モリちゃんの酒中日記 5月その1

5月某日
4月に読んだ「マルクス 資本論の哲学」(熊野純彦 岩波新書)の「あとがきにかえて」でわが国の資本論の研究の流れと主な書籍が紹介されていた。そのなかの1冊が「マルクス いま、コミュニズムを生きるとは?」(大川正彦 NHK出版 2004年11月)。熊野純彦の本にも言えることだが大川もまたマルクスの思想の深さと射程距離の長さを説いているように思う。マルクスは確かにエンゲルスと共に「共産党宣言」を執筆し、労働者階級がブルジョアジーを打倒し、プロレタリアート独裁政権を全世界的に樹立することを夢見た革命家であったことは確かであろう。だが熊野にしても大川にしても、マルクスの人間観、労働観に焦点を当て、マルクスの思想の全体像に迫ろうとしていると私には思える。それを熊野は「資本論」、大川は「経済学哲学草稿」や「ゴータ綱領批判」などを読み解くことによって行っているのだ。大川の著作はB6判120ページ余りの薄い本だが、内容を要約するのは私の手に余る。
が「むすびに」で展開されている「ゴータ綱領批判」にもとづくマルクスの将来の共産主義社会のイメージを通して、大川の思想の一端を紹介しておきたい。大川によるとマルクスは「ゴータ綱領批判」によって「生産諸手段の共有にもとづいた協同組合的な社会」として共産主義社会を位置づけ、第一段階とより進んだ第二段階とに共産主義社会を区別している。第一段階では労働者は「能力にしたがって働き、能力に応じて受け取る」かたちで分配が行われる。共産主義の第二段階では「諸個人の全面的な発展につれてかれらの生産諸力も成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧き出るようになったのち―そのときはじめて、ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏み越えられ、そして社会はその旗にこう書くことができる。各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」(「ゴータ綱領批判)。共産主義の第一段階では「各人は能力にしたがって働き、能力に応じて受け取る」が、共産主義の第二段階では「各人は能力に応じて働き、その必要に応じて受け取る」とされている。現実の社会主義革命はマルクスの想定したようなイギリスやドイツなどの先進的な資本主義国では起こらず、遅れた資本主義国のロシアや中国で発生している。生産諸力が十分に成長していない段階での革命は、マルクスの言う共産主義社会に到達することは不可能でソ連は崩壊し、中国は共産党一党支配による上からの資本主義化を進めている。北朝鮮に至っては朝鮮人民民主主義国家を名乗っているが実態は金三代の専制国家である。
マルクスの思想の実現はついに不可能なのか。これからは私の妄想だがAIやロボットの実用化によって社会の生産性は飛躍的に高まる(筈である)。問題は飛躍的に高まった生産性から産み出される富が誰に帰属するかである。現状ではAIやロボットの所有者、資本家や経営者、株主に帰属する。労働者はそのおこぼれを頂戴するに過ぎない。マルクスの言う「生産諸手段の共有にもとづいた協同組合的な社会」が今こそ求められているのではないだろうか。グーグル、アマゾン、ソフトバンクなどのIT系の新興企業の勃興は、ある面では貧富の差の拡大を招いている。「協同組合的な社会」への軟着陸が必要に思う。

5月某日
ゴールデンウイーク。とは言え年金生活者にとっては日々、ゴールデンウィークのようなもの。朝、遅い朝食をとって新聞をざっと読み、テレビを見てベッドに横になりながら本を読む。今日は図書館から借りた「歩兵の本領」(浅田次郎 講談社文庫 2014年4月 単行本は2001年4月)を読む。浅田次郎は1951年東京生まれ、大学受験に失敗後、自衛隊に入隊する。除隊後服飾関係の会社経営などいくつかの職業を転々とするが文学修業を続け、1995年「地下鉄(メトロ)に乗って」で吉川英治文学新人賞、1997年「鉄道員(ぽっぽや)」で直木賞受賞。日本ペンクラブ会長も務めた今や文壇の大御所。入隊したのはおそらく1971年春、除隊したのは1973年と思われる。この時の自衛隊市谷駐屯地勤務の体験をもとにしたのが「歩兵の本領」である。世界でも有数の戦力を有しながらも軍隊とは認知されていない自衛隊。だから歩兵は普通科、工兵は施設科、砲兵は特科、二等兵は二等陸士、上等兵は陸士長、伍長は三等陸曹、曹長は一等陸曹と言い換えられる。
1970年代はまだまだ過激派に勢いがあり、朝霞基地で警備中の隊員が過激派を名乗る学生に刺殺された事件もあった。反戦自衛官が名乗り出たのもこのころである。世間はまだまだ自衛隊に冷たかったころである。その頃の自衛官の生態を浅田は愛情たっぷりに描く。ヤクザの使い走りだったり、大学受験に失敗した浪人生だったり、家出して喫茶店のウエイターをしていたり、はっきり言って当時の世間の落ちこぼれが自衛隊地方連絡部の勧誘員の甘言に乗せられて自衛隊に入隊する。当時は高度経済成長期、仕事はいくらでもあった。にもかかわらず自衛隊に入った青年たち。いつもの浅田の短編と同じにユーモアとペーソスはふんだんにあふれている。というよりあふれ方はいささか過剰、それは浅田の当時の仲間たちに対する愛情なのだろう。浅田はしかし本心からの平和主義者、このことは断っておかなければいけない。

5月某日
図書館で借りた「長崎乱楽坂」(吉田修一 新潮社 2004年5月)を読む。吉田修一の小説は好きでずいぶん読んだが、これはちょっと期待外れ。工場の事故で父を亡くした駿が母と弟と母の実家に引き取られる。母の長兄は実家を出て、実家は次兄が継ぎ兄弟はともにヤクザ。兄弟の一人は非行にも走らず「離れ」で絵描きに精進するが若くして自死してしまう。神戸での抗争から「離れ」に匿われたヤクザの存在や駿と不良少女の恋など、登場人物とストーリーはそれなりに魅力的なのだが、人物の造形がややありきたりでストーリーにも踏み込みが足りないと感じた。しかし吉田修一の30代前半の作品(吉田は1968年生まれ)であるから無理もないのかもしれない。

モリちゃんの酒中日記 4月その5

4月某日
セルフケアネットワーク(SCN)の高本代表理事と市川理事がHCM社に来社。SCNの今年度事業について検討。市川理事の実家が「クラ‐チ・ファミリア小竹向原」という介護付有料老人ホームを開設、そのパンフレットを持ってきてくれた。練馬区小竹町は私の学生時代、大学の3年と4年の間を過ごした力行会の国際学寮があったところなのでたいへん懐かしい。HCM社近くのタイ料理の店「バン セーン」でランチ。たまには私がご馳走する。ここはウエイトレスも全員がタイ人のようで、味も良かった。全住協の加島常務が来社して監事監査の打ち合わせ。3時過ぎに退社、5時には我孫子の「しちりん」でホッピー。6時過ぎには「愛花」へ。呑み過ぎである。

