モリちゃんの酒中日記 2月その2

2月某日
「ドキュメント 異次元緩和-10年間の全記録」(西野智彦 岩波新書 2023年12月)、「日本病-なぜ給料と物価は安いままなのか」(永濱利廣 講談社現代新書 2022年5月)を読む。西野は1958年生まれ。慶應大学卒業後、時事通信社入社、その後TBSに転じ報道局長などを務める。永濱は1971年生まれ。早大理工学部工業経営学科卒、東大大学院経済研究科修士課程修了。第一生命、日本経済研究センターを経て現在、第一生命経済研究所首席エコノミスト。二つともアベノミクスと黒田日銀総裁時代の日本経済を論じている。西野は安倍首相と黒田総裁が進めた異次元緩和には批判的だ。円相場は下落し、企業収益は10年間でほぼ倍増、日経平均は三万円台に回復、失業率は2%台半ばに低下し、新規雇用者は430万人ほど増えた。しかし「その反面、日本経済の潜在成長率は0.8%から0.3%に低下し、一人当たりGDPはG7で最下位に沈む。名目GDPもドイツに抜かれ、世界第4位に転落する見通しだ。一人当たり労働生産性はOECD加盟38ヵ国のうち29位と低迷し、平均年収では韓国にも追い抜かれた。さらに円安と資源高、そして産業空洞化により貿易赤字が常態化した」とする。アベノミクスの光よりも闇に、功よりも罪に注目する。一方の永濱は先進国でこんなに長きにわたって成長していない国は日本だけとしつつも、日本も正しい経済政策を行っていたら、バブル崩壊からデフレに陥らずにもっと成長していたと断ずる。そして「日本がバブル崩壊から20年目にして、ようやくデフレ脱却への歩みを進めつつあったのはアベノミクスの成果」と西野とは真逆の評価である。西野は現状の改革に向けて「潜在成長率の引き上げに向けた構造改革と、血のにじむような財政健全化の努力が不可欠」とするが、永濱は赤字国債、政府債務の増加に対しては楽観的だ。国債の裏には「債権」=資産があり、日本国債で調達された資金が国内で使われれば、その分は民間資産の増加につながるとし、「政府債務のツケを残す」ということは、「将来世代に民間資産を残している」ことにもなる、と楽観的である。国の財政を家計にアナロジーさせ、家の年収の何倍の借金をしていると語られることがあるが、国債の大半が国内で消化されている限り、国の借金=国民の資産という考え方も成り立つ気がする。

2月某日
御徒町前の吉池本店ビル9階の吉池食堂で3月12日の呑み会の予約をする。で15時から上野のアパホテル1階にある「ハコザキ上野店」で大谷さんと待ち合わせ。ところが上野にはアパホテルが複数あるようでどこのアパホテルかわからない。大谷さんに電話して「HITACHI」と大書されているビルの前で待ち合わせる。大谷さんと合流して無事に「ハコザキ上野店」へ。店長らしき人によると都内や埼玉県に5店舗ほど展開しているらしい。つまみも美味しくて値段もリーズナブルだった。上野駅まで歩いて5分ほど。上野駅から常磐線で我孫子へ。

2月某日
「口訳 古事記」(町田康 講談社 2023年4月)を読む。町田康は確か作家になる前はロック歌手。1962年大阪府生まれ、2000年に「きれぎれ」で芥川賞。口訳とは口語訳のことと思われるが、町田は「ギケイキ」でも同じ手法を用いている。私は「ギケイキ」も大変楽しく読ませてもらった。図書館で「日本古典文学全集」の「義経記」を調べると、ストーリーは「義経記」を踏襲していた。たいしたものである。「口訳 古事記」の巻末にも参考文献として「新編日本古典文学全集1 古事記」が記載されていた。もちろん本書も古事記を底本にしているのだが、その口語訳が町田独特なのだ。例えば伊耶那岐命と伊耶那美命の国産み神話は…「あなたの身体はどんな感じです」「こんな感じです」「いいね。吾はこんな感じです。この二箇所はちょうどはまる感じです。これをはめて二柱が一体化して、そのパワーで国土を生みません?」「いいね」…ということになる。古事記を底本としながら見事に口語訳している。町田の想像力と創造力の賜物である。でも古事記っていろんな断片が絵本など子供向けの本で紹介されているのね。私は本書で紹介されている古事記のストーリーのいくつかは絵本、それから小学校高学年で読んだ少年少女文学全集に載っていたものだ。

