社長の酒中日記 10月その2

10月某日
社会福祉法人サンで経理をやっている江上さんと駒込駅で待ち合わせて呑むことに。駒込は私が大学を出てから2番目に勤めた日本木工新聞社があったところで、私にとっては大変懐かしい場所だ。仲間と酒を呑んだり麻雀をしたり労働組合運動をやってストライキをやったり、そう当時はまだ青春の残滓を引きずっていた。組合の会議をやった喫茶店アルプスがまだあった。アルプスのもう少し先にある「巣鴨ときわ食堂」に入る。ここは前に当社の石津さんと入ったことがある。基本は定食屋さんだが夜は居酒屋を兼ねるのである。お刺身やおしたしなどお惣菜を肴に飲む。江上さんはもっぱらビール、私は途中から角ハイボールに替える。江上さんに現場の話をいろいろ伺う。サンの職員は真面目で利用者のことを第一に考えていることがよくわかる。締めはチャーハン。小チャーハンを2つたのんだら、普通のチャーハン1つを分けたほうが安いと言われる。その通りであった。良心的というか下町の良さですね。

10月某日
社員の岩佐が厚労省の「子ども・子育て支援推進調査研究事業」にエントリーしたいというので厚労省の研究事業では実績のある「健康生きがいづくり開発財団」の大谷さんの話を聞いたらとアドバイス。大谷さんが当社まで足を運んでくれる。慎重に準備したほうがいいとのアドバイスをもらい今回は見送ることにした。帰りに会社近くの福一で一杯。イカ、タコ、マグロの刺身を盛り合わせを頼む。福一は普通の居酒屋ではあるが、つまみの種類が多く、味も水準以上だ。今回はマグロが特に美味しかった。高清水を3合いただく。我孫子で駅前の「愛花」に寄る。

10月某日
厚生労働省の唐沢保険局長を訪問。20分ほど雑談。偉い人を雑談に突き合わせてしまった。唐沢さんとは彼が老人保健部の係長だったころからの付き合いだから30年近くなる。荻島企画官のもとで老人保健法のパンフレットをつくったのがきっかけだ。ある日唐沢さんに「モリちゃん、同じ大学出身だから仲良くしようよ」と言われ、「よく私は東大出と間違われるが、東大ではありません」と答えると、「違うよー、早稲田だよ」と言うではないか。私が「えっそうなの。早稲田だったら先輩をもっと立てろよ」と言うと、「おれ男だからモリちゃんを立たせることはできないよ」とわけのわからないことをいう。当時から鋭くもとぼけた人だった。厚労省を出て虎の門フォーラムの中村理事長を訪ねる。社会福祉法人のことを報告すると、「じゃもっぱら社会福祉法人の理事長をやっているの」と言うので「違いますよ、年友企画の社長業も大変なんですよ」と話す。6時近くなったので中村さんに「呑みに行きませんか」と誘うと「6時半から研究会なんだよ」と断られる。虎の門フォーラムを出て、西新橋の弁護士ビルに事務所を構える雨宮弁護士に電話。雨宮君は大学の同級生。近くのもつ焼き屋でご馳走になる。雨宮君は司法試験に合格してから検事に任官。30代位半ばで弁護士を開業したと思う。西新橋に来る前は京橋で開業していたが、事務所を西新橋にかわってから、良く呑むようになった。

10月某日
HCM社の大橋社長が友人の三浦さんを連れて私が理事長をやっている高田馬場の社会福祉法人サンを訪ねてくれる。三浦さんは大橋さんと同郷の青森県出身、大橋さんの卓球仲間でもある。三菱銀行出身で「靴磨き」の会社を立ち上げたり、今はいろんな会社のコンサルタントをやっているようだ。銀行出身者とは今まで付き合いがなかったが、民介協の扇田専務もそうだが、「堅物」というイメージとはちょっと違うようだ。事務所での話を終えてから3人で呑みに。高田馬場の東京富士大学へ行く通りの一番奥のあたりにある「鳥やす」に入る。大橋さんも三浦さんも何度か行ったことがあるそうで「安くて旨い」とのこと。実際に焼き鳥は実に旨かった。焼き鳥屋の帰りに同じ通りにある卓球場を覗く。我孫子で「七輪」に寄って、ハイボールを2杯いただく。

10月某日
内幸町の富国生命ビル28階で国際厚生事業団の角田専務らと会食。EPA(経済連携協定)で関係の深いインドネシア、フィリピン、ベトナムの興味深い話を伺う。ビールとワインを少々。終わって当社から国際厚生事業団に出向してもらっている伊東さんと東京駅北口のガード下の居酒屋へ。「角打 丸の内」という店名。サラリーマンでごった返していた。秋田の「新政」を2杯頂く。
 
10月某日
電車で読む本を家に忘れてきたので会社近くの古本屋で文庫本を物色、乃南アサの「トゥインクル・ボーイ」(新潮文庫 平成9年9月刊)を買う。100円だった。子供というか幼児の犯罪の短編集。無垢に隠された悪意やエゴイズムを作者は描きたかったのだと思う。私は別に子供好きではないが通園途上の幼稚園児などを見かけると微笑ましく思うこともある。幼児の残虐性はわかるが小説として読むとあまり後味のいいものではない。

10月某日
30年来の友人である伊藤允博さんと久しぶりに神田の葡萄舎で呑む。伊藤さんとは私が今の会社に勤める前にいた業界紙、日本プレハブ新聞社にいたころに知り合った。私は取材記者として入社したのだが、社長以下4,5人の会社だったので広告取りもやった。当時、伊藤さんが在籍していた住宅展示場の運営会社、ナショナル開発に広告出稿をお願いに行ったのが付き合うきっかけだった。伊藤さんは私より確か一歳上で早稲田大学の教育学部を卒業後、札幌テレビ(STV)に入社、新自由クラブの代議士の秘書をした後、ナショナル開発に入社した。ナショナル開発を辞めた後、インドネシア旅行社をやりながらオーストラリアのボンド大学の日本校の開設準備に携わったりした。その後、JR東日本の関連会社で住宅展示場の運営や保険の代理業を行っている会社の常務として働いていた。私とは経歴も思想信条も違うのだが、なぜか気が合うのだろう、忘れたころに連絡を取り合って呑む関係だ。伊藤さんは住宅運営会社の常務を退いた後、私の紹介である社会福祉法人に入社した。その近況報告もあり呑むことになった。約束は7時半だったが、伊藤さんは書類の整理が終わらないらしく、8時半頃の来店。それまで私は葡萄舎の店主のケンちゃんと常連客のモリタさんと店のテレビを見ていた。たまたまやっていたのが「ユーは何しにニッポンへ」という番組。この番組は息子が好きでビデオに収録したものを2,3度見たことがある。「ユーは何しにニッポンへ」が終わるとNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」を見る。モリタさんが持ち込んだ漬物を肴に呑んでいるとやっと伊藤さんが登場。伊藤さんにはベルギー産のチョコレートを頂く。

社長の酒中日記 10月その1

10月某日
石巻から小牛田経由で古川へ。車窓からはこれから稲刈りを迎える田圃やすでに刈り入れが終わった田圃が見える。ここら辺は日本でも有数の穀倉地帯なのだ。小牛田で1時間弱の電車待ち。穀倉地帯ということは酒が旨いということでもある。駅前の酒屋を訪ね地酒を買うことにする。買ったのは「黄金澤」。電車に乗って古川へ。タクシーで「穂波の里クリニック」へ向かう。迎えてくれたのは緩和支援センターはるかのセンター長、大石春美さん。大石さんは山形県の米沢市出身。母子家庭で育ちリクルートの奨学金を得て、淑徳大学の社会福祉科へ。大石さんが社会福祉士を希望することになったのは、中学のとき入院でお世話になったMSWの影響。卒業して社会福祉士の国家資格を得ても、なかなか社会福祉士の仕事に就くことはできなかった。やっと大崎市立病院へMSWとしての就職が決まるが、その直後、お母さんが亡くなる。こうして書くとなんだか不運の人のようだが、実際の大石さんはとても明るくキュートな女性だ。その明るさで何度も逆境を乗り越えて行ったのだろう。センターに案内されると高齢者がスタッフと一緒に今日の昼食を調理していた。ピーマンに具を詰めていたKさんと話す。Kさんは大正12年うまれというから私の母親と一緒。10数人の大家族の農家へ嫁いで味噌も醤油も自家製だったと誇らしげに話す。Kさんはセンターが主宰する劇団の女優でもある。人は幾つになっても役割が必要なんだと実感する。あとでスタッフに聞くとKさんは認知症だというではないか。またびっくりである。

10月某日
土曜日だが理事長を勤める高田馬場の社会福祉法人へ。現在、人員不足から休止しているデイサービスの再開についてスタッフと話し合う。結論はあと2~3人人員確保のめどがたたなければデイサービスの再開は難しいというものだった。しかし空間を遊ばせておくわけにはいかない。なんとかめどをつけて早期の再開を図りたい。昼食はグループホームで入居者の皆さんと摂る。男女とも穏やかな人ばかりだ。2回に分けてスタッフにあいさつ。入居者の尊厳、人権を守ること、安全・安心を守ることを強調した。そのうえで社会福祉法人として地域福祉にも貢献しなければならないことを述べる。早稲田大学出身で40数年ぶりで高田馬場へ帰ってきたこと、学生運動で戸塚署や商店街に迷惑をかけたこと、罪滅ぼしの意味もあって地域の福祉に取り組みたいと話す。みんな高齢者ケアへ真面目に取り組んでいることが伺えた。

