社長の酒中日記 5月

5月某日
 当社は9月決算だが、上半期3月までの売上、利益は売上げが15%ほどダウン、利益は前年同期が数百万円の黒字だったのに、一転して2,000万円の営業損失。下期の始まった9月にO前役員が入院し3月に亡くなった。O前役員は経理と営業を担当していたから大きな痛手であることは確かだが、それを理由にするのは潔くない。やはり社長の責任は重大である。下期必ず2,000万円以上の黒字を出して通期でも黒字としてO前役員の霊前に報告したい。5月は本当に良い季節だ。良い季節になったのでグループ会社のK出社長、T本社長、結核予防会のT下さんと「葡萄舎」で痛飲。銀座に流れる。後半良く覚えていません。

5月某日
 連休。どこへ行く予定もなかったが外房の勝浦に行ってみることにする。何年か前、祖父が勝浦出身の女性のドキュメント作家が自らのルーツを記録した作品を読んで面白かったことを思い出したからだ。彼女の祖先は和歌山から黒潮に乗って房総までやってくるのだ。イワシを獲るためだ。当時は近畿地方の漁法の方が関東より進んでいたわけだ。そんなわけで武蔵野線で海浜幕張まで出て、そこから特急わかしおに乗って勝浦へ。沿線の新緑がまぶしい。勝浦の駅を降りると「朝市」という看板が目に付く。10数分歩くとお寺の門前で朝市が開かれていた。時計の針は11時を回っていたので店仕舞いの準備を始めている店も多かったが私は「かますの干物」とわかめ、ヒジキなどを買う。漁港の周りを少し歩いて駅前の漁協直営の土産物屋で「くじらのハム」を購入。12時過ぎの特急に乗車。「くじらのハム」を肴に駅の売店で買ったワンカップ大関を2本呑む。

5月某日
 「コーポレート・ガバナンス―経営者の交代と報酬はどうあるべきか」(久保克行 日本経済新聞出版社 2010年10月)を読む。最近、会社は誰のものかというようなテーマの本をよく読むようになった気がする。それは経営者の端くれとして、私は「誰のために経営し利益を上げようとしているのか」と自問することが多いからであろうか? もっともいつもそんなことを考えているわけではない。普段は目の前にある事案をどう解決するかに追われていると言っても過言ではない。
 ところでこの本はなかなか面白かったし勉強になった。まずコーポレート・ガバナンスについて重要なことは2つ。「一つは、業績の悪い経営者が退出し、業績の良い経営者が在任し続けることを促すようなメカニズムである。もう一つは経営者に、業績向上のための適切なインセンティブを与えることである」。納得。
 さらに「業績が悪化した企業では社長が交代することが望ましい。しかし、そのようなメカニズムは日本企業では機能していない」「業績の悪い社長を解任するためには、その解任を主導するような存在が必要である。解任のための明示的な仕組みが必要であろう」とも書いてある。そして取締役会の重要な役割は「経営者を選任し、適任でない場合は交替させること」「社外取締役を活用することにより、経営者の交代や事業の撤退をより客観的に行っている企業もある」。そして企業は誰のものか? という問いには「『企業は株主のものである』というのは、経済学から見て当たり前の議論ではない。企業特殊的人材が重要な場合、従業員の利害を考慮して企業を経営することは、効率性からみて、必ずしも悪いことではない」。なるほどねぇ。当社の場合は生産設備、資本が特に必要なわけではない。従業員も一般社会に広く通じる能力というより社会保障関連の情報とネットワークという企業特殊的な能力が求められているのだが。

5月某日
 図書館から借りていた田辺聖子の「金魚のうろこ」(集英社 1992年6月)を読む。この小説も読むのは2回目。20年以上前に書かれた小説だが中身は全然古くない。これはやっぱり田辺は古典になったということ。でも以前読んで記憶にあるのは冒頭の表題作くらいで、金持ちのわがまま娘とその継母への大学生のうぶな恋愛感情が主題だが、読み返すと十いくつはなれた青年とハイミスの甘い恋とその破たんを描いた「魚座少年」やいくつかの恋を経て、結局、外見は冴えないが人間的に魅力のある「中島ピロピロ」とむすばれるであろう「みさかいもなく」の方が面白く感じられた。同じ小説を何回も読むということは以前感じられなかった魅力の発見でもあるわけだ。

5月某日
 図書館で借りた「マイ・ラスト・ソング 最終章」(久世光彦 文芸春秋 2006年8月)を読む。久世は職業軍人の家に生まれ、8歳で終戦を迎える。二浪して東大の文学部に入学、美学を専攻。東京放送(TBS)に入社後、ドラマのディレクターとして活躍、「七人の孫」「寺内貫太郎一家」「時間ですよ」などを手掛ける。私はこれらのドラマはほとんどリアルタイムで観ているが、久世の名前を知ったのはTBS退社後、小説やエッセーを発表しだしてからだ。もっとも決して良い読者だとは言えず、読んだのはこの「マイ・ラスト・ソング」の1から4そしてこの最終章といくつかのエッセーだ。
 「死ぬ間際にたった1曲聴けるなら何を選ぶ?」というテーマで連載(諸君)が開始されたこのエッセーは私にとっては大変お気に入りのものだった。歌とそれにまつわる事柄を虚実とりまぜて回想するというのは、久世の該博な知識とときおり漂わせる退廃の匂いと合わせて私にはたまらないものだった。この「最終章」も実に味わい深くまた気になる歌が多いのだが、私は「大川栄作の孤独」の章で取り上げられている「哀しき子守歌」という死刑囚の歌に魅かれた。
 
 雪がちらほら 降ってきて
 カラカサ片手に やや抱いて
 坊やよい子だ ネンネしな
 父さん出世の 血の涙

 学校へゆくと 先生が
 親のないもの 手をあげろ
 四十九人の その中で
 坊や一人が 手をあげた

 学校がえりの 友達に
 親のない者 馬鹿にされ
 いいえおります 天国に
 小石並べて ねています
 ねています

 これは大川栄作が連合赤軍の浅間山荘事件の前年に出したアルバム「孤独の歌」に収められているという。俗にいう監獄ソング、すべて放送禁止という。ちなみに「哀しき子守歌」のメロディーはいろいろあるらしいが一番ポピュラーなのは「練鑑ブルース」だそうだ。私は20歳のとき、学生運動で逮捕された留置場で「練鑑ブルース」を口ずさんだ覚えがある。「格子窓から眺めたら きらり光った流れ星 あれはおいらの母さんか それとも可愛いスーちゃんか」という一節を好んでいたように覚えている。

5月某日
 「下流の宴」(林真理子 10年3月 毎日新聞社)を読む。「下流の宴」というタイトルから内容も思い浮かばなかったが、林真理子は好きな作家なのでGWに図書館で借りた。読み始めたら面白く400ページを超える長編を1日で読み終えてしまった。ストーリーは中流家庭で中高一貫校の高校に通学していた福原翔が高校を中退し、沖縄出身のタマちゃん(宮城球緒)と同棲を始めることから始まる。翔はタマちゃんを両親に紹介するが、翔の両親とくに母親由美子の理解が得られない。由美子の母親は医者に嫁いだが夫は若くして亡くなり、由美子の母親は下着の訪問販売で成功し2人の娘を大学にやり、由美子は早稲田の理工出と結婚し妹は医者に嫁ぐ。対してタマちゃんは沖縄の離島出身で、両親は離婚、それぞれ再婚しタマちゃんの母親は離島で呑み屋をやっている。由美子にしてみれば医者の家系にタマちゃんのような家出身の娘は迎えがたいのだ。タマちゃんは医者がそんなに偉いのか、だったら私が医者になってやると宣言し、苦しい受験勉強の結果医学部に合格する。ざっとこうしたストーリーなのだが、合格後、翔はタマちゃんのもとを去る。林真理子の小説は現代社会の歪みをさりげなく切り取って読者に提示するところがある。この小説で言えば「格差社会」や「学歴社会」の歪みなのだろうが、林真理子は物語として昇華しているところが凄いと思う。

社長の酒中日記 4月②

4月某日
 大学時代の同級生A宮弁護士を事務所に訪ねる。当社のI佐が同行。若干の相談を終えた後、事務所近くの「新橋やきとん京橋店」へ。八海山と三千盛をしこたま呑む。A宮、U海、S崎、O、Y下それに私、女性ではコンちゃん、後に私の奥さんになるO原がクラスの仲良しグループだった。A宮は卒業後司法試験に挑戦、見事合格、検事に任官した。10数年検事をやった後、弁護士になった。久しぶりに学生時代の昔話をして楽しかった。楽しさの余韻を楽しみたくなって我孫子駅前の「七輪」に寄ったのが間違いのもとだった。青海社のK藤社長がいるではないか。もう一軒行こうとバーに行ってしまった。気が付いたら家で寝ていたといういつものパターンだ。

4月某日
 「地方から考える社会保障フォーラム」の第3回目が今日と明日、社会保険研究所で開催される。愛知県半田市で住宅改造や町おこしの団体をやっているK玉道子さんや健康生きがい開発財団のO谷常務に今回、講師をお願いした。当社のS田を交え富国生命ビルの富国生命倶楽部で夕食を食べることにする。共同通信のJ記者にも声をかける。富国生命倶楽部にはルオーやルーベンスなどの絵が掲げられている。夜景もきれいだ。赤ワインをいただく。K玉さんをホテルに送って、私とO谷常務は上野駅構内の「森香るバー」へ。

4月某日
「地方から考える社会保障フォーラム」2日目。午前中にO谷常務、午後にK玉さんの話を聞く。2人ともしゃべりは◎。それで思うのだが如何に内容が良くてもしゃべり方が今ひとつだと思いは十分に伝わらない。私の知人のなかでしゃべりのうまさでは元宮城県知事の浅野さんがピカイチであろう。内容は今一のとき(失礼!)でもしゃべりで聞かせる。元事務次官の辻さんは「辻説法」と言われたぐらいだから情熱的な語りでは右に出るものはいないだろう。聞く方は少し疲れるが。元社会保険庁長官の堤さんは内容は高度で深いのだが滑舌に難あり。話が逸れたが「フォーラム」終了後、O谷常務とK玉さんに我孫子市議の関さん、由利本荘市議の梶原さんと会食。梶原さんは70過ぎの老人だがとても魅力的な人だ。市民のために地域を替えていくために市議になったと目的が明確だ。若いときに炭鉱や自衛隊の経験があるという。「体験してみたかった」というのが動機という。秋田訛りで訥々とした喋りだが聞かせます。

4月某日
 国土交通省のG田さんが役所を辞めたので「跳人」で高齢者住宅財団のO合さんとご苦労さん会。G田さんは彼が旧建設省住宅局の住宅生産課の工業化住宅の係長だったころの付き合いだからおよそ30年。私が日本プレハブ新聞の記者時代、取材でずいぶんお世話になった。偉ぶることのない誰にでも親切な、本当の意味で「いい人」。田酒など青森の酒をのむ。翌日はHCM社のコンペがあるので私は神田泊。

4月某日
 HCM社の春季ゴルフコンペに参加。江東区の若洲ゴルフリンクス。私は2組目で三井住友海上のN込部長、年住協のM田部長、HCMのK島さんと廻る。乗用カートだったが、プレーが終わってから万歩計を見ると歩数は2万歩を超えていた。N込さんは公務部長で何かと厚生労働省に人脈があり私と共通の知人も多かった。M田部長は私の同郷の北海道室蘭市出身。ただ私と違って高校から道内有数の進学校である凾館ラサールへ。大学は東北大学、就職は大手損保というエリート、でもとても気さくな人柄だ。K島さんはHCMのベテラン女性社員。そんなわけで、廻っていても和気あいあいで楽しかった。私の成績はグロス131、ハンディキャップ36、ネット95で参加19人中17位。銀座のクラブのママも特別参加したが、表彰式は土曜日なのでママの店を借り切って盛り上がる。

4月某日
 図書館で借りた「鴨川食堂」(柏井壽 小学館 2013年11月)を読む。新聞の書評などで結構取り上げられていた本だ。元刑事の鴨川は刑事を辞めたあと、和洋中なんでもありの「鴨川食堂」をオープン。娘の「こいし」が手伝っているが、実はこいしは食堂の奥で探偵事務所をやっている。この探偵事務所、普通の事件は扱わず、依頼人の記憶に残っていて「ぜひもう一度食べたい」と思っている食事を探し出し、再現するという探偵事務所だ。私はこのところ弁当作りに目覚め、「レシピ」の再現は面白く読ませてもらったが、小説としての味付けは今ひとつと感じた。でも作者は京都のカリスマ案内人として有名な人らしく初の小説集ということなのでこれからに期待しよう。