2月某日
「肉を脱ぐ」(李琴峰 筑摩書房 2023年10月)を読む。李琴峰は1989年12月台湾生まれの34歳。国立台湾大学卒業後、早稲田大学大学院に留学。2018年に日本の永住権を取得、21年に「彼岸花が咲く島」で芥川賞受賞。「肉を脱ぐ」は大手化粧品メーカーでOLとして働く佐藤恵子は柳佳夜というペンネームで小説を書き芥川賞候補にもなった。「肉を脱ぐ」というタイトルは小説の最後で主人公が「脱皮。そうだ、みんなが皮を脱ぎ捨てるように、私も脱ぎ捨てなければならない。垢を、皮を、肉を、この身体の重さを、脱ぎ捨てるのだ」と独白することから来ている。自分は何ゆえ自分であるのか、自分の性別は何ゆえ男あるいは女なのか、というかなり根源的な問い突きつけている小説のように私は思う。台湾に生まれ育ちながら日本語で小説を書くという希少性、そして自身が同性愛者であることを公表している希少性、そういった希少性が一つのテーマであるように思う。

2月某日
「ケアの倫理-フェミニズムの政治思想」(岡野八代 岩波新書 2024年1月を読む。新書ながら私にとっては結構、難解な本であった。本書によるとケアの語源は古ゲルマン語のkaro(悲しみ)に由来し、「思わずそこに注意を向けてしまうような、心の動きを表し」「そうした意味の複雑さから、ケアという活動は、やりがいを感じさせたり、対象への愛着を生んだりする一方で、極度の疲労と、時に嫌悪感を伴うような労苦ともなる」(序章)という文言はケア労働の本質をついている気がする。また、本書の役割は「わたしたちの社会の底に今なおしっかりと埋め込まれている、家父長制、あるいは男性中心主義の構造を、根底から問い直す倫理であることを明らかにするためである」(同)とする。本書は難解ななかにも「なるほど」と思わせる記述が少なくなかった。「馬などは誕生後まもなく自分の足で歩行できるが、人間はたとえば首がすわるまで三カ月、二足歩行に至ってはおよそ一年かかる。つまり社会的な存在としても生物学的な存在としても、人間はケアされる/する人びとなのだ」(第5章)という文言も説得力がある。本書は「ケアの倫理」を検証することを通じて、日本社会の根底的な批判をしているように感じられた。著者の岡野八代は早稲田大学政治経済学部出身で藤原保信の門下ということだ。藤原門下には作家の森まゆみ、政治学者の重田園江など優秀な女性が多い。

