社長の酒中日記 1月その3

1月某日
社会保険倶楽部霞ヶ関支部(幸田正孝支部長)の新年賀詞交換会に出席。幸田支部長や社福協の近藤理事長、元参議院議員の阿部正俊さんたちに挨拶。小林チーさん、百軒さん、池田保さんといった昔、下野カントリーで一緒にゴルフをした懐かしい顔もいた。四谷の健康保険組合の会議室を借りての新年会だったので帰りに四谷に事務所のある編集者で元社会保険研究所の保科さんに電話して一杯飲もうと誘う。「今日お化粧していないし普段着だからな。まぁ森田さんだからいいか」と率直なお答え。当社の大山と3人で呑む。

1月某日
「五稜郭の戦い―蝦夷地の終焉」(菊池勇夫 吉川弘文館 2015年10月)を読む。五稜郭の戦いについては榎本武揚率いる幕軍(新選組や彰義隊の残党プラス幕府海軍や陸軍の正規軍)が官軍に函館五稜郭で最後の抵抗を試みた程度のことしか知らなかったが、本書を読んでその全貌をいささか知ることができた。著者の官軍にも旧幕府軍にも偏しない公平な史観には共感できるし、庶民、民衆の視点を大切にするという立場もよくわかる。民衆からすればまさに外から「持ち込まれた」戦争でしかないのだから。そうは言っても私の故郷であるところの北海道を舞台にした近代的な戦闘としての五稜郭の戦いには興味は尽きない。これは会津の戦いにも言えることだが、官軍が自軍の死者のみを丁重に葬るのに対して旧幕軍は敵味方を問わず死者を哀悼する傾向がある。これは薩長を中心とする官軍と、会津や桑名、旗本をなどの旧幕軍の文化程度の違いと見えるのだが。私の父方の祖父は彦根出身、母方の祖母は幕臣の末裔と聞いたことがある。私には反薩長、反藩閥の知が流れている?

1月某日
スタジオパトリというデザイン会社を経営する三浦哲人さんから久しぶりに呑もうという電話があった。元社会保険研究所の保科さんを誘って3人で会社近くの「跳人」へ飲みに行く。三浦さんとは私がこの会社に入る前、日本プレハブ新聞社に在籍していた当時からだからもう30年以上も前からの付き合いである。「日本海苔食品新聞社」とかいう『業界紙の争議』の支援を通じて知り合った。当時三浦さんは四谷3丁目当たりのエロ本を出版する会社の編集者だった。確か元信州大学の全共闘で私より1歳若い昭和24年生まれだ。途中からSCNの高本代表理事が参加。高本さんは私たちより20歳近く若い。でグリーフケアの団体であるSCNを立ち上げる前は冠婚葬祭のコーディネータをやっていた。高本さんが「ソウギ」で思い浮かべるのは「葬儀」だが、私と三浦さんがイメージするのは「争議」でなんとも面白い。

1月某日
「地方から考える社会保障フォーラム」の講師をお願いしに「オープン・シティ研究所」の日下部元雄所長を訪ねる。市ヶ谷の高級住宅地の一角にあるマンションが自宅兼研究所。所長は東大の数学科を出た後修士課程を2年修めた。そして当時の大蔵省に経済職で入省した。世界銀行の副総裁を務めたこともあるという。世銀はワシントンだが世銀の後はロンドンにあるナンチャラ復興投資銀行の顧問も務めたという。おいしいお茶とお饅頭、大粒のイチゴを出された。所長と奥さんの笑美さんは「エビデンスに基づく子育て支援システム」を研究、実践している。フォーラムの講師も快く受けてもらった。

1月某日
日暮里駅前の「喜酔」という店でフリーライターの福田さんと待ち合わせ。ここは魚料理の店でマグロが旨い。福田さんのお嬢さんはピアノでチェコのプラハに留学。今もかの地で暮らしているという。また息子さんも国際的な運送会社に勤め、一時シンガポールに駐在していた。要するに福田さんは娘や息子の住まいをホテル代わりに海外旅行を楽しむことができるのである。

1月某日
東商傘下の「生活福祉健康づくり21」というNPOに加入している。この下にビジネス研究会というのがあり不定期ながら勉強会を開催している。勉強会のあとの懇親会が楽しいのでできるだけ参加するようにしている。今回はセントラルスポーツが港区から委託されている介護予防事業の見学に港区スポーツセンターへ。8階建てのビルで中に体育館、弓道、アーチェリー、卓球などの施設、プールがある。一緒に行ったHCMの大橋社長と感心することしきり。懇親会は近くのワインバーで。アテナの常勤監査役の小笠原さんが大橋さんと青森で道教であることが判明、おおいに盛り上がった。懇親会が終わった後、フィスメックの小出社長と神田へ。

1月某日
霞ヶ関ビルの東海大学校友会館で「森民夫長岡市長を囲む会」。会は6時からだが5時半からケア・センターやわらぎの石川代表理事と社保研ティラーレの佐藤社長と認知症予防の「だんだんダンス」の打合せ。元厚労省の辻さん、江口さん、清水さん、元建設省の小川、合田さんたちが来る。現在内閣府に出向している伊藤明子さん、JCHOに出向している藤木さんも駆けつけてくれる。森市長は長岡長岡の日本酒、久保田の万寿を持ってきてくれる。さすがに旨い。

1月某日
ポプラ社のポプラ文庫に田辺聖子コレクションというシリーズがある。田辺の短編をテーマ別に再編集したものだ。私には田辺の魅力が再発見できるようでうれしい。シリーズの5冊目「うすうす知っていた」を読む。5編の短編が収められているが私はどの短編も既読である。だがそれだけに前回気づかなかった点にも気づかされ興味は尽きない。私が好きなのは「クワタさんとマリ」だ。仲の良い夫婦がいる。夫婦には子供がいない。ある日自宅に乳母車とぬいぐるみが届けられる。夫には外に愛人と子供がいたのだ。夫婦はしかし深く愛し合っている。だが夫は妻も愛人も愛人に産ませた子供も愛しいのだ。これは大いなる矛盾であり解決のつかない問題である。こういう恋愛短編小説は本当に田辺の真骨頂だと思う。

1月某日
「複眼で見よ」(本田靖春 2011年4月 河出書房新社)を図書館で借りて読む。本田は1933年、朝鮮京城生まれ。早大政経学部卒業後、読売新聞社に入社、社会部記者として活躍。71年退社してノンフィクション作家に。私は戦後の愚連隊の一つの頂点を究めた花形敬の生涯を描いた「疵」や遺作となった「我、拗ねものとして生涯を閉ず」を読んだことがある。いずれも面白く読ませてもらったが本田のノンフィクションを続けて読んでみようとはならなかった。だが本書にはちょっと違う印象を持った。ジャーナリストとはジャーナリズムとはについて考えさせられるところが大きかった。本田の死後、単行本未収録作品を集めたというのが本書の趣旨だが、それだけに本田のジャーナリズムないしはジャーナリストに対する本音のようなものがうかがえる。テレビや大新聞などのマスコミに対する批判、なかでも政治部の派閥記者に対する批判はジャーナリズムの本質に迫るものと思う。72年の沖縄返還前の文芸春秋71年11月号に掲載された「沖縄返還 もうひとつの返還」は現在の沖縄の辺野古移設問題と通底する問題意識が感じられてきわめて読み応えがあった。このドキュメントを読む限り沖縄問題の本質は戦後70年経っても変わっていないように感じられた。

社長の酒中日記 1月その2

1月某日
中島京子の「東京観光」(集英社 2011年8月)を読む。中島京子は「小さなお家」(直木賞、映画化もされた)を読んで面白かった。表題作は生保レディの主人公が研修で初めて東京に出てくるが、宿泊したビジネスホテルには、ホテルに内緒で棲み込んでいる先客がいた。その先客は出稼ぎの外国人であった。この先客の女性との交流がなんともファンタジックで面白い。