10月某日
元社会保険庁長官の金田一郎さんが亡くなる。江古田斎場での通夜に行くことにする。開式30分前に行ったら社会保険研究所の川上社長が来ていた。日本IBMの顧問をしている川邉さんと式場に入る。お浄めの席で元次官の幸田さん、多田さん、浴風会の京極先生たちに挨拶する。国際厚生事業団の角田専務、健康生きがいづくり財団の大谷常務と呑みに行くことにする。江古田駅の南口へ。焼肉屋でビールを呑む。江古田は学生時代2年ほど住んだがその当時の面影はほとんどない。時間があれば当時住んでいた国際学寮のあった小竹町のあたりを散策したかったのだが。

10月某日
「FACE BOOKで見たんだけど、高齢者住宅財団の落合さんが誕生日なんだって。誕生会してやろうよ」と結核予防会の竹下さんから電話がかかってきた。私は「50過ぎたら誕生日なんて嬉しくもなんともないんじゃない」と返事したが、竹下さんは「いいじゃないかやってやろうよ」と食い下がる。竹下さんは仕事でも手腕を発揮し友情にも厚い立派な人。さらに加えれば女性に大変優しい人である。というわけで私が親しい人に声を掛けることにした。当日、予約していた「ビアレストランかまくら橋」に当社の迫田と足を運ぶ。6時過ぎに竹下さんが登場。3人でハーフ&ハーフなどを呑んでいると住宅金融支援機構の理事になった望月久美子さんが来る。次いでプレハブ建築協会の合田専務、セルフケアネットワークの高本さん、フィスメックの小出社長も。1時間ほど遅れて国立病院機構の古都副理事長が来る。肝心の落合さんは高齢者住宅財団の仕事が長引いてみんながいい気持になったところで登場。改めて乾杯。いろんな業種の人、いろんな会社の人が集まって呑むのは楽しい。「朋有り遠方より来る。亦楽しからず哉」である。遠方じゃないけどね。

10月某日
SMSという会社は看護、介護人材の紹介、介護報酬請求ソフトの開発、販売などで急成長している会社で、当社ともWEBマガジンンの原稿制作などでつきあいがある。急成長している会社だけあって組織や担当がよく変わる。最初の担当が長久保さんという好青年だった。SMSに所用があったので長久保さんに「いる?」と電話すると、「その日は神田駅北口近辺の会社に行ってます」とのこと。で7時に神田駅南口で待ち合わせて葡萄舎へ行く。私が持ち込んだ日本酒を呑む。長久保さんは北海道教育大学出身で地学専攻だったかな。長久保さんの父親が私の1歳上というから私の息子と同じ世代だ。まぁ向こうがこちらに合わせてくれているのだろうが、私は結構気が合うと思っている。SMS担当の迫田を呼び出して3人で歓談。

10月某日
国際展示場に「福祉機器展」を見に行く。「胃ろう・吸引シミュレータ」に引き続きデザイナーの土方さんが気管カニューレの模型を開発、量産の目途も立ったので一般財団法人社会保険福祉協会のブースをお借りして出展しているのだ。社会保険福祉協会のブースに行くと看護師の大津さんが実演していた。韓国の人が興味を示して韓国で売ってみたいと言ってくるなど反響は上々のようだ。大津さんと土方さん、販売担当のHCMの大橋さん、映像担当の横溝君が食事に行くとのことだったが私は先約があったので「ゆりかもめ」で新橋へ。新橋の「お多幸」でSCNの高本さんと待ち合わせているのだ。で新橋のレンガ通りの「お多幸」を探したが無いではないか。
高本さんの夫の社会保険出版社の高本社長が迎えに来てくれる。探しても見つからないはずで私の知っている「お多幸」は数年前に閉店、別のお多幸が「株式会社お多幸」として新橋3丁目の交差点付近に開店したというわけ。マグロのお刺身やおでんを肴に日本酒を頂く。フィスメックの小出社長も同席して座は大変盛り上がった。お勘定は高本社長にお世話になってしまった。なんかいつもご馳走になっているような気がする。申し訳ありません。新橋お多幸の代表取締役、柿野さんは中央大学スキー部で高本社長と一緒だったそうだ。紹介してもらい名刺を交換する。相当酔ったが、我孫子で電車を降り今日は駅前のショットバーで締めることにする。ジントニックとスコッチのソーダ割りを一杯づつ呑む。今週も呑みすぎである。

社長の酒中日記 9月その3

9月某日
図書館から借りた「リストランテ アムール」(井上荒野 角川春樹事務所 15年4月)を読む。井上は我孫子図書館でも人気で本の裏に「この本は、次の人が予約してまってます。読み終わったらなるべく早くお返しください。」と書かれた黄色い紙が貼ってある。11章からなる中編小説の各章の冒頭には「本日のメニュー」が掲げられている。たとえば1章では「プンタレッラのサラダ・カリフラワーの赤ワイン煮・蛙のフリッと・猪のラグーのパスタと白トリュフ・仔牛のカツレツ・カスタニャッチォ・罵る女」という具合である。最後の「罵る女」というのが1章のタイトルといえばタイトルになっている。メニューの半分くらいしか意味が分からない私だが、この本を読み終わる頃には「イタリア料理も悪くない。今度挑戦してみたい」と思ったほどである。ということは小説のストーリーだけでなく料理に関する文章も「読ませる」ということなんだろうな。弟がシェフで姉がウエイトレスとレジの小さなレストランがアモーレ。弟はプレイボーイ、姉は弟の料理の師匠にに片思い。そこに姉妹の父親が絡んでくるのだが、この父親、私には井上の父の井上光晴を思い出させたのだけれど。井上荒野には惣菜屋を舞台にした「キャベツ炒めに捧ぐ」という小説もあるようで今度、読んでみよう。

9月某日
家の近くの喫茶店の店頭で古書が売られている。文庫本が1冊100円なので3冊を買い、300円出すと店の人が「3冊買うと200円です」。安いなー。そのうちの1冊、「梔子の花」(山口瞳 新潮文庫)を読む。梔子は「くちなし」と読む。知らなかった。山口瞳が週刊新潮に連載していた「男性自身シリーズ」の1冊である。「男性自身」はエッセーとばかり思っていたが短編小説もあるのだ。「梔子の花」は42編の掌編小説で構成されている。週刊誌2ページ、原稿用紙10枚弱。それを毎週毎週書くというのは大変なことであろうと思う。登場人物は全編違う。登場人物の名前も当然違うのだが、名前を考えるだけでも結構大変だったのではないだろうか。登場人物は市井の人、それもサラリーマンが多い。山口は時代小説や歴史小説は書かなかったと記憶するが、山口の小説に出てくるサラリーマンは、武士道ならぬサラリーマン道を歩んでいるようにも思える。それは直木賞を受賞した「江分利満氏の優雅な生活」以来変わっていないように思う。シルバーウイークなので上野公園に行って美術館に行こうと思い上野駅で下車する。家族連れで賑わっている。ふと思い立って上野動物園に行くことにする。シルバーウイークなので60歳以上は入場無料とのこと。木戸銭を払わずに入ったのはいいが、なかは家族連れで大混雑。ニホンザルと象を見て退散する。

9月某日
「胃ろう・吸引のシミュレータ」の販売会議を新橋のHCM社で。同社の大橋社長と開発者の土方さん、それに映像で協力してくれている横溝君というメンバー。すでに開発を終え一部試験販売をしている気管カニューレを本格的に製造して販売に入るかが議題。製造コストをだれが負担するのか、という最大の問題は残ったままだが、来月に迫った「福祉機器展」には社福協のご厚意で社福協のブースの一角を借りて出品することにする。終わって新橋の青森の郷土料理の店「おんじき」で大橋さんにご馳走になる。青森弁のウエイトレスが可愛かった。もちろん料理も酒も美味しい。終わって大橋さんと神田の葡萄舎へ。

9月某日
図書館で借りた「秋山祐徳太子の母」(秋山祐徳太子 新潮社 15年6月)を読む。どこかの書評でほめていたので借りたのだがなかなか面白かった。秋山は前衛的な美術家で都知事選に立候補したことぐらいしか知らなかったがこの本を読んで相当な人物であることが分かった。それはそうと秋山の母上は千代といって明治38年生まれ。昭和10年に秋山を産み、11年に夫であり秋山の父だった英起を亡くす。以来、千代が死ぬまで母と子の二人三脚は続く。江戸っ子の千代は気風はいいし料理は上手、つねにご近所の人気者だった。その親子の日常が活写されるのだが、秋山が芸大を3浪しても受からず、武蔵野美術大学へ進学、自治会の委員長をやった4年生のときが60年安保の前夜。就職した年の6月15日、秋山は会社を無断欠勤して国会へ。経済も急成長していたし社会も政治も活気づいていたことがよくわかる。後半になって西部邁との交遊にも触れられるが、2人は全学連仲間でもあるわけだ。秋山とは13歳年下の私とは体験が異なるものの強く共感を覚えた。

9月某日
川村学園の副学長、吉武さんと西荻窪の「たべごと屋のらぼう」に行く。なかなか予約がとれない店という。お店に行く前に武蔵小金井の小金井リハビリ病院に入院している荻島國男さんの奥さん、道子さんを見舞いに行く。奥さんは前よりもずいぶん元気になったように感じられてうれしかった。「のらぼう」は確かに材料が厳選されている感じがして、それに料理への情熱というか、手間の掛け方が感じられて「なるほど人気のある店だ」とうなづかされた。

