モリちゃんの酒中日記 5月その2

5月某日
「方舟を燃やす」(角田光代 新潮社 2024年2月)を読む。柳原飛馬は1967年生まれ。望月不三子は1967年に高校を卒業し、食品メーカーに就職する。飛馬は大学に進学し区役所に就職する。不二子は職場結婚し退職して専業主婦となる。飛馬と不二子の人生は交錯することなく過ぎてゆく。2018年に2人がボランティアとして関わり始めた子ども食堂で会うまでは。1967年に高校を卒業した不二子は私と同年。ノストラダムスの大予言や2000年問題、新興宗教団体によるテロなど、私と不二子は同じような社会現象を見てきた。それだけでなく結婚、子育ても同じような体験をしてきた。タイトルの方舟は「ノアの方舟」のこと。神の預言に従ってノアは家畜や家族と一緒に方舟で大洪水を逃れる。飛馬も不二子も自分だけが助かろうとはしなかった。方舟には乗らず、燃やしてしまった。私には「方舟を燃やす」ことが、逃げるのではなく踏みとどまって闘うことを暗示しているように思えるのだが。

5月某日
「ガザとは何か-パレスチナを知るための緊急講義」(岡真理 大和書房 2023年12月)を読む。2023年10月7日のハマス主導によるイスラエルへの越境奇襲攻撃に対して、パレスチナのガザ地区へのイスラエルによる未曾有のジェノサイド攻撃が行われている。パレスチナ人の死者は5月で3万5000人を超えている。本書は岡真理が京都大学(10月20日)と早稲田大学(10月23日)で行った講演を書籍化したものだ。私は本書を読む前までは「イスラエルもやり過ぎだけどハマスもちょっとなぁ」という程度の認識であった。しかし本書を読んでから悪いのはイスラエル、ハマスは植民地化に抗議する抵抗者という認識に変化した。第2次世界大戦でドイツが敗北したときナチスによって強制収容所に収容されていたユダヤ人が解放された。だが帰る場所を奪われたユダヤ人25万人が難民となってしまった。1947年11月、国連でユダヤ人難民問題を解決するために「パレスチナを分割し、そこにヨーロッパのユダヤ人の国を創ること」が賛成多数で可決された。しかしパレスチナはもともとアラブ人が暮らす土地であり、第1次世界大戦でオスマン帝国が敗れ、オスマン帝国領であったパレスチナは国際連盟の委任統治という名の英国の植民地になった。委任統治というのは、その土地の住民が独立できるようになるまで国連が別の国(この場合は英国)に統治を委任するというもので、どこかまったく別の国を創るために委任統治システムがあるのではない。
岡真理は次のように書いている。「ヨーロッパ・キリスト教社会における歴史的なユダヤ人差別と、近代の反ユダヤ主義の頂点としてのホロコースト、その責任を負っているはずの西洋諸国は、その責任を、パレスチナを犠牲にすることで贖った」「パレスチナ人に自分たちの歴史的犯罪の代償を払わせ、今に至るまでパレスチナ人に対するイスラエルの犯罪行為をすべて是認することによって、西洋諸国はその歴史的不正をさらに重ねています」。岡は質問に答えて次のようにも言っている。「パレスチナを通して、私は日本の植民地主義の問題に出会いました。日本人の家庭で普通に勉強して大学まで行って、植民地支配のことは歴史の授業で習ってはいたけれども、それが一体何を意味するかなんて、全然理解していなかった。パレスチナと出会って、私は初めて、朝鮮植民地支配の問題、在日の問題、沖縄の問題、アイヌモシリの問題などを知ったのです」。パレスチナ問題は普遍的に差別、支配、分断の問題と繋がっているということね。

5月某日
監事をやっている一般社団法人の監事監査があるので虎ノ門の事務所へ向かう。幹事は2名で、もっぱら私以外の監事が質問する。私は「あぁなるほど」とかなんとか、相槌を繰り返すのみ。無事、監査を終えて署名捺印。16時の御徒町駅で大谷源一さんと待ち合わせしているので、JR御徒町駅へ向かう。大谷さんと吉池食堂に行く。昼飯がまだだったので2人で北海海鮮丼を食べる。確か1300円だったと思うが、美味であった。

