社長の酒中日記 8月その3

8月某日

「資本主義の終焉と歴史の危機」
「資本主義の終焉と歴史の危機」

「資本主義の終焉と歴史の危機」(水野和夫 集英社新書 14年3月)を読む。水野が着目するのは「利子率の低下」である。日本の10年国債の利回りは1997年に2.0%を下回り2014年1月末時点では0.62%、米、英、独の10年国債も金融危機後に2%を下回り、短期金利の世界では事実上ゼロ金利が実現している。利子率=利潤率の著しく低い状態の長期化は、企業が経済活動をしていくうえで設備投資を拡大していくことができなくなったということに等しいと水野は言う。そして「利潤率の低下は、裏を返せば、設備投資をしても、十分な利潤を産み出さない設備、つまり「過剰」な設備になっている」ことを意味しているとし、これは「長い16世紀」におけるジェノバの「「山のてっぺんまでブドウ畑」に21世紀の日本は「山のてっぺんから地の果てまで行きわたった」ウォシュレットが匹敵するという。
「利子率の低下」とともに水野が着目するのが「価格革命」である。これも「長い16世紀」には燕麦、麦芽は7~8倍、小麦は6.5倍と高騰している。ひとつは人口の増加であり、従来別個の経済圏だった地中海圏と英蘭仏独と東欧圏の経済圏の統合だと水野は見る。ヨーロッパ経済圏の統合と人口増大によって、供給に制限のある食糧需要が非連続的に高まった。こうした「長い16世紀」の「価格革命」に対して「長い21世紀」の「価格革命」は資源価格、とりわけ原油価格の高騰としてあらわれている。結論を急ごう。結局、水野は資本主義はその誕生以来、少数の人間が利益を独占するシステムであったと結論する。そして水野はこの「歴史の危機」を直視して、資本主義からのソフト・ランディングを求めるように提言する。水野の言説には説得性があると思われる。だからこそこの本がベストセラーとなったのだろう。しかしわれわれには、ソフト・ランディングすべき地面が未だ見えてこないのだ。

8月某日

「信用金庫の力」
「信用金庫の力」

図書館から借りていた「信用金庫の力」(岩波ブックレット 12年9月)を読む。城南信用金庫の吉原毅理事長が執筆したものだ。「資本主義の終焉と歴史の危機」では、世界経済システムが一大転換期にあることを歴史的な低金利から証明しようとしたものだが、本書もまた株式会社に支えられている資本主義の危機を述べ、協同組合運動と地域金融の意義について語っている。信金という金融機関を「銀行の小さいヤツ」くらいにしか認識してこなかった私としては「目からウロコ」が落ちる思いであった。著者は慶応大学の経済学部を77年に卒業、いくつもの就職試験に落ちた後、地元の城南信金に就職する。そこで出会った城南信金及信金業界全体のリーダーだった小原鐵五郎との出会いが現在の城南信金と吉原を支えている。
著者は市場経済を野放しにしておくと「お金」の暴走が始まり貧富の差が拡大するとして、市場経済原理主義ではなく「人を大切にする社会の構築」を説く。そのためには効率のみを重視するのではなくコミュニティの要素も重視しなければならないという。ここでいうコミュニティとは「出会い、共感、感謝、感動、理想、文化、学び、発展」などがある存在と著者はいう。非常に共感できるし、事実、城南信金は3.11の福島原発の事故を受けて「原発に頼らない社会」を追求することになる。この挑戦の結果はまだ出ていない。しかし著者と城南信金の勇気と危機感には注目していきたい。

8月某日
多田富雄の「春楡の木陰で」(集英社文庫 14年5月)を読む。多田富雄は世界的な免疫学者として高名だが、医学生の頃は医学の勉強そっちのけで江藤淳らと同人誌を出す文学青年だった。その一方で現代創作能の作家でもあり、鼓の名手としても知られる。01年に脳梗塞を患い、右半身の自由と声を失う。本書は前半が日本の大学院を終えた後、アメリカ中西部のデンバーに留学した日々を綴ったもので後半はリハビリ生活とそれを支えた内科医でもある妻のことが描かれている。多田という類まれな感受性の持ち主とそれに出会う様々な人々のことが飾らない文章で描かれる。

8月某日
引続き多田富雄の「寡黙なる巨人」(集英社 07年7月)を図書館で借りる。「あの日を境にしてすべてが変わってしまった」と多田は語り始める。「あの日」とは脳梗塞を発症した日であり、それは多田が67歳の誕生日を迎えて間もなくのことだった。私も4年前脳出血で倒れ、急性期病院と回復期のリハビリ病院併せて3か月の入院を経験している。しかし多田の本を読んで思うのは、闘病経験など軽々しく人にいうものではないなということだ。多田はかなりの重度の左半身の麻痺が後遺症で残り、一時はリハビリの甲斐あって独力で歩行することも可能になったのだが、前立せんがんの手術の予後療養で足の筋力が低下し、以後、車いす生活を余儀なくされる。半身まひと同時に声も失うが、こちらのほうも言語療法が成功したとは言えず、喋れない状態が続く。多田は当初は自死も考えたという。それを思いとどめさせたのは一に内科医である妻の働きによるが、私には自らの病さえ、それを「寡黙なる巨人」と名付け、観察する多田の好奇心も大きく作用しているように思える。多田に比べれば私などまだまだということである。

8月某日
JR東日本の関連会社で東日本ライフサービスという会社がある。ここのI藤さんという常務は私の古くからの友人。どれくらい古いかというと、私が日本プレハブ新聞という業界紙に勤めていた頃からだから、かれこれ30年にはなる。当時、I藤さんはナショナル開発という住宅展示場の運営会社にいて、取材を通じて知り合ったのが最初。そのI藤さんが会社を退くことになったので今日は当時のI藤さんの同僚で今はフリーライターのK川さんとささやかな宴を神田の葡萄舎ですることにした。I藤さんは私の一つ上で早大を卒業後、北海道のテレビ会社に勤めた後、ナショナル開発へ。その後インドネシア旅行社という旅行会社やオーストラリアの大学の日本法人の事務局など、面白い仕事をいろいろとやっている。仕事は変わってお付き合いはずーっと繋がっている。なぜだかわからないがどこか気が合うのだろう。川村女子学園大学のY武副学長が合流。何の会だか訳が分からなくなったところで散会。

8月某日

「知の巨人」
「知の巨人」

「知の巨人-荻生徂徠伝」(佐藤雅美 講談社 14年6月)を図書館から借りて読む。佐藤雅美は好きな作家で図書館から借りて良く読む。ほとんどが江戸時代中後期を舞台にした時代物。だが今回は評伝。荻生徂徠は論語はじめ四書五経などの原典に忠実であろうとし、漢文の読み方も上から直接、読み下してㇾ点やかな交じり文は用いなかったという。佐藤雅美の時代小説も、小説はもちろんフィクションだが時代考証が厳密なのが特徴。その辺が荻生徂徠に共感したのかも。

8月某日

O橋さんチェコの美人留学生
O橋さんチェコの美人留学生

HCM社のO橋さんがチェコからの美人留学生を紹介するという。会社に来てもらうことにして名刺を交換する。カタカナでドヴォジャーコヴァ―・ヨハナと書かれた名刺をもらう。お茶の水女子大学の文教育学部でマンガ論の研究をしているという。日本語はペラペラで容姿はO橋さんの言うとおりなかなかの美人。何でO橋さんと知り合ったかというとO橋さんの地元の居酒屋で若い外国人の女の子2人が日本語で話し込んでいるのを見たO橋さんが「何で日本語で話しているの?」と声を掛けたのがきっかけだそうだ。もうひとりはブルガリア人で共通言語が日本語ということらしい。将来の希望は日本の出版社でマンガに関わる仕事をしたいと話していた。

8月某日

実家の近所。遠くに室蘭港
実家の近所。遠くに室蘭港

札幌出張に合わせて室蘭市の実家に寄る。実家には今年91歳になる母と社会保険労務士をやっている弟と弟の嫁さんが住んでいる。実家は室蘭市の絵鞆半島の先っぽにある。最も私が育ったのは父親の勤務先である室蘭工業大学のある水元町である。今の実家は室蘭市の海側、育ったところは山側ということだ。だから今の実家には愛着はないのだが、とにかく景色のいいところで私は気に入っている。91歳の母は耳が遠くなったぐらいで、ボケもせず介護保険の世話にもならず元気。100歳まで生きるかも知れない。夜は札幌の高校の同級生とその嫁さんたちが集まって歓待してくれる。

8月某日

トウモロコシとジャガイモの皮むきをする「さくらんぼの会」のみなさん
トウモロコシとジャガイモの皮むきをする「さくらんぼの会」のみなさん

本来の出張の目的である健康生きがいづくり開発財団の「生きがいづくりアドバイザー」の活動を紹介するDVDの撮影。ディレクターのY溝君、カメラマン、当社のH尾さんと大通公園で待ち合わせ。大通公園を撮影した後、旧道庁の赤レンガも撮影。昼食時となったが、清田区にあるアドバイザーのA石さん宅に直行。A石さん夫妻は「さくらんぼの会」を主催し、地域の高齢者向けに自宅をサロンとして開放しているのだ。今日はまずみんなでトウモロコシとジャガイモの皮むき。トウモロコシとジャガイモが茹で上がったところでみんなで食事。バターとイカの塩辛と一緒にジャガイモを食べる。これが意外と合う。昼食を摂らないで正解だった。サロンは月1回の開催ということだったがこういうサロンなら私も参加してみたいと思った。後で聞いたのだがこのサロンの中核となっているのはA石さんの奥さんのヘルパー時代の仲間たち。そういうのってちょいとうらやましい。私は札幌でHCMのM社長と「胃ろう・吸引ハイブリッド・シミュレータ」の委託販売先の「竹山」のS村さんと会うために地下鉄の駅までA石さんのご主人に車で送ってもらう。
東急インでMさんと打合せ。S村さんは6時に来ることになっているが、少し遅れて登場。東急イン地下の居酒屋へ。「ハイブリッド・シミュレーター」について意見交換。近くのオールデイズのスナックへ。パティ・ペイジの「テネシーワルツ」をリクエストすると画像とともにパティ・ペイジの歌声が流れる。

8月某日

三川屋の特上寿司
三川屋の特上寿司

Mさんと小樽へ。事業者を訪問した後、少し早いがお昼にする。Mさんが寿司屋横丁の三川屋さんに連れて行ってくれる。ここは歴史のある店で昭和の初期からあるらしい。特上寿司をご馳走になる。特上でも2000円とか2500円(Mさんに払ってもらったのでよく分からない)。三川屋さんは寿司専業ではなく焼肉などもやっている。東京だったら4~5000円はするのではないか。帰りに近くの食料品屋によって私はトウモロコシと「八角」の干物を買う。

8月某日

「世界史の中の資本主義」
「世界史の中の資本主義」

「世界史の中の資本主義-エネルギー、食糧、国家はどうなるか」(東洋経済新報社 水野和夫+川島博之 20013年)を読む。私たちが生きている21世紀は世界史的に見て大きな転換期にあるという。まずフロンティアを喪失した現在つまり新たな投資機会を失った資本主義は、貨幣が過剰となり金利は超低金利となる。次に歴史上初めて人口の増加が止まり食糧が過剰となってくる。歴史の進化なのか退歩なのかよく分からないが、人類は食糧の過剰という事態を迎えつつある。食糧だけではない。石油価格も現在は高騰しているが、シェールガス革命や代替エネルギーの開発により供給過多になってくとの予想もある。歳への人口集中と同時に少子化が進行する。人口減は世帯当たりの所得を増やす要因とはなるが,経済成長にはマイナスに働く。これからも我々は「未だかつてなかった」ような体験をしていくのであろうか。

