モリちゃんの酒中日記 6月その2

6月某日
「うらはぐさ風土記」(中島京子 集英社 2023年3月)を読む。中島京子は1964年、東京生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業後、フリーライターなどを経て作家に。08年に「小さなお家」で直木賞受賞。日本での難民の暮らしと支援する人たちを描いた「やさしい猫」は佳作。「うらはぐさ風土記」は長年、米国で暮らしていた沙希がパートナーとの離婚を機に帰国。故郷でもあり、通学していた女子大学もある街で暮らし始める。幸い女子大での講師の仕事も決まり、住まいも一人暮らしの叔父が施設に移った後の一軒家を格安で借りることができた。舞台となる街は東京近郊で女子大があり、繁華街と住宅地が近接しているということから吉祥寺と推定される。小説ではそこでの沙希の日常が淡々と描かれる。叔父の家には伯父が残していったウイスキーやワインが大量にあった。沙希はそれらを晩酌に一人で夕ご飯を食べたりする。吉祥寺ね。しばらく行っていないな。井の頭線に取引先があったり、友人が住んでいたりしたから現役時代は何度か吉祥寺で呑んだ。小説には布袋という老舗の焼き鳥屋が出てくるが、吉祥寺の伊勢屋というこれも老舗の焼き鳥屋にも行った。家からは遠いのだけれど、今度久しぶりに行ってみようかね。

6月某日
「オパールの炎」(桐野夏生 中央公論新社 2024年6月)を読む。桐野夏生の最新作であり、初出は「婦人公論」2022年12月号~2023年11月号。巻末に「本書はフィクションであり、実在の人物・団体等とは一切関係ありません」と注記されている。物語はピル解禁同盟のリーダー塙玲衣子を中心に展開する。ピル解禁同盟はピンクのヘルメットを被って不倫や浮気で家庭を顧みない男たちを弾劾する。となると、この小説は中ピ連とそのリーダー榎美沙子をモデルとしていることが知れる。小説と関係なく中ピ連と榎の活動を振り返ると、時代的な制約を感じざるを得ない。彼女らの活動は一夫一婦制の旧来の家族制度を前提としたものではなかったか。中絶の禁止反対とピル解禁を訴えたのは正しかったと思うけれど。思えば70年代は中ピ連のような得体の知れないグループが蠢いていた時代だったのかもしれない。唐十郎や寺山修司、連合赤軍やアラブ赤軍、平岡正明や赤瀬川源平…。

6月某日
「東学農民戦争と日本-もう一つの日清戦争」(中塚明 井上勝生 朴孟ス 高文研 2013年6月第1刷 2024年4月新版第1刷)を読む。東学農民戦争というのは高校の世界史の教科書に載っていた東学党の乱のことなんだけれど、私の知識はそこまで。いったいどのような戦争なのか、本書を読むまではまったくの無知でした。東学とは「朝鮮王朝の末期、政治的・社会的に直面していたさまざまの困難な問題を民衆のレベルから改革し、迫り来る外国の圧力から民族的な利益を守ろうとする、当時の朝鮮社会の歴史的なねがいを反映した思想」で、この思想は当時の朝鮮の農民に広く深く浸透した。本書によると東学農民軍は、まず1894年3月に朝鮮王制の悪政を改革するため全面的な決起を決意する。そして農民軍の鎮圧を口実に清国と日本が朝鮮に出兵してくる。農民軍の主要な敵は朝鮮王朝軍から日本軍へと変わる。農民軍の武器は火縄銃と刀、鍬の類いだったが、対する日本軍は近代的な兵制のもと、ライフルと多数の弾薬を備えていた。蜂起した農民軍は最盛期には数十万人ともいわれ、対する日本軍は後備第19大隊3中隊、全軍約600名余の兵力であったという。「この兵力で数十万の農民軍を追い詰めて殲滅し」、農民軍の犠牲者は少なくとも数万人にのぼる。犠牲者の中には戦死者だけでなく、捕らえられて刑死したもの、拷問により殺されたものも少なくない。本書のきっかけとなった北海道大学で1995年に見つかった人間の頭骨6体も、全羅道珍島で数百名が惨殺された一部ということだ。日本軍が行ったことは明確に国際法違反であるし、それ以前に人権を踏みにじるものだ。高校で日本近代史を学ぶときに、日韓併合や東学農民戦争について、事実をきちんと教えないとね。

