モリちゃんの酒中日記 4月その1

4月某日
昨年亡くなった元参議院議員の阿部正俊さんの本、「真の成熟社会を求めて」が完成に近づいているので、阿部さんの都内のマンションを訪問して奥さんと息子さんと打ち合わせ。お土産に沖縄のお菓子を頂く。社会保険出版社の1階でゲラをキタジマの金子さんに渡す。金子さんの車で神田まで送って貰う。鎌倉河岸ビルの「跳人」でランチ。有楽町の「ふるさと回帰支援センター」に大谷さんを訪問。アイスコーヒーをもらう。高橋理事長に挨拶。第2次早大闘争のとき、8号館で山下洋輔トリオが演奏したライブのCD「DANCING古事記」を頂く。今日は何かものを貰う日だ。

4月某日
図書館で借りた「心が雨漏りする日には」(中島らも 青春出版社 2002年10月)を読む。アル中で睡眠薬中毒患者の日常を描いた「今夜、いつものバーで」は小説だが、「心が雨漏りする日には」はエッセー。「今夜…」が映画やテレビドラマとすれば「心が…」は実写版、ドキュメントである。「心が…」を読むと、中島らもの薬物やアルコールに対する依存度はかなり深刻だったことがうかがえる。しかし中島らもの小説やエッセー、舞台での活躍は半端ではない。早世が惜しまれる。
同じく図書館で借りた「ムーンライト・イン」(中島京子 KADOKAWA 2021年3月)を読む。「ムーンライト・イン」というペンションを経営していた中林虹太郎は同居していた妹の死をきっかけにペンションをたたむ。虹太郎は独身だが信金に勤めていた頃、美貌の人妻と恋に陥る。彼女は事故で車椅子を余儀なくされるが夫を亡くして虹太郎のもとに身を寄せることに。この二人に引き寄せられるように介護福祉士、日本とフィリピンのハーフのヘルパー、自転車で放浪する青年が「ムーンライト・イン」に棲みつく。一種のハウスシェアだが、血縁関係のない疑似家族ということができる。私はこの小説を読んで50年前の東大闘争のとき壁に残された「連帯を求めて、孤立を恐れず」という落書きを思い出した。人は本来、孤独ではあるが結びつくことを求める存在であるという意味において。

4月某日
社会保険旬報の4月1日号に前厚労省医務技監の鈴木康博さんの「新型コロナウイルスと今後の医療」という講演が紹介されていた。「あぁ成程ね」と読みながら思った。たとえばウイルスは人間や動物に寄生して生きていく。寄生した人間を殺さず、長生きさせて自分も長く生きる。その意味では今回のコロナも、2年になるか3年になるかわからないが、いずれ弱毒化して通常の季節性コロナ風邪になる、と言っている。また日本が感染者数や死者が少ない要因として、マスク着用の徹底、挨拶様式(これは多分、抱擁や握手などの濃厚接触が少ない様式のことだろう)、家の中では靴を脱ぐ、などを挙げていた。日本のコロナ対策は遅れているという印象だったが、鈴木さんの講演ではちょっと違うようだ。

4月某日
「地方から考える社会保障フォーラム」。千代田線大手町駅からすぐの日本生命丸の内ガーデンタワー3階へ。今回の講師は厚労省の認知症施策・地域介護推進課長、ワクチン産業協会理事長らだが、聴衆を最も魅了した講師は香取照幸(上智大学教授・未来研究所臥竜代表理事)だった。テーマは「持続可能な社会保障制度を考える」だったが、少子化対策について「最も重要なのは、『家庭的責任の公平な分担とそれを可能にする働き方改革』であり、その鍵は『企業の行動変容』であり、『経済システム改革』」とし、政府がやるべきことも多いが、産業界・個別企業、そして社会を支配している男性が果たすべき責任と役割は極めて大きい、と語っていたのが印象的であった。フォーラム終了後、大手町から一駅の神保町へ。社会保険出版社の高本社長を訪問。帰りは御茶ノ水から秋葉原、上野経由で我孫子へ。駅前の「しちりん」で一杯。

4月某日
図書館でたまたま手にした「大審問官スターリン」(亀山郁夫 岩波現代文庫 2019年9月)を読む。スターリンとは言うまでもなく世界で初めての社会主義革命をロシアで成功させたレーニンの後継者で、ソ連をアメリカと並ぶ強大国に育て上げたあの独裁者、スターリンである。本書はスターリンの評伝というのではない。評伝ならばもっと詳細に彼の生涯を描いたものがある筈だ。私はスターリンを中心にした、当時の革命家、政治家、陰謀家、芸術家の群像劇として本書を読んだ。スターリンは1924年にレーニンが死去して以降、1953年に死去するまで権力を独占し続けた。毛沢東は確かに中国においては現在でも神格化されているかも知れないが、文革以前は劉少奇や鄧小平らにより実質的な権力からは遠ざけられていた(それが文革による奪権闘争の始まり)。ヒットラーに至っては首相、総統であった期間は20年に満たないのではないか。キューバのカストロ首相は半世紀近く首相の座にあったと思うが、独裁者の暗いイメージはない。スターリンも死後のスターリン批判によって、大粛清の事実が明らかにされて初めてイメージ失墜に見舞われた。それまではソ連人民やソ連に忠誠を誓う人民にとっては「全民族の父」であった。
本書を読んで思ったのは、いわゆるスターリン主義とは何だったのかということである。スターリン本人は共産主義者、レーニン主義者と自己規定していたかも知れぬがスターリン主義者とは自称していなかったと思う。日本では革命的共産主義者同盟の革マル派と中核派が反スターリン主義を標榜している。官僚主義や一国社会主義、政治的には共産党独裁体制、経済体制として国家独占資本主義体制を言うのだろうか。北朝鮮の体制はスターリン主義体制だろうか。むしろ封建的な軍事独裁世襲国家体制と言った方がいいかも知れない。スターリンはトロツキーを恐れていたと思う。レーニンの戦友で革命戦争の輝かしい指導者。スターリンにはなかった名声と知性。スターリンはトロツキーを党から除名し国外追放し、さらに亡命先のメキシコで暗殺者に殺させる。暗殺者はメキシコの刑務所に20数年収監された後、ソ連に帰国した。トロツキーと同様、ロシア革命の指導者だったブハーリン、カーメネフ、ルイコフらは反革命の容疑で裁判にかけられ、死刑判決のあと銃殺される。結局、ロシア革命は失敗だったのではないだろうか。遅れた資本主義国としてのロシア帝国にはまずブルジョア民主主義革命が必要だった。メンシェヴィキや社会革命党の路線が正しかったのでは。ボルシェビキがもたらしたのは開発独裁の専制国家だったのではないか。

モリちゃんの酒中日記 3月その4

3月某日
「ひそやかな花園」(角田光代 講談社文庫 2014年2月)を読む。たまたま我孫子の本屋で目にした。新刊本でもないので平積みされていたわけではなく、講談社文庫の角田光代のコーナーに差し込まれていた。角田光代は割とよく読む作家なんだけれど、「紙の月」を去年読んで以来、「人生の深淵を描いているなぁ」と思うようになった。「ひそやかな花園」はAID(非配偶者間人工授精)によって産まれた7人の男女の物語だ。7人は母親同士が同じクリニックで不妊治療を受け、幼少期の数年間、夏休みの数日を同じ別荘で過ごしたという共通の記憶を持っている。AIDということは実の父親、つまり母親の卵子にたどり着いた精子の持ち主は母親の夫ではないことを意味している。角田光代はAIDを通して家族の絆とは何か、親子とは何か?もっと言うなら「人生の幸せとは何か?」を描きたかったように思う。7人は成長して歌手やイラストレーター、広告代理店勤務、親の会社の役員などになっている。しかしプロローグとエピローグは職を転々とし容姿も冴えない紗有美の視点から描かれている。結論を言っちゃうと冴えない紗有美が自己肯定へ転ずるのだ。自分の日常に幸福を見出すわけね。この結論に至るまでが何ともミステリアスで読ませる。

3月某日
1週間ぶりで東京へ。西新橋の社会保険福祉協会で「保健福祉活動支援事業」運営委員会に介護経営コンサルタントの堀口先生や小規模多機能など福祉事業の経営者の柴田先生と出席。素人の私が出席するのはおこがましいが、勉強になるので出席している。運営委員の任期は2年で今年3月末で切れるのだが、あと2年運営委員を委嘱されてしまった。少し勉強しないとね。