4月某日
 「<働く>は、これから―成熟社会の労働を考える」(猪木武徳編 岩波書店 2014年2月)を読む。現役生活も終盤に差しかかっている私は、この頃とみに「私が私であることの意味」を考える。もちろん結婚して家庭を築いたことも大きな意味である。そして私にとっては「働いてきたこと」も大きな意味を持っているように思う。私自身のことだけでなく、日本社会にとっても「働く」ことの意味を再確認、再定義すべきときに来ているようにも感じる。そんなことから本書を読むことにした。
 杉村芳美は成熟社会にふさわしい働き方として「自分にも全体(組織・社会)にも偏らないこと、個人と全体また他者との相互依存の関係を知ること、特定のイデオロギー・価値観に偏ないこと、経済的な利益を追求しすぎないこと、そして働き方と仕事意識・仕事観の多様性に寛容であること」をあげている。岩井八郎は多様化し個別化する日本人の人生全体に変化をもたらす仕組みとして、すべての日本人が一五歳になると五〇〇万円のライフコース基金が支給され、これを教育資金や職業訓練資金として使える構想を提案する。
 藤村博之は生涯現役社会の実現に向けて、経営者が高齢者雇用の可能性と重要性をしっかりと受け止め、先頭を切って挑戦するようになれば、日本は世界中から尊敬される国になるという。猪木武徳はフランスの思想家トクヴィルの言う「結社」(association)に着目して「個人の生活のためだけではなく、国家のためだけでもなく、その中間に存在する具体的な共同体や組織の共同の利益のために、自発的に働くことに意味と価値を見出す」とする。その具体的な共同体こそ「結社」だとし、そして労働が労働たり得るためには「他人と連携して」「全体のために」という要素がなければならないともいう。
 私がもっとも面白いと感じたのは宇野重規の「労働と地域」の意味論というべき論文であった。宇野は労働の三つの要素「稼ぎ」「仕事」「暮らし」のなかで現代は「稼ぎ」の比重があまりに大きくなっていると指摘する。かつて日本の伝統的な労働概念では、「稼ぎ」にはならなくても、所属する共同体を維持するための諸活動「仕事」があったし、「稼ぎtがなくとも共同体のなかで「暮らし」を継続することも可能であったという。自らの暮らすべき「地域」を見出した人々には「存在論的安心」が確保されているのだ。

4月某日
 SMSのN久保さんからメールで日本社会福祉教育学校連盟の役員名簿が送られてきて「誰か知っている人いますか?」という。もちろん知っている人はいるが「何のために知りたいの?」とSMSに出向く。結局、日本介護福祉士養成協会がいいんじゃないのという話になった。SMSはなかなかいい会社と思うが、自分たちが立脚している医療・介護・看護業界の知識が今ひとつ。だからこそ当社と連携する意味があると思う。三井住友海上の顧問となった元厚労省のM島さんにランチをご馳走になりながらいろいろな話をきかせてもらう。顧問業もしっかりやるとなかなか大変なんだ。結核予防会のT下理事のところに寄り、夕方「葡萄舎」で一杯。

4月某日
 国民年金委員というのを厚生労働大臣から委嘱されている。その千葉県委員会の理事会があるので千葉市に出かける。理事会中に高校の同級生だったS川君からメール。6月に予定していたブルーベリー摘みに行けないというメールだ。そういえばS川君は千葉だったなと思って4時には会議が終わるので千葉で一杯やろうとメール。4時10分前に千葉駅着のメールが来たので会議もそこそこに千葉駅へ。築地日本海で乾杯。韓国の海難事故が話題に。「昔の日本だね」で一致。話が盛り上がっているところへ国民年金委員会のメンバーが店に入ってきた。S木さんが私たちの席に合流。S木さんは一緒に札幌へ出張したとき、私の高校の同級生と一緒に呑んでいるので話はさらに盛り上がった。

4月某日
 川村学園女子大学の学部長からこの4月に副学長になった元厚労省年金局長のY武さんと我孫子で食事。Y武さんが我孫子駅北口のビストロ・ヴァン・ダンジュというフレンチの店を予約してくれた。私には健生財団のO谷常務が同行。5,000円のコース料理を注文したが、これが正解。フォアグラ、鯛の香草焼きなど本格的なフレンチだ。かなり高いワイン、といっても8,000円くらいだが、を頼んで、白ワインを追加。食後のコーヒーも美味しかった。私は我孫子に住んで40年以上たつが我孫子ではほとんど外食したことがない。Y武さんは蕎麦屋などいろいろな店を知っている。私も職を退いたら、我孫子のグルメ巡りを楽しみたい。

4月某日
 去年まで阪大の教授をやっていた元社会保険庁長官のT修三さんからメール。認知症の高齢者が電車に跳ねられ、遺族にJR東海が損害賠償の訴訟を起こしていた件だ。名古屋高裁は妻に約365万円の支払いを命じ、Tさんはこの判決に「怒り心頭」のメールを寄越したわけ。早速、神田明神下の「章太亭」で会うことにする。Tさんは朝日歌壇に掲載されたという「檄にいま「脱原発」を飛ばしたし全共闘は老いたるもなほ」という短歌を「章太亭了解しました」のメールに添えてきた。Tさんも団塊の世代で元東大全共闘という噂。元全共闘と言えば、午前中に早大全共闘の先輩で、自治労書記局から今は「ふるさと回帰支援センター」の事務局長をやっているT橋ハムさんに会って、名古屋の一件について「団塊の世代が動かなきゃ」と訴えた。ハムさんはもちろん賛同してくれた。午後、高田馬場でグループホームを運営しているN村美智代さんにも同様のことを話す。N村さんの夫は医者で数年前にがんで亡くなっている。私は会ったことはないが東大医学部で安田講堂に籠城したメンバーだそうだ。

4月某日
 東海銀行のOBで、亡くなった当社のO前役員と親しかったF谷さんから「O前さんの亡くなる前の様子を知りたい」というメールが入る。F谷さんは南柏に住んでいるので我孫子駅前の「七輪」で会うことにする。5時半の待ち合わせ10分前に行くとF谷さんはすでに来ていた。O前さんの発病から亡くなるまでをメモにして渡す。F谷さんは麻布高校から一浪して早大法学部に進学。私より2、3年上で第一次早大闘争のころは革マルのシンパだったらしい。F谷さんも名古屋の一件には憤慨していた。私が北海道出身で父親が室蘭工業大学の教師をしていたというと、F谷さんの父親も室工大の卒業生だという。世間は狭い。

4月某日
 図書館で借りた「夢に見た娑婆 縮尻鏡三郎」(佐藤雅美 文藝春秋 2012年4月)を読む。有能ではあるが故に大番屋に左遷された縮尻鏡三郎が難事件を解決するシリーズ。今回は食用の鳥を捕獲したり商ったりする鳥問屋をめぐる物語。佐藤雅美の他のシリーズにも言えることだが、時代考証とくに江戸の経済を支える経済的な下部構造と、その上部構造としての法制度や官僚組織の説明が半端ではない。

4月某日
 4月最終日。有楽町の交通会館の「ふるさと回帰支援センター」のT橋ハムさんを訪ねる。前の山口県知事で亡くなった山本繁太郎さんを偲ぶ会の打合せ。次いでHCMに寄り、M社長が休みなのでO橋さんと雑談。17時に会社で健康・生きがい開発財団のO谷常務と実務者研修のeラーニングの打合せ。当社のA堀が同席。知り合いのO嬢が相談があるといってベルギーワッフルを手土産に来社。真面目だから悩むんだよなー。私はほとんど悩みがないというか悩まない。30代、40代に結構重たい(とそのときは思った)鬱病を何回か患ったことが嘘みたいだ。隣の鎌倉橋ビルの「跳人」でO谷常務とO嬢と食事。3人でウヰスキーのボトルを1本近く空ける。今週も呑み過ぎ。

社長の酒中日記 4月

4月某日
 京都嵐山の天龍寺ではこの季節、桜を見る会、観桜会が開催される。観桜会に合わせて厚労省の元次官A沼さんと京都での呑み会をセットしたので行くことにする。住宅情報の元編集長O久保さんもその日は京都にいるというので一緒に呑むことにする。会場はO久保さんにお任せ。午後1時東京駅発の「のぞみ」に乗車、京都駅で山陰本線に乗り換える。嵯峨嵐山が最寄りの駅なのだが、以前だいぶ歩いたことを思い出し、ひと駅手前の太秦からタクシーで行くことにする。しかしこれが大間違い。太秦駅周辺にはタクシーの影さえないではないか。20分くらい歩いて幹線道路に出てしばし空車を待つ。何とか空車にありついたが30分以上も時間をロスしてしまった。芥川賞作家にして禅僧の玄侑宗久の講話も1時間ほど聞き逃す。でも「泥の中にこそハスの花が咲く」という言葉が印象的だった。
 17時から花見の宴が始まる。HCMのH田会長が手配してくれた席に座り。用意された弁当をつまみに日本酒を呑む。1時間ほどで中座し、A沼さんやO久保さんが待っている料理屋へタクシーで向かう。御幸町三条上ルの「つばき」という店だ。タクシーに三条上ルと店の名前を言っただけでタクシーは店の前へ。私ら外の人間からすると京都の地番は分かりにくいが、京都の人にとってはとても分かりやすいのだろうと感心する。美味しい京都料理と日本酒をご馳走になる。カウンター越に料理人のつくる領地をいただくというのは何も京都でなければ味わえないということではないが、京都はまた格別と田舎者の私は思うのであった。

4月某日
 天龍寺で講演を聞いた玄侑宗久の「祈りの作法」(新潮社 2012年7月刊)を読む。玄侑は慶大文学部中国文学科失業後、さまざまな職に就いた後天龍寺道場で修業、現在は福島県三春の臨済宗妙心寺派の福聚寺の住職。もちろん芥川賞受賞作家でもあるのだが、本書は小説じゃなく東日本大震災、とりわけ福島原発事故に見舞われた生々しい被災の記録であると同時に、日本人として今、原発とどう向き合うかを問うていると思う。玄侑は震災後、皇室と自衛隊の存在感が自分の中で大きくなったという。今回の震災で感じられた皇室、とりわけ天皇皇后両陛下の慈愛、そして自らの危険を顧みず救援、捜索にあたった自衛隊の活動については全く同感。そして低線量の放射線とどう付き合っていくか、感情論ではなく、また福島県民の問題ではなく、日本国民全体の課題であることがよくわかった。

4月某日
 今朝の日経新聞の経済教室で松井彰彦という東大教授が「経済なき道徳は戯言であり道徳なき経済は犯罪である」という二宮尊徳の言葉を引いて「道徳と経済原理の融合を」と説いていた。「経済と道徳の融合をわれわれ一人ひとりが心がけ、自分の身近なところから行動を起こせば、日本の潜在力はまだまだ引き出せる」とも書いていた。全く同感である。だが言うは易し、行うは難しである。身近なところからこつこつとやっていくしかないのだろう。私も絶望せずに頑張らなければ。

4月某日
 HCM㈱のO橋取締役とO橋さんの高校の卓球部の後輩、M浦さんと葡萄舎で呑む。O橋さんが後輩で面白いのがいるからとM浦さんを紹介してくれたのだ。M浦さんは高卒後坊都市銀行に就職、その後いくつかの会社の経営に携わっている。私が面白く感じたのは、靴磨きの会社を立ち上げた話。靴磨きのイメージを一新して国際ビルや大手町ビルに出店、料金も1回千円と高めに設定した。店は繁盛したが内紛が発生してM浦さんは追放されたという。M浦さんは靴磨き会社の経営だけでなく、靴磨き技術も修行、「今でも靴磨きは日本で一番旨いと思っています」という。靴の皮の種類や状態によって靴磨きの材料や磨き方を変えるのだそうだ。実にうなずける話であった。この話を民介協のO田専務に話したら「面白い」と言ってくれたうえ、「僕だったらフットマッサージと靴磨きを組み合わせてみたいな」とも。新しいビジネスの可能性があるような気がするが。

4月某日
 愛宕山で花見。6時に愛宕神社あたりでと約束したが、私が大幅に遅刻。メンバーは東急住生活研究所のM月久美子さんと健康生きがい財団のO谷常務、元住文化研究協議会のK原さん、それと当社のI佐。もっともI佐は仕事で花見には参加できず、呑み会から参加。呑み会はHCMのM社長に何度か連れて行ってもらった西新橋の「ぜん」。おいしい日本酒をいただく。

