ると13,000歩を超えていた。黒沢さんからスマホを使った要介護高齢者への音楽配信の事例が報告されたが、80代、90代の要介護高齢者が好むのは昔の歌謡曲や童謡と思いきや、最近の歌謡曲やポップス、ジャズだったという。高齢者のイメージを変えて行かなければならないと思う。

3月某日
宇野さんからスマホにダウンロードされた曲名一覧が送られてきた。それによると三波春夫や村田英雄、美空ひばり、島倉千代子の歌う演歌や歌謡曲ももちろんあるのだが、サイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んでいく」、矢沢永吉の「LAHAINA」、江利チエミ「テネシーワルツ」などがリストアップされている。中には私の知らない曲も少なからずあった。高齢者像を自分たちの持っているイメージで決めつけると「痛い思い」をすることになるのである。

3月某日
大谷源一さんと新橋駅烏森口で待ち合わせ。大谷さんは元日本航空国際線の客室乗務員で現在は高齢者や被災地支援の団体を立ち上げている神山弓子さんを同伴。社会保険研究所の谷野浩太郎編集長に用があったので神田へ。谷野編集長は会議中だったので1分ほど立ち話、神田駅北口の「鳥千」へ。ここは20年ほど前に何回か行ったことがある。もともとは屋号からして焼き鳥屋なのだろうが、お刺身がとても美味しかった。上野で2人と別れ我孫子へ帰る。まだ8時台だったので久しぶりに駅前の「愛花」へ。常連のソノちゃんがいたので一緒に呑む。

3月某日
「早大闘争を振り返る会」の打ち合わせで大谷源一さんと早稲田のリーガロイヤル東京へ。地下鉄東西線の早稲田駅で地下鉄を下車、地図を片手にリーガロイヤルへ。馬場下から本部へ行く途中に学生時代に通ったラーメン屋「メルシー」があった。リーガロイヤルでは稲門会担当の青木さんが対応してくれた。50年前の1969年4月17日、僕たちは革マル派が戒厳令を敷く早大本部に突入。本部封鎖に成功する。僕たちというのはノンセクトラジカルの「反戦連合」と反帝学評など一部党派の反革マルの連合部隊で、これが早大全共闘の母体になった。しかし僕の記憶では早大全共闘には書記局もなかったし、機関紙もなかった。当時、東大全共闘は大学院生の全闘連が指導権を握り「進撃」という活版印刷の機関紙も発行していた。まぁ早大全共闘は東大や日大に比べるとかなり脆い組織であったことは事実。リーガロイヤルで「稲門会」担当の青木さんという女性が丁寧に応対してくれた。青木さんによると、メルシーのラーメンは現在400円、週末にはOBと思しき老人たちがラーメンを食べに来るそうだ。ちなみに50年前は一杯、50円だったと思う。
リーガロイヤルを出て池袋に行くという大谷さんと別れ西早稲田へ。西早稲田から副都心線で新宿3丁目、都営新宿線に乗り換えて岩本町へ。岩本町3丁目の中華料理屋「胡椒饅頭PAOPAO」で石津幸恵さんと元国民年金協会の町田さんと食事。石津さんに「モリちゃん、ブログに書いちゃだめだよ」と言われたが書いてしまいました。「胡椒饅頭」はなかなか美味しかった。石津さんにすっかりご馳走になり歩いて神田駅へ。

3月某日
「早大闘争を振り返る会」の名簿の整理を大谷源一さんにお願いする。HCMに来てもらって私のパソコンで作業してもらう。終って有楽町の「ふるさと回帰支援センター」の高橋公理事長に面談。今のところ呼び掛ける対象は70人ほど。ハムさんは「おい、こんなものかよ、もっといるだろう」というけれど、「ハムさん、大学本部に突入したときだって40人くらいだよ。一般学生の支持はあったにせよコアな活動家はそんなにいなかったんだよ」というと「それもそうだな」とハムさん。ハムさんと別れて大谷さんと有楽町へ。明日も大谷さんと呑む予定があるので今日はまっすぐ帰ろうかと思ったが、上野の焼き鳥屋「大統領」へ向かう。「大統領」は焼き鳥屋の老舗で、16時過ぎだというのに本店はすでにいっぱい、近くの支店へ行くと15分ほど待たせれて座ることができた。お客は驚くほど女性が多い。焼き鳥屋というとオジサンのイメージだけれど「時代は変わった」のだ。焼き鳥と煮込みを頼んでホッピーで乾杯。18時前に終了。

