社長の酒中日記 12月その2

12月某日
年末年始の休みが始まる。今年は9連休だが特に予定もないので、本を読んで過ごすことにする。我孫子駅前の書店で買った桐野夏生の「夜また夜の深い夜」(14年10月 幻冬舎)を読む。最近、読む本の大半は自宅から歩いて5分の我孫子図書館で借りる。桐野はベストセラー作家なので、図書館で借りるとなると何か月待ちとなる。で桐野の近著の「だから荒野」などは書店で買っている。主人公のマイコはナポリのスラムに日本人の母親と住んでいる。マイコには国籍がなく生まれたときから19歳の今に至るまでアジアやヨーロッパで転居を繰り返す。学校はロンドンの小学校に行ったきりで、その後は母親が日本から取り寄せた教科書使って教えている。ナポリに日本人が店長を務めるマンガ喫茶がオープンし、マイコはそこの常連となり日本のマンガに強く魅かれる。ここまでが物語の第一段階。第二段階はマイコが家出し、エリスとアナという2人の若い女性と邂逅し、行動を共にすることから始まる。エリスは内戦で肉親を殺され自身もレイプされ、そこから逃れるために殺人も犯す。アナも親に捨てられた過去を持つ。3人にはナポリに居ながらイタリア国籍も市民権もないという共通点がある。エリスがマフィアにレイプされたうえ殺されても対抗するすべがないのだ。しかしこの3人は人間としてのプライドと他者に対する優しさという感情を共有する。
グローバリズムが拡大深化し、格差は広がっている。そのとき国家は何をなすべきか、マイコら3人は国家、市民社会という後ろ盾がないままマフィアと争う。当然敗退し、エリスは殺されるのだが、3人の精神的な強いつながりは残る。アナは女の子を出産しその子にエリスと名付ける。マイコは南半球で名前を変えて母親と暮らす。新しい名前はエリスだ。

12月某日
図書館から借りた「愛に乱暴」(吉田修一 13年5月 新潮社)を読む。「夜また夜の深い夜」が無国籍の日本人を主人公にして外国を舞台にした、日本の小説には珍しい「グローバリズム」ノベルとすれば、「愛に乱暴」は東京郊外の高級住宅地を舞台とする伝統的な「ドメスティック」ノベルである。主人公桃子は夫と夫の実家の別棟に住む。ある日、夫は桃子と別れ恋人と再婚したいと告げる。わたしは小説を読むとき、登場人物の誰か(多くは主人公)に感情移入することが多いのだが、この小説の場合、桃子にも夫にも感情移入できなかった。わたしも男ですから桃子の夫が浮気する気持ちが分からないわけではないが、もうちょっとぴしっとしなさなさいよ、といいたくなる。夫の恋人が決して魅力的に描かれていないのもわたしには好感が持てる、というか夫の恋人が魅力的なら「それゃ無理ないよ」で終わってしまうものね。ドメスティックノベルではあるけれど、後期資本主義の日本で暮らす中産階級の家族の危機が良く描かれていると思う。そのなかで救いがあるとすれば近所のコンビニに務める外国人、李さんとの触れ合いと、パート先のサラリーマンが、今度独立するから一緒にやらないかと声をかけてくれたことだろう。桃子にも「家族」以外の社会とのつながりを残している点である。

12月某日
佐藤優の「功利主義者の読書術」(新潮文庫 平成24年4月)を読む。小説新潮に連載されたものをまとめたもので09年7月に単行本化されている。佐藤は1960年生まれだから私より一回り12年若い。同志社大学大学院神学研究科修了の後、外務省に入省。ロシア連邦日本大使館、本省勤務の後、背任と偽計業務妨害罪で逮捕起訴され、05年に執行猶予付き有罪判決を受ける。佐藤の本を読んで感心するのはその記憶力と読書量である。どちらも半端ではないのだが、本書においてはその読書の量と幅の広さに今更ながら驚かされる。わたしは佐藤が背任と偽計業務妨害罪で有罪となったのは、検察官僚が一つの国家意思のもとに遂行したものと思っている。国家が権力を維持するうえで鈴木宗雄や佐藤の言動や存在が邪魔となったが故の有罪判決と思っている。しかし佐藤が起訴され有罪にならなければ、職業的作家としての佐藤は誕生しなかったのではないか、あるいはノンキャリアの外務官僚としての将来に見切りを付けて作家となったとしても、今の佐藤とはそうとう違った作家になったのではないかと思われる。だとすれば佐藤の逮捕起訴、有罪判決も日本の文化状況という視点からすれば意味のあることだったかもしれない。
宇野弘蔵の「資本論を学ぶ」をとりあげて佐藤は大要次のように言う。日本の非正規労働者の増加について「非正規雇用者の労働者は、労働組合によって守られておらず、弱い立場にある。従って、賃金が低い水準に抑えられるのである」とし「年収200万円以下の給与所得者が1000万人を超えているのは、尋常な状態ではない」ともいう。ほとんど社会民主主義者の言説ではあるが、佐藤はそこでは終わらない。「マルクスの『資本論』や宇野弘蔵の著作がもっと読まれるようになれば、資本主義の限界についての認識が日本社会で共有されるようになる」というのである。わたしには佐藤が日本の経済や社会の現状分析の武器としてマルクスや宇野弘蔵の著作をもっと利用しなさいと言っているように思えるのだが。

12月某日
上野のブックオフで買った田辺聖子の「女の日時計」(講談社文庫)を読む。10数年前から田辺の小説は読むようになったが、「女の日時計」は初めて読む。初出は「婦人生活」の1969年1~12月号とあるから今から45年前。ストーリーをざっと紹介すると、阪神間で高級住宅地として名高い夙川の旧家に嫁いだ沙美子が主人公。母屋とは別棟の新居で穏やかで優しい夫と新婚生活を送っている。姑や小姑との小さな軋轢はあるが、夫の愛に包まれた生活を考えれば当然、我慢すべきものであった。義理の妹の見合い相手、相沢があらわれるまでは。相沢は沙美子に一目ぼれし沙美子もバンコクに赴任する相沢の後を追うことをいったんは心に決める。結局はそうはならず、病に倒れた姑を看病するうちに沙美子は一家の主婦の座を実質的に襲うことになる。沙美子の学校時代の親友と義理の姉の夫との不倫、親友と沙美子の夫の弟との純愛もからんでストーリーは展開してゆく。田辺はこの小説で何を言いたかったのだろうか?田辺は1964年に芥川賞を受賞、66年にカモカのオッチャンこと医師の川野純夫氏と結婚している。田辺にとって子持ちの川野氏との結婚は、一種の「断念」としての側面もあったのだと思う。「断念」は言い過ぎかもしれないが開業医の妻、それも二人の子持ちの後添えになるのだから、文筆業を続けることの不安がなかったわけではあるまい。田辺のそこらへんの「断念と不安」を象徴的に描いたのが「女の日時計」ではなかったのかと思う。そう考えて文体を見ると、以降の軽妙さは見られず、硬質で重い文体と感じてしまうのである。

社長の酒中日記 12月その1

12月某日
パソコンが壊れて酒中日記のデータが失われてしまった。一から出直し。ベッドの脇に積んであった本の中に買った覚えのない文庫本があった。ベルンハルト・シュリンクという人の書いた「朗読者」(新潮文庫)という本である。4年前入院していた時、誰かが差し入れしてくれたのだろうと思う。15歳の少年「ぼく」が母親とあまり年の違わない女性ハンナと出会う。二人は恋に陥り結ばれる。ハンナは市電の車掌をしていてなぜか「ぼく」が本を朗読することを好む。ハンナは突然「ぼく」の前から姿を消してしまう。ここまでがこの小説の第1部。ここまでなら少年と年上女の青春愛欲小説で終わる内容だ。第2部でストーリは意外な展開をする。「ぼく」は法律を学ぶ学生になりナチスの看守を裁く法廷を見学する。被告席に他の被告と一緒に座っていたのはハンナだった。ハンナはユダヤ人虐殺の罪に問われたのだ。裁判の過程で「ぼく」には真実が明らかになってくる。ハンナは文盲だったのだ。ハンナが文盲を認めれば罪は軽減されたかもしれないが、ハンナは識字能力があるように装い、終身刑を宣告される。「ぼく」は刑務所の「ハンナ」に朗読したテープを送り続ける。仮釈放の日、迎えに行った「ぼく」に刑務所長はハンナが自殺したことを告げる。哀切極まりないストーリーであるが、私はいろいろと考え込んでしまった。
ひとつは戦争犯罪の問題。ハンナは確かにナチスの看守役を志願し、その職責を全うしたわけだから戦争犯罪人ではある。しかしナチスの思想の積極的な支持者ではなく、文盲の彼女でも勤まる仕事に就いただけという見方もできる。「ぼく」は彼女の死後、彼女の独房を訪ねるが、そこにはナチスの犠牲者と並んでハンナ・アーレントのエルサレムでのアイヒマン裁判のレポートも残されていた。アーレントは確か「命令に従っただけ」と主張するアイヒマンに対して「凡庸な犯罪者」という表現で誰にでもアイヒマンになり得ることを指摘した。これをアイヒマン擁護の言説ととらえられて、アーレントはユダヤ社会において批判されることになるのだが、それはさておいても戦争犯罪の問題、それも指導者ではない場合は、指導者でないからこその問題が出てくる。昔あったフランキー堺主演の「私は貝になりたい」というテレビドラマもそうだった。もうひとつはハンナが文盲だったという設定である。彼女の少女時代については小説では明らかにされていないが、文盲という事実が過酷な少女時代を連想させずにはおかない。今年のノーベル平和賞受賞者であるパキスタンのマララではないけれど、あまねく教育を受ける権利は保障されないとね。

12月某日
京都、名古屋出張。名古屋で家具の固定をやっているグループの忘年会に顔を出すのが目的だったのだが、ついでに京都で医師の三宅先生に会うことにした。三宅先生は奥さんが認知症で「認知症家族の会」の古くからのメンバー。会うのは今回で三回目だがなぜか気が合う。先生は昭和20年生まれだから来年70歳のはずだが、容貌も考え方も若々しい。京大の医学部を出てしばらく船医をやり、それから厚生省に入ったが、役人は肌に合わず京都に帰ったという。もっとも出身は岡山だそうだ。それから名古屋に戻って家具の固定の忘年会へ。ボランティアのみなさんや応援している消防署員のみなさんにあいさつ。翌日は昭和区で認知症のデイサービスを運営している皆本さんを訪問。いろいろと勉強させてもらった。

12月某日
当社は神田の雑居ビルの5階にあるのだが、その3階に入居しているのが訪問介護事業者の団体、民間介護の質を高める事業者協議会(民介協)である。今日はそこの理事会で理事会後の忘年会に声をかけられる。全国から20名あまりの理事さんが参加、忘年会は近くの「野らぼー」といううどん屋で。民介協の研修会には何度か参加させてもらったし、取材に伺った事業者もいくつかある。介護事業に真面目に取り組んでいる印象が強いし、会員同士の仲が良いのもこの団体の特徴。現場の経営者と話ができて楽しかった。

