モリちゃんの酒中日記 11月その2

11月某日
図書館に行くついでにバス停(アビスタ前)に寄って時刻表を見たら、天王台経由湖北台行きのバスが2分ほど来るではないか。バス停で待っていると2分ほどでバスが来た。10分ほどでJR天王台駅前に着く。天王台から我孫子へJRで行くことも考えたが、自宅のある若松まで歩いて戻ることにした。天王台駅から歩いて10数分で手賀沼のほとりに着いたがそれからが長かった。それから40分以上、天王台駅から1時間でやっと「水の館」に着く。「水の館」1階のアビコン(我孫子の農産物直売所)によると、3時を過ぎたらサンドイッチ類が半額になるという。サンドイッチと野菜ジュースを買って、手賀沼ほとりのベンチに座って食する。我孫子高校前のバス停で万歩計を見ると1万3千歩を超えていた。満足してバスを待ち、アビスタ前で下車。

11月某日
図書館で借りた「資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか」(ナンシー・フレイザー ちくま新書 2023年8月)を読む。著者のナンシー・フレイザーは1947年生まれのアメリカの政治学者である。日本で言えば団塊の世代である。私は1948年生まれだから同じ世代である。私たちが20歳前後の1968年は若者たちの「反乱の季節」だった。フランスの5月革命、アメリカのベトナム反戦運動、日本でも前年の佐藤首相のベトナム訪問に反対する羽田闘争をきっかけにベトナム反戦運動が盛り上がり、同時に東大、日大闘争をはじめとする学園闘争が全国に拡大した。まぁナンシー・フレイザーが反戦運動や学園闘争に参加したかは知らないけれど、私は勝手に親近感を持ってしまった。本書を読了後、その親近感はさらに高まった。フレイザーの思想の源はマルクスの思想である。現代社会の矛盾の解明の武器として資本論をはじめとしたマルクスの思想に依拠している。本書に沿ってフレイザーの思想を簡単に紹介しよう。
フレイザーは現代を金融資本主義体制と位置づけ、それは「18世紀の重商資本主義体制、19世紀のリベラルな植民地資本主義体制、20世紀中頃の国家管理型資本主義体制」の後継の体制となる。19世紀は帝国主義、20世紀中頃は国家独占資本主義と言い換えてもよいだろう。ジェンダーの観点から見ると国家管理型資本主義体制までは、男が外で労働し女は家庭で家事労働という形態が普通であった。1980年代に入ると「グローバル化と新自由主義のこの体制(金融資本主義)は、国家と企業に社会福祉を削減するように促すとともに、大量の女性労働者を有償労働に勧誘した」。日本で言うと2000年の介護保険制度の成立がこれに当たる。それまでの高齢者介護は主として措置制度によって税金で賄われていたが、介護保険制度により税金と保険料と利用者負担によって賄われるようになった。介護労働は主として女性によって担われている。介護労働に限らず今の日本社会はほぼ「共働きモデル」である。
フレイザーは「資本主義経済の存立を可能にする四つの非経済的条件を明らかにした」。第一の非経済的条件は、「被征服民、特に人種差別される人々から収奪した膨大な富だ。とりわけ土地、自然資源、従属する人々の無償もしくは低賃金の労働」だ。日本では明治政府による蝦夷地のアイヌからの収奪に始まり、台湾や朝鮮、南樺太さらにアジア太平洋戦争による東南アジアからの収奪がこれに当たる。戦後、日本資本主義は東アジア各国に進出したが、そこに収奪はなかったのであろうか? 第二の非経済的条件とは「社会的再生産に費やされる無償もしくは低賃金の膨大な量の労働だ」。つまりケア労働のことだがフレイザーは「資本はケア労働の価値をまったくと言っていいほど認めず、補充にも無関心で、支払いを極力、回避しようとする」と言っているのだが日本の介護労働の現実を見ると、肯かざるを得ない。第三の非経済的条件は、「自然から収奪する無料ないし安価な投入物だ」。原材料、エネルギー、食料、耕作地、空気、飲料水、大気の炭素収容能力といった自然の一般的な必要条件などである。第四の非経済的条件とは「法的秩序、反乱を鎮圧する力、インフラ、マネーサプライ、資本主義システムの危機に対応するメカニズム」などを含む公共財である。私たちは今、現在存在するものを無批判に受け入れがちだ。ロシアのウクライナ侵攻もイスラエルのガザ侵攻も、現在は許しがたいものとして批判しているが、時間がたつと受け入れてしまうかもしれない。現にロシアのクリミア半島の併合には国際世論は容認したし、そもそもパレスチナ人民を排除したイスラエルの建国も国際世論は容認したのである。

