モリちゃんの酒中日記 12月その1

12月某日
浅野史郎さんの出版記念パーティ。神保町の学士会館で17時30分から開始。会場に行くと福井Cネットの松永さんがいたので挨拶。浅野さんは先日の秋の叙勲で勲章を授与されたのでそのお祝いも兼ねている。パーティの前にミニシンポジウムがあった。前のほうの席に元厚労省で前参議院議員の阿部正俊先生と同じく元厚労省で今は社会福祉法人の理事長をしている河幹夫さんがいたので、彼らの後ろに座る。シンポジウムの出席者は小山内美智子さん、田島良昭さんら古くからの浅野さんの友人と厚生労働次官を務めた村木厚子さん。田島さんは浅野さんが教わったことが2つあるとして、人権の尊重と「どんなにつらくとも自分の想いを貫くこと」をあげていた。村木さんは冤罪での拘置所で犯罪者と呼ばれる人たちに「生きずらい人」が多いとして、彼らの学歴で一番多いのが中卒、次いで高校中退そして三番目に高卒が来ると言っていたのが印象的。役所にいたのでは実感としてわからないだろうな。パーティで「森田さん」と声を掛けられる。厚生省入省ながら法制局が長く、今は京大法学部で「立法過程?」を教えている茅野千江子さんだった。

12月某日
「日米安保体制史」(吉次公介 岩波新書 2018年10月)を読む。日米安保を通してみる戦後史、新書ながら労作、読み応えがあった。吉次は安保体制下の日米関係について、「非対称性」「不平等性」「不透明性」「危険性」に焦点を当てその歴史をたどっている。安保の「非対称性」というのは、米国は日本の防衛義務を負うが米国の領土が攻撃されても自衛隊は来援する義務はないということ。「不平等性」は刑事裁判権はじめ米軍に様々な権利を認めているということ。「不透明性」というのは、いわゆる「核持込み」などの「密約」である。「危険性」は在日米軍による事故や犯罪である。日本本土の米軍基地は縮小されつつあるが、問題は沖縄である。沖縄の米軍基地は高度化しつつ存続している。本土においても戦後、米軍がらみの事故、事件が頻発したが米軍基地の縮小にともない自己、事件も少なくなったが沖縄ではいまだに頻発していると言っていい。本書を読んで改めて日米安保の不平等性と危険性、さらには沖縄の犠牲の上の本土の安全があることを強く感じた。もう一つ上げるとすれば安全保障に関する昭和天皇の強い関心だ。「天皇は、安保条約と沖縄の米軍基地で日本を共産主義の脅威から守ろうと考えており、講和後も、日米協力や在日米軍を重視する旨を日米政府高官に伝え続けた」(P12)のだ。

12月某日
18時30分から虎ノ門の日土地ビルで打ち合わせ。でも17時以降は仕事をしたくない。それで居候をしているHCMの大橋社長に「6時半まで時間あるんだけれど」というと「それまで事務所にいていいですよ」という。「そうじゃなくて、それまで呑みに行こうよ」と連れ立って虎ノ門へ。日土地ビルの向かいにある新虎ノ門実業会館の地下2階の居酒屋へ入る。ビールで乾杯した後、ハイボールをジョッキで呑む。2杯目を途中まで呑んだところで6時15分。ハイボールを少し大橋社長に手伝ってもらって飲み干す。6時25分に店を出て日土地ビルへ。何喰わぬ顔で打ち合わせへ。この場合、「何呑まぬ顔」が正しい。

12月某日
学士会館のレストラン「ラタン」で建築家の児玉道子さん、年友企画の編集者、迫田さんとランチ。ここは味よし雰囲気よしで値段もリーズナブル。児玉さんは知多半島の常滑市で空き家を活用したホテルを活用する構想を話してくれた。迫田さんと別れてプレハブ建築協会の合田純一専務を訪問。児玉さんから岐阜県伊賀市の「伊賀越漬」を頂く。ウリの種を抜いた跡にいろいろな野菜を詰めた漬物で、「伊賀越え」に備えて忍者も食べたという優れモノだ。西新橋のHCMで大谷源一さんと待ち合わせて鶯谷の「やきとり ささのや」へ。ここは以前から大谷さんから聞いていた店で「安くて旨い」と評判の店だ。17時前だったがほぼ満員。店の手前は「キャッシュ&デリバリー」で常連さん向けの立ち飲み、店の奥は椅子席である。運良く椅子席が空いていたのでそこに座る。漬物と生ビールで乾杯。ハツ、ナンコツ、レバー、ニンニクなど焼き鳥を食べる。焼き鳥もおいしかったが、大谷さんお勧めの「煮込み」は絶品。

12月某日   
「戦争の論理―日露戦争から太平洋戦争まで」(加藤陽子 勁草書房 2005年6月)を読む。加藤陽子は1960年生まれ。現在、東大大学院の人文社会系研究科の教授である。日本の近代史が専門だが、史料を駆使した平易な文章で歴史を解明する姿勢には以前から私は好感を持っている。マルクス主義的な歴史理解ではなくそれでいてリベラル。「はじめに」で加藤はコリンウッドという人の言葉を引いて歴史家の仕事を「歴史の闇に埋没した作者の問いを発掘することである」としている。ここでいう「作者」とは政治家や軍人、経済人といったリーダーだけでなく実際に戦争を戦った兵隊やそれを支えた銃後の庶民も含まれると思う。近代の戦争がそれ以前の戦争と様相を異にするのは、それが総力戦として戦われたことであり、最終的に戦局を左右したのは国力、生産力だからである。
個人的には第六章の「統帥権再考―司馬遼太郎の一文に寄せて」に最も興味が惹かれた。司馬の論旨は「統帥権の独立によって、その番人たる参謀本部=統帥機関が暴走し『明治人が苦労してつくった近代国家は扼殺された』」というものだ。加藤は「それは小説家による単純化でことはもう少し複雑ではないか(もちろん、こう書いているわけではない)」と参謀本部が陸軍省から独立した1878(明治11)年から解き明かす。参謀本部の独立により、軍政は陸軍省、軍令は参謀本部という「軍政二元主義」が確立するが、軍部が政治的に台頭したのはむしろ軍部大臣現役武官制であったというのが加藤の理解である。軍部大臣現役武官制はシビリアンコントロールの対極に位置する。そして陸海軍大臣を現役としたことで、内閣あるいは総理大臣に対する拒否権を軍部に握られたことを意味する。大本営(戦時における統帥機関の最高の形態であった)の設置を巡っても統帥機関の参謀本部・軍令部(海軍の参謀本部に相当する)と陸軍省・海軍省で応酬があった。結局、加藤は戦時のリーダーが「戦争指導を直接的に行なう統帥機関になりがち」なことは一面の真理としつつ「20世紀の戦争は、作戦の集積にとどまるものでなくなった」ために、権力の統合強化が図られていったとしている。加藤の見方は総力戦の時代にあっては「統帥権の独立」はひとつの幻影に過ぎなかったということだろうか。

12月某日
年友企画の忘年会に誘われる。手ぶらで行くのも何なので、神田の食料品のディスカウントショップ河内屋でアイリッシュウイスキーの「ジェムソン」1本とバーボン1本を買って持って行く。会場は高級中華料理店の「桃園」年友企画の社員の皆さんと社会保険研究所の鈴木社長、谷野常務、フィスメックの小出社長も参加、全体で15、6人の参加であった。普段は少人数での呑み会が多いのだが、たまには大勢で吞むのも楽しい。

モリちゃんの酒中日記 11月その4

11月某日
我孫子駅に着くとまだ18時前。駅前の「しちりん」で少し呑んでから帰ることにする。社会保険研究所の手塚愛子さんにもらった「哲学すること-松永澄夫への異議と答弁」(中央公論新社 2017年11月)を拾い読みする。手塚さんは東大の哲学修士課程だったか博士課程を修了した才媛で、彼女も彼女の連れ合いも松永澄夫に師事したということだ。700ページの大著で「本体5800円+税」という自費であれば絶対に買わない本。巻末の松永自作の「松永澄夫略年譜」をパラパラと読む。松永は1947年12月生まれ、私の1歳年長。熊本に生まれ県立熊本高校卒業後、ストレートで東大理科Ⅰ類から1968年に理学部生物化学科に進学。激化していた東大闘争の影響で実験室が閉鎖されたこともあって、文学部哲学科への転部を考えるようになり、1970年に転部、特例で1年で卒業して修士課程博士課程に進む。私は北海道室蘭市の高校を卒業した後、一浪後、1968年に早稲田大学政経学部に進学したのだが、授業がつまらないこともあって積極的に学生運動に参加した。政経学部の学生自治会は社青同解放派だったが、1968年の12月に革マル派から早稲田を追い出され東大駒場に逃れた。確か駒場の教育会館に立て籠った記憶があるけれど、真面目な東大生には迷惑な話だったかもしれない。「しちりん」の後、「愛花」に寄る。看護師養成大学の助教のケイちゃん、エロ小説作家のお姉ちゃん、その他常連が来ていた。

11月某日
古巣の神田の年友企画に行って迫田さん、酒井さんと「へるぱ!」の打ち合わせ。大山均社長と少し話す。年友企画の総務担当の石津さんと浜松町の「秋田屋」に呑みに行く約束だったが、神田に変更。南口駅前の居酒屋へ。石津さんが酒井さんを呼んで三人で呑む。

