モリちゃんの酒中日記 9月その1

9月某日
「太平洋戦争への道 1931-1941」(NHK出版新書 半藤一利 加藤陽子 保阪正康 2021年7月)を読む。半藤一利は今年1月に亡くなった、昭和史を中心に多くの作品を残した作家で元文藝春秋社の編集者。加藤陽子は日本近代史を専攻する学者で東大教授。保阪正康は日本帝国主義の勃興と没落を追うジャーナリスト。半藤は1930年生まれ、保阪は1939年生まれ、加藤は1960年生まれだ。保阪は蒋介石の次男の蔣緯国の話として「日本の軍人は単純に言えば歴史観がないのだろう」という言葉を紹介している。加藤は1940(昭和15)年に締結された日独伊三国軍事同盟と太平洋戦争について次のように言う。1940年6月にフランスがドイツに降伏し、ドイツと戦争をしているのはイギリスだけとなった(ドイツがソ連に侵攻するのは翌年の6月、アメリカが参戦するのは日本の真珠湾攻撃以降である)。イギリスがドイツに負けると東南アジアのイギリスの植民地はドイツに奪われてしまう(仏領インドシナ、蘭領インドネシアも)。それを回避するためにも軍事同盟を締結したという見方である。東アジアを西欧の帝国主義から解放するというのが大東亜戦争のイデオロギーだったはずだが、この見方からすると日本は何ともみみっちい。半藤は「学ぶべき教訓」として、不勉強な人たちが指導者になって、自分たちの勢いに任せた判断をやってきたとし「判断の間違いが積み重なって、どうにもならないところまできて、戦争になってしまった」と書いている。何やら後追いを繰り返す現代のコロナ対策を見ているようである。

9月某日
菅首相が自民党の総裁選挙に出ないことを表明。すでに出馬を宣言している岸田文雄に勝ち目がないと判断したのか。菅の不出馬を受けて河野太郎、野田聖子も立候補の意向を発している。石破、下村も立候補を検討しているという。菅の不出馬表明により自民党の総裁選挙が一気に注目度を集めている。総裁選挙には自民党員以外には投票権はない。しかしながら自民党の総裁に選ばれると、国会で自民党と公明党の議員により総理大臣に選出される。現状では自民党の総裁選挙は次期首相の選出と同じ意味なのだ。菅政権は安倍政権を引き継いだ。閣僚も引き継いだしイデオロギーも引き継いだ。安倍前首相はイデオロギー的に近い高市早苗を支援するという。自民党は政策的にもイデオロギー的にも幅広い民意を代表している。改憲派もいるし護憲派もいる。改憲派のなかにも自主防衛派もいれば国連中心主義者もいる。社会保障についても自助努力を重視する人もいれば所得の再分配を重視する人もいる。今度の総裁選ではそこいら辺のことを自由闊達に議論してほしい。

9月某日
「岩倉具視-言葉の皮を剥きながら」(永井路子 文藝春秋 2008年3月)を読む。岩倉具視はNHKの大河ドラマでは「青天を衝け」では山内圭哉が、「西郷どん」では笑福亭鶴瓶が演じている。演じている役者にもよるのだろうが、どちらかというと「怪物」のイメージがある。ドラマでも主役にはなりえない。お札でも「五百円札」だからね。平安時代の昔から公家には家格があり昇進できる位が決まっていた。岩倉具視の家格は低く下級公家、永井によると「村上源氏系の久我(こが)家の庶流で家禄百五十石、下級の小公家にすぎない」という。その下級の小公家が幕末、明治維新という革命期に活躍した。いくつかの偶然が作用した。具視の妹が孝明天皇の側に上がり、具視も侍従として天皇の側近となった。禍福は糾える縄の如し、やがて具視は任を解かれ京都郊外の岩倉村に蟄居させられる。ここで具視は倒幕の構想を練ることになる。尊王攘夷というが幕末も押し迫ってくると攘夷派の影は薄くなる。こてこての攘夷主義者とされる孝明天皇も晩年には開国やむなしに至っていたようだ。具視は尊王倒幕を掲げる原理主義者、理想主義者であったわけだが、政治的には徹底した現実主義者だったのだ。この頃の自民党政治を見ると、理想は一向に語られず一方で現実からも目を背けているような気がするのだが。

9月某日
「ラーメン煮えたもご存じない」(田辺聖子 新潮文庫 昭和55年4月)を読む。巻末に「この作品は昭和52年2月新潮社より刊行された」とある。120編余りのエッセーが収録されていて文中で「夕刊フジ」に連載されていたことが分かる。ということは昭和50(1975)年頃、連載されていたのだろうか。今から50年近く前に連載されていたものだが、まったくと言っていいほど「古さ」を感じさせない。私はその頃、学校を卒業して初めての職場だった写植屋を辞めて、駒込の日本木工新聞社という業界紙の記者をしていた。「田辺聖子」という名前くらいは知っていたかもしれないが、まったく興味はなかった。田辺先生を読み始めるのは年友企画に入社して以降で、山本周五郎や藤沢周平、司馬遼太郎などと並行して読んでいたように思う。当時、山本はすでに物故しており藤沢も司馬も21世紀になる前に亡くなっている。田辺先生は1928年生まれで2019年6月に亡くなっている。91歳と長命である。「夕刊フジ」はサラリーマン相手のタブロイド判の夕刊紙である。田辺先生も読者を意識してサラリーマンが帰りの電車で読んでも肩の凝らないような話題を選んでいる。しかし、時として田辺先生の硬派の顔が覗くときがある。台湾選手がオリンピックに出場できなかった(そんなこともあったのか)話題に触れて、「せっかく出ようといってるものを、帰すことはないと思うのだ」と率直である。その一方で中国革命を「人類のなしとげた仕事の中では、たいへんすばらしいものの一つだと思う」と評価する。公平なんだよね。「人、サムライたらんと欲せば」というエッセーでは「私は、男も女も、大丈夫、つまりサムライたるべきこと、とかたく信じている」と宣言し、「いや、サムライというのは、昔も今も、生きにくいのだ」と嘆じる。結論は「愛のために生き、愛のために死ぬ人は、サムライが義のために生き、義のために死ぬのと同じで、愛と義とは、人間にとって同義であるのだ」と格調高い。私は田辺先生と同時代を生きたことを幸せに思うものです。

モリちゃんの酒中日記 8月その4

8月某日
「メタボラ」(桐野夏生 朝日新聞 2007年5月)を読む。初出は「朝日新聞2005年11月28日~2006年12月21日」となっている。桐野の主要な著作は読んできたつもりだが「メタボラ」は読んでなかった。昨年、桐野の「日没」(岩波書店)の発売に合わせて雑誌「思想」で「桐野夏生の小説世界」を特集、白井聡が「桐野夏生とその時代-「OUT」「グロテスク」「メタボラ」について」という論文を発表していた。小説は森の中を逃げ惑う「僕」の描写から始まる。「僕」は自分が誰かもなぜこのような状況にあるのかも理解できない。理解できるのは自分が記憶喪失であるということだけだ。「僕」は森の中で若い男に出会う。男は伊良部昭光と名乗り、ここは沖縄本島で自分は宮古島出身であることを告げる。昭光は素行不良を叩きなおすために「独立塾」に入れられ、そこから脱走して「僕」に出会ったのだ。昭光と昭光からギンジと名付けられた「僕」の旅が始まる。白井聡は「OUT」や「グロテスク」と比べて「メタボラ」は「団結することや激しい共喰いの戦いに参加することのできない、無力で受動的な個人を物語の中心に据えることにより、一段高次のリアリズムを実践している。そしてその個人が、革命的な変容を内的に遂げるのである」と分析する。「革命的な変容」ね。確かに前回読んだ「インドラネット」の主人公も、ある事件に巻き込まれたことをきっかけに「革命的な変容」を遂げている。個人の変容、それも革命的な変容も桐野のテーマの一つと思う。