9月某日
高校(道立室蘭東高校)の首都圏同窓会、銀座の「銀波」で。私たちの高校は戦後のベビーブーム世代の高校進学に備えて急造された新設校で私たちは2回生。1回生には「東アジア反日武装戦線」事件で逮捕され、逮捕直後に服毒自殺した斉藤和、大宅荘一ノンフィクション大賞を受賞した久田恵がいるが、私たちの同級生にはそうした有名人は出ていない。だが普通科3クラス(他に商業科2クラス)のこじんまりした高校でそのぶん仲がいい。出光興産を退職した品川君が毎回、幹事をやってくれている。私は開始時間ぎりぎりの4時に滑り込んだため、席は一番端。隣が元我孫子市役所の坂本君、その隣が元横浜市役所の多羽田君、向いが元住友金属の小島君だ。私たちが就職した当時は高度経済成長期で有名企業や役所に就職した人が多い。ビール、ウイスキー、日本酒でかなり酔う。品川君と2次会(葡萄舎)へ。別れて上野駅へ。上野駅で電車に乗ろうとしたら我孫子の呑み屋で知り合った看護師、植田さんに声を掛けられる。電車では爆睡したが上田さんに我孫子駅手前で起こされる。上田さんと我孫子駅前のバー、ボンヌフでジントニックを2杯ずつ。呑みすぎである。

9月某日
井上荒野の「レストランテ・アムール」が面白かったので、同じ作家の「キャベツ炒めに捧ぐ」(角川春樹事務所 11年9月)を図書館から借りて読む。総菜屋で働く3人の初老の女の物語。ひとりは離婚、ひとりは死別、ひとりは20代で振られてからずっと独身。3人のそれぞれの事情とおいしそうな惣菜を軸に物語は進む。「リストランテ・アムール」もそうだったが、途中の紆余曲折はあるにしても基本はハッピーエンド、登場人物に悪者はいない。井上の作品には人間に対する信頼とか愛情を感じてしまうのですが。

9月某日
「介護職の看取り・グリーフケア」の聞き取り調査で宮城県石巻市に。石巻市を中心に訪問介護、通所介護、訪問入浴、居宅介護支援、グループホーム、サービス付高齢者住宅などを幅広く展開している「ぱんぷきんグループ」の渡邉社長に取材するためだ。東日本大震災の直後といってもいい2011年の5月、取材で渡邉さん(当時は常務)に会ったのがきっかけだ。その時の社長が渡邉現会長。渡邉社長は土井経営企画課長とコミュニティケアプラザの末永さんと取材に応じてくれた。この取材にはセルフケアネットワーク(SCN)の高本代表理事と市川理事も同行。というか調査の主体はSCNなので、私が同行させてもらった。取材後渡邉会長と私たち3人で歓談。渡邉会長がどうして介護の業界には入ったかかというお話。会長がトラックの運転手をしていた20代、自動車事故に巻き込まれる。「意識はあったんだよね、自分の足が自分の意志ではどうにもならずぶらぶらしているのがわかったもの」。最初に担ぎ込まれた病院では断られる。「うちではどうにもできません」。「そりゃそうだよ。看板を見たらそこは産婦人科だったのさ」。結局、大崎市の個人病院に入院し治療を受ける。「それが結果的に正解だったのさ。大きな病院だったら間違いなく片足は切断されていた」。しかし首から下を石膏のギブスで固定され身動きの取れない日が続く。「こっちも荒れてさ、病室の看護婦を泣かせてばかりいた」。そんな会長を変えたのが婦長さんの献身的な行為。クーラーのない病室、夏の暑い日が続く。ある日婦長さんがベッドの大きさにベニヤ板を持ってきてくれて「この上に寝てみなさい」といってくれた。背中を風が通り実に快適だったという。会長は快適さもさることながら婦長の「患者を想う思い」に打たれたという。「それからさ。早く良くなって困っている人の役に立ちたいと思うようになったのは」。この会長は本物だと思う。
会長の話を伺った後さっき話を聞いた末永さんが責任者をやっている小規模多機能施設を見せてもらう。木材をふんだんに使った暖かみのある建物で、末永さん自身も大変暖かい人だった。取材を終わってホテルへ。夕食を取りに外へ出るが2軒が満員。3軒目に入った「どんぐり」は最初は我々だけだったがこれが正解。石巻の海の幸と美味しい日本酒をいただく。

社長の酒中日記 9月その2

9月某日
「胃ろう・吸引ハイブリッドシミュレータ」の販売会議。これはデザイナーの土方さんが開発したもので、当初は当社が販売していたが昨年からHCM社が販売を行うようになった。今日の販売会議は私のほかに土方さん、HCMの大橋社長、映像の横溝君が参加。途中から当社の迫田も加わった。このシミュレータは介護職の医療行為が一部解禁されることを契機に開発されたもので、ほとんど宣伝していないにもかかわらず細々とだが売れている。今日の会議では気管カニューレを販売に加えるかどうかが主な議題。結論から言うと気管カニューレもやってみようということになった。会議終了後、みんなで食事。西新橋のHCM社の近くにあった廣豊苑という中華料理屋が内神田に移転したのでそこに行くことにする。土方さんは40代、横溝君は30代、大橋さんは60代前半、私が60代後半。シミュレータがなければ出会うことのないメンバーだが、何となく気が合って打合せの後の酒が楽しみ。

9月某日
民介協の関東甲信越地区の研修会に参加。会場のあいおいニッセイ同和損保新宿ビルに着くと概ね席は埋まっていた。最初の1時間は民介協副理事長でエルフィス社長の阿部さんから「民介協の考えるサ責のあり方」についての講演があり、次いでソラストの田口さん、カラーズの田尻さん、若武者ケアの吉田さんを加えてパネルディスカッションが行われた。田尻さんからは大田区の訪問介護事業者連絡会の取り組みが報告され、吉田さんからはサ責とマネジャークラスとのコミュニケーションの大切さが報告され、私には興味深かった。懇親会は新宿南口のイタリアンで。吉田さんが隣に座り、向かいにはソラストの新松戸事業所の平田さんが座った。2人とも若い女性だったので楽しかった。考えてみると介護の現場を支えているのは圧倒的に女性だ。女性に好かれる職場づくりも大切なテーマと言える。

9月某日
社会保険出版社の高本社長に「こくほ随想」の筒井孝子兵庫県立大学大学院教授の連載コピーを渡される。筒井さんは何年か前に今は神奈川大学教授の江口さんに紹介されたのがきっかけ。当時は国立保健医療科学院の主任研究官だった。医療、介護にかかわる精緻な研究実績と該博な知識を持っているが、それを少しも表に出さない謙虚な人だ。それはともかくこの随想は「保険制度成立前の世界の概観」というテーマからはじまる。書き出しは釈迦の出家した理由、王城の東門で老人に、南門で病人に会い、西門では葬列に遭遇し、人生の無常の姿を見、北門では出家者の堂々たる姿をみることで、そこに自分の進むべき道を見出したとされるエピソードである。このエピソードがどうして「保険制度成立前の世界の概観」につながるのか?筒井さんは続けて書く。「さて、現代日本に生きる我々は、釈迦出家の理由となった老いや病、死に対応するために国家による公的医療保障制度や民間の生命保険制度といった多様な制度によって、悟りに至らずとも、必ず迎える老いや病や死に対するリスクを管理してきた」。で筆は保険制度成立前の無尽や頼母子講などの仕組みに進むのだが、私は筒井さんの論法にこの前亡くなった青木昌彦の「制度論」に似たものを感じてしまった。(こくほ随想は社会保険出版社のホームページで閲覧することができます)

9月某日
「介護職の看取り、グリーフケア」の調査でSCNの高本代表理事と当社で打合せ。元厚労省で現在筑波大学の准教授でもある宇野さんが参加、いろいろと貴重なアドバイスをもらう。打合せの前に結核予防会の竹下専務のところに寄ったら「今日、呑もう」と言われたが、「打合せの後、呑み会があるから」と断ったら、「私も入れて」ということになった。会社の前の「ビアレストランかまくら橋」で待っていてもらう。途中からSCNの市川理事、SMSの長久保さん、当社の迫田が参加。だいぶ遅れて高齢者住宅財団の落合さんも合流。ドイツ、フランス、イタリアのワインの話に始まって、アメリカの利上げの可能性、宇野さんの株式投資とマンションリフォームの話と相変わらず脈絡のない話題で終始した。しかし酒を呑んで深刻な話をしてもしかたがないのだ。我孫子の駅前の愛花に顔を出すと、筑波大学の看護学の大学院生だった上田さんが来ていた。東京有明医療大学の助教という名刺をもらった。

9月某日
全住協の加島常務とGPIFの内田さん、それに年住協の森さんを加えて呑み会。場所は前日と同じ「かまくら橋」。後から迫田が加わる。加島さんとは年金福祉事業団以来の付き合いだから、25年以上の付き合い。昔話に花が咲いた。内田さんは奥さんと山歩きを始めたようで「山ガール」の迫田と話が弾んでいた。我孫子駅前の愛花に寄ると、昨日と同じく上田さんがいた。デジャブ?

