社長の酒中日記 7月その1

7月某日
元厚労省で阪大教授を退官後、今は無職の堤さんと会社近くのビアレストランで呑む。元社会保険研究所で年金時代の編集部にいた吉田貴子さんと呑むことになったので堤さんも誘った。吉田さんは社会保険研究所に入社する前、埼玉の社会保険事務所に勤めていることがあるし堤さんも若いころ社会保険庁の総務課補佐をやったことがあるし、役所の最後は社会保険庁長官だった。6時に堤さん来る。黒っぽいシャツに同系色のパンツ。帽子を目深にかぶって登場。「怪しいねー」と声を掛けると「役所を辞めて10年以上経つんだから好きな格好をさせろよ」と。しばらくして吉田さんが来る。現在は産労研究所で「人事実務」という雑誌の編集長をやっている。年金機構のパソコンがハッカーに侵入されたことについて、係長が案件を抱え込んでいた件など「体質は社会保険庁時代と変わっていない」で一致。当社の迫田とSMSの長久保さんが来る。長久保さんがニッカの「余市」10年ものを持ってくる。スモーキーな香りで美味かった。一本を空けてしまう。

7月某日
1時から理事をやっている社会福祉法人の職員面談に3人ほど付き合う。西村理事長と橋野理事が一緒。職員の3人とも認知症高齢者の介護に熱心に取り組んでいることは十分に分かった。問題は若者のこうした熱意を空回りさせないように、どう経営していくかだと思う。このへんは社会福祉法人も株式会社も変わらないと思っている。昼飯を食べ損なう。5時から大森で「介護職の看取り」でインタビューがあるので早めに大森へ行って、駅の近くのラーメン屋で海苔玉ラーメンを急いで食べる。普段は弁当持参なのでたまの外食もいいけれど、もう少し余裕をもって食べたいね。
大森駅の山王口の鈴木内科医院を訪問。院長の鈴木先生にインタビュー。この間、いろいろな医師にインタビューする機会があったし、私自身5年前に脳出血で倒れ、身近に医者と接した経験がある。そうした経験から言えることは「偉い先生ほどエラソーにしない」ということ。これは何も医者に限ったことではなく人間全般に言えることである。鈴木先生はまさに「エラソー」にしない先生。だからこそ多職種連携も上手く行くのだろう。訪問看護、訪問介護、歯科、薬剤師などとの連携がうまく取れている。先生は「フラットな関係作り」と言っていたが、先生のようなドクターが増えていくことによって日本の医療や介護は確実に変わっていくと思われる。一緒に取材したSCNの高本代表理事と市川理事と地元の百貨店、大信を覗く。帰りに品川駅構内の「ぬる燗佐藤」による。品川から上野・東京ラインで我孫子へ。駅前の「七輪」で焼酎のお湯割りを一杯。

7月某日
ぎっくり腰の治療で神田駅西口の「しあつ村」へ。リンパマッサージを受ける。ここは民介協の扇田専務の紹介。丁寧なマッサージをしてくれるが、たちの悪いぎっくり腰なのか目立った効果かない。HCMの大橋さんの社長就任祝いの日なので小舟町の「恭悦」へ。大橋さんと森さん、それに私の3人でお祝いをする。大橋さんも森さんもいろいろ大変でしょうががんばってください。

7月某日
腰の加減がはかばかしくないので目黒の王先生に中国鍼を施術してもらいに行く。呉先生とは久しぶりだがお元気そうだった。王先生とは20年ほど前、我孫子で治療を受けたのがきっかけ。当時は治療院を持たず出張治療だけだった。それが目黒で治療院を開業し、今では立川と国立にも治療院を持っている。それも腕がいいからだと思う。王先生は中国の温州の出身、確か上海で中国医療を勉強したと言っていた。文化大革命のときの写真を見せてもらったことがあるが、利発そうな美少女の紅衛兵が写っていて、それが少女時代の王先生だった。だが先生一家はインテリで資産家だったらしく文革以降、迫害される。アジアの各地を転々とした後、日本に安住の地を見つけたということらしい。向こうの医学部を出ているだけあってとても頭がいい。日本の鍼灸師の試験も問題集を丸暗記して合格したらしい。娘二人は日本の大学を出て税理士と薬剤師になったようだ。ただ中国共産党嫌いは徹底していて、いつか「尖閣列島問題についてどう思うか?」と問われ、どう答えたものかと思案していると「日本人はもっと中国に対して毅然としなければダメよ」と怒られたことがある。それだけ中国共産党嫌いが徹底しているのである。

7月某日
図書館で借りた「くまちゃん」(角田光代 新潮社 09年3月初版)を読む。角田は割と読む作家だ。角田は67年生まれだから「若手作家」とは言えもう40代後半。でも若者の心情を描くのが巧みだと思う。この連作短編小説集もそう。表題作の「くまちゃん」は古平苑子(23歳)と持田英之(25歳)の恋が、2作目は27歳になった持田と岡崎ゆりえ(28歳)の恋が、3作目は29歳になったゆりえとロックミュージシャン、マキトこと保土谷槇仁も恋が、第4作目は落ち目になったマキトと売れない舞台女優、片田希麻子の恋が……と続く。連作短編の共通点はいずれの恋も成就しないで、別れてしまうことだ。「あとがき」で角田は次のように書いている。「この小説に書いた男女は、だいたい20代の前半から30代半ばである。1990年代から2000年を過ぎるくらいまでの時間のなかで、恋をし、ふられ、年齢を重ねていく。そう、この小説では全員がふられている。私はふられ小説絵を書きたかったのだ」。作者の意図はどうあれ私はこの小説を非常に面白く読んだ。
源氏物語からしてそうなのだが、多くの小説は恋愛がテーマになっている。アクション小説や時代小説にしても恋愛がサブテーマになっていることが多い。ほかの人は知らないけれど、私は思いつめない性格だと思う。そんななかで20代前半の学生運動と恋愛は結構思いつめました。今から思うと学生運動はアクション小説の感覚だったかもしれない。同様にして20代の恋愛は恋愛小説の感覚である(あくまでも私の場合です)。だから40代、50代、60代と恋愛とは縁遠くなっても恋愛小説は読まれるのじゃないかな。恋愛の切実さを現実にではなくを小説に求めるみたいな。

7月某日
亀有の駅前で我孫子の飲み友達、大越さん夫婦と待ち合わせ。亀有の駅前に美味しい焼き鳥屋があるというので誘ってくれた。大越さんは私より1歳上。我孫子駅前の「愛花」の常連。もう10年以上の付き合いになる。仕事は建設業。大手ゼネコンの下請けで設計と工事監理をやっている(らしい)。立石駅前や松戸駅前の焼き鳥屋でご馳走になったこともある。ここは「江戸っ子」という焼き鳥屋で1階は立ち飲み、2階がカウンターで座れるようになっている。待ち合わせ時間丁度に亀有の改札口へ行くと奥さんのさと子さんが待っている。少し遅れて大越さんが来る。今日は東武線の竹ノ塚で仕事だったそうだ。亀有駅の北口には「こち亀」の両さんの銅像があるが、さと子さんは「これ何かしら?」という。人気漫画の主人公の銅像と教えるが、両さんを知らない人もいるんだ。「江戸っ子」に行くと1階の立ち飲み席はすでに満員。2階のカウンター席は座ることができた。大越さん一押しのガツの刺身をいただく。歯ごたえがあって旨い。ホルモン焼き、焼きトンといってもいいが、内臓の料理の醍醐味の一つは歯ごたえだと思う。歯ごたえを保証するのは新鮮さだ。ハツ、レバ、軟骨などをいただくがどれも美味しかった。満腹になったので帰ることにする。大越さんにご馳走になる。

社長の酒中日記 6月その3

6月某日
山田詠美の「風味絶佳」(文春文庫 08年5月 単行本は05年5月)を図書館から借りて読む。山田詠美は昔好きでよく読んでいたが最近、とんとご無沙汰。面白かった。この六篇の短編集に登場する男たちは鳶職、清掃作業員、ガソリンスタンドのアルバイト、引っ越し作業員、汚水槽の作業員、火葬場の職員。つまり己の肉体を使うことによって収入を得る職業だ。こういう職業は仕事の対象がモノであれヒトであれ具体的と言う特徴がある。対象が具体的と言うことは仕事の成果も具体的と言うことだ。介護福祉士なんかはその典型と思う。だからこの小説に親近感を持ったのかな。

6月某日
第一生命保険株式会社の株主総会。第一生命の株は同社が、何年か前に相互会社から株式会社に転換した際に当社にも割り当てられたものだと思う。上場企業の株主総会は経験したことがないので今回は参加してみようと思う。新橋から「ゆりかもめ」で「台場駅」へ。駅から直結のホテルグランパシフィックの大会議室が会場。10時開会だが9時半過ぎに会場に着いたらほぼ席は埋まっていた。入り口でお土産のクッキーとお茶を渡される。議長席に社長が着いて挨拶。事業報告は大画面に映し出される映像が行う。議案採決後株主からの質問を受け付けたが、好決算と言うこともあってか問題となるような質問もなかった。終わりまでいると「ゆりかもめ」が混むと思い、途中で退席する。
「介護事業者のための危機管理DVD」制作で社会福祉法人「にんじんの会」の石川理事長と打合せ。立川の石川さんの事務所へ映像担当の横溝君と当社の浜尾と伺う。各シーンについて検討を加える。ディテールがきちんとしていないと説得力に欠けると思っているので石川さんにいろいろと質問する。細部については石川さんも把握していないことがあるので現場の介護士や看護師に確認してくれるということだ。ところで私の古い友人の伊藤さんがこの6月から「にんじんの会」の西国分寺の「にんじんホーム」でお世話になっている。お世話になっているといっても入居しているわけではなくスタッフとして働いている。というわけで石川さんとの打合せが終わると西国分寺へ。駅前の「もこちゃん」という居酒屋で横溝君と待っていると伊藤さんが来る。近況を話してくれるが、どうしてもおよそ30年前の昔話となる。横溝君はつまらなかったろうな。

