モリちゃんの酒中日記 1月その1

1月某日
正月だが初詣もせず初日の出を見に行くでもなく普段と同じ休日。テレビのザッピングと読書。テレビに関してはBSが地上波とは一味違う番組を放映していると感じた。大みそかに見たBSNHKの黒澤明特集の「七人の侍」はさすがであった。侍のリーダー、志村僑が「本当に勝ったのは百姓よ」と語っていたのが印象的だった。映画が製作された1950年代は民衆史観が素直に信じられていたのだろうか?
図書館で借りた「いまも、君を想う」(川本三郎 新潮社 2010年5月)を読む。川本は東大法学部卒業後、朝日新聞社に入社。朝日ジャーナルの記者のとき全共闘運動の取材の過程で致命的なミス犯し、朝日新聞社を解雇される。のちに妻となる恵子との婚約解消を申し出るが彼女は「私は朝日新聞社と結婚するのではありません」と揺るがなかった。7歳下の恵子が癌で逝ってしまう。30余年の結婚生活、足掛け3年となる闘病生活を切々と振り返る。「なぜもっと早く異常に気づかなかったのか」と何度も悔やむ。私も自分の奥さんより長生きしたいとは思わない。私の奥さんは酒もたしなまず、ほとんど病気らしい病気をしたことがないので多分、大丈夫とは思うのだが。
鷺沢萠の「大統領のクリスマスツリー」(講談社 1994年3月)を読む。ワシントン留学中に知り合った治貴と香子は、クリスマスのデートでホワイトハウス近くの大統領のクリスマスツリーを見に来る。やがて治貴と香子は結婚。治貴はアメリカで司法試験に合格し弁護士となる。ストーリーの大半はアメリカで成功し家も手に入れ、子供にも恵まれた夫婦の物語である。しかし夫婦の破綻を予感されるシーンで小説は終わる。鷺沢萠だからハッピーエンドで終わるはずはないと思っていたが、それにしても見事な展開と私には思える。鷺沢萠は1968年生まれ。2004年4月に自死。理由は明らかにされていない。

1月某日
思い立って初詣に行くことにする。まず家から歩いて10分ほどの香取神社へ。巫女(の扮装をした若い娘)が舞を奉納している。案内板に8代将軍の吉宗のころ創建されたとある。所有地の一部を市に売却、それが市立の緑保育園の敷地となり、売却益を活用して社殿を建て替えたとも書いてある。我孫子市に半世紀近く住んでいるが初めて知った。香取神社の次は公園坂通りの八坂神社に向かう。八坂神社も300年ほど前の創建。我孫子駅から各駅停車に乗って北柏へ。北柏駅から歩いて5分ほどの北星神社へ。北星神社は中世にこのあたり一帯を支配していた相馬氏ゆかりの神社らしい。八坂神社も北星神社もコンクリート造の立派な社殿だが、八坂神社の社殿は質素な佇まい。だが、八坂神社の夏祭りは何台も山車が出てとても盛んだ。北星神社から20分ほど歩いて我孫子ショッピングセンターへ。1階のベーカリーのコーヒーショップでカフェオレを頂く。4時になったので我孫子駅南口の「しちりん」へ。樽酒を振舞われる。

1月某日
図書館で借りた江國香織の「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」(集英社文庫 2005年2月)を読む。解説で山田詠美は「泳ぐのに、安全でも適切でもない所に、あえて飛び込んだらどうなるか。そのことについて考えてみる」と問題を提起する。山田は、もがき、苦しみ、溺れ、自分が生きているのか死んでいるのか解らなくなるが、解っているのは「いずれにせよ、自分が、ようやく水を獲得したということだ」とし、この短編集は「そのような水を獲得した人々の物語であると思う」と述べる。いくつかの愛の形を切り取った短編集。切り取った残りのストーリーを想像させる余韻に満ちた短編集である。

1月某日
机を置かせてもらっているHCM社の仕事始め。缶ビール、日本酒(越乃寒梅)、高そうなワインをいただく。ワイン通の三浦部長によると製造年からして旨いワインだそうだ。大橋社長に新橋駅烏森口のスナックに連れて行ってもらう。

1月某日
年友企画の仕事始めにお呼ばれ。ビール、日本酒、仕出しのオードブルを頂く。我孫子に帰って「愛花」に寄る。常連のソノちゃんが来ていた。ソノちゃんから新潟の日本酒、今代司とオカキを頂く。

モリちゃんの酒中日記 12月その5

12月某日
図書館で借りた「日本史に出てくる官職と位階のことがわかる本」(「歴史読本編集部編 KADOKAWA 2014年6月」を読む。日本史に出てくる官職とは太政大臣、左右大臣、大中小納言、越前守、伊豆守などであり、位階とは従一位、正三位などでいずれも朝廷から賜ることになっている。朝廷の官職とは別にときの政権から任命される官職もある。江戸幕府ならば老中、若年寄、町奉行、勘定奉行などである。厄介なのは江戸時代の大名や幕臣は、幕府の官職と朝廷から賜る官職と位階を二重に持っていた。例えば三代将軍の徳川家光は征夷大将軍と左大臣にして従一位の位階を持っていた。諸大名も同様で御三家の紀伊と尾張は極官(位の上限)を従二位大納言、水戸は従三位中納言とされた。ちなみに水戸黄門の黄門とは中納言の中国風の呼称である。加賀藩は従三位参議、彦根藩は正四位掃部頭、薩摩藩と伊達藩は薩摩守と陸奥守で従四位上というのが極官であった。薩摩と伊達、加賀藩や土佐藩などの雄藩は領地と官命の一致が見られるが、大半の大名にとって官名は実際の領地や幕府での役割とは関係がなかった。吉良上野介は上野(群馬県)に領地をもっていたわけではない。さらに大名は江戸城での控室でも細かくランク分けされていた。これらの差異を諸大名が十分に意識していたかどうかは分からない。でも浅野内匠頭が吉良上野介に江戸城内松の廊下で刃傷に及んだのも、この辺が背景にあったのかも知れない。

12月某日
御徒町のスーパー吉池の9階が「吉池食堂」。年友企画の石津さんと酒井さんと会食。食堂と名前はついているが夜は居酒屋状態。寿司、和食、洋食がそろって値段もリーズナブル。女子だけのグループも目に付く。2時間半、呑んで食べてしゃべった。我孫子で「愛花」による。

