続・社長の酒中日記12月②

12月某日
 元厚労省のA沼さんが京都から上京、時間が少しあるというので神田駅近くの「蕎麦人」という蕎麦屋で昼食。初めていく店だが入り口にゲバラのポスターが貼ってあったのにはちょっとびっくり。私の青春時代、ゲバラは反権力のシンボルだったが、現在はゲバラのポスター、肖像からは反権力の意味性は失われ、デザイン性のみが残ったということなのだろうか。A沼さんとの話題は当社のO前さんのこと。O前さんは9月にすい臓がんが発見され、抗がん剤の投与を受けていたが先週、主治医から抗がん剤の投与を中止し緩和ケアに移行すると言われたという。自宅に帰ったO前さんを見舞ったが、本人はいたって冷静、むしろ私が動揺する。A沼さんに見舞いに行けばと言うと、「辛くてなぁー」と。O前さんのこと含め、経営上のアドバイスなどを受ける。

 夜、熊谷でグループホームの施設長をしているI田さんに浦和で会う。当社のH尾が同行。「けあZine」への投稿を依頼する。I田さんと別れ、赤羽へ。川口在住のO谷さんと駅前の「大庄水産」で待ち合わせ。生ビール一杯と日本酒少々。浜焼き等肴は旨かったのだが、出てくるのが遅い! O谷さんとH尾は何かスマホのことで盛り上がっていたが当方興味なし。終わってO谷さんは南北線、H尾は埼京線、私は京浜東北線で上野へ。

12月某日
 HCM社のM社長、O橋部長が来社。当社の新商品「胃ろう・吸引ハイブリッドシミュレーター」の説明を当社のO山役員と。このシミュレーターには私は自信があるのだが、当社に専門の販売員がいるわけでもなく、現在はO山役員が業務の傍ら電話応対などをしている状況。HCM社と提携することによって販売増に目途をつけたいというのがねらい。打合せ終了後、私はM社長とHCM社の忘年会(2度目!)へ。

12月某日
 朝日新聞の福島原発事故関連の長期連載、「プロメテウスの罠」で生井久美子記者が福島県飯館村の特別養護老人ホームのことを書いている。私も昨年、当時の東北厚生局長だった藤木さんと一緒にこの特養「いいたてホーム」を訪れたことがある。妊娠・出産の可能性がある女性職員や子供のいる職員がホームを去る中、中高年の職員が「入居者を見捨てるわけにはいかない」と頑張っている姿が印象的だった。飯館村は福島原発から離れること30キロ以上。原発マネーにも潤うことはなかった。そんな村が突然巻き込まれた放射能禍。津波は天災だが原発事故は巨大津波への備えを怠った電力会社による人災だし、当然のことだが原発を受け入れてきた日本政府の責任も大きい。そして原発による豊富な電力で豊かな暮らしを謳歌してきた私たちにも責任は及ぶと考えざるを得ない。

 その福島でジャーナリストをやっているI原寛子さんが立教大学で特別講師として講義をするという。講義が終わったら大手町で食事をすることにした。大手町駅の改札で待ち合わせフィナンシャルビルのトスカーナへ。当社のI藤も同行して「けあZine」への投稿を依頼し快諾してもらう。I原さんは参議院の議員秘書をやっていたこともあり、その関係で今、参議院の副議長秘書をやっているY倉さんのこともよく知っている。

 「けあZine」の打合せでS社のN久保氏が来社。当社は私、S田、A堀、H尾、I藤が参加。終了後呑み会、「和酒BAR DAISHIN」へ。呑んだことのない日本酒を4~5杯、ワインを2~3杯。2次会は葡萄舎。N久保氏は34歳、父親は私より1歳年上とか。私は正真正銘の老人なわけね。N久保氏は北海道札幌市出身。北海道教育大学で地学を専攻したというなかなかの好青年だ。N久保氏とは京浜東北線で神田から上野までは一緒。私は上野から土浦行の最終に乗った。ここまではいいのだが我孫子で降りてスイカをタッチしようとしたらスイカを入れていたポシェットがない。グリーン車に忘れてしまったのだ。翌朝、駅前の交番に届け、クレジットカードやキャッシュカードの停止の手続きに走り回された。

