モリちゃんの酒中日記 9月その2

9月某日
「はたちの時代-60年代と私」(重信房子 太田出版 2023年6月)を読む。重信房子ねぇ。重信は1945年生まれだから私とほぼ同世代。本書によると都立の商業高校を卒業後、キッコーマン醬油に入社。その後、キッコーマンに勤めながら明治大学文学部のⅡ部に入学、持ち前の正義感からブント(共産主義者同盟)が主導する明大の学生運動に参画する。1969年にブントが路線を巡って分裂したときは赤軍派に所属。 国際根拠地論に従って京大生の奥平剛士と偽装結婚、パレスチナに渡る。奥平はその後、リッダ空港銃撃戦で死亡する。本書には私が知らなかったブント分裂や赤軍派誕生の状況、連合赤軍の実態が描かれていてそれはそれで面白い。しかし私は当時好景気の絶頂にあった日本で、革命を現実として捉えていた彼らの感覚こそが面白い。私なども革命を夢想した学生の一人だが、赤軍派に加入するほど度胸は持ち合わせていなかった。重信が連合赤軍の指導者だった森恒夫とも親しかったことも明かされるが、同じ明治のブントの仲間だった遠山美枝子の死の報にパレスチナで接する衝撃にも驚かされる。
毛沢東主義の京浜安保共闘とブント赤軍派が連合したのが連合赤軍だが、毛沢東主義とブンドの違いについて重信は次のように主張する。「ブントと毛沢東派の問題の立て方は、根本的に違います。ブントは、路線問題など政治主義的に、その見解の一致を行動の一致、組織活動の基本としています…革命家の自覚を持って、恥じない範囲で自由に過ごそうということでしょう。教条主義ではないのです。プチブル的な自由主義であり、寛容とも言えるし、だらしない組織性で知られます」「ところが毛沢東派は、一般的にも当時は特に『四人組』の時代でもあり、日常生活の在り方一つ一つの中で、利己主義は無いか、走資派の芽は無いかという批判活動と、その追及を受けた自己批判など、告発し追求するスタイルの文化大革命・思想革命を重視していました。こうした毛沢東派的な見方でみれば、ブントの指導部含めて、みな失格の烙印を押されそうです」。この見方は当たっているように思う。ただ毛沢東派といってもいろいろあって、ブントのML派や日中友好協会(正統)に軸足を置く一派などがいた。ML派はゲバルトに強かったという印象が強いけれど…。

9月某日
「暗い時代の人々」(森まゆみ 朝日文庫 2023年9月)を読む。書店の文庫本の新刊コーナーに平積みされていたので迷いなく買う。図書館ばかりでなくたまには書店に行くべきだと思う。戦前、同調圧力に屈することなく自由の精神を貫いた真の〝リベラリスト″たちを描く小伝集。森まゆみ自身がリベラリストである。早稲田大学政経学部で藤原保信のゼミで学んだ影響があるのかもしれない。戦争中の帝国議会で反軍演説を行った斎藤隆夫の項で早大出身の斎藤に触れて「わたしも1970年代にこの大学に学び、興味深い授業は斎藤保信先生の授業とゼミぐらいだったが、何かというと『都の西北』を歌ったことを覚えている」と記している。森はリベラリストだが、時代が右傾化するなかで左派色が強まっているように私には思える。「文庫版あとがき」でも「単行本刊行後も、新型コロナの猖獗、無観客で行われた東京オリンピック、安倍元首相の銃撃事件、台湾有事や北朝鮮のミサイル攻撃の喧伝、そしてロシアとウクライナの戦争が起こった。それらを口実に米国から武器を買い、軍備を増強し、自由な言論の外堀は埋められ続けている(中略)『新しい戦前』という言葉も現実味を帯びてきた」と日本の現状を憂いている。深く同感。

9月某日
北朝鮮の金正恩委員長がロシアのウラジオストクを訪問、プーチンと会談したり夜はオペラを鑑賞したりしたことが報じられている。戦前は日本、ドイツ、イタリアの3国が軍事同盟を結びファシズム陣営を形成していた。現在はロシアと北朝鮮に中国を加え、権威主義の3国同盟を形成しているように私には思える。これも「新しい戦前」の現実化のひとつであろうか。アメリカやイギリス、日本、韓国、その他先進資本主義国家の現状は、貧富の格差が拡大しつつあるが、それでも前記のロシア、中国、北朝鮮の権威主義国家の現状よりは遥かに〝マシ″と考える。日本の民主主義の現状に満足してはいないが、若い世代に期待するしかないね。

モリちゃんの酒中日記 9月その1

9月某日
「B-29の昭和史-爆撃機と空襲をめぐる日本の近現代」(若林宣 ちくま新書 2023年6月)を読む。太平洋戦争末期、日本の主要都市が米空軍機による空襲にさらされ、その空爆の主役を演じたのがB29であるということくらいは私も知っていた。広島、長崎に対する原爆投下もB29によってなされたことも。しかしB29そのものや、B29開発に動いた米軍首脳の考え方について興味を持つことはなかった。B29による本土爆撃はそのほとんどが対象を軍基地や施設に限定しない無差別爆撃であった。しかし無差別爆撃はB29が初めてというわけではなく、日本軍の重慶爆撃やスペイン内戦におけるナチスドイツ空軍による無差別爆撃(これはピカソのゲルニカで描かれている)が知られている。本書によると朝鮮戦争でもB29による無差別爆撃が行われたし、ベトナム戦争ではB29の後継機、B52が無差別爆撃を行った。朝鮮戦争でもベトナム戦争でも爆撃機が飛び立ったのは日本本土や沖縄の米軍基地からだった。現在進行中のウクライナ戦争でもロシアは爆撃機やミサイル、ドローンなどで無差別爆撃を行っている。産業革命以降、科学技術は飛躍的に発展し、それが軍需に転用された。核融合の理論と技術は原子爆弾を生み、それは原発として民需に転用されている。現代は科学技術の発展=人類の発展と喜んではいられない時代なのであろう。なお本書にはB29が撃墜された際、撃墜機から脱出した米兵が捕らえられ、終戦時に捕虜虐待の証拠隠滅のため処刑された例が紹介されている。戦時中、鬼畜米英と唱えられたが鬼畜はどちらであったのか?