3月某日
「太平天国の乱―皇帝なき中国の挫折」(菊池秀明 岩波新書 2020年12月)を読む。太平天国の乱とは清末に起こったキリスト教を基盤とし洪秀全をリーダーとした内乱程度の知識しかなかったので今回、この本を読んでいろいろなことを知ることができた。太平天国の主張は、キリスト教という外来思想の影響を受けながらも、儒教の「貧しきを憂えず、等しからざるを憂う」という中国古来の伝統的価値観への回帰をめざすものだった。一種の原理主義で清末の世俗的な価値観とは相容れなかった。著者はこれを人民公社を設立して人々の画一的な生活を理想とした毛沢東時代と鄧小平の改革・開放路線の先取りではないかとしている。太平天国は清朝皇帝を否定する。太平天国で皇帝を名乗るのは上帝ヤハウエのみで洪秀全は真主とされ、救世主イエス・キリストの弟という位置づけだった。太平天国が発生したのは1850年、滅亡したのは1864年である。日本でいえばペリー来航(1853年)の少し前に発生し、禁門の変の年に滅亡した。アメリカの南北戦争が1861年から65年だから世界史的な激動のときだったのかも知れない。

3月某日
「小さいおうち」(中島京子 文春文庫 2012年12月)を読む。先日、テレビでこの小説を原作にした映画を放映していた。主人公の女中タキを倍賞千恵子、回想シーンの少女時代、戦前のタキを黒木華、若く美しい奥様を松たか子、奥様と許されぬ恋に落ちる青年、板倉を吉岡秀隆が演じていた。私たちは昭和20年8月15日の終戦までの日本を、特高警察が暗躍する暗い時代と想像しがちだ。むろん、共産主義を信奉する左翼にとってはそうかもしれないが、庶民とくに東京の山の手に暮らす、この小説に出てくる一家などにとってはそれなりに暮らしやすい時代だったのではないか、と思う。戦争も当初は真珠湾奇襲の成功や、シンガポール陥落など連戦連勝であった。それがミッドウェー海戦の敗北以降から日本軍の敗勢が明瞭になっていく。この物語でも奥様は夫と一緒に空襲で亡くなる。タキは戦後も女中を続けるが「小さいおうち」のような家庭に出会うことはなかった。この小説は戦時下の山の手の中流家庭と、戦争によるその暮らしの崩壊を描く。反戦小説としても読むことができる。

3月某日
社保研ティラーレで「地方から考える社会保障フォーラム」の会議。社会保険研究所の松澤、水野氏、社保研ティラーレの吉高会長、佐藤社長と私が参加。4月のフォーラムの参加者は低調、「泣く子とコロナ」には勝てない。次の会はオリンピック後。ポストコロナでの会の在り方を考えて行かなければならない。社保研ティラーレの後、虎ノ門のフェアネス法律事務所へ。

3月某日
図書館で借りた「今夜、すべてのバーで」(中島らも 講談社文庫 2020年12月)を読む。中島らもは1952年兵庫県尼崎市に生まれる。確か中学から灘に進学してる。高校から酒や薬物に親しんで灘高と言えば進学校だが、らもは大阪芸術大学に進む。2004年に転落事故で死んでいる。「今夜、すべてのバーで」の前に読んだのが中島京子の「小さいおうち」で、同じ中島姓だが二人は関係ない。しかし二つの小説には驚くべき共通点があった。それは「赤マント、青マント」のエピソードである。「小さいおうち」では、ぼっちゃんが学校で赤マント、青マントの話を聞いて眠れなくなるというエピソードが紹介されている。「今夜、」では、アル中で入院中の主人公がアル中の現実を受け入れるか、アルコールの海で入水自殺するかという不毛な選択に悩むとき、「赤マント、青マント」という「古くから全国スケールで、子供たちの間に連綿と継承されている」話を思い出す。たまたま続けて読んだ二冊の小説に「赤マント、青マント」という同じエピソードが紹介されていたわけだ。中島らももアル中で苦しんだらしいが、中島らもの分身とも言えるのが主人公の小島容。アル中治療のために入院し、医師や自分自身との葛藤を通して退院へ至る過程がリアルに描写される。アル中のリアルな描写はさすがに中島らもである。巻末に引用文献と参考文献が列記されている。リアルな描写には根拠があるのだ。

3月某日
13時過ぎに社保研ティラーレで吉高会長と佐藤社長に面談。15時に虎ノ門のフェアネス法律事務所。神山弓子さんに渡邊弁護士を紹介。夕方、大学の同級生の雨宮弁護士から携帯に電話。やはり大学の同級生だった清君が上京するので久しぶりに呑み会を予定。雨宮先生の事務所は西新橋なので「今、虎ノ門なのでこれから行きます」と電話する。雨宮先生の事務所で日本酒をご馳走になる。

モリちゃんの酒中日記 3月その3

3月某日
13時30分から監事をやっている一般社団法人の理事会があるので東京駅八重洲口へ。近くの中華料理屋で中華飯を食べて少し早いが会場へ。13時15分には全員が揃ったので開会、13時35分には全議事が終了したので閉会。社会保険出版社の入っているビルの1階で校正の香川さん、印刷会社の金子さんと待ち合わせていると、出版社の高本社長が通りかかったので挨拶。香川さんと金子さんが揃ったので出版社で校正紙を金子さんに渡す。私と香川さんは都営地下鉄の神保町駅へ。新宿方面に行く香川さんと別れ、私は内幸町へ。虎ノ門の日土地ビルで弁護士の渡邊さんと打ち合わせ。新橋あたりで一杯やろうと思ったが、千代田線の霞ヶ関駅から帰ることにする。松戸行きが来たので乗車、シルバーシートが空いていたので座って読書。松戸に着いたので快速取手行きに乗り換え。またシルバーシートに座る。
私は65歳以上(今年で73歳)でしかも障害者手帳を持っているので堂々と座ることにしている。我孫子駅に18時頃到着、「しちりん」で一杯やっていこうと思ったが、その気になれず自宅へ。

3月某日
図書館で借りた「U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面」(森達也 講談社現代新書 2020年12月)を読む。著者の森達也はもともとテレビのドキュメンタリー作家なんだけれど、オウム真理教信者のドキュメンタリー作品の制作過程でテレビ局や制作会社の意向に従うことができなくなり、結果的に自分でビデオカメラを回して作品を完成させた。映像作品だけでなく活字媒体でもオウム真理教信者の真実に迫っている。その「A3」には感銘を受けたことを覚えている。さて本書であるが書名にあるUは相模原市の津久井やまゆり園で、多数の重度心身障害者を殺傷した植松聖のことである。植松は一審で死刑判決を受け、上告をせずに死刑判決が確定している。本書は作家やジャーナリスト、精神医学者、植松を取材した新聞記者などを森がインタビューし、この事件の独自性と同時に普遍性をあぶりだしている。それだけでなく日本の司法制度の限界、あるいは間違った方向に進んでいるかに見える裁判院制度の問題点も指摘している。裁判員制度は裁判への市民参加の道を開いたという意味で私は賛成していたのだが、本書を読むとどうやらそうでもないらしい。裁判員となるのは多くは仕事を持つ人々である。何年も長期にわたる裁判には付き合いきれない。したがって裁判はスケジュール化され、裁判期間は短縮化される。裁判所に提出される精神鑑定書も以前は分厚いものだったが、現在は裁判員の負担を考えて薄いものになっているという。そもそも裁判とは何か、ということも本書は問うているように思う。証拠や証人調べにより有罪か無罪を確定し、有罪なら量刑を宣告する。しかし植松や麻原彰晃は死刑宣告ありきで、事件の真相究明がなされたとは言い難い。裁判の大きな役割には事件の真相究明とそれによる同種の事件の再発防止がある筈だ。本書のインタビューをベースとした構成は森達也のドキュメンタリー作家としての面目を遺憾なく発揮させているように思う。

3月某日
図書館で借りた「何が私をこうさせたか-獄中手記」(金子文子 岩波文庫 2017年12月)を読む。金子文子は明治36(1903)年横浜に生まれ、大正12(1923)年9月3日、関東大震災後に内縁の夫、朴烈とともに予防検束され10月には治安維持法違反で起訴されている。大正14年の夏ころから自伝(本書)の執筆をはじめ、翌年3月には朴烈、文子ともに死刑判決を受け、後に御社により無期懲役に減刑。文子は宇都宮刑務所栃木支所に移送され、7月23日に獄中で縊死している。文子は小学校、高等小学校は卒業しているが、家庭の事情から満足に通学していない。20歳で検挙され21歳で本書を執筆し22歳で自死。生き急ぎ死に急いだ22年間だった。獄中で執筆された本書は、貧しさや親戚に虐待された幼少期から朴烈に出会うまでが記されているのだが、不思議と悲哀の感情や悲壮感は感じられない。むしろユーモラスな場面さえ随所に出てくる。自分の境遇をバネにして社会の変革を決意したからなのだろうか。それならなぜ自殺なんかしたのだろう。金子文子は獄中で朴烈と結婚したことから遺骨は朴の家族に引き取られ、墓は韓国にある。