3月某日
「作家との遭遇-全作家論」(沢木耕太郎 新潮社 2018年11月)を読む。沢木耕太郎は1947年生まれ。私より一歳上だが現役で横浜国立大学経済学部を卒業しているから社会に出たのは私より2年早いはずだから1970年。確か一部上場企業に内定したが1日だけ出社してルポライターの道を選んだ。ルポライターの沢木が現実の作家と遭遇するのは酒場。そしてもう一つが文庫本の解説を出版社から頼まれたときだ。解説を頼まれると沢木はその作家の作品をできるだけ読んで解説を書く。以前読んだときと違う印象を感じることが書かれていてそれはそれで面白いのだが、非常に丁寧な作家論が展開されている。日本人作家では井上ひさし、山本周五郎、田辺聖子ら19人の作家論が展開されているが、私が驚愕したのは巻末に収録されている「アルベール・カミュの世界」だ。実はこれは沢木の大学の卒論である。沢木は「資本論」「日本経済分析」「社会主義と超国家主義」などテーマにした卒論を書こうとするが「こんなものが、21歳の自分にとって6カ月も7カ月もかけて取り組むべきテーマなのだろうか」と思い、「当時、唯一、胸の奥に届いていたのがカミュの著作、とりわけ初期のエッセイ群だった」ことからカミュを卒論のテーマとする。これがまぁ21歳の経済学部の学生が書いたとは思われない立派な作家論なのだ。沢木はルポライターとして出発するが、それから50年を経過して今や小説も手掛ける大作家と言ってよい。その「芽」が卒論にあったとは!

モリちゃんの酒中日記 2月その5

2月某日
「啓順純情旅」(佐藤雅美 講談社 2004年9月)を読む。幕末、医師養成機関の医学館で学ぶ啓順は、浅草の火消しの親方で破落戸(ごろつき)の親分でもある聖天松の息子殺しの疑いで、司直と聖天松の手下の双方から追われることとなる。江戸から甲府、伊豆から大島、大島から海路、石巻へ。陸路あり、海運、水運ありの逃亡劇で、逃亡の合間に患者を診察するというストーリー。「啓順純情旅」は「兇状旅」「地獄旅」に続く3作目にして最終作である。聖天松の追手のひとり勘助と手を組んだ啓順は、最終作では聖天松を逆に引退に追い込む。浅草を中心とする聖天松の縄張りは勘助に引き継がれ、啓順は勘助の縄張りから遠く離れた芝神明前で開業し、やがて「神明前のお助け医者」と呼ばれるようになる。最終作は「御一新を迎えたのはその後間もなくだが、江戸はたいしたどさくさで、御一新後、啓順の一家がどうなったのかを知る者はいない。」と終わる。私は「啓順シリーズ」は同じ芝神明前で開業する「町医北村宗哲シリーズ」に引き継がれ、宗哲は啓順の後身と思っているのだが。

2月某日
虎ノ門の弁護士事務所で打ち合わせの後、新橋烏森口近くの「おんじき」へ。HCM社の大橋社長とネオユニットの土方さんがすでに呑んでいた。「おんじき」は青森料理のお店、大橋社長が贔屓にしている。土方さんはデザイナーだけれど、ビジネス感覚にも鋭いものがあり今回もデザインとは離れた新しいビジネスについて熱く語っていた。そのほか沖縄の県民投票や統計偽装問題、北朝鮮問題など3人の話題はあっちこちへ飛ぶ。もちろん3人の考え方は違うのだが、たぶん基本的な価値観は違わないはず。そこが面白いし付き合いが長く続く理由と思う。

2月某日
「アナキズム-一丸となってバラバラに生きろ」(栗原康 岩波新書 2018年11月)を読む。栗原康は前に「村に火をつけ、白痴になれ-伊藤野枝伝」「死してなお踊れ-一遍上人伝」を読んで面白かった記憶がある。栗原は早稲田大学の政治経済学部で確か白井聡と同じゼミ。栗原の独特の文体がまず魅力だ。例えば第2章ファック・ザ・ワールドの冒頭は「オス、オース、オースッ、オース! ファック・ザ・ポリス! ファック・ザ・ソサイエティ!ファック・ザ・ワールド! みんな警察がきらい、社会はクソだ、こんな世界はいらねえんだよ。イヨーシッ、気合がはいったぜ。そんじゃ、はじめよう。」と始まる。本書はアナキズムの概説書ではなく私たちに人間としての生き方を問うていると思った。サブタイトルの「一丸となってバラバラに生きろ」を考えてみよう。「一丸となって」というのは左翼の使う「団結」の大切さを語っているように見える。だが、左翼の団結は突き詰めていくとレーニン主義的な前衛党に行き着く。栗原の「一丸となって」はもっとソフトとであり、自由だ。レーニン主義的な組織論とは対極にあると行ってよい。
私はこの本を読んで1960年代後半から1970年代前半に全国の大学を巻き込んだ全共闘運動のことを思い浮かべた。多くの大学には学生自治会があり、学生の要望を汲んで大学当局と交渉を行い、ときには日米安保などそのときどきの政治課題に応じて、学生を動員して街頭デモを行った。しかし60年代の後半の一時期、学生自治会が学生のニーズに対してうまく機能しなくなる。私の在籍した早大の場合、私が入学した1968年には文学部を中心とした革マル派、法学部の日本共産党(民青)、政経学部の社青同解放派の三派が勢力を均衡させていた。私の感覚では民青は学生の日常的な要求には応えるものの政治課題については日本共産党の政策そのものであり、革マルは「壮大な理論体系」を感じさせるもののやっていることは他党派解体路線であった。その革マル路線によって解放派は大衆的な動員力を失わせていった。そこに登場したのが全共闘である。その組織原理というかイメージがまさに栗原のいう「一丸となってバラバラに生きろ」なのだ。東大闘争で安田講堂に残された落書きに「連帯を求めて孤立を恐れず」というのがあったが「一丸となってバラバラに生きよ」と同じことを言っているように私には思える。
栗原の本は私にいろいろなことを考えさせた。人間は本来、自由な存在なのではないか、何ものにも束縛されることなく自由に生きること。そう言えば栗原の伊藤野枝の生涯を描いた「村に火をつけ、白痴になれ」も伊藤の生涯を描くことによって、自由に生きることの大切さを訴えていたのではなかったか。栗原の考え方は夢物語だろうか。私はそうは思わない。日本も世界も大きな壁に突き当たっているように思う。日本で言えば少子化、労働力の減少が経済の先行きに暗い影を投げかけ、社会的には児童虐待やいじめによる自殺が後を絶たない。どうも社会が劣化しているように思えてならない。政治的には安倍一強政治のもと、国会議員や厚生労働省の不祥事が相次ぐ。そういうとき栗原の考え方は一つの処方箋とは言えないだろうか。

