社長の酒中日記 5月その2

5月某日
「介護職の看取り、グリーフサポート」の調査研究で元厚生労働省で今は筑波大学の宇野さんに話を聞く。宇野さんは東日本大震災の被災者に対するメンタルヘルスの研究を実施。そのなかでグリーフケアについても触れている。宇野さんに来社してもらい、当社の会議室でインタビュー。被災者に対するケアはグリーフに限らず、簡単ではなさそうだということがわかった。セルフケア・ネットワークの高本代表理事、市川理事、当社の浜尾が同席。インタビュー終了後、会社近くのベルギー料理の店「St.Bernard」でベルギービールで乾杯。最近はどこの店に行っても、私は最年長グループだ。まぁしょうがありません。

5月某日
飯田橋の東京ボランティア・市民活動センターで日本介護福祉士会の内田千恵子副会長が「介護福祉士の今とこれから~2015年の介護保険を考える」という話をするというので、聞きに行くことにする。介護職の現状が分かって、大変有意義だったが、「介護職の現状がこんなので私たちが後期高齢者となる2025年は大丈夫か」と思ってしまった。介護福祉士の資格取得方法は大きく分けて2つ。①養成施設卒業②実務経験3年を経て国家試験を受験―である。養成施設卒業者は国家試験を受験しなくても介護福祉士の資格が付与される(2017年度の卒業生からは、国家試験を受験する)。内田さんは「国家試験を受けずに国家資格を取得できることにも問題はあるが、実務経験者は受験対策の勉強はしても、知識等を体系的に学ぶ機会はほとんどない」と問題点を指摘。さらに「介護職自身が正しく自分の職業を捉えておらず、ホスピタリティがあればできると考えている」「アセスメント力やコミュニケーション能力が非常に大事にもかかわらず、教育や訓練等を受ける機会がない」と語り、「介護は単なる肉体労働などではなく、利用者の意思を尊重し、尊厳を守るという職業倫理をもって行う頭脳労働」であり「介護福祉士自身が介護の仕事を見つめなおし、その重要性を認識する必要がある」と結んだ。その通りだが現状を変えていくためには、介護事業の経営者、養成校の教師、経営者の意識、そしてなによりも市民の意識を変えていくことが必要だ。

5月某日
世田谷区八幡山にある「夢のみずうみ村新樹苑」を見学に行く。元社会保険庁長官の渡邉芳樹さんや元毎日新聞の宮武さん、山地さんに誘われた。案内してくれたのは施設長の半田理恵子さん。説明も的確だし、説明の端々に施設経営の理念が伺える。聞くと世田谷の輝正会のリハビリ施設で働いていたこともあり、私が船橋リハ病院でお世話になった伊藤隆夫さんのこともよく知っていた。

5月某日
富国生命ビルの富国倶楽部。18時半からだが18時過ぎからビールを呑み始める。18時30分過ぎに当社の岩佐が来る。地域医療推進機構(JCHO)の藤木理事から「少し遅れますが亀井さん(同機構理事)はそろそろ着くはずです」との電話がある。亀井さんが登場。富国倶楽部に掛かっているシャガールの絵などを説明。遅れて藤木さん、それから支払基金の石井専務理事が来る。石井さんは広島への出張の帰り。20時過ぎに京大の阿曽沼理事が来る。阿曽沼さんは厚労事務次官の後、京大IPS研究所の顧問になり、昨年、京大の理事になった。何かと使われるらしく、今日も京大出身の政治家との会合があったそうだ。21時過ぎに散会。

5月某日
社会福祉法人サンで理事長と話していると川村女子学園大学の吉武副学長から電話。東京での会合が終わったら根津の「ふらここ」に顔を出すという。「ふらここ」は8時過ぎにしか店を開けないからそれまで時間をつぶす必要がある。で、僕よりも20歳くらい若いけれど友人の計良弁護士に電話するとOKだという。高田馬場の駅近くの「食道いろかわ」で待つことにする。板前さんがきちんとした和食を作るなかなかいい店だった。計良君と別れ根津の「ふらここ」へ。ほどなく吉武先生が来る。

5月某日
「地方から考える社会保障フォーラム」。夕方の情報交換会に出席。我孫子の関議員、鴻巣の頓所議員、豊橋の宮沢議員、健康生きがい財団の大谷常務と会社近くの福一に呑みに行く。地方議会においても社会保障が重要な論点になっていることがよくわかる。介護や公衆衛生、生活費後、児童福祉など社会保障のほとんどの分野を、支えているのは基礎自治体だ。私たちももっとそこに目を向けていかなければと思う。

5月某日
高田馬場でグループホームを運営する社会福祉法人サンの理事会・評議員会。少し早めに行ったら評議員の三木さんが見えていた。三木さんは昨年ご主人を亡くし今は柏の有料老人ホームに住んでいるという。今回、息子さんの運転で柏からわざわざいらしてくれた。三木さんは浴風会ケアスクールの服部さんとも親しい。いろんな話ができて楽しかった。理事会の議論の中で社会福祉法人経営の難しさを垣間見た思いがする。

5月某日
民介協の定例総会。当社も賛助会員であるので参加。同じ賛助会員の社会保険出版社の高本社長、SCNの高本、市川理事も参加。総会後の厚労省、三浦老健局長の講演を聞く。地域包括ケアシステムは何も高齢者のみのためのシステムではなく、障碍者や児童、一般市民も含んだものということがよくわかった。パーティではSNSの2人を民介協のメンバーに紹介する。

5月某日
「つやの夜」(井上荒野 新潮社 10年4月)を読む。艶という名前の女と関わりのあった男たち。そして彼らの妻、恋人、娘たちの物語。艶は末期のがんでO島の病院に入院している。料理旅館を経営している夫の松生は看病のため足繁く通うのだが。男女関係に奔放だった艶。それに翻弄されつつも艶に魅かれる松生。男女間の愛とはなんだろうか、関係って何だろうと考えさせるような小説だ。井上は独自の小説世界を築いたように思う。

社長の酒中日記 5月その1

5月某日
五月晴れにふさわしいいい陽気だ。神田駅南口の「軍鶏鍋龍馬」で民介協の佐藤理事長、扇田専務、そして民介協で健保組合の設立を検討していたソラストの岡村さんと4人で呑む。健保組合は今のところ拠出金の負担が膨大になるとかで断念、今日は岡村さんのご苦労さん会。私は関係ないけれど時間が空いていたので参加。ここはチムニー系の居酒屋だそうだがなかなか美味しかった。民介協の理事長も専務も楽しい人で気持ち良く酔えた。

5月某日
ゴールデンウィーク。毎年のことだが特に予定もないので福島県のいわき市に出かけることにする。震災後、いわき市には何度か行ったが、私の場合はボランティアで何かをするというのではなく「ただ行く」だけ。我孫子から常磐線の各駅停車を乗り継いで3時間以上かけていわきへ。いわきの中心市街地は地震や津波の影響は軽微だったが、常磐線のふたつ先の四倉は津波の被害を受けた。四倉駅から私の足で15~20分ほど歩くと四倉海岸だ。ここの道の駅は津波で大きな被害を受けたが、改修して今は営業をやっている。野菜などを購入。大川商店という大きな魚屋があるのだが今回はパス。帰りは四倉から水戸行に乗って水戸で上野行きに乗り換え。水戸でビールと日本酒を買い、それを呑みながら我孫子へ。途中で大越さんから「今、愛花にいるから」と携帯に電話。で愛花に寄る。

5月某日
連休中なれど高田馬場の社会福祉法人サンへ。理事で西東京市でグループホームを経営している安岡さんやフリーアナウンサーの町さんと食事へ。さぬきうどん屋に行く。少し摂取カロリーを減らそうと思っているんで私もレディーズセットを注文。すると「男の人は注文できません」。町さんが「じゃ私が頼んだことにすればいい」と言ってくれたので、めでたくレデーズセットにありつけることができた。これって逆差別だと思う。
高田馬場からに日本橋小舟町のセルフケアネットワーク(SCN)へ。アンケート調査の設問事項の確認。終わると人形町のカウンターだけの創作料理屋さんで御馳走になる。美味しいし雰囲気がいい。この界隈はレベルが高い。

