モリちゃんの酒中日記 8月その2

8月某日
「古代王権-王はどうして生まれたか」(吉村武彦責任編集 岩波書店 2024年5月)を読む。天皇制を歴史的にどうとらえるか-これは戦前と戦後ではおおいに様相が違ってくる。戦前は天孫降臨神話が歴史的な事実とみなされ天皇は現人神であった。戦後は天皇制の歴史的な解明も進められている。本書もその成果のひとつと言えよう。本書では王権を「一定の地域あるいは集団・社会において、政治的権力・権威をもつ王としての権力システムで、権力を維持する軍事・儀礼・レガリア・イデオロギー・神話などの制度・文化を内包して、継続的に支配体制を維持する政治権力であり、その政治体制もあらわす」とされる。レガリアとは正当な王、君主とみなされる象徴的なモノで、日本では三種の神器がこれに当たる。日本列島で王権が成立したのはいつ頃なのか。これは今のところ中国の歴史書に頼るほかはない。後漢書東夷伝などによると倭の奴国王が後漢に朝貢、「漢委奴国王」の金印を授与されている(西暦57年)。倭の女王卑弥呼も、魏に遣使して「親魏倭王」を授与されている(239年)。本書によるとヤマト王権が確立する以前は、「実力」優先で王位が継承されていたらしい。「5世紀の倭の王は、自ら軍事作戦や外交関係の先頭に立つ朝鮮半島の諸王に対抗し得る、列島中央部の盟主としての『実力』をもてねばならなかったのであろう」という。6世紀になると「実力主義を重んじたそれまでの王位継承から、血縁原理優先のもと、むき出しの実力を競い合う混乱を抑制した王位継承へと、舵が切られた根本原因であろう」としている。

8月某日
御徒町駅前の「吉池食堂」で大谷さんと会食。17時20分のスタート予定だったが、早く着いたので先に始める。2杯目のビールを頼んだ頃に大谷さんが到着。改めて乾杯。我孫子のコーヒーを渡す。19時頃にお開き。大谷さんにすっかりご馳走になる。大谷さんは上野まで歩くとのことで私は御徒町から山手線で上野へ。上野から常磐線で帰る。

8月某日
13時30分から元年住協の林弘幸さんと我孫子駅の「日高屋」で会食。生ビールで乾杯の後、私はハイボール、林さんはホッピー。餃子やチャーハン、野菜炒めなどをつまみに呑む。林さんは永大産業出身で年住協ではもっぱら営業畑を歩み、九州支所長や東京支所長を歴任した。私は年住協のPR誌「年金と住宅」の企画と編集をやっていたので年住協のときは仕事上の付き合いはなかったけれど、家が同じ常磐線ということもあって東我孫子ゴルフクラブで何度か一緒にゴルフをした。私は車の運転ができないのでゴルフに行くときは林さんの車に乗せて貰った。なんか仕事以外で世話になりっ放しだ。いつもは割り勘なのだが「森田さん、千円でいいよ」と林さんが言うので、私は千円負担。いつもすみません。

8月某日
週1回のマッサージを受けに近所の「絆」へ。本日は同居している長男が休みなので車で送って貰う。15分のマッサージと15分の電気治療を受ける。健康保険が適用されるので自己負担は550円。長男に迎えにもらい、ケーキ屋さんの「桃の丘」へ。これも同居している次男が誕生日なのでケーキを購入。

8月某日
「時代の反逆者たち」(青木理 河出書房新社 2024年2月)を読む。青木理の対談集。青木は共同通信社出身のジャーナリスト。右傾化が進む日本社会で反骨の言説を曲げない貴重な存在。李琴峰、中島岳志、斎藤幸平ら9人との対談が掲載されている。ロシア文学者で翻訳家の名倉有里はロシアのウクライナ侵攻に触れて「権力が今回暴走した原因は、その政治構造、社会構造のなかで権力に対する抑止機能が十分に利かなくなっていること、要するにブレーキの機能が不十分な構造になっていることにある」と語っている。これは日本にも当てはまると思う。とくに安倍政権下の「忖度」の構造ね。名倉は数年前にベストセラーになった「同志少女よ、敵を撃て」の著者、逢坂冬馬の実姉だって。安倍晋三については中島岳志との対談のなかで安倍晋三の母方の祖父、安倍寛について「相当に腰の据わった反戦、そして反骨の政治家だったようです」と紹介されている。安倍寛の「一人息子が安倍晋太郎氏で、彼も立派な保守政治家だったと僕は思います。ところが晋三氏は父への反発が強いのか、安倍家に背を向けて岸家の方に目がいってしまう。本質は『岸信三』なんです」と語る。中島は共産党について「言っていることはリベラルでも、組織の内部はパターナルなのが共産党と公明党です」と語る。なるほどね。

8月某日
「すれ違う背中を」(乃南アサ 新潮社 2010年4月)を読む。前科(マエ)持ち2人組。芭子と綾香、芭子は30代前半で綾子は一回り上。芭子は女子大生のときホストに入れあげ、金欲しさから男をホテルへ誘い睡眠薬で眠らせ金を奪うことを繰り返す。綾香は家庭内暴力を繰り返す夫を殺害するという過去を持つ。出所した芭子は家族から絶縁を言い渡され、その代償に祖母が住んでいた根津の一軒家を与えられる。同じく出所してきた綾香は将来パン屋として開業することを目指して根津のパン屋でパン職人見習いの職につく。根津、谷中、上野界隈での彼女たちの日常が描かれる。私は現役時代、湯島、根津界隈で呑むことが多かったのでこの界隈には多少の土地勘はある、最初に行くようになったのは湯島に会った「マルル」というスナック。当時、厚労省だった吉武さんに連れて行ってもらったと思う。上野松坂屋の元デパートガールがママで、大学は出ていなくてもなかなかのインテリだった。それから根津の「うさぎ」という小料理屋。ハジメさんというマスター兼板前さんがいて、とてもいい人だったが、癌を患って死んでしまってからはあまり行かなくなった。「うさぎ」の近くのマンションの1階にあったのがスナック「根津組」。玉川勝太郎の娘という人がママで芸能人も顔を出すという話だった。根津組を出てそろそろ終電が無くなるころに入り口の灯りが目についたのがスナック「ふらここ」。ここは現役を終えるまで10年ほど通ったと思う。今はもうないけれど。

8月某日
「大嘗祭-天皇制と日本文化の起源」(工藤隆 中公新書 2017年11月)を読む。大嘗祭は天皇の代替わりのときに行われる宗教的な儀式のことである。本書が刊行された2017年は平成29年で、したがって「はじめに」では「私が実際に大嘗祭の報道に触れたのは、私の人生の中でただ一度、平成期の天皇の即位のときであった」と記されている。そして「昭和64年(1989)1月7日早朝の昭和天皇の死去(崩御)から、同日午前10時の、皇居正殿松の間での『剣爾等承継の儀』による新天皇の誕生で、法的には即位の手続きは終了している」、にもかかわらず「翌年11月22、23日に、あらためて大嘗祭が行われたというところに、大嘗祭の本質が潜んでいる」とする。つまり「即位の儀による政治的・法的正当性と、大嘗祭という神話・呪術的正当性が揃うことによって、天皇位継承したことになる」のだ。この「神話・呪術的正当性」とくに「呪術的正当性」は天皇制に特有のものと考えられる。男系男子による天皇制という考え方にも疑問を呈する。継体天皇は応神天皇の5世の孫として皇位を継承しているが、これは越前、近江地方の勢力による皇位の簒奪との見方もある。しかし継体の妻は雄略の孫、先帝の仁賢の娘であり、継体が簒奪者だったとしても「女系の血統」により雄略からの血統は維持されたことになる。「つまり、ヤマト国家の側には、「女系の血統」や女性天皇を許容する弥生時代以来の感覚が存在していたのではないか」としている。本書は大嘗祭を切り口に日本民族のアニミズム・シャーマニズム的な伝統を明らかにしたものといえるだろう。

モリちゃんの酒中日記 8月その1

8月某日
近所の手賀沼公園を会場にして花火大会。発射音の轟音に家が震えるようだ。轟音を聴きながらビールとワインを呑む。花火大会は今年も盛況だったようで夜遅くまで人のざわめきが感じられた。
図書館で借りた「あれは誰を呼ぶ声」(小嵐九八郎 アーツアンドクラフツ 2018年10月)を読む。作者の小嵐は1944年生まれ。本名は工藤さんと言って私が早稲田の政経学部に入ったとき4年生か5年生で社青同解放派の活動家だった。この小説は1960年代後半から70年代の早稲田の活動家が労働組合の専従を経て女性と所帯を持つに至る姿を描く。といってもそこは高橋和巳の「憂鬱なる党派」とは違ってユーモアを交えながら描く。

8月某日
ブラックマンデー以来の大暴落をしたのが金曜日の株価。休み明けの月曜日は最大の上げ幅で元に戻していた。年末には3万8000円ほどまで行くのではないかというのが大方の見方。私は日本経済は長期低迷から脱していないと見る。労働力人口が減少する中、技術革新も米国、中国、韓国に遅れをとっている。教育から立て直さないと日本経済の復活はないと思う。パリオリンピック。スケートボードなどで日本女子が好調。こういう若い人たちが日本経済もけん引していくのだろう。

8月某日
「いつか陽のあたる場所で」(乃南アサ 新潮文庫 2010年11月)を読む。女子刑務所で一緒だった芭子と綾香。出所後、二人は東京千駄木でひっそりと暮らす。芭子はマッサージ店の受付、綾子はパン職人の見習いとして。その日常が描かれるのだが、もちろん下町らしい人情噺が中心である。しかしそこに庶民のなかに潜む悪意、意地悪もさりげなく描かれる。