9月某日
「戦後日本政治史-占領期から『ネオ55年体制』まで」(境屋史郎 中公新書 2023年5月)を読む。新書ながら戦後80年に及ぶ政治史を簡潔にまとめている好著。私が政治らしきものに目覚めたのが60年安保の年の6月16日、朝起きると母親が緊張した表情で「昨日、女子学生が死んだんだよ」と教えてくれた。1960年の6月15日、日米安保条約の改定に反対する学生、労働者、市民が国会を取り囲み、混乱の中で東大の女子大生が亡くなった。私が学生運動に参加したのも1967年10月8日、当時の佐藤首相の訪ベトナムに反対して反日共系の学生が中心となって激しいデモを行い、その渦中で京大生が亡くなった。私は当時、浪人生だったが大学へ入ったら学生運動をやろうと心に決めたものだ。しかし、戦後の政治史のなかで学生運動が中心的に扱われたことはない(当たり前だけど)。本書でも第2章の「55年体制Ⅱ-高度成長期の政治」のなかで「新左翼の興亡」として1節が割かれているに過ぎない。改めて考えると60年代後半から70年代初めの学生運動の高揚期は高度経済成長期と重なる。人手不足は深刻で就職戦線は売り手市場、学生は選り好みさえしなければどこかには就職できた。「戦後日本政治史」に話を戻すと、戦後は官邸に権力が集中する過程だったんだなと思う。それは立法・行政・司法の3件の中で行政府(つまり官邸)が立法府に対して優位を確立する過程だったとも思う。それは大袈裟に言うとファシズムの予兆でもあるような気がする。タモリが「新しい戦前」と言ったのはこれらのことを指しているのではないか?

9月某日
「日韓関係史」(木宮正史 岩波新書 2021年7月)を読む。日本と韓国との関係は政府と政府の関係、経済を通じた関係、市民相互の関係などがある。本書は主として政府間の交渉を通して日韓関係を概観したものである。日本列島と朝鮮半島は日本海を挟んで隣り合っている。有史以来、日本は朝鮮半島の影響を受けて来たし、朝鮮半島もまた日本の影響を受けて来た。大和朝廷は朝鮮南部に日本府を設けた。朝鮮への進出を意図したが白村江の戦で敗退した。鎌倉時代、二度にわたって蒙古軍の侵略を受けたが、蒙古軍には多くの高麗の人々が含まれていたらしい。豊臣秀吉は日本を平定した後、中国大陸を征服する野望を抱き、手始めに朝鮮半島を侵略した。徳川政権は鎖国政策を続けたが、オランダ、中国(明、清)、朝鮮との交流は続けた。朝鮮の王朝は徳川政権に何度か使節を送っている。明治時代に日本は日清、日露の対外戦争を戦い勝利したが、戦争の原因の一つは朝鮮半島への影響力を巡ってのものだった。1910年に大韓帝国は日本に併合され、日本の支配は1945年の日本の敗戦まで続く。私の考えでは明治維新まで日本は朝鮮を先進国と見て来たのではないだろうか。事実、漢字や仏教、そして稲作や製鉄の技術などは朝鮮半島を経由して日本列島にもたらされた。
しかし明治維新後、日本は朝鮮を国として遅れた国と見做すようになり、1910年には日本に併合される。1945年の日本の敗北により朝鮮は独立するのだが、南北に分断されて状態が続いている。分断国家となった原因を作ったのは日本の韓国併合であったのは間違いのないところであろう。韓国独立後も韓国では政治的には独裁政権が続き、経済的にも日本の高度成長を後追いするしかなかった。この状態を著者は日韓の非対称性と呼ぶ。しかし1990年前後から韓国では民主化と経済成長が著しく進む。韓国と対照的に北朝鮮は庶民の生活を犠牲に軍事独裁体制を確立した。一人あたりのGDPを南北で比較すると1970年に北が386ドル、南が287ドルだったものが2018年には北688ドル、南33,622ドルと大差がついている。一人あたりGDPでは韓国は日本に並び、経済力では対称性が実現している。おそらく去年か今年には韓国は日本を追い抜くと思われる。しかし韓国も日本以上に少子化が進んでいるらしい。少子化という危機を共有し、かつ自由で民主的な社会という価値観を共有している二つの国家が、共栄、共存してゆくことを願うのみである。

9月某日
四川料理隨苑淡路町店で「山歩き同好会」の同窓会。この同好会は私が年友企画に在籍していた当時、私と社員の岩佐、村井さん、社会保険研究所の谷野さん、それに厚労省の酒井英行さんで近郊の山に日帰りで行っていたことから何となく緩くスタートした。酒井さんが勲章をもらったときに富国クラブを会場に同好会で祝う会をやったことを記憶しているが、その後はコロナもあってやっていない。今回は岩佐さんが音頭をとってくれて久しぶりの開催となった。酒井さんはお酒を辞めているということだったが、みんなで和気あいあいのときを過ごした。酒井さんから皆にお菓子が配られた。お勘定は谷野さんが払ってくれた。恐縮。

