モリちゃんの酒中日記 10月その2

10月某日
「やさしい猫」(中島京子 中央公論新社 2021年8月)を読む。この小説は今年、NHKでドラマ化されている。これがなかなか良かったので図書館で借りることにした。小説は母子家庭の女の子(マヤ)が「きみ」に話しかけるかたちではじまる。保育士をやっている女の子の母親(ミユキさん)は東日本大震災の災害ボランティアでスリランカ人(通称クマさん)と出会う。都内で偶然に再会したふたりはやがて恋仲に。結婚を決意するが外国籍のクマさんには出入国管理の壁が立ちふさがる。クマさんは法務大臣により強制退去処分を受けることになってしまう。マヤとミユキさん、クマさんは弁護士を頼んで法廷で争うことになる。マヤは小学校以来のベストフレンド、ナオキくんに「つきあってくれ」と告白するが振られる。実はナオキ君はLGBTだったのだ。物語にはクルド人を両親に持つ美少年が出てきたり、なんというか普段私たちには見えない日本国内の「少数派」の人たちが登場する。日本は島国ということもあってか「少数派」には冷たい気がする。人権の観点からもマズいし、労働力人口が減っていくのだから経済の観点からもマズいと思う。

10月某日
11時からマッサージ。肩と腰に15分、電気を掛けてあと15分はマッサージ。ここは健康保険が効くので自己負担は550円のみ。天気が良いのでマッサージの後は散歩。我孫子農産物直売所のアビコンまで歩く。レタスとピーマンを購入。我孫子高校前から坂東バスに乗車、アビスタ前で下車して帰宅。「ロマンス小説の七日間」(三浦しをん 角川文庫 2003年11月)を読む。海外ロマンス小説(ハーレークイーンロマンとかね)の翻訳家であるあかりと恋人の神名の日常を描くと同時に、かんなが翻訳しているイギリス中世の騎士と女領主の恋物語が綴られる。しをんという名前は本名で三浦の母親が石川淳の紫苑物語からとったそうだ。父親は元中央大学教授。ところで神名は年が明けたら海外放浪の旅に出るそうだ。そういえば三浦しをんの小説で恋人が海外の秘境を探検する人というのを読んだ記憶があるが…。放浪する人、ひとところに留まらない人が三浦しをんの好みかも知れない。

10月某日
「ひとびとの精神史 第6巻 日本列島改造 1970年代」(杉田敦編 岩波書店 2016年1月)を読む。「刊行にあたって」には「本企画は、第二次世界大戦の敗戦以降、現在に至るまでのそれぞれの時代に、この国に暮らすひとびとが、何を感じたか、どのように暮らし行動したかを、その時代に起こった出来事との関係で、精神史的に探究しようとする企てである」と記されている。そして「ここでいう精神史とは、卓越した思想家たちによる思想史でもなければ、大文字の『時代精神』でもない」とも述べている。第6巻では「Ⅰ列島改造と抵抗」「Ⅱ管理社会化とその抵抗」「Ⅲアジアとの摩擦と連帯」の3編で構成され、Ⅰでは田中角栄と他3名、Ⅱでは吉本隆明と藤田省三他2名、Ⅲでは小野田寛郎と横井庄市他2名がとりあげられている。冒頭で政治家、思想家、残留日本兵という著名人をとりあげ、その後はそれほど著名ではない庶民あるいは大衆的な知識人をとりあげている。Ⅰで言うと三里塚闘争の小泉よね、横浜新貨物線反対同盟の宮崎省吾、Ⅱでは生活クラブ生協の岩根邦雄、ゼネラル石油労組の小野木祥之、Ⅲでは金芝河と日韓連帯運動を担ったひとびと、アジアの女性たちとの連帯を追求した在日女性の金順烈である。いずれも有名人でも「時代精神」を背負っている知識人でもない。しかし鮮烈で嘘のない生き方をした人であることが本書を読むと伝わってくる。

