モリちゃんの酒中日記 6月その2

6月某日
「絢爛たる悪運 岸信介」(工藤美代子 幻冬舎 2012年9月)を読む。岸信介は60年安保改定時の首相で、国会で安保法案が通った後に辞職、池田勇人に首相の座を譲った。誤植の多い本で私が気付いただけでも5か所はあった。多くは変換ミスと思われるが鈴木繁三郎は鈴木茂三郎の間違い、才脳は才能が正しい。校正ミスというよりは校閲ミスか。書下ろし原稿というから作者が変換ミスしたものをそのまま通してしまったものと思われる。出版社には猛省を促したい。ところで岸が首相を務めていたのは今から60年以上前、私が小学校6年生の頃が60年安保だ。岸の娘と後に外相や自民党の幹事長を歴任した安倍晋太郎が結婚し、生まれたのが安倍晋三だ。岸というとゴリゴリの右派の印象がある。それはそうなのだが、神がかった右翼というよりむしろ国家社会主義者というべきだろう。満洲国時代は計画経済を実践したし、首相のときは国民年金法を成立させている。自由主義の経済とは一線を画していたように思うのだけれど。そこが孫の晋三とは大いに異なるところだ。

6月某日
「マイスモールランド」(川和田恵真 講談社 2022年4月)を読む。これ何か月前にテレビドラマを観たんだよね。映画にもなったらしい。トルコから日本に逃れてきたクルド人家族の物語。埼玉県の川口市に住んでいるが、入管当局に無断で県境を越えることは禁じられているらしい。主人公のサーシャは高校3年生、大学の学資にしようと荒川を超えた赤羽のコンビニでバイトしているが、厳密に言えばこれも許されない。作者の川和田も英国人の父と日本人の間に生まれた。テレビと映画の監督もやっている。入管の問題は人権の問題だと思う。国籍に関係なく等しく人権は保障されなければならない。現実にスリランカの人が入管で適切な医療を受けられずに亡くなっている。ウクライナからも多くの難民がポーランドなどに逃れており、一部は日本でも受け入れている。ウクライナだけでなくクルド人やミャンマーの軍事政権から逃れて日本にやってきた人も多いと聞く。明治時代の日本は多くの亡命清国人や韓国人(朝鮮人)を受け入れてきた。戦前の日本にはそういう度量があったと思うのですが。

6月某日
11時にマッサージ、そのまま床屋さんへ。この床屋さんは65歳以上は1800円(通常の大人料金は2000円)、今回はスタンプが10個たまったのでさらに500円引き。大変お得です。15時から虎ノ門の弁護士事務所で打ち合わせ。18時から御徒町の吉池食堂で大谷源一さんと呑む。家に帰ると渡辺眞知子さんから書籍小包が届いていた。渡辺さんが執筆した「ラブレター-わが愛しの野良猫に捧げる」(土曜美術出版販売 2022年6月)という本が送られて来た。渡辺さんは明治大学の演劇科出身、確か高校は名門、甲府一高だったと思う。新宿歌舞伎町でクラブ宴を経営していた。亡くなった竹下隆夫さんとよく通いました。「竹下さんを偲ぶ会」にも出席してくれた。本には幡ヶ谷界隈での野良猫たちとの出会いが綴られている。