1月某日
社会保険研究所のグループ経営会議に出席。グループ会社の社会保険出版社の会議室で3時半から。懇親会は5時過ぎから近くの中華屋さんで。私は社会保険出版社の田中一也顧問の向かいに座る。川村学園女子大学の吉武副学長から東京に来ているので根津の店で落ち合おうと電話がある。吉武さんの言う「根津の店」とは「スナックふらここ」のこと。9時半ころ「ふらここ」へ。吉武さんが10時ころ来る。常連の「あやちゃん」と「いずみちゃん」が来る。

1月某日
会社の新年会を会社近くの「廣豊楼」で。社員と社外役員の鈴木さん、NPO法人の佐々木さん、民介協の扇田専務、天野さん、医療保険事務協会の町田さん、結核予防会の竹下さんなどが参加。竹下さんが鹿児島の焼酎「魔王」を一升寄贈してくれる。二次会は竹下さん、当社の大山、迫田らと葡萄舎へ。

1月某日
株式会社日本住宅建築センターの特別顧問(前社長)の社本さんは30年以上前、私が日本プレハブ新聞社にいたころ、建設省住宅局の住宅生産課や民間住宅課の課長補佐として取材でいろいろお世話になった。久しぶりに新年会をやろうということになる神保町の新世界菜館に集合。元建設省住宅技官の小川ビルジング協会常務、合田プレハブ建築協会専務、それに菊田建築住宅センター常務、住宅情報の元編集長の大久保さんが集まった。私にとっては非常に心温まる会であった。

1月某日
当社が編集している季刊雑誌「へるぱ!」の発行元の社福協の方々をお招きして新年会。場所は有楽町の「牛や」。社福協からは本田常務、内田さん、高橋さん、岩崎さんが参加、当方からは私と迫田、それにSCNの高本代表理事が参加した。私たちは本田さんから宮内省御用達の日本酒をいただいた。本田さんはメルボルンの領事も経験しているが前任が角田さんでその前が酒井さんだそうだ。宮内省に出向したときは上司は環境次官をやった森さんで、森さんご夫妻には私は年住協主催のヨーロッパ旅行で大変お世話になった。何か縁を感じる。
今日は富国生命ビルの富国倶楽部で慈恵学園の平田さんと川村学園女子大学の吉竹副学長との打ち合わせがあるのでそちらに向かう。だいぶ時間に遅れたから打合せはすでにすんでいた。平田さんが持ち込んだワインをいただく。

1月某日
元東海銀行の菅沢さんからメール。菅沢さんがコールセンターの常務をやっているときに何度か仕事をした。現在、会社はリタイアしているが「自分史」づくりのお手伝いやDVDの制作をやっているという。菅沢さんは取手市在住で我孫子の名戸ヶ谷病院や我孫子市立図書館に行くことがあるというので図書館のあるアビスタで待ち合わせ。喫茶室でいろいろ意見を言わせてもらう。リタイア後も菅沢さんのように半分ボランティアかもしれないが社会に参加するのはとてもいいことだと思う。

1月某日
木造住宅産業協会(木住協)に松川専務を訪問。福祉住環境コーディネータ制度の広報をお願いする。松川さんは国土交通省出身。私が日本プレハブ新聞社の記者だったころ(今から30年以上前の話だ)、当時の住宅生産課にいた松川さんにお世話になった記憶がある。厚生労働省の唐沢保険局長が山形県に出向していたとき松川さんも山形県に出向していて官舎が近所だったという話を聞いたことがある。珍しく都心にも雪が積もる。早く帰ることにしたが我孫子駅前の「七輪」で軽く一杯。「愛花」によったら常連の「そのちゃん」が呑んでいた。

1月某日
午前中、福祉住環境コーディネータの件で日本ツーバイフォー協会に川本専務を訪問。同じビルの2階に全住協があるので加島常務、桜井さんに挨拶。会社に帰ってSCN]の高本代表理事とフリーの編集者の浜尾さんと「介護職の看取り、グリーフケア」の報告書の打合せ。引き続き社保研ティラーレで「地方から考える社会保障フォーラムの会議。品川のJCHOで看護師パンフの打合せのある当社の岩佐に同行。虎ノ門、内幸町で2件ほど打合せ。健康生きがいづくり財団の大谷常務に「今どこ?」とメールすると「日比谷の交差点当たり」という返事。「花半で待つ」とメール。大谷さんは元日本航空のキャビンアテンダントだった神山さんを連れてくる。3人で楽しく歓談。

社長の酒中日記 1月その1

1月某日
正月やることもないので本を読む。年末に買っておいた「永田鉄山 昭和陸軍『運命の男』」(早坂隆 文春新書 2015年6月)を読む。私はどちらかというと2.26事件を引き起こした青年将校たち、いうところの皇道派に同情的である。理由は簡単でテレビドラマや小説では事件を青年将校のがわから描いたものが圧倒的に多いからだろう。永田鉄山は皇道派と対立した統制派のリーダーであり、2.26事件の前年、皇道派の相沢三郎中佐に白昼、陸軍省軍務局長室で斬殺されている。永田は長野県諏訪の出身。幼少期から頭脳明晰で陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸大を通じて成績優秀だったという。それだけでなく同僚、部下に慕われ、上司の評価も高かった。彼の考えは本書によると決して「好戦的」なものではなく、むしろ戦争を防ぐために国民総動員体制の確立を急いだとされる。彼は機動戦における自動車の重要性に早くから着目、揺籃期にあった自動車産業に陸軍から補助金を出したというエピソードも紹介されている。
皇道派が天皇親政による昭和維新を掲げたのに対し、永田はむしろ議会を重視したようだ。統制派は永田の生前から問題を抱えていた。それは関東軍を中心として陸軍中央のコントロール(統制)が効かなくなってきたことである。関東軍の指導部は石原莞爾、板垣征四郎はじめ統制派が占めていたにも関わらずである。国家社会主義内部の路線闘争として統制派と皇道派をとらえれば、統制派は統制経済による急速な重化学工業化を主張したのに対し、皇道派は昭和恐慌によって疲弊した農村の救済を主張した。皇道派の主張は心情的には理解できるものの昭和初期の日本における経済政策としては統制派に軍配を上げざるを得ないのではないか。2.26事件以降、陸軍は完全に統制派の支配となるのだが、永田なき統制派は、統制なき統制派となり大東亜戦争への道を突き進むことになる。

1月某日
日立製作所の前会長、川村隆の「ザ・ラストマン」(角川書店 2015年3月)を読む。ラストマンとはその組織にとって最後の人、切り札のことである。会社でいえば社長である。川村は69歳で子会社の会長から日立本社の社長に就任、V字回復を成し遂げた。川村は日経新聞の「私の履歴書」にも執筆、それはそれで面白かったが、本書はむしろビジネスパーソンの「心構え」について語っている。といっても堅苦しいものではなくごく平易な言葉で語られているのが特徴だ。大変勉強になったが一つだけ挙げるとすれば「戦略は変えるな、戦術は朝令暮改でよい」というもの。現実への柔軟な対応力と現実を見る高い戦略的視点の重要性を言っている。同じように「君子は豹変す、小人は革面す」という言葉を上げている。「徳の高い人は過ちに気づけば直ちに改めるが、小人は表面上は革めたように見えるが内容は変わらない」という意味だ。もって瞑すべし。

1月某日
図書館で借りた「忘れられたワルツ」(絲山秋子 新潮社 2013年4月)を読む。7編の短編が収められている。最初の「恋愛雑用論」を読みだして「あれっ読んだことある」と気づいた。たぶん出版された直後、図書館で借りて読んだんだろう。でもストーリーはほとんど覚えていない。だから最後まで楽しませてもらった。