10月某日
江利川毅さんからメールが届く。「久しぶりに集まって一杯やりませんか」という内容。異議がある筈もなし。江利川さんが当時の厚生省年金局資金課長に就任したころからの付き合いだからかれこれ40年近くになる筈。その後、彼は年金課長や経済課長など難しいポストを歴任、内閣府で官房長、次官を務め退官。証券系の研究機関の理事長になったと思ったら、不祥事で混乱していた厚労省の次官へ。その後、人事院総裁を務めた。まぁ官僚中の官僚と言えるかもしれない。しかし全然偉ぶらない気さくな人柄で多くの人に慕われている。
「虚実亭日乗」(森達也 紀伊國屋書店 2013年1月13日)を読む。「スクリプタ」という紀伊國屋書店のPR誌に連載されたものを加筆修正のうえ単行本にしたもの。森達也の本はオウム真理教関連本を1、2冊読んだ記憶がある。死刑を宣告された元信者たちのことを真面目に書いていた。今回の本は森達也と思われる元映像作家にして現在作家である緑川南京を主人公とするフィクションである。最後の章の末尾に「最後の最後に書くけれど、この書籍に書かれたことは、すべて100%一字一句残さず真実です」と書き残している。しかしページをめくると「この作品はフィクションです。」の一行が。私は主人公の緑川南京(森達也)が力道山やピースボート、北朝鮮問題、死刑問題などに直面しながら、真実とは、正義とは、に悩んでいることに強く共感する。この本を読んで初めて知ったこと。北朝鮮国民は最高指導者(この当時は金正日)のことを「将軍さま」と呼び、その権威主義的体制が強調される。しかし儒教文化の影響が強い朝鮮半島では、北朝鮮でも韓国でも目上の人にはほぼ必ず「さま」(ニム)を付けるという。韓国語から日本語に翻訳するとき普通はこの「ニム」を外す。北朝鮮の独裁者を呼ぶときだけは例外的に「さま」が付けられる。本当のことってときには分からないようになっている。それと森達也って我孫子の住人らしい。

モリちゃんの酒中日記 10月その1

10月某日
「R・E・S・P・E・C・T リスペクト」(ブレイディみかこ 筑摩書房 2023年8月)を読む。みずからをアナキストと宣言しているブレイディの初?の小説。たぶん初めてだと思う。やはりアナキストを自認している政治学者の栗原康が推薦文を寄せている。本の冒頭に「この物語は、2013年にロンドン東部で始動したFOCUS E15運動と、同運動が2014年に行ったカーペンターズ公営住宅地の空き家占拠・解放運動に着想を得たフィクションであり、小説であります。…以下略」という文章が掲げられている。シングルマザーでホステル(若年層ホームレスの居住施設)からの退去を迫られたジェイドとその仲間たちが、空き家の公営住宅を占拠し、自らの要求を貫徹していくというストーリー。この小説を読んでいた私は50年以上前の私の全共闘体験を思い出した。1969年の4月、私たち無党派と反革マル党派の連合部隊はヘルメットと樫の棒で武装して革マルの支配する早稲田の本部構内に進出、革マルの武装部隊を粉砕し、本部封鎖に成功する。封鎖は9月に機動隊により解除される。私たちは機動隊に対抗して第2学館に立て籠ったが攻防数時間で武装解除、逮捕される。拘置所から釈放された11月には授業が再開されていた。
私たちは校舎でジェイドたちは公営住宅という違いはあるが、占拠という戦術は一緒。占拠された空間が一種の祝祭空間に変化してゆくのも同じだ。ジェイドたちは地域の住民たちと交流を深めてゆくが、私たちには住民との交流はほぼなかった。当時、日共民青は当初から全共闘派と対立していたし、革マル派は1月の東大安田講堂の戦いに参加しなかったことで全共闘派と対立を深めていった。革マル派は数年後、中核派のシンパと見られた文学部の学生をリンチ、殺害に至る。この辺の陰惨さも日本の新左翼運動に見られてジェイドたちの運動には見られない特徴だ。政経学部の全共闘はノンセクトが中心で明るかったけどね。私は当時2年生で1学年上の浅井さんや後藤さんと仲良くしてもらった記憶がある。拘置所から出てきたら彼らはもう学園から消えていた。その後、会うことはなかった。地域に根差したジェイドたちの運動は永続する運動のように見える。私は全共闘の無党派の運動は基本はアナキズムではなかったか、と思っている。べ平連の運動もアナキズムに近似しているように思える。全共闘もべ平連も遠くなってしまった。しかし日本においても貧富の格差は拡大しているし、ロシアのウクライナ侵攻も続いている。現代にも矛盾は存在し拡大しているのだ。