5月某日
「私たちの近現代史-女性とマイノリティの100年」(村山由佳 朴慶南 集英社新書 2024年3月)を読む。2023年は関東大震災から100年の年であった。ということは震災後に行われた朝鮮人虐殺からも100年ということである。震災後に大杉栄とその甥とともに憲兵隊に虐殺された伊藤野枝の評伝小説「風よ あらしよ」を書いた村山由佳と、在日の作家、朴慶南の対談集である。関東大震災から10年以上前、1910年の「韓国併合」により、日本の朝鮮半島に対する植民地支配が始まった。朴慶南は「日本による過酷な植民地支配に対して、1919年には朝鮮半島で3.1独立運動といった、大規模な反日運動が各地で起きていました。これらの動きを日本当局は危機的な事態とみなし、恐れていたといっていいでしょう」と語る。私が思う「に恐れていた」のは当局だけでなく、虐殺を行った日本の大衆、庶民であったと思う。江戸時代まで朝鮮は大陸の先進的な文化を日本にもたらしてくれる貴重な中継点であった。江戸時代には将軍の代替わりのたびに朝鮮から使節が来ていたという。庶民も幕閣も歓迎に沸いた。明治維新以降、日清戦争頃から朝鮮人や中国人に対する蔑視が始まったのではないだろうか? 蔑視はコンプレックスの裏返しだと思う。「いつか仕返しされるのではないか」という自らが招いた恐怖、それが虐殺を招いたのではないか。村山は「女性やマイノリティを抑圧する社会は、つまり構造として、いつ軍事主導社会、戦争国家に行きついてもおかしくないということですね」と危機感を述べる。同感です。

5月某日
「世界史のなかの沖縄返還」(成田千尋 吉川弘文館 2024年4月)を読む。沖縄の施政権がアメリカから日本に返還されたのが1972年。67年から激化しはじめた学生運動の大きな筋は、一つは学園の民主化であった。もう一つはベトナム反戦と沖縄問題だった。しかしその割には沖縄について真剣に討論した記憶は薄い。本書を読んでも感じたのだが、私にとって観光の島、沖縄には関心が向くのだが基地の島、沖縄にはどうも関心が薄いのだ。しかし本書を読んでわかったのだが、沖縄には明治維新まで日本とは別の国、琉球王国が存在した。それが明治の琉球処分によって日本の国土に編入され、アジア・太平洋戦争では凄惨な地上戦が展開された。日本の敗北後、長きにわたってアメリカの施政権下にあったが、その施政権が返還されたのが72年というわけだ。沖縄独立論(日本とは別の国家として独立する)も戦後、何人か唱えた人がいたが、県民の支持を得るには至らなかった。だが県民の多くが現状に満足しているか、といったらそうではない。日本の米軍基地が沖縄に集中しており、米兵、米軍による事故や犯罪が後を絶たないということもあるし、本土との埋まらない格差の問題もある。格差や差別の問題に関心は強くある。そうならば、沖縄のことももっと勉強しなければ。