8月某日
特定危険指定暴力団、工藤会(北九州市)のトップに対して福岡地裁は死刑を言い渡した。このトップは昭和21年生まれの74歳、私の2歳上でほぼ同年代だ。中学から少年院に入れられた札付きの不良だったようだ。不良から暴力団のコースをたどるのは貧困などの家庭環境が大きいと私は思ってしまうが、この人の実家は北九州に幅広く土地を所有している農家で、若いころ博打に大負けすると実家の土地を売って処理したそうだ。母親の遺産として数億円を得ている。資金力と才覚で九州有数の暴力団トップに昇りつめたのだろう。ネットで週刊実話に連載されていた彼の手記を覗いたら、弁護士から差し入れられて「破天荒伝」を読んでいた。これは共産主義者同盟(戦旗)の指導者だった荒岱介(故人)の書いたもの。差し入れした弁護士の意図は分からないが、「すべての犯罪は革命的である」(平岡正明)ということか。4件の市民襲撃事件で殺人罪などに問われたことから死刑判決がなされたものだが、私はもともと死刑制度に反対なのでこの判決にも承認しかねる。死刑を廃止して終身刑を、というのが私の考えだ。

8月某日
「女ともだち」(角田光代、井上荒野、栗田有起、唯野未歩子、川上弘美 2010年3月 小学館)を読む。女流作家5名による「女ともだち」をテーマにしたアンソロジーである。栗田と唯野以外は私にとっては馴染みの作家である。発刊から11年を経過して栗田と唯野の名前は聞かない。もしかしたら文芸という市場から淘汰されてしまったのかも知れない。「女ともだち」がテーマであるが、各作品に出てくる女主人公が派遣社員であるのも共通している。白井聡ならば、派遣社員に関しては階級闘争の視点を抜きにしては論じないし、桐野夏生ならば、正社員との格差それからくる憎悪と蔑視が描かれるだろう。それに対して本作で描かれる派遣は、正社員以上に仕事ができるが会社(組織)に属していないことに誇りを持っている存在として描かれる。私としては2000年代の時代の描かれ方としては、総体として「甘い」といわざるを得ない。

8月某日
御茶ノ水の社会保険出版社で「真の成熟社会を求めて」の発送状況を聞く。神田の銀行に寄って社保研ティラーレに顔を出そうかと思うが、16時を過ぎていたので止める。「跳人」で一杯と思ったがオープンが17時からなので断念。おとなしく我孫子へ帰る。「しちりん」は今月いっぱい休業中で「コビアン」でビールでも飲むつもりが、ここも「酒類の提供をしていません」。コロナで世界中が大変なことになっているが、私としては外で呑めないのが一番困ります。帰りの電車で図書館から借りていた「なぜ秀吉は」(門井慶喜 毎日新聞出版 2021年5月)を読む。「朝鮮出兵をめぐる圧倒的な人間ドラマ」という惹句だが私にはピンと来なかった。ただ秀吉のころの日本が「東アジア世界で、いや、ヨーロッパをふくめても、世界一の軍事動員力を保持していた」というのにはいささか驚いた。作者によると秀吉が九州平定のために集めた兵力は総勢20万人に対し、同時代のフランスのユグノー戦争の規模は数万人だったという。日本人は好戦的な民族なのか?

8月某日
秀吉つながりで「智に働けば-石田三成像に迫る10の短編」(山田裕樹編 集英社文庫 2021年7月)を読む。豊臣政権では秀吉が総理大臣とすれば、三成は官房長官ということになろうか。五大老筆頭の徳川家康は副総理だ。とすれば関ヶ原合戦は副総理に官房長官が挑んだ戦いということになる。当時、家康の所領は関東に255万石、三成は近江佐和山19万石である。自民党の派閥でいえば家康派の議員255人に対して三成派は19人。三成に勝機があるとすれば派閥の合従連衡しかない。三成は西国の有力大名に声を掛け、毛利と島津は三成派の西軍に参加した。西軍に参加はしたが実際の参戦は見送り、東軍すなわち家康派は地滑り的な勝利を手にする。三成は自分を取り立ててくれた豊臣政権に恩義がある。政権奪取を目指す家康を許すことはできなかったのである。戦いに負けて捕らえられた三成は斬首される。これが戦国時代の厳しさである。

8月某日
地下鉄千代田線を霞ヶ関駅で下車、虎ノ門フォーラムを訪問。中村秀一理事長が不在だったので「真の成熟社会を求めて」を係の人に渡す。新橋烏森の「なんどき屋」でカメラマンの岡田明彦さんと待ち合わせ。16時待ち合わせに10分ほど早く着いたので生ビールを頼む。ジェムソンの水割りに切り替えたところで岡田さんが登場。「真の成熟社会を求めて」を手渡し。阿部正俊さんの思い出話しをする。岡田さんと二人で呑むのは何年ぶりだろうか。コロナ禍で外で呑むこと自体がほとんどなくなった。私としても久しぶりの「外呑み」。

8月某日
近所の床屋「髪工房」で散髪。散髪後、天ぷら屋の「程々」で「程々定食」。天ぷらに刺身、焼き魚、小鉢、しじみ汁。デザートとコーヒーが付いて1200円は安いと思う。我孫子産の野菜を売っているアビコンへ。雨が降ってきたのでアビコンの置き傘を拝借。15時30分に鍼灸マッサージの予約を入れている「絆」へ。今日は鍼を打って貰ったので、総額3,450円。
マッサージは健康保険が効くので450円、鍼治療は3,000円である。

モリちゃんの酒中日記 8月その3

8月某日
「インドラネット」(桐野夏生 角川書店 2021年5月)を読む。25歳の晃は志望大学に落ちて第三志望の法学部を卒業、IT企業の子会社で派遣社員として働いている。どうしようもない日常に抗うこともしない晃。晃の高校時代は輝いていた。長身でイケメンの空知がいつも一緒だったから。晃のもとにある日、空知の父俊一が死んだという知らせが届く。通夜に出席した晃はカンボジアで行方不明になっている空知の姉妹を捜してくれという依頼を受ける。晃は会社に退職届を出しカンボジアに飛び立つ。飛行機に乗るのも海外旅行も初めてなのに。カンボジアでは入国早々金を盗まれ、簡易宿泊所の受付でアルバイトをすることに。晃の周辺の日本人バックパッカーやカンボジアの人々、さらに怪しげなカンボジア在住の日本人実業家と触れあううちに晃はたくましく成長してゆく。アフガニスタンのカブールを反政府勢力タリバーンが占領、タリバーンはアフガン全土を掌握したようだ。「インドラネット」の舞台となったカンボジアも混沌とした政治状況だが、アフガンも同様だ。日本、韓国、中国などの東アジアは比較的安定しているが、北朝鮮や香港、ウイグル地区など不安定要素も抱える。私たち日本人は西欧的な価値観で事態を推し量りがちだが、アジア的な混沌という視点も必要かもしれない。

8月某日
社会保険出版社の高本社長を訪問。「真の成熟社会を求めて」の発送状況の報告を受ける。上野駅の不忍口で17時に大谷さんと待ち合わせ。上野駅の入谷口方面へ向かう。コロナ感染リスクは不忍口方面より入谷口方面の方が低い(大谷氏談)そうだ。入谷口の前にも入った居酒屋へ。生ビール、焼酎、カツオの刺身などを頼む。店に入ったときは客はまばらだったが、出るときはほぼ満席で若い人がほとんど。上野駅で大谷さんと別れ我孫子へ帰る。