8月某日
「愚か者の石」(河崎秋子 小学館 2024年6月)を読む。著者は今年前期の芥川賞を「ともぐい」で受賞している。受賞作は未読だが、明治時代の北海道を舞台にしたヒグマとそれを追う猟師の物語らしい。「愚か者の石」も舞台は明治期の北海道。東京の大学生、瀬戸内巽は国事犯として徒刑13年の判決を受け、北海道の樺戸囚治監に送られる。そこでの過酷な現実と囚人同士の友情、看守との軋轢や交情が描かれる。まぁ一種の監獄小説。映画でいうと「網走番外地」の明治版か。河崎秋子は1979年、北海道別海町生まれ。粗削りな魅力がある。

8月某日
11時30分から「絆」にてマッサージ。そこから理髪店「カットクラブパパ」へ。13時過ぎに我孫子駅前からバスでアビスタ前へ。そこから徒歩3~4分で自宅。遅い昼食をとる。
「光」(三浦しをん 集英社文庫 2013年10月)を読む。伊豆諸島のひとつとみなされる架空の島、美浜島で暮らす中学生の信之と美花は恋仲で森のなかの無人のバンガローでセックスも。美少女の美花に東京から観光に訪れたカメラマンの山中は興味を示す。そんなとき大津波が島を襲い、島のほとんどの家と住民が流される。生き残った信之と美花、幼馴染の輔そして山中。夜、美花は山中に襲われそうになる。信之に絞殺される山中。20年後、南海子と結婚した信之は娘の椿と3人で平和に暮らしている。しかし女優となった美花に20年前の惨劇の暴露を匂わせる脅迫状が届く…。中島しをんの小説はユーモアがあってほのぼのとしたもの、という先入観を持っていた私は驚いた。この小説にはユーモアもほのぼの感も1ミリもない。あるのは日常に潜む悪意と殺意だ。

モリちゃんの酒中日記 7月その2

7月某日
「『卑弥呼の鏡』が解く邪馬台国」(安本美典 中央公論新社 2024年5月)を読む。魏志倭人伝によると卑弥呼は魏の皇帝から100面の鏡を与えられた。そのうちの2面が京都府北部、天橋立近くの籠神社に伝えられている、というのがタイトルの「卑弥呼の鏡」の意味だ。それはともかく、考古学と歴史学、神話学から古代の日本の歴史を考えるという、なかなか壮大な意図を持った本だ。本書によると卑弥呼は天照大御神であり、邪馬台国は北九州に存在したが、東征により大和に移ったという。本書は神話には歴史的事実が秘められている、という立場で、これはシュリーマンがギリシャ神話からの発想でトロイの木馬を発見したという例もあり、別に珍しいことではないらしい。天孫降臨神話や出雲の国譲り神話、神武天皇の東征神話も、歴史的な事実に基づいているということらしい。ところで著者の安本先生は1934年生まれ。京大文学部卒で、専攻は日本古代史、数理歴史学、数理言語学、文章心理学という。今年90歳だが、学問に対する情熱は衰えないようだ。「この本を、亡き妻玲子に捧ぐ」と献辞がある。「あとがき」にも亡き妻を思って「私たちにとって、私があなたに涙を捧げるよりよりも、とむらい合戦として本を書き、その本をあなたに捧げるほうが、ふさわしいであろう。そのほうが、きっとあなたも喜んでくれるであろう」と記されている。

7月某日
「色ざんげ」(島村洋子 2001年4月)を読む。先週読んだ「二人キリ」と同じく、阿部定を巡る人々の物語である。登場人物も定の処女を奪った大学生、定を芸者に売る女衒の夫婦、定を妾にする名古屋の中京商業の教頭など、ほぼ重なっている。たぶん、参考にした書籍が一緒だったのだろう。阿部定事件は1936年5月に発生しているが、同年2月には陸軍青年将校によるクーデター未遂事件、2.26事件が起きている。翌年7月には日中戦争の発端となった盧溝橋事件が起きる。何ともきな臭い時代の猟奇事件だったわけだ。

7月某日
口腔ケアを受けるために近所の手賀沼健康歯科に週2回通っている。ここは担当の歯科衛生士が決まっていて毎回同じ女性が担当してくれている。口腔ケアといっても具体的には歯石の除去。歯科衛生士からは歯磨きに加えて歯間ブラシやフロスによる口腔ケアをアドバイスされたので実践中。口腔ケアを受けた後、歩いて5分の絆マッサージへ。おかげさまで腰痛は治まったようだ。
「されく魂-わが石牟礼道子抄」(池澤夏樹 河出書房新社 2021年2月)を読む。「されく」とは水俣地方のことばで「さまよう」という意味だ。池澤の石牟礼に対する尊敬の念と親愛の情があふれた本。石牟礼の代表作といえる「苦海浄土」について。池澤は「これはルポルタージュ文学であるように見えながらその枠を最初から無視して周囲にあふれ出す文学である」、あるいは「『苦海浄土』について彼女は『聞き書きのふりでやっているんです』と言う。あるいは『水俣病の主人公たちに仮託していた自分の語り』と言う。実際そうではなくてこれほど見事な語りは書き得ない」と書く。なるほど。

7月某日
「ひねくれ一茶」(田辺聖子 講談社文庫 1995年8月)を読む。92年9月に単行本が刊行されたとある。田辺聖子先生の作品は現代小説を中心に読んできた。大阪のOLを主人公にした恋愛小説である。ユーモアが底流にあり安心して読める。田辺先生の小説ジャンルにもうひとつ評伝小説がある。今回の「ひねくれ一茶」もそうである。雪深い信濃から15歳で江戸へ出てきた一茶は、当時流行していた俳諧で才能を開花させる。父親の死を契機に故郷へ帰ることを決意する。そこには亡父と継母の間にできた弟との相続争いが待っていた。村の長老の仲立ちで何とか相続争いをまとめた一茶。50歳にして嫁を迎え句作にも励む。しかし何人かの子を幼くして亡くし、愛妻も若くして病死する。後添えを貰うも精神的にも肉体的にもあわず離縁する。三度目に結婚した妻とはうまく行き子供も設けるが、そのときには一茶の寿命も尽きるときだった。評伝小説は資料を読み込むだけで大変だろうと思うが、そこは田辺先生、巧みに一茶の実像(及び虚像)に迫っている。江戸での俳人(その多くは豪商や豪農であった)との華やかな交流とそれと対象的な信濃での親類付き合いや近隣との交流が描かれる。ここに田辺先生の人間観察眼が光っているように思う。

7月某日
「墨のゆらめき」(三浦しをん 新潮社 2023年5月)を読む。新宿のホテルに勤める俺、小さなホテルなのでフロントからレストランの案内、結婚式と披露宴の手配と何でもこなさなければならない。案内状の宛名書きの差配も仕事のひとつだ。宛名書きをお願いした書家が亡くなったので後継者にお願いに行くところから物語は始まる。若先生を略して「若先」と呼ばれる独身、中年の後継者に俺は魅かれていく。若先は先代から書道塾と宛名書きの仕事を継承している。若先と塾に通う子どもたち、そして若先と俺の淡い交流が淡々と綴られる。そして衝撃の最終章。若先と先代は刑務所で出会う。若先は受刑者、先代は受刑者に書道を教えるボランティアとして。

7月某日
週2回通っていた手賀沼健康歯科での口腔ケアはいったん終了。来月に一度、経過観察がある。現在の私の診察、ケア環境は中山クリックでの月に1度の高血圧診察、週2回の絆治療院でのマッサージである。本日は11時から絆でマッサージ。起床が10時過ぎだったので朝食抜きで絆へ。
「幕末社会」(須田努 岩波新書 2022年1月)を読む。明治維新という日本社会の大変革を準備したのが幕末である。新書の惹句に曰く「徳川体制を支えていた『仁政と武威』の揺らぎ、広がる格差と蔓延する暴力、頻発する天災や疫病-先の見えない時代を、人々はどのように生きたのか」。私の考えでは明治維新は封建体制としての幕藩体制から明治の絶対主義天皇体制への移行と捉えられる。しかし本書を読むと幕末には百姓の自立、反抗、自己主張を始める若者、新たな生き方模索する女性が出てきたそうだ。明治の自由民権運動を経て大正デモクラシーへと進む。その先には昭和ファシズムがあるのだが、大正デモクラシーの先に、ファシズムではない違った道があったようにも思える。どこで違ってしまったのか。

7月某日
「『不適切』ってなんだっけ-これは、アレじゃない」(高橋源一郎 毎日新聞出版 2024年6月)を読む。高橋は1951年の早生まれ。ということは私の2年下だが、私の記憶では彼は現役で横浜国立大学へ入学しているので大学の学年は1年下。本書は「サンデー毎日の連載2021年10月31日号から24年3月3日号の掲載された中から選び、加筆したもの」と注記がされている。私は本書を読んで「高橋源一郎の価値観は私の価値観とほぼ重なる」と思った。「ギョギョギョとじぇじぇじぇ」と題された章では「さかなクン」とさかなクンを主人公にした映画「さかなのこ」について論じている。高橋にとって「さかなクン」は「遠くから子どもたちに『自由』を教えにやってくる『親戚のおじさん』なのだ」と書いている。私にもそんなおじさんがいた。父の長兄で父とは20歳くらい離れている。ずっと生まれ故郷の苫小牧を離れて放浪し、50歳ころに帰郷し王子製紙の守衛の職にありつく。ほどなく王子製紙の争議が起きる。守衛でありながら第一組合に所属し、東京本社でのハンストに加わり入院する。定年後「雁信亭書林」という古本屋を開店する。学歴はなかったがインテリで小学校の校歌の作詞を匿名で作詞することもあったらしい。高橋源一郎から私のおじさんの話になったが、共通するのは「自由の尊重」だ。