4月某日
 健康生きがい財団のO谷常務と打合せ。石巻の介護事業者「ぱんぷきん」が厚労省の「老人保健健康増進等補助事業」で行った「高齢者『ボランティアマッチング』実践ハンドブック」を見せたらえらく共感していた。打合せ後、神田駅東口の津軽料理の店「跳人」へ。ホタテの貝味噌料理などをいただく。日本酒は田酒、凡など青森の地酒。税理士のH子先生が数人の税理士の先生方と「跳人」に見える。先生にO常務を紹介する。結核予防会のT下常務から携帯に電話。神田駅南口の三州屋にいるという。O常務と別れて三州屋へ。フィスメックのK出社長とFPのW辺さんが同席。4人でスナックへ流れる。フーッ、今週も呑み過ぎ。

4月某日
「てらさふ」(朝倉かすみ 文藝春秋 2014年2月刊)を読む。我孫子図書館のパソコンで新着図書を検索していたら「在庫」となっていたので借りる。朝倉かすみという作者は初めて。1960年北海道生まれだから私より12歳、一回り若い。小樽在住の中学生・堂上弥子と鈴木笑顔瑠(にこる・ニコ)の物語。小説の新人賞への応募原稿を見つけた弥子は、賞をとりやすいように文章を改竄し、ニコが書いたことにして投稿、ついには芥川賞を受賞する。思春期の少女の揺れる心情が巧みに描かれていると思った。文体は「1Q84」の村上春樹を連想させる(と私は思った)。ファンタジーではあるが、私はなにか「STAP細胞」の小保方さんや佐村河内の騒動ともつなげて考えてしまう。小説とは別に本当の「真贋」ってなんだろうと思う。

4月某日
 民介協のO田専務と○○で焼酎を呑む。O田専務は県立奈良商業高校から富士銀行に就職、高卒ながら支店長を勤め、介護業界に出向そのまま転籍して訪問入浴の会社経営にあたり、現在に至っている。高卒で都銀の支店長を勤めただけあってなかなかの人物で、介護業界にも幅広い人脈を持っている。この日もいろいろと面白い話を聞けた。今週末、ゴルフに誘ったら「いいよ」とのこと。一緒に行くT根さんに浦安の家まで迎えに行ってもらうことにする。呑んでいる最中にそのT根さんから電話。待ち合わせ場所を決める。

4月某日
 成田のレイクウッド総成ゴルフクラブでゴルフ。メンバーは元厚労省のS継さん、Y武さん、T根さん、元社会保険庁のS木さん、N西さん、元報知新聞のKさん、民介協のO田専務、それに私。元報知のKさんは湯島のスナック、マルルでママに「こちら報知新聞の前の社長のKさん」と紹介されたのが始まり。私が「記者のときの担当はどこですか?巨人軍?」と聞いたら「読売の社会部で厚生省を担当していました」というではないか。それで「へぇ、そのときの広報室長は誰でした?」と重ねて聞くと「Y武さんです」と。私を初めてマルルに連れて来たのはY武さんなので不思議な偶然にびっくり。
 このゴルフ場には何度か来たことがあるが、植栽が丁寧に手入れされており、おまけにグリーンも十分に手入れされていて「速い」のが特徴。T根さんがメンバーで、今日はT根さんの誕生日ということで特別料金でプレーできる。おまけに帰りには参加賞までいただいてしまう。

4月某日
 町屋の「ときわ」で「介護ユーアイ」のI上さんとU木社長と待ち合わせ。I上さんは私と同い年、U木社長は1年か2年下で学生時代、同じ練馬区江古田の国際学寮で過ごした仲。U木社長は上智大学を卒業後、いろいろな職業を転々とした後、鍼灸専門学校で鍼灸師の資格を得、介護保険スタート時にケアマネージャーの資格も取得、訪問介護事業所を荒川区で開設した。I上さんは東京教育大学を卒業後、電通に入社、電通を定年で辞めた後、U木社長のもとで利用者の送迎をやっている。I上さんは送迎の仕事のなかで介護現場で働く仲間と出会い、いろいろな利用者と向き合う中で、新しい何かを発見したようだ。「けあZINE」への執筆を依頼する。今週も呑み過ぎだが我孫子駅前の「愛花」に寄る。

4月某日
「言い寄る」(田辺聖子)を読む。私は同じ小説を何度も読むということはほとんどしないのだが、田辺聖子だけは別。「言い寄る」も確か2回目。この小説の初出は「週刊大衆」の昭和48年の7月~12月までの連載小説。単行本は49年11月に文芸春秋から。文庫は53年8月に文春文庫で出ている。私が最初に読んだのはたぶん図書館で借りた集英社の「田辺聖子全集6」だと思う。31歳の独身のデザイナー乃里子が主人公。40年近く前に書かれた小説だが中身は全然古くなっていない。恋愛の切なさ、ときめきがときにユーモアを交え伝わってくる。で田辺は恋愛を描く一方で男性に従属しない女性の生き方を提案しているように思う。それも上から目線ではなく、自立して生きるということの困難さと困難を経た後の歓びの等身大の実像を伝えているような気がする。

社長の酒中日記 3月

3月某日
 HCM社のM社長が富国生命の後輩、Y崎さんの部長昇格祝いの呑み会をするというので便乗することに。HCM社の近くの焼き鳥屋「南部どり」へ。2人で始めているとほどなくY崎さんが来たので乾杯。そしてやはりMさんの後輩で、今度常務に昇格するというS井さんも見えたのでまた乾杯。S井さんは初対面だが、札幌出身で大学は弘前大学だそうだ。私の知っている富国生命の社員は、だいたいが体育会系のノリで良く呑む。後半、富国倶楽部の美人のお姉さんも現れて、座は一層盛り上がった。

3月某日
 幼馴染の佐藤正輝が出張で東京に来るというので、首都圏周辺の高校の同級生に声を掛けたら8人ほどが集まった。正輝は専門学校でコンピュータを学び、現在は札幌でシステム会社を経営している。その他はやはり幼馴染で舞台照明をやっている山本や、青学を出てJALのパーサーになった上野、北大工学部から出光興産に入った品川、確か青学の工学部を出て家具メーカーに入社した益田が来た。女子は中田さんら3人が参加した。女子の一人が百合丘で都市農業をやっていて今度、ブルーベリーを摘みに行くことにする。

3月某日
 かねてすい臓がんで入院加療中だった当社役員の大前幸さんが入院先の病院で亡くなる。昨夜遅く亡くなったということで、亡くなったことを知らず病院に行ったら、看護師さんに亡くなったことを告げられ、病院の近くの自宅に弔問へ。死に顔を拝ませてもらったが眠っているようだった。通夜、告別式は出張が入っているので欠席することにした。出張を延期することもできたのだが、泣き顔を知り合いに見られるのが嫌さに欠席とした。大阪でグループ経営会議に出席後、京都で阿曽沼さんに会って、酒をご馳走になりなぐさめ、励まされる。大前さんとは大前さんが新宿のクラブ「ジャックの豆の木」に出ていた頃からだからもう30年以上になる。当社に入社してからだって30年近くなる。私が社長になってから10年以上も私の片腕だった。というか存在感は大前さんの方が私よりもはるかにあって、むしろ私が「片腕」。本体が亡くなって「片腕」だけでどうやって生きて行こうか。しかし私も65歳になって、去年は畏友高原さんが死に今年は大前さんが死んでしまった。歳をとるというのはこういうことなのだ。

3月某日
 厚労省の元局長で今は内閣で「税と社会保障の一体改革」に取り組んでいるN村さんと白梅女子大学の教授で毎日新聞の元論説委員のY路さん、それに自治労の元副委員長で現在は横浜の寿町で介護のNPOの理事長をやっているT茂さんと会社近くのそばや「周」(あまね)で呑む。4人はたまに会って呑む仲だが、最初はどういう集まりだったか、記憶にない。実はY路さんは私も学生時代お世話になった江古田の国際学寮出身。寮にいるときは重ならなかったようだが、U木さんのことなど良く知っているそうだ。T茂さんは同じ自治労で早稲田の反戦連合だったT橋さんの紹介。当社のS田も遅れて参加。

3月某日
 田町の「女性就業支援センターホール」で全国介護事業者協議会の研修会が開催されるので参加。この研修会は何度か参加させてもらったことがあるが、発表者の真摯な態度にいつも感心する。私は「せんだい医療・福祉多職種連携ネットワーク~ささかまhands」の事例の報告が面白かった。個人のネットワークを顔の見える関係から着実に広げていくというのが目新しい。佐藤副理事長やカラーズの田尻さん、扇田専務に挨拶して、約束があったので中座して西国分寺へ。西国分寺の「味の山家」で呑む。

3月某日
 山口県知事を病気で1月に辞めた山本繁太郎さんが亡くなった。肺がんだった。山本さんは国土交通省出身で自治労の執行委員だった高橋ハムさんや「ケアセンターやわらぎ」の石川治江さんと旧厚生省の辻さんや吉武さん、旧建設省の小川冨吉さんや水流さんなどが参加する「シャイの会」の有力メンバーだった。うるさ型が多い中でどちらかというと他人の話をじっくり聞くタイプで、退官後、衆議院選挙に2度挑戦したが、2度とも惜敗。山口県知事選に当選後、間もなく病に倒れた。以前「国会議員よりも知事がやりたかった」と話したことを覚えている。思い半ばでの死は無念だったろうと思う。合掌。

3月某日
 「コンプライアンス革命―コンプライアンス=法令順守が招いた企業の危機」(郷原信郎著 文芸社 2005年6月)を読む。著者の郷原は東大理学部から三井鉱山に入社、半年で辞めて司法試験に合格、検事に任官したという経歴の持ち主。郷原の言いたかったことは「真のコンプライアンスを実現するためには、組織の構成員一人ひとりが組織内の慣行に流されず、自分たちが社会から求められているものを敏感に受け止め、問題意識を持ち、そのつどコンプライアンス対応を考えて実行することが必要である」ということだ。そのためには「法令順守コンプライアンス」ではなく「法令に適応し、法令の背後にある社会的要請に適応していくことがコンプライアンスの本質」ととらえなければならないという。なるほどと思う。そして当社にとっては、コンプライアンスと同時にコーポレート・ガバナンスも極めて重要な課題となってくるように思う。

3月某日
 社会保険研究所とその子会社である当社は、公的年金制度や健康保険、つまりは社会保険をベースにしたビジネスモデルを築いてきた。しかし公的年金制度は高齢化にともない給付に重点が移っているし、そもそも社会保険庁が解体されてから日本年金機構が発足してもPR予算は絞られたまま。厚生年金基金は10年以内の解散が決まっているし、健保組合も厳しい財政状況が続いている。つまりビジネスとして「延び代」があまりないのだ。ただ社会保険は社会保障の一部である。社会保障全般で見れば医療、介護、福祉など延び代はまだまだあるように思う。そんなことから、社会保険研究所グループで「社会保障研究会」を組織することにした。第1回は元年金局長で現在、川村学園の現代創造学部の学部長をやっている吉武さんにお願いすることにした。

3月某日
 吉武さんと「社会保障研究会」の打合せで我孫子へ。吉武さんの勤め先の川村学園が我孫子にあり、吉武さんも私も我孫子だからという理由。我孫子のレストラン「コ・ビアン」で6時の待ち合わせ。電車の中に吉武さんから電話があり教授会の関係で30分ほど遅れるとのこと。私は予定通りコ・ビアンの新しい方の店へ。コ・ビアンは数年前に我孫子のメインストリートに新店がオープンした。そもそもコ・ビアンという名前はABIKOを逆さまにしてKOBIANとしたところから付けたらしい。日本酒とサラミとチーズを頼んで待つことにする。今まで店内をゆっくり見ることはなかったが、壁を見回すと私の正面にダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が掲げられていて。改めて店内を見渡すと、宗教画と思しき絵が数枚掛けられていた。絵のほかにも何かそれらしき石膏像が何点か飾られている。へー、なかなか文化的なんだ、と思っていると吉武さん登場。赤ワインを1本頼む。赤ワインが1本なんと700円!またたくまに1本を飲み干し、2本目に。私はハンバーグを頼んだが、どんな味だったか良く覚えていない。打合せた内容もおぼろ…。

