続・社長の酒中日記1月

1月某日
 正月休みといっても取り立ててやることもないので本を読む。まず年末、図書館で借りていた「革新幻想の戦後史」(竹内洋 中央公論新社 2011年10月)を読む。タイトルからして戦後のいわゆる「革新的」な論壇を批判したものと思って読み始めた。内容はまぁそうなのだが、著者竹内の個人的な体験も随所に出てきて、私は面白く読ませてもらったし、「ああ、そういうことだったのか」と思うところも少なくなかった。それはさておきこの本は「知識人論」による昭和史と読めないこともない。とりあげられている知識人は三島由紀夫、丸山真男、小田実、福田恒存といったメジャー知識人から北玲吉(北一輝の弟で佐渡島選出の保守系代議士を長く務めた)、有田八郎(戦前の外相、戦後都知事選に2回出るも落選。三島の「宴の後」のモデル)など今ではほとんど論壇でも取り上げられなくなった人、それから東大教育学部の教授陣や北小路敏(革共同中核派幹部、60年安保の全学連指導者)など「その世界」では有名だった人など多岐にわたる。上製本で540頁の大著だが、一気に読み通すことができた。

 私は本書を一読して「日本の戦後」という極めて特殊な政治的、文化的な空間に思いを致さずにはいられなかった。米国の圧倒的な軍事力、経済力の庇護のもとにありながら政治的、文化的な面では「反米」が一定の力を持つという現実。60年安保闘争という大きな反米闘争があったにも関わらず、自民党の保守政治が「安定的」に続いたという政治状況。そして、そうでいながら、いやそうだからこそかも知れない、文化的、論壇的には反米的な文脈が大きな流れとしてあった。著者が大学院生の頃(1968年頃)、友人たちに「吉本隆明もいいけど、福田恒存はもっといいぞ」と喋りだし、「案外、2人は似ているんだな」と続けた。その場に居合わせた女子大生は、著者を誰かに紹介するとき「この人ウヨクよ」と添えたという。この「ウヨク」は「右翼」ではなく「この人バカよ」と言っているに等しかったという。1968年といえば私が大学1年生のころであり、その頃の私の心情もこの女子大生と大差なかったと思う。あるイデオロギーをもとに現実を見ると、現実はイデオロギーに沿って変容することがある。変容した現実の中でイデオロギーは一貫するのだが、それはやはり間違いなのだ。

1月某日
 古本屋で買っていた「春秋山伏記」(藤沢周平 新潮文庫 昭和59年)を読む。藤沢の小説はほとんど読んでいるがこれは未読。ある日、村に大鷲坊と名乗る山伏が訪れる。村の薬師神社の別当として羽黒山から遣わされたという。村での様々な出来事と大鷲坊のかかわりが活写されるのだが、村人の会話は庄内弁である。例外は17~18年ぶりに村に帰った源吉で、小説では標準語を喋る。村の共同体に対して「異人」の扱いだからである。源吉は自分に好意を寄せていた村娘を山火事から救い、村を去る。大鷲坊が娘に声を掛けていかないのかと源吉に聞くと「嫁入り前の娘だから」と答える。これは股旅物や「7人の侍」「シェーン」などの映画に見られる異人の共同体への加担、介入そして別離というパターンを踏襲したものといえる。

1月某日
 青梅市を中心に訪問介護事業や小規模多機能事業所を展開している「ここひろ青梅」のI上代表とT村統括責任者を当社のS田と訪ねる。青梅線の河辺という駅で降りる。神田から1時間くらい、我孫子からだと2時間以上。パンフレット制作の打合せ。地域に密着して介護事業を展開している事業者とは積極的にお近づきになりたいと思う。あと10年、20年は間違いなく成長する分野だ。打合せが終わって立川の鍼灸・マッサージをやっている「こらんこらん」へ。ここの責任者には「けあZINE」への執筆をお願いしている。立川から京葉線の「海浜幕張」へ。千葉県の社会保険関係者の賀詞交歓会。OBのNさんやIさん、千葉県地域型国民年金委員の皆さんに挨拶。結核予防会のT下さんから電話があり神田へ戻りK出さんやS木さんと新年会。2次会のスナックは内モンゴル出身の人がママとホステスだった。