4月某日
理学療法士の伊藤隆夫さんは初台リハビリテーション病院や船橋リハビリテーション病院を経営し、訪問リハビリテーションにも力を入れている医療法人輝生会の元理事。私が脳出血で倒れ、急性期病院に入院していたとき、当時確か老健局長だった中村秀一さんから「退院したらどうするの?」と電話をもらった。「自宅の近くのリハビリ病院にしようかと思います」と答えたら「船橋リハビリテーション病院がいいからそこにしなさい。伊藤さんという理学療法士がいるから連絡しておく。そういえば伊藤さんも早稲田だよ、革マルだけど」と言われた。革マルと聞いて一瞬、躊躇したが「まさかリハビリ病院で内ゲバはないだろう」と船橋リハビリ病院に決めた。これが大正解で中村さんや伊藤さんはじめ病院のスタッフには本当に感謝している。
伊藤さんは輝生会を退職、奥さんの実家がある和歌山県の有田市に転居した。先月、中村さんから連絡があって「4月に伊藤さんが上京するから会おう」という電話があった。生憎、その日は中村さんに出張が入ってしまったが、伊藤さんと神田駅東口の「跳人」で呑むことにする。「跳人」は鎌倉橋ビル地下1階の大手町店にはたまに行くが、土曜日は休みなので土曜日もやっている神田店を予約。大手町店の店長の大谷君が土曜日は神田店に出ている。神田駅北口の「河内屋」でアイリッシュウイスキーの「ジェムソン」を仕入れ、「跳人」に向かう。大谷君が「アイリッシュウイスキーいいですね」というので「残ったら呑んでいいよ」という。伊藤さんが来たのでビールで乾杯した後、ジェムソンを呑む。伊藤さんは早稲田の理工学部土木科を出た後、大手ゼネコンに就職したが、「何か違う」と退職、高知の教員養成校に入学し、学資を稼ぐために近森リハビリ病院で働くうちに「向いている」ことから理学療法士の資格を取得、近森病院にいた石川誠先生と輝生会を立ち上げた。伊藤さんから「森田さん、元気そうだね。私が担当した患者さんでは森田さんは長嶋(元巨人軍監督)さんに匹敵するよ」と持ち上げられ、すっかりいい気持になる。

4月某日
図書館で借りた「維新史再考-公議・王政から集権・脱身分化へ」(三谷博 NHKBOOKs 2017年12月)を読む。B6判で400ページを超える私にとっては大著。読み通すのに1週間ぐらいかかったが私は面白く読んだ。18世紀後半から19世紀にかけて日本をはじめとしたアジア諸国、アフリカ、中近東を含めた非西欧社会は、産業革命を経たヨーロッパの軍事大国からの直接的、間接的な侵略の危機にさらされた。日本は1853年のペリー来航を契機として尊王攘夷、攘夷倒幕、公武合体など国論は分裂、主として京都を舞台に勤皇派、佐幕派双方のテロリズムが横行した。著者の三谷博はその辺の政治状況を資料を駆使して再現する。印象的だったのは幕末の越前の松平春嶽、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城らの賢公会議が公議輿論を主導したり、そこに薩摩の家臣、大久保や西郷、さらには廷臣の岩倉らがからむという複雑な政治過程を経ながら武力倒幕、明治維新に至るというリアルでダイナミックな政治史である。果たして後世の歴史家は現代日本の森友、加計学園問題に端を発する政治混乱をどのように評価するであろうか。「評価に値せず」と歴史の屑籠に捨て去られるのだろうか。

4月某日
図書館で借りた林真理子の「みんなの秘密」(講談社文庫 2001年1月)を読む。単行本は1997年12月だから20年以上も前の作品である。であるが内容は少しも古さを感じさせない。まぁ林真理子はすでに文豪といってもよい地位を分断に築いていると思われるのでそれも当然なのだが。「みんなの秘密」というタイトルからするとおりテーマは夫婦、家族間の秘密、主として不倫である。12の短編が連作になっている。最終作のタイトルは「二人の秘密」である。開業医の妻がバブルからこぼれたデザイナーと不倫する。デザイナーは夫を脅迫し金を得る。デザイナーはさらに金を要求する。夫はかつて命を助けた老ヤクザを思い出し、デザイナーの抹殺を相談する。成功した開業医の一人娘だった妻と夫は政略結婚ともいうべき愛のない出会いであった。だが妻の不倫とそれを理由とする脅迫によって、夫は妻を守ろうと決意する。それは愛の再確認でもあった。こうやってストーリーを要約してしまうとつまらない。それは要約だからなのであって、林真理子は長編も読ませるが、短編も実に巧みと思う。

モリちゃんの酒中日記 4月その4

4月某日 
香川喜久枝さんと15時に上野駅公園口で待ち合わせ。東京国立博物館へ向かう。開催中の特別展「アラビアの道-サウジアラビア王国の至宝」を見る。サウジアラビア王国の国立博物館の展示物が公開されている。石器時代からギリシャやローマ帝国の影響を受けた時代、東西貿易の交易の拠点となったオアシス都市、そしてオスマントルコの支配から独立してサウジアラビア王国を建国、今に至っていることが何となく理解できる。オスマントルコからの独立に大きな力を発揮したのが「アラビアのロレンス」。ピーター・オツールの主演で映画化され、私も高校生の頃、地元の映画館で見た記憶にがあるし、その後もテレビで放映されたものを2度ほど見た。遊牧民の族長役で出ていたアンソニー・クインが印象的だった。今回の展示では「アラビアのロレンス」に触れたものはなかったが、アンソニー・クインが着ていたような民族衣装や大きく湾曲した短剣、砂漠でのゲリラ戦に使用したと見られるライフル銃を見ることができたのは収穫だった。特別展は表慶館での展示だったが、表慶館は大正天皇のご成婚記念に片山東熊の設計で建てられたという。
香川さんと2人で内神田の「跳人」へ。ケアセンターやわらぎの事務長を今年3月で辞めた伊藤さんのご苦労さん会。伊藤さんから豪華なクッキーをもらう。香川さんからは歯ブラシ。大谷さんが遅れて参加。

