モリちゃんの酒中日記 10月その3

10月某日
「雫の街 家裁調査官・庵原かのん」(乃南アサ 新潮社 2023年6月)を読む。「小説新潮」の2021年7月号~22年1月号に掲載されてもの。新型コロナウイルスの流行と重なる時期で小説中にも新型コロナの話題が出てくる。家裁調査官シリーズは確か2作目。前作では庵原は北九州の家裁調査官で恋人の上野動物園飼育員の栗林とは遠距離恋愛だったが、庵原の川崎中央支部への転勤を機に結婚する。家裁の扱う事件は地味である。少年事件でも新聞をにぎわすような事件は地裁へ回される。しかし地味だからこそ深い人間関係が潜む事件もあるのだ。そこを描くのはさすがに乃南アサである。私は個人的には最終作の「はなむけ」が一番気に入っている。末期がんで水商売を細々と営む母親が、少年院に収容されている娘と息子に家を売却して現金を遺すという話。表面的なストーリーはその通りなのだが子を想う母親の情愛がひしひしと伝わってくるのさ。

10月某日
「ひとびとの精神史 第1巻 1940年代」(栗原彬・吉見俊哉編 岩波書店 2015年7月)を読む。先週第6巻の「日本列島改造 1970年代」を読んで面白かったので我孫子市民図書館で第1巻を借りた。第1巻は3章の構成でそれぞれのタイトルは「Ⅰ生と死のはざまで」「Ⅱそれぞれの敗戦と占領」「Ⅲ改革と民主主義」である。どれも面白かったが私にはⅡの「茨木のりこ 女性にとっての敗戦と占領」(成田龍一)がとりわけ面白く感じた。茨木の詩は好きだし、生前の茨木は写真で見る限り知的な美人である。成田龍一の描く茨木像で私が少しびっくりしたのは彼女の昭和天皇観である。「四海波静」という詩で「戦争責任を問われて/その人は言った/そういう言葉のアヤについて/文学方面はあまり研究していないので/お答えできかねます/思わず笑いが込みあげて/どす黒い笑い吐血のように/噴きあげては 止り また噴きあげる」と昭和天皇を批判している。私ら庶民も酒席などでは天皇制を口にするが、文章で残すなどまずしない。茨木は詩で公然と昭和天皇を批判する。昭和天皇に対する批判だけでなく、私には戦後の象徴天皇制の批判のように感じられる。

10月某日
「上野千鶴子がもっと文学を社会学する」(上野千鶴子 朝日新聞出版 2023年1月)を読む。「あとがき」によると上野は2000年に同じ出版社から「上野千鶴子が文学を社会学する」を出版していることから今回「もっと」が付け加えられたということである。日本では単行本が出版された後、多くの本が文庫化されその巻末には解説が付されることが多い。上野が試みた解説を集めたのが本書である。本書がとりあげた解説の中で私が読んだことがあるのは林真理子の「我らがパラダイス」である。ひとり最低でも8600万円の入居金が必要な高級老人ホームを舞台にした小説だ。林が介護する側の差別意識、高級老人ホームの入居者の特権意識にメスを入れたことを評価しつつ、「ケアの質を決めるのは、負担できる金額の差ではない、事業者と介護者の志の有無だ」と本質を指摘している。さすがである。

10月某日
一週間ぶりに上京。常磐線の上野東京ラインで東京へ。山手線を神田駅で下車。鎌倉河岸ビル地下1階の跳人大手町店へ。呑み会の打ち合わせ。料理3500円に呑み放題を付けて6000円。「安くならないの?」と店員の大谷君に聞いたら「お酒も食材も値上がりしているんですよ!勘弁してくださいよ」と言われてしまった。円安に加えてロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ侵攻の影響が及んでいるようだ。戦争でいいことは一つもない。正義の戦争も存在しない。戦争を始める国は「正義のため」「平和のため」と主張するものだ。日本が戦争に巻き込まれたらうかうか酒も飲めなくなる。だから戦争、絶対反対!

10月某日
「新古事記」(村田喜代子 講談社 2023年8月)を読む。「新古事記」というタイトルだが、古典である古事記とはあまり関係がない。小説のなかで旧約聖書の創世記と古事記の国産みの神話が紹介されているのが関連している程度である。ストーリーは第2次世界大戦末期にニューメキシコの山のなかに集められた核物理学者とその妻、さらに彼らの愛犬たちとその犬を治療する動物病院の物語である。若手核物理学者(ベンジャミン)の恋人で後に結婚する「あたし」の視点で物語は進行する。「あたし」の祖父は「かんりん丸」の水夫だったが、サンフランシスコから日本に帰る日に海に飛び込み、アメリカに永住することになる。「あたし」は日系3世ということになる。しかし祖父のヒコタロウは日本の移民が定着する40年も前にアメリカ国籍になっているために、ヒコタロウの子孫は強制収容所への収容を免れた。この物語がなぜ、神話的か? 山のなかに核物理学者が集められ秘かに新型爆弾の開発を行うというストーリー自体が神話的である。核物理学者とその家族の世話をするために先住民族のプエブロの人たちが使われるが、この先住民族は神話性を色濃く持っている。「あたし」の祖母のノートに祖父の筆跡が残されているが、そこには「空」と「SORA」
「KUU」と書かれていた。神話的だよね。実験で原子爆弾を爆発させたとき。「その地方一帯は昼間の太陽より何倍も強いサーチライトで照らされた。その光は金色、紫、すみれ、灰色および青色であった…」。神話的な色彩感覚! その閃光を見て核物理学者のリーダー、オッペンハイマーは言ったという。「われは死なり。世界の破壊者となれり」。ヒンズー聖典の一行らしいが十分に神話的である。実験で威力が確認された原爆はほどなく広島と長崎に投下された。被害は途方もなく神話的であったが、事実は現実であった。なお原爆開発のために集められた核物理学者の7割はユダヤ系であったという。これもいささか神話的と言えようか。