12月某日
フリーライターの香川喜久江さん、社保険ティラーレの佐藤聖子社長と神奈川県議の京島けいこ先生をインタビュー。地方議員を紹介する単行本の取材だ。神奈川県議会の民進党控室で名刺交換。思ったより小柄でとても気さくな印象。民主党の藤井裕久の選挙運動を手伝ったのが政治にかかわるようになったきっかけ。もともとは山梨県出身。地元の高校を卒業して事務職として病院に就職、20歳で結婚して出産、28歳で離婚。医療事務の経験を生かして損保会社に就職。現在は損保の代理店と訪問介護事業を営む。「私のたどってきた道を本にしてみたいんです」というだけあって波乱万丈の人生だ。女性や高齢者、障がい者、子供たちへの本物のやさしい視点がユニーク。東京へ戻って東京駅のガード下で結核予防会の竹下隆夫専務とフィスメックの小出社長と呑む。2次会は銀座のクラブへ。小出社長にすっかりご馳走になる。

12月某日
西新橋に新しくオープンした「Barrack st.64」というレストランに行く。共同通信の城記者と専門学校の事務長や財団法人の常務理事を歴任した大谷源一さんと一緒。このレストランはオーストラリアから食材を直輸入しワインも当然オーストラリア。私と大谷さんは白ワインをいただく。城さんは妊娠中のためソフトドリンク。雰囲気も味も◎のレストランだ。
食事を終わって私と大谷さんはレストランの目と鼻の先にあるHCM社へ。HCMで納会に参加。今年亡くなったHCMの前会長の平田高康さんの息子さんに挨拶する。「胃ろう・吸引シミュレーター」の開発者の土方さん、映像でフォローしてくれている横溝君も参加。HCMの大橋社長に大谷さん、土方さん、横溝君と私の5人で年友企画の納会へ。

12月某日
16時に年友企画の石津さんと品川駅で待ち合わせ。品川駅周辺は再開発ですっかり面替わりしてしまったが、港南口の一部にはかつての面影が残っている。中華食堂に入って石津さんはビール、私は日本酒。ナス炒めや皮蛋豆腐などを肴に飲む。私の奥さんが東京駅で買ってくれたスイーツを渡す。明日名古屋の友達を訪ねるので「お土産にしようかな」と言っていた。石津さんにご馳走になる。

12月某日
you tubeで美空ひばりのテネシーワルツを聞く。病に倒れる10か月ほど前、長野県佐久市の小さな音楽祭で歌ったものだ。伴奏の日野皓正がまたいい。ミュート(消音器)がわりに紙コップを使っている。テネシーワルツはもともとパティ・ペイジの持ち歌で白人ジャズの系統。日本では江利チエミの歌が有名であった。you tubeでもひばりは「亡き親友の江利ちえみを偲んで歌います」と語っている。でもひばりのテネシーワルツはパティ・ペイジともちえみとも違って、ブルースだ。続いて高倉健の唐獅子牡丹と網走番外地を聞く。

12月某日
唐獅子牡丹の歌詞について久世光彦が書いていることを思い出して、図書館で「歌が街を照らした時代」(久世光彦 玄戯書房 2016年 5月)を借りて読む。「読み人知らず」のタイトルのエッセーに「大きな声で歌えない歌、世を憚る歌というのも〈読み人知らず〉のことが多い」として「監獄ソング」のいくつかが紹介されている。1960年代から70年代にかけて、久世は池袋の人生坐や新宿の昭和館に通って「日本侠客伝」「唐獅子牡丹」などのシリーズを飽かずに見続ける。「三白眼の健さんを、とにかく撮りたかったのである」。翌朝のデモに出かける学生で映画館は一杯だったという記述もあるが、私もそんな学生の一人だった。耐えに耐えてついにドスを抜くという花田秀次郎(唐獅子牡丹の主人公)の心境に自己を投影していたのだろう。久世も健さんもひばりも死んだ。昭和は遠くなったのだ。

モリちゃんの酒中日記 12月その4

12月某日
後楽園ホールにボクシングを観戦しに行く。年友企画の迫田さんが大山社長からチケットを譲られ、それが私にも回ってきたというわけ。大山社長は印刷会社のキタジマの社長から招待されたということだ。5時半に水道橋駅で待ち合わせて会場に入る。6時から試合開始。第1試合はどちらもデビュー戦で初々しい。ちなみに席はリングサイドのS指定席でチケットを見るとなんと1万円だ。「右だ、右!」「腹狙え!」「足使え、足!」といった、声援なのか、コーチなのかよくわからない声が観客席からかかる。これは生の醍醐味ですね。セミファイナルを見終えたところで8時半から虎ノ門で打ち合わせがあるので残念ながら中座した。当日のメインイベントはWBOアジアパシフィックSライト級王座決定戦だったが、翌日の日経新聞のスポーツ欄にはべた記事扱いで数行報じられていた。会場の熱気との落差がまたいい。

12月某日
大学の同級生で弁護士をやっている雨宮君の呼びかけで同級生が集まった。いすゞ自動車の関連会社の会長をやった後、今イタリアで自動車関連の仕事をしている内海君、伊勢丹を定年まで務め今は悠々自適の岡君、それにクラスは違うが、女性の関さん。西新橋の弁護士ビルにある雨宮君の事務所に行くとすでに内海君が来ていた。弁護士ビルは私が今お世話になっているHCMから歩いて5分だ。岡君も顔を出して4人で会場に向かう。会場は弁護士ビル1階の「しゃぶしゃぶ芋つる」。富山料理の店である。お店には関さんがすでに来ていた。もしかしたら4人が顔を揃えるのはほぼ半世紀ぶりかもしれない。でも同級生ってのは面白いもので、話を始めるといつも会っているように話が弾む。おいしい料理と酒を楽しんであっという間の3時間だった。私以外は虎ノ門から私は新橋から上野-東京ラインで帰る。新橋から成田行きに座ることができた。我孫子で「愛花」に寄る。