6月某日
「タラント」(角田光代 中央公論新社 2022年2月)を読む。読売新聞朝刊に2020年7月28日から21年7月23日まで連載されたもの。四国のうどん屋の娘、さよりは大学進学を機に上京する。ボランティアサークルの「麦の会」に入会し、ネパールでのボランティア活動も経験する。サークルではカメラマン志望の翔太やジャーナリスト志望の玲と仲良くなる。卒業後、小さな出版社に就職したさより、カメラマンやジャーナリストとして活動する翔太や玲ともたまに会う日常。さよりには戦争で片膝を失った祖父がいる。その祖父に女名前の手紙が不定期で届く。ウクライナへのロシア侵攻は22年2月、イスラエルのガザ侵攻は昨年10月。この小説の執筆時点では戦争は遠い存在だった。しかし、小説では翔太や玲は紛争地での取材に飛ぶし、さよりの祖父は戦争の影を引きずっている。角田光代の作家的な感性は信ずるに足りる。

6月某日
終日雨。関東地方も梅雨入りしたそうだ。午前中に後期高齢者の歯科健診と、週2回行っているマッサージがあるが、同居している長男が休みということなので車で送って貰う。歯科検診は手賀沼健康歯科へ。以前は緑歯科と言っていたが新装を機に改名したらしい。予約していた10時に受付へ。この歯科医院は歯科衛生士がそれぞれ個室を持っていて、そこで歯科健診を受ける。歯のメンテナンスは概ね良好とのことだったが、歯周病の疑いを指摘される。しばらく通院して治療に当たることにする。雨のなか、車で絆マッサージ治療院へ。15分の電気治療と15分のマッサージ。マッサージ治療院の前で車に乗る。15%の割引券があるので京北スーパーでウイスキーを購入。車で帰宅。

モリちゃんの酒中日記 6月その1

6月某日
「農耕社会の成立 シリーズ日本古代史①」(石川日出志 岩波新書 2010年10月)を読む。農耕社会の成立は弥生時代に始まるが、それ以前の縄文時代は、「温暖帯性の気候のもとに繁茂する森林がもたらす木の実類とシカ・イノシシ、海進によって形成された内湾に生息する魚介類、川を集団で遡上するサケ類など、いずれも季節ごとに集中的に採集、捕獲できる対象があり」「こうした食料獲得活動の季節性と貯蔵を組み合わせる生業と消費の仕組みが、縄文時代の人びとの生活を根底から支えていた」ということだ。日本で稲作が始まったのは弥生時代とされる。縄文人の暮らしは狩猟採集が基本であり、単独の家族ないしは数家族が協働して暮らしていた。米作りとなると水田の形成から田植え、草取り、稲刈り、収穫後の貯蔵に至るまで集団の共同作業が不可欠である。この共同作業がもととなって集落が生まれた。この頃の集落は周囲を環濠で囲んでいたため環濠集落と呼ばれるが、環濠には他の集落からの襲撃を防ぐという意味もあった。環濠集落は北部九州で生まれ、やがて中国、四国、近畿、中部地方へと及ぶ。環濠集落がいくつかまとまってクニが生まれる。「弥生時代の日本列島の社会が急激に変貌を遂げていく際に、もっとも刺激を与えた地域」が朝鮮半島である。『漢書』に「楽浪の海中に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ」という記述があるように毎年のように交流があった。百余国を統一したのが邪馬台国であったと考えられる。

6月某日
「卑弥呼とヤマト王権」(寺沢薫 中公叢書 2023年3月)を読む。著者の寺沢薫は1950年東京生まれ。同志社大学文学部卒後、奈良県立橿原考古学研究所に勤務。2012年より桜井市纏向学研究センター所長。著者が大学3年の1971年12月、纏向遺跡の発掘調査に参加する。纏向遺跡とは3世紀初頭に卑弥呼を初代大王として奈良盆地東南部の纏向の地に誕生したヤマト王権の遺跡である。邪馬台国の所在地としては戦前から九州説と近畿説に分かれて論争が繰り広げられていたが、著者は一貫して近畿説、それも纏向遺跡こそが邪馬台国の首都であったと主張する。著者は邪馬台国の所在を考古学的に考察するのはもちろんのこと、「国家とは何か」についてもエンゲルスや滝村隆一の論説を手掛かりに考察してゆく。滝村隆一って1970年代に吉本隆明の主宰する雑誌「試行」に論文を掲載していた在野の思想家である。私も「試行」を読んでいたが、理解できたのは吉本の「情況への発言」(だったかな?)という情況論くらいで吉本の言語論や共同幻想論には歯が立たず、滝村の論文は読みもしなかったと思う。マルクスの「国家起源論はエンゲルスによってアジア的な国家形成という重要な視点が閑却され、狭隘化され歪曲された国家権力論」であり、このことに真っ先に気付いたのが滝村隆一という。滝村は広義の国家として外的国家、狭義の国家として内的国家があるとして、歴史的には外的国家は内的国家に先行して存在するとしている。日本における内的国家の出現は7世紀末とされるが、著者は3世紀初頭のヤマト王権の誕生こそが外的国家の出現と見る。寺沢薫という人は日本の考古学について極めて深いと思われるがその知的領域は哲学、政治学にまで及び、極めて広い。

