モリちゃんの酒中日記 5月その1

5月某日
「あきらめる」(山崎ナオコーラ 小学館 2024年3月)を読む。早乙女雄大という人の散歩のシーンから物語は始まる。とこう書くと普通の小説のように思えるが実はそうではない。小説の後半はロケットで火星に移住する話となっているから、これは未来を描くSF小説でもある。そして龍とトラノジョウという二人の幼児が狂言回しというか、割と重要な役割を担う。タイトルの「あきらめる」について小説中で「『あきらめる』って言葉、古語ではいい意味だったんですってね。『明らかにする』が語源らしいです」と輝(アキラ)に語らせている。(アキラ)は男性のように感じられるが、火星へのロケット旅行中に生理になることから、肉体的には女性であることが明らかにされる。「人のセックスを笑うな」がデビュー作の山崎らしいストーリーではある。ちなみに本作は帯によると「デビュー20周年記念」で「新感覚ゆるSF長編小説」である。

5月某日
連休3日目。といっても年金生活者の私にとってGWは関係ない。図書館で借りた「済州島4.3事件-「島のくに」の死と再生の物語」(文京沫 岩波現代文庫 2018年2月)を読み進む。済州島4.3事件とは何か? 1948年4月3日、朝鮮半島の南に浮かぶ済州島で、130余りの村が焼かれ、およそ3万人の島民が犠牲となった凄惨な事件のことである。済州島は今は観光地として有名で、日本からの観光客やゴルフツアーも多いと聞く。1948年は昭和23年で私の生まれた年でもある。4.3事件の直接のきっかけは南朝鮮労働党(南労党)の済州島党組織が武装蜂起の指令にある。これに驚いた李承晩政権は本土から軍隊、警察を派遣、島民をほぼ無差別に虐殺した。軍隊や警察だけでなく本土からは右翼の青年組織も派遣され、虐殺に加担した。韓国では軍事政権のもとで4.3事件は顧みられることもなかったが民主化以降、事件の真相の解明が進んでいるという。南労党の武装蜂起の指令の前に政権の単独選挙の強硬姿勢があった。政権の済州島民への差別意識もあったかも知れない。後の光州事件や沖縄のコザ暴動にも共通する反差別の意識である。私は現在のアメリカの大学で行われている反イスラエルのデモにも4.3事件と共通するものを感じる。

5月某日
連休最終日。図書館で借りた「川のある街」(江國香織 朝日新聞出版 2024年2月)を読む。舞台となる街も登場人物も異なる3つの短編小説がおさめられている。共通するのは舞台となる街が「川のある街」であること。帯に沿って粗筋を紹介すると…。両親の離婚によって母親の実家近くに暮らし始めた望子。そのマンションの部屋からは郊外を流れる大きな川が見える(川のある街)。…河口近くの市街地を根城とするカラスたち、結婚相手の家族に会うために北陸の地方都市へやってきた麻美、出産を控えた3人の妊婦(川のある街Ⅱ)。…40年以上前も前に運河の張りめぐらされたヨーロッパの街に移住した芙美子。認知症が進行するなかで思い出させるのは…。作者の江國香織は1964年生まれだから今年60歳。父はエッセイストの江國滋(1934~1997年)、江國香織は33歳のときに父親を亡くしたわけだ。それと関係があるかどうかわからないが、江國香織の他者を見る視線は優しい。

5月某日
図書館で読書。平日はすいている。昼飯はアビスタ前から坂東バスで我孫子駅前へ。蕎麦屋の三谷屋で天ぷらそばの並を注文。840円は割安感がある。帰りは歩いて図書館まで。少しは歩かないとね。図書館で読書を続ける。