12月某日
名月庵ぎんざ田中屋総本店で社福協の本田常務、内田さん、高橋さん、岩崎君、年友企画の大山社長、迫田さん、酒井さんと私のご苦労さん会を兼ねた忘年会。女性に人気のありそうな和食とそばの店。ビールで乾杯の後、福井の黒龍酒造の「九頭竜」をいただく。次に宮城の「蒲霞」。私の場合ですが日本酒は値段の高いものからいただくことにしている。酔ってだんだん味が分からなくなるからね。最後はぬる燗で締める。こう書くと日本酒にうるさい人のようだがそんなことはありません。ただ日本酒の「ジワーッ」とした酔い方が好きなだけ。本田常務から「皇室カレンダー」をお土産にいただく。

12月某日
図書館で借りた「無知の涙 増補新版」(永山則夫 河出文庫 1990年初版)を読む。1971年に合同出版から刊行されたものを河出書房新社が増補して文庫化した。永山は1949年、北海道の網走に生まれる。青森の中学を卒業後、上京。渋谷の高級果物店(多分、西村フルーツパーラー)の店員となる。その後、職を転々としてその間、横須賀の米軍基地から拳銃を盗み出し、その拳銃によって4人の連続射殺事件を1968年に起こす。1969年に逮捕され、1990年死刑確定。1997年に執行される。文庫本でも500ページ以上あり、文章も決して読みやすいとは言えず、読み終えるのに1週間以上かかってしまった。時間はかかったが私は永山という人に強く惹かれるものを感じた。1歳違いで同じ北海道出身ということもあるかもしれない。それ以上に共通点は、私は1969年の秋口、永山と同じ東京拘置所に拘置されていたということだ。本書によると永山は東京拘置所の4舎1階に拘置されていたとあるが、私は確か東京拘置所の4舎3階だったのではないかなぁ。永山と私の人生が東京拘置所で一瞬交差するのだ。当時の東京拘置所は東池袋にあり、その跡地にはサンシャインシティビルが建っている。1959年の9月、私は10数人の学生と一緒に早大の第2学生会館に立て籠り、機動隊の攻撃に火炎瓶や投石で抵抗したため逮捕起訴された。罪名は現住建造物放火、傷害、暴行、公務執行妨害、不退去だったと思う。もう半世紀も前のことだが、永山は刑死し私は何とか生きている。この差って何なんだろう。

12月某日
神保町にデザイン事務所を構えている三浦哲人さんと現在、その事務所に机を置いているフリー編集者の保科朋子さんが激励会を開いてくれるというので、神保町の「スタジオ・パトリ」を訪問。近くのこじゃれた料理屋さんに案内される。三浦さんと知り合ったきっかけは「海苔食品新聞社」の争議の支援がきっかけ。40年近く前の話である。当時、私は日本プレハブ新聞社という業界紙に勤め、三浦さんは確か檸檬社というエロ出版社の編集者だった。その後、三浦さんはデザイナーとして独立し、表参道の骨董通りに事務所を開き、私は年友企画に転職した。争議の支援共闘会議の同志という関係から編集者とデザイナーという関係に変わったわけだ。グリーピア津南のパンフレットや、年住協のリーフレットやってもらった記憶がある。

モリちゃんの酒中日記 12月その3

12月某日
新宿歌舞伎町にあったクラブ、「ジャックの豆の木」の元マスター、三輪さんは今、奥さんの実家のある鹿児島で暮らしているが、病気治療のためときどき東京に出てくる。慈恵医大の帰りに西新橋のHCMに寄ってもらう。HCMから烏森口へ。私が年友企画の前に勤めていた日本プレハブ新聞があったビルに案内する。そこは「魚金総本店」となっていた。せっかくなので「魚金総本店」で呑むことにする。歴博で見た日大闘争のルポライターの橋本克彦さんの映像の話をすると、三輪さんは「橋本さんと言えば」と携帯電話を取り出してもう一人の橋本さんに電話を入れる。もう一人の橋本さんとは「ジャックの豆の木」の常連で、当時、渋谷区の職員だった。「森田さん、職員向けの旅行優待チケットがあるんだけど来年度から廃止されるから行こうよ」と確か水上と鬼怒川温泉に行ったことがある。現在は沖縄に移住して基地反対闘争をやっているらしい。電話にでは会議中とのことだったが、来月上京するのでそのとき3人で会うことを約束。

12月某日
中村秀一さんの新刊「2001-2017年 ドキュメント社会保障」(発行・年友企画、発売・社会保険出版社)が刊行されて好評発売中だ。著者の中村さんが関わった人たちにお礼がしたいと、広尾のイタリアン「ラ・ビスボッチャ」に招いてくれた。編集を担当した年友企画の酒井さん、装丁の工藤強勝さん、帯の文章を書いてくれた慶應大学の権丈善一先生、それに私が招かれた。お店に酒井さんと連れ立って行くと、中村さんと工藤さんはすでに来ていてシェリー酒を呑んでいた。少し遅れて権丈先生が到着したところでシャンパンで乾杯、料理とワインとおしゃべりを堪能した。中村さん国際医療福祉大学の教授もやっているし、工藤さんは最近まで首都大学東京で教授としてデザインを講義していた。ということは私と酒井さん以外は大学教授か教授経験者ということになる。図らずも「ドキュメント社会保障」は私の年友企画での最後の仕事になった。「いい仕事をさせてもらった」と中村さんに感謝である。

12月某日
現在、お世話になっているHCM社の忘年会が西新橋の「虎ノ門パスタ」で。大橋社長、川島役員、三浦部長に社員2人、ゲストがデザイナーの土方さんと映像担当の横溝君。「虎ノ門パスタ」は床に銀杏の落ち葉を敷き詰めてしっかり冬化粧。土方さんは「胃ろう・吸引シミュレーター」の開発者、横溝君は映像その他でシミュレーターの販売をフォローしてくれている。川島役員から京都の漬物、土方さんから紅茶、三浦さんからは青森のスルメをお土産にいただく。2次会は烏森口の「陽」。久しぶりにカラオケを歌う。

12月某日
「40歳からの介護研修」の打ち合わせで日本橋小舟町のセルフケアネットワークへ。奈良県天理市のあいネットグループの中川社長とNPO法人つむぎの山本代表はじめ、関西から4人が参加、セルフケアネットワークの高本代表と私の6人。なかなか身のある議論ができたと思う。事務所の近くの「恭悦」で食事。日本酒をぬる燗でいただく。我孫子へ帰って「愛花」による。常連の市橋君とケイちゃんが来ていた。市橋君は今年、奥さんを亡くした。「立ち直れないよ」とポツリ。愛妻家だったんだ。市橋君がボトルを入れてくれる。