8月某日

{雑魚や}の鱧の湯引き
{雑魚や}の鱧の湯引き

「へるぱ!」の取材で認知症ケアでユニークな取り組みをしている滋賀県守山市の藤本クリニックへ。藤本直規先生は認知症の患者を中心に据えたケアを展開しているが、詳細は10月発行の「へるぱ!秋号」を読んでほしい。いろいろ感心するところが多かったのだが、藤本先生が力を入れていることの一つが若年性認知症。若年性だけに仕事や生活のことなど難しい問題があるようだ。藤本先生はNPO法人をつくって若年性認知症患者の就労支援を行っている。袋詰め作業などやって患者は月1万円ほどの収入を得るという。たかが1万円だがされど1万円だと思う。若年性認知症で仕事を失った人が自らの労働により報酬を手にする。これは大きな励ましになるのではないかと思う。
守山から京都へ。編集者の当社のS田、フリーライターのS見も一緒。京都のホテルには元厚労省のA沼さんが迎えに来てくれる。S田とS見も誘ってA沼さんが予約していた店「雑魚や」(ざこや)へ。「ぐじ」や「鱧」をいただく。仕舞屋風のなかなかいい店だった。

8月某日
京都から神戸三宮へ。HCMの平田会長にお昼ご飯をご馳走になる。12時にJR三宮の中央口で待ち合わせ。私はその前に神戸市立博物館へ。ギヤマンの展示が行われていた。それに合わせて伊能忠敬の地図も併せて展示されていた。私は常設展で神戸の今昔を楽しませてもらった。お昼は「日本料理櫂」。明石の昼網の新鮮な魚介が売り。生ビールの後、燗酒を頂く。おいしいお料理だったが、経営上のアドバイスをいろいろ頂いたので、味わうどころではなかった。

社長の酒中日記 8月その2

8月某日

IMG_20140810_145747「白蓮れんれん」(中公文庫)を読む。NHKの朝の連ドラ「花子とアン」で仲間幸恵が演ずる柳原白蓮が人気を集め、そのせいだろう本屋の文庫コーナーには初版が20年も前のこの本が平積みにされていた。先週、桐野夏生の「ナニカアル」を読んだが、これは夫のある林芙美子と毎日新聞社の記者の恋愛を軸とした小説であった。では九州の炭鉱王伊藤伝衛門に嫁いだ白蓮と宮崎滔天の息子龍介の恋愛はどう描かれているのだろうか。2つのケースを比較することにそれほど意味があるとも思えないが、まず林芙美子と柳原白蓮ではその出自が全くと言っていいほど違う。白蓮は華族出身で大正天皇の従妹という家柄だが、芙美子は貧しい行商の家に生まれた。しかし当たり前のことではあるが人は家柄や学歴と恋愛するわけではない。相手の人間にこそ惚れるわけである。しかしここが戦後の常識なんだね。戦前は家と家だからね。白蓮の前半生の悲劇は、初婚は華族の家同士の了解によるものだったし、伝衛門との結婚は白蓮の生家が伝衛門の財産をあてにしたものだった。伝衛門の家からの出奔と龍介との再婚は、世間からの非難を浴びたが、その後、当然のように世間から忘れ去られることになる。龍介との間に生まれた子の戦死という悲劇はあったにせよ、白蓮は龍介に看取られながら波乱の生涯を閉じる。日本の華族制度は維新後「皇室の藩屏」として生まれた。したがって英国の貴族のように「(国家に対する)ノーブレス・オブリージュ(高貴なる義務)」という観念が足りないのではないか。小説とは関係ないがそう思ってしまった。

8月某日
飲み友達のH郷さんから連絡があって我孫子に知り合いがレストランを開店したので行こうという。土曜日の11時30分に我孫子駅の改札で待ち合わせる。5分ほど遅れて改札に行くとH郷さんともうひとりT岡さんという人が待っていた。北口を降りて2~3分でその店「美味小屋」(うまごや)はあった。もともと四谷にあったそうで、T岡さんの息子さんがオーナーでこの4月にオープンしたという。白ワインを呑みながら海鮮料理を堪能した。私は我孫子駅の南口方面の住人だが、我孫子はどうも北口の方が美味しい店が多いように感じる。今日はT岡さんにご馳走になってしまった。今度行きます!

8月某日
久しぶりに田辺聖子の「よかった、会えて」(実業之日本社 92年6月刊)を読む。初出は91~92年にかけて「週刊小説」に掲載されたもの。私が読むのは2度目か3度目、その度に違う感想を抱く。今回は田辺聖子は「絵に描いた」ような家庭の幸福を忌避しているのではないかということと「鈍感な」専業主婦に対する嫌悪感があるのではないかということ。「はじめまして、お父さん」では、鹿児島に単身赴任していた若き日、呑み屋の女性と情を交わしたことのある主人公の前に娘の「可能性」のある若い女性が訪ねてくるという話。「山歌村笛譜」は定年退職した67歳の私は妻に先立たれ二人の息子も独立し団地にひとり暮らし。カラオケや呑み屋を占拠する未亡人軍団を嫌悪するが、ある未亡人の家に仮寓する未亡人の娘に恋をする。もちろんその気持ちを口にすることなどできない。そうこうしているうちに未亡人は急死し、娘は夫の赴任先へと戻っていく。「みつ子はんの顔はもう、思い出せません。この世に何も残らぬごとく。けれども人間の思いは残ります。残るように思います。田舎親爺の恋物語やと嗤われるかもしれませんが、やるせない慕わしさはまだ私の胸に残って、心をあたためてくれるからです」という文章で終わるこの短編は、田辺の短編のなかでも私のベスト10入りは確実。

8月某日
IMG_20140812_072724「経営者の条件」(岩波新書 04年9月)を図書館から借りて読む。「経営者って何が一番重要なんだろう?経営者の辞めどきって何時だろう?」という私の現下の関心事にぴったりの書名だったので、発行年がいささか古いのが気になったが借りることにした。一読して大変勉強になった。第2章「経営者の役割とは何か」では①将来ビジョンの策定と経営理念の明確化②戦略的意思決定③執行管理―を経営者の役割とし、「戦略的意思決定」とはP・F・ドラッカーの言う「不確実な明日に向かって、いま何をなすべきか」を決断することとする。そして①と②の役割を同時的に果たさなければならないところに経営者昨日の特質が存在するとしている。③については、極めて多岐にわたる日常的な役割を同時並行的に、優先順位をつけながら、遅滞なく処理すること、としている。またCEOが重視すべきポイントとしてジャック・ウエルチを引用して次のように述べている。①常に首尾一貫していること。トップが何を求めているかを常に率直に周囲に伝えて組織に統一性を与えること②形式ばらずに自由に気楽な雰囲気をつくること。官僚主義は人と人との間に壁をつくるだけ。地位、肩書に関係なく、自分の意見が尊重してもらえると思える組織を目指す③人が第一、戦略は二の次と心得ること。仕事で最も重要なのは適材適所の人事であって、優れた人を得なければ、どんないい戦略も実現しない⑤実力主義にもとづいて明確な差別待遇をすること。部下を“気楽に”差別できる者は組織人間でないし、差別化できない者は管理職失格である⑥最高のアイディアは常に現場から生まれる。本社は何も生まないし、何も売らないことを肝に銘じよう。著者の大沢は1935年生まれ、リクルートで人事教育事業を立ち上げる一方で、江副の女房役として管理部門全般を担当した。創業期のリクルートにはなかなかユニークな人材がいたようだ。この本はデュポン社の元最高経営責任者であるアービング・シャピーローの次の言葉で締めくくられている。「いかなる最高責任者も、経営者の地位は自分のためにあるのではなく、社のためにあるのだということを忘れてはならない。経営者の座を下りる時期を知るのは、経営者の責務である」。

8月某日
帰りの電車の中で「研ぎ師太吉」(山本一力 新潮文庫)を読み終える。山本は2002年に直木賞を受賞した時代小説作家。1948年生まれというから私と同年である。時代小説、歴史小説は山本周五郎、司馬遼太郎、藤沢周平、佐藤雅夫をはじめいろいろと読んできた。だから多少点が辛くなるのは仕方がないかも知れない。その意味からすると「研ぎ師太吉」は物足りなさが残った。下町人情話に犯人探しを加味したものだが、私には太吉の人間的な苦悩の描き方が浅いように感じられた。それにしても山本は江戸後期の下町の職人や商人、同心や与力などの下級幕臣の暮らしを良く調べている。我孫子駅で降りて、今日は「七輪」へ向かう。ウヰスキーのボトルを入れてあるので「炭酸割」を注文。レバーと軟骨、長ネギとしいたけ、セロリの浅漬けを頼む。少しいい気持になったところで「愛花」に向かう。店の前で常連のMさんに会う。今日から「愛花」は夏休みとのこと。2人で「ちゅうちゃん」の店に行く。日本酒を呑んでいたら「愛花」の常連が何人か来る。Mさんにご馳走になってしまう。

8月某日
高齢者住宅財団のO部長と食事。この季節、上野精養軒の屋上ビアガーデンからの不忍池の眺望がなかなかなので屋上ビアガーデンで待ち合わせ。ところが生憎の雨で、ビアガーデンは予約客のみ。ということで1階のレストランに急遽、変更。地域包括ケアシステムと住宅の在り方についていろいろと意見交換する。

8月某日
健生財団から社会保険研究所から請け負っている単行本「人生は2幕目が面白い」(仮)の打合せでフリーライターのF田さんと打合せ。社保研のY場君も同席。F田さんには歴史上の人物で「2度目」の人生を生き生きと送った人を囲み記事風に紹介してもらいたいという注文。私は「少年馬上過ぐ」の伊達正宗を候補に挙げる。女性も入れるということで、晩年、アフリカの飢餓に取り組んだオードリー・ヘップバーンも候補に。打合せの後、「福一」で軽く呑む。

8月某日
IMG_20140818_091314没後30年ということもあって有吉佐和子に注目が集まっているらしい。ということで文春文庫で復刊された「断弦」(14年8月 新装版第1刷)を読む。有吉が23歳の作という。地唄という地味な世界を舞台に芸の継承と父娘の葛藤が描かれる。盲目で大検校の位を持つ菊沢寿久の継承者として期待されていた娘の邦枝は、偉大な父に背いて日系2世の男と結婚し渡米する。父の病気と芸の継承問題があり邦枝は一時帰国するのだが。一読して23歳の作とは思えない完成度の高さなのだが、まぁ優れた作品というのは作者の年齢には関係ないわけで。寿久の弟子となる大学生の瑠璃子の存在が全体を和ませている。

社長の酒中日記 8月その1

8月某日
元厚労省で現在国立看護大学で教えているI野さんが「大学院生と神田で呑むのだけど呑み代、半分負担するなら参加してもいいよ」というので即座にOK。会場は神田駅ガード下の「大越」とのこと。そこは元祖大衆酒場のような店なのでますますOK。当日はスタートが17時からとのこと。その日は高田馬場でグループホームをやっているN村さんと17時に打合せがあったが、打合せもそこそこにN村さんも誘って「大越」へ。店の奥でI野さんと4人の若い女性が大ジョッキを傾けていた。丁度、社会保険出版社が地域保健活動の先駆けともいえる保健師の一生をドキュメントでまとめたのでT社長から4人に贈呈してもらう。長野県上田市で介護事業のコンサルタントをやっている「地域ケア総合研究所」のT重所長も合流して、一層盛り上がる。久しぶりに若い女性と話せて私はいささかはしゃぎ過ぎ。写真を撮るのさえ忘れてしまった。少し反省。呑み代は結局、T社長が全部出してくれた。