6月某日
図書館で借りた「田辺聖子全集6」(新潮社 2004年8月)を読む。そういえば田辺聖子先生は2019年の6月6日に亡くなっている。命日に借りて昨日、6月8日に読了。この巻には「言い寄る」「私的生活」「苺をつぶしながら」の3作がおさめられているが、3作ともデザイナーの玉木乃理子を主人公とした連作である。乃理子は「言い寄る」では惚れていた三浦五郎が友人の美々と結婚してしまう。傷心の乃理子は金持ちのボンボン剛と知り合う。「私的生活」では乃理子と剛との豪奢な、しかし何か満たされない結婚生活が描かれる。「苺をつぶしながら」では剛と離婚した乃理子の自立した姿を描く。離婚前と離婚後の剛の描かれ方が微妙に違う。離婚前の剛はボンボンらしく傲慢で他者に厳しく自分には優しい。軽井沢に女友達と避暑に出かけた乃理子は、ホテルで剛と偶然に出会う。ホテルで就寝中の乃理子に大阪で友人が事故死したという知らせが届く。乃理子は剛の別荘に連絡、剛は自ら車を運転して乃理子を東京へ届ける。ここでの剛はカッコイイ。
巻末の解題によると「この三部作は、著者の45歳から53歳、すなわち昭和48年から昭和56年にかけて執筆された」とある。今からおよそ半世紀前である。「言い寄る」の文中に「以前に、切腹して首を斬り転がされた小説家が、よくこんな豪傑笑いをした」という記述があるが、これは言うまでもなく昭和45年11月25日の三島由紀夫による自衛隊の市ヶ谷駐屯地への突入後の自死のことである。50年前は携帯電話もパソコンもなく、今から思えばのどかな時代であった。その反面、三島事件や連合赤軍事件など凄惨な事件も相次いだ。しかし三島事件も連合赤軍事件も箱根山の向こうの話である。田辺先生は生涯、関西から離れることはなかった。先生は巻末に「三部作になったこの物語は、浪速の街が生んだのだ。浪速の街が書かせたのだ」と書いている。確かに田辺文学は関西という風土なしには考えられない。

6月某日
月1回、中山クリニックで高血圧症の診察を受ける。10時過ぎに遅い朝食をとり11時に中山クリニックへ。いつものように診察は3分ほど。ついでに後期高齢者の健康診断の予約も明日11時に予約する。本日は私が監事をやっている一般社団法人の理事会があるので東京駅近くの貸会議室へ。この一般社団の会長は弁護士先生なのだが、毎回冒頭のあいさつが面白い。今回は多額の横領事件が発覚した水原一平被告について。結局、5~6年の禁固刑になるのではないか、と法律家らしく推測。理事会は滞りなく終了。私は地下鉄で東京から大手町経由で神保町へ。社会保険出版社の高本社長に挨拶、お茶の水からJRで御徒町へ、御徒町から上野までアメ横を歩く。想像以上に外人客が多い。欧米系だけでなくアジア系も多く見かける。円安効果ね。上野駅近くのイングリッシュバーでビール、ジントニック、ポテト&チップスをいただく。我孫子で薬局(ウエルシア)で処方箋を渡し、明日とりにくると伝える。本日、夕食は外で食べると出てきたのでウエルシアの向かいのラーメン屋でラーメンを食べる。コッテリ系。