11月某日
フィスメックの会長を退任した田中茂雄さんと奥さんのマキコさんと食事。2人は国分寺に在住だったから西国分寺の「オステリア西国分寺」をネットで調べて17時30分から3人で予約する。オステリアというのはイタリア語で居酒屋という意味らしい。フランス語のオーベルジュか。西国分寺駅でキョロキョロしていると「森田さん!」と声を掛けられる。見ると白梅大学の山路憲夫先生だ。山路先生は毎日新聞の論説委員を辞めた後、白梅大学で教授に就任、定年で教授は辞めたが「小平学」の研究所を設立した。障がい者福祉の社会福祉法人の理事長もやっている立派な人だ。「こんなところで何やっているの」「いやちょっと食事会があって」という会話を交わして、私は西国分寺の北口飲み屋街へ。2~3分歩くと「オステリア西国分寺」があった。お店に入ると何か一度来たことがあるような記憶が…。そういえば(社福)にんじんの会の打ち合わせの前か後に、フリーの編集者の浜尾さんと食事に来た店であった。お店の人に「5時半から予約している森田です」と伝えると「お連れ様が見えています」。奥のテーブルに田中さんが座っている。2人でビールを呑み始めたところで、奥さんが登場。いろいろ昔の話ができて楽しかった。ここのお勘定は私が持つつもりだったが、奥さんに払われてしまう。奥さんから「これ奥さんに」とお土産までいただく。西国分寺から武蔵野線で新松戸へ。新松戸から我孫子へ。

11月某日
浅田次郎の「ブラック オア ホワイト」(新潮文庫 平成29年11月)を読む。浅田次郎は現代小説でデビューした人だけど「鉄道員(ぽっぽや)」で直木賞をとり、任侠モノや時代小説、大陸モノ(中国を舞台にしたもの)など幅広い分野で活躍している。「怪異モノ」もその一つでこの小説はそれに入る。それにしても浅田次郎は今や文豪だね。「何を読んでもそれなりに面白い」などというと作家に対して失礼かもしれないが、ある一定の水準を上回る作品を次々と上梓できるというのはたいした才能だと思う。解説によると本作は週刊新潮2013年10月3日号~2014年7月24日号に連載され、単行本は2015年2月に刊行されたとある。友人の通夜の帰り「私」は都築のマンションに誘われる。都築は満鉄の理事から商社の役員を務めた祖父、その入り婿となった父と三代にわたる資産家の家に生まれ、現在の住まいはその邸宅の跡地に建てられたものだ。資産家とか満鉄の元理事という設定からして怪しい。都築は父と祖父の勤めた商社に入社し、スイスに出張する。「そのホテルは、いわゆるベル・エポックの典型だった」で始まる物語では、ホテルのバトラーが就寝時、「ブラック オア ホワイト」と言って二つの枕を持ってくる。白い枕で都築が見た夢が物語の骨子である。夢だから話の中身に荒唐無稽なところも無論ある。それが物語に対する興味を削ぐかというとそれが逆。浅田のストーリーテラーとしての巧みさに脱帽するばかりである。

モリちゃんの酒中日記 11月その3

11月某日
千葉県の「地域型年金委員」というのを日本年金機構から委嘱されている。平成30年度の「年金委員・健康保険委員表彰伝達式」と「年金委員・健康保険委員研修会」が千葉市文化センターであるので出席することにする。会場に行くと8割方の席は埋まっていてしかも若い人が多い。年金委員というのは職域型と地域型の2種類あり、健康保険委員は健康保険協会(かつての政府管掌健康保険)が委嘱するので職域型のみだから、職場の委員さんが参加しているので若い人が多いのだろう。伝達式の後の研修会で千葉年金事務所の鈴木和彦適用調査課長の「年金制度改正等について」の講演を聞いて退席。千葉市文化センターの1階にある千葉市の物産店に立ち寄り「もみ海苔」1袋100円を2袋買う。消費税込みで200円、安い!千葉駅に戻って「築地日本海千葉駅前店」へ。室蘭東高の同級生だった品川英昭君と待ち合わせているのだが、約束の5時より前に入り口で出会う。ビールで乾杯の後、ぬる燗。品川君は北大工学部卒業後、出光に入社。63歳で退職後、今は悠々自適の身。出光時代の話を聞く。現役時代は苫小牧、徳山、姫路、千葉などの製油所勤務が多かったようだ。私は大学卒業後、印刷屋や業界紙を転々としていたので大会社に勤めた経験がなく、大会社しかも石油会社という特殊な経験を聴けて面白かった。昭和42年の室蘭東高卒業生で千葉在住は私と品川君以外にも上野、阿部、坂本、竹本らがいるので今度は船橋当たりで首都圏同窓会千葉支部会をやろうと思う。

11月某日
「ヘルパ!」の取材で(社福)にんじんの会の石川正紀常務理事に会う。介護の業界では老舗の社会福祉法人にどのように現代的な改革を施していくか、悩みつつ実践している姿がうかがえた。午後、社福協の「サービス提供責任者セミナー」の吉澤努さん(よしざわ社労士・社会福祉士事務所代表)の「介護事業者がおさえるべき労務管理のポイント」を聞いてから吉澤さんに取材。「介護職の定着率を高める決め手はない。経営者や管理者には継続的かつ複合的な努力が求められる。ひとことで言えば労働環境をコンプライアンスに則って整えるということだ」と語る。なるほど。

11月某日
フィスメックの小出建社長と竹下家を弔問。奥さんとお嬢さんに挨拶。亡くなってまだひと月。まだまだ悲しみに浸っている様子だった。南古谷から大宮に出て居酒屋へ。ここは奇しくも竹下さんの通夜の帰りに大谷源一さんと落合明美さんと来た店だった。小出社長にすっかりご馳走になる。

11月某日
社福協の高橋さん、岩崎さんと内幸町から本郷三丁目へ。「Join for kaigo」の野沢悠介取締役を取材。介護職の採用、について取材。「誰でもいいから来てください」という採用はダメ、先ずは社内で「どのような人材が必要か」話し合うことが重要とのこと。私などは高度経済成長時代の採用しか知らなかったからこれは新鮮だった。会社の現状を分析したうえで採用計画を進めるべきという考え方だと思うが、ということは採用も経営の重要な一環ということである。今回の取材は実に勉強になる。本郷三丁目から年友企画の迫田さんと丸ノ内線で淡路町へ。社会保険研究所の鈴木社長に挨拶。大谷源一さんから「今、東西線の東陽町」というメールが来たので「大手町で千代田線に乗り換えて北千住で会おう」と返す。私はJRの神田から上野経由で北千住へ。北千住の改札で大谷さんとドッキング。北千住西口の居酒屋へ。

11月某日
吉田修一の「国宝」上下(朝日新聞出版 2018年9月)を読む。朝日新聞に2017年1月から2018年5月まで連載されたものに加筆修正したもの。吉田修一の作品は割と読んでいるが、「国宝」については事前に書評も読まず、その意味では先入観なく読み進むことができた。長崎のヤクザの家に生まれた喜久雄が主人公。ヤクザの抗争の末に父を殺された喜久雄は大阪の歌舞伎役者、花井半二郎の家に引き取られる。花井の家には一人息子で喜久雄と同年の俊介がいて、すでに花井半弥の芸名で初舞台を踏んでいた。喜久雄と俊介は直ぐに打ち解けながらも互いに芸道に打ち込む。大方の予想と期待を裏切って半二郎の名跡は喜久雄が継ぎ、俊介は出奔する。俊介は地方の芝居小屋やお座敷で踊りを披露しながらも修業を続ける。二人は再開し、俊介は歌舞伎に復帰し東京に進出する。その間、喜久雄の映画出演や新派への移籍など数々のエピソードがこの小説に盛り込まれている。
地の文が「ですます調」なのが異色。冒頭、喜久雄の生まれた立花組の新年会のシーンでは「黒紋付の正装で次々に降りてくる親分衆を、『ご苦労さまです』と恭しく迎えますと、その声だけでなく、若衆たちの白い息も揃います」という具合である。吉田修一はこの小説を新聞に連載するにあたり、歌舞伎役者に頼んで黒衣を誂え、舞台裏から歌舞伎を相当取材したらしい。その甲斐かどうか舞台裏、役者の控室の描写がリアル、それだけでなく役者の会話や役者の家族の会話が、東京に進出して標準語に替っていく様がリアルに描かれる。吉田修一は1968年、長崎生まれ。私より10歳年少だがすでに現代を代表する作家となったと言ってよい。

モリちゃんの酒中日記 11月その2

11月某日
天王洲アイルで開かれている半田也寸志写真展を観に行く。フリー編集者の浜尾さんが半田カメラマンのアシスタントをやっている関係で誘われた。フリーライターの香川喜久江さんと天王洲アイル駅南口で13時半に待ち合わせ。10分ほど遅れて南口に着いたが香川さんの姿が見えない。携帯に電話すると香川さんはりんかい線の天王洲アイル駅にいるという。私はモノレール羽田線、お互いに自分に都合のいい天王洲アイル駅で待っていたわけだ。香川さんと合流して会場のamang squareへ。半田さんはもともと広告、ファッション業界をフィールドとしたカメラマンだったが、東日本大震災を契機に関心が地球に向かう。だからだろうか人類史のなかでの野生動物というとらえ方が軸になっている。野生動物の表情が哲学的なのだ。表情だけではない大草原、ジャングル、雪原、天空など大自然の中の野生動物の存在が我々に何か問いかけている写真だ。もっと注目されていい写真家だ。
17時過ぎに東京駅丸の内口、三菱UFJ銀行地下の「ヴァン・ドゥ・ヴィ」へ。阿曽沼真司さんと「竹下さんを偲ぶ会」の打ち合わせ。この店にはワインに詳しい新潟出身の女性がいたのだが、このところ見かけない。阿曽沼さんにご馳走になる。東京駅のガード下なら17時前からやっているので次回はそこで呑むことに。