11月某日
「マルクス-生を呑み込む資本主義」(白井聡 講談社現代文庫 2023年2月)を読む。マルクスの思想が注目されているように思う。マルクス(1818~1883)は200年以上前に生まれた思想家だが、その思想は現在も生き続けている-という視点から書かれたのが本書だ。「おわりに」を入れて126ページの薄い新書だが、内容は濃かった。私はこの本を読んで「文明の発達、社会の進化とは何だろう?」と思わざるを得なかった。とくに産業革命以降の蒸気機関や自動車の発明、電気やガスの普及は、確かに人類に大いなる利便性と快適性を提供した。しかし一方でこれらは地球温暖化や廃棄物の増大をもたらして地球の持続可能性を脅かしている。このところ市街地へのクマの出没がニュースになっている。直接的には食料にしていたドングリが不作で市街地に出て来たらしいが、もともとこの大地は野生生物のものだった。後発の人類が水辺や森林の傍らで細々と狩猟や採取をやっていたに過ぎない。産業革命以降、人口は増大する一方で工業化が進んだ。白井によると「労働の仕方、労働における指揮や命令、人間にとっての働くことの在り方全般が、資本主義のもとでつくり変えられ、その結果、人間がその生産物によって支配されるようになる」ということだ。宝塚歌劇団でのいじめパワハラが問題になっているが、これも「労働における指揮や命令、人間にとっての働くことの在り方全般が」問われていると思う。

11月某日
「橋」(橋本治 文藝春秋 2010年1月)を読む。雅美とちひろという名の女の子がいた。ふたりは長じて結婚する。ちひろは夫殺しで捕まり、雅美は娘を川で失う。後に雅美は娘を
意図的に川に突き落とした疑いで逮捕される。時代は1980年代から90年代、バブルとその崩壊の時代だ。橋本治は東大時代、5月祭のポスター「とめてくれるなおっかさん、背なの銀杏が泣いている」で一躍有名になった。当時から時代感覚に優れていた。「橋」の主人公も実は時代なのだろう。雅美の事件にはモデルがあると思う。同じ事件をモデルにしたのが吉田修一の「さよなら渓谷」である(あくまでも推測です)。

11月某日
「江利川さんを囲む会(仮称)」を18時から東京・神田の「跳人(大手町店)」で。早く着き過ぎたので会場で待っていると18時近くから続々と集まってくる。本日の参加者は敬称略で元厚労省が江利川、川邉、吉武、足利、岩野の5名、その他が大谷、森田、高本(夫)、高本(妻)、佐藤、岩佐の6名の11名だった。社会保険旬報の手塚さんは参加予定だったが、仙台出張のため参加できなくなった。手塚さんは参加を楽しみにしていたので来年2月頃にまた会を招集しようと思う。

モリちゃんの酒中日記 11月その1

11月某日
「『山上徹也』とはなにものだったのか」(鈴木エイト 講談社+α新書 2023年7月)を読む。鈴木エイト氏は安倍元首相の銃撃事件以降、連日テレビに出演して旧統一教会とその被害について論評していた人だ。山上徹也は安倍元首相を銃撃、殺害した犯人、当日、現場で現行犯逮捕され殺人その他で起訴され、現在は拘置所で公判を待つ身だ。私は本書を読んで安倍元首相が巷で言われている以上に旧統一教会とつながりがあったことを知った。元首相の祖父である岸信介以来の関係である。元首相が宗教的に旧統一教会に近づいたというより、政治家として支持(票、労働力、金銭等)が欲しかったのだろう。銃撃後、自民党保守派はまさに「手のひらを返したように」旧統一教会との断絶を宣言している。まぁそんんなもんでしょう。鈴木エイト氏は事件前からカルト集団としての旧統一教会に注目、取材をしていた。事件後、マスコミへの露出も多くなってきた。でも彼のジャーナリストとしての自覚と自負は見上げたものである。山上徹也に対しても「罪を憎んで人を憎まぬ」姿勢は一貫している。

11月某日
「恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ」(川上弘美 講談社 2023年8月)を読む。文芸誌「群像」に2020年1月号から2023年5月号まで不定期で連作されたもの。著者、川上の分身と思われる小説家の日常が描かれる。単行本の帯によると「小説家のわたし、離婚と手術を経たアン、そして作詞家のカズ/カリフォルニアのアパートメントで子ども時代を過ごした友人たちは半世紀ほど後の東京で再会した」ということになる。川上は1958年生まれ、私の10歳下である。ということは今年65歳、昔で言えば立派な老人、確か夏目漱石は49歳で死んでいる。「2020年の暮れまでは落ち着いていたコロナの感染者数が、再び増えはじめていた」「2021年の5月末、91歳になったばかりの父がころんだという電話がきて、実家に急いだ」…。小説家の日常、それもコロナ禍の日常である。丁寧に描いているのか、雑に大雑把に描いているのか…。でもこれは確かに文学と言えると思う。