1月某日
向田邦子の「無名仮名人名録」(文春文庫 2015年12月新装版)を本屋で見かけてためらわずに購入した。昔「だいこんの花」や「寺内貫太郎一家」といった向田作のテレビドラマをよく見た覚えがある。あれは何時頃なんだろう、30年も前かしらと思って、カバーの著者紹介を見ると、向田は昭和4(1929)年生まれ、55年に直木賞受賞、56年に航空機事故で急逝している。ということは35年前に死んでいるんだ。私が見たドラマは35年から40年前のものなのか。あの頃は比較的早く家に帰っていたということでもある。向田邦子って頭がよさそうで嫌味がなさそうで料理がうまそうではっきり言って私の好みではあるのだが、生きていれば今年87歳だからね。それはともかく彼女の感覚や文体の瑞々しさといったら、ちょっと比類すべきものがないのじゃないかな。なんでもない日常茶飯のことでも彼女の手にかかるとひとりでに輝きだしてしまうようなそんなエッセーでした。

社長の酒中日記 12月その3

12月某日
西新橋の洒落た小料理屋屋風の店で昼食をとっていたら奥のカウンター席に元厚生次官の幸田正孝さんがいた。幸田さんが店を出るとき「今日は協会(社会保険福祉協会)ですか?」と尋ねると「そう」と答える。「後でご挨拶に伺います」と言って別れる。私はHCMに向かって大橋社長と雑談。その後、社会保険福祉協会に行き、まず4階の内田さんに挨拶、続いて2階の幸田さんに挨拶。幸田さんは若いころに北海道の国民年金課長をやっている。そして幸田さんが全社連の理事長をやっているときの常務理事が北海道出身の河崎さんだ。河崎さんは残念ながら数年前に亡くなっているが、すこしばかり思い出話ができた。会社へ戻って当社の寺山とプレハブ建築協会へ。専務理事の合田さんに会うためだ。合田さんは国土交通省の住宅技官。今から30年以上前、合田さんが住宅局住宅生産課の係長のころ日本プレハブ新聞の記者だった私は取材で大変お世話になった。今日は東商がやっている福祉住環境コーディネータ試験のPRのお願いに伺った。
小川町のプレハブ協会の事務所を出て寺山は会社へ。私は近くの堀子税理士事務所で堀子先生と大島先生に挨拶。今日はフィスメックの小出社長、社会保険出版社の高本社長と忘年会なので会場の上野広小路の「さくらい」へ。従業員教育がよくされているしっかりした洋食屋さんだった。小出社長にすっかりごちそうになる。帰りに我孫子駅前の「七輪」でウイスキーのソーダ割りを一杯。

12月某日
理事長をやっている高田馬場の社会福祉法人の理事会、評議員会。グループホーム2ユニットにデイサービスを併設しているのだが、人員不足からデイサービスは休止しているのだが、先の理事会で10月からの再開が決議されていた。私が10月から理事長に就任して以降もグループホームの運営に手いっぱいで開設準備は遅れていた。それで理事会に再度延期したいと提案したのだが圧倒的多数で否決されてしまった。早期再開の方針が再度議決されてしまったのである。私としては開設に向けて人員に余裕があるならともかく、現状で再開するとなると入居者や職員の負担が増すと考えた。したがってデイサービスを早期再開するのなら社会福祉法人全体の運営に責任を持てないことから辞任を申し出了承された。わずか3か月の理事長であったが社会福祉法人の在り方、介護保険事業への取り組み姿勢等、勉強させてもらった。至らない理事長を支えてくれた事務局や現場のスタッフに深く感謝である。

12月某日
年金住宅福祉協会の2代目理事長が中村一成さん。援護局長で退官、年金福祉事業団の理事を経て年住協の理事長に就任した。今から30年くらい前の話である。当時私は「年金と住宅」という年住協のPR雑誌の編集を任されていた。理事長に古地図を見ながら東京の名所旧跡を回るという企画を提案したら採用された。毎月1回、江戸城や町奉行所跡、刑場あとの小塚原などを取材に回った。取材のあとの食事も楽しかった。10年位前だろうか中村さんから「故郷の宮崎に帰ることにしました」という連絡をいただいた。それからは年1回の賀状と私からのささやかなお歳暮だけのお付き合いとなった。今年も我孫子名物のお煎餅を送ったところ、義理の弟さんから宮崎名産のデコポンと一緒に「今年8月に亡くなった」という手紙をいただいた。中村さんは東大を出てから海軍経理学校を経て海軍に。戦後厚生省に入省した。90歳を超えているから天寿を全うしたということなのだが、やはり悲しい。合掌。

社長の酒中日記 12月その2

12月某日
元厚労次官で現在、京都大学の理事をしている阿曽沼さんからメール。「明日健康診断で酒は呑めないけど食事はできます」。おいおい12月の金曜日だよ、空いているわけないだろと手帳を見ると今週は金曜日だけ空いているではないか。「君は幸運だね。空いています」とメール。5時過ぎに事務所に来てもらう。場所は末次さんにいただいた佃煮を章太亭に忘れてきたので章太亭にする。とりとめのない話をしていると、阿曽沼さんが「京都工芸繊維大学の副学長と会ったんだけど」と言う。「その人が福山の出身でさ。友野さんと大親友なんだって」と続ける。何、友野!思い出した。今から10年以上前、阿曽沼さんが最初に局長になったころだ。「何か面白いことないかなぁ」と言うから「カヌーなんかどう?」と誘ったら「面白そうだな」と乗ってきたのだ。そこに当時カヌーのインストラクターをやっていた友野君が登場する。友野君は私が早稲田の4年のとき東京外語大学に入学、私と同じ江古田の国際学寮に入寮してきた。外大がつまらないというので早稲田に連れて来たり、一緒にデモに行ったりした。そのうちブンドの戦旗派にオルグられあっちへ行ってしまった。40過ぎてから革命運動から足を洗い、カヌーのインストラクターをやりながらフリーライターになった。それからいろいろあったが、いずれにしても私の青春の1ページを飾る人であることは間違いない。

12月某日
土曜日だけれどセルフ・ケア・ネットワーク(SCN)の高本代表理事との打合せがあるので出社。高本さんが5時半にならないと事務所に戻らないというので私も会社でたまっていた雑用をこなす。5時半にSCNのオフィスへ。「介護職の看取り、グリーフケアについての調査研究」の報告書について打合せ。高本さんは江戸時代の事例を盛り込みたいと提案。考えてみると江戸時代を通じてあまり人口増加はなかったはずだ。つまり人口構成的には基本的には人口安定社会ではなかったか。と言うことは江戸時代の事例を検討するのは意味があるということなのだ。

12月某日
本郷さんから我孫子の「美味小屋」で食事をしようとメールがある。了解とメールを返したのだが、日曜日ですっかり忘れていた。約束は12時だったが1時過ぎに顔を出す。本郷さんと本郷さんの友人の寺田さんは当たり前だがもう出来上がっている。それでも西南戦争のはなしなどで盛り上がる。本郷さんと寺田さんは近くのレストラン「コ・ビアン」にいくということだが、私は失礼してマッサージへ。

12月某日
吉川弘文館の人物叢書「近衛文麿」(古川隆久 15年9月)を読む。この評伝の特徴は「従来の近衛研究で重視されてきた、近衛の回想手記や関係者の近衛没後の回想の使用は最小限にとどめ、近衛が生前に行った言説や関係者の日記類を重視した」ことにある。近衛の回想手記は弁明を目的として史実と異なる点が見られ、関係者の回想も多分に近衛に同情的なものが多いからである。本書はできるだけ史実に基づいて近衛像を明らかにする。結論から言うと近衛は「自由主義的国家社会主義思想を奉じる啓蒙的政治家」だった。それは間違いないし、それと同時に近衛のリーダーとしての責任を厳しく追及しており、歴史書、評伝として高い水準にあると感じた。

12月某日
川村学園女子大学の吉武副学長(元年金局長)から携帯に電話。「モリちゃん、5時半に我孫子駅南口に来られる。台湾からのお客さんとご飯を食べるのだけど」。もちろんウイークデイだから行けるはずがない。「6時過ぎなら行けるかもしれない」と返事して、理事長をしている高田馬場の社会福祉法人へ向かう。30分ほど事務仕事をこなして我孫子へ。我孫子駅南口の「串揚げOGAWA」と言う店だ。店に入るとあびこ地産地消協議会の米沢会長や川村学園の福永淑子先生の顔が見える。台湾からのお土産と言う26年物の紹興酒を頂く。たいへんマイルドな味だし陶製の容器がいかにも高そうだった。主賓である台湾の桃園市私立至善高級中学の張理事長を紹介される。市会議員や農事組合の方、市役所の農政課長とも名刺交換する。会合の意味はよくわからないが楽しい会だった。