4月某日
図書館で借りた「THE独裁者 国難を呼ぶ男!安倍晋三」(KKベストセラーズ 2018年2月)を読む。首相官邸での菅官房長官への執拗な質問で名をはせた東京新聞記者、望月衣塑子と元経産省の官僚でテレビ番組や著作で安倍政治を批判し続けている古賀茂明の対談集。財務次官の福田淳一氏が女性記者へのセクハラ疑惑で辞任せざるを得なくなったが、本書が企画、出版されたのはそれより以前である。しかし本書によっても政権の長期化からくると思われる規律のゆるみ、私物化の傾向が随所に指摘されている。行政あるいは公務員はすべての国民に対して公平でなければならない。当たり前のことであるが、首相夫人が名誉校長を務める森友学園、あるいは首相の親友が経営する加計学園に対して、その認可や土地取得に対して何らかの「忖度」が行われた疑いが極めて濃厚である。それは本書の「森友問題とは何だったのか?」「加計学園 疑惑の深層」に詳しい。
私がこの本を読んで感じたこと、またこの間の安倍政権の振る舞いで感じたことは第一に権力は長期化すればするほど腐敗する傾向があること、第2にそれをチェックする役割のジャーナリズムが弱体化していないか、第3に政権と官僚との関係でも、官僚が政権にもの申すのではなく「ひれ伏す」ようになってはいないか、ということである。ジャーナリストも官僚も国家・国民のために働いてナンボである。とくに官僚は国民に雇われているのであって、与党の政治家に給料を貰っているわけではないのである。そこんところをしっかりと理解してもらいたい。

4月某日
地方議員を対象にした「地方から考える社会保障フォーラム」に参加。今回で15回だが、第1回から講師やテーマの選定でアドバイスをしている。いつもは社会保険研究所の大会議室を無償で借りているのだが、今回は申込みが110名を超えたため会場を変更することになった。銀座1丁目の120名は入る会議室を借りる。初日は政策企画官の野崎伸一さんの「地域共生社会への取組み」、鳥井陽一国民健康保険課長による「データヘルス」、そして八神敦夫審議官の「生活困窮者自立支援制度の見直し」。社会保障政策の現場というと年金と被用者医療保険を除けばその多くは基礎自治体としての市区町村が担っている。自治体の首長をチェックする役割が地方議員。したがって厚生省の官僚も熱心に政策を語ってくれるし質問にも丁寧に答えてくれる。初日のフォーラム終了後、議員の有志20名ほどが参加して情報交換会に参加。情報交換会の後、社会保険研究所の鈴木社長と有楽町のガード下へ。鈴木社長にご馳走になる。我孫子で「愛花」に寄る。

4月某日
「地方から考える社会保障フォーラム」2日目。黒田秀郎医療介護連携担政策課長の「地域包括ケアシステムと診療報酬・介護報酬改定」と平子哲夫母子保健課長の「子育て支援の新たな展開」を聞かせてもらう。平子課長は着任後ひと月も経っていないのに丁寧に説明してくれる。名刺交換に来る議員さんたちも多かった。HCM社で遅い昼飯、日土地ビルで打合せ、18時過ぎにプレスセンターへ。老健局の鈴木健彦老人保健課長の「2018年介護報酬改定」を聞く。主要改定項目について解説してくれる。亀井美登里さんや高井さん、浦和大学客員教授の長沼明先生に挨拶の後、大谷源一さんと大谷さんのお友達で岡山で就労継続支援A型事業所をやっている萩原義文の3人で新橋駅前の酔心で吞む。大谷さんにご馳走になる。

モリちゃんの酒中日記 4月その3

4月某日
大学の同級生、雨宮君は卒業後司法試験に合格して検事に。その後、弁護士を開業した。現在のオフィスは西新橋の弁護士ビル。私が机を置かせてもらっているHCM社から歩いて5分ほどの距離だ。末っ子が早稲田大学の法学部へ入学、お祝いに家族でベトナム旅行へ行ってきたという。お土産があるというので弁護士ビルへ行くとベトナムコーヒーをくれた。ジャコウネコが食べたコーヒー豆を糞から取り出し、焙煎したものという。ありがたくいただく。弁護士ビル近くの「山本魚吉商店虎ノ門店」という日本酒の旨そうな店に入る。茨城県日立市の日本酒を頂く。雨宮君が西新橋1丁目の交差点まで送ってくれる。霞が関から千代田線で我孫子まで帰る。

4月某日
御徒町の台湾料理店「大興」で大谷さんと年友企画の石津さん、酒井さん、元年友企画の浜尾さん、村井さんと呑むことに。前日、京大理事の阿曽沼さんから京大の東京ブランチがある新丸ビル10階に5時に来てくれとのメール。神田の社保険ティラーレで「地方から考える社会保障フォーラム」の打ち合わせの後、新丸ビルへ。新丸ビル5階のバーへ。シャンパンとロゼ、ジントニックを頂く。京都へ帰る阿曽沼さんと東京駅で別れ御徒町へ。御徒町の「大興」には大谷さんと東京介護福祉士会の白井幸久さん、埼玉福祉専門学校の飯塚さん、石津さん、酒井さんが来ていて盛り上がっていた。金曜日の夜ということもあって、私の入る余地がない。大谷さんを誘って別行動をとることに。日比谷線の仲御徒町駅から入谷へ。5~6年前、兄嫁の弘子さんと作家の車谷長吉先生、奥さんで詩人の高橋順子さんと行った店を目指すが満員で入れず。入谷駅近くの2階に入りやすそうな居酒屋があったので入る。「さんたけ」という店で脱サラして店を始めた78歳のマスターと、秋田県能代出身のおばちゃん、30代くらいのお姉さんがやっている店だ。1人2000円でお釣りが来た。我孫子へ帰って駅前の「愛花」に寄る。常連の新井さんがいた。