5月某日
「日本の経済政策-「失われた30年」をいかに克服するか」(小林慶一郎 中公新書 2024年1月)を読む。著者の小林は慶應大学経済学部教授でコロナ禍では感染症対策の政策過程にも関わり、テレビでもその姿を見かけた。小林は当時、「PCR検査の拡充によって少しでもその不確実性を軽減し、経済活動を回復させることが正しい政策だと考えた」一方、感染症専門家などは、「PCR検査はあくまで感染者発見し治療につなげるためのツールだ」とし「経済の不確実性を軽減する効果などはまったく眼中になかった」。「この構図は、1990年代の不良債権問題において私たちが直面した問題とぴったりと重なる」。90年代の不良債権問題では「一方は、マクロ的、一般均衡的、あるいは国民一般にとっての正義」を主張し、「他方は、ミクロ的で、金融システムという専門領域に特化した部分均衡的な、専門家の正義」を主張した。小林は「こうした対立の構造は今でも分野を超えて広く日本社会に存在する」(いずれも「あとがき」から)としている。小林はマクロ的にあるいは一般国民にとっての正義という観点から、「失われた30年」を検証していく。
バブル崩壊後の1990年代初頭の不況対策の考え方は、オールド・ケインジアンの需要管理政策(公共工事の増加や減税によって需要を刺激する)が主流で、そこに政府の介入に懐疑的な古典派マクロ経済学につらなる構造改革論が対置された。小林によると、これら2つの政策思想は、どちらもフローの変数のみに着目し、ストックの変数の問題(不良債権問題)に注意を向けていなかった。90年代の不況の最大の問題は不良債権であったのだから、このような政策思想は完全にアウトであった。政策思想だけでなく政策当局も当時100兆円といわれた不良債権の処理を先送りした。先送りするなかで長銀、日債銀、ダイエー、そごう、拓銀、山一証券などの大型倒産が続いたことは私の記憶にも残っている。
不良債権後の処理後も日本経済の長期低迷は続いた。小林は次のような悪循環を指摘する。①不良債権の大量発生による企業間の相互不信で、企業間の分業が崩れ、生産性が低下する(デッド・ディスオーガニゼーション)②低生産性のもとでは、教育や技能向上など人への投資が低調になり、人的資本が劣化する③人的資本の劣化が一定程度以上進むと、サプライチェーンが委縮した状態は、不良債権がなくなっても続く④人的資本の劣化が進むと、企業間分業は採算が取れないので再生しないという悪循環が続く。ではどうすべきだったのか。小林は「結論から言えば、92年ごろに大手銀行に公的資本注入を行い、その段階で強力に不良債権の査定と直接償却処理を進めておけば、バブルの後始末は94~95年ごろには終了しただろう。その後の日本経済は通常の回復軌道に戻ったのではないかと思われる」としている。しかし問題の先送りと決定することのできなさ、指導層の責任感の欠如は江戸時代以来の昭和戦前期から現在までに通じる日本社会の宿痾のような感じが、私にはしてしまうのだが。
人的資本の劣化については私にも苦い思い出がある。私が社長をしていた会社は年金住宅融資関連の仕事が多かったのだが、小泉構造改革により年金住宅融資の新規融資は停止され、関連の仕事も大幅に減ってしまった。私は人減らしを進め、新入社員もとらなかった。今思うとあのときこそ、編集も営業も出来る人材を採用すべきだったのではと思う。人的資本の劣化を進めてしまったのだ。

