社長の酒中日記 8月その1

8月某日
青木昌彦氏が先月亡くなった。日本経済新聞に「私の履歴書」を連載し、日経には訃報とともに「評伝」が載せられそれだけでも青木氏が高名な経済学者であることが知れる。だが私などにとっては青木氏は60年安保ブンドの理論的指導者、姫岡玲二としてなじみが深い。なじみが深いとは言っても氏の「国家独占資本主義」を読んだわけでもなく、われわれ70年安保世代にとってはなかば「伝説の人」であった。そんなわけで氏の死に際して何か著作を読んでみようと例によって近くの我孫子図書館を訪れた。ちくま新書の「青木昌彦の経済学入門」(2014年3月)というのがあったので借りて読むことにする。通読してみてこの人は大変に頭脳明晰で創造性にも富み、なおかつ謙虚であることが理解できた。
 マルクス経済学から宇野弘蔵の原理論、段階論、現状分析に触れて「意外と現在の比較制度分析の考え方と似通っているところがあります」として、制度とは何かを均衡論として原理的にとらえ、これが各国、各時代にどのように表れるか比較形態論的に考え、それをもとに政策論やメカニズム・デザイン論が現状分析にあたるというわけだ。なによりも感じたのは氏が「失われた20年」ではなく「移りゆく30年」と強調していることである。たとえば日本の終身雇用制度や社会保障制度、教育制度、グローバル化した経済への対応など「失われた20年」という発想ではなく「移りゆく30年」のなかで、どのように制度的な移行ができるかが問われているのだと思う。

8月某日
社会福祉法人長岡福祉協会の経営する特別養護老人ホーム「新橋さくらの園」で夏祭りがあるというので出かけることにする。ここは大規模福祉施設「福祉プラザさくら川」を運営する施設。長岡福祉協会首都圏事業部では現在、1都2県に拠点6か所、20事業を展開している。先月、月島の特養を見せてもらった。月島で取材させてもらった笹川施設長も浴衣を着てサービスをしていたので挨拶。長岡福祉会を紹介してくれたSCNの高本、市川さんも「うちわつくり」を出店していたので顔を出す。1時間ほど見学して一緒に行ったHCMの大橋社長と施設を出る。ニュー新橋ビルで酎ハイを頂く。今日は我孫子の花火大会。あびこ型地産地消推進協議会の米沢会長のマンションの屋上から見物しようと川村学園大学の吉武副学長から誘われているので行くことにする。会場の正面、8階建てのビルの屋上なので花火もよく見えたうえに暑さもしのげた。

8月某日
プレハブ建築協会(プレ協)の合田専務と神田の葡萄舎で待ち合わせ。合田さんは私が日本プレハブ新聞社の記者だったころだから、今から30年以上前に初めて会った。合田さんは当時の建設省住宅局住宅生産課で工業化住宅つまりプレハブ住宅担当の係長だった。つまり日本プレハブ新聞としては絶対に外せない取材対象だった。毎週毎週、住宅生産課に顔を出したが、合田さんは嫌な顔ひとつせずに付き合ってくれた。合田さんは東大の都市工学科を出た秀才だが私たちともよく呑みに付き合ってくれる。そう言えば私がプレハブ新聞の記者だったころプレ協の専務はずいぶん「おじいちゃん」だった印象だけど、今、世間の若い人たちから見れば、私たちは立派な「おじいちゃん」なんだろうな。遅れて健康生きがいづくり財団の大谷常務が参加。

8月某日
地方議員を対象にした「地方から考える社会保障フォーラム」に参加。そまま夜の意見交換会にも出る。講師として参加した唐沢保険局長、ふるさと回帰支援センターの高橋代表理事も出席してくれた。我孫子の関市会議員や下関の田辺市会議員などが土地の名物を差し入れてくれる。私としては「高齢者の栄養指導と食事」の話をした管理栄養士の奥村恵子さんの話が興味深かった。名刺を交換して少しだけだが話をすることができた。

8月某日
会社近くのビルの地下に「ちょろっと」という小料理屋ができた。以前は焼き鳥屋さんで何度か行ったことがある。いつの間にか代替わりして小料理屋になっていた。東商の鶴田さんを誘って当社の岩佐、迫田と行くことにする。内装も洒落た感じに変わっており、なにより料理が見た目も綺麗で美味しかった。店主は岡山県津山市の出身で岡山の地酒も旨かった。呑み代込みで一人5000円は安いと思う。

8月某日
高田馬場でグループホームを運営している社会福祉法人サンの理事をやっている。介護の質を向上させながら職員の待遇にも配慮しなければならないし、そのためには入居者の確保が欠かせない。それに社会福祉法人である以上、地域の福祉への取り組みも必要となってくる。気軽に理事を引き受けたが簡単な仕事ではない。勉強のために週に一度は訪れ理事長や事務局の人たちと話すようにしている。今日も16時過ぎに訪問して理事長と懇談。評議員をやってもらっていた三木智子さんが亡くなったことを知る。お通夜は明日と言うことなので一緒に行くことにする。健康生きがいづくり財団の大谷常務に電話して、「レストランかまくら橋」で地域福祉の展開等についてレクチャーを受ける。

8月某日
三木さんのお通夜が南柏会館で行われる。サンの西村理事長と参列。三木さんは総合病院の総婦長を長く務め、看護師やドクターが多く参列していた。現職の看護部長が弔辞を読んでいたが、患者本位の看護を貫いた人だったようだ。私も以前組織運営上の悩みを聞いてもらったことがあるが的確な返答だった。お通夜は無宗教で音楽葬だった。こういうのも悪くない。

社長の酒中日記 7月その3

7月某日
小熊英二の「生きて帰ってきた男―ある日本兵の戦争と戦後」(岩波新書 15年6月刊)を図書館で借りて読む。一言で言うと英二の父、小熊謙二のオーラルヒストリーなのだが、私にはとても面白かった。謙二は北海道の佐呂間村で1925(大正14)年に誕生した。6歳のときから東京の祖父母に育てられ、早稲田実業を卒業、富士通信機製造に就職したのが1943(昭和18)年である。1944年の11月、19歳になった謙二に陸軍の入営通知が届く。謙二は満州で軍務に就くが、戦闘体験もないまま旧ソ連軍の捕虜となりシベリアに送られる。3年の抑留から無事帰国するが、小さな会社を転々とするうちに結核を患い、新潟県の国立療養所に入所する。1956(昭和36)年、謙二は片肺を手術で失いながらも療養所を退所することができた。謙二は30歳になっていた。1958年、謙二は株式会社立川ストアに就職、ようやく安定した生活を手に入れる。私がこの新書を興味深く読んだのは、私の父と母が1923(大正12)年生まれで謙二と同世代ということもあるかもしれない。
とくに私の父は謙二と同じ北海道の生まれ、家が裕福ではなかったので旧制中学には進学できず、高等小学校から苫小牧工業学校に進学、成績が優秀だったせいか京都工芸繊維高等専門学校を経て東京工業大学へ進んだ。謙二との大きな違いは理工系学生だったため徴兵が猶予され軍隊体験がなかったことだ。私の父は20年近く前に死んでいるが、社会主義者ではないが革新政党の支持者だったり、反戦的であったりするところが謙二と「似ている」と思わせる。そんなところも面白く読んだ一因かも知れない。

7月某日
SMSの河田さんが9月から出産および育児休業に入るということなので、長久保さんや竹原さん、河田さんの後任の岡部さんを招いて富国倶楽部で呑み会。SMSは30年ほど前、一緒に仕事をしていたリクルートと似た雰囲気があるような気がする。当時のリクルートも現在のSMSも若いという共通点がある。変わったのは私が年を重ねたことね。SMSの連中はみな私の子供の世代だ。

7月某日
四谷の東貨健保会館のホールで社会保険倶楽部霞が関支部の総会。総会後のセミナー「保健医療改革の動向」(前厚労省保険局長の木倉敬之氏)を聞きに行く。元官房副長官の古川貞二郎さんも聞きに来ていた。セミナー後の茶話会で幸田正孝さんや多田宏さん阿倍正俊さんらに挨拶。阿倍さんは社会保険の現状を「これでいいのか」と熱く批判。阿倍さんの論は正しいと思う。多少、鬱陶しいけどこうした人は必要だと思う。6時から会社近くの「ビアレストランかまくら橋」で唐牛真紀子さん間宮陽介さん、堤修三さんと呑み会。間宮さんは元京大経済学部教授でケインズを訳したり「丸山真男」などの著作がある。堤さんは元社会保険庁長官で、おととしまで阪大教授。もともとは堤さんと亡くなった高原さんと私の3人でよく呑んでいた。高原さんが亡くなった後、堤さんと高校の同級生だった間宮さんが京大を定年で退官、3人で呑むようになった。唐牛さんは60年安保の全学連委員長、唐牛健太郎さんの未亡人。浪漫堂の倉垣さんを通じて知り合った。間宮さんは東大で西部邁と親交があり、西部さんと親しい唐牛さんと食事でもしようということになった。4人とも好きなことを語り「集団的自衛権は如何なものか」では一致。機嫌よく帰った。

7月某日
「介護職の看取り・グリーフケア」の調査で悠翔会の佐々木理事長兼診療部長にSCNの高本代表理事、市川理事、それに当社の迫田とインタビュー。この欄で何度か書いたことかもしれないが、この調査で多くの医者、看護師、介護関係者にインタビューしてきたが、言えることは「偉い人こそ威張らない」こと。私が立派だなーと思う人は押しなべて謙虚。佐々木先生もそのひとりだが、「先生という呼称は好きではない」といいながら、こちらが「佐々木先生」と呼んでも敢えて訂正しようとはしない。些細なことかもしれないが私などはそこに「フラット感」を感じてしまう。佐々木先生のインタビューを終え、新橋の悠翔会から日本橋小舟町のSCNの事務所へ。高本、市川さんとオランダ人の田中モニックさんにオランダの死生観等を聞くためだ。実は1か月ほど前同じテーマでモニックさんにインタビューしたのだが、呑み屋さんでのインタビューとなったため、うまく声が拾えなかった。それで事務所での再度のインタビューとなった。本題のインタビューも面白かったが私はむしろ、日本と西欧との個人のあり方の違いが感じられて興味深かった。日本人は家族、共同体(地域や会社などの組織)でもたれあうことが多い。これに対して西欧は個人の自立度が高いように感じられる。介護保険制度が自立支援をテーマのひとつに掲げたのは正しいと思う。地域包括ケアシステムの構築にしても「個人の自立」がなければ成功しないと思う。ということは地域包括ケアシステムの構築とは地域革命ということだ。