12月某日
佐藤優の「先生と私」(14年1月 幻冬舎)を読む。佐藤優の中学時代の主として塾の講師たちとの交流の物語なのだが、早熟で社会主義に興味を抱く佐藤少年がとても真面目でキュートだ。父親や母親の描き方も好感が持てる。佐藤は鈴木宗雄と組んで、外務省の本流に対して盾をついたような印象が強かったのだが、佐藤の執筆したいろいろな本を読むにつけ当人は至って真面目であり、語学と宗教、経済学に該博な知識を有していることがわかってきた。佐藤の本を読んでいつも驚かされるのはそのすさまじい記憶力だ。そして家族や仲間に対する愛情や信頼も半端ではない。佐藤優のような人は、これまでにいなかったしこれからもでないのではないか。本当に異色の人だ。

12月某日
高田馬場でグループホームを運営している社会福祉法人サンの理事に就任した。忘年会があるというので参加する。理事長、理事、監事、評議員らが参加。理事に就任して3か月が経過しているが、非常勤理事なので情報も少なく、たまにグループホームに顔を出しても理事長と話すぐらいで経営の実態はなかなかつかめない。それでも今日の某目㎜会に参加して話を聞く中で課題と思われるものがいくつか浮かび上がってきた。ひとつはコミュニケーション不足。理事長や管理者の思いが現場に十分伝わっているとは言えないのではないか?もちろん現場の思いが管理職や経営者に十分に伝わっていないのではないかということもある。職員相互のコミュニケーションが足りないのでないかと思えるところもある。新参理事でもあり何より社会福祉法人の経営にはズブの素人なので偉そうなことは言えないが、「入居者の満足」を第一に考えていきたい。

12月某日
吉本隆明の「真贋」(講談社文庫)を読む。吉本は学生時代から読んでいるが「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論序説」などの「思想書」は、正直あまり理解できなかった。私はむしろ「自立の思想的拠点」「芸術的抵抗と挫折」「擬制の終焉」といった情勢論、転向論に魅かれた。過激な学生運動から脱落した私は、吉本がプロレタリア文学者の転向を「大衆の原像の喪失、離脱」というふうなとらえ方をしているのを読んで、自分自身の「転向」にも妙に納得したものだった。「真贋」07年に講談社インターナショナル社より語りおろし単行本として刊行されたもので、吉本の思想の根底にある生き方を吉本自らが語ったものとして私には興味深かった。印象に残ったグレーズをひとつ書き写すと「総理大臣だから偉いとか、大学教授だから偉いとか、あるいは名だたる芸術家だから偉いとか、そういったふうに思わないほうがいい。人を見る上でもっとも大事なことを挙げるとすれば、それはその人が何を志しているか、何を目指しているかといった、その人の生きることのモチーフがどこにあるかということのほうだと言える気がします」。私にとっての「生きるモチーフ」と問われても、明確に答えることはできない。そうではあるが、私にとっての吉本とは思想家というよりも、「生き方の師匠」という感じだ。

12月某日
国際厚生事業団のT田専務、損保会社の顧問を務めながら障碍者の施設を運営している社会福祉法人の理事長をやっているK林さんは厚生省入省同期である。今日は私も含めて3人で忘年会。ビール、赤白ワインを呑む。T田さんとK林さんの入省同期以外の共通点は東京生まれ東京育ちという点。T田さんは山の手、K林さんは下町という違いはあるものの「生き方」に嫌みがなくナイーブという共通点があるような気がする。私は北海道生まれだが、母親が東京の成城育ち。わたしも嫌みがなくナイーブということ?

12月某日
朝、携帯に社員のS田から連絡が入る。「母が病気のため10時に社会保険福祉協会から校正を受け取ってきてほしい」。今年の仕事納めの日だから皆忙しいんですよ。わたしは暇ですが。10時に校正紙を受け取り、まぁ序でと言ってはなんですがH田常務、U田さんに年末のご挨拶。12時からお昼を食べながらHCMで「胃ろう・吸引シミュレータ」の販売会議。HCMのM社長、O橋常務、開発者のH方さん、わたしが参加。ビールと日本酒を少々いただく。4時から当社の仕事納め。民介協のO田専務、当社の社外重役で社会保険研究所のS木常務にも参加してもらう。O田専務の富士銀行時代の同僚が偶々来ていたので参加してもらう。17時から社会保険研究所の仕事納めに顔を出す。30分ほど歓談してパートのT島さんを誘ってHCMの仕事納めに参加。日本酒、ウイスキーをいただいていささか酩酊。

社長の酒中日記 10月その2

10月某日
健康生きがいづくり財団のPR用パンフレットとDVD作成の仕事を請け負っている。今日は財団理事長で元厚労次官の辻さんに中間報告の日。辻さんが特任教授をやっている東大にスタッフのH尾とY溝君と向かう。H尾の的確な説明もあって中間報告はクリア。辻さんからいただいた指摘もいちいちもっともなものだった。東大から池袋へ。友人で弁護士のK良くんに会う。今、理事を引き受けている社会福祉法人のことなどを相談する。川村学園大学の副学長をやっているY武さんから電話。「今、東京に来ているから例の店で待っていて」と一方的に言う。相変わらず自分勝手な人である。例の店とは多分、根津の「ふらここ」であろうと検討をつけて根津に行ったらまだ開いていない。近所の「安暖亭」(アンダンテ)というこじゃれたチャイニーズレストランに入り、ホタテとセロリの炒めたものとビールを頼む。食べ終わって「ふらここ」へ行くとY武さんはまだ来ていなかった。ほどなくして常連の女性客が来る。明日から遅い夏休みをとって釧路で馬に乗るらしい。Y武さんが来てビートルズなどを歌う。

10月某日
CIMネットのN宮さんから「大分のK枝先生が見えているので来ませんか?」との電話。K枝先生は私より年上だが九大の医学部出身。今はどこの病院にも属さず、いくつかの病院で非常勤で診察治療に当たっている。地域医療とITを結びつけることに情熱を傾けている。先日のY審議官の講演をネタに私が「小さな市町では地域包括ケアの実現は難しいと思う。各医療圏ごとがいいのではないか?」と言ったら「それはいいかもしれない」と賛同してくれた。自治体の行政力には大きな格差が出てきているように思う。それを放置して地域包括ケアの実施を自治体に求めても無理が出てくると思う。増田元総務相による「自治体消滅の警告もある。ことは地域包括ケアだけの問題ではないのである。広域連合の発想が必要だと思う。

蕎麦屋をでたところ
蕎麦屋をでたところ
元厚労次官で今は京大の理事として早朝を補佐しているA沼さんから「幾つか挨拶回りして、5時半ころ神田駅でどう?」とのメール。その日はシルバーサービスのK留さんやフィスメックのK出社長と約束があったが7時からなので神田駅へ5時過ぎに向かう。文庫本を読んでいるとA沼さんがやってくる。西口商店街を歩いていると「シャン トゥ ソレイユ」というベルギー料理の店の看板が目に入ったのでそこにすることに。ムール貝のワイン蒸しなどなかなか美味しかった。会社の近況などを報告し、アドバイスを受ける。A沼さんと別れ、K留さん、K出さんと待ち合わせている蕎麦屋へ。K出さん結核予防会のT下常務が既に来ていた。おいしい日本酒を冷でいただく。遅れてK留さんが来る。K留さんと呑むのは初めてだが、仕事でいろいろお世話になっている。いつも威張ることなく対等に我々と付き合ってくれる。業界や厚労省の信頼も厚いと思う。私は少し酔いすぎたので蕎麦屋で失礼する。

10月某日

返事はあした
返事はあした
田辺聖子の「返事は明日」(集英社文庫)を読む。短大卒の江本留々は24歳のOL.2歳上の恋人、隆夫がいる。隆夫とは落語会で知り合い意気投合、そのまま恋愛関係になる。隆夫は長身色白でまつ毛が長い一見貴公子風。天草四郎からとって「シローちゃん」とも影で呼ばれている。しかしこの隆夫は一言で言えば煮え切らないのである。それに対してルルは一途。この辺のギャップ、行き違いが小説の流れを作っている。結局、ルルは同僚で料理の上手い村山くんとの結婚を決意する。村山くんは故郷へ帰って温泉旅館を継ぐのだが、村山くんと結婚するということは温泉宿のおかみさんになることでもあるが、ルルはそれでもいいと思うのである。田辺聖子にはツチノコ騒動を描いた傑作があるが、田舎というか鄙び願望が少しあると思う。田辺自身は大阪で生まれ大阪で育ち神戸で結婚した純粋な都会人であるがそれだけに鄙びへのあこがれがあるのではないか。伴侶となった「カモカのおっちゃん」も土の匂いのする人のように思う。それはさておきこの小説にはものを食べる場面が結構あってそれも楽しめる。村山くんとは「美々卯」で食事をするのだが、田辺はルルにこう言わせている。「私もムラちゃんもうどん好き、『うどん仲間』といっていい。一緒にうどんを食べられるって、とてもいい男であるのだ。だって気取ってる人間なら、うどんを食べてるトコを人に見られたくない、と思うであろう」。そばは気取って食べられるからいいそうである。そうなるとラーメンもダメね。パスタはギリギリかな。

10月某日

末裔
末裔
絲山秋子の「末裔」(講談社 2011年2月)を読む。区役所職員の省三が家に帰るとドアの鍵穴が無くなっていた。鍵穴がなければドアは開かない。妻を亡くし子供たちは家を出てひとり暮らし。外側からしか家のドアはあけられないのだ。省三はとりあえず、新宿に出て一人呑むことにする。そこから省三のファンタスチックな旅が始まる。この小説を読んで感じたのは家族とか血族にとって、過去は確実に確定されたもので確かな実在なのだが、未来は不確定に満ちているということである。それは家族や血族に限らないのだけれど、家族や国家という共同的な幻想は、その共同幻想が未来永劫続くという観念とセットになっているような気がする。省三は先祖の足跡を辿りに長野県の佐久まででむくことになり、なんとも安らいだ気分になる。省三の回想に出てくる省三の父や伯父は、とても懐かしく描かれる。「末裔」は絲山流の昭和へのオマージュである。

10月某日

一橋大学兼松講堂で開かれた国立市の「認知症の日」
一橋大学兼松講堂で開かれた国立市の「認知症の日」
本日は国立市の「認知症の日」。「地域包括ケアのサイエンス」を書いた筒井孝子さんも講演するというので当社のS田と本を売りに会場の一橋大学兼松講堂へ行く。筒井さんは市民向けにとてもわかりやすい講演をしていた。「役所にたよらないこと、男の人は一人で留守番できるようになること」というような内容だったような気がする。一連のイベントが終了したあとの近くのイタリアレストランで開催された、打ち上げにも参加させてもらった。国立市の佐藤市長、一橋大学の林教授なども参加、当社のS田と元社会保険庁長官でスエーデン大使もやったW辺さんは高校が北海道の岩見沢東高校の同窓ということで盛り上がっていた。

10月某日

月例社会保障フォーラムで講演する小笠原先生
月例社会保障フォーラムで講演する小笠原先生
福祉医療介護政策研究フォーラム(中村秀一理事長)の月例社会保障研究フォーラム。今日の講師は岐阜県の小笠原内科の小笠原文雄院長(日本在宅ホスピス協会会長)による「おひとりさまを支える在宅ホスピスケア~ひとりで家で死ねますか?」という講演。小笠原先生の講演は以前にも聞いたことがあるのだがそのときはそれほど印象に残らなかった。だが今回は「在宅医療」の意味を考える非常に意義深い講演だったし、小笠原先生の人柄と思えるが偉ぶることのない率直でユーモア溢れる講演だった。先生が看取った患者さんや患者さんの家族の写真がスライドで写されたが、笑顔に溢れていた。先生は希望死、満足死、納得死と呼んでいたが、こうした死に方が医療・看護・介護・福祉・保健の連携・協働+介入によって可能になるのであった。だが日本全国で在宅死を可能にさせるには、地域医療とくに訪問看護や在宅緩和ケアの体制整備、患者・家族への情報提供が必要だろうと思った。