6月某日
11時少し前に中山クリニックへ、後期高齢者の健康診断を受ける。心電図をとり血液検査のため採血。八坂神社前からバスで若松へ。絆でマッサージと電気、合計で30分。保険適用なので毎回550円。絆の後、ウエルシアで薬を受け取る。12時30分頃帰宅、妻が作ってくれたおにぎりをいただく。

モリちゃんの酒中日記 5月その3

5月某日
「弥生人はどこから来たのか―最新科学が解明する先史日本」(藤尾慎一郎 吉川弘文館 2024年3月)を読む。サブタイトルの「最新科学」とは、「酸素同位体比年輪年代法や核ゲノム分析といった自然科学と考古学との学際的研究によって新たな事実が明らかにされた」ことを指しているようだ。私が知り得た考古学は、もっぱら発掘調査によって土器の破片や石器などを採集して、その発掘された地層などからそれらが使われていた時代を想定するといったものだったと思う。今後、人工知能なども活用して考古学の分析も深まるのであろうか。私の習った日本史では確か弥生時代に入って稲作が日本に入ってきたことになっていたが、本書によるとそれはもっと早く縄文晩期、紀元前10世紀ころまで遡るらしい。本書では「水田稲作開始後、およそ100年たった前9世紀後半には環濠集落が出現して戦いも始まり、そして富める者は墓に副葬品を添えて葬られるなどの階層差が生じていることがわかる」としている。おそらくこの頃が原初的な国家と私有財産に基礎を置く階級差が生まれ原初的な部族国家による戦争もあったのだろう。弥生人は縄文人の後継たる晩期縄文人と稲作をもたらした韓半島南部からの渡来人との通婚の結果ということだろうか。興味は尽きない。

5月某日
週刊文春の5月30日号が届く。なにげなく「家の履歴書」のページを開く。これは有名人が自分の住居の変遷を語るというページだ。今週号は塩見三省(俳優)である。塩見は山陰地方の日本の四方を山に囲まれた町で育ち、同志社大学に進学、1970年に卒業。イギリス滞在を経て上京、アングラ劇団に触れやがて俳優の道を歩む。居候だった塩見は吉祥寺のジャズ喫茶「ファンキー」に通うようになる。私が早稲田に入学した1968年、サークルはロシヤ語研究会というところに入ったのだが、1年先輩に野口暁という人がいて実家が吉祥寺のジャズ喫茶「ファンキー」ということだった。塩見は店のオーナーの野口伊織さんと親しくなるが、ネットで調べると野口伊織さんは1942年生まれ。私の知っている野口暁さんはラグビーに熱中して早稲田高等学院を5年で卒業して、早稲田に入学したのは1967年、20歳のときだ。ということは1946か47年の生まれだから野口伊織の弟ということになる。暁さんは1年生のときは共産同マル戦派の活動家だったらしいが、マル戦派の拠点、社会科学部の自治会を革マル派に奪われ、活動家はバラバラになってしまった。行き場を失った暁さんもロシヤ語研究会に顔を出すようになったらしい。暁さんは高等学院の頃からロシヤ語をやっていた。将来はロシヤ語を活かした仕事をするのかと思っていたが、なぜか私や同じロシヤ語研究会の森幹夫君らと一緒に、北千住の水野勝吉さんの下で土方のバイトをするようになった。暁さんはラグビーをやっていただけに力も強く、肉体労働向きではあったけれど。結局、野口さんは大学を辞め、本職の土方になった。その後のことは分からない。

5月某日
「日本の先史時代-旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす」(藤尾慎一郎 中公新書
 2021年8月)を読む。藤尾先生の著作を読むのは「弥生人はどこから来たのか」に続いて2冊目。私は子どもの頃から歴史好きではあったけれど、興味を持ったのは織田・豊臣以降の時代で、とくに中年以降は愛読した司馬遼太郎の影響もあって幕末、明治維新、日清・日露戦争の頃に興味を抱いた。近年は退職して時間があることもあって東大教授の加藤陽子先生や2年ほど前に亡くなった半藤一利さんの著作に親しむことが多かった。そして藤尾先生の著作に触れて、「日本人とは」「日本という国の始まりは」「米作が始まったのは」ということに興味を抱くようになった。日本の旧石器時代はおよそ3万年前ころとされる。鹿児島県種子島の立切遺跡から石皿や集石遺構が発見されている。集石遺構とは調理に行ったと考えられる遺構である。次に大きな考古学的変化があらわれるのは1万6000年前。これから縄文時代の始まる1万1700年前までが旧石器時代から縄文時代への移行期とされる。旧石器時代になくて縄文時代に出現するのが土器と土偶、竪穴式住居である。住居の存在は家族の存在も連想させる。縄文時代の晩期から稲作が行われる。九州北部と本州の日本海側で韓半島との交流が確認される。弥生時代から環濠集落が出現する。環濠集落にしろ水田耕作にしろ集団の力が必要であるから、この頃から集団のリーダーが出現し、後の王となって行く。王の王が大王(おおきみ)であり、まぁこれが天皇制の原型となって行く。権力者の登場にともない権力者の墳墓も大型化する。古墳の登場である。藤尾先生は考古学者だが、マルクスの史観を参考にしながら藤尾先生の著作を読むのも面白いと思われる。

