社長の酒中日記 10月その1

10月某日
昨日は京都府南草津の医療機器メーカー「ニプロ」の研修施設に行って「胃ろう・吸引」と「気管カニューレ」のシミュレーターの売り込み。看護師3人が熱心にこちら(といっても説明役はもっぱら開発者の土方さん)の説明を聞いてくれた。続いて大阪の介護支援専門員協会で福田次長と雨師部長に説明。こちらも看護師なので理解が早い。シミュレーターは介護士の医療行為の一部解禁を契機に介護職を主なターゲットとしていたが、やはり医療職の方が理解は早いようだ。今日は私だけ名古屋へ。建築家の児玉道子さんと単行本やシミュレーターについて打合せ。

10月某日
田辺聖子の「私の大阪八景」(岩波現代文庫 2000年12月)を読む。田辺の分身である主人公トキコの戦中時代を描く自伝的小説である。小説は「その1民のカマド(福島界隈)」、「その2陛下と豆の木(淀川)」「その3神々のしっぽ(馬場町・教育塔)」「その4われら御楯(鶴橋の闇市)」「その5文明開化(梅田新道)」の5部構成。その1は同人誌「のおと」8号に昭和36年に発表されている。その4は「文学界」の昭和40年9月号に掲載され、その5は単行本(文芸春秋新社)刊行時に書き下ろされている。田辺はその4と5の間に「感傷旅行」で芥川賞を受賞している。作家の環境には大きな変化があったのだが文体に大きな変化は少なくとも私には感じられない。これは田辺の初期の名作「花狩」にも言えることであり、田辺はデビュー当時から完成された文体を持っていたのである。写真館の娘であるトキコの小学生がその1に、女学生がその2、その3、女子専門学生がその4、敗戦後の商店事務員がその5で描かれている。戦中、トキコは無論のこと軍国少女であるが、淡い初恋もするし戦争を嫌う若い女教師との交流や朝鮮人牧師ボク先生との出会いもある。私の母は田辺よりもやや年長だが、子どものころ「戦争だけは絶対いけない」と聞かされた記憶がある。田辺には他に戦争で結婚の機会を失ったオールドミスを描いた短編など戦争の痕跡を感じさせるものがいくつかある。

10月某日
「怒り」(吉田修一 中公文庫 2016年1月 単行本は2014年1月)を読む。上下巻で500ページ以上の作品だが一気に読んでしまった。東京郊外の住宅地で夫婦が惨殺される。新宿でソープランドに勤めていた娘を故郷の房総の漁港に連れ戻す男、沖縄の波留間島で民宿に勤める母と暮らす女子高生、東京の広告代理店に勤めるゲイの青年、犯人を追う刑事、などなどいくつかのエピソードが目まぐるしく交差する。交差するのだけれどストーリーは非常に秩序だっていてわかりやすい。吉田修一の作家としての並々ならぬ力量を感じさせる。「怒り」は渡辺健主演で映画化されている。映画を観た原作を読んでいない私の奥さんが「映画ではこうだったけど原作はどうだったの?」と聞くのだけれど私は「さぁーどうだったかな」とはなはだ頼りない。ストーリーが面白いと物語にのめり込みすぎて筋の細部は記憶から飛んでしまうということってありませんか?

10月某日
船橋リハビリテーション病院でお世話になった伊藤隆夫さんが輝生会を退職したという話を聞いたので青海社の工藤社長に連絡を取ってもらって我孫子で会うことにした。何故、我孫子かというと工藤社長も私も我孫子に住んでいるし、伊藤さんは我孫子の先の藤代在住だからだ。ついでと言っては何だけど我孫子在住の吉武民樹川村女子学生大学教授も誘う。前にも一度利用したことのある我孫子駅南口の「海鮮処いわい」を6時に予約。私が6時前に到着してビールを吞んでいると伊藤さんが来る。吉武さんが少し遅れるということなので工藤社長が来たところで乾杯。工藤社長は糖尿ということで酒は控え気味ということだった。吉武さんも加わって話はさらに盛り上がった。3人と別れて私は一人で我孫子駅前の「愛花」へ。

10月某日
介護職に一部医療行為が解禁されたことを受けて、介護職の手技トレーニング用にデザイナーの土方さんが開発したのが「胃ろう・吸引」マスター。これに「気管カニューレ吸引」のシミュレーターが加わったので、開発者の土方さん、販売のHCMの大橋社長、それに当社から私と迫田、酒井が加わって実技演習と販売会議をHCM社で。当初想定していた介護職からの関心は一部を除いて低いものの、看護職の多くは高い関心を示してくれる。途中から開発に協力してくれた「硬質ウレタン樹脂」成型メーカーの亀井社長も参加してくれた。会議が終わって、打合せがある亀井社長を除いて西新橋の「おんじき」へ。