10月某日

独立ケアマネのO村さん
独立ケアマネのO村さん
独立ケアマネの取材で江戸川区の小岩へ。「けあまね処すもも」の管理者で主任介護支援専門員のO村さんを取材する。独立ケアマネの取材は3人目。いままでの2人は大変興味深い取材ができたのだが、今回も手応え十分だった。O村さんは専業主婦だったが、子供を抱えて離婚後、専業主婦でもできそうな仕事としてホームヘルパーに。ケアマネの受験資格を得たあと、受験し合格した。当初は事業所に属したケアマネだったが昨年独立したという。管理者、代表社員を含めてスタッフは4人。なんとか利益を出しているという。独立ケアマネの取材をして、ケアマネジャーのあるべき姿がなんとなく分かるようになってきた気がするし、独立ケアマネのそれぞれの人間性に触れることができて大変、楽しい取材である。

10月某日

そもそも株式会社とは
そもそも株式会社とは
「そもそも株式会社とは」(岩田規久男 ちくま新書 2007)を読む。大変勉強になった。
まず「株式会社の基本は、株主が取締役の選任権と解任権をはじめとする会社の重要な経営方針を決定する権利を持っている」(株主主権の原則)ということ。また「株式会社とは、株主が経営者に株主の利益に沿って、会社を経営するように委託した組織である」とも言える。取締役会の任務は「業務執行の決定」と業務執行取締役の「監督」にあり、取締役はこの2つの任務を果たすことを株主から委任されている。取締役は経営のプロとして「善良なる管理者の注意義務(善管注意義務)」を怠って、会社に損害をあたえたときには、会社に対して損害賠償しなければならない。会社がその取締役の責任を追及しない場合には、株主が会社に代わって提訴できる(株主代表訴訟)。こうした意味から岩田は、会社は株主のものと言える(株主主権論)としているのだが、しかし株主主権論は「会社の付加価値を創造する主体は従業員と経営者である」ことを否定するものではない、とも言っている。また、会社がイノベーションによって付加価値を創造してゆくとき、そのもっとも重要な主体は従業員と経営者であることも確認している。岩田は「会社は誰のものか?」という問いには「株主主権論」の立場にたちながら、付加価値創造の主体はあくまでも従業員と経営者と言っているのだ。深く納得。

社長の酒中日記 10月その1

10月某日

富国倶楽部からの夜景
富国倶楽部からの夜景

大学の同級生のA宮弁護士の事務所が西新橋の弁護士ビルにあるのでHCMに寄ったついでに表敬訪問。金曜日に飲む約束をする。その足で郵政互助会琴平ビルにある医療介護福祉政策研究フォーラムのN村理事長を訪問。オヤノコトネットのO沢さんに会うことになったことを報告。今日は6時から富国生命ビルの富国倶楽部で元自衛官の人と会うことになっているので、少し早いが富国倶楽部に向かう。富国倶楽部にはユトリロやクールベといった名画が掛けられている。

クールベの「波」
クールベの「波」

「シャガールが戻ってきました」と掛かりのF谷さんが教えてくれたのでシャガールを鑑賞。ほどなくHCMのO橋さんが来る。2人でビールを呑んでいると元自衛官お二人がやってくる。今日は自衛官の再就職先についての相談。二人共大変感じの良い人で、「色々と聞いてみましょう」と約束してくれた。

昭和の香りがするスナックのたまちゃんと
昭和の香りがするスナックのたまちゃんと

私とO橋さんは2人で新橋の昭和の香りがするスナック「陽」へ。ママさんは現役の生命保険の外務員。

10月某日
国際福祉機器展に当社の有力顧客である社会保険福祉協会とSMSが出展しているので見に行くことにする。社福協とSMSのブースに出向き担当者に挨拶。時間がないので二つのブースの近所だけを見学。介護報酬請求ソフトやケアプラン作成ソフトなど今年はICTを活用したもの、それもクラウドを利用したものが多いように感じた。事務管理部門のコスト削減、合理化が課題となっているということだろう。

レストランかまくら橋にて
レストランかまくら橋にて

私が当社に入社する前にいたのが日本プレハブ新聞社という住宅の業界紙。当社に入社してからもリクルートの「ハウジング」という雑誌を創刊から2年くらい手伝った。そんなわけで今でも住宅関連業界や国土交通省住宅局関係には知り合いが多い。今日は日本プレハブ新聞時代の同僚、O田賢治さんが音頭をとって積水ハウスの広報マンだったH順一郎さん、ミサワホームで政官、業界の調整役を担っていたK山さん、住宅展示場の運営をやっていたI藤さん、K川さん、リクルートで「ハウジング」の編集をやっていたT島みどりさんが当社の近くの「ビアレストランかまくら橋」に集まった。話題はどうしても住宅のことになる。住宅展示場の役割についても議論になったが、私としては実際に建てる家とはかけ離れて広く豪華なモデルハウスには疑問がある。商品見本としての役割よりも客寄せとしての役割が強いように思う。住宅を先ごろ亡くなった経済学者の宇沢弘文のいう「社会的共通資本」としての捉え方が消費者側にも供給側にも弱いと思う。

10月某日

奥さんの実家の元ガソリンスタンドの一角に事務所を構えたI川さん
奥さんの実家の元ガソリンスタンドの一角に事務所を構えたI川さん

SMSの仕事で事業所に属さない独立ケアマネの取材。第1回は練馬のI川さん。I川さんはカネボウ化粧品の出身。昭和25年生まれというから私とほぼ同年齢。利用者に適したケアプランを、いかに費用を抑えて提供するのがポイントと話す。非常にわかりやすい。独立ケアマネは取材したことがなかったので勉強になる。夜、大学時代の同級生A宮弁護士に虎ノ門の「たけとら」という店で日本酒をご馳走になる。

10月某日

10・8山崎博昭プロジェクト
10・8山崎博昭プロジェクト

今から47年前の1967年10月8日、当時の佐藤栄作首相の訪米に反対する全学連の学生たちが羽田空港に突入しようと機動隊と激突した。この戦いで京都大学の一年生だった山崎博昭君(18歳)が弁天橋で亡くなった。彼を追悼するモニュメントの建設と記念誌の作成を目的とした「10・8山崎博昭プロジェクト」の集会が大井町で開かれるという。O谷氏と一緒に出かけることにする。当時私は浪人中で同年の山崎君が死んだことにショックを受けたことを覚えている。翌春、早稲田大学に入学するのだが、授業に出席した記憶はほとんどない。デモと集会、サークル活動(ロシヤ語研究会といってもロシヤ語を学習したわけではなく麻雀の面子を集めに通っていた)の日々だった。集会は詩人の佐々木幹郎の司会で始まったが、私同様ほとんどが前期高齢者のジジババ。羽田闘争のドキュメント映画「現認報告書」を観たところで、私はインタビューの仕事があったので退席した。

N村さんと当社のS田
N村さんと当社のS田

インタビューの仕事は前日に引き続き、独立ケアマネの取材。ケアマネの受験講座の講師を勤めるN村さんを講師の現場に訪ねる。ここではインタビューは無理なのでタクシーで会社へ。N村さんは社会事業大学出身の社会福祉士。長野県安曇野市で独立ケアマネを営んでいる。独立したのは一年ほど前。前日のI川さんのインタビューでも感じたが、独立ケアマネは経済的には結構きつい。きついけれどもケアマネの職責からして事業所と独立していることが望ましいのもわかってきた。介護保険制度は財政的に持続可能な制度にしていくことも大切だがケアプランの作成含めて「質の担保」の側面からの検証も必要だ。インタビュー後、当社のS田、I藤と四人で「葡萄舎」へ。

10月某日

愛してよろしいですか?
愛してよろしいですか?

日曜日。朝から雨。床屋へ奥さんに車で送ってもらう。朝食兼昼食をビールと日本酒で頂く。昼寝をした後、雨の日の日曜日には田辺聖子と決めて集英社文庫の「愛してよろしいですか?」を読み始める。初版は昭和57年とあるから30年以上も前の作品である。ハイミスの「すみれ」と就職を控えた大学生「わたる」の恋物語である。携帯電話もコンビニもなく「すみれ」のアパートには風呂もない。だけれどこれは恋愛を巡る周辺環境が変わっただけで、「すみれ」と「わたる」の恋愛そのものが古びて色褪せたわけではない。「すみれ」は基本的に真面目な女性である。これは田辺の小説のヒロイン全般に言えることだが、「すみれ」は「わたる」に「誠実だけが人間に大切なものやわ」「マジメや誠実が人間の根本でなかったら、社会の連帯や構造も崩れてしまうやないの」と言う。言葉がやや70年代的ではあるが、要するに「すみれ」は、真面目でキュートな女性として描かれているのだ。

10月某日
民間介護事業者協議会のO田専務と西新橋の「花半」へ。遅れてHCMのO橋常務。このところ考えている「退職自衛官の再就職先として介護業界はどうか?」についてO田専務が訪問入浴業界にいたときの経験を聞くためだ。この話は5分くらいで済んで、話はもっぱらO田専務が介護業界にいたときの話とその前の都市銀行に在籍した頃の話。O田専務のいた銀行は高卒200名、大卒250名の同期から支店長になるのが高卒5人、大卒50人くらいだそうだ。高卒は20人にひとり、大卒は5人にひとりの狭き門だ。O田専務はその狭き門をくぐり抜けて上福岡支店を皮切りにいくつかの支店長を歴任した。それだけにO田専務の話は説得力があり面白い。ひとしきりO田専務の話を堪能したあと、O橋常務と阪神タイガースの話題で盛り上がっていた。我孫子駅前の「愛花」に寄る。F田さんに会う。

10月某日

富国倶楽部からの夜景
富国倶楽部からの夜景

神田の葡萄舎で元厚労省で阪大教授を勤めたあと、現在「暇人」を自称しているT修三先生と呑む。先生とは元厚労省で上智大学の教授を勤め、昨年急死したT原亮治先生と3人で何度か呑んだ。T原先生は生前、プロテスタントからカソリックに改宗したが、T修三先生は、その影響もあってか最近、宗教書を読むことが多いという。そこで私が20年ほど前、初めてヨーロッパに行ったときの「宗教体験」の話をした。あれはスイスのどこかの都市の郊外だったと思う。日曜日で公式行事もなく1日自由時間だったので一人で街を散策していたら、教会があったので入ってみるとミサをやっていた。後ろの席で神父さんの説教している姿を眺めていたら、突然ポロポロと涙が出てきた。説教は多分ドイツ語がフランス語で行われていたのでもちろん意味が分かってのことではない。旅行も終盤に差し掛かって肉体的な疲労がピークに達していたため神経が昂ぶっていた影響もあると思う。それとカソリックの教会のイエス像やマリア像、ステントグラスなどの雰囲気も旅に疲れた心を刺激したのだと思う。そんな話をしていたら高齢者住宅財団のO合さんが遅れて登場。葡萄舎の焼酎はアルコール度数が高い(多分40度くらい)のでかなり酔っ払う。