8月某日
「あした、この国は崩壊する ポストコロナとMMT」(黒野伸一 ライブ・パブリッシング 2021年3月)を読む。惹句に曰く「経済理論に基づく新感覚近未来SF小説」。MMTとは現代貨幣理論のこと。この本でも大学教授に「国債を発行して財政支出を拡大することで、財政出動と同額だけ、民間の預金通貨は増えるんだから、緊縮財政なんてする必要はない。つまり国の赤字なんぞ気にせず、必要あらばドンドン国債を発行すればいいんだ」と主張させている。現実に日本政府もコロナ対策費は全額を国債で賄っていると見られる。国債発行残高は1000兆円を超えていると思われるが、国民の多くは、そして政治家の多くもあまり心配しているように見られない。長期にわたる不況で需要不足が続いている。経済はデフレ基調である。MMTのデメリットは通貨の膨張によるインフレだが、日本経済には当分、その心配はない。ということは金融当局の財務省も通貨の番人たる日銀もMMTを実践していることにならないか。

8月某日
阿部正俊さんの「真の成熟社会を求めて」を厚労省の書店、友愛書房に置いてもらおうと、運営している友愛十字会の蒲原基道理事長にお願いに行く。顧問をしている日本生命の日比谷オフィスを訪問。蒲原さんが年金局の企画課で係長をしていたときの課長が阿部さんで、仲人も阿部さんに頼んだという昔話も聞かせてくれた。蒲原さんに暑いから地下鉄の日比谷駅から真っ直ぐ帰りなさいよ、と忠告される。忠告に逆らって有楽町のガード下で生ビールと思ったがやっている店が見当たらない。上野の駅構内もダメ。松戸駅で途中下車したがここもダメ。コロナ自粛が徹底されているのが分かる。我孫子駅前の関野酒店でアイリッシュウイスキーのブッシュミルズを買って帰る。

8月某日
近所の整体院に通っている。週1回ほどで今日は3回目。会社を辞めるまでは神田や我孫子でマッサージに良く行っていた。今通っている「絆」という整体院は健康保険が効く。ただし保険が効くのはマッサージだけで電気治療やハリ治療は自費だ。本日はマッサージに電気治療をプラスして3000円でお釣りが来た。スタッフは青年である。患者は老人が多い。施術が終わり料金を払うと「ありがとうございます。気を付けてお帰りください」。ひとを老人扱使いするなと一瞬、思う。しかし実際、老人なんだよな。

モリちゃんの酒中日記 8月その2

8月某日
NHK BSで映画「緋牡丹博徒」を観る。全部で8作制作された緋牡丹博徒シリーズの第1作で主演が藤純子、子分役に山本麟一と待田京介、敵役の親分が大木実、藤純子の助っ人が高倉健、藤純子に好意的な親分さんに若山富三郎とその妹に清川虹子という豪華布陣。公開は1968年。シリーズは1972年まで続けられたが、ちょうど私の大学4年間と重なる。「緋牡丹博徒」は劇場で観た記憶がある。早稲田松竹だったか新井薬師東映だったか。

8月某日
「兵諫」(浅田次郎 講談社 2021年7月)を読む。「蒼穹の昴」シリーズの最新刊で「兵諫」は「へいかん」と読んで「兵を挙げてでも主の過ちを諫めること」という。この物語に出てくる兵諫は二つ。一つは1936年2月26日、陸軍青年将校が引き起こしたクーデター2.26事件、同じく1936年12月12日中華民国西安で起きた張学良らによる蒋介石の拉致監禁事件、西安事件である。「蒼穹の昴」は人気シリーズだが、変転する中国と日本の近代史を背景にした人間ドラマだ。浅田次郎の志那愛に溢れた作品と私は思う。一つの例は中国人の人名、地名表記だ。日本の小説では中国人名や地名は日本の音で読まれる。蒋介石は「しょうかいせき」、西安は「せいあん」だ。だが「兵諫」はじめ、「蒼穹の昴」シリーズでは中国語読みがルビで示される。蒋介石「ジャンジエシィ」、西安「シーアン」というように。「兵諫」の主人公はニューヨーク・タイムズ記者のジェームズ・リー・ターナー、朝日新聞記者の北村修治あるいは特務機関員の志津大尉とも読めるが、シリーズ全体の主人公は日本と中国の近代史であろう。

8月某日
社会保険出版社の高本社長に面談。午後ワクチン接種で不在ということなので11時過ぎに訪問。社会保険出版社から社保研ティラーレにまわろうかと思ったが、コロナが蔓延中ということもあって自粛、真っ直ぐ我孫子へ帰る。我孫子駅からバスに乗って3つ目のアビスタ前で降りる。停留所から歩いて5分ほどで我が家だが、今日は近くのイタリアン「ムッシュタタン」に寄る。パスタとサラダ、飲み物、デザートが付いて1000円(税別)だった。安いと思いますが。

8月某日
「姉の島」(村田喜代子 朝日新聞出版 2021年6月)を読む。村田喜代子は1945年生まれだから今年76歳。村田は中卒で鉄工所に務め、22歳で結婚して子ども二人を育てながら小説を書き、1987年に「鍋の中」で芥川賞を受賞している。今どき中卒の芥川賞作家って村田と西村賢太くらいだろう。えらいもんだ。「姉の島」は今年85歳で現役の海女をやっている「あたし」雁来ミツルが主人公。舞台は五島列島と思われる島と島に続く海。海にも台地があったり山があったりする。山が海に突き出たのが島だ。ミツルと幼馴染の小夜子が海に潜るとその昔の遣唐使や太平洋戦争で撃沈された軍艦の水兵などに遭遇する。「長安はこちらの方角でよろしいか」「お尋ね申します。トラック島はどっちでしょうか」といった会話が交わされる。終戦後、五島列島の沖で旧海軍の潜水艦が海没処分された。その潜水艦に二人の老海女が訪れ会話する。何とも幻想的である。最後の三行。
おぅーい、小夜子ォー。
あんたァ、どこへ行ったかよォ。
何や見えぬようになった。じゃが、それももうよかろう……。

8月某日
高血圧の治療で月一回、内科を受診する。クリニックは我孫子南口の中山クリニック。もう20年くらい通っている。主治医の中山先生は東大医学部卒、我孫子は内科医が多いのか、いつも閑散としている。診察といっても「変わりありませんか」「ありません」「では血圧を測りましょう」「最近ちょっと高めなんですが」「そうですね。この程度ならいつものお薬でいいでしょう」「ありがとうございます」「お大事にしてください」で、3分間。近くの調剤薬局で薬を処方してもらう。今日は駅北口のイトーヨーカドーのショッピングモールに寄ることにする。3階の本屋で桐野夏生の「インドラネット」を購入。

モリちゃんの酒中日記 8月その1

8月某日
「死刑囚 永山則夫」(佐木隆三 講談社 1994年7月)を読む。永山則夫は1968年にタクシー運転手らを被害者に4件の連続射殺事件を起こし、翌年4月に逮捕され死刑判決が確定し、98年4月1日に死刑が執行されている。永山は私より1年遅く1949年に北海道の網走で生まれ、幼くして青森に転居した。一家は極貧状態が続き永山も中学卒業後、渋谷の西村フルーツパーラーに就職するが、長続きせず転職を繰り返す。横須賀の米軍人宅から盗み出した拳銃によって犯行に及ぶ。私が大学1年生の暮れに、現役で明治大学に入った川崎君と川崎君の友人と新宿で呑んでいた。終電がなくなったので明大前の川崎君のアパートへ帰るためタクシーを止めた。運転手が「若い人一人なら絶対に乗せないよ」と言っていたことを今でも覚えている。タクシーの運転手にとってはそれくらい切実な事件だったのだ。本書は永山の公判記録を基本的な資料として書かれている。それでいて著者は本書はノンフィクションではなくノンフィクションノベルであると主張する。公判記録のすべてが真実であるのか不明であるし、見方によって真実は多様な見え方をするということだろうと思う。永山が逮捕された年の9月に私は学生運動で逮捕、起訴され10月には東池袋の東京拘置所に送られる。私は年末には出所しているが短期間とはいえ永山と同じ拘置所にいたことになる。同じ北海道生まれで一歳違い、拘置所ですれ違っていたかも知れない、そういう縁を感じてしまうのだ。