11月某日
「シェニール織とか、黄肉のメロンとか」(江國香織 角川春樹事務所 2023年9月)を読む。学生時代仲が良く周囲から「三人娘」と呼ばれていた三人の女性とその周辺の人たちの日常を描く。林真理子の小説ならば恋愛が、桐生夏生ならば事件が描かれるが、江國の今回の小説には恋愛も事件も登場しない。英国帰りの理枝の恋バナは登場するが、それも軽くである。三人の年齢は57,8歳。小説家となった民子は母と同居、専業主婦の早希は夫と息子2人と同居、独身の理枝は英国から帰国当初は民江の家に居候し、その後湘南に家を買う。これら3人はブルジョア階級とは言えないが中産階級であることは疑いない。「失われた30年間」にその存在が随分と希薄になった中産階級である。競艇場の場面が何回か登場するが、ウイキペディアで検索すると江國は競艇が趣味であるという。そこらへんは中産階級的ではない。

11月某日
社保研ティラーレの吉高さんから「忘れていませんよね。明日はフォーラムですよ。会場でお待ちしていますから」とメールが届く。フォーラムとは「地方から考える社会保障フォーラム」のこと。私も高齢になったし(今月、75歳の後期高齢者となる)、フォーラムへの出席も控えようと思っていたが、折角のお声がけなので出席することにする。ただこの日は11時に所用があり、午後からの出席となった。会場に着くと元防府市の高齢福祉課主幹の中村一朗氏の「リエイブルメント・サービスで地域を活性化する政策の推進を!」がすでに始まっていた。高齢者の活用で地域を活性化するという話だった。次いで厚労省の福祉人材確保対策室長の吉田昌司氏が「地域共生社会とそれを支える人材」という演題で講演を行った。後期高齢者となる私にとってはいずれも非常に参考になる話であった。会場は地下2階で地下道と直結、5分ほどで千代田線大手町駅。我孫子行きに乗車、終点まで座ることができた。我孫子駅で下車、駅前の「七輪」で軽く一杯。

11月某日
「増補 昭和天皇の戦争-『昭和天皇実録』に残されたこと・消されたこと」(山田朗 岩波現代文庫 2023年9月)を読む。私がテレビの画像などで昭和天皇の姿を見るようになったのは1958年か59年頃だと思う。その頃、我が家にもテレビが導入されたからだ。その当時の昭和天皇のイメージは猫背でチョビ髭を蓄えた丸い眼鏡の温和な老人だ。植物学者の一面も紹介されていたから平和を好む人なんだろうなーというイメージだ。しかし明治憲法では、大日本帝国は天皇が統治するとされているし、同時に天皇は大元帥として陸海軍のトップでもあった。「昭和天皇実録」とは、昭和天皇の公式伝記で宮内庁編纂の全60巻で14年3月からは東京書籍㈱から全19巻に再構成されて出版されている。本書は「実録」以外にも「高松宮日記」「木戸幸一日記」「大本営機密日誌」「杉山メモ」などの日記、メモ類その他膨大な資料に当たって確認した昭和天皇の「行動と思想」である。簡単にまとめてしまうと昭和天皇は極端な侵略主義者でも平和主義者でもなかった。アジア太平洋戦争の開戦時は積極的な開戦論はとらなかったが緒戦の陸海軍の勝利を見て、満足感を感じる。日本軍が敗勢に転ずると戦争指導部に失望し、苦言を呈するも激励もする。「解説」(古川隆久)によると、昭和天皇は「12歳で皇太子になってまもなく陸海軍少尉に任官し、以後陸海軍の軍人を教師役として軍事に関する学習を継続していく。昭和天皇は軍事には素人どころか、最高水準の軍事教育を受けていた…」そうである。軍事指導者としての昭和天皇を描いた本書を読むと、昭和天皇には「戦争責任あり」と思わざるを得ない。