3月某日
「ファザーファッカー」(内田春菊 文春文庫 2018年11月新装版第1刷)を読む。内田春菊1959年長崎生まれの現在61歳。これは養父つまり母の二番目の夫に性的虐待というか強制性交を強いられる娘の話で、内田春菊の自伝的小説である。図書館でたまたま目にして借りたのだが、内田春菊って金子文子に似ていると思った。家庭の愛に恵まれずに育った、頭が良く学校の成績も良かったが、学歴は低い(金子文子は高等小学校卒、内田春菊は高校中退)。上京後、職を転々とする(文子は夕刊売り、女中、おでん屋の店員、春菊は写植屋、ホステス、ウエイトレスなど)といった共通点が多いのだ。既成の価値観にすがることなく自分の価値観を押し通すところなどもそっくりではないか?春菊が文子と同時代に生きていたらアナーキストになっていたかも知れないし、文子が現代に生まれたら漫画家になっていたかも知れない。

3月某日
家にあった「黄昏の橋」(高橋和巳 筑摩書房 1971年6月)を読む。2年ほど前に家の近所の喫茶店兼古書店で3冊200円くらいで買ったうちの1冊だ。高橋和巳は1971年5月3日に39歳で死んでいる。「黄昏の橋」は当時あった新左翼系の総合誌「現代の眼」の68年10月号~70年2月号に断続的に連載された。高橋の死によって未完とされている。主人公の時枝はK大卒の博物館学芸員。高校の歴史教師などを経て現在の職にありついた。職場近くに下宿し、酒飲みで仕事にも熱意を持てない。高橋は1967年6月に京大文学部助教授に就任するが、大学闘争で全共闘側を支持、69年3月に辞職する。時枝は親の見舞いに伊丹空港に向かう途中、学生のデモ隊と機動隊が激しくぶつかる現場に遭遇し、学生が機動隊に追われ橋から墜落して死亡するシーンも目撃する。救援組織から時枝に証言が求められるところで小説は未完のまま終わる。時枝は高橋から小説家と思想家の部分を除いた分身である。酒飲みで気のいい奴ではなかったんじゃないかなー、高橋は。

3月某日
「大逆事件-死と生の群像」(田中伸尚 岩波現代文庫 2018年2月)を読む。2月に伊藤野枝の評伝小説「風よあらしよ」(村山由佳)を読んで以来、明治大正期のアナーキストの評伝やドキュメントを読んできたがどれも面白かった。当時のアナーキストの反抗心や自由さに共感したのだと思う。明治政府はその反抗心や自由さを、体制を覆そうとしているととらえ、幸徳秋水ら26人を起訴、12人を絞首台に送った。本書は死刑になった12人の実像や遺族のその後を追ったばかりでなく、無期懲役に減刑された人たちの出獄後の人生を追ったドキュメントである。大逆事件といっても幸徳秋水や菅野須賀子については扱った小説も少なくないが、残りの人たちの情報に接することは少ない。本書を読んで事件以降、起訴された人の家族は世をはばかってひっそりと生きてきたことが分かる。菅野須賀子や宮下太吉は実際に明治天皇の暗殺を企て爆弾も用意したと思われるが、その計画自体かなり杜撰なものだった。まして、その他の人々については明治政府によって大逆罪に陥れられたのだ。死刑後、社会主義者の堺利彦は刑死者の家族を慰めに行脚したこと、さらに徳富蘆花が一高で「謀反論」という講演を行い、幸徳らを擁護したことなどが明らかにされている。死刑を宣告された後、無期に減刑されたもののうち、坂本清馬は釈放されたのち戦後、再審活動を本格的に始めた。最高裁は1967年7月に再審請求の特別抗告の棄却を決定する。戦前の司法が軍部や時の政権に迎合した反省が感じられない、と田中は憤慨する。私も思う。新型コロナに対する性具の対応、総務省の接待疑惑に対する菅首相の対応、モリカケ、桜を見る会の疑惑に対する安倍首相の対応、日本は本当に民主主義国家なの?

モリちゃんの酒中日記 3月その2

3月某日
図書館で借りた瀬戸内寂聴の「遠い声 菅野須賀子」(岩波現代文庫 2020年7月)を読む。実はこの本、昨年の9月に読んでいるんだよね。「酒中日記」の昨年9月分に感想が記されている。でも内容はほとんど覚えていない。赤瀬川源平がいうところの老人力がついてきた証拠かな。解説はアナキズム研究家の栗原康でこれがなかなかいい。2月に村山由佳の伊藤野枝の評伝小説「風よあらしよ」を読んで以来、主に瀬戸内寂聴の伊藤野枝、金子文子、朴烈らの大正期のアナキストの評伝小説を読んできた。彼らは殺されたり(伊藤野枝、大杉栄)、自殺したり(金子文子)するのだが、菅野須賀子は刑死である。市ヶ谷監獄の断頭台で処刑された。この小説は全編、菅野須賀子の独白、それも処刑前日と処刑当日の独白で綴られている。菅野須賀子は最初、荒畑寒村と結婚する。寒村との結婚前にも何人かの男と恋愛し性交渉もあった。寒村が獄中にあるとき幸徳秋水と同棲するが、寒村は出獄後ピストルを懐に二人を付け狙ったという。菅野須賀子には性に奔放、淫乱、毒婦というイメージが付きまとうことになるのだが、瀬戸内寂聴はそんなイメージに惑わされることなく、天皇制や封建制に抗った一人の女性として菅野須賀子を描いている。伊藤野枝、金子文子、菅野須賀子の三人に共通しているのは、自分自身に対する正直さかな。

3月某日 
図書館で借りた「女たちのテロル」(ブレイディみかこ 岩波書店 2019年5月)を読む。この本は前にも読んだ記憶はあるが、例によって内容はさっぱり覚えていない。本扉の次のページに「百年前の彼女たちから、百年後を生きるあなたへ」という言葉が刻まれている。この本は百年前に生きた日本のアナキスト、金子文子と英国のサフラジット(女性参政権運動家)のエミリー・デイヴィソン、アイルランドの独立運動を戦い女性の狙撃兵としても優秀だったマーガレット・スキニダーの短い物語である。金子文子の評伝小説の「余白の春」(瀬戸内寂聴)を読んだばかりだが、こちらの金子文子像はより実録っぽい。彼女たちに共通するのは、世の中を変えるという目的のためには暴力やテロルも辞さないということである。現代の日本では暴力はとかく否定されがちである。私などの学生時代は、全共闘の学生たちはマスコミや日本共産党・民青から暴力学生と呼ばれていた。ヘルメットとゲバ棒で「武装」し、投石を繰り返す学生たちを暴力学生と彼らは呼んだ。たぶんこの言葉には学生の本分たる勉学を放棄したものへの蔑視も含まれている。実際、早稲田の全共闘運動の最盛期だった1969年頃、文学部の社青同解放派の活動家が「お前ら、勉強なんかしたくないだろ。だからストやるんだよ」とアジテーションしているのを目撃している。私たちは「異議ナーシ」と答えたものである。そうか50年前の全共闘の源流は100年前の金子文子にあるんだ。

3月某日
東日本大震災から10年。あのとき私は八丁堀の地下鉄の駅に入る直前だった。もちろん地下鉄は動かず、八丁堀から東京駅の八重洲口を通って丸の内口へ。そして内神田の年友企画へ帰った。歩いて帰ることのできる社員は帰し、私は校正のナベさんと神田駅西口の焼き鳥屋で呑むことにした。この店はビルの5階にあり窓から神田駅のホームを見渡せた。電車が動くようになれば直ぐ分かるのだ。ところが電車は一向に動き出さず、私はナベさんと湯島のスナック「マルル」まで歩くことにする。マルルのシャッターは降りたままなので、地下のスナックに入る。中年のママが「今日は女の子が出てこれないのよ、それでもいい?」という。「もちろん」と10時近くまで呑む。10時なるとオープンするスナックが根津の「ふらここ」。ここで朝まで時間をつぶす。朝になっても電車は動かない。ナベさんと上野まで歩き、ナベさんと別れ私は南千住行きのバスに乗る。南千住から動き出した日比谷線で北千住へ。北千住から綾瀬、亀有当たりまで歩いたところで千代田線が動き出した。我孫子駅に着いたのは15時くらいだったろうか。気持ちが高揚しているせいかほとんど疲れを感じなかった。