モリちゃんの酒中日記 8月その3

8月某日
「朝鮮王公族-帝国日本の準皇族」(新城道彦 中公新書 2015年3月)を読む。つい先だってアメリカのキャンプデービッドで日米韓の首脳会談が行われた。この3か国は特別な関係にあると思う。日米は1941年11月8日から1945年8月15日まで太平洋戦争を戦った。日本は韓国を1910年に併合し、敗戦まで支配下においた。朝鮮半島は日本の敗戦によって南は米軍の、北はソ連軍の支配下におかれた。南は大韓民国、北は朝鮮人民民主主義共和国として分断統治されている。日本の韓国併合まで韓国は大韓帝国として皇帝の支配する国だった。併合にともなって韓国の皇族は朝鮮王公族として、日本の皇族に準ずる地位と待遇を得ることになる。「異民族ながら『準皇族』扱いにされた彼らの思いは複雑であった。」「本書は、帝国日本に翻弄された26人の王公族の全貌を明らかにする」(本書の袖のコーピーより)。ということなのだが、戦争が終わってから80年近く経過し、日韓併合からは100年以上が経過している。正直あまりピンと来ない。そこで韓国皇帝の正統な後継者、王世子李垠(イウン)に嫁いだ梨本宮方子の母、梨本宮伊都子の目を通して、この結婚と当時の宮中社会を描いた小説「李王家の縁談」(林真理子 文藝春秋 2021年11月)を読む。

8月某日
「李王家の縁談」を読む。「李王家の縁談」について作者の林真理子が週刊文春の連載エッセー「夜ふけのなわとび」(9月7日号)で次のように書いていた。「もともと皇族や華族が大好きで、本も一冊書いている。文藝春秋から出した『李王家の縁談』は、朝鮮の皇太子に嫁いだ『梨本宮伊都子妃の日記』を元にしている。これが面白いの何のって。昔の皇族の妃が、いわゆる〝書き魔″で、克明な日記を書いているのだ」。林はさらに伊都子妃について「戦後は民主主義についていけなかった。テレビで見る正田美智子さんに憤慨したりしている」と書いている。明治維新によって士農工商といった身分制度は撤廃されたはずだが、皇族に加えて華族が新しい身分制度となった。華族は旧大名家や公家、維新の功労者などが列せられた。伊都子は鍋島侯爵家の出身で父親がイタリア公使としてローマに赴任していたときに産まれたことから伊都子と名付けられたという。戦後、朝鮮半島は日本帝国主義の支配から脱して南は韓国、北は朝鮮民主主義人民共和国として独立した。李王家の末裔はどうしたんだろう? 浅田次郎の小説に陸軍高官だった王世子の弟が、広島の原爆で爆死し、お付きの士官が拳銃自殺する小説があったと思う。これも泣かせるんだよね。

8月某日
「フェミニズム 『女であること』を基点にする」(加藤陽子 鴻巣友希子 上間陽子 上野千鶴子 NHK出版 2023年7月)を読む。別冊NHK100分de名著シリーズの一冊。私は加藤陽子の「伊藤野枝集」が面白かった。伊藤野枝は100年前の関東大震災の直後に当時、実質的に夫婦関係にあった大杉栄と一緒にいた甥と3人ともに憲兵大尉の甘粕正彦に殺害される。伊藤野枝の生涯は瀬戸内寂聴の「美は乱調にあり」や村山由佳の「風よあらしよ」などで描かれている。加藤陽子がとりあげた「伊藤野枝集」は岩波文庫で森まゆみが編集して2019年9月に出版されている。加藤は伊藤野枝が「百年以上前の日本で、仕事と子育てを両立することができたのでしょうか」という問いを発する。加藤は没落したとはいえ、それなりの教育を受けることのできた伊藤野枝の育ちと、仮設と断りながら「野枝は子育てに大きな喜びを感じていた」ことをあげている。なるほどねぇ。私は団塊の世代の多くの男性がそうであるように子育てに積極的に関わってこなかった。我が家において子育て、教育は母親つまりは妻の役割であった。母親と子供の関係はそれなりの緊張感もはらみながらも親密であった。私と子供の関係はと言えば、母親に比べれば疎遠、それは現在にも至る。

8月某日
「のろのろ歩け」(中島京子 文春文庫 1015年3月)を読む。解説の酒井充子によると「三者三様の女性たちがアジアの街にやってきた。文房具メーカーに勤める大学卒業二年目の美雨は台湾に、ファッション雑誌の編集経験十年、バリバリの編集者、夏美は北京へ。そして派遣スタッフだった亜矢子は、仕事を辞めて夫の駐在地である上海へ。三人が、それぞれの旅先あるいは滞在先で出会う人たち、小さな出来事によって、ほんの少しだけ返信する」と要約される。中島京子の小説に登場する女性たちはそれぞれに魅力的である。私には彼女たちが声高に女性の自立を叫ぶのではなく、それぞれの生き方が人間としての自立に基礎をおいていることから魅力的に感じるのではないかと思う。
 

モリちゃんの酒中日記 8月その2

8月某日
「松雪先生は空を飛んだ」(上下)(白石一文 角川書店 2023年1月)を読む。それなりに面白かったんだけど…・。空を飛ぶ能力を持った人たちの話し。松雪先生の私塾に学ぶ数人がある日先生に呼び出され、先生の血を飲まされる。それによって空を飛ぶ能力を身につけるのだが、私はオウム真理教、麻原彰晃の空中浮遊と血のイニシエーションを思い出させた。白石一文には「プラスチックの祈り」という荒唐無稽な小説があった。確か人間や街がプラスチックになってしまうというストーリーだった。ストーリーは荒唐無稽でも、そこに切実さがあれば小説としてはあり得るとおもうけれど、私の読むところでは本作にはその切実さが希薄であった。