11月某日
「戦争論」(高原到 講談社 2023年8月)を読む。文芸雑誌「群像」の今年1,3,5月号に掲載されたもの。今年10月に勃発したイスラエルとパレスチナの紛争については触れられていないが、それにしてもロシアのウクライナ侵攻、ミャンマーでの軍事政権による民主派の弾圧、北朝鮮の核の脅威など戦争、地域紛争の脅威が世界を覆う現在、本書の論稿には非常に参考となるものが多かった。「第1章2つの戦争のはざまで『同志少女よ、敵を撃て』とウクライナ戦争」では、中国やロシアといった権威主義国家の帝国的な拡大志向が21世紀の国際情勢にあって、「その危険な現状を『否認』したいという欲望が」「フィクションの戦争を代償的に享楽しつつリアルな戦争から眼をそむけるという倒錯を私たちに強いてきたのだろうか?」と問いかけつつ、さらに「ウクライナ戦争はそうした『否認』がもはや維持しえないことを私たちに突きつけているのだろうか?」と続ける。著者は独ソ戦にウクライナ戦争と同じ構造を見ている。「ロシアという特殊性を普遍性に位置づけるプーチンのファシズムと、外敵の侵略から自国の自由と独立を守るため、全国民に徹底抗戦を呼びかけるゼレンスキーのナショナリズムという構図だ」。ファシスト=ナチスドイツから祖国を防衛したソ連=ロシアが今やファシストとして隣国を侵攻しているという皮肉。
「第2章『半人間』たちの復讐 巨人たちは屍の街を進撃するか?」では、第2次世界大戦で米国から2発の原爆を投下された日本人に対して「では日本人は、自らを〈人間の顔をした猿〉と決めつけて絶滅兵器を放った敵に、どのような復讐を誓ったのか?〉と問う。著者は「進撃の巨人」や「鬼滅の刃」、さらに大田洋子や林京子の原爆文学、「はだしのゲン」「夕凪の街」などの原爆漫画を「人間であって人間でないという矛盾を強いられ、社会から追放され迫害される『半人間』たちの復讐を、対照的なかたちで描きだした」と評価する。つまりこれらの作品は、絶滅兵器を放った敵に例外的に復讐を果たしているのだ。著者は「三発目の原爆を落とされても憎悪や復讐心をもちえない国」として日本を半国家と呼ぶ。私はここで「?」と思う。では、著者は日本を自立した帝国主義国家にしたいのだろうか?
答えは「第3章 復讐戦のかなたへ 安倍元首相銃殺事件と戦後日本の陥穽」にある。ここで著者は安倍の出自をたどる。祖父の岸を「大日本帝国と戦後の連続性をグロテスクなかたちで体現したモンスター」と表現しA級戦犯として巣鴨プリズンに収容されていた岸は、東条らが処刑された翌日に釈放され政界に復帰し、60年安保改定を首相として実現する。岸から安倍は「官僚的な権威主義、アメリカへの従属、戦争責任の忘却、そして『卑劣』さ」のすべてを相続した。しかし安倍が相続した反共イデオロギーには旧統一教会という汚点がこびりついていた。そして米国は戦時に昭和天皇がふるった政治的、軍事的イニシアティブに眼をつぶり、東条英機らA級戦犯をスケープゴートにまつりあげた。さらに大東亜戦争を太平洋戦争と読み替えるなかでアジアの人びとの対日抵抗戦争も消去された。これらの歴史認識をもとにして著者は新たな「平和論」を構築しようとしている。私は高原到という思想家を知らなかったけれど、本書を読む限りではしっかりとしたまともな思想家である。

モリちゃんの酒中日記 10月その3

10月某日
「雫の街 家裁調査官・庵原かのん」(乃南アサ 新潮社 2023年6月)を読む。「小説新潮」の2021年7月号~22年1月号に掲載されてもの。新型コロナウイルスの流行と重なる時期で小説中にも新型コロナの話題が出てくる。家裁調査官シリーズは確か2作目。前作では庵原は北九州の家裁調査官で恋人の上野動物園飼育員の栗林とは遠距離恋愛だったが、庵原の川崎中央支部への転勤を機に結婚する。家裁の扱う事件は地味である。少年事件でも新聞をにぎわすような事件は地裁へ回される。しかし地味だからこそ深い人間関係が潜む事件もあるのだ。そこを描くのはさすがに乃南アサである。私は個人的には最終作の「はなむけ」が一番気に入っている。末期がんで水商売を細々と営む母親が、少年院に収容されている娘と息子に家を売却して現金を遺すという話。表面的なストーリーはその通りなのだが子を想う母親の情愛がひしひしと伝わってくるのさ。

