モリちゃんの酒中日記 2月その2

2月某日
社長を辞めて出勤時間を遅くしてもらった。社長のときは9時前に出社するようにしていたが、グリーン車を使っていた。費用は会社持ちである。出勤時間を遅くしたら普通車でも座れるようになったので原則、グリーン車は使っていない。通勤時間の使い方だが、朝は日経新聞を読み帰りは単行本を読んでいることが多い。深酒したときは別ですが。さて今日は帰りの電車で読む本がないことに気付いた。家に帰れば読む本はあるのだが、こういう場合は本屋によって文庫本を購入する。厚い本、内容の難しいものは敬遠する。虎ノ門の虎ノ門書房に入り文庫本を物色する。このところ凝っている桜木紫乃の「ワン・モア」(角川文庫 平成27年1月 2011年11月に単行本)を買う。安楽死事件を起こして離島に飛ばされた女医の美和が、高校の同級生でやはり女医の鈴音に懇願されて鈴音の医院に赴任する。鈴音は末期がんの宣告を受けていたのだ。舞台はやはり道東。桜木紫乃の小説は基本的にはウエットだと思う。人情ものと言ってよいのではないか。道東の乾いた風土との調和が何とも言えない魅力になっていると思う。

2月某日
奈良の天理市のNPO法人つむぎを訪ねる仕事があったので京都で阿曽沼さんに会うことにする。阿曽沼さんは元厚生労働次官で、今は京都大学の理事。京都には私が脳出血で船橋リハビリテーション病院に入院していたときの主治医、澤田先生が京都府立医大にいるので一緒に会うことにする。澤田先生は現在、京都府立医大のリハビリテーション学科で教えているので阿曽沼さんは京都府立医大近くの徳寿(のりひさ)という和食の店を予約してくれた。阿曽沼さんと始めていると澤田先生が来る。澤田先生は当直医のバイトがあるとかでノンアルコールビール。元厚生官僚とドクターということもあって共通の話題も多く(私は官僚でもドクターでもないが)、翌日、澤田先生から「楽しい時間をありがとうございました。楽しすぎてトイレに行く時間ももったいないくらいでした」というメールが来ていた。阿曽沼さんにご馳走様でした。

2月某日
京都から近鉄で天理へ。セルフケアネットワークの高本代表と1時30分に改札で待ち合わせ。時間があるので前にテレビで見た「天理スタミナラーメン」を食べに行くことにする。700円の普通盛りを頼む。確かにおいしいが年寄り向きとは言えないね。天理本通りをぶらぶらする。古本屋で半藤一利の「ノモンハンの夏」を160円で購入。定価は590円である。高本さんと合流してNPO法人つむぎへ。つむぎでは「40歳からの介護研修」についていろいろと教えを乞う。この事業所はICTで事務管理部門を徹底して合理化する一方、職員の労働の密度の最適化を図り、コストを圧縮している。感心した。天理から京都へ。高本代表は東京へ帰り、私は「わがやネット」の児玉さんたちと会いに名古屋へ。

2月某日
Apple銀座で介護事業者向け経営支援サービス「カイポケ」についてのトークイベントが開催されるというので健康生きがい財団の大谷常務と聞きに行く。スピーカーはデイサービスを経営している(株)グレートフルの岩崎英治代表取締役、NPO法人Ubdobeの中浜崇之理事とエス・エム・エスの介護事業支援部の藤田和大グループ長、モデレータはフリーアナウンサーサーの町亞聖さん。天理のNPO法人つむぎの話を聞いたばかりだったので非常に面白かった。月末、月初の介護報酬の請求事務が大幅に省力化されたこと、送迎の経路を「カイポケ」でシステム化したことなど参考になった。省力化された時間で職員と職員の家族との食事会を開催したり子ども食堂を始めたりと職員や地域に還元しているのもさすがですね。終わってから大谷さん、東京福祉専門学校の白井副校長、撮影に協力してくれた横溝君、SCNの高本代表、当社の迫田と丸の内北口の「ヴァンドゥヴィ」で食事。

2月某日
立川のNPO法人やわらぎの事務所で「児童虐待防止パンフ」の打合せ。石川代表と絵を描いた成川君、やわらぎの楮さん、フリーの編集者の浜尾さんが集まる。事務所近くの蕎麦屋さんでお昼をご馳走になる。石川代表にトークイベントの話をすると的確な反応が返ってきた。石川さんは介護の事業で業務の標準化の必要性に早くから気付いていた人だ。ロボットにも興味を持っており産総研の委員もやっているそうだ。

モリちゃんの酒中日記 2月その1

2月某日
常磐線の亀有駅前の古本もエロ本も売っている小さな新刊書店で買った、「隅田川の向う側-私の昭和史」(半藤一利 ちくま文庫 2013年5月 単行本は2009年3月創元社)を読む。半藤は1930年、東京生まれ。東大文学部卒業後、文芸春秋社入社、「週刊文春」「文芸春秋」編集長、専務を歴任したエリートなのだが、現在は「歴史探偵」を名乗る作家、エッセイストとして知られる。本書は、半藤が文芸春秋の現役編集者のころ、旧暦の正月に豆本形式で知人に送り届けた年賀状がもとになっている。昭和57(1982)年、58年、59年の3か年で、それぞれが空襲下の東京向島を描く第1章「隅田川の向う側」、旧制長岡中学時代の第2章「わが雪国の春」、高校・大学でのボート部の青春を描く第3章「隅田川の上」となっている。随所に挿入されている著者のスケッチ、版画も楽しい。中味は読んでのお楽しみとしておくが、この本を買ったエロ本も古本も売っている小さな書店も「隅田川の向う側」であり、この本だけでなく地元を撮った写真集や郷土史の本を集めたコーナーがあった。店主の見識であろう。正確にいうと亀有は隅田川のもう一つ先の荒川の向う側であり、江戸川の手前なんだけどね。