12月某日
会社を休んで新松戸の年金事務所へ行く。まだ働いているのなら国民年金は70歳から受給したほうがいいでしょうということだった。70歳まで働くのかね?あと3年だよ。厚生年金は僅かながら受給している模様。そういえば元社会保険庁の池田保さんがいろいろと手続きやってくれたんだっけ。深く感謝。帰りに駅前の「しちりん」によってウイスキーのソーダ割りを2杯ほど。ふと思い立って床屋さんに行くことにする。我孫子市若松の「髪工房」が行きつけの床屋でもう10年位行っている。店主は九州天草の生まれで昭和19年生まれ。昭和47年ころ府中で修業中に3億円事件があったとか、松戸の伊勢丹の理容室で働いていたとかいろいろな話をしてくれた。私以外に客はいなかったし手伝いの女性も今日はいなかったからかな。

12月某日
「テロリストのパラソル」(藤原伊織)を読む。95年に江戸川乱歩賞、96年に直木賞を受賞。当時はずいぶんと話題になったものだが私は読むのは初めて。アル中のバーテンダー島村は元東大全共闘、そのなかでも駒場共闘だ。新宿中央公園で朝からウイスキーを呑みながらウトウトしかけたとき、何らかの爆発物が爆発し、死傷者が多数出る。島村は疑いがかかることを恐れ中央公園のホームレスのテントに潜む。私は東大全共闘の支援に行ったし、10数年前には新宿中央公園のホームレス支援に行ったこともある。そんなわけでこの小説は妙に懐かしかった。ミステリーとしてはその分、感傷的に過ぎるきらいはあるが。

12月某日
中村秀一さんが理事長をやっている介護医療福祉政策研究フォーラムへ。椋野美智子さんが今日のフォーラムを聞きに来るというのでご挨拶に。椋野さんは4月の大分市長選挙で惜敗。近況を聞いた。そこから神田の「おさかな市場」へ。民介協の理事会の忘年会。佐藤理事長や扇田専務に挨拶。ぱんぷきんの渡邉社長や社会福祉法人うねび会の酒井理事長がビールを注ぎに来てくれる。渡邉社長や酒井理事長は間違いなく介護業界の次世代を担う人材だ。株式会社ホームヘルパー協会のケアマネ春日さんとも名刺交換。頼もしい若い世代だ。続いてシミュレータの販売をお願いしているHCMの大橋さん、三浦さん、当社の迫田と鎌倉橋ビル地下の「跳人」で忘年会。

社長の酒中日記 12月その1

12月某日
健康生きがいづくり財団の大谷常務と神保町の「あい家」へ。先月の日記に書いたが有楽町の電気ビルにあった「あい谷」のマスターが場所を変えて再開したものだ。先月の日記でマスターは札幌西高出身と書いたが札幌北高の間違いだった。板前さんも「あい谷」と一緒で味も変わらず。値段は有楽町よりも安い感じがした。

12月某日
「ケアセンターやわらぎ」の石川代表理事と石川さんのところで開発した認知症予防ダンス「だんだんダンス」の打合せ。石川さんは6時半から別の打合せが入っているので4時半に富国倶楽部で待ち合わせ。こちらは私と社会保険出版社の戸川、森田君。石川さんは「だんだんダンス」に関わっているスタッフで立教大学大学院の石川さんの教え子中村さんを連れてくる。こちらが認知症予防やだんだんダンスを紹介するパンフレットを作成することで大筋合意。富国倶楽部はシャガールをはじめ内外の著名な絵画や彫刻が陳列されているのだが、石川さんは「今度ね」と言って帰って行った。

12月某日
長岡市長をやっている森民夫さんは元建設省住宅局の東大出身のエリート技官。11月の選挙でも「らくらく?」当選を果たしたので石川はるえさんが音頭をとって「祝う会」をやることになった。高橋ハムさんや辻さん、吉武さんがメンバーの「シャイの会」のメンバーを中心に呼びかけることにした。20人から30人は集めたい。

12月某日
ラシスコという配送業者の倉庫を当社の出版物の倉庫としても利用させてもらっている。今日は土曜日にもかかわらず、当社の石津とパートの川隅さんが確認に行ってくれた。私も行くつもりだったが高田馬場の社会福祉法人サンでデイサービス再開に向けた話し合いがあるのそちらに参加しなければならない。2人とは赤羽で待ち合わせることにした。赤羽で降りてメールすると在庫確認にまだ1時間以上かかるという。それで駅の周辺を散策することにする。まだ4時くらいだというのに駅近くの居酒屋は結構店を開けていてしかも混んでいる。そのほか、雑貨屋や本屋を覗いてしばし師走の雑踏を楽しんだ。5時ころ石津に電話するとちょうど赤羽に着いたところという。西口で待ち合わせ飲み屋街へ。「串待つ」という店に入る。焼き鳥屋である。これが結構おいしかった。3人で川越線で上野へ。ちょうど上野東京ラインだったので石津はそのまま品川へ。私は上野で常磐線へ。我孫子で降りて駅前の「愛花」による。結構出来上がっていたみたい。

12月某日
HCMという会社の忘年会に当社の赤堀と招かれる。神田の「廣豊楼」という中華料理屋。廣豊楼は今年、西新橋から神田に引っ越してきた。HCM社は西新橋にありその当時からよく使っていた。もともとは昭和初期から神田神保町あたりで営業してきたらしい。神田は明治時代から清国の留学生が多く住み、そのせいか有名な中華料理店も多い。いつか元建設省の社本さんにご馳走になった新世界飯店も神保町だ。おそらく魯迅や周恩来も食べたに違いない。

12月某日
「胃ろう・吸引シミュレータ」の販売会議を会社近くの「福一」で。その日のランチを元年住協の林さんと福一で食べていたら、おかみさんが「久しぶりですねー」と言っていたので急きょ福一にした。ここは冬に海鼠が出る。最近、海鼠を出す店が少なくなったので、海鼠好きの私にとってはうれしい店だ。HCMの大橋社長、三浦顧問、当社の迫田の4人で真剣に議論した。本当です。帰りに我孫子の駅前の「愛花」による。先客がいたが私には初めての客。聞くと今年95歳という。それでまだシルバー人材センタ―に登録して仕事をしているというから驚いてしまった。私も頑張らなくては!

12月某日
元社会保険庁長官の末次さんから電話。「今日、夕方会社にいる?」。「5時半には出なければなりませんが」「じゃ5時ころ行くよ」。末次さんは長官を辞めた後、年住協の理事長に就任した。私は当時年住協の広報雑誌「年金と住宅」の編集に携わっており、年住協の編集長が今、結核予防会の専務理事の竹下さんだ。その頃、竹下さんを誘って私がメンバーの常陽カントリーへ行ったとき、午後のラウンドに出ようとしたとき、突然「竹下君」と末次理事長から声がかかった。末次さんは我々の後ろの組でプレーしていたのだ。末次さんも同じ常陽カントリーのメンバーでそれ以来、年に何回かご一緒させていただく。もっとも最近私はゴルフから遠ざかっているので、年に2、3度食事を御一緒する。年末のあいさつということでわざわざ事務所まで足を運んでいただき恐縮の至りである。しかも末次さんは「お世話になったから」と言ってイタリアのワイン、「ローレライ」というドイツのリキュール、それと京都の佃煮をお土産にいただいた。末次さんをお送りし、ワインは神田明神下の章太亭でいただき、リキュールは根津の「ふらここ」でいただいた。

12月某日
会社に同居しているNPO法人の佐々木事務局長が当社の社員一同を「ビアレストランかまくら橋」に招待してくれる。社員一同感激してビールやワイン、料理を頂く。社員同士だけでなくよその会社との交流も大切なことだと思う。