3月某日
家にあった「思い出袋」(鶴見俊輔 岩波新書 2010年3月)を読む。この本は2010年3月に私が脳出血で倒れ、船橋市立リハビリテーション病院に入院していたとき友人の西村美智代さんが差し入れてくれたものだ。なんとなく読みそびれて10年以上たってしまった。岩波書店のPR誌「図書」に2003年から2009年に連載された「一月一話」を新書にまとめたものだ。新書出版当時87歳だった鶴見が不良少年だった幼少期、ハーバード大学への留学時代、日米捕虜交換船で帰国し海軍軍属として経験したインドネシアのことなどがアトランダムに綴られている。「学校という階梯」という項目では金子ふみ子のことがとりあげられている。アナキストで皇太子暗殺未遂の容疑で死刑を宣告され、恩赦で無期懲役に減刑されたにもかかわらず、刑務所で縊死した金子文子である。通常は文子と表記するが鶴見はふみ子と表記しているので、ここでは鶴見の表記に従う。金子ふみ子は22歳で自死するが小学校も満足に通えず、家庭は貧困で父は外に女を作って出奔、母は男を家に誘う。しかしふみ子は単身上京し働きながら夜学で学ぶ。私は今、金子文子の獄中手記「何が私をこうさせたか」(岩波文庫)を読んでいるが文章の構成などたいしたものである。パソコンもワープロもない時代、難しい漢語や漢字も易々と使っている。もっとも獄中手記では満足に通えなかった小学校でも彼女の成績は群を抜いていたそうである。

3月某日
我孫子市民図書館の蔵書を「大逆事件」をキーワードに検索していたら「針文字書簡と大逆事件~事件が文学に与えた影響」(我孫子市教育委員会 我孫子市文化財報告第3集 2010)がヒットした。早速リクエストする。A4判で24ページのパンフレットだ。明治、大正、昭和を通じて活躍したジャーナリスト、杉村楚人冠は我孫子に在住し自宅は杉村楚人冠邸として公開されている。楚人冠邸で発見されたのが菅野須賀子から楚人冠に出された書簡である。針で書かれたような筆跡で「爆弾事件ニテ私外三名近日死刑ノ宣告ヲ受クベシ御精探ヲ乞ウ 尚幸徳ノ為メニ弁ゴ士ノ御世話切ニ願フ  六月九日 彼ハ何ニモ知ラヌノデス」と書かれた書簡で、封筒には同じく針文字で「京橋区滝山町 朝日新聞社 杉村縦横様 菅野須賀子」とあった。この書簡は明治43(1910)年6月11日に牛込から統監されている。杉村縦横とは楚人冠の別号で幸徳秋水、菅野須賀子と楚人冠は事件以前から交流があった。このパンフレットでは書簡が須賀子の手によるものと断定はしていない。が私はホンモノと思いたい。書簡の最後の「彼ハ何ニモ知ラヌノデス」の一文に、幸徳を救おうとする須賀子の一念がうかがえるではないか。

モリちゃんの酒中日記 3月その1

3月某日
今日から3月。暖かいので散歩。家の前の「手賀沼ふれあいライン」と称するバス通りを渡って、そのまま成田街道に出る。成田街道を左折して横断歩道を渡って我孫子駅へ。我孫子駅構内を通って北口へ。構内のキオスクがスシローに代わっていた。北口のショッピングプラザ3階の書店に寄る。ちくま文庫の「はたらかないで、たらふく食べたい」(栗原康)を購入。我孫子駅南口でレストラン「こびあん」によってランチ。「生姜焼き定食」を食べる。

3月某日
「はたらかないで、たらふく食べたい 増補版」(栗原康 ちくま文庫 2021年2月)を読む。本書は2015年4月にタバブックスから刊行された単行本に未収録原稿などを加えたから増補版というわけだ。著者は1979年生まれ、早稲田大学政治経済学部を卒業後、同大学の政治学研究の博士課程を修了した。だけど定職につかず親のもとで暮らしている。結婚を決めた彼女に振られる話は本書の「豚小屋に火を放て」に詳しい。「文庫版あとがき」によると栗原先生の現在の年収は200万円、この本を書き始めた頃の、「およそ20倍だ」。栗原先生独特の踊るような文体のカゲで実は、現在の資本制社会に根本的な批判を行っていることを見逃してはならないと思う。船本洲治って人について書かれた「だまってトイレをつまらせろ」では、山谷、釜ヶ崎での暴動を「秩序紊乱だ。たのしすぎる」と肯定的に評価する。栗原先生は著者略歴では「アナキズム研究家」となっているし、読み込んでいる文献はアナキズム関係に止まらず「老子」「荘子」「本居宣長」などにまで及んでいる。相当な勉強家であることは確かである。しかし先生は大杉栄がそうだったように、すぐれた実践家だと思う。書斎におさまりきらないのである。

3月某日
「余白の春 金子文子」(瀬戸内寂聴 岩波現代文庫 2019年2月)を読む。初出は「婦人公論」1971年1月号~72年3月号に連載された。大杉栄とともに虐殺された伊藤野枝を主人公にした評伝小説「風よあらしよ」(村山由佳)から読み始めた大正期のアナキストの評伝小説も、これで5作目。金子文子は伊藤野枝とほぼ同時代に生きた。伊藤野枝が虐殺されたときと同じ頃に大正天皇と皇太子(後の昭和天皇)の暗殺を企てた容疑で逮捕され、大逆罪で死刑判決を受けた後、無期懲役に減刑される。宇都宮刑務所栃木支所に収監されたが、独房で縊死。金子文子は山梨の貧しい家に生まれた。肉親の愛には恵まれなかったようで10代の頃朝鮮の祖母と叔母に引き取られるが虐待に近い扱いを受け、日本に逃げ戻る。親類を頼って上京、働きながら正則学園と研数学館に通う。社会主義者が通うおでん屋に勤めていたときに朝鮮人の朴烈と知りあい同棲する。朴烈は朝鮮独立を志すのだが思想的にはニヒリストだ。金子文子も思想的に朴烈と同化していく。アナキストとニヒリストは同じような思想ととられがちだが、違うようだ。アナキストは無政府共産主義社会の実現を目指すが、ニヒリストは国家や社会そのものの否定を目指す。金子文子は朴烈との刑死を望むが減刑によりその望みは叶えられなくなる。その絶望感が縊死を選ばせたのか。瀬戸内寂聴が金子文子の韓国の墓を訪ねる場面が描かれているが、これが何とも美しくも悲しい。

3月某日
阿部正俊さんの本の校正紙の受け渡しを社会保険出版社の1階で、キタジマの金子さんから校正者の香川さんへ。その後、香川さんとニコライ堂を観に行く。コロナで一般公開は中止で中には入れなかった。聖橋を渡って湯島の聖堂の脇を通って神田明神へ。お参りした後、急な階段(男坂)を下る。以前、よく利用した章太亭の前を通って大きな通りへ出る。2時過ぎだがイタリア料理店が空いていたので入る。香川さんが「今日はご馳走しますよ」と言ってくれたので遠慮なくご馳走になる。食べ終わって私は千代田線の湯島駅へ、香川さんは秋葉原へ。

3月某日
私の故郷室蘭を舞台にした映画「モルエラニの霧のなか」を観に行ったとき、一緒に行った山本良則君が貸してくれた「猛スピードで母は」(長嶋有 文藝春秋 2002年1月)を読む。表題作と「サイドカーに犬」の2編の中編小説が収められている。表題作の舞台は北海道の南岸沿いの小都市M市。もちろん室蘭である。離婚した母と団地に二人暮らしする慎の物語である。ウイキペディアで調べると長嶋は幼い頃両親の離婚で室蘭に引っ越し。港南中学、清水が丘高校をへて東洋大学2部に進学。サラリーマン生活を経て作家になった。なんか面白そうなのでもう少し読んでみようかな。

3月某日
鎌倉河岸ビルの地下1階「跳人」でランチ。お店の大谷君が「サッパリですよ」とさえない表情で嘆く。「そのうちコロナも収まるよ」と根拠のない激励をする。「社保研ティラーレ」によって吉高会長と雑談。神田からお茶の水経由で社会保険出版社へ。高本社長と近藤役員に故阿部正俊さんの「真の成熟社会求めて」出版のお願いをする。お茶の水から秋葉原、上野経由で我孫子へ。

