社長の酒中日記 3月その3

3月某日
国際厚生事業団の会員となっているので年1回の総会に参加。総会後厚労省の二川医政局長の講演を聞く。二川さんの講演を聞くのは初めてだが、わかりやすく、ユーモアを交えた語り口で好感を持てた。私は医療機関相互の機能分担と業務連携の推進のために新しく創設される「医療連携推進法人制度」の話が興味深かった。川本三郎の「君のいない食卓」(新潮社 11年11月発行)を机の上に置いていたら、顔見知りの事業団監事の佐野さん(元社会・援護局長)から「おや、川本三郎なんか読んでいるの」と声を掛けられる。川本は佐野さんの小学校の後輩、高校も麻布で一緒だそうだ。川本は東大法学部だから大学も一緒かも。川本の奥さんは08年の6月、食道がんで57歳で亡くなっているが、「食べ物と奥さんへの想い」を綴ったエッセーが「君のいない食卓」だ。川本の本を読んだのは初めてだがなかなかよい。川本は確か朝日ジャーナルの記者をしていた頃、「赤衛軍」を名乗る青年を匿った疑いで逮捕起訴され、朝日新聞社を馘首された。(あいまいな記憶で書いているので正確ではないかもしれない)。川本を支えたのが奥さんだったわけね。講演の後、懇親会に顔を出し、角田専務にあいさつして途中で抜け出す。日刊企画に寄って小宮山社長と寿司屋へ。
私が大学を卒業した時は第1次オイルショックの直前の1972年。世の中は空前の好景気に沸いていたが、この日記にもたびたび書いたように私は授業にはほとんど出たことがないうえ学生運動の活動家の端くれだったし、逮捕起訴経験もあった。まともなところには就職できるはずもなく、友人の村松君の親戚がやっている印刷屋にもぐりこんだ。その印刷屋にいたのが小宮山さんで、私は当時の最先端印刷技術だった写植のオペレーターに配属され、小宮山さんは「大組」といって活版印刷でいえば組版を担当していた。その印刷屋には2年ほどいて私は住宅建材の業界紙に転職した。小宮山さんは確かその会社が倒産するまでいたと思う。小宮山さんはその後、フジサンケイグループの日本製版という印刷会社に移り、20代で独立、日刊企画という印刷会社を始めた。地下鉄丸ノ内線で再会したとき、私は日本プレハブ新聞という業界紙に移っていたが、単行本の印刷をお願いしたりした。今の会社に移ってからも付き合いは続いているが、最近は印刷の仕事のウエートが低下し申し訳なく思っている。でもたまに会うと二人とも青春時代に戻ってしまう。

3月某日
「わがやネット」の児玉道子さんは、普段の生活の根拠は愛知県の知多半島の半田市。仕事で上京してきたので会うことにする。北綾瀬で仕事があるというので千代田線の根津で会うことにする。言問い通りと不忍通りが交差する根津の交差点近くに「海鮮茶や 田すけ」という看板を掲げている店があったので入ることにする。40前後の店主が一人でやっている店で、おいしそうな日本酒、焼酎をそろえていて、しかも料理が美味しく、さらにこれが重要だが値段もリーズナブルだった。8時過ぎに同じ根津「ふらここ」のママに「児玉さんが来ているんだけど今日帰るからちょっとだけ顔だすね」と電話。「ふらここ」でウイスキーの水割をいただく。

3月某日
大分市長選挙に元厚生労働省の椋野美智子さんが出馬表明した。江利川さんや中村秀一さん、社会福祉法人にんじんの石川理事長、ふるさと回帰支援センターの高橋ハムさんに発起人になってもらい「勝手に励ます会」を霞が関ビル35階の東海大学校友会館でやることにする。当日、受付をやってくれる当社の迫田、石津、浜尾と一緒にタクシーで会場へ。15分くらい前から参加者が続々と集まってくる。義理で来てもらったHCMの大橋さん、青海社の工藤さん、社保研てぃらーれの佐藤さん、グリーフサポートの高本さんたちに感謝。発起人を代表して江利川さんがあいさつ。「私たちは椋野美智子さんが大分市長となって、福祉の基盤を整備し新しいふるさとを創生していくことを強く望みます」という共同アピールを採択した。羽毛田さんや浅野史郎さんからも心のこもったあいさつがあった。大分からわざわざ大分選出の吉良代議士が来てくれて最近の状況について話してくれた。予想以上に盛り上がった「勝手に励ます会」だが、椋野さんの仁徳でしょうね。私の選挙応援は浅野さんの宮城県知事選が最初。それから阿部さんの参議院選挙なども応援した。根が好きなのだと思う。

3月某日
図書館から借りていた「物書同心居眠り紋蔵 わけあり師匠事の顛末」(佐藤雅美 講談社 2014年4月)を読む。佐藤雅美は好きな作家の一人だが「居眠紋蔵シリーズ」はそのうちでもお気に入りのシリーズだ。シリーズがこれで13冊目というからずいぶん続いていることがわかる。「わけあり師匠事の顛末」を読んで初めて気が付いたことがある。全体が8章で構成されており、それぞれが独立した物語なのだが、安芸広島浅野家の浪人、青野又五郎と奥女中奥林千賀子の恋物語が各章を通じて語られる。当たり前かもしれないが「綿密に」構成されているのである。佐藤雅美独特の時代考証、これがあるから物語にリアリティを与えているのだろう、と合わせて私には「堪らない」。

3月某日
社会保険研究所の谷野編集長のご尊父のお通夜に出席。最近のお通夜では故人の在りし日の画像が放映されることがある。今日のお通夜もそうで画業にいそしむご尊父の映像が流されていた。高校か中学の美術の教師でもされていたのであろうか。私とは一面識もないが、画像を目にすることによって故人にいささかなりとも近づけた思いがする。浦和の焼き鳥屋南蛮亭にフィスメックの田中会長と流れる。

3月某日
元社会保険庁の池田保さんに会社に来てもらって私の年金相談。とにかく4月中に何らかの手続きをすることを勧められる。日本の年金は社会保険方式による申請主義。皆さんはちゃんとやっているのだろうけど。まぁとにかく時間を作って手続しなければ何も始まらない。年金相談を切り上げて会社の向かいの「ビアレストランかまくら橋」へ。セルフケアネットワークの高本代表が打合せに。関西学院大学の坂口教授との打合せの相談である。こちらもちゃんとやらねば。

3月某日
「社会保障が経済を強くする―少子高齢社会の成長戦略」(盛山和夫 光文社新書 2015年3月)を読む。盛山氏は専門は数理社会学。社会保障や経済学の専門家ではないところが味噌である。「社会保障の充実と経済成長の両立は可能なのか」という市民の疑問に経済学や社会保障の専門家ではない著者が見事にこたえていると私には思われた。著者は、財政再建のために社会保障を中心とする歳出削減を行わなければならないとする考え方は誤りと断言し、「小さな政府論によって日本経済の成長戦略を描くことは不可能なのです。日本の将来のためには、もはや、そうした誤った考えからは脱却しなければなりません」と説く。家族は弱い存在なのだ、という認識から著者は出発する。だから家族を社会全体で支えるという考えと仕組み、すなわち社会保障が必要なのだというのだ。

社長の酒中日記 3月その2

3月某日
「へるぱ!」のインタビューで厚労省老健局の高橋振興課長にインタビュー。質問に誠実に答えてくれた。高橋さんは国土交通省との交流人事で老健局へ。福祉の仕事は初めてと思うが勘所はきちんと押さえている。しかしわたしが高橋さんのような優秀なキャリア官僚に望みたいのは「現場を見てほしい、現場の声を聴いてほしい」ということ。中央官庁の情報は役所(都道府県などの自治体)や市町村長、団体を通してのものが多いのではないだろうか?それはそれで結構なのだが、現場との微妙な「ズレ」を感じてもらいたい、そのためには現場を見てもらいたい、ということである。
社会保険出版社の高本社長を訪問。今後の事業の展開などについて意見交換。フィスメックの小出社長も合流。3人で社会保険出版社の近くの新潟の「へぎそば」の店に。「栃尾の油揚げ」などを肴に八海山や麒麟山、吉乃川、越乃景虎などの新潟の銘酒をいただく。途中から元厚労省で現在、川村女子学園大学の副学長をやっている吉武さんが参加。吉武さんが入ると「座がもつれる」ケースがあるが、この日は終始上機嫌。まぁ高本さんも小出さんも吉武さんとは初対面みたいなもの。初対面の人に対してはさすがの吉武さんも「紳士」にならざるを得ないのであった。高本社長にすっかり御馳走になる。