社長の酒中日記 11月その3

11月某日
セルフ・ケア・ネット(SCN)の高本代表に「秋の宴遊会in新川」に誘われる。中央区新川にある高本夫妻が住むダイヤビル隅田リバーサイドタワーを訪ねると2階の集会室が会場となっていた。中に入ると宴はすでに始まっていて若い女性がビールを注いでくれくれてお料理もとってくれる。まぁ私は高齢者で障害者だからそのくらいはいいか。高本夫妻、今日ストレスチェックについて話をするフィスメックの小出社長、社会保険研究所の関連会社、現代社会保険の佐藤社長もいる。ほどなくSCNの市川理事もご主人の母親を伴って現れたので計画中のサービス付高齢者住宅の話などを聞く。どうもこの会は高本夫妻を中心とした「呑み仲間」の集まりのようではあるが同じマンションの住人、それから人形町界隈の呑み仲間も多いようだ。「下からの」地域包括ケアの原型がここにはある。

11月某日
5時から当社でシミュレータの販売会議。メンバーは当社の迫田と私、HCMの大橋さんとHCMと顧問契約を結んでいる三浦さん。本格販売に向けて役割分担をどうすべきか話し合う。専任の営業マンを置くより医療機器販売店に卸したほうが効率的だろうという方向では一致。場所を会社近くの跳人に移す。ここは津軽料理の店だが、大橋さんと三浦さんは青森の高校で卓球部の先輩後輩の関係。そんなこともあって津軽料理の店にした。介護予防と卓球の話で盛り上がりそろそろ帰ろうという時に当社の赤堀が登場。赤堀は新興スポーツのパドルテニスをやっているそうで三鷹市パドルテニス連盟の理事長という。それで話はまた盛り上がった。

11月某日
東京福祉専門学校に武田看護師に会いに行く。武田さんは60チョイ過ぎの男の看護師さん。東京福祉専門学校の白井貴子先生の紹介でいろいろお願いしているところだ。東京福祉専門学校でも夜間部で教えている。「教えることはとても勉強になります」と謙虚な人柄には感心する。授業がある武田さんと別れ、西葛西の駅へ。西葛西に事務所のあるネオユニットの土方さんに会うためだ。土方さんお勧めの焼き鳥屋へ入る。シミュレータの販売について打合せ。亡くなった大前さんの話になる。不覚にも涙が出てしまった。仕事以外の話をいろいろする。土方さんとは10歳以上年が離れているが、なぜか話が合う気がする。

11月某日
図書館で借りていた「グローバル経済史入門」(岩波新書 杉山伸也 14年1月)を読む。
著者の杉山は1949年生まれ。72年に早大の政治経済学部を出ている。ロンドン大学博士課程終了後、慶応大学経済学部に迎えられている。私も72年に早大政経学部を卒業しているがもちろん面識はない。もっとも私は1年の2学期以降ほとんど教室に足を踏み入れたことはなかったから同級生はともかく同じ学年の学生と親しく話を交わす機会もなかった。1年の2学期以降、私はデモに明け暮れていた。そんな生活が翌年の9月3日まで続く。9月3日の第2学館の闘争で逮捕起訴され冬に東京拘置所から出された。自分の話が長くなったが、私がデモに明け暮れ、逮捕起訴された後、麻雀や酒に溺れていたときも杉山は学問していたわけである。私は今まで自分の生き方に後悔したことはあまりないのだが、同年に早稲田を卒業した杉山の本を読んで「学問をするという選択肢もあったかもしれない」とふと思った。
それはともかく本書を私はとても興味深く読ませてもらった。私の歴史理解は一国の歴史があり(たとえば日本史)、それをとりまく周辺の歴史があり(たとえば中国史、東アジア史)などがあり、それらを集約、統合したものとして世界史があるというものだ。これに対しグローバル経済史は当然のことながら交易(異なる地域間の交換)が前提となる。異なる地域間の交換には陸路にしろ海路にしろ通商ルートの確保が前提となる。ヨーロッパとアジアを結ぶ通商路としてのシルクロードやスペインポルトガルがはるか希望峰を廻ってインドやフィリピン、中国本土、台湾を経て日本に到達したのもそういうことであろう。産業革命がイギリスに興り、資本主義経済がヨーロッパを覆った。アジア、アフリカの多くは植民地化され、植民地と資源を争って二度の世界大戦があって現在がある。
われわれはどこへ行こうとしているのか? 杉山は「人間の歴史に刻まれてきた普遍的な価値観としての自由や平等の思想や民主主義の伝統は、全体主義や排他主義への回帰を許容しない抑止力として機能することは間違いないし、そうあることを信じたい」という。まったく同感である。

11月某日
セルフ・ケア・ネットワーク(SCN)の高本代表を小舟町の事務所に訪ね「介護職の看取り、グリーフケア」調査の打合せ。終了後、水天宮から日比谷線で西新井へ。「へるぱ!」の取材で「ケアサービスとも」を訪問するためだ。西新井駅で当社の迫田、ライターの沢見さんと待ち合わせ。取材は社長の海老根さんと海老根さんの奥さんで看護師兼管理者の久美子さん、取締役の永田さんが対応してくれる。久美子さんが来るまでの雑談のなかで、海老根さんの次男に重い障害があったことがこの事業を始めたきっかけと分かる。次男の施設への送り迎えのため社長の海老根さんは比較的時間が自由になる個人タクシーをはじめたそうだ。まあそれからずいぶんと大変なこともあったに違いないが今は順調に業績を伸ばし現在はサービス付高齢者住宅にも進出しているという。久美子さんが看護師のため看護師の確保にはそれほど苦労はしていないが、看護師のために多様な働き方を許容しているのが特徴ともいえる。取締役の永田さんは実は海老根さんの娘婿。そして前職は弁護士という。高田馬場の日本介護福祉専門学校に一年通って社会福祉士の資格を取得、この業界に入ったという。弁護士経験者がスタッフにいるなんてすごい!と思ってしまった。取材が終わって西新井の駅まで出て、沢見さん、迫田と私の3人で食事をすることにする。駅前で探すがこれといった店がない。「竹そば」という店の前でうろうろしていたら店の人に「どうぞおはいりなさい」と声を掛けられてしまった。いろいろなつまみを各種とって酒は会津誉と八海山。客が少なく味もまあまであった。沢見さんは目黒に帰ってまだ呑むそうだ。私も我孫子の駅前の「愛花」に寄ったら常連の看護師さんが来て話が長くなった。

11月某日
「いちまき―ある家老の娘の物語」(中野翠 新潮社 15年9月)を読む。著者中野翠が曾祖母みわの「大夢 中野みわ自叙伝」を著者の父の遺品から見つけたのがきっかけ。それから著者のルーツをたどる旅が始まるのだが。大夢はみわの父で幕末には関宿藩の家老職だった。藩内は勤皇と佐幕に別れ、大夢は幼君を擁して佐幕派に。これが大夢の流転の始まりで彰義隊に参加するも敗走して転々とする。最後の将軍慶喜とともに静岡に落ち着き学校長などを務める。「いちまき」というのは血族のことを指すらしいが、中野のいちまきは庶民であって庶民ではないところが面白い。武士の気質のようなものが三代、四代を経ても息づいている。中野翠は早大政経学部で私の3年上。呉智英と一緒に文研に所属していた。中野は卒業後、出版社に勤めたがその頃、私は中野と麻雀を打ったことがある呉智英こと新崎さんはロシヤ語研究会の先輩。4年のとき文研から移ってきた。中野はすでに出版社に勤めていたが新崎さんは第一次早大闘争の被告で裁判を抱えていたこともあって留年中だった。そのときの麻雀は私が勝ったように思うが中野はまぁ覚えてないだろうな。