8月某日
社保研ティラーレで吉高会長、佐藤社長と懇談。話題は表敬に訪れた金メダリストのメダルを噛んだ河村名古屋市長のこと。言語道断で一致。阿部正俊さんの遺稿集「真の成熟社会を求めて」の印刷が出来上がり、キタジマの金子さんが届けてくれる。金子さんと社会出版社の高本社長に挨拶。金子さんに上野駅まで送って貰う。

8月某日
「あるヤクザの生涯 安藤昇伝」(石原慎太郎 幻冬舎 2021年5月)を読む。裏表紙に「この本は、次の人が予約して待っています」の黄色い紙が貼ってあったので、読んでいる本を中断して読み進むことにする。180ページ足らずで活字も大きいから2時間ほどで読み終わった。安藤昇は1926年生まれ、少年院から予科練を志願し敗戦により復員、法政大学予科に進学する。花形敬らと安藤組を結成する。横井英樹襲撃事件で逮捕され5年間の服役後、安藤組は解散し安藤は映画俳優に転身する。安藤組時代の力道山との抗争(力道山の使いの東富士と百万円で手打ち)や山口洋子、嵯峨美智子など数々の女出入りも告白されている。安藤昇の語り下ろしの形をとっているが、「この稿を書くにあたって大下英治氏の「激闘!闇の帝王 安藤昇」や安藤昇氏の「男の終い支度」などの書籍を参考にさせて頂きました」(付記)とあるように、既存のドキュメントやインタビューなどを再構成したものというのが正しいだろう。

8月某日
東京オリンピックが終わる。オリンピックに格別の興味があるわけではないが、コロナ禍で外出もままならず家でオリンピック関連のチャンネルを見ることが多くなる。私の同居家族(奥さんと息子)はオリンピックには興味がないようだ。だいたいテレビをほとんど見ない。奥さんはタブレットで韓国や中国のドラマを楽しんでいるらしい。たぶん大人も子供もテレビを見なくなっているのではないか? 高度成長期、一家だんらんの真ん中にはテレビが据えられていた。今や一家だんらんという言葉自体が死語に。

8月某日
「9条の戦後史」(加藤典洋 ちくま新書 2021年5月)を読む。加藤典洋が亡くなったのは2019年の5月、亡くなる1カ月前に「9条入門」(創元社)が出版されている。「9条」とはもちろん戦争放棄をうたった日本国憲法の9条のことである。加藤は1948年4月1日生まれで、学齢としては1948年の早生まれと同じ扱いになるらしい。山形東高校を1965年に卒業、同年に東大に入学している。本書を読んでいる期間がちょうど東京オリンピックと重なり、読み終わるのに1週間以上かかってしまった。新書版で500ページ以上という本の厚さもあるが、9条に対して、あるいは軍備や戦争と平和に関して日本人や政治家、政治学者らがどのように感じ、論じてきたかが詳細に論じられており、文章の意味を読み取るのに時間がかかってしまった。「『はじめに』に代えて」で野口良平という人が加藤が中高生向けに書いた「僕の夢」という文章を引用している。「理想というのは大事だ。政治というのは、新しい価値を作り出すための人々の企てだからね。むろん、理不尽なことには立ち向かうんだが、そういう必要と、この理想と二つがあってはじめて、政治は、実現できないと思われていたことを可能にする人間の営みになる」。これはほとんど全共闘運動のことを語っていると私には思われた。戦後、日本は保守党が主導権を握る内閣の下で、対米従属しながら核武装を回避しつつ、曲がりなりにも軽武装路線を貫いてきた。しかし安倍政権で事態は大きく変化した。安倍がトランプをパートナーとしつつ、米国の言いなりに武器を調達し、米軍の世界戦略に積極的に協力してきた。加藤は9条と国連との連携により、日米安保条約を解消し、米国を含めたアジア太平洋地域の安全保障を提言しているのだが…。

モリちゃんの酒中日記 7月その4

7月某日
「女たちのポリティクス-台頭する世界の女性政治家たち」(ブレイディみかこ 幻冬舎新書 2021年5月)を読む。「小説幻冬」の2018年12月号から20年11月号に連載されたもの。英国のブライトンに労働者階級のアイルランド系の夫とハーフの息子と暮らすブレイディみかこは「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」がベストセラーとなって以来の読者である。というか私はその少し前に発売された「女たちのテロル」(岩波書店)を面白く読んだ。その頃、私にとってはブレイディみかこはまったくの無名のライターだった。「女たちのテロル」では20世紀の女性のテロリストを何人か取り上げているのだが、日本人では関東大震災直後に、摂政の宮(昭和天皇)暗殺未遂事件で夫の朴烈とともに逮捕され、後に宇都宮刑務所で縊死した金子文子の生涯がスケッチされている。貧しい人々への共感が彼女の考え方の基本にはある。政治思想的には無政府主義ね。そしてブレイディみかこが英国在住ということも見逃せない。日本、日本人という限定的な視点から解放されているのだ。英国首相だったメイ、ドイツ首相のメルケルには辛口の評価。ニュージーランドのアーダーン首相、フィンランドのマリン首相らには肯定的な評価が下されている。メイはEU離脱後の国家運営における無能さ、メルケルはこてこての財政再建論者であることが否定的な評価の理由である。私はブレイディみかこの本に出合うまでは財政再建主義者であったのだが、少し考えを改めようかなと考え始めているところ。MMT(現代貨幣理論)を少し勉強してみるか。

7月某日
「身分帳」(佐木隆三 講談社文庫 2020年7月)を読む。佐木隆三は1937~2015年。「復讐するは我にあり」はじめ、犯罪小説の第一人者。「死刑囚 永山則夫」「小説 大逆事件」は未読だがそのうちぜひ読みたい。人生の大半を刑務所で送った主人公の山川一は、昭和61年2月に旭川刑務所を出所、東京の弁護士が身元引受人となったことから上京する。生活保護を受けながら職を探し、運転免許取得の苦労や近所の人々との交流などが描写される。
私はこの本を読みながら大学生の頃、交流のあったMさんのことを思い出した。今から半世紀以上前の1969年の4月28日(4.28沖縄闘争)で私の友人が逮捕された。そのとき留置所で同房だったのがMさんである。Mさんはその頃30代前半だったと思うが、少年の頃から素行が悪く刑務所を出たり入ったりの生活だったらしい。留置所でも警官に反抗し「エビ固め」で攻められるなどの拷問を受け、同房の私の友人に「留置所を出たら証言してほしい」と依頼した。この一件の結末は知らないが、この年の夏以降、私たちはMさんのもとで土方のアルバイトに精を出すことになる。その年の9月、私は早大第2学生会館屋上で凶器準備集合、傷害、公務執行妨害、現住建造物放火などの容疑で逮捕される。学生会館の屋上から押し寄せる機動隊に向けて火炎瓶や石ころを投げつけたわけね。逮捕起訴されて東京拘置所(その頃はまだ東池袋に会った)にMさんから「私がもっと若かったら君と一緒に戦いたい」という内容の封書が届いた。在学中はよくMさんのもとで土方のバイトをしたっけ。かなり割のよいバイトだった。なお「身分帳」は西川美和監督、役所広司主演で「すばらしき世界」として映画化されている。