7月某日
7月最後の日曜日。酷暑が続く。産業革命以降の化石燃料の浪費の結果か。「宙ぶらん」(伊集院静 集英社文庫 2011年8月)を読む。10の短編がおさめられており、表題作以外は集英社のPR雑誌「青春と読書」に、表題作の「宙ぶらん」は「小説すばる」に発表された。伊集院は昨年11月に亡くなっている。小説の名人と言っても過言ではない。そして女性に持てた。生涯、3人の女性と結婚している。最初の妻とは離婚、2番目の妻は女優の夏目雅子で死別、3番目の妻も女優の篠ひろ子だ。立教大学に進学、野球部に所属するが片を痛めて退部。確か広告会社に就職して各種イベントを企画、作詞も手掛ける。「ぎんぎらぎんにさりげなく」が代表作。色川武大と仲が良かった。二人とも博打うち。本書の解説は桐野夏生。表題作を評して「それでも清冽で、美しく感じられるのは、主人公の『私』が本当に『宙ぶらりん』ではないからである。『私』の心の梁は高く、欠損はない」とする。同感ですね。

モリちゃんの酒中日記 7月その1

7月某日
「八日目の蝉」(角田光代 中公文庫 2011年1月)を読む。以前、NHKのドラマを観て面白かったので小説も読むことにした。ドラマよりももっと面白い。さすがに角田光代である。不倫相手の子を妊娠した希和子は不倫相手の強い希望で中絶する。その後、不倫相手の妻の妊娠出産を知る。希和子は不倫相手の家から乳飲み子を盗み出す。逃避行を続ける希和子と赤ん坊。2人は小豆島に安住の地を見出すが…。希和子と希和子の名づけた薫は、ある写真コンクールをきっかけに父親に発見され、希和子は逮捕され刑務所へ。薫は実の親の元に返される。実の親と馴染まない薫は、大学入学を機に都内で一人暮らしの生活を送る。そして妻子ある男性と不倫の末に妊娠する。出産を決意する薫。妊娠出産小説とも不倫小説とも言えるが、私は希和子と薫の自立していく過程を描いた小説として読めた。タイトルは蝉は長い間地中にいて、地上に出ても七日しか生きられないが、「八日目の蝉は、ほかの蝉が見られなかったものを見られるんだから」と思うところからとられている。

7月某日
午前中に床屋さんへ。帰りに我孫子駅近くの日高屋で「冷麺」。ここは「冷やし中華」と冷麺があって「冷麺」は韓国風、660円(税込み)。図書館で読書、3時から手賀沼歯科で検査、レントゲン検査で口の中にフィルム(?)様のもの突っ込まれる。歯科衛生士の若い女性は「ごめんなさいね」と言いながら容赦なし。手賀沼歯科から徒歩5分でマッサージ店「絆」へ。電気15分、マッサージ15分。帰宅。

7月某日
「二人キリ」(村山由佳 集英社 2024年1月)を読む。1936年5月の阿部定事件をモデルにした小説。14歳の頃、幼馴染の兄に無理やり処女を奪われた定は、それをきっかけに家の金に手を付け遊びまわる。手を焼いた親は定を芸者に出す。芸者と言っても芸のない定は客と売春するようになり、やがて妾や私娼を生業にするようになる。料理屋で住み込みの女中として働くようになった定が出会ったのが料理屋の主人、石田吉蔵である。阿部定の評伝小説として読むことも出来るが、私はそう読まなかった。時代とともに生きた女性を狂言回しとした小説とでもいえばよいか…。この小説の狂言回しはもう一人いる。1967年、旧吉原近くで小料理屋を営む定を訪ねてくる脚本家の吉弥である。石田吉蔵には妻と愛人の定以外にも芸者の妾がいた。妾の子が吉弥である。小説の最後で定が吉蔵の墓に参るシーンがある。定はそこに吉蔵を幻視する。吉蔵から声を掛けられる。
「……。お定、さん?」
 呼びかけられて我に返った。
 波多野吉弥だった。
定は吉蔵はじめ多くの男と性交を繰り返す。しかし、何よりも定は時代と寝た女のような気がする。

7月某日
本日、12時から手賀沼健康歯科で口腔ケアがあるので、朝食は抜く。歯医者の前にマッサージ「絆」へ。本日は長男が休みなので車で送って貰う。「絆」の後、向かいの京北スーパーへ。今朝のチラシに15%の割引券が付いていたのでウイスキーを購入。ウイスキーをリュックに入れて手賀沼歯科へ。ここは担当の歯科衛生士が決まっていていつも同じ歯科衛生士が担当してくれる。私の担当歯科衛生士は群馬県出身で前橋の歯科衛生士の専門学校に通ったそうだ。口腔ケアを受けて感じるのは歯科衛生士って繊細な技術も必要だが、結構な力技でもある。手賀沼歯科の向かいのウエルシアの駐車場まで迎えに来てもらう。

7月某日
「超人ナイチンゲール」(栗原康 医学書院 2023年11月)を読む。ナイチンゲールってこどもの頃に絵本で「クリミア戦争で献身的な看護をした」とか「看護学の基礎を確立した」
程度の知識しかないんですけど。でも著者がアナキズム研究の第一人者、栗原康だからね。ナイチンゲールは1820年、両親がヨーロッパ大陸を新婚旅行中にイタリアのフローレンスで生まれる。当時、ヨーロッパを新婚旅行するくらいだから、両親とも上流階級の家に生まれた。こどものころから利発で本を読むのが好きだった。24歳のとき、看護婦になることを決意するが、当時の看護婦には「汚らしい、賤しい仕事というレッテルが貼られていた」。カトリックの多いフランスやイタリアではシスターの伝統が残っていて、修道院で看護のための専門的な訓練を受けていた。イギリスはプロテスタントだから修道院がつちかってきた看護の伝統がないのだ。同じ頃イギリスに亡命していたマルクスやエンゲルスが見たのもそうした「イギリスにおける労働者階級の状態」だったのだろう。もうひとつナイチンゲールが見たのは当時の男女差別の実態だ。男性は結婚によってすべてを得るが、女性が得る者は何もないといっているそうだ。「次のキリストはおそらく女性だろうと私は信じている」という言葉も残している。ナイチンゲールを精神病とした伝記作家もいた。栗原は「精神病だったとしたら、統合失調症的なものだったのだろう」とする。そして統合失調症…縄文時代、狩猟採集民、時間の先どり、徴候。うつ病…弥生時代、農耕民、直線的な時間、計算可能性、執着気質。と図式化する。私は「うつ病」体質だが、確かにそんな気もする。

7月某日
東京都知事選挙。小池知事が3選を制する。2番目に得票が多かったのが石丸候補。京都大学を卒業して銀行に入り安芸高田市長に。私は千葉県民で都知事選に投票権はない。しかし新聞、テレビが大騒ぎするのでつい関心を持ってしまう。石丸氏は今後の身の振り方聞かれて「広島1区から衆院選を目指そうかな」と語っていた。岸田首相の選挙区である。その意気や良し、と私は思うのである。

7月某日
「ひとびとの足音」(司馬遼太郎 中央公論新社 2009年8月)を読む。司馬は1923年生まれ、私の父母と同世代だ。1歳下の24年生まれが吉本隆明、2歳下の25年生まれが三島由紀夫である。ところで足音の足の字は恐の上の部分に足がつくのが正しいのだが、私のパソコンでは出てこないので足音と記す。「ひとびと」とは市井の人々ということだと思う。主要な登場人物は二人。正岡子規の死後、子規の妹の律の養子となった忠三郎、そして忠三郎が進学した仙台の二高で親友となった西沢隆二。西沢隆二は後に日本共産党の幹部となり、検挙されたが獄中非転向を貫き、敗戦後、釈放された。西沢は戦後も日本共産党の指導的な地位にあったが、除名されている。忠三郎は京都帝大の経済学部へ進学、卒業後に阪急電鉄に就職、電鉄の車掌やデパートの販売員も経験している。西沢は戦前からプロレタリア文学運動にかかわり、戦後は歌声運動などを指導した。私は学生時代、ゲバルト学生であったから、当時の日共、民青を「歌と踊りの民青」とバカにしていた。しかし本書を読むと、
西沢は「コミュニズムでもって革命をおこした場合、ブルジョア民主主義のもっともすぐれた遺産である個人の自由と解放を継承しなければ、革命された社会は単なる統制主義になるだけだ」という思想を抱いていたとある。これは旧ソ連や中国や北朝鮮の社会主義思想=スターリン主義とするどく対立する思想である。

モリちゃんの酒中日記 6月その3

6月某日
「パレスチナ解放闘争史1916-2024」(重信房子 作品社 2024年3月)を読み続けている。何しろA4判で460ページを超え、しかも本文2段組で小さい文字がビッシリ。読み始めてほぼ1週間でやっと半分まで読み進んだ。巻末の〔著者略歴〕によると、「1945年9月東京生まれ。明治大学在学中に社学同に加盟、共産同赤軍派の結成に参加。中央委員、国際委員会として活動し、72年2月に出国。日本赤軍最高幹部としてパレスチナ解放闘争に参加する。2000年11月に逮捕、懲役20年の判決を受け、2022年に出所」とある。