1月某日
 年末、図書館で借りていた「男嫌いの姉と妹 町医宗哲」(佐藤雅美 角川書店 2010年12月)を読む。佐藤は1941年生まれだから今年73歳のベテラン時代小説家。85年に「大君の通貨」で新田次郎賞を受賞。「大君の通貨」は未読だが幕末、日本と欧米の金貨と銀貨の交換比率の差から金が日本から欧米に流出し、日本の物価は騰貴しこれが幕府崩壊の一因となったとされる事態を描いたものという。その後直木賞も受賞し、時代小説家としての地位を不動のものとしている。シリーズとして「物書同心居眠り紋蔵」「八州廻り桑山十兵衛」「縮尻鏡三郎」がある。佐藤の時代小説を読んでいつも感心するのは時代背景をうまくつかまえていること。処女作の「大君の通貨」以来なのだろう、とにかくよく調べている。この本でも「泣く子と地頭には勝てぬ」という諺について「この地頭は鎌倉時代の地頭ではなく知行地を持つ旗本のことで、地頭は知行地の百姓に金の無心はもとより、屋敷の修理などといって知行地百姓を何かと江戸へ呼びつけたため」といった解説が加わる。「町医宗哲」は幕府の官医養成機関に通いながら無頼の徒になり、のちに町医となった北村宗哲を通して当時の江戸の表と裏の社会を描く。もちろん宗哲は作者の創造した人物だろうが私には大変面白く読ませてもらった。

1月某日
 3連休の中日。セミナーと学会に招かれているので出席することにする。1つは日本口腔ケア協会学術大会。これは浴風会ケアスクールのHさんに「胃ろう・吸引ハイブリッドシミュレーターを出展したら」と誘われた。もう1つは「ペグ・ドクターズ・ネットワーク」(PDN)のNさんに誘われたPDNセミナー。口腔ケア学会の学術大会は東京医科歯科大学、PDNセミナーは慈恵医大が会場。学術大会は実演があるのでシミュレーターの開発者のNさんとY君に行ってもらうことにして私は慈恵医大へ。エレベータでその日のシンポに出演する東大のOさんに会う。席に座ると浴風会のHさんも来ていた。看護師のOさん、町田市民病院のH先生、慈恵医大青戸医療センターのS先生らにあいさつ。シミュレーターの販売をお願いするHCM社のO部長が東京医科歯科大学に行っているので慈恵医大に来てもらい何人かに紹介する。17時になったのでシンポジウムを中座、O部長と呑みに行く。新橋の居酒屋「たぬき」で日本酒を少々。

1月某日
 「ここがおかしい日本の社会保障」(山田昌弘 文春文庫 2011年11月)を読む。日本の社会保障の問題点を非常にわかりやすく解説している。いろいろ検討を重ねていかなければならないのは当然だが、山田氏の現状認識と改革の方向性には賛成だ。山田氏の考え方は明快で、働き方や家族の在り方は著しく変貌しているにもかかわらず、日本の社会保障はそれに対応できていないということにつきる。年金、医療など日本の社会保険を主体にした社会保障が確立したのが昭和30年代だが、この頃は学校を卒業すると大半は会社の規模や報酬を選ばなければ企業に正社員として雇用された。また町の八百屋、酒屋、書店なども個人事業主として地域に根付いていた。つまり企業の正社員か個人事業主として、年金ならば厚生年金と国民年金、医療保険ならば健康保険と国民健康保険に加入していたから、セーフティネットは一応は備わっていたのだ。

 しかしこうしたセーフティネットがセーフティネットとして成立したのは、日本でいえば高度経済成長期から1990年代までだ。つまり工業化社会では大量の熟練工が必要だったから、企業は新卒者を大量に雇用して時間をかけて熟練工に育て上げた。こうした男性社員はやがて結婚するが相手の女性は結婚を機に退職するのが常であった。つまり基礎年金で言えば夫は2号、妻は3号被保険者である。しかし経済は高度化する。というか資本が常に利潤をキープしようとすれば高度化せざるを得ない。その過程で国際競争は激化し、さらにオートメーション化とIT化の波が押し寄せる。ITで言うなら高度に専門化した少数の頭脳集団とデータの打ち込みなどの非熟練の単純労働集団に2極分化したのだ。頭脳集団は正規雇用、単純労働集団は派遣などの非正規雇用とならざるを得ない。こうした日本社会の構造変化に社会保障は対応しきれていないのだ。