4月某日
図書館で借りた「マルクス 資本論の哲学」(熊野純彦 岩波新書 2018年1月)を読む。一言でいえば「資本論でマルクスが言いたかったこと」について哲学的に読み解いたということになると思う。だが、本文は断片的には理解できたものの著者の論述を十二分に理解できたとは言い難い。理解できないのに魅力的な本であった。機会を改めて挑戦したいと思う。私がなんとなく理解しえたと思ったのは「まえがき」と「終章 交換と贈与」、「あとがきにかえて」である。「まえがき」には「世界革命と世界革命とのあいだで」というサブタイトルが付されている。一度目は、ほぼヨーロッパ全土を席巻した1848年であり、2回目は日本を含む先進諸国で同時多発的に発生した1968~69年の学生反乱である。I・ウォーラーステインのことばという。著者の問題意識は、「この世界が存続するためだけにも、大きな変化が必要とされる」ということであり、そのため「資本論」で展開されているマルクスの原理的な思考の深度と強度に焦点を当てたという。「終章」に「コミューン主義のゆくえ」という副題が付いている。コミューン主義とは我が国でコミュニズムの訳語として多く用いられている共産主義のことであるが、あえて共産主義という「手垢に汚れた」訳語を用いずコミューン主義という訳語を用いた著者の意図は理解できる。
 終章ではマルクスは資本主義体制に代わるどのような体制を思い描いていたのかが、マルクスとエンゲルスが残したいくつかの文献をもとにして述べられる。共産主義は私的所有の廃絶を目標とするというのは高校の世界史の教科書にもあるほどの常識なのだが、マルクスの思考はそんな単純なものではない。著者は「経済学・哲学草稿」からマルクスの考えを「手にすること、ひとりのものとし、使用し、また濫用すること、すなわち私的に所有することだけが『じぶんのものとする』ことではない。世界を見、その音を聞き、感じ、しかも他者とともにそうすること、他者とともに世界にはたらきかけて、世界を受苦においても能動的にも享受することもまた、世界をともに持つこと、わかち合うことである」と紹介している。著者、熊野純彦が言うように、このマルクスの所論は「ある種の豊かなイメージを喚起する」と言えよう。「あとがきにかえて」では、わが国の資本論研究の流れが紹介されているが、宇野弘藏や廣松渉、柄谷行人の著作と並んで大川正彦という人の「マルクス いま、コミュニズムを生きるとは?」(NHK出版)が評価されている。読んでみようかな。

4月某日
1969年と言えば今から49年前である。私は20歳、早稲田の政経学部の2年であった。当時、政経学部の学生自治会(学友会)は社青同解放派(反帝学評)の拠点だったが、全学的には革共同革マル派が制圧していて、政経学部学友会の活動家だった私は学内に入ることができなかった。1969年の4月17日、前日から明治大学の学生会館に泊まり込んだ私たち(反戦連合を主体にした反革マル連合)はヘルメット、ゲバ棒で武装して大学本部に突入した。革マル派の本体は晴海での沖縄闘争に行っていて、留守部隊が大学本部を防衛していた。数分のゲバルトの後、革マル派は潰走、私たちは大学本部を封鎖した。学生運動での私の数少ない「成功体験」である。私の記憶によると私たちの隊列の先頭にいたのが高橋ハムさん(のちに自治労幹部、現在ふるさと回帰支援センター理事長)と鈴木基司さん(政経学部卒業後、群馬大学医学部へ進学、現在群馬で小児科医を開業)だった。ハムさんと昔話をしていたら、当時の仲間が集まろうということになり、市ヶ谷の勤寿司にハムさんや基司さんたち10数人が集まった。皆70歳前後のジジイであるが、当時のことを鮮明に覚えていた。早稲田の全共闘は「反革マル派」が原点。医学部の不当処分撤回闘争が始まりだった東大闘争、大学当局の不正経理に端を発した日大闘争とはそもそもの始まりが違う。違うけれども反セクト、自主・自立の気風だけは強かったし、それは現在の自分にも受け継がれていると思う。

モリちゃんの酒中日記 4月その2

4月某日
高田馬場栄通の「清龍」で大谷源一さんと。高田馬場での会議が長引き、18時半には行けるはずだったが19時半を過ぎていた。「清龍」は埼玉県蓮田市の清龍酒造が経営する居酒屋。「安くて美味しい」と言ってよいと思う。高田馬場店のウエイトレスは私の見た限り外国人。おそらくは中国と中南米系、一生懸命働く姿は感じが良い。我孫子に帰って駅前の「愛花」に寄る。福田さんとケイちゃんが来ていた。ケイちゃん持参の日本酒を頂く。

4月某日
HCM社の大橋社長と新橋から上野-東京ラインで赤羽へ。友人の李さんが社外スタッフとして協力している蓼科情報㈱へ。李さんが30分ほど遅れてきたのでそれまで世間話。李さんが来たので打ち合わせ開始、終了後、李さん、大橋さん、私の3人で赤羽で呑むことに。5時前なのでまだやっている店は少なかった。赤羽の居酒屋としては割と小奇麗な店に入るとすでにサラリーマンらしき人たちが何組か入っていた。ビールと焼き鳥、「梅水晶」「キムチ」などを頼む。ビールの後はホッピー。2時間ほど呑んで食べて会計はひとり3000円に行かなかった。安い!盛り場としての赤羽は居酒屋の数が多いのが特徴、それだけ競争が激しいのである。

4月某日
図書館で借りた「路上のX」(桐野夏生 朝日新聞出版 2018年2月)を読む。真由は高校1年生、レストランを経営していた両親が夜逃げ、真由は叔父(父の弟)の家に、弟は伯母(母の姉)に預けられる。真由は叔父の妻と折り合いが悪く、家出して渋谷の中華料理店でアルバイトをすることに。休憩室で寝泊まりするがある夜、チーフに犯される。バイト先も失った真由が会ったのがJKビジネスをやっているリオナ。リオナはヤンキーの母と同居していたが義父に毎晩のように性的虐待を受け、家出する。リオナはJKビジネスの客だった東大生の秀斗のマンションに性的サービスと交換に同居している。同居には真由にリオナの二人にリオナの友達で育児放棄されたミトが加わる。ミトは同棲相手に妊娠させられたうえ捨てられたのだ。桐野夏生の「奴隷小説」(文春文庫 2017年12月)の解説で政治学者の白井聡が、桐野夏生の作品は平成のプロレタリア文学と言っていたことを思い出す。桐野文学の本質を突いているように感じられる。「現代作家のうち、桐野氏こそ『階級』に、『搾取』に、より一般的な言い方をすれば『構造的な支配』に、最も強くこだわっている書き手ではないだろうか、と私は思うのである」(「奴隷小説」解説)。しかし小説のエンディングは意外にも真由とリオナの未来を感じさせるLINEであった。

4月某日
児童虐待防止のための勉強会に出席。これはケアセンターやわらぎの石川はるえ代表の呼びかけで始まったもので今回は2回目。やわらぎの南阿佐ヶ谷のデイサービスが会場。出席者は3つのテーブルに分かれて着席。私はフリー編集者の浜尾さんの隣に座る。一通りの自己紹介が終わった後でNPO法人Child First Labの高岡昂太さんが「今後の日本における子ども虐待の対応」についてレクチャー。児童相談所での対応件数は1990年から2015年で約100倍になっているにもかかわらず児相職員の配置数は1999年から2015年で約2倍にしかなっていないことを指摘、虐待などの通告が急増しているにもかかわらず、手が回らない実態を説明し、児相と司法や警察との連携の必要性を訴えた。具体的には「児童保護局・子ども権利擁護センター」を設置し「司法・医療・福祉が協働し、対応を効率化するシステム」の構築を提案していた。驚いたことに高岡さんは国立研究開発法人産業技術総合研究所の人工知能研究センターに所属、名刺によると「確率モデリング」というのを研究しているらしい。