2月某日
第一生命の営業ウーマンの本間民子さんが神田駅北口の嘉徳園でご馳走してくれるという。当社の石津さんとたまたま当社に来ていた健康生きがい財団の大谷常務とご馳走になる。火鍋がメインの中華料理の店で大変、美味しかった。しかし大谷さんがスパイスアレルギーであることを忘れていた。彼は辛い物を食べると汗が止めどもなく出てくるのである。「せっかくだから」と大谷さんにもすすめる。汗をかきかき食べていた。

2月某日
田辺聖子の「ジョゼと虎と魚たち」(角川文庫 昭和62年1月初版)を図書館で借りて読む。表題作を含め9作の短編が収められている。何年か前に読んだことがあるが、表題作以外内容はほとんど覚えていない。今回読んでわかったが、この短編集に通底するのは「性愛」である。山武羅紗の事務員、以和子はお茶の習い事で知り合った大庭と恋仲になる。濡れ場の描写が上品でエロティック。「男の手で、宿の浴衣の紐を解かれるときは、以和子はいつも(初めて!)の動悸を感ずる。自分でも何をしているかわからずに、大庭の手首を抑えて、その動きを押しとどめようとしている。それにはかまわず…」という感じである。

2月某日
「政治が危ない」(御厨貴 芹川洋一 日本経済新聞出版社 2016年11月)を図書館で借りて読む。御厨と芹川は東大法学部で同じゼミで鍛えられた仲という。御厨は東大法学部の教授となり現在は青山学院大学の特任教授。芹川は日本経済新聞の記者となり現在は論説主幹。対談集なので「深み」は求むべくもないが、随所に「なーるほどね」と思わせるところはある。第1章から3章の「菅官房長官は、官僚を知り尽くしている」「国をおかしくした鳩菅政権」「中堅は自民党より人材豊富な民進党」「公募候補は高学歴でイケメンだが、挨拶ができない」「憲法9条は日本の国体である」などだが、私が深く同感したのは、第4章の御厨の、政治はベルリンの壁の崩壊以前は、西か東か、親米か親ソかなど、他律的に規定されるものであったが、1990年代に入って宗教や民族などいろいろな問題が世界で生まれてきた。イデオロギー的他律性がなくなったら、訳の分からない自己主張がどんどんおもてにでてくるようになった、という主張である。これからは私の主張でもあるのだが、今求められているのは他律ではなく自律=自立である。そのうえで社会に対して緊張感をもって対峙していくということではなかろうか。まぁ私が実践できているというわけではないですが。

モリちゃんの酒中日記 1月その4

1月某日
10年程前までよく通っていたのが新宿の「ジャックの豆の木」というクラブ。10年ほど前に廃業してマスターの三輪ちゃんは、奥さんの故郷の鹿児島県に引っ越した。携帯メールに上京するという知らせが。神田駅西口の改札で待ち合わせ、「葡萄舎」へ。三輪ちゃんと2人で呑むのは初めてだが、共通の知人が多いので話題は尽きなかった。三輪ちゃんは私より1歳上の昭和22年生まれというのも初めて知った。ということは20代で新宿歌舞伎町のクラブのマスターをやっていたわけだ。

1月某日
図書館で借りた佐藤雅美の物書同心居眠り紋蔵シリーズ「老博打ち」(講談社文庫 2004年7月 単行本は2001年3月)を読む。八丁堀同心の紋蔵には所かまわず居眠りするという持病があり、同心の花形である「定廻り」には配属されず、内勤である「物書同心」を務める。江戸時代の司法制度では裁判官と捜査、検察が町奉行に統合されていたため「物書同心」は警察、検察の取調べの書記と裁判記録の管理を任されていた。紋蔵の記憶力と推理力によって事件は解決していくのだが、私がなぜ佐藤雅美の時代小説に惹かれるか考えてみた。人はしがらみを抱えて生きる。それは江戸時代も現代も同じである。だが現代のしがらみを描くとなるといろいろな差し障りが出てくる。そういうこともあって時代を200年ほどさかのぼったと思うのだが、そこで重要になるのは小説の細部のリアリティである。佐藤雅美の小説はそこが圧倒的に優れていると思う。

1月某日
「モリちゃんの社長退任を祝う会」を霞が関ビルの東海大学校友会館で。100人を超える参加者があった。ほぼ自作自演で私が仕掛けたパーティですが、本当に多くの人に参加してもらってうれしかった。受付をやってくれた石津さんや司会をやってくれた岩佐さんをはじめ協力してくれた社員の皆さん、名簿や領収書を作ってくれた健康生きがいづくり財団の大谷常務やティラーレの佐藤社長、サキソフォンの演奏をやってくれた荻島夫妻、その他多くの人に感謝である。

1月某日
「血盟団事件」(中島岳志 文藝春秋 2013年8月)を図書館で借りて読む。血盟団事件とは1932(昭和7)年に起きた連続テロ事件で、元大蔵大臣の井上準之助と三井財閥の総帥の団琢磨が射殺されている。事件の起きる前の昭和初期は、デフレによる不況が長引き、農業も全般的に振るわず、社会不安が高まっていた。そこに登場したのが法華経に依拠する井上日召が率いる思想集団であった。「世の中をかえる」ために「一人一殺」のテロリズムを実践する。著者の中島は「あとがき」で「私は、血盟団事件を追いかけながら、どうしても現在社会のことを思わざるを得なかった。格差社会が拡大し、人々が承認不安に苛まれる中、政治不信が拡大し…‥1920年代以降の日本とあまりにも状況が似ている」と書いている。同感である。IS(イスラム国)に魅かれる若者にも血盟団に魅かれる若者にも、同じような心情が潜んでいるのではと思うのだが。