9月某日
SCN(セルフ・ケア・ネットワーク)とやっている「介護職の看取り、グリーフケア」の調査の打合せで日本橋小舟町にあるSCNの事務所へ。インタビュー調査のテープ起しががだいぶたまってきたのでこれを整理しなければならない。私がやろうと思っていたが挫折、当社の浜尾さんが10月からフリーになるので浜尾さんにやってもらうことにした。それで2人でSCNを訪問した。「社長(私のこと)はすぐ飽きちゃうからなぁ」と高本代表理事。その通りです、すみません。めでたく浜尾さんに引き継いでもらうことができた。高本さんにランチを御馳走になる。事務所の近くの「恭悦」という和食の店へ。ここでは何度かご馳走になったがランチは初めて。「豚肉となすの味噌炒め」を注文する。実に美味しかった。ここの食事は美味しいだけでなく「見た目がきれい」なのも特徴。小舟町界隈にはしゃれた店が多い。

社長の酒中日記 9月その1

9月某日
昨日、会社へ帰ると当社の浜尾が「横溝君とにんじんの会の中村さんが見えています」と言うので会議室であいさつ。横溝君は当社の映像部門のビジネスパートナーで、社会福祉法人にんじんの会が企画した認知症予防に効果のある「ダンダンダンス」の映像化をお願いしている。夕食を中村さんと浜尾の3人でレストランかまくら橋でいただく。中村さんは立教大学大学院でにんじんの会の石川はるえ理事長に指導を受け、今年から入職したということだ。福祉というよりは人事管理や人事制度が専門らしいが、福祉と言う仕事に熱意と興味をもって取り組んでいるのが伺われた。

9月某日
横浜市のひまわり訪問看護ステーションの松尾代表にインタビュー。介護職の看取り・グリーフケアについて聞く。場所は「ひまわり」が経営する「あかつきデイサービス横浜北」。新横浜からタクシーで10分ほどの住宅地にある。ここのデイサービスは利用者の男性比率が高いのが特徴。終末期をどうしたいか、利用者・家族の事前指示書を作成中と言う。利用者も家族も死を前にしていろいろと揺れ動くのだ。その時々の希望を事前指示書と言うことで書面に残しておくということだろう。そのためにも家族同士の話し合いが必要ということだ。とくに夫婦はよく話し合っておくべきだと松尾さん。なるほどねー。

9月某日
特別養護老人ホームでの看取りについて社会福祉法人きらくえんを取材する。SCNの高本代表理事、当社の迫田が同行。神戸市三宮の法人事務局へ土谷千津子副理事長を訪ねる。けま喜楽苑の西久保孝子施設長も同席。喜楽苑には利用者の自治会があると聞いてびっくりする。しかし考えてみるとマンションに自治会があるのは当たり前なのだからびっくりするほうがおかしいのかもしれない。入居者の終末期や看取り、グリーフケアについて丁寧な説明を受ける。喜楽苑は高齢者住宅財団の落合さんの紹介だが飲み友達の堤修三さんも理事をやっているし、けま喜楽苑の設計監修をやったのが亡くなった外山正さん。何か不思議な縁を感じる。
法人本部を出て三宮の地下街で3人でお昼。高本代表理事は調査の監修を依頼している関学の人間科学部の坂口教授に面談しに西宮へ。私と迫田はSMSの「ケアマネ・ドットコム」の取材で朝来市へ「特急こうのとり」に尼崎から乗車する。尼崎から2時間はたっぷり在来線の特急に乗って和田山へ。駅前の市役所別館で主任ケアマネの中治さんを待つ。会議を終えて中治さんが素敵な笑顔を浮かべて登場。中治さんは午前中取材した社福の「きらくえん」の「いくの喜楽苑」介護支援事業所所属の主任ケアマネ。「役職定年を迎えたので現場に出かけられるのがうれしい」と語るはつらつとした女性だ。中治さんは大学で栄養学を学んだあと、一念発起して板前を志望、板場修行に入る。しかし当時、女性の板前志望者は希で、指導する側、指導される側双方に戸惑いがあったようで挫折する。人生の挫折は人を打ちひしがせるが同時にその人の人生に厚みと幅を与える。中治さんにもそんな感じを抱いた。実は朝来市に来たのは「朝来発・地域ケア会議視察研修会」を取材する目的もあった。視察研修会は翌日なのだが、前泊組の全国のケアマネたちと食事会があるのでそれにも参加することにする。朝来は但馬牛の産地ということでおいしい牛肉を頂く。だがそれよりも北海道や山形、九州、四国からも参加した全国のケアマネたちと話せたのが収穫。自腹を切って参加した人も多く、山形のグループはレンタカーで仙台空港へ。仙台空港から関空へ、関空からまたレンタカーで朝来まで来たという。彼らをそんなにもひきつけるのが朝来の地域ケア会議なのだ。

9月某日
「朝来市発・地域ケア会議視察研修会」は午後1時から和田山ジュピターホールで開催される。近くの食堂でマツタケご飯で腹ごしらえをしてから参加する。第1部の講義では朝来市の地域包括の主任ケアマネである足立理江さん(この業界では有名な人らしい)が「朝来市の地域ケア会議」~暮らしを支える資源開発・政策形成への道筋という講演を聞く。こうした講演はえてして成功例を取り上げがちなのだが、足立さんの講演は「朝来市の失敗から学ぶ」から始まってとても説得力があった。地域ケア会議、在宅医療連携会議、ケアマネジメント支援会議、向こう三軒両隣会議、認知症施策を検討する脳耕会などでの話し合いがバラバラに行われていたと総括。「地域課題に優先順位をつける」「マトリックスで着手順位を可視化する」などにより問題点を克服していったようだ。前日インタビューした中治さんも出演する「ケアマネジメント支援会議の実際」も聞きたかったが、その日は京都で約束があるので途中で失礼する。
和田山から特急で2時間かけて京都へ。新幹線にすっかり慣らされてしまったが新幹線網から外れた地域のほうが日本には多いことが痛感させられる今回の旅ではあった。京都では元厚労省の阿曽沼さんと「割烹たいら」で食事。阿曽沼さん痛風を患っているそうでノンアルコールビールを呑んでいた。

9月某日
京都から名古屋へ。建築家の児玉さんと会う。「味噌煮込みうどん」を食べる。朝来市の地域ケア会議のことを早速話す。自分のことのように自慢して話してしまった。私の悪い癖である。

9月某日
理事をやっている社会福祉法人サンの理事会・評議員会。現在の理事長である西村美智代さんに代わって10月から私が理事長を引き受けることになった。「西村さんから要請があり軽く引き受けてしまったが現在は身の引き締まる思い。利用者の皆さんや地域の皆さん、職員の方々に学びながらよりよいケアと経営の安定をはかりたい」とあいさつする。評議員として元厚労省の足利さんも参加してくれ、いろいろと発言してくれる。

9月某日
大学の同級生だった弁護士の雨宮君を弁護士会館の事務所に訪ねる。沖縄の依頼者からの頂戴ものという40度の泡盛を事務所で呑み、その後、近くの呑み屋でご馳走になる。同じく同級生だった内海君がいすゞの関連会社の役員を退任、ミラノへ行くという話を聞く。内海君は父上の仕事の関係で高校生の頃、アフリカに行ったり、いすゞに入社してからもインドネシアに赴任したりと、私の知り合いの中ではグローバルな人だったがこの年になってミラノとは。

9月某日
「地域包括ケアシステム・介護推進議員連盟」の設立総会が衆議院第一議員会館でk再際された。民介協の扇田専務が誘ってくれたので出席する。会場で民介協の佐藤理事長、安東さんと待ち合わせ。麻生太郎財務大臣が会長に就任する。日本介護福祉士会の内田千恵子副会長に挨拶。終了後、富国倶楽部で呑み会。二次会でおねーチャンのいる銀座の店に連れて行ってもらう。こういう店は久しぶりなのではしゃぎすぎてしまったかも。

社長の酒中日記 8月その3

8月某日
船橋市の薬園台にあるサービス付高齢者住宅を取材するというので同行させてもらう。松戸から新京成で35分ほどで薬園台に着く。そこから15分ほど歩くと目指すサービス付高齢者住宅があった。運営しているのは株式会社シルバーウッドで社長の下河原忠道さんに話を伺う。建物は3階建てで入居者の表情が明るいのが印象的だ。床はすべて木材、開口部も広く、採光も十分だ。成功している介護事業者を取材して思うのはビジネスと福祉をうまく融合させている点だ。シルバーウッドもまさに融合させていると思った。福祉マインドとビジネスマインドの融合は可能だし、また融合させていかなければ地域包括ケアシステムも成功しないだろうと思った。そして特別養護老人ホームからサービス付高齢者住宅、グループホームへの流れは変わらないと思う。

8月某日
ご近所で親しくさせてもらっていたOさんが亡くなった。私が現在住んでいる我孫子市に引っ越してきたのが大学を卒業した1972年。Oさんはそれから数年して越してきたはずだから40数年の付き合いとなる。自治会を手伝ったりゴルフにも誘ってもらったこともある。Oさんは会社を退職してから自宅で社会保険労務士事務所を開設、松戸支部や船橋支部で当社の年金図書の販売にも協力してくれたり、千葉県の国民年金委員にも就任してもらったりした。長崎出身で被爆者の会もやっていたし手賀沼周辺に捨てられた犬猫の面倒を見る手賀沼ワンニャン倶楽部も主宰、それに週に2~3度ボランティアを募って近所の夜回りをやっていた。熱心な創価学会員で葬儀は我孫子のセレモニーホールで創価学会の友人葬として執り行われた。私は妻と参加したが公明党我孫子市議の関さんの顔を見かけたので挨拶する。