8月某日
「かっかどるどるどぅ」(若竹千佐子 河出書房新社 2023年5月)を読む。若竹千佐子は1954年、岩手県遠野市生まれ。岩手大学教育学部卒。卒業後は臨時教員をへて専業主婦。55歳で夫を亡くし息子のすすめで小説講座で学ぶ。「おらおらでひとりでいぐも」で63歳で作家デビュー。本作は小説としては2作目。主な登場人物は5人。女優の夢を捨てきれず、つましい暮らしを送る60代後半の女性。舅姑の介護に明け暮れ、自分を持たぬまま生きてきた68歳女性。大学院を出たものの就職氷河期に重なり、非正規雇用の職を転々とする30代後半の女性。生きることに不器用で、自死を考える20代の男性。心もとない毎日を送る4人は、引きつけられるように古いアパートの一室を訪ねるようになる。そこでは片倉吉野という不思議な女性が、訪れる人たちに食事をふるまっていた。…というのがこの小説の大雑把な前提だ。超高齢社会で格差社会でかつ孤立社会でもある現代日本の断面を描きつつその再生も展望する小説。読んでいて心が温まります。

8月某日
「腹を空かせた勇者ども」(金原ひとみ 河出書房新社 2023年6月)を読む。表題作と「狩りをやめない賢者ども」「愛を知らない勇者ども」「世界に散りゆく無法者ども」という4つの短編で構成されている。主人公は中学3年生から高校1年生までのレナレナ。レナレナのママとパパ、中学校の同級生、そして行きつけのコンビニの店員で中国からの留学生が主な登場人物である。作者の金原は1983年生まれで、レナレナの親と同じ世代であろう。そして私の子どもと同じ世代でもある。ということはレナレナは私の孫と同世代ということになる。レナレナは同級生はもちろんのこと中国からの留学生とも心を通わせる。だが両親、とくにパパとはうまくコミュニケーションがとれない。パパの存在感は一貫して薄い。結局、この小説社会は女たちによって支えられている。現実の日本社会は女性の進出が進んでいるとは言っても男性社会である。だが10年、20年経過してレナレナたちが社会の中堅を担うようになったら、そこは変わる可能性がある。その可能性を大きく予感させる一作であった。

8月某日
「日本人が知らない戦争の話-アジアが語る戦争の記憶」(山下清海 ちくま新書 2023年7月)を読む。太平洋戦争という呼び方は日本がアメリカに負けた後に、米国政府や米軍の意向に沿って決められたと思う。日本では日米開戦後、大東亜戦争という呼称が用いられている。太平洋戦争では中国大陸の戦争やビルマでの戦闘をイメージすることは難しい。地理的には大東亜戦争という呼び方がしっくりすると思うが、戦後の日本人には受け入れがたかった。それで本書ではアジア・太平洋戦争という言い方をしている。「日本人が知らない」というタイトルの通り、本書には私たちの知らない戦争の現実が記されている。真珠湾の奇襲からほどなくして日本陸軍は英領のシンガポールを陥落させた。シンガポールは中国系の人々(華人)が住民の多数を占めたが、多くの華人が日本軍の手により虐殺された。オランダ領であったインドネシアでも、住民を虐待した例は多い。ナチスドイツのユダヤ人虐殺を視野に入れると鬼畜米英ではなく、鬼畜日独こそがふさわしいと思えてくる。広島、長崎への原爆投下もあって、我々は日本人を戦争の被害者ととらえがちだ。もちろん無差別爆撃による被害者としての側面もあるのだが、中国や東南アジアの人々に対しては、私たちは加害者なのだ。そのあたりについて私たちは自覚的にあるべきだろう。ところで本書では各章の最後にコラムとしてちょっとした話題が提供されている。「日帝が残したタクワン」というコラムでは、韓国で食事をすると「キムチではなくタクアンが出てくることも多い」、韓国では、「日帝(日本帝国主義)の持ち込んだもので、よかったものはタクワンだけ」と言われているそうだ。

8月某日
年友企画の岩佐さんの呼びかけで神田駅近くの「さかながはねて」に17時30分に集合。集まったのは岩佐、社保研ティラーレ社長の佐藤さん、フィスメック社長の小出さん、社会保険出版社の高本社長そして私。2時間30分食べて呑んでそれでひとり5000円はリーズナブル。退職して以来、私はひとりで呑むことが多い。ひとり呑みの良さもあるがたまには集まって呑むのも悪くない。幹事をやってくれた岩佐さんに感謝である。

モリちゃんの酒中日記 8月その1

8月某日
大学時代の同級生と会食。13時30分に京橋の明治屋ビル地下のレストラン「モルチェ」に集合。弁護士をやっている雨宮先生以外はリタイヤ組。もっとも元いすゞ自動車の内海君はイタリヤの会社に呼ばれて年に何回かあちらにいっているらしい。元伊勢丹の岡君は親の介護のため、60歳で退職した。あとは元三鷹市社協の吉原君と私の5人。そういえば、1969年の4.28(4月28日のこと)、内海君や近ちゃん(近藤さん)、島崎君らとデモ見物に行って機動隊に襲われたことがある。内海君と近ちゃんは逃げ遅れて逮捕されてしまった。。確か京橋の近くの宝町あたりだった。内海君にそのことを話すと「俺は銀座の真ん中で捕まったの」と譲らない。吞んで食べて喋っていたら3時間ほどはあっという間に過ぎてしまい、店の人に「そろそろ」と言われてしまった。

8月某日
「インフレ・ニッポン-終わりなき物価高時代の到来」(大塚節雄 日本経済新聞出版 2023年4月)を読む。日本は長くデフレだった。しかし長引くコロナ禍で需要も減ったが供給力も減少した。それに昨年2月のロシアのウクライナ侵攻である。原油や小麦が高騰した。通貨としての円も下落し輸入物価の高騰に拍車をかけた。今年3月に日銀総裁を辞めた黒田氏(それと安倍元首相)は2%の物価上昇を公約したが、任期中は実現できなかった。辞めたとたんに実現されるという皮肉な結果となった。著者の大塚は日本経済新聞社の編集委員で2022年4月の日経新聞電子版に「ウクライナ危機で資源高に根ざす輸入インフレは日銀の想定を超えて進んだ。資源を海外に頼る日本にとって輸入インフレは海外への所得流出を意味し、家計の『所得デフレ』や内需型企業の『収益デフレ』に等しい」と書いている。著者は最後に日本経済に幾つかの提言を行っている。私がもろ手をあげて賛成したいのは提言③の「失われた『賃上げメカニズム』の歯車を回せ」である。私の考えでは、毎年3~5%の賃金上昇、それを0.5~1%下回る物価上昇、これがあれば日本経済はうまく回るはず。