12月某日
「地方から考える社会保障フォーラム」の単行本の件でフリーライターの香川喜久枝さんとHCMの事務所で打ち合わせ。私はその後、7時半から虎ノ門で打ち合わせがあるので、虎ノ門界隈で2人で食事をする。「桂園」という中華料理屋に入る。中国人のやっている店だ。こういう店は値段の割に安い店が多いがこの店もそうだった。香川さんと別れ虎ノ門で打ち合わせ。打ち合わせ後、千代田線で根津へ。「ふらここ」へ寄る。佐倉の歴博へ行ったことなどを話していると、サラリーマンは引退したが、近所の子供たちに囲碁を教えている常連の大橋さんが来る。大橋さんが持ち込んだ新潟の日本酒をいただく。これも常連の板前さん、キヨチャンが作って持ってきてくれたというカラスミをママが出してくれる。日本酒に最高の肴であった。終電近くに我孫子に帰る。

モリちゃんの酒中日記 12月その2

12月某日
先週に続いて佐倉の歴史民俗博物館へ。先週は京成佐倉駅に「ふらここ」のママと「ふらここ」の常連の「ミヤ」ちゃんと14時半に待ち合わせた。企画展示の「1968年」(無数の問いの噴出の時代)を観るためだが、見落としたものが多くあるように感じたのと、今回は前回、買い求め損なった「資料集」を購入するため。前回はJRの金町から京成金町→京成高砂→京成佐倉というルートだったが今回は成田線で我孫子から成田、京成成田→京成佐倉というルートをとる。成田線の時間さえ合えばこちらのほうが早い。企画展示は明日で終了なので、平日なのにそこそこ混んでいた。学生らしい若い女性が数人、引率の教官らしき人に連れられてきていた。日大全共闘の映像をじっくり見る。やはり新宿の「ジャックと豆の木」の常連だったルポライターの橋本さんがアジ演説をやっているのが映っている。来週にでも元マスターの三輪さんに会うので報告しよう。資料集を購入して帰る。我孫子駅前の「七輪」で一杯。

12月某日
東大全共闘の代表だった山本義隆の「私の1960年代」(金曜日 2015年10月)を図書館で借りて読む。山本の1960年代は60年安保の年に東大に入学し、物理学の大学院に進学し学究の道を歩みながら大管法反対闘争やベトナム反戦闘争にかかわり、学園闘争の頂点だった東大闘争の代表を引き受けた10年間だった。大管法つまり大学管理法反対闘争の章に豊浦清さんのことが紹介されていた。豊浦さんは確か日比谷高校から東大に進学、第2次共産主義者同盟の結成に参加、政治局員となり後にマルクス・レーニン主義者同盟の幹部となった。東大闘争の安田講堂防衛隊長だった今井潔が国会議員になったとき秘書を務めた。私が知り合ったのは豊浦さんが秘書を辞めた後、社会保険研究所の関連会社の社長に就任したころだ。経歴とは関係なくちっとも偉ぶらない立派な人だった。数年前、がんで亡くなったが、そういえば「偲ぶ会」には山本義隆も来ていたっけ。「東大闘争のころの話、聞かせてよ」と私がせがんだら「俺、そのころ川崎に労働者として入ってたからよく知らないんだ」と答えられたことを覚えている。
「私の1960年代」は、東大闘争の話がメインであるのだが、山本は「なぜ、東大闘争に至ったか」を幕末、明治維新にさかのぼり論じている。日本の科学はそのころから軍事や産業の振興のためという性格が強かったということだろう。もうひとつ東大闘争が特異だったのは闘争の主体が院生や助手だったことだ。「学問とは何か?」を真剣に問いかけざるを得なかったのだ。翻って私の場合は浪人時代の1967年の10.8羽田闘争にショックを受け、1968年4月に早大に入学、4月にはべ平連のデモに参加、王子野戦病院反対闘争にも野次馬として参加した。5月のゴールデンウイーク前まではそれでも真面目に授業に出ていた覚えはあるけれど、6.15で日比谷野音で中核派と反帝学評が小競り合いを起こしたあたりから学生運動にのめり込んでいった。私が入学した政経学部の自治会執行部は反帝学評が握っており、行きがかり上私も反帝学評の青いヘルメットをかぶっていたのだ。7月の都学連大会の後、夏休みで帰省し、東京に戻ってきたら三里塚闘争が待っていた。「学問とは何か?」なんて真剣に問いかけることもしなかったし、だいたい授業もろくに受けていないのだから学問を論じる資格もなかったわけだ。

12月某日
桐野夏生の文庫本の最新刊、「奴隷小説」(文春文庫 2017年12月)を読む。単行本になったとき図書館で借りた記憶はあるのだが内容は覚えていないのがほとんど。私の記憶力に問題があるにせよ、読むたびに新鮮な気持ちで読めるというメリットもある。文庫本には解説が付いているが、奴隷小説は政治学者の白井聡が書いている。白井は1977年生まれの40歳。早大政治経済学部卒業、一橋大の大学院を満期終了、「永続敗戦論」「未完のレーニン」などの著書がある。白井は桐野の小説は平成のプロレタリア文学ではないかと論じる。「現代作家のうち、桐野氏こそ『階級』に『搾取』に、より一般的な言い方をすれば『構造的な支配』に、最も強くこだわっている書き手ではないだろうか」というのである。私はこの数年、桐野の小説に強く惹かれるものを感じてきたのだが、白井の解説を読んで「そういうことかも」と腑に落ちた。

12月某日
大谷源一さんと日暮里駅前の「いづみや」へ。10数席のカウンター席と小上がりにテーブル3つほどの店。大谷さんが来るまでに日本酒を常温で呑む。つまみはマグロのぶつとポテトサラダ。大谷さんが来る。大谷さんは長岡出張の帰りで日本酒をお土産にもらう。大谷さんは生ビールに肉豆腐を頼む。2時間ほど呑んで日暮里から常磐線で我孫子へ。駅前の「愛花」による。お土産にもらった日本酒をママに渡す。日本酒好きの常連「ソノちゃん」が来た時にでも呑みましょうということ。

