モリちゃんの酒中日記 9月その3

9月某日
上野の東京都美術館に「藤田嗣治展」をフリーライターの香川さんと観に行く。没後50年ということだ。今回初めて知ったのだが藤田の父は陸軍軍医で軍医総監までやった人だそうだ。第一次世界大戦の直前にパリに留学しているということは、実家はそれなりの財力があったということか。それはさておいても展示されていた藤田の作品は風景画、ヌード、静物、晩年の宗教画までどれもなかなか味わい深いものがあった。当時の芸術の中心地だったパリでアジア人として独自性を発揮しつつ西欧の先端的な芸術に溶け込むというのは大変な才能と努力だったと思う。藤田の戦争画が2点展示されていた。「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」である。戦争画は戦意高揚のために画家が描かせられたということになっているが、藤田の絵は「アッツ島」にしろ「サイパン島」にしろ、戦意を高揚させる目的を達したとは言い難い。戦争の理不尽さ無意味さがリアルに徹した筆使いのなかに私には感じられる。上野駅入谷口近くの居酒屋で香川さんと呑む。香川さんにメイプルシロップを頂く。

9月某日
「はじまりのレーニン」(中沢新一 岩波現代文庫 2005年6月)を読む。本書は1994年6月に岩波書店から刊行されている。ソ連が崩壊したのが1991年だから、「はじめに」で中沢は「レーニン主義を体現すると言われてきたもののすべてが、いまや解体した。器が壊れたのだ。(中略)私たちは、器が破壊されたことに、よろこびを見いださなくてはならない」と述べているのだ。「レーニンはよく笑う人だった」をはじめとして今まで流布されてきたレーニンの像とは全く異なる像を本書から読み取ることができる。レーニンはもちろんマルクス、エンゲルスの著作から唯物論を学ぶのだが、それにとどまることなくヘーゲルや「靴屋の親方」で「ドイツ観念論の父」ヤコブ・ペーメにまでさかのぼる。ペーメの「三位一体論」がヘーゲルの弁証法やマルクスの資本論の形成に影響を与えたという。正直、これらの論説は私の手に余り理解の範疇を超えるのだが、興味を持って読み進むことはできた。「グノーシスとしての党」という章ではレーニン主義の党=ボルシェビキが古代キリスト教の異端、グノーシスと極めて類似した思想を持っていたことが明かされる。中沢新一の本を読むのは、歴史学者の網野善彦のことを描いた「僕の叔父さん」以来だけれど、もう少し読んでみたい気がする。

9月某日
中島京子の「長いお別れ」(文春文庫 2018年3月)を読む。単行本は2015年5月。認知症の東昇平は中学校の校長を定年退職したのち、名誉職の図書館長をやり今は悠々自適の身。クラス会の会場にたどり着けなかったことから認知症が発覚、妻と3人の娘を巻き込んだ認知症と共に暮らす日々が始まる。認知症を題材にした家族をテーマにした小説。夫を思いやる妻と3人の娘、ときには頑なになりながらも教師時代と同じように誠実に生真面目に生きる認知症の夫の姿が温かい筆致で描かれる。認知症の人との接し方は「なるほど、こうあるべきなのか」と思わせる。認知症の母を赴任先の中国から一時帰国して見舞う工藤晴夫のエピソードがいい。中国土産のシルクのマスターを渡すと母は、自分の息子とは認識できず「あなた、とっても優しい人ね」「私、あなたのことが好きみたい」と告げる。晴夫は少し泣きそうな顔で笑いだす。いいよなぁ。

9月某日
「死してなお踊れ 一遍上人伝」(栗原康 河出書房新社 2017年1月)を読む。栗原は最近「村に火をつけ、白地になれ 伊藤野枝伝」(岩波書店)を読んで面白かったので、我孫子市民図書館で「栗原康」を検索、最新作を借りる。一遍上人は鎌倉期の僧侶で時宗の開祖として知られる。実際には宗派の名称としてとして時宗が用いられるようになったのは江戸時代以降で、一遍のころは念仏を唱えることによって成仏ができるという教えのもと、念仏を唱えながら踊るという宗教的な集団であった。栗原は「一遍聖絵」「一遍語録」を底本にしている。町田康が古典の「義経記」を底本にして「ギケイキ1、2」を執筆したのと同じだが、そこは小説家の町田と研究者の栗原の違いか、「ギケイキ1,2」のほうが話としては圧倒的に面白い。しかし栗原も町田も偶然、名前は「康」だ。栗原は「やすし」、町田は「こう」と読むにしても、軽妙な文体にも共通点がある。栗原はまだ若いのでこれからの精進に期待。

9月某日
「行きつ戻りつ」(乃南あさ 新潮文庫 2002年12月)を読む。初出は同社の月刊誌「ミセス」で、1年間の連載であったことから12の短編が収録されている。「ミセス」の読者を意識して12の短編の主人公は主婦、妻である。夫や子どもとの葛藤、金銭的な悩みなどを抱えた妻たちが、それぞれの事情から日本各地、北海道斜里町から熊本県天草町まで12か所を訪れる。「まことによい読後感」と題する解説(立松和平)が載せられているが、いずれの作品も未来を予感させる心地よいエンディング。新潮文庫には栞が付いている。栞が付いているのは多分、岩波文庫と新潮文庫だけ。奥付の発行年の記載が昭和とか平成といった元号なのも新潮文庫の特徴。こだわりかね。

9月某日
「世界経済の『大激変』-混泳の時代をどう生き抜くか」(浜矩子 PHPビジネス新書 2017年)を読む。自民党総裁選挙で安倍晋三が三選された。対抗馬の石破茂が予想以上の善戦、勝者の硬い表情と敗者の笑顔がテレビのニュースで繰り返し流される。反アベノミクスの急先鋒のエコノミストが浜矩子だ。今回の著作では安倍政治とトランプの類似性やヨーロッパの極右勢力、フランスのルペンなどとの共通性に警鐘を鳴らしている。ルペンは「もはや、右翼も左翼もない。あるのは、グローバル主義対愛国主義の対立のみだ」という。浜はこのルペンの発言にかぶせて「あるのは、ニセポピュリズムと真のポピュリズムの対立のみだ」とする。真のポピュリズムとは人民主義、人民本位と浜は主張する。おそらく来年の参院選挙で与党勢力は後退し、円安を基調に回復してきた景気も先行き不透明になるのではないか。浜の主張に耳を傾けていきたい。

9月某日
「日本の『運命』について語ろう」(浅田次郎 幻冬舎 2015年1月)を読む。浅田次郎の講演をまとめたもの。浅田が歴史小説を執筆するにあたっていかに資料を読み込んでいるかがよくわかる。浅田は酒を一滴も飲めないそうだが、資料の収集とその解読で確かに酒を呑んでいる暇はなかろうと思う。浅田は中国文明に尊敬の念を抱き、清朝と徳川政権を比較して、徳川政権は270年、清朝は300年続いたが徳川将軍は15代、清の皇帝は12代、徳川は30年短いにもかかわらず15代の将軍が交替という事実を指摘する。家康、吉宗を除いて英明な将軍はいない、対して清の皇帝は皆それぞれに優秀だったというのが浅田の主張。浅田は真のインテリ、知識人だと思う。真の知識人は差別意識からも自由なのだ。

9月某日
「自民党本流と保守本流-保守二党ふたたび」(田中秀征 講談社 2018年7月)を読む。田中秀征は自民党を離党して1993年、武村正義らと新党さきがけを結成、同年の細川護熙政権で首相特別補佐、第一次橋本龍太郎内閣で経済企画庁長官を歴任。ここで言う自民党本流とは、岸-福田-小泉-安倍と続く、自主憲法制定と防衛力の強化を軸とした流れであり、保守本流とは池田勇人の宏池会を源流とする池田-大平-宮沢のグループと、佐藤栄作の後継となった田中-竹下-橋本のグループである。流れからすると小沢一郎や細川護熙、羽田孜、鳩山由紀夫もこのグループになる。保守本流の思想的なバックボーンとして著者は石橋湛山の小日本主義をあげる。石橋湛山は戦前すでに朝鮮、台湾、樺太はいらないという考えを表明していた。植民地支配の経済コストから日本にとっては過重と判断した。戦後、日本の政治的な対立軸は長く保守の自民党と革新の社会党の二大政党であった。しかし冷戦の終結後、社会主義を主なイデオロギーとする社会党の存在意義は薄れる一方で、現在は社民党として辛うじて国会に議席を維持しているに過ぎない。著者の考えは現在の自民党は自民党本流と保守本流に分裂すべきというもの。