12月某日
 ディズニーランドのホテルオークラで民介協の理事会が開催され、その後の忘年会に呼ばれる。忘年会といっても午後3時から5時まで。厚生労働省でT見年金機構担当審議官に「地方から考える社会保障フォーラム」への出席をお願いした後、霞が関から八丁堀へ。八丁堀で京葉線に乗り換え舞浜へ。舞浜へ着くとそこはもう別世界、ディズニーランドへ向かう家族連れやカップルで賑わっている。ディズニーランドへは子供がまだ小さいころ2、3度行ったことはあるものの、現在は全く無縁。思い切り疎外感を味わう。ホテルオークラは舞浜からモノレールで1つ目の駅と聞いていたので、1つ目の駅で降りたが、それらしき建物は見当たらない。冷たい雨も降り、深い疎外感を抱えながら佇んでいると、携帯に電話。2つ目の駅の間違いだった。で、またモノレールで1駅行くとオークラ行のミッキーマウスのバスが来た。エントランスに着くと係の人が迎えに来てくれていた。

 会場はいくつかのテーブルにわかれていて、B袋理事長、O田専務ら見知った顔がいくつかある。何人かの人と名刺交換したが北九州市の(株)シダーのZ田専務は作業療法士を持っているという。「私は3年前脳出血で倒れ、船橋リハビリテーション病院でOT、PTの皆さんに大変お世話になりました」と言うと、Z田専務は船橋リハのI藤さんや作業療法士の雑誌を出している青海社のK藤社長などをよく知っているという。「若武者ケア」の吉田さんなどに「けあZine」への執筆を口頭で依頼。O田専務から皆さんに紹介されたので「民介協には大変お世話になっています。来年、年友企画から民友企画に名前を替えようかと思います」とあいさつ。6時から町屋で「介護ユーアイ」のU木社長と大手広告代理店を定年で辞めた後U木社長のところでデイサービスの送迎をやっているI上さんと忘年会があるので途中で失礼する。

 町屋の駅ビルのなかにある「ときわ」で待ち合わせ。U木社長は酒は止めているという。I上さんも「呑み過ぎで今日は控えめに」という。「ときわ」は大衆的な割烹で安くて旨い。I上さんは楽しそうに仕事を語り、U木社長によると「顔つきも変わって締まってきた」そうだ。介護の仕事には「はまる」とそういう効果があるのかもしれない。I上さんにも「けあZine」への執筆を依頼する。

12月某日
 「贋作天保六歌撰」(北原亞以子 講談社文庫 2000年6月)を読む。タイトルに「うそばっかりえどのはなし」とルビがふってあるこの文庫本はたしか今年の夏、高田馬場のブックオフでもとめたものだ。ずーっとベッドの傍らに積んでおいたが、師走の忙しい時期に読み始めることにした。

 六歌撰のうち貧乏御家人の直侍こと片岡直次郎を主人公とするこの小説は、江戸も末期の爛熟した市井を喘ぎながら泳ぎ回る小悪党たちを描いたものだが、直次郎が婿となった「あやの」との純愛が微笑ましくも哀しい。強請、騙りを日常とするこの小悪党たちの暮らしが成り立つのは、江戸時代も後半となって江戸の経済社会が剰余価値を飛躍的に増大させたことが大きい。農業は肥料や農機具の改良などによってその生産性を向上させたし、絹や木綿などの繊維もマニュファクチャーとして定着してきた。この剰余価値に寄生して生きてきたのが直次郎らの小悪党だ。江戸時代のこうした経済は鎖国により一国規模で安定し、その安定が徳川300年の治世を支えたのだ。そして欧米諸国がこの富に着目したのが、開国への圧力のひとつとなった。そんなことはこの小説に書かれているわけではないのだが、他のアジア諸国と比べると、欧米による植民地化を免れた背景には、日本の豊かさと安定、国民の教育水準の高さがあったことは確かだ。

12月某日
 「あい谷」でK辺さんを囲んで看護大学のI野さん、結核予防会のT下さん、支払基金のA利さんが集まって忘年会。K辺さんが厚生省年金局の資金課長だった頃、A利さんとI野さんは補佐、T下さんは年住協の部長、私は現在の会社で年金住宅融資を担当していた。今から四半世紀以上も前の話だが、年2回は集まって呑んでいる。人事院総裁をやったE川さんもK辺さんの一代前の資金課長でこの会のメンバーなのだが、この日は所用があって欠席。T下さんのカンボジアへ行った話やA利さんの「歩こう会」に参加した話などが話題になった。「歩こう会」では40何キロを8時間くらいで歩いたそうだ。