5月某日
先日読んだ「女たちの近現代史」(村山由佳と朴慶南の対談集)で村山の直木賞受賞作「星々の舟」(2003年3月 文藝春秋)が1章(痛みを負った人々への想像力-「星々の舟」を同様か)を割かれて論じられていたので読むことにする。2003年といえば今から21年前、小説の舞台としてはそれより2、3年前と想像できるから2000年前後か。小説は戦中から2000年に至る水島重之一家の物語である。最初、重之は最初の妻と2度目の妻、そして子供たちにも平気で暴力を振るう「昭和の父」として描かれる。しかし物語を読み進んで行くと、その暴力が重之の従軍体験によることが明らかにされる。旧陸軍の内部における暴力による兵隊の支配と中国大陸における中国人差別や朝鮮人差別である。重之は軍公認の売春宿(慰安所)で朝鮮出身の慰安婦、姜美珠(カンミジュ)と恋仲になるが、重之の戦闘中にミジュは13歳の少女の死に抗議して相手の男につかみかかる。ミジュは3人がかりで押さえつけられて縛り上げられ、庭の木に吊るされる。「軍刀を突きつけた男が、もう二度と逆らいません、朝鮮語も話しません、そう誓わなければ殺す、と言うと、ミジュはその顔に唾を吐きかけた。〈殺したいなら殺せ、私の名前、ヤエ子ではない、姜美殊! 姜美殊! 犬畜生は私たちではない、あんたたちだ! このチョッパリ! ウエノム!〉」。ミジュは腹を裂かれて殺される。戦闘から帰ってこのことを聞かされた重之は、大声でわめいた。〈お前らみんな畜生だ! お前らも、おれも、みんなみんな犬畜生だッ〉
重之にはある意味で村山の実父像が投影されているとみられるが、大正14(1925)年生まれだから2000年時点では75歳である。私の父は大正12(1923)年生まれだから同じようなものである。私の父は理工系の学生だったから戦争に行くこともなかったし、暴力的な人ではなかったけれど、家父長的な価値観は重之に通じるものがあった。戦争から帰った後、重之に長男が生まれる。長じて市役所に勤めるがこの人が学生時代、学生運動に身を投じる。この人には村山の兄や、革新的だった村山の最初の夫が投影されているのかもしれない。村山由佳の最新作は阿部定をモデルにした「二人キリ」。図書館にリクエストしているが、8人待ちなので来月か再来月までお預け。

モリちゃんの酒中日記 5月その1

5月某日
「あきらめる」(山崎ナオコーラ 小学館 2024年3月)を読む。早乙女雄大という人の散歩のシーンから物語は始まる。とこう書くと普通の小説のように思えるが実はそうではない。小説の後半はロケットで火星に移住する話となっているから、これは未来を描くSF小説でもある。そして龍とトラノジョウという二人の幼児が狂言回しというか、割と重要な役割を担う。タイトルの「あきらめる」について小説中で「『あきらめる』って言葉、古語ではいい意味だったんですってね。『明らかにする』が語源らしいです」と輝(アキラ)に語らせている。(アキラ)は男性のように感じられるが、火星へのロケット旅行中に生理になることから、肉体的には女性であることが明らかにされる。「人のセックスを笑うな」がデビュー作の山崎らしいストーリーではある。ちなみに本作は帯によると「デビュー20周年記念」で「新感覚ゆるSF長編小説」である。

5月某日
連休3日目。といっても年金生活者の私にとってGWは関係ない。図書館で借りた「済州島4.3事件-「島のくに」の死と再生の物語」(文京沫 岩波現代文庫 2018年2月)を読み進む。済州島4.3事件とは何か? 1948年4月3日、朝鮮半島の南に浮かぶ済州島で、130余りの村が焼かれ、およそ3万人の島民が犠牲となった凄惨な事件のことである。済州島は今は観光地として有名で、日本からの観光客やゴルフツアーも多いと聞く。1948年は昭和23年で私の生まれた年でもある。4.3事件の直接のきっかけは南朝鮮労働党(南労党)の済州島党組織が武装蜂起の指令にある。これに驚いた李承晩政権は本土から軍隊、警察を派遣、島民をほぼ無差別に虐殺した。軍隊や警察だけでなく本土からは右翼の青年組織も派遣され、虐殺に加担した。韓国では軍事政権のもとで4.3事件は顧みられることもなかったが民主化以降、事件の真相の解明が進んでいるという。南労党の武装蜂起の指令の前に政権の単独選挙の強硬姿勢があった。政権の済州島民への差別意識もあったかも知れない。後の光州事件や沖縄のコザ暴動にも共通する反差別の意識である。私は現在のアメリカの大学で行われている反イスラエルのデモにも4.3事件と共通するものを感じる。

5月某日
連休最終日。図書館で借りた「川のある街」(江國香織 朝日新聞出版 2024年2月)を読む。舞台となる街も登場人物も異なる3つの短編小説がおさめられている。共通するのは舞台となる街が「川のある街」であること。帯に沿って粗筋を紹介すると…。両親の離婚によって母親の実家近くに暮らし始めた望子。そのマンションの部屋からは郊外を流れる大きな川が見える(川のある街)。…河口近くの市街地を根城とするカラスたち、結婚相手の家族に会うために北陸の地方都市へやってきた麻美、出産を控えた3人の妊婦(川のある街Ⅱ)。…40年以上前も前に運河の張りめぐらされたヨーロッパの街に移住した芙美子。認知症が進行するなかで思い出させるのは…。作者の江國香織は1964年生まれだから今年60歳。父はエッセイストの江國滋(1934~1997年)、江國香織は33歳のときに父親を亡くしたわけだ。それと関係があるかどうかわからないが、江國香織の他者を見る視線は優しい。