11月某日
元厚労省の堤修三さんと神田の鎌倉河岸ビルの「跳人」で呑む。前回「跳人」で呑んだとき堤さんが帽子を忘れたため。堤さんは東大法学部出身で昭和46年の入省。在学中は全共闘に参加、ヘルメットの色は緑色だったという。緑色のヘルメットはセクトで言えばフロント、社会主義学生戦線である。フロントは日本共産党の「構造改革派」の一派で、反日共系の学生運動の一翼を担っていた。堤さんが厚労省を辞めてから、私と亡くなった高原亮治さんの3人でよく呑んだ。高原さんは厚生省の医系技官で岡山大学医学部出身、彼は赤ヘルメットのブント、社学同である。堤さんは今、頼まれて社会福祉法人の理事長をやっている。大きな法人で職員は2000人ほどいるという。そう言えば堤さんの高校の同級生が経済学者の間宮陽介さん。堤さんと間宮さん、それに60年安保の全学連委員長、唐牛健太郎の未亡人の真喜子さんと4人で呑んだことがある。高原さんも唐牛真喜子さんも亡くなった。寂しい限りである。

11月某日
「ママがやった」(井上荒野 文藝春秋 2016年1月)を読む。表紙に英語で「mama killed him」とある。ママが殺した彼とは夫の拓人である。ママ百々子は79歳、夫は72歳。百々子は27歳の学校教師だったとき不純異性交遊の女子生徒を指導し、女子高生の相手だった年下の拓人と出会う。百々子と拓人は付き合いはじめ百々子の妊娠をきっかけに二人は結婚し、百々子は教師を辞めて居酒屋を始める。8つの短編連作小説が一家の半世紀を綴る。なぜ百々子は拓人を殺したのか、その理由は小説をラストまで読んでも明らかにされない。確かなのか不確かなのか、幸福なのか不幸なのか、平成時代も終わろうとするときの一種の「不条理小説」として読んだ。

11月某日
向田邦子は「思い出トランプ」で直木賞を受賞した1年後に航空機事故で亡くなっているから、小説家として活躍した期間は短い。向田をテレビドラマの脚本家としての面から論じたのが「向田邦子 名作読本」(小林竜雄 中公文庫 2011年2月)である。私も1970年代、だれが脚本を書いたか全く気にも止めず、向田脚本の「だいこんの花」「寺内貫太郎一家」を毎週、楽しみに観ていた。私も日本もまだ貧しかったのだろう、仕事を終わればまっすぐに家へ帰り、風呂に入って食事をして9時台のテレビドラマや旧作の洋画を楽しんでいたのである。それはさておき本書は「だいこんの花」「寺内貫太郎一家」以外にも「冬の運動会」「阿修羅のごとく」「家族サーカス」「あ・うん」「隣の女」など向田のドラマについて丁寧に論じている。ドラマに向田の私生活、親との葛藤や恋人の存在が微妙に反映しているという指摘も面白かった。向田の脚本を読んでみたいと思う。

11月某日
HCMサービスの会長だった平田高康さんの一周忌ということで、西新橋の「京の里」に会長の息子さんをお呼びして小宴を開催、私にも声が掛ったので出かける。「京の里」は名前の通り京料理の店で、会長が健在だったころは毎日のように昼と夜に通っていたということだ。料理に腕を振るっていたご主人と客の相手をしていた奥さんも昨年、平田会長と同じころ亡くなったそうだ。平田会長は永大産業出身ということは聞いていたが、息子さんに聞くと永大産業が倒産する10年ほど前に辞めているそうだ。私の知らなかった平田会長の一面を知ることができて楽しかった。

11月某日
企画を手伝っている「地方から考える社会保障フォーラム」を傍聴。厚生労働省からは成松英範家庭福祉課長が「子どもの貧困」、山口正行障害児・発達支援室長が「障害児政策」、伊原和人審議官が「2040年の社会保障」について、白梅大学の山路憲夫先生は「地域包括ケア」、宮本太郎中央大学教授は「地域共生社会」について講演した。伊原審議官は2040年には高齢者人口は現在とそれほど変わらないが、後期高齢者の割合が増え、若年人口が大幅に減ることを示し、健康寿命を延ばし現役で働ける人を増やすことが重要なことと、中央官庁も地方自治体も縦割り行政に横ぐしを刺していくことが重要という話が聞けた。社会保障関連予算の伸びを抑制しつつどのようにメリハリをつけていくかだろう。参加した地方議員は極めて熱心、高度成長期には地方自治体の課題は公営住宅や道路、公園などのインフラの整備だったが現在の課題の中心は完全に福祉、社会保障に移っていると感じた。
フォーラム終了後の夕方、大谷源一さんの携帯に電話すると「今、厚生労働省を出るところ」。というわけで経産省の別館前で待ち合わせる。どこに呑みに行くか迷ったが本日は新橋の「焼き鳥センター」にする。5時過ぎに焼き鳥センターに着く。この店のウエイターは外国人労働者が多かったが今回はアルバイトの高校生。7時ころまで呑んでいたが、出るころにはほぼ満席。安くて味も悪くないので若い人、女性だけのグループも多い。お勘定は2人で約4000円。新橋からは上野-東京ラインで帰る。男性に席を譲られる。

11月某日
「火環(ひのわ)-八幡炎炎記完結編」(村田喜代子 平凡社 2018年5月刊)を読む。前編の「八幡炎炎記」では広島市内の紳士服の仕立屋で働く瀬高克美が親方の妻、ミツ江と駆け落ちし、ミツ江の実家のある北九州の八幡に身を寄せる。克美は市内に店を出し、ミツ江の長姉サト夫婦のもとには女の赤ん坊がもらわれてくる。離婚した娘の百合子が生んだヒナ子である。帯に「著者初の本格自伝的小説・完結編」とある。ということはヒナ子は著者の村田がモデルということになる。ウイキペディアで村田喜代子を検索すると「福岡県八幡市(現在の北九州市八幡西区)出身、両親の離婚後生まれたため、戸籍上は祖父母が父母となる。市役所のミスで一年早く入学通知が来たため、1951年小学校入学。八幡市立花尾中学校卒業後、鉄工所に就職」とある。ほぼヒナ子と重なる。小説ではヒナ子が観る映画「ゴジラ」「楢山節考」が重要な役割を担う。ゴジラは南太平洋の海底に眠っていた恐竜が水爆実験で目を覚まし日本の首都東京に上陸して荒れ狂うというストーリー。ゴジラもウイキペディアで検索すると「日本の東宝が1954年(昭和24年)に公開した怪獣特撮映画」とあって、私も観た記憶がある。ゴジラは水中酸素破壊剤(オキシジェン・デストロイヤー)なる薬によって溶かされるのだが、小説では「ゴジラの断末魔の長い咆哮に、ヒナ子の胸は破裂しかけた。流す涙でゴジラの姿がぼやけた」と描写される。1954年と言えば原爆投下、敗戦から10年も経っていない。観客にも戦争や原爆の記憶が鮮明に残っていたのである。私も小学生の頃、シリーズの「二等兵物語」を母親に連れられて観に行ったが、映画を見終わったとき母親に「隣のオジサンが泣いていた。きっと戦争に行ったんだわ」と言われたことを覚えている。「二等兵物語」は喜劇役者の伴淳三郎と花菱アチャコが主演する喜劇である。喜劇であるが観客はそこに戦中の自分の姿を見て泣くのである。話がそれたが村田喜代子が中卒とは初めて知った。人間は学歴ではないとしみじみ思う。

モリちゃんの酒中日記 11月その1

11月某日
元厚労省の末次彬さんと高根和子さんに誘われてゴルフに行く。ゴルフは昨年の3月に静岡の函南カントリーへ行って以来。7時30分に吉武民樹さんが車で迎えに来てくれる。30分ほどで常陽カントリー俱楽部に到着。天気は最高だったし、やる前は少し「億劫感」があったが、やってみると楽しかった。来年は少しやってみようかな。3月の常陽カントリーは私が予約することにする。末次さんから京都の銘菓、高根さんから「珍味」を頂く。

11月某日
フリーライターの香川喜久江さんと上野の公園口で待ち合わせて東京都美術館の「ムンク展」を観に行く。ムンク(1863~1944年)はノルウェーの画家で「叫び」が有名。今回は「叫び」を含む101点の油彩画、リトグラフ、エッチングなどが展示されている。美術には門外漢だが、何しろ「障害者手帳」を交付されているので本人及び介助者は無料になるのが魅力。ムンク展で感じたのはこの作家の繊細な感受性だ。「叫び」もそうだが作家の心象が作品に反映されているのだ。ムンクも神経症で入院歴があるという。自分の耳を切ったというゴッホと同じような精神的な傾向があるのかも知れない。「死せる母とその子」「病める子」など死や病に対する強い関心も興味深い。何度かの恋愛を経験したが生涯独身だった。香川さんから「船橋屋のくず餅」を頂く。帰りは地下鉄千代田線の根津まで歩くことにするが途中で道が分からなくなる。上野高校の校門で香川さんが女子高生に「根津駅まではどう行くのでしょうか」と聞くと、小柄な美少女が「私も根津駅まで行くので一緒に行きましょう」と言ってくれる。10分ほど歩きながら一緒に話す。女子高生と話すのはおそらく50年ぶり。私が「我孫子へ帰るところ」と伝えると少女は「私の好きな作家が住んでいるところ」という。女流でファンタジー作家というから上橋奈津子のことだと思う。彼女は高校3年生、来年は大学受験。合格を祈る。

11月某日
「うらおもて人生録」(色川武大 新潮文庫 1987年11月)を読む。「はじめに」で色川は「この世の原理原則、不確実でないと思える部分については、一生懸命に記さねばならない」と書いている。色川は旧制中学を中退、一時博打(主に麻雀)で生活をしのぐ。のちに小さな出版社を転々とし娯楽小説誌に時代小説を書くようになる。1961年中央公論新人賞を受賞するが、その後純文学の創作から離れて週刊誌に浅田哲也名で「麻雀放浪記」を連載、人気作家となる。1977年「怪しい来客簿」で泉鏡花賞、1978年「離婚」で直木賞を受賞する。きわめて起伏に富んだ人生を送った人なのだが、その人の言う「この世の原理原則」とは何か? この世=人生において大事なことは、相撲で言えば「全勝」を目指すのではなく「9勝6敗」をコンスタントに維持することだという。これは私にとって妙に納得の行く話であった。唐突な話になるが現在の安倍首相、佐藤栄作や吉田茂を抜いて戦後の首相として最長記録になろうとしている安倍首相だが、どうみても運を使い過ぎている。ふがいない野党の責任もあるが13勝2敗か12勝3敗のペースで政権を維持し続けている。来年の統一地方選では連立与党は議席を減らし、参議院選挙では連立与党は限りなく過半数割れに近づくのではないか。つまり、13勝2敗ペースから5勝10敗ペースへ転落しかねないのだ。それはさておき解説は今年1月に自裁した西部邁。これがまたいい。西部も色川にも「自分の傷を晒す」という共通項があるような気がする。そして2人に共通する「無頼」という生き方。無頼は「無法な生き方をする人」という意味もあるが、ここで言う無頼は「頼みにするところがないこと」だ。無頼って自立のことだと思う。