12月某日
 「昭和維新の朝―2.26事件と軍師齊藤瀏」(工藤美代子 日本経済新聞出版社 2008年1月)を読む。昭和天皇の崩御から8年後の宮中歌会始の描写から始まるこのノンフィクションは、歌人齊藤史とその父親、陸軍軍人にして歌人、そして2.26事件の青年将校を幇助したとして禁固刑を受けた齊藤瀏、そして史の幼馴染であった2.26事件で刑死した栗原安秀中尉、坂井直中尉らの物語である。

 歌会始の召人として皇居に呼ばれた齊藤史は刑死した青年将校の幻影を見る。召人として皇居に参内し天皇から「お父上は瀏さん、でしたね」と声を掛けられる。歌人の岡井隆は「これは天皇家との長いいきさつの、いわば和解の風景なのかも知れない」と思った。2.26事件は青年将校の思いは思いとして、クーデター計画としては杜撰だったとしか言えない。真崎将軍ら皇道派の将軍らの日和見が見切れていないし、何よりも昭和天皇の立憲主義的な思想と行動に対して全く読み違えていたことは確かである。しかし陸士から陸大を経てエリート将校として栄進する道を選ばず、昭和恐慌で疲弊した東北の兵らとともにありたいとする青年将校の思いには頭が下がる。

12月某日
 「世界は『使われなかった人生』であふれている」(沢木耕太郎 幻冬舎文庫 2007年4月)を読む。3年前に脳出血で入院したとき厚労省のA沼さんが病床に届けてくれたものだが、なぜか読む気がせず、机の上に積まれていたものだ。暮らしの手帖に映画評として連載されたものだが、映画好きではない私には初めて目にするタイトルがほとんどだった。だが手際の良いストーリーの要約といかにも沢木らしい新鮮でナイーブな感想が楽しく、私にはことのほか面白かった。

 だがここでは「使われなかった人生」についてちょっと考えてみたい。沢木は書く。「どんな人生にも、分岐点となるような出来事がある。それが自分の人生の大きな分岐点となるような出来事であるかどうか、その時点で分かっていることもあれば、かなり時間が経って初めてそうだったのかもしれないとわかることもある。しかし、いずれにしても、そのとき、あちらの道ではなく、こちらの道を選んだのでいまの自分があるというような決定的は出来事が存在する」。沢木の場合は入社が決まっていた会社に、入社式の日に退社すること告げたときが分岐点だったという。私の場合はどうか? これは1969年の9月、早大第二学生会館に機動隊が導入されたとき、防衛隊を志願したときが間違いなく分岐点だった。今から45年前の話だが、私は逮捕起訴され懲役1年6か月執行猶予2年の判決を受ける。それから「俺の人生はこんなはずじゃなかった。第二学生会館などに入らなければ違った人生があったはず」と思わなかったかといえば、もちろん激しく後悔したこともある。しかし、今にして思うと逮捕起訴されなかった以外の自分の人生など考えられず、まぁ結構満足な人生を歩んでいるなぁと思わざるを得ない。幸せなんですかね。

12月某日
 今日で仕事納め。3時半ころHCMに行って会長、社長に挨拶。三井住友海上の公務部長や三井住友海上OBの方と日本酒を酌み交わす。30分ほどで切り上げ会社へ。社員に若干の機構改革を伝え、研究所の納会へ。30分ほどで再びHCMへ。弁護士のK林先生に挨拶。呑みつかれ気味なので早々にリタイア。

12月某日
 年末年始の休み。今年は9連休。今日はその初日だが、鍼灸を受けているO先生から「診療所のホームページを更新したいのだけど」と相談され、Rさんと一緒に目黒のO鍼灸院へ。私は施術を受け、RさんはO先生から聞取り。H社のMさんから携帯に電話あり。目黒から内幸町のH社へ。会社へ戻って残務整理。K財団のO谷常務に電話。O谷常務は仲間と代々木あたりに呑みに行くつもりだったが「大手町でもいいよ」とのこと。専門学校のI塚さんら5人と合流。会社近くのジビエ料理の店に向かうが予約で満杯。近くの馬肉料理の店に行くと6時45分までなら席が空いているというのでそこにする。馬のユッケ等なかなか旨い。6時半過ぎにお開き。O常務らは2次会へ。私は帰る。