1月某日
帰りの電車を亀有で途中下車。駅前に本屋があったので寄る。古本もエロ本も売っている下町の小さな本屋さん。こういう本屋さん好きだなぁ。エロ本を買おうと思ったけどまだ日が高いので止めておいた。文庫本を1冊買って居酒屋「白虎隊」に入る。日本酒をちびちび飲んでいると携帯に電話。荻島さんの奥さんの道子さんからで「いろいろありがとう」と礼を言われる。良太君にサックスの演奏をお願いしたことを言っているようだがとんでもないこと。参加者にとても喜んでもらえたし、私は道子さんからお礼を言われてとてもうれしかった。

モリちゃんの酒中日記 1月その3

1月某日
その石川さんと進めている「児童虐待防止パンフレット」のラフデザインが上がってきたので立川のケアセンターやわらぎへ。横溝君がだんだんダンスの打ち合わせで来ているが、それはそれで進めてもらって、石川さんとフリーの編集者の浜尾さんと私はパンフレットの打ち合わせ。打ち合わせを終わって私と石川さんが事務所近くの「すえひろ」へ。「すえひろ」が満席になるというので、石川さんがよく使うといううなぎ屋へ行く。ここはうなぎ屋というと高級なイメージだが、実質はうなぎをメインとする居酒屋。実際、ここでいただいたうなぎは絶品であった。私のふるさと北海道ではうなぎを食べたことはない。ヤツメウナギは川でとったことはあるが、うなぎとヤツメウナギは生物学的には全然関係ない。大学入学で上京してからもうなぎとは縁がない。唯一縁があったのが大学の同級生がデモでパクられ、荻窪の彼の家で両親に状況を説明したとき、昼飯にうなぎをとってくれた。何を言いたいかというと、あまりうなぎとは縁のない私でもおいしいと感じたということ。とくに柔らかさね。

1月某日
図書館で借りた「蛇行する月」(桜木紫乃 双葉社 2013年10月)を読む。初出は双葉社の「小説推理」2012年から1年間、断続的に発表されている。釧路にある架空の高校、道立湿原高校の図書部の仲間たちの恋愛、結婚、仕事を描く。桜木が描くのは普通の庶民である。普通の庶民が普通ではない恋をする。普通ってなんなんだろう。おそらくそれは一つの抽象的な概念に過ぎないのではないか?具体的な一人ひとりの人生はそれぞれ個別的であるに決まっているわけだし。

1月某日
年金住宅福祉協会の森理事とHCMの大橋社長とHCM近くの沖縄料理屋「城」(ぐすく)で新年会。パパイヤのサラダや海ブドウなどヘルシーな沖縄料理を堪能。

1月某日
社会保険俱楽部霞が関支部の新年賀詞交歓会。幸田支部長、社福協の近藤理事長、元参議院議員の阿部さんなどに挨拶。阿部さんは社会連帯としての社会保険制度について熱く語る。まったく同感。
神楽坂の「馳走紺屋」でSCNの高本代表理事、市川理事、看護師で等々力共愛ホームの施設長をやっている笹川さんと会食。「馳走紺屋」は古民家を移築した風情。私たちの席のすぐ傍らで三味線を弾いてくれる。料理だけでなく雰囲気も楽しもうということだと思う。

1月某日
HCMで「シミュレータ」の打ち合わせ。開発者の土方さん、HCMの大橋社長、当社の迫田が参加。終わって一昨日行った「城」(ぐすく)へ。前回食べなかった豚足や「ミミガー」(豚の耳)を食べる。おいしかった。土方さんにご馳走になる。

モリちゃんの酒中日記 1月その2

1月某日
社会福祉法人にんじんの会の事務長の伊藤さんとは伊藤さんが展示場運営会社のナショナル開発に勤めていたころからだから40年近い付き合い。私が社長を辞めたというので御飯をご馳走してくれることに。中国本場の餃子料理を当時のナショナル開発の同僚だった香川さんとご馳走になる。香川さんはナショナル開発を辞めてからフリーライターに。リクルートの仕事を一緒にやった。伊藤さんはナショナル開発を辞めてから旅行会社に勤めたりしたが、最後はJR東日本系の損保代理店の実質的な経営者をやっていた。

1月某日
半藤一利と加藤陽子の対談「昭和史裁判」(文春文庫 2014年2月 単行本は2011年7月)を読む。半藤は元文芸春秋社の編集者で「昭和史」など著作多数。加藤は東大教授、近代日本政治史を専攻。戦前、戦中の日本のリーダー5人を縦横に論じている。豊富な資料に立脚しつつ埋もれたエピソードを紹介するという手法が成功している。戦中の内大臣、木戸幸一は「自称『野武士』、ゴルフはハンディ『10』」という具合。木戸以外に取り上げられたのは広田弘毅、近衛文麿、松岡洋右、昭和天皇。加藤は「あとがき」で「歴史を動かした政治的人間であった当事者が、どのようなことを考え、どのような気持ちでそのような行動をとったのかという、その当事者の側に立った主観的な情報を綺麗に取り出す作業ではないか」と歴史学を位置づけ、「政治的な人間たちが誤った、その主観的な失敗の情報こそが、実のところ将来起こりうる問題に立ち向かわせるためのワクチンとなりうる」。失敗の情報こそがワクチンとなるというのはよくわかります。