8月某日
御徒町駅近くの清瀧上野2号店でデザイナーの土方さん、HCM社の大橋さん、年友企画の石津さんと会食。土方さんから佃煮、石津さんからお煎餅などのお土産をいただく。土方さんとの出会いは10数年前。土方さんが開発した「胃ろう吸引シミュレーター」の販売を巡ってだった。販売を当社が引き受けたのだが、専任の営業を置くことができずに伸び悩んでいた。そんなときにHCM社が販売を引き受けてくれた。土方さんと大橋さんとはそれ以来、仲良くさせてもらっている。こうした呑み会の場合、お互いの近況報告がメインとなるが、年金生活者の私はもっぱら聞き役。土方さんにご馳走になる。

8月某日
「白鶴亮翅」(多和田葉子 朝日新聞出版 2023年5月)を読む。タイトルの白鶴亮翅は「はっかくりょうし」と読み、太極拳のポーズのひとつ。「鶴が右の翼を斜め後ろに広げるように動かして、後ろから襲ってくる敵をはねかえす」ポーズのようだ。物語は現代のベルリンが舞台。夫のドイツ留学についてきたミサとミサを巡るベルリンの友人たちを巡る物語だ。留学を終えて夫は帰国するがミサはベルリンに残る。ミサは隣人のMの誘いで太極拳を習い始める。多和田葉子も確かドイツ在住だから作者のドイツ体験が物語の底流にあるのは確かだ。ドイツでドイツの歴史を体感し、また日本の歴史を想う-それも自然な形で。
なかなか素敵な物語として私は読んだ。

モリちゃんの酒中日記 7月その3

7月某日
床屋さん「カットクラブパパ」へ行く。以前行っていた「髪工房」が突然、閉店したのでこのところ「カットクラブパパ」へ行っている。髪工房の店主は私よりも年上だったが、カットクラブのほうは私よりもだいぶ若い。今回も髪を短めに仕上げてくれる。終ってから床屋近くの食堂「三平」へ。ここは年配のご婦人が数人でやっている昔ながらの食堂。五目チャーハンを食べる。5時30分に我孫子駅北口へ立憲民主党の岡田克也幹事長が演説に来るというので観に行く。30分ほど前に行ったがすでに数十人が集まっていた。圧倒的に高齢男子が多い。政治に背を向ける若い人たち。日本の将来は大丈夫か?岡田幹事長の演説は可もなく不可もなし。

7月某日
「東京史-七つのテーマで巨大都市を読み解く」(源川真希 2023年5月 ちくま新書)を読む。東京は明治維新後に日本の首都となり、関東大震災、東京大空襲を経ながら膨張を続けてきた。無秩序な膨張を繰り返してきたように見えるが、内務省や東京市によってそれなりの規制を受け、都市計画も存在した。にしても東京の魅力とは何であろうか? 西欧的な秩序とアジア的な混沌。この二つの混在か。

7月某日
「我が産声を聞きに」(白石一文 講談社 2021年7月)を読む。「来週の木曜日、空いている?」と夫の良治に言われ、名香子は夫とともに車で中華レストランを訪れる。食事を終えてデザートを食べているとき、夫から切り出されたのは「実は好きな人がいる、彼女と暮らすことにした」という別れ話だった。自宅その他の財産も、退職金の半分も名香子に渡すという。こんなこと突然、配偶者から言われたらショックだろうなぁと思う。名香子もそうだった。しかし名香子はショックを契機に徐々に変わっていく。飼い猫のエピソードが効いている。二番目の飼い猫ミーコは失踪してしまうのだが、ラストでは庭に迷子猫があらわれるシーンだ。子猫が再生のシンボルのようだ。

7月某日
「投身」(白石一文 文藝春秋 2023年5月)を読む。舞台は2022年の東京、品川。主人公の49歳の女性、旭(あきら)は「ハンバーグとナポリタンの店 モトキ」を品川区役所の近くで営業している。コロナ禍で客足は遠のいている上にロシアのウクライナ侵攻で食品の仕入れ値が高騰し、経営は苦しい。しかしモトキの常連でもある大家の二階堂さん(79歳)が家賃を格安に抑えてくれているので何とか赤字は免れている。旭の妹、麗、麗の夫の藤光との交流(実際は旭と藤光の性交を伴う交情)やかつての旭と年下の専門学校生、ゴローとの性交を伴う交流が描かれる。まだ周囲には知られていないが、二階堂さんは認知症を患っている。結局、二階堂さんは東京湾に船を出し、投身自殺をする。私は多摩川で入水自殺した西部邁のことを思い出さずにはいられなかった。西部は認知症ではなかったが、自身の老いが耐えられなかったということでは二階堂さんと共通するところがある。さらに二階堂さんも西部も妻を先に喪っている。そういえば、江藤淳も奥さんが亡くなった後に自殺している。男って弱いんだな。