7月某日
東京神田の社保研ティラーレを訪問。吉高会長、佐藤社長、議員秘書の神戸さんと懇談。吉高さんから高級焼酎「百年の孤独」を頂く(ネットで値段を調べたら、定価5726円!)。キタジマの金子さんの営業車で社会保険出版社へ。近藤さんと「真の成熟社会を求めて」の打ち合わせ。御茶ノ水の社会保険出版社から上野駅まで金子さんに送って貰う。我孫子で「しちりん」に寄る。
「蟲息山房から-車谷長吉遺稿集」(新書館 2015年12月)を読む。蟲息山房は「ちゅうそくさんぼう」と読み、車谷と奥さんで詩人の高橋順子さんが住む家のこと。車谷が命名した。全集に入らなかった短編小説や俳句、連句、対談、インタビューなどが収められている。玄侑宗久との対談で車谷は何を目指しているかと問われ、「人間が人間であることの不気味さをテーマに書きたいわけです」と答えている。今思えば覚悟を持った小説家だったように思う。「10年夏に全集を刊行してから執筆意欲を失った」と高橋順子さんが書いている。10年とは2010(平成22)年のことである。車谷が妻の留守に食べ物を喉に詰まらせて窒息死したのが、それから5年後の2015(平成27)年5月であった。

7月某日
「財政赤字の神話-MMTと国民のための経済の誕生」(ステファニー・ケルトン 早川書房 2020年10月)を読む。MMTとは現代貨幣理論のことで、アメリカ、イギリス、日本など自国通貨の発行権を有する国の政府は、赤字国債を発行し続けても問題ない(ただしインフレには注意)という理論である。今回のコロナ対策に関しても多くの公費が使われているが、その多くの(おそらくすべての)財源は国債である。私は長く「健全財政論者」で、借金を子や孫の世代に残すのには反対という立場である。だがこの本を読んで私の考えは揺らぎ始める。この本の第1章は「家計と比べない」で章の扉にはタイトルの文字とともにオバマ大統領の2010年一般教書演説から「アメリカ中の家族が支出を控え、困難な決断をしている。政府もそうしなければならない」という文言が添えられている。そして扉の裏には「神話1 政府は家計と同じように収支を管理しなければならない」と並べて「現実 家計と異なり、政府は自らが使う通貨の発行体である」という言葉が掲げられている。「自らが使う通貨の発行体」というのがミソでEU加盟国や地方政府は除外される。ステファニー・ケルトンはニューヨーク州立大学の教授で経済学者。2015年の米上院予算委員会でチーフエコノミスト、大統領選挙では民主党の予備選でバーニー・サンダース候補の政策顧問を務めたという。社会主義者ではないがバリバリの左派である。

7月某日
MMTについてさらに「MMT-現代貨幣理論とは何か」(井上智洋 講談社選書メチエ 2019年12月)を読む。ステファニー・ケルトンは自ら現代貨幣理論派を名乗っているが、井上智洋はMMTに「全面的に賛成でも、反対でもありません」(はじめに)としている。当然、ステファニー・ケルトンの語り口には迫力があり、井上智洋にはそれが欠ける。井上はベーシック・インカム(BI)の導入論者として知られるが、本書でもAI・ロボットが高度に発達した未来にBIが導入されると多くの人が労働から解放される「脱労働社会」が実現する、と主張している(第5章)。私はそれがマルクスの言う共産主義社会と思えるのだが。

モリちゃんの酒中日記 7月その3

7月某日
午前中、月1回の高血圧治療のため我孫子南口駅前の「中山クリニック」へ。治療と言っても「お変わりありませんか?」「特にありません」という簡単な問診のあと、中山先生が血圧を測って「お大事に」「ありがとうございました」で終わり。高血圧は自覚症状がほとんどないので厄介だ。私も11年前の2010年3月、HCM社のゴルフコンペの朝、フラフラしてズボンをはけず、HCM社のMさんに「こういうわけでコンペは欠席します」と電話した。そうしたらMさんが「親父が高血圧で倒れたときと同じだから直ぐに救急車を呼んだ方がよい」と言われてそうした。会社の検診で高血圧と診断され、当時から中山クリニックに通っていたのだが、何しろ自覚症状がないもので服薬もサボり勝ちだった。今は真面目に服薬を続けています。中山クリニックから我孫子薬局でいつもの薬を調剤してもらい帰宅する。

7月某日
厚労省の医系技官だった高原亮治氏。上智大学の教授を務めた後、高知県の医療法人で働いていたが持病の心臓病が悪化、急死した。高原さんの生前、堤修三さんと私の三人で何回か呑みに行った。高原さんが岡山大学医学部の全共闘、堤さんが東大駒場、私が早大政経の全共闘という全共闘つながりだった。7月の命日には堤さんと奈良女子大学元教授の木村陽子さんとの3人で高原さんの墓参りに行くことにしている。お墓と言っても高原さんの遺骨は四谷の聖イグナチオ教会の納骨堂に納められているから、そこにお参りする。お参りした後、近くの喫茶店で休憩。木村さんにCDを頂く。

7月某日
家にあった「それからの海舟」(半藤一利 ちくま文庫 2008年6月)を読む。前に一度読んだことがある筈だが、例によって内容はほとんど覚えていない。著者の半藤は元文藝春秋社の編集者で最後は専務を務めた。東京は向島の生まれで、先祖は越後長岡藩の出。江戸は幕府のおひざ元だし、長岡も薩長の倒幕勢力に抵抗して敗れた。半藤は根っからの薩長嫌いなのである。勝海舟も江戸っ子だが、三河以来の幕臣ではなく「祖父の平蔵が三万両で株を買い、千石取りの男谷家をついだ」。父の小吉が男谷家から勝家の養子に入る。勝小吉は無役の貧乏旗本だったが勝海舟、幼名麟太郎は幼い頃から文武両道に励み優秀だった。表題の「それから」について半藤は「あとがき」で三田薩摩屋敷での勝・西郷隆盛の会談のときと記している。会談の結果、「江戸城は無血開城となり、近代日本は華やかに幕を開いた」のである。海舟は1823(文政6)年に生まれ1899(明治32)年に75歳で没している。当時としては長命だったのではないか。ちなみに維新の三傑といわれる西郷隆盛、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通の終焉についても本書に触れられている。西南戦争の最終局面、城山で政府軍の総攻撃を受ける西郷軍。「流れ弾が股と腹に当たるに及んで、傍らの別府晋介を顧みて言った。『晋どん、晋どん、もうこん辺でよか』」。1878(明治10)年9月24日、享年51。木戸は西南戦争の真っ最中の同年5月26日に「西郷、もういい加減にせんか」の一言を最後に病死した。享年45。翌年、1879(明治11)年5月14日、大久保利通が暗殺される。享年49。三人ともずいぶん若くして死んだことが分かる。そういえば半藤さんも今年1月に亡くなっている。こちらは享年90。

7月某日
林弘幸さんと我孫子駅南口の「しちりん」で呑む。林さんは元年金住宅福祉協会の幹部職員。確か九州支所長や東京支所長を務めた。九州支所長のとき博多でご馳走になった覚えがあるが、仲良くなったのはむしろ林さんが年住協を止めて以降だ。林さんは年住協の前の職場が永大産業。この会社は合板とプレハブ住宅のメーカーだったが、オイルショック後に倒産した。年住協の実質的な創業者だった坂本専務、その後を継いだ中谷、米田さんも永大出身だ。年住協の創業当時の話を聞けた。

7月某日
「ロッキード」(真山仁 文藝春秋 2021年1月)を読む。600ページ近い大著だが、週刊文春に2018年~2019年にかけて連載されていた「ロッキード 角栄はなぜ葬られたか」をもとにしているだけに読みやすかった。私が大学を卒業したのが1972年、田中角栄が首相になったのがその年の7月、文藝春秋に立花隆の「田中角栄研究」が掲載されたのが74年の10月、田中内閣が総辞職したのが11月だ。角栄は首相は辞めたが最大派閥の田中派を率いて自民党の実力者であり続けた。角栄が逮捕されたのは76年の7月である。東京地裁は83年10月に角栄に懲役4年、追徴金5億円の判決を下す。85年2月に角栄は脳梗塞で倒れ入院、退院後も本格的な回復を見ないまま93年12月に波乱に満ちた生涯を閉じている。私が23歳のときに角栄は首相となり、死んだのは私が45歳のときである。感慨深いものを感じながら読了した。角栄の起訴、有罪判決は無理筋であったのでは?と思わせるものがあった。今度、弁護士の雨宮先生に会ったら聞いてみよう。