5月某日
我孫子市民図書館でポプラ文庫の「Tanabe Seiko Collection5 うすうす知っていた」を借りる。田辺の短編をテーマ別に再編集したもので面白い試みと思う。巻末に田辺のインタビューがついているのもいい。そのインタビューによると「この本には、表だってあきらかにはできない、微妙な心理を扱った作品を集めた」という。要するに独身者2人だけの恋愛ならば、問題は2人の愛に限定されるが、それに家族が絡むとややこしくなる。そのもつれた糸をときほぐすでもなく「こんなになっている」と見せるのが田辺の力量なのではないだろうか。それもユーモアを交えて。田辺の短編にユーモアは欠かせないし、そのユーモアは登場人物たちが話す大阪弁とも密接につながっている。言葉と土地が分かりやすく結びついているのが大阪だ。

5月某日
我孫子市民図書館で借りた「妻の超然」(絲山秋子 10年9月 新潮社)を読む。表題作と「下戸の超然」「作家の超然」の3作が収録されている。3作は独立したストーリーで連関しない。共通するのは主人公が何者かから「超然」としていること。第3作で主人公の作家である「おまえ」は「超然というのは手をこまねいて、すべてを見過ごすことなのだ」と語らせている。第2作の主人公「僕」は恋人に「そうやっていつまでも超然としていればいいよ。私は、もう合わせられないけど」と別れを告げられる。第1作の主人公「理津子」は「およそ妻たるものが超然としていなければ、世の中に超然なんて言葉は必要ないのだ」と考える。まぁ私が思うに絲山の「超然」は夫(第1作)、恋人(第2作)、社会や自然(第3作)に対する関係性の持ち方の態度のあり方ではなかろうか。この小説は現代人の持つ「関係性への不安」をよく表していると思う。

5月某日
連休明け。映像の仕事をやっていて当社とも何度かコラボしたことのある横溝Jrと胃ろう吸引シミュレータの開発者である土方さんとビアレストランかまくら橋へ。横溝JrとJrがつくのは、もともと横溝さんのお父さんと知り合いだったため、勝手に命名したもの。「胃ろう・吸引シミュレータ」は当社からHCMに販売を移したが、今年1月以降ほとんど動いていない。積極的な宣伝・営業活動を行っていないので当然と言えば当然であるが、商品力はあるとみているので再度テコ入れを図りたい。土方さんは40代、横溝Jrは30代と思われるが、66歳の私にとっては若い友人。向こうがどう思っているかわからないが年下の友人として大事にしたい。

5月某日
住宅金融支援機構の理事に東急住生活研究所の望月さんが就任したのでプレハブ建築協会の合田専務、高齢者住宅財団の落合さんと鎌倉河岸ビル地下1階の{跳人}で祝う会。望月さんとは住文化研究協議会で親しくさせてもらって20年位になるのかな。合田さんに至っては私が日本プレハブ新聞社の記者として当時の建設省住宅局住宅生産課を取材で回っていた時の担当係長。今から30年以上前の話である。落合さんは私が年友企画に入社して5年くらい経ったころアルバイトで年金時代の編集をしていた。そういうわけで3人とも古い友人。しかも住宅関係という共通点がある。望月さんはお酒は呑まないが非常にさっぱりした女性。お父さんの転勤で福岡の修猷館高校に転入、この欄に度々登場する吉武さんの後輩にあたる。昔話に盛り上がった。

5月某日
日本橋三越前で西東京の田無病院で地域連携の仕事をやっている社会福祉士でケアマネの高岡さんと待ち合わせ。日本橋小舟町のセルフケアネットワークで「看取り・グリーフケア」についてのインタビューをさせてもらうためだ。今日は神田明神の大祭にあたり三越前も見物客でごった返していた。小舟町に行く間にも神輿に遭遇した。インタビューは医療職と介護職との連携の必要性と難しさ、ケアマネの置かれている状況と課題など多岐にわたる問題に答えてもらった。高岡さんに深く感謝である。終わって近くの洒落た料理屋さんで御馳走になる。先付や刺身など美味しいうえに盛り付けがきれい。この界隈は本当にレベルが高いと思う。

5月某日
平野貞夫の「戦後政治の智」(イースト新書 2014年2月)を読む。著者は1935年高知県出身。法政大学の学生時代、同郷の吉田茂の知己を得、大学院卒業後衆議院事務局に入る。1992年、参議院議員に当選、自民党、新生党、自由党、民主党と一貫し小沢一郎と行動を共にする。実は私と親交のある樋高剛元衆議院議員の岳父でもある。そんな関係でこの本も贈呈されたものと思う。よくある政治家の本と思って読まずにいたのだが、連休中に読み始めて面白さに引き込まれることとなった。私は現今の政治家には甚だしく不信感を抱いている。安倍首相にしろ、あの何とも言えない高揚感には「関わりたくない」と思ってしまうし、民主党の鳩山とか管などは「論外」としか思えない。もちろん近しく言葉を交わしたこともないので本当のところは確認できないのだが、政治家としての見識が感じられないのだ。
平野は本書で吉田茂、林譲治、佐藤栄作、園田直、前尾繁三郎、田中角栄について議会の事務局としてつきあった印象を記しているが、いずれも極めて人間的でしかも国家、国民の将来に対して深い思いを持っていることが伺われた。私が過激派と一緒になってデモをしたり火炎瓶を投げてた頃は、ちょうど佐藤栄作政権のときと重なる。当時は自民党の保守政治こそが打倒すべき対象であったのだが、まぁ若気の至りでしたね。こうした保守政治家たちにはおそらく確固としした国家観があったのだと思う。総じて現今の政治家は小粒であると思わざるを得ない。国民にとっての不幸である。

社長の酒中日記 4月その3

4月某日
結核予防会の竹下専務と高田馬場の「だるま」で5時半くらいから呑み始める。竹下さんとは30年来の付き合い。この間、一緒に呑んだ回数はもっとも多いのではないか。よく飽きないものである。焼き鳥をつまみに秋田県由利本庄の「天寿」、東北大震災で蔵元自体が福島から山形へ引っ越した「親父の小言」などを呑む。

4月某日
「介護職による看取り、およびグリーフケアのあり方に関する調査研究」を一般社団法人のセルフ・ケア・ネットワークとやることになった。社会保険福祉協会が助成してくれることになり、関西学院大学の坂口先生に全般的な監修をお願いすることにする。明日、朝の9時半に先生の研究室にうかがうことになっているので神戸に泊まることにする。旅行代理店に頼んだが手ごろなホテルがどこも一杯で「ケーニヒスクローネホテル」がやっととれた。朝食付きで1泊1万2、3000円だったと思う。当社の出張規定では宿泊費は一律9500円だから差額は自腹である。昔仲人をした佐々木健君がこっちに住んでいるので呑みに行くことにする。ホテルに迎えに来てくれた佐々木君が「なんでこんなお洒落なホテルに泊まっているんすか」と驚くほどのホテルである。あとで調べたら「ケーニヒスクローネ」とは神戸の有名な洋菓子屋さんらしい。三宮の居酒屋で新鮮な刺身と灘のお酒を御馳走になる。

4月某日
坂口先生をセルフ・ケア・ネットワーク(以下SCNと略)の高本代表理事と訪ねる。調査にいろいろとアドバイスをいただき監修も引き受けてもらった。三宮に戻り生田神社に参拝。お昼ご飯を高本代表理事に御馳走になる。インタビュー調査のため尾道へ。福山で「のぞみ」から「こだま」に乗り換え新尾道へ。新尾道からバスで尾道へ。最初のインタビューは在宅医療やチーム医療の先駆者である片山先生。片山先生は診察があるのでインタビューは6時から。それまで時間があるので私は尾道の繁華街を散策。小洒落た喫茶店でビールをいただく。尾道ゆかりの作家、林芙美子の坐像も見ることができた。片山先生からは「主治医の立場」での在宅緩和ケアや長期にわたるグリーフケアの話を伺うことができた。グリーフケアというのは人間同士のマナーであり、ヒューマニィティとフィロソフィーが必要という話が印象に残った。片山医院からタクシーで黒瀬歯科医院へ。歯科医院の前で先生と奥さんが待っていてくれる。内装を黒で統一したお洒落なレストランに案内される。地元の食材をふんだんに使った創作料理と広島の日本酒をいただく。口腔ケアや医科と歯科、歯科と介護の連携の話も伺ったのだが、料理と酒に夢中で覚えていない。近くのバーに寄って私はウイスキーのソーダ割りを頼む。先生はウオッカベースのモスコーミュール。すっかり御馳走になってしまった。

