モリちゃんの酒中日記 8月その2

8月某日
「松雪先生は空を飛んだ」(上下)(白石一文 角川書店 2023年1月)を読む。それなりに面白かったんだけど…・。空を飛ぶ能力を持った人たちの話し。松雪先生の私塾に学ぶ数人がある日先生に呼び出され、先生の血を飲まされる。それによって空を飛ぶ能力を身につけるのだが、私はオウム真理教、麻原彰晃の空中浮遊と血のイニシエーションを思い出させた。白石一文には「プラスチックの祈り」という荒唐無稽な小説があった。確か人間や街がプラスチックになってしまうというストーリーだった。ストーリーは荒唐無稽でも、そこに切実さがあれば小説としてはあり得るとおもうけれど、私の読むところでは本作にはその切実さが希薄であった。

8月某日
「かっかどるどるどぅ」(若竹千佐子 河出書房新社 2023年5月)を読む。若竹千佐子は1954年、岩手県遠野市生まれ。岩手大学教育学部卒。卒業後は臨時教員をへて専業主婦。55歳で夫を亡くし息子のすすめで小説講座で学ぶ。「おらおらでひとりでいぐも」で63歳で作家デビュー。本作は小説としては2作目。主な登場人物は5人。女優の夢を捨てきれず、つましい暮らしを送る60代後半の女性。舅姑の介護に明け暮れ、自分を持たぬまま生きてきた68歳女性。大学院を出たものの就職氷河期に重なり、非正規雇用の職を転々とする30代後半の女性。生きることに不器用で、自死を考える20代の男性。心もとない毎日を送る4人は、引きつけられるように古いアパートの一室を訪ねるようになる。そこでは片倉吉野という不思議な女性が、訪れる人たちに食事をふるまっていた。…というのがこの小説の大雑把な前提だ。超高齢社会で格差社会でかつ孤立社会でもある現代日本の断面を描きつつその再生も展望する小説。読んでいて心が温まります。

8月某日
「腹を空かせた勇者ども」(金原ひとみ 河出書房新社 2023年6月)を読む。表題作と「狩りをやめない賢者ども」「愛を知らない勇者ども」「世界に散りゆく無法者ども」という4つの短編で構成されている。主人公は中学3年生から高校1年生までのレナレナ。レナレナのママとパパ、中学校の同級生、そして行きつけのコンビニの店員で中国からの留学生が主な登場人物である。作者の金原は1983年生まれで、レナレナの親と同じ世代であろう。そして私の子どもと同じ世代でもある。ということはレナレナは私の孫と同世代ということになる。レナレナは同級生はもちろんのこと中国からの留学生とも心を通わせる。だが両親、とくにパパとはうまくコミュニケーションがとれない。パパの存在感は一貫して薄い。結局、この小説社会は女たちによって支えられている。現実の日本社会は女性の進出が進んでいるとは言っても男性社会である。だが10年、20年経過してレナレナたちが社会の中堅を担うようになったら、そこは変わる可能性がある。その可能性を大きく予感させる一作であった。

8月某日
「日本人が知らない戦争の話-アジアが語る戦争の記憶」(山下清海 ちくま新書 2023年7月)を読む。太平洋戦争という呼び方は日本がアメリカに負けた後に、米国政府や米軍の意向に沿って決められたと思う。日本では日米開戦後、大東亜戦争という呼称が用いられている。太平洋戦争では中国大陸の戦争やビルマでの戦闘をイメージすることは難しい。地理的には大東亜戦争という呼び方がしっくりすると思うが、戦後の日本人には受け入れがたかった。それで本書ではアジア・太平洋戦争という言い方をしている。「日本人が知らない」というタイトルの通り、本書には私たちの知らない戦争の現実が記されている。真珠湾の奇襲からほどなくして日本陸軍は英領のシンガポールを陥落させた。シンガポールは中国系の人々(華人)が住民の多数を占めたが、多くの華人が日本軍の手により虐殺された。オランダ領であったインドネシアでも、住民を虐待した例は多い。ナチスドイツのユダヤ人虐殺を視野に入れると鬼畜米英ではなく、鬼畜日独こそがふさわしいと思えてくる。広島、長崎への原爆投下もあって、我々は日本人を戦争の被害者ととらえがちだ。もちろん無差別爆撃による被害者としての側面もあるのだが、中国や東南アジアの人々に対しては、私たちは加害者なのだ。そのあたりについて私たちは自覚的にあるべきだろう。ところで本書では各章の最後にコラムとしてちょっとした話題が提供されている。「日帝が残したタクワン」というコラムでは、韓国で食事をすると「キムチではなくタクアンが出てくることも多い」、韓国では、「日帝(日本帝国主義)の持ち込んだもので、よかったものはタクワンだけ」と言われているそうだ。

8月某日
年友企画の岩佐さんの呼びかけで神田駅近くの「さかながはねて」に17時30分に集合。集まったのは岩佐、社保研ティラーレ社長の佐藤さん、フィスメック社長の小出さん、社会保険出版社の高本社長そして私。2時間30分食べて呑んでそれでひとり5000円はリーズナブル。退職して以来、私はひとりで呑むことが多い。ひとり呑みの良さもあるがたまには集まって呑むのも悪くない。幹事をやってくれた岩佐さんに感謝である。

モリちゃんの酒中日記 8月その1

8月某日
大学時代の同級生と会食。13時30分に京橋の明治屋ビル地下のレストラン「モルチェ」に集合。弁護士をやっている雨宮先生以外はリタイヤ組。もっとも元いすゞ自動車の内海君はイタリヤの会社に呼ばれて年に何回かあちらにいっているらしい。元伊勢丹の岡君は親の介護のため、60歳で退職した。あとは元三鷹市社協の吉原君と私の5人。そういえば、1969年の4.28(4月28日のこと)、内海君や近ちゃん(近藤さん)、島崎君らとデモ見物に行って機動隊に襲われたことがある。内海君と近ちゃんは逃げ遅れて逮捕されてしまった。。確か京橋の近くの宝町あたりだった。内海君にそのことを話すと「俺は銀座の真ん中で捕まったの」と譲らない。吞んで食べて喋っていたら3時間ほどはあっという間に過ぎてしまい、店の人に「そろそろ」と言われてしまった。