モリちゃんの酒中日記 12月その1

12月某日
国際医療福祉大学大学院の特別講演会を聞きに行く。講師は前長岡市長の森民夫さん。森さんは東大建築学科出身、建設省の住宅技官当時に知り合った。平成11年に長岡市長に当選、5期連続市長を務める。新潟県知事選に出馬するも惜しくも落選した。講演は長岡市の福祉政策を高齢者福祉政策、子育て支援、総合支援学校のカリキュラム改革、医療福祉に絞って行われた。縦割りの行政も「現場で横につながる」ことが人工透析患者への交通手段として「乗合タクシーの提供」などを通して語られた。与えられる福祉から参加する福祉への転換や「縦割りと縦割りの間には宝が埋まっている」ことがよく分かった。森さんは障害児の親と懇談して「とても市役所には相談できない」と言われてとてもショックだった、と語っていた。普通の市民にとって役所の壁は厚くて高いのだ。それを感じることのできる森さんも立派と思う。

12月某日
国立歴史民俗博物館の企画展示「1968」を観に行く。副題に「無数の問いの噴出の時代」とあるように、60年代末の学生の反乱を中心として「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)などの市民運動や反公害運動に焦点を当てたものだ。京成佐倉駅で根津のスナック「ふらここ」のママ、半谷さんと待ち合わせ。というのは「ふらここ」の常連の「ミヤちゃん」が文科省の職員で現在、歴博に勤務中。ママを通して案内を頼んでいるのだ。改札口を出るとミヤちゃんが迎えに来てくれていた。歴博は佐倉城址の一角に建てられている。開館は1981年、想像していた以上に立派な建物だ。企画展示では全共闘では東大、日大をはじめ北大、弘前大、京大、広大が展示されていた。映像も流されていたが日大の映像では新宿の「ジャックと豆の木」の常連だったルポライターの橋本さん(元日大芸闘委)らしき人がアジっていた。早大全共闘には何も触れられてなかったのは残念だけれど、早大の全共闘は結成当初から対大学当局というよりも対革マルが最大の闘争課題で次が対民青、国家権力・機動隊だった。大学当局は少なくとも私の頭の中ではあまり重要ではなかった。その意味では全共闘運動のなかでも早稲田は特殊だったかもしれない。当時のアジビラも展示されていたが、当時は謄写版印刷だった。当時の謄写版(ガリ版)も展示されていて懐かしかった。そういえば謄写版に文字を刻むことをガリ切と呼んでいたっけ。会場の入り口には当時の立て看板(タテカン)を模して「無数の問いの噴出の時代!」という看板が。私が「なんか違うんだよなぁ」とつぶやくと私と同年代の女性が「そうよ。私だったらもっとうまく書くよ」と応じてくれた。ミヤちゃん案内されて常設展も覗く。歴博は第2連隊の兵舎の後に建てられたことを知る。銃剣を装着した三八歩兵銃はさすがに迫力があった。焼け跡闇市、初期の公団住宅の再現やゴジラも展示されていた。ミヤちゃんの案内で佐倉駅前の呑み屋さんへ。つまみも女将さんの勧める日本酒もおいしかった。我孫子に帰って駅前の「愛花」へ。常連のケイちゃんとこれまた常連の姉弟、姉の夫が来ていた。ケイちゃんの家で焼き肉パーティをやった流れらしい。

12月某日
次男の知り合いが編集している「酒場人」(オークラ出版)という雑誌が楽しい。「たのしい酒場、たのしい人たち」というサブタイトルからわかるように酒場情報というより酒場でのエピソードが満載なのだ。3号が2017年2月に出て以来、新しい号が出ていない。次男に聞くと「酒場人」の後継雑誌の「酒場っ子通信」の創刊号を持ってきてくれる。総力特集「ハツ」というのも笑えるし、酒飲みとしては「深い!」と思う。「酒場人」以来のテーマの一つが「昼呑み」。今日はそれに挑戦しようと1時過ぎに上野のガード下へ。もつ焼き屋の「大統領」を覘くと昼間から満席。外人客も多い。同じくガード下の「勇」へ。以前2~3回入ったことのある店だ。生ビールに続いてチューハイ、つまみはもちろんハツ、タン、レバ、砂肝。いい気持ちになって我孫子へ帰るとまだ3時。駅前の七輪が4時からなので、同じ駅前の市民プラザのオープンスペースで読書。4時から七輪でホッピーとウイスキーの水割り。昼呑みは確かに楽しい。楽しいけれど癖にならないようにね。

12月某日
「音楽運動療法研究会」の取材。京王線のつつじが丘で主要メンバーの宇野裕さんと待ち合わせ。三鷹市から介護予防事業の補助を受けている「シニアのための若返りリトミック事業」を見学する。講師は国立音楽院リトミック認定講師の船井真知子先生。会場の新川アパート集会場に着くと高齢者が三々五々集まってくる。参加者は500円の会費を払う。人数が揃ったので予定通り1時30分に開始。参加者は12人、男性は世話役の水野さん1人だけ。「冬景色」「きらきら星」を先生のピアノ伴奏に「パタカラ体操」と組み合わせて歌う。「パタカラ体操」というのは「パ」「タ」「カ」「ラ」の4つの音を発することで、咀嚼や嚥下機能を高めるという体操。先生は「12月1日は何の日でしょう?」と問いかける。1人がおずおずと「映画の日」と答える。これは大正解。聞けば若いころ映画館に勤めていたという。「映画の日は1000円で入れる」「私たちは高齢者割引があるからいつでも1000円」と映画館の話で盛り上がったところで、「これ誰かわかりますか?」と先生が往年の映画スターの写真を示す。「岸恵子」「高峰秀子」「佐多啓二」と即座に回答が出る。「回想法」による認知症の予防も兼ねているわけだ。「君の名は」「青い山脈」など映画の主題歌を歌い、「ビルマの竪琴」にちなんで「「埴生の宿」を歌う。「そういえばそろそろ年末、クリスマスも近いですね」と先生が巧みに話題展開、参加者を飽きさせないためだ。クリスマスにちなんで「ジングルベル」、年末ということで「歓びの歌」「トロイカ」を歌う。鈴を振ったりハンドベルを鳴らすことで無理なく体を動かす工夫もされている。予定の1時間半はあっという間に過ぎた。