7月某日
浅田次郎の「霞町物語」(講談社文庫 00年初版)を図書館から借りて読む。95年1月号から98年3月号まで「小説現代」に断続的に連載されたものを単行本化し、さらに文庫化したものだ。著者の分身と思われる「僕」は、青山と麻布と六本木に挟まれた霞町の写真館の3代目、受験を控えた都立の進学校の3年生でもある。浅田次郎は私より3歳下の1951年生まれだから舞台は1969年ころということになる。ちょうど私が新宿や早稲田、東大でゲバ棒片手にデモを繰り返していたころと重なるが、小説にはそんな感じは微塵も感じられず霞町界隈で恋と遊びに刹那的に生きている高校生とそこに暮らす家族の生き方が活写される。私は高校生の頃、石原慎太郎の「太陽の季節」を読み、都会と田舎の高校生の意識と環境の違いに度肝を抜かれたものだが、それは基本的にこの作品でも変わらない。違うのは「太陽の季節」が描いているのは高度成長期の入り口にあった日本社会だが、「霞町物語」で描かれているのは高度成長期の絶頂期から下り坂に至り始めた日本社会だ。霞町のバーにたむろしていた高校生たちも実家が地上げにあい、次々と郊外に転居していく。写真館の初代である「僕」の祖父の老耄と死と相まって「滅び行くもの」の哀切さが伝わってくる。この本とは関係ないけれど、浅田次郎は集団的自衛権の容認に反対して発言していた記憶にある。浅田次郎は自衛隊出身ではあるが、だからこその反対なのかもしれない。

7月某日
「もーちゃん○日の夜空いていない。古都さんと呑むから来ない?」と社会福祉法人にんじんの会の石川はるえ理事長からメール。当日、会場の新橋2丁目のビルの地下「福は内」に入ろうとすると「森田さん!」と社会保険福祉協会の内田さんが声を掛けてくれる。そうだ内田さんが店を手配してくれたんだ。内田さんと石川さん、それに私と見知らぬ若い人と店に入る。その若い人と名刺を交換する。名刺には「特定非営利活動法人アレルギーっこパパの会理事長今村慎太郎」と刷り込んである。ほどなく古都さんと厚労省の疾病対策課の日野さんが来る。アレルギーの子供たちのためにアレルギー手帳のようなものをつくりそれを飲食店などに提示することによってアレルギー事故を未然に防ぎたいという今村さんの運動を石川さんが後押しし、かねて仲良しの古都さんに連絡したら、古都さんが以前の部下の日野さんを連れてきたということらしい。要するに私は何の関係もないのだけれど石川さんが「古都さんを呼ぶならもーちゃんも呼んでやろう」となったということだろう。ありがたい話です。古都さんと日野さんから貴重なアドバイスをもらったらしいが、私は「福は内」のおいしい料理と日本酒を堪能させてもらった。

7月某日
内閣府次官、厚労次官、人事院総裁を歴任した江利川さんとは江利川さんが年金局の資金課長だったころからの付き合いだからおよそ30年近くになる。偉ぶらない人柄で後輩たちからの信頼も厚い。江利川さんのあとの資金課長が江利川さんと同期の川邉さんで、この2~3年、江利川、川邉さんを囲む会を不定期でやっている。メンバーは江利川、川邉さんに当時資金課の補佐だった足利さん、岩野さん、年住協の企画部長だった竹下さん、それに私。このところずっと会社近くの「ビアレストランかまくら橋」でやっている。6時近くに会場に顔を出すと川邉さんがすでに来ていてビールを呑んでいる。私もビールを頼むと竹下さんが来る。特別ゲストとして現役の年金局総務課長の八神さんに声を掛けたら来てくれた。足利さん、江利川さんもそれに当社から岩佐、迫田も参加して座は盛り上がった。
民介協の扇田専務にいただいた日本酒を持ち込む。岩野さんは欠席だったがもしかしたら私が連絡し忘れたのかも知れない。

社長の酒中日記 7月その2

7月某日
「介護職の看取り」調査で米子の新生ケア・サービスの生島美樹管理者代理にSCNの高本代表理事とインタビュー。ここは看護師が4名在籍。介護と看護の連携が非常に取れていると感じた。一言で言うと「信頼関係」が取れている。生島さんは「在宅の看護師の役割は如何に介護の仕事をやりやすくするかにあると思います」と言う。職員が一緒にお茶を飲む時間を設けるなどいい意味での「家族的な運営」がなされていると思った。近くの社会福祉法人と連携して地域包括ケアシステムの構築にも取り組んでいる。米子から電車で3時間。中国山脈を越えて倉敷へ。
倉敷では創心会の二神社長をインタビュー。二神社長は愛媛県出身。地元の専門学校で作業療法士の資格を得るが、「やんちゃをしていた」ため地元から岡山へ。ここではグループホーム2ユニット、ショートステイ40床のほか、「ど根性ファーム」という農業法人も経営、合わせると700人近くの人を雇用しているという。二神社長の話で興味深かったのは介護予防のため環境変化を知覚する能力を上げるためビジョントレーニングを取り入れているということ。五感の刺激などにより要介護度の軽減などの効果が出たという。介護職の看取りを指導している宇野百合子さんという看護師にも取材させてもらう。最初の頃介護士は利用者の状態が悪くなると「すくんでしまう」。しかし「経験を積む中で自分が何ができるか学んでほしい」と話す。インタビューを終えて倉敷市内のホテルへ帰る。夕食はホテル近くへ。和食屋さんは満員で断られるが2件目のイタリアンは正解。前菜もパスタも美味しかった。シェフはイタリアで修業したそうだ。

7月某日
10時30分に大阪介護支援員協会の福田次長にインタビューなので、ホテルの裏にある大原美術館にも行かず、修理が終わった姫路城も見ることなく新大阪へ。天満橋の事務所で福田さんが迎えてくれる。何の取材か事前に伝えていなかったので「介護職の看取りについて」と言うと「私も大事だと思うてたとこなのよ」と話してくれる。「死んでいく1日のストーリーを死んでいく高齢者に教育していく必要がある」と福田さんは言う。そのためには人材教育が必要だし、終末期の過剰な医療は、医療費が膨張するという以外にも過剰な医療が本人や家族へどのような影響を与えるかを考えなければという。
福田さんはケアマネだがもともとは看護師。学校卒業後、大阪のKKR病院のがん病棟に配属された。当時の最先端の医療看護を担ったわけだ。その後国立病院の勤務を経て、富田林市でケアマネに。東京の渋谷区で社会福祉法人に勤務した経験もある。会うといろんな情報を教えてくれる私の貴重な情報源でもある。
福田さんと別れ、阪急西宮北口から関西学院大学へ。人間福祉学部の坂口先生に調査の中間報告。人間福祉学部というから福祉関係へ進む学生が多いと思ったらそうでもないそうだ。どうも人間福祉学部は関学の中では偏差値が高くなく「とにかく関学へ行きたい」学生の受け皿にも待っているようでかならずしも福祉志望の生徒の受け皿にはなっていないらしい。

7月某日
出張中、図書館で借りた「湖の南-大津事件異聞」(岩波現代文庫 富岡多恵子 11年11月)を読む。エッセーのようでもあるし歴史小説の風でもあるし、読みようによっては富岡多恵子の私小説風でもありという小説で私は面白く読ませてもらった。大津事件とは1891年5月11日、シベリア鉄道の起工式に臨席する途次、日本に立ち寄っていたロシアの皇太子ニコライを、滋賀県大津で、いきなり警備の警察官、津田三蔵が切り付け、負傷させた事件である。ロシアの制裁を恐れた政府は犯人の死刑を希望したが大審院院長児島惟謙がこれを退け無期徒刑の判決を下し、司法の独立を保ったことでも知られる。富岡は史実を資料によって辿りながら、自分に届くかつて顔見知りだった電器屋からのストーカーまがいの手紙や雇い入れた家政婦のことを交えながら筆を進める。そこいらが何の違和感もなく読めてしまうというのは、やはり作家的な力量と言うべきだろう。

7月某日
「薔薇の雨」(田辺聖子 中公文庫 92年6月初版 単行本の初版は89年)を読む。田辺1928年生まれだから60歳ころの作品。田辺が最も多作だった40代、50代の作品には20代後半から30代のハイミスの恋愛小説が多かったように思う。それはそれで面白いのだが、「薔薇の雨」に収められた5編はもう少し上の世代の恋愛が描かれている。冒頭の「鼠の浄土」は子連れの吉市と38歳で結婚した丹子が小さないさかいを繰り返しながらも元のさやに納まって行くと言うストーリーである。家を出た丹子が家に電話すると連れ子の春雄が出る。丹子が「迎えに来てくれへん?」と頼むと「よっしゃ」と来てくれる。そのときの会話がいい。「オバチャン、出て行ったらアカン」「……」「お父ちゃん、可哀そやないか」「辛抱しているあたしのほうが可哀そやないの」「いえてるけど」。春雄は継母のことを「オバチャン」と呼ぶのではあるが、継母の苦労はそれなりに分かっているのである。田辺の小説には根底には人間への信頼と愛があると思う。

7月某日
高田馬場の社会福祉法人サンで打合せ。事務の人に5期分の決算資料を用意してもらう。茗荷谷の健康生きがいづくり財団の大谷常務に電話。「そっちへ行くからご馳走してよ」と強要。「いいよ」と快諾してくれる。茗荷谷駅前の前にも行った居酒屋へ行く。確かにここはおいしい。螺貝の刺身などを日本酒といただく。我孫子駅前のバーでジントニックとクレメンタインをロックで。