3月某日
大学時代の同級生、A宮弁護士と神田の鎌倉橋の交差点で待ち合わせ「葡萄舎」へ。法律問題を相談してあとは焼酎。僕らのクラスは優秀な民青とあまり優秀ではない全共闘派(僕ら)がいたが、クラス委員選挙ではいつも民青に負けていた。クラス討論で、民青から「お前は偉そうなことを言うけれど、日米安保の条文を読んだことがあるのか?」と聞かれ、「読んでねーよ。ベトコンの少年兵は共産党宣言や資本論を読んでいなくっても立派に米軍と闘っているじゃねえか」と答えたら、民青から「今、ベトコンと言ったな。それは解放勢力に対する蔑称なんだぞ」と噛みつかれ、クラス討論は終了した。勉強嫌いは今に至るも変わらない。

3月某日
「けあZINE」のインタビューで株式会社介護コネクションの奥平代表取締役に会社に来てもらう。奥平さんは沖縄出身。新聞奨学生をやりながら早稲田大学社会科学部を卒業、不動産鑑定事務所に勤める。この事務所で高齢者住宅や施設の鑑定に携わったのが介護の仕事と出会ったきっかけ。新聞奨学生だった経験を活かして介護施設で働きながら、大学や専門学校で学ぶというシステムを考案して現在、試行中。卒業後、介護関係の仕事に就くのもいいが、奥平さんはむしろ、介護の仕事を通して仕事の厳しさや楽しさを学んで一般のビジネスに生かしてほしいという考え。介護に対する正しい理解が市民の間に広がってほしいと最近、強く思う。奥平さんのビジネスが成功することを祈る。インタビューが終わった後、当社のS田、SNSのN久保氏と「レストランかまくら橋」へ。奥平さんはお酒は呑めないそうで、ジンジャーエールで付き合ってもらう。わたしらは持ち込んだウイスキーをいただく。

3月某日
東商傘下のNPO,「生活福祉健康づくり21」の横田さんが3月いっぱいで退職するというので民介協の扇田専務と送別会。神田駅南口の扇田専務いきつけの居酒屋へ。中国吉林省出身の女の子が注文取りやお運びをやっている。横田さんは退職して地元川越の町内会で伝統のある山車の回収・保存に力を入れるという。こういうひとが地域を根っこから支えているんだろうと思う。

3月某日
企画を手伝ったオヤノコトサミットが有楽町の交通会館で開かれているので覗きに行く。白梅大学の山地先生の「介護保険制度改正」、浴風会ケアスクール服部さんの「認知症患者家族の悩みにこたえる」、わがやネットの児玉さんの「親の安全な住環境のために」、大田区西新井の地域包括支援センターの澤登さんの「地域で楽しくクラスためのヒント」をきかせてもらう。聴衆がちょっと少ないのが残念だったがなかなか聞きごたえのある講演だった。会社へ帰ってグリーフサポートの高本さんと当社の浜尾の3人で「介護職にとってのグリーフサポート」の調査事項について打合せ。児玉さんも合流。高間と、児玉さんと私の3人で神田の葡萄舎へ。高本さんは夫の社会保険出版社の高本社長が葡萄舎のファンなので一度来てみたかったという。高本さんと児玉さんは初対面だが年齢もほとんど一緒で、気が合ったみたいで今度児玉さんが住んでいる知多半島へ行こうという話になっていた。遅れて高本社長も参加。私は我孫子へ帰って駅前の「愛花」で焼酎のお茶割を2杯ほどいただく。

3月某日
オヤノコトサミットの2日目。長寿社会開発センターの石黒理事に講師をお願いしているので覗きに行くことにする。10時からと思っていたら11時からだったので地下1階の喫茶店で時間をつぶす。11時近くなったので会場に行くと徐々に人が集まりだした。石黒さんの講演テーマは「親の老いと親孝行の心得」。石黒さんは自らの体験を踏まえながら軽妙に話す。午後、会社に帰り17時から高田馬場の社会福祉法人サンへ。

3月某日
市民図書館で借りた「会社をどう変えるか」(奥村 宏 ちくま新書 03年12月)を読む。10年位前に出版された本だが日本経済を替えていくにはそれを支えている会社を変革していかざるを得ない、という著者の考えは基本的に正しい。日本の会社の現状はバブル崩壊の後遺症、それに加えて人口の減少による市場の縮小により、20年の間、低迷を続けてきた。現在は円安効果によって経済は回復の兆しを見せているが、個人や企業のもたれ合い、責任の回避といった日本の風土それ自体を変えていかなければ、本当の構造改革はできないと思っている。改革には痛みが伴う。その痛みをできるがけ少なくしながら改革の効果を上げていくのが経営者の責任である。

社長の酒中日記 3月その1

3月某日
社保研ティラーレの佐藤社長と厚労省の武田審議官を訪問。地方議員を対象とした「地方から考える社会保障フォーラム」の講師、テーマの選定についてアドバイスをもらう。その後、虎の門フォーラムの中村理事長と面談。虎の門フォーラムを出たら6時近くなっていたので結核予防会の竹下氏に電話。「東商の近くで呑み始めたばかり」という。大手町ビル地下1階の「玉の光酒蔵」で待つことにする。福祉住環境コーディネータ資格などについて話す。竹下さんは現在、福祉住環境コーディネータ協会の会長だ。

3月某日
元衆議院議員の樋高剛先生とティラーレの佐藤社長と富国生命ビル28階の「富国倶楽部」で会食。樋高先生は民主党、生活の党を通じて小沢一郎氏の側近。奥さんは平野貞夫氏の娘でもある。樋高先生の単行本つくりを手伝って以来の付き合いだが、早稲田大学応援部出身の好漢。「政界再編へ向けて民主党、維新などといろいろやって行きたい」と話す。今の政治状況は自民党の1強体制、自民党も安部総理の1強体制。民主主義にとっては如何なものかと私も思う。樋高先生は純粋にこの国の将来を憂えている。こういう人を野においておいてはいけない。国政復帰を切に願う。

3月某日
元社会保険庁長官で全社協の副会長もやった末次彬さんたちと会社の向かいのレストランかまくら橋で会食。5時半過ぎに会場に行く。6時少し前に末次さん、6時半丁度にゴルフ仲間で援護局で中国の帰国子女とかかわってきた高根さんが来る。高根さんはお酒を飲まないのでジンジャーエール、わたしと末次さんはビールで乾杯。末次さんはアサヒのスーパードライは呑まないから念のため銘柄を確認するとキリンとの答え。しばらくして現在国際医療大学の教授で「虎の門フォーラム」を主宰している中村秀一さんが参加。中村さんも末次さんも社会保険診療報酬支払基金の理事長をやっている。中村さんが課長補佐の時、沖縄出身で医系技官の仲村さんが課長で仲村課長は「にんべんのなかむらさん」と呼ばれ、中村課長補佐は部下をギリギリと締めたこともあって「ひとでなしのなかむらさん」と呼ばれていたと「ひとでなしのなかむらさん」が話して盛り上がった。だいぶ遅れて地域医療支援機構の理事に出向している藤木さんが来る。藤木さんは東日本大震災のとき、北海道厚生局長で、震災発生後すぐにボランティアで被災地に入った。その後の人事異動で東北厚生局長として仙台に赴任し、被災地の支援に走り回った。末次さんと高根さんが帰った後、中村さんがカレーライスとスパゲッティをごちそうしてくれた。

3月某日
グリーフサポートの高本代表理事のご母堂の葬儀に参列するため浅草の東本願寺に。導師2人の読経の声が心に響く。男声2部合唱ですね。午後、製薬協の伍藤理事長を訪問。伍藤さんが社外役員をしているSMS社の件を報告。しっかりやるように激励される。夜は社会福祉法人サンの西村理事長と上野の駅近くのぶんか亭で打合せ。この店はJR東日本の子会社が経営するレストラン。西村さんはお酒を呑まないのでそばを注文。わたしは生ビールを1杯と日本酒を冷で3杯ほど。我孫子に帰って駅前のバーでジンバッグとボンベイサファイアというジンをロックで。