モリちゃんの酒中日記 2月その4

2月某日
室蘭の小学校、中学校、高校で一緒だった山本良則君と岩波ホールで待ち合わせ。「モルエラニの霧の中」という映画を観るためだ。坪川拓史という室蘭市在住の監督が撮ったこの映画の舞台はもちろん室蘭である。モルエラニとはアイヌの言葉で「小さな坂道をおりた所」という意味で室蘭の語源の一つと言われているそうだ。上映時間3時間を超える長編だが、「冬の章」「春の章」「夏の章」「晩夏の章」「秋の章」「晩秋の章」「初冬の章」の7話で構成されており、長さは苦にならなかった。ただ映画の舞台となったのはかつての室蘭の中心地だった絵鞆半島で、私や山本君が少年時代を過ごした水元町や知利別町はまったく登場しない。水元町や知利別町は室蘭岳の麓に位置し、どちらかというと山の入り口。対して絵鞆半島は噴火湾(内浦湾)に突き出た海の街でモルエラニの言葉通り、坂の多い街だ。室蘭というタイトルを避けてモルエラニという言葉を使ったのは、抽象的な海の街での物語としたかったためではなかろうか。画面がとても美しく、私はこの映画を気に入りました。私が生まれ育ったのは水元町の公務員宿舎なのだが、父親の退職後、家を建てたのは絵鞆半島の突端でこの映画にも出てくる白鳥大橋のすぐ近くだった。私は高台の上に建ち海からの風がビュービュー騒ぐこの家が割と好きだったのだが、父も母も亡くなり家を継いだ弟はこの家を売却して新しくコンパクトな家を建てたそうだ。

2月某日
社会保険出版社で阿部正俊さんの遺稿集のゲラの受け渡し。校正者の香川さんからキタジマの金子さんへ。その後、香川さんと神保町の古書店街へ。久しぶりに建築専門書店の南陽道をのぞく。ランチに香草の香り高い蘭州拉麺を頂く。香川さんと別れ私は新御茶ノ水から千代田線で我孫子へ。駅前の「しちりん」でホッピー。

2月某日
「諧調は偽りなり-伊藤野枝と大杉栄」(上下)(瀬戸内寂聴 岩波現代文庫 2017年12月)を読む。伊藤野枝の生涯を描いた小説だが、同じ作者の「美は乱調にあり」が葉山の日蔭茶屋で大杉栄が神近市子に刺されるまでを描いているのに対して、こちらは日蔭茶屋以降、甘粕正彦らに虐殺されるまでを描いている。「美は乱調にあり」が月刊文藝春秋に連載されたのが1865年、「諧調は偽りなり」は同誌の1981年3月号~83年8月号に連載されている。15年ほどの期間があるが、甘粕正彦像を確定させるのにそれだけの時間がかかったということも一因という。大杉と野枝、さらに満6歳の甥の橘宗一を虐殺したことにより甘粕は懲役10年の判決を言い渡されるが、2年10カ月務めただけで出所している。出所後、満洲に渡った甘粕は満洲映画(満映)の理事長として満洲の政財界で重きをなした。日本の敗戦時に甘粕は青酸カリで服毒自殺を遂げているが、満洲時代の甘粕は人の面倒見がよかったという。これがのちの甘粕善人説に繋がっているようだ。瀬戸内寂聴は甘粕善人説も紹介しながら、甘粕の本質が虐殺者であり弾圧者であることをきちんと描いている。ちなみに大杉らの虐殺に対する報復として、和田久太郎、村木源次郎、古田大次郎らが関東大震災時の戒厳司令長官だった福田雅太郎大将暗殺未遂事件を起こしている。村木は逮捕後獄死、古田は判決後わずか1カ月で死刑が執行され、終身刑の和田は昭和3年2月、秋田刑務所で縊死した。甘粕は3人殺して3年足らずで出獄、和田ら3人は未遂でも刑死、獄死、獄中での自死である。この不公平さにはやりきれないものを感じてしまう。

モリちゃんの酒中日記 2月その3

2月某日
昨日、汐留の高層ビルの本屋で買った「JR品川駅高輪口」(柳美里 2021年2月新装版初版)を読む。巻末に「本書は2012年10月に単行本『自殺の国』、2016年11月に河出文庫『待ち合わせ』として弊社より刊行されました」とある。同じ著者の「JR上野駅公園口」が昨年11月に全米図書賞を受賞したことから、それにあやかって改題したのかと思っていたが、著者の「新装版あとがき 一つの見晴らしとして」を読むと違う構図が見えてくる。もともと著者は「JR上野公園口」などの連作を「山手線シリーズ」として構想していたが、担当編集者の独立した一つの作品として読まれたほうがいいのでは、という助言を入れて駅名をタイトルとすることは断念した。しかし「JR上野駅公園口」の受賞を機会に当初の構想通り駅名をタイトルとしたということだ。「JR上野駅公園口」は常磐線の起点となる上野と福島浜通り相馬に生まれた出稼ぎ労働者の悲劇的な交錯を描いた秀作だった。一方、「JR品川駅高輪口」は高輪口に近い住宅地に住む女子高校生が主人公。生活も意識も出稼ぎ労働者とは全く異なる。しかし二人はともに家族や共同体、社会から孤立していくということで通底しているのだ。孤絶とそれからの回復は、東日本大震災後、被災地の南相馬に移住して本屋を営む柳美里のテーマなのだろう。

2月某日
「金融政策に未来はあるか」(岩村充 岩波新書 2018年6月)を読む。先週「ドキュメント日銀漂流」を読んだ流れである。現代の金融は私にとって複雑怪奇、本書も日本語で書かれているから読むことはできても解することは難しい。例えば自然利子率。著者によれば現在時点における未来への期待ということなる。未来への期待が大きければ金利は上昇し、未来への期待が小さければ、あるいは不安が大きければ金利は下降するということであろう。日本も含めて先進国は超低金利、ゼロまたはマイナス金利である。私たちが未来に期待を持てない結果だとすればその通りなのだが。岩村充は東大経済学部卒、日銀を経て現在、早稲田大学教授である。この本一冊しか読んではいないがなかなかの理論家である。

2月某日
社会保険出版社の入居しているビルの1階ロビーで香川喜久恵さんと待ち合わせ。印刷会社キタジマの金子さんから再校正紙を受け取るためだ。時間通りに金子さんが来る。再校正紙を受け取り私と香川さんは、白山通りをJR水道橋駅方面へ。途中の北京亭で遅い昼食。この店はBSの「町中華で飲ろうぜ」で紹介されていた店だ。私はカレー、香川さんはタンメンを注文。野菜がたくさん入った具だくさんのカレーだったが、私には量が多い。ここら辺は日大経済学部、明治、専修、東京歯科大などの大学や大原簿記などの専門学校も多い。学生の街だからメシの量も多くなるのだろう。水道橋で新宿方面に行く香川さんと別れ私は神田の社保研ティラーレへ。打ち合わせ後我孫子へ、駅前の「しちりん」で軽く一杯。

2月某日
「MMT-現代貨幣理論とは何か」(井上智洋 講談社選書メチエ 2019年12月)を読む。MMTとはModern Monetary Theoryのことで「自国通貨を持つ国は財政破綻することはない」という主張である。この本の出版は2019年の12月であり、コロナ以前である。しかしコロナ以降、日本経済は需要不足に陥り政府は国債の大量発行により資金を調達し、数次にわたる経済、コロナ対策を実施している。昨年実施された国民一人当たり10万円の給付などはヘリコプターマネーそのもののように私には思える。現実の方が理論を追い越したのである。もっとも1920年代の世界大恐慌のおり、アメリカはフーバー大統領のもと大規模な公共事業を実施して恐慌に対峙した。ケインズ主義的な政策を実施したわけだが、当時のアメリカ政府内にケインズ理論の信奉者はいなかったそうだ。私たちは国の借金(国債)と個人の借金(住宅ローンなど)を同じような感覚で捕らえがちであるが、個人の寿命は有限であるのに対して国の寿命は無限である。個人の借金は死ぬ前に始末をつけなければ、借金の貸し手や残された家族に迷惑をかけるが、寿命が無限である(かのように感じられる)国家の場合はそうでもないということになる。

2月某日
「村に火をつけ、白痴になれ-伊藤野枝伝」(栗原康 岩波現代文庫 2020年1月)を読む。村山由佳の「風よあらしよ」を読んで以来、「美は乱調にあり-大杉栄と伊藤野枝」(瀬戸内寂聴)に続く伊藤野枝シリーズだ。「風よあらしよ」も「美は乱調にあり」も伊藤野枝の恋愛や運動との関りに焦点を当てているがこれは小説だから当然であろう。一方、栗原の「村に火をつけ、白痴になれ」は評伝だから彼女の思想にも筆が及ぶ。物騒な「村に火をつけ、白痴になれ」というタイトルは伊藤の小説「白痴の母」と「火つけ彦七」から取られている。障害の子を持つ母が首吊り自殺してしまうのが「白痴の母」、被差別部落出身の彦七が村に火をつけて回り村人にとっつかまるのが「火つけ彦七」である。どちらも救いがない。現代日本で無政府主義はほとんど力を持たないと言っていいかも知れない。だが伊藤野枝や大杉栄が生きた明治末から大正時代はそうでもなかったようだ。大逆事件で死刑になった幸徳秋水は無政府主義者だったし、大杉は幸徳の子分だった。大杉は1917年のロシア革命にもボルシェビキに対して批判的だったらしい。本書には野枝の「いわゆる『文化』の恩沢を充分に受けることのできない地方に、私は、権力も、支配も、命令もない、ただ人々の必要とする相互扶助の精神と、真の自由合意による社会生活を見た」という文章が紹介されている。野枝は辻潤との間に2人、大杉栄の間に5人の子どもをなしているが、大杉の間の子どもは故郷の福岡県今宿村(現福岡市西区)で産んでいる。よほど居心地が良かったのであろう。彼女のアナーキズムの原点には今宿村での暮らしがあったのかも知れない。 