6月某日
監事をやっている一般社団法人の総会が東京駅八重洲口近くの貸会議室で開かれる。開始は1時30分からだが、1時に八重洲口地下の定食屋でランチを済ませ、会議室に入る。定刻前に出席者が揃ったので会議を始める。ここの会長は弁護士の先生で開会のあいさつが何時も面白い。今回は7月7日投開票の東京都知事選に触れてポスター掲示の権利を売買する行為について厳しく批判していた。総会で監査の結果を私が読み上げるなどして無事に終了。今日は7時から西国分寺で評議員をやっている社会福祉法人の評議員会があるので中央線で東京から西国分寺へ移動。7時には時間があるので昼間からやっている居酒屋で時間をつぶす。6時30分過ぎに集合場所の西国分寺駅南口ロータリーに行くと、Y評議員が迎えの車にすでに乗っていた。決算報告を受けた後、理事長が創業者のIさんから厚労省出身のNさんに交代したとの報告があった。評議員会終了後、近くの小料理屋さんで懇親会。理事長になったNさんや評議員のYさんは旧知の仲だが、その他の評議員は年に2回の評議員会で顔を合わせるだけ。おじいさんが大正時代に創業した社会福祉事業を継承した人は、NHKの朝ドラ「虎に翼」は当時の現実を伝えていると話していた。懇親会終了後、タクシーで自宅まで。私は同じ我孫子在住のY評議員と同乗する。我孫子までの1時間30分、Y評議員の話をたっぷり聞く。Y評議員を降ろした後、自宅に着いたら12時を過ぎていた。

6月某日
図書館で借りた「3千円の使いかた」(原田ひ香 中公文庫 2022年8月)を読む。人気のある本らしく「この本は、次の人が予約してまってます。読み終わったらなるべく早くお返しください」と印字された黄色い紙が貼ってあった。家庭経済小説だね。私自身は世界経済や日本経済の現状と将来には興味はあるが、自分の家庭経済には全くと言っていいほど興味はない。現役時代も年金生活の現在も家計は奥さんの担当。私は毎月小遣いをもらうだけだからね。したがってこの本のストーリーにもあまり興味を魅かれなかった。原田の原作のTVドラマ「一橋桐子(76)の犯罪日記」(松坂慶子主演)は面白かったけれど。

6月某日
週2回の絆マッサージ店。同居している長男が休みなので車で送って貰う。マッサージを受け、「気のせいか腰の痛みが軽くなりました」とマッサージの先生に伝えたら「気のせいではありません」と訂正された。たいへん失礼しました。帰りも車。途中、ウエルシアによってタンカレードライジンを購入。帰宅して「虎に翼」の再放送をみる。遅い朝食兼ランチ。妻はアビスタ(公民館と図書館が併設されている)で体操。私は重信房子の「パレスチナ解放闘争史」の残りを読む。

6月某日
「パレスチナ解放闘争史1916-2024」(重信房子 作品社 2024年3月)を読み終わる。10日以上かかったが、面白かった。著者の重信房子は、後にテルアビブの空港で銃を乱射して自爆した奥平剛士と偽装結婚して日本を出国、パレスチナ解放闘争に参加した。日本に帰国中の2000年10月に逮捕、懲役20年の判決が最高裁で確定、2022年に出所した。本書は獄中で書かれた原稿をもとに編集された。昨年の10月7日以降、パレスチナではイスラエル軍による、ジェノサイド攻撃が続いている。本書は書名の通り、第一次世界大戦中から現在に至るパレスチナ解放の戦いの歴史である。イスラエルはパレスチナ人の土地を侵略し、不法にイスラエル人の入植地を拡大させている。これは戦前に日本軍が朝鮮半島や中国大陸で行った不法行為、残虐行為を連想させる。日本軍は1945年8月にアメリカを中心とする連合軍に敗北するが、パレスチナ問題についてアメリカは終始イスラエル支持の姿勢を変えていない。バイデン、トランプともにイスラエル支持である。民主党、共和党ともに在米のユダヤ人からの政治献金に依存するところが大きいためであろうか。日本はアラブからの原油輸入に大きく依存しているためか、ハマースのイスラエル攻撃に対しても、イスラエルのガザ侵攻に対しても批判的で早期の和平を唱えているようだ。しかし本書を読むと、もともとパレスチナの土地にはアラブ人が住んでいた。第一次世界大戦まではオスマントルコが支配していたが、英国は戦後の独立を条件にアラブを味方につけた。この辺は映画「アラビアのロレンス」に詳しい。しかしユダヤ資本も味方につけたい英国、米国はユダヤ国家の創設も約束した。二枚舌外交である。イスラエルは今や中東で随一の軍事大国である。しかしだからといって不法な軍事行動が許されるものではない。
ネタニヤフはパレスチナ人をシナイ半島に移住させパレスチナ国家としたらどうか、と提案しているが、これは帝国主義者の勝手な論理である。イスラエルは今や完全に帝国主義国家となっている。原爆も保有しているようだ。国連は何度もイスラエルの軍事行動を非難する決議を賛成多数で可決しているが、安保理では米国の拒否権により葬り去られている。今、緊急に必要なのはイスラエルのガザ侵攻の停止、そして侵攻前の原状回復であろう。イスラエルによる土地の不法占拠、不法入植についても原状回復が必要だ。本書の表紙にはパレスチナ人の少年が果敢にイスラエル軍の戦車に投石している写真が使われている。写真説明によると「2000年10月29日、ガザ市郊外で、ファレス・ウダが威嚇的なイスラエルの戦車に、石を投げた。11月8日、彼の写真が撮影されてから9日後、ファレスは首を撃たれ、イスラエル国防軍に殺された」とある。少年のインティファーダ(民衆蜂起)である。不法な侵略、不法な入植には抵抗することこそが正義である。

モリちゃんの酒中日記 6月その2

6月某日
「うらはぐさ風土記」(中島京子 集英社 2023年3月)を読む。中島京子は1964年、東京生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業後、フリーライターなどを経て作家に。08年に「小さなお家」で直木賞受賞。日本での難民の暮らしと支援する人たちを描いた「やさしい猫」は佳作。「うらはぐさ風土記」は長年、米国で暮らしていた沙希がパートナーとの離婚を機に帰国。故郷でもあり、通学していた女子大学もある街で暮らし始める。幸い女子大での講師の仕事も決まり、住まいも一人暮らしの叔父が施設に移った後の一軒家を格安で借りることができた。舞台となる街は東京近郊で女子大があり、繁華街と住宅地が近接しているということから吉祥寺と推定される。小説ではそこでの沙希の日常が淡々と描かれる。叔父の家には伯父が残していったウイスキーやワインが大量にあった。沙希はそれらを晩酌に一人で夕ご飯を食べたりする。吉祥寺ね。しばらく行っていないな。井の頭線に取引先があったり、友人が住んでいたりしたから現役時代は何度か吉祥寺で呑んだ。小説には布袋という老舗の焼き鳥屋が出てくるが、吉祥寺の伊勢屋というこれも老舗の焼き鳥屋にも行った。家からは遠いのだけれど、今度久しぶりに行ってみようかね。

6月某日
「オパールの炎」(桐野夏生 中央公論新社 2024年6月)を読む。桐野夏生の最新作であり、初出は「婦人公論」2022年12月号~2023年11月号。巻末に「本書はフィクションであり、実在の人物・団体等とは一切関係ありません」と注記されている。物語はピル解禁同盟のリーダー塙玲衣子を中心に展開する。ピル解禁同盟はピンクのヘルメットを被って不倫や浮気で家庭を顧みない男たちを弾劾する。となると、この小説は中ピ連とそのリーダー榎美沙子をモデルとしていることが知れる。小説と関係なく中ピ連と榎の活動を振り返ると、時代的な制約を感じざるを得ない。彼女らの活動は一夫一婦制の旧来の家族制度を前提としたものではなかったか。中絶の禁止反対とピル解禁を訴えたのは正しかったと思うけれど。思えば70年代は中ピ連のような得体の知れないグループが蠢いていた時代だったのかもしれない。唐十郎や寺山修司、連合赤軍やアラブ赤軍、平岡正明や赤瀬川源平…。

6月某日
「東学農民戦争と日本-もう一つの日清戦争」(中塚明 井上勝生 朴孟ス 高文研 2013年6月第1刷 2024年4月新版第1刷)を読む。東学農民戦争というのは高校の世界史の教科書に載っていた東学党の乱のことなんだけれど、私の知識はそこまで。いったいどのような戦争なのか、本書を読むまではまったくの無知でした。東学とは「朝鮮王朝の末期、政治的・社会的に直面していたさまざまの困難な問題を民衆のレベルから改革し、迫り来る外国の圧力から民族的な利益を守ろうとする、当時の朝鮮社会の歴史的なねがいを反映した思想」で、この思想は当時の朝鮮の農民に広く深く浸透した。本書によると東学農民軍は、まず1894年3月に朝鮮王制の悪政を改革するため全面的な決起を決意する。そして農民軍の鎮圧を口実に清国と日本が朝鮮に出兵してくる。農民軍の主要な敵は朝鮮王朝軍から日本軍へと変わる。農民軍の武器は火縄銃と刀、鍬の類いだったが、対する日本軍は近代的な兵制のもと、ライフルと多数の弾薬を備えていた。蜂起した農民軍は最盛期には数十万人ともいわれ、対する日本軍は後備第19大隊3中隊、全軍約600名余の兵力であったという。「この兵力で数十万の農民軍を追い詰めて殲滅し」、農民軍の犠牲者は少なくとも数万人にのぼる。犠牲者の中には戦死者だけでなく、捕らえられて刑死したもの、拷問により殺されたものも少なくない。本書のきっかけとなった北海道大学で1995年に見つかった人間の頭骨6体も、全羅道珍島で数百名が惨殺された一部ということだ。日本軍が行ったことは明確に国際法違反であるし、それ以前に人権を踏みにじるものだ。高校で日本近代史を学ぶときに、日韓併合や東学農民戦争について、事実をきちんと教えないとね。