2月某日
社会保険研究所の専務、社長、会長を務め、年友企画とフィスメックの創業者の一人でもあった田中茂雄さんが亡くなった。年友企画の石津さんからメールで知らされた。告別式の日は私には外せない会議が入っているので、今日、フィスメックの小出社長に香典を届けて来た。小出社長は会議中だったが受付の人が預かってくれた。田中さんは私が35,6歳で年友企画に入社して以来の付き合いだからおよそ40年の付き合いとなる。田中さんは確か昭和6年頃の生まれだったと思う。初めて会ったのが昭和60(1985)年頃だ。田中さんは東京外国語大学ロシア語学科出身の秀才なんだけれど、酒好きでも鳴らした。会社を終わって会社近くの「与作」という居酒屋をのぞくと一人で呑んでいることが多かった。「そんなところでのぞいてないで入って来いよ」と声を掛けられ、いつもご馳走になっていた。ブラックというスナック、神田駅ガード下のママが独りでやっているカウンターバーでもご馳走になった。新宿歌舞伎町の「ジャックの豆の木」というクラブにもご一緒したが、ここは会社のツケだった。田中さんが東京外大に入学したのはおそらく昭和24(1949)年頃。日本共産党が学生運動の主導権を握って過激な闘争に明け暮れしていた。田中さんの前の研究所の社長が船木さんで、彼も東外大のロシア語学科で一緒に学生運動をやっていたらしい。その頃の話は聞いたことはなかったけどね。年友企画の本田さん、鰐田さん、大前さんといった女性社員とも良く呑んでいた。彼女たちもなくなってしまった。天国で盛大に歓迎会をやっていることだろう。

モリちゃんの酒中日記 2月その1

2月某日
「大審問官スターリン」(亀山郁夫 岩波現代選書 2019年9月)を読む。1917年の10月革命でロシアも権力を掌握したボルシェビキ(ロシア共産党)。強力な社会主義政策を実施したレーニンが死去した1924年1月以降、実質的な権力を掌握したのがスターリンである。著者は1949年栃木県生まれ、68年に東京外語大学ロシア語学科に入学。東大大学院博士課程単位取得退学。東京外語大学教授、同学長を務める。著者が大学に入学したころは学園闘争の最盛期で東外大もバリケード封鎖中、著者はほぼ独学でロシア語を学び、ドストエフスキーを原語で読んだということをどこかで読んだことがある。私は48年北海道生まれ、1浪後に早大政経学部に入学し第2外国語はロシア語であった。私は積極的にバリケード封鎖に加わり、購入したロシア語の教科書と辞書は埃をかぶったままであった。
それはさておき、本書は権力を掌握した以降のスターリンが、次々と政敵を粛清していく過程が同時代人の証言を交え明らかにする。レーニンの同志だったトロツキーは追放され、カーメネフ、カウツキーらの党幹部も次々と死刑判決を受け銃殺されていく。本書によるとレーニン死後の権力闘争でキャスティングボードを握っていたのはジノヴィエフとカーメネフだったが、2人はトロツキーに対する近親憎悪と逆にスターリンは組みやすいとの思惑からスターリン支持に回った。「スターリンはあまりに粗暴すぎる。この欠点は…書記長の職務にあってはがまんならないものとなる」というレーニンの遺書があったにもかかわらず。本書では独裁者スターリンの孤独が描かれる。グルジア(現ジョージア)という少数民族の出自、帝政時代に秘密警察と通じていたという疑い(オフラナファイルの存在)などがスターリンを脅かす。私はここでロシアのプーチン大統領を思い起こす。プーチンは現代のスターリンか? 独裁者ということではそうだと思う。プーチンの死後、そのことが暴かれることになるのだろうか?

2月某日
月に一度の中山クリニック。アビスタ前からバスに乗るつもりだったが本日は土曜日、バスの本数が少なく天気も良いので歩くことにする。15分ほど歩いてクリニックに着く。「どうですか?」「花粉症以外は好調です」「また花粉症の薬出しておきましょう」「血圧もたいへんいいですね」。この間、2~3分。中山先生は全然偉そうでもなく優しい先生だ。東大医学部出身なんだけどね。帰りは我孫子駅前からバスで若松へ。薬局のウエルシアに寄ったら薬剤師のお姉さんが「1時間くらいかかります」と申し訳なさそうにするので「後で来ます」といったん家へ。食パンにバターとチーズ、ハムを乗せてトースト、「5種の生野菜」を乗せスープとともにいただく。再びウエルシアへ、薬を貰う。図書館へ寄ってリクエストして本を借りる。今日はこれで1万歩を超えた。