10月某日
「かたばみ」(木内昇 角川書店 2023年8月)を読む。北海道新聞、中日新聞など地方紙に連載されたものがもとになっている。ちなみに「かたばみ」とはカタバミ科の多年草。クローバーのような葉を持ち、非常に繫殖力が強く「家が絶えない」に通じることから、江戸時代にはよく家紋に用いられた。花言葉は「母の優しさ」「輝く心」など(本書のカバーに記述)。「家が絶えない」「母の優しさ」が本書のテーマと言える。私はNHKの「ファミリーヒストリー」という番組が好きでよく見るが、本書も日本女子体育専門学校で槍投げ選手として活躍した悌子のファミリーヒストリーである。肩を壊して槍投げ選手を引退した悌子は小学校の代用教員に。悌子には早稲田大学で投手として活躍した幼馴染がいる。当然、結婚すると思っていたが彼は別の人と結婚、すぐに出征して戦死してしまう。嫁は赤ちゃんを身ごもっていた。出産後、嫁は再婚するが悌子に赤ちゃん清太の養育を依頼する。悌子は定職のない権蔵と結婚し清太を実子として育てる。終戦後、清太はすくすくと育ち中学校ではエースとして活躍する。権蔵もドラマ作家として売れ出すが…。惹句に曰く「2023年を代表する傑作の誕生」。かどうかは分からないが、私は大変面白く読ませてもらった。清太は昭和33(1958)年に中学2年生(13、4歳)だから昭和20年か19年生まれだね。作者の木内昇は1967年生まれだから清太は親の世代になるか。

10月某日
「はーばーらいと」(吉本ばなな 晶文社 2023年6月)を読む。つばさ(男子)とひばり(女子)は小学生からの仲良し。つばさのお父さんが投身自殺希望者に巻き込まれて窓から転落死したり、ひばりの両親が経営していたバーを閉鎖してカルト教団に入信したり、ありがちな日常が描かれる(日常生活ではありがちとは言えないが、小説世界ではありがちと私は考える。カルト教団とは言ってもオウム真理教ほど過激な集団ではなく、教祖は「みかん様」と言って「道で会ったら好きになってしまいそうな、姿の良いおじいさんだった」。つばさはひばりを教団施設から脱会するが、暴力的に阻止されることもなく書類上の手続きだけだった。「あとがき」で吉本ばななは「誰かが自分らしく好きなように生きる(ひばりちゃんの両親も、つばさくんのお父さんも)ことが、巻き込まれた近しい人を傷つけることがあるということを、人の心の動きとして、書いてみたかった」と述べている。カルト教団に入信することが「自分らしく好きなように生きる」ことなのか、私はやや疑問。しかし自分のことを振り返れば、私が学生時代、全共闘運動に参加したのも「自分らしく好きなように生きる」ためだったと思う。全共闘運動はさておき、党派への参加もカルト教団への入信も大差がないように今では思う。
ジャニーズの性加害問題について考えてみると、ジャニーさんは「自分らしく好きなように」性加害を行ってきただろう。そして「巻き込まれた近しい人を傷つけ」てしまったのだ。ジャニーズ事務所とカルト教団を同列に扱ってはいけないが、私はそれを集団の怖さと表現したい。戦前の日本社会の天皇制ファシズム、ドイツのナチズム、ソ連のスターリン主義にも同じようなものを感じる。スターリン主義ロシアはプーチンや北朝鮮の金王朝に受け継がれているのではないか。私は吉本隆明(ばななの父)の共同幻想論を思い浮かべる。ついでに言うとスターリン主義に対抗し得るのは反スターリン主義ではなく、吉本の唱えた自立であろう。反スタではスターリン主義を克服できない、と私は見る。

10月某日
「被害者家族と加害者家族 死刑をめぐる対話」(原田正治 松本麗華 岩波ブックレット
2023年8月)を読む。原田は1983年に「半田保険金殺人事件」で末弟を殺害される。犯人は死刑を宣告される。原田は犯人とも面会を続け、死刑の停止を訴えるが、犯人は処刑される。松本麗華(りか)は、地下鉄サリン事件をはじめとする一連の事件で首謀者とされ、死刑判決ののち処刑された麻原彰晃こと松本智津夫の三女。被害者家族(原田)と加害者家族(松本)が対話する。それも和気あいあいとした雰囲気で。読んでいても原田の飄々とした雰囲気が伝わってくる。この人は殺人犯だから悪人、悪人の殺人犯は処刑して当然、という観念、先入観から遠い存在のような気がする。そんな原田に対して松本も素直に対話に応じる。私としては死刑が確定した後も袴田事件のように冤罪が強く疑われる事件もあり、死刑廃止の立場、最高刑は終身刑でいいように思う。それと松本は松本智津夫の娘ということで大学入学や就職を拒否された経験があるという。これは差別でしょ!