6月某日
石川理事長が横浜市の都筑区医師会で「訪問・施設でのリスク・マネジメント」について講演するというので、映像の記録をとりに横溝君と行く。訪問看護、訪問介護、ケアマネ、福祉用具相談員など70人くらいが熱心に受講する。石川さんは受講者を飽きさせることなくリスクマネジメントやその基本となるモニタリングは、利用者や家族だけでなく、事業者や働いている人を守るために必要であり、そのためにはサービスの標準化を図り、事業所でその基本を決め、契約事項に明記しておくということがよくわかった。

6月某日
「明治維新の新考察‐上からのブルジョア革命をめぐって」(大藪龍介 06年3月 社会評論社)を我孫子市民図書館の棚で見つけ、ぱらぱらとページをめくっていると例の明治維新を巡る日本資本主義についての本らしいので借りることにする。私は一般の経済史には興味はないけれど明治維新の性格についての論争が、当面する日本革命についてブルジョア民主主義革命を経て社会主義革命にいたる2段階革命論か、すでに日本は不十分とはいえブルジョア社会段階に到達しているのだから、当面する革命は社会主義革命とする一段階革命かという論争は、戦前の日本共産党系の講座派と労農派から戦後の日共と社会党左派、新左翼の論争に引き継がれた。いまやどうでもいいような話かもしれないが、私はグローバル経済下の日本の現状を理解するうえでも明治維新にさかのぼった検討も必要と思っている。
著者は明治維新について「上からのブルジョア革命」として次のように主張する。
①目的は諸列強に開国を強制され半植民地化の危機にさらされた弱小国、日本にとっては独立立憲政体の確立であった
②指導的党派は旧討幕派下級武士・公卿を中核とした維新官僚が分裂しながらも一貫して主導権を掌握した
③組織的中枢機関としては全行程にわたり、政府が主力になって変革を推進した
④手段的方法はクーデタと内戦、一機と反乱の鎮圧、そして「有司専制」など、全面的に国家権力の発動により行われた
⑤思想については尊王思想、「公議輿論」思想、西洋風の啓蒙思想、自由民権思想などが混在し、後に保守主義思想が伸張したが、基軸となったのは尊王思想‐天皇制イデオロギーであった。
これらのことから著者は、明治維新は国内の経済的社会的条件からすると早産であり、近代世界史の抗しがたい潮流に引き込まれ、外からの重圧に対応した「上からのブルジョア革命」であったと結論づける。それはまた「講座派」などが尺度としてきた史的唯物論の公式に反する革命であった。そしてこのような諸特質を持つ明治維新によって近・現代の日本の伝統となる官僚主義の国家体制や国家主導主義の原型が築かれたとする。
私には非常にすっきりした理論なのだが。大藪龍介という著者が気になったのでネットで調べると、60年安保のころ九大というか九学連の指導者で九州ブンドの主要なメンバーだったらしいことがわかる。安保ブンドのメンバーは西部邁、唐牛健太郎、青木昌彦はじめ興味深い人生を送っている人が多い。でも理論的にマルクス主義の陣営に止まった人はそう多くはないと思う。大藪という人は貴重な存在ではないか。

6月某日
我孫子駅前の東武ブックストアに入る。桐野夏生の「抱く女」(15年6月 新潮社)が平積みされていたので買うことにする。小説は1972年の9月から12月の女子大生、直子の日常を描写する。72年といえば私は3月に早稲田大学をギリギリの単位で卒業、友人の親戚が経営している印刷屋に潜り込み、付き合っていた同級生(今の奥さん)と結婚したころだ。直子は吉祥寺のS大学(桐野の母校、成蹊大学が想定される)で国際関係論を学ぶ2年生。授業に興味を持てず、麻雀壯とジャズ喫茶で時間をつぶし、男友達と酒を呑み、ときに関係を結ぶ。直子は親友の泉のアルバイト先のジャズ喫茶に勤めることにするが、ある日泉を訪ねると男が泉のアパートを出ていく場面に出くわす。男は泉の元恋人で赤軍派の活動家だという。72年のテルアビブ空港の銃乱射事件で射殺された犯人、安田安之と知り合いで「安田が死を賭けて闘ったのに、自分はどうしてこんなところにいて、のんべんだらりといきているんだろう」と「もう死ぬからお別れに来た」ところという。結局、男は西武池袋線の始発電車に飛び込み自殺する。
直子の二番目の兄、和樹は早稲田の革マル派の活動家で何日も家に帰ってこない。直子は新宿で知り合ったドラマー志望のバンドボーイ深田と同棲するつもりで家へ帰るが、そこで知らされたのは和樹が敵対するセクトに襲われ、瀕死の重傷を負ったこと。早朝病院に和樹を見舞った直子はひとりで和樹を看取ることになる。こうやって粗筋を追うと実に暗い小説となるが、私の読後感は少し違う。ひとつは全共闘運動が敗北し、連合赤軍事件でそれが決定的になったころの青春を見事に描いているとおもうからだ。もうひとつはその当時の雀荘や安酒場、ジャズ喫茶の雰囲気が皮膚感覚で蘇ってくるような気がするからである。まぁ万人向けとは言えないが。

6月某日
ぎっくり腰になってしまった。こういうときは中国鍼の王先生に施術してもらうのだが、先生が目黒の鍼灸院に来るのは水曜と土曜のみ。それ以外は立川と国分寺に行っているので今日は無理。民介協の扇田専務に神田の「しあつ村」を紹介してもらう。単なるマッサージと違って血流やリンパの流れを刺激するのだという。施術してくれた女性も感じがよかったので明日も予約する。ぎっくり腰と反対側のおなかをホカロンなどで温めるといいと先生に言われたので、家に帰って早速やってみた。少しは楽になったような気がする。
元年住協の林さんと新松戸の「ぐい呑み」で待ち合わせ。林さんは年住協を退職した後、東京フォーラムで危機管理のしごとをやったりして、今は日本環境協会。保育所や市役所を廻って環境教育の重要性を訴えているそうだ。林さんにすっかり御馳走になる。

社長の酒中日記 6月その2

6月某日
「介護職の看取り・グリーフケアの実態調査」でソラスト世田谷のサービス提供責任者の村上さんを桜新町のオフィスに訪問。桜新町は「国民的」マンガ「サザエさん」の作者、長谷川町子が住んでいた町で長谷川町子美術館もある。地下鉄の出口を出るとサザエさん一家の銅像が出迎えてくれる。15分ほど歩いてオフィスへ。村上さんが笑顔で迎えてくれる。世田谷区は区民の所得が高い。ということは従業員の人員確保が難しく、その一方で介護保険外のサービスのニーズが高いという特徴がある。村上さんは介護職について10数年の経験があるが、前職はゴルフのキャディ。それも名門、読売カントリー。よみうりのキャディはマナーのなっていない客は叱り飛ばすという噂があったが、それほど自分の仕事に誇りを持っているということなのだろう。村上さんはおそらく同じ想いを介護職に持っているにちがいない。介護の仕事について含蓄のある話を聞かせてもらった。
今日はさらに「へるぱ!」の取材で新橋の医療法人・悠翔会へ。理事長の佐々木先生へインタビュー。先生は30代後半の精悍な顔立ち。急性期病院ではなくなぜ在宅診療なのかを熱く語ってもらった。介護職の村上さんにも言えることだが、自分の仕事に誇りを持っている人は他者にやさしく謙虚だ。だから本当の意味での多職種連携ができるのだと思う。それから車で神田錦町の「由利本庄市うまいもの酒場」へ。由利本荘の地酒をしこたま飲む。根津の「ふらここ」で川村学院の吉武副学長と待ち合わせていたが、吉武さんが着いた頃には私はかなり酔っていてよく覚えていない。反省!

6月某日
中野剛志の「国力論―経済ナショナリズムの系譜」(以文社 08年5月)を読む。私は経済学を系統的に学んだわけではない(もちろん経済学以外の学問についても同じ)が、最近のアベノミクス、低金利、円安、グローバリズムといった経済の新しい潮流を見聞きするにつれ、経済現象を正しく読み解かなければならないと思ってしまう。そんな関心から岩井克人、水野和夫、浜矩子などの本を読むことが多いが、中野剛志もその一人。中野は東大教養学部卒、通商産業省入省。ウイキペディアによるとまだ経産省の現役官僚らしい。学部生のときに佐藤誠三郎の指導を受け、そして10年以上にわたって西部邁の薫陶を受けたという。ということは筋金入りの保守の論客と言うことになるが、保守vs革新という対立構造が意味をなさなくなって久しいと思っている私にとってはどうでもいい話である。さて本書の内容だが、「今日、世界中の大学の経済学部で標準的な理論として教えられる」主流派経済学=新古典派経済学に対して経済ナショナリズムを真向から対峙させたものである。経済ナショナリズムの源流はアレクサンダー・ハミルトンとフリードリヒ・リストにあり、彼らには「経済発展の原動力は、ネイションから生み出される力(国力)であり、そしてネイションの力を強化するには経済発展が必要である」という政治経済観、信念があった。これを受けて著者は、ヒューム、ヘーゲル、マーシャルの思想の跡をたどる。そしてマーシャル以降もネイションと経済のダイナミックな関係に気づいた数少ない経済学者として、ケインズ、ロビンソン、ミュルダール、クズネッツの理論に含まれる経済ナショナリズムに光を当てる。経済学の門外漢たる私にとって十全に内容が理解されたとは言い難いが、今後も関心を持っていきたい分野であることは確かだ。

6月某日
「外交の大問題」(鈴木宗男 小学館新書 15年6月)を読む。鈴木宗男は例の鈴木宗男事件が起こるまで地元以外では嫌われ者であった。私もほとんど評価していなかった。しかし「国策逮捕」後、評価は一変したように思う。これは同時に逮捕された外務省の佐藤優(本書でも鈴木と対談している)の存在が大きい。彼の獄中記をはじめとする一連のドキュメントが多くの国民をして「悪いのは外務省ではないか」と考えを変えさせたのだ。で本書は鈴木の体験したキルギス人質事件や北方領土交渉が語られるのだが、私にはさほどの新鮮味はなかった。やはり鈴木宗男は論理で語るより情に訴えたほうが迫力がある。

6月某日
八重洲北口のビモンに6時に着。生ビールを頼む。ほどなく元全社協の副会長で現在、損保会社の顧問をやりながら社会福祉法人の会長をやっている小林和弘さんが来る。社会福祉法人の経営についていろいろ教えてもらう。2人でワインを呑んでいると元次官の阿曽沼氏が登場。上智大学で会議だったらしい。日帰りで京都に帰るということなので東京駅近くに場所を設定したわけ。8時過ぎにお開き。阿曽沼氏は無事、京都へ帰れただろうか?