3月某日
伊達政宗の誌に「馬上少年過ぐ」という詩があり、近頃この詩がよく頭をよぎる。

馬上少年過ぐ
世平らかにして白髪多し
残駆天の許すところ
楽しまざればこれ如何せん

司馬遼太郎に同名の小説があり、わたしがこの詩の存在を知ったのも司馬の小説によってである。この詩の大意は、つぎのようなものだ。
若いころは馬に乗って戦場を駆け巡ったが、天下は平定され私もすっかり白髪頭となってしまった。私がここにこうしていられるのも天が許したからだ。人生を楽しまないでどうしよう。
私の青春時代は学生運動華やかりしころで大学はバリケード封鎖で授業はほとんど出たことがない。警察との攻防だけでなく他党派との抗争もあり、何日も下宿のアパートに帰らなかったことも度々あった。政宗が戦場を甲冑で身を固め馬で駆け巡ったように私たちも長髪にヘルメット、片手にゲバ棒を握りしめ、学園や街頭を駆け巡ったわけである。私としてはまさに「残駆天の許すところ楽しまざるを如何せん」という心境なのである。

3月某日
全国社会保険共済会の会長、植田さんが肝臓がんで亡くなった。私と同年だから66歳のはず。お通夜に行く。会場が橋本なので途中、立川のケアセンター「やわらぎ」で石川はるえさんに会う。立川から八王子へ出て橋本へ。時間前に着いたのだが、すでに会場は参列者で一杯だった。お浄めの席で江利川さんはじめ多くの知り合いに会う。当社の大山、間杉さんも参列。植田さんは社会保険業務センターの副所長とノンキャリアのトップまで登り詰めた人だが、わたしたちにもフランクに接してくれたし、江利川さんはじめキャリアの信頼も厚かった。通夜の橋本の駅前で大山さんと一杯。通夜帰りの何人かに声を掛けられる。

3月某日
有楽町の交通会館に「ふるさと回帰支援センターの高橋ハムさんを訪問。ハムさんは早大全共闘時代からの知り合い。全共闘運動の敗北後、魚河岸で働いたり呑み屋の用心棒をやったりしたが自治労の書記局に採用された。20年以上前に厚生省の前で宣伝カーの上に載ってアジ演説をしているハムさんを見かけてから付き合いが再開した。ハムさんは福祉6法の改正で当時の若手厚生官僚の辻さんや吉武さんらと付き合うようになる。ハムさんとは大分市長選挙に立候補を表明している椋野美智子さんを「勝手に支援する会」の打合せ。今日は学芸大学前で5時半に堤修三さん、大谷源一さんと間と合わせ。駅近くの山内農場へ入る。遅れて元自治労副委員長の徳茂さんが参加。

社長の酒中日記 2月その4

2月某日
しまった。2月は28日までしかなかった。前回アップしてから3日しかないのでね。今日もいろいろとごちゃごちゃあったが、夕方、埼玉グループホーム・小規模多機能協議会の西村会長に会いに行く。転んで腰を打ったとか言っていたが、わたしは一言「老化だね」。私も5年前に患った脳出血の後遺症で右半身が不自由。不自由には慣れたけど、不自由からくる肩こりに悩まされている。右側に負荷がかかるためか、右肩、腰、臀部が異常に張るんですね。1週間に1回はマッサージに通う。わたしは「みんなのてもみ」神田中央通り店に通っている。店も施術者も感じがよく、気にいってるのだが1回60分、2980円(税別)というのが痛い。話が逸れてしまったが、西村さんとは終末期、グリーフサポートの研究に協力してくれるようにお願いする。帰りは南浦和から武蔵野線で新松戸へ。新松戸には「GUI呑」という呑み屋があり、今日はそこで元年住協の林弘行さんと待ち合わせ。林さんはすでに来ていた。さっそく生ビールと焼き鳥を頼む。林さんは現在、日本環境協会で会員増強の仕事をしている。最近は環境教育の普及にも力を入れているようだ。新松戸で林さんと別れ、我孫子駅前のバーに寄る。バーテンダーは私のことを覚えておいてくれた。ジントニック、バーボンのクレメンタイン、アイリッシュウイスキーをいただく。

2月某日
目黒のパーシモンホールで「認知症の人の看取りを考えるフォーラム」が開かれるというので聞きに行く。少し遅れて行ったら、パネラーの一人、長寿社会開発センターの石黒秀喜さんに「社長、暇つぶしかい?」と声を掛けられる。ゆきぐに大和病院長の宮永先生、それと昨日会った西村さん、NPO法人楽の柴田理事長、山形保健医療大学の小澤さんがパネラー、医療や介護の専門家ではない石黒さんの話の「医療や介護する人に迷惑かけたくないのよねぇ」という発言が会場の共感を呼んでいた。パーシモンホールは柿木坂にあるからパーシモン、柿木坂と言えば堤修三さんが住んでいるし近くの国立病院機構には古都さんがいる。しかし三軒茶屋に住んでいる香川喜久江さんのことを思い出し、電話して三軒茶屋で待ち合わせ。三軒茶屋で呑むのは初めてだが、一歩路地を入るとなかなか渋い店が並んでいる。「ごしき」という和食の店に入る。香川さんは何年か前にリンパ腺ガンになり完治したのだが、それ以来酒を辞めている。だが酒席には付き合ってくれる。福島の酒を3杯ほどいただく。我孫子の駅前の愛花に寄ったら大越さん夫妻が来ていた。夫の大越さんは国士舘大学出身なので今日、三軒茶屋で呑んだことを話す。「学生時代、ドレメのねーちゃんと付き合ってたんだよ」と懐かしそうに話す。

2月某日
土曜日だけど残務整理で会社へ。グリーフケアの研究企画書を点検。グリーフサポートの高本さんに若干の修正をお願いする。老健補助事業の申請について、健康生きがいづくり財団の大谷常務と打合せ。上野駅前の大統領という焼き鳥屋で待ち合わせたが、満員で入れず近くの「浜ちゃん」にする。ここもはぼ満員。以外に若いカップルが多い。安くておいしいからなのだろうか。上野駅近辺を歩くという大谷さんと別れ我孫子へ。我孫子では癒し堂というマッサージによる。ここは中国人がやっていて価格は税込みの2980円。腕は悪くない。
図書館で借りていた桐野夏生の「奴隷小説」(2015年1月 文芸春秋)を読む。これは短編集。桐野は長編もいいが短編もいい。今回は新潮、オール読物、文芸春秋などに掲載された7編の短編が収録されている。「奴隷小説」というタイトルをつけていることからも分かるようにテーマは隷属である。隷属は普通に暮らしていると恐怖である。しかし人は隷属にも慣れてくる。同じ境遇にあっても隷属する側に迎合する人と迎合できない人が出てくる。そこらあたりのことを短編にちりばめられているように思う。私はこの小説を読んでイスラム国や北朝鮮、川崎の少年殺人事件を思い浮かべた。

社長の酒中日記 2月その3

2月某日
3泊4日で大阪、西宮、京都、名古屋、常滑へ出張。大阪では私が唯一仲人した佐々木君と会う。私がこの会社に入って間もなくリクルートの月刊ハウジングの編集を手伝っていたことがある。その頃新入社員としてリクルートに入社したのが佐々木君。何人かと連れ立って銀座、新橋、神田でよく飲んだ。しばらくして佐々木君が結婚することになり仲人を頼まれた。リクルートからすれば私はたんなる出入り業者の一人にすぎない。だから「そりゃ部長さんか誰かに頼むべきでしょう」といったんは断ったのだが「どうしても」というので引き受けるハメに。佐々木君はその後、月刊ハウジングの編集から離れ、勤務地も名古屋や大阪となった。20年近く前になると思うがリクルートを早期退職し大阪に編集企画会社エディウスを立ち上げ社長に。今回は大阪出張をきっかけに当社と何か連携できないか模索するつもりだった。ところが佐々木君はなかなか仕事を抜けられず、7時の待ち合わせが8時過ぎになってしまった。こちらは結構、酔っぱらってしまったので連携の話は持ち越しに。