10月某日
「ひとびとの精神史 第1巻 1940年代」(栗原彬・吉見俊哉編 岩波書店 2015年7月)を読む。先週第6巻の「日本列島改造 1970年代」を読んで面白かったので我孫子市民図書館で第1巻を借りた。第1巻は3章の構成でそれぞれのタイトルは「Ⅰ生と死のはざまで」「Ⅱそれぞれの敗戦と占領」「Ⅲ改革と民主主義」である。どれも面白かったが私にはⅡの「茨木のりこ 女性にとっての敗戦と占領」(成田龍一)がとりわけ面白く感じた。茨木の詩は好きだし、生前の茨木は写真で見る限り知的な美人である。成田龍一の描く茨木像で私が少しびっくりしたのは彼女の昭和天皇観である。「四海波静」という詩で「戦争責任を問われて/その人は言った/そういう言葉のアヤについて/文学方面はあまり研究していないので/お答えできかねます/思わず笑いが込みあげて/どす黒い笑い吐血のように/噴きあげては 止り また噴きあげる」と昭和天皇を批判している。私ら庶民も酒席などでは天皇制を口にするが、文章で残すなどまずしない。茨木は詩で公然と昭和天皇を批判する。昭和天皇に対する批判だけでなく、私には戦後の象徴天皇制の批判のように感じられる。

10月某日
「上野千鶴子がもっと文学を社会学する」(上野千鶴子 朝日新聞出版 2023年1月)を読む。「あとがき」によると上野は2000年に同じ出版社から「上野千鶴子が文学を社会学する」を出版していることから今回「もっと」が付け加えられたということである。日本では単行本が出版された後、多くの本が文庫化されその巻末には解説が付されることが多い。上野が試みた解説を集めたのが本書である。本書がとりあげた解説の中で私が読んだことがあるのは林真理子の「我らがパラダイス」である。ひとり最低でも8600万円の入居金が必要な高級老人ホームを舞台にした小説だ。林が介護する側の差別意識、高級老人ホームの入居者の特権意識にメスを入れたことを評価しつつ、「ケアの質を決めるのは、負担できる金額の差ではない、事業者と介護者の志の有無だ」と本質を指摘している。さすがである。

10月某日
一週間ぶりに上京。常磐線の上野東京ラインで東京へ。山手線を神田駅で下車。鎌倉河岸ビル地下1階の跳人大手町店へ。呑み会の打ち合わせ。料理3500円に呑み放題を付けて6000円。「安くならないの?」と店員の大谷君に聞いたら「お酒も食材も値上がりしているんですよ!勘弁してくださいよ」と言われてしまった。円安に加えてロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ侵攻の影響が及んでいるようだ。戦争でいいことは一つもない。正義の戦争も存在しない。戦争を始める国は「正義のため」「平和のため」と主張するものだ。日本が戦争に巻き込まれたらうかうか酒も飲めなくなる。だから戦争、絶対反対!

10月某日
「新古事記」(村田喜代子 講談社 2023年8月)を読む。「新古事記」というタイトルだが、古典である古事記とはあまり関係がない。小説のなかで旧約聖書の創世記と古事記の国産みの神話が紹介されているのが関連している程度である。ストーリーは第2次世界大戦末期にニューメキシコの山のなかに集められた核物理学者とその妻、さらに彼らの愛犬たちとその犬を治療する動物病院の物語である。若手核物理学者(ベンジャミン)の恋人で後に結婚する「あたし」の視点で物語は進行する。「あたし」の祖父は「かんりん丸」の水夫だったが、サンフランシスコから日本に帰る日に海に飛び込み、アメリカに永住することになる。「あたし」は日系3世ということになる。しかし祖父のヒコタロウは日本の移民が定着する40年も前にアメリカ国籍になっているために、ヒコタロウの子孫は強制収容所への収容を免れた。この物語がなぜ、神話的か? 山のなかに核物理学者が集められ秘かに新型爆弾の開発を行うというストーリー自体が神話的である。核物理学者とその家族の世話をするために先住民族のプエブロの人たちが使われるが、この先住民族は神話性を色濃く持っている。「あたし」の祖母のノートに祖父の筆跡が残されているが、そこには「空」と「SORA」
「KUU」と書かれていた。神話的だよね。実験で原子爆弾を爆発させたとき。「その地方一帯は昼間の太陽より何倍も強いサーチライトで照らされた。その光は金色、紫、すみれ、灰色および青色であった…」。神話的な色彩感覚! その閃光を見て核物理学者のリーダー、オッペンハイマーは言ったという。「われは死なり。世界の破壊者となれり」。ヒンズー聖典の一行らしいが十分に神話的である。実験で威力が確認された原爆はほどなく広島と長崎に投下された。被害は途方もなく神話的であったが、事実は現実であった。なお原爆開発のために集められた核物理学者の7割はユダヤ系であったという。これもいささか神話的と言えようか。