3月某日
 「市場社会の思想史―『自由』をどう解釈するか」(間宮陽介 中公新書 1999年3月)を読む。間宮氏は元阪大教授で元厚労官僚のTさんの高校の同級生ということで、この前3人で呑んだ。間宮さんは東大経済学部、大学院で学んだあと神奈川大学に勤め、最後は京都大学で教授を務めた。で、間宮さんに会うというので急遽、間宮さんの本を図書館で借りたというわけ。新書とは言え、経済学は門外漢の私には少々敷居が高く、間宮さんに会った時には半分も読めていなかった。というわけで今回やっと読了。感想を述べるほど読み込んだわけではないので印象に残った文章を書き写そう。
 「彼ら(ウェブレンとケインズ)は自由放任を市場経済の枠のなかで批判したのではなく、貨幣経済を背景において批判したのである。自由放任の経済は経済の金融化を促し、それが産業としての経済を不安定化させ、弱体化させる」。これはまさに日本経済のバブルとその崩壊を言い当てているように思える。そして「二度にわたるオイル・ショックが経済成長を鈍化させた結果、財政赤字が深刻な問題となり、その元凶がケインズ主義の総需要管理政策に、さらには大本のケインズ理論にあり、と論じられるようになってきた。代わって台頭してきたのがマネタリズムや合理的期待学派など、人間の合理性に全幅の信頼を置き、政府の諸規制を緩和して経済主体の自由度を最大限まで高めようとする経済学であった。彼らの合言葉は『自由化』『規制緩和』『小さな政府』といった自由放任主義の金科玉条であった」。
 さらに「そしていまや、自由のインフレーションに対して再度疑念が呈せられつつある。レーガノミックスやサッチャリズムは社会的不公正を増大させずにはおかなかった。また東西冷戦構造の崩壊後、人々の目は地球環境問題に向き始めている。地球環境を保護するためには企業や消費者の『自由』を直接間接に制限せざるを得ないだろう」とも言っている。なるほどなー。ちなみに間宮さんは東大闘争の頃、反帝学評の青いヘルメット被っていたそうだが、今度またTさんと3人で呑みたいものだ。

社長の酒中日記 2月②

2月某日
 岩波新書の「誰のための会社にするか」(ロナルド・ドーア 2006年7月)を読む。このところ「会社はどうあるべきか」「会社は何のために存在するか」という類のテーマの本をよく読む。もちろん、利益を上げ従業員に十分な報酬を支払い、なおかつ雇用を守り株主にきちんと配当することが株式会社の使命であることは分かっている。当社はいまだ従業員に十分な報酬を支払い切れていないし、株主配当を見送っている現状で言うのはいささかおこがましいのだが、私としては当社なりの社会貢献を視野に入れつつ「会社とは何か」を考えたいと思う。

 社会貢献とは何も慈善事業に寄付することではなく、会社として社会全体の付加価値を高めつつ自分たちの会社の利益を上げ、従業員に報酬を支払い、税金を納めるということ自体が社会貢献の始まりだと思っている。そのうえでどのような原則でコーポレート・ガバナンス・システムを構築するかが経営者に問われていると思う。本書によると、日本のコーポレート・ガバナンスをめぐる論争は、次の2つの軸を巡って行われている。ひとつは「グローバル(すなわち米国の)・スタンダードへの適応」対「日本的な良さの保存」、もう一つは「株主の所有権絶対論」対「さまざまなステークホルダーに対する社会的公器論」である。前者はエンロン事件などがあってグローバル・スタンダード論の勢いは削がれつつあるが、後者においては「株主の所有権絶対論が」ますます幅を利かせようとしている。

 著者は「経営者が株主利益の最大化を使命とする『株主所有物企業』より、経営者がすべてのステークホルダーに対して責任を持つ『ステークホルダー企業』の方が、企業内の人間関係の観点からも、その社会的効果(商取引の質、相互信用の度合い、所得分布など)の観点から好ましい」という立場だ。私もそう思うのだが、会社の最高意思決定機関は「株主総会」であり、株主の過半数に支持されない限り、経営陣は交替せざるを得ないというのも現実だ。法律と経営上の現実の折り合い次第というところもあるのではないか。

2月某日
 厚生省の優秀な官僚だった荻島國男さんが亡くなってもう20年以上になる。亡くなったとき中学生だった良太君は愛知芸術大学を卒業後、プロのサキソフォーン奏者になっている。その良太君が東京オペラシティの近江音楽堂でソロリサイタルをやるので荻島さんの2年後輩で今は川村学園女子大学の学部長をやっているY武さんと聴きに行く。
 良太君のリサイタルはこれまで何度か聴いたことがあるが、カルテットやピアノ伴奏がついたもので今回のようなソロは初めて。音楽にはズブの素人である私が言うのも何ですが、非常に洗練された音を出していたように思う。クラシックのプロサキソフォーン奏者は、そんなに層が厚いとは思えないから良太君は日本でも屈指の奏者ではないか。
 小さな出版社でくすぶっていた私(それは基本的に今も変わらないのだが)に色々と目を掛けてくれた荻島さんのことは忘れることができない。せめて良太君のコンサートだけは欠かさず行くようにしたいと思った。コンサート後、Y武さんと新宿で軽く一杯。

2月某日
 北海道へ2泊3日の出張。最初の日はHCMのM社長、開発者のHさんと、札幌の医療機器販売の大手、竹山に「胃ろう・吸引ハイブリッドシミュレーター」の説明に行く。社長の茂野さんと嶋本部長に説明。大変良い感触だった。夜、M社長、Hさん、それに札幌で特養を中心とした地域包括ケアを展開している対馬グループの奈良さんたちとジンギスカンをキリンビール園に食べに行く。やっぱり本場のジンギスカンは違う。実は奈良君は中学校の友達。クラスは違ったが家が近所だった。

2月某日
 奈良君の案内で、対馬グループの丸山部長に「けあZINE」の執筆者の紹介をお願いしに行く。この日は夕方、登別市の特養の施設長、西蔭さんにも「けあZINE」の執筆をお願いする。西蔭さんは障害者のケアから高齢者ケアの世界に入ったということだが、利用者本位のとても素晴らしい考え方の人のように見受けられた。

2月某日
 16時ころ帰京。17時過ぎに元厚労省のA沼さんと会う。入院している当社のO役員の病状を報告。その他もろもろを報告して、A沼さんは京都へ帰る。

2月某日
 図書館で借りていた角田光代の「ロック母」(07年6月 講談社)を読む。角田の単行本未収録の短編が発表順に掲載されている。冒頭の「ゆうべの神様」は「群像」1992年11月号に掲載され、芥川賞候補になっている。喧嘩ばかりしている父と母。主人公の女子高校生は廃屋となった医院でボーイフレンドと抱き合う。主人公の日常は日常的と言い難い。八百屋だの肉屋だのの世間は主人公に対して非友好的だ。主人公は家に火を放ち、「私が一番したかったのはこういうことだと思った。肉屋を殺すことでもなければ花田を刺すのでもない。あの家を燃やすことだった」と独白する。川端賞受賞作の「ロック母」は「群像」2005年12月号が初出。臨月の娘が故郷の島に帰ってくると、母は娘が高校時代に聞いていたロックを大音響でかけ、古い和服をほどいて人形の洋服を縫っている。出産を控えた娘は母に付き添われ島の対岸の病院に入院、出産する。
 結局、家族や人間関係が角田のテーマなのだろう。偶然のように人は家族であったり、恋人であったり隣人であったりするのだが、その不可避な関係性がテーマのような気がする。

2月某日
 「胃ろう・吸引ハイブリットシミュレータ」は、歯医者、歯科衛生士には「吸引シミュレータ」のみの需要があるようだ。その辺の事情を聞きたくて、「浴風会ケアスクール」の服部校長に日本歯科大学の菊谷教授に会わせてもらう。現在のモデルでは歯科医向けにはいろいろと考えなければならないことがあるとわかった。医療・介護業界向けの人体シミュレータは当社にとって、未経験の領域だ。未経験だけに勘違いも多いが、未知の領域だけに面白くもある。
 帰りに吉祥寺によって、元社保庁のK野さんと会う。ノ貫(へちかん)に行く。ここはなかなかいいお値段だが、酒も肴もうまい。

2月某日
 昨晩、ちょっと深酒が過ぎたので朝飯も摂らずに寝ていると、妻が「携帯が鳴ってるよ」と言う。慌てて出ると埼玉県グループホーム協会の西村会長からで、「今日、来るのでしょう?」と聞くではないか。そうだ忘れていた。今日は埼玉県の与野で若年性認知症のフォーラムがあるのだっけ。会場の「すこやかプラザ」がなかなか見つからず、会場に着いたら、原老健局長の基調講演がもう始まっていた。休憩時間に原局長と西村会長に挨拶。司会の会田薫子東大特任准教授にも挨拶して、フォーラムの次のプログラムはパス。フォーラムに来ていた「健康生きがいづくり財団」のO谷常務と浦和で呑むことにする。浦和に着いても午後4時前。まだ居酒屋はやっていない。寿司屋があいていたので入る。「がてん寿司」というその店は、なかなか正解で値段もリーズナブルでおいしかった。

2月某日
 図書館で借りていた「純愛小説」(篠田節子 平成19年5月 角川書店)を読む。篠田は確かデビューしたときは八王子市役所に勤めていた。国民年金の係もやったようだ。
 収められている4つの短編小説はそれなりに読ませるが、私にはどうも今ひとつで恋愛の切なさが伝わらない。そのなかで東大に入学した次男の恋愛と、その父の中年サラリーマンの悲哀を描いた「知恵熱」が私には面白く感じられた。

2月某日
 川村女子学園大学のY武教授に講演の依頼にアルカディア(私学会館)に。Y武さんは私学連盟(?)の理事に選任されたので、その会議が私学会館であるという。Y武さんには年金制度についての講演をお願いするが、厚労省OBや有識者にも社会保障に関連した講演を頼もうと思っている。
 その後、東京駅へ。「けあZINE」の執筆依頼に名古屋へ向かう。名古屋では瑞穂区の西部いきいき支援センターの高橋センター長にお願いに。その後、名古屋駅近くの「風来坊」という居酒屋でK玉さんと待ち合わせ。「手羽先」を食べながら、執筆陣拡大への協力を依頼。宿は温泉付きのホテルクラウン。K玉さんによると巨人軍の2軍の定宿とか。

2月某日
 NPO法人年金・福祉推進協議会が、中部地区の市町村の年金担当者向けに研修会を開催する。その手伝いにホテルから歩いて5、6分の年金機構中部ブロック本部へ。研修会には市町村から20人ほどが参加した。講師は厚労省年金局から大西事業管理課長ら。私はこの日、東京で呑み会があるので中座した。

2月某日
 この3月まで阪大で教えていたTさんと神田明神下の「章大亭」で待ち合わせ。Tさんと高校の同級生である、やはりこの3月まで京大の教授をやっていた間宮陽介先生を紹介してくれるという。5分前に店に着くと2人はもう来ていた。2人の出た高校は長崎市の新設校で1期生だという。2人とも東大の法学部と経済学部を出た秀才だが、店を気に入ってくれて高校の同級生の女の子話などをして盛り上がる。近いうちにまた呑みたい。

2月某日
 「津波と原発」(講談社文庫 佐野真一 2014年2月)を読む。東日本大震災から3年が経過しようとしている。本書自体、震災直後の2011年6月に刊行されたものを文庫化したものだ(文庫化にあたり、一部を加筆・訂正している)。「文庫版のためのまえがき」のなかで佐野は大要、次のように書いている。この3年間、原発事故に関するノンフィクションは大量に出版されたが、大所、高所からの“大文字”言葉で書かれたものが多かった。“大文字”言葉の作品とは“大本営”発表とさして変わらない作品という意味で、東電や政府の発表を鵜呑みにした情報をベースにしたのでは、真相は永遠に究明できない。その点、この本は誰にでもわかる“小文字”の言葉で書いたつもりである。
 佐野は「何の先入観ももたない精神の中にこそ、小説でも書けない物語が向こうから飛び込んできてくれる。それが私のノンフィクションの持論であり、いつもの流儀である」とも書いているが、今回の取材でも随所にその流儀が生かされている。避難所の石段に座って、さてこれからどこへ向かおうか思っていると突然、気仙沼には新宿ゴールデン街のおかまバーのママ「キン子」が帰省していたことを思い出す。
 「キン子」は避難所にあてられた漁村センターにいた。この再開の場面が私には妙に感動的だった。「頭にピンクのタオルを巻き付け、紫色のスポーツウエアの上に、茶色のフリースを羽織っている。近づくと、怪訝そうな顔をして、しばらく私の顔をじっと見ていた。そして突然、言った。『あら、佐野ちゃんじゃない!』。ゴールデン街の“ルル”の扉を開けて店の中に入ったときと、まったく同じ反応だった」。まさに“小文字”言葉でつづられている。
 しかし第二章「原発街道を行く」はいささか趣を異にする。日本に原発が導入された経緯、福島がなぜ選ばれたのか、そして原発事故という敗戦後、最大ともいうべき危機を突き付けられた日本はどこへ行こうとするのか。佐野はいささかの懐疑を抱きながらこのルポを結ぶ。「もしこの危機を乗り切ることができるなら、それは高齢大国ニッポンの世界に冠たる本当の底力である」。