7月某日
HCMから年住協の理事となった森さんと打合せ。いろいろと大変なようだが協力していくことを約束する。その足で昨日に続き高田馬場のサンへ。3月から施設長となる候補者を面談。よさそうな人と感じる。NPO法人年金福祉協議会の総会後の懇親会があるので「ビアレストランかまくら橋」へ。宮島さん、矢崎さん、池田さんに挨拶。今日は同じ場所で大学の同級生で弁護士の雨宮君とも待ち合わせ。雨宮君は山形の銘酒十四代の一升瓶を持ってくる。

7月某日
池袋の喫茶店で涼んでいたらパレアの保科さんから携帯に電話。「森さんが亡くなったそうです」。森さんというのは私の学生時代からの友人の森(旧姓尾崎)絹江さんのこと。森さんは私が大学4年の頃、早大法学部に現役で入学。確か3月生まれだから18歳になったばかり。横浜のお嬢様の行く女子高出身。1971年ごろだから学生運動はピークを越え私自身も運動の第一線から引退と言えば聞こえはいいが、要は過激な運動についてゆけず脱落し、かといって今更、授業に出るのもばからしくサークル(ロシヤ語研究会)の部室に行って麻雀のメンバーを探す毎日だった。そのサークルの部室で彼女には初めて会ったと思う。彼女は麻雀を覚えるとともに過激な思想も吹き込まれ、元が無垢だから1年の終わりごろには「立派な」ブント戦旗派の活動家になっていたと思う。理工学部のブントでロシヤ語研究会にも籍のあった森君と結婚、相模原地区で活動を続けていた。再会したのは20年位前だろうか、彼女はブントからは離れ、森君とも事実上別れてフリーライターをしながら2人の娘を育てていた。
それから専門学校の入学案内のコピーや、「へるぱ!」の取材をお願いしたりするようになった。彼女は単行本も何冊か上梓したことがあり、文章は確かなものだった。保科さんが社会保険研究所を卒業してパレアを四谷に立ち上げたとき、同室だったのが女性編集者、ライターの草分け的な存在の野中さんで、彼女が森さんとつながりがあり、冒頭の電話になったのだと思う。森さんは我孫子の鈴木さんという焙煎職人の焙煎するコーヒーが好きで何度か持って行ったことがある。先月、相模原の自宅に見舞いがてらコーヒーを持っていたのが最後となった。60歳を過ぎてから友人知人の訃報を聞くことが多くなった。平均寿命はまさに平均でしかない。

7月某日
「ベッドの下のNADA」(井上荒野 文春文庫 13年5月 単行本は10年10月)を読む。郊外の古いビルの最上階に住みながら、その地下で喫茶店NADAを営む夫と妻を主人公にした連作短編小説。夫婦の平穏に見える日常に潜む不穏な日常。夫婦って平穏で安定した関係の基礎というか基盤のようなものだけど、いったんそこに疑問を持つと疑問は深まる……。疑問は持たないようにしようっと。著者紹介によると井上荒野って成蹊大学出身だったんだ。桐野夏生と同窓だったんだ

社長の酒中日記 7月その1

7月某日
元厚労省で阪大教授を退官後、今は無職の堤さんと会社近くのビアレストランで呑む。元社会保険研究所で年金時代の編集部にいた吉田貴子さんと呑むことになったので堤さんも誘った。吉田さんは社会保険研究所に入社する前、埼玉の社会保険事務所に勤めていることがあるし堤さんも若いころ社会保険庁の総務課補佐をやったことがあるし、役所の最後は社会保険庁長官だった。6時に堤さん来る。黒っぽいシャツに同系色のパンツ。帽子を目深にかぶって登場。「怪しいねー」と声を掛けると「役所を辞めて10年以上経つんだから好きな格好をさせろよ」と。しばらくして吉田さんが来る。現在は産労研究所で「人事実務」という雑誌の編集長をやっている。年金機構のパソコンがハッカーに侵入されたことについて、係長が案件を抱え込んでいた件など「体質は社会保険庁時代と変わっていない」で一致。当社の迫田とSMSの長久保さんが来る。長久保さんがニッカの「余市」10年ものを持ってくる。スモーキーな香りで美味かった。一本を空けてしまう。

7月某日
1時から理事をやっている社会福祉法人の職員面談に3人ほど付き合う。西村理事長と橋野理事が一緒。職員の3人とも認知症高齢者の介護に熱心に取り組んでいることは十分に分かった。問題は若者のこうした熱意を空回りさせないように、どう経営していくかだと思う。このへんは社会福祉法人も株式会社も変わらないと思っている。昼飯を食べ損なう。5時から大森で「介護職の看取り」でインタビューがあるので早めに大森へ行って、駅の近くのラーメン屋で海苔玉ラーメンを急いで食べる。普段は弁当持参なのでたまの外食もいいけれど、もう少し余裕をもって食べたいね。
大森駅の山王口の鈴木内科医院を訪問。院長の鈴木先生にインタビュー。この間、いろいろな医師にインタビューする機会があったし、私自身5年前に脳出血で倒れ、身近に医者と接した経験がある。そうした経験から言えることは「偉い先生ほどエラソーにしない」ということ。これは何も医者に限ったことではなく人間全般に言えることである。鈴木先生はまさに「エラソー」にしない先生。だからこそ多職種連携も上手く行くのだろう。訪問看護、訪問介護、歯科、薬剤師などとの連携がうまく取れている。先生は「フラットな関係作り」と言っていたが、先生のようなドクターが増えていくことによって日本の医療や介護は確実に変わっていくと思われる。一緒に取材したSCNの高本代表理事と市川理事と地元の百貨店、大信を覗く。帰りに品川駅構内の「ぬる燗佐藤」による。品川から上野・東京ラインで我孫子へ。駅前の「七輪」で焼酎のお湯割りを一杯。

7月某日
ぎっくり腰の治療で神田駅西口の「しあつ村」へ。リンパマッサージを受ける。ここは民介協の扇田専務の紹介。丁寧なマッサージをしてくれるが、たちの悪いぎっくり腰なのか目立った効果かない。HCMの大橋さんの社長就任祝いの日なので小舟町の「恭悦」へ。大橋さんと森さん、それに私の3人でお祝いをする。大橋さんも森さんもいろいろ大変でしょうががんばってください。

7月某日
腰の加減がはかばかしくないので目黒の王先生に中国鍼を施術してもらいに行く。呉先生とは久しぶりだがお元気そうだった。王先生とは20年ほど前、我孫子で治療を受けたのがきっかけ。当時は治療院を持たず出張治療だけだった。それが目黒で治療院を開業し、今では立川と国立にも治療院を持っている。それも腕がいいからだと思う。王先生は中国の温州の出身、確か上海で中国医療を勉強したと言っていた。文化大革命のときの写真を見せてもらったことがあるが、利発そうな美少女の紅衛兵が写っていて、それが少女時代の王先生だった。だが先生一家はインテリで資産家だったらしく文革以降、迫害される。アジアの各地を転々とした後、日本に安住の地を見つけたということらしい。向こうの医学部を出ているだけあってとても頭がいい。日本の鍼灸師の試験も問題集を丸暗記して合格したらしい。娘二人は日本の大学を出て税理士と薬剤師になったようだ。ただ中国共産党嫌いは徹底していて、いつか「尖閣列島問題についてどう思うか?」と問われ、どう答えたものかと思案していると「日本人はもっと中国に対して毅然としなければダメよ」と怒られたことがある。それだけ中国共産党嫌いが徹底しているのである。

7月某日
図書館で借りた「くまちゃん」(角田光代 新潮社 09年3月初版)を読む。角田は割と読む作家だ。角田は67年生まれだから「若手作家」とは言えもう40代後半。でも若者の心情を描くのが巧みだと思う。この連作短編小説集もそう。表題作の「くまちゃん」は古平苑子(23歳)と持田英之(25歳)の恋が、2作目は27歳になった持田と岡崎ゆりえ(28歳)の恋が、3作目は29歳になったゆりえとロックミュージシャン、マキトこと保土谷槇仁も恋が、第4作目は落ち目になったマキトと売れない舞台女優、片田希麻子の恋が……と続く。連作短編の共通点はいずれの恋も成就しないで、別れてしまうことだ。「あとがき」で角田は次のように書いている。「この小説に書いた男女は、だいたい20代の前半から30代半ばである。1990年代から2000年を過ぎるくらいまでの時間のなかで、恋をし、ふられ、年齢を重ねていく。そう、この小説では全員がふられている。私はふられ小説絵を書きたかったのだ」。作者の意図はどうあれ私はこの小説を非常に面白く読んだ。
源氏物語からしてそうなのだが、多くの小説は恋愛がテーマになっている。アクション小説や時代小説にしても恋愛がサブテーマになっていることが多い。ほかの人は知らないけれど、私は思いつめない性格だと思う。そんななかで20代前半の学生運動と恋愛は結構思いつめました。今から思うと学生運動はアクション小説の感覚だったかもしれない。同様にして20代の恋愛は恋愛小説の感覚である(あくまでも私の場合です)。だから40代、50代、60代と恋愛とは縁遠くなっても恋愛小説は読まれるのじゃないかな。恋愛の切実さを現実にではなくを小説に求めるみたいな。

7月某日
亀有の駅前で我孫子の飲み友達、大越さん夫婦と待ち合わせ。亀有の駅前に美味しい焼き鳥屋があるというので誘ってくれた。大越さんは私より1歳上。我孫子駅前の「愛花」の常連。もう10年以上の付き合いになる。仕事は建設業。大手ゼネコンの下請けで設計と工事監理をやっている(らしい)。立石駅前や松戸駅前の焼き鳥屋でご馳走になったこともある。ここは「江戸っ子」という焼き鳥屋で1階は立ち飲み、2階がカウンターで座れるようになっている。待ち合わせ時間丁度に亀有の改札口へ行くと奥さんのさと子さんが待っている。少し遅れて大越さんが来る。今日は東武線の竹ノ塚で仕事だったそうだ。亀有駅の北口には「こち亀」の両さんの銅像があるが、さと子さんは「これ何かしら?」という。人気漫画の主人公の銅像と教えるが、両さんを知らない人もいるんだ。「江戸っ子」に行くと1階の立ち飲み席はすでに満員。2階のカウンター席は座ることができた。大越さん一押しのガツの刺身をいただく。歯ごたえがあって旨い。ホルモン焼き、焼きトンといってもいいが、内臓の料理の醍醐味の一つは歯ごたえだと思う。歯ごたえを保証するのは新鮮さだ。ハツ、レバ、軟骨などをいただくがどれも美味しかった。満腹になったので帰ることにする。大越さんにご馳走になる。