4月某日
李さんがオリジナルで検討している「年金受給者情報」のチェックシステムについて社会保険庁OBの浅岡淳朗さんの意見を伺う。浅岡さんは飯田橋の厚生年金病院に用があるというので西新橋のHCM社に来てもらう。浅岡さんは李さんの説明を聞いてからいろいろ貴重なアドバイスをしてくれる。印象的なのは浅岡さんの「政策っていうのは論理で組み立てられている。そのとき政策を作っている奴らの頭には現場のことは浮かばない。だからいかに精緻な論理な論理で組み立てられた政策でも、現場でとても実施しずらいということがまま起きるのさ」という言葉。なるほどねー。あらゆる政策は実施されてこそ意味がある。政策を実施するのはあくまで現場。現場の意見を聞け、ということなのだろう。新橋から神田へ。西口通り商店街の「磯じまん」という店でフィスメックの小出社長と社会保険出版社の高本社長と呑む。小出社長から「魚と日本酒のおいしい店」と聞かされていたが、その通りのお店で、店長のおすすめのままに呑む日本酒がどれも個性的であった。小出社長にすっかりご馳走になる。

モリちゃんの酒中日記 4月その1

4月某日
上野の国立西洋美術館へ。プラド美術館展を観る。「ベラスケスと絵画の栄光」というサブタイトルの通りベラスケスの作品7点を軸に17世紀の絵画60点が展示されていた。ベラスケスはスペイン王室お抱えの宮廷画家で国王フェリペ4世はじめ、王子の肖像など「泰西名画」というべき名画を楽しんだ。上野公園に出ると今年最後の花見を楽しむ人たちで大賑わいであった。御徒町から上野へ。上野駅構内のバーで時間をつぶし、川口へ。大谷源一さんと根津のスナック「ふらここ」のママに会う。西川口の山東料理の「異味香」へ行く。ここは芸能人も多数訪れている名店らしく秋元康やサマーズの写真が飾られている。大変おいしい中華であった。

4月某日
図書館で借りた「日本経済入門」(藤井彰夫 日経文庫 2018年1月)を読む。著者の藤井は日本経済新聞の上級論説委員。平成の30年間を総括しつつ今後を展望する。バブルの発生とその消滅、異次元金融緩和などについてわかりやすく解説していた。少子高齢化の経済的な影響にも的確に論評していたように思う。優秀な新聞記者なんだろう。

4月某日
元年住協の林弘幸さんと新松戸の「グイ呑み」で待ち合わせ。林さんは永大産業出身の営業の叩き上げ。年住協では名古屋支所長や福岡支所長を務めた(多分、東京支所長もやったと思う)。昔からなぜか気が合う。気が合う理由について考えると、私が林さんに対して持つ営業マンとしてのリスペクトの感情なんだと思う。商品は売れてなんぼの世界だ。林さんは「年金住宅融資」という商品を最前線で金融機関や住宅メーカーに売っていたものね。

4月某日
セルフケアネットワークの高本代表理事と千代田線根津駅の改札で待ち合わせ。根津駅近くの医療系出版社、青海社を訪問して工藤社長に会う。高本さんからセルフケアやグリーフサポートについての説明をする。青海社は緩和ケアの書籍を発行するなど終末期ケアにも取り組んでおり、高本さんの説明もよく理解してくれたようだ。私から高本さんの本を青海社から発行できないか、企画書を書くので検討してくださいとお願いした。お昼になったので根津界隈の工藤社長行きつけのオーガニック料理の店に向かう。工藤社長は糖尿病なのでカロリー制限されておりハーフサイズを頼んでいた。私はカレーライスを頼んだがなかなかおいしかった。工藤社長と別れ私と高本さんは「へび道」を通って千駄木へ。「へび道」とは蛇行して流れていた愛染川を暗渠にしてできた道で、当然、蛇行しているので「へび道」と呼ばれるようになったようだ。千駄木の「さんさき坂」に突き当たる。趣味の小物を売っている「伊勢辰」に寄る。
HCM社でシステムエンジニアの李さんに来てもらい、パソコンのメール環境を変更してもらう。これで年友企画時代のメールアドレスとはお別れ、moritashigeo@outlook.jp
あるいはmorita@morichan.meを使うことになる。李さんと新橋駅前の居酒屋へ。日本年金機構が年金情報の処理を外部の会社に委託したところ大部分が中国の業者に再委託していたことが発覚したことが話題になった。入ったときは客がまばらだった居酒屋も出るときはかなり混んでいた。確かに値段の割にはおいしいと思う。

4月某日
高齢者住宅財団の落合明美さんと内神田の「ビアレストランかまくら橋」へ。新年度ということからかお店は結構な賑わい。そう言えば最初は同じビルの「跳人」を電話で予約したのだが、テーブル席がいっぱいだったのでこちらに変更した。仕事の話ではなくAI(人工知能)やBI(ベーシックインカム)の話をして楽しかった。落合さんとは上野駅で別れ、私は我孫子で「しちりん」に寄る。

モリちゃんの酒中日記 3月その5

3月某日
名古屋の「我が家ネット」の児玉さんが上京。SCNの高本代表と神田の葡萄舎で会うことにする。児玉さんが家でウサギを飼っていたことを思い出して日本橋の「うさぎや」で和菓子を買う。6時に葡萄舎に着くと児玉さんと高本さんはすで来ていた。児玉さんから「ふりかけ」、高本さんからはお菓子を頂く。「森田さん、最近どうですか?」と聞かれたので「絶好調!」と答えると「本当にそうみたいですね」と返ってくる。組織に所属しないというのは実に気分がいいものだ。児玉さんが飼っていたウサギは昨年、亡くなったそうだ。遅れて高本さんの旦那さん、社会保険出版社の高本社長が参加。高本社長にすっかりご馳走になる。

3月某日
西新橋の「びんちょろ」で元厚労次官の阿曽沼さんと5時半に待ち合わせ。少し前にHCMを出ると阿曽沼さんが前を歩いていたので声を掛ける。せっかくなのでHCMに戻って大橋社長に阿曽沼さんを紹介する。「びんちょろ」では昼ご飯は食べたことはあるが夜は初めて。お刺身はじめなかなかおいしかった。阿曽沼さんは新幹線で京都に帰るというので7時過ぎにお開き。阿曽沼さんにご馳走になる。