8月某日
介護事業所を主な得意先とする八王子の社会保険労務士、吉澤さんが事務所に来てくれる。吉澤さんは福祉系大学を卒業して社会福祉士の資格を得て老健施設に就職、生活相談員になるつもりが、本部の人事・労務管理部門にまわされた。社会保険や労働保険、労働基準法のことも知らず、書籍で調べたり役所に確認しながらの毎日だったという。社会保険労務士という国家資格があることを知り、試験に合格して開業に至った。私は介護業界の将来はケアの中身の充実と同時に事務管理部門の合理化が必要と日ごろから考えていただけに吉澤さんの思うところはいちいち納得できた。「仕事のABCって知ってます?」と吉澤さん。
答えは「当たり前のことを(A)、馬鹿にしないで(B)、チャンとやる(C)」。なーるほどね。深く納得。夕方になったので当社の迫田と3人で会社近くの「福一」へ。吉澤さんは全くの下戸だが気持ちよく付き合ってくれた。

8月某日
千葉年金相談センターで千葉県地域型年金委員会の研修会と理事会。1時間ほど遅れて参加。厚生年金と共済年金の統合の話を聞く。年金制度の柱はもちろん保険料の徴収と年金の給付だが制度に対する国民的な理解は欠かせない。年金機構や厚労省はもっと年金委員の活用を考えたほうがいい。会議が終わった後、高校の同級生の品川君と待ち合わせ。「甘太郎」で一杯。

8月某日
理事をやっている高田馬場のグループホームへ行くために高田馬場駅から歩き始めたらばったり関さんに会った。関さんというのは10年位前まで赤坂で「邑(ゆう)」というクラブのママをやっていた女性で、実は早稲田大学政経学部で私や私の奥さん、浪漫堂の倉垣会長、弁護士の雨宮君などと同期。「関さん!」と声を掛けると「どなたでしたっけ?」とけげんな顔をされる。「おれだよー、森田だよ」というと「あーモリちゃん。太った?」だって。そのうち高田馬場で呑もうということになった。社会福祉法人でエレベーターの補修工事の打合せ。それが終わると山手線で上野へ。公園口の改札でSCNの高本代表理事、市川理事と待ち合わせ。東北線で上野から一つ目の尾久へ。介護事業所の介護ユーアイの社長でケアマネジャーでもある馬來さんに介護職の看取り、グリーフケアについてインタビュー。全身に入れ墨を施したおじいちゃんを看取った話など面白かった。途中からヘルパーステーションの管理者、吉田さんも参加してくれた。吉田さんは最初に利用者を看取ったときはさすがに戸惑ったが、それ以降は淡々とこなしているそうだ。本人や家族とコミュニケーションをよくしてニーズをきちんと把握していること、訪問看護ステーションと連携をしていることなどがうまくいっている秘訣のようだ。実は馬來さんは大学の3年、4年を過ごした国際学寮で一緒だった。馬來さんは愛媛県新居浜市出身で高校時代は柔道の猛者。大学卒業後、職を転々とした後、鍼灸師の国家資格を取得、鍼灸院を経営していたが、介護保険が始まってケアマネ試験に合格して介護事業所をはじめた。尾久は地名は「おぐ」だが駅名は「おく」。秋葉原も地名は「あきばはら」だが駅名は「あきはばら」。まぁどうでもいいけど。上野に戻ってガード下の「勇」で反省会。安くて美味しい店でした。

8月某日
社会福祉法人の西村理事長が来社。民介協の扇田専務を紹介。民介協の創業時のメンバー安藤幸男さん(埼玉県東松山市に本社のある(株)福祉の街会長)と西村理事長は古くからの友人なので話は早かった。5時ころ御徒町の「吉池」9階の吉池食堂へ。健康生きがい財団の大谷常務と大谷さんの東京福祉専門学校時代の教え子三浦さんがすでに待っていた。三浦さんは社会福祉学科を卒業後、故郷の北海道で施設に就職したが、その後いろいろあって今はトラックの運転手をやっている。人間的によさそうなので社会福祉法人のサンへの就職をお願いする。

8月某日
田辺聖子の「夢渦巻」(集英社94年11月初版 初出は92年から94年にかけて「小説すばる」に断続的に連載)を読む。田辺得意の恋愛ものなのだが、この短編集は「出会いと別れ」がテーマといってよい。たとえば「夢笛」は互いに憎からず思っていた男女のうち男が結婚、その後疎遠になっていたが偶然再会し飲み友達に。この関係は「せぇへん仲」つまりセックスしない関係である。正月休みに女の家を男が訪ね、大晦日を共に過ごす。ささいな行き違いから男は女の家を出る。しかし男は戻り二人は初詣に出かける、というストーリー。あるいは互いに婚約者がいる男女、男が呑みすぎてへべれけに。女はしかたなしに男とホテルに泊まるが、それを男の婚約者に目撃され、双方の婚約は解消されるが、男と女が出会った呑み屋に女が行くと男が呑んでいる(夢吟醸)。私が好きなのは「夢煙突」。結婚を控えた男女。女には痛切な恋の思い出がある。学生時代の芦屋に住むボーイフレンドの父親に恋をした思い出である。もちろん父親に告げることなどできない。ボーイフレンドは突然、交通事故死する。女は父親のために泣く。女は思い出を辿りながら自分の結婚式に臨み、幸福になることを誓う。田辺の恋愛小説は安心して読めるうえに人生のユーモアと哀しみを感じさせてくれる。

社長の酒中日記 8月その2

8月某日
村上龍の「オールド・テロリスト」(15年6月初版)を図書館で借りて読む。560ページの大著。でも面白かった。ストーリーは週刊誌の契約記者をやっていた「おれ」は週刊誌の廃刊を機に失業、酒に溺れ妻子にもシアトルへ去られる。NHK西口玄関へのテロ予告電話をきっかけに、所属していた出版社の上司から現場取材を依頼される。テロは決行され何人かが死ぬ。犯人と思しき若者たちが自殺する。犯人を追う過程でカツラギという若い女性と知り合い、事件の背後には旧満州国の存在があることがおぼろげながらわかってくる。こうやって粗筋をたどると荒唐無稽な冒険小説の感じなのだが、私は冒険活劇小説としても大変面白く読ませてもらった。だが時代設定が2018年ということは近未来小説である。北朝鮮軍が北九州を侵攻する村上の「半島を出でよ」と同じジャンルといってよい。私が村上の近未来小説を面白いと感じるのはNHKへのテロや北朝鮮軍の侵攻が現時点では荒唐無稽かもしれないが、しかし状況のちょっとした変化によっては圧倒的なリアリティを持ちうるということにある。そしてこのテーマのリアリティを支えるのは細部のリアリスティックな再現である。この小説では例えば、終戦時に旧満州国から秘密裏に分解して日本に持ち込まれた旧ドイツ軍の88式対戦車砲の存在である。事件の解決は結局米軍に委ねられ、犯人グループつまりオールドテロリストたちは壊滅する。この小説は主人公の「おれ」の再生の物語としても読めるのだが、同時に閉塞感を強める日本社会と有事立法に奔走する現政権への批判にもなっているような気がする。

8月某日
HCMの大橋社長、デザイナーの土方さん、映像の横溝君、それに当社の浜尾と私の5人で大手町ビルの地下2階にある「魚力」で呑む。これはどういうメンバーかというと土方さんは「胃ろう・吸引シミュレーター」の開発者、大橋さんは現在それの販売元、横溝君はそのPR用の映像を制作してくれた。横溝君と当社の浜尾は現在、社会福祉法人にんじんの会の石川さんと一緒に「介護職の危機管理」という映像の制作に取り組んでいる。まぁ上下関係のないフラットな関係、一種の多職種協働と言えなくもない。本日の話題の中心となったのは「卓球」。大橋さんは大正大学で卓球部、社会人となった今も続けている。土方さんの息子さんは中学で卓球部に所属しているという。ラケットの握り方、ペンホルダーとシェイクハンド、の話題で盛り上がっていた。

8月某日
SCNの高本代表理事と市川理事が西新橋の特養「さくらの園」での仕事が終わってから打合せしたいというので西新橋のHCMの事務所を借りることにする。「介護職の看取り・グリーフケア」について打合せ。SCMとHCMで港区内での卓球を使った介護予防などができるのじゃないかと話が盛り上がる。その後、私は高田馬場のグループホームへ。不動産物件の管理をしている不動産屋さんと名刺交換。グループホームを運営している社会福祉法人サンだけでなく高田馬場の点字図書館やいろいろな福祉施設に寄付をしている、この辺の大地主、池田輝子さんの小冊子を頂く。池田輝子さんは私の母親と同じ大正12年生まれで、しかも目白の川村女学校出身まで一緒だ。小冊子には点字図書館の寄付には厚労省の河さんも関わっていたことが記されていて、浅からぬ因縁を感じてしまった。

8月某日
会社の近くに古本屋がある。間口1間ほどの小さい古本屋だ。店内を一周して新潮文庫の「瑠璃色の石」(津村節子)と岩波現代文庫の「ゾルゲ事件獄中手記」(リヒアルト・ゾルゲ)を買うことにする。2冊で400円はブックオフより安いと思う。店の人に聞くとここに店を開いて10年以上経つらしい。「瑠璃色の石」は津村節子が洋裁学校を経て、姉妹と洋裁店を経営しながら普通より5年ほど遅れて学習院短期大学に入学、大学の文芸部のキャップだったのちの夫となる吉村昭(小説では高沢圭介)との出会いや、文芸誌発行の資金稼ぎのための落語会の開催、三島由紀夫、中山義秀、田宮虎彦ら有名作家との出会いが嫌味なく語られている。これが一章でいわば戦後の青春文学物語である。社会全体が貧しくとも夢だけは豊富だったことがわかる。二章は津村節子と吉村昭の新婚時代から二児を設けるまでである。津村は少女小説を書きながら家計を援け、吉村は紡績の業界団体の事務局長を務めながら習作に励む。同人仲間の瀬戸内晴美(寂聴)を自宅に招き、ハンバーグを御馳走するシーンは微笑ましくもあり、津村の切羽詰まったような心境がいじらしくもある。後に津村は芥川賞を受賞、遅れて吉村は太宰賞を受賞する。