8月某日
「インフレ・ニッポン-終わりなき物価高時代の到来」(大塚節雄 日本経済新聞出版 2023年4月)を読む。日本は長くデフレだった。しかし長引くコロナ禍で需要も減ったが供給力も減少した。それに昨年2月のロシアのウクライナ侵攻である。原油や小麦が高騰した。通貨としての円も下落し輸入物価の高騰に拍車をかけた。今年3月に日銀総裁を辞めた黒田氏(それと安倍元首相)は2%の物価上昇を公約したが、任期中は実現できなかった。辞めたとたんに実現されるという皮肉な結果となった。著者の大塚は日本経済新聞社の編集委員で2022年4月の日経新聞電子版に「ウクライナ危機で資源高に根ざす輸入インフレは日銀の想定を超えて進んだ。資源を海外に頼る日本にとって輸入インフレは海外への所得流出を意味し、家計の『所得デフレ』や内需型企業の『収益デフレ』に等しい」と書いている。著者は最後に日本経済に幾つかの提言を行っている。私がもろ手をあげて賛成したいのは提言③の「失われた『賃上げメカニズム』の歯車を回せ」である。私の考えでは、毎年3~5%の賃金上昇、それを0.5~1%下回る物価上昇、これがあれば日本経済はうまく回るはず。

8月某日
御徒町駅近くの清瀧上野2号店でデザイナーの土方さん、HCM社の大橋さん、年友企画の石津さんと会食。土方さんから佃煮、石津さんからお煎餅などのお土産をいただく。土方さんとの出会いは10数年前。土方さんが開発した「胃ろう吸引シミュレーター」の販売を巡ってだった。販売を当社が引き受けたのだが、専任の営業を置くことができずに伸び悩んでいた。そんなときにHCM社が販売を引き受けてくれた。土方さんと大橋さんとはそれ以来、仲良くさせてもらっている。こうした呑み会の場合、お互いの近況報告がメインとなるが、年金生活者の私はもっぱら聞き役。土方さんにご馳走になる。

8月某日
「白鶴亮翅」(多和田葉子 朝日新聞出版 2023年5月)を読む。タイトルの白鶴亮翅は「はっかくりょうし」と読み、太極拳のポーズのひとつ。「鶴が右の翼を斜め後ろに広げるように動かして、後ろから襲ってくる敵をはねかえす」ポーズのようだ。物語は現代のベルリンが舞台。夫のドイツ留学についてきたミサとミサを巡るベルリンの友人たちを巡る物語だ。留学を終えて夫は帰国するがミサはベルリンに残る。ミサは隣人のMの誘いで太極拳を習い始める。多和田葉子も確かドイツ在住だから作者のドイツ体験が物語の底流にあるのは確かだ。ドイツでドイツの歴史を体感し、また日本の歴史を想う-それも自然な形で。
なかなか素敵な物語として私は読んだ。

モリちゃんの酒中日記 7月その3

7月某日
床屋さん「カットクラブパパ」へ行く。以前行っていた「髪工房」が突然、閉店したのでこのところ「カットクラブパパ」へ行っている。髪工房の店主は私よりも年上だったが、カットクラブのほうは私よりもだいぶ若い。今回も髪を短めに仕上げてくれる。終ってから床屋近くの食堂「三平」へ。ここは年配のご婦人が数人でやっている昔ながらの食堂。五目チャーハンを食べる。5時30分に我孫子駅北口へ立憲民主党の岡田克也幹事長が演説に来るというので観に行く。30分ほど前に行ったがすでに数十人が集まっていた。圧倒的に高齢男子が多い。政治に背を向ける若い人たち。日本の将来は大丈夫か?岡田幹事長の演説は可もなく不可もなし。

7月某日
「東京史-七つのテーマで巨大都市を読み解く」(源川真希 2023年5月 ちくま新書)を読む。東京は明治維新後に日本の首都となり、関東大震災、東京大空襲を経ながら膨張を続けてきた。無秩序な膨張を繰り返してきたように見えるが、内務省や東京市によってそれなりの規制を受け、都市計画も存在した。にしても東京の魅力とは何であろうか? 西欧的な秩序とアジア的な混沌。この二つの混在か。

7月某日
「我が産声を聞きに」(白石一文 講談社 2021年7月)を読む。「来週の木曜日、空いている?」と夫の良治に言われ、名香子は夫とともに車で中華レストランを訪れる。食事を終えてデザートを食べているとき、夫から切り出されたのは「実は好きな人がいる、彼女と暮らすことにした」という別れ話だった。自宅その他の財産も、退職金の半分も名香子に渡すという。こんなこと突然、配偶者から言われたらショックだろうなぁと思う。名香子もそうだった。しかし名香子はショックを契機に徐々に変わっていく。飼い猫のエピソードが効いている。二番目の飼い猫ミーコは失踪してしまうのだが、ラストでは庭に迷子猫があらわれるシーンだ。子猫が再生のシンボルのようだ。

7月某日
「投身」(白石一文 文藝春秋 2023年5月)を読む。舞台は2022年の東京、品川。主人公の49歳の女性、旭(あきら)は「ハンバーグとナポリタンの店 モトキ」を品川区役所の近くで営業している。コロナ禍で客足は遠のいている上にロシアのウクライナ侵攻で食品の仕入れ値が高騰し、経営は苦しい。しかしモトキの常連でもある大家の二階堂さん(79歳)が家賃を格安に抑えてくれているので何とか赤字は免れている。旭の妹、麗、麗の夫の藤光との交流(実際は旭と藤光の性交を伴う交情)やかつての旭と年下の専門学校生、ゴローとの性交を伴う交流が描かれる。まだ周囲には知られていないが、二階堂さんは認知症を患っている。結局、二階堂さんは東京湾に船を出し、投身自殺をする。私は多摩川で入水自殺した西部邁のことを思い出さずにはいられなかった。西部は認知症ではなかったが、自身の老いが耐えられなかったということでは二階堂さんと共通するところがある。さらに二階堂さんも西部も妻を先に喪っている。そういえば、江藤淳も奥さんが亡くなった後に自殺している。男って弱いんだな。