3月某日
HCM社にデザイナーの土方さんと映像の横溝さんが来る。家具転倒防止の研修用ビデオの打ち合わせ。HCM社の真ん前が「南桜公園」で桜が満開なので、大橋社長の提案でブルーシートを敷いて花見をすることに。ビール、日本酒、焼酎ですっかりいい気持になる。電車で寝てしまい終点の取手まで乗り過ごす。

3月某日
年友企画で編集に携わっていた雑誌「へるぱ!」の編集会議を社会保険福祉協会で。その後、医療介護福祉政策研究フォーラム(虎ノ門フォーラム)の中村秀一理事長を訪問。私は3月から社会福祉法人にんじんの会の評議員を務めているが、この日は評議員会が法人本部のある立川で開催されるために、先輩評議員の中村さんが一緒に行ってくれることになった。虎ノ門から銀座線で赤坂見附へ。赤坂見附から丸ノ内線で四谷、四谷で中央線に乗り換える。ちょうど通勤ラッシュ時だったが中野あたりから座ることができたが中村さんは立ちっぱなしだった。定刻の10分ほど前に法人本部に着く。中村さんが議長になって評議員会が始まる。主に中長期計画を審議。職員が主体となって計画を練り上げたというがなかなか立派な計画で感心した。評議員会には遅れて川村女子大学の吉武民樹さんが参加。
評議員会の後の懇親会に中村さんや吉武さんと参加。懇親会では「吉武節」がさく裂。佐川前国税庁長官の国会喚問から始まり、吉武さんの厚生労働省時代のエピソードが明かされる。隣に座った法人の石川常務に「面白いでしょう?」と聞くと「面白いですねー」と感服していた。吉武さんと私のために法人が立川のパレスホテルを予約してくれていたのでそこに宿泊する。

3月某日
朝、吉武さんから「昭和記念公園」がホテルの近くにあって桜の名所らしいから行こうとの電話。昭和記念公園に着くと桜が満開であった。公園内を巡回する列車仕様のバスに乗車。桜を満喫する。吉武さんが車で来ていたので一緒に花小金井の荻島道子さんを訪問することにする。荻島さん20年以上前に亡くなった厚生省の荻島国男さんの奥さん。吉武さんや阿曽沼さん、唐沢さん、今、アゼルバイジャン大使の香取さんたちが当時の部下で同期には江利川さんや川邉さん、宮城県知事をやった浅野さんがいる。
茅ヶ崎へ向かうという吉武さんと別れ、私は花小金井から西武線で新宿へ。虎ノ門で打ち合わせた後、京大東京事務所の大谷さんと神田駅北口で待ち合わせ。前に2人で行った「トリ酒場」へ行く。ここは「全品290円」という安さが魅力の店。2人でいい気持ちになってひとり2000円ほど。私は大谷さんと2人の呑み会を勝手に「千ベロの会」と名付けている。「1000円でべろべろ」という意味である。我孫子で駅前の「愛花」に寄る。看護師養成の大学で助教をしている佳代ちゃんがいる。4月から大学を移るという。

モリちゃんの酒中日記 3月その4

3月某日
春分の日。ブルゾンのファスナーが動かなくなったので北千住の駅ビルの「ユニクロ」で買い替え。昼間から空いている居酒屋が結構あるのがさすが北千住。「ちょい飲み酒場 酔っ手羽食堂」に入る。チェーン店のようだが、中ジョッキ380円、大関1合390円、串焼きが1本100円と手ごろな値段が魅力。隣の1人で呑んでいた中年の女性に話しかけられる。お彼岸のお墓参りの帰りだそうだ。木場の材木商の生まれで今は高井戸で商売をやっているという。高井戸にはミサワホームの総合研究所や日本年金機構、浴風会などがあるので多少土地勘があり話が合った。

3月某日
図書館から借りた「98歳になった私」(橋本治 講談社 2018年1月)を読む。橋本は東大生の頃、五月祭か駒場祭のポスターで有名になった。「止めてくれるなオッカサン、背中のイチョウが泣いている」というコピーに、上半身裸の東大生が日本刀を抜いて背中にはイチョウのマークの彫り物が彫ってあるイラストだったと記憶している。コピーもイラストも橋本の作だったと思う。1968年のことだと思うからよく覚えていると我ながら思うし、それだけ衝撃的なポスターだったのかもしれない。その後橋本は「桃尻娘」で小説家としてデビュー、古典の現代語訳にも手を染めている。橋本は私と同じ1948年生まれだから今年70歳である。ということは1968年には20歳、98歳のときは2046年ということになる。その頃の「私」は震災に襲われた東京を離れ、栃木県の杉並木の近くの仮設住宅に住んでいる。家族はいない。介護士やボランティア、そして「私」のファンがときどき訪ねて来る。私は面白く読んだ。98歳になる自分はとても想像することさえできないのだが、この小説は確かに想像力を刺激してくれるし、一人ぽっちの98歳も悪くないかもと思えてくる。

3月某日
音楽運動療法研究会で宇野裕事務局長とヘルパーさんをインタビュー。JR板橋駅で待ち合わせ。すでに板橋に着いているという宇野さんが見当たらないので東口に出る。近藤勇の墓が駅前にありそこを過ぎるとインタビュー場所の喫茶店「ケルン」が見える。北区の高齢者施設の施設長で音楽運動療法研究会のメンバーでもある黒沢さんが、ヘルパーの箭内道子さんを連れてきたので3人でケルンに入る。遅れて宇野さんが登場。箭内さんは介護保険の開始前から北区でヘルパーをやっているというベテラン。もともと歌が好きということもあって「だまって車椅子を押すよりは」ということで歌を唄いだしたという。ただ音楽を嫌いな人もいるし、箭内さんが唄うのはもっぱら歌謡曲だが、歌謡曲が苦手という人もいるから決して「押し付けない」のが鉄則。だが歌を聞くことで認知症の利用者の表情が明るくなるし、利用者とのコミュニケーションを図る上でも有効らしい。箭内さんは今年70歳でヘルパーを始める前は「普通の主婦」だったというが「普通の主婦」畏るべしである。帰りに宇野さんと近藤勇の墓所に寄る。近藤は戊辰戦争の転戦中に下総流山でとらえられ板橋で斬首される。首は京都で晒されたが胴体は板橋に葬られた。のちに新選組副長の土方歳三、永倉新八も合葬されている。しかし土方は五稜郭の戦いで戦死しているが遺体は確認されていないと思うから、遺骨が葬られているわけではないはず。