1月某日
図書館で借りた「そして、人生はつづく」(川本三郎 平凡社 2013年1月)を読む。雑誌「東京人」2010年7月号から2012年11月号まで連載した「東京つれづれ日記」を中心に編集されている。川本は1944年生まれだから66歳から68歳まで、ちょうど私の年代である。だからというわけでもないが非常に共感のできるエッセーであった。連載中に発生した東日本大震災への想いにも深くうなずく。温泉好きの川本が推す温泉を訪ねてみたい。そういえば丸谷才一を追悼する「徹底した雅の人」で丸谷の流れを継ぐ作家として池澤夏樹、村上春樹と並べて辻原登をあげていた。

1月某日
キャンナスの菅原由美代表が私の社長退任パーティに出席できないということで、ご馳走してもらうことに。イイノホールで開催される虎の門フォーラムの新春座談会に行くというのでその後、東京駅近くのヴァン・ドゥ・ヴィを予約。SCNの高本代表と待っていると菅原さんが2人連れで来る。山梨県の社会保険病院で看護部長をしていたが、訪問看護をやりたいということでキャンナスに来ることになったらしい。菅原さんたちはノンアルコールビール、私と高本さんはグラスワイン。菅原さんの魅力って何だろう?私が思うに人を分け隔てしない度量の広さではないだろうか。被災者も普通の市民も偉いドクターや官僚も、菅原さんにとっては同じ人間なんだ。それプラス類稀な実行力だね。

1月某日
虎の門フォーラム(医療介護福祉政策研究フォーラム)の中村理事長が今まで書いてきた社会保障に関するエッセーを本にまとめたいというのでお手伝いした。麹町のフランス料理店でご馳走になることに。私と実質的に編集をやってくれたフリーの阿部さん、帯の文章を書いてくれた石川さん、それの当社の迫田に声をかけてくれたのだが残念ながら迫田には出張が入ってしまった。麹町のライオンズマンションにあるそのお店は確かにおいしかった。4人は中村さんが元厚生官僚、石川さんが社会福祉法人の理事長、私が元出版社の社長、阿部さんがフリーの編集者とそれぞれ立場は違うが、それだからかとても楽しい食事会になった。

モリちゃんの酒中日記 1月その1

1月某日
内田樹と中田考(イスラム学者)の対談集「一神教と国家-イスラーム、キリスト教、ユダヤ教」(集英社新書 2014年2月)を読む。イスラム教については新聞、テレビで報道されている以上の知識はないので新鮮に読んだ。近代世界はヨーロッパを中心とした国民国家(領域国家)の成立をとともに始まるが、イスラムにはもともと国家や領域の観念が薄い。それは砂漠で生まれ砂漠で育ったイスラム教の基盤が遊牧民だからだ。内田は遊牧民「柵を作らない人」、定住民「柵を作る人」という比喩を使っていたが言いえて妙だと思う。中田は領域国家に分断されたイスラム世界をカリフ制の再興により再統合することを目指している。たぶんIS(イスラム国)もイスラム世界を暴力的に再統合しようとしているようにみえる。中田は宗教的に平和的な再統合を理念として唱えているのだと思う。

1月某日
「ラブレス」(桜木紫乃 新潮文庫 2013年12月 単行本は2011年8月)を読む。北海道の開拓村で極貧の家に育った百合江と里美の姉妹。百合江は旅芸人の一座に飛び込み、座付きの歌手となり、里美は理容師の道を歩む。文庫本のカバーには「流転する百合江と堅実な妹の60年に及ぶ絆を軸にして、姉妹の母や娘たちを含む女三世代の壮絶な人生を描いた圧倒的長編小説」とある。非常に起伏にとんだストーリーを破綻なくまとめる作家的な力量はさすがというべきだが、私は桜木の経歴に興味を持った。実家は理容室で釧路東高卒業後、裁判所にタイピストとして勤める。結婚して退職、専業主婦となり、2人目の子供を出産後、小説を書き始める。私は北海道という風土の独特さを思わずにはいられない。桜木も祖父か曾祖父の時代に本州から北海道に移住したと思われる。故郷で十分に暮らせたのならば移住の必要はない。貧困やしがらみからの脱出を試み、道民の祖先は移住したのではないか。日本人のなかで「遊牧民」的な気性を最も色濃く持っているのが北海道人だと思う。

1月某日
正月休み。図書館も休みである。我孫子駅前の東武ブックストアも休み。柏まで足を延ばし駅前商店街の新星堂へ。新潮文庫の「夕ごはんたべた?」(新装版)(田辺聖子 1979年3月 単行本は1975年9月)を買う。私の記憶では朝日新聞の夕刊に連載されていたのではないかと思うが、私は当時、田辺聖子には何の興味もなかったので読むこともなかった。主人公は尼崎の下町で皮膚科を開業する吉水三太郎と妻の玉子。子供は大学生の長女と学園紛争に積極的に参加する長男と次男。息子たちは成田や羽田の闘争にも遠征、逮捕され、次男は高校退学を余儀なくされる。実際の田辺の息子2人、といっても田辺が後妻に入った「カモかのおっちゃん」こと川野医師の連れ子なのだが、も高校生のとき学園紛争に参加している。そんな田辺のエッセーを読んだ記憶がある。当時身内にゲバ学生(今や死語だが、ゲバルトに積極的に参加した活動家のことをなかば揶揄してこう呼んだ)を抱えた家族の苦悩が、ユーモラスに綴られている。
客観的にはそういうことなのだが、私は当時ゲバ学生の当事者だったから今さらながら「心配かけたんだろうなぁ」と感慨一入だった。私の両親だけではない。私の奥さんは一人娘だったから、ゲバ学生のところに嫁にやる(結婚前に私は運動から足を洗っていたとはいえ)奥さんの両親の気持ちは如何ばかりであったろうか。それはさておき田辺は自らの気持ちを三太郎に仮託させて次のように書いている。「赤軍派一派のごとき、無謀で独善的な過激理論を是認できない。しかし彼らが一途に煮えたぎってついに煮えこぼれ、自滅してしまった哀れさに、三太郎は人の子の親として涙せずにいられない」。長谷部日出雄は解説で「本当の愛とやさしさとは、おそらく、この世で最も苦しく、悲しく、無残な運命に置かれた人たちにちかい立場に、わが身をおくことなのだ」と書いている。長谷部の言う「この世で最も苦しく、悲しく、無残な運命に置かれた人」とは連合赤軍の永田洋子であり森恒夫であると同時に彼らに総括という名の下で殺された「同志」たちであるだろう。こうした田辺の視線は貴重である。