モリちゃんの酒中日記 7月その2

7月某日
虎ノ門の日土地ビルにフェアネス法律事務所を社保研ティラーレの佐藤社長と訪問。佐藤社長には元衆議院議員の樋高さんが同行。渡邊弁護士からアドバイスを貰う。虎ノ門から銀座線、南北線を乗り継いで駒込へ。駒込駅で社会保険研究所や年友企画で校正をやっていた渡邊さん(通称ナベさん)と待ち合わせ。ナベさんは私が業界紙(日本木工新聞社)に勤めていた頃の同僚。同じく同僚だった高橋君(通称チャーリー)は亡くなったということだ。私とナベさんは同じ1948年生まれだが、チャーリーは1、2歳年下の筈。駒込駅に隣接するホテルメッツのレストランで私は遅いランチ、ナベさんはアイスコーヒー。17時近くなったので駅の反対側の居酒屋へ。ナベさんはほとんど飲まない。私はハイボールを2杯程。今度はナベさんの家の近くの朝霞台あたりで呑むことにしよう。我孫子へ帰って、呑み足りないので「七輪」で一杯。

7月某日
「会いにゆく旅」(森まゆみ 産業編集センター 2020年1月)を読む。著者の森まゆみは1954年生まれ、早稲田大学政経学部卒で確か藤原保信門下。84年に地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(通称・谷根千)を創刊、09年の終刊まで編集人を務めた。私は雑誌「年金と住宅」の連載「古地図を歩く」で谷中の大円寺を訪ねたとき、「谷根千」を販売していたスタッフに会っている。「古地図を歩く」の筆者、中村さんが販売スタッフを「少女のような」と驚いたことを覚えている。確かに化粧っけもなく髪も短くしていた販売スタッフは若く見えたことは事実だが「少女のような」は言い過ぎであった。今から思うとその人は編集同人のひとり、山崎範子さんであったと思う。「会いにゆく旅」は森まゆみが酒や温泉を求めて「会いにゆく旅」を綴ったもの。酒好き温泉好きの私にはたまりません。

7月某日
「父のビスコ」(平松洋子 小学館 2021年10月)を読む。平松洋子は1958年、岡山県倉敷市生まれ、東京女子大学文理学部卒。私とは10歳違いだし向うは女子大卒だし、共通点はないのだが、何となく価値観を共有している思いがある(まぁ個人の感想ですけれど)。7月になって猛暑が続く。「洲崎パラダイス」(芝木好子 ちくま文庫)を読む。1955年に講談社から刊行された。洲崎は現在の江東区東陽町1丁目で明治期に根津から移設された遊郭があった。戦後、洲崎パラダイスという名称を掲げたゲートが設けられ「特飲街」と称した。ゲートの前の一杯飲み屋に勤める女と遊郭を訪れる客の姿を描く。芝木は1914-91年。私の両親より9歳年長である。図書館で同じ芝木好子の「新しい日々」(書肆汽水域 2021年8月)を借りて読む。著者の死後編まれたアンソロジー。良質なテレビドラマを観る思いで読んだ。

7月某日
厚生労働省の医系技官だった高原亮治さんは、厚労省退職後、上智大学教授などを務めその後、高知県で地域医療を担う診療所の医師となった。しかしほどなく急死したという知らせがあった。心臓に持病があったようだ。高原さんは岡山大学医学部卒。東京都を経て厚生省に入省した。高原さんは岡山大学医学部全共闘の闘士で、死後に会った岡大の同級生が「高原が東大闘争から帰った後、火の出るようなアジ演説をしていた」と語っていた。もっとも私の知っている高原さんは本好きで話の面白いおっさんだった。高原さんと同じ日に厚労省を退職したのが堤修三さん。それから高原さん、堤さん、私の3人で良く呑みに行った。この日は高原さんの10年目の命日、堤さんと四谷の上智大学の隣にある聖イグナチオ教会の納骨堂にお参り。その後で四谷新道通りで堤さんと一杯。

モリちゃんの酒中日記 7月その1

7月某日
「卑弥呼とヤマト王権」(寺沢薫 中公選書 2023年3月)を読む。本書の袖に「本書では纏向遺跡から出土した数々の遺構と遺物を詳細に紹介し、この遺跡がヤマト王権の最初の大王都だったことを明らかにする」と紹介されている。1971年12月、同志社大学考古学研究室(森浩一教授)の3回生だった著者は纏向遺跡の発掘調査に関わることになる。著者は纏向遺跡が、卑弥呼を初代大王とするヤマト王権の都であったと主張する。もちろん古墳から発掘された勾玉や剣などから推測していくのだが、最近の考古学では古墳の内部の土壌や植物の種を採取、分析したりするらしい。著者はさらに中国の歴史書、魏志倭人伝も参照しヤマト王権と中国の王朝との交流を詳らかにする。ヤマト王権は弥生時代の末期から古墳時代(飛鳥時代)に該当するが、稲作の開始とも時期を同じくする。「農業生産力は開発力(水田面積)と生産性(単位当たり収量)の両輪で決まる。前者にかかわるのは土木技術力と労働の総量、後者にかかわるのは栽培技術力と労働の集約力である」と著者は語る。戦前の天皇制神話についても「それが人民支配のために時の国家権力が生んだフィクショナルな共同幻想であったとしても、その古層には、前方後円墳祭祀から引き継がれた『神霊の不変性』に対する信仰があった」と(私にとっては)公平な評価を下す。

7月某日
週2回、月曜日と木曜日がマッサージの日。歩いても15分程度なのだが、本日は同居している長男が休みなので車で送って貰う。予約は11時からで最初の15分がマッサージ、残りの15分で電気をかける。マッサージのときはマッサージのお兄さんと世間話。マッサージの店を出ると長男が車で待っていてくれた。家へ帰って昼食。昼食後、家から歩いて5分の我孫子市民図書館へ。クーラーが効いている図書館で読書。アビスタ前からバスで我孫子駅前へ。北口にあるイトーヨーカドーの我孫子ショッピングモールへ。3階の書店で桐野夏生の最新作を購入。我孫子駅前からバスで帰宅。