9月某日
「新時代からの挑戦状-未知の少親多死社会をどう生きるか」(金子隆一・村木厚子・宮本太郎 厚生労働統計協会 2018年7月)を読む。厚生労働統計協会の常務理事の西山隆さんからいただいた。第一部の金子明治大政経学部特任教授(前国立社会保障・人口問題研究所副所長)の論文が、長期的で人類史的な視点で人口減少問題を解き明かし、私にとっては「目からウロコ」であった。旧石器時代の人類の総人口は数万人から最終的には数百万人程度と推定され、人口に目立った増加が現れたのは、約1万年前に人類が農耕を開始し定住生活を始めてから。といっても人口の増加は極めて緩やかなカーブを描いていたが、産業革命以降は爆発的な人口増加に見舞われる。肥料や農業技術の改良、アメリカ大陸などでの新しい農地の開拓による食糧増産、近代化による衛生環境の整備、医療技術の発展が人口増加に寄与した。日本では関ヶ原の戦いのあった1600年には1227万人が江戸中期の1721(享保6)年には3128万人に達する。開墾による農地拡大や農業技術の発達、貨幣経済の進展などが環境の人口収容力を大幅に拡大させた。後半期には人口が収容力の上限近くに達したうえ世界的な寒冷化による天候不順(享保・天明・天保の3大飢饉もこの時期)もあって人口は一定水準を超えなかった。再び本格的な人口増加を迎えたのは幕末で、以降、明治,大正、昭和と太平戦争の一時期を除いて2008年に1億2800万人のピークを迎える。これからが本論に入るのだが、日本の総人口が1億人に達したのは1967年で、将来最後に1億人を維持する年は2052年である。しかしその中身は1967年の高齢人口、高齢化率は667万人、6.6%であるのに対して2052年は3793万人、37.9%と全く違っているのだ。著者は「多数決原理に基づく民主主義と、市場原理を基礎とする資本主義は、人口高齢化とともに、社会の資源配分を高齢者に偏らせ、青少年層や子育て世代の生活に不利をもたらす働き」があるとし、「社会経済システムを再構築する必要がある」と警鐘を鳴らす。エライこってす。

モリちゃんの酒中日記 9月その2

9月某日
「資本主義を語る」(岩井克人 ちくま学芸文庫 1997年2月)を読む。岩井のインタビューや対談をまとめたものだが、単行本は94年4月、収録されたインタビューや対談の初出は86年から93年、ということは今から30年ほど前だ。30年前は今ほどパソコンも普及していないし、インターネットも登場していなかったころだが、岩井の思想は全くと言っていいほど色褪せていないと私は感じた。私の読書歴からすると、最初に岩井と出会ったのは彼の「法人資本主義論」、当時私は零細出版社の社長をしていて「会社はだれのものか」に興味があったからだ。次いで異なる共同体間の交易を巡る差異と贈与、貨幣を巡る問題に行き着いた。本書で一番面白かったのは網野善彦との対談「『百姓』の経済学」、よく理解できなかったが興味深かった対談は柄谷行人との「貨幣・言語・数」だ。網野とは歴史と経済について2人が楽しそうに語り合っているのが行間からも感じられる。一方、柄谷との対談は真剣に「切り結んでいる」感じがする。内容を論評するのはおこがましいので今回は形式のみ。

9月某日
佐藤雅美の「物書同心居眠り紋蔵」シリーズの「わけあり師匠 事の顛末」(講談社文庫 2017年5月 単行本は14年5月)を読む。佐藤雅美は1941年生まれだから今年77歳、さすがに昔のように書けなくなったようで、私も佐藤の小説を読むのは久しぶり。「物書同心」というのは取り調べに同席して調書をまとめる仕事と各種裁判の先例を調べるのが主な仕事。江戸幕府ではもちろん三権が分立していたわけではなく、江戸府内における行政、司法、立法はともに幕府が一手に掌握していた。検察、警察、裁判についても江戸町奉行が独占していた。まぁ細かく言うと勘定奉行や評定所などが絡むのだが、詳しく知っているわけでもないのでそれは省く。「居眠り」というのは主人公の藤木紋蔵が今で言う「ナルコレプシー」で、取り調べ中に居眠りをすることから「居眠り紋蔵」と綽名されたため。今回も面白く読ませてもらったのだが、私も年をとったのか敵役の描き方が気になった。2人の孫を育てていた老爺が死んで、月に何両かの家賃を稼いでいた家作を後見人を名乗る親戚に乗っ取られるというストーリーでは「なまじ財産などあるから人は醜い争いをしてしまう」と思ってしまう。佐藤雅美は私のような庶民の正義感に「さりげなく」訴えるのが巧みなのだ。今度の北海道の胆振東部地震でも思うのだが庶民の正義感や同情心が実は社会を支えていると言えないだろうか。

9月某日
「どアホノミクスへ 最後の通告」(浜矩子 毎日新聞出版 2016年10月)を読む。2010年から2016年にかけて毎日新聞や週刊エコノミストへ掲載された連載やインタビューをまとめたもの。浜矩子は以前からアベノミクス批判の急先鋒の一人。アベノミクス=アホノミクスという論調は、私は真っ当な批判と評価している。本書でも多くの浜の指摘には同感した。なかでも安倍政権の異次元の金融緩和と財政の拡大による景気刺激策について、「財政と金融が同じ方向を向かないと政策が効かない」とするリフレ派の主張に対して「全くナンセンスですね。金融政策は通貨価値の保全が最大の任務です。財政が拡張的になった時は、そのことに伴う通貨価値棄損の懸念に金融政策が対応する。それでこそ、財政・金融の名コンビが機能する」と反論する。本書ではイギリスのEU離脱についても触れられているが、浜はEUの当初の理念は正しいにしろもはや、時代に合わなくなっているうえに通貨統合は誤りだったと断言、イギリスのEU離脱にも理解を示す。巻末に少女時代からの浜の人生が語られているが、それによると商社員だった父の勤務の都合で、8歳から12歳までロンドン郊外のウインブルドンに住んでいたという。ロンドンでは学校にもそこでの暮らしにもなじんだものの、帰国子女として過ごした都内の公立学校ではかなり浮いた存在だったらしい。いずれにしても彼女の国際感覚は「ホンモノ」だと思う。テレビで見る彼女のファッション感覚は独特、パンクの系統か?

9月某日
厚生労働統計協会の西山裕常務を訪問。同協会が出版した単行本「新時代からの挑戦状-未知の少親多死社会をどう生きるか」(金子隆一・村木厚子・宮本太郎)の販売についてアドバイス。台湾から帰った大谷源一さんからメール。厚生労働統計協会の後はフリーなので、入谷の「さんたけ」へ。協会のある八丁堀から入谷までは日比谷線で一本なのだが、まだ早いので協会から神田まで歩き、神田から山手線で上野へ。上野から「さんたけ」まで歩くとちょうど4時過ぎ。「さんたけ」には大谷さんがすでに来ていた。ホッピーセットを頼む。安くてくつろげる店。

9月某日
図書館で借りた「連合赤軍物語 紅炎(プロミネンス)」(山平重樹 徳間文庫 2011年2月)を読む。1960年代末から1970年代の初めにかけて日本の学生運動は、60年の安保闘争に並ぶ高揚期を迎えた。私が北海道室蘭市の高校を卒業したのが1967年。大学受験に失敗して上京した浪人中の秋、10月8日と11月12日に当時の佐藤首相の訪米阻止闘争、訪ベトナム阻止闘争がそれぞれ羽田空港周辺で闘われた。私は真面目な浪人生だったので闘争には参加しなかったが、「大学に受かったら学生運動に参加しよう」と密かに思ったものだった。68年の3月、第一志望だった東京都立大学の入試には落ち、早稲田の政経学部には何とか合格することができた。当時、政経学部の自治会は社青同解放派の拠点で、私もその年の12月までは青ヘルメットを被っていた。12月に早稲田で解放派と革マル派の内ゲバが発生、解放派は東大駒場に逃げて駒場の教育会館に立てこもる。東大はその頃、東大闘争の真っ最中。授業は行われていなかったし、各セクトの部隊が東大に常駐していたと思う。東大の民青と全共闘がそれぞれ応援部隊を全国動員していたのだ。年が明けて1月18日、19日が東大安田講堂の攻防戦。そして早稲田の反革マルの活動家に「圧殺の森を解放せよ」という電報が配信され、4月17日に反戦連合を主体にした反革マル連合が革マルの戒厳令を突破、大学本部の封鎖に成功する。東大、日大に限らず全国の多くの大学、高校でバリケード封鎖が行われたが、政府は大学正常化のため夏頃から封鎖解除に乗り出す。早稲田では全共闘、革マルのそれぞれの拠点だった第2学生会館と大隈講堂に対し大学側が機動隊に封鎖解除を要請、9月3日の早朝から機動隊が導入された。私は第2学館に立て籠もったのだが、10時過ぎには機動隊に制圧され全員が逮捕された。
私が逮捕された9月3日の2日後の9月5日には全国全共闘の結成大会が日比谷野音で予定されていた。4日には愛知揆一外相の訪米訪ソに反対して京浜安保共闘が羽田空港の滑走路に火炎瓶を投げ、坂口弘、吉野雅邦らが逮捕される。そして本書によると羽田空港突入の陽動作戦として高速道路からの火炎瓶投擲が準備され、これは未遂に終わったものの、後に山岳アジトで殺害される大槻節子が逮捕される。私が第2学生会館屋上で逮捕されて留置されたのが大森警察署、大槻節子が留置されたのも大森警察で、私が留置されて2日後くらいに楚々とした女子大生が送られてきたが、それが大槻節子だった。
大槻節子の逮捕後何日かして、小柄な若い男が大森警察に留置された。彼が大槻節子の当時の恋人で、昭和45年の12月18日に板橋区の上赤塚交番で拳銃を奪取しようとした3人組の1人、渡辺正則だった。3人組の1人、柴野春彦は現場で警官により射殺されている。東大日大をはじめ、各大学でバリケードが次々に解除され「火炎瓶とゲバ棒」の限界は明らかだった。限界を突破するには武装をエスカレートして「銃と爆弾」しかないと思い詰めたのが赤軍派と京浜安保共闘であり、連合赤軍だった。「銃と爆弾」路線は、連合赤軍が「あさま山荘」銃撃戦とその後に明らかになった同志へのリンチ殺人事件で壊滅したのちも、アラブ赤軍によるイスラエルのロッド空港での銃乱射事件や東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件へと受け継がれていく。今から50年前、「そんなこともあった」のである。当時は高度経済成長の時代で日本は繁栄を謳歌していた。その一方で反体制の学生運動は激化し、その頃19歳で盗んだ拳銃でタクシー運転手を3人殺害した永山則夫事件も起きている。本書を書いた山平重樹は鈴木邦男による解説によると民族派の学生運動家だったという。革命派と民族派という違いはあっても志半ばで倒れざるを得なかった学生運動家への想いが伝わってくる。