11月某日
民間介護の質を高める事業者協議会(民介協)の事務所は当社と同じビルの3階にある。民介協の扇田専務が事務所の移転先を探していた時、3階が空いていたので入ってくれた。それ以前から民介協にはいろいろとお世話になっているので今日は民介協の佐藤理事長、扇田専務それと民介協の事務をやっている天野さんを有楽町の「牛や」に招待することにする。当社からは私以外に岩佐と迫田が参加する。牛やは当社の大前さんが存命の頃はよく使っていたが最近とんとご無沙汰だった。今日は「しゃぶしゃぶコース」にした。お通しにお刺身がついてお酒は呑み放題、しゃぶしゃぶも美味しかった。お客さんも満足してくれたようだ。佐藤理事長は北海道出身。札幌西高だそうだ。そういえば牛やの隣のビルにあった「あい谷」の経営者も西高出身とか言っていた。つい先日、神保町で「あい家」という店を開店したというはがきが来ていた。今度、佐藤理事長を誘ってみよう。

社長の酒中日記 11月その2

11月某日
香港の介護療養ホームの職員が社会福祉法人サンを視察に来るというので、冒頭あいさつをしてほしいという。認知症介護の現場のことはわからないので「日本の2025年問題」でもしゃべろうかと思い、30分早く行って原稿を考える。次のようなことをあいさつした。「私は第2次世界大戦終了後に生まれたベビーブーマー世代です。日本の高度経済成長期と時を同じくして学校で学び、就職し生産活動に従事してきました。今、多くの同世代の者たちが年金受給世代になっています。私たちベビーブーマーが日本で言う後期高齢者となる2025年には少子高齢化によって支えられる層は広がり、支える世代の人口は減少します。日本社会は大きな試練に直面しています。この現実はおそらく近い将来、中国、東アジア、そして今世紀後半にはグローバルな現実となるでしょう。どうかそのあたりも考えながら日本の高齢者施設を見学していただきたいと思います」。視察を終えた後、団長らしき人から握手を求められたので少なくとも悪印象は持たれなかったと思う。

11月某日
年金記録問題で国民の信頼を失った厚生労働省に事務次官として迎えられたのが江利川さんだ。江利川さんは内閣府の次官を退官した後だから、中央省庁の次官を2つも務めるというのは異例中の異例だ。厚労省の現役の局長と話していたら「最近、江利川さんと会ってない」という話となり、少人数で「江利川さんを囲む会」をセットすることにした。場所は西新橋の「花半」、当社の岩佐が手伝ってくれる。6時過ぎに鈴木年金局長が来て、次いで江利川さんも来る。蒲原官房長、神田医政局長、香取児童家庭局長、樽見審議官も来る。間年金課長も顔を出す。江利川さんとは江利川さんが年金局の資金課長に就任したころからのつきあい。当時から私のような弱小出版社の社員とも分け隔てることなく接してくれた。江利川さんの次の資金課長が川邉さんで、江利川、川邉時代の補佐が足利さんや岩野さんだ。こちらの会も不定期だが年1回か2回やっている。江利川さんをメインにした会合は、まず江利川さんの日程を抑えることから始まる。それだけ江利川さんが忙しいということなのだ。ここからは推測だが、官界、政界、経済界から意見を求められることも多いに違いない。

11月某日
健康・生きがいづくり財団の大谷常務と日暮里で待ち合わせて駅前の「喜酔」という店に入る。日本酒と肴が旨く値段もリーズナブル。気に入ったけど私ももうすぐ67歳。いつまでのんでいられるのだろうか?振り返ると高校生までは比較的まっとうに生きてきた気がするのだが、大学に入学したころから学生運動に首を突っ込んだり、まぁいろいろありました。だけど自分から言うのもなんだけど、お金にもそれほど不自由したこと無いし、家族や友人にも恵まれたと思う。あんまり悔いのない人生のような気がするけど。

11月某日
「大衆の幻像」(竹内洋 14年7月 中央公論新社)を読む。竹内は前に「革新幻想の戦後史」を読んで、常識的な革新像を崩す発想を面白いと思った。本書はいろいろなメディアに発表した論文、エッセー、書評などを集めたものだが、それだけに著者の本音がうかがうことができる。著者は1940年生まれ。京都大学教育学部で社会学を学び、後に京大教授、現在は関西大学教授。「日本版ノーブレス・オブリージュの真髄」の項では、映画「飢餓海峡」(内田吐夢監督)の伴淳三郎演じる定年間近のノンキャリアの刑事に着目する。そして学部長を務めたときの学部事務室のノンキャリアの会計掛長にも思いを致す。日本社会はこのような実直で「堅気」の誇りを持った庶民に支えられているのだと著者は実感するのだ。もちろん著者は実感だけでなくいろいろな学説、論文や社会現象から日本社会の実像と幻像に迫る。理論(言説)と実像を不可分なものと捉えながら、その乖離に学問的興味を抱くというのが著者の方法論なのかもしれない。

11月某日
京大理事に就任した阿曽沼氏から東京に来ているから「飯でも食おう」と電話。高田馬場の社会福祉法人で職員との面談を終わってから神田駅近くのバー「柴田屋」へ。会社近くにそばや「周」(あまね)に席を移して日本酒を少々。そばを食べて別れる。会社や社会福祉法人の経営でいろいろと心配してくれている。大変ありがたいが、心配や同情で経営が改善されるわけではない。しかし私の場合は友人たちの心配や同情があればこそいままでやってこれたと思っている。

11月某日
会社で仕事をしていたら「ケアセンターやわらぎ」の石川代表から「モーちゃん、今日時間ある?」という電話。予定が入ってなかったので「大丈夫です」と返事すると、社福協の研修の講師が終わるから社福協に来てくれという。社福協から西新橋の「福は内」へ。ここは以前も石川さんにご馳走になったことがある。石川さんは「ケアセンターやわらぎ」の代表と社会福祉法人にんじんの会の理事長を務め、中央線沿線で幅広く介護事業を展開している。20年位前に当時自治労の社会保障担当の書記だった高橋ハムさんの紹介で知り合った。以来、何かと目を掛けてくれる。美味しい日本酒と鱧のてんぷらお刺身などを御馳走になる。後から社福協の内田さんと岩崎さんが合流。

11月某日
「ともえ」(諸田玲子 13年9月 平凡社)を読む。諸田は女流の時代小説家。ウイキペディアによると上智大学の英文科を卒業した後、アナウンサーなどを経て小説家としてデビューしたらしい。それはともかく私としては諸田を読むのは初めて。「大衆の幻像」で竹内洋が書評で「ともえ」を絶賛と言っていいくらい褒めていたので図書館で借りることにした。大津の義仲寺で旅の芭蕉は智月尼と出会う。ともに木曽義仲と巴御前を祀った義仲塚と巴塚に参った折である。智月尼は芭蕉よりも10歳ほど年上ながら2人は静かな恋に落ちる。2人の恋と500年前の義仲と巴御前の恋と別離が時空を超えて描かれる。芭蕉と智月尼があったときおそらく芭蕉は40代、智月尼は50代。江戸時代ならばすでに老境。精神的な結びつきを求めるわけですね、お互いに。作者は老人の心理と生理をよく理解しているようだ。

11月某日
年住協の理事の森さんが来社。現在、年住協が進めている新規事業計画について意見交換。夕刻になったので会社近くのレストランかまくら橋に席を移す。西新橋の信濃屋で購入したスコッチウイスキーを持ち込む。「タリスカー」という銘柄で10年物のシングルモルト。私は初めて呑むがスモーキーで旨かった。当社の赤堀が加わる。

11月某日
以前、当社で働いていた村井さんと寺山君が結婚して、今年寺山君が当社に戻ってきてくれた。村井さんに「たまには一杯やろう」と連絡すると会社近くの三陸のカキを食べさせる「飛梅」という店がいいというのでそこにする。会社を出ようとすると結核予防会の竹下専務から電話。「呑み会が流れてしまったので一緒にどう?」。「先約があるのだけれど、合流する?」ときいたら「混ぜてちょうだい」というので一緒に呑むことに。村井さんにその旨メールしたら「えっ」という返事。それはそうでしょう。それでも和気あいあいのうちにカキを食べ日本酒を呑んで、今日は竹下さんがご馳走してくれた。

