社長の酒中日記 10月その3

10月某日
シルバーサービス振興会の月例研究会を聞きに行く。今回のテーマは「高齢者が要介護状態に陥る過程を正しく理解し、「老いの生き方」を考える」で副題は「日本老年医学会が提唱する「フレイル」の概念と研究成果を理解する」。講師は桜美林大学老年学総合研究所所長で医師の鈴木孝雄氏。結論から言うと非常に面白かった。私も今年68歳、世間では立派な老年の部類である。だから鈴木氏の講演も他人事ではなく自分事として聞いた。印象に残ったのはフレイル、肉体的虚弱のことだが、脳のフレイルが認知症でありどちらも早期に取り組めば予防可能なこと。認知症の危険因子には加齢や遺伝因子という不可逆的なものもあるが、予防や管理が可能な可逆的因子もある。高血圧、糖尿病、高脂血症といった生活習慣病リスクの管理、適度の飲酒(赤ワインがいい)、喫煙習慣の停止である。鈴木氏が強調したのは、①中度以上の身体活動②知的活動の実施③社会活動の実施、の3点でソーシャルダンスがお勧めということだった。私はゴルフもいいと思いますけどね。

10月某日
初台リハ病院や私が入院していた船橋リハ病院を運営しているのが「輝生会」。その理事を務め日本訪問リハビリテーション協会の会長もやった伊藤隆夫さんが退職するということは前にも書いた。我孫子でご馳走してくれるというので「コ・ビアン」で6時に会う。私が脳出血で倒れた後、救急車で運ばれたのが柏の名戸ヶ谷病院。退院するころに当時、厚労省にいた中村秀一さんから「退院したらどうするの?」と聞かれ「どこか近くのリハビリ病院にしようと思う」と答えたら「船橋リハビリ病院がいいからそこにしなさい。伊藤隆夫さんという理学療法士に頼んであげる。伊藤さんも早稲田だよ。革マルだけど」と言われたのを思い出す。私は「革マルかぁ。まさか入院患者を襲うことはないだろう」と思ったのは事実です。だけど船橋リハ病院は大正解で、伊藤さん以外のOT、PTもとても有能でやる気があった。病室も食事も実に快適であった。そんな昔話のあと、伊藤さんが退職後に移住しようとしている和歌山の話に。和歌山高齢者生活協同組合の市野さんや生活福祉研究機構の土井さんのことを話して「いずれ紹介しますよ」ということにした。

10月某日
図書館で「華族誕生―名誉と体面の明治」(浅見雅男 講談社学術文庫)が目についたの借りることにする。華族とは明治維新後に旧幕時代の公家、将軍家、大名および明治維新に功績のあった士族たちに与えられた「公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵」の称号とそれに見合った処遇を得た人々のことだ。現行憲法の発効と同時に消滅したし、およそ庶民とはかけ離れた存在であることは確かなのだが、先ごろ三島由紀夫賞を受賞した蓮見重彦の「伯爵夫人」からもわかるように小説世界では身近な存在だ。どういう爵位を授けるかには公爵は旧摂家、徳川宗家、国家に偉勲ある者、侯爵は旧清華家、徳川三家、旧大藩知事、旧琉球藩王、国家に勲功ある者といった基準があったのだが、「あいつが侯爵なのに俺はなんで伯爵なのか」といった不平不満は結構あったらしい。そこらへんの人間臭いエピソードを交えて家族という視点から明治という時代を巧みに描いていると私には思えた。

10月某日
本日より3泊4日の予定でフィリピン出張。介護現場の人手不足は深刻で厚労省の推計では2025年には約38万人が不足するといわれている。EPA(経済連携協定)でフィリピン、インドネシア、ベトナムの「介護福祉士」候補を受け入れているが、これまでの累計で3800人にとどまっている。今回の出張ではフィリピンで介護福祉士候補に日本語教育を実施しているNTトータルケアの協力を得て、日本語教育現場を視察さらに日本語教育を受けている学生さんと模擬面接をすることになっている。朝、7時半に民介協の佐藤理事長、阿部副理事長、三木副理事長、扇田専務、それにソラストの柴垣さんと待ち合わせ。マニラ空港到着後、迎えの車でマニラ首都圏モンテンルパ市のアラバンにある「NTセンター」を訪れるとNTグループの高橋会長が迎えてくれる。日本語を学習している教室を見学した後、4人の学生さんと個別に模擬面接をすることが出来た。4人はいずれも看護師の資格を持つ。日本語はまだ片言だが日本で介護の仕事をすることについての強い熱意を感じた。
夕食は近くのカントリー俱楽部のレストランで高橋会長にご馳走になる。高橋会長の隣に座ったのでいろいろな話を聞くことが出来た。NTトータルケアの本社は大阪にあるが、会長は新宿区の中井で小学生まで過ごす。それから大阪へ移り大学は慶応大学。応援団に所属していたそうで当時の6大学野球にも詳しかった。ネットワールドホテルに宿泊。