2月某日
大阪介護支援員協会の研修部長、福田弘子さんに今回の介護報酬改定について取材。「私は介護報酬が上がった下がったでは動じません」ときっぱり。それより「利用者のためにも医療保険と介護保険の一本化が必要です」と力説。同感である。福田さんは看護師出身。富田林市の市立病院などで訪問看護師を歴任。第1回のケアマネの試験で資格を取った。看護師からケアマネになると医療職から事務職となるため給料は減る。でも福田さんはケアマネという仕事が好きだからケアマネを選択したという。
午後は関西学院大学へ。お昼頃、阪急の仁川という駅に着く。周りを見回したが店らしい店がない。駅前のビルの1階に「うどん屋」の旗が立っていたので入ることにする。カウンターとボックスだけの店。メニューから「冷たい野菜天ぷらうどん」を注文すると、「10分ほど時間がかかります」という。たべて驚いた。麺に腰があり野菜のてんぷらも美味しかった。帰るとき店の名刺をもらうと「讃岐Dining&Horse Bar」とあり店名はFrankelという。Frankelというのはイギリスの馬名だそうだ。仁川は阪神競馬場があるからHorseにこだわったのだろう。
タクシーで関学の正門に行くと、すでにグリーフサポートの高本代表理事が待っていた。関学の人間福祉学部の坂口幸弘教授を一緒に訪問するためだ。関学は始めてきたが南欧風の低層の建物が並んだ非常に雰囲気のある学園だ。坂口先生によると介護士へのグリーフケアの研修が昨年から多くなってきたそうだ。それまでは看護師への研修が中心だったが、先生もこれから介護士へのグリーフ研修が必要になるという意見だった。
坂口先生の元を辞して京都へ。京都は元厚労省で京大理事の阿曽沼さんとの会食だが、まだ時間があるので高本さん手がけたという結婚式場を見に行くことにする。高本さんは空間デザイナーでもあり、その時やった仕事がAZEKURAという結婚式場。社長の市田さんが案内してくれる。京都にも最近は他県や異業種からブライダル産業への進出があり市場は厳しいとのことだが、社長は「価格競争に巻き込まれないようにやっています」と独自の道を歩んでいるようだった。社長の愛車ロータスを見せてもらう。阿曽沼さんとの待ち合わせ場所、河原町の「いろめし黒川」へ高本さんと向かう。この店は以前、HCMの平田会長に連れてきてもらった。阿曽沼さんは6時半頃到着。東京出張の帰りだそうだ。お刺身や「もろこ」、おからなどを美味しくいただく。高本さんが東京へ帰る。阿曽沼さんは京大でインドネシアやマレーシアなどの留学生を迎え入れることに関心があるようだった。

2月某日
民介協の事例発表会。いつもは東京だが今回は名古屋の国際会議場。金山から地下鉄に乗って日比野で降り5,6分歩くと巨大な建物群が見えてくる。それが名古屋国際会議場。会場に行くと扇田専務が「記者席が空いているよ」というので最前列の記者席へ。事例発表会は何回か参加しているが、今回はいつにも増して興味深かった。介護福祉士だけでなく看護師、作業療法士の発表もあり地域包括ケアの現場での実践、利用者の終末期への対応、視覚障碍者への寄り添いや利用者の状況に合わせての環境整備、住宅改修など発表者が真剣に利用者とかかわっていることがわかった。懇親会はパスして名鉄で常滑へ。建築家の児玉さんと社会福祉士の小藤さんと居酒屋へ。貝類の煮つけ、青柳のてんぷらなど非常に美味そして安い。2次会は陶器を焼く窯をバーに改造した「共栄窯」へ。タイルの内装がなんとも美しい。

2月某日
9時に児玉さんがホテルに迎えに来てくれて、「焼き物散歩道」を歩く。整備されてはいないし人通りも多くないが、私にはそれが好ましい。市民文化会館で「とこなめ陶の森」の館長、渋木さんに紹介される。資料館、陶芸研究所を案内してもらう。INAXライブミュージアムで児玉さん、渋木さんと食事。渋木さんに地域包括ケアは何も高齢者に対象を限ったものではなく、障碍者、児童、市民みんなが参加するものと一席ぶってしまう。渋木さんは興味を示してくれたように見えたが。渋木さんと別れホテルに荷物を取りに行く。3泊4日の充実した出張だった。

2月某日
会社の本棚に埋もれていた「国の死に方」(2012年12月 新潮新書)を読む。東日本大震災と福島原発事故を受けて歴史家として「この国の形」について考えることを文章にしたものである。片山という人は一見すると関係ない事柄を紡ぎ合わせ、歴史的な意味を考えるという意味で稀有な人だと思われる。たとえば本書ではゴジラ、進化論、江戸幕府の職制、明治の元老、生命保険、関東大震災、米騒動、内地米と朝鮮米などキーワードにして鮮やかに日本近代史を切り取っていく。本書の序章は映画「ゴジラ」の映画音楽を作曲した伊福部達の生き方から始まるが、終章もまた「ゴジラ」で終わる。ゴジラの日本襲撃は日本に対する核攻撃と明らかに重ね合わされていると片山は言う。そしてゴジラを鎮めたのは、一民間科学者の平田昭彦扮する芹沢博士であった。日本社会は古来から利益社会と自己犠牲的精神風土の共存であり、広島長崎に対する原爆投下、無条件降伏から9年後に封切られた映画「ゴジラ」はそのことを明らかにしていると片山は言う。

2月某日
ケアマネの全国研修会に参加した愛知県のケアマネとビアレストランかまくら橋で呑み会。今回の介護報酬の改定で中重度の利用者に対する報酬がアップされることについて「要介護度を改善するインセンティブとならない」という声があった。本人の自立度が上がると、要介護度が下がり介護報酬は減額される。つまり事業者にとっては減収となる。要介護度が低下するということは本人にとっても社会にとっても良いことには違いがないのだが、その結果、事業者にとっては介護報酬の減収となってしまう。その矛盾は介護保険制度のスタート以来言われてきたことなのだが。

社長の酒中日記 2月その2

2月某日
松戸の聖徳大学の篠崎先生に「介護マスト」の原稿を頼みに行く。松戸駅西口近くのドトールで待ち合わせ。篠崎先生は前任校の八戸学院大学へ取材に行ったのが最初。筑波大学出身で出版社での編集経験もあり、フラットで飾らない人柄に人気がある。介護業界には魅力的な人が多いということを話すと賛同してくれた。午後、日本の福祉現場力を高める研究大会に出席。もともとは東京福祉専門学校や埼玉福祉専門学校を傘下に持つ滋慶グループの卒業研究の発表会だったが、最近は学生たちが企画委員会を立ち上げて自主的にやっているらしい。そのためなのか、今年はメインタイトルが「介護がデザインする未来の社会」で内容も今日的で面白かった。私は2部からの参加となったが、「LGBTの介護」「介護と葬儀の連携」「ピープルデザインが描く『超福祉』」はいずれも興味深かった。LGBTとはレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランス・ジェンダーの頭文字をとったものでセクシュアルマイノリティの人たちを指すらしい。講演した佐藤さんは都内の特養で働く男性介護士だが戸籍上は女性で、介護現場でもいろいろと苦労があるとのことだ。LGBTの当事者の話を聞けただけでも貴重な体験をさせてもらったと思う。閉会後のレセプションにも顔を出す。

2月某日
建国記念の日で休日だが、引き続き「介護マスト」の執筆依頼で休日出勤。長野県上田市で地域ケア総合研究所を主宰している竹繁さんと上野駅で会う。竹繁さんが午後、日立大田で講演があるので上野発11時の特急に乗るため上野駅での待ち合わせとなった。今回の介護報酬の改定に限らず介護の経営が難しさをますであろうという方向は竹繁さんと一致。現場の「悩める経営者にメッセージをお願いしたいと依頼した。

2月某日
厚労次官をやって現在は医科学研究所と県立埼玉福祉大学の理事長をやっている江利川さん、江利川さんと同期で江利川さんの後に年金局資金課長をやった川辺さん、そのときの課長補佐で去年まで支払基金の専務理事をやっていた足利さん、それに当時、年金住宅福祉協会の企画部長で現在は結核予防会の常務の竹下さんと会社の近くの「レストランかまくら橋」で呑み会。メンバーの看護大学の岩野さんは欠席。話題は元厚労省で大分大学教授の椋野美智子さんの大分市長選挙への出馬に。自民党はすでに元資源エネルギー庁の次長の出馬が決まっているとのこと。少子高齢化や地域包括ケアへの地方都市への対応ということでは、厚労省OBで研究者でもある椋野さんが適任と思うのだが。

2月某日
元社会保険庁で国民年金協会の専務理事だった河野さんと神田明神下の「章太亭」で6時から呑み会。寒いので日本酒の熱燗にする。河野さんは現在は完全にリタイアしていて週末は府中競馬場へ通っているそうだ。河野さんと初めて会ったのは、は河野さんが社会保険庁の年金保険課の庶務班長のときだから30年位前かもしれない。仕事上以外でもいろいろお世話になったというか、わたしの知っている社会保険庁OBの中では浅岡純朗さんなどと並んで異色で面白い人。

2月某日
土曜日だが残務処理で会社へ。ひと段落したのでオヤノコトマガジンの大澤社長に電話。今なら時間があるというので有楽町の交通会館へ。意見交換の後、高田馬場の社会福祉法人サンへ。10年位前、当社に勤めていた今泉友香さんに会う。今泉さんは社会福祉士の国家試験が終わったばかりで多少時間があるというので高田馬場の駅ビルの「文流」で食事。介護の世界についていろいろ教えてもらう。今泉さんと別れ我孫子駅前の「しちりん」でウイスキーのソーダ割り。