モリちゃんの酒中日記 2月その2

2月某日
「ドキュメント日銀漂流-試練と苦悩の四半世紀」(西野智彦 岩波書店 2020年11月)を読む。1996年の松下総裁から現在の黒田東彦総裁までの日本銀行の歩みをドキュメント形式で追ったもの。こう書いてしまうと簡単だが、実は内容はそれほど簡単ではない。私はこの本を読んで複雑極まりないグローバル経済のなかでの中央銀行の役割とは何かを考えさせられた。まぁ一般的には物価の番人とか自国通貨の価値を守る使命があるとか言われているけれど、それはそれとしてこの本が追求しているのが、中央銀行の「政府からの独立」である。黒田総裁以降、日銀は政府の要請に従って赤字国債を増発し続けてきた。これによって円安株高市場が続き雇用も高い水準で維持されてきた。外見的にはアベノミクスは成功したかに見える。「2年で2%」の物価上昇を除いては。私の拙い経済学の知識によると、経済成長は労働力人口の伸びと生産性の伸びによって実現される。日本の労働力人口はすでに減少が始まっている。生産性の伸びは先進国の中でも低い方である。何を言いたいかというと金融だけでは一国の経済を維持することはできない、ということである。しかし金融の安定なくして経済の安定もないというのも事実である。この本は専門用語も多く、私にとって読みやすい本ではなかった。しかし知的興味を十分に刺激された本であった。

2月某日
森元首相が東京オリンピック組織委員会会長を辞任した。女性蔑視発言の責任を取ったもの。森首相って小渕恵三の後だっけ。森、小泉、安倍、福田と旧福田派の政権たらいまわしが続き、麻生短命政権の後を受けて民主党内閣が成立。沖縄問題や東日本大震災への対応のまずさあって、民主党政権は鳩山、菅、野田といずれも短命に終わり、第2次安倍政権が8年近くも長期政権を維持した。自民党は大きく分けるとリベラル派としての宏池会(旧池田派)、田中派と反リベラルで国家主義的な旧岸(福田)派に分けることができると思う。森元首相や安倍前首相はもちろん後者。そのなかでも森元首相は古い自民党を代表する人。リベラル派が保守本流の筈なんだけれど、この10年ほどで急速に力を失ってしまったと思う。

2月某日
「業平」(高樹のぶ子 日本経済新聞出版本部 2020年5月)を読む。「小説伊勢物語」という副タイトルがあるから、平安時代の「伊勢物語」に着想を得たものと思われるが、私の古典の知識では在原業平を主人公にした物語しか思い浮かばない。日本経済新聞の夕刊に連載されたもので、その折の挿絵(大野俊明画伯)の一部も本書にカラーで収録されている。さて何の知識もなく読み始めた「業平」であるが、私には大変面白かった。在原業平という人は平城天皇の息子である阿保親王と桓武天皇の孫である伊都内親王の間に生まれた。皇統の血筋なんですね。しかし世は藤原氏が権力を握り始めた頃で業平は権力の主流を歩むことはなかった。とは言え右近衛権中将まで昇進しているから、それなりの出世はしている。業平は官人としては武官の道を歩んだ。和歌の名手で色好みということからすると文弱のイメージがあるが、弓や乗馬も巧みだったようだ。伊勢物語は歌物語であると同時に当時の宮中の恋物語でもある。業平は後に天皇の妻となる人や皇族で伊勢神宮の斎宮を務める女性とも「共寝」する関係を結ぶ。「共寝」って要するに性交渉があったということ。業平がいた頃の9世紀の恋愛観や結婚観は、現在とは違っていることに注意が必要だろう。この頃は男が女のもとに通う妻問い婚だった。当時の貴族は寝殿造りという広壮な邸宅に住んでいたから、家のものに気が付かれずそうしたことも可能だったのだろう。むしろ家人は気付いても知らぬふりをしていたか。日本人が一夫一婦制や処女性を重要視するようになったのは明治以降、キリスト教が解禁されてからと言われているしね。昔の日本人は性に対して今よりもおおらかだったのだろう。

2月某日
阿部正俊さんの本の表紙デザインを斎須デザイナーにお願いする。家を出たときから結構な雨が降っていた。紹介してくれる浜尾さんと斎須さんのオフィスのある銀座1丁目の奥野ビル1Fで待ち合わせ。ビルに一歩入ってびっくり。戦前からの建物と一目で実感されるような内装なのだ。浜尾さんと一緒にエレベーターに乗るが、このエレベーターが全手動。素晴らしい。斎須さんのオフィスで打ち合わせ。奥野ビルは銀座アパートメントと言って当時の最先端集合住宅だったそうだ。関東大震災後、同潤会アパートが何棟か建設されたが銀座アパートメントはその民間版なのだろう。斎須さんとの打ち合わせがある浜尾さんを残して私は帰る。帰りは6階から階段で降りた。コンクリートの階段と重厚感のある手すりが素敵であった。銀座線の京橋から新橋へ。共同通信の城さんとカレッタ汐留の本屋で待ち合わせ。この本屋も近く閉店するとのこと。城さんにランチをご馳走になりながら、いろいろな話を伺う。新橋から我孫子へ。我孫子へ帰った頃には雨が上がっていた。

2月某日
「美は乱調にあり-伊藤野枝と大杉栄」(瀬戸内寂聴 岩波現代文庫 2017年1月)を読む。伊藤野枝の生涯を描いた「風よあらしよ」(村山由佳)を読んで野枝という人物に興味を抱いた。で、この小説を読むことにしたわけ。タイトルは大杉の「美はただ乱調にある。諧調は偽りである」という言葉から取られている。「美は乱調にあり」の初出は、「文藝春秋」の1965年4月号~12月号まで連載された。今から半世紀以上も前のことである。小説は「私=瀬戸内寂聴」が野枝の生まれた福岡へ取材旅行に行くシーンから始まる。野枝と大杉が虐殺されたのは関東大震災のあった1923年。執筆当時は野枝の関係者はまだ存命だった。伊藤野枝の二つ下の妹、当時68歳のツタさんの独白が興味深い。もちろん小説であるから、独白をそのまま真実とするのは過ちとしても。野枝は辻潤、大杉と結婚して10年間に7人の子を得ているが、出産のときはいずれも野枝の博多今宿の実家に帰っている。身なりをかまわない野枝に、母親が村のみんなが見ているのだから「髪くらい結ってきたらどうだ」というと「今に、女の髪は、あたしがやっているような形になるのよ。みてなさい」と答えたという。ツタさんは「今になってみれば、たしかに姉の予言通りになりましたからね」と述懐している。野枝には確かに未来を見通す不思議な力が備わっていたのかも知れない。生前、「畳の上では死ねそうもない」と話していてその通りになったしね。