9月某日
我孫子市会議員で公明党所属の関勝則さんが公明党の代表質問をするというので市議会を傍聴しに行く。同じ我孫子市民で元社会保険庁の中西富夫さんも傍聴に行くという。我孫子市民となって45年以上になるのだが市議会を傍聴するのは初めて。代表質問は1時間。これは質問時間が1時間ということで市側の答弁を加えるとほぼ2時間。関さんは社会保障中心に高齢者への就業支援や我孫子市での地域包括ケアシステムについて質問、市側から前向きな答弁を引き出していた。ただ市民の傍聴は私と中西さんの2人だけ。議会の開催時間もウイークデイの昼間。これでは日中、仕事を持っている市民は傍聴できないし、第一、普通の市民は市会議員への道を実質的に閉ざされていると言えないだろうか。市議会の夜間の開催は検討されてよい。

9月某日
図書館で見かけた「村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝」(栗原康 岩波書店2016年3月)を読む。伊藤野枝は大杉栄の妻で関東大震災のときに甘粕正彦憲兵大尉らによって、大杉と大杉の3歳の甥とともに虐殺されたことで知られる。といって私もそれ以上のことは知らない、ということもあって読むことにした。読み始めて「評伝」にしては文体がやけに軽いことに気が付いた。「はじめに」で著者の栗原は伊藤野枝について「やりたいことだけやって生きていきたい。ただ本が読みたい、ただ文章が書きたい、ただ恋がしたい、ただセックスがしたい、もっとたのしく、もっとわがままに。(中略)不倫上等、淫乱好し」と書く。ちょっと町田康の文体を思い浮かばせるものがある。著者の栗原は1979年生まれ。まだ40歳になっていない。早稲田の政治学の大学院博士課程満期退学という学歴ながら現職は東北芸術工科大学非常勤講師のみ。栗原は恐らく伊藤野枝を自分の理想の女性像として描いている。それがとても生き生きと描かれているということは、栗原の力量はもちろんのこと伊藤野枝という人格とアナーキズムという思想の魅力なんだと思う。

9月某日
尾久で訪問介護事業所を経営している馬木君から幕張メッセで開かれる「医療と介護」をテーマにした展示会に誘われる。東京駅の京葉線ホームで待ち合わせて海浜幕張へ。中村秀一さんの講演を聞いたところで久しぶりの人混みに疲れてしまい退散。上野駅のエキュートの「はいり屋」で馬木君にご馳走になる。馬木君とは学生時代、練馬区江古田にあった学生寮「国際学寮」で一緒だった。馬木君は上智大学で大学は違ったのだがよく吞みに行った。馬木君は卒業後、仕事をしながら鍼灸師の資格を取得、介護保険のスタート時にケアマネジャーの試験に合格、尾久で訪問介護事業所を開業した。がんが見つかったりいろいろ大変らしいが、介護事業所の経営は順調のようだ。

モリちゃんの酒中日記 9月その1

9月某日
図書館で見かけた「Black Box」(伊藤詩織 文藝春秋 2017年10月)を借りて読む。ジャーナリスト志望の若い女性が、TBSワシントン支局長の山口敬之氏に薬物で意識を失わされ、ホテルで強姦されたと記者会見したことは記憶に新しい。しかしその後、森友・加計学園問題、日大アメフト事件、ボクシング連盟や体操協会の一連の騒動が続き、伊藤詩織さんの事件は忘れ去られた。まぁ私も忘れ去った一人ではあるのだが。事件の真偽のほどは分からない。山口氏は不起訴処分になり、伊藤さんが申し立てた検察審査会でも「不起訴相当」とされたことから、起訴に相当する犯罪性はないという判断がされたということであろう。だがいったんは山口氏の逮捕の決断をした警視庁が当時の刑事部長の判断で逮捕を見送り、その刑事部長が菅官房長官の秘書官の務めたことや、山口氏が安倍政権と近いジャーナリストとみられていることから、逮捕の見送りに何らかの「忖度」がされた可能性も否定できない。伊藤さんは現在、民事で山口氏に1100万円の損害賠償を求めているという。正邪、理非曲直を明らかにすべきなのに、それが有耶無耶にされたり隠蔽されたりすることが多すぎないか。これは日本社会の劣化につながる問題だ。

9月某日
図書館で借りた「ギケイキ② 奈落への飛翔」(町田康 河出書房新社 2018年7月)を読む。2016年に上梓された「ギケイキ 千年の流転」が面白かったのでね。「ギケイキ」とは「義経記」つまり源義経とその主従を中心に描いた室町時代初期に成立した作者不詳の軍記物を下敷きにした町田の創作である。義経はじめ登場人物が現代語というか「町田語」を話し、それが何とも物語にリアリティを与えている(と少なくとも私には思える)。「ギケイキ②」では義経が源頼朝の対面を許されず京に帰り、頼朝の命により義経邸を襲撃する土佐房正尊の一隊を撃退、四国への撤収を図るが嵐に阻まれ吉野へ逃れ、愛妾静御前と別れるまでが描かれる。「ギケイキ」と「義経記」はどれほど違うのか、図書館で岩波書店の「日本古典文学大系」の㊲「義経記」を借りて調べてみる。奥付を見ると初版は1959年5月、1977年で16刷発行とあり、定価は2100円であった。ちなみに「ギケイキ②」は1700円+税だから、日本古典文学大系は当時としてかなり高価だったことが分かる。
月報が添付されていたが、何と巻頭は柳田国男のエッセーである。柳田先生は「義経記」は関東の土には合わなかったと述べている。確かに義経は京の鞍馬山で修業し、奥州藤原氏に庇護され、頼朝挙兵の報に関東に馳せ参じるが、すぐに平家追討のため西国を転戦する。関東にはあまり縁がなかったようだ。頼朝に異心のないことを伝えるために関東に赴くが面会は許されない。「ギケイキ②」の物語はここから始めるのだが、当たり前だけど大筋は「義経記」のストーリーを踏襲している。町田は古典文学の「義経記」を読み込んだ上で「ギケイキ」を創作した。当時の義経の心情と現代の私たちの心情が交錯するような文体、なかなかたいしたものだ。

9月某日
図書館で借りた「デジタル資本主義 未来予測の決定版」(此本臣吾監修 森健 日戸裕之 東洋経済新報社 2018年4月)を読む。AIやロボットの普及で社会はどうなるのか、最近とても気になるので興味深く読んだ。「年間2%の物価上昇」という日銀、アベノミクスの公約はさっぱり実現されないが、私は漠然とICT化などによって経済構造が変化している影響ではないか?と思っていたが、本書でも同じようなことが指摘されていた。「イントロダクション」で「GDPでは捉えきれないデジタル化の影響」として野村総研(NRI)の「1万人アンケート調査」の調査結果が紹介されている。それによると2010年頃を境に、自分の生活レベルが「上」、あるいは「中の上」である回答が増えているという。これらの回答者に共通しているのは「インターネットで生活情報、お得情報を集めることで賢い消費ができるようになった」と回答していることである。ITの活用により、「賃金の伸びがなくとも生活水準を高く維持している様子が定量的に」実証されている。デジタル化により消費者はインターネットで価格を徹底比較できるようになったため、「モノの製造コストは変わらなくても価格だけがどんどん押し下げられ」ている。レコードやCDの音楽コンテンツもデジタル化により複製コストはほぼゼロになり、生産コストも劇的に低下する。「アナログ時代と同じ機能を持つ製品でも、デジタル化によって価格とコストが大幅に切り下げられ」のである。
デジタル化が主導する、本書で言うデジタル資本主義は商業資本主義→産業資本主義の次に位置づけられる。私が最も興味をそそられるのは、デジタル資本主義によって資本主義は変化するにせよその変化は「革命的」なものなのだろうか、ということだ。本書では柄谷行人の「世界史の構造」を援用しながら「交換様式と社会構成体」を次のように分類する。【A・共同体(互酬:贈与と返礼)】【B・国家(略取と再分配:支配と再分配)】【C・資本(商品交換:貨幣と商品)】。A~Cは現代社会では併存しているが、最も支配的な交換様式はCである。ちなみに現代でいうAはプレゼント、歳暮、中元、無償ボランティアなどで、Bは社会保障や国防、治安維持があげられる。柄谷によるとDの領域は「理念的なもの」としているが、概念としては普遍宗教、社会主義、無政府主義、カントが提唱した世界共和国を挙げている。本書ではデジタル資本主義はDの領域を生み出そうとしているとする。デジタルは単なる技術であるだけでなく、社会や経済システム、さらに価値観にも変革を促す存在である、と本書はいう。まぁそうなんだろうね。だとしたら我々は原子力という技術を、正しい意味で使いこなしていないということを思い出す必要もあるのじゃないか。