8月某日

手賀沼の花火。手前は竹細工のイルミネーション
手賀沼の花火。手前は竹細工のイルミネーション

手賀沼の花火大会。手賀沼の縁に越してきて40年以上になるが、最初の頃は珍しくて友人を呼んだりしたこともあったのだが、その後はドーン、ドーンと打ち上げる音がうるさく感じられるほど。ただ今年は川村学園大学の副学長のY武さんが、「知り合いのマンションの屋上で鑑賞会をやるから来ないか」と誘ってくれたので行くことにする。6時半に我孫子駅入り口の八坂神社前で待ち合わせ。丁度、時間に行くとY武さん夫婦はすでに来ていた。「ヴェイル我孫子」というマンションの屋上に行くとすでに家族連れが何組か来ていた。ヴェイル我孫子の管理運営している会社の会長さん、Y沢さんが仕掛け人でY沢さんはあびこ型「地産地消」推進協議会の会長はじめ、いろいろな公職に就いている。私たちは京葉銀行我孫子支店の支店長M宅さん一家の隣に。支店長さんは我孫子に赴任したばかりだそうで、我孫子の前は松戸支店で支店長職は初めてらしい。なんか初々しくていい。会費はY武さんに払ってもらう。マンションの屋上から見る花火は我孫子会場と柏会場の打ち上げ花火が両方見ることができるのでなかなか良かった。生ビールとワイン、日本酒を少々いただく。花火が終わる前に私は道路が混むからと辞去。駅前の「愛花」へ。ソノちゃんが来ていた。花火が終わると福ちゃんが女性を何人か連れてくる。筑波大学の看護学の大学院に行っている顔見知りの女性もいた。

8月某日
ちくま新書の「第一次世界大戦」(木村靖二 2014年7月)を読む。今年は第一次世界大戦が始まって100年になるという。ただ私は第二次世界大戦ほどには第一次を知らない。この本を読んで理解できたことがいくつかある。ひとつは総力戦の意味。たんなる軍事力の対決ではなく、工業生産力や農業、交通輸送力、国民の士気など国力のすべてを使うのが総力戦だ。その意味で第一次世界大戦は第二次世界大戦の予告編でもあったわけだ。飛行機や戦車、鉄兜、毒ガスなどの新兵器の登場も第一次世界大戦。こうした新兵器の開発を見ると「戦争は文明の母」という言葉も一面では当たっている。この本を読んで初めて分かったのは連合国(英、仏、米、露)と同盟国(独、墺、トルコ)の戦力がかなり拮抗していたこと。戦争2年目のミッドウエー海戦以降、ほぼ負けっぱなしの太平洋戦争とはそこがずいぶん趣を異にする。それとロシア革命によるロシアの脱落は連合国側には大きな痛手だったようだ。それを補ったのがアメリカの参戦ということになる。欧州を主戦場にした大戦は戦勝国にも敗戦国にも打撃だったが、東洋の日本はこれで本格的な帝国主義列強の仲間入りをしたことになり、それが第二次世界大戦へと繋がってくるわけだ。

8月某日
HCMのM社長が心臓の手術で入院。同社のO橋さんが見舞いに行ったというので様子を聴きに行く。手術は大成功とのことで来週にも出社とのこと。60を過ぎると自分も周囲もいろいろとガタが来る。O橋さんを誘って新橋の清龍へ。これからの仕事の進め方など相談する。今日は新橋のイタリアン「ラ・ママン」でSMSのメンバーと当社のS田と暑気払い。「ラ・マンマ」は以前は良く来ていたのだが、最近はさっぱり。歳の話はしたくないのだが、このところイタリアンなどはちょっと重く感じてしまう。でもSMSのメンバーはN久保さんはじめ、皆さんが若い。でイタリアンにしたのだが気に入ってもらっただろうか。

8月某日
桐野夏生の「ナニカアル」(新潮文庫 2013年11月 単行本は2010年10月)を読む。「放浪記」の作者、林芙美子を主人公とする小説である。粗筋を文庫本のカバーのコピーから引用すると「昭和17年、林芙美子は偽装病院船で南方へ向かった。陸軍の嘱託として戦意高揚に努めよ、という命を受けて。ようやく辿り着いたボルネオ島で、新聞記者・斎藤謙太郎と再会する。年下の恋人との逢瀬に心を熱くする芙美子。だが、ここは楽園などではなかった」ということになるのだが。林芙美子は確かに一流の女流作家だし、森光子主演の舞台劇「放浪記」の原作者としても名高い。しかし小説家としての林芙美子はなかば忘れられた存在と言っていいように思う。私はその林芙美子を主人公に据えた桐野夏生の作家的な力量に並々ならぬものを感じざるを得ない。
桐野は芙美子を描くことを通して「女流」文学者の心情の一端を描きたかったのではないか、と私は思う。不安定に揺れる芙美子の心情が占領下の南洋を舞台にして描かれる。戦時中でなおかつ占領下という不安定性、これは確かに平時の日本の東京とは比べるべきもなく不安定である。そして従卒を装って芙美子を監視する憲兵。それはあたかも不倫の恋を赦さぬ「世間」の象徴ともいえる。桐野はこの小説によって島清恋愛文学賞、読売文学賞を受賞しているが、確かに新境地を開いたように思われる。

8月某日

地域包括ケアシステムのサイエンス(社会保険研究所)
地域包括ケアシステムのサイエンス(社会保険研究所)

「地域包括ケアシステムのサイエンス―integrated care 理論と実証」(筒井孝子 社会保険研究所 2014年5月)を読む。この本の編集は当社のS田が一手に行った。私は本当に何もしなかったのだが、「あとがき」ではS田と私の名を挙げ「膨大な原稿の整理をお願いし、大変にご迷惑をおかけした。にもかかわらず、時々に、適切な助言とご配慮をいただき、なんとか出版することができた。深く感謝、申し上げる次第である」と記されている。S田はともかく、私には過分の謝辞である。それはそれとして「地域包括ケアシステム」は現在およびこれからの少子高齢化社会を乗り切る「切り札」として期待されていることは確かである。しかし地域包括ケアとは何かとなると私の理解ははなはだ心もとない。抽象的なコトバが先行してその実態の理解が覚束ないという意味では、マルクスの共産党宣言の「ヨーロッパに幽霊が出る。共産主義という名の幽霊が」という冒頭の文章を思い出さなくもない。ということもあって少し真面目に本書を読むことにした。
一読して感じたのは筒井の現状に対する強い危機感である。たとえば「まえがき」では大要次のように述べて地域包括ケアシステムは介護保険制度の立て直しの核であると強調している。政府は家族のケアを「社会化」し、公的な介護による老後の充実を約束してくれたが、今日、現状のシステムを継続することが困難であることを示している。国民としては新たなcommunity-based-integrated careという枠組みを選択するしか、次の世代に対して医療やケアを保証する制度継続できる状況にない。要するに地域包括ケアシステムを日本に根付かせることなしに少子高齢化社会を乗り切るのは困難であると言っているに等しい。

社長の酒中日記 7月その4

7月某日

八坂神社のお祭り
八坂神社のお祭り

日立フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会をミューザ川崎シンフォニーホールに聞きに行く。会社のI津さんの甥の嫁さんがチェロを弾いているというので誘われたのだ。シンフォニーホールに行くとI津さんの友人2人が来ており、すぐにI津さんも合流。シンフォニーホールは3~4層の立派な建物。考えてみると正式のホールで正式の管弦楽を聴くのは初めての体験かも知れない。1曲目のヴェルディの歌劇「ナブッコ」序曲が終わると2曲目が同じヴェルディの歌劇「アイーダ」第2幕第2場より「グランフィナーレ」。ターンタカタッタンターンというトランペットの旋律には覚えがある。実は中学時代私は吹奏楽部でアルトサックスを吹いていて、そのとき「アイーダ}序曲を演奏しこの旋律が何度も繰り返された記憶があるのだ。私が吹奏楽部であったことはあまり話していない。だって下手だったからなぁー。でももう50年も前の話だからいいか。そう思ってI津さんには「この曲、中学のブラバンで演奏したんだぜ」と話しました。この日は我孫子の八坂神社のお祭りなので演奏が終わると真直ぐ家路へ。今年のお祭りは例年より人が多いような気がする。

7月某日

手賀沼(ヨットが係留されている。後方に見えるのが「ベルばら」の池田理恵子デザインの「水の館」。
手賀沼(ヨットが係留されている。後方に見えるのが「ベルばら」の池田理恵子デザインの「水の館」。
「手賀の湯」。安近短(安くて近くて移動距離が短い)で人気が高い。
「手賀の湯」。安近短(安くて近くて移動距離が短い)で人気が高い。

3連休の最終日。このところ2キロほど体重が増えている。弁当持参で手賀沼公園を散歩することにする。手賀沼は手賀大橋を挟んで南北に分けられるが今日は南部手賀沼を一周するつもり。だったのだが1時間ほど歩いて柏公園にたどり着いたところで方針変更。北柏から各駅停車で1駅、我孫子に戻る。駅前の県と市の複合施設「けやきプラザ」で弁当を食べる。バスで我孫子高校前へ。そこから歩いて手賀沼湖畔の温泉「手賀の湯」へ行く。サウナに2回入って汗を流したが、結局、体重は減っていなかった。手賀の湯の近くの「道の駅しょうなん」で切り干し大根を買って帰る。

7月某日
今日は火曜日。ということは川村学園大学のY武副学長は休みの日。というわけでY武さんに「我孫子で呑みませんか?」と電話すると、「今日は(大学本部のある)目白で会議。東京でならいいよ」との返事。「築地の多け乃食堂を予約しました」のメールが入る。健康・生きがいづくり財団のO谷常務を誘って築地へ。お店に近付くにつれ思い出した。ここは昔、K地君江さんと何度か来たことがある。K地さんは安くて美味しい店をたくさん知っていたが、この店もそうだ。お刺身の盛り合わせが驚くほど美味しかった。集団的自衛権の行使を巡ってY武さんと激論。Y武さんは集団的自衛権は当たり前という。O谷常務もその尻馬に乗る。彼らは大東亜戦争はじめ、ほとんどの戦争が自衛のため、平和のためというスローガンのもと闘われたのを知らないのだろうか。ベトナム戦争だって南ベトナムの傀儡政権の要請によってアメリカは介入したのじゃなかったか。でもそれはそれとして、結局、その日は楽しく呑んで終わり。我孫子でY武さんと別れ、私は駅前の愛花に寄る。

7月某日
HCMを訪問。O橋さんと4時頃事務所を出て2人だけの暑気払い。神田駅東口の津軽料理の店「跳人」へ。南部や津軽、陸奥の銘酒を頂く。O橋さんが歌を歌いに行こうというので以前行ったことのある南口のスナック「リード」へ。1人4000円で呑み放題、歌い放題というので入ることに。ママとホステスが60代後半、先客の女性客が1人いてこの人も70代。石原裕次郎や美空ひばりなどの昔の歌をたっぷり歌って帰る。ママに店も認知症スナックだねぇ、また来るよと伝える。