2月某日
「波流 永山則夫 小説集成1」(共和国 永山則夫 2023年10月)を読む。昨年末に2を読んだ。この小説集成には永山が生前に発表した「N少年」「N」を主人公にした全作品を発表順に2巻に分けて収録している。したがって1には比較的初期のものが収録されていて2の作品と比べると私からすると完成度は低いと感じる。永山は北海道の網走に5歳まで育ち、5歳のとき母親が自身の故郷である青森県板柳に兄弟をつれて帰郷してしまう。残された永山と兄弟は今でいう育児放棄された状態にあった。永山と兄弟は翌年、市の福祉関係部局により板柳に送られる。板柳においても母親は行商で忙しく永山は小学校4年から新聞配達のアルバイトを行う。またこの時期次兄から激しい暴力を受ける。永山は小学校でも中学校でもまともに授業には出席しなかった。家庭では母親から半ば育児放棄され、兄からは家庭内暴力を受けて教師からは無視されていたと言えよう。永山の文章について「完成度は低いと感じる」と書いたが、次のような文章を読むと才能の片りんを感じさせる。「木橋から美しい岩木山が見えた。この木橋から見る冬の岩木山は格別だ。Nは好きだった。林檎園の木々は黒かった。辺り一面銀の世界の中で、その木々の黒さは目立った。岩木颪が顔面に当たると心の眠気がいっぺんに醒めた」(破流)。永山は小学校4年生から新聞配達をはじめ、中卒後東京渋谷のフルーツパーラーに半年ほど務めた後は土工や荷役などの肉体労働を続ける。大阪での米屋での就労は安定していたが、戸籍謄本の提出を求められ出奔することになる。出生地が網走市呼子番外地となっていたためである。当時、高倉健主演の「網走番外地」が人気で、永山は網走刑務所で出生したと誤解されることを恐れたのである。1969年4月、19歳の連続射殺犯の永山は逮捕される。「永山則夫の罪と罰」(井口時男)には、そのとき押収された「社会科用語辞典」の余白に次のように記されていたという。「わたしの故郷で消える覚悟で帰ったが、死ねずして函館行きのドン行に乗る。どうしてさまよったかわからない。わたしは生きる。せめて二十才のその日まで。(後略)」。

2月某日
上野駅の公園口で香川さんと待ち合わせて、東京国立博物館の特別展「本阿弥光悦の大宇宙」を観に行く。本阿弥光悦は江戸初期の芸術家にしてプロデューサー。なのだけれど、もともと本阿弥光悦にそれほど関心はなく、説明文を読むのも上の空。身体障害者手帳を見せると私と付き添いは入場料無料。それで上野の博物館や美術館に行くのだが、タダということからどうも真剣味に欠ける鑑賞となってしまうようだ。香川さんにバレンタインの義理チョコをいただき、上野駅構内で食事。

2月某日
我孫子在住の吉武さんに誘われて表参道のイベントへ。ところが我孫子始発の千代田線直通の電車に遅刻、携帯を忘れたので吉武さんに連絡もとれず。表参道の駅前はねじり鉢巻きに法被姿の老若男女がいっぱい。なんでも紀元2684年の奉祝パレードが明治神宮まであるということだ。パレードをチラ見して我孫子へ帰る。結局、花粉を浴びに表参道まで出向いたことになる。