10月某日

資本主義という謎-「成長なき時代」をどう生きるか
資本主義という謎-「成長なき時代」をどう生きるか

エコノミストの水野和夫と社会学者の大澤真幸の「資本主義という謎-『成長なき時代』をどう生きるか」(NHK出版 2013年2月)を図書館から借りて読む。大澤による「まえがき」から本書のコンセプトを見てみよう。第1章の「なぜ資本主義は普遍化したのか?」では、まず資本主義は文明の先進地域の中国やイスラム圏では誕生せず、周辺的な地域、西欧で生まれたことに触れている。これは、資本主義がマックス・ウェーバーやカール・シュミットが示唆するようにきわめて特殊な文化を背景に持つ倫理や生活様式(具体的にはキリスト教とくにプロテスタント)に規定されているためだ。しかし現在では、資本主義はほとんど普遍化し、どのような文化にも根付いている。資本主義は一方できわめて特殊であり他方で、ほとんど普遍的と言っていい波及力を持つ。この両極性をどう理解するかという問いが提起される。第2章の「国家と資本主義」は資本主義にとって国家とのつながりは必然であると主張する者もいれば、逆に、国家は、資本主義には本来不要なジャマ物であるとする専門家もいる。国家と資本主義の関係は「腐れ縁で続く夫婦の関係」のようなものと本書はいう。第3章の「長い21世紀と不可能性の時代」では歴史家のブローデルや世界システム論のウォーラステインが用いる時代区分の「長い16世紀」論、つまり1450年から1650年までの200年間は、西欧で世界経済したがって初期の資本主義が誕生した歴史の転換点となっている、という考え方にならって1970年代から現在、将来を長い21世紀ととらえる。第4章「成長なき資本主義は可能か?」では、われわれの社会は経済成長を前提にして運営されているが、経済成長がさまざまな問題をもたらし、そもそも経済成長自体が困難になってきている。経済成長なしの資本主義を考えてみる。第5章の「『未来の他者』との幸福論」では未来の他者との連帯や21世紀のグローバリゼーションのあとの制度設計について語られる。私にとって非常に刺激的な本ではあるが、簡単には解けない問題を与えられたような気がする。

社長の酒中日記 9月その3

9月某日

銀座の某クラブにて
銀座の某クラブにて
社会福祉法人の理事への承認を要請されたので受諾することにする。SMS社で打合せ中に理事長から「ハンコと署名が6時半まで必要なの」という電話が。しようがないから地下鉄で高田馬場へ。途中でハンコを買う。7時半から神田のジビエ料理の「罠」で呑み会があるので折り返し神田へ。「罠」にはHCM社のM社長と当社のS田が既に来ていた。白ワインから呑み始める。ジビエとは野鳥やイノシシ、シカなどの野生動物の肉を言うらしいが、この日はキジやイノシシ、シカなどを食べる。遅れて記者のJ、国立病院機構のFさんも参加。M社長とS田と私はM社長行きつけの銀座のクラブへ。

9月某日

錆びる心
錆びる心
図書館で借りた桐野夏生の「錆びる心」(文春文庫 00年11月 単行本初版は11月)を読む。桐野夏生は私のお気に入りの作家。「OUT」「柔らかな頬」「ナニカアル」「だから荒野」などいずれも面白かった。写真で見ると結構美人。62歳だけど。「錆びる心」は短編集。桐野は長編で並々ならぬ力量を示すがこの短編集も読ませる。桐野の小説を読むと「人間ってどうしようもないな」と思うと同時に「それでも人間って面白い」と思わせる。

9月某日
社会福祉士でいわき市の病院でMSWをやっているS木さんがCIMのN宮理事長と一緒に来社。当社で「メディカル・クラーク」という雑誌の編集をやっているI佐と「へるぱ!」やSMS社関連の介護系の編集をやっているS田を引き合わせる。S田は民介協の仕事でいわき市の地域包括センターの取材をしたことがあるので話が盛り上がった。14時に医療介護福祉政策研究センターのN村理事長にS木さんとN宮さんを連れて行く。北里病院のO野沢先生の開発した「退院支援システム」について説明する。N村さんからこのシステムの優れている点のエビデンスが不足しているのではないかとか他のシステムとの差異性がよく分からないとの貴重な指摘を受ける。

9月某日

青山2丁目の駅の近くのミラービルに向かいのビルが映っていた。
青山2丁目の駅の近くのミラービルに向かいのビルが映っていた。
国立新美術館に「オルセー美術館展」をデザイナーのY沢さん、フリーライターのK川さんと観に行く。「印象派の誕生―描くことの自由」というサブタイトルが示すようにマネ、モネ、ミレー、セザンヌ、ルノアールといった印象派の絵画を鑑賞。マネの「アスパラガス」という小品には、アスパラガスの束を描いたマネの絵に80フランの値に対し100フランが送金されてきたため「あなたがお買いになったアスパラガスの束から1本抜け落ちていたので追加します」という手紙を添えてその客に贈られたという説明文があった。シャレているね。私はそのアスパラガスの絵葉書と同じくマネの「ロシュフォールの逃亡」などの絵葉書を購入する。
「どまん中」のあんきも
「どまん中」のあんきも
絵を鑑賞した後、赤坂の「どまん中」という居酒屋で会食。我孫子へ帰ってから「あい花」に寄る。常連さんが書いた小説の草稿を読まされる。冒頭部分を読んだだけだが、ヒラリー・クリントンを模したと思われるオバマの後の大統領の就任演説が私には巧みに描かれていると感じられた。

9月某日

室蘭東高の首都圏同期会。手前の3人がS本、N沢、I田君。
室蘭東高の首都圏同期会。手前の3人がS本、N沢、I田君。
銀座の「銀波」という高級居酒屋で私の卒業した室蘭東高校の首都圏同期会。室蘭東高校は千五の第一次ベビーブーム世代の高校進学に備えて新設された高校で私たちが2期生。1学年5クラスでうち普通科が3クラス、商業科が2クラス。普通科でも3クラスしかないので全員が顔見知り。年齢が50台に差しかかったころから首都圏で同期会を開くようになった。出光興産を退職したS川君が永久幹事をやってくれている。銀座の交差点を渡って会場に行こうとしたら、やはり同期生のF君がいたので声をかける。F君は小学生のとき、私の通っていた高砂小学校に転校してきて以来、中学、高校と一緒。高校を卒業後、神奈川県警に勤務したが、いまはなぜか幼稚園を経営している。会場に入ると懐かしい顔が揃っていた。ちょいと呑み過ぎなので一時会で失礼する。

9月某日

大将論
大将論
図書館から借りた「大将論」(池宮彰一郎 朝日新聞社 02年3月)を読む。指導者とかリーダーと呼ばれるためには何が必要なんだろうという最近の私の関心にも答えてくれるような気がしたからだ。イスラム史の山内昌之との対談で、山内は「島津義弘は、領国と民に対する安堵、これが侍としての本分であると肝に銘じている」と言っている。これですね。会社と社員、社長の関係から言うと「会社と社員に対する安堵。これが社長としての本分である」と言い換えることができると思う。

9月某日

ビッグボックスで買ったブックカバー
ビッグボックスで買ったブックカバー
高田馬場でグループホームを経営する社会福祉法人の理事になってくれと頼まれた。認知症ケアや地域福祉を学ぶいい機会なので承諾することにした。ごループホーム経営の相談に乗ってくれる人が来るというので高田馬場へ。NPO法人でグループホームを経営しているH田さんと社会保険労務士のN田さんと名刺交換。その後、日暮里で健康生きがいづくり財団のO谷常務に会う。「ばんだい」というお店で日本酒を4~5杯。隣に座った式根島か神津島で電気屋を営んでいる70歳代のご夫婦と話す。温厚で上品なご夫婦だった。あんなふうに年をとりたいね。高田馬場のビッグボックスでブックカバーをバーゲンしていたので買う。

9月某日

K出、T本、T下さん
K出、T本、T下さん
結核予防会のT下さんが10月から常務になるというのでお祝いの会をすることに。上野の
池之端のホテル鴎外荘の京料理「伽羅」を予約する。上野駅から不忍池に沿って鴎外荘まで歩く。ホテルに着いたらフィスメックのK出社長が既に来ていた。取り敢えず二人で生ビールで乾杯。遅れてT下さん、社会保険出版社のT本社長が来る。コース料理を頼んだのだが私にはちょっと重い。

9月某日
八丁堀のCIMネットで「退院支援システム」の開発者、北里大学病院のO野沢先生に会う。現在実用化に向けてバージョンアップの最中という。完成したら厚労省の記者クラブで記者発表することをアドバイスした。HCM社でH田会長、M社長に会う。遅れて弁護士のK林先生が来る。私とHCMのK島さんをいれて5人で高級居酒屋へ。獺祭や田酒、黒龍などの銘酒をご馳走になる。K林先生は確か木場の材木屋の名家の出身。学習院から名大の大学院を出ている。奥さんは明治維新で活躍した井上聞多の直系で岳父は日本古代史の井上光貞という華麗なる家系。でも全然気取ることのない気さくな先生だ。知り合いの飲み屋のママさんが何か法律問題で悩んでいたとき紹介したら、1時間以上も話をきいてくれてアドバイスをくれたそうだ。それで相談料は2000円しかとらなかったそうでママはいまだに感謝している。

社長の酒中日記 9月その2

9月某日

葡萄舎でMさんとI津さん、I井さん
葡萄舎でMさんとI津さん、I井さん

CIMネットのN宮理事長と「退院支援ソフト」の普及を応援している。このソフトは北里大学病院のO沢医師が急性期病院から回復期病院、あるいは在宅に復帰する患者さんの状態をデータ化し回復期病院の医療ソーシャルワーカーや医師に提供するというもの。これからの地域連携や地域包括システムにはもってこいのシステムと思う。今日はN宮さんの紹介で公益社団の日本医療社会福祉協会の業務執行理事のS木さん、それに高崎医療センターで医療ソーシャルワーカーをしているS原さんと会うことになった。S木さんは普段は福島県いわき市病院でソーシャルワーカーをしている。いわき市は震災後、何度か行っているので話があった。とくにいわきから2~3駅先の四倉は奥さんの実家があるそうで、話が盛り上がった。厚労省の医政局か保険局に繋ぐべき話と思われるが、相談がてら、元厚労省で国際医療福祉大学のN村先生に紹介することにした。今日は6時からHCMのM社長と待ち合わせていたので途中で失礼する。神田の葡萄舎に行くとM社長と当社のI井さんはすでに来ていた。もうひとり当社のI津さんも呼ぶ。私はN宮さんにビールと日本酒をご馳走になっていたのでかなり酔っぱらう。

9月某日

「とんび」
「とんび」

3連休。我孫子駅前の東武ブックスで買った角川文庫の「とんび」(重松清)を読む。トラックドライバーのヤスさんは、奥さんを事故で亡くし一人息子のアキラを育て上げる。アキラは早稲田大学法学部へ進学し、出版社に入社、年上で子連れの同僚と愛し合う。2人は結婚しこどもが生まれる。まさに通俗を絵に描いたようなストーリーなのだが、私はたまにはこういう小説を読むのもいいかもと思ってしまった。人間の善意を素直に信じられそうだから。