6月某日
「タラント」(角田光代 中央公論新社 2022年2月)を読む。読売新聞朝刊に2020年7月28日から21年7月23日まで連載されたもの。四国のうどん屋の娘、さよりは大学進学を機に上京する。ボランティアサークルの「麦の会」に入会し、ネパールでのボランティア活動も経験する。サークルではカメラマン志望の翔太やジャーナリスト志望の玲と仲良くなる。卒業後、小さな出版社に就職したさより、カメラマンやジャーナリストとして活動する翔太や玲ともたまに会う日常。さよりには戦争で片膝を失った祖父がいる。その祖父に女名前の手紙が不定期で届く。ウクライナへのロシア侵攻は22年2月、イスラエルのガザ侵攻は昨年10月。この小説の執筆時点では戦争は遠い存在だった。しかし、小説では翔太や玲は紛争地での取材に飛ぶし、さよりの祖父は戦争の影を引きずっている。角田光代の作家的な感性は信ずるに足りる。

6月某日
終日雨。関東地方も梅雨入りしたそうだ。午前中に後期高齢者の歯科健診と、週2回行っているマッサージがあるが、同居している長男が休みということなので車で送って貰う。歯科検診は手賀沼健康歯科へ。以前は緑歯科と言っていたが新装を機に改名したらしい。予約していた10時に受付へ。この歯科医院は歯科衛生士がそれぞれ個室を持っていて、そこで歯科健診を受ける。歯のメンテナンスは概ね良好とのことだったが、歯周病の疑いを指摘される。しばらく通院して治療に当たることにする。雨のなか、車で絆マッサージ治療院へ。15分の電気治療と15分のマッサージ。マッサージ治療院の前で車に乗る。15%の割引券があるので京北スーパーでウイスキーを購入。車で帰宅。

モリちゃんの酒中日記 6月その1

6月某日
「農耕社会の成立 シリーズ日本古代史①」(石川日出志 岩波新書 2010年10月)を読む。農耕社会の成立は弥生時代に始まるが、それ以前の縄文時代は、「温暖帯性の気候のもとに繁茂する森林がもたらす木の実類とシカ・イノシシ、海進によって形成された内湾に生息する魚介類、川を集団で遡上するサケ類など、いずれも季節ごとに集中的に採集、捕獲できる対象があり」「こうした食料獲得活動の季節性と貯蔵を組み合わせる生業と消費の仕組みが、縄文時代の人びとの生活を根底から支えていた」ということだ。日本で稲作が始まったのは弥生時代とされる。縄文人の暮らしは狩猟採集が基本であり、単独の家族ないしは数家族が協働して暮らしていた。米作りとなると水田の形成から田植え、草取り、稲刈り、収穫後の貯蔵に至るまで集団の共同作業が不可欠である。この共同作業がもととなって集落が生まれた。この頃の集落は周囲を環濠で囲んでいたため環濠集落と呼ばれるが、環濠には他の集落からの襲撃を防ぐという意味もあった。環濠集落は北部九州で生まれ、やがて中国、四国、近畿、中部地方へと及ぶ。環濠集落がいくつかまとまってクニが生まれる。「弥生時代の日本列島の社会が急激に変貌を遂げていく際に、もっとも刺激を与えた地域」が朝鮮半島である。『漢書』に「楽浪の海中に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ」という記述があるように毎年のように交流があった。百余国を統一したのが邪馬台国であったと考えられる。

6月某日
「卑弥呼とヤマト王権」(寺沢薫 中公叢書 2023年3月)を読む。著者の寺沢薫は1950年東京生まれ。同志社大学文学部卒後、奈良県立橿原考古学研究所に勤務。2012年より桜井市纏向学研究センター所長。著者が大学3年の1971年12月、纏向遺跡の発掘調査に参加する。纏向遺跡とは3世紀初頭に卑弥呼を初代大王として奈良盆地東南部の纏向の地に誕生したヤマト王権の遺跡である。邪馬台国の所在地としては戦前から九州説と近畿説に分かれて論争が繰り広げられていたが、著者は一貫して近畿説、それも纏向遺跡こそが邪馬台国の首都であったと主張する。著者は邪馬台国の所在を考古学的に考察するのはもちろんのこと、「国家とは何か」についてもエンゲルスや滝村隆一の論説を手掛かりに考察してゆく。滝村隆一って1970年代に吉本隆明の主宰する雑誌「試行」に論文を掲載していた在野の思想家である。私も「試行」を読んでいたが、理解できたのは吉本の「情況への発言」(だったかな?)という情況論くらいで吉本の言語論や共同幻想論には歯が立たず、滝村の論文は読みもしなかったと思う。マルクスの「国家起源論はエンゲルスによってアジア的な国家形成という重要な視点が閑却され、狭隘化され歪曲された国家権力論」であり、このことに真っ先に気付いたのが滝村隆一という。滝村は広義の国家として外的国家、狭義の国家として内的国家があるとして、歴史的には外的国家は内的国家に先行して存在するとしている。日本における内的国家の出現は7世紀末とされるが、著者は3世紀初頭のヤマト王権の誕生こそが外的国家の出現と見る。寺沢薫という人は日本の考古学について極めて深いと思われるがその知的領域は哲学、政治学にまで及び、極めて広い。

6月某日
図書館で借りた「田辺聖子全集6」(新潮社 2004年8月)を読む。そういえば田辺聖子先生は2019年の6月6日に亡くなっている。命日に借りて昨日、6月8日に読了。この巻には「言い寄る」「私的生活」「苺をつぶしながら」の3作がおさめられているが、3作ともデザイナーの玉木乃理子を主人公とした連作である。乃理子は「言い寄る」では惚れていた三浦五郎が友人の美々と結婚してしまう。傷心の乃理子は金持ちのボンボン剛と知り合う。「私的生活」では乃理子と剛との豪奢な、しかし何か満たされない結婚生活が描かれる。「苺をつぶしながら」では剛と離婚した乃理子の自立した姿を描く。離婚前と離婚後の剛の描かれ方が微妙に違う。離婚前の剛はボンボンらしく傲慢で他者に厳しく自分には優しい。軽井沢に女友達と避暑に出かけた乃理子は、ホテルで剛と偶然に出会う。ホテルで就寝中の乃理子に大阪で友人が事故死したという知らせが届く。乃理子は剛の別荘に連絡、剛は自ら車を運転して乃理子を東京へ届ける。ここでの剛はカッコイイ。
巻末の解題によると「この三部作は、著者の45歳から53歳、すなわち昭和48年から昭和56年にかけて執筆された」とある。今からおよそ半世紀前である。「言い寄る」の文中に「以前に、切腹して首を斬り転がされた小説家が、よくこんな豪傑笑いをした」という記述があるが、これは言うまでもなく昭和45年11月25日の三島由紀夫による自衛隊の市ヶ谷駐屯地への突入後の自死のことである。50年前は携帯電話もパソコンもなく、今から思えばのどかな時代であった。その反面、三島事件や連合赤軍事件など凄惨な事件も相次いだ。しかし三島事件も連合赤軍事件も箱根山の向こうの話である。田辺先生は生涯、関西から離れることはなかった。先生は巻末に「三部作になったこの物語は、浪速の街が生んだのだ。浪速の街が書かせたのだ」と書いている。確かに田辺文学は関西という風土なしには考えられない。

6月某日
月1回、中山クリニックで高血圧症の診察を受ける。10時過ぎに遅い朝食をとり11時に中山クリニックへ。いつものように診察は3分ほど。ついでに後期高齢者の健康診断の予約も明日11時に予約する。本日は私が監事をやっている一般社団法人の理事会があるので東京駅近くの貸会議室へ。この一般社団の会長は弁護士先生なのだが、毎回冒頭のあいさつが面白い。今回は多額の横領事件が発覚した水原一平被告について。結局、5~6年の禁固刑になるのではないか、と法律家らしく推測。理事会は滞りなく終了。私は地下鉄で東京から大手町経由で神保町へ。社会保険出版社の高本社長に挨拶、お茶の水からJRで御徒町へ、御徒町から上野までアメ横を歩く。想像以上に外人客が多い。欧米系だけでなくアジア系も多く見かける。円安効果ね。上野駅近くのイングリッシュバーでビール、ジントニック、ポテト&チップスをいただく。我孫子で薬局(ウエルシア)で処方箋を渡し、明日とりにくると伝える。本日、夕食は外で食べると出てきたのでウエルシアの向かいのラーメン屋でラーメンを食べる。コッテリ系。

6月某日
11時少し前に中山クリニックへ、後期高齢者の健康診断を受ける。心電図をとり血液検査のため採血。八坂神社前からバスで若松へ。絆でマッサージと電気、合計で30分。保険適用なので毎回550円。絆の後、ウエルシアで薬を受け取る。12時30分頃帰宅、妻が作ってくれたおにぎりをいただく。