モリちゃんの酒中日記 9月その4

9月某日
「甦る『資本論』-若者よ、マルクスを読もう 最終巻」(内田樹×石川康宏 かもがわ出版 2023年7月)を読む。内田樹はレヴィナスの研究者として知られるが武道家でもある。1950年生まれ。東大在学中は革マル派の活動家だったことがあるらしい。この本でも「学生運動にかかわっていた頃に『プロレタリア的自己形成』という言葉を時々耳にしました。もちろん『内田はプロレタリア的な自己形成ができていない』という批判の文脈で使われた言葉です」と自身のことを綴っている。一方の石川康宏は1957年生まれ。ウイキペディアによると立命館大学二部経済学部を卒業。在学中は自治会委員長。京都大学の大学院博士課程を修了後、神戸女学院大学で内田の同僚となる。全国革新懇の代表世話人を務める。ということはバリバリの日本共産党員ということか? まぁ日本共産党にも委員長の公選制を主張する人があらわれたり(その後、確か除名)、変わりつつあるのかもしれない。それにしてもマルクスの思想を学ぶに当たって革マル派や日共などの党派的立場を前提にするのはやはり間違いだろう。マルクスもエンゲルスも世界革命を主張する共産主義者同盟の主要メンバーだったがイギリス亡命以降は、実践活動からは事実上身を引いたみたいだ。マルクスは資本論の執筆に専念したし、エンゲルスはマルクスを支えるための商売に忙しかったらしい。私はまだ資本論を読んでいないが、この本を読んで資本論はたんに経済学や哲学の書ではなく、マルクスが当時の労働者の労働や生活の実態把握のうえに書かれたことがよく分かった。

9月某日
「まずはこれ食べて」(原田ひ香 双葉文庫 2023年4月)を読む。原田ひ香は昨年、NHKの夜ドラで原田原作の「一橋桐子(76)の犯罪」を観てから読むようになった。独身で身寄りもない老女が刑務所へ行けば衣食住に不自由はないと犯罪を企てる話だ。老女役を松坂慶子が好演していた。「まずはこれ食べて」は、大学の同級生が卒業後、IT関連企業を起業した社員たちと、そこに家政婦として派遣される筧みのりの物語だ。IT関連企業だから社員たちの出社は遅い。筧の主な仕事は彼らに昼食と夕食、夜食をつくることだ。ストーリーが進展するなかで、この企業の成り立ちや社員のそれぞれの事情、そして筧の生い立ちや半生が明らかになってくる。私は原田のほのぼのとしながらも風刺も効かせた物語づくりのファンです。

9月某日
私が社長をしていた年友企画を辞めてから5年ほどになる。その年友企画の社員(今では役員になっているらしい)から連絡があってランチをご馳走してくれるという。その日はマッサージの予約をしていたので、マッサージを受けた後我孫子駅へ。13時に神田駅西口で待ち合わせ。駅前の昼からやっている居酒屋へ入る。何でも最近は企画書づくりにもAIを活用しているとか。食べたり吞んだりしているうちに15時を過ぎてしまったのでお開きに。すっかりご馳走になってしまった。しかし年友企画のような会社でもAIの活用が始まっているのかといささかビックリした。「老兵は死なず、消え去るのみ」の感、強し。

9月某日
「レイテ沖海戦〈新装版〉」(半藤一利 PHP文庫 2023年7月)を読む。解説を含めると文庫版で500ページを超え、読み通すのに3日かかった。もともと本書は1970(昭和45)年にオリオン出版社より「全軍突撃・レイテ沖海戦」の題名で刊行され、84年(同59)年に朝日ソノラマ文庫の航空戦史シリーズの一冊にも「レイテ沖海戦」と改題され上下二巻で加えられた(決定版のためのあとがき)。半藤さんは1930年の生まれだから、執筆したのはまだ30代ということになる。「あとがき」では「読み直すとかなり面映ゆいところがある。曲筆はないが舞文の箇所はここかしこにある」と書いているが、確かに歴史探偵として円熟した文章を書いていた晩年のそれとは趣が違う。本書では提督、艦長、幕僚クラスから下士官、兵に至るまでのそれぞれのドキュメントで構成されているが、とくに海軍兵学校第73期出身の最下級最年少の少尉たちには多くの紙幅が割かれている。半藤先生は非戦の人ではあるが、軍人とくに純粋な若い軍人は好きだったのじゃないか。私はアジア太平洋戦争に対しては賛成できないし、それに先立つ日本帝国主義の朝鮮半島や中国大陸への侵攻は認めることはできない。が、特攻隊員を含め先の戦争で亡くなった多くの死を「愚かな死」と一括りにすることはできない。そこは半藤先生と同じ立場である。