9月某日

「緑の毒」
「緑の毒」

図書館で借りた桐野夏生の「緑の毒」(角川書店 2011年8月)を読む。これは重松の小説とは180度違って惹句に曰く「暗い衝動をえぐる邪心小説!」。妻もある39歳の開業医が連続レイプ犯という設定。医者というかなり特殊な職業の夫婦の話でもあり、開業医や救急病院を舞台とする医療の内幕小説でもあり、被害者たちがネットで出会って結束して犯人を追いつめる復讐譚でもある。「とんび」のような人生もあれば「緑の毒」のような人生もある。そういうことだと思う。

9月某日

「コーポレート・ガバナンスー経営者の報酬と交代はどうあるべきか」
「コーポレート・ガバナンスー経営者の報酬と交代はどうあるべきか」

「コーポレート・ガバナンス―経営者の交代と報酬はどうあるべきか」(久保克行 日本経済新聞出版社 2010年)を図書館から借りて読む。非常に参考になった。私なりに理解したのは①経営者は株主から経営を委託されている②したがって業績が不振な会社の経営者は交替させるべきである③取締役会の役割は本来、経営を監視するところにある④しかしながら日本の企業の場合、社長の部下という側面が強く監視機能が働いていない場合が多い、というものである。また「会社は誰のものか?」というテーマも気になるところだ。アメリカでは「株主のもの」という意識が強く、近年、日本もそういう傾向が強くなっているという。私の場合は抽象的だが、会社は公共財であるという意識が強い。株主のものでも従業員のものでもなく、社会のものだという考えである。社会に役立つモノや情報を生産することによって付加価値を得、従業員の生活も安定させることができるという考えだ。

9月某日
社会保険庁OBのK野さんと神田の庄内料理の店「このじょ」へ。「このじょ」というのは庄内弁で「このあいだ」という意味らしい。元気なお姉さんがフロアを担当している。「虎穴」という日本酒をいただく。ネーミングがいいね。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」にちなんだものだろう。K野さんとはK野さんが庁の保険指導課庶務班長のときからの付き合いだから25年以上の付き合い。Kさんが国民年金協会に来てから付き合いはさらに深くなった。亡くなった当社のO前さんとも仲が良く、3人で呑んだことも何度かある。

9月某日
元厚労省のA沼さんと東京駅近くの「すし屋の勘八」で呑む。認知症や地域包括ケアについていろいろと教えてもらう。遅れてジャーナリストのH家さんが参加。後輩というか部下のY屋さんを連れてくる。Y屋さんはがん、認知症の取材を続けているという。いろいろ情報交換させてもらう。年寄り同士で呑んで懐旧譚にふけるのも悪くないが、若い人と話すのもいいものだ。

9月某日

医療介護福祉研究フォーラムの第22回月例研究会
医療介護福祉研究フォーラムの第22回月例研究会

医療介護福祉政策研究フォーラムの第22回月例研究会。今回のテーマは「障害者福祉の到達点と今後の課題」。最初に社会・援護局の障害福祉専門官の高原伸幸さんが「生涯福祉の現状と実践的課題」について講演した。高原さんは中国四国厚生局も併任ということで広島の今回の台風による土砂災害の報告もあった。また奥さんがくも膜下出血で倒れ、高次機能障害となったことも率直に話していた。講演では障害福祉サービスの予算がこの10年間に2倍となり、平成26年度には1兆374億円に上っていることにも触れていたが、障害福祉サービスに関心の薄い私としては少々びっくりした数字だった。このほか施設から地域への移行が進んでいるなど、最近の障害福祉はずいぶんと変わっているのだなぁという印象を強くした。
続いて前中国四国厚生支局長稲奈川秀和さんの「障害者差別解消法による障害者政策の新たな展開」も「共生社会」という言葉からはじまって、貧困や障害による差別について私に考えるきっかけを与えてくれた講演だった。最後の「障害者の可能性を切り拓く―アール・ブリュットの取り組み方」は滋賀県の社福グローの田端一恵さん。アール・ブリュットとは日本語に直訳すると「生の(加工されていない)芸術」という意味で、既存の文化や流行などに影響されずに自身の内側から湧き上がる衝動のまま表現した作品をさす言葉だそうだ。実は私は2年前の滋賀県大津市で開かれた「アメニティフォーラム」に参加したときY武さんに誘われて近江八幡市にある「アール・ブリュット」のミュージアムに行ったことがある。そのときも障害者のアートに驚いたものだが、講演した田端さんなどの裏方が支えているわけなのだ。このフォーラムでは旧知の人に会えるのが楽しみで、本日も全社協のT井副会長や前任のK林さん、それから久しぶりに社会保険庁の企画課長のころ知り合ったN野さんにあうことができた。

9月某日

サービス提供責任者の方々による座談会
サービス提供責任者の方々による座談会

財団法人社会保険福祉協会の50周年記念事業の一環でサービス提供責任者の方々による「座談会」を開催するという。印刷物としてまとめる仕事を頂いたので、編集者とライター、カメラマンが取材に行く。私も少し覗かせてもらったが、三つのグループに分かれて、活発な討議が行われている。議論の内容もさることながら、訪問系のヘルパーさんたちが交流することの大切さを感じた。
聖イグナチオ教会の納骨堂のマリア像?
聖イグナチオ教会の納骨堂のマリア像?
私はこの日は、元厚労省の医系技官で昨年急死したT原さんのお墓参りをすることになっていたので途中で失礼する。お墓参りと言ってもT原さんの遺骨は、上智大学の聖イグナチオ教会に納骨されているのでそこで元厚労省でこの前まで阪大教授をやっていたT修三さん、埼玉県庁のOGで上智大の非常勤講師のK藤ひとみさん、それに当社のI佐と待ち合わせる。聖イグナチオ教会は、たいへんモダンでしかし荘厳さも併せ持つ建物だった。お参りをした後、高田馬場のグループホームを見学する。理事長のN村美智代さんが案内してくれる。ここのグループホームは職員、ボランティアの数も多いようで入居者は手厚い介護を受けているようで、私は何度かお邪魔しているが入居者の表情が明るくていい。

9月某日

築地本願寺
築地本願寺

第一生命の東京マーケット営業部のS水部長さんに第一生命の築地寮でフィスメックのK出社長とご馳走になる。会場に行く前に築地本願寺を見物した後、会場へ。S水とは珍しい姓なので出身を尋ねると福岡という。高校は修猷館だそうで、ならばY武さんの後輩ということになる。私の知り合いのうちで出身高校が最も多いのが修猷館かも知れない。Y武さん、元日経の論説委員のW辺俊介さん、Y武さんと同期で弁護士のH田野さん、東急住生活研究所の所長をやったM月久美子さん、それからまだ厚生労働省の現役のH生さんもそうだ。不思議と飾らないいい人ばかりだ。

9月某日

「西郷隆盛―西南戦争への道」
「西郷隆盛―西南戦争への道」

岩波新書の「西郷隆盛―西南戦争への道」(猪飼隆明 1992年初版)を読む。猪飼は序章で「西郷の軌跡は、近代天皇制国家成立過程そのもののうちに、またその関連の中ではじめてその本質が明らかにされると考えて」いると述べている。岩倉、大久保らの遣欧使節グループすなわち有司専制グループと残留組(西郷、板垣、江藤ら)の対立と考えると分かりやすいし、残留組がのちに国権派と自由民権派に別れて行くのも面白い。

9月某日

「ばかもの」
「ばかもの」

図書館から借りていた「ばかもの」(絲山秋子 2008年 新潮社)を読む。冒頭から大学生と年上女のセックスシーンで少し驚いたが、これは大学生のヒデと額子との関係をわかりやすく提示するのに必要だったためで、その後の展開は私の予想を裏切るものだった。額子は出奔するようにヒデと別れ、結婚するが事故で腕を失う。ヒデは地元の家電量販店に就職するが強度のアルコール依存症になり恋人にも去られる。ヒデは依存症を克服すべく入院する。退院後、二人は再会する。二人が結婚することを暗示して物語は終わるのだが、私にはとても爽やかな恋と肉体と精神の再生の物語として読めた。

社長の酒中日記 9月その1

9月某日
久しぶりにディアレイクカントリー倶楽部でゴルフ。旧社会保険庁のOB5人と私。私の組はM本さんとW辺さん。M木さんとI田さんT口さんの組が続く。暑さもそれほどでもなく、ときどき秋を感じさせる爽やかな風が吹いた。私は4年前、脳出血で倒れ、右半身に障碍が残った。それでもゴルフは続けている。ゴルフの上手な人が半身不随になったら、ゴルフを再開するのに抵抗はあると思うが、私のように健常だったときも下手だった場合は再会するのに何の抵抗もなかった。そんな話を妻にしたら、「あんた、そんなことより誘ってくれる人に感謝しなさい!」と怒られた。ごもっとも。

9月某日
フリーライターのI川玲子さんと西新橋の「花半」で5時半から呑み始める。I川さんは日本舞踊をやっていたという。師匠は実の叔母さんで、その師匠と弟子の確執の話がかなりおもしろかったのだが、例によって中身は忘れてしまった。話に夢中になっているうちに、周りのお客さんは皆帰ってしまった。開店から閉店までいたわけね。嗚呼。

9月某日
「へるぱ!」という雑誌の企画・編集・発行を㈶医療経済研究・社会保険福祉協会(社福協)という財団法人から委託されている。今日はそこの常務さんと担当のU田さんたちとの暑気払い。有楽町の「あい谷」で18時から。「へるぱ!」は介護保険のサービス提供責任者向けの雑誌で年4回の発行。実は私はこの雑誌を手掛けるまでは「サービス提供者」のなんたるかを理解していなかった。この雑誌によって介護サービスの実態をわずかながら理解できるようになったし、この雑誌がなかったら当社のビジネスも今のような展開にはなっていなかったと思う。民介協、老年医学会、介護福祉士会、SMS、ソラストなどの団体、企業や多くの介護事業経営者や医師、看護師、ケアマネ、現場のスタッフと出会うことができた。会社にとっても自分にとっても大きな財産だと思っている。社福協には深く感謝している。といっても実際にこの雑誌を切り盛りしているのは当社のS田である。彼女が企画を考え、取材先を選定している。ときに取材先に同行するがこれが実に勉強になる。S田にも深く感謝である。

9月某日

駅員の帽子を被って記念撮影
駅員の帽子を被って記念撮影

健康・生きがいづくり開発財団の仕事で「健康・生きがいづくりアドバイザー」の活動を撮影している。前回は北海道札幌市のA石さんだったが、今回は長野県長野市の「三才プロジェクト」。中央線の長野駅から2つ目に三才駅という駅がある。なんでも名古屋のデパートが三歳児に焦点を当てたキャンペーンを展開、その際に三才駅の切符をプレ算としたのがきっかけになって注目を集めるようになったという。このプロジェクトのリーダーのA井さんや事務局長の話を聞くことができたが、純粋に地域のため三歳児のための活動をしている姿に感動した。この三才プロジェクトには長野高専の生徒たちも協力しているが、その協力の姿も自然で大変、微笑ましかった。北海道のA石さんはじめ、健康・生きがいづくりアドバイザーの活動はあなどれない。高齢者のこうした活動は地域包括ケアの支えの一部となっていく可能性があると思った。お土産に虫かごに入った鈴虫を頂く。会社に持って行ったら可憐な鳴き声を聴かせてくれた。

9月某日
最近、休日の取材が続いている。今日は久しぶりの休みなので近所を散歩する。私の家は千葉県我孫子市の手賀沼の沼縁に建っている。もともとは岳父が引退後、住むために建てたものだが、引退前に亡くなってしまい、最初は私たち夫婦、そして子供が2人生まれ、連れ合いを亡くした私の奥さんの母堂とも同居した。建築後40年、増改築を2度ほどしたけれど、今でも健在だ。その我が家の周辺を紹介します。