2月某日
基金連合会に足利聖治さんを訪問、17時に終了。浜松町駅から山手線で田端へ。大谷源一さんへあらかじめ「17時に終わるので17時半頃に西日暮里でどうですか?」とメールを送ると「田端の初恋屋に行かないか」と返ってきたので「了解です」と返す。初恋屋は大谷さんが「刺身がうまい」と絶賛する店。予約がなければ入れないとのことなので大谷さんが予約しておいてくれた。次の予約が入っているため19時までとのこと。刺身は盥に盛り付けて出される。盛り付けも美しいし味も絶品。値段もとてもリーズナブル。

2月某日
原稿料が入ったのでセルフケアネットワーク代表の高本眞佐子さんにランチをご馳走すると連絡。HCM社近くの初めて行く「喰吞をかし」へ。「新虎通り」に面した洒落た外観が前から気になっていた。内装も若い女性に好まれそうな洒落た空間で、お客も若い女性が多くおまけにカウンターの内側も若い女性が2人。ランチはそこそこ美味しかったがオジサンにはいささか敷居が高い。17時に虎ノ門で打合せ終了。18時から室蘭東高スキー部の懇親会があるのでどうしようかと思っていると阿曽沼慎司さんから電話。そういえばこの日、東京に来るというメールがあったっけ。新橋駅の銀座口で待ち合わせ。外は強い雨が降っていた。懇親会は銀座8丁目なのでそのあたりの居酒屋を物色、雨が強いこともあって近くの「お多幸」にする。毎月勤労統計の不正問題などが話題に。役所のガバナンスについてなかなか良いことを話し合った記憶があるが中身は忘れる。このブログのことも話題になって、「俺の個人情報を勝手に漏らすんじゃねーよ」と言われるが、これも忘れたことにしよう。30分ほど遅れてスキー部の懇親会場、「江南春」へ。スキー部の創始者の一人で今は札幌でコンピュータのソフト会社の社長をやっている佐藤正輝が元NECの大郷をともなって上京するというので今回の会合となったようだ。私は生来の運動音痴に加え、スキー部は合宿などでいろいろとカネがかかることもあって1年で脱落した。懇親会に参加したメンバーでは同学年の佐藤と大郷、それと女性で1人だけ参加した中田志賀子さん以外はあまり知らない顔だ。それでも温かく迎えてくれるので感謝。