4月某日
早起きして尾道の港のほうを散策。尾道は「しまなみ海道」の起点。サイクリング客の誘致に力を入れている。港の空き倉庫を改修してホテルにしている。1階はレストラン、喫茶、物産店になっている。私は尾道の柑橘類と野菜を買う。11時に昨夜の黒瀬先生に紹介された小規模多機能「森のクマさん」を訪問。看護師で地区統括本部長の佐古田さん社会保険労務士でこの施設を運営するブレークスルーの相川社長が応対してくれた。佐古田さんは「誰にでも死は必ず来る。入居施設として入居者の最期まで責任を持ちたい」と語り、当初は介護職も看取りには抵抗があり、辞めていく職員もいたが1年半たつと職員の離職率はずいぶん減ったという。「疾患や障害しか見てこなかったのが入居者を全人的にみられるようになったからだと思う」と語ってくれた。昼食を近くのイタリアンレストランで御馳走になる。私はあさりのスパッゲティをいただく。非常においしかった。相川社長によると尾道の飲食店は総じて平均点が高いということだった。古くから港町として栄えてきたこととも関係するのだろうが文化度が高いのだ。
東京へ帰る高本さんと別れ、私は名古屋へ。名古屋では社会福祉士でケアマネの小藤さんに「対人援助DVD」の制作について相談。その後、児玉道子さんとその夫の隆夫さん、それから隆夫さんの社会福祉士の研修仲間と沖縄料理の居酒屋へ行く。沖縄出身者が集まる店のようで沖縄方言、うちなー口が飛び交っていた。若い人たちと呑めて楽しかった。

4月某日
3泊4日の出張も終わり。今日は日曜日なので東京駅から我孫子へ直帰。我孫子の駅前の「しちりん」と「愛花」による。

4月某日
映像プロデューサーの横溝さんと社会保険福祉協会の内田さん、岩崎さんと4人で西国分寺の社会福祉法人にんじんの会が運営する「にんじんホーム」を訪問。理事長の石川さんと介護事業者のための危機管理をテーマとしたDVDの教材の製作の打合せのためだ。にんじんの会の在宅サービスの職員、老健や特養、グループホームの職員も参加してディスカッション。老健のドクターやナースも参加したので医療的な危機管理についても話すことができた。終わって横溝君は次の打合せへ。社会保険福祉協会の2人と私は西国駅前の割烹で理事長に御馳走になる。新潟の酒と肴が絶品だった。

4月某日
厚生労働省の武田審議官を訪ねて1階のゲートを出ようとすると共同通信の城から声を掛けられる。今日、健康生きがい財団の大谷常務と福井Cネットの松永さんと呑むという。私も予定した呑み会が先方の体調不良で中止になったこともあって参加することに。会社近くのレストランかまくら橋に6時に行くと「今日は貸切です」と断られる。同じビルの地下1階の津軽料理の店「跳人」にする。6時半ころ大谷さんと松永さんが到着。遅れて城が参加。松永さんは福井県で障碍者の就労に取り組んでいる。松永さんと話していると障碍者の問題は健常者の問題であり、市民社会全体の問題であることがよくわかる。

4月某日
今日は「緑の日」で休日なのだが東京福祉専門学校の白井孝子先生に用があるので出社。西葛西の東京福祉専門学校へ。大谷さんにも付き合ってもらう。キタジマ印刷の金子さんのところへ。金子さんにも休日出勤してもらう。キタジマ印刷は都営地下鉄の森下の近く。近辺には良さげな呑み屋さんが多いのだが、休日の4時過ぎということで空いている店が少ない。いっそのことと京成立石まで足を伸ばすことにする。「中みっちゃん」という居酒屋に入り、ビール、お酒、ニラ玉、アジのなめろう、ホウレンソウのバター炒めなどをいただく。安くておいしかった。

4月某日
「舟を編む」(三浦しおん 光文社文庫 15年3月 単行本初版は11年9月)を読む。玄武書房に勤める馬締光也青年が国語辞書「大渡海」の制作のために辞書編集部に異動する。下宿の女主人との交流、その孫娘との出会い、恋愛、結婚、同僚、先輩、編集顧問の老いた国語学者たちとのさまざまなエピソードがこの小説に大小の起伏を与えている。馬締は自らがノメリコムことができる「辞書作り」という仕事につけて幸せであった。私自身のことを言うのはいささか憚られるが、私も介護や福祉というジャンルに雑誌作りを通して出会えることができて幸せであった。

4月某日
私が理事をやっている高田馬場の社会福祉法人サンで理事長の西村さんと評議員で税理士の伊藤さん、理事で弁護士の川島さんと打合せ。ここの社会福祉法人は職員はもとよりほとんど無報酬の理事や評議員によっても支えられていることを実感する。打合せを終わって有楽町電気ビル地下1階の「あい谷」へ。ここは10数年通っているが今日が閉店ということだ。新宿に「あぐら」という店があり、厚生省の官僚がよく使っていた。そこの雇われママさんのような人が「あい谷」でもママさん役をやっていた。今日聞くと経営者のマスターは当時学研の社員で客として「あぐら」に来ていたという。おそらく脱サラして「あい谷」を始めたものと思われる。阿曽沼氏と南極の氷でウイスキーを呑む会をやったり、私の母校である室蘭東高校の首都圏同級会をやったりいろいろと思い出のある店だ。さみしいが店も客も老いてゆくのだ。

社長の酒中日記 4月その2

4月某日
珍しく8時台に帰宅する。水割りを啜りながらテレビのチャンネルをガチャガチャやっているとBSで吉永小百合が薬局を経営する姉役、笑福亭鶴瓶が役者を夢見ながら年齢を重ねてしまった無頼の弟役の山田洋次監督の「おとうと」をやっていた。私は山田洋次の類型的なストーリー展開は好きになれないのだが、この映画でも何度か泣いてしまった。出来の悪い弟に翻弄される美人でかしこい姉、これはもう類型以外の何物でもないと思うのだが、何というか姉と弟双方の類型的な「健気さ」が泣かせる。

4月某日
民介協の扇田専務とSCN(セルフケアネットワーク)の高本代表とグリーフサポートの打合せ。介護事業者の看取りについてインタビュー調査先についてアドバイスをもらう。打合せ終了後、会社の近くの「木花」に呑みに行く。扇田さんは常連のようだが私は初めて。タコの刺身や山芋の千切りなど居酒屋の定番メニューを注文するが、それぞれ美味しかった。酒は長野の焼酎。結局1本空ける。扇田さんは今、「孫に知ってもらうため」に自分史を執筆中。県立奈良商業を卒業して富士銀行に入行、八重洲支店や広島支店での扇田さんの活躍は折に触れて聞いているが、私には興味深い話ばかりだ。我孫子へ帰って駅前のバー「ボン・ヌフ」でジントニックとウォッカのソーダ割り。

4月某日
日本橋小舟町のSCNの事務所を訪問。調査研究事業の費用の件などを話し合う。SCNの事務所で体操の先生に会う。高齢者にストレッチや体幹を鍛える体操を教えているらしい。私もすでに前期高齢者の仲間入り、なかなか体を鍛えるまでには至らないが、毎朝、ストレッチ等の体操を15分くらいやるように心がけている。夜、神田明神下の「章太亭」へ。以前、当社で働いていた村井由美子と待ち合わせ。ビールを呑もうとしたら村井が来たので乾杯。村井は昨年結婚したが、相手はこれも当社にいた寺山君。付き合い始めたのは2人が会社を辞めてからだから、こういうケースは職場結婚とは言えないのだろうな。村井は章太亭を気に入ったようだ。というか章太亭はたいていの客が喜ぶ。押しつけがましくないけれど心のこもったサービス、古き良き時代、小津安二郎の映画に出てくるような小料理屋なのだ。

4月某日
昔の仲間と馬事公苑の八重桜を見ようということになった。昔の仲間というのは、私がこの会社に入る前の会社、日本プレハブ新聞で同僚だった高橋博君。その当時から仕事の付き合いがあり、今はフリーライターをやっている香川喜久江さん、デザイナーの山沢美紀子さん、それに初期の年友企画に在籍して今はフリーの編集者をやっている川瀬春江さんだ。私は八重桜は苦手なので花見はパスして呑み会から参加することにする。小田急線の経堂駅の改札で待ち合わせ。経堂は山沢さんの地元。目当ての焼肉屋に行くがお休み。駅の近くの居酒屋へ。これが正解で安くて美味しい。高橋君は今、実家の定食屋を手伝っている。シェフは80歳代のお母さん。固定客が高齢化し亡くなる人も多く、経営は厳しいとか。高橋君は昔から物事に凝るほうで、昔は酒、きのこ、オートバイなどなどだが、今は酒もたばこも辞めてノン・アルコールビールを呑んでいた。今の趣味は演歌以外の音楽と本だそうだ。昔の仲間とたまに会うのもいいものだ。