モリちゃんの酒中日記 11月その5

11月某日
出版健保へ脱退の手続きをしに行く。総務の石津さんが付き添ってくれる。スタジオ・パトリの三浦さんとフリーの編集者の保科さんに退職の挨拶とわたしの「ご苦労さん会」の催促に行く。年友企画にお邪魔してSMSの担当者と年友企画の担当の迫田さんと打ち合わせ。6時から住宅金融支援機構の理事を退任した望月久美子さんのご苦労さん会を「ビアレストランかまくら橋」で。結核予防会の竹下隆夫さん、川村女子学園の吉武民樹さん、プレハブ建築協会の合田純一さん、高齢者住宅財団の落合明美さんが集まる。望月さんとは30年くらい前、住文化研究協議会の研究会で出会った。福岡の修猷館高校の出身で吉武さんとは同窓。お酒は飲めないが気風の良い女性。2次会は竹下、吉武両氏と一緒に葡萄舎へ。いささか呑みすぎ。来年70歳になるのだから少し控えよう。

11月某日
図書館で借りた「西郷の首」(伊東潤 角川書店 2017年9月)を読む。伊東潤は1960年生まれの歴史小説家。わたしは「義烈千秋 天狗党西へ」を読んだことがある。本書は幕末の加賀藩の足軽の家に生まれた2人が主人公。1人は草創期の陸軍に入り西南戦争に従軍、介錯された西郷隆盛の首を発見する。1人は明治維新後の薩長の藩閥政府から疎外された加賀藩の境遇に反発、大久保利通の暗殺を企て実行する。不平士族、それも佐賀の乱や萩の乱、熊本の神風連といったメジャーな不平士族ではなく、石川の不平士族に焦点を当てたのが目新しい。この作者は「天狗党西へ」もそうだが、歴史の谷間に埋もれているもの掘り起こし、巧みにストーリーとする。

11月某日
新潟市立美術館のミュージアムショップになぜか設けられていた300円均一の古本コーナー。そこで買った「大書評芸」(立川談四楼 2005年3月 ポプラ社)を読む。談四楼は「小説も書く落語家」で私も何冊か読んだことがある。本書は談四楼の書評122本を一冊にまとめたもの。第1部「小説の愉しみ」第2部「評論のすご味」第3部「芸人の味わい」の3部構成。私が読んだ本も何冊かあり、同感するものも多い。この人は群馬県の大工のせがれで高卒後、談志に入門、談志のお供で出かけた銀座のバーで何人かの小説家に出会い、それらの小説家の小説を読むようになったのが「本読み」のきっかけ。頭のいい人なんだろうな、文章に無駄がなく的確だもの。

11月某日
北海道の室蘭で弟夫婦と同居していた母が亡くなった。94歳だった。NHKの人気番組「ブラタモリ」で室蘭を特集していたのを見終わったら、弟から電話があったのも何かの因縁か。
通夜・葬儀が室蘭で行われるというので妻と出席する。バニラエアという格安航空券で成田-千歳空港を妻が予約。北海道への往復はいつも羽田からで、障碍者割引を使っても2万円くらいだったから格安である。成田空港まではJRの成田線で我孫子から成田まで、空港線に乗り換えて成田空港まで1駅、1時間ちょいで行くことができる。羽田空港までなら我孫子から2時間かかるので時間も「割安」。ただ成田空港の発着は第3ターミナル、成田空港駅から一番遠いのが難点だが、何しろ「格安」だからね。
千歳空港から高速バスで1時間半ほどで室蘭東町ターミナル。そこからタクシーでワンメーターで葬儀場の「やわらぎ」。無宗教で家族葬なので参列者も20人に満たない。「送る会」では兄と弟が選んでくれた在りし日の母の写真をスライド上映、弟が解説する。先に室蘭入りしていた兄が尿路結石で室蘭の病院の急遽、入院を余儀なくされたので続いて私が挨拶。小学校の低学年のとき「月の満ち欠け」について母に尋ねたら、台所の60ワットの電灯を太陽、銚子を月になぞらえ、銚子を回しながら「月はもともと黒い物体なの。太陽の光を浴びて輝くのだけれどまあるいから光の当たり方によって地球から見ると満月になったり三ケ月に見えたりするの」と巧みに説明されたエピソードを紹介した。ついでに裕福ではない家計から私が無理を言って東京の私学に進学したこと、それにもかかわらず過激な学生運動に参加、私が逮捕起訴されて安くはない保釈金を負担させたにもかかわらず、一言も叱られなかったことにも触れた。「送る会」を終えた後、弟の友人が寄ってきて「私も前科一犯です」という。弟は高校生のとき室蘭で高校生運動に参加、室蘭工業大学の反帝学評グループと共闘していたから、そのころの仲間だろう。68年の末、反帝学評と革マルの内ゲバが東大の駒場であったとき、反帝学評は駒場の教育会館を拠点にしていた。私もそこにいたことがあるが室蘭工業大学の反帝学評も何人か来ていたことを思い出す。

モリちゃんの酒中日記 11月その4

11月某日
図書館で借りた川上弘美の「森へ行きましょう」(日本経済新聞出版社 2017年10月)を読む。日経新聞の夕刊に2016年1月から2017年2月まで連載されたもの。連載中に断続的に読んだ記憶はあるが、単行本になったものを読むと全く違う印象。日経の夕刊は連載小説や連載エッセー、家庭欄も含めてなかなか面白いと思うのだが、夜、飲んで帰ることが多いものだから読まずに寝てしまうことも少なくない。だから連載小説はストーリーが飛んじゃうのね。「森へ行きましょう」はしかし、大変面白く読んだ。主人公は1966年ひのえうまの日に誕生した留津、とルツ。2人はパラレルワールドに生きている。パラレルワールドがこの小説のテーマのひとつ。人生にはいろいろな可能性があり、どう転ぶかわからない。ルツは理系の学部を出て研究所の技官になり、留津は女子大を出て中堅の薬品会社に一般職として入社、見合い結婚でブルジョアの御曹司、俊郎と結婚する。ルツの理系女子の独身生活、留津の姑に振り回される結婚生活も「深刻さ」を伴わず描かれる。川上弘美はお茶の水女子大の理学部出身だからルツの描き方には自身の体験も反映されているかもしれない。後半、社長夫人となった留津は小説家としてデビューし、ルツは遅い結婚をする。相手は没落した御曹司で始末屋の俊郎。パラレルワールドに生きるのは留津とルツの2人だけではない。夫を殺してバラバラにする瑠通、50歳で死んでしまう、る津。留津と鏡を通して会話する流津、そして研究所で研究に没頭するるつ。留津とルツの1966年から2027年までが描かれる本書は、「こうあったかもしれない」人生をパラレルワールドという舞台設定によって巧みに描き切ったといえるのではないか。