モリちゃんの酒中日記 7月その2

7月某日
虎ノ門の日土地ビルにフェアネス法律事務所を社保研ティラーレの佐藤社長と訪問。佐藤社長には元衆議院議員の樋高さんが同行。渡邊弁護士からアドバイスを貰う。虎ノ門から銀座線、南北線を乗り継いで駒込へ。駒込駅で社会保険研究所や年友企画で校正をやっていた渡邊さん(通称ナベさん)と待ち合わせ。ナベさんは私が業界紙(日本木工新聞社)に勤めていた頃の同僚。同じく同僚だった高橋君(通称チャーリー)は亡くなったということだ。私とナベさんは同じ1948年生まれだが、チャーリーは1、2歳年下の筈。駒込駅に隣接するホテルメッツのレストランで私は遅いランチ、ナベさんはアイスコーヒー。17時近くなったので駅の反対側の居酒屋へ。ナベさんはほとんど飲まない。私はハイボールを2杯程。今度はナベさんの家の近くの朝霞台あたりで呑むことにしよう。我孫子へ帰って、呑み足りないので「七輪」で一杯。

7月某日
「会いにゆく旅」(森まゆみ 産業編集センター 2020年1月)を読む。著者の森まゆみは1954年生まれ、早稲田大学政経学部卒で確か藤原保信門下。84年に地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(通称・谷根千)を創刊、09年の終刊まで編集人を務めた。私は雑誌「年金と住宅」の連載「古地図を歩く」で谷中の大円寺を訪ねたとき、「谷根千」を販売していたスタッフに会っている。「古地図を歩く」の筆者、中村さんが販売スタッフを「少女のような」と驚いたことを覚えている。確かに化粧っけもなく髪も短くしていた販売スタッフは若く見えたことは事実だが「少女のような」は言い過ぎであった。今から思うとその人は編集同人のひとり、山崎範子さんであったと思う。「会いにゆく旅」は森まゆみが酒や温泉を求めて「会いにゆく旅」を綴ったもの。酒好き温泉好きの私にはたまりません。

7月某日
「父のビスコ」(平松洋子 小学館 2021年10月)を読む。平松洋子は1958年、岡山県倉敷市生まれ、東京女子大学文理学部卒。私とは10歳違いだし向うは女子大卒だし、共通点はないのだが、何となく価値観を共有している思いがある(まぁ個人の感想ですけれど)。7月になって猛暑が続く。「洲崎パラダイス」(芝木好子 ちくま文庫)を読む。1955年に講談社から刊行された。洲崎は現在の江東区東陽町1丁目で明治期に根津から移設された遊郭があった。戦後、洲崎パラダイスという名称を掲げたゲートが設けられ「特飲街」と称した。ゲートの前の一杯飲み屋に勤める女と遊郭を訪れる客の姿を描く。芝木は1914-91年。私の両親より9歳年長である。図書館で同じ芝木好子の「新しい日々」(書肆汽水域 2021年8月)を借りて読む。著者の死後編まれたアンソロジー。良質なテレビドラマを観る思いで読んだ。

7月某日
厚生労働省の医系技官だった高原亮治さんは、厚労省退職後、上智大学教授などを務めその後、高知県で地域医療を担う診療所の医師となった。しかしほどなく急死したという知らせがあった。心臓に持病があったようだ。高原さんは岡山大学医学部卒。東京都を経て厚生省に入省した。高原さんは岡山大学医学部全共闘の闘士で、死後に会った岡大の同級生が「高原が東大闘争から帰った後、火の出るようなアジ演説をしていた」と語っていた。もっとも私の知っている高原さんは本好きで話の面白いおっさんだった。高原さんと同じ日に厚労省を退職したのが堤修三さん。それから高原さん、堤さん、私の3人で良く呑みに行った。この日は高原さんの10年目の命日、堤さんと四谷の上智大学の隣にある聖イグナチオ教会の納骨堂にお参り。その後で四谷新道通りで堤さんと一杯。

モリちゃんの酒中日記 7月その1

7月某日
「卑弥呼とヤマト王権」(寺沢薫 中公選書 2023年3月)を読む。本書の袖に「本書では纏向遺跡から出土した数々の遺構と遺物を詳細に紹介し、この遺跡がヤマト王権の最初の大王都だったことを明らかにする」と紹介されている。1971年12月、同志社大学考古学研究室(森浩一教授)の3回生だった著者は纏向遺跡の発掘調査に関わることになる。著者は纏向遺跡が、卑弥呼を初代大王とするヤマト王権の都であったと主張する。もちろん古墳から発掘された勾玉や剣などから推測していくのだが、最近の考古学では古墳の内部の土壌や植物の種を採取、分析したりするらしい。著者はさらに中国の歴史書、魏志倭人伝も参照しヤマト王権と中国の王朝との交流を詳らかにする。ヤマト王権は弥生時代の末期から古墳時代(飛鳥時代)に該当するが、稲作の開始とも時期を同じくする。「農業生産力は開発力(水田面積)と生産性(単位当たり収量)の両輪で決まる。前者にかかわるのは土木技術力と労働の総量、後者にかかわるのは栽培技術力と労働の集約力である」と著者は語る。戦前の天皇制神話についても「それが人民支配のために時の国家権力が生んだフィクショナルな共同幻想であったとしても、その古層には、前方後円墳祭祀から引き継がれた『神霊の不変性』に対する信仰があった」と(私にとっては)公平な評価を下す。

7月某日
週2回、月曜日と木曜日がマッサージの日。歩いても15分程度なのだが、本日は同居している長男が休みなので車で送って貰う。予約は11時からで最初の15分がマッサージ、残りの15分で電気をかける。マッサージのときはマッサージのお兄さんと世間話。マッサージの店を出ると長男が車で待っていてくれた。家へ帰って昼食。昼食後、家から歩いて5分の我孫子市民図書館へ。クーラーが効いている図書館で読書。アビスタ前からバスで我孫子駅前へ。北口にあるイトーヨーカドーの我孫子ショッピングモールへ。3階の書店で桐野夏生の最新作を購入。我孫子駅前からバスで帰宅。