社長の酒中日記 11月その1

11月某日
健診なので東新宿のフィオーレへ朝食を摂らずに直行。本人確認などIT化が進んで進行がスムースに行くようになった。検査技師(ほとんどが女性)はじめ職員の態度も好感が持てた。会社へ戻る途中、京都大学の理事をやっている阿曽沼さんから電話、「後程連絡します」と返す。1時間ほど時間がとれそうなので丸の内北口の丸善内にある喫茶店で会う。私の近況や愚痴を一方的に話す。4時過ぎに年住協の森理事が来社。介護職の医療行為に関わる研修を実施するにはどうしたらいいのか聞きに来た。当社の迫田が説明、浴風会ケアスクールが研修機関になっているので、しかるべき人を紹介することを約束。元厚労省の川邉さんと「ビアレストランかまくら橋」で歓談。

11月某日
地方議員を対象にした「地方から考える社会保障フォーラム」が社会保険研究所の会議室で行われているので聞きに行く。和光市の東内京一保健福祉部長の「和光市における超高齢化社会に対応した地域包括ケアシステムの実践―マクロの計画策定とミクロのケアマネジメント支援」が面白かった。興味深かったところをピックアップすると、介護保険事業計画の策定に当たっては「日常生活圏域ニーズ調査を実施し、地域の課題・ニーズを的確に把握」する。この調査は郵送と未回収者への訪問による調査で「どの圏域に、どのようなニーズをもった高齢者が、どの程度生活しているか」調査する。具体的な調査項目としては身体機能・日常生活機能、住まいの状況、認知症状、疾病状況などで、この結果をもとに地域の課題や必要となるサービスを把握・分析する。こうした調査をもとにして介護保険事業計画が策定されるのだが、和光市の第6期基本方針は次のようなものだ。①「介護予防」及び「要介護度の重度化予防」による自立支援の一層の推進②在宅介護と在宅医療の連携および施設や病院における入退院時の連携を、ICTの活用とコミュニティケア会議により高次化することによる在宅介護の限界点の向上③地域包括ケアシステムの構築を念頭に置いた地域密着型サービス拠点の整備と地域における互助力の充実を図ることによる、サービス提供事業者と地域互助力との協働による介護予防・日常生活支援総合事業の推進④地域及び個人の課題を解決するための地域包括支援センターによる包括ケアマネジメントの推進と、さらなる機能化⑤認知症を発症しても地域で暮らし続けられるよう、認知症高齢者の全ての状態に対応することができる地域体制の構築⑥高齢者介護・障碍者福祉・子ども子育て支援・生活困窮者施策を一元的にマネジメントする「統合型地域包括支援センター」の設置による「地域包括ケアシステムの包括化」の実現。
和光市はこうした基本方針のもとさまざまなサービス(基本は在宅サービス)を」展開しているがその基本は「尊厳の保持」や国民の義務としての「心身能力の維持向上」といった介護保険法の本質理解にあるということだった。基本に帰るというのはなにごとにおいても原則なのだ。懇親会を途中で失礼して民介協の扇田専務の待っている神田駅南口の「魚屋道場」へ。扇田さんの富士銀行同期生、横井さんとSCNの高本代表理事に合流。元銀行員と高本さんの掛け合いがなんとも面白い。扇田専務にすっかり御馳走になる。

11月某日
図書館で借りた「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(加藤陽子 朝日出版社 09年7月)を読む。図書館でたまたま手に取った本だが、なぜか面白そうだった。ひとつは東京大学文学部教授である著者の歴史講義のドキュメントではあるが、講義の対象が東大の学部生や院生ではなく栄光学園の中学1年生から高校2年生までという点。栄光学園の生徒だからもちろん偏差値は高いが歴史に関する知識は我々と大差ない。むしろ中高生向けの講義が市民向けとして十二分に機能しているように感じられた。市民向けと銘打つとイデオロギー過剰になりがちなところがあるような気がする。右にしろ左にしろ。その点本書はイデオロギーではなく科学としての歴史叙述がされているようだった。明治以降の日本の対外戦争を、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変と日中戦争、太平洋戦争に分けて論じられる。資料の使い方が私が歴史を学んだ50年前とはずいぶん違う。「岩手県における戦死者数推移」というグラフでは、太平洋戦争開戦から敗戦まで岩手県全体で3万724人が亡くなっているがそのうち44年以降の戦死者が87.6%を占めている。制空権も制海権も失った44年以降の戦死者が9割近いのである。
著者は言う。「44年から敗戦までの1年半の間に、9割の戦死者を出して、そしてその9割の戦死者は、遠い戦場で亡くなったわけですね」。日本古来からの慰霊の考え方は、「異郷で人知れず非業の死を遂げるとこうした死は、たたる、と考えられていた」と著者はいう。戦死者の霊魂の話は本書の主たるテーマではない。著者の意図は明治以降の対外戦争を最新の資料を駆使しながら科学的に解明するということだと思う。だがその底流には敵味方問わず非業の死を遂げた者たち、遺族への鎮魂の思いが深く存在するように思われる。

11月某日
介護保険の請求に関わる帳票類のチェックをSMSに頼まれる。残念ながら当社にはそのノウハウがないので、社会福祉法人にんじんの会の石川理事長に恐る恐るお願いすると「いいわよ」との返事。チェックが終わったというので荻窪の星乃珈琲で待ち合わせ。その前の仕事に手間取って待ち合わせ時間に20分ほど遅れてしまったが、当社の迫田との間で受け渡しは済んでいた。石川さんのところで開発した認知症予防の「だんだんダンス」のDVDを受け取る。今日は西荻窪で今年亡くなったフリーライターの森絹江さんを偲ぶ会があるのでそのまま西荻窪へ。前にも書いたが森さんは早稲田のロシヤ語研究会の後輩。私が4年のとき確か法学部の新入生として入学してきた。ロシヤ語研究会で酒やマージャンを覚え、学生運動の雰囲気を感じたのだと思う。部落解放研究会にオルグられたのをきっかけにブンドに魅かれて行ったようだ。同じ露語研で理工学部のブンドの森君と結婚したことを風の便りに聞いた。大学も中退し神奈川で労働運動をやりながら子育てをしているのもやはり風の便りで聞いた。再会したのは15年くらい前だろうか。彼女がフリーライターになったと聞いてからだ。専門学校の入学案内を皮切りに「へるぱ!」の取材原稿などをお願いした。で、今日は森さんが取材を通じて親しくなった奥川幸子先生、白井貴子先生、服部安子先生、私と迫田でこじんまりした偲ぶ会となったわけ。会場は西荻窪の「汐彩」(しおさい)。奥川先生がよく使っている店だそうだ。フグ刺しやフグのから揚げなどを堪能する。日本酒も美味しかった。

社長の酒中日記 10月その3

10月某日
横浜の鶴見にある白鵬女子高校の生徒手帳の制作を請け負っている。この仕事は当社の経理担当の石津が同校の校長先生、藤原先生と親しかったことから始まった。藤原先生は昭和24年生まれだから私より一歳若い。日本体育大学を卒業して最初に赴任した中学で教えたのが石津ということらしい。三宅島が噴火したときは三宅島の高校の校長だったと石津に聞いたことがある。そんなわけで今日は京浜急行の青物横丁にある三宅島出身のママさんがやっている「ビストロおきみくら」で打合せ。石津と6時丁度にお店に顔を出すと先生はすでに来ていた。ビールで乾杯後、お刺身やしいらのカルパッチョ、あしたばのてんぷらを堪能した。遅れて白鵬女子高校の担当で10月からフリーになった浜尾さんも参加。