社長の酒中日記 6月その3

6月某日
山田詠美の「風味絶佳」(文春文庫 08年5月 単行本は05年5月)を図書館から借りて読む。山田詠美は昔好きでよく読んでいたが最近、とんとご無沙汰。面白かった。この六篇の短編集に登場する男たちは鳶職、清掃作業員、ガソリンスタンドのアルバイト、引っ越し作業員、汚水槽の作業員、火葬場の職員。つまり己の肉体を使うことによって収入を得る職業だ。こういう職業は仕事の対象がモノであれヒトであれ具体的と言う特徴がある。対象が具体的と言うことは仕事の成果も具体的と言うことだ。介護福祉士なんかはその典型と思う。だからこの小説に親近感を持ったのかな。

6月某日
第一生命保険株式会社の株主総会。第一生命の株は同社が、何年か前に相互会社から株式会社に転換した際に当社にも割り当てられたものだと思う。上場企業の株主総会は経験したことがないので今回は参加してみようと思う。新橋から「ゆりかもめ」で「台場駅」へ。駅から直結のホテルグランパシフィックの大会議室が会場。10時開会だが9時半過ぎに会場に着いたらほぼ席は埋まっていた。入り口でお土産のクッキーとお茶を渡される。議長席に社長が着いて挨拶。事業報告は大画面に映し出される映像が行う。議案採決後株主からの質問を受け付けたが、好決算と言うこともあってか問題となるような質問もなかった。終わりまでいると「ゆりかもめ」が混むと思い、途中で退席する。
「介護事業者のための危機管理DVD」制作で社会福祉法人「にんじんの会」の石川理事長と打合せ。立川の石川さんの事務所へ映像担当の横溝君と当社の浜尾と伺う。各シーンについて検討を加える。ディテールがきちんとしていないと説得力に欠けると思っているので石川さんにいろいろと質問する。細部については石川さんも把握していないことがあるので現場の介護士や看護師に確認してくれるということだ。ところで私の古い友人の伊藤さんがこの6月から「にんじんの会」の西国分寺の「にんじんホーム」でお世話になっている。お世話になっているといっても入居しているわけではなくスタッフとして働いている。というわけで石川さんとの打合せが終わると西国分寺へ。駅前の「もこちゃん」という居酒屋で横溝君と待っていると伊藤さんが来る。近況を話してくれるが、どうしてもおよそ30年前の昔話となる。横溝君はつまらなかったろうな。

6月某日
石川理事長が横浜市の都筑区医師会で「訪問・施設でのリスク・マネジメント」について講演するというので、映像の記録をとりに横溝君と行く。訪問看護、訪問介護、ケアマネ、福祉用具相談員など70人くらいが熱心に受講する。石川さんは受講者を飽きさせることなくリスクマネジメントやその基本となるモニタリングは、利用者や家族だけでなく、事業者や働いている人を守るために必要であり、そのためにはサービスの標準化を図り、事業所でその基本を決め、契約事項に明記しておくということがよくわかった。

6月某日
「明治維新の新考察‐上からのブルジョア革命をめぐって」(大藪龍介 06年3月 社会評論社)を我孫子市民図書館の棚で見つけ、ぱらぱらとページをめくっていると例の明治維新を巡る日本資本主義についての本らしいので借りることにする。私は一般の経済史には興味はないけれど明治維新の性格についての論争が、当面する日本革命についてブルジョア民主主義革命を経て社会主義革命にいたる2段階革命論か、すでに日本は不十分とはいえブルジョア社会段階に到達しているのだから、当面する革命は社会主義革命とする一段階革命かという論争は、戦前の日本共産党系の講座派と労農派から戦後の日共と社会党左派、新左翼の論争に引き継がれた。いまやどうでもいいような話かもしれないが、私はグローバル経済下の日本の現状を理解するうえでも明治維新にさかのぼった検討も必要と思っている。
著者は明治維新について「上からのブルジョア革命」として次のように主張する。
①目的は諸列強に開国を強制され半植民地化の危機にさらされた弱小国、日本にとっては独立立憲政体の確立であった
②指導的党派は旧討幕派下級武士・公卿を中核とした維新官僚が分裂しながらも一貫して主導権を掌握した
③組織的中枢機関としては全行程にわたり、政府が主力になって変革を推進した
④手段的方法はクーデタと内戦、一機と反乱の鎮圧、そして「有司専制」など、全面的に国家権力の発動により行われた
⑤思想については尊王思想、「公議輿論」思想、西洋風の啓蒙思想、自由民権思想などが混在し、後に保守主義思想が伸張したが、基軸となったのは尊王思想‐天皇制イデオロギーであった。
これらのことから著者は、明治維新は国内の経済的社会的条件からすると早産であり、近代世界史の抗しがたい潮流に引き込まれ、外からの重圧に対応した「上からのブルジョア革命」であったと結論づける。それはまた「講座派」などが尺度としてきた史的唯物論の公式に反する革命であった。そしてこのような諸特質を持つ明治維新によって近・現代の日本の伝統となる官僚主義の国家体制や国家主導主義の原型が築かれたとする。
私には非常にすっきりした理論なのだが。大藪龍介という著者が気になったのでネットで調べると、60年安保のころ九大というか九学連の指導者で九州ブンドの主要なメンバーだったらしいことがわかる。安保ブンドのメンバーは西部邁、唐牛健太郎、青木昌彦はじめ興味深い人生を送っている人が多い。でも理論的にマルクス主義の陣営に止まった人はそう多くはないと思う。大藪という人は貴重な存在ではないか。

6月某日
我孫子駅前の東武ブックストアに入る。桐野夏生の「抱く女」(15年6月 新潮社)が平積みされていたので買うことにする。小説は1972年の9月から12月の女子大生、直子の日常を描写する。72年といえば私は3月に早稲田大学をギリギリの単位で卒業、友人の親戚が経営している印刷屋に潜り込み、付き合っていた同級生(今の奥さん)と結婚したころだ。直子は吉祥寺のS大学(桐野の母校、成蹊大学が想定される)で国際関係論を学ぶ2年生。授業に興味を持てず、麻雀壯とジャズ喫茶で時間をつぶし、男友達と酒を呑み、ときに関係を結ぶ。直子は親友の泉のアルバイト先のジャズ喫茶に勤めることにするが、ある日泉を訪ねると男が泉のアパートを出ていく場面に出くわす。男は泉の元恋人で赤軍派の活動家だという。72年のテルアビブ空港の銃乱射事件で射殺された犯人、安田安之と知り合いで「安田が死を賭けて闘ったのに、自分はどうしてこんなところにいて、のんべんだらりといきているんだろう」と「もう死ぬからお別れに来た」ところという。結局、男は西武池袋線の始発電車に飛び込み自殺する。
直子の二番目の兄、和樹は早稲田の革マル派の活動家で何日も家に帰ってこない。直子は新宿で知り合ったドラマー志望のバンドボーイ深田と同棲するつもりで家へ帰るが、そこで知らされたのは和樹が敵対するセクトに襲われ、瀕死の重傷を負ったこと。早朝病院に和樹を見舞った直子はひとりで和樹を看取ることになる。こうやって粗筋を追うと実に暗い小説となるが、私の読後感は少し違う。ひとつは全共闘運動が敗北し、連合赤軍事件でそれが決定的になったころの青春を見事に描いているとおもうからだ。もうひとつはその当時の雀荘や安酒場、ジャズ喫茶の雰囲気が皮膚感覚で蘇ってくるような気がするからである。まぁ万人向けとは言えないが。

6月某日
ぎっくり腰になってしまった。こういうときは中国鍼の王先生に施術してもらうのだが、先生が目黒の鍼灸院に来るのは水曜と土曜のみ。それ以外は立川と国分寺に行っているので今日は無理。民介協の扇田専務に神田の「しあつ村」を紹介してもらう。単なるマッサージと違って血流やリンパの流れを刺激するのだという。施術してくれた女性も感じがよかったので明日も予約する。ぎっくり腰と反対側のおなかをホカロンなどで温めるといいと先生に言われたので、家に帰って早速やってみた。少しは楽になったような気がする。
元年住協の林さんと新松戸の「ぐい呑み」で待ち合わせ。林さんは年住協を退職した後、東京フォーラムで危機管理のしごとをやったりして、今は日本環境協会。保育所や市役所を廻って環境教育の重要性を訴えているそうだ。林さんにすっかり御馳走になる。

社長の酒中日記 6月その2

6月某日
「介護職の看取り・グリーフケアの実態調査」でソラスト世田谷のサービス提供責任者の村上さんを桜新町のオフィスに訪問。桜新町は「国民的」マンガ「サザエさん」の作者、長谷川町子が住んでいた町で長谷川町子美術館もある。地下鉄の出口を出るとサザエさん一家の銅像が出迎えてくれる。15分ほど歩いてオフィスへ。村上さんが笑顔で迎えてくれる。世田谷区は区民の所得が高い。ということは従業員の人員確保が難しく、その一方で介護保険外のサービスのニーズが高いという特徴がある。村上さんは介護職について10数年の経験があるが、前職はゴルフのキャディ。それも名門、読売カントリー。よみうりのキャディはマナーのなっていない客は叱り飛ばすという噂があったが、それほど自分の仕事に誇りを持っているということなのだろう。村上さんはおそらく同じ想いを介護職に持っているにちがいない。介護の仕事について含蓄のある話を聞かせてもらった。
今日はさらに「へるぱ!」の取材で新橋の医療法人・悠翔会へ。理事長の佐々木先生へインタビュー。先生は30代後半の精悍な顔立ち。急性期病院ではなくなぜ在宅診療なのかを熱く語ってもらった。介護職の村上さんにも言えることだが、自分の仕事に誇りを持っている人は他者にやさしく謙虚だ。だから本当の意味での多職種連携ができるのだと思う。それから車で神田錦町の「由利本庄市うまいもの酒場」へ。由利本荘の地酒をしこたま飲む。根津の「ふらここ」で川村学院の吉武副学長と待ち合わせていたが、吉武さんが着いた頃には私はかなり酔っていてよく覚えていない。反省!