モリちゃんの酒中日記 4月その3

4月某日
「陳澄波を探して-消された台湾画家の謎」(カ宗明 来栖ひかり訳 岩波書店 2024年2月)を読む。陳澄波は台湾出身の画家で、台北師範学校を卒業後に東京美術学校に進学。卒業後、上海や台湾で優れた画業を残すが、台湾解放後の1947年3月25日、台湾に逃れてきた国民党軍により射殺される。台湾は日清戦争で敗者となった清国から日本に割譲され、日本領となった。日本の敗戦後、日本人と軍隊は引き揚げ、中国の国民党軍が進駐する。当時、中国は国民党と中国共産党との内戦下にあり、最終的に国民党が敗れて蒋介石以下の軍と国民党支持の国民が台湾に逃れる。日本軍が去って国民党軍が来たことを台湾の人々は「犬が去って豚が来た」と表現するということを聞いたことがある。物語は1984年の台北で始まる。駆け出しの画家、阿政のもとに古い絵画の修復の仕事が持ち込まれる。古い絵画の作者こそ陳澄波で、阿政とガールフレンドの新聞記者、方燕と陳澄波の生涯をたどる旅が始まる。1984年の台湾は民主化以前で蔣経国総統の時代というのが、一つのミソだ。今でこそ世界でもっとも民主化が進んでいる国の一つと言われる台湾(中華民国)だが、それまでには国民党政権による人民抑圧の歴史があったのだ。もちろんその前に日本帝国主義による併合という歴史があるのだが…。作者のカ宗明のカは木扁に可だが、私のパソコンでは出てこないのでカと表記します。

4月某日
「蒋介石」(保阪正康 文春新書 1999年4月)を読む。台湾出身の画家、陳澄波を主人公にした小説を読んだので、戦後、1949年に中国共産党に敗れて台湾に逃れて総統として君臨した蒋介石の生涯に興味を持ったのだ。私はアジア太平洋戦争においては太平洋海域ではミッドウェー海戦後、日本軍はアメリカ軍に押されっぱなしだったが中国大陸では、日本軍は中国に対して優位に立っていたと思い込んでいた。しかし、本書を読むと日中戦争の初期の段階では確かに日本軍が優勢であったが、日本がアメリカに宣戦布告した1941年以降、日本軍は徐々に追い詰められていったようだ。アメリカによる中国に対する軍事援助が効果を発揮したのだ。資源小国の日本が太平洋と中国大陸の両方向に戦線を拡大したことがそもそもの誤りであった。陳澄波は台湾生まれの台湾育ちの本省人だが、蒋介石は中国大陸から渡ってきた外省人である。蔣介石以下の外省人は本省人を圧迫し差別した。しかし蔣介石とその後を継いだ蔣経国以降、台湾は経済成長を遂げ民主化を達成した。韓国も朴正熙の開発独裁以降の経済成長は著しく一人当たりGDPは日本を追い越している。私は日韓台の連携が東アジアの安定につながると信じている。それにしても台湾東部の地震は心配なことだ。

4月某日
南青山の「ふーみん」という中国家庭料理のお店で会食。この店は吉武さんが「こどもの城」の館長をしていたときランチをたびたびご馳走になった。今日も吉武さんが予約してくれて18時からスタート。私が5分ほど遅れて着いたときはみんな席に着いていた。本日のメンバーは厚労省OBが川邉、吉武、岩野さん、それ以外というか純民間から社会保険出版社の高本社長、年友企画の岩佐さん、社保研ティラーレの佐藤社長、それに私の7名。江利川さんは庭の手入れ中に毛虫に刺されて欠席、大谷さん、手塚さんも都合がつかず欠席、セルフケアネットワークの高本代表も親の病院付き添いで欠席だった。「ふーみん」は非常に好評だったので9月ごろにまた開催ということに。名物の葱ワンタンも頂いたが、これはイラストレーターの和田誠さんの考案ということだ。そういえば、和田さんの奥さんの平野レミさんが私たちのテーブルの二つほど先に来店していた。