1月某日
図書館で借りた「激しき雪―最後の国士、野村秋介」(山本重樹 幻冬舎 2016年9月)を読む。野村秋介といっても今の若い人は知らないだろうな。タイトルの「激しき雪」は野村の俳句「俺に是非を問うな激しき雪が好き」からとったもの。野村は今から20年以上前の平成5年10月20日、朝日新聞本社の役員応接室で同社の報道姿勢(具体的には前年の参議院選挙で野村が代表を務めた「風の会」を週刊朝日の山藤章二のブラックアングルで「虱の会」と揶揄したこと)に抗議して、拳銃自殺した。その野村のドキュメンタリーである。もとはと言えば横浜の愚連隊だったが、並外れた度胸で頭角をあらわし、服役中に知り合った右翼の縁で戦前の右翼、三上卓の知遇を得る。俳句、短歌も詠み、仏教にも造詣が深い。何より河野一郎廷の焼き討ち事件、経団連襲撃事件で合わせて18年の獄中生活を送っている。彼のような「激しさ」はとてつもない「優しさ」と並列していたのではないかということがうかがい知れる。こういう人ってこの頃いなくなったなぁとつくづく実感する。表紙の雪を踏みしめている野村秋介のスナップ(宮嶋茂樹撮影)がいい。

1月某日
「籠の鸚鵡」(辻原登 新潮社 2016年9月)を読む。バブル時の和歌山市を舞台にした人間の欲望と暴力をテーマにした小説。和歌山市内でバーBergmanのママ、カヨ子、そこに通う和歌市近郊の下津町の出納室長梶、カヨ子の情夫でヤクザの峯尾、カヨ子の元夫紙谷が主な登場人物。峯尾はカヨ子に梶を誘惑させ、下津町の公金を横領させる。峯尾は対立するヤクザの幹部を射殺、タイへの逃亡資金3000万円を梶に要求する。梶は峯尾の殺害し、自分は自殺することを決意する。紙谷は梶に嶺尾を殺害させ、梶が自殺した後に3000万円を横取りすることを計画、カヨ子の協力を得て、梶による峯尾の殺害には成功する。粗筋はまぁそういうことなのだけれど、和歌山ってちょいと不思議な地域である。中上健次に確か「紀州根の国」という著作があると思うが、地理的には京都、大阪、奈良に近いにも関わらず、「異郷」の雰囲気があるのだ。カヨ子は梶を自殺させることはせず梶とともに自首することを選ぶ。ボートで睡眠薬から覚めた梶は「何や、ここがフダラクか…」と恍惚の表情を浮かべ「ナンマイダ、ナンマイダ」と手を合わせるところで物語は終わる。フダラクは補陀落のことで、和歌山の海上の南に補陀落があるという補陀落信仰を下敷きにしている。カヨ子が伊東静雄の詩を愛唱し梶が吉本隆明の全著作集1定本詩集の「とほくまでゆくんだ」を愛読している。カヨ子が梶に好意を寄せ始めるきっかけとなったのである。

顧問の酒中日記 12月その4

12月某日
根津のスナック「ふらここ」の忘年会。御徒町の中華料理屋「大興」に集合。ママに常連客の大ちゃん、宮ちゃん、みかちゃん、吉武さん、それに私が集まる。宮ちゃんは文部科学省の役人だが上野の科学博物館の勤務が長く、それで根津の「ふらここ」の常連となったようだ。今は佐倉の歴史博物館に勤めている。大ちゃんは確か高松商業の野球部で立命館大に進学、衣料品をデパートに卸す仕事をしていた。2次会は「ふらここ」で。根津で美容院を経営しているカバちゃんが日本酒を持ってやってくる。カバちゃんはパリで美容師の修業をしたという本格派だ。

12月某日
図書館で借りた「戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗」(加藤陽子 朝日出版社 2016年8月)を読む。加藤は東大文学部教授。同じ出版社から高校生に太平洋戦争に至る昭和史を講義した「それでも、日本は「戦争」を選んだ」(2010年)を出版している。今回は池袋のジュンク堂書店の提案で、中高生を相手に行った連続講義の記録だ。1章が「ものさし」としての歴史について、2章が「リットン報告書」、3章が「日独伊3国軍事同盟」、4章が「日米交渉」、そして終章という構成になっているのだけれど、私にはとても新鮮に感じられた。普通の歴史の本って起こったことをたんたんと叙述する。まぁたんたんと叙述する以外に歴史の方法はない、講談じゃないのだから。でもこの本では加藤は、中高生に資料を読ませ、その意味を問い考えさせる。歴史とは叙述されたひとつの事実の背景に無数と言ってもよい事実が積み重なっている。それは陸海軍それぞれの内部事情であったり、国民感情であったり、生産力であったりする。つまり加藤にかかると歴史は事実の断片をつなぎ合わせただけでなく、もっと重層的で複雑な積み木細工の様相を呈してくるのだ。加藤陽子、恐るべし!