 こうした現実に対して山田氏は「ベーシック・インカム」や「負の所得税」を提案する。社会保障の構造改革は「負担と給付」の財政的な側面からのみ語られがちだ。それはそれで大事なことは分かるが、まず日本社会と経済はどの方向へ向かうのか、という根っこの議論も大切ではないか。ちなみに山田氏は社会保障の専門家でも経済学者でもなく、専門は家族社会学と感情社会学(?)だそうである。専門家以外の視点も、社会保障の構造改革には必要と思えるのだが。

続・社長の酒中日記12月②

12月某日
 元厚労省のA沼さんが京都から上京、時間が少しあるというので神田駅近くの「蕎麦人」という蕎麦屋で昼食。初めていく店だが入り口にゲバラのポスターが貼ってあったのにはちょっとびっくり。私の青春時代、ゲバラは反権力のシンボルだったが、現在はゲバラのポスター、肖像からは反権力の意味性は失われ、デザイン性のみが残ったということなのだろうか。A沼さんとの話題は当社のO前さんのこと。O前さんは9月にすい臓がんが発見され、抗がん剤の投与を受けていたが先週、主治医から抗がん剤の投与を中止し緩和ケアに移行すると言われたという。自宅に帰ったO前さんを見舞ったが、本人はいたって冷静、むしろ私が動揺する。A沼さんに見舞いに行けばと言うと、「辛くてなぁー」と。O前さんのこと含め、経営上のアドバイスなどを受ける。

 夜、熊谷でグループホームの施設長をしているI田さんに浦和で会う。当社のH尾が同行。「けあZine」への投稿を依頼する。I田さんと別れ、赤羽へ。川口在住のO谷さんと駅前の「大庄水産」で待ち合わせ。生ビール一杯と日本酒少々。浜焼き等肴は旨かったのだが、出てくるのが遅い! O谷さんとH尾は何かスマホのことで盛り上がっていたが当方興味なし。終わってO谷さんは南北線、H尾は埼京線、私は京浜東北線で上野へ。

12月某日
 HCM社のM社長、O橋部長が来社。当社の新商品「胃ろう・吸引ハイブリッドシミュレーター」の説明を当社のO山役員と。このシミュレーターには私は自信があるのだが、当社に専門の販売員がいるわけでもなく、現在はO山役員が業務の傍ら電話応対などをしている状況。HCM社と提携することによって販売増に目途をつけたいというのがねらい。打合せ終了後、私はM社長とHCM社の忘年会(2度目!)へ。

12月某日
 朝日新聞の福島原発事故関連の長期連載、「プロメテウスの罠」で生井久美子記者が福島県飯館村の特別養護老人ホームのことを書いている。私も昨年、当時の東北厚生局長だった藤木さんと一緒にこの特養「いいたてホーム」を訪れたことがある。妊娠・出産の可能性がある女性職員や子供のいる職員がホームを去る中、中高年の職員が「入居者を見捨てるわけにはいかない」と頑張っている姿が印象的だった。飯館村は福島原発から離れること30キロ以上。原発マネーにも潤うことはなかった。そんな村が突然巻き込まれた放射能禍。津波は天災だが原発事故は巨大津波への備えを怠った電力会社による人災だし、当然のことだが原発を受け入れてきた日本政府の責任も大きい。そして原発による豊富な電力で豊かな暮らしを謳歌してきた私たちにも責任は及ぶと考えざるを得ない。

 その福島でジャーナリストをやっているI原寛子さんが立教大学で特別講師として講義をするという。講義が終わったら大手町で食事をすることにした。大手町駅の改札で待ち合わせフィナンシャルビルのトスカーナへ。当社のI藤も同行して「けあZine」への投稿を依頼し快諾してもらう。I原さんは参議院の議員秘書をやっていたこともあり、その関係で今、参議院の副議長秘書をやっているY倉さんのこともよく知っている。

 「けあZine」の打合せでS社のN久保氏が来社。当社は私、S田、A堀、H尾、I藤が参加。終了後呑み会、「和酒BAR DAISHIN」へ。呑んだことのない日本酒を4~5杯、ワインを2~3杯。2次会は葡萄舎。N久保氏は34歳、父親は私より1歳年上とか。私は正真正銘の老人なわけね。N久保氏は北海道札幌市出身。北海道教育大学で地学を専攻したというなかなかの好青年だ。N久保氏とは京浜東北線で神田から上野までは一緒。私は上野から土浦行の最終に乗った。ここまではいいのだが我孫子で降りてスイカをタッチしようとしたらスイカを入れていたポシェットがない。グリーン車に忘れてしまったのだ。翌朝、駅前の交番に届け、クレジットカードやキャッシュカードの停止の手続きに走り回された。