6月某日
阿曽沼さんも年金改革などで荻島國男さんに薫陶を受けたと思う。荻島さんは児童手当課長の次に水道環境部の計画課長に就任、廃棄物処理法案を仕上げた。だがこのころ築地のがんセンターに入院した。当時私が編集に携わっていた「年金と住宅」(財団法人年金住宅福祉協会)に連載をお願いした。タイトルは正岡子規の「病中六尺」を模して「病中閑話」とした。原稿は病室に取りに行ったり郵送されたりした。病室でまだ中学生だった良太君に会ったこともある。亡くなる直前に病室に行ったら奥さんの道子さんが「死に顔を見てもしようがないから顔を見て行って」とベッドへ案内してくれた。荻島さんはモルヒネで朦朧となりながらも「原稿、今は書けないんだ」と私に告げた。がんセンターから新橋、厚生省の前まで歩いた。荻島さんが死ぬというのに厚生省は何事もなかったようにこうこうと灯りを点けていた。腹立たしくも不思議な気持がしたことを覚えている。

6月某日
高齢者住宅財団の落合さんは長いことフラメンコダンスを習っていて、毎年リサイタルの切符を送っていただく。去年は私の体調不良(二日酔い)で欠席したので、今年は満を持して出席の筈だったが開演が7時半からだったのでつい一杯やっていたら会場の伊勢丹会館に着いたら、すでに始まっていた。元国土交通省の合田さん、元厚生労働省の宮島さんも来ていた。彼らによると落合さんの見せ場は終わったということらしい。それでも落合さんの踊りのシーンはいくつか見ることができた。踊りもよかったがギター(いわねさとし)、能で言うと謡のようなカンテ(森薫里)がよかった。雨が降ってきたので呑みには行かず解散。

6月某日
「介護職の看取り、グリーフケア」のインタビュー調査で地域密着型特養ホームつきしまを訪問する。長岡福祉協会首都圏事業部の統括施設長、笹川美由紀さんをインタビューするためだ。SCNの高本代表と市川さんが一緒だ。地下鉄の月島駅前に再開発されたキャピタルゲートプレイスザ・モールの3階、4階が長岡福祉協会の運営するケアサポートセンターつきしまで定員29人の特養と定員6人のショートステイ、いずれも個室だ。笹川さんのインタビューを通じて今まで漠然と感じていたことが確信に変わったように思う。それは利用者の尊厳を重んじ十分なケアを行うことが、手厚い看取り、遺族のグリーフケアに繋がるということだ。看取り加算が付くからと言って終末期に手厚い介護を行うというのはやはり違う。日常の十全なケアの延長線上に看取りケアはあるのだと思う。ここの特徴のひとつは食事が充実していること。ある日の夕食メニューは野菜の煮物(鶏肉・ちくわ・かぼちゃ・里芋・人参・椎茸・ごぼう)、なすと小松菜のピーナッツ和え、お漬物にご飯とみそ汁だ。インタビュー後施設を案内してくれた鈴木チーフリーダー(20代の好青年)は、「ご飯をたくさん召し上がっていただけます。要介護度軽くなる方もいらっしゃいます」と誇らしげに語ってくれた。中央区在住の高本代表はしきりに老後は「私もここに入りたい」と言っていた。

6月某日
佐伯啓思の「日本の宿命」(新潮新書13年1月刊)を読む。「新潮45」2011年9月号~2012年5月号の連載に加筆を施したもの。佐伯啓思は東大経済学部卒。京都大学名誉教授。、西部邁や村上誠亮に師事したとウィキペディアにある。「新潮45」の常連執筆者だから保守派には間違いない。開国、明治維新、文明開化、敗戦、占領、そしてアメリカをどうとらえるかについて佐伯の考えはたいそう参考になった。佐伯の考えは林房雄の「大東亜戦争肯定論」に近い。この論文は確か私が高校生の頃、雑誌「中央公論」に掲載されたもので、当時の左翼少年だった私は「とんでもない!」と怒ったものだ。しかし今は林の考え方に共感するところが多い。国、それは国家=ステートというより邦=クニに近いかもしれない。私らにとってクニ、ナショナルなものこそ思想の基礎となると思い始めたのである。いずれにしても日本が前世紀に中国大陸や東南アジアで戦ったいくさについては、戦後的な価値観だけではなく、世界史、そのなかの東アジア史、そのなかの日本史の中できちんと位置づける必要がある。

6月某日
芝公園にある住友不動産タワー。あたりを睥睨するかのごとく聳えたっている。家賃も高いに違いない。そのタワービルの3フロアを占めているのが昨年から当社のクライアントになったSMS社。いつもは当社のスタッフと連れ立って訪問するのだが今日は1人。SMS社のスタッフも訪問する人たちも私の息子くらいの年恰好。待合室で待っている間もどうも居心地が悪い。時間になって長久保さんが来る。女性スタッフが妊娠、出産、育児休業に入ると挨拶に来る。やはり若い会社なんだなー。

社長の酒中日記 6月その1

6月某日
富国生命ビル28階の富国倶楽部。6時前に着くと6時ちょうどに当社の大山氏が登場、少し遅れて社会保険出版社の高本社長、結核予防会の竹下専務が来る。高本社長がスマホを開いて「年金記録流出」の記事を見せてくれる。ほどなく私の携帯に年金局の八神総務課長から電話。「申し訳ありませんが本日の会合は欠席させていただきます」と。結局仲間内の呑み会になり、西新橋の居酒屋へ流れる。HCMの森社長が関西からの出張の帰りと言って顔を出す。高本社長と2人でニュー新橋ビルの地下のバーへ。我孫子へ帰って「愛花」で焼酎のお茶割を1杯。

6月某日
久しぶりにCIMネットの二宮さんを八丁堀の事務所を訪問。CIMネットは地域包括医療システムの構築を目指す医療職や介護職を応援する目的で設立されたNPO法人。事務所に行ったら印刷会社のキタジマの北島社長と打合せ中だった。ソルクシーズという会社の中島さんを紹介される。かの会社は見守り支援システム「いまイルモ」を開発、販売しているという。私はこれからの高齢者介護を支えるにはIT、ロボット、外国人労働力の活用が不可欠と思っているから非常に興味深かった。二宮さんに誘われて中島さんと3人で近くの「月山」で御馳走になる。残念ながら新橋の長谷川で先約があったので中座、長谷川に向かう。HCMの森社長、大橋常務、当社の赤堀、そして結核予防会の竹下専務と打合せ。

6月某日
午後、虎の門の医療・介護政策研究フォーラムの中村理事長を訪問。次いで西新橋のHCMの森社長、大橋常務と打合せ、それから高田馬場の社会福祉法人サンの西村理事長に面談。一度会社に帰って御茶ノ水の社会保険出版社の高本社長と打合せ。それから外神田の「章太亭」へ。前の厚労次官で、現在は京都大学の理事をやっている阿曽沼さんが東大で会議があるので上京。軽く一杯やることにした。約束は7時からだが、私は6時過ぎに章太亭へ。町内の旦那衆4、5人のグループが先月行われた神田明神のお祭りについて話している。鎌倉町や旭町という町名が聞こえてくる。私の会社がある内神田の旧町名ではないか。会話のなかに「いくよ寿司」や「寿司定」といった知っている店の名前も出てくる。見ず知らずの客だが親近感を持ってしまった。東大から阿曽沼さんが到着。「京大は百年先を見ている」とぶってきたそうだ。

6月某日
社保研ティラーレの佐藤社長と吉高さんに神田錦町の「由利本荘うまいもの酒場」で御馳走になる。料理も日本酒も旨かった。由利本庄市は鳥海山の麓だが、海も近く海のものもおいしい。私は社員の親族のお葬式で一度行ったことがあるが、山紫水明という表現が合う町だった。造り酒屋が4軒もある日本酒の町でもある。佐藤さんと吉高さんと別れ、9時ころ根津の「ふらここ」へ。常連の宮ちゃんが岩手県の一関に赴任、今日は出張で東京に来る。もちろん岩手のお酒も一緒に。ここでも日本酒をたっぷり御馳走になる。常連の宮越さんやあやちゃんも来る。

6月某日
「資本主義の預言者たち ―ニュー・ノーマルの時代へ」(角川新書 中野剛志 15年2月)を読む。著者は東大経学部教養学科を卒業後、通産省に入省。京都大学の准教授を経て、今は肩書が特にないから著述業かな。私にとっては保守派の印象が強いが、むしろグローバル化に抗する経済ナショナリストの印象が強まった。中野の言わんとすることはまず「資本主義は所有と経営が分離した結果、安定した秩序を保つことができ」なくなった。初期の資本主義では所有(株主)と経営は一致していたが、次第に株主は経営に参加せず経営には経営の専門家(経営者)が当たることになって行ったことを指す。株主は短期的な視野から株高を求めがちであり、この要求に応えようとした余り、エンロンの粉飾も起こったと考えられる。簡単に言うと中野は株主資本主義、金融資本主義、経済自由主義に反対しているのだ。これらに依拠し拝跪している限り資本主義は破綻すると。
中野は例えばシュンペーターに着目する。企業家の経済活動における動機は、主流派経済学が想定するように経済的利益の最大化といった功利主義的なものではなく、企業家を駆り立てるのはスポーツのような征服への意志、創造する喜びといった動機なのである。企業家の機能とは、生産手段をこれまでとはまったく違ったパターンで結合する「新結合」にある。この新結合を実行するために、企業家が必要とするものは何か。それは「意志と行動のみ」であるとシュンペーターは言う。まさにその通りだと思う。経済学は高等数学などを駆使して技術的には高度化されたかもしれないが経済哲学の面で前世紀の経済学者に大きく遅れをとっているのかもしれない。