手賀沼の夕暮れ
手賀沼の夕暮れ

 

手賀沼公園には愛犬家が多く集う
手賀沼公園には愛犬家が多く集う

 

 

沼縁に若いカップルが寄り添っていた
沼縁に若いカップルが寄り添っていた

 

手賀沼公園の夕景
手賀沼公園の夕景

 

9月某日
元建設省の住宅技官で、現在はプレハブ建築協会のG田専務を誘って神田明神下の章太亭へ。ビールを頼んだ後、日本酒のぬる燗へ。つまみはお造りとサンマ、おでん。旬のサンマは銀色に輝き美味しかった。「これどこのサンマ?」と女将に聞いたら「章太亭の!」という答え。まっそれはそうだ。G田さんには住宅業界の現状とサービス付き高齢者住宅の取組みなどについて教えてもらう。別れ議に「G田さん。尊敬する上司っていた?」と聞いたら「いましたよ。Y本さんにU野さん」という答え。2人とも住宅局長経験者でY本さんは今年亡くなった前山口県知事、U野さんは建設省の住宅技官でG田さんの先輩。「二人とも亡くなったけど」とG田さん。寂しいですね。翻って私には尊敬できる上司はいたか?私は尊敬できる上司であったか?少なくとも尊敬できる上司ではないね。

9月某日

O谷常務と八丈焼酎「島流し」
O谷常務と八丈焼酎「島流し」

健生財団のO谷常務に財団の「健康・生きがいアドバイザー」のDVD制作の途中経過を説明。池袋の前に2人で行った「八丈島」という店に。「島流し」という35度の焼酎をキープしていたので生ビールのあとにそれを呑む。半分以上残っていたが、35度はさすがにきつく全部呑むことはできなかった。O谷常務は「今度来るとき俺が呑んでおくよ」と言っていたのでまかせる。

 

 

 

 

9月某日

林真理子「不機嫌な果実」
林真理子「不機嫌な果実」

林真理子の「不機嫌な果実」(文春文庫 単行本は1996年10月)を読む。読み始めはあまり感心しなかった。人妻とかつての恋人である広告会社の社員とのたんなる不倫話としか思えなかったからである。だが中盤から音楽評論家の新しい恋人が登場するあたりから、話は面白くなってくる。人妻は真剣に離婚を考え、家を出て実家に帰る。結婚、恋愛、セックスって何だろうと高校生のように考えてしまうところだった。小説は再び広告会社の社員との不倫に走るシーンで終わる。主人公が最後に到達したの「子供をつくること」。私はこの唐突な終わり方に林真理子の並々ならぬ「作家的力量」を感じたのだが。

 

 

9月某日
北海道室蘭市の小中高と一緒だったS藤正輝君が夫婦で上京。高校が一緒だったS川、U野君、女子は北海道室蘭市の小中高と一緒だったS藤正輝君が夫婦で上京。高校が一緒だったS川、U野君、女子はN田さんとO原さんに声かけて集まることにした。会場は東京駅丸の内口と三菱UFJ信託銀行本店ビル地下1階の「ヴァン・ドゥ・ヴィ」。約束の6時に行くと、S川、U野、N田、O原はもう来ていたので、とりあえずビールで乾杯。10分ほど遅れてS藤夫妻が到着。お土産に北海道の銘菓「若狭イモ」を頂く。私の高校は第一次ベビーブーマー世代の私の1年上が1期生で私たちは2期生。つまり新設校だったわけで少子化にともなって数年前室蘭商業高校と統合されて東翔高校という名前になったという話を風の便りに聞いたことがある。普通科3クラス、商業科2クラスでクラス会は普通科3クラスが合同で行う。それだけ仲がいいということだと思う。首都圏同窓会を今月に開く予定だ。S藤夫妻の歓迎会なのにお勘定はS藤君が払ってくれた。

社長の酒中日記 8月その3

8月某日

「資本主義の終焉と歴史の危機」
「資本主義の終焉と歴史の危機」

「資本主義の終焉と歴史の危機」(水野和夫 集英社新書 14年3月)を読む。水野が着目するのは「利子率の低下」である。日本の10年国債の利回りは1997年に2.0%を下回り2014年1月末時点では0.62%、米、英、独の10年国債も金融危機後に2%を下回り、短期金利の世界では事実上ゼロ金利が実現している。利子率=利潤率の著しく低い状態の長期化は、企業が経済活動をしていくうえで設備投資を拡大していくことができなくなったということに等しいと水野は言う。そして「利潤率の低下は、裏を返せば、設備投資をしても、十分な利潤を産み出さない設備、つまり「過剰」な設備になっている」ことを意味しているとし、これは「長い16世紀」におけるジェノバの「「山のてっぺんまでブドウ畑」に21世紀の日本は「山のてっぺんから地の果てまで行きわたった」ウォシュレットが匹敵するという。
「利子率の低下」とともに水野が着目するのが「価格革命」である。これも「長い16世紀」には燕麦、麦芽は7~8倍、小麦は6.5倍と高騰している。ひとつは人口の増加であり、従来別個の経済圏だった地中海圏と英蘭仏独と東欧圏の経済圏の統合だと水野は見る。ヨーロッパ経済圏の統合と人口増大によって、供給に制限のある食糧需要が非連続的に高まった。こうした「長い16世紀」の「価格革命」に対して「長い21世紀」の「価格革命」は資源価格、とりわけ原油価格の高騰としてあらわれている。結論を急ごう。結局、水野は資本主義はその誕生以来、少数の人間が利益を独占するシステムであったと結論する。そして水野はこの「歴史の危機」を直視して、資本主義からのソフト・ランディングを求めるように提言する。水野の言説には説得性があると思われる。だからこそこの本がベストセラーとなったのだろう。しかしわれわれには、ソフト・ランディングすべき地面が未だ見えてこないのだ。

8月某日

「信用金庫の力」
「信用金庫の力」

図書館から借りていた「信用金庫の力」(岩波ブックレット 12年9月)を読む。城南信用金庫の吉原毅理事長が執筆したものだ。「資本主義の終焉と歴史の危機」では、世界経済システムが一大転換期にあることを歴史的な低金利から証明しようとしたものだが、本書もまた株式会社に支えられている資本主義の危機を述べ、協同組合運動と地域金融の意義について語っている。信金という金融機関を「銀行の小さいヤツ」くらいにしか認識してこなかった私としては「目からウロコ」が落ちる思いであった。著者は慶応大学の経済学部を77年に卒業、いくつもの就職試験に落ちた後、地元の城南信金に就職する。そこで出会った城南信金及信金業界全体のリーダーだった小原鐵五郎との出会いが現在の城南信金と吉原を支えている。
著者は市場経済を野放しにしておくと「お金」の暴走が始まり貧富の差が拡大するとして、市場経済原理主義ではなく「人を大切にする社会の構築」を説く。そのためには効率のみを重視するのではなくコミュニティの要素も重視しなければならないという。ここでいうコミュニティとは「出会い、共感、感謝、感動、理想、文化、学び、発展」などがある存在と著者はいう。非常に共感できるし、事実、城南信金は3.11の福島原発の事故を受けて「原発に頼らない社会」を追求することになる。この挑戦の結果はまだ出ていない。しかし著者と城南信金の勇気と危機感には注目していきたい。

8月某日
多田富雄の「春楡の木陰で」(集英社文庫 14年5月)を読む。多田富雄は世界的な免疫学者として高名だが、医学生の頃は医学の勉強そっちのけで江藤淳らと同人誌を出す文学青年だった。その一方で現代創作能の作家でもあり、鼓の名手としても知られる。01年に脳梗塞を患い、右半身の自由と声を失う。本書は前半が日本の大学院を終えた後、アメリカ中西部のデンバーに留学した日々を綴ったもので後半はリハビリ生活とそれを支えた内科医でもある妻のことが描かれている。多田という類まれな感受性の持ち主とそれに出会う様々な人々のことが飾らない文章で描かれる。

8月某日
引続き多田富雄の「寡黙なる巨人」(集英社 07年7月)を図書館で借りる。「あの日を境にしてすべてが変わってしまった」と多田は語り始める。「あの日」とは脳梗塞を発症した日であり、それは多田が67歳の誕生日を迎えて間もなくのことだった。私も4年前脳出血で倒れ、急性期病院と回復期のリハビリ病院併せて3か月の入院を経験している。しかし多田の本を読んで思うのは、闘病経験など軽々しく人にいうものではないなということだ。多田はかなりの重度の左半身の麻痺が後遺症で残り、一時はリハビリの甲斐あって独力で歩行することも可能になったのだが、前立せんがんの手術の予後療養で足の筋力が低下し、以後、車いす生活を余儀なくされる。半身まひと同時に声も失うが、こちらのほうも言語療法が成功したとは言えず、喋れない状態が続く。多田は当初は自死も考えたという。それを思いとどめさせたのは一に内科医である妻の働きによるが、私には自らの病さえ、それを「寡黙なる巨人」と名付け、観察する多田の好奇心も大きく作用しているように思える。多田に比べれば私などまだまだということである。

8月某日
JR東日本の関連会社で東日本ライフサービスという会社がある。ここのI藤さんという常務は私の古くからの友人。どれくらい古いかというと、私が日本プレハブ新聞という業界紙に勤めていた頃からだから、かれこれ30年にはなる。当時、I藤さんはナショナル開発という住宅展示場の運営会社にいて、取材を通じて知り合ったのが最初。そのI藤さんが会社を退くことになったので今日は当時のI藤さんの同僚で今はフリーライターのK川さんとささやかな宴を神田の葡萄舎ですることにした。I藤さんは私の一つ上で早大を卒業後、北海道のテレビ会社に勤めた後、ナショナル開発へ。その後インドネシア旅行社という旅行会社やオーストラリアの大学の日本法人の事務局など、面白い仕事をいろいろとやっている。仕事は変わってお付き合いはずーっと繋がっている。なぜだかわからないがどこか気が合うのだろう。川村女子学園大学のY武副学長が合流。何の会だか訳が分からなくなったところで散会。

8月某日

「知の巨人」
「知の巨人」

「知の巨人-荻生徂徠伝」(佐藤雅美 講談社 14年6月)を図書館から借りて読む。佐藤雅美は好きな作家で図書館から借りて良く読む。ほとんどが江戸時代中後期を舞台にした時代物。だが今回は評伝。荻生徂徠は論語はじめ四書五経などの原典に忠実であろうとし、漢文の読み方も上から直接、読み下してㇾ点やかな交じり文は用いなかったという。佐藤雅美の時代小説も、小説はもちろんフィクションだが時代考証が厳密なのが特徴。その辺が荻生徂徠に共感したのかも。

8月某日

O橋さんチェコの美人留学生
O橋さんチェコの美人留学生

HCM社のO橋さんがチェコからの美人留学生を紹介するという。会社に来てもらうことにして名刺を交換する。カタカナでドヴォジャーコヴァ―・ヨハナと書かれた名刺をもらう。お茶の水女子大学の文教育学部でマンガ論の研究をしているという。日本語はペラペラで容姿はO橋さんの言うとおりなかなかの美人。何でO橋さんと知り合ったかというとO橋さんの地元の居酒屋で若い外国人の女の子2人が日本語で話し込んでいるのを見たO橋さんが「何で日本語で話しているの?」と声を掛けたのがきっかけだそうだ。もうひとりはブルガリア人で共通言語が日本語ということらしい。将来の希望は日本の出版社でマンガに関わる仕事をしたいと話していた。