モリちゃんの酒中日記 2月その4

2月某日
 「熱球」(重松清 徳間文庫 2004年12月)を読む。児童虐待の疑いで父親に続いて母親が逮捕されたり、こどもの自殺が「いじめ」が原因かどうか裁判で争われたり、最近こどもを巡る暗い話題にこと欠かない気がする。こういうときは重松清でしょ。重松清には教師経験はないけれど、教師を登場人物とする小説が多い。教師が出てくるということは当然、子どもが出てくる。で、私の読んだ限りという限定付きだが重松の作品の読後感は「爽やか」である。難しい言葉も漢字も出てこない。最近私が読む作家のうちでは「安心して読める作家」ナンバーワンである。「熱球」は東京の出版社に勤めていた主人公ヨージが出版社を辞めて、一人娘の美奈子を連れて故郷の山口県周防市の実家に帰ってくることから物語は始まる。周防市は架空の町だが県都も大内市と架空。山口県の県庁所在地は山口市だから周防市は下関市か周南市のイメージ。ヨージは高校時代、野球部に所属、2年のとき県大会の決勝戦にまで進出するが直前に部員の不祥事から決勝戦を辞退する。それが20年前の話。ヨージの妻は大学でアメリカの移民史を研究、1年の期限付きでアメリカ留学中である。ヨージは失業中でもあり母校の野球部のコーチに就任、併せて美奈子と同学年の小学生、甲太のキャッチボールの相手を買って出る。甲太の母親はヨージの野球部のマネジャーだった恭子である。20年という時間は高校野球のイメージも変えそのギャップにヨージはとまどう。さらにヨージは周防市に落ち着いて父と暮らすのか、東京で先輩の新雑誌を手伝うのか、さらにアメリカから帰った妻は?という具合に周防市の日常の中でヨージはとまどい悩むのである。日常の中のとまどいや悩みを描くのが重松は巧み。やはり「安心して読める作家」ナンバーワンである。

2月某日
中村秀一さんの叙勲祝賀パーティに出席。赤坂見附のホテルニューオータニで19時スタート。社保険ティラーレの吉高さんを訪問の後、社会保険研究所の鈴木俊一社長を訪ねてもまだ17時30分。大谷源一さんも祝賀パーティに行くと言っていたので大谷さんに電話、出世不動という小さな神社(この神社に因んで「出世不動通り」という名前がついた)の向かいにある酒屋は17時を過ぎると「角打ち」(酒屋の店先でお酒を呑ませること。多くは立ち飲み)をやっているので、そこで待ち合わせ。生ビールと日本酒、それと焼酎を一杯いただく。お店の人の話ではこの酒屋は昭和初期からやっているそうだ。
大谷さんが来たので大手町から赤坂見附のホテルニューオータニへ。中村さんときれいな奥さんに挨拶。中村さんの著作を編集した年友企画の酒井さんも来ていて料理やお酒をとってきてくれた。こういうパーティはいろんな人に会えるのがうれしい。国保中央会の原理事長や慶応大学の権丈先生、埼玉医科大学の亀井美登利先生に挨拶。元厚労省の大原純子さんや元社会保険庁の安田秀臣さんも来ていた。久しぶりに会った藤原禎一さんからは厚生労働省の地方厚生局特別プロジェクト推進室統括調整官の名刺をもらった。パーティが終了後、中村夫妻と記念写真を撮っている人がいたので、石川はるえさんとそれに便乗、石川さんのスマホで酒井さんに撮影してもらった。石川さんと元全社協の渋谷さんと四谷の新道通りの「四谷魚一商店」で二次会。今回も石川さんにご馳走になる。

2月某日
神田司町の中華料理店「上海台所」へ行く。HCM社の大橋社長と年友企画の石津さん、酒井さんと会食。「上海台所」は先月、室蘭東高のスキー部同窓会のとき行った店。安くて料理もおいしい。青菜炒めや叉焼、スペアリブなどを頼む。締めは炒飯。ビール、ハイボールが呑み放題。私はビールで乾杯の後ハイボール。二次会は近くの居酒屋。店員は中国の浙江省出身と言っていたが日本語にほとんど違和感を感じなかった。

2月某日
近所の石戸歯科で「歯石除去」。若くて美人(マスクをしているのでよくわからないが多分)の歯科衛生士がやってくれる。治療を終わると石戸先生がやってきて、「これ息子が書きました」とNEWSWEEKの最新号を見せてくれる。石戸先生の息子さんは石戸諭といってフリーのルポライター。1984年生まれ、2006年に立命館大学卒業、毎日新聞社に入社しその後、フリーに。著書に「リスクと生きる、死者と生きる」(亜紀書房)があり、この本も石戸歯科の待合室に置いてある。私はネットでdマガジンを契約しているので早速、NEWSWEEKを閲覧。石戸諭の記事は「SPECIAL REPORT 沖縄ラプソディ」として掲載されていた。「沖縄ラプソディ」というタイトルはクイーンの名曲「ボヘミアンラプソディに由来する。「これは現実か、それともただの幻想か?」という問いかけから始まるこの歌は「今の沖縄にこそ当てはまるように思える」と石戸は書く。石戸は県民投票を2月24日に控える沖縄を訪れ、辺野古移設の賛成と反対に揺れる人々を取材する。私は辺野古移設反対を貫いた翁長前知事やその後継者の玉城現知事を支持するが、石戸は賛成反対の二分法ではなく、その立ち位置からは見えにくくなっている沖縄の現実に対峙しようとしていると私には感じられた。