8月某日
図書館で借りた「無銭優雅」(山田詠美 幻冬舎)を読む。作者とほぼ等身大の「私」は予備校講師の栄と恋仲になる。「私」は吉祥寺で友人と花屋を営み、三鷹の実家から通う。実家は2世帯住宅で2階には「私」と両親が住み、階下には兄一家が住む。「私」と予備校講師の栄はそれぞれ生業は持っているものの「浮世離れ」している。この2人と「私」の両親あるいは兄夫婦の対比が面白い。「浮世離れ」とは言うけれど、人は浮世とは完全に離れては暮らせない。かといってリアリズム、現実だけでも暮らして行けない。まぁ暮らして行ける人もいるでしょうけど、お友達にはなりたくない。たとえば階下の兄夫婦が兄の浮気を巡って夫婦喧嘩し、それに釣られて母親も父親のかつての浮気を責めるのだが、配偶者の浮気などはどっちにしろ現場を押さえたわけではないのだから「完璧な現実」とは言えない。山田詠美の小説には現実からの浮遊感が漂ってくる。そこにわたしが魅かれる理由があるかもしれない。

8月某日
駅前の本屋で買った「本を読む女」(林真理子 集英社文庫 15年6月)を読む。単行本は25年前の90年6月新潮社から刊行されている。林真理子の実母をモデルにしている主人公の万亀は大正の終わりに山梨の裕福な菓子屋の末っ子として生まれる。子供のころから作文や読書が好きで、作文が「赤い鳥」に掲載され地元紙のインタビューを受けたりする。母親の方針もあり東京の女子専門学校に進む。結婚にも気乗りがせず相馬の青年学級で教鞭をとるが、山梨へ呼び戻される。菓子屋に出入りしていた中学生が東京で出版社を起業、今度はそこで事務職に就く。30近くなって見合いによって結婚、夫の赴任先である満州へ渡る。戦後、生きてゆくために山梨の農産物を東京に運ぶ闇屋となるが、手にした現金で本を仕入れ始める。私は時代に翻弄されながら小説や古典をほとんど唯一の糧として生きてきた女性のビルディングロマンとして面白く読んだ。それにしてもこの小説は母親や親戚への取材をもとにしていると思うが、作家を家族や親族に持つのは大変なことだと思う。

8月某日
我孫子駅前の書店の新書コーナーに寄ったら中公新書の「チェ・ゲバラ―旅、キューバ革命、ボリビア」(伊高浩昭 15年7月)が平積みにされていた。著者は元共同通信の編集委員。まえがきを立ち読みすると「貧困に苦しむ人や虐げられた人々を救い、新しい社会や国を創る「革命という正義」に身を投じたチェは、革命家であることを「人間最高の姿」として誇りにしていた」とあり、さらに本書には「神話化され偶像視されたチェ・ゲバラ」ではない、チェの生身の人生が描かれているというので迷わず購入する。私のゲバラに対する理解はアルゼンチンに生まれて医学を学び、キューバ革命をカストロ等と闘い、革命成就後は中央銀行総裁や工業相を務めた後、キューバを出国、ボリビアでゲリラ戦をの渦中で戦死するというものだ。本書を読んで私の理解は基本的には間違っていなかったと思うが、改めて思ったのは本書が描いている1950年代から60年代末のラテンアメリカの激動は、ラテンアメリカに固有の現象ではなく日本を含む先進国、さらにアジア、アフリカに共通した現象ではなかったかということだ。ゲバラがボリビア山中で政府軍に身柄を拘束された1967年10月8日は、日本では反日共系の3派全学連が当時の佐藤首相の訪米阻止を叫んで第1次羽田闘争を展開し、京大生の山崎博昭君が死んだ日でもある。地球の裏側でのゲバラの検束と死と三派全学連の羽田闘争と山崎君の死は通底しているように思われてならない。日本の革命的な学生運動はゲバラの山岳ゲリラを模倣したかのような連合赤軍の敗北、あるいは一方的に帝国主義本国としての日本帝国主義に爆弾闘争で戦いを挑んだ反日武装戦線「狼」の敗北後、急速に勢いを失っていく。
ゲバラが死んで50年近くなる。世界も日本も豊かになっているように見える。実際一人あたりのGDPは何倍にも増えたはずだ。だが日本においてさえ貧困の問題が解決したとは言えない。おそらく目を世界に転じれば飢えや伝染病に苦しむ子供たちも存在するに違いない。革命思想をもとにした武装闘争は影を潜めたが、IS(イスラム国)などの宗教的テロリズムは存在感を誇示し、先進国の若者を誘惑している。そして何よりもゲバラには貧しい人々や虐げられた人々を救済するという明確な目標があった。ゲバラにとってはそれが「坂の上の雲」だったんだろうな。1冊の新書でいろいろと考えさせられた。

社長の酒中日記 8月その1

8月某日
青木昌彦氏が先月亡くなった。日本経済新聞に「私の履歴書」を連載し、日経には訃報とともに「評伝」が載せられそれだけでも青木氏が高名な経済学者であることが知れる。だが私などにとっては青木氏は60年安保ブンドの理論的指導者、姫岡玲二としてなじみが深い。なじみが深いとは言っても氏の「国家独占資本主義」を読んだわけでもなく、われわれ70年安保世代にとってはなかば「伝説の人」であった。そんなわけで氏の死に際して何か著作を読んでみようと例によって近くの我孫子図書館を訪れた。ちくま新書の「青木昌彦の経済学入門」(2014年3月)というのがあったので借りて読むことにする。通読してみてこの人は大変に頭脳明晰で創造性にも富み、なおかつ謙虚であることが理解できた。
 マルクス経済学から宇野弘蔵の原理論、段階論、現状分析に触れて「意外と現在の比較制度分析の考え方と似通っているところがあります」として、制度とは何かを均衡論として原理的にとらえ、これが各国、各時代にどのように表れるか比較形態論的に考え、それをもとに政策論やメカニズム・デザイン論が現状分析にあたるというわけだ。なによりも感じたのは氏が「失われた20年」ではなく「移りゆく30年」と強調していることである。たとえば日本の終身雇用制度や社会保障制度、教育制度、グローバル化した経済への対応など「失われた20年」という発想ではなく「移りゆく30年」のなかで、どのように制度的な移行ができるかが問われているのだと思う。

8月某日
社会福祉法人長岡福祉協会の経営する特別養護老人ホーム「新橋さくらの園」で夏祭りがあるというので出かけることにする。ここは大規模福祉施設「福祉プラザさくら川」を運営する施設。長岡福祉協会首都圏事業部では現在、1都2県に拠点6か所、20事業を展開している。先月、月島の特養を見せてもらった。月島で取材させてもらった笹川施設長も浴衣を着てサービスをしていたので挨拶。長岡福祉会を紹介してくれたSCNの高本、市川さんも「うちわつくり」を出店していたので顔を出す。1時間ほど見学して一緒に行ったHCMの大橋社長と施設を出る。ニュー新橋ビルで酎ハイを頂く。今日は我孫子の花火大会。あびこ型地産地消推進協議会の米沢会長のマンションの屋上から見物しようと川村学園大学の吉武副学長から誘われているので行くことにする。会場の正面、8階建てのビルの屋上なので花火もよく見えたうえに暑さもしのげた。

8月某日
プレハブ建築協会(プレ協)の合田専務と神田の葡萄舎で待ち合わせ。合田さんは私が日本プレハブ新聞社の記者だったころだから、今から30年以上前に初めて会った。合田さんは当時の建設省住宅局住宅生産課で工業化住宅つまりプレハブ住宅担当の係長だった。つまり日本プレハブ新聞としては絶対に外せない取材対象だった。毎週毎週、住宅生産課に顔を出したが、合田さんは嫌な顔ひとつせずに付き合ってくれた。合田さんは東大の都市工学科を出た秀才だが私たちともよく呑みに付き合ってくれる。そう言えば私がプレハブ新聞の記者だったころプレ協の専務はずいぶん「おじいちゃん」だった印象だけど、今、世間の若い人たちから見れば、私たちは立派な「おじいちゃん」なんだろうな。遅れて健康生きがいづくり財団の大谷常務が参加。

8月某日
地方議員を対象にした「地方から考える社会保障フォーラム」に参加。そまま夜の意見交換会にも出る。講師として参加した唐沢保険局長、ふるさと回帰支援センターの高橋代表理事も出席してくれた。我孫子の関市会議員や下関の田辺市会議員などが土地の名物を差し入れてくれる。私としては「高齢者の栄養指導と食事」の話をした管理栄養士の奥村恵子さんの話が興味深かった。名刺を交換して少しだけだが話をすることができた。

8月某日
会社近くのビルの地下に「ちょろっと」という小料理屋ができた。以前は焼き鳥屋さんで何度か行ったことがある。いつの間にか代替わりして小料理屋になっていた。東商の鶴田さんを誘って当社の岩佐、迫田と行くことにする。内装も洒落た感じに変わっており、なにより料理が見た目も綺麗で美味しかった。店主は岡山県津山市の出身で岡山の地酒も旨かった。呑み代込みで一人5000円は安いと思う。