8月某日

実家の近所。遠くに室蘭港
実家の近所。遠くに室蘭港

札幌出張に合わせて室蘭市の実家に寄る。実家には今年91歳になる母と社会保険労務士をやっている弟と弟の嫁さんが住んでいる。実家は室蘭市の絵鞆半島の先っぽにある。最も私が育ったのは父親の勤務先である室蘭工業大学のある水元町である。今の実家は室蘭市の海側、育ったところは山側ということだ。だから今の実家には愛着はないのだが、とにかく景色のいいところで私は気に入っている。91歳の母は耳が遠くなったぐらいで、ボケもせず介護保険の世話にもならず元気。100歳まで生きるかも知れない。夜は札幌の高校の同級生とその嫁さんたちが集まって歓待してくれる。

8月某日

トウモロコシとジャガイモの皮むきをする「さくらんぼの会」のみなさん
トウモロコシとジャガイモの皮むきをする「さくらんぼの会」のみなさん

本来の出張の目的である健康生きがいづくり開発財団の「生きがいづくりアドバイザー」の活動を紹介するDVDの撮影。ディレクターのY溝君、カメラマン、当社のH尾さんと大通公園で待ち合わせ。大通公園を撮影した後、旧道庁の赤レンガも撮影。昼食時となったが、清田区にあるアドバイザーのA石さん宅に直行。A石さん夫妻は「さくらんぼの会」を主催し、地域の高齢者向けに自宅をサロンとして開放しているのだ。今日はまずみんなでトウモロコシとジャガイモの皮むき。トウモロコシとジャガイモが茹で上がったところでみんなで食事。バターとイカの塩辛と一緒にジャガイモを食べる。これが意外と合う。昼食を摂らないで正解だった。サロンは月1回の開催ということだったがこういうサロンなら私も参加してみたいと思った。後で聞いたのだがこのサロンの中核となっているのはA石さんの奥さんのヘルパー時代の仲間たち。そういうのってちょいとうらやましい。私は札幌でHCMのM社長と「胃ろう・吸引ハイブリッド・シミュレータ」の委託販売先の「竹山」のS村さんと会うために地下鉄の駅までA石さんのご主人に車で送ってもらう。
東急インでMさんと打合せ。S村さんは6時に来ることになっているが、少し遅れて登場。東急イン地下の居酒屋へ。「ハイブリッド・シミュレーター」について意見交換。近くのオールデイズのスナックへ。パティ・ペイジの「テネシーワルツ」をリクエストすると画像とともにパティ・ペイジの歌声が流れる。

8月某日

三川屋の特上寿司
三川屋の特上寿司

Mさんと小樽へ。事業者を訪問した後、少し早いがお昼にする。Mさんが寿司屋横丁の三川屋さんに連れて行ってくれる。ここは歴史のある店で昭和の初期からあるらしい。特上寿司をご馳走になる。特上でも2000円とか2500円(Mさんに払ってもらったのでよく分からない)。三川屋さんは寿司専業ではなく焼肉などもやっている。東京だったら4~5000円はするのではないか。帰りに近くの食料品屋によって私はトウモロコシと「八角」の干物を買う。

8月某日

「世界史の中の資本主義」
「世界史の中の資本主義」

「世界史の中の資本主義-エネルギー、食糧、国家はどうなるか」(東洋経済新報社 水野和夫+川島博之 20013年)を読む。私たちが生きている21世紀は世界史的に見て大きな転換期にあるという。まずフロンティアを喪失した現在つまり新たな投資機会を失った資本主義は、貨幣が過剰となり金利は超低金利となる。次に歴史上初めて人口の増加が止まり食糧が過剰となってくる。歴史の進化なのか退歩なのかよく分からないが、人類は食糧の過剰という事態を迎えつつある。食糧だけではない。石油価格も現在は高騰しているが、シェールガス革命や代替エネルギーの開発により供給過多になってくとの予想もある。歳への人口集中と同時に少子化が進行する。人口減は世帯当たりの所得を増やす要因とはなるが,経済成長にはマイナスに働く。これからも我々は「未だかつてなかった」ような体験をしていくのであろうか。

8月某日

{雑魚や}の鱧の湯引き
{雑魚や}の鱧の湯引き

「へるぱ!」の取材で認知症ケアでユニークな取り組みをしている滋賀県守山市の藤本クリニックへ。藤本直規先生は認知症の患者を中心に据えたケアを展開しているが、詳細は10月発行の「へるぱ!秋号」を読んでほしい。いろいろ感心するところが多かったのだが、藤本先生が力を入れていることの一つが若年性認知症。若年性だけに仕事や生活のことなど難しい問題があるようだ。藤本先生はNPO法人をつくって若年性認知症患者の就労支援を行っている。袋詰め作業などやって患者は月1万円ほどの収入を得るという。たかが1万円だがされど1万円だと思う。若年性認知症で仕事を失った人が自らの労働により報酬を手にする。これは大きな励ましになるのではないかと思う。
守山から京都へ。編集者の当社のS田、フリーライターのS見も一緒。京都のホテルには元厚労省のA沼さんが迎えに来てくれる。S田とS見も誘ってA沼さんが予約していた店「雑魚や」(ざこや)へ。「ぐじ」や「鱧」をいただく。仕舞屋風のなかなかいい店だった。

8月某日
京都から神戸三宮へ。HCMの平田会長にお昼ご飯をご馳走になる。12時にJR三宮の中央口で待ち合わせ。私はその前に神戸市立博物館へ。ギヤマンの展示が行われていた。それに合わせて伊能忠敬の地図も併せて展示されていた。私は常設展で神戸の今昔を楽しませてもらった。お昼は「日本料理櫂」。明石の昼網の新鮮な魚介が売り。生ビールの後、燗酒を頂く。おいしいお料理だったが、経営上のアドバイスをいろいろ頂いたので、味わうどころではなかった。

社長の酒中日記 8月その2

8月某日

IMG_20140810_145747「白蓮れんれん」(中公文庫)を読む。NHKの朝の連ドラ「花子とアン」で仲間幸恵が演ずる柳原白蓮が人気を集め、そのせいだろう本屋の文庫コーナーには初版が20年も前のこの本が平積みにされていた。先週、桐野夏生の「ナニカアル」を読んだが、これは夫のある林芙美子と毎日新聞社の記者の恋愛を軸とした小説であった。では九州の炭鉱王伊藤伝衛門に嫁いだ白蓮と宮崎滔天の息子龍介の恋愛はどう描かれているのだろうか。2つのケースを比較することにそれほど意味があるとも思えないが、まず林芙美子と柳原白蓮ではその出自が全くと言っていいほど違う。白蓮は華族出身で大正天皇の従妹という家柄だが、芙美子は貧しい行商の家に生まれた。しかし当たり前のことではあるが人は家柄や学歴と恋愛するわけではない。相手の人間にこそ惚れるわけである。しかしここが戦後の常識なんだね。戦前は家と家だからね。白蓮の前半生の悲劇は、初婚は華族の家同士の了解によるものだったし、伝衛門との結婚は白蓮の生家が伝衛門の財産をあてにしたものだった。伝衛門の家からの出奔と龍介との再婚は、世間からの非難を浴びたが、その後、当然のように世間から忘れ去られることになる。龍介との間に生まれた子の戦死という悲劇はあったにせよ、白蓮は龍介に看取られながら波乱の生涯を閉じる。日本の華族制度は維新後「皇室の藩屏」として生まれた。したがって英国の貴族のように「(国家に対する)ノーブレス・オブリージュ(高貴なる義務)」という観念が足りないのではないか。小説とは関係ないがそう思ってしまった。

8月某日
飲み友達のH郷さんから連絡があって我孫子に知り合いがレストランを開店したので行こうという。土曜日の11時30分に我孫子駅の改札で待ち合わせる。5分ほど遅れて改札に行くとH郷さんともうひとりT岡さんという人が待っていた。北口を降りて2~3分でその店「美味小屋」(うまごや)はあった。もともと四谷にあったそうで、T岡さんの息子さんがオーナーでこの4月にオープンしたという。白ワインを呑みながら海鮮料理を堪能した。私は我孫子駅の南口方面の住人だが、我孫子はどうも北口の方が美味しい店が多いように感じる。今日はT岡さんにご馳走になってしまった。今度行きます!

8月某日
久しぶりに田辺聖子の「よかった、会えて」(実業之日本社 92年6月刊)を読む。初出は91~92年にかけて「週刊小説」に掲載されたもの。私が読むのは2度目か3度目、その度に違う感想を抱く。今回は田辺聖子は「絵に描いた」ような家庭の幸福を忌避しているのではないかということと「鈍感な」専業主婦に対する嫌悪感があるのではないかということ。「はじめまして、お父さん」では、鹿児島に単身赴任していた若き日、呑み屋の女性と情を交わしたことのある主人公の前に娘の「可能性」のある若い女性が訪ねてくるという話。「山歌村笛譜」は定年退職した67歳の私は妻に先立たれ二人の息子も独立し団地にひとり暮らし。カラオケや呑み屋を占拠する未亡人軍団を嫌悪するが、ある未亡人の家に仮寓する未亡人の娘に恋をする。もちろんその気持ちを口にすることなどできない。そうこうしているうちに未亡人は急死し、娘は夫の赴任先へと戻っていく。「みつ子はんの顔はもう、思い出せません。この世に何も残らぬごとく。けれども人間の思いは残ります。残るように思います。田舎親爺の恋物語やと嗤われるかもしれませんが、やるせない慕わしさはまだ私の胸に残って、心をあたためてくれるからです」という文章で終わるこの短編は、田辺の短編のなかでも私のベスト10入りは確実。

8月某日
IMG_20140812_072724「経営者の条件」(岩波新書 04年9月)を図書館から借りて読む。「経営者って何が一番重要なんだろう?経営者の辞めどきって何時だろう?」という私の現下の関心事にぴったりの書名だったので、発行年がいささか古いのが気になったが借りることにした。一読して大変勉強になった。第2章「経営者の役割とは何か」では①将来ビジョンの策定と経営理念の明確化②戦略的意思決定③執行管理―を経営者の役割とし、「戦略的意思決定」とはP・F・ドラッカーの言う「不確実な明日に向かって、いま何をなすべきか」を決断することとする。そして①と②の役割を同時的に果たさなければならないところに経営者昨日の特質が存在するとしている。③については、極めて多岐にわたる日常的な役割を同時並行的に、優先順位をつけながら、遅滞なく処理すること、としている。またCEOが重視すべきポイントとしてジャック・ウエルチを引用して次のように述べている。①常に首尾一貫していること。トップが何を求めているかを常に率直に周囲に伝えて組織に統一性を与えること②形式ばらずに自由に気楽な雰囲気をつくること。官僚主義は人と人との間に壁をつくるだけ。地位、肩書に関係なく、自分の意見が尊重してもらえると思える組織を目指す③人が第一、戦略は二の次と心得ること。仕事で最も重要なのは適材適所の人事であって、優れた人を得なければ、どんないい戦略も実現しない⑤実力主義にもとづいて明確な差別待遇をすること。部下を“気楽に”差別できる者は組織人間でないし、差別化できない者は管理職失格である⑥最高のアイディアは常に現場から生まれる。本社は何も生まないし、何も売らないことを肝に銘じよう。著者の大沢は1935年生まれ、リクルートで人事教育事業を立ち上げる一方で、江副の女房役として管理部門全般を担当した。創業期のリクルートにはなかなかユニークな人材がいたようだ。この本はデュポン社の元最高経営責任者であるアービング・シャピーローの次の言葉で締めくくられている。「いかなる最高責任者も、経営者の地位は自分のためにあるのではなく、社のためにあるのだということを忘れてはならない。経営者の座を下りる時期を知るのは、経営者の責務である」。