5月某日
日本の先史時代に興味を持ったので佐倉の国立歴史民俗博物館に行くことにする。我が家からバスで5分ほどで我孫子駅。我孫子駅から成田線で小1時間でJR成田駅。成田駅から2駅で佐倉である。佐倉駅前の王将でランチ、佐倉駅からはバスで博物館の前まで行ける。博物館では日本の先史時代を2時間ほど堪能。土器や石器、先史時代の武器など書物では分からないリアルを感じることができた。ウイークデイなので観客もまばら。博物館前からバスに乗車、京成佐倉駅で下車。京成線で京成成田駅へ向かい、早めの夕食をとるつもりだったが、逆方向の上野行きに乗ってしまった。京成船橋で下車、東武船橋から柏へ。柏で常磐線我孫子へ。我孫子で「しちりん」で夕食兼一杯。隣の酔客と雑談、私より2歳上だそうだ。話に夢中になって図書館で借りた本を忘れてきてしまった。

5月某日
「しちりん」に忘れてきた本をとりに行かなければならないが、「しちりん」のオープンは15時から。それで15時まで床屋さんで散髪をしてもらうことにする。「カットクラブ・パパス」へ向かう。ここは散髪代が3500円で以前行っていた近所の床屋さんより1000円高い。しかし近所の床屋さんは25日に1回ほど行っていたが、今度の床屋さんは35~40日に1回などで実質的な負担は変わらない。散髪後、「しちりん」に行くと店員の「みゆきさん」が本をビニール袋に入れて保管しておいてくれた。ホッピーを3杯程呑む。

5月某日
「弥生人はどこから来たのか―最新科学が解明する先史日本」(藤尾慎一郎 吉川弘文館 2024年3月)を読む。サブタイトルの「最新科学」とは、「酸素同位体比年輪年代法や核ゲノム分析といった自然科学と考古学との学際的研究によって新たな事実が明らかにされた」ことを指しているようだ。私が知り得た考古学は、もっぱら発掘調査によって土器の破片や石器などを採集して、その発掘された地層などからそれらが使われていた時代を想定するといったものだったと思う。今後、人工知能なども活用して考古学の分析も深まるのであろうか。私の習った日本史では確か弥生時代に入って稲作が日本に入ってきたことになっていたが、本書によるとそれはもっと早く縄文晩期、紀元前10世紀ころまで遡るらしい。本書では「水田稲作開始後、およそ100年たった前9世紀後半には環濠集落が出現して戦いも始まり、そして富める者は墓に副葬品を添えて葬られるなどの階層差が生じていることがわかる」としている。おそらくこの頃が原初的な国家と私有財産に基礎を置く階級差が生まれ原初的な部族国家による戦争もあったのだろう。弥生人は縄文人の後継たる晩期縄文人と稲作をもたらした韓半島南部からの渡来人との通婚の結果ということだろうか。興味は尽きない。