4月某日
「新たな縁を結ぶ会」に出席。この会にはこのところご無沙汰していたのだが、今年は当社の迫田が「申し込みをしているが仕事が忙しくて行けないので行って」ということで出かけることにする。会場はイイノホール。会場に行くと厚労省健康局の伊原総務課長に「日記、読んでますよ」と声を掛けられる。パネラーの唐沢保険局長に挨拶。私は第3部の立体シンポジウム「地域包括~ニセモノ・ホンモノ~創造編」から出席。コーディネーターは一橋大学の猪狩教授と朝日新聞の生井さん。パネリストは39歳でアルツハイマー型認知症と診断されたトヨタのトップセールスマンだった丹野智文さん、新宿食支援研究会代表で歯科医の五島朋幸さん、茅ケ崎のあおいけあ社長の加藤忠相さん、全国福祉用具専門相談員協会理事長の岩元文雄さん、元夕張市立診療所所長の森田洋之さん、社会福祉士の猿渡進平さん、東近江市永源寺診療所の花戸貴司さん、それに厚労省の唐沢保険局長だ。
印象に残った発言をいくつかあげておきたい。茅ケ崎市で認知症高齢者のためのデイサービスを運営する加藤さんは、質の高いサービスを提供できるのは「マニュアルではなくミッション」という。施設のハードの作り方でも利用者同士、利用者と援助する側の「距離感が大事」で要は「広すぎない」のが「居心地の良い空間」ということだ。夕張市立診療所の元所長の森田さんは、一人暮らしの認知症のおばあちゃんが、自分の家の前だけでなく他人の家の前まで雪かきしている例を挙げて、「認知症になっても世話される側でなくお世話する側にいる」として「役割を持つ」ことが大切と語る。また「自分たちがどういう医療介護を受けたいかみんなで考えること」によって市民全体が変わっていくと夕張市でも確実に市民の意識改革が進んできたことを報告した。花戸さんは「医療や介護に携わる人以外も地域の人みんながみんなを支え合う」ことと、こうしたことは「次世代の子供たちに受け継がれなければならない」と語った。これらを受けて唐沢局長は「社会保障だけでなくあらゆる政策分野の柱に地域包括ケアを」と語っていたのが印象的だった。若年性認知症の丹野さんは「認知症と診断され、落ち込んでいた気持ちを前向きにしてくれたのは認知症の当事者だった。私も人のために何かをしたいと願っている」と語り会場から大きな拍手が送られた。

4月某日 
「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」(橘玲 単行本10年9月 文庫本15年3月 幻冬舎文庫)を読む。この人の本は震災関連で読んだ記憶がある。ウィキペディアで調べると「大震災の後で人生について語るということ」(講談社)だった。1959年生まれ。早大一文卒、宝島の元編集者ということだ。橘の主張はいちいちもっともと私には思える。「もしもぼくたちの人生が「やればできる」という仮説に拠っているならば、この仮説が否定されれば人生そのものがだいなしになってしまう。それよりも「やってもできない」という事実を認め、そのうえでどのように生きていくのかの「成功哲学」をつくっていくべきなのだ」という主張にもうなずける。橘の成功哲学はたった二行に要約できる。

 伽藍を捨ててバザールへ向かえ。
 恐竜の尻尾のなかに頭を探せ

同感ではあるが今年67歳になろうとする私にも可能だろうか? いやむしろ67歳のジジイだからこそ「伽藍を捨て」られるのだと思う。

4月某日
新宿区の高田馬場でグループホームを運営している社会福祉法人サンの理事長、西村美智代さんが来社。社会保険研究所の営業に引き合わせる。介護報酬の改定に関わる図書の広報を要請。会社の向かいの「ビアレストランかまくら橋」へ。後から共同通信の城、NHKの堀家、SMSの長久保氏が参加、当社の迫田、健康生きがいづくり財団の大谷常務も来る。

社長の酒中日記 4月その1

4月某日
大分市長選挙に立候補した椋野美智子さんを「勝手に応援する会」で集まったカンパを集めに大分へ。大分空港からバスで1時間ほどで大分市内へ。市役所のほうと勝手に思い込んでいたけれど事務所が見当たらないので電話したら駅の反対側だった。慌ててタクシーで事務所の住所へ向かうと新築のビルの1階に大きな「椋野事務所」の看板があった。さっそく、椋野さんと選挙の応援をしてくれている吉良さん(吉良代議士の弟さん)にカンパを渡す。椋野さんは元気そうで「1月までは選挙に出ようなんて思ってもいなかったのよ」と明るく話す。私が「子育て支援など社会保障政策の推進を訴えれば勝てるよ」というと「そこまで聞いてもらうのが大変なのよ」と。なるほどね。長居してもなんなので、今夜の宿の別府へ。別府行きの特急に乗ったつもりが熊本行きで最初の停車駅で大分に戻る。そんなこんなで別府のホテルに着いたら10時近かった。温泉には翌朝入ることにして寝る。

4月某日
大分空港から伊丹空港へ。伊丹空港から京都嵐山の天龍寺へ。かなり前から会社が維持会員か何かになっているようで毎年、花見に呼ばれる。天龍寺に着くとHCM社の平田会長が迎えてくれる。平田会長は天龍寺の前管長、平田晴耕師の実弟。前管長は確か東大の印度哲学を出てドイツへ留学したという英才だが、平田会長は同志社大学に入ってスチールギターを弾いていたという変わり種。大変、洒脱な人で私は尊敬している。花見の前にはいつも講演があるが、今年は同志社大学の先生が白隠について話してくれた。宴席に移ってビール、日本酒、お弁当、おでん、お蕎麦をいただく。2次会は祇園のバー「くろこ」へ。平田会長は神戸に住んでいる。私も京都に宿をとれず、尼崎のホテルにしたので新幹線で新大阪まで一緒に帰る。

4月某日
尼崎から西宮へ出てタクシーで関西学院大学へ。人間福祉学部坂口先生にグリーフサポートの調査研究についてアドバイスをいただく。坂口先生はたいへん謙虚な方で私のつまらない話にも真剣に付き合ってくれる。関西学院大学から京都の同志社大学へ。厚生労働省から同志社に移った井上恒夫さんを訪問。井上さんには東京へ来たら連絡ください、呑みましょうと約束する。同志社大学から京大へ。本部に厚労省の事務次官から京大の理事になった阿曽沼さんを訪問。ほどなく元住宅情報の編集長の大久保京子さんが来る。大久保さんが予約してくれた焼き鳥屋へ向かう。ここの焼き鳥は、モツとモツの間にタマネギの小片を挟んでいるのが特徴。私の故郷、北海道室蘭の焼き鳥は、豚肉の正肉にタマネギを挟んで洋辛子で食べる。ちょいと故郷のことを思い出した。

4月某日
京都から名古屋へ。我が家ネットの児玉さんと面談。福祉住環境コーディネーターのフォローアップ研修について意見を聞く。ニーズはありそうだ。途中から住快護創造ネットの小多美恵子さんが参加。小多さんは30過ぎてから大工に転身したという。体つきは華奢だが精神がタフなのだろう。

4月某日
「月次決算の進め方」(金児昭 日経文庫 05年12月)を読む。著者は信越化学で経理財務部門一筋で来た人。月次決算の基本というか、なぜ月次が重要なのかがわかったような気がする。つまり本決算や半期決算、四半期決算を待っていたのでは迅速な経営判断ができないということに尽きると思われる。