6月某日
飲み友達の本郷さんに日比谷公会堂で集会があるから行こうと誘われる。「何の集会?」と聞くとメールで「国鉄」と返ってくる。「終わったら一杯やろう」とも書いてあるから行くことにする。山手線を有楽町で降りて公会堂へ。公会堂前の待ち合わせだが本郷さんはまだ来ていないようだ。参加者の一人が「向こうにいるのは全部公安ですよ」と言う。なんだかとても60年代、70年代の雰囲気だ。本郷さんを見つけて中に入る。韓国統一労組からの連帯のあいさつや動労千葉からのあいさつがある。なんとなく中核派系の集会だということがわかる。でも公会堂がほぼ一杯だったし、安保法制や集団的自衛権の問題で、国民の各層が危機感を持ち始めたのかもしれない。韓国労組との連帯はじめ国内でもいろんんな中小労組の連帯が進んでいるようだ。労働運動いまだ滅びずというところかね。集会は1部が終わったところで退席、新橋鴉森口で本郷さんと一杯。

6月某日
介護職の危機管理のDVD制作で、立川のケアセンター「やわらぎ」の石川代表と打合せ。映像の横溝君、当社の浜尾が同行。「やわらぎ」や社会福祉法人「にんじんの会」での危機管理の実際を参考にすることにする。危機管理は従業員個々の問題ではなく組織の問題であることがなんとなく理解できた。終わって新橋の「北の台所おんじき」へ。ここはHCMの大橋さんが予約していた店だが、大橋さんが行けなくなって予約を肩代わりしたところ。4人で予約したということなので、健康生きがい財団の大谷常務、共同通信の城を誘った。あと1名は一緒に立川に行ってもらった横溝君。酒も料理も旨かったが、何といっても松田隆行という人の津軽三味線のライブが素晴らしかった。

6月某日
「私の人生」などというと気恥ずかしいが、その私の人生に最も影響を与えた人と言えばやはり荻島國男さんの名前を挙げないわけにはいかない。荻島さんは20年以上前に亡くなった厚生官僚だ。私が荻島さんと初めて会ったのは彼が老人保健部の企画官の頃で、老人保健法の改正を進めるためのパンフレットを作ったときだ。企画官のときから「将来の次官候補」などと周囲から言われ、打合せ中も切れ者の印象が強く、私はただ議論を聞いているだけだった。あるとき文章を巡って私が「そこはこうしたほうがいいんではないですか」と言ったら、荻島さんが「あれっ君も意見を言うの」と少し驚きながら私の言葉に耳を傾けてくれた。荻島さんはなぜか私のことを気に入ってくれて、呑みにつれてくれていったりゴルフを誘ってくれたりした。それから荻島さんは調査室長として厚生白書を書き、白書をもっと読まれるにはどうしたらいいか、意見を求められたこともある。調査室長の次は児童手当課長。このときは単行本やポスターを作ったりした。このときの課長補佐が社会保険庁から来た池田保さんで、のちに「あのときは大変だったんだよ」とポツリと漏らしたことがある。つまり児童手当課は児童家庭局で児童家庭局系の出版社があり、そこに仕事を発注しないで当社に発注したことが一部のノンキャリの反発を買ったということらしい。
 荻島さんのこと書き出すとキリがなくなるので今日はここまでにしておこう。その荻島さんの奥さんの道子さんが体調を壊して入院中というので今日は見舞いに行ってきた。道子さんは思っていたより元気で近況を話してくれた。厚生労働省へ寄って昔、荻島さんの部下だった唐沢保険局長と武田審議官に報告。2人とも「昔、良く荻島さんの家で飯食わせてもらったからなー」と懐かしみながら、道子さんが思ったより元気なことを喜んでくれた。
 今日は人形町の「恭悦」が3周年と言うことでコース料理が3500円で飲み物が半額。セルフ・ケア・ネットワーク(SCN)の高本代表が予約してくれている。店に行くとすでにフィスメックの小出社長と社会保険出版社の高本社長が来ていた。ほどなくSCNの高本代表、市川さんが来る。SCNの岩阪夫妻も到着して乾杯。恭悦のお料理は美味しいだけでなく見た目がきれい。日本料理の伝統ですね。

6月某日
「介護職の看取り、グリーフケアの実態調査」で、今日はオランダ人の田中モニックさんにインタビュー。昨日に続いて「恭悦」で。私は原則として酒食を伴ったインタビューはすべきではないという考え(インタビューを終えてからならば構わないけれど)。で、今日は食事しながら呑みながらという趣向だったので正直不満(?)だった。でもモニカさんが酒を召し上がらないうえに大変聡明な人だったので、とても良いインタビューができたと思う。オランダ人は北方ゲルマン民族に属すると思うけど、私の印象は彼らがとてもインディペンデントなこと。モニカさんもその例にもれず自立した女性だった。考えてみると、日本の介護保険の理念は自立支援。私たちは介護だけでなく、なんによらず自立していかなければならないと思う。産業化と個人の自立は「近代化」の条件のように思う。自立と言う言葉を聞くと茨木のり子の「倚りかからず」という詩を思い出す。

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

社長の酒中日記 5月その3

5月某日
社会保険福祉協会で(社福)にんじんの会の石川理事長、当社の浜尾、映像担当の横溝君と打合せ。石川理事長は渋谷へ。浜尾は会社へ戻る。わたしと横溝君は「その辺で一杯」ということで西新橋界隈をぶらぶらしているとHCMの大橋さんが通りかかる。大橋さんも誘って、「南部どり内幸町店」に入る。ビールを呑んでいるとこの界隈の弁護士ビルに事務所のある学生時代の友人、雨宮君が入ってくる。声を掛けると「あれ、モリちゃんなんでいるの」と言うので「それはこっちのせりふだよ」と返す。帰り際に「近いうちに呑みましょう」と約束する。

5月某日
松戸の聖徳大学の篠崎先生にインタビュー。松戸のイトーヨーカ堂にあるレストランで待ち合わせ。先生は筑波大学で障害児教育を学び、出版社勤務の後、八戸学院大学で教え、昨年聖徳大学へ移った。先生は今、「介護の専門性は何か?」について具体的に解き明かそうとしている。介護福祉士は国家資格だし専門職なのだが、その中身はとなるとかなりあいまい。先生はそれを科学的に客観的に明らかにし、それで介護現場の報酬の低さを証明していく方向らしい。好漢シノチャン、がんばれ。
企業年金連合会の常務理事に就任した足利さんを訪問。私が理事をやっている社会福祉法人の評議員への就任を要請するため。西村理事長も同行。企業年金連合会の理事と他の団体の理事、評議員の兼職は禁止されているのかもしれないと思ったが、そんなことはなく快諾していただいた。社会福祉法人は高田馬場にあるが足利さんの自宅は小滝橋の近くだそうで、法人の近くまで散歩で来ることもあるそうだ。会談を終えて大宮に帰る西村さんと別れ、企業年金連合会近くのSMSへ。当社の迫田、浜尾とSMSの担当者と打合せ。打合せ後、近くの韓国料理屋「からくにや」で食事しながら打合せ。

5月某日
先日行った「地方から考える社会保障フォーラム」で講演してもらった宮島さんに社保研ティラーレの佐藤さんとお礼に。終わってからニュー新橋ビルの「初藤」で佐藤さんに御馳走になる。佐藤さんは衆議院議員だった樋高剛さんの秘書だったが、議員の落選にともない社保研ティラーレを設立、代表になった。小柄で顔立ちが可愛いので若く見えるが、「今年で50になるのでキャッシュカードを処分しました」と。そうか独身を通すというのも覚悟がいるのだなと思った次第。佐藤さんは元議員秘書だが、とても素朴で純真、話していて面白い。佐藤さんと別れニュー新橋ビルの2階にあった「T&A」を覗くと違う店になっていた。私がプレハブ新聞社にいたころから通った店でさみしい限り。マスターとママの「しゅうちゃん」はどうしたのだろう。我孫子駅前のバー「ボン・ヌフ」でジントニックとカナディアンウイスキーのロックを一杯。

5月某日
季刊誌「へるぱ!」の取材で日本介護福祉士会の内田千恵子副会長にインタビューに。フリーライターの沢見さんと当社の迫田も一緒。インタビューのテーマは介護福祉士の研修、人材育成だったが、話は「介護」という仕事の専門性とは何か?介護福祉士に求められる資質とは何か?に移って行った。内田さんに拠れば、例えば30分、45分間、高齢者宅を訪問介護するにしても、その時間帯だけの利用者のケアするのではなく、その人の1日の状態、生活はどうだったか、その人の暮らし、人生はどうだったか探求し、思い描かなければ十全な介護はできないということであった。介護という仕事は奥が深いと改めて思った。
「介護という仕事は肉体労働ではなく頭脳労働」という内田さんの言葉に深く納得。
一般社団法人の社会保険福祉協会から助成金をいただいて「介護職の看取り、グリーフケアの実態調査を行っているが、アンケート調査の項目を整理するため、SCNの高本代表の原案を元に、元厚労省で現在、筑波大学の宇野先生と議論。私と高本代表理事だけでは深まらない議論も宇野さんが入ると深化する。
元機械工業新聞労働組合の毛利さんから電話。毛利さんとは私がプレハブ新聞社の前に在籍していた日本木工新聞で労働組合をやっていた時、毛利さんが専門誌労協のオルグとして派遣されてきたときからの知り合い。ざっと40年くらいの付き合い。忘れたころに電話があり、酒を呑む関係だ。御徒町の居酒屋で一杯やった後、毛利さんのなじみの西日暮里の韓国倶楽部へ。毛利さんは韓国語が堪能。ホステスと韓国語で会話していた。