5月某日
図書館で読書。平日はすいている。昼飯はアビスタ前から坂東バスで我孫子駅前へ。蕎麦屋の三谷屋で天ぷらそばの並を注文。840円は割安感がある。帰りは歩いて図書館まで。少しは歩かないとね。図書館で読書を続ける。

5月某日
「日本の経済政策-「失われた30年」をいかに克服するか」(小林慶一郎 中公新書 2024年1月)を読む。著者の小林は慶應大学経済学部教授でコロナ禍では感染症対策の政策過程にも関わり、テレビでもその姿を見かけた。小林は当時、「PCR検査の拡充によって少しでもその不確実性を軽減し、経済活動を回復させることが正しい政策だと考えた」一方、感染症専門家などは、「PCR検査はあくまで感染者発見し治療につなげるためのツールだ」とし「経済の不確実性を軽減する効果などはまったく眼中になかった」。「この構図は、1990年代の不良債権問題において私たちが直面した問題とぴったりと重なる」。90年代の不良債権問題では「一方は、マクロ的、一般均衡的、あるいは国民一般にとっての正義」を主張し、「他方は、ミクロ的で、金融システムという専門領域に特化した部分均衡的な、専門家の正義」を主張した。小林は「こうした対立の構造は今でも分野を超えて広く日本社会に存在する」(いずれも「あとがき」から)としている。小林はマクロ的にあるいは一般国民にとっての正義という観点から、「失われた30年」を検証していく。
バブル崩壊後の1990年代初頭の不況対策の考え方は、オールド・ケインジアンの需要管理政策(公共工事の増加や減税によって需要を刺激する)が主流で、そこに政府の介入に懐疑的な古典派マクロ経済学につらなる構造改革論が対置された。小林によると、これら2つの政策思想は、どちらもフローの変数のみに着目し、ストックの変数の問題(不良債権問題)に注意を向けていなかった。90年代の不況の最大の問題は不良債権であったのだから、このような政策思想は完全にアウトであった。政策思想だけでなく政策当局も当時100兆円といわれた不良債権の処理を先送りした。先送りするなかで長銀、日債銀、ダイエー、そごう、拓銀、山一証券などの大型倒産が続いたことは私の記憶にも残っている。
不良債権後の処理後も日本経済の長期低迷は続いた。小林は次のような悪循環を指摘する。①不良債権の大量発生による企業間の相互不信で、企業間の分業が崩れ、生産性が低下する(デッド・ディスオーガニゼーション)②低生産性のもとでは、教育や技能向上など人への投資が低調になり、人的資本が劣化する③人的資本の劣化が一定程度以上進むと、サプライチェーンが委縮した状態は、不良債権がなくなっても続く④人的資本の劣化が進むと、企業間分業は採算が取れないので再生しないという悪循環が続く。ではどうすべきだったのか。小林は「結論から言えば、92年ごろに大手銀行に公的資本注入を行い、その段階で強力に不良債権の査定と直接償却処理を進めておけば、バブルの後始末は94~95年ごろには終了しただろう。その後の日本経済は通常の回復軌道に戻ったのではないかと思われる」としている。しかし問題の先送りと決定することのできなさ、指導層の責任感の欠如は江戸時代以来の昭和戦前期から現在までに通じる日本社会の宿痾のような感じが、私にはしてしまうのだが。
人的資本の劣化については私にも苦い思い出がある。私が社長をしていた会社は年金住宅融資関連の仕事が多かったのだが、小泉構造改革により年金住宅融資の新規融資は停止され、関連の仕事も大幅に減ってしまった。私は人減らしを進め、新入社員もとらなかった。今思うとあのときこそ、編集も営業も出来る人材を採用すべきだったのではと思う。人的資本の劣化を進めてしまったのだ。