7月某日
昨日買った「もっと悪い妻」(桐野夏生 文藝春秋 2023年6月)を読む。2015年から23年に発表された6つの短編がおさめられている。6つの短編の読後感は爽快とはいかない。むしろ不穏な読後感か。桐野の小説には短編にしろ長編にしろこの不穏な読後感が付きまとうことが多いように私には感じられる。21世紀の日本が行き着いた気分が「不穏」なのだ。家庭内離婚や離婚、配偶者の死などが描かれるが、どれも安定とはほど遠い。現代を描く小説の宿命かもしれない。

7月某日
神田の古書店で100円で購入した「義経伝説-歴史の虚実」(高橋富雄 中公新書 1966年10月)を読む。今から57年前、私が18歳の頃に刊行された本である。当時定価200円であった。判官贔屓という言葉が残っているように源義経は今も人気の高い平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将である。平家追討では中心的な役割を果たしながら、兄である頼朝に疎まれ、ついには奥州平泉で悲劇的な生涯を終える。頼朝との不仲の淵源を著者は、義経は「素朴に兄の片腕になるつもりで馳せ参じた」が、兄頼朝は「従者としての服従を求めるようになった」ことにあるとする。「義経は都で育ち、畿内で展開する」。伊豆で育ち伊豆で挙兵する頼朝とは、育ちが違うのである。私が思うに頼朝は義経の持つ都会的で洗練されたセンスを嫌ったのではないか。「平家海軍国際派」という言葉があって、洗練はされていても、泥臭くて実力が上回る源氏や陸軍には勝てないことを言う。義経は源氏の中にあって平家的つまりは都会的なセンスを身に付けていた。それが頼朝には許せなかったし梶原景時との諍いにも通じることになる。「義経記」は「『義経が追討する物語』ではなしに『追討される物語である』」ともしている。一種の貴種流離譚でもある。義経主従には反東国意識が一貫している。「鎌倉幕府の成立は、西と東の抗争史において、はじめて東の優位、西野没落をもたらしたできごと」であり、「義経固有の勢力は、広い意味で西がたの力である」。なるほどねぇ。頼朝と義経の「関係をもし倫理的にいうならば、体制主義者の頼朝が正統倫理を代表し、義経は体制倫理以前の人間世界を生きようとする」とも述べている。頼朝は革マルや民青であり、義経は全共闘であったともいえるのではないか。

モリちゃんの酒中日記 6月その4

6月某日
「保守の遺言-JAP.COM衰滅の状況」(西部邁 平凡社新書 2018年2月)を読む。先週読んだ保阪正康の西部との交流を綴った「Nの廻廊」に触発されて西部の本を読むことにした。西部は18年の1月に自裁しているから本書は最期の著作である。西部は60年安保の指導者から後に東大教授、東大教授辞任後は保守派の論客として知られる。しかし本書を読む限り、私は西部を穏健なナショナリストと呼びたい。核武装論者としての西部は「日本領土が核攻撃された場合にのみ報復核として相手国に打ち込むことが許される」と極めて限定的な核武装論者である。私は日本国憲法の平和主義を支持しているが、論理的に分析的に支持しているわけではなく感情的にセンチメンタルに支持しているに過ぎない。そうした意味でも西部の論は再評価されるべきと思う。本書の終了間際に「ごく最近、僕の旧友の未亡人唐牛真喜子さんが71歳で身罷った」の一文がある。私は生前の真喜子さんと親交があり何度か食事をした。西部の自殺を知ったとき真喜子さんが気落ちしているだろうと電話したら、知らない女の人から「唐牛は死にました」と知らされた。癌を患っていたそうだが、誰にも知らせなかったという。西部も真喜子さんもそれぞれの死を死んだというべきか。

6月某日
小中高校が同じだった佐藤正輝君。札幌でコンピュータソフトの会社を起業した。正輝君が上京するというので、山本君が音頭をとって高校の同期が集まることに。5時50分に神田駅北口集合ということで定刻に行ったら誰も来ていない。山本君の携帯に電話しても出ないので予約していた中華料理屋に行っても誰も来ない。7時まで待っても誰も来ないので、お店の人に「行き違いがあったようです」と言って店を出る。神田から上野に行って駅構内の釜めしや「シラス釜めし」とビールを頼む。ビールを呑んでいたら山本君から携帯に着電。
約束は明日であったことが判明。

6月某日
神田駅北口に5時50分に集合。9人ということだったが1学年下の井出君が少し遅れるということなので8人で出発。上海台所という中華料理店に向かう。少し道に迷っていたら井出君が先についていた。女子2名、男子7名で乾杯。私と山本君と佐藤正輝君は室蘭市の外れの水元町出身だが、本日はそれに上野君が加わる。上野君は青学の英文科出身で卒業後はJALに就職した。本日は飲み放題食べ放題で3800円だったが、一律3000円で残りは正輝君が負担してくれた。「さすが社長!」。帰りは私と山本君は千代田線で新お茶の水から帰り、それ以外は神田から帰った。

6月某日
「労働の思想史-哲学者は働くことをどう考えてきたか」(中山元 平凡社 2023年2月)を読む。著者の中山元は1949年2月生まれ、東大教養学部教養学科中退とある。私と同じ学年で東大中退ということは東大全共闘だったかもしれない。本書は働くことの意味を古代から現代まで、思想家たちはどのように考えてきたか概観している。中山はマルクスやカント、ルソー、ヘーゲル、ウェーバーの訳者でもある。人類の誕生は数百万年前、類人猿が二足歩行を始めたのが発端と言われている。前足を「物をつかむための道具として」利用できるようになり、同時に「頭蓋が発達して大きな脳髄を収容することができるようになった」。そして「口と舌と喉が、言語を発する器官として発達していく」。言語の獲得、これこそが人間を他の動物と区別する最大のものだろう。旧石器時代を経て新石器時代になると人々は定住と農耕を始める。やがて都市が形成され、余剰生産物が蓄積される。穀物の量を記録するために文字が発明され、文字を操る官僚組織が誕生した。官僚や神官を統御し、対外戦争を指揮する王権も生まれた。「労働は苦痛」という労働観が広がり、労働を修行ととらえたのが修道院である。
「労働するということは、今そこにある欲望を抑制し、消失を延期させることだ」としたのはヘーゲルである。ヘーゲルにおいて「労働はたんなる労苦ではなく人間らしさを形成するものとして」きわめて肯定的に描かれた。資本制社会における分業の重要性を指摘したのはアダム・スミスである。スミスとヘーゲルの思想を受け継いだマルクスとエンゲルスは「労働の疎外を廃絶するためには、現在の所有の形式に依拠し」ている国家を「革命によって廃絶しなければならない」と考え、分業が廃止される協同社会(ゲマインシャフト)、すなわち共産主義社会の実現を主張した。20世紀はフォーディズムやテーラーシステムによる大量生産大量消費の時代であった。20世紀後半に登場したロボットとAIは生産性を大幅に向上させる。マルクスが描いた分業が廃止された共産主義社会「私は今日はこれをし、明日はあれをするということができるようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、朝には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批判をすることができるようになる」(ドイツ・イデオロギー)が可能になるのだ。