7月某日
F都さんが今回の厚労省の異動で国立病院機構に異動になったので激励会を共同通信のJ記者の音頭で開催することになった。場所は神田の葡萄舎。ところがその日になってJ記者から「仕事が入って出られない」の連絡。まぁ現役の記者なら仕方ないか。私は予定通り18時30分頃「葡萄舎」へ。私と同世代の、ということは爺さんと婆さんたちが8人くらいで来ていた。会話を聞くともなく聞いていると同級生が亡くなって「偲ぶ会」のようだった。うーん、そういう世代だよな。19時過ぎに健生財団のO谷常務が登場。20時過ぎにF都さんからタクシーで向かっているとの電話。高齢者住宅財団のO合さんも駆けつける。みんなF都さんのファンである。さらに遅れて厚労省の現役課長補佐も参加。しかしもうその頃は22時近くなっていて、私はかなりへろへろだった。

7月某日
元滋賀県知事の国松知事を取材。健生財団のパンフレット作成のためだが、非常に面白かった。なんというか、一生懸命に楽しんで生きているという感じですね。65歳からの人生は「余生」などではなく「本生」なんだと語る。その語る姿も熱意を込めて語ってくれるからこっちも惹き込まれる。PPK(ぴんぴんころり)のためにはNNK(寝たきり、認知症、孤独死)にならないことを心がけようなど知事経験者だけにスローガン作りも巧みだ。最後には歩き方まで教えてもらった。私の大学時代の友人で、第2次早大闘争で、ともに逮捕起訴されたH山君は滋賀県職労だったが「知っていますか?」と尋ねると、今、国松さんが取り組んでいる障害者スポーツの団体の事務局長をやっているそうだ。世間は狭い。

7月某日

真ん中が川辺さん、左が岩野さん、右はレストランのご主人
真ん中が川辺さん、左が岩野さん、右はレストランのご主人

埼玉県立福祉大学の理事長になった江利川毅さんが厚生省の年金局資金課長になったのは今から30年近く前だろうか。その次の資金課長が今、日本IBMの顧問をしている江利川さんと同期の川辺新さんだ。年金局資金課というのは年金積立金の運用を管理するのが仕事で、年金福祉事業団と特別地方債の管理をやっていたように覚えている。私はこの会社に入って間もなくで年金住宅融資を主な担当としていたから、私にとっては資金課がいわば主務官庁。江利川さんや川辺さんが課長になってから歳が近いこともあって、仲良くなった。江利川さんと川辺さんが課長のとき補佐だったのが今、支払基金の専務理事をやっている足利さんと看護大学教授の岩野さんだ。この4人に当時、年金住宅福祉協会に勤務していた結核予防会の竹下さんと私を加えて不定期の呑み会をやっている。今日は当社の近くのビアレストラン「かまくら橋」が会場。足利さんと江利川さんが欠席のため川辺、岩野、竹下それに私の4人。竹下さんを除く3人が揃ったところで乾杯。竹下さんが来ないので電話すると「あれ、今日やるの」の返事。で今日は3人で決行することに。別にどうという話をするわけではないのだが、気の置けない仲間の楽しい時間だ。お互いだんだん年齢を重ねて行くの仕方がないが、長く続けたい集まりだ。

社長の酒中日記 7月その3

7月某日

キリンビール工場の案内嬢
キリンビール工場の案内嬢

建築家のK玉道子さんに誘われて福祉住環境コーディネーター中部推進協議会の工場見学会に参加する。中部推進協議会は過去、何度も工場見学会をやっているらしいが、今回はキリンビールの愛知工場の見学。名古屋駅から東海道線で一つ目の枇杷島駅でK玉さんたち中部推進協議会のメンバーと待ち合わせ。送迎バスに乗って工場へ。土曜日なので工場は稼働していなかったが、ビールの製造工程はそれなりに理解できた。工場を見学し終えるとビールを3杯試飲できるコーナーへ。私は「一番搾り」と「黒ビール」、それにハーフ&ハーフを呑む。見学会の目的はビールを呑むことではなく、工場のバリアフリー度をチェックすることなので案内嬢に頼んで車いす対応のエスカレーターを動かしてもらう。積極的に工場見学を行っている会社らしくキリンビールのバリアフリー度はかなりのものだったらしい。その後会場を工場内のレストランに移して懇親会。F橋真由美さんには三河と尾張の気質の違いを教えてもらう。

7月某日

素麺。腰があって美味しかった。
素麺。腰があって美味しかった。

名古屋泊。12時にK玉さん、F橋さんと松坂屋の前で待ち合わせ。K玉さんの友人で防災ボラネット守山の代表W見さんも参加して名古屋のセントラルパークで開かれている「ビールフェスタ」に参加する。ドイツビールを堪能。おつまみの鯖の塩焼きも美味。福祉畑に長く携わっていたW見さんの話は興味深かった。2時間ほどで切り上げ、私とK玉さんは地下鉄で金山に出て、JRで亀崎へ。ホテルで休んで6時に前回も亀崎で会ったY本さんが車で迎えに来る。Y本さんの車に乗ると向こうからK玉さん夫婦が歩いてくる。K玉さんのベンツは最近廃車にしたようだ。Y本さんのなじみの店がある三河安城に向かうが、Y本さんが携帯電話で確認すると、満員とのこと。急遽予定を変更してご当地名物の素麺を食べることに。さすがにビールはもういいという感じで日本酒を3人でお銚子1本。ホテルへ帰って爆睡。

7月某日

ノバネットワークスの社長と蕎麦屋「平甚」のご主人。
ノバネットワークスの社長と蕎麦屋「平甚」のご主人。

亀崎から名古屋へ。名古屋から岐阜の高山行の高速バスに乗って郡上八幡へ。高速のバス停に降りると民介協の理事で郡上八幡で訪問介護事業を展開しているノバネットワークスのT中栄子社長が車で迎えに来てくれていた。T中社長と東京で会ったとき「人手の確保が大変だし、そもそも郡上八幡では『巡回』が難しい」という話を聞いて、ぜひ一度現場を見てみたいと思ったからだ。最初に本社に寄ると郡上市の地図が掲げられていて利用者宅がピンで示されている。なるほどタテに長い市域で利用者宅がまばらに点在している。T中社長の運転で1時間ほど周辺を回ったが「うーん」と唸らざるを得なかった。介護に限らず何事においても私たちは自分の住んでいるところ、今いるところを基準に考えがちである。普段の生活はそれで支障はないのだが、例えば介護とか福祉、医療など国民共通の課題について考えるとき、地方の実情をどれほど組み入れているだろうか?声の大きいところの利害が優先されていないだろうか?これは大変深刻な問題と思う。お昼は平甚というお蕎麦屋さんでおろし蕎麦をご馳走になる。高速バスのバス停まで送ってもらい再び名古屋へ。名古屋ガーデンパレスホテルでグループ経営会議。3泊4日で尾張。三河、美濃を駆け巡ったことになるが、ちょっとした織田信長気分を味わった。

7月某日
元厚生労働省の次官で、財団法人健康・生きがい開発財団の理事長をやっている辻哲夫さんのビデオインタビュー。辻さんは東大の特任教授もやっているので場所は辻さんの研究室がある東大の工学部8号館の会議室。時間通りに辻さんはやって来てまずスチールの撮影。「僕は写真は苦手なんだ」とやや機嫌悪し。千葉大での講演の帰りということで疲労に加えてこの暑さだからね、無理もない。しかしインタビューが始まるといつもの辻さんの調子に戻ってきた。インタビュー後、タクシーで富国生命ビルへ。
このビルの28階にある富国倶楽部で筒井孝子さんと会食。ビルのロビーに入ると当社のS田と保健医療院のO田賀さん、SMSのN久保さん、K田さんが待っていた。N久保さんとK田さんを先に富国倶楽部へ案内する。ほどなくして筒井さんが来る。ビールで乾杯だが筒井さんはお酒ではなくジンジャーエール。筒井さんは介護、医療の世界で立派な学問的な業績を残している人なのだが、偉ぶったところが少しもない人だし、話題も豊富で一緒にいて楽しい人だ。

7月某日
池田省三記念介護講演会を聴きに行く。主催は医療介護福祉政策研究フォーラムと地域ケア政策ネットワーク。昨年4月に亡くなった池田さんとは、確か五島正規さんの出版記念会で一度だけ話したことがある。「僕は実存的マルクス主義なんですよ」と話していたのが印象に残っている。
当日のプログラムは、①地域包括ケアシステムの構築と地域支援事業の見直し(原厚生労働審議官)②地域包括ケアシステムの意義と課題(田中慶大名誉教授)③介護保険―改めて、今何を議論すべきなのか(香取年金局長)④池田省三氏が市町村に与えた“衝撃”と“課題”(笹井武蔵野市福祉部長)⑤介護保険の意義と限界(山崎消費者庁次長)。
このなかで原さんは老健局長として制度運営の当事者だったから除外するとして、それ以外の人は、介護保険制度そのものに関しては、この制度によって「措置から契約へ」や「当事者主権」「介護の社会化」といった概念が一般化したことに対しては大きな評価を与える一方、介護保険の現状と将来については、それぞれが当然ではあるが手放しの楽観論は示さなかった。われわれ団塊の世代が75歳になる2025年に向けて財政的な制約の中でどのような制度改正ができるのだろうか。私はそのカギは住民参加、市民自治がどれだけ実現できるかにかかっているように思う。戦後民主主義が花開いた頃に生を受けたわれわれは、その晩年に至っても私たちの民主主義がホンモノであったかどうか試されているような気がする。コトは介護保険制度だけの問題ではないのだと思う。大きく言えばこの日本社会をどうするのか?どういう社会をわれわれは望んでいるのかということだと思うのだが。終わった後、社会保険旬報のT野編集長と富国生命ビルの「そじ坊」へ。

7月某日
元毎日新聞の論説委員で現在は白梅大学の教授をやっているY路さんとプレスセンターで待ち合わせ。JALの労組から連合に出向していた人を紹介したいということだ。定刻の6時5分前に行くとY路さんともうひとりが既に来ていた。早速、名刺を交換する。LIP介事連代表と印刷されている名刺をもらう。LIP介事連とは「介護事業者による連合組織(Federation of Caregiving Industries)の設立を目指す準備団体だそうだ。N井さんという代表には「確かに訪問介護、特養、老健など業界別に団体はあるし、介護福祉士、社会福祉士、OT、PTなど資格別には団体はあるが、統一的な団体はないのでその必要性はあるのだろうけれど、なかなか大変だと思いますよ」と答えておいた。生ビールと冷酒を頂く。我孫子に帰って「愛花」へ。A岡さんが友人を連れてきていた。その友人は現代思想に興味があるらしくM.フーコー、デリダや浅田彰のことを話した。「柄谷行人は今のどこの先生ですか?」と聞かれたので「近大じゃないの」と答えておいたけど、「愛花」で現代思想が話題になるとは思わなかった。

7月某日

土浦城の縄文
土浦城の縄文

月曜日が「海の日」で3連休。土浦で「道の駅」を社会福祉協議会が運営していると聞いたことがあるので見に行くことにする。常磐線で我孫子から40分くらいで土浦。歩いて15分ほどで土浦城跡、その手前に「道の駅」はあった。実際の運営は「にいはり園」という社会福祉法人がやっているようだ。支援者が販売している「あとひき」という「おかき」を購入、「水菜」と「小松菜」も購入。帰りに亀城とも呼ばれる土浦城址も見学。こじんまりとしたいい城のように思う。土浦駅構内のスーパーでメロンと水戸納豆を買う。