7月某日
「夫・車谷長吉」(高橋順子 文藝春秋 2017年5月)を読む。最後の文士とも呼ばれた小説家、車谷長吉との日々を描いたエッセー。本作で高橋は講談社エッセイ賞を受賞している。
車谷との出会いから車谷の直木賞受賞、豪華客船による世界一周、そして車谷が晩年、体力と同時に執筆意欲を失ってゆく様子が赤裸々にかつユーモラスに描かれる。私は実は車谷と高橋と二度ほど酒を呑んだことがある。私の兄の奥さん(義理の姉)が小学館に勤めていて高橋順子さんと親しく、酉の市に鳳神社にお参りした後、入谷で4人で呑んだのだ。私が車谷のファンであることを知った義理の姉が誘ってくれたのだ。高橋さんは東大、車谷は慶應の仏文を出たインテリなのだが、お会いしたときは普通のオジサンとオバサンに見えた。高橋さんの方が1年、年長なのだが高橋さんがかいがいしく車谷のお世話をしているように見受けられた。「夫・車谷長吉」を読んで、そのときのことを思い出した。

モリちゃんの酒中日記 7月その2

7月某日
11時45分に社会保険研究所の入るビルでキタジマの金子さんと待ち合わせ。「真の成熟社会を求めて」のゲラを返すつもりだったが、肝心のゲラを自宅に忘れてしまった。後でメールすることにする。年友企画の石津さんとランチ。「跳人」で三色丼をご馳走になる。「跳人」でホールを担当している大谷さんと話す。大手町から霞が関へ。厚労省1階ロビーで社保研ティラーレの佐藤社長と待ち合わせ。樽見事務次官に「地方から考える社会保障フォーラム」への出席のお願い。厚労省で佐藤社長と別れ、虎ノ門の日土地ビルで打ち合わせを済ませた後、霞が関から千代田線で帰る。北千住で快速に乗り換え我孫子へ。南口駅前の「しちりん」に寄る。

7月某日
「政治家の責任-政治・官僚・メディアを考える」(老川祥一 藤原書店 2021年3月)を読む。著者の老川は読売新聞グループ本社会長・主筆代理、同グループではナベツネこと渡辺恒雄主筆に次ぐナンバー2ということだろう。1941年東京都出身、早稲田大学政経学部政治学科卒業後、1964年読売新聞社に入社。入社以来、多くの期間を政治部で過ごし政治部長も務めた。この本を一読して私も色々な感慨を持ったが、一つは衆議院選挙制度の中選挙区から小選挙区への移行であろう。一選挙区に3~5人程度の定員を設ける中選挙区制は選挙に金がかかり過ぎる、同一政党から複数の候補者が立候補するため派閥政治が助長される、などの批判があり小選挙区制への移行が決まった。政党には税金から政党助成金が交付されるようにもなった。中選挙区時代は派閥のボスから盆暮れ、選挙時に金が配られていた。党執行部の力が強まり派閥の力は低下した。現在の菅首相(総裁)は無派閥だが、かつては考えられなかった。安倍一強を謳歌できたのも小選挙区制の賜物と言えまいか。政治家が小粒になったのも小選挙区制に源がありはしないだろうか。

7月某日
「何とかならない時代の幸福論」(ブレイディみかこ×鴻上尚史 朝日新聞出版 2021年1月)を読む。ブレイディみかこは一昨年だったか、金子文子らの女性テロリストを描いた「女たちのテロル」(岩波書店)を読んで以来のフアン。鴻上尚史の芝居は観たことはないけれど、彼が司会をやっているNHKBSの在日の外国人を集めてのトーク番組「COOLJAPANN」はときどき観る。二人とも日本社会を外から(批判的に)見ているのが共通点と言えようか。コロナで同調圧力が高まっている現在、二人の視点は重要だ。コロナと言えば、明日から東京に緊急事態宣言が発出される。これに関連して西村担当大臣が、酒類を提供する飲食店には金融機関や種類の卸業者を通じて圧力をかけるとか発言して批判を浴びた(後に撤回したらしいが)。西村大臣は灘高から東大を出て通産省に入った秀才らしいが、だめだねぇ。コロナで窮地に立たされている飲食店等の弱者に対する想像力が欠けている。「何とかならない時代の幸福論」でも「『エンパシー』とは、その人の立場を想像する能力」としてブレイディみかこが「『エンパシーという能力を磨いていくことが多様性には大事なんだよ』と、息子が学校で習ってきた」と語っていた。そういうことなんだよなぁ。

7月某日
家にあった「幕末維新変革史」(下)(宮地正人 岩波書店 2012年9月)を読むことにする。上巻を10年近く前に読んで下巻は読まずに放っておかれた。読まずに死んでしまうのももったいないので読むことにする。下巻は第Ⅲ部「倒幕への道」、第Ⅳ部「維新史の課程」、第Ⅴ部「自由民権に向けて」という構成。著者の宮地正人は1944年生まれ、東大の史料編纂所教授、国立歴史博物館館長を務めている。東大の国史学科を卒業しているから昨年亡くなった坂野潤治先生の後輩にあたる。ウイキペディアでは宮地のことを「左派」としているが、そういう決めつけは如何なものか。第Ⅲ部は政治史的に言うと薩長同盟の成立から大政奉還までを扱っている。そうそうこの本を読むきっかけとなったのはNHKテレビの大河ドラマ「青天を衝け」がちょうど、渋沢栄一が一橋慶喜に仕官し、慶喜が大政奉還をする当たりを扱っているからだ。渋沢を演ずる吉沢亮という役者がなかなかいい。二枚目なんだけれど三枚目的でもあるし、熊谷あたりの方言「だっぺ」丸出しなのも好感が持てる。
本書が面白いのは中央の政治史だけでなく経済や地方、文化や学問にも焦点を当てている点だ。第Ⅲ部ではこれまであまり知られていなかった蘭学者や東国の平田国学者、豪農や豪商にも言及している。「青天を衝け」でも渋沢家が熊谷の豪農で藍玉を扱う商人を兼ねていることが描かれている。第33章「幕末期の東国平田国学者」では宮和田光胤という国学者が紹介されている。この人は今は取手市と合併した藤代町宮和田の出身、今でも宮和田という地名は残っているし宮和田小学校も存在する。水戸街道沿いということもあって水戸学の影響も受けたらしい。本陣の当主だから名字帯刀は許されたが基本は農民ないしは町民であった。この辺は渋沢家と一緒だ。新選組の近藤勇や土方歳三も三多摩の農民出身。だけれども剣術も学問も学び江戸へ出て道場を開く。道場を開く資金はおそらく実家からも出ていただろう。米だけでなく生糸も扱っていたと思われる。開国によって藍玉や生糸の価格が乱高下した。渋沢や近藤らの生産者が攘夷思想に魅かれていく一因となったのでは。

7月某日
「幕末維新変革史」(下)の第Ⅳ部「維新史の過程」を読み進む。明治維新の性格については、講座派(日本共産党系)の絶対主義革命と労農派(戦後の日本社会党に繋がる)のブルジョア民主主義革命という二つの見方があった。本書はそのどちらに与するものではない。講座派と労農派の論争そのものが観念的であったのかも知れない。本書は明治維新が政治体制、経済社会、暮らしを含めて幅広い変革であったことを明らかにしていく。私としては士農工商の近世的身分制度の解体など、明治政府の民主的、進歩的な性格は評価する一方、後の大逆事件をはじめとした反動的な性格も見逃せないと思っている。そういえば坂野潤治先生は明治時代から大正デモクラシー、5.15事件まで日本は民主的とファシズム的の政権交代が繰り返されてきたと述べていたように思う。