4月某日
「財政危機の深層―増税・年金・赤字国債を問う」(小黒一正 NHK出版新書 14年12月)を読む。著者は京大理学部卒業後、糸唾し大学の博士課程を修了、大蔵省に入省。現在は法政大学経済学部准教授。専門は公共経済学。先月読んだ「社会保障が経済を強くする」では財政再建のためには社会保障を中心とする歳出削減を行わなければならないとする考えは誤りと主張していたが、本書は年金を中心に社会保障には大ナタを振るわざるを得ないし、そうしなければ日本は沈没するだろうという指摘だ。
私は将来世代にできるだけ負担を先送りしないという観点からは財政再建派である。と同時に「子育て支援」など社会保障の充実によって経済成長を図るという意味からは社会保障推進派である。ただ社会保障ならばなんでもかんでも推進すればいいという考えではない。年金については世代間の公平性という観点からは削減はやむを得ないだろう。生活保護には自立支援の考えが大切で社会復帰をどう図るかが必要だ。また社会保障を税金と保険料のみで賄うのではなく互助的な考えも必要になってくると思っている。メリハリの効いた社会保障改革が必要なのだ。

4月某日
社会保険研究所発行の介護報酬関連の図書を介護関連団体へ営業支援を行っている。研究所の志賀ちゃんに頼まれた。今日はCIMネットワークの二宮理事長の後、介護クラフトユニオンへ。副事務局長で政策部門長の村上久美子さんに会うためだ村上さんとは数年前に2,3度呑んだ出だが覚えていてくれた。図書の紹介などをお願いする。雑談をするうちに当社の元社員が介護クラフトユニオンの幹部の奥さんになっていることが判明。世間は狭い。竹橋もホテルKKRで「へるぱ!」の編集会議。会議が終わった後、社福協の本田常務も交えて食事。私も当然、参加しなければならないのだが、我孫子で会合があるので失礼する。我孫子の会合は川村女子学園大学の副学長の吉武さんと、吉武さんと厚労省同期で元衆議院議員の大泉博子さん。場所は以前使ったことがある我孫子駅北口の「美味小屋」(うまごや)。6時の約束だったが30分ほど遅れた到着すると2人はすでにビールを飲んでいた。遅れた我孫子で「地産地消の会」をやっている中沢さんが登場。中沢さんは富山県砺波市出身。なかなかの資産家らしいが感じの良いフツーのおっさんだ。

4月某日
社内でグリーフケアの打合せを高本さんと当社の浜尾と3人で。引き続きSMSと打合せ。6時半過ぎにSMSの長久保さんと葡萄舎で合流。大分空港で買ってきた麦焼酎を2本空ける。

4月某日
社会福祉法人サンの職員採用の面接を西村理事長と。出版社の採用面接とはずいぶんと違う。今日面接した人は優しそうな人だった。私にはそれぐらいしかわからない。勉強します。元厚生労働省の宇野裕さんが来社。「椋野さんを勝手に励ます会」には参加できなかったけどと言って、1万円カンパをいただく。宇野さんは厚労省を辞めた後、社会事業大学で専務理事を務めた後、今は住友生命の顧問と筑波大学の准教授。2つの名刺をくれた。筑波大学では被災者支援の研究をやっているということでグリーフサポートにも関心を示してくれた。一緒に研究をできればと思う。山形・庄内料理の店「このじょ」へ。結核予防会の竹下専務が参加。

社長の酒中日記 3月その3

3月某日
国際厚生事業団の会員となっているので年1回の総会に参加。総会後厚労省の二川医政局長の講演を聞く。二川さんの講演を聞くのは初めてだが、わかりやすく、ユーモアを交えた語り口で好感を持てた。私は医療機関相互の機能分担と業務連携の推進のために新しく創設される「医療連携推進法人制度」の話が興味深かった。川本三郎の「君のいない食卓」(新潮社 11年11月発行)を机の上に置いていたら、顔見知りの事業団監事の佐野さん(元社会・援護局長)から「おや、川本三郎なんか読んでいるの」と声を掛けられる。川本は佐野さんの小学校の後輩、高校も麻布で一緒だそうだ。川本は東大法学部だから大学も一緒かも。川本の奥さんは08年の6月、食道がんで57歳で亡くなっているが、「食べ物と奥さんへの想い」を綴ったエッセーが「君のいない食卓」だ。川本の本を読んだのは初めてだがなかなかよい。川本は確か朝日ジャーナルの記者をしていた頃、「赤衛軍」を名乗る青年を匿った疑いで逮捕起訴され、朝日新聞社を馘首された。(あいまいな記憶で書いているので正確ではないかもしれない)。川本を支えたのが奥さんだったわけね。講演の後、懇親会に顔を出し、角田専務にあいさつして途中で抜け出す。日刊企画に寄って小宮山社長と寿司屋へ。
私が大学を卒業した時は第1次オイルショックの直前の1972年。世の中は空前の好景気に沸いていたが、この日記にもたびたび書いたように私は授業にはほとんど出たことがないうえ学生運動の活動家の端くれだったし、逮捕起訴経験もあった。まともなところには就職できるはずもなく、友人の村松君の親戚がやっている印刷屋にもぐりこんだ。その印刷屋にいたのが小宮山さんで、私は当時の最先端印刷技術だった写植のオペレーターに配属され、小宮山さんは「大組」といって活版印刷でいえば組版を担当していた。その印刷屋には2年ほどいて私は住宅建材の業界紙に転職した。小宮山さんは確かその会社が倒産するまでいたと思う。小宮山さんはその後、フジサンケイグループの日本製版という印刷会社に移り、20代で独立、日刊企画という印刷会社を始めた。地下鉄丸ノ内線で再会したとき、私は日本プレハブ新聞という業界紙に移っていたが、単行本の印刷をお願いしたりした。今の会社に移ってからも付き合いは続いているが、最近は印刷の仕事のウエートが低下し申し訳なく思っている。でもたまに会うと二人とも青春時代に戻ってしまう。

3月某日
「わがやネット」の児玉道子さんは、普段の生活の根拠は愛知県の知多半島の半田市。仕事で上京してきたので会うことにする。北綾瀬で仕事があるというので千代田線の根津で会うことにする。言問い通りと不忍通りが交差する根津の交差点近くに「海鮮茶や 田すけ」という看板を掲げている店があったので入ることにする。40前後の店主が一人でやっている店で、おいしそうな日本酒、焼酎をそろえていて、しかも料理が美味しく、さらにこれが重要だが値段もリーズナブルだった。8時過ぎに同じ根津「ふらここ」のママに「児玉さんが来ているんだけど今日帰るからちょっとだけ顔だすね」と電話。「ふらここ」でウイスキーの水割をいただく。

3月某日
大分市長選挙に元厚生労働省の椋野美智子さんが出馬表明した。江利川さんや中村秀一さん、社会福祉法人にんじんの石川理事長、ふるさと回帰支援センターの高橋ハムさんに発起人になってもらい「勝手に励ます会」を霞が関ビル35階の東海大学校友会館でやることにする。当日、受付をやってくれる当社の迫田、石津、浜尾と一緒にタクシーで会場へ。15分くらい前から参加者が続々と集まってくる。義理で来てもらったHCMの大橋さん、青海社の工藤さん、社保研てぃらーれの佐藤さん、グリーフサポートの高本さんたちに感謝。発起人を代表して江利川さんがあいさつ。「私たちは椋野美智子さんが大分市長となって、福祉の基盤を整備し新しいふるさとを創生していくことを強く望みます」という共同アピールを採択した。羽毛田さんや浅野史郎さんからも心のこもったあいさつがあった。大分からわざわざ大分選出の吉良代議士が来てくれて最近の状況について話してくれた。予想以上に盛り上がった「勝手に励ます会」だが、椋野さんの仁徳でしょうね。私の選挙応援は浅野さんの宮城県知事選が最初。それから阿部さんの参議院選挙なども応援した。根が好きなのだと思う。

3月某日
図書館から借りていた「物書同心居眠り紋蔵 わけあり師匠事の顛末」(佐藤雅美 講談社 2014年4月)を読む。佐藤雅美は好きな作家の一人だが「居眠紋蔵シリーズ」はそのうちでもお気に入りのシリーズだ。シリーズがこれで13冊目というからずいぶん続いていることがわかる。「わけあり師匠事の顛末」を読んで初めて気が付いたことがある。全体が8章で構成されており、それぞれが独立した物語なのだが、安芸広島浅野家の浪人、青野又五郎と奥女中奥林千賀子の恋物語が各章を通じて語られる。当たり前かもしれないが「綿密に」構成されているのである。佐藤雅美独特の時代考証、これがあるから物語にリアリティを与えているのだろう、と合わせて私には「堪らない」。