4月某日
バーミヤン秋葉原アトレ2店でHCM社の大橋さん、デザイナーの土方さん、今月末で年友企画を退社する石津さんと会食。15時スタートだが少し遅れてしまった。携帯に大橋さんから電話があり迎えに来てくれる。秋葉原駅はJRの山手線、京浜東北線、総武線に加えてつくばエクスプレス、地下鉄日比谷線が乗り入れており田舎者の私にとっては分かりにくい。大橋さんに迎えに来てもらって正解だった。4人がそろったところで乾杯。土方さんの息子さんが小笠原諸島の父島か母島へ釣りに行っているという話をきっかけに小笠原話で盛り上がる。何でも石津さんの先祖は小笠原で事業を展開していたそうで、今度4人で小笠原へ行こうという話になった。何でも週1回、東京港の日の出桟橋から小笠原行の船が出ているそうだ。週1回だから帰りは1週間後となるが、海が荒れると船が欠航するので、滞在が長期に及ぶことも多いらしい。そうなるとホテル代もかさむし…。と考えているうちに話題は変わって、この4人でまた会うことにしましょうということになった。石津さんからはお煎餅をいただき、土方さんからはハンカチをいただく。呑み代は大橋さんが払ってくれた。皆さん、ありがとうございました。

4月某日
11時30分から近所のマッサージ店絆へ。本日は同居している長男が休みなので車で送って貰う。マッサージ終了後は我孫子駅前の床屋カットクラブパパまで送って貰う。昨年までは近所の床屋さんでやってもらっていたのだが、私より年長のその床屋さんは昨年、急に止めてしまった。今度の床屋さんは私よりだいぶ若いので死ぬまでやってもらうことになりそうだ。床屋を終わって駅前の日高屋で昼食。五目焼きそば(税込み660円)。バーミヤンもそうですがチエーン店ってコスパが高いと思う。駅前からバスに乗って手賀沼公園前で下車、我孫子市民図書館へ。図書館で「孤独な夜のココア」(田辺聖子 新潮文庫 1983年3月)を読む。巻末に「この本は昭和53年10月に新潮社より刊行された」とある。昭和53年といえば1978年。ということはこの小説で描かれている現代はほぼ1970年代初頭か。まだ携帯もパソコンもない時代である。だからといってこの小説に古めかしいところなど少しもない。優れた小説がそうであるように(源氏物語も)、この小説の価値も時空を超えるのだ。

4月某日
図書館で借りた「お気に入りの孤独」(田辺聖子 集英社文庫 2012年5月)を読む。巻末に「この作品は1994年1月に集英社文庫として刊行され、再文庫化に当たり、加筆修正いたしました」とあるが、小説中に「大阪で生まれた女やさかい/大阪の街 よう捨てん/大阪で生まれた女やさかい/東京へは ようついていかん…」という歌(作詞BORO)が何度か流れる。「大阪で生まれた女やさかい」がリリースされたのは1979年6月だから、この小説の時代背景は1980年代初頭と思われる。デザイナーの風里は東神戸の金持ちのボンボン、涼と結婚し西宮のマンションに住む。風里は充実した結婚と仕事を手に入れたつもりでいたのだが…。涼に女の陰が見え隠れし、風里も写真展で出会った男、中園に好感を抱く。
小説は風里が中園に離婚して東京に行くことになったと電話で伝えたところで終わる。
「電話を切って私は深い安堵感と、嬉しさで涙がにじんできた。自分より強い、自分よりおだやかな、自分より大人の人に慰撫されるのって、なんて嬉しいことだろう。でもそれは孤独な人間だからこそ味わえる嬉しさなのだった。―やたら中園に会いたかった」
田辺聖子先生は小説で一貫して女性の自立を訴えてきた。それも生硬な言葉ではなく、誰にでも理解できる恋愛小説として。

4月某日
小学校から高校まで一緒だった山本君と15時に北千住駅で待ち合わせ。北口の商店街の居酒屋に入る。鯨のベーコンや焼き鳥などを肴に2時間ほど呑む。高校が同じだった小川邦夫君が最近、亡くなったことを話す。私は大学1年生のとき、下井草のアパートに下宿していたので上石神井あたりのアパートに下宿していた小川君とは何度か行き来した覚えがある。山本君の話では大学卒業後、京浜東北線の蕨の近辺で近所に住んでいて仲が良かったそうだ。その後、小川君は登別市役所に就職が決まり室蘭へ帰った。あっさりしたいい奴だった。