9月某日
「禅とジブリ」(鈴木敏夫 淡交社 2018年7月)を読む。鈴木敏夫は「魔女の宅急便」や「もののけ姫」など多くのアニメ動画をヒットさせた敏腕プロデューサー。ウイキペディアによると1948年愛知県生まれ。慶應大学文学部を卒業後、1972年徳間書店入社とある。私と同年であるし、私も1972年に早稲田大学政経学部卒業、徳間書店の入社試験を受けて面接で落とされた。それはさておき本書は鈴木と禅宗の和尚さん、龍雲寺住職の細川晋輔和尚、円覚寺派管長の横田南嶺師、福聚寺住職の玄侑宗久和尚との対談集である。細川和尚はスタジオジブリの作品を観て育った世代。横田師は筑波大卒で世襲ではなく禅の道に入った。玄侑和尚は慶應大学中国文学科卒後、様々な職業を体験の後、京都の天龍寺で修業、芥川賞作家でもある。あらゆる宗教はそうなのだろうが、禅には深い精神性が感じられる。それと昔、天龍寺の平田精耕管長に講演をお願いに行ったとき「仏教は宗教というより哲学なんだ」と言われたことが印象に残っている。スタジオジブリの作品は見たことはないが、たんなる娯楽作品を超えて深い精神性と哲学を備えているのではないか。それがヒットした理由のひとつでもあろうと思う。

モリちゃんの酒中日記 8月その4

8月某日
「六月の雪」(乃南アサ 文藝春秋 2018年5月)を読む。声優に見切りをつけて契約社員となった杉山未来は祖母と2人暮らし。家族は父の転勤先の福岡で暮らす。祖母が娘時代、台湾で暮らしていたことを知った未来は、入院した祖母を元気づけるために、祖母が暮らした台湾の南部の都市、台南を訪れる。そこでの7日間、未来が見て感じた台湾とは?台湾は日清戦争での日本の勝利により日本の領土となった。およそ50年、日本に統治されたのち第2次世界大戦の日本の敗北により中国に返還されたが、中国共産党によって大陸を追われた国民党軍が台湾に逃れ、国民党=蒋介石が独裁政権を樹立する。ここら辺までは高校の日本史、世界史の教科書にも書かれている。日本統治時代に女学校まで台南で暮らした祖母は父親が技師をやっていた精糖会社の社宅に一家で住むが日本の敗戦により、ほとんどすべての財産を台湾に残し日本に帰国する。未来は台南で通訳をやってくれた女性や台湾の歴史に詳しい高校教師と親しくなる。彼らの手助けもあって未来は祖母が暮らしたと思われる社宅を訪ねることができた。そこには当然だが台湾人が住んでいる。その台湾人の母娘が語る過酷な自分史。歴史は政治史や経済史を軸に語られる。日清戦争の賠償金をもとに日本の工業化は推し進められたという具合に。しかしこの小説を読んでこのような歴史は、無数の個人とその家族の歴史に支えられていることがよく分かった。ストーリーの中にごく自然に台湾の近現代史を織り込んだ乃南アサの力量に脱帽。

8月某日
新宿で白梅大学の山路先生、社保険ティラーレの佐藤社長と「地方から考える社会保障フォーラム」の打ち合わせ。終って上野駅でブラブラしていたら携帯に大谷さんから「八重洲口で白井幸久先生と呑んでいるから」と誘いの電話。白井先生は確か高崎健康福祉大学の教授で東京都介護福祉士会の前会長。東京福祉専門学校で大谷さんの同僚だった。東京駅を出て大谷さんに電話すると、「八重洲の大通りを真直ぐ来て最初の信号で電話頂戴、迎えに行くから」。時刻は17時を少し回ったぐらい。引退すると呑み始める時間が早まる。大谷さんに連れられて呑み屋「八吉酒場」に入って白井先生に合流。生ビールの後に静岡県の「磯自慢」を頂く。このお店は肴も「鰺のなめろう」はじめ美味しかった。少し気持ちよくなったところで本日は終了。深酒は避ける―これも引退後の鉄則。東京駅から上野-東京ラインで我孫子へ。

8月某日
「女中譚」(中島京子 朝日文庫 2013年1月)を読む。直木賞受賞作「小さなおうち」の姉妹小説という。「小さなおうち」は戦前の一見平穏な家庭を、そこに女中として入った女性の目から描いた佳作。私からすると「女中譚」は「小さなおうち」の姉妹小説というより裏「小さなおうち」だね。主人公は90歳を超える「あたし」。秋葉原のメイド喫茶に通い、かつて女中をしていた戦前の若かりし頃を回想する。どうしようもないダメ男、わがままなドイツ人とのハーフの美貌のお嬢さん、永井荷風。愛人あるいは女中として仕えた3人を見る「あたし」の眼差しは立派な「批評」である。

8月某日
我孫子の「しちりん」で元年住協の林弘幸さんと待ち合わせ。ホッピーとウイスキーの水割りを呑む。林さんは私より一歳年上だが今も働いている。働ける間は働いた方がいいと思うが、それには「働く意欲」が大切。林さんを見ているとそれを感じる。林さんと別れて「愛花」へ。

8月某日
「今日は予定入ってますか?」とエッチ・シー・エムサービス社の大橋社長からメール。「特に予定はありません」と返すと、神田の「清瀧」でネオユニットの土方研太さんと呑みませんかというメールが来る。土方さんと私はビール、大橋社長はホッピー。清瀧は埼玉県蓮田市の酒造メーカーが経営しているので、私は2杯目から日本酒。土方さんは「胃ろう・吸引シミュレーター」の開発者で、2人はシミュレータの実演と販売で名古屋出張の帰り。十分な手応えがあったということだ。土方さんにすっかりご馳走になる。もう一軒行くという2人と別れ、私は我孫子へ。「愛花」に寄る。

8月某日
浅田次郎の「天切り松闇がたり」シリーズの「第4巻 昭和侠盗伝」(集英社文庫 2008年3月)と「第5巻 ライムライト」(同 2016年8月)を読む。ついでに「完全版 天切り松読本」(浅田次郎監修 集英社文庫 2014年1月)も図書館から借りて読む。このシリーズは、掏摸の名人でかつ侠盗の親玉でもある「目細の安」一家に預けられた松蔵が「天切り」(屋根を破って富豪の家に侵入する江戸時代から続く盗賊の技術)を修業しながら一人前の盗賊へ成長するビルディングロマンであると同時に「目細の安」一家の「説教寅」「振袖おこん」「黄不動の栄治」「書生常」の侠盗ぶりを描くピカレスクロマンでもある。そして私はそこに織り込まれる大正そして昭和初期の風俗、エピソード、史実にとても魅かれる。モボやモガ、デパートが出現し消費文化が花開く大正から昭和初期。それはまた日清日露戦役、第一次世界大戦を経て帝国主義的な膨張をつづけた日本とオーバーラップする。一方で軍縮や大正デモクラシーの動きもあるという複雑な時代でもあった。昭和恐慌に端を発した農村の疲弊に対して青年将校が決起した5.15、2.26事件も昭和初期であった。
第4巻の「日輪の刺客」は2.26事件の前年の1935年、白昼、陸軍省で斬殺された永田鉄山軍務局長と犯人の相沢三郎中佐の物語である。同じく第4巻の「惜別の譜」は相沢中佐の処刑と相沢中佐の妻、米子を巡る悲しくも哀切な物語である。また第5巻の「ライムライト」は来日中のチャップリンと、犬養毅首相を殺した5.15事件を巡る物語である。「目安の一家」が引き起こす事件はもちろんフィクションである。しかしその背景の歴史的な事件や社会的な風俗はいずれも作家の入念に調査に基づいている。それが物語にリアリティを与えていると思われる。