モリちゃんの酒中日記 6月その3

6月某日
「ゆうべの食卓」(角田光代 オレンジページ 2023年3月)を読む。オレンジページというのは「料理雑誌オレンジページなどを出版する出版社」(ウイキペディア)ということ。「本書は『オレンジページ』2020年7月2日号~2023年2月17日号に掲載された「ゆうべの食卓」に、新たな原稿を加え、再構成したものです」と巻末に載せられている。ひとりの、二人の、家族の食卓の風景…。なんかいいなぁ。表紙と本文中のイラストが洒落ている。

6月某日
11時30分からマッサージ。マッサージ店のすぐ前のバス停「若松」から「我孫子駅前」に乗車。八坂神社前から床屋さんまで徒歩5分。床屋さんで髪を短くしてもらって、公園坂を下って手賀沼のほとりまで歩く。平日のお昼時だが家族連れが何組かいた。家へ帰って遅い昼食。
「Nの廻廊-ある友をめぐるきれぎれの回想」(保阪正康 講談社 2023年2月)を読む。Nとは5年前に自裁した思想家の西部邁のこと。著者の保阪は西部の1歳下(保阪は1939年生まれ、西部は38年生まれ)で同じ中学へ列車と電車で通う仲だった。保阪は札幌東高校から同志社大学へ、西部は札幌南高校から東大へと進学し、二人の交流はいったん途切れる。しかし西部が東大教授を辞め、保阪が昭和史のドキュメントを発表するころから二人の関係は復活する。読んでいて保阪の西部に対する親愛の情と尊敬の念がひしひしと感じられた。西部には一度、講演をお願いしたことがある。年金住宅福祉協会が帝国ホテルで月1回の朝食会兼の勉強会があり、その講師を頼みに行ったのだ。当時、年住協の企画部長をしていたのが竹下隆夫さんで、竹下さんは前職が冬樹社という文芸出版社の編集長で西部とも面識があったのだ。朝食会なので朝が早く、西部には部屋を用意したのだが現れなかった。しかしさすがプロというべきか、時間通りにちゃんと現れて講演もそつなくこなしていた。そんなことも思い出した。

6月某日
「Nの回廊」を読んで西部邁のことをもう少し知りたくなった。我孫子市民図書館のHPで西部を検索する。出版年月日が現在に近い順から表示されるのだが、最初に表示されたのが「達人、かく語りき」(沢木耕太郎 岩波書店 2020年3月)だったので早速借りることにする。吉本隆明、吉行淳之介、田辺聖子ら10名との対談集である。西部とは5番目に「1960年代を中心に」というタイトルで収録されている。この対談での西部は皮肉屋の側面を見せずに自分の60年代を淡々と振り返っている。日米安保の空前の反対闘争が闘われた1960年は日本社会党の委員長だった浅沼稲次郎が、演説中に日比谷公会堂で山口二矢に刺殺された年でもある。西部が保阪と通学した中学は札幌の柏中学だったが、山口二矢は柏中学で4年後輩だったと対談の中で明らかにされている。何といってもこの対談集の圧巻は巻頭におさめられた吉本隆明との対談であろう。沢木はこう記している。「実際に寿司屋の二階でお会いすると、吉本さんは対談のためのノートを作ってきており、それをもとに話を進めてくださった。話す中で、吉本さんが私の作品の多くを読んでくれていることを知った」。沢木の吉本に対する敬意の念が伝わってくる文章である。

6月某日
立川に本部のある社会福祉法人にんじんの会の評議員会に出席。我孫子から新松戸、新松戸から西国分寺、西国分寺から立川へ。立川駅から本部まで歩いていると「モリタさん」と声を掛けられる。理事長の石川はるえさんである。本部に行くと評議員で厚労省OBの中村秀一さんや吉武民樹さんも顔を出す。決算報告を受けるがコロナ禍にもかかわらず収入も利益も増加している。経営陣の努力もあるが職員が自分事として業務の改善に取り組んでいることを評価したい。評議員会後、近くの美登里寿司で食事。

6月某日
監事をしている一般社団法人の総会が東京駅八重洲口の会議室で開催されるので東京駅へ。会議が1時30分からなので八重洲口界隈でランチ。再開発から取り残されたような居酒屋で天丼定食をいただく。700円は安い。総会は無事終了。17時30分から有楽町で堤修三さんとの会食があるので有楽町まで歩く。予約してある「呑み処五島」は東京交通会館の地下1階にある。地下1階にはピアノが置かれていて街角ピアノとなっている。ベンチに座って聴いていると堤さんが来る。堤さんは「外では酒を呑まないようにしている」とかで、生ビールの後はウーロン茶。私はビールの後は水割り。有楽町で私は上野へ、堤さんは恵比寿へ。