5月某日
保険局の武田審議官に次回の社会保障フォーラムのアドバイスを受けに社保険ティラーレの佐藤社長と。ソファーで先客の終わるのを待っていたら社会保険旬報の手塚さんが武田審議官に掲載誌を持ってくる。待っている間3人でおしゃべりする。武田審議官にいろいろとアドバイスを受けて帰社。当社の石津と久しぶりに呑みに行く。神田駅南口の「とめ手羽」に呑みに行く。結構繁盛している店で料理も美味しい。景気が少し回復してきたからなのだろうか、客足が戻ってきたように感じる。勘定を終えると竹下さんから携帯に電話。石津には「まっすぐ帰るんですよ」と声を掛けられたが神田の葡萄舎へ。焼酎を飲む。賢ちゃんとおねーちゃんも一緒に呑む。

5月某日
飯嶋和一の「狗賓童子の島」(小学館 15年2月)を図書館から借りて読む。A6判555ぺージの大著。幕末の隠岐を舞台とする歴史小説。大塩平八郎の乱に連座した父の罪により、西村常太郎は15歳の時に隠岐、島後に流される。常太郎は島民に暖かく見守られ青年医師に成長する。幕末の時勢は隠岐にも押し寄せ、隠岐の農民、漁民の松江藩への不満は高まる。庄屋や神官を指導者に島民は松江藩の代官を追放するのだが。鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争とほぼ同時期に行われた隠岐の島民の松江藩に対する反乱。これは一つの階級闘争としての農民戦争と言えなくもないと思う。支配者としての松江藩の収奪が庄屋や神官を指導者とする島民の蜂起をもたらしたのだ。明治維新を巡ってはその性格を巡って講座派と労農派の論争があったが、私としてはこの小説を読んで、「ブルジョア民主主義革命を内包しつつも基本は絶対主義の明治国家を成立させた」という折衷論をとりたい。飯嶋はなかなかの書き手と思う。

5月某日
日曜日だが、日本ホームヘルパー協会の因会長のインタビューがあるので大手町の新丸ビルへ。フレンチ料理の個室を確保している。因さん、当社の迫田、フリーライターの沢見さんと一緒に店に入る。食事の前に30分ほどインタビュー。食事をしながら1時間ほどその続き。因さんとは初対面だが飾らない、それでいて利用者やヘルパーのことをよく考えている人と思う。雑談のなかで因さんはボランティアから始め、家庭奉仕員、ヘルパー、介護福祉士、ケアマネージャーの資格をとってきた人らしい。結構な苦労人だが、そんなそぶりを少しも見せない。介護業界には魅力的な人が多いと改めて感じた。
東京に出てきたついでに相模大野でがん療養中のフリーライター、森絹江さんを見舞いに行くことにする。大学のサークルの後輩。サークルはロシヤ語研究会。のちに評論家となる呉智英さんなどもいた。森さんは入学後、共産同にオルグされて大学に来なくなった。再会したのは15年ほど前、私は編集者、彼女はフリーライターだった。彼女は女手ひとつで娘二人を育て上げ、そうしたら乳がんが発見された。5年くらい前だろうか。積極的な治療はしない段階になったそうで今日は見舞いに。在宅療養中で思っていたより元気だった。昔の仲間の話をして「また来るね」と別れた。

社長の酒中日記 5月その2

5月某日
「介護職の看取り、グリーフサポート」の調査研究で元厚生労働省で今は筑波大学の宇野さんに話を聞く。宇野さんは東日本大震災の被災者に対するメンタルヘルスの研究を実施。そのなかでグリーフケアについても触れている。宇野さんに来社してもらい、当社の会議室でインタビュー。被災者に対するケアはグリーフに限らず、簡単ではなさそうだということがわかった。セルフケア・ネットワークの高本代表理事、市川理事、当社の浜尾が同席。インタビュー終了後、会社近くのベルギー料理の店「St.Bernard」でベルギービールで乾杯。最近はどこの店に行っても、私は最年長グループだ。まぁしょうがありません。

5月某日
飯田橋の東京ボランティア・市民活動センターで日本介護福祉士会の内田千恵子副会長が「介護福祉士の今とこれから~2015年の介護保険を考える」という話をするというので、聞きに行くことにする。介護職の現状が分かって、大変有意義だったが、「介護職の現状がこんなので私たちが後期高齢者となる2025年は大丈夫か」と思ってしまった。介護福祉士の資格取得方法は大きく分けて2つ。①養成施設卒業②実務経験3年を経て国家試験を受験―である。養成施設卒業者は国家試験を受験しなくても介護福祉士の資格が付与される(2017年度の卒業生からは、国家試験を受験する)。内田さんは「国家試験を受けずに国家資格を取得できることにも問題はあるが、実務経験者は受験対策の勉強はしても、知識等を体系的に学ぶ機会はほとんどない」と問題点を指摘。さらに「介護職自身が正しく自分の職業を捉えておらず、ホスピタリティがあればできると考えている」「アセスメント力やコミュニケーション能力が非常に大事にもかかわらず、教育や訓練等を受ける機会がない」と語り、「介護は単なる肉体労働などではなく、利用者の意思を尊重し、尊厳を守るという職業倫理をもって行う頭脳労働」であり「介護福祉士自身が介護の仕事を見つめなおし、その重要性を認識する必要がある」と結んだ。その通りだが現状を変えていくためには、介護事業の経営者、養成校の教師、経営者の意識、そしてなによりも市民の意識を変えていくことが必要だ。

5月某日
世田谷区八幡山にある「夢のみずうみ村新樹苑」を見学に行く。元社会保険庁長官の渡邉芳樹さんや元毎日新聞の宮武さん、山地さんに誘われた。案内してくれたのは施設長の半田理恵子さん。説明も的確だし、説明の端々に施設経営の理念が伺える。聞くと世田谷の輝正会のリハビリ施設で働いていたこともあり、私が船橋リハ病院でお世話になった伊藤隆夫さんのこともよく知っていた。

5月某日
富国生命ビルの富国倶楽部。18時半からだが18時過ぎからビールを呑み始める。18時30分過ぎに当社の岩佐が来る。地域医療推進機構(JCHO)の藤木理事から「少し遅れますが亀井さん(同機構理事)はそろそろ着くはずです」との電話がある。亀井さんが登場。富国倶楽部に掛かっているシャガールの絵などを説明。遅れて藤木さん、それから支払基金の石井専務理事が来る。石井さんは広島への出張の帰り。20時過ぎに京大の阿曽沼理事が来る。阿曽沼さんは厚労事務次官の後、京大IPS研究所の顧問になり、昨年、京大の理事になった。何かと使われるらしく、今日も京大出身の政治家との会合があったそうだ。21時過ぎに散会。

5月某日
社会福祉法人サンで理事長と話していると川村女子学園大学の吉武副学長から電話。東京での会合が終わったら根津の「ふらここ」に顔を出すという。「ふらここ」は8時過ぎにしか店を開けないからそれまで時間をつぶす必要がある。で、僕よりも20歳くらい若いけれど友人の計良弁護士に電話するとOKだという。高田馬場の駅近くの「食道いろかわ」で待つことにする。板前さんがきちんとした和食を作るなかなかいい店だった。計良君と別れ根津の「ふらここ」へ。ほどなく吉武先生が来る。

5月某日
「地方から考える社会保障フォーラム」。夕方の情報交換会に出席。我孫子の関議員、鴻巣の頓所議員、豊橋の宮沢議員、健康生きがい財団の大谷常務と会社近くの福一に呑みに行く。地方議会においても社会保障が重要な論点になっていることがよくわかる。介護や公衆衛生、生活費後、児童福祉など社会保障のほとんどの分野を、支えているのは基礎自治体だ。私たちももっとそこに目を向けていかなければと思う。

5月某日
高田馬場でグループホームを運営する社会福祉法人サンの理事会・評議員会。少し早めに行ったら評議員の三木さんが見えていた。三木さんは昨年ご主人を亡くし今は柏の有料老人ホームに住んでいるという。今回、息子さんの運転で柏からわざわざいらしてくれた。三木さんは浴風会ケアスクールの服部さんとも親しい。いろんな話ができて楽しかった。理事会の議論の中で社会福祉法人経営の難しさを垣間見た思いがする。

5月某日
民介協の定例総会。当社も賛助会員であるので参加。同じ賛助会員の社会保険出版社の高本社長、SCNの高本、市川理事も参加。総会後の厚労省、三浦老健局長の講演を聞く。地域包括ケアシステムは何も高齢者のみのためのシステムではなく、障碍者や児童、一般市民も含んだものということがよくわかった。パーティではSNSの2人を民介協のメンバーに紹介する。

5月某日
「つやの夜」(井上荒野 新潮社 10年4月)を読む。艶という名前の女と関わりのあった男たち。そして彼らの妻、恋人、娘たちの物語。艶は末期のがんでO島の病院に入院している。料理旅館を経営している夫の松生は看病のため足繁く通うのだが。男女関係に奔放だった艶。それに翻弄されつつも艶に魅かれる松生。男女間の愛とはなんだろうか、関係って何だろうと考えさせるような小説だ。井上は独自の小説世界を築いたように思う。

社長の酒中日記 5月その1

5月某日
五月晴れにふさわしいいい陽気だ。神田駅南口の「軍鶏鍋龍馬」で民介協の佐藤理事長、扇田専務、そして民介協で健保組合の設立を検討していたソラストの岡村さんと4人で呑む。健保組合は今のところ拠出金の負担が膨大になるとかで断念、今日は岡村さんのご苦労さん会。私は関係ないけれど時間が空いていたので参加。ここはチムニー系の居酒屋だそうだがなかなか美味しかった。民介協の理事長も専務も楽しい人で気持ち良く酔えた。