2月某日
「悪だくみ-『加計学園』の悲願を叶えた総理の欺瞞」(森功 講談社 2017年12月)を読む。読んでいて興味をそそられないというか楽しくない本だった。これは著者の森に原因があるというより題材、テーマの問題だと思う。安倍首相の旧友が理事長を務める加計学園が愛媛県の今治市に獣医学部を新設する。その認可の過程で官僚や関係者の忖度があったのではないか、というのがこのルポのテーマだ。内閣人事局が官僚の人事権を握って以来、官僚が首相官邸の意向に左右されるようになったとはよく言われる。真偽のほどは分からないがこの本を読む限りでは官邸の意向や、それをバックにした総理補佐官の発言に官僚が右往左往していることがうかがわれる。公務員は国民全体に奉仕するのが役割であって、一部の奉仕者であってはならないとは確か憲法にも謳われていると思う。安倍首相の本意がどうであれ「李下に冠を正さず」という言葉もある。やはり加計学院に獣医学部の新設は認可されるべきではなかったのではないか。

2月某日
16時30分に鶯谷駅の南口で大谷源一さんと待ち合わせ。階段を降りると呑み屋が密集している。目指す「ささのや」の店先にはもう人だかりがしていた。焼き鳥を焼いている店先で立ち飲みするのはキャッシュ&デリバリー。私たちは店内で座って焼き鳥とビールを頼む。2杯目はサントリーの山崎?の炭酸割をダブルで。3杯目は日本酒をお燗で。「ささのや」はお勧め。

モリちゃんの酒中日記 2月その3

2月某日
図書館で借りた「アンボス・ムンドス」(桐野夏生 文藝春秋 2005年10月)を読む。図書館の桐野夏生のコーナーで手に取って「読んでないな」と思って借りたのだが、読みだしたら記憶が蘇ってきた。大まかなストーリーは思い出すが、初回に読んだときには気が付かなかったことや「あーそういうことなんだ」と思うことがあり、同じ本を繰り返して読むのも悪くない。桐野の作品を「平成のプロレタリア文学」と評したのは政治学者の白井聡である(「奴隷小説」(文春文庫)の解説)。白井は「現代作家のうち、桐野氏こそ『階級』に、『搾取』に、より一般的な言い方をすれば『構造的な支配』に、最も強くこだわっている書き手ではないだろうか」と提起する。「アンポス・ムンドス」には表題作含めて7つの短編が収められているが、冒頭の「植林」を白井理論によって読み解いてみよう。
宮本真希は医薬品や化粧品の安売り量販店のアルバイトである。時給850円で実働7時間、週に5日出勤しても月収は12万円程度、コンタクトレンズの片一方を無くしても貯金が無いから買うこともできない。「失うべきものがない」真希は平成のプロレタリアートである。真希はその上チビで小太り、「セックスはおろかキスもしたことがない」。異性からも疎外されているし、職場の高校を出たての同僚からも馬鹿にされている。両親と暮らしていた実家には兄夫婦と姪が転がり込んできて真希は居場所さえも脅かされる。ふと見たテレビのワイドショーが真希の記憶を揺り動かす。未解決事件の特集で「1984年グリコ・森永事件」が取り上げられている。当時、真希は小学校3年生で寝屋川市のマンションに住んでいたが父親の転勤で東京へ引っ越すことが決まっていた。
グリコ森永事件では子供の声が身代金の置き場所を指定する。テレビで流されたその音声は真希の小学校3年生のものだった。同じマンションに住む一人暮らしの女の人、鈴木さんの部屋。真希は右手に大きな金の指輪をした男に言われて地図の地名を読み上げた。男はそれをテープにとり鈴木さんはアイスクリームをくれた。近いうちに東京へ引っ越し、もともと東京者だから、あまり大阪訛りがないないこと、それが真希が選ばれた理由だ。日本中が騒いだ事件に自分が加担していたことを知る真希。真希は冴えなかった自分が急に誇らしくなる。それによってアルバイトの同僚との関係も逆転する。これはプロレタリアート真希によるいわば「蜂起」である。決して永続することのない単独の。

2月某日
有楽町の交通会館にある「ふるさと回帰支援センター」に高橋公(ヒロシと読むが仲間はハムさんと呼ぶ)さんを訪問。田舎暮らしのニーズが高まっているのか、フロアには相談に訪れている思われる中高年が何人も。ハムさんと私は早稲田大学の全共闘仲間。当時の早稲田は革マル派が全学を支配しており、革マルに同調しない学生は学内に入れなかった。50年前の1969年の4月17日、反戦連合など反革マル派の学生がヘルメットとゲバ棒で武装し本部に突入した。「50周年だからあつまろうよ。オレ忙しいから森田君、事務局やってくれ」ということで呼び出されたわけ。こうしたイベントの事務方は私の知る限り大谷源一さんが最適。大谷さんは早稲田ではないが「全共闘崩れ」ということでは一緒。ハムさんが大谷さんに電話して交通会館に来てもらう。打ち合わせ後、神田の焼き鳥屋で大谷さんと呑む。