8月某日
「ビアレストランかまくら橋」で「例の会」。「例の会」というのは私が勝手に名付けたのだが、江利川毅さんと川邉新さんを中心とした不定期の呑み会である。江利川さんと川邉さんは厚生省入省が同期で年金局資金課長にも相次いで就任した。そのときの課長補佐が足利聖治さんと岩野正史さん。この4人に当時、年金住宅福祉協会の企画部長だった竹下隆夫さん、年友企画で年金住宅融資を担当していた私が加わって始めたのが「例の会」である。この日は岩野さんがインドネシア出張、足利さんは会議が入って欠席、竹下さんも欠席、代わりに川邉さんの後の資金課長だった吉武民樹さん、その頃社会保険庁から年金局に来ていた眞柴博司さん、中西富夫さん、それに厚生省入省後、衆議院法制局が長かった茅野千江子さん、セルフケアネットワークの髙本真左子代表理事、年友企画の岩佐愛子さん、社保険ティラーレの佐藤聖子社長が加わり総勢10人となった。吉武さんが台湾の紹興酒を持ち込んだが、普段吞んでいる紹興酒とは違って濃厚な味がした。「チャンポンを食べに行く」という吉武さんと神田駅で別れ我孫子へ。

8月某日
年友企画の石津さんと京成立石へ。立石はディープな呑み屋街があることでテレビなどでも取り上げられることが多い。何年か前に我孫子の「愛花」の常連の大越さんに連れて行ってもらってから、何度か行ったことがある。ウイークデイの5時前ながら有名店にはすでに行列が。カウンターだけの店がやっていたので入る。生ビールで乾杯の後、私はチューハイ、石津さんは例によってビールを呑み続ける。カウンターの女性が「私も呑むのはもっぱらビール」。店と客の距離感が「近過ぎずもせず遠過ぎずもせず」、ちょうどいい。石津さんは京成立石から直通で京急の青物横丁へ、私は金町から千代田線で我孫子へ帰る。

8月某日
社保険ティラーレの吉高さんから「幕末維新のリアル―変革の時代を読み解く7章」(上田純子・僧月性顕彰会編 吉川弘文館 2018年8月)をいただく。月性という幕末の僧侶は「海防僧」と呼ばれ、尊王攘夷を唱えた。尊王攘夷のゲッショウというと私などは西郷隆盛と錦江湾で入水自殺を遂げた(西郷は助かる)月照を思いうかべるが、これはもちろん別人。月性はむしろ「男児志を立てて郷関を出づ/学、もしならなくんば、また還らず/骨を埋める 豈墳墓の地を期せんや/人間 到る処青山あり」の漢詩の作者として名高い。7章のうち「幕末維新論」が5章、「僧月性論」が2回。明治維新論は国内的な要因だけでなく世界史的な視点から明治維新を読み解くという視点が新鮮。英国から独立したアメリカが西に向かって領土を拡大し、1840年代に太平洋に至った。第7章「洋上はるか彼方のニッポンへ」で後藤敦史(京都橘大准教授、1982年生まれ!)は太平洋の蒸気船航路の開拓もペリーの日本来航の動機の一つであったことを明かす。私にとってはとても新鮮。

モリちゃんの酒中日記 8月その3

8月某日
浅田次郎の「天切り松闇がたり 第3巻 初湯千両」(集英社文庫 2005年6月)を読む。初出はいずれも「小説すばる」で1999年1月号から2001年2月号まで年2作づつ、合計6作が収められている。舞台は関東大震災の前年の東京、このとき天切り松こと松蔵は11歳だから、明治末年か大正元年の生まれ。西暦でいえば1912年頃の生まれと考えて差し支えないだろう。小説は現代の警察署の留置場で同房の留置人たちに、あるいは署長室で婦人警官に、そして警視庁の武道場では警視総監以下刑事たちに、松蔵が約70年前の昔語りをするという形式をとっている。この小説での現代は1990年代初頭、松蔵はすでに80翁になっている。浅田次郎の小説は短編にしろ長編にしろ基本は浪漫である。浪漫ではあるが、小説の枠組みはあくまでも厳格、リアリズムに徹している。浅田次郎の小説の魅力はそこにもあると思う。
「天切り松シリーズ」の魅力をもう一つ上げると反権力。明治の大泥棒「仕立屋銀次」の一の子分、「目細の安」一家の面々の活躍を描写するシリーズだから当たり前と言えば当たり前なのだが。表題作の「初湯千両」は第一次世界大戦の青島攻略戦で手柄を立てたもののシベリア出兵で父が戦死した遺児を巡る物語。生活に困窮する遺児とその母に同情した目細の安一家の寅弥兄ィがときの陸軍大臣の屋敷に押し入り、大臣から千円を強請り取って遺児の一家に隠れて渡す。実は寅弥兄ィは203高地の生き残りの軍曹、そのときの大隊長が今の陸軍大臣に出世したのだ。説教強盗寅の大臣への説教「今を去ること20年前、日露戦役の天王山は難攻不落の203高地、やれ行けそれ行けと手柄に逸る大隊長のおかげで、俺の分隊は2人を残して全員が名誉の戦死だあな。あんときてめえは、伝令に走って転進の意見具申をする俺に向かって言いやがった。怖気づいたか軍曹、ってな。(中略)あんとき俺の声にァ耳も貸さず、兵隊たちを虫けらみてえに殺しやがった少佐殿は、その甲斐あって今じゃあ陸軍大将篠原閣下だ」。根底には反権力プラス反戦の思想なのだ。解説は2012年に57歳の若さで亡くなった18代目中村勘三郎。これがまたいい。

8月某日
エッチ・シー・エムサービス社で大谷さんと「月見の会」の打ち合わせ。16時過ぎに終わる。新橋駅前ビルの地下で呑んでいると大谷さんの携帯に電話。エッチ・シー・エムサービス社の大橋社長から、私が携帯を忘れていることを知らせてくれる。大橋社長が私の携帯を持って合流。翌日、大谷さんから「熊谷まで乗り過ごした」というメール。

8月某日
新しく厚労省の会計課長になった横幕さんに挨拶。「月見の会」の紙を渡す。社会保障予算の伸びの抑制が迫られ会計課の仕事も様変わりしているようだ。予算の量的な膨張ではなく「どうやって知恵を使うか」が勝負で、民間との連携や医療と介護の連携など「連携」が一つのキーワードになっていると思う。1階のロビーで元厚労省で現在、ボストン・サイエンティフィックの北村彰さんに会う。「月見の会」の紙を渡す。

8月某日
社会保険研究所に鈴木社長を訪問、「月見の会」の紙を渡し世間話。御徒町の「吉池」9階の「吉池食堂」へ。年友企画の石津さんと待ち合わせ。石津さんは学校の同級生や先生、職場の同僚との関係を大事にする。私は石津さんの中学校1年生のときの担任に紹介されたことがあるが、その先生はある女子高の校長先生をやっていて生徒手帳の制作の仕事を頂いた。「関係を大事にする」ことが仕事につながった例である。本日はすっかり石津さんにご馳走になってしまった。

8月某日
大谷さんと「月見の会」の打ち合わせ。金町の改札で待ち合わせ。うどん屋兼居酒屋という店に行こうと思ったがそこは6時開店。まだ時間があるので京成金町線の踏切を渡るとそこはちょっとした飲み屋街。焼き鳥屋さんに入る。カウンターと座席が3つほどでご主人と思しき中年の男性が焼き鳥を焼いて、奥さんらしき女性が注文をとる。こういう店は少なくなった。焼き鳥、ポテトサラダなどを頼みビール、ウイスキーの水割りを呑む。満足して8時前に店を出る。その頃には店はほぼ満員だった。

8月某日
図書館で借りた「国貧論」(水野和夫 太田出版 2016年7月)を読む。水野和夫は早稲田大学政治経済学部卒業後、同大学大学院経済学研究科修士課程修了。証券会社のエコノミストを経て民主党政権で内閣府審議官。現在は法政大学教授。証券会社の調査部にいたころ債券の利回りを予測する仕事をしていたが、その頃(2000年前後)すでに金利はほぼゼロ%で、債券利回りも2%以下でそんなに変動しない。利回りを予測するという本来の仕事がないので「なんでゼロ金利になるのだろう」と考えた結果が「資本主義の終焉」となったという話が本書に載っている。水野の議論の特徴の一つは「過剰」である。日本の過剰資本(資産)はチェーンストアにあらわれ、世界の過剰資本は粗鋼生産でわかるという。日本のチェーンストアの総販売額は1997年以来17年連続で減少する一方で、店舗面積は増え続けている。総販売額がピークとなった1996年と比べて店舗面積は1.47倍に増えたが、総販売額は24.6%減少している。この結果、店舗面積1㎡当たりの販売額は1997年には99.3万円だったものが2013年には50.8万円へ、この間48.8%減少している。小売業の店舗面積は小売業の供給力で小売業の販売額は消費需要だ。供給力の増大が続く一方で消費需要は減少する。需給ギャップが拡大する以上、デフレは食い止められないだろうというのが水野の論だ。異次元の金融緩和を続けるアベノミクスと黒田日銀では2%の物価上昇はそもそも無理ということだ。私には水野の一種の「歴史観」に裏付けられた現状分析が正しいと思われる。

モリちゃんの酒中日記 8月その2

8月某日
大谷源一さんに連絡して御徒町の中華料理屋「大興」で会うことに。ここは安くて美味しい人気店で大谷さんが電話予約してくれたのでやっと入れた。「シューマイ」や「ホタテとアスパラ炒め」などを肴にビール、焼酎を呑む。隣に座った若い女性の2人組に「ここは何が美味しいのでしょうか?」と聞かれ、大谷さんが丁寧に答えていた。8時半頃お開き。真直ぐ自宅へ帰る。