6月某日
中野剛志の「国力論―経済ナショナリズムの系譜」(以文社 08年5月)を読む。私は経済学を系統的に学んだわけではない(もちろん経済学以外の学問についても同じ)が、最近のアベノミクス、低金利、円安、グローバリズムといった経済の新しい潮流を見聞きするにつれ、経済現象を正しく読み解かなければならないと思ってしまう。そんな関心から岩井克人、水野和夫、浜矩子などの本を読むことが多いが、中野剛志もその一人。中野は東大教養学部卒、通商産業省入省。ウイキペディアによるとまだ経産省の現役官僚らしい。学部生のときに佐藤誠三郎の指導を受け、そして10年以上にわたって西部邁の薫陶を受けたという。ということは筋金入りの保守の論客と言うことになるが、保守vs革新という対立構造が意味をなさなくなって久しいと思っている私にとってはどうでもいい話である。さて本書の内容だが、「今日、世界中の大学の経済学部で標準的な理論として教えられる」主流派経済学=新古典派経済学に対して経済ナショナリズムを真向から対峙させたものである。経済ナショナリズムの源流はアレクサンダー・ハミルトンとフリードリヒ・リストにあり、彼らには「経済発展の原動力は、ネイションから生み出される力(国力)であり、そしてネイションの力を強化するには経済発展が必要である」という政治経済観、信念があった。これを受けて著者は、ヒューム、ヘーゲル、マーシャルの思想の跡をたどる。そしてマーシャル以降もネイションと経済のダイナミックな関係に気づいた数少ない経済学者として、ケインズ、ロビンソン、ミュルダール、クズネッツの理論に含まれる経済ナショナリズムに光を当てる。経済学の門外漢たる私にとって十全に内容が理解されたとは言い難いが、今後も関心を持っていきたい分野であることは確かだ。

6月某日
「外交の大問題」(鈴木宗男 小学館新書 15年6月)を読む。鈴木宗男は例の鈴木宗男事件が起こるまで地元以外では嫌われ者であった。私もほとんど評価していなかった。しかし「国策逮捕」後、評価は一変したように思う。これは同時に逮捕された外務省の佐藤優(本書でも鈴木と対談している)の存在が大きい。彼の獄中記をはじめとする一連のドキュメントが多くの国民をして「悪いのは外務省ではないか」と考えを変えさせたのだ。で本書は鈴木の体験したキルギス人質事件や北方領土交渉が語られるのだが、私にはさほどの新鮮味はなかった。やはり鈴木宗男は論理で語るより情に訴えたほうが迫力がある。

6月某日
八重洲北口のビモンに6時に着。生ビールを頼む。ほどなく元全社協の副会長で現在、損保会社の顧問をやりながら社会福祉法人の会長をやっている小林和弘さんが来る。社会福祉法人の経営についていろいろ教えてもらう。2人でワインを呑んでいると元次官の阿曽沼氏が登場。上智大学で会議だったらしい。日帰りで京都に帰るということなので東京駅近くに場所を設定したわけ。8時過ぎにお開き。阿曽沼氏は無事、京都へ帰れただろうか?

6月某日
阿曽沼さんも年金改革などで荻島國男さんに薫陶を受けたと思う。荻島さんは児童手当課長の次に水道環境部の計画課長に就任、廃棄物処理法案を仕上げた。だがこのころ築地のがんセンターに入院した。当時私が編集に携わっていた「年金と住宅」(財団法人年金住宅福祉協会)に連載をお願いした。タイトルは正岡子規の「病中六尺」を模して「病中閑話」とした。原稿は病室に取りに行ったり郵送されたりした。病室でまだ中学生だった良太君に会ったこともある。亡くなる直前に病室に行ったら奥さんの道子さんが「死に顔を見てもしようがないから顔を見て行って」とベッドへ案内してくれた。荻島さんはモルヒネで朦朧となりながらも「原稿、今は書けないんだ」と私に告げた。がんセンターから新橋、厚生省の前まで歩いた。荻島さんが死ぬというのに厚生省は何事もなかったようにこうこうと灯りを点けていた。腹立たしくも不思議な気持がしたことを覚えている。

6月某日
高齢者住宅財団の落合さんは長いことフラメンコダンスを習っていて、毎年リサイタルの切符を送っていただく。去年は私の体調不良(二日酔い)で欠席したので、今年は満を持して出席の筈だったが開演が7時半からだったのでつい一杯やっていたら会場の伊勢丹会館に着いたら、すでに始まっていた。元国土交通省の合田さん、元厚生労働省の宮島さんも来ていた。彼らによると落合さんの見せ場は終わったということらしい。それでも落合さんの踊りのシーンはいくつか見ることができた。踊りもよかったがギター(いわねさとし)、能で言うと謡のようなカンテ(森薫里)がよかった。雨が降ってきたので呑みには行かず解散。

6月某日
「介護職の看取り、グリーフケア」のインタビュー調査で地域密着型特養ホームつきしまを訪問する。長岡福祉協会首都圏事業部の統括施設長、笹川美由紀さんをインタビューするためだ。SCNの高本代表と市川さんが一緒だ。地下鉄の月島駅前に再開発されたキャピタルゲートプレイスザ・モールの3階、4階が長岡福祉協会の運営するケアサポートセンターつきしまで定員29人の特養と定員6人のショートステイ、いずれも個室だ。笹川さんのインタビューを通じて今まで漠然と感じていたことが確信に変わったように思う。それは利用者の尊厳を重んじ十分なケアを行うことが、手厚い看取り、遺族のグリーフケアに繋がるということだ。看取り加算が付くからと言って終末期に手厚い介護を行うというのはやはり違う。日常の十全なケアの延長線上に看取りケアはあるのだと思う。ここの特徴のひとつは食事が充実していること。ある日の夕食メニューは野菜の煮物(鶏肉・ちくわ・かぼちゃ・里芋・人参・椎茸・ごぼう)、なすと小松菜のピーナッツ和え、お漬物にご飯とみそ汁だ。インタビュー後施設を案内してくれた鈴木チーフリーダー(20代の好青年)は、「ご飯をたくさん召し上がっていただけます。要介護度軽くなる方もいらっしゃいます」と誇らしげに語ってくれた。中央区在住の高本代表はしきりに老後は「私もここに入りたい」と言っていた。

6月某日
佐伯啓思の「日本の宿命」(新潮新書13年1月刊)を読む。「新潮45」2011年9月号~2012年5月号の連載に加筆を施したもの。佐伯啓思は東大経済学部卒。京都大学名誉教授。、西部邁や村上誠亮に師事したとウィキペディアにある。「新潮45」の常連執筆者だから保守派には間違いない。開国、明治維新、文明開化、敗戦、占領、そしてアメリカをどうとらえるかについて佐伯の考えはたいそう参考になった。佐伯の考えは林房雄の「大東亜戦争肯定論」に近い。この論文は確か私が高校生の頃、雑誌「中央公論」に掲載されたもので、当時の左翼少年だった私は「とんでもない!」と怒ったものだ。しかし今は林の考え方に共感するところが多い。国、それは国家=ステートというより邦=クニに近いかもしれない。私らにとってクニ、ナショナルなものこそ思想の基礎となると思い始めたのである。いずれにしても日本が前世紀に中国大陸や東南アジアで戦ったいくさについては、戦後的な価値観だけではなく、世界史、そのなかの東アジア史、そのなかの日本史の中できちんと位置づける必要がある。

6月某日
芝公園にある住友不動産タワー。あたりを睥睨するかのごとく聳えたっている。家賃も高いに違いない。そのタワービルの3フロアを占めているのが昨年から当社のクライアントになったSMS社。いつもは当社のスタッフと連れ立って訪問するのだが今日は1人。SMS社のスタッフも訪問する人たちも私の息子くらいの年恰好。待合室で待っている間もどうも居心地が悪い。時間になって長久保さんが来る。女性スタッフが妊娠、出産、育児休業に入ると挨拶に来る。やはり若い会社なんだなー。

社長の酒中日記 6月その1

6月某日
富国生命ビル28階の富国倶楽部。6時前に着くと6時ちょうどに当社の大山氏が登場、少し遅れて社会保険出版社の高本社長、結核予防会の竹下専務が来る。高本社長がスマホを開いて「年金記録流出」の記事を見せてくれる。ほどなく私の携帯に年金局の八神総務課長から電話。「申し訳ありませんが本日の会合は欠席させていただきます」と。結局仲間内の呑み会になり、西新橋の居酒屋へ流れる。HCMの森社長が関西からの出張の帰りと言って顔を出す。高本社長と2人でニュー新橋ビルの地下のバーへ。我孫子へ帰って「愛花」で焼酎のお茶割を1杯。

6月某日
久しぶりにCIMネットの二宮さんを八丁堀の事務所を訪問。CIMネットは地域包括医療システムの構築を目指す医療職や介護職を応援する目的で設立されたNPO法人。事務所に行ったら印刷会社のキタジマの北島社長と打合せ中だった。ソルクシーズという会社の中島さんを紹介される。かの会社は見守り支援システム「いまイルモ」を開発、販売しているという。私はこれからの高齢者介護を支えるにはIT、ロボット、外国人労働力の活用が不可欠と思っているから非常に興味深かった。二宮さんに誘われて中島さんと3人で近くの「月山」で御馳走になる。残念ながら新橋の長谷川で先約があったので中座、長谷川に向かう。HCMの森社長、大橋常務、当社の赤堀、そして結核予防会の竹下専務と打合せ。