10月某日

9時にホテルを出発。NTトータルケアが経営するリタイアメントコミュニュティTropical Paradise Village(以下パラダイスと略)を視察。マニラから車で3時間ほど北上、クラーク空港のさらに先にパラダイスのあるスービックがある。米軍の海軍基地があったところで治安も良好という。パラダイスの本部でトロピカル・フルーツをいただきながら門口施設長から話を伺う。フィリピン人スタッフの多くは「NTセンター」で日本語研修を終えた後、パラダイスへ来て日本語会話力を磨きつつ介護の実際や日本の習慣、社会人としての常識も学ぶ。現在、94歳を筆頭に6人の高齢者がパラダイスには住んでいる。建物は元米軍将校の宿舎だったものを50年リースで国から借りているという。規格はアメリカ規格で当然のようにバリアフリー化されていた。スービックで中華料理をいただいてからホテルへ帰る。

10月某日
高橋会長がメンバーのKCカントリークラブで懇親ゴルフ。私は高橋会長、扇田専務と回る。高橋会長はシングルの腕前で、クラブチャンピオン杯で準優勝したこともあるそうだ。アウトの途中で高橋会長が抜け、最後の3ホールは5人で回る。フィリピンでは1人に1人のキャディが付く。それも非常に親切だ。私が杖を突いているからか私のキャディはとくに親切に感じた。チップをついつい弾んでしまう。ホテルに帰り近くの中華飯店で食事。

10月某日
私と扇田専務以外は朝6時集合で関空へ。私と扇田専務は朝食後、ホテル近くのダウンタウンを視察する。市場では野菜や魚、肉、お菓子などの食料品、衣料品などが売られている。台湾でもそうだったが、あまり住居内で調理や食事をする習慣がないらしく路上の屋台で食事している人が多かった。華僑の信仰を集めているらしい中国寺院を見学した後、市場を出ようとするとフィリピン人が日本語で話しかけてくる。なんでも埼玉にいたことがあるらしく、西武池袋線などの話をする。市場を出るころ一人100ペソくれと言ってくる。拳銃を持っているとかこのへんの親分とかいって脅してくるが、扇田さんは一切取り合わない。ホテルに近づいたら姿を消してしまった。
ホテルのロビーで一休みした後、少し早いが空港へ。時間があるので空港のマッサージ店に行くことにする。マッサージ店の近くに人だかりがしている。ドゥルテ大統領が日本へ行くので式典があるようだ。マッサージを終わるとちょうどドゥルテ大統領が演説をしているところだった。マッサージ店の店員も「大統領は大好き」と言っていた。大統領は私と扇田さんの30メートルほど先をゆっくりと歩いて過ぎて行った。大統領の訪日のためか私たちの飛行機は1時間以上遅れて飛び立った。

社長の酒中日記 10月その2

10月某日
図書館で借りた「人情時代小説傑作選 親不孝長屋」(新潮文庫 縄田一男選)を読む。著者は池波正太郎、平岩弓枝、松本清張、山本周五郎、宮部みゆきの5人のアンソロジー。平岩と宮部を除くと物故者。池波は90年に67歳で、松本は92年に81歳で、山本は67年に64歳で亡くなっている。松本は平均寿命といえそうだが池波と山本はいかにも若い。現代では早死にの部類だろう。ストーリーはいずれも単純な人情もの。とは言ってもいずれも一流の書き手だけにそれぞれ「読ませる」。なぜ人は、そして自分は人情ものの時代小説に惹かれるのだろうか?ひとつの答えは江戸の下町という時間、空間がもたらすものだと思う。現代とは時空を隔てること2~300年というのが逆にストーリーにリアリティを生むということではなかろうか。