11月某日
図書館で借りた「『医療的ケア』の必要な子どもたち」(内多勝康 ミネルヴァ書房 2018年8月)を読む。「第二の人生を歩む元NHKアナウンサーの奮闘記」という副題のついた本書、私の身近に医療的ケアが必要な人がいるわけでもないし、著者の元NHKアナウンサーが知り合いでもない。その私がなぜ本書を読むようになったか。実は数年前から「胃ろう・吸引シミュレーター」の販売にわずかだが手を貸している。開発にあたってアドバイスを頂いた群馬大学のドクター、吉野先生は確か医学部じゃなくて教育学部の所属だ。おそらく「医療的ケア」の必要な子どもたちへの教育をどうあるべきか研究し実践している。そんなこともあって本書を読むことにした。本書で明らかになったことのいくつかを記しておきたい。一つは小児医療の進歩により、未熟児で生まれた子の生存率が飛躍的に高まったこと。NICU(新生児集中治療室)の普及でそれまでは助からなかったも知れない多くの赤ちゃんの命が救われるようになった。しかしそうであるが故に障害を持って生まれる子も多くなった。その子が病院から在宅に返されるとき、在宅の受け皿が整備されているとは言い難い。女性の社会進出が進み、障害児のお母さんの多くも出産後の仕事復帰を願っている。そんな障害児と家族のために設立されたのが「国立研究開発法人国立医療研究センター」の医療型短期入所施設「もみじの家」。NHKアナウンサーの職を投げ打って「もみじの家」の管理者(ハウスマネジャー)となったのが著者である。障害児の母親の声が紹介されている。彼女は「生まれてきただけ、よかったよ」という言葉に反発する。人間として選択でき、自由であり、社会のなかで生きていく、障害児にもそうしたことが保障されるべきと訴える。「生まれてきただけ」ではだめなのだ。すごく真っ当な考えと思う。

11月某日
HCMの大橋進社長に誘われて富国生命の経済講演会に行く。毎年、帝国ホテルで開催されるこの講演会は講師の選定がいつもユニーク。今回は「編集工学」の松岡正剛。要するに経営も生活も人生すべてに編集的なセンスが必要ということなのだろうと思う。今日の話で印象に残ったのが「見えるオプションで勝負しないほうがいい。大切なのはプラス1のオプション」。私になりに解釈すると「見えるオプション」とは社会的な地位とか学歴、家柄であり、「プラス1のオプション」とはその人の個性だと思う。講演後のパーティで白ワインを呑みながら大橋社長にとってもらったローストビーフなどを頂く。さすが帝国ホテル、ワインも料理も一流である。帝国ホテルを出て有楽町のガード下で大橋社長にご馳走になる。この店は大橋社長が明治生命時代から通っていたということだ。店主が「家賃が高くて」とぼやいていた。

11月某日
「彼方への忘れ物」(小嵐九八郎 アーツアンドクラフツ 2016年5月)を読む。2年前に上梓されたものだが、書評に取り上げられることもあまりなかったのだろう、私はひと月ほど前の新聞広告で知った。小嵐九八郎は早稲田大学で社青同解放派の活動家だった。私が1969年の9月、第二学生会館に立て籠ったとき「全共闘運動は反帝学評(解放派の学生組織)に包摂されるんだよ」と青ヘルメット(当時、セクトごとに被るヘルメットが色分けされていた。ちなみに中核は白、社学同は赤)を被ることを勧められたことを覚えている。もちろん断ったけれど小嵐(本名は工藤さん、当時彼は5年生だったので2年生の私からすれば大先輩)は覚えていないだろうなぁ。小説のストーリーは新潟県村上市の大瀬良騏一が高校に入学し、バーのママと初体験を済まし一浪の後、早大政経学部に入学、学生運動に巻き込まれる。その間、初恋の人を一途に思い続けるがその人は自殺してしまう。私と工藤さんは学年で3年違うのだが、観た映画が「唐獅子牡丹 昭和残侠伝」だったり、政経学部の教授や授業のレベルを低いと感じたりするのは同じ。騏一が唯一「面白い」と思った授業が人類学の井伊玄之介教授。これは社会学の井伊玄太郎先生のことだろう。授業を選択した全員に、講義に出る出ないに関わらず「優」をくれるので人気の先生だった。もちろん私も選択した。当時の早稲田の政経は、学生自ら「学生一流、建物2流、先生3流」と言っていた。「純血主義」なのか早稲田出身の教授がほとんどだったからね。社青同解放派の活動家、小清水は第一次早大闘争の全共闘議長だった大口昭彦を連想させるし、行動隊長で中核派の中星はテレビキャスターもやった彦吉さんだ。騏一は留年後、縁あって新潟の地方紙に就職するのだが、実際の工藤さんは、確か川崎市役所に就職したのじゃないかなぁ。社青同解放派の活動を続け、解放派の分派のより過激な狭間派に所属、入獄体験もある。20年ほど前だろうか早大全共闘出身者が赤坂プリンスホテルでパーティをやったことがあるが、そのときは新進の小説家として参加していたっけ。「彼方への忘れ物」は60年代末の物語だが、小嵐は70年代を描いた「あれは誰を呼ぶ声」を先月、出版している。これも読まねばと思う。

11月某日
弁護士の雨宮英明先生から「関さんと新橋で食事しよう」という連絡があったので新橋の「ビストロ・エドギン」へ行く。雨宮先生は早稲田大学の同級生。私たちのクラスは民青が強く、私がクラス委員選挙に出てもいつも民青の清真人君に負けていた。雨宮先生はノンポリながら私たちのグループだった。ちなみに後に清君は私たちのグループだった近藤百合子さんと結婚する。清君は政経学部を卒業後、文学部の大学院を経て近畿大学の教授になった。関さんは政経学部に少なかった女子大生の一人で、中退後エレクトーン奏者をやった後、新宿と赤坂でクラブを開店した。赤坂のクラブ「邑」へは私もよく行った。クラブは閉店し関さんは悠々自適の身。三味線や小唄の勉強を続け、今月、西荻窪で発表会をするそうでビラをもらった。食事会には関さんの元カレと「邑」のチーママ?だったチエちゃんも参加、料理もワインもおいしかった。

モリちゃんの酒中日記 10月その5

10月某日
「へるぱ!」の特集「私が介護職を辞めた理由(わけ)」(仮題)の事前取材で年友企画の迫田さんと千駄木の駅で待ち合わせ。千駄木からタクシーで駒込病院へ向かう。「介護ユーアイ」の馬木功社長が入院しているためだが、「肺炎だけど、私は全然構わないよ」ということなので病棟のラウンジで取材させてもらう。いろいろと面白い話が聞けたが、「職員のキャリアアップのための社内外の研修に力を入れている」という話は大切なことだと思った。それと転職を繰り返す人は、普通の仕事では敬遠されがちだが、介護事業ではちょっと違うようだ。圧倒的な人手不足が背景にあると同時に、転職でキャリアアップを図っているという側面もあるようなのだ。板前さんとか美容師さんと同じ感じだ。勤め人というより「職人」感覚なのかもしれない。駒込病院からタクシーで地下鉄南北線の本駒込駅へ。四谷で丸の内線に乗り換え南阿佐ヶ谷へ。ケアセンターやわらぎのデイサービスへ向かう。理事長の石川はるえさんに取材。石川さんは30年来の古い友人だが、早くからISOに取組み、介護事業に標準化、合理化といった近代的な経営を推進してきた人だ。もっとも私は、いつも石川さんにご馳走になる人なのだが。石川さんは「介護保険は第2ステージに入った」として大胆な政策転換が必要なことを示唆した。取材を終わって荻窪の角打ち(酒屋の立ち飲み)「酒ノみつや」に行って青森の地酒「安藤水軍」を2杯いただき、寿司屋「日本海」で握り寿司をご馳走になる。

10月某日
社福協の「保健福祉活動支援事業」運営委員会に出席。社福協が開催するセミナーや調査研究事業等について報告を受けるのだが、その後の意見交換が私にはとてもためになる。介護事業の経営コンサルをやっている堀口直孝先生とホームヘルパー出身で自身もNPO法人楽の理事長を務め、川崎で小規模多機能事業所を経営している柴田範子先生が委員なので、お二人の味わい深い話が聞ける。外国人労働者についても日本人が使う日本語の微妙な言い回しを理解させるのは至難の業という話になった。本当はケアをやってほしい利用者が「いやぁいいですよ」というと外国人は額面通りに受け取ってケアをしない。また逆にやさしさからケアをし過ぎてしまう外国人労働者もいたそうだ。自立支援の観点から「違うのよ」と言っても「どうして」と理解されない。ちなみにこの労働者はフィリピン人で、確かにフィリピンの女性は働き者で男性にとっては大変優しい。こんな話はよそではなかなか聞けない。
「胃ろう・吸引」のシミュレータを開発したデザイナーの土方さんとHCM社の大橋社長と新橋の「焼き鳥センター」で待ち合わせ。ここのウエイトレスも外国人が多い。この前来たときは男性の確かネパール人だったが、今回は東南アジア系の美人ウエイトレスだった。大橋社長が「どこから来たの?」と聞くと愛想よく「タイです」と答えていた。2次会は近くのスナック「八田」。ママは岩手県の滝沢村(現在は滝沢市)出身で、旧丸ビルの小岩井農場に勤めていたとのこと。大橋社長とは卓球つながりだそうだ。昭和の香りのたっぷりあるスナックだった。我孫子へ帰って「愛花」による。