2月某日
図書館で借りた「悪い恋人」(井上荒野 朝日新聞出版 2014年12月刊)を読む。夫の両親と2世帯住宅に住む沙知に裏の森の開発計画がもたらされる。開発業者としてあらわれた高校の同級生と肉体関係を結んでしまう。こう書いてしまうと湿っぽい人妻の不倫小説となってしまうのだが、井上はあくまでも小説の登場人物とは距離を置くというスタンス。
現代の庶民の生活に潜む「闇」を鮮やかに切り取っていると私は思う。ところで井上荒野は井上光晴の娘で、私は20年位前にパーティで会ったことがある。井上光晴の娘と紹介されて「お父さんに似てますね」と私が言ったことを覚えている。井上光晴には会ったことはないけれど写真などで見ると、面長な顔に特徴があった。荒野も面長だった。井上光晴をネットで調べたら66歳で亡くなっている。今の私の年だ。当時の井上光晴は巨匠だったけどね。

2月某日
社会保険出版社に高本社長を訪問。厚生年金と共済年金の一元化に向けて意見交換。その後、日本橋小舟町の一般社団法人セルフケア・ネットワークへ。ここの代表理事の高本さんと社会保険出版社の高本さんは同姓だが、夫婦なので当たり前である。高本社長の紹介で高本代表理事を紹介された。セルフケア・ネットワークでは理事の城下さんを紹介される。高本代表理事とは今週、一緒に関西学院大学を訪問することになっているので、その打合せをする。その後、高本社長と寿司屋さんへ。「たぬき」というとぼけた名前の寿司屋さんだが、ご主人と思われる温厚そうな人が握ってくれる。遅れて高本代表理事と城下さんも参加。高本社長にご馳走になってしまう。「今夜も最高!」だったが、いささか日本酒を飲みすぎ。「こんなことをしていていいのだろうか?」という反省の気持ちが一瞬心をよぎるが、もちろんよぎっただけである。

2月某日
SMSの長久保さんと当社で打合せ。6時から打合せだったので終了後、当社の向かいにある「レストランかまくら橋」で食事。近くの酒屋「藤田屋」で購入した日本酒(日高見と出羽桜)、焼酎(壱岐の35度)を持ち込む。この日は根津のスナック「ふらここ」のママから「あやちゃん(常連客)が熊本の馬刺しを持ってきてくれるから吉武さん(元厚労省)を誘ってきて」と言われていたので、吉武さんも「レストランかまくら橋」に来てもらう。日高見と出羽桜を空け、壹岐を半分くらい呑んだところで「ふらここ」へ。馬刺しをいただく。さすがに美味い。

2月某日
朝、テレビのニュースでアメリカのオバマ大統領が「IS(イスラム国)の過激思想に青少年が影響されないように地域社会の再構築を」と言っていた(ように思う。集中して見ていなかったので)。私は少子高齢化社会を支えていくためには、税金や社会保険料による公助や共助だけでなく地域社会による互助が必要、と思っているからオバマの考え方には共感する。これからの社会を考えるのに必要なキーワードの一つは間違いなく「地域」だ。

2月某日
医療、福祉系の専門出版社の青海社の工藤良治社長とは我孫子駅前の呑み屋「愛花」で出会った。ママが「こちらも出版社の社長さん」と紹介してくれたのだが、工藤さんはすでに酔眼朦朧としていた。その後、根津の青海社を訪ねたり、一緒に呑んだことも何度かある。工藤さんのお酒は「好きだけれども弱い」のが特徴。焼酎をロックで呑んだりするのだが、すぐに酔ってしまう。その工藤さんが同社が隔月刊で発行する「臨床作業療法士」を毎号贈呈してくれる。最新号が送られてきたのでページを開くと印象が違う。特集「住民が主役のコミュニティづくり―作業療法士ができること」もいい視点だと思うし、新連載の「列島情熱作業療法」「勝手にOT番付」も面白かった。工藤さんに「面白かったよ」と電話したら、「デザイナーと編集委員を替えたの」という返事だった。「臨床作業療法」誌はお勧めです。

社長の酒中日記 2月その1

2月某日
「イスラム国」に囚われていた後藤健二さんの処刑がネットで確認され、テレビは朝からそのニュースで持ちきりだ。もちろん誰にも人の命を奪う権利などはない。イスラム国の今回およびこれまでの「蛮行」は文明に対する許しがたい挑戦であることは確かだ。イスラム国に対する空爆や周辺国に対する援助の強化も必要であろう。しかしイスラム国がシリア、イラクの広範な地域に「国家」を樹立したことをどう考えるかが大事なのではないか?シリアのアサド政権の圧政、スンニ派とシーア派の抗争、それに根底にはこれらの地域の貧困があるのではないか?原油価格が下がったとはいっても、オイルマネーはこれらの地域では貴重な収入源なはず。それが貧富の差を拡大していることはないのか?民衆の生活向上に回っているのだろうか?処刑に対する怒りだけではなく、イスラム国を生み出す背景にまで迫った冷静な分析が必要と思うのだが。

2月某日
「地域包括ケアの構築と住民参加」というシンポジウムを聞きに行く。保険者事例報告は北海道喜茂別町の東原弘行氏の「テレビ電話・IP告知端末を活用した健康管理や見守りシステム」武蔵野市の笹井肇氏の「まちぐるみの支え合いの仕組みとしての地域包括ケア」、富士宮市の土屋幸己氏の「地域包括ケアシステムの考え方とその実践」はそれぞれ興味深かったが、わたしはフォーマルなサービス連携だけでなくインフォーマルなケアの担い手に着目した土屋氏の話が面白かった。私も今年67歳、近所を見回しても一人暮らしの老人が急に増えているし、介護は他人事ではないのだ。わたしたち団塊の世代が75歳となる2025年に向けて、税金と介護保険によるフォーマルなサービスだけではなく、土屋氏の言う地域住民等の「コモンな互助」が必要になってくると強く感じるからだ。
パネルディスカッションでは堀田聡子氏の「欧米では親子の扶養の義務感がないだけ親子の関係が崩れにくい。日本は義務感にしばられているためいったん親子の関係が崩れると脆い」という話が面白かった。また夕張市民病院の医師で現在は鹿児島で「医療介護塾」を主宰している森田洋之氏が「夕張市は高齢化率46%を超え、高齢世帯率は6割、高齢独居は3割。だが高齢者は生き生きと暮らしているし、重度の認知症のおばあちゃんが向かいの家の雪かきを自分の仕事として認識して毎日やっている」と語り「介護されることが果たして幸せなのだろうか?」と疑問を投げかけていた。

2月某日
社会保険出版社の高本社長から「筒井孝子先生に原稿を頼みたいのだけれど」と相談される。筒井先生とは5年ほど前、当時、筑波大学の教授だった江口先生(現在は神奈川大学)の紹介で会ったのが最初。社会保険研究所が版元となって筒井先生の「地域包括ケアのサイエンス」を出版した時も当社の迫田が編集を担当した。先生はその間、保健医療科学院の主任研究官だったが、昨年、兵庫県立大学に転じている。先生の携帯に電話をすると快く会ってくれるという返事。しかも打合せが重なっているので当社まで出向いてくれるという。高本社長と社会保険出版社の担当編集者も当社に来てもらう。原稿は連載で1年間、地域包括をテーマにという注文だった。筒井先生は快諾した後「8時から打合せがあるのよ」と風のように去って行った。残された私と高本社長、担当編集者の須賀君は当社の迫田、打合せに来ていたフリーライターの沢見さんを誘って近くの居酒屋へ。今年初めて「なまこ」をいただくが、もう少しコリッとしているほうが美味しい。