7月某日
「幕末維新史」(下)を読了。今回読んだのは第5部「自由民権にむけて」。第48章「福沢諭吉と幕末維新」、第49章「田中正造と幕末維新」の2章で構成される。福沢は九州中津の中津藩、奥平家の下級武士の家に生まれる。天保5(1835)年生まれだから、ペリー来航がなければ九州の片田舎で平凡な一生を送った可能性が高い。しかしペリー来航が福沢の運命を一変させる。蘭学の習得を命じられた福沢は長崎、次いで大阪の緒方洪庵の塾で学ぶ。オランダ語を学んだ福沢は開港した横浜に出かけるが、欧米世界での共通語は英語であることを知り愕然とする。オランダ語を学んだ友人の多くは「今さら」と英語学習に背を向けるが福沢は果敢に挑戦する。これが福沢の咸臨丸による渡米、さらに帰国後の幕臣への登用につながる。幕臣としての福沢は、統一中央政府の幕府という形で幕府をとらえ、幕府権力の維持、強化を訴える。維新後の福沢は幕臣の静岡移住にも加わらず、新政権にも参加しなかった。維新前からの英語塾、のちの慶應義塾の経営に務めることになる。明治という時代は薩長を中心とする藩閥政府とそれと結びついた三井、三菱、住友、安田らの政商(後の財閥)の時代と理解されやすいが、福沢らの慶應義塾の力も無視できない。なにしろ東京大学が1977年に設立され、最初の卒業生を出すまでは、慶應義塾は最大の管理養成校だったらしい。それ以降は経済人を輩出していくが、彼らが明治期のブルジョア民主主義を担ってゆくことになる。田中正造は下野国小中村の庄屋の家に生まれる。幕末期には近隣の農民や浪人たちと共謀して倒幕の挙兵を試みるが鎮圧される。この辺の反権力の志は後の足尾銅山の鉱毒反対闘争に引き継がれてゆく。本書を読んで感じたのは、われわれが享受している民主主義や平和は当たり前のように存在しているように見えるが、そうではないということ。先人たちの命がけの労苦のうえに成り立っている。事実、幕末から明治期にかけて倒幕運動や反政府運動に携わった者のうち少なからぬ人が死罪となっている。当時の死罪は斬首だからね。文字通り「首を賭けた」闘いだったわけだ。

モリちゃんの酒中日記 7月その1

7月某日
社保研ティラーレで次回の「地方から考える社会保障フォーラム」の打ち合わせを吉高会長、佐藤社長とする。缶ビールをご馳走になる。キタジマの金子さんと「真の成熟社会を求めて」のスケジュールを打ち合わせ。金子さんに車で上野まで送って貰う。我孫子で営業再開した「しちりん」に寄る。

7月某日
「アンソーシャル ディスタンス」(金原ひとみ 新潮社 2021年5月)を読む。コロナ禍の5組の若い男女の恋愛とセックスを描いた5編の中編小説が収められている。恋愛もセックスも引退の身ですがそれなりに面白かったけれど、最近は「厨房」が罵倒する言葉となっていることを学ぶ。中学生を意味する「中坊」が同音の「厨房」となったらしいけれど、わけがわからないよ。

7月某日
「敗戦後論」(加藤典洋 ちくま学芸文庫 2015年7月)を読む。「敗戦後論」は①「敗戦後論」②「戦後後論」③「語り口の問題」-の3部構成になっていて、初出は①が「群像」95年1月号、②が「群像」96年8月号、③が「中央公論」97年2月号で、単行本は1997年8月に講談社より刊行されている。2005年12月にちくま文庫で再刊され、2015年7月にちくま学芸文庫に収録された。単行本、ちくま文庫、ちくま学芸文庫のそれぞれに、著者の「あとがき」が掲載され、ちくま文庫には内田樹の「卑しい街の騎士」、ちくま学芸文庫には伊東祐史の「1995年という時代と『敗戦後論』」というタイトルの解説が付けられている。単行本、文庫の「あとがき」も文庫の解説も、学芸文庫にすべて収められており、これは加藤典洋のことをあまりよく知らない私のような読者にとっては大変ありがたい。以下、「敗戦後論」の内容紹介を「あとがき」と解説に沿って進めたい。
単行本の「あとがき」で、加藤は「この本は互いに性格の異なる三本の論稿からなっている」と述べ、「敗戦後論」が政治編、「戦後後論」が文学編、「語り口の問題」がその両者をつなぐ蝶番の編と位置付ける。これに対して学芸文庫版の解説で伊東祐史は、加藤の位置づけを肯定しつつ第二論文「戦後後論」が「加藤のすべての著作の“扇の要‟に位置」し、「加藤の『文学』の原論である」とし、それをもとに、日本の戦後を論じたのが第一論文「敗戦後論」であり、デリケートな政治社会問題を論じたのが第三論文の「切り口の問題」となる。私は「あとがき」も解説も本文を読んでから読んだから、3つの論文のそういった関係はこれらの文章を読んで初めて知った。何しろ私にとってはいささか難解で、しかも巻末の注釈にも目を通しながら読んだので、文庫本一冊を読み終わるのに三日かかってしまった。
第二論文は太宰治とサリンジャーを軸に戦争(第2次世界大戦)と文学の関りを論じたもので、第三論文はハンナアーレントが戦後、ユダヤ人大量虐殺の罪で裁かれたアイヒマンを描いたルポルタージュ「エルサレムのアイヒマン」を軸に批評を展開している。二つの論文共に私が完全に理解したとは思えないが、文学や思想に真剣に向き合おうとする加藤の姿勢には共感できた。しかし私が一番問題意識を持って読んだのが最初の「敗戦後論」であった。第一論文の「敗戦後論」を貫く加藤の最大の問題意識は「ねじれ」である。日本の現行憲法は日本人の手によって書かれたものではなくGHQの英文の原文を翻訳したものであることはもはや常識である。進駐軍の圧倒的な武力を前に、日本国および日本国民は憲法を「押し付けられた」。しかしその「押し付けられた」憲法は、戦力の放棄をうたう世界に誇るべきものだった。これが加藤の言う「ねじれ」の一つである。もう一つの「ねじれ」は先の戦争(日中戦争、太平洋戦争)の犠牲者は日本人は3百万人、アジア・太平洋地域は併せて2千万人に及ぶ。これらの犠牲者に我々は真摯に向き合っていないのではないか? というのが加藤の提起する第2の「ねじれ」である。
「ここには二種の死者がいる。死者もまた私たちのもとでは分裂している。この分裂を超える道はどこにあるのか」と加藤は書いて、吉田満の「戦艦大和ノ最期」から兵学校出身の哨戒長、白淵大尉の言葉を引用する。「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目覚メルコトガ最上ノ道ダ」。加藤は「ここにいるのは、どれほど自分たちが愚かしく、無意味な死を死ぬかと知りつつ、むしろそのことに意味を認めて死んでいった一人の死者だからである」と書く。私は2、3カ月前、我孫子の香取神社の朝市で「戦艦大和ノ最期」を入手、初めて読んで今までにない何とも言えない気持ちになった。だから加藤の気持ちはよく分かる。だが私は同じ朝市で買った「総員玉砕せよ!」(水木しげる)という戦争マンガを取り上げたい。昭和18年末、陸軍部隊の一支隊が中部太平洋ニューブリテン島に進駐する。マンガは重労働と下士官のビンタに明け暮れる一人の新兵の視点で描かれる。偵察に行った同僚が鰐に襲われたり、熱病に倒れていく。そんななかで戦局は確実に悪化していき、昭和20年3月部隊に玉砕命令が下される。玉砕戦でも生き残る兵や士官がいる。それを察知した司令部はさらなる玉砕戦を命じる。兵たちは猥雑で娑婆に未練たっぷりに描かれる。海軍士官の白淵大尉のような高潔さやインテリジェンスは微塵もない。私はそこにむしろ感動した。白淵大尉は自分の死に意味を見つけた。だがニューブリテン島の兵たちは意味を見つけることもなく死んでいく。