10月某日
「ヴィルヘルム2世-ドイツ帝国と命運を共にした『国民皇帝』」(竹中亨 中公新書 2018年5月)を読む。ヴィルヘルム2世のことは第一次世界大戦で敗北し、玉座から追われた皇帝くらいの認識しかなかったし、ドイツ帝国の成立についても高校の世界史の教科書程度の知識しかなかったので、私にはとても面白かった。ドイツ帝国はプロイセンが中心になって小国部分立にあえいでいたドイツを統一し1871年に生まれた。薩長が中心になって幕府を倒し明治政府を樹立したようなものである。違うのは幕藩体制における諸藩は版籍奉還や廃藩置県により明治新政権に統合されていくが、ドイツ帝国を構成するプロイセンをはじめとする各国(邦と呼ばれる)は存続し、独自の憲法、君主、政府、軍隊を保有した。世界大戦で連合国側と戦ったドイツ軍とは、法的にはプロイセンやバイエルンなどの邦の軍隊であった。ただしヴィルヘルム2世が創設したに等しいドイツ海軍は帝国直轄の軍であった。著者の竹中は「ドイツ帝国は、国家連合と統一国民国家という相反する二つの原理を連邦国家という形で糊塗したものといえる」とし、次第に「時代の要請に合致しない国家連合の要素が後退し、代わって統一国民国家の要素が強まっていく」と述べている。ドイツ帝国は明治国家のモデルと考えられていたし、明治憲法や陸軍さらに医学をはじめとした諸科学においてドイツは先達であった。だが中央集権国家としては、明治政府のほうがドイツ帝国よりも進んでいた面がある。

10月某日
「彼女は頭が悪いから」(姫野カオルコ 文藝春秋 2018年7月)を読む。姫野は何年か前「昭和の犬」で直木賞を受賞した人だが私は初めて読む作家。帯に「非さわやか100%青春小説」とある。この小説を読み終わった後に再びこのコピーを目にし「巧い!」と思った。横浜郊外の青葉区に住む神立美咲はもともと地元の農家の家系で、父方も母方も法事や正月に集まると「うちはもともと百姓だったから」とおおらかに語る。父は学校の給食センターに職を得、母は実家のクリーニング店を手伝う。通う大学は第3志望の、河合塾の女子大生偏差値ランキングでは48枠に位置されている水谷女子大学総合生活学科である。東京大学理科Ⅰ類から本郷の工学部へ進学した竹内つばさは、渋谷区広尾の申し分のない環境で育ち、兄は東大法学部から法科大学院に進み、つばさも大学院を目指している。美咲とつばさは出会い恋に落ちたはずだったが…。美咲はつばさへの恋心を募らせるがつばさの心は離れていく。つばさに池袋の呑み会に誘われた美咲は、巣鴨のつばさの友人のマンションに連れ込まれ友人たちに服を脱がされる。何とか逃げ出した美咲は公衆電話から110番する。東大生たちは強制わいせつで逮捕、起訴される。しかしネット上で非難されたのは美咲のほうであった。【のこのこついてったんだから、合意だろ】【これ、女の陰謀じゃねーの? 怖いねー】などなど。加害者対被害者の関係は容易に東大生対3流女子大生の関係に置き換わり、世論は東大生におもねる。「非さわやか100%」である。救いは美咲の大学の教授が自分が学生の頃、男子学生に乱暴されそうになった経験を話し「神立さんがどれだけいやな気持ちだったか、私は完全にはわかりません。ただ察することしかできません。でも、どうか元気を出して」と語りかけるシーンである。人間の本当の強さ弱さ、賢さ愚かさを考えさせられる小説である。

10月某日
年友企画の総務・経理を担当している石津さんと御徒町のスーパー吉池の9階にある「吉池食堂」で待ち合わせ。スーパー吉池は食品スーパーの老舗、吉池食堂は食材が良くて値段もリーズナブルなことから人気の店で、忘年会シーズンなど予約でいっぱいのときもある。本日は予約なしで6時前に入ると余裕で席に着けた。私のような年寄りのグループも多いが若いOLのグループもいる。生ビールを呑んでいると石津さん来る。石津さんと世間話。話題はどうしても最近亡くなった竹下さんのこと、そして竹下さんと同じくすい臓がんで亡くなった石津さんの上司だった大前さんのこと。石津さんに「森田さん死なないでよ!」「まぁ死にそうにもないか」と言われる。石津さんにすっかりご馳走になる。

10月某日
常連だったスナック「ふらここ」のママ、半谷さんと西新橋の「花半」へ。「花半」は純子さんというママが取り仕切っている店だが、お店に行くと違う女性が「姉は骨折で入院して今週、退院です」という。「予約の電話に出てたじゃない」と言うと「あれは私です」。姉妹、兄弟は声も似るものだ。ビールの後、私は富山の地ウイスキーを呑むが、これがスモーキーで私の好みに合った。ママは日本酒を頼んでいた。我孫子へ帰って駅前の「愛花」による。

10月某日
石川はるえに「ちょいと相談が」とメールすると「今日なら18時30分ころ東京駅周辺で」返事が来る。京都大学東京事務所の大谷源一さんに電話して、東京駅丸の内北口の居酒屋で時間をつぶす。18時30分に新丸ビルの1階ロビーで石川さんと会う。別の居酒屋で3人で食事。石川さんにすっかりご馳走になる。

モリちゃんの酒中日記 10月その4

10月某日
向田邦子の文庫本を図書館で借りた。文庫本の向田邦子のコーナーには10冊ほど並んでいたので一番薄そうな「きんぎょの夢」(文春文庫 1997年)を借りる。扉をめくると「この作品は向田邦子氏の放送台本を中野玲子氏が小説化したものです」とあった。そうだった。向田邦子は放送作家として「だいこんの花」「七人の孫」「寺内貫太郎一家」などの代表作がある。昭和55年に初めての短編小説で直木賞を受賞したが翌年8月、台湾で航空機事故により亡くなったのだ。だから残された作品は小説よりも放送台本のほうが圧倒的に多いに違いない。この文庫本には表題作はじめ3編が収められている。長編では無論ないが短編としては長めである。表題作の「きんぎょの夢」は次のような構成になっている。①主人公の砂子が末の妹の信子と暮らすアパートで父の七回忌の法要が行われ、他家に嫁いだ和子も駆けつける。法要が終わったあと僧は帰り、姉妹で寿司をつまむ②砂子は父が勤めていた新聞社の近くでカウンターだけのおでん屋をやっていて、かつての父の同僚が常連客となっている。常連客のひとりの良介と砂子は恋仲である。新聞社の週刊誌の編集部員である良介におでんを出前して店に帰った砂子を待っていたのは良介の妻みつ子である③砂子が帰宅すると和子が待っている。夫の浮気が発覚し家を出てきたのだ④良介が熱を出し、みつ子の頼みで砂子は四谷の二人の家へおでんを出前する。二人の様子を見て、砂子は二人が一生別れられないであろうと気付く。店に帰った砂子を、カウンターの金魚鉢の金魚にエサをやっている常連客の折口が待っていた。折口は「赤いべべ着た可愛い金魚」と低い声で歌いだし、砂子もごく自然に唱和する。「①から④で1時間のドラマかな」と想像する。放送の台本であるから構成がしっかりしている。基礎がしっかりしているから初めての短編小説でも直木賞を受賞することができたのだろう。

10月某日
アベノミクス批判の急先鋒、エコノミストの浜矩子の「自国第一主義という病-リーダーたちが招く破綻のシナリオ」(毎日新聞出版 2018年7月)を読む。本書の第1章は書下ろし、第2章~第4章は毎日新聞連載の「危機の真相」(2015年11月~2018年3月)を編集したもの。今年2018年は明治元年から150周年の年だが、浜矩子はむしろ第一次世界大戦終結(1918年)から100年に着目する。1年後の1919年にヴェルサイユ条約が締結され、その20年後の1939年に第二次世界大戦がはじまる。この20年間は「戦間期」と呼ばれるが、浜は戦間期と現在の類似性を指摘する。1929年の株価大暴落⇒2008年のリーマン・ショック、1930年代の大不況⇒2009年以降のグローバル・デフレ、英米仏の通貨戦争⇒日米中の通貨戦争、英米独仏の通商戦争⇒米対その他の通商戦争、ファシズムの台頭⇒自国第一主義者たちの出現であり、これらをまとめると狂乱の1920年代⇒金髪の2000年代ということになる。2000年代初頭にgoldilocks economy 金髪経済という言い方がはやったそうである。ゴルディロックスは金髪のお下げが似合う小さな女の子、「ちょうどいい」という感じで「ほどよく低金利で、ほどよく低インフレで、そこそこの成長率が達成されている」状態だ。浜は「戦間期」と「今」の間には驚くべき二重写し関係があるとし、私たちは「このことを脳裏に焼きつけ、胸に刻み込んでおく必要がある」という。浜矩子はたんなるエコノミストではないと思う。経済分析が的確な歴史認識に支えられており、的確な歴史認識は浜の幅広い教養に支えられているのだ。本書でも旧約聖書やアイザック・アシモフのSF、不条理演劇の「ゴドーを待ちながら」などに触れられている。それだけではない。引用は毎日新聞の「仲畑流万能川柳」にまで及ぶのである。