モリちゃんの酒中日記 6月その2

6月某日
「マルクスに凭れて60年-自嘲生涯記 増補改訂新版」(岡崎次郎 航思社 2023年2月)を読む。本書はもともと1983年に青土社から出版されたものを増補したものだ。だが、著者の岡崎次郎を知る人は今や少ないだろう。私も呉智英や佐藤優が岡崎のことや本書のことについて語っているのを知って、本書に出会った。岡崎は明治37(1904)年生まれ、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学及び哲学史学科を卒業、次いで昭和4(1929)年に同大学経済学部経済学科卒業。年譜には昭和8年まで断続的に著述業となっている。空前の不景気だったうえに経済学科でマルクス経済を専攻したのが影響したと思われる。昭和8年に東亜経済調査局に入局。ここのトップは大川周明だった。昭和12年に第一次人民戦線に連座して検挙、2年間の拘留の後、起訴猶予となり釈放される。要するに岡崎は高校生の頃からマルクスの思想に魅かれ、マルクスの書籍を翻訳するようになったのである。東亜経済調査局の満鉄復帰に伴い、満鉄調査部員となる。ろくに仕事をせずに碁を打ってばかりいたという。高校時代に覚えた麻雀も強かったようである。終戦により帰国、翻訳業・雑文業により生計を維持する。昭和25年、九州大学教養部教授に就任、昭和30年に法政大学経済学部教授、昭和43年に当時中核派が主導していた法大の学生運動に嫌気がさして教授を辞任、以後著述業に専念する。
書名の「マルクスに凭れて…」はマルクスの翻訳で翻訳料や印税を受け取ってそれで生活費その他を賄ってきたことを指している。本文中にももちろん出てくるが、解説で市田良彦が「いったい岡崎は時価総額2億円を下るまい収入(給与を除く)を、自宅も建てずに何に使ったのか」と書いている。市田はさらに「彼は文字通りマルクスに『凭れて』生きたのだ。九州大学と法政大学で使う教科書以外の著書はなく、論文と呼べる仕事もない。…画家でも作家でもなく「研究者」でもなく、労働者や資本家でもない「知的生産者」が、マルクスのおかげで存在しえたのだ。今でいう富裕層として」と書く。それでもなおかつ本書で描かれる岡崎の自画像は憎めない。私たちは学者というと、とかく堅物と思いがちだが、本書の岡崎は「飲む打つ買う」の三拍子そろった遊び人の一面を持つ。打つは碁と麻雀、買うは買春である。買春について本書に具体的な記述はないが、体調を崩して入院したとき「わかったのは、骨髄液まで採取して調べてみても梅毒の気がまったくないということだけだった」と記されている。買春行為があったことをほのめかしていると思える。
本書でマルクスの思想について真面目に論じている箇所も少ないがある。第Ⅻ章「マルクスから学んだもの」である。そこで著者は「資本主義から社会主義への移行の諸条件-プロレタリートによる世界解放の歴史的諸条件-もまた国によって地域によって大いに異なることがありうる…現在および将来の体制変革の有り様は、場合によっては数百年にわたる長い目で見ないかぎり、けっして一様ではない」としている。これには私ももろ手をあげて賛成である。しかし続けて「第二点はプロレタリアートによる国家権力の掌握、すなわち「プロレタリアートの独裁」の確立である」として「これを認めなければ、たとえ資本主義を否認するとしても、結局は改良主義か無政府主義のどちらかに堕することになる」と断じている。この考えには同調できない。私は今、プロレタリア独裁こそが諸悪の根源だと思っている。著者のいう「改良主義か無政府主義」の立場こそ私に近い。プロ独=レーニン主義ではなかろうか。レーニン主義には賛成できません。

6月某日
東京交通会館の地下1階のギャラリーで開催されている宮島百合子さんの水彩画展を観に行く。会場で17時に社保研ティラーレの佐藤社長と待ち合わせ。少し早く着いたのでピアノ演奏のスペースで読書。佐藤社長と会場へ。フランスとその周辺の風景画がテーマ。教会などの宗教施設が巧みに描かれている。カトリック文化の伝統を味わう。佐藤社長と別れて私は千代田線の日比谷から我孫子へ。我孫子では北口の庄屋で一杯。

6月某日
「永遠と横道世之介」(上下)(吉田修一 毎日新聞出版 2023年5月)を読む。横道世の介シリーズは本作を含めて3冊が刊行されている。1冊目が09年に出版された「横道世之介」、2冊目が19年の「おかえり横道世之介」。1冊目の世之介は長崎から大学入学のために上京した18歳だったが、本作では39歳のカメラマンで「ドーミー吉祥寺の南」という下宿のオーナー、あけみさんと「ドーミー吉祥寺の南」で同棲している。本作は「ドーミー吉祥寺の南」の住民たちの日常を描くのだが、あけみさんの祖母が「ドーミー吉祥寺の南」が建つ土地を取得した経緯や世之介が惚れていて早世した二千花の思い出、さらに長崎での世之介の両親の出会いと世之介の誕生などが描かれる。誕生繋がりで世之介のアシスタント、エバ(江原)くんの結婚と子どもの誕生も。そう盛り沢山のエピソードが目まぐるしく展開するのである。これらの日常は子どもの難産、二千花の余命の短さなどの困難を抱えつつも克服されていく。誰かの超人的な努力によるのではなく、世之介というキャラクターの持つ雰囲気が困難を克服していくのである。「雰囲気が困難を克服するだと!そんなわけないだろう!」と怒られそうだが私にはそう読めたのである。

6月某日
11時30分から週2回通っているマッサージへ。マッサージを終えてたまに外でランチをとることにする。マッサージ店の隣がインドカレーの店、向かいがラーメン屋とフランス料理屋、インドカレーの先が日本蕎麦屋とあるが、私はその先へ。いつも行列ができているラーメン「桂」を過ぎイタリア料理屋と天ぷら「程々」も過ぎ、我孫子農産物を売っているアビコンに到着。舞米亭というレストランに入り舞米カレーを注文、800円。我孫子産の野菜を使っているのが特徴。ここは基本はセルフサービスなのだが、私が行くと「いいですよ」と言っておばちゃんが配膳と片付けをやってくれる。申し訳なし。

モリちゃんの酒中日記 6月その1

6月某日
「近代日本の『知』を考える。-西と東との往来」(宇野重規 ミネルヴァ書房 2022年1月)を読む。近代日本の文化人、29人の短い評伝。瀬戸内寂聴の項では瀬戸内が「ぜひ、今も読んでもらいたい本を」と聞かれ「美は乱調にあり」と、その続編である「諧調は偽りなり」をあげたというエピソードが紹介されていた。伊藤野枝と大杉栄を主人公にした小説である。私はさらに、関東大震災直後に皇太子(後の昭和天皇)暗殺を企てたとして死刑判決を受け、後に栃木刑務所で縊死した金子文子の生涯を描いた「余白の春」も加えておきたい。瀬戸内寂聴は私にとって田辺聖子、林真理子と並ぶ文豪です。