8月某日
図書館で借りた「権力の『背信』-『森友・加計学園』スクープの現場」(朝日新聞取材班 朝日新聞出版 2018年6月)を読む。2017年2月の朝日新聞の報道から始まった森友学園への国有地売却問題、同じく5月に朝日新聞に掲載された愛媛県今治市に新設される加計学園の獣医学部の問題は、森友学園は首相夫人の関わり、加計学園は学園の理事長と安倍首相の親密な関係が取り上げられた。新聞やテレビで報道された以上の新事実が明らかにされたわけではないが、朝日新聞の記者がこれらの問題を真摯に追いかける姿勢と報道陣や野党の追及をはぐらかす政権側の姿勢が浮き彫りにされている。私自身もそうなのだが国民の多くがこうした事件の情報の多くをテレビをはじめとした映像で入手し、それに影響を受けてしまう。事件の劇場化ということだが、映像を見てコメンテーターの感想を聞き、それで事件を理解したかのように思ってしまう。どうも事件に対する検証がおざなりになってしまっているのではないか、そう感じる。その意味でも本書は事件の幕引きを図ろうとする政権側に対して、事件の検証を通して「事件は終わってはいない」と主張する。朝日新聞の記者魂を見る思いがする。
もう一つ本書を読んで強く感じたのは「官僚は全体の奉仕者」という民主主義国家の官僚制の原則があまりに軽視されていないか、ということ。首相や首相周辺に気を使いその意思を忖度し、国会に参考人招致されても「訴追の恐れがある」と証言を拒む。私が知っている官僚は国民のため国のためを考えていたと思うのだが。省庁の幹部人事を一元的に取り仕切る内閣人事局の存在も影を落としているのだろうか。もう一つ指摘しておきたいのは政治家とくに与党国会議員の質の低下。本書でも明らかにされているが参院予算委員会で与党議員が財務省の太田理財局長に「局長は安倍政権をおとしめるために変な答弁をしているのじゃないか」と質問、さすがに議事録から削除されたということだが、議席を与えすぎると程度の低い議員も当選してくるということなのだろうか。この秋、安倍自民党総裁の3選は動かないようだが、総裁選は自民党全体の見識も問われていることも忘れないでほしい。

8月某日
「金融政策に未来はあるか」(岩村充 岩波新書 2018年 6月)を読む。この本の内容は正直、私の貧しい経済学の知識を以てしては十分に理解したとは言い難い。しかし随所に著者の柔軟な感性と深い専門知識、そして本当の意味での教養を感じることはできた。岩村は1950年東京生まれ東大経済学部卒、日本銀行を経て、1998年より早稲田大学教授。最終章で著者は、円やドルなどの法定通貨も、その価値の由来という観点から見れば、実は最初から仮想通貨だったと言える、と書いている。これは多分、仮想通貨に対する円やドルなどの法定通貨も国家の信用力という一種の幻想に支えられているということではないだろうか。生物学者の吉村仁の著書「強いものは生き残れない」(新潮社 2009年)から「利己ではなく利他的戦略をとった生物種の方が長期的に見れば生き残ることが多い」という説を紹介し、通貨においても「強過ぎるものは生き残れない」という論理が通用するかもしれないとしている。とても示唆的である。

8月某日
図書館でたまたま手にした「下山事件 暗殺者たちの夏」(柴田哲孝 平成27年6月 祥伝社)を読む。最初のページに「この物語はフィクションである。だが登場する人物、団体、地名はできる限り実名を用い、物語に関連する挿話もすべて事実に基づいている。その他、匿名の人物、団体、創作の部分に関しても実在のモデルや事例が存在する。それでもあえて、この物語はフィクションである-著者」とある。思わせぶりなのである。しかし読み始めると物語の圧倒的なリアリティに惹き込まれていく。このリアリティは「あとがき」を読むと納得させられる。下山事件というのは昭和24年7月5日、国鉄の初代総裁下山定則が日本橋三越本店での足取りを最後に失踪、翌6日未明常磐線綾瀬駅近くの線路上で轢死体で発見され、自殺他殺が交錯するまま捜査は終了した「戦後最大の謎」とされる事件だ。「あとがき」によると、著者の祖父の23回忌の法要のとき大叔母から「下山事件をやったのは、もしかしたら兄さん(祖父)かもしれない」と明かされたという。著者が事件に関わることになったきかっけという。祖父の名前は柴田宏(ひろし 小説中は柴田豊)、復員後、日本橋の亜細亜産業に復職、会社ぐるみで進駐軍の影となって数々の謀略に手を貸す。下山総裁が謀殺された理由として、下山が大規模な人員整理を含む合理化と共に賄賂が横行していた国鉄とその周辺にメスを入れようとしたためと本書では推測されている。同年に国鉄を舞台に三鷹事件、松川事件も発生している。戦後史の闇は深いというべきか。

8月某日
図書館で借りた「『日米基軸』幻想 凋落する米国、追従する日本の未来」(進藤榮一 白井聡 詩想社 2018年6月)を読む。このところ白井がずっと主張している「日本は米国追随一辺倒で大丈夫か?」をさらに補強する。白井は安倍政権が倒れたからと言って日本がすぐまともな道を歩むことにはならないだろうとする。なぜなら「安倍政権が去っても、そこにはそれらを長らく支持してきた、安倍政権と同様に、無能かつ不正で腐敗した国民が残る」からだという。「無能かつ不正で腐敗した国民」というのは少し違うと思う。そうした国民は同時に有能かつ勤勉な正義感あふれる国民」でもあるのだ。人間はそうした両義性を持つ存在だと思う。

8月某日
この1週間ほど少しばかり難しい本を読んでしまった。小説を読みたくなる。こういうときは以前だったら田辺聖子の本に手が出たのだが、田辺の短編はほとんど読んでしまった(長編は読み残しがあるが)ので、最近は林真理子と浅田次郎をもっぱら読んでいる。ということで今回は林真理子の「嫉妬」(ポプラ文庫 2009年8月)を読むことにする。ポプラ文庫には林真理子コレクションと銘打ったシリーズがあり、既存の単行本からテーマに沿って何篇かをピックアップしている。林自身が「あとがき」で「女のいやらしさというのも、小説の題材としてはうってつけなのだ」と書いているが、「女」はすなわち「人間」であろう。作家の人間観察眼の確かさが小説に奥行きを与えているように思う。

モリちゃんの酒中日記 8月その1

8月某日
ネオユニットの土方さんがHCMに来社。大橋社長と先月末で年住協を辞めた茂田君とが新橋駅前の「焼鳥センター」で吞むことになっているというので合流することに。「もう一人来ます」と大橋社長。しばらくすると若い女性が合流。「マニュライフ生命 高山恵莉」という名刺をもらう。福岡の高校を卒業した後、国立音大に進学、生保の営業職に就職したらしい。「焼鳥センター」では私はもっぱらホッピーを吞む。「ナカミ」(焼酎)は店の人がこちらの好きなだけ入れてくれる。久しぶりに若い女性と会話したこともあってのみすぎてしまった。

8月某日
国土交通省の伊藤明子住宅局長が内閣審議官に就任した。伊藤さんは京大建築学科出身の住宅技官。私が初めて会ったのは今から30年以上前、住文化研究協議会の月に一度の研究会のときだったと思う。彼女は建設省住宅局の住宅生産課の係長だった。兵庫県宝塚市に出向していたときも出張のついでに会いに行ったこともある。厚労次官をやった阿曽沼慎司さんがシルバーサービス対策室長だったときに「住宅と福祉」をテーマに座談会を企画したことがあった。阿曽沼さんは例によって「女が出るんなら出てもいいよ」という。住宅生産課の課長補佐だった伊藤さんにお願いしに行ったら「こういうのはバランスがあって厚生省が室長ならこっちもそのクラスでなければ」と渋る。当時、住宅局長だった那珂さんに言って何とか実現に漕ぎつけた。何回か一緒に吞みに行ったが、一度無断欠席されたことがある。翌日電話で「ごめん、仕事をしていたら行くのを忘れてしまって」と謝られた。それだけ仕事熱心ということだが、子どもを出産したときも出産間際まで電話で指示を出していたというエピソードもあるくらいだ。

8月某日
浅田次郎の「天切り松闇がたり」の第2巻「残侠」を読む。「天切り」というのは屋根を破って民家に侵入し盗みを働くことをいう。盗賊の「目細の安吉」一家に売られた松蔵は、やがて「天切り松」と呼ばれることになるのだろうが、第2巻では松蔵はまだ修業中の身、兄貴分からは「松公」と呼ばれる。表題作の「残侠」は清水次郎長の子分だった山本政五郎、人呼んで小政が目細の安吉一家に客分として現れ、一宿一飯の恩義からアコギな向島一家の親分はじめ主だった幹部を見事に切り捨てるというストーリー。勧善懲悪ほんとうにわかりやすい物語なのだが、特に「天切り松」シリーズは登場人物の台詞回しがいい。小政の切る古風な仁義。「親分は清水の山本政五郎、御一新の前に実子盃をいただきやした名前の儀は、政五郎と発します。ご覧の通り四尺七寸の小兵者につきまして、清水の小政の二ツ名をこうむりやす。天保の末年に命さずかりましてよりこのかた、弘化、嘉永、万延、文久、元治、慶応、明治、大正と、一天地六の賽の目稼業、はてしもねえ楽旅の流れ者ではござんすが、向後(きょうこう)お見知りおかれましては、宜しくお頼み申し上げます」という具合である。