2月某日
「維新と敗戦-学びなおし近代日本思想史」(先崎彰容 晶文社 2018年8月)を読む。先崎彰容は、白井聡とともに私が最近最も注目する思想家。2人の立場はずいぶんと違う。白井はレーニンの政治思想の研究から出発して(「未完のレーニン」など)、「永続敗戦論」「国体論」などで戦後体制を鋭く評論、昨年は確か「赤旗」で日本共産党への期待を表明していた。一方の先崎は「維新と敗戦」のもとになったのが「産経新聞」の連載や「正論」に掲載された論文ということから、どちらかというと「保守派」と見られがちかもしれない。先崎が1975年生まれ、白井が1977年生まれで私からすればどちらも息子の世代、「がんばれよ」とエールを送りたくなるのである。「維新と敗戦」は福沢諭吉、頭山満、吉本隆明ら23人の思想家を論じた産経新聞連載のエッセーをまとめたⅠと雑誌「正論」などに発表された論文をまとめたⅡによって構成されている。Ⅰでは高山樗牛、葦津珍彦など私が読んだこともない思想家が取り上げられて興味深かったし、Ⅱでは今ではあまり取り上げられることもない橋川文三に触れた論文などに魅かれるものがあった。しかし私が最も感銘を受けたのが「死者を慰霊する季節に-あとがきに代えて」であった。そこで先崎は亡くなった祖母との盆の思い出を綴る。西武多摩湖線の終点駅から近い平屋の都営住宅が祖母の家だった。幼い頃祖母の傍らで茄子の牛を造り、胡瓜に足をつける手伝いをした先崎は、四半世紀以上たった現在、祖母の住んだ都営住宅の跡地を訪れる。「私は人目をはばからず膝をつき、雑草にむかい手を合わせていた。確かに祖母はここにいて私を見ている。真夏の日差しが、私と祖母をつつんでゆく-」。そして先崎は「ここからしか『国家』というものを、日本というものを考えることができない」と述べる。うーん、先崎の日本浪漫派への想いの原点があるような気がする。

2月某日
日韓関係波高しである。慰安婦像問題、元徴用工への賠償問題に加えて韓国国会の議長が「日本の天皇が元徴用工や元慰安婦に謝罪すれば済む問題」と発言したことが日本の世論をいたく刺激した。天皇は憲法上、政治的な発言はできないのだから韓国の国会議長の発言は筋違いではあるのだろう。だが日本の世論や政府与党の反発には私は少なからず違和感を抱いた。日本が日清戦争に勝ってからだと思うが、日本は朝鮮半島や中国大陸の民衆を蔑視し、挙句の果てに朝鮮半島を併合し植民地化し、中国大陸の東北部には傀儡政権の満洲国を建国、国土を蹂躙したのは紛れもない事実。昭和天皇も現在の天皇もこうした歴史的な事実を踏まえて「周辺の国々に迷惑をかけた」と遺憾の意を表明している。喧嘩でも殴ったほうは忘れても殴られたほうは忘れない。外交でも同じことが言えるのじゃないか。
たまたまではあるけれど現代韓国小説を読む。図書館で借りた「ホール」(ピョン・ヘョン 書肆侃侃房 2018年10月)を読む。著者は1972年ソウル生まれ、写真が略歴に添えられていたけれどなかなかの美人。小説はとても現代的で「生きることの不条理や不安」を著者は描きたかったのではと思う。文芸も映画もポップスも韓国勢の勢いは止まらないように思う。もしもですよ、韓国と北朝鮮が統合するようなことになれば単純に統合した以上の効果が表れると思わざるを得ない。軍事的、経済的、文化的に見ても相当な大国が日本の隣国となる。東西ドイツの統合を見れば分かるでしょう。「ホール」の出版社、書肆侃侃房は福岡市に本社があって、「韓国女性文学シリーズ」を出版している。

2月某日
「啓順兇状旅」(佐藤雅美 幻冬舎 2000年10月)を読む。佐藤雅美は昭和16(1941)年生まれだから50代後半の作品、作家として最も脂の乗り切った時期なのだろうか、期待にたがわず面白かった。啓順シリーズは「兇状旅」「地獄旅」「純情旅」の3作品だと思うが、読んでいないのは「純情旅」だけ。ふとしたことから凶状持ちとなった医者の啓順、司法の網と浅草の火消しの親方、聖天松の手先から逃亡の旅を続ける。逃亡先でやむを得ず医術を施し、それがために聖天松の手先に居所が知れてしまう。私がこの小説を面白いと思うのは、佐藤雅美のほかの小説にも言えることなのだが、その時代考証の緻密さにある。啓順シリーズの場合、江戸時代の医療、医学の考証に加えて、逃亡劇なのでその時代の交通手段、交通路の考証がすごい。今回は八王子、甲府、伊豆、大島、石巻などが舞台に設定されている。したがって甲州街道はもちろん、下田や大島の波浮湊を拠点とする当時の海運に対する考証も。海運については波浮湊から石巻までの千石船も紹介され、さらに鬼怒川や江戸川の水運も啓順は利用する。この時代考証は半端ではない。