10月某日
「活動寫眞の女」(浅田次郎 双葉文庫 2000年5月 単行本は1997年7月)を読む。舞台は昭和44年の京都、その年、京大文学部に入学した三谷薫が「僕」として物語を進行する。古い映画館で知り合った京大医学部の2回生、清家忠昭と友人になる。2人は清家の知人のつてで太秦の映画製作所に映画エキストラのアルバイトに行くようになる。撮影現場で出会った美人の大部屋女優、伏見夕霞がヒロイン。実は夕霞は山中貞夫監督(人情紙風船の監督で知られる戦前の名監督。中国戦線で戦死)と相思相愛の仲だったが、山中監督の死を知って世をはかなんで自殺している。つまり2人が出会った夕霞は亡霊である。前に読んだ浅田次郎の「沙高楼奇譚」では同じ京都の太秦を舞台に、幕末の勤王の浪士が時空を超えて池田屋事件の撮影現場に登場するという短編があった。ファンタジーは浅田次郎のジャンルの一つであろうが京都の太秦というか、撮影現場に強いこだわりがあるのだろうか。それはともかく、私には舞台となった昭和44年には強いこだわりがある。つまり1969年だ。前年に早稲田の政経学部に入学した私は学生運動にのめり込む。一方で同級生の女子大生と恋に落ちる。つまり恋愛と学生運動に一途だったわけ。ついでに言えば土方仕事のバイトもまじめにやった。学生運動と恋愛、バイトに忙しく勉学にいそしむ暇はなかった。授業に真面目に出たのは1年生の1学期まで。ゴールデンウィークが明けたら教室から足が遠のいた。それでも4年で卒業させてくれた早稲田大学はエライ。

10月某日
愛知県を中心に家具の転倒防止活動に取り組んでいる建築家の児玉道子さんが東京出張の帰りに西新橋のHCMのオフィスに寄ってくれる。東京出張は老年学会に出席のためだとか。児玉さんの活動はもう少し注目されてもよいと思うけれど。お昼に本陣坊のそばを食べる。児玉さんに「森口漬」をお土産にいただく。

10月某日
元厚労省の堤修三さんと神田の鎌倉河岸ビル地下1階の「跳人」で呑む。社会保険研究所の鈴木俊一社長も参加、遅れて今は京都大学の東京事務所の仕事をしている大谷源一さんも来る。堤さんは厚生省で経済課長をやったことがあるので鈴木さんとの話は「薬価」で盛り上がっていた。私は薬価についてはほぼ門外漢なのだが、医療政策や福祉政策と少し違うのかなと思ったのは、医薬品を巡る政策は産業政策的な側面が強いということだ。厚生行政よりも経済産業政策に近いのではないか? 医療や福祉についても技術の進歩や高齢化によって、日本の経済に占めるウエートは今後も増えていかざるを得ない。産業政策的な配慮もより必要になってくるということだろう。

モリちゃんの酒中日記 10月その3

10月某日
卒業した中学と高校のクラス会があるので3泊4日の日程で北海道へ。初日は格安航空券で成田から新千歳空港、空港からは電車で登別、登別からタクシーで中学のクラス会会場の虎杖浜温泉ホテルほくようへ。中学のクラス会は何年か前、室蘭でやって以来。卓球部だった向井君、野球部だった晴山君や武田君は半世紀ぶりの再会だが、みんな面影はしっかりあった。宴会の後はカラオケルームで2次会。翌日はほとんどの人がバスで札幌方面へ帰るが、私は宮野君の車で東室蘭のホテルまで送ってもらう。室蘭では弟夫妻と夕食を一緒にとることになっているが、時間があるので卒業した蘭東中学まで歩く。同じ場所に中学校はあったが名前は変わっていた。中学校から自宅のあった水元町まで歩く。水元町からバスで東室蘭へ行く。途中、卒業した室蘭東高校前を通ったが、こちらも名前が変わっていた。私らが中高生の頃は室蘭も高度成長経済の波に乗って景気も良く、人口も膨張していたのだが、「鉄冷え」の時代が続き人口は激減、公立の学校も統廃合されたということだろう。夜、弟がホテルへ迎えに来てくれてホテル近くの居酒屋へ。私はもっぱら北海道の地酒を頂く。

10月某日
高速バスで高校のクラス会のある札幌へ。時計台前で下車、創成川沿いを歩いて会場の第一ホテルへ。高校のクラス会は普通科の3クラスが合同なので50人近くが集まる。倫理社会の先生だった富森先生が出席してくれる。中学のクラス会もそうだったが高校も女性の元気さが目立つ。夫に先立たれた女性も結構いた。おじいさんが朝鮮半島出身の女性がいたが、B型肝炎で国から補償金を得たり、今も病院で清掃の仕事を続けているそうだ。子供の頃近所だった山本君と同室。朝食後、数人とおしゃべりして解散。私は札幌駅まで歩き千歳空港まで電車。格安航空券で羽田へ。

10月某日
札幌行きの飛行機で読了したのが「オウム真理教事件とは何だったのか?-麻原彰晃の正体と封印された闇社会」(一橋文哉 PHP新書 2018年8月)。麻原が教団を設立した前後にブレーンとなった「神爺」「長老」「坊さん」の3人の証言からオウムの深層に迫ろうとしているのだが、この3人の証言の信ぴょう性が検証されていないのが難点。むしろ裁判記録を徹底的に検証して裁判で明らかになったことと、解明されなかったことを示すべきではないかと思う。麻原を「詐欺師」と断定する著者の視点にも疑問が残る。宗教的にも検証されるべきと思うのだが。

10月某日 ‘
飛行機の中で新書を読み終えてしまったので室蘭在住の弟に「薄めの文庫本(小説)を下さい」とメールしたら「指の骨」(高橋弘希 新潮文庫 平成29年8月)を用意してくれた。帯に石原慎太郎が「大岡昇平の名作『野火』『俘虜記』に匹敵する戦争文学だ。」という推薦の言葉が印刷されている。著者の高橋は1979年生まれだから私の子どもと同じ世代、太平洋戦争はもちろんベトナム戦争だって知らないはずだ。そういう人が書く「大岡昇平に匹敵する戦争文学」ってどういうことなのだろう、俄然興味を抱いてしまった。主人公の「私」は「赤道のやや下に浮かぶ、巨大な島。その島から南東に伸びる細長い半島」に米軍基地を占拠する目的で上陸するが、戦闘で負傷し後方の野戦病院へと担送される。「巨大な島」とはおそらくニューギニアのことだ。物語の前半はこの野戦病院での日常が淡々と描かれる。絵の巧い負傷兵や現地の子供たちに紙飛行機を折ってやる病兵、サナトリウに勤務していた軍医。彼らにとっての野戦病院は、まさに日常なのだが、野戦病院である以上、傷やマラリアが悪化して死亡する兵もいる。「指の骨」は死者の指を切り離し、遺品として持ち帰ることからタイトルとされている。戦闘の悪化にともない、野戦病院は撤収し歩ける兵はジャングルを転進する。銃も鉄兜もどこかへ行ってしまい「私」はいつか一人の敗残兵となる。ここら辺の描写が「野火」を連想させるのかもしれないが、私はむしろその乾いた文体からか、初期の大江健三郎の作品「飼育」や「死者の奢り」を思い出した。それにしても高橋弘希は日本の軍隊のことをよく調べ上げたと言わざるを得ません。

10月某日
図書館で借りた「日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実」(吉田裕 中公新書 2017年12月)を読む。たまたまなんだけど「指の骨」で描かれた兵士の太平洋戦争を、資料から明らかにしようとしたユニークで意欲的な新書である。「はじめに」によると、ある時期まで軍事史研究は防衛省防衛研修所などの旧陸海軍幕僚グループによる「専有物」だったという。おそらく開戦に至る経緯とか戦時中の銃後の政変、あるいは敗戦に至る政治過程とか、そういうところに歴史学の学問的関心があり、戦場や兵士の暮らしについてはあまり重視されてこなかっただろうと思う。「あとがき」で著者は、無残な死を遂げた兵士たちの死のありようを残しておきたいと強く思うようになり、1999年に靖国偕行文庫で部隊史や兵士の回想録を閲覧できるようになったのも書き残しておきたいという想いを一層強くしたと述べている。たしかに本書で紹介されている兵士の回想録や部隊史には、あの戦争がいかに無謀な戦争であったかが赤裸々に語られている。ようするに日本の生産力、国力が米英に比較すれば著しく劣っており、短期戦ならばともかく4年にもおよぶ長期戦を戦うべくもなかったのである。昭和天皇はじめ当時の権力者、指導者の責任は非常に重いと言わざるを得ない。本書を読んでもっとも感じるのは「兵隊さんは可哀想だね」ということと戦場となったアジアの人々に「迷惑をかけたんだなぁ」ということである。

モリちゃんの酒中日記 10月その2

10月某日
大谷源一さんと上野の「養老乃瀧」で吞む。焼酎をボトルで頼む。その方が安上がりではある。しかし「養老乃瀧」はボトルキープができない、2人でボトル1本はかなりハードである。2人とも今年70歳だからね。隣のテーブルで吞んでいた中年女性2人組と話す。「清掃の仕事をやっている」という女性は確か72歳と言っていた。「生涯現役」ってわけだ。本当にエライと思う。