11月某日
HCMの平田高康前会長が亡くなる。82歳だった。平田さんにはこの20年ほど親しくさせてもらった。天龍寺の末寺に生まれ、同志社大学に進学。永大産業に就職して年金住宅福祉協会を創業した故坂本専務と出会う。協会が新規融資を停止した後も協会を陰で支え続けた。奥の深い腹の座った人だった。
夜、SCNの高本代表、SMSの長久保君、竹原さんと神田の葡萄舎で呑む。長久保君も竹原さんも北海道札幌出身。竹原さんは早稲田大学商学部からJR北海道、東急エージェンシーを経てSMSへ。JR北海道では主に不動産開発を担当したという。長久保君も竹原さんもギラギラしたところがなく私は付き合いやすい。

11月某日
会社が「森田さんを送る会」を「跳人」で開いてくれた。大山社長以下の社員のほか、社会保険研究所の川上会長、鈴木社長、谷野編集長、フィスメックの田中会長、小出社長、社会保険出版社の近藤取締役、民介協の扇田専務、ネオユニットの土方さん、フリーの沢見さんたち30人近くが参加してくれた。6時開催だが、私は5時から李さんと「ビアレストランかまくら橋」でビールを飲む。李さんにご馳走になる。「跳人」が終わると「かまくら橋」で2次会、3次会は「葡萄舎」に寄ったらしいが覚えていない。4次会はひとりで久しぶりに根津の「ふらここ」へ。常連の文科省のミヤちゃんの勤務先が国立歴史博物館だったことを思い出して、現在開催中の60年代末の学生反乱を回顧した「1968年展」を見に行く旨、伝えてとママに頼む。

11月某日
私の会社員生活最後の日。午前中、当社の石津さん、フリー編集者の浜尾さんと青物横丁にある町田学園の女子高の藤原校長先生に挨拶。藤原先生は石津さんの中学時代の恩師。三宅島噴火のとき三宅島高校の校長で貴重な経験をしたという。16時に会社を後にして我孫子の七輪へ。ホッピーを2本開けて愛花へ。

11月某日
図書館で借りた「永山則夫の罪と罰」(井口時男 コールサック社 2017年8月)を読む。永山則夫は極貧の少年時代を送り、東京に集団就職。転職を繰り返し横須賀の米軍基地で盗んだ拳銃で4人を射殺、殺人罪で起訴され死刑が確定、1997年8月1日に刑が執行される。獄中で「無知の涙」を執筆、刊行され話題を呼び、その後小説も執筆、新日本文学会新人賞を受賞する。永山は犯行時19歳だったため、犯行時未成年への死刑判決が当時議論になった。井口はとても丁寧に永山の生い立ちや上京生活、犯行、獄中をたどる。獄中で女子高生を殺害し死刑になった李珍宇の獄中書簡集「罪と死と愛と」を読み、李珍宇に親近感を抱くようになる。永山則夫のことを知ることは私にとってとても「痛い」ことだ。「痛い」が知らねばならぬことと思う。

モリちゃんの酒中日記 11月その3

11月某日
北海道室蘭市の老健施設に入所している母親に会いに兄と室蘭へ。母は弟夫婦と同居していたが軽い認知症を発症し、日常生活が困難になったために入所することになった。弟に連れられて母を訪ねると一瞬、だれかわからなかったようだが、すぐに思い出してくれた。思えば3人兄弟の中でも私は、一番の親不孝だ。さして経済的に豊かでもないのに東京の私立大学に進学させてもらい、挙句に私は学生運動にのめりこんで逮捕起訴された。でも母も父もそんな私を叱責することもなかった。もちろんほめられはしなかったが。高倉健の歌う「唐獅子牡丹」の歌詞に「つもり重ねた不孝の数を、なんと詫びようかおふくろに。背中で泣いてる唐獅子牡丹」というのがある。若いころよく歌いました。

11月某日
弟の家に2泊させてもらう。老健施設で母と面会。昔の記憶は完璧だが最近の記憶は覚束ない。施設の職員に説明を受ける。要介護2の認定なので特養には入所できない。有料老人ホームへの入所などの選択肢がある。職員はとても親身になって説明してくれる。施設の秋祭りで母がピアノ演奏した写真を手渡される。満面の笑みの母だ。千歳空港で幼馴染のみずえちゃんと奈良君に会うと母に伝えると、母は「あんた、みずえちゃんのこと好きだったものね」。そういうことは覚えているのである。空港のレストランでみずえちゃんと奈良君と食事。奈良君は労働組合で役員をしているときに対馬財団の理事長のお父さんの選挙運動を手伝ったのが縁で対馬財団に入社したという。理事長のお父さんとは炭労(石炭産業の労働組合)出身の参議院議員で後に参議院副議長も務めたという。「もう辞めたいのだけれどなかなか辞めさせてくれなくて」と奈良君。理事長の信頼が厚いのだろう。みずえちゃんと奈良君から「来年の10月、中学の同級会があるからまた来なよ」といわれる。母の見舞いがてら来ようかな。