5月某日
ゴールデンウィーク。毎年のことだが特に予定もないので福島県のいわき市に出かけることにする。震災後、いわき市には何度か行ったが、私の場合はボランティアで何かをするというのではなく「ただ行く」だけ。我孫子から常磐線の各駅停車を乗り継いで3時間以上かけていわきへ。いわきの中心市街地は地震や津波の影響は軽微だったが、常磐線のふたつ先の四倉は津波の被害を受けた。四倉駅から私の足で15~20分ほど歩くと四倉海岸だ。ここの道の駅は津波で大きな被害を受けたが、改修して今は営業をやっている。野菜などを購入。大川商店という大きな魚屋があるのだが今回はパス。帰りは四倉から水戸行に乗って水戸で上野行きに乗り換え。水戸でビールと日本酒を買い、それを呑みながら我孫子へ。途中で大越さんから「今、愛花にいるから」と携帯に電話。で愛花に寄る。

5月某日
連休中なれど高田馬場の社会福祉法人サンへ。理事で西東京市でグループホームを経営している安岡さんやフリーアナウンサーの町さんと食事へ。さぬきうどん屋に行く。少し摂取カロリーを減らそうと思っているんで私もレディーズセットを注文。すると「男の人は注文できません」。町さんが「じゃ私が頼んだことにすればいい」と言ってくれたので、めでたくレデーズセットにありつけることができた。これって逆差別だと思う。
高田馬場からに日本橋小舟町のセルフケアネットワーク(SCN)へ。アンケート調査の設問事項の確認。終わると人形町のカウンターだけの創作料理屋さんで御馳走になる。美味しいし雰囲気がいい。この界隈はレベルが高い。

5月某日
我孫子市民図書館でポプラ文庫の「Tanabe Seiko Collection5 うすうす知っていた」を借りる。田辺の短編をテーマ別に再編集したもので面白い試みと思う。巻末に田辺のインタビューがついているのもいい。そのインタビューによると「この本には、表だってあきらかにはできない、微妙な心理を扱った作品を集めた」という。要するに独身者2人だけの恋愛ならば、問題は2人の愛に限定されるが、それに家族が絡むとややこしくなる。そのもつれた糸をときほぐすでもなく「こんなになっている」と見せるのが田辺の力量なのではないだろうか。それもユーモアを交えて。田辺の短編にユーモアは欠かせないし、そのユーモアは登場人物たちが話す大阪弁とも密接につながっている。言葉と土地が分かりやすく結びついているのが大阪だ。

5月某日
我孫子市民図書館で借りた「妻の超然」(絲山秋子 10年9月 新潮社)を読む。表題作と「下戸の超然」「作家の超然」の3作が収録されている。3作は独立したストーリーで連関しない。共通するのは主人公が何者かから「超然」としていること。第3作で主人公の作家である「おまえ」は「超然というのは手をこまねいて、すべてを見過ごすことなのだ」と語らせている。第2作の主人公「僕」は恋人に「そうやっていつまでも超然としていればいいよ。私は、もう合わせられないけど」と別れを告げられる。第1作の主人公「理津子」は「およそ妻たるものが超然としていなければ、世の中に超然なんて言葉は必要ないのだ」と考える。まぁ私が思うに絲山の「超然」は夫(第1作)、恋人(第2作)、社会や自然(第3作)に対する関係性の持ち方の態度のあり方ではなかろうか。この小説は現代人の持つ「関係性への不安」をよく表していると思う。

5月某日
連休明け。映像の仕事をやっていて当社とも何度かコラボしたことのある横溝Jrと胃ろう吸引シミュレータの開発者である土方さんとビアレストランかまくら橋へ。横溝JrとJrがつくのは、もともと横溝さんのお父さんと知り合いだったため、勝手に命名したもの。「胃ろう・吸引シミュレータ」は当社からHCMに販売を移したが、今年1月以降ほとんど動いていない。積極的な宣伝・営業活動を行っていないので当然と言えば当然であるが、商品力はあるとみているので再度テコ入れを図りたい。土方さんは40代、横溝Jrは30代と思われるが、66歳の私にとっては若い友人。向こうがどう思っているかわからないが年下の友人として大事にしたい。

5月某日
住宅金融支援機構の理事に東急住生活研究所の望月さんが就任したのでプレハブ建築協会の合田専務、高齢者住宅財団の落合さんと鎌倉河岸ビル地下1階の{跳人}で祝う会。望月さんとは住文化研究協議会で親しくさせてもらって20年位になるのかな。合田さんに至っては私が日本プレハブ新聞社の記者として当時の建設省住宅局住宅生産課を取材で回っていた時の担当係長。今から30年以上前の話である。落合さんは私が年友企画に入社して5年くらい経ったころアルバイトで年金時代の編集をしていた。そういうわけで3人とも古い友人。しかも住宅関係という共通点がある。望月さんはお酒は呑まないが非常にさっぱりした女性。お父さんの転勤で福岡の修猷館高校に転入、この欄に度々登場する吉武さんの後輩にあたる。昔話に盛り上がった。

5月某日
日本橋三越前で西東京の田無病院で地域連携の仕事をやっている社会福祉士でケアマネの高岡さんと待ち合わせ。日本橋小舟町のセルフケアネットワークで「看取り・グリーフケア」についてのインタビューをさせてもらうためだ。今日は神田明神の大祭にあたり三越前も見物客でごった返していた。小舟町に行く間にも神輿に遭遇した。インタビューは医療職と介護職との連携の必要性と難しさ、ケアマネの置かれている状況と課題など多岐にわたる問題に答えてもらった。高岡さんに深く感謝である。終わって近くの洒落た料理屋さんで御馳走になる。先付や刺身など美味しいうえに盛り付けがきれい。この界隈は本当にレベルが高いと思う。

5月某日
平野貞夫の「戦後政治の智」(イースト新書 2014年2月)を読む。著者は1935年高知県出身。法政大学の学生時代、同郷の吉田茂の知己を得、大学院卒業後衆議院事務局に入る。1992年、参議院議員に当選、自民党、新生党、自由党、民主党と一貫し小沢一郎と行動を共にする。実は私と親交のある樋高剛元衆議院議員の岳父でもある。そんな関係でこの本も贈呈されたものと思う。よくある政治家の本と思って読まずにいたのだが、連休中に読み始めて面白さに引き込まれることとなった。私は現今の政治家には甚だしく不信感を抱いている。安倍首相にしろ、あの何とも言えない高揚感には「関わりたくない」と思ってしまうし、民主党の鳩山とか管などは「論外」としか思えない。もちろん近しく言葉を交わしたこともないので本当のところは確認できないのだが、政治家としての見識が感じられないのだ。
平野は本書で吉田茂、林譲治、佐藤栄作、園田直、前尾繁三郎、田中角栄について議会の事務局としてつきあった印象を記しているが、いずれも極めて人間的でしかも国家、国民の将来に対して深い思いを持っていることが伺われた。私が過激派と一緒になってデモをしたり火炎瓶を投げてた頃は、ちょうど佐藤栄作政権のときと重なる。当時は自民党の保守政治こそが打倒すべき対象であったのだが、まぁ若気の至りでしたね。こうした保守政治家たちにはおそらく確固としした国家観があったのだと思う。総じて現今の政治家は小粒であると思わざるを得ない。国民にとっての不幸である。

社長の酒中日記 4月その3

4月某日
結核予防会の竹下専務と高田馬場の「だるま」で5時半くらいから呑み始める。竹下さんとは30年来の付き合い。この間、一緒に呑んだ回数はもっとも多いのではないか。よく飽きないものである。焼き鳥をつまみに秋田県由利本庄の「天寿」、東北大震災で蔵元自体が福島から山形へ引っ越した「親父の小言」などを呑む。

4月某日
「介護職による看取り、およびグリーフケアのあり方に関する調査研究」を一般社団法人のセルフ・ケア・ネットワークとやることになった。社会保険福祉協会が助成してくれることになり、関西学院大学の坂口先生に全般的な監修をお願いすることにする。明日、朝の9時半に先生の研究室にうかがうことになっているので神戸に泊まることにする。旅行代理店に頼んだが手ごろなホテルがどこも一杯で「ケーニヒスクローネホテル」がやっととれた。朝食付きで1泊1万2、3000円だったと思う。当社の出張規定では宿泊費は一律9500円だから差額は自腹である。昔仲人をした佐々木健君がこっちに住んでいるので呑みに行くことにする。ホテルに迎えに来てくれた佐々木君が「なんでこんなお洒落なホテルに泊まっているんすか」と驚くほどのホテルである。あとで調べたら「ケーニヒスクローネ」とは神戸の有名な洋菓子屋さんらしい。三宮の居酒屋で新鮮な刺身と灘のお酒を御馳走になる。

4月某日
坂口先生をセルフ・ケア・ネットワーク(以下SCNと略)の高本代表理事と訪ねる。調査にいろいろとアドバイスをいただき監修も引き受けてもらった。三宮に戻り生田神社に参拝。お昼ご飯を高本代表理事に御馳走になる。インタビュー調査のため尾道へ。福山で「のぞみ」から「こだま」に乗り換え新尾道へ。新尾道からバスで尾道へ。最初のインタビューは在宅医療やチーム医療の先駆者である片山先生。片山先生は診察があるのでインタビューは6時から。それまで時間があるので私は尾道の繁華街を散策。小洒落た喫茶店でビールをいただく。尾道ゆかりの作家、林芙美子の坐像も見ることができた。片山先生からは「主治医の立場」での在宅緩和ケアや長期にわたるグリーフケアの話を伺うことができた。グリーフケアというのは人間同士のマナーであり、ヒューマニィティとフィロソフィーが必要という話が印象に残った。片山医院からタクシーで黒瀬歯科医院へ。歯科医院の前で先生と奥さんが待っていてくれる。内装を黒で統一したお洒落なレストランに案内される。地元の食材をふんだんに使った創作料理と広島の日本酒をいただく。口腔ケアや医科と歯科、歯科と介護の連携の話も伺ったのだが、料理と酒に夢中で覚えていない。近くのバーに寄って私はウイスキーのソーダ割りを頼む。先生はウオッカベースのモスコーミュール。すっかり御馳走になってしまった。