12月某日
 ディズニーランドのホテルオークラで民介協の理事会が開催され、その後の忘年会に呼ばれる。忘年会といっても午後3時から5時まで。厚生労働省でT見年金機構担当審議官に「地方から考える社会保障フォーラム」への出席をお願いした後、霞が関から八丁堀へ。八丁堀で京葉線に乗り換え舞浜へ。舞浜へ着くとそこはもう別世界、ディズニーランドへ向かう家族連れやカップルで賑わっている。ディズニーランドへは子供がまだ小さいころ2、3度行ったことはあるものの、現在は全く無縁。思い切り疎外感を味わう。ホテルオークラは舞浜からモノレールで1つ目の駅と聞いていたので、1つ目の駅で降りたが、それらしき建物は見当たらない。冷たい雨も降り、深い疎外感を抱えながら佇んでいると、携帯に電話。2つ目の駅の間違いだった。で、またモノレールで1駅行くとオークラ行のミッキーマウスのバスが来た。エントランスに着くと係の人が迎えに来てくれていた。

 会場はいくつかのテーブルにわかれていて、B袋理事長、O田専務ら見知った顔がいくつかある。何人かの人と名刺交換したが北九州市の(株)シダーのZ田専務は作業療法士を持っているという。「私は3年前脳出血で倒れ、船橋リハビリテーション病院でOT、PTの皆さんに大変お世話になりました」と言うと、Z田専務は船橋リハのI藤さんや作業療法士の雑誌を出している青海社のK藤社長などをよく知っているという。「若武者ケア」の吉田さんなどに「けあZine」への執筆を口頭で依頼。O田専務から皆さんに紹介されたので「民介協には大変お世話になっています。来年、年友企画から民友企画に名前を替えようかと思います」とあいさつ。6時から町屋で「介護ユーアイ」のU木社長と大手広告代理店を定年で辞めた後U木社長のところでデイサービスの送迎をやっているI上さんと忘年会があるので途中で失礼する。

 町屋の駅ビルのなかにある「ときわ」で待ち合わせ。U木社長は酒は止めているという。I上さんも「呑み過ぎで今日は控えめに」という。「ときわ」は大衆的な割烹で安くて旨い。I上さんは楽しそうに仕事を語り、U木社長によると「顔つきも変わって締まってきた」そうだ。介護の仕事には「はまる」とそういう効果があるのかもしれない。I上さんにも「けあZine」への執筆を依頼する。

12月某日
 「贋作天保六歌撰」(北原亞以子 講談社文庫 2000年6月)を読む。タイトルに「うそばっかりえどのはなし」とルビがふってあるこの文庫本はたしか今年の夏、高田馬場のブックオフでもとめたものだ。ずーっとベッドの傍らに積んでおいたが、師走の忙しい時期に読み始めることにした。

 六歌撰のうち貧乏御家人の直侍こと片岡直次郎を主人公とするこの小説は、江戸も末期の爛熟した市井を喘ぎながら泳ぎ回る小悪党たちを描いたものだが、直次郎が婿となった「あやの」との純愛が微笑ましくも哀しい。強請、騙りを日常とするこの小悪党たちの暮らしが成り立つのは、江戸時代も後半となって江戸の経済社会が剰余価値を飛躍的に増大させたことが大きい。農業は肥料や農機具の改良などによってその生産性を向上させたし、絹や木綿などの繊維もマニュファクチャーとして定着してきた。この剰余価値に寄生して生きてきたのが直次郎らの小悪党だ。江戸時代のこうした経済は鎖国により一国規模で安定し、その安定が徳川300年の治世を支えたのだ。そして欧米諸国がこの富に着目したのが、開国への圧力のひとつとなった。そんなことはこの小説に書かれているわけではないのだが、他のアジア諸国と比べると、欧米による植民地化を免れた背景には、日本の豊かさと安定、国民の教育水準の高さがあったことは確かだ。

12月某日
 「あい谷」でK辺さんを囲んで看護大学のI野さん、結核予防会のT下さん、支払基金のA利さんが集まって忘年会。K辺さんが厚生省年金局の資金課長だった頃、A利さんとI野さんは補佐、T下さんは年住協の部長、私は現在の会社で年金住宅融資を担当していた。今から四半世紀以上も前の話だが、年2回は集まって呑んでいる。人事院総裁をやったE川さんもK辺さんの一代前の資金課長でこの会のメンバーなのだが、この日は所用があって欠席。T下さんのカンボジアへ行った話やA利さんの「歩こう会」に参加した話などが話題になった。「歩こう会」では40何キロを8時間くらいで歩いたそうだ。