3月某日
社会保険研究所の谷野編集長のご尊父のお通夜に出席。最近のお通夜では故人の在りし日の画像が放映されることがある。今日のお通夜もそうで画業にいそしむご尊父の映像が流されていた。高校か中学の美術の教師でもされていたのであろうか。私とは一面識もないが、画像を目にすることによって故人にいささかなりとも近づけた思いがする。浦和の焼き鳥屋南蛮亭にフィスメックの田中会長と流れる。

3月某日
元社会保険庁の池田保さんに会社に来てもらって私の年金相談。とにかく4月中に何らかの手続きをすることを勧められる。日本の年金は社会保険方式による申請主義。皆さんはちゃんとやっているのだろうけど。まぁとにかく時間を作って手続しなければ何も始まらない。年金相談を切り上げて会社の向かいの「ビアレストランかまくら橋」へ。セルフケアネットワークの高本代表が打合せに。関西学院大学の坂口教授との打合せの相談である。こちらもちゃんとやらねば。

3月某日
「社会保障が経済を強くする―少子高齢社会の成長戦略」(盛山和夫 光文社新書 2015年3月)を読む。盛山氏は専門は数理社会学。社会保障や経済学の専門家ではないところが味噌である。「社会保障の充実と経済成長の両立は可能なのか」という市民の疑問に経済学や社会保障の専門家ではない著者が見事にこたえていると私には思われた。著者は、財政再建のために社会保障を中心とする歳出削減を行わなければならないとする考え方は誤りと断言し、「小さな政府論によって日本経済の成長戦略を描くことは不可能なのです。日本の将来のためには、もはや、そうした誤った考えからは脱却しなければなりません」と説く。家族は弱い存在なのだ、という認識から著者は出発する。だから家族を社会全体で支えるという考えと仕組み、すなわち社会保障が必要なのだというのだ。

社長の酒中日記 3月その2

3月某日
「へるぱ!」のインタビューで厚労省老健局の高橋振興課長にインタビュー。質問に誠実に答えてくれた。高橋さんは国土交通省との交流人事で老健局へ。福祉の仕事は初めてと思うが勘所はきちんと押さえている。しかしわたしが高橋さんのような優秀なキャリア官僚に望みたいのは「現場を見てほしい、現場の声を聴いてほしい」ということ。中央官庁の情報は役所(都道府県などの自治体)や市町村長、団体を通してのものが多いのではないだろうか?それはそれで結構なのだが、現場との微妙な「ズレ」を感じてもらいたい、そのためには現場を見てもらいたい、ということである。
社会保険出版社の高本社長を訪問。今後の事業の展開などについて意見交換。フィスメックの小出社長も合流。3人で社会保険出版社の近くの新潟の「へぎそば」の店に。「栃尾の油揚げ」などを肴に八海山や麒麟山、吉乃川、越乃景虎などの新潟の銘酒をいただく。途中から元厚労省で現在、川村女子学園大学の副学長をやっている吉武さんが参加。吉武さんが入ると「座がもつれる」ケースがあるが、この日は終始上機嫌。まぁ高本さんも小出さんも吉武さんとは初対面みたいなもの。初対面の人に対してはさすがの吉武さんも「紳士」にならざるを得ないのであった。高本社長にすっかり御馳走になる。

3月某日
大学時代の同級生、A宮弁護士と神田の鎌倉橋の交差点で待ち合わせ「葡萄舎」へ。法律問題を相談してあとは焼酎。僕らのクラスは優秀な民青とあまり優秀ではない全共闘派(僕ら)がいたが、クラス委員選挙ではいつも民青に負けていた。クラス討論で、民青から「お前は偉そうなことを言うけれど、日米安保の条文を読んだことがあるのか?」と聞かれ、「読んでねーよ。ベトコンの少年兵は共産党宣言や資本論を読んでいなくっても立派に米軍と闘っているじゃねえか」と答えたら、民青から「今、ベトコンと言ったな。それは解放勢力に対する蔑称なんだぞ」と噛みつかれ、クラス討論は終了した。勉強嫌いは今に至るも変わらない。

3月某日
「けあZINE」のインタビューで株式会社介護コネクションの奥平代表取締役に会社に来てもらう。奥平さんは沖縄出身。新聞奨学生をやりながら早稲田大学社会科学部を卒業、不動産鑑定事務所に勤める。この事務所で高齢者住宅や施設の鑑定に携わったのが介護の仕事と出会ったきっかけ。新聞奨学生だった経験を活かして介護施設で働きながら、大学や専門学校で学ぶというシステムを考案して現在、試行中。卒業後、介護関係の仕事に就くのもいいが、奥平さんはむしろ、介護の仕事を通して仕事の厳しさや楽しさを学んで一般のビジネスに生かしてほしいという考え。介護に対する正しい理解が市民の間に広がってほしいと最近、強く思う。奥平さんのビジネスが成功することを祈る。インタビューが終わった後、当社のS田、SNSのN久保氏と「レストランかまくら橋」へ。奥平さんはお酒は呑めないそうで、ジンジャーエールで付き合ってもらう。わたしらは持ち込んだウイスキーをいただく。

3月某日
東商傘下のNPO,「生活福祉健康づくり21」の横田さんが3月いっぱいで退職するというので民介協の扇田専務と送別会。神田駅南口の扇田専務いきつけの居酒屋へ。中国吉林省出身の女の子が注文取りやお運びをやっている。横田さんは退職して地元川越の町内会で伝統のある山車の回収・保存に力を入れるという。こういうひとが地域を根っこから支えているんだろうと思う。

3月某日
企画を手伝ったオヤノコトサミットが有楽町の交通会館で開かれているので覗きに行く。白梅大学の山地先生の「介護保険制度改正」、浴風会ケアスクール服部さんの「認知症患者家族の悩みにこたえる」、わがやネットの児玉さんの「親の安全な住環境のために」、大田区西新井の地域包括支援センターの澤登さんの「地域で楽しくクラスためのヒント」をきかせてもらう。聴衆がちょっと少ないのが残念だったがなかなか聞きごたえのある講演だった。会社へ帰ってグリーフサポートの高本さんと当社の浜尾の3人で「介護職にとってのグリーフサポート」の調査事項について打合せ。児玉さんも合流。高間と、児玉さんと私の3人で神田の葡萄舎へ。高本さんは夫の社会保険出版社の高本社長が葡萄舎のファンなので一度来てみたかったという。高本さんと児玉さんは初対面だが年齢もほとんど一緒で、気が合ったみたいで今度児玉さんが住んでいる知多半島へ行こうという話になっていた。遅れて高本社長も参加。私は我孫子へ帰って駅前の「愛花」で焼酎のお茶割を2杯ほどいただく。

3月某日
オヤノコトサミットの2日目。長寿社会開発センターの石黒理事に講師をお願いしているので覗きに行くことにする。10時からと思っていたら11時からだったので地下1階の喫茶店で時間をつぶす。11時近くなったので会場に行くと徐々に人が集まりだした。石黒さんの講演テーマは「親の老いと親孝行の心得」。石黒さんは自らの体験を踏まえながら軽妙に話す。午後、会社に帰り17時から高田馬場の社会福祉法人サンへ。

3月某日
市民図書館で借りた「会社をどう変えるか」(奥村 宏 ちくま新書 03年12月)を読む。10年位前に出版された本だが日本経済を替えていくにはそれを支えている会社を変革していかざるを得ない、という著者の考えは基本的に正しい。日本の会社の現状はバブル崩壊の後遺症、それに加えて人口の減少による市場の縮小により、20年の間、低迷を続けてきた。現在は円安効果によって経済は回復の兆しを見せているが、個人や企業のもたれ合い、責任の回避といった日本の風土それ自体を変えていかなければ、本当の構造改革はできないと思っている。改革には痛みが伴う。その痛みをできるがけ少なくしながら改革の効果を上げていくのが経営者の責任である。

社長の酒中日記 3月その1

3月某日
社保研ティラーレの佐藤社長と厚労省の武田審議官を訪問。地方議員を対象とした「地方から考える社会保障フォーラム」の講師、テーマの選定についてアドバイスをもらう。その後、虎の門フォーラムの中村理事長と面談。虎の門フォーラムを出たら6時近くなっていたので結核予防会の竹下氏に電話。「東商の近くで呑み始めたばかり」という。大手町ビル地下1階の「玉の光酒蔵」で待つことにする。福祉住環境コーディネータ資格などについて話す。竹下さんは現在、福祉住環境コーディネータ協会の会長だ。