8月某日
高田馬場でグループホームを運営している社会福祉法人サンの理事をやっている。介護の質を向上させながら職員の待遇にも配慮しなければならないし、そのためには入居者の確保が欠かせない。それに社会福祉法人である以上、地域の福祉への取り組みも必要となってくる。気軽に理事を引き受けたが簡単な仕事ではない。勉強のために週に一度は訪れ理事長や事務局の人たちと話すようにしている。今日も16時過ぎに訪問して理事長と懇談。評議員をやってもらっていた三木智子さんが亡くなったことを知る。お通夜は明日と言うことなので一緒に行くことにする。健康生きがいづくり財団の大谷常務に電話して、「レストランかまくら橋」で地域福祉の展開等についてレクチャーを受ける。

8月某日
三木さんのお通夜が南柏会館で行われる。サンの西村理事長と参列。三木さんは総合病院の総婦長を長く務め、看護師やドクターが多く参列していた。現職の看護部長が弔辞を読んでいたが、患者本位の看護を貫いた人だったようだ。私も以前組織運営上の悩みを聞いてもらったことがあるが的確な返答だった。お通夜は無宗教で音楽葬だった。こういうのも悪くない。

社長の酒中日記 7月その3

7月某日
小熊英二の「生きて帰ってきた男―ある日本兵の戦争と戦後」(岩波新書 15年6月刊)を図書館で借りて読む。一言で言うと英二の父、小熊謙二のオーラルヒストリーなのだが、私にはとても面白かった。謙二は北海道の佐呂間村で1925(大正14)年に誕生した。6歳のときから東京の祖父母に育てられ、早稲田実業を卒業、富士通信機製造に就職したのが1943(昭和18)年である。1944年の11月、19歳になった謙二に陸軍の入営通知が届く。謙二は満州で軍務に就くが、戦闘体験もないまま旧ソ連軍の捕虜となりシベリアに送られる。3年の抑留から無事帰国するが、小さな会社を転々とするうちに結核を患い、新潟県の国立療養所に入所する。1956(昭和36)年、謙二は片肺を手術で失いながらも療養所を退所することができた。謙二は30歳になっていた。1958年、謙二は株式会社立川ストアに就職、ようやく安定した生活を手に入れる。私がこの新書を興味深く読んだのは、私の父と母が1923(大正12)年生まれで謙二と同世代ということもあるかもしれない。
とくに私の父は謙二と同じ北海道の生まれ、家が裕福ではなかったので旧制中学には進学できず、高等小学校から苫小牧工業学校に進学、成績が優秀だったせいか京都工芸繊維高等専門学校を経て東京工業大学へ進んだ。謙二との大きな違いは理工系学生だったため徴兵が猶予され軍隊体験がなかったことだ。私の父は20年近く前に死んでいるが、社会主義者ではないが革新政党の支持者だったり、反戦的であったりするところが謙二と「似ている」と思わせる。そんなところも面白く読んだ一因かも知れない。

7月某日
SMSの河田さんが9月から出産および育児休業に入るということなので、長久保さんや竹原さん、河田さんの後任の岡部さんを招いて富国倶楽部で呑み会。SMSは30年ほど前、一緒に仕事をしていたリクルートと似た雰囲気があるような気がする。当時のリクルートも現在のSMSも若いという共通点がある。変わったのは私が年を重ねたことね。SMSの連中はみな私の子供の世代だ。

7月某日
四谷の東貨健保会館のホールで社会保険倶楽部霞が関支部の総会。総会後のセミナー「保健医療改革の動向」(前厚労省保険局長の木倉敬之氏)を聞きに行く。元官房副長官の古川貞二郎さんも聞きに来ていた。セミナー後の茶話会で幸田正孝さんや多田宏さん阿倍正俊さんらに挨拶。阿倍さんは社会保険の現状を「これでいいのか」と熱く批判。阿倍さんの論は正しいと思う。多少、鬱陶しいけどこうした人は必要だと思う。6時から会社近くの「ビアレストランかまくら橋」で唐牛真紀子さん間宮陽介さん、堤修三さんと呑み会。間宮さんは元京大経済学部教授でケインズを訳したり「丸山真男」などの著作がある。堤さんは元社会保険庁長官で、おととしまで阪大教授。もともとは堤さんと亡くなった高原さんと私の3人でよく呑んでいた。高原さんが亡くなった後、堤さんと高校の同級生だった間宮さんが京大を定年で退官、3人で呑むようになった。唐牛さんは60年安保の全学連委員長、唐牛健太郎さんの未亡人。浪漫堂の倉垣さんを通じて知り合った。間宮さんは東大で西部邁と親交があり、西部さんと親しい唐牛さんと食事でもしようということになった。4人とも好きなことを語り「集団的自衛権は如何なものか」では一致。機嫌よく帰った。

7月某日
「介護職の看取り・グリーフケア」の調査で悠翔会の佐々木理事長兼診療部長にSCNの高本代表理事、市川理事、それに当社の迫田とインタビュー。この欄で何度か書いたことかもしれないが、この調査で多くの医者、看護師、介護関係者にインタビューしてきたが、言えることは「偉い人こそ威張らない」こと。私が立派だなーと思う人は押しなべて謙虚。佐々木先生もそのひとりだが、「先生という呼称は好きではない」といいながら、こちらが「佐々木先生」と呼んでも敢えて訂正しようとはしない。些細なことかもしれないが私などはそこに「フラット感」を感じてしまう。佐々木先生のインタビューを終え、新橋の悠翔会から日本橋小舟町のSCNの事務所へ。高本、市川さんとオランダ人の田中モニックさんにオランダの死生観等を聞くためだ。実は1か月ほど前同じテーマでモニックさんにインタビューしたのだが、呑み屋さんでのインタビューとなったため、うまく声が拾えなかった。それで事務所での再度のインタビューとなった。本題のインタビューも面白かったが私はむしろ、日本と西欧との個人のあり方の違いが感じられて興味深かった。日本人は家族、共同体(地域や会社などの組織)でもたれあうことが多い。これに対して西欧は個人の自立度が高いように感じられる。介護保険制度が自立支援をテーマのひとつに掲げたのは正しいと思う。地域包括ケアシステムの構築にしても「個人の自立」がなければ成功しないと思う。ということは地域包括ケアシステムの構築とは地域革命ということだ。

7月某日
浅田次郎の「霞町物語」(講談社文庫 00年初版)を図書館から借りて読む。95年1月号から98年3月号まで「小説現代」に断続的に連載されたものを単行本化し、さらに文庫化したものだ。著者の分身と思われる「僕」は、青山と麻布と六本木に挟まれた霞町の写真館の3代目、受験を控えた都立の進学校の3年生でもある。浅田次郎は私より3歳下の1951年生まれだから舞台は1969年ころということになる。ちょうど私が新宿や早稲田、東大でゲバ棒片手にデモを繰り返していたころと重なるが、小説にはそんな感じは微塵も感じられず霞町界隈で恋と遊びに刹那的に生きている高校生とそこに暮らす家族の生き方が活写される。私は高校生の頃、石原慎太郎の「太陽の季節」を読み、都会と田舎の高校生の意識と環境の違いに度肝を抜かれたものだが、それは基本的にこの作品でも変わらない。違うのは「太陽の季節」が描いているのは高度成長期の入り口にあった日本社会だが、「霞町物語」で描かれているのは高度成長期の絶頂期から下り坂に至り始めた日本社会だ。霞町のバーにたむろしていた高校生たちも実家が地上げにあい、次々と郊外に転居していく。写真館の初代である「僕」の祖父の老耄と死と相まって「滅び行くもの」の哀切さが伝わってくる。この本とは関係ないけれど、浅田次郎は集団的自衛権の容認に反対して発言していた記憶にある。浅田次郎は自衛隊出身ではあるが、だからこその反対なのかもしれない。

7月某日
「もーちゃん○日の夜空いていない。古都さんと呑むから来ない?」と社会福祉法人にんじんの会の石川はるえ理事長からメール。当日、会場の新橋2丁目のビルの地下「福は内」に入ろうとすると「森田さん!」と社会保険福祉協会の内田さんが声を掛けてくれる。そうだ内田さんが店を手配してくれたんだ。内田さんと石川さん、それに私と見知らぬ若い人と店に入る。その若い人と名刺を交換する。名刺には「特定非営利活動法人アレルギーっこパパの会理事長今村慎太郎」と刷り込んである。ほどなく古都さんと厚労省の疾病対策課の日野さんが来る。アレルギーの子供たちのためにアレルギー手帳のようなものをつくりそれを飲食店などに提示することによってアレルギー事故を未然に防ぎたいという今村さんの運動を石川さんが後押しし、かねて仲良しの古都さんに連絡したら、古都さんが以前の部下の日野さんを連れてきたということらしい。要するに私は何の関係もないのだけれど石川さんが「古都さんを呼ぶならもーちゃんも呼んでやろう」となったということだろう。ありがたい話です。古都さんと日野さんから貴重なアドバイスをもらったらしいが、私は「福は内」のおいしい料理と日本酒を堪能させてもらった。