8月某日
愛知県から「わがやネット」の児玉道子さんが上京、高齢者住宅財団の「財団ニュース」に「地域居住における高齢者支援の現状と課題」の連載が掲載されたので、財団の担当の小川さんにお礼に行くという。私は14時から社保研ティラーレで次回の「地方から考える社会保障フォーラム」の企画会議に出席、同じビルにある民介協の扇田専務に挨拶、携帯に社会保険研究所の鈴木社長から「近くにいるという話ですが」という電話。「じゃ寄ります」ということで社会保険旬報の編集部があるWTC内神田ビル3階へ。打ち合わせを終わって高齢者住宅財団へ。近くのプレハブ建築協会の合田専務を訪問。鎌倉河岸ビルの「跳人」へ行くと大谷さんがすでに来ていた。年友企画の迫田さんを呼び出して4人で乾杯。アイリッシュウイスキーの「ジェムソン」を呑む。我孫子へ帰って「愛花」に寄る。勘定を払って帰るときに常連の佳代ちゃんに会う。

8月某日
林真理子の「最高のオバサン 中島ハルコの恋愛相談室」(文春文庫 2017年10月)を読む。中島ハルコは52歳。バツ2の女性経営者、旅行先のパリでフードライターの菊池いづみと知り合う。毒舌家でドケチの中島ハルコだが、その本音で生きる姿勢にいづみは次第に魅かれていく。ハルコもハルコを観察するいづみも林真理子の分身、いづみがフードライターだけに食事シーンも出色。

モリちゃんの酒中日記 7月その5

7月某日
酒中日記7月(その4)で白井聡の「国体論 聞くと星条旗」(集英社新書)について触れた。明治維新以降、現在に至るまでの日本の統治構造について示唆に富む論が展開されていた。しかし十分に理解したとは言い難いので再読することにした。私は小説でも一般書でも同じ本を2度読むことはほとんどしない。唯一の例外と言えるのは田辺聖子の小説。これは同じ小説を何度読んでも面白い。それだけ白井聡の国体論が気にかかったということなのだが。本書は、日本の国体の歴史は「近代前半」(明治維新~敗戦)と「近代後半」(敗戦~現在)で反復されているとする。「近代前半」の国体とは王政復古から戊辰戦争、明治10年の西南戦争を経て明治政権の基盤が確立するなかで日本独特の国体観念が成立する。天皇制は他の国の君主制とはかなり異なる。戦前の天皇制の基本理念とは、①万世一系の皇統=天皇現人神 ②祭政一致という神政的理念 ③天皇と日本国による世界支配の使命 ④文明開化を推進するカリスマ的政治指導者としての天皇-とまとめられる。これらいずれも他の君主制には見られない特徴であろう。
戦前の天皇制にはこのように明確な特徴づけがなされるが現在の天皇制を扱おうとすると甚だしい混乱に陥る、と白井は主張し、それは「戦後の国体」はアメリカという要因を抜きにしては考えられないとする。戦前の天皇制の基本理念の①は天皇による支配秩序の永遠性(天壌無窮)を含意するが、これは現在にあっては日米同盟の永遠性(天壌無窮)に置き換えることができる。②の祭政一致を現在において体現しているのは「グローバリスト」によって構成される経済専門家(中央銀行関係者、経済学者等)で、「ニューヨーク・ダウ平均株価の上下に一喜一憂し、最終的な政策決定者たる神聖皇帝(米大統領)の経済思想を懸命に忖度する」光景は「祭政一致の今日的形態」とみなすことができる。③は戦前の「八紘一宇」の戦後的形態は「パックス・アメリカーナ」に見出すことができる。④の文明開化の推進は戦後の物質的生活、消費生活、大衆文化等々の諸領域におけるアメリカニズムの拡大である。白井はこうした「戦後の国体」は破滅に向かうとしている。そして、「戦後の国体」に対して控えめに、しかしながら断固として否定したのが今上天皇の「お言葉」だったとする。うーん、「成程」と肯かざるを得ない。

7月某日
週末。今週も毎日出社しかも猛暑。いささか疲れたので帰りはグリーン車を奮発。車内で缶ビールとワンカップ。我孫子で「七輪」でホッピーとハイボール。「愛花」で常連さんと話す。呑み過ぎたのでタクシーを呼んでもらう。タクシーを降りたら尻餅をついてしまった。
なかなか立ち上がれないでいたら、家から長男が出てきて助けてくれた。今年70歳になるのだからほどほどにしないとね。

7月某日
図書館で借りた「その話は今日はやめておきましょう」(井上荒野 毎日新聞出版 2018年5月)を読む。製薬会社の営業職を定年退職した昌平と妻のゆり子、2人は定年後の共通の趣味として自転車を楽しむようになる。昌平は自転車事故で入院するが、退院時に一樹という青年に親切にされたことがきっかけで一樹に病院の送り迎えなどを依頼する。桐野夏生の小説をプロレタリア文学と評したのは白井聡だが、今回の井上荒野の小説もそうした観点から見ることもできる。高度経済成長期に大手製薬会社の営業職として過ごした昌平は役員にこそならなかったが、東京の郊外に一戸建ての家を建て、今はまさに悠々自適の暮らしを送っている。対して高卒の一樹は高卒後、工場勤務に就くが長続きせず、その後も職を転々とする。昌平はプチブルジョア階級で一樹はプロレタリア階級である。一樹の実家もプロレタリア階級、昌平の2人の子供は昌平同様プチブルジョア階級である。作家の意図ではないかもしれないが現代日本社会の「階級の固定化」が表現されている。一樹はゆり子や昌平のブレスレットや時計を盗む。盗みは発覚し一樹は職を失う。そこからラストに至るまでが読ませる。階級対立を超えた昌平夫妻と一樹の精神的な「連帯感」の回復が暗示される。井上荒野は戦後の文学界で異彩を放った井上光晴の娘だが、血筋を感じてしまう。

7月某日
南阿佐ヶ谷のケアセンターやわらぎのデイサービスを訪問。石川はるえさんに相談と報告。デイサービスには小学校低学年くらいの女の子が来ていて利用者の高齢者とゲームに興じていた。子供と高齢者や障害者の「共生」ってことかな。石川さんが「呑みに行きたいんでしょ」というので「阿佐ヶ谷パールセンター」の角打ち「三矢酒店」に向かう。「角打ち」とは酒屋の店頭で呑ませることで、昔は多くの酒屋でやっていたが、今は見かけない。「三矢酒店」で地酒を2杯ほどいただく。帰りに同じ商店街の「日本海」でお寿司。石川さんにすっかりご馳走になる。

7月某日
図書館で借りた「天切り松闇がたり第一巻 闇の花道」(浅田次郎 集英社文庫 2002年6月 単行本は1999年9月)を読む。大正6年夏、下谷車坂の長屋に育った松蔵は数えで9歳、母は死に姉は吉原へ売られる。松蔵も抜弁天の安吉という盗賊に買われる。安吉親分は目細の安と呼ばれ、スリの大親分として名高い仕立屋銀次の跡目を継ぐと噂されている。解説の降旗康雄(映画監督)は「天切り松の心の中で、人が人たるものとして真ん中に置かれているのは目細の安一家と言う盃で結ばれた小さな共同社会です。社会学者が言うゲマインシャフトの原型でしょうか」と書いているが、共同社会には共同社会の掟があり、盗みやスリは高度な技術をともなう伝承すべき芸能なのだ。物語は80歳を過ぎた老盗賊の松蔵が警察の留置場で同房の留置人や看守、刑事を相手に昔語りをするというかたちで始まる。私が大田区の大森警察署に留置されていたのは49年前の1969年9月、窃盗や賭博の容疑の人たちと同房であった。物語は浅田節全開で山縣有朋や永井荷風も登場、泣かせどころもきちんと用意されている。

7月某日
暑いので4時前から大谷源一さんを上野に呼び出してホッピーを呑む。鰺の叩きを肴に1時間ほど歓談。ひとり2000円でお釣りがくる。つまみを頼まなければ「千ベロ」(1000円でベロベロ)も可能ということだ。