12月某日
待ち合わせの時間に少し余裕があったものだから駅近くのブックオフに寄る。文庫本の棚を見渡すと鷺沢萠の文庫本が3~4冊並んでいた。鷺沢萠の小説は私が40代から50代のころよく読んだ記憶がある。硬質な文体とそれに潜むある「切実さ」のようなものに惹かれたのだろうと思う。新潮文庫の「失恋」(定価400円が260円!)を買って読む。題名からして恋愛もの。今の私には縁遠いがそれでもそれなりに面白くは読めた。鷺沢は2004年、今から12年前に目黒区の自宅で自殺している。35歳だった。鷺沢萠という今は半ば忘れ去られた作家について少し触れておきたい。ウィキペディアによると彼女は上智大学外国語学部ロシア語学科中退、1987年に「川べりの道」で第64回文学界新人賞を受賞、1990年代には矢継ぎ早に作品を発表している。後に父方の祖母が韓国人であることを知り、これを契機に韓国に留学する。ヘヴィースモーカーで麻雀好きだったらしい。もともと繊細だった精神が自身のルーツの一つに「韓国」という存在があることを知り、さらに磨かれたのではないかとさえ思う。早すぎる死をいたましく感じる。

12月某日
「物語の向こうに時代が見える」(川本三郎 春秋社 2016年10月)を読む。作家論、作品論なのだが、私が未読の本も非常に魅力的に論じているし、私が好きな柳美里や桜木紫乃の作品についても的確に批評している。川本は麻布高校から東大法学部、朝日新聞社というエリートコースを歩むが、赤衛軍を名乗る日大生の朝霞自衛官殺害事件にからんで逮捕起訴され、朝日新聞社を懲戒解雇された。こうした過去が川本の評論活動に独特の陰影を与えたと言っていいのではないか。
「顧問の酒中日記」はこれで最終。新年からは「モリちゃんの酒中日記」(仮)とでもして、会社のホームページとは別に公開するつもりです。よろしくお願いします。

★「モリちゃんの酒中日記」はこちらでスタートしています。

顧問の酒中日記 12月その3

12月某日
「人口と日本経済」(吉川洋 中公新書 2016年8月)を読む。少子高齢化が進むなか、支えられる層(私たち65歳以上の高齢者)の人口増大と支える層(生産年齢人口)の減少が日本社会の将来に大きな影響を与えると言われている。吉川の論は、人口減少は重大な問題だが、わが国は「人口減少ペシミズム」が行き過ぎているというもの。先進国の経済成長を決めるのは、人口ではなくイノベーションであると技術開発の重要性を強調する。私は吉川の論に基本的に賛成の立場である。介護業界の人材不足が言われて久しいが、管理部門のIT化、直接部門でのロボットをはじめとした機器の導入によるイノベーションにより人材不足への対応と「介護の質」をあげることは可能と考えている。産業革命や農業革命によって工業と農業の生産性は向上し、人口は飛躍的に増大した。しかし先進国の人口はアメリカを除き縮小している。私たちは子育て支援政策によって「子どもを産み育てる環境」を整えると同時にイノベーションに果敢に挑む社会を作っていかなければならないと思う。

12月某日
リクルートの週刊住宅情報の元編集長、大久保恭子さんが「モリちゃんの社長退任を祝う会」に出られないからと一席設けてくれる。場所は銀座の「玉亭」。玉亭の女将はこれも元リクルートで月刊ハウジング情報の編集長だった渡辺尚子さん。私が年友企画に入社したのはプレハブ新聞社に在籍していた30年以上前、年友企画を通して週刊住宅情報にアルバイト原稿を書いていたことに始まる。当時、年住協の企画課長だった小峰さんの紹介だ。年友企画に入社したら主に戸建ての注文住宅を対象にしたハウジング情報が創刊され、その創刊準備号から手伝った。渡辺さんにはその頃からお世話になった。「玉亭」に着くと大久保さんはすでに来ていた。「玉亭」は店をオープンして20年になるそうで渡辺さんは還暦を迎えたそうだ。ということは渡辺さんは30そこそこでハウジング情報の編集長をしていたことになる。
日本住宅建築センターの社本顧問、国交省の伊藤明子審議官も顔を出してくれる。社本さんは私がプレハブ新聞の記者をしていたころ、当時の建設省住宅局民間住宅課の補佐で住宅金融公庫の担当だった。当時は今と違って金利が高く低金利の公的住宅融資が住宅建設に欠かせなかった。プレハブ新聞としても社本さんは重要な取材源だった。社本さんは住宅生産課庁を最後に退官、パナソニックで専務を務めた後、日本住宅センターの社長を務めた。伊藤さんとは私が年友企画に移り、住文化協議会の活動に参加してから。伊藤さんは住宅生産課の係長だった。雑誌で「高齢者と住まい」というテーマで座談会を企画し、当時のシルバーサービス対策室長の阿曽沼さんに出席をお願いしたら例の調子で「女性が出るなら出てもいい」という。伊藤さんは「向こうが室長ならこっちもそうしないと」と渋ったが無理にお願いして座談会は実現した。ふーん、なんかお世話になりっぱなしだなー、私の人生って。