モリちゃんの酒中日記 2月その1

2月某日
我孫子市民図書館でコロナ感染者が出た、ということで図書館は「当分の間、閉鎖」。で自宅にある未読の本を読むことにする。手に取ったのは「戦後入門 加藤典洋 ちくま新書 2015年10月」。この本は家の近くの香取神社で開かれる朝市の古本屋コーナーで入手した。定価は1500円だが、500円くらいで買ったと思う。2年ほど前に買ったのだが新書版で600ページというボリュームから手を出せないでいた。図書館が休館なので挑戦することにする。加藤は「はじめに―戦後が剝げかかってきた」で「先の戦争でこてんぱんに負けた日本は、面白い。私は、この国には世界に平和構築を呼びかける大きな可能性が秘められていると思っています」と述べている。この加藤の想いが強く表れていると思われるのが「第三部原子爆弾と戦後の起源」である。加藤はまず米国における原子爆弾開発の経緯をたどり、次いで原子爆弾の広島と長崎への投下と、その想像を絶する被害に対する米国内および連合国内の反響を記す。これが私には面白かった。私の拙い知識においては日本に対する原爆投下は、日本の敗戦を速め米軍兵士のそれ以上の損傷を防ぐうえでやむを得ないものだった、あるいは真珠湾攻撃に対する報復として、原爆投下はむしろ歓迎すべきだというのが米国世論の大勢であろうというものであった。
しかし加藤によると原爆投下後に、原爆を開発した科学者、世論をリードしてきたジャーナリスト、哲学者、宗教者たちにやってきた感情は「言葉にならない動揺と、虚脱、深い懐疑」だったという。加藤はそれを彼らが残した膨大な回想録や記事、日記などから論証してゆく。原爆投下直後あるいは戦争終結直後から、米国のプロテスタントやカトリックの宗教界から原爆投下に対する批判と懐疑が表明された。米国の代表的な神学者はプロテスタント系の雑誌に「我が国のより冷静で思慮深い階層にとっては、日本に対する勝利は奇妙な胸騒ぎと不満を残すものだった。…我々は日本が我々に対して使用したものよりも恐ろしい武器を彼らに使ったのだ」と書き残している。保守派雑誌の編集長も「歴史上もっとも破壊的な兵器」を老若男女に「無差別に使用」したと記している。「なぜ日本に事前の警告を行わなかったのか。降伏の意志を表明している日本に降伏のチャンスを与えなかったのか」-こうした批判は執拗に続けられた、と加藤は述べる。これらの批判に対して米国政府とその支持者は猛然と反論を開始する。こうした批判が一掃されなければ今後、米国が国際社会のなかで原子力推進の牽引車となることは困難になるからだ。
現代史は現代史だからこそ「思い込み」によって「作られてしまう」可能性がある。コロナもそう。私たちは限られた情報の中であっても、主体的に判断していかなければならない。

2月某日
加藤典洋の「戦後入門」を読み進める。日本は1945年8月、米軍を中心とした連合軍に敗北し第二次世界大戦は終了する。結果、我々は占領軍が起草した平和憲法を手に入れる。そして朝鮮戦争が勃発し、日本は米軍の巨大な後方基地となる一方で米国の対日政策は大きく変化し、米国の要請により日本は再軍備に踏み切る。しかしときの吉田茂政権はあくまでも軽武装にとどめ、経済成長を優先させる。吉田の想いはその後の自民党政権に受け継がれ、日本は高度経済成長を遂げ、国民の生活と社会保障の水準も向上した。池田・佐藤政権は吉田の意図を引き継ぎ、「経済的アプローチによる政治的課題の代替的達成、つまり経済大国化によってナショナリズムの発露をめざすという新路線の確立」に成功する。加藤は池田と佐藤の路線を継承する宏池会、および田中派の経済、外交政策についてはおおむね認める。宏池会、田中派以外の中曽根政権についても同様である。きわめて危ういと危惧するのが安倍政権であり、その思想的バックボーンをなすという日本会議である。安倍政権成立の前、2000年の森内閣のときに起きた宏池会の流れをくむ加藤紘一の「加藤の乱」の挫折により、自民党内の穏健派、親米派、良識派、ハト派の溶解・解体が始まったと加藤典洋は指摘する。その後の首相は、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎といずれも自民党のタカ派ないし非ハト派出身者がなっているとも指摘する。福田康夫は福田元首相の子どもであり、福田派は岸派を継承しているから、系譜的にはタカ派である。私はしかし、福田康夫は思想的にはハト派と見ているけどね。
加藤は「あとがき」で、この本を書くにあたって「私が最も励まされ、教えられたのは、イギリス人のドナルド・ムーアと元編集者の矢部宏冶」の憲法9条論としている。この2人の本は私も読んでみたいと思う。加藤は現実の政治路線として「平和的リアリスト」(平和主義+国際主義)のグループ-このなかにはドーアや矢部も含まれる-と「非武装中立論」(平和主義+一国主義)のグループの連携をはかることを提言する。これには自民党ハト派の一部、小沢一郎の国連中心主義、社民党・日本共産党の平和主義、外務省、財務省、防衛省の一部政治的リアリズム派までが結集できることになる、としている。私ならばこれに宗教界(仏教、カトリック、プロテスタント、創価学会など)の一部を加えたいところだ。現実の国政を見ると自民党と公明党の連立政権が圧倒的多数を占めている。しかし今年の夏までには衆議院選挙は必ずある。後手後手に回る新型コロナ対策、与党議員の相次ぐ不祥事と自公は守勢に立たされている。加藤の政治路線が実現するチャンスである。残念ながら加藤は2019年に亡くなっているのだが。

2月某日
図書館で借りた「風よあらしよ」(村山由佳 集英社 2020年9月)を読む。四六判ハードカバーで400ページを超す大著だが、大変面白く2日余りで読了した。関東大震災の混乱時に大杉栄と大杉の甥、宗一とともに憲兵隊に虐殺された伊藤野枝の評伝小説ということになろうが、それだけにとどまらず明治から大正にかけての日本社会の在りようを、巧みに描いていると思う。作者の村山由佳って恋愛小説家の筈。私は「ダブル・ファンタジー」を週刊文春の連載時に読んだくらい。伊藤野枝と大杉栄を主人公にした小説は瀬戸内寂聴も書いているから、村山由佳はこの小説をきっかけに小説家として変身を遂げるかもしれない。大杉栄は日頃から自由恋愛を唱えていたが、伊藤野枝と出会ったときは年上の妻、保子と暮らしていた。野枝も後にダダイストとなる辻潤と同棲し二人の子どもまでいた。野枝は子どもを辻潤のもとに残し大杉のもとに走った。三角関係、四角関係のもつれから神近市子に大杉が刺されるという日蔭茶屋事件もあったが、野枝と大杉の関係は良好で二人の間には毎年のように子どもが産まれた。二人の愛は本物だったし大杉は子煩悩で家事にも協力的だった。しかし家族だけでなく常に何人かの同志を居候させなければならなかった大杉家の家計は火の車であった。この小説には大杉と野枝の恋愛小説の側面と大杉一家の家庭小説という側面がある。もうひとつ見逃せないのは大正という時代の社会ドキュメントという側面だ。大正12(1923)年、大杉は無政府主義の国際大会に出席するために外遊する。外遊の費用を出した一人が有島武郎である。大杉の帰国の直前に有島は軽井沢で婦人公論の記者と心中していた。そして関東大震災。かねてから共産主義者や無政府主義者の活動に不満を抱いていた憲兵隊の甘粕大尉は大杉、野枝、大杉の甥を検束、大杉と野枝に激しい暴行を加えたうえに虐殺した。扼殺された甥はわずか数えで七歳であった。戦前は暗黒時代という見方がある。大杉らの虐殺事件にはその一面はある。しかし大杉と野枝と子供たちの貧しいが幸せな家庭、彼らを温かく見守る友人や同志のアナキストたち。これらは現代とも遜色ないといえる。むしろ彼らの方が濃密な関係を築き得たとさえ思えるのだ。

2月某日
東京五輪・パラリンピック組織委員会の森会長の女性蔑視発言が波紋を呼んでいる。国内、海外を問わず非難する声が圧倒的、というか擁護する発言は皆無。大杉栄や伊藤野枝が活動していたのはおよそ100年前だが、当時から大杉は幼子をあやしたり、おしめの洗濯をやったりと家事に協力的だった。森会長の意識は100年以上遅れていると言わざるを得ない。こういう人を会長に選ぶというセンスも問題。それ以前にこういう人が内閣総理大臣だったという現実。ミャンマーでは軍のクーデタに対する抗議デモが続いているというし、ロシアでも反プーチンの活動家ヌバリヌイ氏の釈放を求めるデモが続いている。日本でも森会長の辞任を求める抗議デモが必要ではないですか?