6月某日
「パンとサーカス」(島田雅彦 講談社 2022年3月)を読む。四六判500ページを超える大著、読み終えるのに4日かかった。現代の日本が舞台なのだが、そこには作者、島田の現代社会認識が色濃く反映されている。一言でいうと「戦後日本は一貫してアメリカの支配下にある」ということ。戦前の講座派=日本共産党は明治維新を絶対主義体制の確立と捉え、当面する革命の性格をブルジョア民主主主義革命とした。戦後の日本共産党もこの路線を引き継いでいる。講座派に対抗した労農派は明治維新を不完全とはいえブルジョア民主主義革命とし、当面する革命の性格を社会主義革命とした。戦後、労農派の理論を引き継いだのが社会党左派と共産主義者同盟(ブンド)や革命的共産主義者同盟などの新左翼である。ということは日本をアメリカの支配下にあるとする島田の認識は、講座派的認識に極めて近いと言える。日本帝国主義は自立していると捉える新左翼に対して講座派、日本共産党の認識は日本の独占資本はアメリカ帝国主義に従属していると捉えている。「パンとサーカス」を読むと、日本がアメリカの支配下にあるという現実にも頷かざるを得ない面がある。私が大学を卒業してから半世紀が経つ。この間、短い政権交代はあったものの基本的には自民党の支配が続いている。本世紀のうち前半はなんとか経済成長が維持できたが、後半は低成長、マイナス成長に喘いでいる。ロシアのウクライナ侵攻もあり、世界経済はインフレ基調。どうするニッポン!

6月某日
社保研ティラーレを訪問。吉高会長と佐藤社長と懇談、話題があっちへ飛びこっちへ飛びで予定時間を大幅に経過、次の訪問先の虎ノ門の弁護士事務所への訪問が30分近く遅れてしまった。弁護士との打ち合わせを済ませ、千代田線の霞が関から根津へ。根津の医療系の専門出版社の青海社で工藤社長から「輝生会20周年記念誌 石川誠と共に歩んだ20年間」を頂く。輝生会は初台リハビリテーション病院や船橋リハビリテーション病院の経営母体で都市型リハビリ病院経営の草分け的存在。私が2010年に脳出血で倒れ、急性期の病院から回復期の病院への転院を迫られたとき、当時、厚労省の中村秀一さんから船橋リハ病院を紹介された。熱意に溢れるスタッフのおかげで社会復帰することができて、船橋リハ病院とスタッフ、紹介してくれた中村さんには未だに感謝している。工藤社長と根津界隈を散歩、18時から根津の沖縄料理屋、「ぬちいぬ島」で会食があるので、ベンチに座っておしゃべり。18時になったので工藤社長と別れて「ぬちいぬ島」へ。

6月某日
「2022年の連合赤軍-50年後に語られた『それぞれの真実』」(深笛義也 清流社 2022年2月)を読む。裏表紙に我孫子市民図書館から「この本は、次の人が予約してまっています。読みおわったらなるべく早くお返しください」という黄色い紙の「おねがい」が貼られていた。連合赤軍なんかに関心を持つ人がいるんだ、私のような全共闘崩れかしらと思いながら読み進む。私は連合赤軍には直接には関わっていないが、1969年の9月3日に早稲田大学の第2学生会館屋上で機動隊に逮捕され大森警察署に留置されたとき、1日遅れで女子房に留置されたのがこの本にも出てきて、後に山岳アジトで殺される京浜安保共闘の大槻節子だった。留置場の金網越しではあったが楚々とした美人であった。彼女は愛知外相訪米訪ソ阻止闘争で羽田空港に火炎瓶を投げた容疑で逮捕されたそうだ。何日か遅れて当時彼女の恋人であった渡辺正則も留置された。私はノンセクトで規律にも規範にも縁のない活動家だったが、大槻や渡辺は私の記憶では留置場内でも姿勢を崩さず、私は「ホンモノの活動家は違う」と感心したものだ。69年の9月と言えば2か月後の佐藤訪米を控えて「何ごとかが起きる」という雰囲気がキャンパスにはあった。直接の面識はないが政経学部で私の1年下だった山崎順もこの頃、赤軍派に参加、72年に処刑されている。私は69年の9月に逮捕されていなかったら、赤軍や京浜安保共闘に加わっていた可能性がある。火炎瓶とゲバ棒では機動隊の壁は崩せないのは自明であり、「次は銃と爆弾」という認識は私にもあった。私などは真っ先に処刑されていただろうから、まぁ9月に逮捕されていてよかったのかも知れない。