6月某日
午後、虎の門の医療・介護政策研究フォーラムの中村理事長を訪問。次いで西新橋のHCMの森社長、大橋常務と打合せ、それから高田馬場の社会福祉法人サンの西村理事長に面談。一度会社に帰って御茶ノ水の社会保険出版社の高本社長と打合せ。それから外神田の「章太亭」へ。前の厚労次官で、現在は京都大学の理事をやっている阿曽沼さんが東大で会議があるので上京。軽く一杯やることにした。約束は7時からだが、私は6時過ぎに章太亭へ。町内の旦那衆4、5人のグループが先月行われた神田明神のお祭りについて話している。鎌倉町や旭町という町名が聞こえてくる。私の会社がある内神田の旧町名ではないか。会話のなかに「いくよ寿司」や「寿司定」といった知っている店の名前も出てくる。見ず知らずの客だが親近感を持ってしまった。東大から阿曽沼さんが到着。「京大は百年先を見ている」とぶってきたそうだ。

6月某日
社保研ティラーレの佐藤社長と吉高さんに神田錦町の「由利本荘うまいもの酒場」で御馳走になる。料理も日本酒も旨かった。由利本庄市は鳥海山の麓だが、海も近く海のものもおいしい。私は社員の親族のお葬式で一度行ったことがあるが、山紫水明という表現が合う町だった。造り酒屋が4軒もある日本酒の町でもある。佐藤さんと吉高さんと別れ、9時ころ根津の「ふらここ」へ。常連の宮ちゃんが岩手県の一関に赴任、今日は出張で東京に来る。もちろん岩手のお酒も一緒に。ここでも日本酒をたっぷり御馳走になる。常連の宮越さんやあやちゃんも来る。

6月某日
「資本主義の預言者たち ―ニュー・ノーマルの時代へ」(角川新書 中野剛志 15年2月)を読む。著者は東大経学部教養学科を卒業後、通産省に入省。京都大学の准教授を経て、今は肩書が特にないから著述業かな。私にとっては保守派の印象が強いが、むしろグローバル化に抗する経済ナショナリストの印象が強まった。中野の言わんとすることはまず「資本主義は所有と経営が分離した結果、安定した秩序を保つことができ」なくなった。初期の資本主義では所有(株主)と経営は一致していたが、次第に株主は経営に参加せず経営には経営の専門家(経営者)が当たることになって行ったことを指す。株主は短期的な視野から株高を求めがちであり、この要求に応えようとした余り、エンロンの粉飾も起こったと考えられる。簡単に言うと中野は株主資本主義、金融資本主義、経済自由主義に反対しているのだ。これらに依拠し拝跪している限り資本主義は破綻すると。
中野は例えばシュンペーターに着目する。企業家の経済活動における動機は、主流派経済学が想定するように経済的利益の最大化といった功利主義的なものではなく、企業家を駆り立てるのはスポーツのような征服への意志、創造する喜びといった動機なのである。企業家の機能とは、生産手段をこれまでとはまったく違ったパターンで結合する「新結合」にある。この新結合を実行するために、企業家が必要とするものは何か。それは「意志と行動のみ」であるとシュンペーターは言う。まさにその通りだと思う。経済学は高等数学などを駆使して技術的には高度化されたかもしれないが経済哲学の面で前世紀の経済学者に大きく遅れをとっているのかもしれない。

6月某日
飲み友達の本郷さんに日比谷公会堂で集会があるから行こうと誘われる。「何の集会?」と聞くとメールで「国鉄」と返ってくる。「終わったら一杯やろう」とも書いてあるから行くことにする。山手線を有楽町で降りて公会堂へ。公会堂前の待ち合わせだが本郷さんはまだ来ていないようだ。参加者の一人が「向こうにいるのは全部公安ですよ」と言う。なんだかとても60年代、70年代の雰囲気だ。本郷さんを見つけて中に入る。韓国統一労組からの連帯のあいさつや動労千葉からのあいさつがある。なんとなく中核派系の集会だということがわかる。でも公会堂がほぼ一杯だったし、安保法制や集団的自衛権の問題で、国民の各層が危機感を持ち始めたのかもしれない。韓国労組との連帯はじめ国内でもいろんんな中小労組の連帯が進んでいるようだ。労働運動いまだ滅びずというところかね。集会は1部が終わったところで退席、新橋鴉森口で本郷さんと一杯。

6月某日
介護職の危機管理のDVD制作で、立川のケアセンター「やわらぎ」の石川代表と打合せ。映像の横溝君、当社の浜尾が同行。「やわらぎ」や社会福祉法人「にんじんの会」での危機管理の実際を参考にすることにする。危機管理は従業員個々の問題ではなく組織の問題であることがなんとなく理解できた。終わって新橋の「北の台所おんじき」へ。ここはHCMの大橋さんが予約していた店だが、大橋さんが行けなくなって予約を肩代わりしたところ。4人で予約したということなので、健康生きがい財団の大谷常務、共同通信の城を誘った。あと1名は一緒に立川に行ってもらった横溝君。酒も料理も旨かったが、何といっても松田隆行という人の津軽三味線のライブが素晴らしかった。

6月某日
「私の人生」などというと気恥ずかしいが、その私の人生に最も影響を与えた人と言えばやはり荻島國男さんの名前を挙げないわけにはいかない。荻島さんは20年以上前に亡くなった厚生官僚だ。私が荻島さんと初めて会ったのは彼が老人保健部の企画官の頃で、老人保健法の改正を進めるためのパンフレットを作ったときだ。企画官のときから「将来の次官候補」などと周囲から言われ、打合せ中も切れ者の印象が強く、私はただ議論を聞いているだけだった。あるとき文章を巡って私が「そこはこうしたほうがいいんではないですか」と言ったら、荻島さんが「あれっ君も意見を言うの」と少し驚きながら私の言葉に耳を傾けてくれた。荻島さんはなぜか私のことを気に入ってくれて、呑みにつれてくれていったりゴルフを誘ってくれたりした。それから荻島さんは調査室長として厚生白書を書き、白書をもっと読まれるにはどうしたらいいか、意見を求められたこともある。調査室長の次は児童手当課長。このときは単行本やポスターを作ったりした。このときの課長補佐が社会保険庁から来た池田保さんで、のちに「あのときは大変だったんだよ」とポツリと漏らしたことがある。つまり児童手当課は児童家庭局で児童家庭局系の出版社があり、そこに仕事を発注しないで当社に発注したことが一部のノンキャリの反発を買ったということらしい。
 荻島さんのこと書き出すとキリがなくなるので今日はここまでにしておこう。その荻島さんの奥さんの道子さんが体調を壊して入院中というので今日は見舞いに行ってきた。道子さんは思っていたより元気で近況を話してくれた。厚生労働省へ寄って昔、荻島さんの部下だった唐沢保険局長と武田審議官に報告。2人とも「昔、良く荻島さんの家で飯食わせてもらったからなー」と懐かしみながら、道子さんが思ったより元気なことを喜んでくれた。
 今日は人形町の「恭悦」が3周年と言うことでコース料理が3500円で飲み物が半額。セルフ・ケア・ネットワーク(SCN)の高本代表が予約してくれている。店に行くとすでにフィスメックの小出社長と社会保険出版社の高本社長が来ていた。ほどなくSCNの高本代表、市川さんが来る。SCNの岩阪夫妻も到着して乾杯。恭悦のお料理は美味しいだけでなく見た目がきれい。日本料理の伝統ですね。

6月某日
「介護職の看取り、グリーフケアの実態調査」で、今日はオランダ人の田中モニックさんにインタビュー。昨日に続いて「恭悦」で。私は原則として酒食を伴ったインタビューはすべきではないという考え(インタビューを終えてからならば構わないけれど)。で、今日は食事しながら呑みながらという趣向だったので正直不満(?)だった。でもモニカさんが酒を召し上がらないうえに大変聡明な人だったので、とても良いインタビューができたと思う。オランダ人は北方ゲルマン民族に属すると思うけど、私の印象は彼らがとてもインディペンデントなこと。モニカさんもその例にもれず自立した女性だった。考えてみると、日本の介護保険の理念は自立支援。私たちは介護だけでなく、なんによらず自立していかなければならないと思う。産業化と個人の自立は「近代化」の条件のように思う。自立と言う言葉を聞くと茨木のり子の「倚りかからず」という詩を思い出す。

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

社長の酒中日記 5月その3

5月某日
社会保険福祉協会で(社福)にんじんの会の石川理事長、当社の浜尾、映像担当の横溝君と打合せ。石川理事長は渋谷へ。浜尾は会社へ戻る。わたしと横溝君は「その辺で一杯」ということで西新橋界隈をぶらぶらしているとHCMの大橋さんが通りかかる。大橋さんも誘って、「南部どり内幸町店」に入る。ビールを呑んでいるとこの界隈の弁護士ビルに事務所のある学生時代の友人、雨宮君が入ってくる。声を掛けると「あれ、モリちゃんなんでいるの」と言うので「それはこっちのせりふだよ」と返す。帰り際に「近いうちに呑みましょう」と約束する。

5月某日
松戸の聖徳大学の篠崎先生にインタビュー。松戸のイトーヨーカ堂にあるレストランで待ち合わせ。先生は筑波大学で障害児教育を学び、出版社勤務の後、八戸学院大学で教え、昨年聖徳大学へ移った。先生は今、「介護の専門性は何か?」について具体的に解き明かそうとしている。介護福祉士は国家資格だし専門職なのだが、その中身はとなるとかなりあいまい。先生はそれを科学的に客観的に明らかにし、それで介護現場の報酬の低さを証明していく方向らしい。好漢シノチャン、がんばれ。
企業年金連合会の常務理事に就任した足利さんを訪問。私が理事をやっている社会福祉法人の評議員への就任を要請するため。西村理事長も同行。企業年金連合会の理事と他の団体の理事、評議員の兼職は禁止されているのかもしれないと思ったが、そんなことはなく快諾していただいた。社会福祉法人は高田馬場にあるが足利さんの自宅は小滝橋の近くだそうで、法人の近くまで散歩で来ることもあるそうだ。会談を終えて大宮に帰る西村さんと別れ、企業年金連合会近くのSMSへ。当社の迫田、浜尾とSMSの担当者と打合せ。打合せ後、近くの韓国料理屋「からくにや」で食事しながら打合せ。