4月某日
早起きして尾道の港のほうを散策。尾道は「しまなみ海道」の起点。サイクリング客の誘致に力を入れている。港の空き倉庫を改修してホテルにしている。1階はレストラン、喫茶、物産店になっている。私は尾道の柑橘類と野菜を買う。11時に昨夜の黒瀬先生に紹介された小規模多機能「森のクマさん」を訪問。看護師で地区統括本部長の佐古田さん社会保険労務士でこの施設を運営するブレークスルーの相川社長が応対してくれた。佐古田さんは「誰にでも死は必ず来る。入居施設として入居者の最期まで責任を持ちたい」と語り、当初は介護職も看取りには抵抗があり、辞めていく職員もいたが1年半たつと職員の離職率はずいぶん減ったという。「疾患や障害しか見てこなかったのが入居者を全人的にみられるようになったからだと思う」と語ってくれた。昼食を近くのイタリアンレストランで御馳走になる。私はあさりのスパッゲティをいただく。非常においしかった。相川社長によると尾道の飲食店は総じて平均点が高いということだった。古くから港町として栄えてきたこととも関係するのだろうが文化度が高いのだ。
東京へ帰る高本さんと別れ、私は名古屋へ。名古屋では社会福祉士でケアマネの小藤さんに「対人援助DVD」の制作について相談。その後、児玉道子さんとその夫の隆夫さん、それから隆夫さんの社会福祉士の研修仲間と沖縄料理の居酒屋へ行く。沖縄出身者が集まる店のようで沖縄方言、うちなー口が飛び交っていた。若い人たちと呑めて楽しかった。

4月某日
3泊4日の出張も終わり。今日は日曜日なので東京駅から我孫子へ直帰。我孫子の駅前の「しちりん」と「愛花」による。

4月某日
映像プロデューサーの横溝さんと社会保険福祉協会の内田さん、岩崎さんと4人で西国分寺の社会福祉法人にんじんの会が運営する「にんじんホーム」を訪問。理事長の石川さんと介護事業者のための危機管理をテーマとしたDVDの教材の製作の打合せのためだ。にんじんの会の在宅サービスの職員、老健や特養、グループホームの職員も参加してディスカッション。老健のドクターやナースも参加したので医療的な危機管理についても話すことができた。終わって横溝君は次の打合せへ。社会保険福祉協会の2人と私は西国駅前の割烹で理事長に御馳走になる。新潟の酒と肴が絶品だった。

4月某日
厚生労働省の武田審議官を訪ねて1階のゲートを出ようとすると共同通信の城から声を掛けられる。今日、健康生きがい財団の大谷常務と福井Cネットの松永さんと呑むという。私も予定した呑み会が先方の体調不良で中止になったこともあって参加することに。会社近くのレストランかまくら橋に6時に行くと「今日は貸切です」と断られる。同じビルの地下1階の津軽料理の店「跳人」にする。6時半ころ大谷さんと松永さんが到着。遅れて城が参加。松永さんは福井県で障碍者の就労に取り組んでいる。松永さんと話していると障碍者の問題は健常者の問題であり、市民社会全体の問題であることがよくわかる。

4月某日
今日は「緑の日」で休日なのだが東京福祉専門学校の白井孝子先生に用があるので出社。西葛西の東京福祉専門学校へ。大谷さんにも付き合ってもらう。キタジマ印刷の金子さんのところへ。金子さんにも休日出勤してもらう。キタジマ印刷は都営地下鉄の森下の近く。近辺には良さげな呑み屋さんが多いのだが、休日の4時過ぎということで空いている店が少ない。いっそのことと京成立石まで足を伸ばすことにする。「中みっちゃん」という居酒屋に入り、ビール、お酒、ニラ玉、アジのなめろう、ホウレンソウのバター炒めなどをいただく。安くておいしかった。

4月某日
「舟を編む」(三浦しおん 光文社文庫 15年3月 単行本初版は11年9月)を読む。玄武書房に勤める馬締光也青年が国語辞書「大渡海」の制作のために辞書編集部に異動する。下宿の女主人との交流、その孫娘との出会い、恋愛、結婚、同僚、先輩、編集顧問の老いた国語学者たちとのさまざまなエピソードがこの小説に大小の起伏を与えている。馬締は自らがノメリコムことができる「辞書作り」という仕事につけて幸せであった。私自身のことを言うのはいささか憚られるが、私も介護や福祉というジャンルに雑誌作りを通して出会えることができて幸せであった。

4月某日
私が理事をやっている高田馬場の社会福祉法人サンで理事長の西村さんと評議員で税理士の伊藤さん、理事で弁護士の川島さんと打合せ。ここの社会福祉法人は職員はもとよりほとんど無報酬の理事や評議員によっても支えられていることを実感する。打合せを終わって有楽町電気ビル地下1階の「あい谷」へ。ここは10数年通っているが今日が閉店ということだ。新宿に「あぐら」という店があり、厚生省の官僚がよく使っていた。そこの雇われママさんのような人が「あい谷」でもママさん役をやっていた。今日聞くと経営者のマスターは当時学研の社員で客として「あぐら」に来ていたという。おそらく脱サラして「あい谷」を始めたものと思われる。阿曽沼氏と南極の氷でウイスキーを呑む会をやったり、私の母校である室蘭東高校の首都圏同級会をやったりいろいろと思い出のある店だ。さみしいが店も客も老いてゆくのだ。

社長の酒中日記 4月その2

4月某日
珍しく8時台に帰宅する。水割りを啜りながらテレビのチャンネルをガチャガチャやっているとBSで吉永小百合が薬局を経営する姉役、笑福亭鶴瓶が役者を夢見ながら年齢を重ねてしまった無頼の弟役の山田洋次監督の「おとうと」をやっていた。私は山田洋次の類型的なストーリー展開は好きになれないのだが、この映画でも何度か泣いてしまった。出来の悪い弟に翻弄される美人でかしこい姉、これはもう類型以外の何物でもないと思うのだが、何というか姉と弟双方の類型的な「健気さ」が泣かせる。

4月某日
民介協の扇田専務とSCN(セルフケアネットワーク)の高本代表とグリーフサポートの打合せ。介護事業者の看取りについてインタビュー調査先についてアドバイスをもらう。打合せ終了後、会社の近くの「木花」に呑みに行く。扇田さんは常連のようだが私は初めて。タコの刺身や山芋の千切りなど居酒屋の定番メニューを注文するが、それぞれ美味しかった。酒は長野の焼酎。結局1本空ける。扇田さんは今、「孫に知ってもらうため」に自分史を執筆中。県立奈良商業を卒業して富士銀行に入行、八重洲支店や広島支店での扇田さんの活躍は折に触れて聞いているが、私には興味深い話ばかりだ。我孫子へ帰って駅前のバー「ボン・ヌフ」でジントニックとウォッカのソーダ割り。

4月某日
日本橋小舟町のSCNの事務所を訪問。調査研究事業の費用の件などを話し合う。SCNの事務所で体操の先生に会う。高齢者にストレッチや体幹を鍛える体操を教えているらしい。私もすでに前期高齢者の仲間入り、なかなか体を鍛えるまでには至らないが、毎朝、ストレッチ等の体操を15分くらいやるように心がけている。夜、神田明神下の「章太亭」へ。以前、当社で働いていた村井由美子と待ち合わせ。ビールを呑もうとしたら村井が来たので乾杯。村井は昨年結婚したが、相手はこれも当社にいた寺山君。付き合い始めたのは2人が会社を辞めてからだから、こういうケースは職場結婚とは言えないのだろうな。村井は章太亭を気に入ったようだ。というか章太亭はたいていの客が喜ぶ。押しつけがましくないけれど心のこもったサービス、古き良き時代、小津安二郎の映画に出てくるような小料理屋なのだ。

4月某日
昔の仲間と馬事公苑の八重桜を見ようということになった。昔の仲間というのは、私がこの会社に入る前の会社、日本プレハブ新聞で同僚だった高橋博君。その当時から仕事の付き合いがあり、今はフリーライターをやっている香川喜久江さん、デザイナーの山沢美紀子さん、それに初期の年友企画に在籍して今はフリーの編集者をやっている川瀬春江さんだ。私は八重桜は苦手なので花見はパスして呑み会から参加することにする。小田急線の経堂駅の改札で待ち合わせ。経堂は山沢さんの地元。目当ての焼肉屋に行くがお休み。駅の近くの居酒屋へ。これが正解で安くて美味しい。高橋君は今、実家の定食屋を手伝っている。シェフは80歳代のお母さん。固定客が高齢化し亡くなる人も多く、経営は厳しいとか。高橋君は昔から物事に凝るほうで、昔は酒、きのこ、オートバイなどなどだが、今は酒もたばこも辞めてノン・アルコールビールを呑んでいた。今の趣味は演歌以外の音楽と本だそうだ。昔の仲間とたまに会うのもいいものだ。

