8月某日
田辺聖子の「東海道中膝栗毛を旅しよう」(角川ソフィア文庫 16年5月、単行本は講談社から90年)を読む。「東海道中膝栗毛」は戯作者十返舎一九の江戸中期のベストセラー。弥次さん北さんの珍道中をガイドに田辺聖子が編集者とともに東海道を日本橋から大阪まで旅するという趣向である。田辺は昭和3年、1928年生まれだからちょうど60歳を過ぎたころの作品である。田辺は樟蔭女子専門学校国文科卒業であるが、この人の文学的かつ歴史的素養は実に深い。源氏物語を現代語訳していることからもそのことは明らかなのだが、本書にてもそのことは平家物語などの日本の古典、歌舞伎や古典落語からの引用だけでなく、幕末に日本を訪問したシュリーマンや幕末のお雇い外国人パンベリー等の日本訪問記からの引用が少なからず見られることからも「教養の深さ」というものが知れるのである。もっともご本人は「どうもお恥ずかしいことに、私の教養はそのかみの小学校からいくらも出ていない」と謙遜するのだが。
8月某日
当社のシステム管理者をやってもらっている在日韓国人2世の李さん(日本に帰化して日本名は大山さんだけどみんな李さんと呼ぶ)が来社。久しぶりに吞むことにする。その前に暑いのでひと風呂浴びようと銭湯に誘う。会社近くの外堀通りを渡った先に「稲荷湯」がある。皇居一周のランナーが走った後、ここで汗を流し着替えるところとして知る人ぞ知る銭湯である。稲荷湯で汗を流した後、駅近くの「福一」へ。我孫子で久しぶりに駅近くのバー「バンヌフ」へ寄る。
8月某日
社会福祉法人にんじんの会の石川はるえ理事長を西国分寺の「にんじんホーム」に訪ねる。1時45分に西国分寺駅の改札で映像関係の仕事を依頼している横溝君と待ち合わせていたのだが、私が「かかりつけ薬剤師」のパンフレットの原稿作成に没頭していて待ち合わせを失念、横溝君からの電話で気が付いた。あわててにんじんホームに向かったが1時間遅刻。写真集の制作見積を依頼された、というか石川さんが「もーちゃんのとこできるの?」と聞くものだから、「何言ってるんですか。石川さんとは長い付き合いですけど一度も仕事をもらったことないですよ」と反論、見積だけでも出させてもらうことにした。
夜、たまたまにんじんの会の事務長の伊藤さんとフリーライターの香川さんと西新橋のイタリア家庭料理の店「LaMamma」で会食。実は伊藤さんと香川さんとは30年来の友人。伊藤さんと香川さんが「ナショナル開発」という展示場運営会社にいたとき、私は日本プレハブ新聞社という業界紙の記者をやっていて広告をとりに行ったのがきっかけ。それから幾星霜、伊藤さんはJR東日本系の展示場運営会社の実質的な責任者となり、香川さんはフリーライターとなった。伊藤さんは昨年会社を辞めたことから「にんじんの会」を紹介した。たまに一緒に吞む会が30年にわたって続いているわけである。
8月某日
大学の同級生、弁護士の雨宮君と神田明神下の「章太亭」で待ち合わせ。雨宮君は東京の文京区育ちで茗荷谷近くの公立小学校を卒業した後、中高は開成だった。同じ同級生の内海君も杉並育ちで確か私立高校出身。私など北海道室蘭の出身だから私立高校という選択肢は全くなく、高校も小学区制だったので選ぶ余地はなかった。当時はそんなことにも違和感を感じることはなかったし、今から思うと「選択の余地なし」ということは「迷うことなし」にも通じるわけでまぁそれはそれで良かったのかな。カウンターで雨宮君と開成のことなど話していると、店の女性(名前忘れちゃった、昔可愛いかった面影の残る人)が「あちらのお客さんも開成ですよ」と教えてくれる。ひとりは雨宮君より先輩で、もうひとりは雨宮君と同学年、共通の知人もいるようだった。雨宮君と別れて我孫子駅前の「愛花」へ。
8月某日
手賀沼の花火大会。我孫子で地産地消の会をやっている中沢さんのマンションの屋上に招待される。というか我孫子の川村女子大学の教授をやっている吉武さんから「モリちゃんも来ない?」と誘われた。我孫子からは2か所、柏からも2か所、それから松戸の花火も遠くに見えて、なかなか壮観。わが家は手賀沼のほぼ水際にあるから、特等席と言えないこともないのだが近すぎて全体を見ることはできないうえ、見物客で周囲の道路は混雑するしでこのところ花火大会のときは家にこもっていた。中沢さんの屋上には中沢さんの孫娘が浴衣を着て参加したりなかなか家族的かつ川村女子大学への短期留学生もさんかするなど国際的でもあった。