3月某日
元衆議院議員の樋高剛先生とティラーレの佐藤社長と富国生命ビル28階の「富国倶楽部」で会食。樋高先生は民主党、生活の党を通じて小沢一郎氏の側近。奥さんは平野貞夫氏の娘でもある。樋高先生の単行本つくりを手伝って以来の付き合いだが、早稲田大学応援部出身の好漢。「政界再編へ向けて民主党、維新などといろいろやって行きたい」と話す。今の政治状況は自民党の1強体制、自民党も安部総理の1強体制。民主主義にとっては如何なものかと私も思う。樋高先生は純粋にこの国の将来を憂えている。こういう人を野においておいてはいけない。国政復帰を切に願う。

3月某日
元社会保険庁長官で全社協の副会長もやった末次彬さんたちと会社の向かいのレストランかまくら橋で会食。5時半過ぎに会場に行く。6時少し前に末次さん、6時半丁度にゴルフ仲間で援護局で中国の帰国子女とかかわってきた高根さんが来る。高根さんはお酒を飲まないのでジンジャーエール、わたしと末次さんはビールで乾杯。末次さんはアサヒのスーパードライは呑まないから念のため銘柄を確認するとキリンとの答え。しばらくして現在国際医療大学の教授で「虎の門フォーラム」を主宰している中村秀一さんが参加。中村さんも末次さんも社会保険診療報酬支払基金の理事長をやっている。中村さんが課長補佐の時、沖縄出身で医系技官の仲村さんが課長で仲村課長は「にんべんのなかむらさん」と呼ばれ、中村課長補佐は部下をギリギリと締めたこともあって「ひとでなしのなかむらさん」と呼ばれていたと「ひとでなしのなかむらさん」が話して盛り上がった。だいぶ遅れて地域医療支援機構の理事に出向している藤木さんが来る。藤木さんは東日本大震災のとき、北海道厚生局長で、震災発生後すぐにボランティアで被災地に入った。その後の人事異動で東北厚生局長として仙台に赴任し、被災地の支援に走り回った。末次さんと高根さんが帰った後、中村さんがカレーライスとスパゲッティをごちそうしてくれた。

3月某日
グリーフサポートの高本代表理事のご母堂の葬儀に参列するため浅草の東本願寺に。導師2人の読経の声が心に響く。男声2部合唱ですね。午後、製薬協の伍藤理事長を訪問。伍藤さんが社外役員をしているSMS社の件を報告。しっかりやるように激励される。夜は社会福祉法人サンの西村理事長と上野の駅近くのぶんか亭で打合せ。この店はJR東日本の子会社が経営するレストラン。西村さんはお酒を呑まないのでそばを注文。わたしは生ビールを1杯と日本酒を冷で3杯ほど。我孫子に帰って駅前のバーでジンバッグとボンベイサファイアというジンをロックで。

3月某日
伊達政宗の誌に「馬上少年過ぐ」という詩があり、近頃この詩がよく頭をよぎる。

馬上少年過ぐ
世平らかにして白髪多し
残駆天の許すところ
楽しまざればこれ如何せん

司馬遼太郎に同名の小説があり、わたしがこの詩の存在を知ったのも司馬の小説によってである。この詩の大意は、つぎのようなものだ。
若いころは馬に乗って戦場を駆け巡ったが、天下は平定され私もすっかり白髪頭となってしまった。私がここにこうしていられるのも天が許したからだ。人生を楽しまないでどうしよう。
私の青春時代は学生運動華やかりしころで大学はバリケード封鎖で授業はほとんど出たことがない。警察との攻防だけでなく他党派との抗争もあり、何日も下宿のアパートに帰らなかったことも度々あった。政宗が戦場を甲冑で身を固め馬で駆け巡ったように私たちも長髪にヘルメット、片手にゲバ棒を握りしめ、学園や街頭を駆け巡ったわけである。私としてはまさに「残駆天の許すところ楽しまざるを如何せん」という心境なのである。

3月某日
全国社会保険共済会の会長、植田さんが肝臓がんで亡くなった。私と同年だから66歳のはず。お通夜に行く。会場が橋本なので途中、立川のケアセンター「やわらぎ」で石川はるえさんに会う。立川から八王子へ出て橋本へ。時間前に着いたのだが、すでに会場は参列者で一杯だった。お浄めの席で江利川さんはじめ多くの知り合いに会う。当社の大山、間杉さんも参列。植田さんは社会保険業務センターの副所長とノンキャリアのトップまで登り詰めた人だが、わたしたちにもフランクに接してくれたし、江利川さんはじめキャリアの信頼も厚かった。通夜の橋本の駅前で大山さんと一杯。通夜帰りの何人かに声を掛けられる。

3月某日
有楽町の交通会館に「ふるさと回帰支援センターの高橋ハムさんを訪問。ハムさんは早大全共闘時代からの知り合い。全共闘運動の敗北後、魚河岸で働いたり呑み屋の用心棒をやったりしたが自治労の書記局に採用された。20年以上前に厚生省の前で宣伝カーの上に載ってアジ演説をしているハムさんを見かけてから付き合いが再開した。ハムさんは福祉6法の改正で当時の若手厚生官僚の辻さんや吉武さんらと付き合うようになる。ハムさんとは大分市長選挙に立候補を表明している椋野美智子さんを「勝手に支援する会」の打合せ。今日は学芸大学前で5時半に堤修三さん、大谷源一さんと間と合わせ。駅近くの山内農場へ入る。遅れて元自治労副委員長の徳茂さんが参加。

社長の酒中日記 2月その4

2月某日
しまった。2月は28日までしかなかった。前回アップしてから3日しかないのでね。今日もいろいろとごちゃごちゃあったが、夕方、埼玉グループホーム・小規模多機能協議会の西村会長に会いに行く。転んで腰を打ったとか言っていたが、わたしは一言「老化だね」。私も5年前に患った脳出血の後遺症で右半身が不自由。不自由には慣れたけど、不自由からくる肩こりに悩まされている。右側に負荷がかかるためか、右肩、腰、臀部が異常に張るんですね。1週間に1回はマッサージに通う。わたしは「みんなのてもみ」神田中央通り店に通っている。店も施術者も感じがよく、気にいってるのだが1回60分、2980円(税別)というのが痛い。話が逸れてしまったが、西村さんとは終末期、グリーフサポートの研究に協力してくれるようにお願いする。帰りは南浦和から武蔵野線で新松戸へ。新松戸には「GUI呑」という呑み屋があり、今日はそこで元年住協の林弘行さんと待ち合わせ。林さんはすでに来ていた。さっそく生ビールと焼き鳥を頼む。林さんは現在、日本環境協会で会員増強の仕事をしている。最近は環境教育の普及にも力を入れているようだ。新松戸で林さんと別れ、我孫子駅前のバーに寄る。バーテンダーは私のことを覚えておいてくれた。ジントニック、バーボンのクレメンタイン、アイリッシュウイスキーをいただく。

2月某日
目黒のパーシモンホールで「認知症の人の看取りを考えるフォーラム」が開かれるというので聞きに行く。少し遅れて行ったら、パネラーの一人、長寿社会開発センターの石黒秀喜さんに「社長、暇つぶしかい?」と声を掛けられる。ゆきぐに大和病院長の宮永先生、それと昨日会った西村さん、NPO法人楽の柴田理事長、山形保健医療大学の小澤さんがパネラー、医療や介護の専門家ではない石黒さんの話の「医療や介護する人に迷惑かけたくないのよねぇ」という発言が会場の共感を呼んでいた。パーシモンホールは柿木坂にあるからパーシモン、柿木坂と言えば堤修三さんが住んでいるし近くの国立病院機構には古都さんがいる。しかし三軒茶屋に住んでいる香川喜久江さんのことを思い出し、電話して三軒茶屋で待ち合わせ。三軒茶屋で呑むのは初めてだが、一歩路地を入るとなかなか渋い店が並んでいる。「ごしき」という和食の店に入る。香川さんは何年か前にリンパ腺ガンになり完治したのだが、それ以来酒を辞めている。だが酒席には付き合ってくれる。福島の酒を3杯ほどいただく。我孫子の駅前の愛花に寄ったら大越さん夫妻が来ていた。夫の大越さんは国士舘大学出身なので今日、三軒茶屋で呑んだことを話す。「学生時代、ドレメのねーちゃんと付き合ってたんだよ」と懐かしそうに話す。