10月某日
さまざまな食材を家庭に宅配している大阪に本社のある「わんまいる」の堀田社長と山脇役員が当社を訪問してくれる。SMSの「介護マスト」に出稿してもらっている縁だ。堀田社長はもともとが酒屋、酒屋の御用聞きのシステムを発展させて宅配に進出したということらしい。少子高齢化が進むということは支えられる側は増える一方なのに支える側は増えないということでもある。財源から言っても税と保険料だけでは支えきれないのだ。民間の活力を活用し介護保険外のサービスを如何に充実させるかが課題だと思う。これは労働人口が減少し経済成長に赤信号が灯る日本経済にとっても必要なことだ。ここら辺は堀田社長の考えとも一致する。堀田社長は吉本にも知り合いが多いそうで、「しゃべり」がとてもお上手だ。5時半を過ぎたので「葡萄舎」に案内する。お通しやお刺身、栃尾の油揚げなど気に入ってくれた。途中からSMSの竹原さんも参加。酒屋出身なのでお酒に強いと思い込んで度の強い焼酎を勧めたが、実はあまり強くないようで帰るときは千鳥足だった。すみませんでした。

10月某日
2010年の第143回直木賞を受賞した中島京子の「小さなおうち」(文春文庫 12年12月)を読む。読んでいて大変心地よかった。悪人や悪意とは無縁のストーリーだからなのかな。時代は昭和初期から、戦中、そして現代まで。と言っても小説の主な舞台は戦前の郊外の「小さなおうち」で、女中のタキの目を通して家族の日常が語られる。戦前は物資が乏しく軍国主義で「暗い時代」と捉えがちだが、この小説を読む限りでは日中戦争の頃まで、太平洋戦争もミッドウエーの海戦ころまではそうでもなかったようだ。そんなことを山本七平かなにかのエッセーでも読んだような気がする。美しい奥様と玩具会社の重役のご主人、タキになついてくれる坊ちゃん、永遠に続きそうな平和な日常。庶民の思惑とは全く別の次元で日本は戦争に突入する。そして出征を控えた玩具会社の社員と奥様との恋、戦争末期の大空襲で小さなおうちは焼かれ、奥様とご主人は死ぬ。そして戦後・…と言う具合に物語は語り継がれていくのだが、ストーリーの展開がかなり巧みで飽きさせない。中島京子という作家の作家的力量はなかなかのものだと思う。

10月某日
図書館で借りた「森は知っている」(吉田修一 幻冬舎 15年4月刊)を読む。吉田修一は02年に「パーク・ライフ」で芥川賞を受賞、近年は「悪人」や「横道世之介」などで若手のストリーテラーとして注目されている(と思う)。私は「悪人」「横道世之介」以外にも何作か読んだが、まっとうに生きようとしながら世間や社会とずれていく若者の心情がよく描かれていると思った。本書は幼児期に母親に虐待され、母親は逮捕、受刑中の高校生鷹野が主人公。鷹野は秘密結社AN通信の手によって児童養護施設から出され、沖縄の南蘭島で高校生活を送る。鷹野は高校卒業を待たずにAN通信から日本国内の水利権をめぐる謀略戦の渦中に投入される。こう書くと荒唐無稽な冒険小説(確かに冒険小説として読んでも十分に面白い)と思われがちだが、作者は「運命の過酷さ」とそれに抗う人間の勇気を描きたかったのかも知れない。村上龍の「オールドテロリスト」、桐野夏生の「夜また夜の深い夜」を彷彿とさせるものがある。

10月某日
数年前、群馬県で「胃ろう」施術のセミナーを手伝ったことがある。そのときデザイナーの土方さんに依頼して開発したのが人体の腹壁と胃壁を樹脂系の材料で模したシミュレータ。同じように浴風会ケアスクルールで実施した吸引のセミナーでも必要に迫られて咽頭部を含む人体頭部のシミュレータをやはり土方さんが開発した。量産して販売することになったが販売元がなかなか決まらず、当社が販売元となった。ところが当社で販売を推進していた大前役員ががんを発症、昨年亡くなったことから当社は販売元となるのを断念、親しくしているHCM社に販売してもらうことになった。専任の販売員も置かず、広告宣伝もゼロに等しいなか、100台近く売れている。土方さんはさらに気管カニューレのシミュレータも開発、これで介護職の医療的行為に関わる吸引、気管カニューレ、胃ろうの3点セットが完成した。問題はどう売ってゆくか。それで今日は西葛西のネオユニットで開発者の土方さん、HCMの大橋さん、私、コンサルタントの三浦さん、当社の迫田、映像担当の横溝君が集まって販売会議。介護職が一部の医療行為を担うのは時代の流れだし、施術の実習をたとえば学生同士でおこなうなどは難しくなって来ている。シミュレータの潜在的な需要はあると確信している。会議が終わったところで西葛西の駅近くの焼き鳥屋「筑前屋」へ。なぜか大橋さんと呑むときは焼き鳥屋が多いように感じる。

10月某日
図書館で借りた「朱子学入門」(垣内景子 ミネルヴァ書房 15年8月)を読む。私は東洋思想にはほとんど興味を持ったことはなくまして朱子学など大学入試のときに歴史で名前だけ暗記した程度である。だから全体的に良く理解できたとは言い難いが垣内さんの平易な文章もあってなんとか読み通すことができた。儒教(朱子学)は中国、朝鮮、日本で支配的なイデオロギーとなったが、中国、朝鮮には科挙の制度があり、朱子学を学ぶことは立身出世のハードル超える条件であった。これに対して日本には科挙の制度がなく、林羅山をはじめ幕府の官学となった学派や在野の学者でも弟子に恵まれた人は食べられたが多くの人は寺子屋の師匠などをやって糊口をしのいだらしい。それはともかく朱子学的思考スタイルは私にも影響を与えていると思う。もう少し朱子学を勉強してみたいと思った。

10月某日
市会議員や県会議員などの地方議員向けに「地方から考える社会保障フォーラム」を年3回ほど実施している。社保研ティラーレという会社が運営しているのだが、企画のお手伝いを多少やっている。当社を退職してフリーになった浜尾さんの力も借りたいということだった。それで今夜は社保研ティラーレの佐藤社長と吉高さんが浜尾さんにご馳走してくれるというので私も便乗させてもらうことにした。佐藤社長は元衆議院議員秘書、吉高さんは元製薬会社の社員で中医協の委員も務めたことがあるそうで話題が豊富、美味しいご馳走とお酒もいただきありがとうございました。

10月某日
社会保険出版社の高本社長と西国分寺の駅で待ち合わせて社会福祉法人にんじんの会が運営する特養の「にんじんホーム」へ。理事長の石川はるえさんに会うためだ。石川さんが代表理事を務めるケアセンターやわらぎが開発した認知症予防ダンス「だんだんダンス」の普及にわれわれが協力できることがないか、話し合うためだ。高本社長が企画書を書いてくることになった。西国分寺の駅前で石川さんがご馳走してくれることになり、にんじんホームを出ようとしたとき、高本社長が「あれ、靴がない」と言う。石川さんの指示の元、職員の方が方々に連絡してくれて利用者の家族が間違って履いて行ってしまったことが判明。車でそのお宅を回って無事に回収することができた。奥さんにプレゼントされたフェラガモの靴だそうで、めでたしめでたしである。西国分寺の駅前の「いわし屋」というお店でお魚を中心とした料理と美味しいお酒をたっぷり御馳走になった。

10月某日
社会保険庁長官や支払基金の理事長、全社協の副会長を歴任した末次さんと「レストランかまくら橋」で食事。末次さんが退官して年住協の理事長に就任してからしばらくたったとき、当時年住協の企画部長だった竹下さんと茨城の常陽カントリーにゴルフに行ったことがある。お昼休みのとき、クラブハウスの前で「竹下君!」と末次さんに声を掛けられた。末次さんも私も常陽カントリーのメンバーだったので、それから何度か末次さんにゴルフを誘われるようになった。今日は同じゴルフ仲間で援護局出身の高根さん、それに末次さんと一緒にヨーロッパの研修旅行に行った当社の大山さんも一緒だ。高根さんはお酒を呑まないのでウーロン茶、ほかはビールで乾杯。末次さんは厚生省の高官を歴任したが偉ぶったところが全然ない人だ。にこにこ人の話を聞き、ときに鋭い質問をする。これからも長く続けたい呑み会だ。