8月某日
帰りの電車の中で「研ぎ師太吉」(山本一力 新潮文庫)を読み終える。山本は2002年に直木賞を受賞した時代小説作家。1948年生まれというから私と同年である。時代小説、歴史小説は山本周五郎、司馬遼太郎、藤沢周平、佐藤雅夫をはじめいろいろと読んできた。だから多少点が辛くなるのは仕方がないかも知れない。その意味からすると「研ぎ師太吉」は物足りなさが残った。下町人情話に犯人探しを加味したものだが、私には太吉の人間的な苦悩の描き方が浅いように感じられた。それにしても山本は江戸後期の下町の職人や商人、同心や与力などの下級幕臣の暮らしを良く調べている。我孫子駅で降りて、今日は「七輪」へ向かう。ウヰスキーのボトルを入れてあるので「炭酸割」を注文。レバーと軟骨、長ネギとしいたけ、セロリの浅漬けを頼む。少しいい気持になったところで「愛花」に向かう。店の前で常連のMさんに会う。今日から「愛花」は夏休みとのこと。2人で「ちゅうちゃん」の店に行く。日本酒を呑んでいたら「愛花」の常連が何人か来る。Mさんにご馳走になってしまう。

8月某日
高齢者住宅財団のO部長と食事。この季節、上野精養軒の屋上ビアガーデンからの不忍池の眺望がなかなかなので屋上ビアガーデンで待ち合わせ。ところが生憎の雨で、ビアガーデンは予約客のみ。ということで1階のレストランに急遽、変更。地域包括ケアシステムと住宅の在り方についていろいろと意見交換する。

8月某日
健生財団から社会保険研究所から請け負っている単行本「人生は2幕目が面白い」(仮)の打合せでフリーライターのF田さんと打合せ。社保研のY場君も同席。F田さんには歴史上の人物で「2度目」の人生を生き生きと送った人を囲み記事風に紹介してもらいたいという注文。私は「少年馬上過ぐ」の伊達正宗を候補に挙げる。女性も入れるということで、晩年、アフリカの飢餓に取り組んだオードリー・ヘップバーンも候補に。打合せの後、「福一」で軽く呑む。

8月某日
IMG_20140818_091314没後30年ということもあって有吉佐和子に注目が集まっているらしい。ということで文春文庫で復刊された「断弦」(14年8月 新装版第1刷)を読む。有吉が23歳の作という。地唄という地味な世界を舞台に芸の継承と父娘の葛藤が描かれる。盲目で大検校の位を持つ菊沢寿久の継承者として期待されていた娘の邦枝は、偉大な父に背いて日系2世の男と結婚し渡米する。父の病気と芸の継承問題があり邦枝は一時帰国するのだが。一読して23歳の作とは思えない完成度の高さなのだが、まぁ優れた作品というのは作者の年齢には関係ないわけで。寿久の弟子となる大学生の瑠璃子の存在が全体を和ませている。

社長の酒中日記 8月その1

8月某日
元厚労省で現在国立看護大学で教えているI野さんが「大学院生と神田で呑むのだけど呑み代、半分負担するなら参加してもいいよ」というので即座にOK。会場は神田駅ガード下の「大越」とのこと。そこは元祖大衆酒場のような店なのでますますOK。当日はスタートが17時からとのこと。その日は高田馬場でグループホームをやっているN村さんと17時に打合せがあったが、打合せもそこそこにN村さんも誘って「大越」へ。店の奥でI野さんと4人の若い女性が大ジョッキを傾けていた。丁度、社会保険出版社が地域保健活動の先駆けともいえる保健師の一生をドキュメントでまとめたのでT社長から4人に贈呈してもらう。長野県上田市で介護事業のコンサルタントをやっている「地域ケア総合研究所」のT重所長も合流して、一層盛り上がる。久しぶりに若い女性と話せて私はいささかはしゃぎ過ぎ。写真を撮るのさえ忘れてしまった。少し反省。呑み代は結局、T社長が全部出してくれた。

8月某日

手賀沼の花火。手前は竹細工のイルミネーション
手賀沼の花火。手前は竹細工のイルミネーション

手賀沼の花火大会。手賀沼の縁に越してきて40年以上になるが、最初の頃は珍しくて友人を呼んだりしたこともあったのだが、その後はドーン、ドーンと打ち上げる音がうるさく感じられるほど。ただ今年は川村学園大学の副学長のY武さんが、「知り合いのマンションの屋上で鑑賞会をやるから来ないか」と誘ってくれたので行くことにする。6時半に我孫子駅入り口の八坂神社前で待ち合わせ。丁度、時間に行くとY武さん夫婦はすでに来ていた。「ヴェイル我孫子」というマンションの屋上に行くとすでに家族連れが何組か来ていた。ヴェイル我孫子の管理運営している会社の会長さん、Y沢さんが仕掛け人でY沢さんはあびこ型「地産地消」推進協議会の会長はじめ、いろいろな公職に就いている。私たちは京葉銀行我孫子支店の支店長M宅さん一家の隣に。支店長さんは我孫子に赴任したばかりだそうで、我孫子の前は松戸支店で支店長職は初めてらしい。なんか初々しくていい。会費はY武さんに払ってもらう。マンションの屋上から見る花火は我孫子会場と柏会場の打ち上げ花火が両方見ることができるのでなかなか良かった。生ビールとワイン、日本酒を少々いただく。花火が終わる前に私は道路が混むからと辞去。駅前の「愛花」へ。ソノちゃんが来ていた。花火が終わると福ちゃんが女性を何人か連れてくる。筑波大学の看護学の大学院に行っている顔見知りの女性もいた。

8月某日
ちくま新書の「第一次世界大戦」(木村靖二 2014年7月)を読む。今年は第一次世界大戦が始まって100年になるという。ただ私は第二次世界大戦ほどには第一次を知らない。この本を読んで理解できたことがいくつかある。ひとつは総力戦の意味。たんなる軍事力の対決ではなく、工業生産力や農業、交通輸送力、国民の士気など国力のすべてを使うのが総力戦だ。その意味で第一次世界大戦は第二次世界大戦の予告編でもあったわけだ。飛行機や戦車、鉄兜、毒ガスなどの新兵器の登場も第一次世界大戦。こうした新兵器の開発を見ると「戦争は文明の母」という言葉も一面では当たっている。この本を読んで初めて分かったのは連合国(英、仏、米、露)と同盟国(独、墺、トルコ)の戦力がかなり拮抗していたこと。戦争2年目のミッドウエー海戦以降、ほぼ負けっぱなしの太平洋戦争とはそこがずいぶん趣を異にする。それとロシア革命によるロシアの脱落は連合国側には大きな痛手だったようだ。それを補ったのがアメリカの参戦ということになる。欧州を主戦場にした大戦は戦勝国にも敗戦国にも打撃だったが、東洋の日本はこれで本格的な帝国主義列強の仲間入りをしたことになり、それが第二次世界大戦へと繋がってくるわけだ。

8月某日
HCMのM社長が心臓の手術で入院。同社のO橋さんが見舞いに行ったというので様子を聴きに行く。手術は大成功とのことで来週にも出社とのこと。60を過ぎると自分も周囲もいろいろとガタが来る。O橋さんを誘って新橋の清龍へ。これからの仕事の進め方など相談する。今日は新橋のイタリアン「ラ・ママン」でSMSのメンバーと当社のS田と暑気払い。「ラ・マンマ」は以前は良く来ていたのだが、最近はさっぱり。歳の話はしたくないのだが、このところイタリアンなどはちょっと重く感じてしまう。でもSMSのメンバーはN久保さんはじめ、皆さんが若い。でイタリアンにしたのだが気に入ってもらっただろうか。

8月某日
桐野夏生の「ナニカアル」(新潮文庫 2013年11月 単行本は2010年10月)を読む。「放浪記」の作者、林芙美子を主人公とする小説である。粗筋を文庫本のカバーのコピーから引用すると「昭和17年、林芙美子は偽装病院船で南方へ向かった。陸軍の嘱託として戦意高揚に努めよ、という命を受けて。ようやく辿り着いたボルネオ島で、新聞記者・斎藤謙太郎と再会する。年下の恋人との逢瀬に心を熱くする芙美子。だが、ここは楽園などではなかった」ということになるのだが。林芙美子は確かに一流の女流作家だし、森光子主演の舞台劇「放浪記」の原作者としても名高い。しかし小説家としての林芙美子はなかば忘れられた存在と言っていいように思う。私はその林芙美子を主人公に据えた桐野夏生の作家的な力量に並々ならぬものを感じざるを得ない。
桐野は芙美子を描くことを通して「女流」文学者の心情の一端を描きたかったのではないか、と私は思う。不安定に揺れる芙美子の心情が占領下の南洋を舞台にして描かれる。戦時中でなおかつ占領下という不安定性、これは確かに平時の日本の東京とは比べるべきもなく不安定である。そして従卒を装って芙美子を監視する憲兵。それはあたかも不倫の恋を赦さぬ「世間」の象徴ともいえる。桐野はこの小説によって島清恋愛文学賞、読売文学賞を受賞しているが、確かに新境地を開いたように思われる。

8月某日

地域包括ケアシステムのサイエンス(社会保険研究所)
地域包括ケアシステムのサイエンス(社会保険研究所)

「地域包括ケアシステムのサイエンス―integrated care 理論と実証」(筒井孝子 社会保険研究所 2014年5月)を読む。この本の編集は当社のS田が一手に行った。私は本当に何もしなかったのだが、「あとがき」ではS田と私の名を挙げ「膨大な原稿の整理をお願いし、大変にご迷惑をおかけした。にもかかわらず、時々に、適切な助言とご配慮をいただき、なんとか出版することができた。深く感謝、申し上げる次第である」と記されている。S田はともかく、私には過分の謝辞である。それはそれとして「地域包括ケアシステム」は現在およびこれからの少子高齢化社会を乗り切る「切り札」として期待されていることは確かである。しかし地域包括ケアとは何かとなると私の理解ははなはだ心もとない。抽象的なコトバが先行してその実態の理解が覚束ないという意味では、マルクスの共産党宣言の「ヨーロッパに幽霊が出る。共産主義という名の幽霊が」という冒頭の文章を思い出さなくもない。ということもあって少し真面目に本書を読むことにした。
一読して感じたのは筒井の現状に対する強い危機感である。たとえば「まえがき」では大要次のように述べて地域包括ケアシステムは介護保険制度の立て直しの核であると強調している。政府は家族のケアを「社会化」し、公的な介護による老後の充実を約束してくれたが、今日、現状のシステムを継続することが困難であることを示している。国民としては新たなcommunity-based-integrated careという枠組みを選択するしか、次の世代に対して医療やケアを保証する制度継続できる状況にない。要するに地域包括ケアシステムを日本に根付かせることなしに少子高齢化社会を乗り切るのは困難であると言っているに等しい。