5月某日
先日行った「地方から考える社会保障フォーラム」で講演してもらった宮島さんに社保研ティラーレの佐藤さんとお礼に。終わってからニュー新橋ビルの「初藤」で佐藤さんに御馳走になる。佐藤さんは衆議院議員だった樋高剛さんの秘書だったが、議員の落選にともない社保研ティラーレを設立、代表になった。小柄で顔立ちが可愛いので若く見えるが、「今年で50になるのでキャッシュカードを処分しました」と。そうか独身を通すというのも覚悟がいるのだなと思った次第。佐藤さんは元議員秘書だが、とても素朴で純真、話していて面白い。佐藤さんと別れニュー新橋ビルの2階にあった「T&A」を覗くと違う店になっていた。私がプレハブ新聞社にいたころから通った店でさみしい限り。マスターとママの「しゅうちゃん」はどうしたのだろう。我孫子駅前のバー「ボン・ヌフ」でジントニックとカナディアンウイスキーのロックを一杯。

5月某日
季刊誌「へるぱ!」の取材で日本介護福祉士会の内田千恵子副会長にインタビューに。フリーライターの沢見さんと当社の迫田も一緒。インタビューのテーマは介護福祉士の研修、人材育成だったが、話は「介護」という仕事の専門性とは何か?介護福祉士に求められる資質とは何か?に移って行った。内田さんに拠れば、例えば30分、45分間、高齢者宅を訪問介護するにしても、その時間帯だけの利用者のケアするのではなく、その人の1日の状態、生活はどうだったか、その人の暮らし、人生はどうだったか探求し、思い描かなければ十全な介護はできないということであった。介護という仕事は奥が深いと改めて思った。
「介護という仕事は肉体労働ではなく頭脳労働」という内田さんの言葉に深く納得。
一般社団法人の社会保険福祉協会から助成金をいただいて「介護職の看取り、グリーフケアの実態調査を行っているが、アンケート調査の項目を整理するため、SCNの高本代表の原案を元に、元厚労省で現在、筑波大学の宇野先生と議論。私と高本代表理事だけでは深まらない議論も宇野さんが入ると深化する。
元機械工業新聞労働組合の毛利さんから電話。毛利さんとは私がプレハブ新聞社の前に在籍していた日本木工新聞で労働組合をやっていた時、毛利さんが専門誌労協のオルグとして派遣されてきたときからの知り合い。ざっと40年くらいの付き合い。忘れたころに電話があり、酒を呑む関係だ。御徒町の居酒屋で一杯やった後、毛利さんのなじみの西日暮里の韓国倶楽部へ。毛利さんは韓国語が堪能。ホステスと韓国語で会話していた。

5月某日
保険局の武田審議官に次回の社会保障フォーラムのアドバイスを受けに社保険ティラーレの佐藤社長と。ソファーで先客の終わるのを待っていたら社会保険旬報の手塚さんが武田審議官に掲載誌を持ってくる。待っている間3人でおしゃべりする。武田審議官にいろいろとアドバイスを受けて帰社。当社の石津と久しぶりに呑みに行く。神田駅南口の「とめ手羽」に呑みに行く。結構繁盛している店で料理も美味しい。景気が少し回復してきたからなのだろうか、客足が戻ってきたように感じる。勘定を終えると竹下さんから携帯に電話。石津には「まっすぐ帰るんですよ」と声を掛けられたが神田の葡萄舎へ。焼酎を飲む。賢ちゃんとおねーちゃんも一緒に呑む。

5月某日
飯嶋和一の「狗賓童子の島」(小学館 15年2月)を図書館から借りて読む。A6判555ぺージの大著。幕末の隠岐を舞台とする歴史小説。大塩平八郎の乱に連座した父の罪により、西村常太郎は15歳の時に隠岐、島後に流される。常太郎は島民に暖かく見守られ青年医師に成長する。幕末の時勢は隠岐にも押し寄せ、隠岐の農民、漁民の松江藩への不満は高まる。庄屋や神官を指導者に島民は松江藩の代官を追放するのだが。鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争とほぼ同時期に行われた隠岐の島民の松江藩に対する反乱。これは一つの階級闘争としての農民戦争と言えなくもないと思う。支配者としての松江藩の収奪が庄屋や神官を指導者とする島民の蜂起をもたらしたのだ。明治維新を巡ってはその性格を巡って講座派と労農派の論争があったが、私としてはこの小説を読んで、「ブルジョア民主主義革命を内包しつつも基本は絶対主義の明治国家を成立させた」という折衷論をとりたい。飯嶋はなかなかの書き手と思う。

5月某日
日曜日だが、日本ホームヘルパー協会の因会長のインタビューがあるので大手町の新丸ビルへ。フレンチ料理の個室を確保している。因さん、当社の迫田、フリーライターの沢見さんと一緒に店に入る。食事の前に30分ほどインタビュー。食事をしながら1時間ほどその続き。因さんとは初対面だが飾らない、それでいて利用者やヘルパーのことをよく考えている人と思う。雑談のなかで因さんはボランティアから始め、家庭奉仕員、ヘルパー、介護福祉士、ケアマネージャーの資格をとってきた人らしい。結構な苦労人だが、そんなそぶりを少しも見せない。介護業界には魅力的な人が多いと改めて感じた。
東京に出てきたついでに相模大野でがん療養中のフリーライター、森絹江さんを見舞いに行くことにする。大学のサークルの後輩。サークルはロシヤ語研究会。のちに評論家となる呉智英さんなどもいた。森さんは入学後、共産同にオルグされて大学に来なくなった。再会したのは15年ほど前、私は編集者、彼女はフリーライターだった。彼女は女手ひとつで娘二人を育て上げ、そうしたら乳がんが発見された。5年くらい前だろうか。積極的な治療はしない段階になったそうで今日は見舞いに。在宅療養中で思っていたより元気だった。昔の仲間の話をして「また来るね」と別れた。

社長の酒中日記 5月その2

5月某日
「介護職の看取り、グリーフサポート」の調査研究で元厚生労働省で今は筑波大学の宇野さんに話を聞く。宇野さんは東日本大震災の被災者に対するメンタルヘルスの研究を実施。そのなかでグリーフケアについても触れている。宇野さんに来社してもらい、当社の会議室でインタビュー。被災者に対するケアはグリーフに限らず、簡単ではなさそうだということがわかった。セルフケア・ネットワークの高本代表理事、市川理事、当社の浜尾が同席。インタビュー終了後、会社近くのベルギー料理の店「St.Bernard」でベルギービールで乾杯。最近はどこの店に行っても、私は最年長グループだ。まぁしょうがありません。

5月某日
飯田橋の東京ボランティア・市民活動センターで日本介護福祉士会の内田千恵子副会長が「介護福祉士の今とこれから~2015年の介護保険を考える」という話をするというので、聞きに行くことにする。介護職の現状が分かって、大変有意義だったが、「介護職の現状がこんなので私たちが後期高齢者となる2025年は大丈夫か」と思ってしまった。介護福祉士の資格取得方法は大きく分けて2つ。①養成施設卒業②実務経験3年を経て国家試験を受験―である。養成施設卒業者は国家試験を受験しなくても介護福祉士の資格が付与される(2017年度の卒業生からは、国家試験を受験する)。内田さんは「国家試験を受けずに国家資格を取得できることにも問題はあるが、実務経験者は受験対策の勉強はしても、知識等を体系的に学ぶ機会はほとんどない」と問題点を指摘。さらに「介護職自身が正しく自分の職業を捉えておらず、ホスピタリティがあればできると考えている」「アセスメント力やコミュニケーション能力が非常に大事にもかかわらず、教育や訓練等を受ける機会がない」と語り、「介護は単なる肉体労働などではなく、利用者の意思を尊重し、尊厳を守るという職業倫理をもって行う頭脳労働」であり「介護福祉士自身が介護の仕事を見つめなおし、その重要性を認識する必要がある」と結んだ。その通りだが現状を変えていくためには、介護事業の経営者、養成校の教師、経営者の意識、そしてなによりも市民の意識を変えていくことが必要だ。

5月某日
世田谷区八幡山にある「夢のみずうみ村新樹苑」を見学に行く。元社会保険庁長官の渡邉芳樹さんや元毎日新聞の宮武さん、山地さんに誘われた。案内してくれたのは施設長の半田理恵子さん。説明も的確だし、説明の端々に施設経営の理念が伺える。聞くと世田谷の輝正会のリハビリ施設で働いていたこともあり、私が船橋リハ病院でお世話になった伊藤隆夫さんのこともよく知っていた。

5月某日
富国生命ビルの富国倶楽部。18時半からだが18時過ぎからビールを呑み始める。18時30分過ぎに当社の岩佐が来る。地域医療推進機構(JCHO)の藤木理事から「少し遅れますが亀井さん(同機構理事)はそろそろ着くはずです」との電話がある。亀井さんが登場。富国倶楽部に掛かっているシャガールの絵などを説明。遅れて藤木さん、それから支払基金の石井専務理事が来る。石井さんは広島への出張の帰り。20時過ぎに京大の阿曽沼理事が来る。阿曽沼さんは厚労事務次官の後、京大IPS研究所の顧問になり、昨年、京大の理事になった。何かと使われるらしく、今日も京大出身の政治家との会合があったそうだ。21時過ぎに散会。

5月某日
社会福祉法人サンで理事長と話していると川村女子学園大学の吉武副学長から電話。東京での会合が終わったら根津の「ふらここ」に顔を出すという。「ふらここ」は8時過ぎにしか店を開けないからそれまで時間をつぶす必要がある。で、僕よりも20歳くらい若いけれど友人の計良弁護士に電話するとOKだという。高田馬場の駅近くの「食道いろかわ」で待つことにする。板前さんがきちんとした和食を作るなかなかいい店だった。計良君と別れ根津の「ふらここ」へ。ほどなく吉武先生が来る。