2月某日
元年金住宅福祉協会の小峰昇さんがミサワインターナショナルを退職することになった。小峰さんは、今から25年ほど前、私が日本プレハブ新聞社で業界紙の記者をしていたときに知り合った。あるとき、「君は早稲田の政経学部出身というが鈴木基司を知っているか?」と聞かれたが、鈴木さんは私の1年上で一緒に革マルとの内ゲバを闘った仲。小峰さんは群馬県前橋市で鈴木さんと高校生運動で一緒で、それから急速に仲良くなった。その小峰さんから「森田君、生涯一記者もいいけれど、新しい会社が出来たので行ってみないか?」と誘われたのが今の会社、年友企画だ。
わたしが入ったころは年金住宅融資も社会保険も伸び盛り。しかもほとんどが随意契約で「ノーリスク・ハイリターン」の仕事をさせてもらった。給料も私のような学生運動の活動家崩れにはもったいない額をいただいた。しかし上手くしたもので小泉改革以降、舞台は暗転、年金住宅融資も社会保険庁も廃止された。しかし今の私を支えてくれているネットワークは、現在の会社に入ってから形成されたものがほとんど。つまり小峰さんとの出会いがなければ今の私はないと言っても過言ではない。そんなことで小峰さんの退職を祝う会を企画することにした。ところが小峰さんから「「祝う会」はダメ「小峰さんの退職を口実にみんなで一杯やる会」なら私も会費を払って参加する」との申し出があり、そうさせてもらうことにした。
当日は雨にもかかわらず、23人ほどが竹橋のホテルKKR東京「さくらの間」に参集、盛会であった。旧厚生省からは元参議院議員の阿部さん、元年金局長の吉武さん、元社会援護局長の中村さん、元保険局長の木倉さんが参加、旧建設省住宅局からは小川さん、合田さんが参加、住宅業界からは加藤さん、小山さん、岡田さん、望月さん、桑原さんらが参加、小峰さんのあいさつも素晴らしく、なかなか素敵な会だった。高齢者住宅財団の落合さんから「仕事で行けないが2次会に行くなら声かけて」の連絡があったので、吉武、合田と3人で葡萄舎へ。ほどなく落合さんが来て、3人で乾杯。わたしと吉武さんは3次会へ。

2月某日
SMSの介護業界の経営者、管理者向けのサイト「けあマスト」を立ち上げることになり、今日は大田区蒲田のカラーズの田尻社長の取材。詳しくはサイトを見ていただきたいが田尻さんのこだわりの一つは人材。というか介護業界は人材の確保と育成につきると言ってよいのではないか?問題は市場が「質の競争」となっていないところにあると思う。話は変わるが田尻さんの夫は、私と同郷の北海道室蘭市出身。彼は進学校の室蘭栄高校を卒業後、東京学芸大学数学科に進学。シャンソン歌手となったという変わり種。今や3児の父でもある。取材後、神田へ。愛知県で家具の転倒防止をやっている児玉道子さんがHCMの森社長と「福一」で待っている。わたしが着いたのが6時半過ぎ。2人はすでに出来上がっていた。

2月某日
先日亡くなった宮尾登美子の「天璋院篤姫」上下(講談社文庫)を読む。宮尾登美子は昔よく読んだ。「岩伍覚書」とか「朱夏」ね。どちらも自伝的な小説で前者は娼妓のあっせんを業とする親子の話、後者は確か結婚して満州に渡った著者の半生を描いたものだ。対して「天璋院篤姫」は薩摩藩の分家、今泉家から島津斉彬の養女となり、のち13代将軍、家定の御台所となる篤姫の物語だ。斉彬の養女となってからもいったんは近衛家の養女となってから大奥入りするなどいろいろとややこしいのだが、やはり宮尾登美子というべきか、しっかりと読ませる。前半は篤姫の成長譚、ビルドゥイングスロマン、後半は何と言っても、未亡人となった篤姫と、14代将軍家茂に輿入れした皇女和宮との嫁姑の物語である。そうなのだが和宮は京都から何十人も侍女を連れて行ったものだから、江戸派と京都派に大奥を二分する闘いとなる。
もともと篤姫は、家定の後継に水戸の徳川斉昭の男子である徳川慶喜を擁立するために、島津斉彬から大奥に送り込まれたのだが、慶喜はこの物語で徹底して敵役となっている。考えてみると鳥羽伏見の戦いに幕軍が敗れ大阪城に退いたとき、幕軍の大勢は薩長との雪辱戦に向かっていたが、慶喜は数人の側近とともに軍艦で密かに江戸へ逃げ帰った。確かに将としては如何なものかと思わせる。鳥羽伏見の戦い後、江戸城の表、幕閣は政治的に機能しなくなるのだが、大奥は篤姫の元、一糸乱れぬ統率を保つ。篤姫は徳川家に輿入れした嫁として実家の薩摩の攻撃により斃れても止む無しという考えだ。江戸城の明け渡し後、和宮は京都に帰り、篤姫も徳川家の当主となった田安(徳川)亀之助と同居する。明治天皇が江戸を首都としたことから和宮も江戸、東京に帰って来て、平穏な嫁姑関係となる。別の本で読んだことがあるが、勝海舟の屋敷を篤姫と和宮が訪ね、昼食となった。お櫃からご飯をよそうとき、篤姫と和宮が「わたしがわたしが」といって譲らなかったという。勝がお櫃をもう一つ用意して互いによそいあったという。くだらないけど「女の意地」というか面白い。

2月某日
青梅線の可部駅の近くにある介護事業所「こころの広場」の井上社長を取材。千葉県我孫子市の我が家から2時間半はかかった。井上さんは東京福祉専門学校の卒業生。卒業後、特養に勤めたが入居者への職員の態度等、「何か違う」と退職、トラックの運転手に。2年後に別の特養へ。また「何か違う」とトラック運転手へ。そして介護保険がスタートするころ訪問介護事業所を立ち上げた。介護業界には魅力的な人が多い。医療・看護に比べると給料も低いし、介護福祉士養成系の大学や専門学校の偏差値も高いとは言えない。このことは何を意味するか?人間は収入の多寡、学歴の高低では測れないという当たり前のことをわからせてくれるのだ。
夕方、健康・生きがいづくり財団の大谷常務が、健康・生きがいづくりアドバイサーの「バッチ」を作りたいのだがと相談に来る。アドバイサーにとってどんなデザインが適当か内部で議論が必要ではと答える。打合せ終了後、神田駅近くの「千両箱」へ飲みに行く。ここは刺身が旨い。「うまずらはぎ」の刺身がおすすめで確かにうまかった。寒かったので熱燗2合徳利を2人で3本。

社長の酒中日記 1月その3

1月某日
図書館から借りた佐藤雅美の「老いらくの恋」(文芸春秋 2010年)を読む。縮尻鏡三郎シリーズの一冊。縮尻鏡三郎は勘定奉行所のキャリア司法官僚だったが、故あって仮牢大番役の「元締」といわれる責任者となっている。仮牢大番役は今でいう警察の留置所のようなもので、小伝馬町の牢に送るものをとりあえず預かったり喧嘩した者や酔っ払いを暫時預かったりしていた。庶民の司法相談にも応じていてそれが小説のネタにもなっている。このシリーズもそうだが、佐藤雅美の時代小説は、時代考証が非常にしっかりしているのが特徴で、それが小説にリアリティを与える一因ともなっている。江戸時代の司法制度や土地法制など私が知ったところで何の役に立つわけではないのだが、まぁそこそこの「歴史好き」である私には堪らないのです。

1月某日
「路地裏の資本主義」(平川克美 角川SSC新書 14年9月)を読む。「グローバリズムってどうなのよ?」「資本主義っていつまで続くの?」というのがわたしの目下の関心事のひとつ。平山のこの本も水野和夫の「資本主義の終焉と歴史の危機」、中野剛史の「世界を戦争に導くグローバリズム」などと同じ問題意識から読んだ。たとえば「現在、先進国を覆っている不況は、商品経済の自立的な運動の結果としての生産過剰に、人間の生活が追い付けなくなっているということを示している」という論理は、水野の15世紀イタリアの山の頂上まで葡萄畑(ワインの原料としての)、21世紀日本の全国津々浦々までウオシュレットの設置が歴史的な低金利を招いているという論理と同様なものである。また、自身の父親の介護体験とマルセル・モースの「贈与論」(勁草書房)から、弱きものへの支援は現代人が信じているような慈悲心ではなく、かつて弱き乳幼児だった自分に与えられた贈与を、第三者お返しする行為であるとする記述などは新鮮であった。

1月某日
市民のための福祉勉強会を継続してやっているホスピタリティ*プラネット(主宰・藤原留美さん)の勉強会へ当社のS田と行く。会場は品川駅港南口のコクヨ本社。勉強会は2部構成で1部は元老健局長の宮島俊彦さん、精神科医の上野秀樹さん、藤原留美さんの3人による鼎談で、2部がDAYS BLG!NPO町田市つながりの開の理事長、前田隆行さんの「認知症の人々の生きる力を引き出す」という講演。鼎談は宮島さんのリードで恙なく終了。上野先生はとても謙虚で感じがよかった。もともと1部は認知症の当事者が講演するはずだったのだが、都合で出られず急きょ鼎談に変更されたという。宮島さんは司会も上手。前田さんの活動報告は私にとっては「目からうろこ」。要介護度4の人がバッティングセンターでバットを振るったり、バスケットコートでバスケットに興ずる映像が映されたが、わたしはどうしても要介護高齢者を保護すべきもの、弱きものとして認識しがちだったが、これは間違いだということが分かった。もとろん加齢により身体的、精神的な能力は衰えていくのだろうが、だからと言って保護されたいと思うわけじゃない。前期高齢者にして身体障碍者4級の私が言うのだから間違いない。懇親会では上野先生と少し話ができた。八王子の歯科衛生士、古田さんと名刺交換。