モリちゃんの酒中日記 5月その3

5月某日
「弥生人はどこから来たのか―最新科学が解明する先史日本」(藤尾慎一郎 吉川弘文館 2024年3月)を読む。サブタイトルの「最新科学」とは、「酸素同位体比年輪年代法や核ゲノム分析といった自然科学と考古学との学際的研究によって新たな事実が明らかにされた」ことを指しているようだ。私が知り得た考古学は、もっぱら発掘調査によって土器の破片や石器などを採集して、その発掘された地層などからそれらが使われていた時代を想定するといったものだったと思う。今後、人工知能なども活用して考古学の分析も深まるのであろうか。私の習った日本史では確か弥生時代に入って稲作が日本に入ってきたことになっていたが、本書によるとそれはもっと早く縄文晩期、紀元前10世紀ころまで遡るらしい。本書では「水田稲作開始後、およそ100年たった前9世紀後半には環濠集落が出現して戦いも始まり、そして富める者は墓に副葬品を添えて葬られるなどの階層差が生じていることがわかる」としている。おそらくこの頃が原初的な国家と私有財産に基礎を置く階級差が生まれ原初的な部族国家による戦争もあったのだろう。弥生人は縄文人の後継たる晩期縄文人と稲作をもたらした韓半島南部からの渡来人との通婚の結果ということだろうか。興味は尽きない。

5月某日
週刊文春の5月30日号が届く。なにげなく「家の履歴書」のページを開く。これは有名人が自分の住居の変遷を語るというページだ。今週号は塩見三省(俳優)である。塩見は山陰地方の日本の四方を山に囲まれた町で育ち、同志社大学に進学、1970年に卒業。イギリス滞在を経て上京、アングラ劇団に触れやがて俳優の道を歩む。居候だった塩見は吉祥寺のジャズ喫茶「ファンキー」に通うようになる。私が早稲田に入学した1968年、サークルはロシヤ語研究会というところに入ったのだが、1年先輩に野口暁という人がいて実家が吉祥寺のジャズ喫茶「ファンキー」ということだった。塩見は店のオーナーの野口伊織さんと親しくなるが、ネットで調べると野口伊織さんは1942年生まれ。私の知っている野口暁さんはラグビーに熱中して早稲田高等学院を5年で卒業して、早稲田に入学したのは1967年、20歳のときだ。ということは1946か47年の生まれだから野口伊織の弟ということになる。暁さんは1年生のときは共産同マル戦派の活動家だったらしいが、マル戦派の拠点、社会科学部の自治会を革マル派に奪われ、活動家はバラバラになってしまった。行き場を失った暁さんもロシヤ語研究会に顔を出すようになったらしい。暁さんは高等学院の頃からロシヤ語をやっていた。将来はロシヤ語を活かした仕事をするのかと思っていたが、なぜか私や同じロシヤ語研究会の森幹夫君らと一緒に、北千住の水野勝吉さんの下で土方のバイトをするようになった。暁さんはラグビーをやっていただけに力も強く、肉体労働向きではあったけれど。結局、野口さんは大学を辞め、本職の土方になった。その後のことは分からない。

5月某日
「日本の先史時代-旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす」(藤尾慎一郎 中公新書
 2021年8月)を読む。藤尾先生の著作を読むのは「弥生人はどこから来たのか」に続いて2冊目。私は子どもの頃から歴史好きではあったけれど、興味を持ったのは織田・豊臣以降の時代で、とくに中年以降は愛読した司馬遼太郎の影響もあって幕末、明治維新、日清・日露戦争の頃に興味を抱いた。近年は退職して時間があることもあって東大教授の加藤陽子先生や2年ほど前に亡くなった半藤一利さんの著作に親しむことが多かった。そして藤尾先生の著作に触れて、「日本人とは」「日本という国の始まりは」「米作が始まったのは」ということに興味を抱くようになった。日本の旧石器時代はおよそ3万年前ころとされる。鹿児島県種子島の立切遺跡から石皿や集石遺構が発見されている。集石遺構とは調理に行ったと考えられる遺構である。次に大きな考古学的変化があらわれるのは1万6000年前。これから縄文時代の始まる1万1700年前までが旧石器時代から縄文時代への移行期とされる。旧石器時代になくて縄文時代に出現するのが土器と土偶、竪穴式住居である。住居の存在は家族の存在も連想させる。縄文時代の晩期から稲作が行われる。九州北部と本州の日本海側で韓半島との交流が確認される。弥生時代から環濠集落が出現する。環濠集落にしろ水田耕作にしろ集団の力が必要であるから、この頃から集団のリーダーが出現し、後の王となって行く。王の王が大王(おおきみ)であり、まぁこれが天皇制の原型となって行く。権力者の登場にともない権力者の墳墓も大型化する。古墳の登場である。藤尾先生は考古学者だが、マルクスの史観を参考にしながら藤尾先生の著作を読むのも面白いと思われる。

5月某日
日本の先史時代に興味を持ったので佐倉の国立歴史民俗博物館に行くことにする。我が家からバスで5分ほどで我孫子駅。我孫子駅から成田線で小1時間でJR成田駅。成田駅から2駅で佐倉である。佐倉駅前の王将でランチ、佐倉駅からはバスで博物館の前まで行ける。博物館では日本の先史時代を2時間ほど堪能。土器や石器、先史時代の武器など書物では分からないリアルを感じることができた。ウイークデイなので観客もまばら。博物館前からバスに乗車、京成佐倉駅で下車。京成線で京成成田駅へ向かい、早めの夕食をとるつもりだったが、逆方向の上野行きに乗ってしまった。京成船橋で下車、東武船橋から柏へ。柏で常磐線我孫子へ。我孫子で「しちりん」で夕食兼一杯。隣の酔客と雑談、私より2歳上だそうだ。話に夢中になって図書館で借りた本を忘れてきてしまった。

5月某日
「しちりん」に忘れてきた本をとりに行かなければならないが、「しちりん」のオープンは15時から。それで15時まで床屋さんで散髪をしてもらうことにする。「カットクラブ・パパス」へ向かう。ここは散髪代が3500円で以前行っていた近所の床屋さんより1000円高い。しかし近所の床屋さんは25日に1回ほど行っていたが、今度の床屋さんは35~40日に1回などで実質的な負担は変わらない。散髪後、「しちりん」に行くと店員の「みゆきさん」が本をビニール袋に入れて保管しておいてくれた。ホッピーを3杯程呑む。

5月某日
「弥生人はどこから来たのか―最新科学が解明する先史日本」(藤尾慎一郎 吉川弘文館 2024年3月)を読む。サブタイトルの「最新科学」とは、「酸素同位体比年輪年代法や核ゲノム分析といった自然科学と考古学との学際的研究によって新たな事実が明らかにされた」ことを指しているようだ。私が知り得た考古学は、もっぱら発掘調査によって土器の破片や石器などを採集して、その発掘された地層などからそれらが使われていた時代を想定するといったものだったと思う。今後、人工知能なども活用して考古学の分析も深まるのであろうか。私の習った日本史では確か弥生時代に入って稲作が日本に入ってきたことになっていたが、本書によるとそれはもっと早く縄文晩期、紀元前10世紀ころまで遡るらしい。本書では「水田稲作開始後、およそ100年たった前9世紀後半には環濠集落が出現して戦いも始まり、そして富める者は墓に副葬品を添えて葬られるなどの階層差が生じていることがわかる」としている。おそらくこの頃が原初的な国家と私有財産に基礎を置く階級差が生まれ原初的な部族国家による戦争もあったのだろう。弥生人は縄文人の後継たる晩期縄文人と稲作をもたらした韓半島南部からの渡来人との通婚の結果ということだろうか。興味は尽きない。

5月某日
週刊文春の5月30日号が届く。なにげなく「家の履歴書」のページを開く。これは有名人が自分の住居の変遷を語るというページだ。今週号は塩見三省(俳優)である。塩見は山陰地方の日本の四方を山に囲まれた町で育ち、同志社大学に進学、1970年に卒業。イギリス滞在を経て上京、アングラ劇団に触れやがて俳優の道を歩む。居候だった塩見は吉祥寺のジャズ喫茶「ファンキー」に通うようになる。私が早稲田に入学した1968年、サークルはロシヤ語研究会というところに入ったのだが、1年先輩に野口暁という人がいて実家が吉祥寺のジャズ喫茶「ファンキー」ということだった。塩見は店のオーナーの野口伊織さんと親しくなるが、ネットで調べると野口伊織さんは1942年生まれ。私の知っている野口暁さんはラグビーに熱中して早稲田高等学院を5年で卒業して、早稲田に入学したのは1967年、20歳のときだ。ということは1946か47年の生まれだから野口伊織の弟ということになる。暁さんは1年生のときは共産同マル戦派の活動家だったらしいが、マル戦派の拠点、社会科学部の自治会を革マル派に奪われ、活動家はバラバラになってしまった。行き場を失った暁さんもロシヤ語研究会に顔を出すようになったらしい。暁さんは高等学院の頃からロシヤ語をやっていた。将来はロシヤ語を活かした仕事をするのかと思っていたが、なぜか私や同じロシヤ語研究会の森幹夫君らと一緒に、北千住の水野勝吉さんの下で土方のバイトをするようになった。暁さんはラグビーをやっていただけに力も強く、肉体労働向きではあったけれど。結局、野口さんは大学を辞め、本職の土方になった。その後のことは分からない。