7月某日
社保研ティラーレで佐藤社長と吉高会長と雑談。その後、社会保険出版社の1階でキタジマの金子さんから「真の成熟社会を求めて」の最終ゲラを貰い、次いで社会保険出版社の高本社長に挨拶、金子さんに上野まで送って貰う。上野駅で大谷源一さんと待ち合わせ。一緒に有楽町の交通会館の「ふるさと回帰支援センター」に行って高橋公理事長に挨拶。交通会館地下1階の博多うどんの店「よかよか」に行く。ビール、シャンペンと日本酒を頂く。この店は博多うどんの店だが、おいしい日本酒と日本酒にあったつまみを揃えている。店を仕切っているのはネパール出身の青年。日本語は日本人と変わらないし、顔もほぼ日本人である。

7月某日
近所の「髪工房」という床屋で散髪。髪工房は私より2~3歳年上のご主人とその娘さんがやっている。65歳以上は1800円のうえ、スタンプが5回になるとさらに500円引きになる。今日は500円引きの日だったので1300円だった。申し訳ないほど安価。床屋さんのすぐ前が坂東バスのバス停、我孫子高校前だ。床屋さんを出るとすぐバスが来たので乗る。終点の我孫子駅で降りて南口駅前の「ココ一番屋」に入って「野菜カレー」を食べる。雨が降ってきたので帰りもバス。このところ障害者割引を利用しているので片道75円である。「モリちゃんの酒中日記」を読み返していたら6月に加藤典洋の「敗戦後論」を読んでいたことが判明。認知症発症か?「どっかで読んだことが…」と思ったのは事実ですが1カ月前に読んだことを忘れる?

モリちゃんの酒中日記 6月その4

6月某日
香取神社の朝市で買った古本「戦艦大和ノ最期」(吉田満 講談社文芸文庫 1994年8月)を読む。戦争文学の名作として名前は知っていたが読むのは初めて。吉田は1923年生まれ、1944年東京帝大法学部在学中に学徒動員で海軍に入隊、少尉、副電測士として戦艦大和に勤務。「戦艦大和ノ最期」は終戦後、1日で書き上げたという。全編文語体で書かれているが、文語体が米軍機との戦闘場面、大和の撃沈場面、その後の漂流、救助の極度に緊迫した場面を描くのに効果を挙げている。吉田は復員後、日本銀行に就職、国庫局長、監事を務めたが、1979年56歳で亡くなっている。戦争文学は戦争を体験したものにしか書き得ないものではない。現に浅田次郎の優れた戦争小説を読んだことがある。しかし「戦艦大和ノ最期」は、体験したものしか書き得ないものだ。大和は1945年3月、母港呉港を出港、豊後水道を下り沖縄島を目指す。米軍機に襲われ激闘2時間の末、轟沈される。乗員3332名のうち約3000名が艦と運命を共にした。制空権を完全に失った状況で大和はよく戦ったというべきだろう。しかし、私はミッドウェー海戦以降、勝ち目のない戦を継続した東条英機らの戦争指導者を憎むね。

6月某日
「ハコブネ」(村田沙耶香 集英社文庫 2016年11月)を読む。本書の初出は「すばる」の2010年10月号、単行本化は2011年11月である。精神科医で批評家の斎藤環は「村田沙耶香は闘っている。何と? 異性愛主義、ならびにそれに由来する性交原理主義と」と、村田の「消滅世界」(河出文庫 2018年7月)の解説で述べている。村田の闘いは「ハコブネ」においても同様に展開されている。この小説の書かれた2010年頃は現在よりももっとLGBTなど性的少数者に対する理解は進んでいなかったと思う。「ハコブネ」は異性とのセックスが辛く、自分の性に自信が持てない19歳の里帆、セックスに実感が持てない31歳の知佳子、知佳子の友人で女であることに固執する椿の、それぞれの性を巡る物語である。斎藤環の言うように村田の異性愛主義と性交原理主義との闘いは一貫している。文学は元より孤独な闘いであるが、村田の孤独は「性的観念、性的通念」を相手にしているだけにその孤絶感はまたひとしおだろう。私は村田沙耶香を支持します。

6月某日
「人口減少社会の未来学」(内田樹編 文藝春秋 2018年4月)を読む。内田が序論「文明史的スケールの問題を前にした未来予測を執筆、構造主義生物学の池田清彦やブレイディみかこ、平川克美、隈研吾、姜尚中ら10人が寄稿している。人口減少は自然過程というのが各論者にほぼ共通した認識。そのなかで内田は今後、我々がやらなければならないのは「後退戦」と位置付ける。「どうやって勝つか」ではなく「どうやって負け幅を小さくするか」だ。確かに労働力人口が増加し、高度経済成長が続いた時代には「勝つこと」が求められていた。池田は「動物の個体群動態(人類の場合は人口動態)を考える上で、一番重要な概念はキャリング・キャパシティ(環境収容力)である」とする。そのうえでAIやロボットが普及すれば労働者は失業し、社会環境は悪化する。ベーシックインカムの支給によってそれを防止すれば定常経済が当たり前の世界になり、「そうなればキャリング・キャパシティがほぼ一定で、人口もほぼ一定という、生物種の生存戦略としては最適な社会になる」と予言している。人口問題について考えるには人類史的な視点が必要ということか。

6月某日
2回目のワクチン接種。1回目は駅前のイトーヨーカドーの3階だったが2回目は中山クリニック。中山先生は私の高血圧症の主治医で東京大学医学部出身の秀才。名前を呼ばれて接種室に行くと中山先生が「あぁ森田さん」と一言。無事接種を終え15分ほど休憩して中山クリニックを出る。イトーヨーカドーのCDで現金を降ろし、レストラン「コビアン」でランチ。「ハンバーグ&ウインナー」のBランチ(660円)と生ビール(550円)を頼む。「コビアン」を出て公園通りを下って手賀沼公園で休憩して帰る。

6月某日
10日ほど前に読んだ「現代思想の冒険者たち」シリーズの⑰「アレントー公共性の復権」の月報に森まゆみが早稲田の政経学部の藤原保信ゼミでアレントやローザ・ルクセンブルグを学んだことを記していた。ウイキペディアによると藤原保信は1935~1994年、父が戦死して祖父に育てられ南安曇農業高校を卒業後、働きながら第2政経学部で学び大学院に進んだ。我孫子市民図書館で藤原保信を検索すると「自由主義の再検討」(岩波新書 1993年8月)がヒットしたので借りることにする。藤原は1994年に亡くなっているので、本書は彼の最後の著書になるのかも知れない。「あとがき」で「本書は、ほんらいならばもう少しはやく書き上げられるはずであった。しかしちょうど半分ほど書き進んだところで体調を崩し、中断を余儀なくされた」と記されている。病魔と闘いながらの執筆だったのだろうか。ソ連が崩壊したのが1991年だから、「社会主義に勝利した自由主義」という当時の一般的な風潮に一石を投じたかったのかも知れない。序章の「自由主義は勝利したか」で藤原は自由主義を経済的には資本主義、政治的には議会制民主主義を基本とする社会と定義したうえで、「自由主義そのものが自己修正し、自己克服を遂げていかなければならない」としている。また自由主義の遠い将来は「形を変えた社会主義かも知れない」とも記している。第Ⅱ章「社会主義の挑戦は何であったか」ではマルクスの思想を好意的に概説している。この章の終わりは、完成した共産主義社会では「まさに『各人の自由な発展が、万人の自由な発展』の条件になり、各人はその能力に応じて働きつつ、必要に応じて受けとる。そこにひとつのユートピアをみるのは間違いであろうか」と結ばれている。完成した共産主義社会に「ひとつのユートピアをみる」のは高卒で現場の労働者であった経験がいわせているのだろうか。