6月某日
「真理の語り手-アーレントとウクライナ戦争」(重田園江 白水社 2022年12月)を読む。重田園江は1968年生まれ、早稲田大学政治経済学部卒業。藤原保信ゼミ出身。1年間だけ日本開発銀行に勤めた後、東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政経学部教授。本書は「2022年2月24日、ロシアが突如としてウクライナに侵攻し、第2次世界大戦後では最も大規模な地上戦へと発展」したのを契機に、ハンナ・アーレントの思想を手がかりにウクライナ戦争と現代世界の不条理を読み解いたものである。園田はロシアのウクライナ侵攻を、特異な国家「おそロシア」の所業と見てはいけないとして、日本の満洲侵略やベトナム戦争を例に挙げる。「戦争において、侵略者の側はたくさんの嘘をつく。そして、その嘘に、自分たちも騙されるようになる」なんていうのも戦前日本に当てはまる。というか「平時においても、権力者の側はたくさんの噓をつく…」とも言い換えられる。安倍元首相のモリカケ疑惑のことである。ロシアの「秘密警察的なもの」に警鐘を鳴らした映画作品を手がけたロシアの映画監督ロズニツァにも多くのページが割かれている。重田は相当な映画好きと見られる。「あとがき」で本書を書くきっかけとしてロズニツァの「粛清裁判」「国葬」を鑑賞したことをあげ、「『早稲田松竹』の長時間の2本立ては容赦のないもので、学生時代を思い出し、うれしいような厳しいような5時間だった」と書いている。重田の思想を支えているのは正義感と優しさだと思う。それは終章に収められた次の文章からも感じられる。「お茶の水橋でビッグ・イシュー誌を売っているおじさんも、おそらく駅員の『お目こぼし』で日本の駅には珍しく地べたに座って『物乞い』をする池袋駅の老人も、通り過ぎる人たちはまるで彼らがいないかのように扱っている」。

6月某日
監事をしている団体の理事会に出席後、会場の八重洲から神保町の東京堂書店まで歩く。東京堂書店で「マルクスに凭れて60年」を購入。同書は資本論の訳者、岡崎次郎の著作で呉智英が絶賛していた。お茶の水の日高屋で冷麺を食べる。本格的な(と私には思える)韓国冷麺で美味しかった。お茶の水から御徒町へ。御徒町の吉池食堂で大谷源一さんと食事。私は生ビール、日本酒、ウイスキーの水割りをいただく。御徒町から上野経由で帰宅。

6月某日
「旅する練習」(乗代雄介 講談社 2021年1月)を読む。サッカー少女の亜美と叔父の小説家が、亜美の私立中学校合格祝いに常磐線の我孫子駅から鹿島アントラーズの本拠地である鹿島を目指して徒歩の旅に出る。「互いに家は県都境の川を挟んだところにあって」という記述があるので松戸と金町付近に住んでいると推定される。2人は常磐線で我孫子駅に降り立ち手賀沼公園から手賀沼沿いに歩き、利根川に至る。途中、就職が内定した女子大生と合流、旅を続ける。「旅する練習」というタイトルはサッカー少女の亜美がボールを蹴りながら旅することから。あまり期待しないで読み始めたが、旅をしながらの亜美の成長が描かれ楽しく読むことが出来た。

6月某日
マッサージ後、近くの天ぷら屋「程々」で天丼定食をいただく。確か以前食べたときには950円だったと思うが、1090円に値上がりしていた。値上げの季節!年金生活者には痛い。食事後、我孫子高校前から我孫子駅へ。成田線で湖北へ向かう。「旅する練習」を読んでちょいと刺激されたのだ。湖北には公団の湖北団地があり駅前もそれなりに栄えていたはずだが閑散としていてシャッターを閉めた店が多い印象。駅前を散策した後、湖北駅前から湖北団地を経て天王台経由我孫子駅行きのバスに乗る。いつもバスに乗っているアビスタ前で下車、バス代は300円くらいだったが障害者手帳を見せて半額で済んだ。

6月某日
「悪口と幸せ」(姫野カオルコ 光文社 2023年3月)を読む。姫野カオルコは「昭和の犬」(直木賞受賞作)、「彼女は頭が悪いから」(柴田錬三郎賞受賞作)を読んで面白かった。今回も面白かったのだが、私には登場人物の整理がつきかねる。「この本は、次の人が予約してまっています。」という黄色い紙が貼られているので、とりあえず図書館に返して半年ほどしたらまた借りることにしよう。

6月某日
「敗者としての東京-巨大都市の隠れた地層を読む」(吉見俊哉 筑摩書房 2023年2月)を読む。東京は外からの勢力に3度占領されたというのが著者、吉見の見解。最初は戦国時代の末期に徳川家康によって。二番目は戊辰戦争のときに薩長の官軍によって、三番目がアジア太平洋戦争の敗北により米軍によってである。本書の構成によると最初が「第Ⅰ部 多島海としての江戸-遠景」、二番目が「第Ⅱ部 薩長の占領と敗者たち-中景」、三番目が「第Ⅲ部 最後の占領とファミリーヒストリー-近景」で、それに総括として「終章 敗者としての東京-ポストコロニアル的思考」である。中南米を侵略したスペインによって、先住民の文明は粉々に破壊されつくされ、侵略者は「その瓦礫の大地にキリスト教会を立ててき」た。しかし東京はそうはならず、「これまでの三度の占領で、ゼロから新たに都市が立ち上がったのではなく、以前の都市に改変が加えられ、新しい要素が付け加えられ歴史的な地層が積み重なってきた」ということだ。本書を読んだ私の歴史の常識がいくつか変更を迫られた。私は縄文から弥生への移行は連続的に行われたと思っていたが、本書では弥生時代の稲作などの技術や生活様式は渡来人を通して中国大陸や朝鮮半島から入ってきたとし、それを担ったのは渡来人だったとしている。これって騎馬民族征服史観に近いんじゃないか。
第Ⅱ部では清水次郎長の実像ですね。戊辰戦争で幕府海軍の咸臨丸が駿河湾に漂着し、新政府軍から攻撃を受け、30名ほどの幕兵が惨殺され遺体は海に投棄された。新政府軍の報復を恐れて駿河藩も漁民も遺体を放置した。遺体を収容し葬ったのが次郎長である。このことは天田愚庵の「東海遊侠傳」に記されているそうで、このエピソードは神田伯山の講談や2代目広沢虎造の浪曲に採り入れられている。次郎長人気は戦後も続き、鶴田浩二主演「次郎長三国志」シリーズが撮られ、最近では中井貴一主演で「次郎長三国志」が08年に公開されている。吉見俊哉は映画やヤクザにも詳しいようだ。それもそのはず(?)で吉見の母は安藤昇の従妹だったことが第Ⅲ部で明らかにされる。まさにファミリーヒストリーである。この本は今年上半期(1-6月)に読んだ本の中でベスト5に残る面白さであった。