4月某日
「新たな縁を結ぶ会」に出席。この会にはこのところご無沙汰していたのだが、今年は当社の迫田が「申し込みをしているが仕事が忙しくて行けないので行って」ということで出かけることにする。会場はイイノホール。会場に行くと厚労省健康局の伊原総務課長に「日記、読んでますよ」と声を掛けられる。パネラーの唐沢保険局長に挨拶。私は第3部の立体シンポジウム「地域包括~ニセモノ・ホンモノ~創造編」から出席。コーディネーターは一橋大学の猪狩教授と朝日新聞の生井さん。パネリストは39歳でアルツハイマー型認知症と診断されたトヨタのトップセールスマンだった丹野智文さん、新宿食支援研究会代表で歯科医の五島朋幸さん、茅ケ崎のあおいけあ社長の加藤忠相さん、全国福祉用具専門相談員協会理事長の岩元文雄さん、元夕張市立診療所所長の森田洋之さん、社会福祉士の猿渡進平さん、東近江市永源寺診療所の花戸貴司さん、それに厚労省の唐沢保険局長だ。
印象に残った発言をいくつかあげておきたい。茅ケ崎市で認知症高齢者のためのデイサービスを運営する加藤さんは、質の高いサービスを提供できるのは「マニュアルではなくミッション」という。施設のハードの作り方でも利用者同士、利用者と援助する側の「距離感が大事」で要は「広すぎない」のが「居心地の良い空間」ということだ。夕張市立診療所の元所長の森田さんは、一人暮らしの認知症のおばあちゃんが、自分の家の前だけでなく他人の家の前まで雪かきしている例を挙げて、「認知症になっても世話される側でなくお世話する側にいる」として「役割を持つ」ことが大切と語る。また「自分たちがどういう医療介護を受けたいかみんなで考えること」によって市民全体が変わっていくと夕張市でも確実に市民の意識改革が進んできたことを報告した。花戸さんは「医療や介護に携わる人以外も地域の人みんながみんなを支え合う」ことと、こうしたことは「次世代の子供たちに受け継がれなければならない」と語った。これらを受けて唐沢局長は「社会保障だけでなくあらゆる政策分野の柱に地域包括ケアを」と語っていたのが印象的だった。若年性認知症の丹野さんは「認知症と診断され、落ち込んでいた気持ちを前向きにしてくれたのは認知症の当事者だった。私も人のために何かをしたいと願っている」と語り会場から大きな拍手が送られた。

4月某日 
「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」(橘玲 単行本10年9月 文庫本15年3月 幻冬舎文庫)を読む。この人の本は震災関連で読んだ記憶がある。ウィキペディアで調べると「大震災の後で人生について語るということ」(講談社)だった。1959年生まれ。早大一文卒、宝島の元編集者ということだ。橘の主張はいちいちもっともと私には思える。「もしもぼくたちの人生が「やればできる」という仮説に拠っているならば、この仮説が否定されれば人生そのものがだいなしになってしまう。それよりも「やってもできない」という事実を認め、そのうえでどのように生きていくのかの「成功哲学」をつくっていくべきなのだ」という主張にもうなずける。橘の成功哲学はたった二行に要約できる。

 伽藍を捨ててバザールへ向かえ。
 恐竜の尻尾のなかに頭を探せ

同感ではあるが今年67歳になろうとする私にも可能だろうか? いやむしろ67歳のジジイだからこそ「伽藍を捨て」られるのだと思う。

4月某日
新宿区の高田馬場でグループホームを運営している社会福祉法人サンの理事長、西村美智代さんが来社。社会保険研究所の営業に引き合わせる。介護報酬の改定に関わる図書の広報を要請。会社の向かいの「ビアレストランかまくら橋」へ。後から共同通信の城、NHKの堀家、SMSの長久保氏が参加、当社の迫田、健康生きがいづくり財団の大谷常務も来る。

社長の酒中日記 4月その1

4月某日
大分市長選挙に立候補した椋野美智子さんを「勝手に応援する会」で集まったカンパを集めに大分へ。大分空港からバスで1時間ほどで大分市内へ。市役所のほうと勝手に思い込んでいたけれど事務所が見当たらないので電話したら駅の反対側だった。慌ててタクシーで事務所の住所へ向かうと新築のビルの1階に大きな「椋野事務所」の看板があった。さっそく、椋野さんと選挙の応援をしてくれている吉良さん(吉良代議士の弟さん)にカンパを渡す。椋野さんは元気そうで「1月までは選挙に出ようなんて思ってもいなかったのよ」と明るく話す。私が「子育て支援など社会保障政策の推進を訴えれば勝てるよ」というと「そこまで聞いてもらうのが大変なのよ」と。なるほどね。長居してもなんなので、今夜の宿の別府へ。別府行きの特急に乗ったつもりが熊本行きで最初の停車駅で大分に戻る。そんなこんなで別府のホテルに着いたら10時近かった。温泉には翌朝入ることにして寝る。

4月某日
大分空港から伊丹空港へ。伊丹空港から京都嵐山の天龍寺へ。かなり前から会社が維持会員か何かになっているようで毎年、花見に呼ばれる。天龍寺に着くとHCM社の平田会長が迎えてくれる。平田会長は天龍寺の前管長、平田晴耕師の実弟。前管長は確か東大の印度哲学を出てドイツへ留学したという英才だが、平田会長は同志社大学に入ってスチールギターを弾いていたという変わり種。大変、洒脱な人で私は尊敬している。花見の前にはいつも講演があるが、今年は同志社大学の先生が白隠について話してくれた。宴席に移ってビール、日本酒、お弁当、おでん、お蕎麦をいただく。2次会は祇園のバー「くろこ」へ。平田会長は神戸に住んでいる。私も京都に宿をとれず、尼崎のホテルにしたので新幹線で新大阪まで一緒に帰る。

4月某日
尼崎から西宮へ出てタクシーで関西学院大学へ。人間福祉学部坂口先生にグリーフサポートの調査研究についてアドバイスをいただく。坂口先生はたいへん謙虚な方で私のつまらない話にも真剣に付き合ってくれる。関西学院大学から京都の同志社大学へ。厚生労働省から同志社に移った井上恒夫さんを訪問。井上さんには東京へ来たら連絡ください、呑みましょうと約束する。同志社大学から京大へ。本部に厚労省の事務次官から京大の理事になった阿曽沼さんを訪問。ほどなく元住宅情報の編集長の大久保京子さんが来る。大久保さんが予約してくれた焼き鳥屋へ向かう。ここの焼き鳥は、モツとモツの間にタマネギの小片を挟んでいるのが特徴。私の故郷、北海道室蘭の焼き鳥は、豚肉の正肉にタマネギを挟んで洋辛子で食べる。ちょいと故郷のことを思い出した。

4月某日
京都から名古屋へ。我が家ネットの児玉さんと面談。福祉住環境コーディネーターのフォローアップ研修について意見を聞く。ニーズはありそうだ。途中から住快護創造ネットの小多美恵子さんが参加。小多さんは30過ぎてから大工に転身したという。体つきは華奢だが精神がタフなのだろう。

4月某日
「月次決算の進め方」(金児昭 日経文庫 05年12月)を読む。著者は信越化学で経理財務部門一筋で来た人。月次決算の基本というか、なぜ月次が重要なのかがわかったような気がする。つまり本決算や半期決算、四半期決算を待っていたのでは迅速な経営判断ができないということに尽きると思われる。

4月某日
「財政危機の深層―増税・年金・赤字国債を問う」(小黒一正 NHK出版新書 14年12月)を読む。著者は京大理学部卒業後、糸唾し大学の博士課程を修了、大蔵省に入省。現在は法政大学経済学部准教授。専門は公共経済学。先月読んだ「社会保障が経済を強くする」では財政再建のためには社会保障を中心とする歳出削減を行わなければならないとする考えは誤りと主張していたが、本書は年金を中心に社会保障には大ナタを振るわざるを得ないし、そうしなければ日本は沈没するだろうという指摘だ。
私は将来世代にできるだけ負担を先送りしないという観点からは財政再建派である。と同時に「子育て支援」など社会保障の充実によって経済成長を図るという意味からは社会保障推進派である。ただ社会保障ならばなんでもかんでも推進すればいいという考えではない。年金については世代間の公平性という観点からは削減はやむを得ないだろう。生活保護には自立支援の考えが大切で社会復帰をどう図るかが必要だ。また社会保障を税金と保険料のみで賄うのではなく互助的な考えも必要になってくると思っている。メリハリの効いた社会保障改革が必要なのだ。

4月某日
社会保険研究所発行の介護報酬関連の図書を介護関連団体へ営業支援を行っている。研究所の志賀ちゃんに頼まれた。今日はCIMネットワークの二宮理事長の後、介護クラフトユニオンへ。副事務局長で政策部門長の村上久美子さんに会うためだ村上さんとは数年前に2,3度呑んだ出だが覚えていてくれた。図書の紹介などをお願いする。雑談をするうちに当社の元社員が介護クラフトユニオンの幹部の奥さんになっていることが判明。世間は狭い。竹橋もホテルKKRで「へるぱ!」の編集会議。会議が終わった後、社福協の本田常務も交えて食事。私も当然、参加しなければならないのだが、我孫子で会合があるので失礼する。我孫子の会合は川村女子学園大学の副学長の吉武さんと、吉武さんと厚労省同期で元衆議院議員の大泉博子さん。場所は以前使ったことがある我孫子駅北口の「美味小屋」(うまごや)。6時の約束だったが30分ほど遅れた到着すると2人はすでにビールを飲んでいた。遅れた我孫子で「地産地消の会」をやっている中沢さんが登場。中沢さんは富山県砺波市出身。なかなかの資産家らしいが感じの良いフツーのおっさんだ。

4月某日
社内でグリーフケアの打合せを高本さんと当社の浜尾と3人で。引き続きSMSと打合せ。6時半過ぎにSMSの長久保さんと葡萄舎で合流。大分空港で買ってきた麦焼酎を2本空ける。

4月某日
社会福祉法人サンの職員採用の面接を西村理事長と。出版社の採用面接とはずいぶんと違う。今日面接した人は優しそうな人だった。私にはそれぐらいしかわからない。勉強します。元厚生労働省の宇野裕さんが来社。「椋野さんを勝手に励ます会」には参加できなかったけどと言って、1万円カンパをいただく。宇野さんは厚労省を辞めた後、社会事業大学で専務理事を務めた後、今は住友生命の顧問と筑波大学の准教授。2つの名刺をくれた。筑波大学では被災者支援の研究をやっているということでグリーフサポートにも関心を示してくれた。一緒に研究をできればと思う。山形・庄内料理の店「このじょ」へ。結核予防会の竹下専務が参加。