7月某日
我孫子駅前の「東武ブックス」で「ちくま新書」の「第1次世界大戦」と藤沢周平の「静かな木」を買う。土浦に行く電車の中でまず藤沢周平の本から読み始める。「藤沢周平最晩年の境地を伝える3編」と惹句にあった。「岡安家の犬」は友人たちと「犬鍋」を楽しんでいた甚之丞はその肉が愛犬アカのものと知ると、アカを捕えた友人で妹との縁談が持ち上がっている野地金太夫と絶交、妹との縁談も破談を宣告する。野地は苦労の末、アカに似た犬を手に入れ、詫びを入れる。ストーリーとしてはこれだけなのだが、男の友情、愛犬との交情が甚之丞の祖父、十左衛門のエピソードを交え、ユーモラスに語られる。これも藤沢ワールドである。表題作の「静かな木」は、藩の勘定方を退いた孫佐衛門が息子の窮地を家老の旧悪を暴くことによって未然に防ぐという物語。城下の寺にある欅の老木と孫佐衛門を重ね合せるわけだが、それがなんともいいんだねぇ。「偉丈夫」は寡黙で六尺近い偉丈夫の片桐権兵衛は藩の危機を救うという話。3作とも多くの藤沢作品の舞台となった海坂藩が舞台である。藤沢の頭の中には海坂藩の地図が出来上がっていたに違いない。

社長の酒中日記 7月その2

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「東京凛屋」の看板

7月某日
世田谷美術館に「ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展‐印象派を魅了した日本の美」を見に行く。19世紀後半から20世紀後半にかけて欧米では浮世絵をはじめとする日本美術が大流行し、マネ、ドガ、ゴーギャンなど印象派に大きな影響を与えた。これらを総称してジャポニスムというらしいが、彼らは狩野派、尾形光琳、俵屋宗達らのいわゆる日本画ではなく浮世絵を称賛したかに私は興味がある。狩野派など伝統的な日本画は屏風や掛軸に表装されたり襖絵として主として武士や公家など支配者階級の家屋の室内を飾った。これに対して浮世絵は今回展示されている葛飾北斎の「富岳三十六景 武州千住」でも25.2×36.6㎝の大きさに過ぎない。他の浮世絵もサイズとしては同じようなものである。伝統的な日本画は、当初から美術品、芸術品の扱いを受けたが、浮世絵は恐らく、美人画や役者絵ならば今でいうブロマイド、東海道五十三次のような風景画は絵葉書の感覚ではなかったかと想像する。もちろんサイズが小さいために輸出が簡便だったという理由もあるだろうが、印象派の巨匠たちは、東洋の島国の庶民の美意識の高さにも驚愕したのだと思う。世田谷美術館にはフリーライターのK川さんとデザイナーのY沢さんと行く。帰りに用賀の商店街を歩くと、マンションの1階にちょっと風情のある店があったので入ることにする。これが正解。野菜中心の料理が旨かった。店の名前は「東京凛屋」。

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「毎日がアルツハイマー」のチラシ

7月某日
浴風会ケアスクールの服部校長のご厚意で映画「毎日がアルツハイマー2関口監督、イギリスへ行く編」の試写を観に行く。これは同じ関口佑加監督の「毎日がアルツハイマー」の続編である。会場の内幸町ホールに行くと台風が近づいているにもかかわらず、開場前に長い列ができていた。待つこと30分、やっと座ることができたが、周りを見回すと圧倒的に女性が多い。想像ではあるが認知症患者の家族とケアワーカーの人たちが多いのではないだろうか。私は知らなかったが、「毎日がアルツハイマー」を「毎アル」、「毎日がアルツハイマー2」を「毎アル2」と呼ぶそうだ。「毎アル2」は関口監督の母「ひろこさん」がアルツハイマーを発症してから3年目の日常を淡々と描く。「淡々と描く」と簡単に書いてしまったが、実はこれが大変なんだろうなぁと思う。監督が自分でカメラを回しながらアルツハイマーの実の母と会話する。自分を産んで育ててくれた母が老いて認知症になる、この現実をどう受け止めるかが普通の人にとっては大問題。関口監督はこの大問題を受け止めた上で、これを記録映画にしようと思った、そのプロ根性にまず、拍手である。認知症に今のところ特効薬はない。薬によっては認知症の進行を遅らせることができる程度と聞いている。こうした現実は認知症患者本人と家族の気持ちを暗くさせがちだ。しかしこのドキュメントは現実を受け入れたうえで、人生の最終章をできるだけにハッピーに過ごそうとする本人とその家族、支える医療者とケアワーカーが描かれている。「毎アル2」では関口監督が「パーソン・センタード・ケア」(認知症の本人を尊重するケア)の実際を学びにイギリスへ行く姿も描かれている。☆4つ。

7月某日
元厚労省で今年3月まで阪大教授だったT修三さんとフリーライターのS見涼子さん、高田馬場でグループホームを運営している社会福祉法人サンのN村美智代理事長、弁護士のK良明芳先生、それに当社のI藤君と富国倶楽部で会食。何でこのメンバーかというと認知症高齢者の列車事故に対する名古屋高裁の賠償請求判決の件だ。S見さん「世界」7月号に「JR東海も賠償請求訴訟を起こすよりは、この事故を機にどうしたら同じようなことを繰り返さずに済むか、住民と一緒に考えて取り組んでいくことが求められているのではないか。最高裁の判決は、こんどこそ『介護の社会化』を後押しするものであってほしい」と、高裁判決とJR東海を批判する記事を書いている。Tさんは高裁から認知症家族の側を支援しているし、自身のメールマガジン「柿木庵通信」でもJR東海を批判する記事を何度か書いている。今夜の会合はこの2人に市民と法律家の立場からK良さん、介護施設の経営者の立場からN村さんに参加してもらったものだ。
今夜の会合では、JR東海よりも名古屋地裁、名古屋高裁の判決と判決を書いた裁判官に批判が集まった。N村さんは、ただでさえ人手不足なのに、こんな判決が出ればますます働く人が来なくなると語り、経営者としては、利用者家族からの損害賠償請求が増えるかも知れないという懸念をほのめかす。私はこれからの日本社会は、福祉に限らず社会的な連帯、支え合いを強めて行かねば立ち行かないと思うものだが、名古屋地裁、高裁の判決は個人や家族の責任を一方的に強調しているように思える。この判決を認めるわけには行かない。

7月某日

「シゲチャンを偲ぶ会」に集まった面々。真ん中の女性が石川さん、左が伊藤さん、右が徳茂さん。男性は略。
「シゲチャンを偲ぶ会」に集まった面々。真ん中の女性が石川さん、左が伊藤さん、右が徳茂さん。男性は略。

3月に亡くなった元国土交通省住宅局長で前の山口県知事、山本繁太郎さんを偲ぶ会を東海大学校友会館で行う。「偲ぶ会」と言っても、「シャイの会」メンバーによる小さな会だ。当日、18時半受付開始なので当社のI津さんと校正マンのナベさんに声を掛けて会社近くのタイ料理屋でビールを呑んでいると高橋ハムさんから「何やっているんだ」の電話。時計を見ると何と18時半。慌ててタクシーで会場に向かう。高橋さん、徳茂さん、竹下さんがすでに来ていた。19時になったところで高橋さんの音頭で献杯。出席者がそれぞれ「シゲチャン」の思い出を語る。私とシゲチャンとの関係はシャイの会、ハムさんを通してのものだから、それほど深いものではない。シャイの会でお会いすると、もいつもニコニコとした温顔であったことを思い出す。シャイの会のメンバーはみんな自己主張だけは強いのだが、そんななかで私にとってシゲチャンは異色の存在だったと言ってよい。
当日、参加したメンバーは、厚生省関係が吉武(川村女子大学副学長)、江口(神奈川大学教授)、中村(国際医療福祉大学教授)、藤木(地域医療推進機構理事)、それと依田さんは名刺を貰うの忘れた、いまどこだっけ?清水(国立病院機構副理事長)、国土交通省関係が小川(ビルディング協会専務理事)、水流(UR理事)の皆さん。そして今回の人事異動で内閣府の審議官、地域活性化総合事務局次長になった伊藤明子さん、それに元自治労でふるさと回帰支援センター理事の高橋さん、同じく元自治労で現在は横浜で訪問介護事業をやっている徳茂さん、社会福祉法人にんじんの会の理事長石川さん、元年住協で今はミサワインターナショナルの小峰さん、同じく元年住協で現在は結核予防会理事の竹下さん、元滋慶学園で今は健康・生きがいづくり開発財団の理事の大谷さん、それに私の総勢16人。
元建設省で長岡市長の森民夫さんからは「懐かしい皆さんと一緒に繁さんとの思い出話をすることを楽しみにしておりましたが、誠に残念です」のメッセージと長岡の酒が届けられた。
終了後、私と吉武、竹下さんが吉武さんの提案で上野の焼肉屋へタクシーで向かっていると、石川さんから「どこにいるのよ」と電話。石川さんは立川なので急遽方針を変更して東京駅丸の内口の丸ビルへ。博多もつ鍋の店に入る。遅れて石川さんと中村さん、それと弘前大学の准教授でNPOの研究で「けあセンターやわらぎ」を調査している、あっ名前を覚えていない、その准教授が合流。いつも石川さんにはご馳走になっているし、この前は立川から我孫子まで2万円以上タクシーチケットを使わせてもらった(私だけでなく吉武さんも同乗)ので、今回は私が払おうとしたらすでに石川さんが払っていた。石川さん、ごちそうさま、いつもすみません。

社長の酒中日記 7月その1

7月某日
集団的自衛権を使えるようにするため、憲法解釈の変更を閣議決定した。集団的自衛権とは日経新聞の解説によると「米国のように日本と密接な関係にある国が攻撃を受けた場合、日本が直接攻められていなくても武力で反撃する権利」のことで、自国への攻撃に反撃する個別的自衛権と分けている。日本の歴代政権は憲法9条が許容する「必要最小限度の自衛権」の範囲を超えると解釈し、権利は持つものの行使はできないと解釈してきた。
私はこの閣議決定は容認できない。そもそも憲法解釈のような重要なことを一内閣の閣議決定で覆していいものなのだろうか?はなはだ疑問である。集団的自衛権の行使が本当に必要なら憲法解釈の変更ではなく、憲法を改正してしかるべきだと思う。最終的に容認の立場をとった公明党も如何なものか?「与党内野党」としていささか公明党に期待した私としてはがっかりである。また自民党内の旧宏池会などリベラル派の沈黙も解せない。これではまるで戦前の大政翼賛会ではないか?彼等には次の言葉を投げつけたい。「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として二度目は茶番として」。

7月某日

我孫子在住の川村女子大学副学長のY武さんに今日、我孫子でどう?と電話したら、「今、手一杯で駄目」の返事。「副学長になったのはいいけど能力を超えているわけね」と返したら「違うよ、だれもやんねぇからしかたねぇじゃないか」と言ってくる。日を改めて約束したところで元厚労省のA沼さんから「上智大学で会議が6時に終わるので神田あたりでどう?」とのメール。神田駅で待ち合わせ南口の「BEER&WINE65」という店に入る。各国のビールを300種類そろえているという。最初に呑んだちょっとスモーキーな生ビールはおいしかった。その後、グラスワインを各種。チーズなどのつまみも、A沼さんに言わせると「ボン!」。A沼さんは今日中に新幹線で京都に帰らなければならないそうで神田から東京駅へ。私は我孫子へ。最近行っている我孫子駅前のマッサージ店「癒し堂」へ寄る。1時間2980円のマッサージを受け、近くの縄のれん「愛花」で真露の緑茶割を2杯。