社長の酒中日記 2月

2月某日
「M&A国富論『良い会社買収とはどういうことか』」(岩井克人・佐藤孝弘 プレジデント社 2008年9月)を読む。敵対的買収が日本でも現実的なものとなったのは、2005年の堀江貴文率いるライブドア(今となっては懐かしい気がする)がニッポン放送に対して仕掛けたのが契機だ。岩井は会社の存在理由とは「それが社会に対して付加価値を生み出し、国富(広くは社会全体の厚生)の増進に貢献すること」と定義する。結論から言うと、付加価値と国富を増大させるような会社買収ならOKということになる。また会社買収とは「株式を大量に買い占めて株主総会の過半数を握り、経営者のクビをすげ替えることによって、会社を新たに経営すること」にほかならないとも言っている。日本では会社買収=会社乗っ取り的なあまり良くないイメージが強いが、岩井の考えは付加価値と国富を増大させる会社買収ならば敵対的な買収でも良しとする考えだ。
 会社=「2階建て構造論」も展開する。会社とは、株主がモノ(=株式)として所有する一方で、その会社の法律上の人(=法人)として機械設備などの物的資産を所有し、さらに従業員を中心とした人的資産(=ネットワーク)をコントロールする(ポスト産業資本主義では人的資産のコントロールが重要)2階建ての構造という。2階に住むのが株主で、1階は経営者を頂点とした組織としての会社だ。1階部分でこそ会社の価値、付加価値、国富が生み出されるという考えだ。私には非常に納得できる考え方だし、改めて経営者の経営責任を考えさせられる本だ。

2月某日
 島村洋子の「野球小僧」(講談社 2012年7月)を図書館で借りて読む。島村洋子は割と好きな作家なのだが、なぜか世間的な評価は今ひとつのような気がする。確か直木賞もとってないし。しかしまぁテレビの歌番組の常連が良い歌手とは限らないし、レコード大賞をとらなくとも良い歌手はいるのだから。
 「野球小僧」は往年の歌手、灰田勝彦の同名の歌謡曲がモチーフになっている。ボーイズリーグの花形だった雪彦は、どういうわけか野球の名門校に推薦されず、嫌々行くことになった工業高校も中退、親類の勧めで甲子園のグランドを管理する会社に就職するところから物語ははじまる。ボーイズリーグの有望選手を高校に斡旋する元プロ野球選手の雁金さん、その息子で女装の美少女カオル、グランド管理の名職人、塚本さんらが軸になって物語は展開する。深夜、戦死したかつての名選手(沢村、梶原、吉原たち)が甲子園に集い、ゲームを楽しむ場面は幻想的で美しい。

2月某日
 健康・生きがいづくり財団のO常務が来社。私が手伝っている「地方から考える社会保障フォーラム」の講師をお願いする。会社近くの「福一」で打合せ。Oさんは私と同じ1948年生まれ。Oさんもそうだが、私の友人のこの世代は学生運動経験者が多い。中核派、ブンド、フロント、解放派、革マル、民青と党派はバラバラ。性格もバラバラ。学生運動経験者だから真面目ということは全然なく、私も含めてみな世俗にまみれている。そんななかでOさんは私ら世代にしてはITに詳しく、行動力もあり、いつも勉強になる。

2月某日
 「生活・福祉環境づくり21」のビジネス研究会に出席。この研究会は毎回、会員社が自社のニュービジネスについて発表するという趣向。今回はセントラルスポーツが「職場休職者の早期復帰システム・スポーツ&EPA復職支援サービス」、東急建設が高齢者住宅など集合住宅やホテル、学校などのセキュリティシステムについて発表した。東急建設は耕作放棄地を対象にエコアグリカルチャー事業(たぶん平たく言うと野菜の工場生産だと思う)も展開しているが、お土産にそこで生産された立派なパプリカをもらった。まだ食べていないがおいしそうだ。研究会終了後、レストランで懇談。懇談が終わってからフィスメックのK社長と呑みに行く。

2月某日
 国際厚生事業団のT専務と前の全社協副会長のKさん、当社のO常務と神田明神下の「章大亭」へ。ここは昨年、お茶の水の順天堂大学で認知症のセミナーに出席した後、CIMネットのN理事長とたまたま入った店だ。このあたりは幕末、幕府の教育機関、講武所があったことから、ここらの芸者は講武所芸者と呼ばれていた、そんな話をNさんとしていたら、章大亭のママが「あたしがそうよ」というではないか。章太というのは芸者のとき名前だそうだ。店の雰囲気もよく料理も美味しいので、それ以来何度か使わせてもらっている。TさんもKさんも厚労省のキャリア出身だが、たいへん気取らない付き合いができる人たちでこの日も楽しかった。店も気に入ってもらったようだ。

2月某日
 田辺聖子の「返事はあした」(集英社文庫 2013年3月刊)を読む。最後の頁に「この作品は昭和58年5月、集英社より刊行されました」とあるから30年以上前の作品である。だが中身はまったく色あせていない。もちろん携帯電話などないし、独身者の住まいが風呂なしで電話は呼び出しだったりして、それなりに時代を感じるのだが何しろ田辺の、大阪のOLの恋愛ものであるから、これは「読むしかない」のである。OLルルの恋愛物語であるが、ひとりの女性の自立の物語としても読める。つまり惚れた男からの自立である。従属的な恋愛関係から自立した恋愛関係へ、ということだ。

2月某日
 芥川賞受賞作(「穴」小山田浩子)が掲載されているので、文芸春秋の3月号を買う。受賞作を読む前にパラパラとページをめくっていたらグラビアページが目に留まった。「名作・名食」というコーナーで、田辺聖子の「返事はあした」がとりあげられているではないか。主人公のルルが同僚の村山クンを誘って「美々卯」で「うどんすき」を食べる場面が紹介されていた。「アルミの大鍋に黄金色のだしがたっぷり、なみなみと張られ、そこへ鶏肉、生椎茸をまず最初に抛りこむ。それから蝦に蛤。……」と作品が引用され、「美々卯」の「うどんすき」もカラーで紹介されている。美々卯は東京にも進出していて、私も京橋と新橋の美々卯で食べたことがあるが、そのときは「返事はあした」を読んでいなかったので特別の感慨もなく食べてしまった。今度、行こうっと。

2月某日
 滋賀県大津市で開催されたアメニティフォーラムに参加。障がいを持っている人や援助している人たちが大津プリンスホテルに集合して本音を語り合う集い。私は昨年に続いて2回目。元厚労省年金局長で滋賀県庁への出向経験もある吉武さんが司会で、日本医師会長の横倉さんと滋賀県医師会長の笠原さんが対談する「医療があれば大いに安心!~地域で障害者・高齢者を支えること。医師だからできること」から私は参加。笠原さんの「医療は福祉に含まれる」という言葉に感動した。地域包括ケアもそういうことだと思う。夜は「みえにくい生きづらさに気づくこと~ポスト福祉現場を語り合う」で、渋谷の「漂流少女」の援助しているNPO法人BONDプロジェクトの橘代表や釜ヶ崎でホームレスの支援をやっている僧侶の川波さんの話を聞く。

2月某日
 引き続きアメニティフォーラムに参加。厚労省の蒲原障害保健福祉部長の「我が国の障害者福祉施策の在り方について」と精神科医の北山修さんの「評価の分かれるところに:『私の精神分析的精神療法』」を聞く。蒲原部長の話で障害者福祉政策の流れが一応理解できた(つもり)。北山さんの話は非常に面白かったが、内容は良く覚えていません。北山さんの本を読みます。フォーラムを途中で離脱。琵琶湖の北のマキノ町の湖里庵に鮒寿司を食べに行く。夜は京都へ出てAさんを呼び出して食事。

2月某日
 京都から新幹線で名古屋へ。知多半島の半田に住むKさん夫妻にご馳走になる。障がい児の援助をやっているKさんも一緒。「けあZINE」への執筆を依頼。翌日、新幹線で大阪へ。西成区の社会福祉法人白寿会のMさんに話を聞く。夜は京都で同志社大学のI教授に「ブラッスリー ヴァプール」でご馳走になる。I教授は厚生労働省出身。非常に腰が低く感じの良い人。「けあZINE」への執筆を依頼。次の日、京都駅前の新都ホテルで認知症家族の会のM先生と会う。M先生は厚生省に技官として在籍したこともあるが、“合わなかった”ので京都府に出向させてもらったそうだ。奥さんが認知症で、この日もデイサービスに奥さんを預けてから出てきたという。なかなか面白い人で、ぜひ一緒に呑みたいと思った。新幹線に乗って帰京。といっても自宅が千葉だから東京から小一時間かけて帰宅。ふーぅ、疲れた。

2月某日
 新橋の「花半」で元厚労省の人たちと。この会はEさんとKさんが年金局の資金課長をやっていたころのつながり。当時補佐だった支払基金のA専務、看護大学のI教授、当時年住協の部長だった結核予防会のT理事、それに私が参加。昔話や最近の話に花が咲いて3時間はあっという間に過ぎた。Tさんと新橋の「T&A」へ。

2月某日
 前衆議院議員(落選中)のHさんとスペイン料理の「メゾン・セルバンテス」で食事。健生財団のO常務と共同通信のJ記者も同席。ワインを2本。Hさんは民主党政権下で環境省の政務官を務め、東日本大震災が発生したとき、厚労省も入っている庁舎の24階にいて随分揺れたそうだ。その後、被災地の環境対策を陣頭指揮、その顛末は当社から出版した「愚直に」に詳しい。
 偶然、上智大学のT教授も「メゾン・セルバンテス」に来ていて声を掛けられる。それもその筈でこの店はもともとT教授の店で、私は亡くなった高原さんに連れられて来たのが最初。その後、何回か使っているが料理、ワインともにおいしく、値段もリーズナブルだ。

社長の酒中日記 1月②

1月某日
 社会保険研究所グループのグループ経営会議が社会保険出版社で開かれるので出席。各社とも厳しい様子。当社もそれは同じだが私としては、今年は(今年も)「根拠のない楽観主義」で行こうと思う。会議後、宴会。社会保険出版社からは課長以上が参加したので結構な人数に。私のテーブルには研究所(中部)K社長、研究所(東京)のA役員、出版社のK取締役とSさんがいた。日本酒を3~4本頂く。

 2次会はパスして早々に帰宅。帰ったら年賀状の返事が来ていた。しかしSさんという差出人に覚えがない。住所を検索して思い出した。親会社のK社長に何度か連れてってもらったことのある寿司屋のご主人だ。年末「しばらく休みます」の貼り紙が入り口に貼られていたので、気になって年賀状を出したのだっけ。ご主人とは私が退院してしばらくたったとき、銭湯でご一緒して「大変だったんだね」と背中を流してもらったことがある。不覚にも涙が出そうになった。賀状には「ただ今、格子無き牢獄にいます」という添え書きがあった。病気療養中なのかもしれない。早く良くなってほしいけど、今年一番うれしかった賀状だ。

1月某日
 昨年、社会保険出版社から編集・製作を依頼された「だれでもできる症状・異常の自己チェック」は昨年10月に完成。監修をお願いした「いなば内科クリニック」の稲葉敏院長と食事。社会保険出版社側からはK取締役以下3名、当社からは編集を担当したIとH、私、それに社外スタッフのKさんらが参加してくれた。稲葉先生とは葛飾区に認知症のネットワークを作ろうとPDN(ペグ・ドクターズ・ネットワーク)のNさんと動いたときにNさんの紹介で知り合った。稲葉先生は慈恵医大のアイスホッケー部出身。練習は毎日、夜11時スタートだったという。リンクの関係で早い時間は使用できなかったからだ。当然、実家までは帰りつかないので、大学の近くのマンションに居候したそうだ。卒業後は津南町立病院などで勤務した後、亀有に開業した。飾らない人柄で大変、楽しかった。

1月某日
 当社のO役員の見舞いに社員のIと行く。西武池袋線の最寄りの駅で待ち合わせ入院先へ。入院先のY診療所は地域医療に熱心に取り組み訪問看護ステーションも併設している。病室に入ると坊ちゃんが見舞いに来ていた。なかなかイケメンで母子の仲も睦まじそうだった。坊ちゃんはバイトへ。入れ替わりにお母さんと訪問看護師さんが来る。O役員は思ったより元気でひと安心。社員と別れ、私はリハビリ中の友人Kさんを見舞いに初台へ。友人は理学療法士とリハビリ中で、麻雀パイを並べていた。そういえばKさんは強かったらしい。和歌山から別の友人のOさんも見舞いに来ていた。新宿でDさんと日本酒を少々。Dさんは生活福祉研究機構の専務で現在は和歌山在住。地元で町興しもやっている。生活福祉研究機構では地域福祉の研究もやっており、「地域包括ケア」の取組みなどで協力できればと思う。