モリちゃんの酒中日記 4月その3

4月某日
「陳澄波を探して-消された台湾画家の謎」(カ宗明 来栖ひかり訳 岩波書店 2024年2月)を読む。陳澄波は台湾出身の画家で、台北師範学校を卒業後に東京美術学校に進学。卒業後、上海や台湾で優れた画業を残すが、台湾解放後の1947年3月25日、台湾に逃れてきた国民党軍により射殺される。台湾は日清戦争で敗者となった清国から日本に割譲され、日本領となった。日本の敗戦後、日本人と軍隊は引き揚げ、中国の国民党軍が進駐する。当時、中国は国民党と中国共産党との内戦下にあり、最終的に国民党が敗れて蒋介石以下の軍と国民党支持の国民が台湾に逃れる。日本軍が去って国民党軍が来たことを台湾の人々は「犬が去って豚が来た」と表現するということを聞いたことがある。物語は1984年の台北で始まる。駆け出しの画家、阿政のもとに古い絵画の修復の仕事が持ち込まれる。古い絵画の作者こそ陳澄波で、阿政とガールフレンドの新聞記者、方燕と陳澄波の生涯をたどる旅が始まる。1984年の台湾は民主化以前で蔣経国総統の時代というのが、一つのミソだ。今でこそ世界でもっとも民主化が進んでいる国の一つと言われる台湾(中華民国)だが、それまでには国民党政権による人民抑圧の歴史があったのだ。もちろんその前に日本帝国主義による併合という歴史があるのだが…。作者のカ宗明のカは木扁に可だが、私のパソコンでは出てこないのでカと表記します。

4月某日
「蒋介石」(保阪正康 文春新書 1999年4月)を読む。台湾出身の画家、陳澄波を主人公にした小説を読んだので、戦後、1949年に中国共産党に敗れて台湾に逃れて総統として君臨した蒋介石の生涯に興味を持ったのだ。私はアジア太平洋戦争においては太平洋海域ではミッドウェー海戦後、日本軍はアメリカ軍に押されっぱなしだったが中国大陸では、日本軍は中国に対して優位に立っていたと思い込んでいた。しかし、本書を読むと日中戦争の初期の段階では確かに日本軍が優勢であったが、日本がアメリカに宣戦布告した1941年以降、日本軍は徐々に追い詰められていったようだ。アメリカによる中国に対する軍事援助が効果を発揮したのだ。資源小国の日本が太平洋と中国大陸の両方向に戦線を拡大したことがそもそもの誤りであった。陳澄波は台湾生まれの台湾育ちの本省人だが、蒋介石は中国大陸から渡ってきた外省人である。蔣介石以下の外省人は本省人を圧迫し差別した。しかし蔣介石とその後を継いだ蔣経国以降、台湾は経済成長を遂げ民主化を達成した。韓国も朴正熙の開発独裁以降の経済成長は著しく一人当たりGDPは日本を追い越している。私は日韓台の連携が東アジアの安定につながると信じている。それにしても台湾東部の地震は心配なことだ。

4月某日
南青山の「ふーみん」という中国家庭料理のお店で会食。この店は吉武さんが「こどもの城」の館長をしていたときランチをたびたびご馳走になった。今日も吉武さんが予約してくれて18時からスタート。私が5分ほど遅れて着いたときはみんな席に着いていた。本日のメンバーは厚労省OBが川邉、吉武、岩野さん、それ以外というか純民間から社会保険出版社の高本社長、年友企画の岩佐さん、社保研ティラーレの佐藤社長、それに私の7名。江利川さんは庭の手入れ中に毛虫に刺されて欠席、大谷さん、手塚さんも都合がつかず欠席、セルフケアネットワークの高本代表も親の病院付き添いで欠席だった。「ふーみん」は非常に好評だったので9月ごろにまた開催ということに。名物の葱ワンタンも頂いたが、これはイラストレーターの和田誠さんの考案ということだ。そういえば、和田さんの奥さんの平野レミさんが私たちのテーブルの二つほど先に来店していた。