3月某日
愛宕山で花見。待ち合わせ場所は曲垣平九郎が馬で登ったという愛宕神社の階段前。HCMの大橋社長と少し早めに着いたので先に花見を終え、階段近くの小西酒店でワインを呑んでいると中村秀一さん、次いで吉武民樹さんが顔を出す。3人で呑んでいると待ち合わせ時間の18時になったので階段前に行くと住宅保証機構の副社長の小川さんが待っていた。次いでNHKの堀家さんと「福祉の街」の安藤会長が来る。2人が花見から帰るのを待って呑み会会場の霞が関ビルの東海大学校友会館に向かう。「にんじんの会」の石川理事長、「ふるさと回帰支援センター」の高橋理事長も来たので取り敢えず乾杯。元長岡市長の森民夫さん、厚労省の濱谷老健局長、伊原審議官、元宮城県知事の浅野史郎さんなども来てくれた。新潟県佐渡市の副市長をやっている藤木さんから日本酒が差し入れられた。国土交通省の伊藤明子住宅局長も来てくれた。花見の会は4年ぶりくらい。これだけ来てくれるのなら毎年やろうかな。

モリちゃんの酒中日記 3月その3

3月某日
新丸ビルの京大産官学連携本部東京事務所に大谷さんを訪問。大谷さんの現在の勤務時間は16時までなので、16時過ぎに東京事務所を出る。久しぶりに日暮里駅前の「いづみや」に行くことにする。まだ17時前なのに店はほぼ満席。チェロと思しき楽器ケースを傍らに吞んでいるのは場所柄、芸大生だろうか。その隣に座っている老人は手を激しく震わせながら瓶ビールをグラスに注いでいる。持参のピンセットのような箸を使って器用につまみを食べている。テレビで相撲の中継が流されている。隣のホッピーを吞んでいたオジサンが話しかけてくる。日馬富士は引退し白鵬と稀勢の里は休場、「鶴竜は頑張ってるね」と言うと「本当にそうだよ」と相づちを打ってくれた。

3月某日
監事をやっている一般社団法人全国年金住宅融資法人協会の理事会に出席、理事会が東京駅の八重洲口だったので丸の内口にまわって京大産官学連携本部の東京事務所に大谷さんを訪ね、「花見の会」の相談。その後、有楽町の「ふるさと回帰支援センター」によって理事長の高橋ハムさんに「花見の会」の報告。ハムさんとは50年前の1969年4月17日、当時革マルが制圧していた早大本部に一緒に突入した仲。早大全共闘はそれからスタートしたようなものだが、9月5日の全国全共闘の結成大会を前にした9月3日、第2学生会館を拠点にしていた全共闘派、大隈講堂を拠点にしていた革マル派はともに機動隊に排除された。そのとき私と一緒に第2学館で逮捕されたのが、のちに滋賀県の県職労のトップとなる桧山君。ハムさんが桧山君に電話してくれ久しぶりに話すことができた。電話の声は50年前と変わらなかった。ハムさんが声を掛けて来月17日に突入した「同窓会」を開くことになった。政経学部の1年上だった鈴木基司さんや辻さんも来るそうだ。2人とも群馬大学の医学部に進み医者をやっている。我孫子へ帰って駅前の「しちりん」へ。次いで「愛花」に行くと常連の坂田さんが来ていた。しばらくすると看護大学で助教をやっているケイちゃんが来る。

3月某日
日曜日、BSでクリントイーストウッド監督、主演の「グラントリノ」を観る。イーストウッドはデトロイトの引退した自動車工。最愛の妻に死なれ2人の息子とは疎遠になり、老犬と孤独に暮らす。隣家にラオスの少数民族モン族の一族が越して来る。モン族の姉弟と仲良くなるイーストウッド。イーストウッドは弟タオに絡むモン族の不良を撃退するが、報復に姉は強姦されてしまう。イーストウッドは一人で不良のアジトに向かう。イーストウッドが銃を抜く仕草を見せたため、不良たちの銃弾を浴びて死ぬ。自らの命と引き換えに不良たちを監獄へ送り込んだのだ。イーストウッドの愛車がフォードのグラントリノ。遺言でタオに与えられる。モン族はベトナム戦争で米軍に協力したため、故郷にいられなくなりアメリカに移住した。イーストウッドは朝鮮戦争の生き残りでもある。アメリカの戦後のアジア政策が作品に陰影を与えているが、基本はモン族の姉弟とイーストウッドの友情物語である。ラストは泣けますね。

3月某日
家から歩いて5分ほどの「ノースレイクカフェ」。まだ入ったことはないんだけれど古本も置いている。先日、西部邁の単行本が3冊600円で売られていたので買うことにした。その1冊が「大錯覚時代」(新潮社)。発行は1987(昭和62)年10月。今から30年前である。肩書は辞任する前の東大教養学部教授である。30年前だけれど西部の言っていることはほとんど変わっていないし、反進歩主義の伝統主義の保守主義者というも変わらない。西部は1939(昭和14)年生まれだから、この本の執筆当時は40代後半。60年安保のときは東大教養学部の自治会委員長、安保の裁判を抱えながら経済学部を卒業、大学院に進学した。そのころからマルクス経済学に疑問を持つようになり、保守主義者へ思想的な転換を果たした。トクヴィル、チェスタトン、ハイエク、オルテガ、アリストテレス、プラトンなどなど膨大な思想書を読み込んだ上に独自の保守思想を立ち上げた。独自の思想を構築する以外に安保闘争の敗北を総括する途は無かったのであろう。

3月某日
内神田の児谷ビル3階の「社保険ティラーレ」で4月の「地方から考える社会保障」の打ち合わせ。同じ階の「民介協」で扇田専務に挨拶。扇田専務からHCMの大橋社長に会員になるように勧めてくれと言われる。次いで阿佐ヶ谷の星野珈琲店で(社福)にんじんの会の石川はるえ理事長と「花見」の打ち合わせ。その後、石川さんは六本木へ私は「花見」の後の「呑み会」の会場、霞が関ビルの東海大学校友会館で担当の小林さんと打ち合わせ。阿佐ヶ谷から中央線で四谷へ、四谷から丸ノ内線の国会議事堂前で降りると首相官邸前である。森友学園問題に抗議する人が三々五々集まっている。若い人が少なく私と同年代のジジババが多いようだ。小林さんとの打ち合わせ後、新橋の「亀清」へ。HCMの大橋社長が明治生命時代の後輩と呑んでいるので「よかったらどうぞ」と誘ってくれた。不動産投資法人の執行役員の内田さんがその後輩。二重橋前の明治生命本館の話で盛り上がる。終戦後GHQの本部が置かれたのが同じお堀端の第一生命の本社ビル。GHQ総司令官のマッカーサーの執務室が残されている。内田さんによると明治生命本館には米空軍の司令部が置かれたそうで、歴史的建造物としては明治生命本館のほうが第一生命ビルより価値があるという。