1月某日
 「株式会社に社会的責任はあるか」(岩波書店 奥村宏 2006年6月)を読む。エンロンの粉飾決算やクボタやニチアスのアスベスト禍への対応を論じて、企業責任について考える。私も会社の代表者だから企業責任や経営責任はあるに決まっている。が、社会的責任はどうか? 奥村は社会的責任というあいまいな概念で本当の意味での企業責任や経営責任を逃れているのではないかと指摘していると思う。結論として奥村は「企業は実態ではなく機能としてとらえることが必要である。企業を実態としてとらえるところから『会社人間』が生まれ、会社が主人公になって人間を支配するようになる」「企業のために労働するのでなく、人間が主体になって仕事をする場として企業を考えていくことが必要である」という。「人間が主体になって仕事をする場」。なるほど。もうひとつ株主総会について富山康吉の著作を引用して次のように述べる。「株主総会が会社の最高議決機関であり、そこでは一株一箇の議決権による多数決によって決議がなされること。これが近代株式会社の内部関係についての法理であり、近代資本である産業資本が要求するところであった」。株主総会を形骸化させちゃあいけないよね。

1月某日
 日赤本社にO副社長を訪問。荻島良太君のコンサートチケットの販売目的。あらかじめ秘書に電話で説明したら、「是非買いたい」と。Oさんと荻島さんは同期。同期の堅い絆を再確認。厚労省のHさんが来ていたので同席。亡くなった高原さんのことなど話す。

1月某日
 去年の3月まで大阪大学の教授をしていた元厚労官僚のTさんと内神田の「このじょ」で呑む。ここは庄内料理の店で「このじょ」は庄内弁。意味は忘れました。今度、行ったとき確認します。

 Tさんは「柿木(しもく)庵通信」というのをメールで送ってくる。会うに当たって読んでおこうとプリントアウト。「社会福祉法人はこれからも存続できるのか」「国民皆保険はどのように崩壊していくか?」などのタイトルで先生の考えが展開される。先生は大変な「インテリ」で、私も少なからず尊敬していないわけではないのだが、文章が小難しいのが難点。「難しい」というのは「私の勉強不足で済みません」ということなのだが、「小難しい」というのは「もっとわかりやすく書けよー!」という罵倒の観念も含まれる。

 それはさておき私が注目したのは「2つの踏切事故と損害賠償責任」という小文。認知症の高齢者が家を抜け出しJRの電車に乗り、近くの駅で降車、線路に立ち入って電車にはねられて死亡した事件に関し、JR東海が720万円の損害賠償を請求。名古屋地裁は原告の主張を大筋で認め、遺族に損害賠償を命じた事件だ。先生は「法社会学的な問題として本件を理解したい」として、①JR各社はこのような踏切事故について必ず損害賠償請求をしているのか、②損害賠償請求をする場合としない場合とを分けるメルクマールは何か…、など7項目にわたって疑問を表明している。個人的には、⑦鉄道会社の行為が原因で運行ダイヤが乱れ、損害を被ったという乗客からの損害賠償請求についてはどうか、という疑問に「そーだよなー」と全面的に賛意を示したい。

 呑み会にはフリーライターのKさんも同席。この話題で盛り上がる。先生には「けあZINE」への投稿もお願いする。「易しく書いてよね」というこちらの要望に、「易しく書くのが難しい」だって。

1月某日
 民介協のO専務に神田駅前の軍鶏料理をご馳走になる。なかなか美味。生活福祉環境づくり21のYさんも同席。O専務は富士銀行出身。でも並みの銀行出身者とは一味違う。県立奈良商業を出て富士銀行に就職するが、当時、関西では富士銀行の知名度が低く「なんで静岡の銀行に就職せなならん、南都銀行でも信金でもあるやないか」と親戚のおじさんに言われたという。O専務が頭角をあらわしたのが八重洲支店勤務になってから。当時、八重洲界隈にはK鉄工やDハウスなど関西系企業があり阪神ファン同士で盛り上がったという。

 O専務の話はまだ続くが、この日、立川の社会福祉法人「にんじん」の研究発表会に呼ばれているのでそちらに行くことにする。会場の「女性センター」の場所が分からずに着いたら8時過ぎ。研究発表を2つしか聞けなかった。しかし施設や在宅で働きながら、少しでも利用者のためにサービスを向上させていこうという意欲は十分に伝わった。発表会の後、「にんじん」のI理事長にご馳走になる。元厚労省のNさんやYさんも一緒。

1月某日
 社会保険倶楽部霞が関支部の賀詞交歓会。日本年金機構の副理事長や関東ブロック本部長に挨拶。社保庁OBのK林さんやT辻さん、K沢さん、I田さん、Y田さんたちとも歓談。キャリアではK田さんはじめ、K辺さん、T田さんらが見えていた。久しぶりに元参議院議員のA先生にも会えた。厚年会館でやっていた昔の賀詞交歓会に比べると参加人数はずいぶんと減ったが、その分、アットホームな雰囲気になったかもしれない。

1月某日
 林真理子の「正妻 慶喜と美賀子」(講談社 13年8月)上下巻を読む。徳川最後の将軍、慶喜と公家の今出川家から正夫人として徳川家入りした美賀子の物語だ。幕末の京都の政争や蛤御門の変、長州征討、王政復古、鳥羽伏見の戦などを縦軸に、これはこの小説を読んで初めて知ったことだが、類まれな慶喜の好色さを横軸に物語は展開する。火消しの親方で慶喜の身辺警護を担った新門辰五郎の娘お芳も慶喜の妾となり、京都で慶喜の身の回りの世話をする。鳥羽伏見の戦のあと大阪城へ敗走した幕軍は、いまだに戦意旺盛で無傷の幕府海軍とともに薩長と再戦すれば、歴史の駒はどちらに転ぶか分からなかった。にもかかわらず慶喜は側近とともに海路、江戸へ逃げた。明治維新後、静岡に隠棲した慶喜に美賀子は真相を尋ねる。

 慶喜は仏公使ロッシェと薩摩一国と引き換えに仏軍の応援の密約があったこと、さらに薩長には兵庫港と引き換えに英国から支援の密約があったことをあげ、このまま内戦が長引けば日本は欧米の属国になりかねなかったことをあげる。密約云々は作者の想像力の産物と思われるが、それはそれとして最後の将軍の特異な性格が、その好色さも含めて描き出されている。

1月某日
 「さいごの色街 飛田」(井上理津子 筑摩書房 2011年10月)を読む。大阪市西成区の地下鉄動物園前駅近くの飛田地区には「料亭」が160軒、軒を並べる。この「料亭」、名前は料亭だが中身は売春の場所の提供である。飛田は公認の売春地区であったが、売春防止法により「料亭」に衣替えした。部屋にホステスが客を招き入れ、酒肴を提供する。そこでホステスと客の自由恋愛により性行為が成立する(可能性がある)、ということで売春防止法を免れているということなのだが。東京の吉原も公認の赤線だったが、売春防止法施行後、ソープランド街になった。飛田は20分、15000円。吉原に比べて随分とお手軽である。実質本位の大阪と「体裁」を重んじる東京の差なのだろうか。いろいろ考えさせられた。

続・社長の酒中日記1月

1月某日
 正月休みといっても取り立ててやることもないので本を読む。まず年末、図書館で借りていた「革新幻想の戦後史」(竹内洋 中央公論新社 2011年10月)を読む。タイトルからして戦後のいわゆる「革新的」な論壇を批判したものと思って読み始めた。内容はまぁそうなのだが、著者竹内の個人的な体験も随所に出てきて、私は面白く読ませてもらったし、「ああ、そういうことだったのか」と思うところも少なくなかった。それはさておきこの本は「知識人論」による昭和史と読めないこともない。とりあげられている知識人は三島由紀夫、丸山真男、小田実、福田恒存といったメジャー知識人から北玲吉(北一輝の弟で佐渡島選出の保守系代議士を長く務めた)、有田八郎(戦前の外相、戦後都知事選に2回出るも落選。三島の「宴の後」のモデル)など今ではほとんど論壇でも取り上げられなくなった人、それから東大教育学部の教授陣や北小路敏(革共同中核派幹部、60年安保の全学連指導者)など「その世界」では有名だった人など多岐にわたる。上製本で540頁の大著だが、一気に読み通すことができた。

 私は本書を一読して「日本の戦後」という極めて特殊な政治的、文化的な空間に思いを致さずにはいられなかった。米国の圧倒的な軍事力、経済力の庇護のもとにありながら政治的、文化的な面では「反米」が一定の力を持つという現実。60年安保闘争という大きな反米闘争があったにも関わらず、自民党の保守政治が「安定的」に続いたという政治状況。そして、そうでいながら、いやそうだからこそかも知れない、文化的、論壇的には反米的な文脈が大きな流れとしてあった。著者が大学院生の頃(1968年頃)、友人たちに「吉本隆明もいいけど、福田恒存はもっといいぞ」と喋りだし、「案外、2人は似ているんだな」と続けた。その場に居合わせた女子大生は、著者を誰かに紹介するとき「この人ウヨクよ」と添えたという。この「ウヨク」は「右翼」ではなく「この人バカよ」と言っているに等しかったという。1968年といえば私が大学1年生のころであり、その頃の私の心情もこの女子大生と大差なかったと思う。あるイデオロギーをもとに現実を見ると、現実はイデオロギーに沿って変容することがある。変容した現実の中でイデオロギーは一貫するのだが、それはやはり間違いなのだ。

1月某日
 古本屋で買っていた「春秋山伏記」(藤沢周平 新潮文庫 昭和59年)を読む。藤沢の小説はほとんど読んでいるがこれは未読。ある日、村に大鷲坊と名乗る山伏が訪れる。村の薬師神社の別当として羽黒山から遣わされたという。村での様々な出来事と大鷲坊のかかわりが活写されるのだが、村人の会話は庄内弁である。例外は17~18年ぶりに村に帰った源吉で、小説では標準語を喋る。村の共同体に対して「異人」の扱いだからである。源吉は自分に好意を寄せていた村娘を山火事から救い、村を去る。大鷲坊が娘に声を掛けていかないのかと源吉に聞くと「嫁入り前の娘だから」と答える。これは股旅物や「7人の侍」「シェーン」などの映画に見られる異人の共同体への加担、介入そして別離というパターンを踏襲したものといえる。

1月某日
 青梅市を中心に訪問介護事業や小規模多機能事業所を展開している「ここひろ青梅」のI上代表とT村統括責任者を当社のS田と訪ねる。青梅線の河辺という駅で降りる。神田から1時間くらい、我孫子からだと2時間以上。パンフレット制作の打合せ。地域に密着して介護事業を展開している事業者とは積極的にお近づきになりたいと思う。あと10年、20年は間違いなく成長する分野だ。打合せが終わって立川の鍼灸・マッサージをやっている「こらんこらん」へ。ここの責任者には「けあZINE」への執筆をお願いしている。立川から京葉線の「海浜幕張」へ。千葉県の社会保険関係者の賀詞交歓会。OBのNさんやIさん、千葉県地域型国民年金委員の皆さんに挨拶。結核予防会のT下さんから電話があり神田へ戻りK出さんやS木さんと新年会。2次会のスナックは内モンゴル出身の人がママとホステスだった。

1月某日
 年末、図書館で借りていた「男嫌いの姉と妹 町医宗哲」(佐藤雅美 角川書店 2010年12月)を読む。佐藤は1941年生まれだから今年73歳のベテラン時代小説家。85年に「大君の通貨」で新田次郎賞を受賞。「大君の通貨」は未読だが幕末、日本と欧米の金貨と銀貨の交換比率の差から金が日本から欧米に流出し、日本の物価は騰貴しこれが幕府崩壊の一因となったとされる事態を描いたものという。その後直木賞も受賞し、時代小説家としての地位を不動のものとしている。シリーズとして「物書同心居眠り紋蔵」「八州廻り桑山十兵衛」「縮尻鏡三郎」がある。佐藤の時代小説を読んでいつも感心するのは時代背景をうまくつかまえていること。処女作の「大君の通貨」以来なのだろう、とにかくよく調べている。この本でも「泣く子と地頭には勝てぬ」という諺について「この地頭は鎌倉時代の地頭ではなく知行地を持つ旗本のことで、地頭は知行地の百姓に金の無心はもとより、屋敷の修理などといって知行地百姓を何かと江戸へ呼びつけたため」といった解説が加わる。「町医宗哲」は幕府の官医養成機関に通いながら無頼の徒になり、のちに町医となった北村宗哲を通して当時の江戸の表と裏の社会を描く。もちろん宗哲は作者の創造した人物だろうが私には大変面白く読ませてもらった。