1月某日
中央線沿線で訪問介護事業所や老健、特養、グループホームを展開している社会福祉法人にんじんの職員による実践報告会に行く。理事長の石川はるえさんとは古くからの友人。で、川村女子学園の吉武副学長と一緒に参加する。わたしは途中から参加したのだが、それでも介護現場の職員、それも若い職員が自分たちの仕事を客観的に見つめながら、利用者により良いサービスを提供するにはどうすべきか真剣に模索していることが伝わってきた。たとえば「夜勤2勤務制を検討してきて見えてきたもの」では従来の夜勤1勤務では職員の疲労感やひいては利用者の安全確保に自信が持てないという不安から夜勤2勤務制を試行。生活リハビリ回数・リクレーションの実施回数が増えた、残業時間が減ったなどの成果が出たという。現場の改善意欲は貴重だと思う。終了後、近くの呑み屋さんで吉武さんともどもごちそうになる。

1月某日
長寿社会開発センターの石黒秀喜さんにワークショップの講師をお願いに行く。オヤノコト社主催のワークショップで浴風会ケアスクールの服部安子さん、白梅大学の山地先生にもお願いしている。石黒さんは前から存じ上げているが名刺をもらったことがなかったのでもらう。名刺の裏に自称“アルチューハイマー”認知症疑似体験者常習者と刷り込まれていた。帰りにHCMに寄ってそのままM社長、O常務と呑みに。富国生命のY崎さん、I藤さん、富国倶楽部のF谷さんが合流。富国生命はM社長の元職場。合流したのは元部下たちでM社長は部下に慕われていたことがよくわかる。

1月某日
社会保険倶楽部霞が関支部の新年賀詞交換会。四谷の東京貨物健康保険組合の会館へ行く。支部長の幸田正孝元厚生次官の音頭で乾杯。社会保険倶楽部の霞が関支部は社会保険庁や保険局、年金局のOB、現役が会員。最近は現役はほとんど出席せず、OBのみだ。私や親会社の川上社長は関連出版社の社長ということで会員になっている。幸田さんややはり元次官の近藤純五郎さんにあいさつ。社会保険庁OBの三木さんや田辺さんと久しぶりに話せた。宴の途中で「ふるさと回帰支援センター」の高橋ハムさんから電話。健康生きがいづくり財団の大谷常務が来ているから顔を出せという。四谷からタクシーで有楽町の交通会館へ。近くの土佐料理屋、と言ってもちょいと洒落た洋風の高級レストラン風。かつおの塩たたき、酒盗などとおいしい日本酒をいただく。

1月某日
NPO法人の生活福祉21の勉強会。飯田橋のセントラルスポーツと高齢者雇用事業団を見学するとのことで、参加を申し込んでおいたのだがキャンセル。呑み会だけに参加する。会場は飯田橋の魚金。会費5000円にしては伊勢海老や毛ガニが出て豪華。生活福祉21の事務局の女性と民介協の扇田専務、東急建設の部長と歓談。終了後2次会に誘われるが、所要があるといって断る。結核予防会の竹下常務に電話して神田の葡萄舎で待ち合わせ。店主の賢ちゃんを入れて3人で呑む。

1月某日
家族を失った人の悲しみを癒す「グリーフケア」という分野がある。ケアワーカーが看取りをするケースが増えているという。少子化時代ということは多死化時代でもある。そう思って何かビジネスと結び付けられないかと考えている。社会保険出版社のT本社長の奥さんがグリーフサポートの一般社団法人を立ち上げたというので話を聞く機会があった。そのとき薦められたのがこの本「妻を看取る日」(新潮文庫 単行本の初版は09年12月)である。著者の稲垣忠生は国立がんセンターの総長を経て、今は名誉総長。奥さんとのなれ初めから闘病生活、死そして喪失と再生の日々が描かれている。二人が出会ったとき、稲垣は26歳、彼女は38歳の既婚者だった。「愛があるなら年の差なんて」とはいうものの12歳年上とは。今から40年前の話である。彼女の離婚再婚自体が大変だったろうし、お互いの家族の納得をえるまでの苦労も並大抵ではなかったろうと思う。でもとても仲の良い夫婦であったことが本を読んでいても暖かく伝わってくる。彼女の死の直後、稲垣は堪えきれず酒に溺れる。しかしもともとが聡明な人なので徐々に立ち直るのだが、私には時間の存在が大きいと感じられた。時間とともにつらい記憶は薄れ、楽しかった記憶がよみがえってくるのである。だから夫婦に限らず、人間には「楽しい記憶」が必要だということ。

1月某日
芝公園にあるSMS本社で介護事業の経営者、管理者をターゲットとする新しいWEB媒体の打合せ。私は介護業界のレベルを上げていくには行政の指導監督の強化ではなく市場競争によるレベルアップが必要との考え。そういう観点を持ちながら新しい媒体に協力していきたいと思っている。またSMSにはその方向で市場をリードして行ってもらえればと思う。SMSの打合せ後、浜松町の「青柚子」で当社の迫田や浜尾と社内体制などを話し合う。

1月某日
オヤノコトマガジン社が3月20日、21日に開催する「オヤノコトサミット」でワークショップを依頼に大田区の地域包括支援センター入新井の澤登さんをオヤノコトマガジン社の馬場さんと訪ねる。快諾してくれた上「ウチのスッタフも何人か行ってもらいましょう」と言ってくれた。日ごろから支援の必要な高齢者とその家族に接しているためか、私たちの希望を理解してくれ、貴重なアドバイスをいただく。17時30分から厚労省OBの堤修三さんと堤さんの高校からの友人で京大教授を定年で退いた間宮洋介さんと会社近くのビアレストラン「かまくら橋」で呑み会。二人は東大でも学部は違うが一緒。間宮さんは西部邁や宇沢弘文に師事したらしい。学者として高名な人だが全然偉ぶったところがない。東大の頃、堤さんは緑色、間宮さんは青色のヘルメットを被っていたとか。途中から当社の迫田が参加。

社長の酒中日記 1月その2

1月某日
「コーポレート・ガバナンス」(岩波新書 14年11月 花崎正晴)を読む。コーポレート・ガバナンス、企業統治はこの数年、わたしの関心の高い分野。会社は利益を上げることが重要な役割だが、利益を上げればそれでいいか、そうでもないだろう、というのが漠然としたわたしの考え。では企業は何のために存在するのか?というところからコーポレート・ガバナンスに関心が向かったきっかけだ。著者の花崎は早稲田の政経出身、日本開発銀行設備投資研究所などを経て現在、一橋大学商学研究所教授。株主と経営者の関係はエージェンシー関係として理解される。会社の所有者たる株主がその代理人としての経営者に経営を委任している。しかし株主と経営者の利害が常に一致するとは限らない。株主と経営者の利害対立は、企業がフリーキャッシュフローを多額に派生させたときに深刻になる。フリーキャッシュフローとは、企業にとって長期的に見てプラスの収益を生む設備投資プロジェクトの原資として使われたとしても、なお余剰となるキャッシュフロー部分を指す。フリーキャッシュフローが存在すると、資本コストを下回るような低い収益しか生み出さない非生産的な投資プロジェクトに資金が回ったり経営者の自己満足を引き上げるだけの浪費的な支出に使われたりといった非効率が生ずる。当社の所有するゴルフ場会員権なども「浪費的な支出」と言えなくもない。ただこの場合は株主も賛同して購入したからね。それはともかく、これからのコーポレート・ガバナンスとして著者は「各企業およびその投資家、従業員、顧客などのステークホルダーは、環境問題、コンプライアンス、企業倫理などを含めた多様な社会的責任に合致した行動をとっていくことが求められよう」としている。もって瞑すべし。