5月某日
「日本の先史時代-旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす」(藤尾慎一郎 中公新書
 2021年8月)を読む。藤尾先生の著作を読むのは「弥生人はどこから来たのか」に続いて2冊目。私は子どもの頃から歴史好きではあったけれど、興味を持ったのは織田・豊臣以降の時代で、とくに中年以降は愛読した司馬遼太郎の影響もあって幕末、明治維新、日清・日露戦争の頃に興味を抱いた。近年は退職して時間があることもあって東大教授の加藤陽子先生や2年ほど前に亡くなった半藤一利さんの著作に親しむことが多かった。そして藤尾先生の著作に触れて、「日本人とは」「日本という国の始まりは」「米作が始まったのは」ということに興味を抱くようになった。日本の旧石器時代はおよそ3万年前ころとされる。鹿児島県種子島の立切遺跡から石皿や集石遺構が発見されている。集石遺構とは調理に行ったと考えられる遺構である。次に大きな考古学的変化があらわれるのは1万6000年前。これから縄文時代の始まる1万1700年前までが旧石器時代から縄文時代への移行期とされる。旧石器時代になくて縄文時代に出現するのが土器と土偶、竪穴式住居である。住居の存在は家族の存在も連想させる。縄文時代の晩期から稲作が行われる。九州北部と本州の日本海側で韓半島との交流が確認される。弥生時代から環濠集落が出現する。環濠集落にしろ水田耕作にしろ集団の力が必要であるから、この頃から集団のリーダーが出現し、後の王となって行く。王の王が大王(おおきみ)であり、まぁこれが天皇制の原型となって行く。権力者の登場にともない権力者の墳墓も大型化する。古墳の登場である。藤尾先生は考古学者だが、マルクスの史観を参考にしながら藤尾先生の著作を読むのも面白いと思われる。

5月某日
日本の先史時代に興味を持ったので佐倉の国立歴史民俗博物館に行くことにする。我が家からバスで5分ほどで我孫子駅。我孫子駅から成田線で小1時間でJR成田駅。成田駅から2駅で佐倉である。佐倉駅前の王将でランチ、佐倉駅からはバスで博物館の前まで行ける。博物館では日本の先史時代を2時間ほど堪能。土器や石器、先史時代の武器など書物では分からないリアルを感じることができた。ウイークデイなので観客もまばら。博物館前からバスに乗車、京成佐倉駅で下車。京成線で京成成田駅へ向かい、早めの夕食をとるつもりだったが、逆方向の上野行きに乗ってしまった。京成船橋で下車、東武船橋から柏へ。柏で常磐線我孫子へ。我孫子で「しちりん」で夕食兼一杯。隣の酔客と雑談、私より2歳上だそうだ。話に夢中になって図書館で借りた本を忘れてきてしまった。

5月某日
「しちりん」に忘れてきた本をとりに行かなければならないが、「しちりん」のオープンは15時から。それで15時まで床屋さんで散髪をしてもらうことにする。「カットクラブ・パパス」へ向かう。ここは散髪代が3500円で以前行っていた近所の床屋さんより1000円高い。しかし近所の床屋さんは25日に1回ほど行っていたが、今度の床屋さんは35~40日に1回などで実質的な負担は変わらない。散髪後、「しちりん」に行くと店員の「みゆきさん」が本をビニール袋に入れて保管しておいてくれた。ホッピーを3杯程呑む。

モリちゃんの酒中日記 5月その2

5月某日
「方舟を燃やす」(角田光代 新潮社 2024年2月)を読む。柳原飛馬は1967年生まれ。望月不三子は1967年に高校を卒業し、食品メーカーに就職する。飛馬は大学に進学し区役所に就職する。不二子は職場結婚し退職して専業主婦となる。飛馬と不二子の人生は交錯することなく過ぎてゆく。2018年に2人がボランティアとして関わり始めた子ども食堂で会うまでは。1967年に高校を卒業した不二子は私と同年。ノストラダムスの大予言や2000年問題、新興宗教団体によるテロなど、私と不二子は同じような社会現象を見てきた。それだけでなく結婚、子育ても同じような体験をしてきた。タイトルの方舟は「ノアの方舟」のこと。神の預言に従ってノアは家畜や家族と一緒に方舟で大洪水を逃れる。飛馬も不二子も自分だけが助かろうとはしなかった。方舟には乗らず、燃やしてしまった。私には「方舟を燃やす」ことが、逃げるのではなく踏みとどまって闘うことを暗示しているように思えるのだが。

5月某日
「ガザとは何か-パレスチナを知るための緊急講義」(岡真理 大和書房 2023年12月)を読む。2023年10月7日のハマス主導によるイスラエルへの越境奇襲攻撃に対して、パレスチナのガザ地区へのイスラエルによる未曾有のジェノサイド攻撃が行われている。パレスチナ人の死者は5月で3万5000人を超えている。本書は岡真理が京都大学(10月20日)と早稲田大学(10月23日)で行った講演を書籍化したものだ。私は本書を読む前までは「イスラエルもやり過ぎだけどハマスもちょっとなぁ」という程度の認識であった。しかし本書を読んでから悪いのはイスラエル、ハマスは植民地化に抗議する抵抗者という認識に変化した。第2次世界大戦でドイツが敗北したときナチスによって強制収容所に収容されていたユダヤ人が解放された。だが帰る場所を奪われたユダヤ人25万人が難民となってしまった。1947年11月、国連でユダヤ人難民問題を解決するために「パレスチナを分割し、そこにヨーロッパのユダヤ人の国を創ること」が賛成多数で可決された。しかしパレスチナはもともとアラブ人が暮らす土地であり、第1次世界大戦でオスマン帝国が敗れ、オスマン帝国領であったパレスチナは国際連盟の委任統治という名の英国の植民地になった。委任統治というのは、その土地の住民が独立できるようになるまで国連が別の国(この場合は英国)に統治を委任するというもので、どこかまったく別の国を創るために委任統治システムがあるのではない。
岡真理は次のように書いている。「ヨーロッパ・キリスト教社会における歴史的なユダヤ人差別と、近代の反ユダヤ主義の頂点としてのホロコースト、その責任を負っているはずの西洋諸国は、その責任を、パレスチナを犠牲にすることで贖った」「パレスチナ人に自分たちの歴史的犯罪の代償を払わせ、今に至るまでパレスチナ人に対するイスラエルの犯罪行為をすべて是認することによって、西洋諸国はその歴史的不正をさらに重ねています」。岡は質問に答えて次のようにも言っている。「パレスチナを通して、私は日本の植民地主義の問題に出会いました。日本人の家庭で普通に勉強して大学まで行って、植民地支配のことは歴史の授業で習ってはいたけれども、それが一体何を意味するかなんて、全然理解していなかった。パレスチナと出会って、私は初めて、朝鮮植民地支配の問題、在日の問題、沖縄の問題、アイヌモシリの問題などを知ったのです」。パレスチナ問題は普遍的に差別、支配、分断の問題と繋がっているということね。

5月某日
監事をやっている一般社団法人の監事監査があるので虎ノ門の事務所へ向かう。幹事は2名で、もっぱら私以外の監事が質問する。私は「あぁなるほど」とかなんとか、相槌を繰り返すのみ。無事、監査を終えて署名捺印。16時の御徒町駅で大谷源一さんと待ち合わせしているので、JR御徒町駅へ向かう。大谷さんと吉池食堂に行く。昼飯がまだだったので2人で北海海鮮丼を食べる。確か1300円だったと思うが、美味であった。

5月某日
「私たちの近現代史-女性とマイノリティの100年」(村山由佳 朴慶南 集英社新書 2024年3月)を読む。2023年は関東大震災から100年の年であった。ということは震災後に行われた朝鮮人虐殺からも100年ということである。震災後に大杉栄とその甥とともに憲兵隊に虐殺された伊藤野枝の評伝小説「風よ あらしよ」を書いた村山由佳と、在日の作家、朴慶南の対談集である。関東大震災から10年以上前、1910年の「韓国併合」により、日本の朝鮮半島に対する植民地支配が始まった。朴慶南は「日本による過酷な植民地支配に対して、1919年には朝鮮半島で3.1独立運動といった、大規模な反日運動が各地で起きていました。これらの動きを日本当局は危機的な事態とみなし、恐れていたといっていいでしょう」と語る。私が思う「に恐れていた」のは当局だけでなく、虐殺を行った日本の大衆、庶民であったと思う。江戸時代まで朝鮮は大陸の先進的な文化を日本にもたらしてくれる貴重な中継点であった。江戸時代には将軍の代替わりのたびに朝鮮から使節が来ていたという。庶民も幕閣も歓迎に沸いた。明治維新以降、日清戦争頃から朝鮮人や中国人に対する蔑視が始まったのではないだろうか? 蔑視はコンプレックスの裏返しだと思う。「いつか仕返しされるのではないか」という自らが招いた恐怖、それが虐殺を招いたのではないか。村山は「女性やマイノリティを抑圧する社会は、つまり構造として、いつ軍事主導社会、戦争国家に行きついてもおかしくないということですね」と危機感を述べる。同感です。

5月某日
「世界史のなかの沖縄返還」(成田千尋 吉川弘文館 2024年4月)を読む。沖縄の施政権がアメリカから日本に返還されたのが1972年。67年から激化しはじめた学生運動の大きな筋は、一つは学園の民主化であった。もう一つはベトナム反戦と沖縄問題だった。しかしその割には沖縄について真剣に討論した記憶は薄い。本書を読んでも感じたのだが、私にとって観光の島、沖縄には関心が向くのだが基地の島、沖縄にはどうも関心が薄いのだ。しかし本書を読んでわかったのだが、沖縄には明治維新まで日本とは別の国、琉球王国が存在した。それが明治の琉球処分によって日本の国土に編入され、アジア・太平洋戦争では凄惨な地上戦が展開された。日本の敗北後、長きにわたってアメリカの施政権下にあったが、その施政権が返還されたのが72年というわけだ。沖縄独立論(日本とは別の国家として独立する)も戦後、何人か唱えた人がいたが、県民の支持を得るには至らなかった。だが県民の多くが現状に満足しているか、といったらそうではない。日本の米軍基地が沖縄に集中しており、米兵、米軍による事故や犯罪が後を絶たないということもあるし、本土との埋まらない格差の問題もある。格差や差別の問題に関心は強くある。そうならば、沖縄のことももっと勉強しなければ。