10月某日
「人口から読む日本の歴史」(鬼頭宏 講談社文庫 2000年5月)を読む。「新時代からの挑戦状」(厚生労働統計協会)の金子隆一論文を読んでから「歴史人口学」に興味を抱く。で、本書は1983年にPHP研究所から刊行された「日本2000年の人口史」が底本になっているというから、まぁ大筋は35年前の内容なんだけれど私には全然古さを感じなかった。むしろ新鮮でさえあった。「人口の推移を歴史的に読み解く」という「歴史人口学」の存在自体を知らなかったので無理はないけれど。人口は奈良時代以降はある程度、残された文献や江戸時代以降は寺の過去帳や宗門改帖で推し量ることができる。それ以前の縄文、弥生時代は遺跡から推計するしかない。集落の遺跡を調査し、住戸が何戸あり1住居には何人居住したかを推計するのである。その過程で当時の人々が何を食べていたかも分かってしまう。人骨や過去帳を調べることによって過去の寿命がどれくらいだったかもわかる。「人生僅か50年」というけれど出生時平均余命が50歳を超えたのは、第2次世界大戦後の1947年で男50.1歳、女54.0歳だった。男も女も平均余命では還暦を超えることがなかったのだ。
著者は「人口は自然環境の変動によって影響を受けるとともに、文明システムの転換や国際関係の変化とも密接に関連していた」(P253)という。自然環境の変動というのは、たとえば気候の変動によって採取する植物や魚、動物が激減したり、冷夏によってコメの収穫がほとんど期待できなかったりすることである。文明システムの転換とは、日本の場合は採取、漁撈、狩猟から水稲農耕を基盤とする農業生産への転換、さらに産業革命を経て工業化社会に至ったことを示す。国際関係の変化とは江戸時代の鎖国や、明治以降の近隣諸国への進攻、侵略を指す。さて、これからである。現代文明を特徴づけるのは生物的資源から非生物資源への、エネルギー利用の転換だ。農業社会は牛馬や人間自体の労働に依存し、水力、風力などの自然力が補っていたが、工業社会では石炭、石油、天然ガス、ウランなどの非生物エネルギー資源の利用が進んだ。だがこれらの非生物エネルギーはいずれは枯渇する運命にある。著者は「簡素な豊かさ」という表現で、エネルギーと資源を、再生可能な自然力と生物へ転換することを主張する。さらに「必要以上の消費をせずに、効率的な資源利用を実現することによって、環境汚染を防ぐとともに、南北間の資源の公平な分配に寄与しうる」(P273)とする。そして人口減少社会、超高齢化社会に適合したシステム、ライフ・スタイルの確立を訴える。正しいと思います。

10月某日
「思い出トランプ」(向田邦子 新潮文庫 昭和58年5月 単行本は55年12月)を読む。山本夏彦が「向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である」と評したのは有名だが、向田は本作に収められている「花の名前」他2作で昭和55(1980)年の直木賞を受賞、翌年の8月、台湾旅行中に飛行機事故で亡くなる。ということは亡くなってもう40年近く経過していることになる。そんなに時間が経っているなんて信じられないが、当時の直木賞の選考委員で向田を推した山口瞳、水上勉、阿川弘之の3人もすでに故人だから、そういうことなのだろう。直木賞受賞作の「花の名前」は結婚25年の夫婦の話。妻の常子に「ご主人にお世話になっているものですが」と女から電話があり、ホテルのロビーで会うことになる。つわ子と名乗った女は、二流どころのバーのママらしかった。帰宅した夫と妻の会話。「電話があったわよ。あのひと、一体・…」/追い討ちをかけると、夫の足が止まった。/「終わった話だよ」/そのまま入っていった。/またひと廻り、躯が大きく分厚く見えた。その背中は、/「それがどうした」/と言っていた。
結婚する前、夫は花の名前を桜と菊と百合しか知らなかった。夫は子供の頃から勉強一筋、「数学と経済学原論だけが頭にあった。真直ぐ前だけ見て走ってきた」のだ。「花の名前。それがどうした。/女の名前。それがどうした。/夫の背中は、そう言っていた。/女の物差しは25年たっても変わらないが、男の目盛りは大きくなる」。向田は平成の代を見ることなく亡くなったのだが、ここに描かれた夫婦の姿は明らかに昭和のものだ。向田は1929年生まれで私の父母が1923年生まれだからほぼ同世代。「花の名前」の夫婦も同じようなものだろう。戦後生まれは、いや少なくとも私は妻に「それがどうした」とは、口が裂けても言えません。

10月某日
桐野夏生の「リアルワールド」(集英社文庫 2006年2月 単行本は2003年3月)を図書館で借りて読む。図書館で借りた本の奥付は(2018年6月第5刷)とある。実は家に帰って本棚を見たら「リアルワールド」の文庫本があった。こちらの奥付は(2006年2月)。文庫本になった直後に買ったらしい。でも読んだこと自体覚えていないし、読み進んでも内容も全く覚えていない。認知機能の衰えか?同じ本を時間をおいて2冊買うというのは以前にもあったことだが。それはともかく「リアルワールド」は同じ高校に通う4人の女子高生と、母親を殺害して逃亡中の少年の物語である。桐野夏生の小説を「プロレタリア文学」と評したのは白井聡である(「奴隷小説」の文春文庫解説)。白井は「桐野氏こそ『階級』に、『搾取』に、より一般的な言い方をすれば『構造的な支配』に、最も強くこだわっている書き手ではないだろうか」と主張する。「リアルワールド」も「構造的な支配」に強くこだわった作品と言える。支配される側は4人の女子高生と逃亡中の少年である。支配する側は親、学校、大人を含めて社会である。少年の親殺しも女子高生の1人が逃亡に同行してタクシー運転手を脅し事故死するのも、1人の女子高生の自死も、社会に対する単独の「蜂起」と言えなくもない。単独の「蜂起」は当然、失敗し支配される側には絶望が残る。ただ、最近の桐野の作品には「バラカ」「夜の谷を行く」など結末に「未来」へのほのかな希望を示すものもある。

10月某日
「思い出トランプ」に続いて向田邦子の「男どき女どき」(新潮文庫 昭和60年5月 単行本は昭和57年8月)を読む。向田が台湾を旅行中に航空機事故で亡くなったのが昭和56年の8月だから、単行本は死後の刊行である。遺作となった短編小説が4編、あとは雑誌などに掲載されたエッセーである。短編小説を読んで改めて「うまいなぁー」と思う。「鮒」は中年サラリーマンの塩村が主人公。小料理屋の手伝いをしているツユ子のアパートに週に一度通うような関係になり、ツユ子は鮒を鮒吉と名付けて飼い始める。塩村の出張や病気で寝込んだのをしおに、塩村はアパートから足がごく自然に遠のいて一年がたつ。日曜日、家族4人で笑いあっていると台所で音がする。行くとポリバケツに入れられた鮒がいた。塩村はツユ子とのことが家族に露見しないか気を揉むが、息子の守が鮒を飼いたいと言いはじめ水槽も買ってくる。鮒が来た次の日曜日、塩村は息子を誘ってツユ子のアパートのあったあたりを訪ねる。ツユ子は引っ越したらしい。「塩村はもっと自分をいじめたかった。鮒吉の世話をしてくれている守を連れて、一年前の古戦場を葬って歩きたかった。そうするのが守に対しての仁義だと思った。ツユ子に対する罪ほろぼしというところもあった」。うちへ帰ると鮒吉は浮いていた。終り方がいい。「『ねえ、パパとどこへ行ったの』/守は、もう一度そっと鮒を突いて水の中へ沈めてやると、/「ワン!」/犬の吠えるまねをした」。息子もなんか気が付いているわけね。向田邦子は一度も結婚していないし子供も持たなかったわけだけど「家族」を描くと実にリアリティがある。「鮒」では幸福な家族とその異物としての夫の「浮気」、そして息子の成長といったものが「鮒吉」の一家への闖入と退出を通して語られる。
エッセーでは向田邦子の実像がより迫ってくる。「ゆでたまご」というエッセーでは小学校の足の悪いクラスメイトのことを綴る。足だけでなく片目も不自由だった彼女は家も貧しく性格もひねくれていた。運動会の徒競走で彼女は当然、とびきりのビリ、走るのをやめようとした瞬間、女の先生が一緒に走り出し、彼女を抱え込むようにしてゴールする。この先生はかなりの年配で叱言の多い学校で一番嫌われていた先生だった。向田は「私にとって愛は、ぬくもりです。小さな勇気であり、やむにやまれぬ自然の衝動です」と書く。エチオピアとカンボジアで出会った少年たち、内戦をどうくぐり抜けたのかと気遣うエッセー(えんぴつ)、伝統的な日本人の価値観について「人さまの前で『みっともない』というのは、たしかに見栄でもあるが含羞でもある。恥じらい、つつしみ、他人への思いやり。いやそれだけではないもっとなにかが、こういう行動のかげにかくれているような気がしてならない」と綴り、「私は日本の女のこういうところが嫌いではない。生きる権利や主張は、こういう上に花が咲くといいなあと、私は考えることがある」(日本の女)と結ぶ。こういうことを嫌味なくあっさりと書ける人はなかなかいません。

10月某日 
「山本周五郎名品館Ⅳ 将監さまの細道」(沢木耕太郎編 文春文庫 2018年7月)を読む。山本周五郎の長編は結構読んできた。「樅ノ木は残った」「さぶ」「虚空遍歴」「青べか物語」など。短編はあまり読んだことがなかったし、沢木耕太郎編というのが気になって読むことにする。9編の短編が収められておりそれぞれが面白かったが、私が勝手に分類すると居酒屋と娼家を舞台にしたのが2編ずつ、市井ものが3編、武家ものが2編。沢木耕太郎の「悲と哀のあいだ」と題された「解説エッセイ」で、山本周五郎と山手樹一郎を対比している。このエッセーで初めて知ったのだが、山手樹一郎は作家になる前は編集者で、売れない前の周五郎は金銭的にも編集者時代の樹一郎に世話になったらしい。戦後、樹一郎が時代小説作家としてデビューし流行作家になる。樹一郎の小説は戦後の大衆に支持されたのだが、彼自身は「大衆作家」としての自分に不満だったらしい。周五郎は今の路線でいいのではないかと樹一郎に言うのだが、沢木はそこに周五郎の「勝者」としての「傲り」のようなものが滲んでいないかと書く。このエッセーは周五郎の短編みたいな味がある。