12月某日
読まないでいた「思想としての全共闘世代」(小阪修平 ちくま新書 2006年8月)を読む。ウィキペディアによると、小阪はこの本が出版されて1年後、急性心不全で亡くなっている。小阪は66年に福岡修猷館高校を卒業、現役で東大に入学した。私より年齢で1歳、大学の学年では2年違う。しかし東大全共闘が医学部闘争を契機として結成されたのが、私が早大に入学した1968年であり、全共闘体験の中身は別としてスタイルとしてはほぼ重なる。自分自身のことをいうと、私は小阪のように「思想として」全共闘の体験を深化させることはなかったが行動様式は全共闘体験を色濃く引きずっているように思う。それは何かといわれると明確に言葉にできないのだが、一つは「逃げない」こと。これは最終的には逃げてしまうにせよ、ギリギリ現場に踏みとどまろうとすることと言ってもよいかもしれない。二つ目は「結果より過程」。「成功するか失敗するか」というもちろん結果は重要なのだが、過程がそれなりに充実していれば、もっというと楽しければそれでいいとしてしまう。これはまぁ私の全共闘体験なので異論は多いと思うが。小阪の本は真面目に全共闘世代の思想に迫っていると思う。

顧問の酒中日記 12月その2

12月某日
16時から西国分寺の「にんじんホーム」で児童虐待パンフの打合せがある。その前に花小金井の有料老人ホームに入居している荻島道子さんを訪問。荻島さんの部屋へ行ったら、九段高校の同級生というひとが来ていた。ということは亡くなった荻島国男さんとも同級生ということでひとしきり荻島さんの思い出話をした。たまたま結核予防会の竹下さんの名前が出たら、結核予防会の会長をしていた青木さんという人は随筆家の幸田文(幸田露伴の孫娘)の娘の青木玉(この人も随筆家)の夫ということだった。ふーん、世間は狭いというか生きているといろいろな出会いがあるものだと感じた。荻島さんと別れて近くの白梅学院大学の山路先生(元毎日新聞の記者)に社長退任の挨拶。西国分寺駅でフリーの編集者の浜尾さんと落ち合って「にんじんホーム」へ。石川理事長に担当の楮本(かずもと)さんを紹介される。珍しい苗字で出身は秩父ということだった。楮(こうぞ)はクワ科の植物で和紙の原料として知られる。先祖は秩父で和紙を作っていたのだろうか。打合せを終わって石川さんに西国分寺駅前の「味の山家」でご馳走になる。

12月某日
東大の高齢社会総合研究機構の辻哲夫さん(元厚労次官)に退任の挨拶をしに行く。辻さんは「社長退任を祝う会」にも「先約が入っているので遅れるけど出ます」と言ってくれた。それから根津の青海社の工藤社長にも退任の挨拶。工藤さんと最初に会ったのは我孫子の「愛花」だ。「愛花」のママが「こちらも出版社の社長さん」と紹介されたのだ。工藤さんは糖尿病と診断され、最近あまり吞んでいないようだ。その代り毎日、西日暮里から根津の会社まで歩いているそうだ。一病息災とはよく言ったものである。青海社から茗荷谷の「健康生きがい開発財団」へ。この財団は辻さんが理事長で実務は常務の大谷さんが仕切っている。大谷さんと会社へ戻る。大谷さんと「千両箱」へ。鰺の叩きを頼んだら骨をから揚げにしてくれてこれが旨かった。日本酒をひとり3合ほどいただく。

12月某日
図書館にリクエストしていた「株式会社の終焉」(水野和夫 2016年9月 ディスカヴァリー21)を借りる。人気があるらしく裏表紙に「この本は次の人が予約してまっています。読み終わったらなるべく早くお返しください」と書かれた紙が貼られていた。新書版230ページの本だが、経済学に門外漢の私としては小説を読むようなわけにはいかず、結局、1週間かけて読了した。水野の本は何冊か読んだが歴史的、俯瞰的に日本経済の現状を分析するという視点が気に入っている。理論経済学というか高等数学を駆使した現代経済学は信用できないというのは、私の根拠のない決めつけだが、経済史や経済学史は「歴史」ということから一応信用できると思っている。私が水野の理論を十全に理解したとは言い難い。だが経済が成長し、人口も増大していくという私たちの常識はたかだか19世紀の産業革命以降に当てはまるに過ぎないし、黒田日銀総裁の物価2%上昇の公約の実現も困難となった今、人口も減少し始めた日本では「成長理論」に代わる理論とシステムが求められているということであろう。もちろんそれはアベノミクスではありえない。

12月某日
「居酒屋の戦後史」(橋本健二 2015年2月 祥伝社)を読む。居酒屋を通して戦後の日本社会を描くというのは面白い視点だ。しかし橋本の本質は少し違う気がする。彼の専門は階級・階層論で、その視点から日本の酒を受容してきた文化を論じているのだ。経済的格差の拡大によって日本の酒文化は衰退の危機に瀕している、酒好きならば格差拡大に抗して政治闘争に挑めとアジっている。異議なーし!