1月某日
「大切な人をどう看取るのか‐終末期医療とグリーフケア」(岩波書店 信濃毎日新聞社文化部 10年3月)を読む。07年10月から09年9月にかけて信濃毎日新聞に連載したものを加筆・訂正したもの。少子化=多子化ととらえれば「死」もビジネスチャンスととらえることができる。そう考えて終末期医療、看取り、グリーフケアの勉強をはじめたところ。あとがきである医師の「人間はいずれ誰しも最期を迎えるという当たり前のことを認識すれば、一人一人の行動や考えが変わる可能性は大きい。死を日常に取り戻すことは、社会を大きく変える力になる」という発言が紹介されていた。今、真摯に死を見つめることが求められていると思う。

1月某日
HCMのM社長、O橋さんと新宿で呑む。帰りは私とO橋さんは池袋まで一緒。わたしが「今日の総括が必要ですね」と言ってもう一軒誘うと、O橋さんの地元の「大山に行きましょう」という。大山商店街の名高いハッピーロードの外れの「伏音」という居酒屋に案内される。O橋さんが電話で予約を入れておいてくれたのでカウンターに席が用意されていた。前にO橋さんに紹介されたチェコからの留学生ヨハナ嬢もここでO橋さんがナンパしたらしい。常連客もマスターもママも感じが良かった。さすが大山!ケアステーションみなみ風練馬のサービス提供責任者をやっているT橋さんと名刺交換。O橋さん、また連れてってくださいね。

1月某日
竹内孝仁国際医療福祉大学教授と当社のO山役員と3人で富国生命ビル28階の富国倶楽部で食事。先生の日医大、医学連の頃の話、東京医科歯科大での医局長時代の話などとても興味深かった。先生は70歳代半ば近くになられているはずだが、今でもジムに通っているそうで、とてもチャーミングでお元気だ。今度、当社の社員にもいろいろと話を聞かせてもらいたいと思った。

1月某日
一般財団法人の社会保険福祉協会から制作を受託している「へるぱ!」の編集会議。いつもはこちらが協会に出向くのだが、今回は当社にU田さん以下、担当の方に当社までご足労願った。「へるぱ!」の編集を任せていただいたお蔭で、当社は曲がりなりにも介護の世界に食い込むことができた。社福協に深く感謝である。編集会議終了後、神田のベルギー料理屋で新年会。我孫子で「愛花」に寄る。O越さんが来ていた。

1月某日
3連休だが、いろいろとやり残したことがあるので休日出勤。ひと段落したところでライターのF田さんに電話。上野で会うことにする。F田さんは私より1~2歳下で早稲田の文学部の確か文芸学科出身。いろいろな意味で得難い人材で娘さんはピアノでチェコのプラハに留学している。F田さん自身は大卒後、行くところがなく家具の業界紙という私と同じようなコースをたどった。二人で焼酎を1本空けて帰る。

1月某日
フランスでアラブ系過激派によるテロで犯人の3人が射殺された。わたしの場合、テロで思い浮かぶのは東アジア反日武装戦線狼による三菱重工本社ビル爆破をはじめとする連続爆破テロだ。犯行グループの一人、斉藤和氏は逮捕直後に服毒自殺した。実は斉藤氏はわたしの高校の1年先輩。中学も同じで学業優秀で生徒たちだけでなく教師からの信望も厚かった。斉藤さんが逮捕され自殺したというニュースにわたしは驚愕したのだが、なんとなく「あの人ならやりかねないかな」と思ったものだ。のちに斉藤さんは高校時代からアイヌ問題に関心があり、それも日本帝国主義に対する怒りの発端となっていたようだ。一般市民を巻き込むテロ行為は理由が何であれ許されるものではない。しかしテロリストを逮捕、射殺することによって問題が解決したとする考えには反対だ。なぜ、テロが生まれるのかそこを考えなければテロの根絶とはならない。

1月某日
日本環境協会のH弘之氏と御茶ノ水で呑む。Hさんは元年住協で支社長をやっていた。年住協在籍中は仕事上のお付き合いはなかったのだが、呑み会やゴルフで一緒になった。今でも年に何回か呑む。なぜか気が合うんでしょう。とくに話題があるわけではないが互いの近況報告などを話す。

1月某日
元厚労次官のA沼氏と麹町のスペイン料理屋、メソン・セルバンテス。A沼氏は普段は京都在住で母校の京大の理事をやっている。東京へはときどき主張で出てくるらしい。A沼氏から電話があったので「女性好きなあなたのために何人か声を掛けときますよ」と言ったら「何言ってんだよ。女好きはあんたでしょ」と電話を切られた。それからすぐ電話がかかってきて「女の人に声を掛けることは比定しません」と言ってきた。ほら、やっぱり。それで参議院議員の秘書をやっているY倉さん、元住宅情報の編集長で今は会社社長のO久保さん、中央線沿線で介護事業を展開しているI川さん、NHK記者のH家さん、国土交通省から現在、内閣府に出向しているI藤さんに電話する。Y倉さんの都合がつかず、I川さんも体調不良とのこと。約束は7時30分からだったが、私に野暮用があって1時間ほど遅れてしまった。A沼氏とO久保氏が来ていた。しばらくしてH家さんも来る。A沼さんは「京大も予備校化が進んでいる。何とかしたい」と熱弁をふるう。でもわたしたち早大全共闘は40ン年前に「産学共同路線粉砕!」をスローガンにしていたのだけどね。まぁ和気藹々のうちに会合を終了しました。次の日の朝、内閣府のI藤さんから電話があり、「ごめん、11時過ぎまで仕事しちゃった」とのこと。旧建設省住宅局で係長になる前からI藤さんのことは知っているが、昔から仕事好きだったものね。お産で入院していた時も、病室から役所に電話を掛けて指示していたというエピソードを聞いたことがあった。

1月某日
埼玉グループホーム協議会のN村会長と東浦和の居酒屋へ行く。N村さんはほとんど呑まないのでわたしがもっぱら呑む。今日は東浦和で栄養士の先生を招いて勉強会があったということだ。介護業界に人が集まらない話だが、給与が日恋だけの問題ではないと思う。埼玉グループホーム協議会はよく勉強会や研修会をやっている。介護に携わる職員の向上心を刺激しているのだ。職員のスキルアップに努力しない事業所は淘汰されていくというか、淘汰されなければならないと思いますね。 

社長の酒中日記 1月その1

1月某日
年が明けたけれど相変わらずすることもない。妻に付き合ってテレビで箱根駅伝を見る。妻はわたしと早稲田の同級生だが、我孫子在住が長いせいか我孫子にある中央学院を応援している。わたしはとくに贔屓の大学もないのだが、走っている選手が皆若いというか幼いのにいささか驚く。「女の日時計」と同じくブックオフで買った桐野夏生の「アンボス・ムンドス‐ふたつの世界」(文春文庫 単行本09年10月)を読む。主人公が女性という以外なんの共通点もないかにみえる6つの短編をまとめたものだ。あえて言うなら、作中の主人公と現実との距離感、現実との違和感、ときには現実への憎悪がテーマとなっているように思う。表題作は夏季休暇中に不倫相手の教頭とキューバに旅した女教師が帰国すると担任の女子が事故死したことを知らされる。不倫相手は自殺し女教師も小学校を退職する。事故死の真相を究明するのがこの短編のテーマではない。小学生の女の子、校長、父兄、世間の自覚せざる悪意がテーマのように思う。現実との違和感、距離感、憎悪をこの小説は拡大、増幅してわれわれに見せてくれる。巧みな小説とはその見せ方が巧みでもあると思う。

1月某日
初詣で湯島天神へ行く。夕方4時ころ行ったのだがお参りまで1時間待ち。行列を整理していたお巡りさんによると、さっきまでは2時間、3時間待ちだったとか。受験生とその家族が多いのかもしれないが、受験生は家で勉強しておいたほうがいいんじゃないの?松戸で我孫子の飲み友達、O越さんと新年会。松戸駅の改札で6時の待ち合わせ。N田さん、O越さんの奥さんが来る。O越さんはパチンコ店から出られないようなので先に行く。駅から3分ほどで「かがやす」へ。ここはN田さんの発見したお店で、O越さんも2~3回来ているらしい。確かに安くてうまい。でも年齢も年齢だからそんなに食べられない。ほどなくO越さんも来る。満腹になって我孫子へ帰る。O越夫妻は「愛花」に寄ると言っていたが、私は失礼する。

1月某日
仕事始め。昔は仕事始めというとお昼頃から会社で軽く一杯やって、それから麻雀なんかをやったものだが、今は本当に「仕事」を始める日。わたしも午後からあいさつ回りをしたが、話が長引いて2社しか回れなかった。まぁいいんですけど。4時に会社に帰って、4時半から当社の仕事始め、5時から親会社の仕事始めに顔を出す予定。