10月某日
図書館に行ったら文春新書の「ポスト消費社会のゆくえ」(辻井喬、上野千鶴子 2008年5月)が目についたので借りる。辻井は堤清二のペンネームで西武セゾングループの総帥、池袋の地元デパートに過ぎなかった西武百貨店を、流通、ホテル・リゾート、金融などの一大グループに育て上げたがバブル崩壊とともにグループの経営が危機に瀕し、堤は百億円の個人資産を提供、グループは解体した。一方、辻井喬のペンネームで多くの詩や小説を発表している。父は自民党の代議士で衆議院議長も務めた堤康次郎。清二は戦後、東大に入学し共産党に入党しのちに除名されたことでも知られる。上野のインタビューに辻井が答えるという形式になっているが、楽しそうに語り合っている雰囲気が伝わってきそうな対談集である。上野が以前、西武百貨店の社史を分担して執筆したことがあり、西武グループの内情に詳しいということもあるが、上野も京大で学生運動を体験したということから同じような匂いがするのかもしれない。堤清二、辻井喬という複雑な人格の一端に触れることが出来たような気がする。

10月某日
茨城県の笠間市役所を取材。クラウドを使って意欲的に地域包括ケアシステムを進めている。介護保険制度が始まったのが確か今から15年くらい前。パソコンも今ほど普及していなかったしクラウドというシステムもなかった。今後さらに少子高齢化が進み、労働力人口は減る。ICTやロボットの活用、外国人労働者の活用も視野に入れて行かざるを得ないし、ICTの活用はすでに始まっている。逆に言うとICTの活用なくして介護の労働力不足を補うことはできないという現実がある。それは民間も自治体も一緒だと思う。

10月某日
笠間市の取材を終わって帰社。会社近くの「ビアレストランかまくら橋」で唐牛健太郎氏の未亡人真喜子さん、堤修三さん、昔、厚生省で堤さんの部下だった岩野さんと会食。岩野さんは京都生まれの大阪育ちということで京都育ちの真喜子さんと話が合ったようだ。少し飲みすぎたが、私は我孫子駅前の「愛花」へ。

10月某日
「シルバー民主主義-高齢者優遇をどう克服するか」(八代尚宏 中公新書 2016年5月)を読む。国民皆保険にしろ国民皆年金にしろわが国の社会保障の大枠は昭和30年代に決められた。その頃は人口に占める高齢者の割合はまだ低かったし経済は高度成長期を迎えたときでもある。それから半世紀を経た現在、事態は大きく変化している。高齢者比率は増大し、高齢者を支える現役世代は減少に転じている。経済は低迷し長くデフレ状態が続いている。しかも高齢者世代の投票率は高く、現役世代の投票率は低い。だから政治家はどうしても高齢者の既得権を守ろうとする。必要な改革が一向に前進しない。これがすなわち「シルバー民主主義」である。著者の言うことは実に全うだと思う。その中でも子育てを家族の負担だけでなく、広く社会全体でシェアするという「育児保険」の考え方は目から鱗が落ちる考え方だ。世代間の所得の再分配だけでなく高齢者世代間の所得の再分配を強化せよというのも卓見と思われる。高齢者には貧困層もいれば富裕層もいる。高齢の富裕層に対する年金課税や資産課税を強化して貧困層に給付するというものだ。今は年金受給者というだけで富裕層も年金課税を免れている。これもシルバー民主主義である。高齢者の多くが救済されるべき時代は終わり、高齢者も応分の負担をしなければならなくなったわけである。私たち団塊の世代から始めないとね。

10月某日
「健康・生きがいづくり財団」の大谷常務と神田の葡萄舎で待ち合わせ。約束の7時に行ったら大谷さんは、和歌山で「地域に根ざした健康生きがいづくり支援」をやっているNPO法人和歌山保健科学センターの市野弘理事長を伴って来ていた。市野さんは花王の元社員でヨーロッパを中心に海外でビジネスを展開してきた経験を持つ。NPO法人だけでなく和歌山いのちの電話協会や和歌山高齢者生活協同組合にもかかわっているというマルチな人だ。和歌山には生活福祉科学研究機構の土井さんもいるし、医療法人の輝生会の理事を退任した伊藤隆夫さんも、奥さんの実家がある和歌山に移住すると言っていた。今度、紹介しようと思う

社長の酒中日記 10月その1

10月某日
昨日は京都府南草津の医療機器メーカー「ニプロ」の研修施設に行って「胃ろう・吸引」と「気管カニューレ」のシミュレーターの売り込み。看護師3人が熱心にこちら(といっても説明役はもっぱら開発者の土方さん)の説明を聞いてくれた。続いて大阪の介護支援専門員協会で福田次長と雨師部長に説明。こちらも看護師なので理解が早い。シミュレーターは介護士の医療行為の一部解禁を契機に介護職を主なターゲットとしていたが、やはり医療職の方が理解は早いようだ。今日は私だけ名古屋へ。建築家の児玉道子さんと単行本やシミュレーターについて打合せ。