12月某日
 「昭和維新の朝―2.26事件と軍師齊藤瀏」(工藤美代子 日本経済新聞出版社 2008年1月)を読む。昭和天皇の崩御から8年後の宮中歌会始の描写から始まるこのノンフィクションは、歌人齊藤史とその父親、陸軍軍人にして歌人、そして2.26事件の青年将校を幇助したとして禁固刑を受けた齊藤瀏、そして史の幼馴染であった2.26事件で刑死した栗原安秀中尉、坂井直中尉らの物語である。

 歌会始の召人として皇居に呼ばれた齊藤史は刑死した青年将校の幻影を見る。召人として皇居に参内し天皇から「お父上は瀏さん、でしたね」と声を掛けられる。歌人の岡井隆は「これは天皇家との長いいきさつの、いわば和解の風景なのかも知れない」と思った。2.26事件は青年将校の思いは思いとして、クーデター計画としては杜撰だったとしか言えない。真崎将軍ら皇道派の将軍らの日和見が見切れていないし、何よりも昭和天皇の立憲主義的な思想と行動に対して全く読み違えていたことは確かである。しかし陸士から陸大を経てエリート将校として栄進する道を選ばず、昭和恐慌で疲弊した東北の兵らとともにありたいとする青年将校の思いには頭が下がる。

12月某日
 「世界は『使われなかった人生』であふれている」(沢木耕太郎 幻冬舎文庫 2007年4月)を読む。3年前に脳出血で入院したとき厚労省のA沼さんが病床に届けてくれたものだが、なぜか読む気がせず、机の上に積まれていたものだ。暮らしの手帖に映画評として連載されたものだが、映画好きではない私には初めて目にするタイトルがほとんどだった。だが手際の良いストーリーの要約といかにも沢木らしい新鮮でナイーブな感想が楽しく、私にはことのほか面白かった。

 だがここでは「使われなかった人生」についてちょっと考えてみたい。沢木は書く。「どんな人生にも、分岐点となるような出来事がある。それが自分の人生の大きな分岐点となるような出来事であるかどうか、その時点で分かっていることもあれば、かなり時間が経って初めてそうだったのかもしれないとわかることもある。しかし、いずれにしても、そのとき、あちらの道ではなく、こちらの道を選んだのでいまの自分があるというような決定的は出来事が存在する」。沢木の場合は入社が決まっていた会社に、入社式の日に退社すること告げたときが分岐点だったという。私の場合はどうか? これは1969年の9月、早大第二学生会館に機動隊が導入されたとき、防衛隊を志願したときが間違いなく分岐点だった。今から45年前の話だが、私は逮捕起訴され懲役1年6か月執行猶予2年の判決を受ける。それから「俺の人生はこんなはずじゃなかった。第二学生会館などに入らなければ違った人生があったはず」と思わなかったかといえば、もちろん激しく後悔したこともある。しかし、今にして思うと逮捕起訴されなかった以外の自分の人生など考えられず、まぁ結構満足な人生を歩んでいるなぁと思わざるを得ない。幸せなんですかね。

12月某日
 今日で仕事納め。3時半ころHCMに行って会長、社長に挨拶。三井住友海上の公務部長や三井住友海上OBの方と日本酒を酌み交わす。30分ほどで切り上げ会社へ。社員に若干の機構改革を伝え、研究所の納会へ。30分ほどで再びHCMへ。弁護士のK林先生に挨拶。呑みつかれ気味なので早々にリタイア。

12月某日
 年末年始の休み。今年は9連休。今日はその初日だが、鍼灸を受けているO先生から「診療所のホームページを更新したいのだけど」と相談され、Rさんと一緒に目黒のO鍼灸院へ。私は施術を受け、RさんはO先生から聞取り。H社のMさんから携帯に電話あり。目黒から内幸町のH社へ。会社へ戻って残務整理。K財団のO谷常務に電話。O谷常務は仲間と代々木あたりに呑みに行くつもりだったが「大手町でもいいよ」とのこと。専門学校のI塚さんら5人と合流。会社近くのジビエ料理の店に向かうが予約で満杯。近くの馬肉料理の店に行くと6時45分までなら席が空いているというのでそこにする。馬のユッケ等なかなか旨い。6時半過ぎにお開き。O常務らは2次会へ。私は帰る。