7月某日
昨日買った「もっと悪い妻」(桐野夏生 文藝春秋 2023年6月)を読む。2015年から23年に発表された6つの短編がおさめられている。6つの短編の読後感は爽快とはいかない。むしろ不穏な読後感か。桐野の小説には短編にしろ長編にしろこの不穏な読後感が付きまとうことが多いように私には感じられる。21世紀の日本が行き着いた気分が「不穏」なのだ。家庭内離婚や離婚、配偶者の死などが描かれるが、どれも安定とはほど遠い。現代を描く小説の宿命かもしれない。

7月某日
神田の古書店で100円で購入した「義経伝説-歴史の虚実」(高橋富雄 中公新書 1966年10月)を読む。今から57年前、私が18歳の頃に刊行された本である。当時定価200円であった。判官贔屓という言葉が残っているように源義経は今も人気の高い平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将である。平家追討では中心的な役割を果たしながら、兄である頼朝に疎まれ、ついには奥州平泉で悲劇的な生涯を終える。頼朝との不仲の淵源を著者は、義経は「素朴に兄の片腕になるつもりで馳せ参じた」が、兄頼朝は「従者としての服従を求めるようになった」ことにあるとする。「義経は都で育ち、畿内で展開する」。伊豆で育ち伊豆で挙兵する頼朝とは、育ちが違うのである。私が思うに頼朝は義経の持つ都会的で洗練されたセンスを嫌ったのではないか。「平家海軍国際派」という言葉があって、洗練はされていても、泥臭くて実力が上回る源氏や陸軍には勝てないことを言う。義経は源氏の中にあって平家的つまりは都会的なセンスを身に付けていた。それが頼朝には許せなかったし梶原景時との諍いにも通じることになる。「義経記」は「『義経が追討する物語』ではなしに『追討される物語である』」ともしている。一種の貴種流離譚でもある。義経主従には反東国意識が一貫している。「鎌倉幕府の成立は、西と東の抗争史において、はじめて東の優位、西野没落をもたらしたできごと」であり、「義経固有の勢力は、広い意味で西がたの力である」。なるほどねぇ。頼朝と義経の「関係をもし倫理的にいうならば、体制主義者の頼朝が正統倫理を代表し、義経は体制倫理以前の人間世界を生きようとする」とも述べている。頼朝は革マルや民青であり、義経は全共闘であったともいえるのではないか。

モリちゃんの酒中日記 6月その4

6月某日
「保守の遺言-JAP.COM衰滅の状況」(西部邁 平凡社新書 2018年2月)を読む。先週読んだ保阪正康の西部との交流を綴った「Nの廻廊」に触発されて西部の本を読むことにした。西部は18年の1月に自裁しているから本書は最期の著作である。西部は60年安保の指導者から後に東大教授、東大教授辞任後は保守派の論客として知られる。しかし本書を読む限り、私は西部を穏健なナショナリストと呼びたい。核武装論者としての西部は「日本領土が核攻撃された場合にのみ報復核として相手国に打ち込むことが許される」と極めて限定的な核武装論者である。私は日本国憲法の平和主義を支持しているが、論理的に分析的に支持しているわけではなく感情的にセンチメンタルに支持しているに過ぎない。そうした意味でも西部の論は再評価されるべきと思う。本書の終了間際に「ごく最近、僕の旧友の未亡人唐牛真喜子さんが71歳で身罷った」の一文がある。私は生前の真喜子さんと親交があり何度か食事をした。西部の自殺を知ったとき真喜子さんが気落ちしているだろうと電話したら、知らない女の人から「唐牛は死にました」と知らされた。癌を患っていたそうだが、誰にも知らせなかったという。西部も真喜子さんもそれぞれの死を死んだというべきか。

6月某日
小中高校が同じだった佐藤正輝君。札幌でコンピュータソフトの会社を起業した。正輝君が上京するというので、山本君が音頭をとって高校の同期が集まることに。5時50分に神田駅北口集合ということで定刻に行ったら誰も来ていない。山本君の携帯に電話しても出ないので予約していた中華料理屋に行っても誰も来ない。7時まで待っても誰も来ないので、お店の人に「行き違いがあったようです」と言って店を出る。神田から上野に行って駅構内の釜めしや「シラス釜めし」とビールを頼む。ビールを呑んでいたら山本君から携帯に着電。
約束は明日であったことが判明。

6月某日
神田駅北口に5時50分に集合。9人ということだったが1学年下の井出君が少し遅れるということなので8人で出発。上海台所という中華料理店に向かう。少し道に迷っていたら井出君が先についていた。女子2名、男子7名で乾杯。私と山本君と佐藤正輝君は室蘭市の外れの水元町出身だが、本日はそれに上野君が加わる。上野君は青学の英文科出身で卒業後はJALに就職した。本日は飲み放題食べ放題で3800円だったが、一律3000円で残りは正輝君が負担してくれた。「さすが社長!」。帰りは私と山本君は千代田線で新お茶の水から帰り、それ以外は神田から帰った。