2月某日
土曜日だけど残務整理で会社へ。グリーフケアの研究企画書を点検。グリーフサポートの高本さんに若干の修正をお願いする。老健補助事業の申請について、健康生きがいづくり財団の大谷常務と打合せ。上野駅前の大統領という焼き鳥屋で待ち合わせたが、満員で入れず近くの「浜ちゃん」にする。ここもはぼ満員。以外に若いカップルが多い。安くておいしいからなのだろうか。上野駅近辺を歩くという大谷さんと別れ我孫子へ。我孫子では癒し堂というマッサージによる。ここは中国人がやっていて価格は税込みの2980円。腕は悪くない。
図書館で借りていた桐野夏生の「奴隷小説」(2015年1月 文芸春秋)を読む。これは短編集。桐野は長編もいいが短編もいい。今回は新潮、オール読物、文芸春秋などに掲載された7編の短編が収録されている。「奴隷小説」というタイトルをつけていることからも分かるようにテーマは隷属である。隷属は普通に暮らしていると恐怖である。しかし人は隷属にも慣れてくる。同じ境遇にあっても隷属する側に迎合する人と迎合できない人が出てくる。そこらあたりのことを短編にちりばめられているように思う。私はこの小説を読んでイスラム国や北朝鮮、川崎の少年殺人事件を思い浮かべた。

社長の酒中日記 2月その3

2月某日
3泊4日で大阪、西宮、京都、名古屋、常滑へ出張。大阪では私が唯一仲人した佐々木君と会う。私がこの会社に入って間もなくリクルートの月刊ハウジングの編集を手伝っていたことがある。その頃新入社員としてリクルートに入社したのが佐々木君。何人かと連れ立って銀座、新橋、神田でよく飲んだ。しばらくして佐々木君が結婚することになり仲人を頼まれた。リクルートからすれば私はたんなる出入り業者の一人にすぎない。だから「そりゃ部長さんか誰かに頼むべきでしょう」といったんは断ったのだが「どうしても」というので引き受けるハメに。佐々木君はその後、月刊ハウジングの編集から離れ、勤務地も名古屋や大阪となった。20年近く前になると思うがリクルートを早期退職し大阪に編集企画会社エディウスを立ち上げ社長に。今回は大阪出張をきっかけに当社と何か連携できないか模索するつもりだった。ところが佐々木君はなかなか仕事を抜けられず、7時の待ち合わせが8時過ぎになってしまった。こちらは結構、酔っぱらってしまったので連携の話は持ち越しに。

2月某日
大阪介護支援員協会の研修部長、福田弘子さんに今回の介護報酬改定について取材。「私は介護報酬が上がった下がったでは動じません」ときっぱり。それより「利用者のためにも医療保険と介護保険の一本化が必要です」と力説。同感である。福田さんは看護師出身。富田林市の市立病院などで訪問看護師を歴任。第1回のケアマネの試験で資格を取った。看護師からケアマネになると医療職から事務職となるため給料は減る。でも福田さんはケアマネという仕事が好きだからケアマネを選択したという。
午後は関西学院大学へ。お昼頃、阪急の仁川という駅に着く。周りを見回したが店らしい店がない。駅前のビルの1階に「うどん屋」の旗が立っていたので入ることにする。カウンターとボックスだけの店。メニューから「冷たい野菜天ぷらうどん」を注文すると、「10分ほど時間がかかります」という。たべて驚いた。麺に腰があり野菜のてんぷらも美味しかった。帰るとき店の名刺をもらうと「讃岐Dining&Horse Bar」とあり店名はFrankelという。Frankelというのはイギリスの馬名だそうだ。仁川は阪神競馬場があるからHorseにこだわったのだろう。
タクシーで関学の正門に行くと、すでにグリーフサポートの高本代表理事が待っていた。関学の人間福祉学部の坂口幸弘教授を一緒に訪問するためだ。関学は始めてきたが南欧風の低層の建物が並んだ非常に雰囲気のある学園だ。坂口先生によると介護士へのグリーフケアの研修が昨年から多くなってきたそうだ。それまでは看護師への研修が中心だったが、先生もこれから介護士へのグリーフ研修が必要になるという意見だった。
坂口先生の元を辞して京都へ。京都は元厚労省で京大理事の阿曽沼さんとの会食だが、まだ時間があるので高本さん手がけたという結婚式場を見に行くことにする。高本さんは空間デザイナーでもあり、その時やった仕事がAZEKURAという結婚式場。社長の市田さんが案内してくれる。京都にも最近は他県や異業種からブライダル産業への進出があり市場は厳しいとのことだが、社長は「価格競争に巻き込まれないようにやっています」と独自の道を歩んでいるようだった。社長の愛車ロータスを見せてもらう。阿曽沼さんとの待ち合わせ場所、河原町の「いろめし黒川」へ高本さんと向かう。この店は以前、HCMの平田会長に連れてきてもらった。阿曽沼さんは6時半頃到着。東京出張の帰りだそうだ。お刺身や「もろこ」、おからなどを美味しくいただく。高本さんが東京へ帰る。阿曽沼さんは京大でインドネシアやマレーシアなどの留学生を迎え入れることに関心があるようだった。

2月某日
民介協の事例発表会。いつもは東京だが今回は名古屋の国際会議場。金山から地下鉄に乗って日比野で降り5,6分歩くと巨大な建物群が見えてくる。それが名古屋国際会議場。会場に行くと扇田専務が「記者席が空いているよ」というので最前列の記者席へ。事例発表会は何回か参加しているが、今回はいつにも増して興味深かった。介護福祉士だけでなく看護師、作業療法士の発表もあり地域包括ケアの現場での実践、利用者の終末期への対応、視覚障碍者への寄り添いや利用者の状況に合わせての環境整備、住宅改修など発表者が真剣に利用者とかかわっていることがわかった。懇親会はパスして名鉄で常滑へ。建築家の児玉さんと社会福祉士の小藤さんと居酒屋へ。貝類の煮つけ、青柳のてんぷらなど非常に美味そして安い。2次会は陶器を焼く窯をバーに改造した「共栄窯」へ。タイルの内装がなんとも美しい。

2月某日
9時に児玉さんがホテルに迎えに来てくれて、「焼き物散歩道」を歩く。整備されてはいないし人通りも多くないが、私にはそれが好ましい。市民文化会館で「とこなめ陶の森」の館長、渋木さんに紹介される。資料館、陶芸研究所を案内してもらう。INAXライブミュージアムで児玉さん、渋木さんと食事。渋木さんに地域包括ケアは何も高齢者に対象を限ったものではなく、障碍者、児童、市民みんなが参加するものと一席ぶってしまう。渋木さんは興味を示してくれたように見えたが。渋木さんと別れホテルに荷物を取りに行く。3泊4日の充実した出張だった。

2月某日
会社の本棚に埋もれていた「国の死に方」(2012年12月 新潮新書)を読む。東日本大震災と福島原発事故を受けて歴史家として「この国の形」について考えることを文章にしたものである。片山という人は一見すると関係ない事柄を紡ぎ合わせ、歴史的な意味を考えるという意味で稀有な人だと思われる。たとえば本書ではゴジラ、進化論、江戸幕府の職制、明治の元老、生命保険、関東大震災、米騒動、内地米と朝鮮米などキーワードにして鮮やかに日本近代史を切り取っていく。本書の序章は映画「ゴジラ」の映画音楽を作曲した伊福部達の生き方から始まるが、終章もまた「ゴジラ」で終わる。ゴジラの日本襲撃は日本に対する核攻撃と明らかに重ね合わされていると片山は言う。そしてゴジラを鎮めたのは、一民間科学者の平田昭彦扮する芹沢博士であった。日本社会は古来から利益社会と自己犠牲的精神風土の共存であり、広島長崎に対する原爆投下、無条件降伏から9年後に封切られた映画「ゴジラ」はそのことを明らかにしていると片山は言う。

2月某日
ケアマネの全国研修会に参加した愛知県のケアマネとビアレストランかまくら橋で呑み会。今回の介護報酬の改定で中重度の利用者に対する報酬がアップされることについて「要介護度を改善するインセンティブとならない」という声があった。本人の自立度が上がると、要介護度が下がり介護報酬は減額される。つまり事業者にとっては減収となる。要介護度が低下するということは本人にとっても社会にとっても良いことには違いがないのだが、その結果、事業者にとっては介護報酬の減収となってしまう。その矛盾は介護保険制度のスタート以来言われてきたことなのだが。