10月某日
田辺聖子の「私の大阪八景」(岩波現代文庫 2000年12月)を読む。田辺の分身である主人公トキコの戦中時代を描く自伝的小説である。小説は「その1民のカマド(福島界隈)」、「その2陛下と豆の木(淀川)」「その3神々のしっぽ(馬場町・教育塔)」「その4われら御楯(鶴橋の闇市)」「その5文明開化(梅田新道)」の5部構成。その1は同人誌「のおと」8号に昭和36年に発表されている。その4は「文学界」の昭和40年9月号に掲載され、その5は単行本(文芸春秋新社)刊行時に書き下ろされている。田辺はその4と5の間に「感傷旅行」で芥川賞を受賞している。作家の環境には大きな変化があったのだが文体に大きな変化は少なくとも私には感じられない。これは田辺の初期の名作「花狩」にも言えることであり、田辺はデビュー当時から完成された文体を持っていたのである。写真館の娘であるトキコの小学生がその1に、女学生がその2、その3、女子専門学生がその4、敗戦後の商店事務員がその5で描かれている。戦中、トキコは無論のこと軍国少女であるが、淡い初恋もするし戦争を嫌う若い女教師との交流や朝鮮人牧師ボク先生との出会いもある。私の母は田辺よりもやや年長だが、子どものころ「戦争だけは絶対いけない」と聞かされた記憶がある。田辺には他に戦争で結婚の機会を失ったオールドミスを描いた短編など戦争の痕跡を感じさせるものがいくつかある。

10月某日
「怒り」(吉田修一 中公文庫 2016年1月 単行本は2014年1月)を読む。上下巻で500ページ以上の作品だが一気に読んでしまった。東京郊外の住宅地で夫婦が惨殺される。新宿でソープランドに勤めていた娘を故郷の房総の漁港に連れ戻す男、沖縄の波留間島で民宿に勤める母と暮らす女子高生、東京の広告代理店に勤めるゲイの青年、犯人を追う刑事、などなどいくつかのエピソードが目まぐるしく交差する。交差するのだけれどストーリーは非常に秩序だっていてわかりやすい。吉田修一の作家としての並々ならぬ力量を感じさせる。「怒り」は渡辺健主演で映画化されている。映画を観た原作を読んでいない私の奥さんが「映画ではこうだったけど原作はどうだったの?」と聞くのだけれど私は「さぁーどうだったかな」とはなはだ頼りない。ストーリーが面白いと物語にのめり込みすぎて筋の細部は記憶から飛んでしまうということってありませんか?

10月某日
船橋リハビリテーション病院でお世話になった伊藤隆夫さんが輝生会を退職したという話を聞いたので青海社の工藤社長に連絡を取ってもらって我孫子で会うことにした。何故、我孫子かというと工藤社長も私も我孫子に住んでいるし、伊藤さんは我孫子の先の藤代在住だからだ。ついでと言っては何だけど我孫子在住の吉武民樹川村女子学生大学教授も誘う。前にも一度利用したことのある我孫子駅南口の「海鮮処いわい」を6時に予約。私が6時前に到着してビールを吞んでいると伊藤さんが来る。吉武さんが少し遅れるということなので工藤社長が来たところで乾杯。工藤社長は糖尿ということで酒は控え気味ということだった。吉武さんも加わって話はさらに盛り上がった。3人と別れて私は一人で我孫子駅前の「愛花」へ。

10月某日
介護職に一部医療行為が解禁されたことを受けて、介護職の手技トレーニング用にデザイナーの土方さんが開発したのが「胃ろう・吸引」マスター。これに「気管カニューレ吸引」のシミュレーターが加わったので、開発者の土方さん、販売のHCMの大橋社長、それに当社から私と迫田、酒井が加わって実技演習と販売会議をHCM社で。当初想定していた介護職からの関心は一部を除いて低いものの、看護職の多くは高い関心を示してくれる。途中から開発に協力してくれた「硬質ウレタン樹脂」成型メーカーの亀井社長も参加してくれた。会議が終わって、打合せがある亀井社長を除いて西新橋の「おんじき」へ。