1月某日
 3連休の中日。セミナーと学会に招かれているので出席することにする。1つは日本口腔ケア協会学術大会。これは浴風会ケアスクールのHさんに「胃ろう・吸引ハイブリッドシミュレーターを出展したら」と誘われた。もう1つは「ペグ・ドクターズ・ネットワーク」(PDN)のNさんに誘われたPDNセミナー。口腔ケア学会の学術大会は東京医科歯科大学、PDNセミナーは慈恵医大が会場。学術大会は実演があるのでシミュレーターの開発者のNさんとY君に行ってもらうことにして私は慈恵医大へ。エレベータでその日のシンポに出演する東大のOさんに会う。席に座ると浴風会のHさんも来ていた。看護師のOさん、町田市民病院のH先生、慈恵医大青戸医療センターのS先生らにあいさつ。シミュレーターの販売をお願いするHCM社のO部長が東京医科歯科大学に行っているので慈恵医大に来てもらい何人かに紹介する。17時になったのでシンポジウムを中座、O部長と呑みに行く。新橋の居酒屋「たぬき」で日本酒を少々。

1月某日
 「ここがおかしい日本の社会保障」(山田昌弘 文春文庫 2011年11月)を読む。日本の社会保障の問題点を非常にわかりやすく解説している。いろいろ検討を重ねていかなければならないのは当然だが、山田氏の現状認識と改革の方向性には賛成だ。山田氏の考え方は明快で、働き方や家族の在り方は著しく変貌しているにもかかわらず、日本の社会保障はそれに対応できていないということにつきる。年金、医療など日本の社会保険を主体にした社会保障が確立したのが昭和30年代だが、この頃は学校を卒業すると大半は会社の規模や報酬を選ばなければ企業に正社員として雇用された。また町の八百屋、酒屋、書店なども個人事業主として地域に根付いていた。つまり企業の正社員か個人事業主として、年金ならば厚生年金と国民年金、医療保険ならば健康保険と国民健康保険に加入していたから、セーフティネットは一応は備わっていたのだ。

 しかしこうしたセーフティネットがセーフティネットとして成立したのは、日本でいえば高度経済成長期から1990年代までだ。つまり工業化社会では大量の熟練工が必要だったから、企業は新卒者を大量に雇用して時間をかけて熟練工に育て上げた。こうした男性社員はやがて結婚するが相手の女性は結婚を機に退職するのが常であった。つまり基礎年金で言えば夫は2号、妻は3号被保険者である。しかし経済は高度化する。というか資本が常に利潤をキープしようとすれば高度化せざるを得ない。その過程で国際競争は激化し、さらにオートメーション化とIT化の波が押し寄せる。ITで言うなら高度に専門化した少数の頭脳集団とデータの打ち込みなどの非熟練の単純労働集団に2極分化したのだ。頭脳集団は正規雇用、単純労働集団は派遣などの非正規雇用とならざるを得ない。こうした日本社会の構造変化に社会保障は対応しきれていないのだ。

 こうした現実に対して山田氏は「ベーシック・インカム」や「負の所得税」を提案する。社会保障の構造改革は「負担と給付」の財政的な側面からのみ語られがちだ。それはそれで大事なことは分かるが、まず日本社会と経済はどの方向へ向かうのか、という根っこの議論も大切ではないか。ちなみに山田氏は社会保障の専門家でも経済学者でもなく、専門は家族社会学と感情社会学(?)だそうである。専門家以外の視点も、社会保障の構造改革には必要と思えるのだが。

続・社長の酒中日記12月②

12月某日
 元厚労省のA沼さんが京都から上京、時間が少しあるというので神田駅近くの「蕎麦人」という蕎麦屋で昼食。初めていく店だが入り口にゲバラのポスターが貼ってあったのにはちょっとびっくり。私の青春時代、ゲバラは反権力のシンボルだったが、現在はゲバラのポスター、肖像からは反権力の意味性は失われ、デザイン性のみが残ったということなのだろうか。A沼さんとの話題は当社のO前さんのこと。O前さんは9月にすい臓がんが発見され、抗がん剤の投与を受けていたが先週、主治医から抗がん剤の投与を中止し緩和ケアに移行すると言われたという。自宅に帰ったO前さんを見舞ったが、本人はいたって冷静、むしろ私が動揺する。A沼さんに見舞いに行けばと言うと、「辛くてなぁー」と。O前さんのこと含め、経営上のアドバイスなどを受ける。

 夜、熊谷でグループホームの施設長をしているI田さんに浦和で会う。当社のH尾が同行。「けあZine」への投稿を依頼する。I田さんと別れ、赤羽へ。川口在住のO谷さんと駅前の「大庄水産」で待ち合わせ。生ビール一杯と日本酒少々。浜焼き等肴は旨かったのだが、出てくるのが遅い! O谷さんとH尾は何かスマホのことで盛り上がっていたが当方興味なし。終わってO谷さんは南北線、H尾は埼京線、私は京浜東北線で上野へ。

12月某日
 HCM社のM社長、O橋部長が来社。当社の新商品「胃ろう・吸引ハイブリッドシミュレーター」の説明を当社のO山役員と。このシミュレーターには私は自信があるのだが、当社に専門の販売員がいるわけでもなく、現在はO山役員が業務の傍ら電話応対などをしている状況。HCM社と提携することによって販売増に目途をつけたいというのがねらい。打合せ終了後、私はM社長とHCM社の忘年会(2度目!)へ。

12月某日
 朝日新聞の福島原発事故関連の長期連載、「プロメテウスの罠」で生井久美子記者が福島県飯館村の特別養護老人ホームのことを書いている。私も昨年、当時の東北厚生局長だった藤木さんと一緒にこの特養「いいたてホーム」を訪れたことがある。妊娠・出産の可能性がある女性職員や子供のいる職員がホームを去る中、中高年の職員が「入居者を見捨てるわけにはいかない」と頑張っている姿が印象的だった。飯館村は福島原発から離れること30キロ以上。原発マネーにも潤うことはなかった。そんな村が突然巻き込まれた放射能禍。津波は天災だが原発事故は巨大津波への備えを怠った電力会社による人災だし、当然のことだが原発を受け入れてきた日本政府の責任も大きい。そして原発による豊富な電力で豊かな暮らしを謳歌してきた私たちにも責任は及ぶと考えざるを得ない。

 その福島でジャーナリストをやっているI原寛子さんが立教大学で特別講師として講義をするという。講義が終わったら大手町で食事をすることにした。大手町駅の改札で待ち合わせフィナンシャルビルのトスカーナへ。当社のI藤も同行して「けあZine」への投稿を依頼し快諾してもらう。I原さんは参議院の議員秘書をやっていたこともあり、その関係で今、参議院の副議長秘書をやっているY倉さんのこともよく知っている。

 「けあZine」の打合せでS社のN久保氏が来社。当社は私、S田、A堀、H尾、I藤が参加。終了後呑み会、「和酒BAR DAISHIN」へ。呑んだことのない日本酒を4~5杯、ワインを2~3杯。2次会は葡萄舎。N久保氏は34歳、父親は私より1歳年上とか。私は正真正銘の老人なわけね。N久保氏は北海道札幌市出身。北海道教育大学で地学を専攻したというなかなかの好青年だ。N久保氏とは京浜東北線で神田から上野までは一緒。私は上野から土浦行の最終に乗った。ここまではいいのだが我孫子で降りてスイカをタッチしようとしたらスイカを入れていたポシェットがない。グリーン車に忘れてしまったのだ。翌朝、駅前の交番に届け、クレジットカードやキャッシュカードの停止の手続きに走り回された。

12月某日
 ディズニーランドのホテルオークラで民介協の理事会が開催され、その後の忘年会に呼ばれる。忘年会といっても午後3時から5時まで。厚生労働省でT見年金機構担当審議官に「地方から考える社会保障フォーラム」への出席をお願いした後、霞が関から八丁堀へ。八丁堀で京葉線に乗り換え舞浜へ。舞浜へ着くとそこはもう別世界、ディズニーランドへ向かう家族連れやカップルで賑わっている。ディズニーランドへは子供がまだ小さいころ2、3度行ったことはあるものの、現在は全く無縁。思い切り疎外感を味わう。ホテルオークラは舞浜からモノレールで1つ目の駅と聞いていたので、1つ目の駅で降りたが、それらしき建物は見当たらない。冷たい雨も降り、深い疎外感を抱えながら佇んでいると、携帯に電話。2つ目の駅の間違いだった。で、またモノレールで1駅行くとオークラ行のミッキーマウスのバスが来た。エントランスに着くと係の人が迎えに来てくれていた。

 会場はいくつかのテーブルにわかれていて、B袋理事長、O田専務ら見知った顔がいくつかある。何人かの人と名刺交換したが北九州市の(株)シダーのZ田専務は作業療法士を持っているという。「私は3年前脳出血で倒れ、船橋リハビリテーション病院でOT、PTの皆さんに大変お世話になりました」と言うと、Z田専務は船橋リハのI藤さんや作業療法士の雑誌を出している青海社のK藤社長などをよく知っているという。「若武者ケア」の吉田さんなどに「けあZine」への執筆を口頭で依頼。O田専務から皆さんに紹介されたので「民介協には大変お世話になっています。来年、年友企画から民友企画に名前を替えようかと思います」とあいさつ。6時から町屋で「介護ユーアイ」のU木社長と大手広告代理店を定年で辞めた後U木社長のところでデイサービスの送迎をやっているI上さんと忘年会があるので途中で失礼する。

 町屋の駅ビルのなかにある「ときわ」で待ち合わせ。U木社長は酒は止めているという。I上さんも「呑み過ぎで今日は控えめに」という。「ときわ」は大衆的な割烹で安くて旨い。I上さんは楽しそうに仕事を語り、U木社長によると「顔つきも変わって締まってきた」そうだ。介護の仕事には「はまる」とそういう効果があるのかもしれない。I上さんにも「けあZine」への執筆を依頼する。

12月某日
 「贋作天保六歌撰」(北原亞以子 講談社文庫 2000年6月)を読む。タイトルに「うそばっかりえどのはなし」とルビがふってあるこの文庫本はたしか今年の夏、高田馬場のブックオフでもとめたものだ。ずーっとベッドの傍らに積んでおいたが、師走の忙しい時期に読み始めることにした。

 六歌撰のうち貧乏御家人の直侍こと片岡直次郎を主人公とするこの小説は、江戸も末期の爛熟した市井を喘ぎながら泳ぎ回る小悪党たちを描いたものだが、直次郎が婿となった「あやの」との純愛が微笑ましくも哀しい。強請、騙りを日常とするこの小悪党たちの暮らしが成り立つのは、江戸時代も後半となって江戸の経済社会が剰余価値を飛躍的に増大させたことが大きい。農業は肥料や農機具の改良などによってその生産性を向上させたし、絹や木綿などの繊維もマニュファクチャーとして定着してきた。この剰余価値に寄生して生きてきたのが直次郎らの小悪党だ。江戸時代のこうした経済は鎖国により一国規模で安定し、その安定が徳川300年の治世を支えたのだ。そして欧米諸国がこの富に着目したのが、開国への圧力のひとつとなった。そんなことはこの小説に書かれているわけではないのだが、他のアジア諸国と比べると、欧米による植民地化を免れた背景には、日本の豊かさと安定、国民の教育水準の高さがあったことは確かだ。

12月某日
 「あい谷」でK辺さんを囲んで看護大学のI野さん、結核予防会のT下さん、支払基金のA利さんが集まって忘年会。K辺さんが厚生省年金局の資金課長だった頃、A利さんとI野さんは補佐、T下さんは年住協の部長、私は現在の会社で年金住宅融資を担当していた。今から四半世紀以上も前の話だが、年2回は集まって呑んでいる。人事院総裁をやったE川さんもK辺さんの一代前の資金課長でこの会のメンバーなのだが、この日は所用があって欠席。T下さんのカンボジアへ行った話やA利さんの「歩こう会」に参加した話などが話題になった。「歩こう会」では40何キロを8時間くらいで歩いたそうだ。

12月某日
 「昭和維新の朝―2.26事件と軍師齊藤瀏」(工藤美代子 日本経済新聞出版社 2008年1月)を読む。昭和天皇の崩御から8年後の宮中歌会始の描写から始まるこのノンフィクションは、歌人齊藤史とその父親、陸軍軍人にして歌人、そして2.26事件の青年将校を幇助したとして禁固刑を受けた齊藤瀏、そして史の幼馴染であった2.26事件で刑死した栗原安秀中尉、坂井直中尉らの物語である。

 歌会始の召人として皇居に呼ばれた齊藤史は刑死した青年将校の幻影を見る。召人として皇居に参内し天皇から「お父上は瀏さん、でしたね」と声を掛けられる。歌人の岡井隆は「これは天皇家との長いいきさつの、いわば和解の風景なのかも知れない」と思った。2.26事件は青年将校の思いは思いとして、クーデター計画としては杜撰だったとしか言えない。真崎将軍ら皇道派の将軍らの日和見が見切れていないし、何よりも昭和天皇の立憲主義的な思想と行動に対して全く読み違えていたことは確かである。しかし陸士から陸大を経てエリート将校として栄進する道を選ばず、昭和恐慌で疲弊した東北の兵らとともにありたいとする青年将校の思いには頭が下がる。