4月某日
バーミヤン秋葉原アトレ2店でHCM社の大橋さん、デザイナーの土方さん、今月末で年友企画を退社する石津さんと会食。15時スタートだが少し遅れてしまった。携帯に大橋さんから電話があり迎えに来てくれる。秋葉原駅はJRの山手線、京浜東北線、総武線に加えてつくばエクスプレス、地下鉄日比谷線が乗り入れており田舎者の私にとっては分かりにくい。大橋さんに迎えに来てもらって正解だった。4人がそろったところで乾杯。土方さんの息子さんが小笠原諸島の父島か母島へ釣りに行っているという話をきっかけに小笠原話で盛り上がる。何でも石津さんの先祖は小笠原で事業を展開していたそうで、今度4人で小笠原へ行こうという話になった。何でも週1回、東京港の日の出桟橋から小笠原行の船が出ているそうだ。週1回だから帰りは1週間後となるが、海が荒れると船が欠航するので、滞在が長期に及ぶことも多いらしい。そうなるとホテル代もかさむし…。と考えているうちに話題は変わって、この4人でまた会うことにしましょうということになった。石津さんからはお煎餅をいただき、土方さんからはハンカチをいただく。呑み代は大橋さんが払ってくれた。皆さん、ありがとうございました。

4月某日
11時30分から近所のマッサージ店絆へ。本日は同居している長男が休みなので車で送って貰う。マッサージ終了後は我孫子駅前の床屋カットクラブパパまで送って貰う。昨年までは近所の床屋さんでやってもらっていたのだが、私より年長のその床屋さんは昨年、急に止めてしまった。今度の床屋さんは私よりだいぶ若いので死ぬまでやってもらうことになりそうだ。床屋を終わって駅前の日高屋で昼食。五目焼きそば(税込み660円)。バーミヤンもそうですがチエーン店ってコスパが高いと思う。駅前からバスに乗って手賀沼公園前で下車、我孫子市民図書館へ。図書館で「孤独な夜のココア」(田辺聖子 新潮文庫 1983年3月)を読む。巻末に「この本は昭和53年10月に新潮社より刊行された」とある。昭和53年といえば1978年。ということはこの小説で描かれている現代はほぼ1970年代初頭か。まだ携帯もパソコンもない時代である。だからといってこの小説に古めかしいところなど少しもない。優れた小説がそうであるように(源氏物語も)、この小説の価値も時空を超えるのだ。

4月某日
図書館で借りた「お気に入りの孤独」(田辺聖子 集英社文庫 2012年5月)を読む。巻末に「この作品は1994年1月に集英社文庫として刊行され、再文庫化に当たり、加筆修正いたしました」とあるが、小説中に「大阪で生まれた女やさかい/大阪の街 よう捨てん/大阪で生まれた女やさかい/東京へは ようついていかん…」という歌(作詞BORO)が何度か流れる。「大阪で生まれた女やさかい」がリリースされたのは1979年6月だから、この小説の時代背景は1980年代初頭と思われる。デザイナーの風里は東神戸の金持ちのボンボン、涼と結婚し西宮のマンションに住む。風里は充実した結婚と仕事を手に入れたつもりでいたのだが…。涼に女の陰が見え隠れし、風里も写真展で出会った男、中園に好感を抱く。
小説は風里が中園に離婚して東京に行くことになったと電話で伝えたところで終わる。
「電話を切って私は深い安堵感と、嬉しさで涙がにじんできた。自分より強い、自分よりおだやかな、自分より大人の人に慰撫されるのって、なんて嬉しいことだろう。でもそれは孤独な人間だからこそ味わえる嬉しさなのだった。―やたら中園に会いたかった」
田辺聖子先生は小説で一貫して女性の自立を訴えてきた。それも生硬な言葉ではなく、誰にでも理解できる恋愛小説として。

4月某日
小学校から高校まで一緒だった山本君と15時に北千住駅で待ち合わせ。北口の商店街の居酒屋に入る。鯨のベーコンや焼き鳥などを肴に2時間ほど呑む。高校が同じだった小川邦夫君が最近、亡くなったことを話す。私は大学1年生のとき、下井草のアパートに下宿していたので上石神井あたりのアパートに下宿していた小川君とは何度か行き来した覚えがある。山本君の話では大学卒業後、京浜東北線の蕨の近辺で近所に住んでいて仲が良かったそうだ。その後、小川君は登別市役所に就職が決まり室蘭へ帰った。あっさりしたいい奴だった。