5月某日
先日読んだ「女たちの近現代史」(村山由佳と朴慶南の対談集)で村山の直木賞受賞作「星々の舟」(2003年3月 文藝春秋)が1章(痛みを負った人々への想像力-「星々の舟」を同様か)を割かれて論じられていたので読むことにする。2003年といえば今から21年前、小説の舞台としてはそれより2、3年前と想像できるから2000年前後か。小説は戦中から2000年に至る水島重之一家の物語である。最初、重之は最初の妻と2度目の妻、そして子供たちにも平気で暴力を振るう「昭和の父」として描かれる。しかし物語を読み進んで行くと、その暴力が重之の従軍体験によることが明らかにされる。旧陸軍の内部における暴力による兵隊の支配と中国大陸における中国人差別や朝鮮人差別である。重之は軍公認の売春宿(慰安所)で朝鮮出身の慰安婦、姜美珠(カンミジュ)と恋仲になるが、重之の戦闘中にミジュは13歳の少女の死に抗議して相手の男につかみかかる。ミジュは3人がかりで押さえつけられて縛り上げられ、庭の木に吊るされる。「軍刀を突きつけた男が、もう二度と逆らいません、朝鮮語も話しません、そう誓わなければ殺す、と言うと、ミジュはその顔に唾を吐きかけた。〈殺したいなら殺せ、私の名前、ヤエ子ではない、姜美殊! 姜美殊! 犬畜生は私たちではない、あんたたちだ! このチョッパリ! ウエノム!〉」。ミジュは腹を裂かれて殺される。戦闘から帰ってこのことを聞かされた重之は、大声でわめいた。〈お前らみんな畜生だ! お前らも、おれも、みんなみんな犬畜生だッ〉
重之にはある意味で村山の実父像が投影されているとみられるが、大正14(1925)年生まれだから2000年時点では75歳である。私の父は大正12(1923)年生まれだから同じようなものである。私の父は理工系の学生だったから戦争に行くこともなかったし、暴力的な人ではなかったけれど、家父長的な価値観は重之に通じるものがあった。戦争から帰った後、重之に長男が生まれる。長じて市役所に勤めるがこの人が学生時代、学生運動に身を投じる。この人には村山の兄や、革新的だった村山の最初の夫が投影されているのかもしれない。村山由佳の最新作は阿部定をモデルにした「二人キリ」。図書館にリクエストしているが、8人待ちなので来月か再来月までお預け。

モリちゃんの酒中日記 5月その1

5月某日
「あきらめる」(山崎ナオコーラ 小学館 2024年3月)を読む。早乙女雄大という人の散歩のシーンから物語は始まる。とこう書くと普通の小説のように思えるが実はそうではない。小説の後半はロケットで火星に移住する話となっているから、これは未来を描くSF小説でもある。そして龍とトラノジョウという二人の幼児が狂言回しというか、割と重要な役割を担う。タイトルの「あきらめる」について小説中で「『あきらめる』って言葉、古語ではいい意味だったんですってね。『明らかにする』が語源らしいです」と輝(アキラ)に語らせている。(アキラ)は男性のように感じられるが、火星へのロケット旅行中に生理になることから、肉体的には女性であることが明らかにされる。「人のセックスを笑うな」がデビュー作の山崎らしいストーリーではある。ちなみに本作は帯によると「デビュー20周年記念」で「新感覚ゆるSF長編小説」である。

5月某日
連休3日目。といっても年金生活者の私にとってGWは関係ない。図書館で借りた「済州島4.3事件-「島のくに」の死と再生の物語」(文京沫 岩波現代文庫 2018年2月)を読み進む。済州島4.3事件とは何か? 1948年4月3日、朝鮮半島の南に浮かぶ済州島で、130余りの村が焼かれ、およそ3万人の島民が犠牲となった凄惨な事件のことである。済州島は今は観光地として有名で、日本からの観光客やゴルフツアーも多いと聞く。1948年は昭和23年で私の生まれた年でもある。4.3事件の直接のきっかけは南朝鮮労働党(南労党)の済州島党組織が武装蜂起の指令にある。これに驚いた李承晩政権は本土から軍隊、警察を派遣、島民をほぼ無差別に虐殺した。軍隊や警察だけでなく本土からは右翼の青年組織も派遣され、虐殺に加担した。韓国では軍事政権のもとで4.3事件は顧みられることもなかったが民主化以降、事件の真相の解明が進んでいるという。南労党の武装蜂起の指令の前に政権の単独選挙の強硬姿勢があった。政権の済州島民への差別意識もあったかも知れない。後の光州事件や沖縄のコザ暴動にも共通する反差別の意識である。私は現在のアメリカの大学で行われている反イスラエルのデモにも4.3事件と共通するものを感じる。

5月某日
連休最終日。図書館で借りた「川のある街」(江國香織 朝日新聞出版 2024年2月)を読む。舞台となる街も登場人物も異なる3つの短編小説がおさめられている。共通するのは舞台となる街が「川のある街」であること。帯に沿って粗筋を紹介すると…。両親の離婚によって母親の実家近くに暮らし始めた望子。そのマンションの部屋からは郊外を流れる大きな川が見える(川のある街)。…河口近くの市街地を根城とするカラスたち、結婚相手の家族に会うために北陸の地方都市へやってきた麻美、出産を控えた3人の妊婦(川のある街Ⅱ)。…40年以上前も前に運河の張りめぐらされたヨーロッパの街に移住した芙美子。認知症が進行するなかで思い出させるのは…。作者の江國香織は1964年生まれだから今年60歳。父はエッセイストの江國滋(1934~1997年)、江國香織は33歳のときに父親を亡くしたわけだ。それと関係があるかどうかわからないが、江國香織の他者を見る視線は優しい。

5月某日
図書館で読書。平日はすいている。昼飯はアビスタ前から坂東バスで我孫子駅前へ。蕎麦屋の三谷屋で天ぷらそばの並を注文。840円は割安感がある。帰りは歩いて図書館まで。少しは歩かないとね。図書館で読書を続ける。

5月某日
「日本の経済政策-「失われた30年」をいかに克服するか」(小林慶一郎 中公新書 2024年1月)を読む。著者の小林は慶應大学経済学部教授でコロナ禍では感染症対策の政策過程にも関わり、テレビでもその姿を見かけた。小林は当時、「PCR検査の拡充によって少しでもその不確実性を軽減し、経済活動を回復させることが正しい政策だと考えた」一方、感染症専門家などは、「PCR検査はあくまで感染者発見し治療につなげるためのツールだ」とし「経済の不確実性を軽減する効果などはまったく眼中になかった」。「この構図は、1990年代の不良債権問題において私たちが直面した問題とぴったりと重なる」。90年代の不良債権問題では「一方は、マクロ的、一般均衡的、あるいは国民一般にとっての正義」を主張し、「他方は、ミクロ的で、金融システムという専門領域に特化した部分均衡的な、専門家の正義」を主張した。小林は「こうした対立の構造は今でも分野を超えて広く日本社会に存在する」(いずれも「あとがき」から)としている。小林はマクロ的にあるいは一般国民にとっての正義という観点から、「失われた30年」を検証していく。
バブル崩壊後の1990年代初頭の不況対策の考え方は、オールド・ケインジアンの需要管理政策(公共工事の増加や減税によって需要を刺激する)が主流で、そこに政府の介入に懐疑的な古典派マクロ経済学につらなる構造改革論が対置された。小林によると、これら2つの政策思想は、どちらもフローの変数のみに着目し、ストックの変数の問題(不良債権問題)に注意を向けていなかった。90年代の不況の最大の問題は不良債権であったのだから、このような政策思想は完全にアウトであった。政策思想だけでなく政策当局も当時100兆円といわれた不良債権の処理を先送りした。先送りするなかで長銀、日債銀、ダイエー、そごう、拓銀、山一証券などの大型倒産が続いたことは私の記憶にも残っている。
不良債権後の処理後も日本経済の長期低迷は続いた。小林は次のような悪循環を指摘する。①不良債権の大量発生による企業間の相互不信で、企業間の分業が崩れ、生産性が低下する(デッド・ディスオーガニゼーション)②低生産性のもとでは、教育や技能向上など人への投資が低調になり、人的資本が劣化する③人的資本の劣化が一定程度以上進むと、サプライチェーンが委縮した状態は、不良債権がなくなっても続く④人的資本の劣化が進むと、企業間分業は採算が取れないので再生しないという悪循環が続く。ではどうすべきだったのか。小林は「結論から言えば、92年ごろに大手銀行に公的資本注入を行い、その段階で強力に不良債権の査定と直接償却処理を進めておけば、バブルの後始末は94~95年ごろには終了しただろう。その後の日本経済は通常の回復軌道に戻ったのではないかと思われる」としている。しかし問題の先送りと決定することのできなさ、指導層の責任感の欠如は江戸時代以来の昭和戦前期から現在までに通じる日本社会の宿痾のような感じが、私にはしてしまうのだが。
人的資本の劣化については私にも苦い思い出がある。私が社長をしていた会社は年金住宅融資関連の仕事が多かったのだが、小泉構造改革により年金住宅融資の新規融資は停止され、関連の仕事も大幅に減ってしまった。私は人減らしを進め、新入社員もとらなかった。今思うとあのときこそ、編集も営業も出来る人材を採用すべきだったのではと思う。人的資本の劣化を進めてしまったのだ。