7月某日
内閣府次官、厚労次官、人事院総裁を歴任した江利川さんとは江利川さんが年金局の資金課長だったころからの付き合いだからおよそ30年近くになる。偉ぶらない人柄で後輩たちからの信頼も厚い。江利川さんのあとの資金課長が江利川さんと同期の川邉さんで、この2~3年、江利川、川邉さんを囲む会を不定期でやっている。メンバーは江利川、川邉さんに当時資金課の補佐だった足利さん、岩野さん、年住協の企画部長だった竹下さん、それに私。このところずっと会社近くの「ビアレストランかまくら橋」でやっている。6時近くに会場に顔を出すと川邉さんがすでに来ていてビールを呑んでいる。私もビールを頼むと竹下さんが来る。特別ゲストとして現役の年金局総務課長の八神さんに声を掛けたら来てくれた。足利さん、江利川さんもそれに当社から岩佐、迫田も参加して座は盛り上がった。
民介協の扇田専務にいただいた日本酒を持ち込む。岩野さんは欠席だったがもしかしたら私が連絡し忘れたのかも知れない。

社長の酒中日記 7月その2

7月某日
「介護職の看取り」調査で米子の新生ケア・サービスの生島美樹管理者代理にSCNの高本代表理事とインタビュー。ここは看護師が4名在籍。介護と看護の連携が非常に取れていると感じた。一言で言うと「信頼関係」が取れている。生島さんは「在宅の看護師の役割は如何に介護の仕事をやりやすくするかにあると思います」と言う。職員が一緒にお茶を飲む時間を設けるなどいい意味での「家族的な運営」がなされていると思った。近くの社会福祉法人と連携して地域包括ケアシステムの構築にも取り組んでいる。米子から電車で3時間。中国山脈を越えて倉敷へ。
倉敷では創心会の二神社長をインタビュー。二神社長は愛媛県出身。地元の専門学校で作業療法士の資格を得るが、「やんちゃをしていた」ため地元から岡山へ。ここではグループホーム2ユニット、ショートステイ40床のほか、「ど根性ファーム」という農業法人も経営、合わせると700人近くの人を雇用しているという。二神社長の話で興味深かったのは介護予防のため環境変化を知覚する能力を上げるためビジョントレーニングを取り入れているということ。五感の刺激などにより要介護度の軽減などの効果が出たという。介護職の看取りを指導している宇野百合子さんという看護師にも取材させてもらう。最初の頃介護士は利用者の状態が悪くなると「すくんでしまう」。しかし「経験を積む中で自分が何ができるか学んでほしい」と話す。インタビューを終えて倉敷市内のホテルへ帰る。夕食はホテル近くへ。和食屋さんは満員で断られるが2件目のイタリアンは正解。前菜もパスタも美味しかった。シェフはイタリアで修業したそうだ。

7月某日
10時30分に大阪介護支援員協会の福田次長にインタビューなので、ホテルの裏にある大原美術館にも行かず、修理が終わった姫路城も見ることなく新大阪へ。天満橋の事務所で福田さんが迎えてくれる。何の取材か事前に伝えていなかったので「介護職の看取りについて」と言うと「私も大事だと思うてたとこなのよ」と話してくれる。「死んでいく1日のストーリーを死んでいく高齢者に教育していく必要がある」と福田さんは言う。そのためには人材教育が必要だし、終末期の過剰な医療は、医療費が膨張するという以外にも過剰な医療が本人や家族へどのような影響を与えるかを考えなければという。
福田さんはケアマネだがもともとは看護師。学校卒業後、大阪のKKR病院のがん病棟に配属された。当時の最先端の医療看護を担ったわけだ。その後国立病院の勤務を経て、富田林市でケアマネに。東京の渋谷区で社会福祉法人に勤務した経験もある。会うといろんな情報を教えてくれる私の貴重な情報源でもある。
福田さんと別れ、阪急西宮北口から関西学院大学へ。人間福祉学部の坂口先生に調査の中間報告。人間福祉学部というから福祉関係へ進む学生が多いと思ったらそうでもないそうだ。どうも人間福祉学部は関学の中では偏差値が高くなく「とにかく関学へ行きたい」学生の受け皿にも待っているようでかならずしも福祉志望の生徒の受け皿にはなっていないらしい。

7月某日
出張中、図書館で借りた「湖の南-大津事件異聞」(岩波現代文庫 富岡多恵子 11年11月)を読む。エッセーのようでもあるし歴史小説の風でもあるし、読みようによっては富岡多恵子の私小説風でもありという小説で私は面白く読ませてもらった。大津事件とは1891年5月11日、シベリア鉄道の起工式に臨席する途次、日本に立ち寄っていたロシアの皇太子ニコライを、滋賀県大津で、いきなり警備の警察官、津田三蔵が切り付け、負傷させた事件である。ロシアの制裁を恐れた政府は犯人の死刑を希望したが大審院院長児島惟謙がこれを退け無期徒刑の判決を下し、司法の独立を保ったことでも知られる。富岡は史実を資料によって辿りながら、自分に届くかつて顔見知りだった電器屋からのストーカーまがいの手紙や雇い入れた家政婦のことを交えながら筆を進める。そこいらが何の違和感もなく読めてしまうというのは、やはり作家的な力量と言うべきだろう。

7月某日
「薔薇の雨」(田辺聖子 中公文庫 92年6月初版 単行本の初版は89年)を読む。田辺1928年生まれだから60歳ころの作品。田辺が最も多作だった40代、50代の作品には20代後半から30代のハイミスの恋愛小説が多かったように思う。それはそれで面白いのだが、「薔薇の雨」に収められた5編はもう少し上の世代の恋愛が描かれている。冒頭の「鼠の浄土」は子連れの吉市と38歳で結婚した丹子が小さないさかいを繰り返しながらも元のさやに納まって行くと言うストーリーである。家を出た丹子が家に電話すると連れ子の春雄が出る。丹子が「迎えに来てくれへん?」と頼むと「よっしゃ」と来てくれる。そのときの会話がいい。「オバチャン、出て行ったらアカン」「……」「お父ちゃん、可哀そやないか」「辛抱しているあたしのほうが可哀そやないの」「いえてるけど」。春雄は継母のことを「オバチャン」と呼ぶのではあるが、継母の苦労はそれなりに分かっているのである。田辺の小説には根底には人間への信頼と愛があると思う。

7月某日
高田馬場の社会福祉法人サンで打合せ。事務の人に5期分の決算資料を用意してもらう。茗荷谷の健康生きがいづくり財団の大谷常務に電話。「そっちへ行くからご馳走してよ」と強要。「いいよ」と快諾してくれる。茗荷谷駅前の前にも行った居酒屋へ行く。確かにここはおいしい。螺貝の刺身などを日本酒といただく。我孫子駅前のバーでジントニックとクレメンタインをロックで。

7月某日
HCMから年住協の理事となった森さんと打合せ。いろいろと大変なようだが協力していくことを約束する。その足で昨日に続き高田馬場のサンへ。3月から施設長となる候補者を面談。よさそうな人と感じる。NPO法人年金福祉協議会の総会後の懇親会があるので「ビアレストランかまくら橋」へ。宮島さん、矢崎さん、池田さんに挨拶。今日は同じ場所で大学の同級生で弁護士の雨宮君とも待ち合わせ。雨宮君は山形の銘酒十四代の一升瓶を持ってくる。

7月某日
池袋の喫茶店で涼んでいたらパレアの保科さんから携帯に電話。「森さんが亡くなったそうです」。森さんというのは私の学生時代からの友人の森(旧姓尾崎)絹江さんのこと。森さんは私が大学4年の頃、早大法学部に現役で入学。確か3月生まれだから18歳になったばかり。横浜のお嬢様の行く女子高出身。1971年ごろだから学生運動はピークを越え私自身も運動の第一線から引退と言えば聞こえはいいが、要は過激な運動についてゆけず脱落し、かといって今更、授業に出るのもばからしくサークル(ロシヤ語研究会)の部室に行って麻雀のメンバーを探す毎日だった。そのサークルの部室で彼女には初めて会ったと思う。彼女は麻雀を覚えるとともに過激な思想も吹き込まれ、元が無垢だから1年の終わりごろには「立派な」ブント戦旗派の活動家になっていたと思う。理工学部のブントでロシヤ語研究会にも籍のあった森君と結婚、相模原地区で活動を続けていた。再会したのは20年位前だろうか、彼女はブントからは離れ、森君とも事実上別れてフリーライターをしながら2人の娘を育てていた。
それから専門学校の入学案内のコピーや、「へるぱ!」の取材をお願いしたりするようになった。彼女は単行本も何冊か上梓したことがあり、文章は確かなものだった。保科さんが社会保険研究所を卒業してパレアを四谷に立ち上げたとき、同室だったのが女性編集者、ライターの草分け的な存在の野中さんで、彼女が森さんとつながりがあり、冒頭の電話になったのだと思う。森さんは我孫子の鈴木さんという焙煎職人の焙煎するコーヒーが好きで何度か持って行ったことがある。先月、相模原の自宅に見舞いがてらコーヒーを持っていたのが最後となった。60歳を過ぎてから友人知人の訃報を聞くことが多くなった。平均寿命はまさに平均でしかない。

7月某日
「ベッドの下のNADA」(井上荒野 文春文庫 13年5月 単行本は10年10月)を読む。郊外の古いビルの最上階に住みながら、その地下で喫茶店NADAを営む夫と妻を主人公にした連作短編小説。夫婦の平穏に見える日常に潜む不穏な日常。夫婦って平穏で安定した関係の基礎というか基盤のようなものだけど、いったんそこに疑問を持つと疑問は深まる……。疑問は持たないようにしようっと。著者紹介によると井上荒野って成蹊大学出身だったんだ。桐野夏生と同窓だったんだ