10月某日
「のろのろ歩け」(中島京子 文春文庫 2015年3月 単行本は2012年1月)を読む。映画で言うと海外ロケ物の中編小説が3編。舞台は台湾、北京、上海。「天燈幸福」は生前、母から台湾旅行を誘われていた美雨が一人で台湾を訪ね、母の知人に会う話。旅の途中で知り合った台湾人青年の「トニー」がエスコートしてくれる。台湾は1985年日清戦争の結果、日本に割譲され1945年の日本の敗戦まで日本の統治下にあった。朝鮮半島では日本の植民地支配に対して、例えば従軍慰安婦問題のように鋭い告発が今でもされるのだが、同じ旧植民地でも台湾とは温度差があるように思う。台湾は日本の植民地支配が終わった後、蒋介石の国民党が軍隊と共に台湾に逃れ、これがかなりの圧政、暴政を敷いたらしい。私の想像だが、これが日本の植民地支配の印象を薄めているのではないか。「北京の春の白い服」は、中国の女性向けファッション誌の創刊に日本人スタッフとして招かれた夏美が雑誌の中国人スタッフやビジネスセンターの常盤貴子似のスタッフとの交流、日本人留学生のコージとの出会いを通して、彼女の中国への想いが変化していく様子が描かれる。夏美のアメリカ人のボーイフレンドは天安門事件のときに中国に滞在し、中国政府の民衆弾圧を目撃している。彼と夏美の意識のズレも読みどころの一つ。「時間の向こうの一週間」は夫が赴任する北京で二人で住むためのアパートを探しに来た亜矢子は、夫が仕事の都合で北京を離れざるを得ず、中国人ガイドのイーミンと二人で物件をまわらざるを得なくなる。亜矢子とイーミンの束の間の交情。海外を舞台にした小説って「束の間の交情」がいいんだよね。

モリちゃんの酒中日記 10月その1

10月某日
「死と生」(佐伯啓思 新潮新書 2018年7月)を読む。著者の佐伯は東大の大学院で西部邁の下にいたことがあったんじゃなかったかなぁ。今は京大名誉教授で京大こころの未来研究センター特任教授。保守派知識人と呼ばれることが多いが、私は西部や佐伯を「日本会議」を根城にする所謂「保守派知識人」と一緒にするのには大いに抵抗がある。それはさておき本書は日本人の死生観について佐伯の年来の考えを表出したもの。佐伯はもともとは経済学の出身なのだが近年は社会思想家として「西田幾多郎」の著書もある。東大の経済学部、大学院で佐伯とほぼ一緒だったと思われる間宮陽介も、京大経済学部長も務めた「経済学者」なのだが、「丸山眞男を読む」を著したり「経済学」におさまらないフィールドで活動している。また話が横道にそれた。佐伯の考える日本人の死生観は、「仏教的なるもの」に多くの基礎を置いている。これはまぁ当たり前なのだが、佐伯の「仏教的なるもの」は古くはゴータマ・ブッダの原始仏教に始まり、平安時代の源信の浄土思想、さらに法然、親鸞、道元、鴨長明、現代の松原泰道に及ぶ。
佐伯は1949年生まれだから私より1歳下である。年齢的なこともあって「死」について思索するようになったのであろうか。また経済学的な思考をはじめ近代合理主義に包括される社会科学全般に限界を感じて「仏教的なるもの」に惹かれて行ったのか、そこは分からない。しかしキリスト教、ユダヤ教、イスラム教といった一神教と比べると仏教は異質である。ゴータマ・ブッダは仏教の開祖であるが、唯一神ではない。大日如来は密教では教主、主尊とされるが、浄土宗、浄土真宗では阿弥陀仏が本尊である。キリスト教、イスラム教にも宗派、分派があるが、仏教ほど多くはないのではないか。仏教はおおむね分派や他宗派に寛容だが、キリスト教は宗教戦争を戦ったし、イスラム教は現在でもISその他の勢力が聖戦を戦っている。佐伯は仏教の多くの宗派、分派を超えて「仏教的なるもの」に着目する。それは日本人の自然観―農耕社会的な生成の観念、つまり次々と命を生み出し、やがて朽ちてゆくという一種の植物的な生命観―に通じる、という(第7章「あの世」を信じるということ)。ふーん、何となくうなづけるものがある。

10月某日
浅田次郎の「沙高楼奇譚」(文春文庫 2011年11月)を読む。浅田次郎は最近好きな作家で、随分と読んだような気がするのだが、何しろ量産型の作家なのでとても追いつけない。浅田は多作という意味では量産なのだが、私が読んだものは私にとってはどれも面白かった。その点「外れ」のない作家で、私のようにさしたる目的もなく「ただ本を読むのが好き」なものにとってはありがたい。私は原則として一度読み始めた本は、つまらなくとも読み通すので、「外れがない」のは時間を有効に遣っているように思えるのだ。本書の狂言回しを務めるのは浅田とおぼしき、元刀剣売買の世界にいた作家である。ある日上野の国立博物館に刀剣を観に行きそこで旧知の鑑定家に会い、その日開かれるという会に誘われる。連れていかれたのが青山墓地ほとりの高級マンションの最上階で、玄関のホールには「沙高楼」と書かれた扁額が掛けられていた。その沙高楼の広いラウンジで出席者が自分の体験を語るというのが物語の骨格。1人目は作家を誘った鑑定家で、贋作に奇妙な情熱と技巧を凝らすある刀剣作家の話、2人目は名門私立の小学校を転校していった美少女と自分との30年に及ぶ奇妙な出会いを語る精神科医、3人目は戦後すぐの京都太秦の撮影所で、池田谷事件を題材にした時代劇を撮影中のキャメラマンの時空を超えた体験、4人目は本家の指令で自分の親分を殺害せざるを得なくなるヤクザの話である。2話目はたぶん親の破産で学校を転校せざるを得なかった浅田の体験が元になっていると思うが、他の3作は純粋な創作だろう。純粋な創作故に、1作目は日本刀、3作目は映画製作、4作目はヤクザについての実情、実態が綿密な資料調べの下に行われている。それがややもすれば荒唐無稽に取られかねないストーリーにリアリティを与えていると思われる。

10月某日
「未完のレーニン-〈力〉の思想を読む」(白井聡 講談社選書メチエ 2007年5月)を読む。本書はおそらく白井聡の初めての単行本である。「あとがき」にあるように本書は白井の修士論文がもとになっている。とは言え出版当初はそれなりに話題になったし、その後の白井の論壇での活躍は言うまでもないだろう。本書の書かれた意図はソ連邦をはじめ、いくつかの例外を除いて社会主義諸国が消滅した今日、レーニンが考えたこと、目指したことは何かを明らかにしていくことにある。そのため白井はレーニンの「何をなすべきか」と「国家と革命」を取り上げる。個人的なことを述べると私がレーニンの著作を初めて読んだのが「国家と革命」で大学に入学した直後、「ロシヤ語研究会」(露語研)というサークルの読書会で読みあわせた。もちろん露語研とは言え読んだのは日本語。国家とは階級対立の非和解的な産物であり、警察、軍隊は国家の暴力的な機構に過ぎないというレーニンの論に若い私は「その通り!」と思ったものである。「何をなすべきか」を読んだのは、私が過激な学生運動から召喚して、大学ももう卒業していたかも知れない。しかし自分の敗北経験からしても、労働者の自然発生的な意識からは革命的な意識は生まれないし、確固とした前衛党、すなわち労働者からの外部から意識を注入しなければ労働者は革命化しないという論にも「まぁそうだよな」と思ったものである。「国家と革命」の読後感が「その通り!」に対して「何をなすべきか」のそれが「まぁそうだよな」というのは、学生運動からの転向前と転向後の私の「意識」の違いをあらわしていて面白い。
今、「未完のレーニン」を読み終わって私は何を思うか。第一次世界大戦の前に、帝国主義諸国の領土争奪戦はほぼ終わっていた、そうであるが故に「遅れてきた」帝国主義国家であるドイツ英仏露に対して宣戦布告し、社会主義の国際組織だった第2インターナショナルは雪崩を打って「祖国防衛戦争」を支持した。ロシア社会民主党・ボルシェビキのなかでも「祖国敗北主義」を唱えるレーニンは少数派であったが、亡命地スイスで2月革命の報を聞いたレーニンは封印列車でロシアに帰り、武装蜂起を主張しその準備を進める。そのとき書かれたのが「国家と革命」である。革命によって国家権力を奪取した労働者階級とその前衛党は当面、プロレタリア独裁によってブルジョア階級を抑圧する。やがて抑圧すべきブルジョア階級は消滅し、階級抑圧の機関としての国家は必要なくなる。レーニンは一国で社会主義が成立するとは考えていなかったから、国家の消滅とともに国境も消滅する。少なくともロシア革命時、「国家と革命」を執筆していた当時、レーニンはそう考えていたに違いない。レーニンは革命後、数年にして死亡する。レーニン死後、スターリンが権力を掌握し一国社会主義を唱え、トロツキーはじめ、多くの反対派が粛清される。ソ連が実現した「社会主義」を見たらレーニンはどう思っただろうか?歴史に「if」はないけれど。

10月某日
長年の友人だった竹下隆夫さんが亡くなった。10月5日に未明に亡くなりその日、フィスメックの小出社長から訃報を聞いた。通夜は7日、告別式は8日だった。通夜の前日、奥さんの敦子さんから弔辞をお願いしたいという連絡があり、我ながら「心に沁みる」弔辞を書いた。ところがである、通夜の当日、武蔵野線の北朝霞を乗り過ごし斎場に到着したのは通夜開始のギリギリであった。「時すでに遅し」。結核予防会理事長の弔事に続いて友人代表として弔辞を述べたのは社会保険研究所の川上会長であった。献花のときに奥さんと娘さんに「申し訳ありませんでした」と謝り「竹下さんもモリちゃん、しょうがないなぁ、と許してくれると思いますが」と付け加えました。お清めの席で元厚労省の末次さん、高根さん、江利川さん、宮島さん、唐沢さん、ふるさと回帰支援センターの高橋理事長、高齢者住宅財団の落合さん等と話す。帰りは大宮まで出て落合さん、大谷さんと吞む。大宮から東武野田線で柏まで出て我孫子に帰る。我孫子駅前の愛花による。