モリちゃんの酒中日記 3月その2

3月某日
東急住生活研究所の元所長で住宅金融支援機構の理事もやった望月久美子さんが、私が現在机を置かせてもらっているHCM社を訪ねてくれる。近くで会議のあったついでに寄ってくれた。望月さんとは住文化研究協議会以来の付き合いだから20年以上の付き合いだ。望月さんが帰った後、ネオユニットの土方さんとHCM社の大橋社長、三浦部長と打ち合わせ。4人で新橋の「亀清」へ。

3月某日
新丸ビルの京都大学東京事務所に大谷さんを訪問。花見の打ち合わせ。次いで有楽町の交通会館で「ふるさと回帰支援センター」の高橋理事長、神田橋の「高齢者住宅財団」の落合部長を訪問、いずれも花見の打ち合わせ。神田駅から帰る。我孫子駅前の「しちりん」に寄る。勘定を済ませて帰るお客から「森田さん、お先に」とあいさつされる。「愛花」の常連さんだ。ということで「愛花」にも顔を出す。

3月某日
年友企画でパソコン環境をアドバイスしてくれていた李さんがHCM社を訪ねてくれた。HCM社で使っているパソコンは年友企画で使っていたものを無償でもらったものだが、アドレスは年友企画のまま。それで「替えたいんだけど」というと「前にちゃんと教えたでしょ!」と怒られる。メールを検索すると確かに確認すべきことがメールで送られていた。新橋駅前のいろり焼の店へ行く。店の名前は忘れたが魚がおいしかった。李さんは在日韓国人だが日本に帰化していて日本名は大山、でも韓国系にこだわりがあるらしく通称はもっぱら李。もともとは亡くなった大前さんの友人で、私とも30年近い付き合いだ。新橋から上野-東京ラインで我孫子へ。座れなかったがそんなに若くもない婦人に席を譲られる。老人が老人に席を譲るのもいいけれど、若人が我が物顔にシルバーシートに座ってスマホをいじっているのを見ると情けないね。

3月某日
年友企画で迫田さんと打ち合わせ。今日は神田の「葡萄舎」でフリーライターの岡田憲治さんたちと呑み会。呑み会まで時間があるので同じフリーライターの香川喜久恵さんを誘って東京国立博物館の特別展「仁和寺と御室派のみほとけ-天平と真言密教の秘宝」を見に行く。上野駅公園口で香川さんと待ち合わせ。博物館の入り口で障害者手帳を提示すると私は無料、香川さんも付添いということで無料。仁和寺は西暦888年、宇多天皇により創建される。真言宗御室派の総本山で特別展では仁和寺を中心に御室派の寺院の寺宝が公開されていた。葡萄舎に着くと松下さんが来る。松下さんは住宅産業新聞社で記者をやった後、国立の谷保で呑み屋をやっていたがこの1月で辞めたという。フリーライターの福田さんや寺島みどりさん、元日刊木材の記者、小林さん、元ミサワホームの小山さん、元住宅展示場運営会社の伊藤さんらが来る。要するに住宅に関係したジャーナリストを中心とした呑み会だったわけ。一番若いのが寺島さんでそれでも「50歳は過ぎました」。それ以外は皆、65歳以上。その割にはよく呑んだ。

3月某日
図書館で借りた「日本人ための第一次世界大戦史-世界はなぜ戦争に突入したのか」(板谷敏彦 毎日新聞出版 2017年10月)を読む。第一次世界大戦ってヨーロッパ中心に戦われた戦争だし、日本にとってはドイツ領だった山東半島の青島要塞攻撃や英国の要請によって地中海に軍艦を派遣したことくらいしか思いつかない。事実、本書の「はしがき」によると第一次世界大戦の日本人の戦死者は415人で、第一次世界大戦の軍人・軍属の戦死者、約230万人のおおよそ5千分の1でしかない。しかし第一次世界大戦は人類が初めて経験した地球規模の戦争(主戦場がヨーロッパではあったが)であり、鉄鋼業や軍需産業、食糧生産を含めた生産力の戦いであり、交通や通信網の整備が勝敗の結果を左右することもあるイノベーションの戦いでもあった。板谷は個々の戦闘だけでなく、各国の生産力や技術力含めた総合的な経済力を分析、第一次世界大戦の全貌とそれが日本にどのように影響を与えたかを詳述する。株価、為替レート、各種の統計を踏まえた論述も説得力があるが、エピソードの積み重ねが読んでいて飽きさせない。著者の板谷は関西大学経済学部卒業後、石川島播磨重工業を経て日興証券へ。ウオール街勤務が長かったというから、経済や社会を観る目が養われたのかもしれない。

3月某日
日曜日だけれど「音楽運動療法研究会」で新宿へ。会場に行くとメンバーの宇野裕さん、医師の川内先生、音楽療法士の丸山さん、特養ホームの施設長をやっている依田さんと黒沢さんがすでに来ていた。3月末で中間報告を出さなければならないので、今回はその内容の検討。この研究会に宇野さんから誘われたときは「音楽療法?」とその効果に懐疑的であったが、インタビュー調査に同行したり、実際の音楽療法の現場を観させてもらって、私自身のこの療法に対する印象がずいぶんと変わった。あまりうまく言えないが私たちがイメージする音楽は、小中学校の音楽の時間に代表される教育であったり、和洋の古典を中心とする芸術であったり、歌謡曲やポップスなどの娯楽であったりする。しかし人類にとっての音楽はもっと深くて幅が広いような気持がする。よくわからないが仏教やカソリックの声明、アフリカなどの土俗的な音楽、それは日本の民謡にも通じると思うが、ある種の人類と共に共生してきたものを感じる。

3月某日
高校時代スキー部に所属していたことがある。もちろんちっとも上達せず、1年ほどで退部したのだが。スキー部で活躍していたのが佐藤正輝。今札幌でシステム会社を運営している。正輝からスキー部のOBが正輝の東京出張に合わせて集まるので来ないか?というメールが。17時半に品川駅のトライアングルクロックの前で待ち合わせ。中田(旧姓)志賀子さんが来る。正輝も来たので会場の「グリルつばめ」へ。幹事役の井出君がすでに来ていた。私と同学年と私の1年下に声をかけたようだが、私は1年しか在籍しなかったので1年下はあまり知らない。キャプテンだった前野が来る。前野のお母さんと私の母は仲が良かったので、昨年母が亡くなったことを伝えるとお悔やみの言葉を掛けられる。正輝から洞爺湖の銘菓「若狭芋」を頂く。