2月某日
昨日、本郷さんから「北大の元叛旗派と吞むので一緒にどう?」という誘いの電話があったので新宿まで出かける。紀伊国屋書店の前で待ち合わせて「三平食堂」へ。ほどなく「水田」と名乗る元叛旗派が来る。北大の理系の学部を卒業した後、一部上場企業に就職したがほどなく退職、ずっと塾の講師を勤めていたそうだ。叛旗派と言っても今の若い人には通じないだろうね。1969年くらいだったと思うがブント(ドイツ語で同盟のこと。私が若かりし頃は共産主義者同盟=社会主義学生同盟のことをブントと呼んでいた)から赤軍派が分裂、次いで情況派と叛旗派が誕生した。情況とか叛旗というのはセクトの機関誌名だったような記憶があるけれど、定かではない。しばらく3人で吞んでいると、もう一人「元叛旗派」が登場。この人は「日本語講師」という肩書の名刺をくれた。聞くと中国で日本語講師をしているという。4人でいろいろ話しているうちに私はすっかり酩酊。我孫子に帰って駅前の「愛花」に寄る。ママが心配して「モリちゃん、タクシーで帰った方がいいよ」と言ってタクシーを呼んでくれる。

モリちゃんの酒中日記 2月その2

2月某日
HCM社の大橋社長とHCM近くの小料理屋「金ふじ」へ。ビールで乾杯の後、カウンターの甕に入っている泡盛を呑む。古酒とのことでアルコール度数は42度。泡盛は一杯づつにして後は日本酒。ナマコとあん肝、刺身の盛り合わせを頼む。盛り合わせには高級魚クエが入っていたし、つまみはどれもおいしかった。呑み屋のレベルは神田より新橋が高い?ということではなくて新橋のほうが幅があるということなんだろうね。地域的にも山手線新橋駅の外側はすぐに銀座、山手線の内側を少し歩くと虎ノ門、溜池、赤坂と奥行きがある。

2月某日
「〈女流〉放談 昭和を生きた女性作家たち」(イルメラ・日地谷=キルシュネライト 岩波書店 2018年12月)を読む。我孫子市民図書館のホームページの新刊紹介で目に付いたのでリクエストしたのだが読むと大変に面白かった。掲載されたインタビューは、佐多稲子、円地文子、河野多恵子、石牟礼道子、田辺聖子、三枝和子、大庭みな子、戸川昌子、津島祐子、金井美恵子、中山千夏、瀬戸内寂聴の12人。瀬戸内以外の11人のインタビュー時期は1982年春。今から30余年も前である。瀬戸内は当時海外旅行中であったためインタビューを受けられず2018年3月に京都の寂庵で行われている。当時は携帯電話もインターネットもなく、日本に短期滞在中だったイルメラは公衆電話から女性作家とのアポイントを取ったことが記されている。インタビューの日から30数年の歳月が経過していることが、この本をより興味深くさせているように思う。私の個人的な嗜好は女性作家の作品に向かうことが少なくない。それも比較的若い作家が好みである。現在ならば川上弘美、井上荒野、小川洋子、江國香織、三浦しをん、そして桐野夏生などである。インタビューされた12人の女性作家の中では田辺聖子はだいぶ読んだ。
私は「〈女流〉放談」を読んでなぜ、私が女性作家に魅かれるのか考えてみた。この対談集で繰り返し発せられる問いは「女流作家と呼ばれることをどう思うか」「女流作家は差別されているか」というものである。答え方はさまざまであるが女性作家の多くが、作家として作品を書き世に問うているに過ぎないと答えている。女性作家の多くは「普遍的な作家」と少なくとも自己規定している。しかし実態はどうなのか? 戦前から終戦を経て女性の地位は憲法上は男女同権となったし、官庁や企業での女性登用も進んでいる。進んではいるが国会議員に占める女性議員の数はまだ少ないし「女性重視」の現安倍内閣で女性閣僚は片山さつき一人に過ぎない。文学の世界で言えば芥川賞直木賞作家はまだまだ男性が多いし、審査員も女性作家が増えたとは言えまだ少数。つまり日本の文学の世界において「普遍」を代表しているのはあくまで男性作家で、女性作家は「異端」の地位にあると言えないだろうか。この傾向は30数年前では、今よりももっと強かったはずである。私もどうも子供のころから「正系」ではなく「異端」を好んでいた。真ん中より端っこが好きなのである。それは今も変わらない。「〈女流〉放談」についてのこうした感想もかなり異端と思うけれど。