7月某日
年金時代の「書評」を書くのを忘れていた。我孫子駅前の東武ブックスで本を物色。実業之日本社文庫の「決戦!大坂の陣」を購入。これは大坂の陣を背景にした時代小説のアンソロジーなのだが、なぜ今、大坂の陣かというと、今年は大坂冬の陣から400年だそうで、来年の大河ドラマには真田幸村を主人公に三谷幸喜が脚本を書くという。大阪の夏の陣を最後に国内は太平を謳歌することになる。無理やり集団的自衛権の閣議決定とこじ付け、「戦後七十年近く日本は戦争に巻き込まれていない。平和の尊さを再認識した」と書いた。

7月某日
国土交通省を退職しプレハブ建築協会の専務理事に就任したG田さんのお祝いの会を神田明神下の「章太亭」で。6時半の約束に6時10分頃店に到着。「待ちますか?」と聞かれたが、「待ちません。というか待てません」と言ってビールをもらう。6時半丁度にG田さんが到着。まず乾杯。遅れて高齢者住宅財団のO合さんが参加。今日は当社のI津さんから韓国土産にいただいた韓国焼酎を持ち込ませてもらう。アルコール度数45度である。3人がそろったところで栓を開ける。いい香りだ。最初はロック、次に水割りでいただく。3人で1本空けるが、私はかなり酔っぱらう。

7月某日
NPO法人年金・福祉推進協議会の会員になっている。今日は社会保険研究所で第1回の通常総会が開催されるので出席することにする。総会後の懇親会は会社近くの「ビヤレストランかまくら橋」。私は元年金局長のK藤さん、社労士のS藤さん、シルバー人材センターのO山さんと同じ席。K藤さんは若いころ外務省に出向して北京大使館に駐在していたことがあるとか、その頃の話が面白かった。当時は直行便がなく香港からシンセンに入りそこから飛行機で北京に行ったそうだ。小さな子連れで大変だったらしがそれはそれで今となっては楽しい思い出となっているようだ。シルバー人材センターのO山さんは仕事で全国を回っており各地の日本酒に詳しかった。生ビール1杯と日本酒3杯、赤ワイン2杯。帰りは神奈川県立福祉大学のY埼名誉教授を大手町の駅まで送る。

7月某日
医療法人輝生会の理事で理学療法士のM田さんに家庭で家族がする介護について取材する。
輝生会は初台と船橋でリハビリテーション病院を運営しているほか成城や元浅草で通所や訪問リハビリを実施している。私も4年前の3月に脳出血を発症、急性期は柏の名戸ヶ谷病院に入院したのだが、回復期は厚労省のN村さんの紹介で船橋リハビリ病院にお世話になった。主治医のS田先生と熱心で優秀な理学療法士、作業療法士のおかげで1か月半の入院、退院後の半年に及ぶ通院のおかげで日常生活に不便がないくらいにまで回復できた。そんなわけでリハビリ病院に来るととても懐かしく感じてしまう。前山口県知事、山本繁太郎さんを偲ぶ会を来週やるのだが、お姉さんに連絡して写真を借りることにする。その写真が今日届いた。誠実な人柄の出たいい笑顔の写真が3枚送られてきた。

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夜、HCM社のM社長お誘いで当社のI津さんと白金台の「カフェ・ラ・ボエム」というイタリアンの店に行く。中世のお城のような外観。なかは三層で中二階ではシロガネーゼと思しき若いママに連れられて3~4歳の幼児が誕生パーティらしきものをやっていた。私たちは一階の隅のテーブルに座る。20年近く前、M社長らと20人くらいでヨーロッパツアーに行ったことがあるが、そのときイタリアで行ったレストランを思い出す。注文はM社長に任せたがサラダ、チーズの前菜、カツレツ、どれも美味しかった。赤と白のワインも「ボン!」。お腹が一杯になったところでM社長が前に良く行っていたという焼き鳥屋に行くことにする。店の在ったところに行くと焼き鳥屋はなくうどん屋になっていた。M社長が中を覗くと、何と焼き鳥屋の主人がいるではないか。つまり、M社長が通わなくなってから焼き鳥屋からうどん屋へ商売替えをしたわけだ。お腹がきついので「モロキュウ」を肴に日本酒を呑む。とても楽しい1日だった。なので我孫子で駅前の「愛花」で仕上げ。

7月某日
介護職の投稿ウエブマガジン「けあZINE」のオフ会が大田区の大森で開かれる。前回は版元のSMSの肝いりで開催されたが、今回は前回集まったメンバーを中心に、自主的な集まりとなる。今回、幹事の労をとってくれたのが、大森で地域包括ケアを担っているメンバー。それで開催場所も大森となったわけ。7時からスタートということだったが、私は5時頃に大森に着く。今日の会場は北口、山王側の蕎麦屋。時間があるので南口の大衆酒場「富士川」の暖簾をくぐる。カウンターに座ると右側に60代の夫婦もの。左側に70代と思しき一人客。その隣に中年の男女3人組。酢の物3点盛りと生ビールを注文。ビールの後、吉野川を2杯。まだ6時、外は明るい。大森は北口、山王側は高級住宅地で馬込の文士村には今、朝のテレビドラマで人気の村岡花子も住んでいた。対して南口、大森海岸側は京浜工場地帯の労働者の街の風情がある。私が学生運動をしていたとき留置されていた大森警察者もこちら側の筈。今日の会場である山王側に行って、ダイシン百貨店に寄る。ここは地域に根差した高齢者に優しいデパートとして有名。店内をひと通り廻って(3階建てだから10分ほど)、外に出る。間口1間もないような古書店による。佐藤雅美の「町医 北村宗哲 やる気のない刺客」を300円で売っていたので購入。7時ちょうどに会場に着く。もうすでにみなさん集まっていた。会費を払って自己紹介。大田区の高齢者見守りネットワーク、「みまーも」の中村代表や地元のゼネコン、カドヤ建設の野口常務、地域包括支援センターの保健婦、後藤さんなどと名刺交換。帰りの電車で奈良の若名さんと秋葉原まで一緒、JR東海の認知症家族への賠償請求裁判について話す。

7月某日
SMSのユーザー向けフリーペーパーの取材で大森の山王リハビリ・クリニックへ。ここは介護保険のデイ・サービスでリハビリを行っている。歩行訓練用のポールや機能訓練のためのマシーンが置いてあり、私が入院していた船橋リハビリテーション病院を思い出した。山王リハビリ・クリニックでは藍原副部長の話を伺ったが、私には「通所には運転手を含めて送迎が非常に重要です」の一言が気になった。「あーなるほどなぁ、送迎のとき家族や住居の様子も垣間見れるし、送迎バスの中での利用者の観察も大事なのだろうなぁ」と思った次第。
夜、我孫子駅南口すぐの「海鮮処いわい」で川村女子学園大学副学長のY武さんと待ち合わせ。「いわい」は初めて行く店。マンションの1階で内装は古材を使用しているようでなかなかお洒落。結構、お客も入っているようだ。海鮮処と名乗るだけあってお刺身が美味しかった。お店おすすめの日本酒もあっさりしていながら、気品のある味。店主とアルバイトのお運びさんだけの店らしいが、アルバイトはかなりの美人。Y武さんには今回の厚労省の人事異動についての感想などを聞く。Y武さんの話には「なるほど」と思わせるものがある。時々だけどね。締めにうどんを頼んだがこれもおいしかった。

7月某日
c02大森の古書店で購入した佐藤雅美の「町医北村宗哲 やる気のない刺客」(講談社 平成20年3月刊)を読む。現存している日本の作家では佐藤雅美は田辺聖子に次ぐ「文豪」。もちろん私だけのランキングではあるが。佐藤雅美は直木賞作家でそれなりの知名度はあるけれど、池波正太郎や藤沢周平ほど知られていない。1941年生まれ、早大法学部だから私より7歳上。ウイキペディアによると週刊誌記者、フリーライターを経て「大君の通貨」で小説家に。ウイキペディアでは「綿密な時代考証による社会制度や風俗を正確に描写し、とくに江戸時代の町奉行や岡っ引きなどの司法・警察制度のほか医学、医療、学問に詳しく」と紹介している。江戸の町筋、口入れ屋など江戸の職業の紹介、医療なら官医と町医、漢方と蘭方について実に的確な解説を加えている。北村宗哲は官医の家に生まれ、官医養成の医学館に学ぶも、わけあって破落戸(ごろつき)に追われることになる。各地を流れながら医療の実際を学び、ついにその破落戸、浅草の青龍松を倒した後、芝神明で町医を開業することになる。町医となった宗哲は「あちら(破落戸)の世界とは関わりがない」と言いつつ事件に巻き込まれていく、というのがシリーズの粗筋。「やる気のない刺客」では、蘭方医、松本良順が登場する。良順は実在の人物で、将軍家茂の侍医となるが、戊辰戦争に軍医として参戦、降伏後、一時囚われるが赦されて初代の陸軍軍医総監となる。こうしたフィクションとノンフィクションの交差が私にはたまらない魅力だ。

社長の酒中日記 6月④

6月某日
元厚労省で京都に隠棲している(実際は隠棲などでなく世のためになることをやっているそうだが)A沼さんから「今日、京都に帰るので東京駅近くで呑もう」とメール。昔、行ったことのある東京駅丸の内口の三菱UFJ信託銀行の地下1階にあるワインバー「ヴァン・ドゥ・ヴィ」を予約。5時頃「仕事が終わったから5時半頃行っている」の電話。10分前に行くと、店のソムリェのお姉さんが「久しぶりですねー」と迎えてくれる。5時30分にA沼氏登場。しばらくしてこの4月に筑波大から神奈川大学教授に転じたこれも元厚労省のE口さんが来る。遅れて当社のI佐も来る。さらに遅れて厚労省から内閣府に出向しているY本さんも参加。E口さんはこのところ外国人労働問題に取り組んでいるという。労働力人口が減る中で、移民や外国人労働に対してどうすべきか結論を出さなければならない問題だ。私は原則として「自由化」論者だが、異文化の融合の問題や閉鎖的に思われる日本社会の問題など慎重に考えなければならない問題もある。議論が進むとワインも進む。いささか呑み過ぎ。

6月某日
夕方、高田馬場でグループホームを経営する社会福祉法人サンに行く。空気が不安定で天候が変わりやすく、ときどき強い雨が降る。サンでは理事長のN村さんに訪問介護の利用者・家族向けのフリーペーパーの執筆者の相談。ケアマネのO野さんを紹介してくれたのでこちらには「ケアZINE」の執筆をお願いする。N村さんを誘って久しぶりに早稲田大学へ。私が入学したのが1968年だから46年前、半世紀近く前だ。当時と変わらないのは大隈重信の銅像くらい他は様変わり。都電の早稲田停留所近くのおでん屋「志乃ぶ」で食事。私はビール、N村さんはウーロン茶。おでんの汁がちょっと驚くほどおいしかった。2皿目を頼んだが、さすがにあきた。早稲田から都電荒川線で町屋まで出て千代田線に乗り換え北千住で常磐線へ。

6月某日
社会保険庁OBのK野さん、S木さんと呑みに行く。会社近くのレストラン「かまくら橋」へ。ここはセットを頼むと1800円でオードブルとビールまたはワインが2杯呑めるのでそれを頼む。K野さんは今は悠々自適の身。書道家でもあるのだが今は全然筆を握ることもないそうだ。S木さんは国民年金の自治体向け広報の支援をするNPO法人を立ち上げボランティアで事務局長をやっている。社会保険庁はいろいろあったが、私の付き合っている人はみんな普通の人だ。うーん。K野さんは普通の人の範疇を超えるかな。スケール、物差しがちょいと違うかもしれない。セットの後、赤ワインを1本空け、国産のウィスキーを2,3杯呑む。保険庁OBの話になるが、私の知っている人は大半が完全リタイアしたようだ。S木さんは大手町へ、私とK野さんは神田へ向かう。K野さんともう一軒行こうということになり、神田駅前の以前行ったことがあるスナック「おしゃ麗」へ。ここはママと従業員の女性が全員中国人。お客はもちろん日本人のおじさんたちで、カラオケを歌っていた。ママと女の子と話をして1時間ほどで退散。中央線で帰るK野さんと別れ、私は山手線で上野へ。我孫子に着いたら路上で白桃を売っていたので4ケ1080円で買って家に帰る。