モリちゃんの酒中日記 1月その4

1月某日
NHKのニュースで福島県の「上梅田」(かみうめだ)というバス停を採りあげていた。音読みすると「ジョー・バイデン」になるんだって。オバマ大統領が登場したときも福井県の小浜市が人気になった。そうすると大阪の梅田を縄張りとするジョーというチンピラも「ジョー・バイデン」と呼ばれるのだろうか?というようなことをヒマに任せて思っていたら大谷さんから「東洋経済オンライン」に香取照幸さんの執筆記事が載っていると添付記事と一緒にメールが来た。タイトルは「民主主義の危機に社会保障が重要視される理由」「中間層崩壊を防ぐ『防貧』こそ福祉国家の使命」。「東洋経済オンライン」は無料で読める(と思う)ので是非一読を。私が勝手に要約すると「民主主義が機能するためには民主主義の中核を担う安定的な中間層の形成が必要。そのためには市民1人ひとりの活力、自己実現を保障すること、つまりそれを生み出す『市民的自由の保障』が不可欠である」というもの。高度経済成長が続いた時代はそれなりに成長の果実は再分配されていた。だけど現在はどうか?富の集中と分断が進んでいるのではないか?トランプ現象もそれとは無縁ではない。

1月某日
図書館で借りた「昭和の犬」(姫野カオルコ 幻冬舎 2013年9月)を読む。姫野は本作で第150回直木賞を受賞した。滋賀県香良市に住む柏木イクの5歳から、高校を卒業して大学に進学、就職して現在(平成20年12月)までの犬(一部ネコ)とのかかわりを描く、「自伝的要素の強い」(「近所の犬」の「はしがき」)作品である。イクは一人娘で両親が共稼ぎということもあり鍵っ子である。学校から帰ると犬と過ごす時間が多いのである。両親は大正生まれで父は戦後10年もシベリアに抑留されていた。両親の仲は良いとは言えない。むしろ悪い。イクは高卒後、東京の大学に進学したのも、大学卒業後、内定した滋賀県職員にならなかったのも実家に帰りたくないがためである。こんな風に書くと「なんかクライ小説」のように思われがちだが、そこはかとなくユーモアも漂う作品である。

1月某日
我孫子の駅前の居酒屋「しちりん」は15時から店を開けている。坂東バスの停留所「アビスタ前」から三つ目が終点の「我孫子駅」。我孫子駅前の「関谷酒店」で家のみ用のウイスキー「マリーボーン」を買ってから「しちりん」に向かう。カウンター席にソーシャルディスタンスを保ちながら座る。「しちりん」には焼酎の「キンミヤ」1升瓶とウイスキーの「ブラックニッカ」をボトルキープしている。「キンミヤ」でホッピーを呑み、「ウイスキーのソーダ割」に進む。つまみはサービス品の「ショルダーハム」(200円)と「砂肝焼き」(180円)。お勘定は800円であった。我孫子駅前からバスでアビスタ前へ。まだ5時前なのにすっかり暗くなっていた。

1月某日
「空いている」と思って入った近所の床屋が意外に2人待ち。お昼前には散髪が終わるだろうとの予想を裏切り家に着いたのは12時過ぎ。13時過ぎに社保研ティラーレと約束していたので昼飯もとらずに我孫子駅から電車に乗る。14時頃に社保研ティラーレに着いて吉高会長、佐藤社長と雑談。話題はどうしても新型コロナのことになってしまう。2月に予定している地方議員向けの「社会保障フォーラム」への申し込み状況が今一つなのだ。2月10日の会議で結論を出すと聞いて社保研ティラーレを辞す。近所の鹿児島ラーメンの店「天天有」で遅めのランチ。16時に香川喜久恵さんとお茶の水の「山の上ホテル」ロビーで待ち合わせ。少し早めについたので本を読んでいたら香川さん登場。2人で社会保険出版社に向かい、キタジマの営業マンの金子さんから阿部正俊さんの本の初稿を貰う。香川さんとは出版社で別れ、私は金子さんの自動車に乗せてもらって、虎ノ門の「医療・介護・福祉フォーラム」へ。中村秀一理事長と雑談。このところ私の会話の95%は雑談である。現役のときはさすがにこれほど多くはなかったが、それでも65%は雑談であったような気がする。「雑談人生」も悪くない。中村さんと別れて新橋から有楽町に向かい「ふるさと回帰支援センター」の大谷源一さんに面談。エレベーターホールで高橋公理事長に会う。「中村秀一さんがよろしくって」と伝える。大谷さんの仕事が終わるのを待って交通会館地下1階へ。博多うどんの店「よかよか」に行くと18時で閉店との由。近所の「五島」で呑むことにする。五島料理をつまみながらしばし雑談。大谷さんにすっかりご馳走になる。

1月某日
巷で評判の「人新世の『資本論』」(斎藤幸平 集英社新書 2020年9月)を読む。人新世は「ひとしんせい」と読み、「人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツエンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新世」(Anthropocence)と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である」(はじめに)ということである。気候変動と資本主義先進国の帝国的生活様式が地球環境を致命的に破壊するという著者の知見が海外も含めた膨大な研究、学説から立証されていく。著者は最終的にはマルクスの理論、とくに晩期マルクスの理論によって、資本主義的生産様式の転換を訴える。そうなんですよ。本書はマルクス理論による地球革命の書なんです。地球革命とは私の造語ですがトロッキズムや新左翼の呼号する世界革命を超えるものとしての地球革命だ。資本主義経済では地球環境の破壊を救うことはできない。共有地=コモンを取り戻すのがコミュニズムとも主張する。斎藤幸平は1987年生まれ、今年34歳である。若き俊英のこれからに大いに期待したい。私の若いころは晩期マルクスより初期マルクスが好まれたんだよね。「経済学哲学草稿」や「ドイツイデオロギー」などでマルクスの疎外論を学んだ。学んだというのは言い過ぎだね。よく理解しえたとは言えないから。それでも疎外からの解放を「革命の根拠」の一つにしていたような気がする。

1月某日
今月に90歳で亡くなった半藤一利の対談集「昭和史をどう生きたか」(文春文庫 2018年7月)を読む。澤地久枝、加藤陽子、吉村昭ら12人との対談が収められているが、めっぽう面白かった。面白かっただけでなく考えさせられることも多かった。歴史探偵としてまたジャーナリストとしての半藤の面目躍如である。澤地久枝との対談では昭和の軍部が長期的な戦略もなく無謀な戦争に突き進んでいった様子が語られる。「失敗の本質」の著者、野中郁次郎の対談では半藤は「日本の組織にいちばん欠けているのは自己点検による自己改革。さらに言語化。これができないんです」と語っているが、コロナ禍で有効な政策を打ち出しえていない菅政権にも当てはまると思う。菅政権だけに責任を押し付けるわけにはいかない。野坂昭如との対談では「明治、大正と続くなんでも西洋かぶれの近代国家は危険であると言ったのが夏目漱石です」「あの時代には、他にも同様を鳴らした人はいましたが、戦後は誰もいませんでしょう」という半藤に対して野坂は「高橋和巳が長生きしていたら、あるいはという気がします」と答えている。政治家だけでなく知識人の劣化も進んでいるということか。宮部みゆきとの対談では「戦争への道というのはそんなに急に来るわけじゃない。ジリジリと、つまらない小事件がいくつも起きていたり、それが重なり合って大事件となる」と半藤が指摘し宮部は「時代の熱に同調せずに、淡々と穏やかに頑張れるかどうかで、人間は真価を問われるんだろうなあ、と思うんです。変調に目を光らせて、熱狂に気を許さないことですね」と応じている。憲法については辻井喬との対談で「そしていま、若い人たちは飽き足らない。何かを変えたくてしょうがない。平和憲法の問題も、とにかく機軸を変えたいのだと思うのです」「ただ変えたいのですよ。いままでのじゃダメだと思いたいんです。哲学とか理念があるわけじゃない。もちろん、日本の明日への見通しなんかまったくない」と語る。辻井との対談の初出は2005年の「論座」9月号である。当時よりも状況は確実に悪化している。「半藤先生はいいときに死んだ」なんて10年後のこの国で思いたくはない。

1月某日
午前中の雨が雪に変わり、図書館に行くのを止めた。家にある本で我慢しようと本棚に目を移す。単行本の「男の城」(田辺聖子 講談社 1979年2月)に目が留まる。「ぼてれん」など7つの短編が収められている。私が田辺先生の著作を読むようになったのは21世紀になってからで、長編は図書館で田辺聖子全集を借りて読み、短編は文庫本を図書館で借りたり本屋で買ったりした。「男の城」は単行本だからおそらく21世紀になってから古書店で求めたと思われる。収録されている作品のうちで最も古いのは「女運長久」で「文学界」の昭和41年9月号、最も新しいのは「花の記憶焼失」で「問題小説」の昭和52年12月号である。私が田辺先生に魅かれた最初は、大阪のOLを主人公にしたユーモアタッチの恋愛小説、それから「小林一茶」など評伝小説、そして「朝ごはん食べた?」などの家庭小説である。「男の城」はそれのどれにも当てはまらないような気がする。もちろんそこはかとないユーモアは忍ばされているのだが。敢えて「男の城」のテーマを挙げれば「男の悲哀」であろうか。表題作の「男の城」は折角の新居を女房、義理の母、義理の妹に好きなようにされるが亭主は廊下の突き当りにささやかな書斎を確保、「男の城」とする話である。「女運長久」は老舗菓子店の経営を任せ、自身は日本舞踊を趣味としつつ馴染みの芸者をアパートに囲う。踊りの稽古の後にアパートのドアをノックするが応答がない。芸者と経営を任せている甥が出来ているという暗い予感が男を襲う、という話である。やっぱり「男の悲哀」が主題。