12月某日
奈良県の天理市で「地域で安心して暮らせるためのプラットフォームづくり」を目指して異業種交流を行っているNPO法人「つむぎ」の勉強会にセルフケアネットワークの高本代表と参加。京都まで新幹線、京都から近鉄で天理市へ。先週、みのもんたの司会するテレビ番組で「天理スタミナラーメン」のことを放送していたので、昼飯にそれを食べようと高本代表に提案したのだが、「お昼からニンニクたっぷりはダメ!」とあえなく却下、「笑家(えみや)」というレストランに入り、「生姜焼き定食」を頼む。これが正解で食後のコーヒーを含めて実に美味しかった。タクシーで「つむぎ」に迎い、中川代表と山本専務に挨拶。ワークショップに参加させてもらう。ハウスクリーニングをやっている「TRUST CLEAN」の井上さんが面白かった。近鉄で京都へ。京都から新幹線で私は名古屋で下車。「わが家ネット」の児玉さんが迎えに来てくれる。そのまま新幹線口の「YONEZAWAYA」へ。以前、「わが家ネット」の勉強会で会った加藤さんとハウジングアイチの鬼頭さんが来てくれた。シミュレータの販売について打合せ。

顧問の酒中日記 12月その1

12月某日
川村女子学園大学教授の吉武さんから「福岡の羽田野弁護士と8時過ぎに根津の「ふらここ」に行くから」と電話。羽田野弁護士は吉武さんとは福岡修猷館高校の同級生。滋賀県大津市で毎年開催される「アメニティフォーラム」で吉武さんに紹介された。「福岡に出張のときは連絡ください」と言われたので健康生きがい財団の大谷常務と福岡に出張したとき遠慮なく事務所を訪ねたら、歓待されてしまった。羽田野さんは九大法学部出身だが、九大柔道部のOBとしても活躍している。というわけで8時までの時間つぶしに大谷さんと神田の「福一」で吞む。大谷さんと「ふらここ」へ行ってしばらくすると吉武さんと羽田野さんが来る。福岡へ行ったとき羽田野さんの行きつけのバーで「切り絵」の腕前を披露されたけど、今回もその場で「切り絵」を切ってくれ、博多土産のお菓子までもらってしまった。

12月某日
「フォーティ 翼ふたたび」(石田衣良 講談社 2006年2月)を読む。自宅の本棚に読まずに積まれていたものをたまたま手に取って読むことにする。主人公の吉松喜一は大手広告代理店に17年勤めた後、脱サラ、40歳にしてフリーの広告プロデューサーになる。弱所代理店のモリタニADの片隅に机を置かせてもらっているのだが、以前の大手広告代理店に在籍したころに比べれば仕事は激減、冴えない日常を送っている。その日常がAV女優からメールによる仕事の依頼から変わり始める。創業した会社を追われたAV女優の恋人は、創業者利得で巨万の富を得たものの、毎晩六本木のクラブをはしごするなど荒んだ日々を送っている。AV女優は恋人を心配し何とかならないか、と吉松に依頼する。吉松の真摯な対応により恋人は再生を果たす。これは吉松が関わった再生の物語であり、再生に関わることにより吉松自身が再生されていく。そんな物語が7編ほど収められている。私も社長を辞めて「さぁ何をやろうか」と思案する日々である。社長のときと同じことをやってもしょうがないし、むしろやってはいけないだろう。私なりの「第2の人生」をデザインしようと思っている。

12月某日
柳美里の「JR上野駅公園口」(河出書房新社 2014年3月)を図書館で借りて読む。JR上野駅は私が日常、通勤で利用している駅だし、公園口は東京博物館や西洋美術館、動物園に行く際、たびたび利用している。タイトルに惹かれて借りたのだが、中身は哀切極まりないものだった。1933年、今の天皇と同じ日に福島県相馬郡で「私」は生まれる。自作農とは言え、所有する田圃はわずか。国民学校を卒業するとともに小名浜へ出稼ぎに。それから「私」はひたすら出稼ぎで高度経済成長を支える。しかし長男がレントゲン技師の国家資格に受かったとたんに下宿先で突然死する。60歳になりやっと妻と2人だけの暮らしを楽しもうとしたら妻は急死してしまう。動物病院の看護師をしている孫娘が同居し面倒を見てくれるのだが、「私」はある日、「突然いなくなって、すみません」の置手紙を残して家出する。それから「私」は上野公園でホームレスとして過ごすことになる。ここには希望は描かれない。東日本大震災の津波で孫娘は流され、ラストは「私」が上野駅で鉄道自殺することが暗示される。希望を与えられることのない人生。それを描くのもまた文学であると思う。

12月某日
カイポケマガジンの取材で西東京市のNPO法人サポートハウス年輪の安岡厚子理事長を訪問。安岡理事長に会う前に田無病院の高岡さんに社長退任の挨拶に行こうと思っていたら当社の迫田が「どうせなら取材させてもらいましょうよ」。高岡さんは西東京市の在宅療養連携支援センターのセンター長になっていたのでセンターのある西東京市保谷庁舎へ。高岡さんの取材を終わって「年輪」へ。介護保険外のサービスの位置づけは「外」であるが故に介護保険の本質を巡る話になってくると思う。夜は酒井英幸さんが叙勲されたということなのでささやかなお祝いを富国倶楽部で。社会保険旬報の谷野編集長と酒井さんが富国倶楽部の前で待っていてくれた。この2人に私、当社の岩佐や村井などと10年以上前によく山歩きをしたものだ。酒井さんは変わらずお元気だった。

12月某日
日経OBの尾崎雄さんが「2025年、高齢者が難民になる日 ケア・コンパクトシティという選択」(日経プレミアシリーズ 2016年9月)送ってくれたので早速読む。地域包括ケアシステムとコンパクトシティを合体させたケア・コンパクトシティはこれからのまちづくり、コミュニュティづくりに欠かせない概念だと思う。私の住む我孫子市も人口10万人(未確認)程度だがJRの成田線沿いに合併により広がっていった。高度経済成長期と人口の増大期にはそれでよかったかもしれないが、これからは自ずとケア・コンパクトシティづくりを進めざるを得ないと思う。