2月某日
野田市の児童虐待事件で父親に次いで母親が逮捕された。被害女児のあどけない写真がテレビ画面にアップされるたびに胸が痛むとともに、その役割を十分に果たさずに結果的に女児を死に至らしめた児童相談所や教育委員会には腹が立つ。とここまで書いて、「待てよ地域社会や広く社会にだって責任はあるのじゃないか? 俺だって社会の一員だよな」と思い至る。父親や母親、児相、教委を責めて済む問題ではないのだ。
ケアセンターやわらぎの石川はるえ代表理事が応援しているのが「いのちさわやかプロジェクト」。児童虐待防止のためのプロジェクトなのだが、もっと広く若いお母さんやお父さんの子育てを応援していこうというプロジェクトだ。南阿佐ヶ谷のケアセンターやわらぎのデイサービスで、「子どもたちを集めて『何かをやる』から来ない?」と石川さんに誘われたので行くことに。もちろん『何か』については石川さんは明示したのだけれど、私は例によって記憶していない。しかし石川さんの誘いに乗ってつまらなかったことは一度もないので参加する。
我孫子から地下鉄千代田線に乗り国会議事堂前で丸ノ内線に乗り換え、南阿佐ヶ谷の駅で降りると元厚労省で川村女子学園大学の吉武民樹さんが歩いている。吉武さんも石川さんに誘われた口なので一緒に行く。会場に着くと就学前の子供たちやお母さんお父さんが一緒になって何かやっている。子供たちをリードしているのは「あそぼ」という絵本の作者の生川さん。写真を撮影しているのは横溝君だ。マスクにお絵描きしているようだ。就学前の子供を間近に見るのはほぼ40年ぶり。掛け値なしで可愛いと思う。お昼になって生川さんと子供たちはサンドイッチをラップでくるんで「パンキャンディー」を作っている。大人はサンドイッチをご馳走になる。取材に来ていた読売新聞の小泉朋子記者を紹介される。生川さんも理事をやっている愛知県のNPO法人ひだまりの丘の堀井カズコ理事長が生川さんが描いた絵葉書を売っていたので数枚買い求める。帰りに南阿佐ヶ谷駅前のうどん屋で私と吉武さんは石川さんにご馳走になる。

2月某日
「啓順地獄旅」(佐藤雅美 講談社 2003年12月)を読む。啓順シリーズは「町医 北村宗哲シリーズ」の前身。医学館で医学を学んだ啓順はふとした行き違いから浅草の火消しの顔役、聖天松に追われることに。このシリーズの面白さは一つは医者が主人公、しかも江戸時代の医療の主流であった漢方を収めた医者が主人公であること。そして医師でありながら「追われる身」となって追ってから逃げ舞わざるを得ない。昔のTVドラマで言えば「逃亡者」、ヴィクトル・ユーゴの名作「レ・ミゼラブル」の主人公ジャンバルジャンの如くである。映画のジャンルで言えば「ロードムービー」である。作家は佐藤雅美であるから時代考証とくに日本の医療、医学の歴史考証は十二分になされている。いつも感心するのはお金、通貨に関する考証もしっかりしていること。さすが「大君の通貨-幕末『円ドル』戦争」(文春文庫)の著者である。

2月某日
「維新再考-『官軍』の虚と『賊軍』の義」(半藤一利、福島民友新聞社編集局他 福島民友新聞社 2018年9月)を読む。歴史は勝者の目から見た歴史になりやすい。特に革命によって社会体制そのものが大きく変更した場合はそうなる。ロシア革命にしろ中国革命にしろ革命に勝利した政権の正統性がことさら述べられる。ロシア革命で言えばボルシェビキ、ロシア共産党の正当性が前面に打ち出され、帝政側はもちろんのことメンシェヴィキやクローンシュタットの反乱、トロッキーなどもちろんは否定的に扱われる。明治維新、戊辰戦争においては官軍側の正当性が明治以降の学校教育で前面に押し出されたのはむしろ当然のことであった。しかしそうは言っても「賊軍」側の子孫にも想いがある。本書は戊辰戦争でも最大の戦いになった会津戦争はじめ二本松城の攻防などを「賊軍」の側から描いたものである。私としては歴史に余り取り上げられたことのない福島県の浜通り、太平洋側の「賊軍」側の戦いが興味深かった。磐城平や相馬藩は当初は奥羽越列藩同盟の一員として果敢に戦うのだが、最新兵器を揃えた官軍に個別に撃破されていく。慶応4年の1月が鳥羽伏見の戦い、5月が彰義隊の上野戦争と長岡藩の北越戦争、6月が磐城平の攻防戦、7月が二本松の戦い、8月に若松城の籠城戦が始まり、9月には会津藩が降伏している。翌年の5月に五稜郭が陥落し戊辰戦争は終わる。敗北がすでに決していても戦わざるを得ないことがあることを戊辰戦争は教えてくれる。それはそれでいいのだが、あくまでも当時の支配者=武士階級の論理ではという前提がある。庶民、百姓にとっては迷惑だったろう。