モリちゃんの酒中日記 5月その3

5月某日
「マルクス 資本論の哲学」(熊野純彦 岩波新書 2018年1月)を読む。「まえがき」で著者の熊野は「『資本論』は…この世界の枠組みを規定している資本制をめぐり…もっとも行き届いた分析を提供し、私たちが現在もなお、どのような世界のなかで生を紡いでいるのかを、その深部から歴史的に理解させてくれる、古典的なひとつである」と述べている。しかし一読して全体を理解することはかなわなかった。これはもちろん熊野の責任ではなく、私の浅学非才にある。だが終章の「交換と贈与-コミューン主義のゆくえ」は何とか理解できたように思う。コミューン主義とは熊野による共産主義の言い換えである。したがってマルクス/エンゲルスによる共産党宣言も「コミュニスト党宣言」であり、「宣言」がその綱領として起草された共産主義者同盟もコミューン主義者同盟とされる。私は共産主義という名辞の持つ古臭くて権威的なイメージが気に入らなかったのでコミューン主義への言い換えには賛成である。そういえば日曜日午前のバラエティー番組「サンデージャポン」に哲学者で東大でマルクスやヘーゲルを(多分)教えている斎藤幸平が出演していた。ウォーラーステインは、世界革命は過去二度起こっている。一度目は1948年、二度目は1968年と言っているそうだが、三度目は近いのかも?

5月某日
我孫子駅前の県民プラザで開かれている関口小夜子さんの「切り布絵展」を見に行く。関口さんは私より5歳上の1943年生まれ。何年か前まで日本共産党の市会議員を務めていた。ウチの奥さんがアビスタで開かれているダンベル体操に参加、そこで知り合ったそうだ。関口さんは岐阜県出身で切り絵はそこで育った幼い頃の日常を描いている。学校帰りにあまりに暑いので川で泳いでいたら男子に冷やかされた光景を描いた絵もあった。「パンツをはいているのが私。恥ずかしい」というキャプション。関口さんに挨拶する。元共産党と聞いていたが本人は上品でおしゃれなおばさんであった。

5月某日
「世界共和国へ-資本=ネーション=国家を超えて」(柄谷行人 岩波新書 2006年6月)を読む。「マルクス 資本論の哲学」で熊野純彦がこの本を「現在この国でもっとも創造的なマルクス読解のひとつをふくんでいると考えます」と評価していた。本書はタイトルの通り(地球に住む我々とその子孫は)「資本・ネーション・国家を超えて(カントのいう)世界共和国へ」(到達できるのだろうか?)という問い、そしてこれらを解決できなければ「われわれはこのまま、破局への道をたどるほかありません」という危機感によって書かれている。熊野は共産主義をコミューン主義と言い換えていたが柄谷はアソシエ―ショニズムと言い換える。これは「人々が知っている社会主義は、おおむね国家社会主義」という認識のもと、(アソシエ―ショニズムは)「カント的にいえば、『他者を手段としてのみならず同時に目的として扱う』ような社会を実現することです」。本文の最後に老哲学者にして60年安保ブンドの活動家であった柄谷は、世界共和国について「もちろん、その実現は容易ではないが、けっして絶望的ではありません。少なくとも、その道筋だけははっきりしているからです」と断言する。

5月某日
年友企画から連絡。「カメラマンの和田さんが亡くなったと岡田さんから電話がありました。岡田さんに電話してください」。岡田さんに電話すると大腸がんを患って昨日、亡くなったということだった。和田さんも岡田さんも日大芸術学部写真学科の出身。と言っても二人ともに私と一歳違い、日大闘争の真っ只中に在学していたわけでともに闘争に参加、全共闘派の多くの学生がそうしたように卒業することなく学園を去った。和田さんは年住協創立10周年事業で写真集「アメリカンハウス」「ヨーロピアンハウス」の撮影を担当、「アメリカンハウス」では木村伊兵衛を受賞した。和田さんに最後に会ったのは今から5年ほど前、HCM社の平田高康会長を偲ぶ会でだった。

5月某日
久しぶりに虎ノ門のフェアネス法律事務所を訪問。次いで有楽町のふるさと回帰支援センターに高橋ハム理事長に大谷源一さんとともに面談。ハムさんは見城美枝子さんと加藤登紀子のコンサートに行くということだった。大谷さんと御徒町の活鮮市場へ。ブリのカマを肴に生ビール、日本酒、焼酎のお湯割りをいただく。上野駅まで歩き大谷さんと別れ、私は常磐線で我孫子へ。コビアンでライスコロッケのハーフと生ビール。

5月某日
「シリーズ□世界の思想 マルクス 資本論」(佐々木隆治 KADOKAWA 平成30年7月)を読む。著者は立教大学経済学部准教授で1974年生まれ。「はじめに」で「本書では、マルクスの主著である『資本論』第一巻をマルクス自身のテキストとして読んでいきます」とあるように、『資本論』第一巻を「第一篇 商品と貨幣」から「第七篇 資本の蓄積過程」まで『資本論』の本文(抜粋)に解説を加えている。正直、難解であった。しかし「マルクス主義的」な読解ではなく、「マルクス自身のテキスト」として『資本論』を読むことの重要性は理解できた。日本は戦後、福祉国家としての道を歩んできたように思う。経済路線としては修正資本主義路線である。ソ連や中国などの「社会主義国」に対抗する意味もあったと思う。ソ連が崩壊しロシアがウクライナに侵攻する現在、そして貧富の差が拡大し、地球環境的な危機が迫ろうとしている現在、マルクスの思想を真剣に学ぼうと思う。