5月某日
「地方から考える社会保障フォーラム」。夕方の情報交換会に出席。我孫子の関議員、鴻巣の頓所議員、豊橋の宮沢議員、健康生きがい財団の大谷常務と会社近くの福一に呑みに行く。地方議会においても社会保障が重要な論点になっていることがよくわかる。介護や公衆衛生、生活費後、児童福祉など社会保障のほとんどの分野を、支えているのは基礎自治体だ。私たちももっとそこに目を向けていかなければと思う。

5月某日
高田馬場でグループホームを運営する社会福祉法人サンの理事会・評議員会。少し早めに行ったら評議員の三木さんが見えていた。三木さんは昨年ご主人を亡くし今は柏の有料老人ホームに住んでいるという。今回、息子さんの運転で柏からわざわざいらしてくれた。三木さんは浴風会ケアスクールの服部さんとも親しい。いろんな話ができて楽しかった。理事会の議論の中で社会福祉法人経営の難しさを垣間見た思いがする。

5月某日
民介協の定例総会。当社も賛助会員であるので参加。同じ賛助会員の社会保険出版社の高本社長、SCNの高本、市川理事も参加。総会後の厚労省、三浦老健局長の講演を聞く。地域包括ケアシステムは何も高齢者のみのためのシステムではなく、障碍者や児童、一般市民も含んだものということがよくわかった。パーティではSNSの2人を民介協のメンバーに紹介する。

5月某日
「つやの夜」(井上荒野 新潮社 10年4月)を読む。艶という名前の女と関わりのあった男たち。そして彼らの妻、恋人、娘たちの物語。艶は末期のがんでO島の病院に入院している。料理旅館を経営している夫の松生は看病のため足繁く通うのだが。男女関係に奔放だった艶。それに翻弄されつつも艶に魅かれる松生。男女間の愛とはなんだろうか、関係って何だろうと考えさせるような小説だ。井上は独自の小説世界を築いたように思う。

社長の酒中日記 5月その1

5月某日
五月晴れにふさわしいいい陽気だ。神田駅南口の「軍鶏鍋龍馬」で民介協の佐藤理事長、扇田専務、そして民介協で健保組合の設立を検討していたソラストの岡村さんと4人で呑む。健保組合は今のところ拠出金の負担が膨大になるとかで断念、今日は岡村さんのご苦労さん会。私は関係ないけれど時間が空いていたので参加。ここはチムニー系の居酒屋だそうだがなかなか美味しかった。民介協の理事長も専務も楽しい人で気持ち良く酔えた。

5月某日
ゴールデンウィーク。毎年のことだが特に予定もないので福島県のいわき市に出かけることにする。震災後、いわき市には何度か行ったが、私の場合はボランティアで何かをするというのではなく「ただ行く」だけ。我孫子から常磐線の各駅停車を乗り継いで3時間以上かけていわきへ。いわきの中心市街地は地震や津波の影響は軽微だったが、常磐線のふたつ先の四倉は津波の被害を受けた。四倉駅から私の足で15~20分ほど歩くと四倉海岸だ。ここの道の駅は津波で大きな被害を受けたが、改修して今は営業をやっている。野菜などを購入。大川商店という大きな魚屋があるのだが今回はパス。帰りは四倉から水戸行に乗って水戸で上野行きに乗り換え。水戸でビールと日本酒を買い、それを呑みながら我孫子へ。途中で大越さんから「今、愛花にいるから」と携帯に電話。で愛花に寄る。

5月某日
連休中なれど高田馬場の社会福祉法人サンへ。理事で西東京市でグループホームを経営している安岡さんやフリーアナウンサーの町さんと食事へ。さぬきうどん屋に行く。少し摂取カロリーを減らそうと思っているんで私もレディーズセットを注文。すると「男の人は注文できません」。町さんが「じゃ私が頼んだことにすればいい」と言ってくれたので、めでたくレデーズセットにありつけることができた。これって逆差別だと思う。
高田馬場からに日本橋小舟町のセルフケアネットワーク(SCN)へ。アンケート調査の設問事項の確認。終わると人形町のカウンターだけの創作料理屋さんで御馳走になる。美味しいし雰囲気がいい。この界隈はレベルが高い。

5月某日
我孫子市民図書館でポプラ文庫の「Tanabe Seiko Collection5 うすうす知っていた」を借りる。田辺の短編をテーマ別に再編集したもので面白い試みと思う。巻末に田辺のインタビューがついているのもいい。そのインタビューによると「この本には、表だってあきらかにはできない、微妙な心理を扱った作品を集めた」という。要するに独身者2人だけの恋愛ならば、問題は2人の愛に限定されるが、それに家族が絡むとややこしくなる。そのもつれた糸をときほぐすでもなく「こんなになっている」と見せるのが田辺の力量なのではないだろうか。それもユーモアを交えて。田辺の短編にユーモアは欠かせないし、そのユーモアは登場人物たちが話す大阪弁とも密接につながっている。言葉と土地が分かりやすく結びついているのが大阪だ。

5月某日
我孫子市民図書館で借りた「妻の超然」(絲山秋子 10年9月 新潮社)を読む。表題作と「下戸の超然」「作家の超然」の3作が収録されている。3作は独立したストーリーで連関しない。共通するのは主人公が何者かから「超然」としていること。第3作で主人公の作家である「おまえ」は「超然というのは手をこまねいて、すべてを見過ごすことなのだ」と語らせている。第2作の主人公「僕」は恋人に「そうやっていつまでも超然としていればいいよ。私は、もう合わせられないけど」と別れを告げられる。第1作の主人公「理津子」は「およそ妻たるものが超然としていなければ、世の中に超然なんて言葉は必要ないのだ」と考える。まぁ私が思うに絲山の「超然」は夫(第1作)、恋人(第2作)、社会や自然(第3作)に対する関係性の持ち方の態度のあり方ではなかろうか。この小説は現代人の持つ「関係性への不安」をよく表していると思う。

5月某日
連休明け。映像の仕事をやっていて当社とも何度かコラボしたことのある横溝Jrと胃ろう吸引シミュレータの開発者である土方さんとビアレストランかまくら橋へ。横溝JrとJrがつくのは、もともと横溝さんのお父さんと知り合いだったため、勝手に命名したもの。「胃ろう・吸引シミュレータ」は当社からHCMに販売を移したが、今年1月以降ほとんど動いていない。積極的な宣伝・営業活動を行っていないので当然と言えば当然であるが、商品力はあるとみているので再度テコ入れを図りたい。土方さんは40代、横溝Jrは30代と思われるが、66歳の私にとっては若い友人。向こうがどう思っているかわからないが年下の友人として大事にしたい。

5月某日
住宅金融支援機構の理事に東急住生活研究所の望月さんが就任したのでプレハブ建築協会の合田専務、高齢者住宅財団の落合さんと鎌倉河岸ビル地下1階の{跳人}で祝う会。望月さんとは住文化研究協議会で親しくさせてもらって20年位になるのかな。合田さんに至っては私が日本プレハブ新聞社の記者として当時の建設省住宅局住宅生産課を取材で回っていた時の担当係長。今から30年以上前の話である。落合さんは私が年友企画に入社して5年くらい経ったころアルバイトで年金時代の編集をしていた。そういうわけで3人とも古い友人。しかも住宅関係という共通点がある。望月さんはお酒は呑まないが非常にさっぱりした女性。お父さんの転勤で福岡の修猷館高校に転入、この欄に度々登場する吉武さんの後輩にあたる。昔話に盛り上がった。

5月某日
日本橋三越前で西東京の田無病院で地域連携の仕事をやっている社会福祉士でケアマネの高岡さんと待ち合わせ。日本橋小舟町のセルフケアネットワークで「看取り・グリーフケア」についてのインタビューをさせてもらうためだ。今日は神田明神の大祭にあたり三越前も見物客でごった返していた。小舟町に行く間にも神輿に遭遇した。インタビューは医療職と介護職との連携の必要性と難しさ、ケアマネの置かれている状況と課題など多岐にわたる問題に答えてもらった。高岡さんに深く感謝である。終わって近くの洒落た料理屋さんで御馳走になる。先付や刺身など美味しいうえに盛り付けがきれい。この界隈は本当にレベルが高いと思う。

5月某日
平野貞夫の「戦後政治の智」(イースト新書 2014年2月)を読む。著者は1935年高知県出身。法政大学の学生時代、同郷の吉田茂の知己を得、大学院卒業後衆議院事務局に入る。1992年、参議院議員に当選、自民党、新生党、自由党、民主党と一貫し小沢一郎と行動を共にする。実は私と親交のある樋高剛元衆議院議員の岳父でもある。そんな関係でこの本も贈呈されたものと思う。よくある政治家の本と思って読まずにいたのだが、連休中に読み始めて面白さに引き込まれることとなった。私は現今の政治家には甚だしく不信感を抱いている。安倍首相にしろ、あの何とも言えない高揚感には「関わりたくない」と思ってしまうし、民主党の鳩山とか管などは「論外」としか思えない。もちろん近しく言葉を交わしたこともないので本当のところは確認できないのだが、政治家としての見識が感じられないのだ。
平野は本書で吉田茂、林譲治、佐藤栄作、園田直、前尾繁三郎、田中角栄について議会の事務局としてつきあった印象を記しているが、いずれも極めて人間的でしかも国家、国民の将来に対して深い思いを持っていることが伺われた。私が過激派と一緒になってデモをしたり火炎瓶を投げてた頃は、ちょうど佐藤栄作政権のときと重なる。当時は自民党の保守政治こそが打倒すべき対象であったのだが、まぁ若気の至りでしたね。こうした保守政治家たちにはおそらく確固としした国家観があったのだと思う。総じて現今の政治家は小粒であると思わざるを得ない。国民にとっての不幸である。