6月某日
芝公園にあるSMSで介護サービスを受ける本人や家族向けのフリーペーパー創刊の打ち合わせ。10月1日の福祉機器展に間に合わせるということなのでかなりの力仕事。介護の事業者向けの媒体は経験があるが、利用者・家族向けとなると本格的なものは初めて。何とか成功させたい、というか成功させなければという気持ちで一杯。社外スタッフの起用がカギとなるが、SMSでの打ち合わせ後、フリーライターのK川さんとの打ち合わせに当社のS田と目黒へ。目黒鍼灸院の王先生に紹介された中国飯店「全家宝」へ。K川さんには今回、ライターというより編集として参加してもらうつもり。台湾ビールと紹興酒を少々。料理は皮蛋、スペアリブなどどれもおいしかった。K川さんは浅草に行っていたそうでお土産にお饅頭をいただく。

6月某日
東商傘下のNPO「SFK21」の理事会、総会に参加。総会後の懇親会は欠席して公益社団法人「国際厚生事業団」の総会へ。総会後、厚労省の今別府医薬品食品局長の講演を聞く。講演後の懇親会で事業団の角田専務と今別府局長に挨拶。今別府局長は10数年前当社に在籍していたT井さんのご主人と厚生省入省が同期。T井さんのご主人が若くして亡くなってしまったので、厚生省で1年先輩の唐沢さんから「頼むよ」と言われて入社してもらった。その後、T井さんは再婚相手が現れて当社を退社するのだが、なかなかの美人でしたね。監事の佐野さん、都村先生と懇談。有楽町電気ビルの「あい谷」で「SFK21」の懇親会に出た人と合流。

6月某日
SMSのフリーペーパーの相談に当社のS田と介護福祉士会の副会長をやっている内田さんに会う。内田さんは赤羽で「あいゆうデイサービス」を運営しているのでそちらに向かう。住宅地のマンションの1階にそのデイサービスはあった。認知症対応のデイサービスということだが、スタッフ、利用者双方の表情が明るいのが印象的だった。内田さんも以前にも増して生き生きと利用者の世話をしていて心なしか若返ったようだ(もともと若々しいのですが)。デイサービスの入野所長が紹介できるデイサービスを当たってくれると言ってくれた。デイサービスは参入が比較的簡単なのか、供給過剰気味な地域が増えているようだ。しかし内田さんのところのように本当に利用者本位に考えているところは多くはないのかもしれない。入野所長は「デイサービスなので4時にはサービスは終わるのですが、オウチに帰った利用者さんがどうしているのかなってすごく気になるんですよ」と言っていたが、そこまで利用者のことを考えているんだ。でも介護って「ここまでやればいい」というものでもないからなかなか大変な仕事であることは確か。今頃になってようやくわかりかけてきた。

6月某日
「ケアの社会学」(上野千鶴子)の第Ⅱ部「「よいケア」とは何か」を読む。第4章「ケアに根拠はあるか」の「家族に介護責任はあるか」の節で、上野は今回のJR東海の鉄道事故賠償訴訟を予見したかのように議論を展開している。上野は民法学者の上野雅和に依拠しながら「現行民法のもとでは家族に(法的)介護義務はない」と断言し、上野雅和の「介護は扶養義務者によって任意に履行されれば、扶養義務の履行といえる―対価の請求権はない―が、これを法的に強制することはできない」を引用している。要するに直系親族および夫婦間に、身辺介護が必要な事態が生じたらどうなるか?という問いに対しては、民法が規定する義務は「生活扶助義務」という経済的義務だけであり、身辺介護義務は存在しないとしている。ここら辺は名古屋地裁、名古屋高裁では議論になったのだろうか?弁護側も上野千鶴子を参考人とすればよかったのに。

6月某日
健生財団のO谷常務が関西方面の出張帰りに来社。当社のH尾と健生財団の広報物について打合せ。打合せ後、O谷さんと呑みに出る。今回は外堀通りの外側で呑もうと外堀通りの横断歩道を渡ったところで10年くらい前に3月に亡くなった当社のO前さんと行った店に行ってみようと思い立つ。その店は淡路町にあり会社から歩いて10分余り。引き戸を開けると顔に覚えのあるオバサンがいる。生ビールと〆サバ、ホッキの刺身を頼む。ベビーコーンが美味しいというので注文すると、皮付きのが出てきた。髭まで食べられるというので食べてみると意外に美味だった。おばさんに10年くらい前に何度か来たことがあると告げると「そうでしょう。何か見たことがあると思って」と言ってくれた。店のテレビで「鶴瓶の家族に乾杯」を見る。佐々木蔵之介がゲストで蔵之介の実家と同じ商売の造り酒屋を訪問していた。酔ってよく覚えていないが、この番組はいい番組と思う。O谷さんと別れ、根津の「ふらここ」へ。常連の「ミヤちゃん」が4月に転勤で岩手県の一関勤務となったが、出張で東京に出てきて店に寄るという。ミヤちゃんは仕事場近くの社宅住まいのうえ、奥さんと一緒なので外に呑みに行く機会がずいぶん減ったそうだ。私は明日早いので早々に店を出る。

社長の酒中日記 6月③

6月某日
東京ディズニーランドのアンバサダーホテルで民介協のO田専務、浜銀総研のT中さん、当社のA堀と打合せ。民介協の接遇の研修がアンバサダーホテルでやられているため舞浜の駅に来る羽目に。学期中のウィークデイのためか学齢前の子供を連れた若い夫婦が多いように思う。まぁ私などの来るところではない。帰りは京葉線の東京で下車。京葉線の東京駅は有楽町寄りにあるので東京商工会議所に近い。で東商のT田さんに電話してお昼を一緒に食べることにする。T田さんはカラー検定担当で当社のS田と一緒に前向きに仕事に取り組んでいる。午後HCMで打合せ。夕方、健康生きがい財団のO谷常務が来社。そのまま葡萄舎へ。

6月某日
シルバーサービス振興会の総会が東海大学校友会館で開かれた。総会の議長は社会保険研究所の川上社長が務める。多少緊張気味。総会後の懇親会に参加。振興会の監事で竹中工務店に勤めていた吉竹さんが千葉経済大学の教授になっていた。民介協の前理事長でジャパンケアの馬岱社長らに挨拶。振興会の新しい常務、中井さんに紹介される。パーティには当社から岩佐、迫田が参加。総会後、フィスメックの小出社長、岩佐、迫田と富国倶楽部へ。弁護士の計良先生と会食。計良先生は20数年前、早稲田大学法学部卒業後、新聞の募集広告を見て当社に入社。退社後に司法試験に挑戦して合格。顧問契約を結んではいないがいろいろと相談に乗ってもらっている。迫田とマンガの話で盛り上がっていた。

6月某日
3月に亡くなった当社の大前さんを偲ぶ会が新宿歌舞伎町のレストラン「ナパバレー」である。当社の社員はじめ社会保険研究所の社員やHCMの会長、社長、社員、年住協の理事長、理事、富国生命の社員など30名近くが集まってくれた。司会はHCMの森社長がやってくれた。ややしゃべり過ぎの感はあったが名司会であった。冒頭、私が献杯の挨拶をした。自分で言うのも何ですがこれがなかなかよかったので最後に再録します。各自自己紹介し、何人かがスピーチしたが、今更ながら大前さんが愛されていたことがわかったし、何よりも大前さんには人に好かれる「何か」があった。飾らないしだれにでも優しかった。お見舞いに行ったときお母様にお会いしたが、実に優しそうな方で、そのとき「大前さんは母親の血を引いたんだ」と思ったものである。富国生命の矢崎さんと中条さんも「新入社員の頃、大前さんのところへ営業に行くと心が安らいだ」という風なことを語ってくれたが、私は「大前さんは酒とタバコと麻雀、それに若い男が好きだったんだよ」と茶化したが男女に関わらず若い人の面倒見が良かったように思う。最後にご主人の崎谷さんが挨拶したが、歌舞伎町は大前さんとご主人が出会った街であり、2人で酒を呑み、麻雀をやった街でもあるという。大前さんの麻雀は「好きだったけど腕前はたいしたことない」というのが本当のところらしい。

それでは私の献杯の辞を再録します。
3月7日の朝、私は当社の石津さん、田島さんと東武練馬の駅で待ち合わせ、大前さんの入院している薬師堂病院に向かいました。大前さんは昨年の8月、福岡の出張から体調を崩し、とくに腰痛が酷いと訴えるようになりました。私たちは「麻雀のやり過ぎじゃないの」と軽口を叩いていたのですが、痛みは尋常ではなかったようで9月に入って江古田の練馬総合病院に検査入院することになりました。結果は「すい臓がんで専門病院での治療をすすめられた」ということでした。私は早速、厚労省の唐沢政策統括官に相談、有明の癌研病院を紹介してもらいました。癌研病院は開発が進む湾岸エリアにあり、大前さんの病室は比較的高層階にあったこともあって見舞いに行ったときは眺望を楽しませてもらいました。また月島や門前仲町にも近く、さらに足を延ばせば森下、立石などディープな飲み屋街もあり、私は大前さんを見舞った後、こうした飲み屋街を徘徊するのが楽しみでした。
12月、八戸出張中のことでした。大前さんから携帯に電話が入り、主治医から「治癒の見込みがないので積極的な治療はしない」と告げられたことを知りました。私は元八戸の駅で「えっ死んじゃうのか」と人目もはばからず泣き出してしまいました。逆に私が「泣くなよー」と大前さんに励まされたのでした。大前さんとは彼女が当社に入社する以前、彼女が今はない新宿のクラブ「ジャックの豆の木」で働いていたときから知っていましたから、知り合ってから40年近くになります。私が年友企画に勤め始めたころは社会保険も年金住宅融資も伸びる一方で、今から考えるとさしたる努力もせずにお金が儲かった時代でした。しかし私が社長になってからしばらくして舞台は暗転、年金住宅融資の新規融資は中止、社会保険庁の不祥事が発覚したこともあって社会保険庁自体が廃止に追い込まれます。会社の売上は最盛期の4分の1以下に落ち込み、毎年毎年、数千万円の赤字を背負い込むことになりました。社内的にも孤立し私としては非常につらい時期だったのですが、そんなとき社内で唯一私を支えてくれたのが大前さんでした。大前さんが病に倒れたら今度は私が支える筈だったのに、逆に私が励まされたのでした。

3月7日に話を戻します。いつもの病室を訪ねたら大前さんがいません。病室を替ったのかと看護師さんに尋ねると昨夜遅く亡くなったとのことでした。自宅を訪問すると大前さんはベッドに横たわって、本当に眠っているようでした。9日が通夜、10日が告別式とのことでしたが私は8日の夜に横浜で元宮城県知事の浅野さんの誕生パーティがあり、そのまま大阪への出張が組んでありました。横浜に行く前に大前さんの好きだったウヰスキーを霊前に供え、通夜、告別式は失礼する旨、ご遺族には伝えました。出張をキャンセルすることはもちろん可能だったのですが、泣き顔を知り合いに見られるのが嫌で欠席しました。告別式の正午、私は大阪の堺にいました。私は大前さんの携帯に「大前さんありがとう。さようなら」のメールを送り私だけの告別式をしました。本日、偲ぶ会を開催するに当たりもう一度言わせてもらいます。