11月某日
図書館で借りた「日本近代史」(坂野潤治 ちくま新書 2012年3月)を読む。本書は日本の近代を1857(安政4)年から1937(昭和12)年までの80年間の歴史を6つの段階に区分して通観している。改革期(1857-1863)、革命期(1863-1871)、建設期(1871-1860)、運用(1880-1893)、再編(1880-1893)、危機(1925-1937)の6つである。幕末、国論は「尊王攘夷」と「佐幕開国」に二分された。尊王攘夷派は武力倒幕、佐幕開国派は公武合体の勢力とも重なる。尊王攘夷派は薩摩と長州の対外戦争(薩英戦争と下関戦争)を経て、尊王開国、尊王倒幕へとイデオロギーを転換させる。中心的な役割を果たしたのが西郷隆盛であった。というようなことが第1章「改革」、第2章「革命」に書かれている。著者はその時代を生きた有名人、無名人の書簡や日記、さらに地租や米価をはじめとする税や物価の推移を丹念にたどり、歴史が変化していく要因を探ろうとする。我孫子市民図書館が蔵書する坂野の著作はすべて読みたいと思う。平民宰相として名高い原敬も著者からすると大正デモクラシーに抵抗する守旧派として描かれる。目から鱗の歴史観なのである。

11月某日
私の年友企画での最後の仕事となる中村秀一さんの著作「ドキュメント社会保障」の試刷りが届く。中村さんの主催する「虎ノ門フォーラム」で予約販売する。受付にコーナーを作ってもらって、編集を担当した当社の酒井と販売する。といっても私はもっぱら知った顔に声をかけるだけ。元厚労省の高井さん、角田さん、亀井美登利さん、足利さん、フリーライターの長岡美代さんらについでに退任のあいさつをする。本の帯を執筆してもらった慶應大学の権丈先生も来ていたので、「打ち上げ」の日程をすり合わせ。
その前に虎ノ門の中村さんの事務所で打ち合わせ。「虎ノ門フォーラム」開始までに時間があったので社会保険福祉協会の稲村常務と年金住宅福祉協会の和田理事に退任のあいさつ。2人とも「退任してもときどき顔を出してくださいよ」と声をかけてくれる。HCMまで足を延ばして大橋社長と川島さんにあいさつ、会場に向かう。フォーラム終了後、当社の酒井と健生財団の大谷常務と会場のプレスセンタービル地下1階の焼き鳥屋「おか田」で軽く呑む。3人とも千代田線で帰る。大谷さんは西日暮里で京浜東北線に酒井は町屋で京成線に乗り換え。私は終点の我孫子まで一本。

モリちゃんの酒中日記 11月その2

11月某日
荻島良太さんのサキソフォンリサイタル。市ヶ谷駅で川邉新さん、セルフケアネットワークの高本代表と待ち合わせ。駅近くで軽く食事をとりながら、高本さんが取組んでいるグリーフサポート事業に川邉さんからアドバイスをもらう。川邉さんにご馳走になる。会場のルーテル市ヶ谷センターへ。竹下隆夫さん、田中和也さんに挨拶。荻島さんは亡くなった厚生官僚の荻島國男さんの遺児。私が荻島さんの病室を見舞ったときに見かけた記憶があるが、そのときは中学生だった。愛知県立芸術大学に進学、クラシックのサキソフォン一筋だ。私の退任パーティのときにも演奏してもらった。今回のリサイタルは難度の高い選曲だったと思うが、見事にこなしていた。サキソフォンは確か19世紀にベルギーで発明された比較的新しい楽器。リードを使うので木管楽器だが楽器そのものは金属製。荻島さんの演奏で感じたのだがサキソフォンの高音は和笛に似ている。演奏後、竹下さんにご馳走になる。

11月某日
「音楽・運動療法研究会」で依田明子委員が苑長をやっている川崎市麻生区の特別養護老人ホーム「かないばら苑」を訪問。事務局をやっている宇野裕さんと小田急多摩線の栗平駅で待ち合わせ。依田さんが車で迎えに来てくれる。午前中は新百合ヶ丘の昭和音大で音楽療法の勉強をしている学生と指導教官がボランティアで入居者への音楽療法を実施しているのを見学。入居者の意識は療法を受けているというよりもリクリエーションの一環。「今日はお天気が良くて富士山がよく見えますね」と司会の学生さんが口火を切り、「フジはニッポンイチのヤマ」を参加者と歌う。午後は地域の高齢者のために開催している「ロコモチャレンジ体操教室」を見学させてもらう。見学の後、講師を務めた小泉恵美さんにインタビュー。こちらは90分で参加費用は800円。施設としては赤字だが社会福祉法人の地域貢献事業と位置付けているようだ。私も参加者と一緒に歌を歌ったり体操をしたりしたが、確かに声を出して歌ったり軽い体操をしたりするのは気持ちがよかった。小泉さんによると90分間、体操だけでは高齢者には過激だし、飽きてしまうので歌と体操の組み合わせがキモなのだろう。

11月某日
虎ノ門の日土地ビル地下1階の喫茶店でSCNの高本代表と打ち合わせ。終末期から看取り、グリーフサポートについてのネットワークづくりに挑戦してみることにする。高本さんと別れて私は日土地ビルの別の事務所で打ち合わせ。

11月某日
小学校以来の友人の山本オッチから「みずえちゃんが東京に来ているから会おう」と電話。秋葉原のヨドバシカメラで待ち合わせ。オッチもみずえちゃんも私も、父親が室蘭工業大学の教師で、住まいも近所だった。みずえちゃんは可愛いうえに勉強ができたので、悪ガキたちのマドンナ的存在だったが、愛情表現が未熟な悪ガキ故に「イジメ」の対象となったことがあるかもしれない。3人で3時間ほどおしゃべり。みずえちゃんはこんなにしゃべる人だったかなぁ。私は母の見舞いで来週、北海道へ行くのでその時も会うことにする。

11月某日
「音楽・運動療法研究会」で音楽療法士の井黒さんにインタビュー調査。事務局をやっている宇野さんと三軒茶屋の改札で待ち合わせ。井黒さんが来たので近くのこじゃれた喫茶店でインタビュー。井黒さんの本職は整形外科の事務職だが、国立音楽院で音楽療法を学ぶ。高齢者に加えて自閉症などの障害児への音楽療法をやっている。音楽療法は医療保険、介護保険では対象にならない。作業療法の一部として介護保険の対象になることもあるようだが、あくまでも一部としてだ。放課後デイでも音楽療法を取り入れているところもあるが、音楽療法として例えば支援費の対象ともなっていないようだ。制度的に認められていない、医療保険や介護保険の対象となっていないから、大変だなーということはその通りだ。しかし「制度に縛られない」というメリットもあるように思う。