12月某日
 「世界は『使われなかった人生』であふれている」(沢木耕太郎 幻冬舎文庫 2007年4月)を読む。3年前に脳出血で入院したとき厚労省のA沼さんが病床に届けてくれたものだが、なぜか読む気がせず、机の上に積まれていたものだ。暮らしの手帖に映画評として連載されたものだが、映画好きではない私には初めて目にするタイトルがほとんどだった。だが手際の良いストーリーの要約といかにも沢木らしい新鮮でナイーブな感想が楽しく、私にはことのほか面白かった。

 だがここでは「使われなかった人生」についてちょっと考えてみたい。沢木は書く。「どんな人生にも、分岐点となるような出来事がある。それが自分の人生の大きな分岐点となるような出来事であるかどうか、その時点で分かっていることもあれば、かなり時間が経って初めてそうだったのかもしれないとわかることもある。しかし、いずれにしても、そのとき、あちらの道ではなく、こちらの道を選んだのでいまの自分があるというような決定的は出来事が存在する」。沢木の場合は入社が決まっていた会社に、入社式の日に退社すること告げたときが分岐点だったという。私の場合はどうか? これは1969年の9月、早大第二学生会館に機動隊が導入されたとき、防衛隊を志願したときが間違いなく分岐点だった。今から45年前の話だが、私は逮捕起訴され懲役1年6か月執行猶予2年の判決を受ける。それから「俺の人生はこんなはずじゃなかった。第二学生会館などに入らなければ違った人生があったはず」と思わなかったかといえば、もちろん激しく後悔したこともある。しかし、今にして思うと逮捕起訴されなかった以外の自分の人生など考えられず、まぁ結構満足な人生を歩んでいるなぁと思わざるを得ない。幸せなんですかね。

12月某日
 今日で仕事納め。3時半ころHCMに行って会長、社長に挨拶。三井住友海上の公務部長や三井住友海上OBの方と日本酒を酌み交わす。30分ほどで切り上げ会社へ。社員に若干の機構改革を伝え、研究所の納会へ。30分ほどで再びHCMへ。弁護士のK林先生に挨拶。呑みつかれ気味なので早々にリタイア。

12月某日
 年末年始の休み。今年は9連休。今日はその初日だが、鍼灸を受けているO先生から「診療所のホームページを更新したいのだけど」と相談され、Rさんと一緒に目黒のO鍼灸院へ。私は施術を受け、RさんはO先生から聞取り。H社のMさんから携帯に電話あり。目黒から内幸町のH社へ。会社へ戻って残務整理。K財団のO谷常務に電話。O谷常務は仲間と代々木あたりに呑みに行くつもりだったが「大手町でもいいよ」とのこと。専門学校のI塚さんら5人と合流。会社近くのジビエ料理の店に向かうが予約で満杯。近くの馬肉料理の店に行くと6時45分までなら席が空いているというのでそこにする。馬のユッケ等なかなか旨い。6時半過ぎにお開き。O常務らは2次会へ。私は帰る。

新・社長の酒中日記12月

12月某日
 「会社はこれからどうなるのか?」(岩井克人 2003年2月 平凡社)が家の本棚にあったので読むことにする。読んだ覚えはないし買ったことも覚えていないが、このところ岩井の資本主義論や株式会社論に共感を覚えているところなので読むことにする。バブル崩壊後の日本経済が長期的な低迷期に陥ったころに書かれたこの本は、私には少しも古く感じられず、むしろ新鮮だった。この本で指摘された日本の市場や株式会社の問題点がそのまま解決されずにいることも新鮮に感じた一因であろう。「ですます調」で語り口は平易だが、会社や法人の成り立ち、法人名目説と法人実在説などは今までほとんど関心もなく難解だったが、21世紀の会社の在り方を論じた8、9、10章はよく理解できた。

 岩井の論を私なりに要約すると次のようになる。第1次産業革命を経て19世紀後半から20世紀初頭にかけての第2次産業革命によって、米英だけでなく日独など遅れてきた資本主義国も重化学工業化に成功する。鉄鋼、化学、自動車、重電、家電などの業種によって産業資本主義が開花する。産業革命以降、資本家は土地を購入し工場を建設し、機械を据えれば後は農村からの過剰労働力を投下すれば利潤を手にすることが出来た。しかし20世紀の最後の10年あたりからのグローバル化、IT革命、金融革命の波は資本主義の性格を産業資本主義からポスト産業資本主義へと変えていく。

 岩井はポスト産業資本主義の時代を「差異性を意識的に創り出すことのみによって利潤を生み出していく資本主義の形態」と定義する。つまり企業にとっては「独自の差異性を確保していくよりほかには、生き残る道はなくなって」きたのだ。企業の生き残る能力が「コア・コンピタンス」(会社のコア(中核)をなす競争力)だ。ポスト産業資本主義の時代にこの能力を磨くには、ハードではなくソフトの競争力を高めるしかない。それを岩井は「個性的な企業文化を築くこと」と言っている。当社に当てはめるとさまざまな関係性やネットワーク(顧客、外注先、取材先等)こそがコア・コンピタンスのように思える。

12月某日
 月刊「介護保険情報」の校正をやっているWさんは今から40年前、私が日本木工新聞社に勤めていた頃の同僚だ。彼はそれから医学書の出版社に入り、そこの上司と出版社を興したりしたのだが、結局フリーの編集者兼校正者の道を歩むことになり今に至っている。そのWさんが貸してくれたのが「シャレのち曇り」(立川談四楼 2008年7月 ランダムハウス講談社)。病気療養中の当社のOさんに読ませようと病院に持っていたのだが、どうもまだ読んでいないことに気が付いて持って帰った。

 群馬県から上京して立川談志の弟子になり、師匠の落語協会からの独立と「立川流」の旗揚げ、真打昇進などを縦糸に、ソープランド(当時はトルコ風呂)での童貞喪失や「前座の恋の物語」の失恋、OLとの結婚、子育て、浮気など横糸に、落語家の真情を可笑しくも切なく描いたこれはなかなかの傑作である。著者自身の解説によると前座時代、談志に連れて行ってもらった銀座のバーで田辺茂一や吉行淳之介などの文人に紹介されたのが小説に目覚めた最初というが、文体やストーリーの展開にしてもとても落語家の余技とは思えない。

12月某日
 元社会保険庁の松本さん、鬼沢さん、池田さんとゴルフ。以前は毎月第2土曜日に例会をやっていたが昨年、多くの人が職を退いたためウィークデイの方が安いしすいていていいだろうということで第1火曜日に例会をすることにした。ゴルフ場はディアレイクカントリー倶楽部。快晴。ハーフを回ったところで私と鬼沢さんがリタイア宣言。私は脳卒中の後遺症で右手右足が不自由。鬼沢さんも大腿骨あたりの骨の具合が宜しくないというのが中途リタイアの理由。ゆっくり風呂に入って残り3人が戻ってくるのを待つ。私と鬼沢さん、池田さんの3人は新鹿沼から特急で帰る。帰りの電車ではいつも宴会。ワイン2本を空けたころ北千住に着く。

12月某日
 取引先のHCM社の平田会長にあいさつ。平田さんは天龍寺管長を勤められた平田精耕老師の実弟。精耕老師は確か東大で印度哲学を修めドイツにも留学したことのある学究肌の人だったが、平田会長は禅寺の出ながらミッション系の同志社を出て、学生時代はバンドをやっていたという変わり種。なかなか味のある人でこの日も「世の中には白黒つけたがる人がいるが、白黒なんかそんなつけられるもんやない。だいたいがグレーなんや」という実に味わい深い言葉を聞くことが出来た。HCM社の忘年会に参加。南部地鶏の店で大ぶりの砂肝が美味しかった。2次会のカラオケに移動中に結核予防会の竹下さんから電話。合流して会長と3人で新橋のT&Aへ。

12月某日
 埼玉県庁を退いた後、JR東日本に籍を置きながら上智大学の講師をやっている加藤ひとみさんの呼びかけで、上智大学の教え子中心に「我らが高原先生を偲び語らう夕べ」が東京国際フォーラムの「黒豚劇場ひびき」で開かれた。当社のIを連れて参加することにする。定刻に会場に着いたら「黒豚劇場」の入り口前の椅子に堤先生がぽつんと座っていた。先生は阪大を退職した後、定職に就かないものだから時間だけはたっぷりあるのだろう。ぽつぽつと教え子たちも集まりだして献杯。この店は埼玉の店ということで小江戸(川越)の地ビールなどを呑む。高原先生は福祉学科で教えていたのだが、卒業生は福祉関係に進んだ人は少ないようだ。

 でも彼ら彼女らの話の端々に高原先生が学生たちに慕われていたことがよく分かった。堤先生は高原さんのことを「異形、異色の厚生官僚」と表現していたが、「優秀な教育者」という形容も付け加えた方がいい。高原さんを上智大学に招へいした栃本一三郎先生も遅れて参加。でもびっくりしたのは学生さんたちの3分の2以上が女子学生だったこと。上智はもともと女子学生に人気があったがこれほどとは。まぁ華やかで宜しいが、高原先生も人生の最期で女性に囲まれていたわけだ。

12月某日
 浜矩子の「『通貨』はこれからどうなるのか」を読む。初版が2012年の5月だから現状のアベノミクス効果とはズレがある。というか浜は一貫して反アベノミクスだったからズレがあって当然なのだけれど。アベノミクスでは円安誘導が「3本の矢」の1つとして重要なカギを握っており、表面的にはそれが成功して現在は1年前と比べて30%程度の円安になっている。それに対して浜は「1ドル50円時代に向かう日米経済」と円高・ドル安を予想する。もっとも浜は単純に円高ドル安を予想するのではなく、基軸通貨としてのドルの役割が縮小し、それによってドルの価値が下がるという予想だ。私は経済の門外漢だが、どうもアベノミクスは危なっかしいと思っている。円安で輸入物価が上がり、政府が想定する2%を超えて物価が上昇したら、国債金利も上昇し価格は暴落する。国債金利が上昇すれば、ソブリンリスクを抱えてしまうことになる。しかも円安と原発の停止で原油の輸入量と輸入価格が上昇。それでいて円安にもかかわらず輸出量は増えていないという。それにしても通貨は面白い。信用とそれに裏打ちされた通貨価値。何やら信用とそれに裏打ちされた人間価値と言い換えられそうだ。

12月某日
 介護従事者自身によるwebマガジン「けあzine」立ち上げのために知り合いの介護関係者に投稿のお願いに回っている。今回は被災地石巻で訪問介護事業を行っているパンプキンの渡辺常務にお願いに行く。被災直後は厳しい表情だったが、今は柔和で自信に満ちた顔つきだ。投稿のことは「少し考えさせて」ということだったが、渡辺常務は介護保険だけに頼らず、有償ボランティアや無償ボランティアの組み合わせで地域の介護力を高めようとしているなどと語ってくれた。同じ石巻のキャンナスを訪れ、佐々木あかねさんに投稿をお願いする。

 仙台に宿泊。同行したIは仙台近郊出身なので実家に泊まることに。朝早く八戸へ。八戸から八戸学院大学に行くには、電車で鮫まで出てそこからタクシー。鮫行きの電車待ちが1時間以上あるので、八戸の中心地までバスで行くことにする。これが間違いの元。中心地に出るまで1時間以上もかかってしまい、電車に乗り遅れてしまう。本八戸駅構内の蕎麦屋で煎餅そばを食べる。きのこや野菜がたくさん入っていて580円。安いと思う。

 本八戸から鮫行きの電車に乗るとIが乗っていた。鮫駅からタクシーで八戸学院大学へ。篠崎准教授に投稿をお願いするためだ。待ち合わせより早く着いたので研究室の前で待つ。トイレに寄ったら篠崎先生がいた。先生は快諾してくれた上、何人かに声を掛けてくれると言ってくれた。先生は来年、千葉県の松戸市にある聖徳大学に移るそうだ。大学の先生も何かと大変なのだ。聖徳大学に来たら歓迎会をしましょうと約束。青森市へ。

 青森は20数年前、住宅協会の申し込みセット作って以来、何度か来たことがある。当時事務局長だった唐牛さんは青森で社会保険労務士事務所を開いている。当時事務員だった太田さんも呼んでくれて呑み会。唐牛さんのクライアントにも訪問介護事業者がいるというので投稿をお願いする。太田さんはなんと児童関係の社会福祉法人に勤めているので、こちらにもお願いする。当時の年金住宅融資は保証保険とセット。青森、岩手、山形など6協会の幹事を務めていたのが大正海上(現在の三井住友海上)で、担当が今、三井住友海上の会長をやっている江頭敏明さんだった。青春だったね。