「大前さん本当にありがとう。本当にさようなら」

2014年6月20日
年友企画代表取締役社長 森田茂生

6月某日
「教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化」(竹内洋 中公新書 2003年7月)を読む。日本経済新聞の読書欄に確か「私の読書遍歴」というコラムがあり、経済人が毎回登場して愛読書などを披露している。これは先週、日銀の副総裁をしていた人が紹介していたなかにあった本である。私は竹内洋の「革新幻想の戦後史」(中央公論新社 2011年10月)を読んでえらく面白かった経験があるので、幸い我孫子市民図書館に在庫があったことから早速借りることにした。序章で著者は「大正時代の旧制高校を発祥地として、1970年ころまでの日本の大学キャンパスにみられた教養と教養主義の輝きとその没落過程をあらためて問題として考えたい」と書いている。私は大学を1972年に卒業しているから、教養主義の没落を身をもって体験しているはずだが、私の身の回りでは教養主義が大きな顔をして跋扈していた。もちろん教養主義とは表立っては言わないが、今考えれば教養主義そのものであったように思う。だいたい私は中学生のころから教養主義にかぶれ出したようだ。勉強もそれほどできずスポーツも苦手、女子生徒には相手にもされない。かといって不良にもなれないそういう少年だった私は本にのめり込んでいく。といういか本を読むことによって優越感をもつわけね。それが浅薄な私の教養主義のスタートだった。だけど田舎の高校生の教養主義などたかが知れていて、私が一浪して早稲田に入ったとき「埴谷雄高」を「ウエタニオダカ」と読んで笑われたことを思い出す。それこそ学生時代は乱読の日々。マルクス、レーニン、吉本隆明、黒田寛一、谷川雁、寺山修二、ドストエフスキーなどなど。でも私の教養主義の限界ははっきりしている、マルクスなら初期マルクスの「経済学哲学草稿」「ドイツイデオロギー」にはじまって「フランスの内乱」「経済学批判」止まり。「資本論」は読もうともしなかった。吉本も「擬制の終焉」「情況への発言」などの情勢論や転向論は理解できたが「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論」はほとんど理解できなかった。でも、今本を読むのを苦にしないのはその頃の乱読のおかげかもしれないと思ったりもする。

6月某日
上野千鶴子の「ケアの社会学―当事者主権の福祉社会」(2011年8月 太田出版)を読み始める。この本は確か出版直後に上野の講演会で求めたものだが、菊判二段組本文470頁を超える大著だけに読むのを躊躇していた。しかし医療と介護の問題はこれからの日本社会にとって避けて通れない問題だし、団塊の世代の私にとっては近未来の切実な問題だ。当社のビジネスにとっても介護は成長分野という位置づけ。腰を落ち着けて読むことにする。ただしいつ読み終わるか分からないのでⅣ部構成の部ごとに感想を記すことにする。第Ⅰ部は「ケアの主題化」。ケアを原理論的に語っているわけだが、その前に本書でが「注」が巻末や章の最後にまとまって掲載されているのではなく、見開きのページごとに記載されている。これはすごくいい。「注」が巻末や章末に記載されていると、私などは面倒くさくて「注」は飛ばしてしまう。その点、本書は良くできていると思う。第3章「当事者とは誰か」で「家族介護が『自由な選択』であったとしても、機会費用を失うことと引き換えの選択か、それとも所得保障をともなう福祉制度のもとの選択かででも異なっている」というインド出身で貧困や不平等の研究を手がけたセンに依拠した論述に「注」が付されている。ちょっと長いが内容が面白いので書き写す。「センがあげている興味深い例は、『断食』と『飢え』の違いである。『断食とは他に選択肢がある場合に飢えることを選択することである。飢えている人の『達成された福祉』を検討する場合、その人が断食しているのか、それとも十分な食糧を得る手段がないだけなのか、を知ることは直接的な関心事である』。また『達成された福祉』だけを評価基準とする立場をも以下のように批判する。『標準的な消費者理論では、たとえ選択された最善の要素以外のすべての要素を選択可能な集合から取り除いたとしても、それは何ら不利益をもたらすものではない』。この立場が不適切なことは、開発独裁の結果もたらされた国民経済の繁栄が、国民による選択の自由(民主主義的決定)をともなわないかぎり、抑圧とかわらないこことからも支持できるだろう」。センも上野も急進的な民主主義者と言ってよい。第Ⅰ部は結局、当事者主権を理論的に位置付けていると言えるが、先験的な当事者以外、当事者能力を欠いた個人、子どもや認知症高齢者の場合はどうか。その場合も上野は次のように断言する。「一次的ニーズの正当性は、一次的ニーズの帰属先である当事者によって最終的な判定をくださなければならない。たとえ、その時点で『当事者が不在だったり判定能力を持たなかったりしたとしても、事後的に『当事者になる』者によって』」。

社長の酒中日記 6月②

6月某日
ルポライターの沢見涼子さんから「世界」の7月号が送られてくる。巻頭の「世界の潮」に沢見さんが書いた「認知症列車事故裁判 『介護の社会化』に逆行する判決」が掲載されている。昨年8月の名古屋地裁判決は、家族の監督が不十分だったとして妻と長男に約720万円の支払いを命じたが、名古屋高裁判決は長男の責任は認めず、妻にのみ責任があるとして半額の約360万円を支払うように命じた裁判について論じている。沢見さんは「認知症の人を介護する家族はもちろん、認知症とその予備軍が4人に1人という以下の時代に会っては、すべての人にとって衝撃的な判決だ」と論じている。そして厚労省が進めている「地域包括ケアシステム」に触れて「鉄道会社こそ沿線住民とともにある会社なのだから、当然、地域で高齢者を支えるべき一員のはず。JR東海も賠償請求訴訟を起こすよりは、この事故を機にどうしたら同じような事故を繰り返さずに済むか、住民と一緒に考えて取り組んでいくことがむしろ求められているのではないか」と結んでいる。住民、市民にとっての足という鉄道会社の原点をJR東海はどのように考えているのだろうか?

6月某日
社会保険庁OBのM本さん、M木さん、I田さん、W辺さんと私の5人で栃木県鹿沼市のディアレイク・カントリー倶楽部でゴルフ。この会はもう20年以上も続いていて、一時は4組、5組で廻ったこともあるし会員数も20人を超えていたように思う。メンバーも高齢化し亡くなった人もいて現在は2組がせいぜい。今日は5人なので2人と3人に別れる。天気予報では9時頃から雨足が弱まるという予測だったが午前中はどしゃ降りに近い降りになってしまった。ときどき強風も加わって足の悪い私は午前中でリタイアを宣言、早々と風呂に入らせてもらった。4人が上がってくるのを待って、私とI田さんはM木さんの車で東武日光線の新鹿沼駅まで送ってもらう。ここから電車で私は北千住、I田さんは春日部までI田さん持参のワインを呑みながら2時間近く年金制度や社会保険庁時代のおしゃべり。これが楽しい。

6月某日
三井住友海上のN込さん主催で同社顧問で元厚労省老健局長の宮島さんと食事会。三井住友海上からN村課長が参加、折角だから宮島さんの本「地域包括ケアの展望」(社会保険研究所発行)の編集をやった当社のH尾、出版記念パーティの司会をやった高齢者住宅財団のO合さんにも声を掛ける。会場は大手町センタービルの「小洞天」。三井住友海上は駿河台、高齢者住宅財団は八丁堀で当社が一番近いのだが、私とH尾が遅刻、改めて乾杯。宮島さんの山形県庁出向時代の話など楽しかった。山形は温泉良し酒良しで私も昔は良く行ったものだが最近は全然。「小洞天」の中華料理でおなか一杯になったところで解散。私は内神田の会社の近くにある「渦」へ。ここは安倍首相の奥さんが経営している店だそうだが、もちろん奥さんは店にはいなかった。おなか一杯でつまみはほとんど喉を通らず、焼酎を2杯ほどいただく。

6月某日
ブックオフで買ってあった井上靖の「わが母の記」(2012年3月 講談社文庫)を読む。何で買ったのか理由は覚えていないが、「昭和の文豪」と言われた井上靖の実母が今でいう認知症になっていく話である。小説ともエッセーとも言えない、その中間のような語り口である。認知症を描いた小説としては有吉佐和子の「恍惚の人」(1972年)、耕治人の「そうかもしれない」(1988年)がある。「恍惚の人」はフィクションかも知れないが、「そうかもしれない」は妻の認知症を描いている実話である。自分の身近な母や妻の精神が壊れて行くのを体験するのはつらいことだし、それを文学としてしまうのも辛いことではあるが、そこに小説家の業のようなものも感じてしまう。

6月某日
医療介護福祉政策フォーラム(中村秀一理事長)の第2回実践交流会がプレスセンタービルで開かれるので、土曜日だが出勤。報告は4つ。社会福祉法人新生会の名誉理事長の石原美智子氏の「介護の専門性とは」、社会福祉法人きらくえん理事長の市川禮子氏の「きらくえんの歩みとユニットケアの到達点」、社会福祉法人恵仁福祉協会常務理事で高齢者総合福祉施設アザレアンさなだ総合施設長の宮島渡氏の「地域でねばる」、地域密着型総合ケアセンターきたおおじ「リガーレ暮しの架け橋」グループ代表の山田尋志氏の「社会福祉事業の共同事業の実践」である。私は宮島氏と山田氏の話を面白く聞いた。宮島氏は長野県上田市の旧真田町地区での実践。「地域で暮らすニーズ」に対して施設機能を出前する=施設機能分散という発想で対応し、これによって自宅の施設化と施設の自宅化(個室・ユニットケア)を実現した。そして結果として、地域社会から要介護者を隔離しないと、地域住民の「気づき」が高まったという。山田氏は介護人材の確保・育成のため中小法人の共同事業を発案したという。限られた資源を有効に活用するためにも、施設系、訪問系に限らず共同化は避けられないように思う、これは当初は経営田としての法人にメリットがあるのだが、経営の安定化や介護技術の向上、標準化によって利用者にもメリットは還元されると思われる。このフォーラムには厚労省の現役やOB、それから関係者がたくさん来ていた。

6月某日
埼玉県認知症グループホーム・小規模多機能協議会(西村美智代代表)の総会後の講演会を聞きに行く。これは日曜日だが講演する演者が熊本大学の池田学先生なので聞きに行くことにする。この日はワールドカップの日本対コートジボワール戰の日。池田先生は午前中、国際会議に出席していたが、先生方のトイレが長く、どうもトイレを口実にテレビ観戦していたようだ、とかオランダ戰に負けたスペインの先生が元気がなかった、と笑いをとる。先生の本日のテーマは「BPSDに対する治療とケア」の原則。BPSDは決して周辺ではないし問題行動とも言えないとしBPSDをコントロールできなければ認知症そのものが進行する。そしてBPSDに対する介入の原則として①BPSDを正確に評価し②標的症状を緻密に定め、理論的な仮説から治療方法を選択する、をあげる。さらに「まず、非薬物療法を検討し、効果が不十分な場合に薬物療法を検討する」としている。先生の講演態度は極めて真摯で医療職と介護職の連携に対しても積極的というか、日ごろ認知症の患者と接している介護職の仕事を正当に評価しているのが印象的だった。