6月某日
「労働の思想史-哲学者は働くことをどう考えてきたか」(中山元 平凡社 2023年2月)を読む。著者の中山元は1949年2月生まれ、東大教養学部教養学科中退とある。私と同じ学年で東大中退ということは東大全共闘だったかもしれない。本書は働くことの意味を古代から現代まで、思想家たちはどのように考えてきたか概観している。中山はマルクスやカント、ルソー、ヘーゲル、ウェーバーの訳者でもある。人類の誕生は数百万年前、類人猿が二足歩行を始めたのが発端と言われている。前足を「物をつかむための道具として」利用できるようになり、同時に「頭蓋が発達して大きな脳髄を収容することができるようになった」。そして「口と舌と喉が、言語を発する器官として発達していく」。言語の獲得、これこそが人間を他の動物と区別する最大のものだろう。旧石器時代を経て新石器時代になると人々は定住と農耕を始める。やがて都市が形成され、余剰生産物が蓄積される。穀物の量を記録するために文字が発明され、文字を操る官僚組織が誕生した。官僚や神官を統御し、対外戦争を指揮する王権も生まれた。「労働は苦痛」という労働観が広がり、労働を修行ととらえたのが修道院である。
「労働するということは、今そこにある欲望を抑制し、消失を延期させることだ」としたのはヘーゲルである。ヘーゲルにおいて「労働はたんなる労苦ではなく人間らしさを形成するものとして」きわめて肯定的に描かれた。資本制社会における分業の重要性を指摘したのはアダム・スミスである。スミスとヘーゲルの思想を受け継いだマルクスとエンゲルスは「労働の疎外を廃絶するためには、現在の所有の形式に依拠し」ている国家を「革命によって廃絶しなければならない」と考え、分業が廃止される協同社会(ゲマインシャフト)、すなわち共産主義社会の実現を主張した。20世紀はフォーディズムやテーラーシステムによる大量生産大量消費の時代であった。20世紀後半に登場したロボットとAIは生産性を大幅に向上させる。マルクスが描いた分業が廃止された共産主義社会「私は今日はこれをし、明日はあれをするということができるようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、朝には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批判をすることができるようになる」(ドイツ・イデオロギー)が可能になるのだ。

モリちゃんの酒中日記 6月その3

6月某日
「ゆうべの食卓」(角田光代 オレンジページ 2023年3月)を読む。オレンジページというのは「料理雑誌オレンジページなどを出版する出版社」(ウイキペディア)ということ。「本書は『オレンジページ』2020年7月2日号~2023年2月17日号に掲載された「ゆうべの食卓」に、新たな原稿を加え、再構成したものです」と巻末に載せられている。ひとりの、二人の、家族の食卓の風景…。なんかいいなぁ。表紙と本文中のイラストが洒落ている。

6月某日
11時30分からマッサージ。マッサージ店のすぐ前のバス停「若松」から「我孫子駅前」に乗車。八坂神社前から床屋さんまで徒歩5分。床屋さんで髪を短くしてもらって、公園坂を下って手賀沼のほとりまで歩く。平日のお昼時だが家族連れが何組かいた。家へ帰って遅い昼食。
「Nの廻廊-ある友をめぐるきれぎれの回想」(保阪正康 講談社 2023年2月)を読む。Nとは5年前に自裁した思想家の西部邁のこと。著者の保阪は西部の1歳下(保阪は1939年生まれ、西部は38年生まれ)で同じ中学へ列車と電車で通う仲だった。保阪は札幌東高校から同志社大学へ、西部は札幌南高校から東大へと進学し、二人の交流はいったん途切れる。しかし西部が東大教授を辞め、保阪が昭和史のドキュメントを発表するころから二人の関係は復活する。読んでいて保阪の西部に対する親愛の情と尊敬の念がひしひしと感じられた。西部には一度、講演をお願いしたことがある。年金住宅福祉協会が帝国ホテルで月1回の朝食会兼の勉強会があり、その講師を頼みに行ったのだ。当時、年住協の企画部長をしていたのが竹下隆夫さんで、竹下さんは前職が冬樹社という文芸出版社の編集長で西部とも面識があったのだ。朝食会なので朝が早く、西部には部屋を用意したのだが現れなかった。しかしさすがプロというべきか、時間通りにちゃんと現れて講演もそつなくこなしていた。そんなことも思い出した。

6月某日
「Nの回廊」を読んで西部邁のことをもう少し知りたくなった。我孫子市民図書館のHPで西部を検索する。出版年月日が現在に近い順から表示されるのだが、最初に表示されたのが「達人、かく語りき」(沢木耕太郎 岩波書店 2020年3月)だったので早速借りることにする。吉本隆明、吉行淳之介、田辺聖子ら10名との対談集である。西部とは5番目に「1960年代を中心に」というタイトルで収録されている。この対談での西部は皮肉屋の側面を見せずに自分の60年代を淡々と振り返っている。日米安保の空前の反対闘争が闘われた1960年は日本社会党の委員長だった浅沼稲次郎が、演説中に日比谷公会堂で山口二矢に刺殺された年でもある。西部が保阪と通学した中学は札幌の柏中学だったが、山口二矢は柏中学で4年後輩だったと対談の中で明らかにされている。何といってもこの対談集の圧巻は巻頭におさめられた吉本隆明との対談であろう。沢木はこう記している。「実際に寿司屋の二階でお会いすると、吉本さんは対談のためのノートを作ってきており、それをもとに話を進めてくださった。話す中で、吉本さんが私の作品の多くを読んでくれていることを知った」。沢木の吉本に対する敬意の念が伝わってくる文章である。

6月某日
立川に本部のある社会福祉法人にんじんの会の評議員会に出席。我孫子から新松戸、新松戸から西国分寺、西国分寺から立川へ。立川駅から本部まで歩いていると「モリタさん」と声を掛けられる。理事長の石川はるえさんである。本部に行くと評議員で厚労省OBの中村秀一さんや吉武民樹さんも顔を出す。決算報告を受けるがコロナ禍にもかかわらず収入も利益も増加している。経営陣の努力もあるが職員が自分事として業務の改善に取り組んでいることを評価したい。評議員会後、近くの美登里寿司で食事。

6月某日
監事をしている一般社団法人の総会が東京駅八重洲口の会議室で開催されるので東京駅へ。会議が1時30分からなので八重洲口界隈でランチ。再開発から取り残されたような居酒屋で天丼定食をいただく。700円は安い。総会は無事終了。17時30分から有楽町で堤修三さんとの会食があるので有楽町まで歩く。予約してある「呑み処五島」は東京交通会館の地下1階にある。地下1階にはピアノが置かれていて街角ピアノとなっている。ベンチに座って聴いていると堤さんが来る。堤さんは「外では酒を呑まないようにしている」とかで、生ビールの後はウーロン茶。私はビールの後は水割り。有楽町で私は上野へ、堤さんは恵比寿へ。