モリちゃんの酒中日記 7月その4

7月某日
厚労省の医系技官だった高原亮治さんの命日に墓参りに行かないか、というメールが堤修三さんから入る。木村陽子さんも一緒だという。上智大学の教授を辞めた後、高原さんは公知の病院の勤務医となり、その地で急死した。高原さんも堤さんも現役時代から知っていたが親しくなったのは厚労省退職後。何回か3人で呑みに行った。3人の共通点を敢えて言えば「全共闘崩れ」。堤さんは東大、高原さんは岡山大、私は早大でもちろん学生時代は互いに知ることもなかったが、ひょんなことから知り合い仲良くなった。もちろん全共闘だからと言ってすべての人と仲良くなるわけではなく、この場合は「本好き酒好き」という共通点があったからもしれない。高原さんは上智大学の聖イグナチオ教会の納骨堂に眠っている。高原さんは(102-1)という番地に納骨されている。毎回、捜すので今回は番地を記録しておく。墓参り後、四谷の新道横丁の「のどぐろ」という店で軽く一杯。木村陽子さんは確か総務省系(旧自治省系)の団体の理事長をやっていたが、今はそれも辞めて「名刺がないっていいわよ」という。木村さんは和歌山県出身でお土産に南高梅を頂く。木村さんは上野の神学校に行くというので6時30分頃お開きに。神学校には授業をしに行くのではなく、授業を聴きに行くのだという。

7月某日
オウム真理教の地下鉄サリン事件などで死刑判決が確定していた松本智津夫(麻原彰晃)ら7人が処刑された。地下鉄サリン事件は1995年3月。あの頃は新聞もテレビのワイドショーもオウム真理教の記事や映像であふれ返っていた。麻原は処刑されたがいったいあの事件は何だったのだろうと思う。図書館で「A3」(森達也 集英社インターナショナル 2010年11月)というオウム事件について書かれた本があったので借りることにする。「月刊プレイボーイ」の2005年2月号から2007年10月号までの連載をベースに2010年の視点や情報を加えている。著者の森達也という人はテレビ番組制作会社出身のもともとは映像作家だが現在は執筆が主となっているようだ。500ページ以上ある単行本だが、私には非常に面白かった。オウム事件の真実に迫りたいという著者の姿勢にとても共感が持てた。「真実に迫る」というのはジャーナリズムの基本と思うのだが、オウム事件に関しては多くのジャーナリズムは警察や検察の発表を鵜吞みにして麻原等を極悪人と報道するにとどまった。むろん27人の殺害に関わった麻原は極悪人であろう。だがなぜ、人は極悪人になってしまうことがあるのか、その背景には何があったのか、それを解明するのがジャーナリズムの役割と思うのだが。事実の報道はもちろん大事だが、真実の解明も忘れてはならない。森友加計学園問題、財務省の文書改ざん問題、日大アメフト部問題などについてもいえることだと思う。

7月某日
HCM社の大橋社長とエチオピア大使館に行く。スマートファインという会社の根田会長らと待ち合わせ、駐日全権大使のチャム・ウガラ・ウリヤトゥ氏を紹介される。エチオピアはシバの女王伝説からも分かるように歴史の非常に古い国だが、出生率が高く熱心に国づくりに取り組んでいるということでは、とても「若い国」でもある。エチオピア大使と仲介してくれたのが40年以上、日本に滞在し日本人女性と結婚しているタスティ・ガライアさん。1947年生まれだから私より1歳上。笠間市で陶芸をやっていて旭日双光章を受賞している。1時間ほど大使と歓談した後、中目黒のエチオピア料理のお店、その名も「シバの女王」に行く。大使夫人にエチオピアの隣国、エルトリアの大使も加わる。大使館の日本人の女性スタッフ、鈴木さんの隣に座ったので話をする。東海大学観光学部出身でエジプト大使館の観光局に勤務の後、エチオピア大使館に移ったそうだ。大橋さんと日比谷線で上野へ。上野駅のアイリッシュバーに寄る。

7月某日
「国体論 菊と星条旗」(白井聡 集英社新書 2018年4月)を読む。この本が書かれたのは2016年8月の今上天皇の「お言葉」がきっかけだったという。白井によると天皇は「お言葉」によって「自らの思索の成果を国民に提示し」、「象徴天皇制」が戦後民主主義と共に危機を迎えており、打開する手立てを模索しなければならないとの呼び掛けが国民に対してなされたというのである。今上天皇は皇后と共に日本全国にとどまらず、近年は太平洋戦争の戦跡も訪ねて慰霊を行っている。東日本大震災をはじめとする被災地にも足繁く足を運ばれている。天皇にとってこれらの行為は象徴として当然なすべきことであり、だからこそ「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます」(お言葉)ことから生前退位へと繋がっていく。白井は日本の国体について1945年の敗戦によってそれは無効が宣言されたのではなく戦後も形を違えて生き残っているとする。白井は1977年生まれの政治学者だが、その「視点」の新鮮さにいつも驚かされる。

モリちゃんの酒中日記 7月その3

7月某日 
HCM社の大橋社長とネオユニットの土方さんと西葛西の駅で待ち合わせ。土方さんの車で東京福祉専門学校へ。副校長の白井孝子先生からシミュレータについてアドバイスを頂く。校舎の一部が地域住民のために開放されているので見学させてもらう。「なごみの家 葛飾南部」というのが正式名称で、なんでも江戸川区の社会福祉協議会から委託されているらしい。小学生が2人、施設の備品のタブレットでゲームして遊んでいたし、若い母親が乳児を連れて遊びに来ていた。「なごみの家」を出て、西葛西駅近くの「庄屋」で一杯。土方さんにご馳走になる。帰りは西葛西から西船橋まで東西線で。西船橋から新松戸まで武蔵野線、新松戸から我孫子まで千代田線で。

7月某日
電車の中で読む本を家に忘れてきたので日暮里駅の「リブロ」という本屋で「昭和史講義【軍人編】」(筒井清忠編 2018年7月)を買う。太平洋戦争開戦時の首相を務め敗戦後A級戦犯として処刑された東条英機、敗戦時の陸軍大臣で「一死大罪を謝す」という遺書を残して自決した阿南惟幾、世界最終戦を唱え日蓮宗(国柱会)の信者でもあった石原莞爾、インパール作戦の指揮を執った牟田口廉也、ラバウルの名将と呼ばれ現地人を登用した植民地経営を進めながら、戦犯として現地刑務所に服役、釈放後は自宅の隅に小屋を建てて生活した今村均、海軍では連合艦隊司令長官の山本五十六、昭和期海軍の語り部と言われた高木惣吉、山本五十六と兵学校同期で親友だった堀悌吉ら14人の行動やリーダーシップの在り方に焦点をあてた。米英との開戦に当たっては陸海軍の多くの指導者は勝利への確信は持ちえなかった。国力からして米国に勝つのは無理、しかし3年後には日本の石油は底を突き、そこを米国に攻撃されれば日本はひとたまりもない。ならば先制攻撃で米国に一撃を加え、日本有利のもとに米国と和睦するというストーリーだったようだ。客観的に情勢を観察して判断するという基本ができていなかった。今の政治家にも言えるのではないか。

7月某日
「世界消滅」(村田紗耶香 河出文庫 2018年7月)を読む。村田沙耶香は「コンビニ人間」で芥川賞を受賞している。舞台は近未来の日本。人間の生殖は性行為ではなく人工授精によって行われる。夫婦間の性行為は「近親相姦」としてタブー視されている。主人公の雨音は夫ともに実験都市の千葉に移住する。そこでは人工授精による出産が行われ、生まれた赤ん坊は「子供ちゃん」として集団で育てられる。性行為をともなう恋愛は小説の大きなテーマであった。「世界消滅」はそれに対して挑戦しているのであろうか? 私は逆に恋愛における性行為の位置を再確認しているように思えるのだが。

7月某日
図書館で借りた「ルポ川崎」(磯部涼 サイゾー 2017年12月)を読む。川崎には今までほとんど縁がなかったが、最近、川崎駅近くの小規模多機能施設を訪問する機会が多い。川崎にはもともと在日の朝鮮人の人が多く住む地域があり、彼らに続いてフィリピン人やペルー人、その2世や日本人とのハーフが住み着くようになった。彼らに対して「ヘイト・デモ」が催され、同時にこうしたデモに反対する「カウンター」の運動も盛んである。そして本書で重要な位置を占めるのが「ラッパー」や「ダンサー」。彼らの多くは中学で不良となり、ラップやダンスに自分の生きる道を見出す。今日本の社会に欠けているのは多様性を認め合うということではないか。

7月某日
半藤一利の対談集「昭和史をどう生きたか」(文春文庫 2018年7月)を読む。「あとがき」によると2014年に東京書籍により刊行された単行本を文庫化したものとある。東京書籍の単行本はおよそ2000年から2010年まで「文藝春秋」や「オール読物」などで企画された昭和史に絡む対談を収録している。半藤一利の歴史読み物は読みやすさと正確さを兼ね備えた貴重な存在と兼ねてから私は思っていた。本書のなかでは「ふたつの戦場-ミッドウェーと満洲」(澤地久枝)、「指揮官たちは戦後をどう生きたか」(保阪正康)、「天皇と決断」(加藤陽子)、「栗林忠道と硫黄島」(梯久美子)が特に面白かったが、「失敗の本質」で名高い経営学者の野中郁次郎との対談が異色。対談の最後の方で野中が「本当に知的なリーダーを生み出すには時代が知的でなければいけない、というご指摘が胸にこたえました。まさしく現代に似てるな、と感じました」と語っていた。同感である。