5月某日
週刊文春の5月30日号が届く。なにげなく「家の履歴書」のページを開く。これは有名人が自分の住居の変遷を語るというページだ。今週号は塩見三省(俳優)である。塩見は山陰地方の日本の四方を山に囲まれた町で育ち、同志社大学に進学、1970年に卒業。イギリス滞在を経て上京、アングラ劇団に触れやがて俳優の道を歩む。居候だった塩見は吉祥寺のジャズ喫茶「ファンキー」に通うようになる。私が早稲田に入学した1968年、サークルはロシヤ語研究会というところに入ったのだが、1年先輩に野口暁という人がいて実家が吉祥寺のジャズ喫茶「ファンキー」ということだった。塩見は店のオーナーの野口伊織さんと親しくなるが、ネットで調べると野口伊織さんは1942年生まれ。私の知っている野口暁さんはラグビーに熱中して早稲田高等学院を5年で卒業して、早稲田に入学したのは1967年、20歳のときだ。ということは1946か47年の生まれだから野口伊織の弟ということになる。暁さんは1年生のときは共産同マル戦派の活動家だったらしいが、マル戦派の拠点、社会科学部の自治会を革マル派に奪われ、活動家はバラバラになってしまった。行き場を失った暁さんもロシヤ語研究会に顔を出すようになったらしい。暁さんは高等学院の頃からロシヤ語をやっていた。将来はロシヤ語を活かした仕事をするのかと思っていたが、なぜか私や同じロシヤ語研究会の森幹夫君らと一緒に、北千住の水野勝吉さんの下で土方のバイトをするようになった。暁さんはラグビーをやっていただけに力も強く、肉体労働向きではあったけれど。結局、野口さんは大学を辞め、本職の土方になった。その後のことは分からない。

5月某日
「日本の先史時代-旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす」(藤尾慎一郎 中公新書
 2021年8月)を読む。藤尾先生の著作を読むのは「弥生人はどこから来たのか」に続いて2冊目。私は子どもの頃から歴史好きではあったけれど、興味を持ったのは織田・豊臣以降の時代で、とくに中年以降は愛読した司馬遼太郎の影響もあって幕末、明治維新、日清・日露戦争の頃に興味を抱いた。近年は退職して時間があることもあって東大教授の加藤陽子先生や2年ほど前に亡くなった半藤一利さんの著作に親しむことが多かった。そして藤尾先生の著作に触れて、「日本人とは」「日本という国の始まりは」「米作が始まったのは」ということに興味を抱くようになった。日本の旧石器時代はおよそ3万年前ころとされる。鹿児島県種子島の立切遺跡から石皿や集石遺構が発見されている。集石遺構とは調理に行ったと考えられる遺構である。次に大きな考古学的変化があらわれるのは1万6000年前。これから縄文時代の始まる1万1700年前までが旧石器時代から縄文時代への移行期とされる。旧石器時代になくて縄文時代に出現するのが土器と土偶、竪穴式住居である。住居の存在は家族の存在も連想させる。縄文時代の晩期から稲作が行われる。九州北部と本州の日本海側で韓半島との交流が確認される。弥生時代から環濠集落が出現する。環濠集落にしろ水田耕作にしろ集団の力が必要であるから、この頃から集団のリーダーが出現し、後の王となって行く。王の王が大王(おおきみ)であり、まぁこれが天皇制の原型となって行く。権力者の登場にともない権力者の墳墓も大型化する。古墳の登場である。藤尾先生は考古学者だが、マルクスの史観を参考にしながら藤尾先生の著作を読むのも面白いと思われる。

5月某日
日本の先史時代に興味を持ったので佐倉の国立歴史民俗博物館に行くことにする。我が家からバスで5分ほどで我孫子駅。我孫子駅から成田線で小1時間でJR成田駅。成田駅から2駅で佐倉である。佐倉駅前の王将でランチ、佐倉駅からはバスで博物館の前まで行ける。博物館では日本の先史時代を2時間ほど堪能。土器や石器、先史時代の武器など書物では分からないリアルを感じることができた。ウイークデイなので観客もまばら。博物館前からバスに乗車、京成佐倉駅で下車。京成線で京成成田駅へ向かい、早めの夕食をとるつもりだったが、逆方向の上野行きに乗ってしまった。京成船橋で下車、東武船橋から柏へ。柏で常磐線我孫子へ。我孫子で「しちりん」で夕食兼一杯。隣の酔客と雑談、私より2歳上だそうだ。話に夢中になって図書館で借りた本を忘れてきてしまった。

5月某日
「しちりん」に忘れてきた本をとりに行かなければならないが、「しちりん」のオープンは15時から。それで15時まで床屋さんで散髪をしてもらうことにする。「カットクラブ・パパス」へ向かう。ここは散髪代が3500円で以前行っていた近所の床屋さんより1000円高い。しかし近所の床屋さんは25日に1回ほど行っていたが、今度の床屋さんは35~40日に1回などで実質的な負担は変わらない。散髪後、「しちりん」に行くと店員の「みゆきさん」が本をビニール袋に入れて保管しておいてくれた。ホッピーを3杯程呑む。