モリちゃんの酒中日記 1月その3

1月某日
昨夜、11時過ぎに就寝。4時頃いったん目が覚めたので起床。朝のテレビを2時間ほど漫然と見た後、2度寝。11時頃起床。朝食はトーストにバター、チーズ、「5種のリーフ」を乗せて、スープと一緒に食べる。ランチはコーンスープにご飯を入れて、副食は「5種のリーフ」にツナ缶とたまねぎのみじん切りを乗せ、ドレッシングをかけて食べる。
「戦前日本のポピュリズム-日米戦争への道」(筒井清忠 中公新書 2018年1月)を読む。私はこの頃、日本と世界の現状が第2次世界大戦前の状況と非常に似てきているように思えてならない。本書を読んでもそのことを痛感した。ロシアのウクライナ侵攻は日本の中国大陸への侵攻を思い起こさせるし、ロシアのクリミア半島併合は日本軍部の満洲国建国と非常に似ていると思わせる。自民党安倍派を中心とした裏金疑惑は、昭和戦前期の政財界の腐敗を思わせる。日本はそれからファシズム、そして日米戦争の道を歩きはじめる。今はさすがに日米戦争はないだろうが、怖いのは台湾海峡と北朝鮮のリスクではないか。戦前は日本、ドイツ、イタリアで3国軍事同盟を結び、米英ソ連に対抗した。現在はロシア、中国、北朝鮮が権威主義国家同士で連携しているように思う。3国に共通しているのは思想としてのスターリン主義(個人への権力の集中、自由な言論の弾圧等)である。そしてスターリン主義に対抗できるのは反スターリン主義ではなく民主主義である。

1月某日
「満州事変-政策の形成過程」(緒方貞子 岩波現代文庫 2011年8月)を読む。著者は国連難民高等弁務官を1991年から10年間勤めた緒方貞子(1927~2019)である。私は世界各地の難民支援に活躍した緒方のことしか知らなかったが、本書の解説やウイキペディアによると、昭和初期に生まれた女性にしては珍しく国際的、学際的な活躍をした女性である。
彼女の曽祖父は犬養毅、祖父は犬養内閣の外相を務めた吉澤健吉。母は元共同通信社長の犬養康彦や評論家の犬養道子、エッセイストの安藤和津の従妹。ということは安藤和津の夫の奥田瑛二やその娘の安藤サクラとも親戚ということになる。まぁ家系的に見てもリベラルなのは了解できる。外交官の娘として生まれ、幼少期をサンフランシスコ(バークレー)、広東省、香港などで過ごし、小学校5年生で帰国、聖心女子学院に編入、聖心女子大学英文科卒。カリフォルニア大学バークレー校の大学院で政治学の博士号を取得。本書は大学院に提出した博士論文をもとに日本語訳されたものである。
本書は「日清・日露の戦争によって既に満州に鉄道をはじめとする諸権益を得ていた日本は、その一層の発展を図ることを基本的な対外政策としていた。特に関東州及び南満州にある鉄道の保護を任務としていた関東軍は、より積極的な保護と発展の機会を求める在満日本人の要求にも応え、次第に積極的な戦略論を展開するに至った」(まえがき)過程とその結果としての中国侵略、満洲国建国に至る「政策の形成過程」を描く。私は緒方が満州事変の原動力となった日本帝国主義を「社会主義的帝国主義」と定義したいとしていることに注目したい。緒方は満州事変が国民に歓迎された理由の一つとして「事変の結果国民経済が拡大されることが期待された」ことをあげている。満洲での戦火拡大を担った関東軍も日本政府に対し「満洲開発の成果を国民大衆に享受させるため、社会政策上の大改革を断行するよう要請した」がこれは、これはナチスの国家社会主義的な政策を思い出させる。これはすなわち「社会主義的帝国主義」である。ソ連のアフガン侵攻や中国の新疆ウイグル自治区への弾圧も社会主義的帝国主義である。ロシアのウクライナ侵攻は、ロシアが社会主義から離脱したため、たんなる帝国主義である。

1月某日
8時起床。日課となっているNHK朝のテレビ小説「ブギウギ」を見る。主人公の趣里が演ずる福来スズ子(モデルは笠置シズ子)が村山興業(モデルは吉本興業)の御曹司、村山愛助の子どもを妊娠していることが判明。喜ぶシズ子と村山。だが、大阪の村山の母(小雪が好演)は激怒。どうするスズ子? 図書館へ寄った後、11時頃、バスでアビスタ前から八坂神社前の床屋(カットクラブパパ)へ。散髪の後、歩いて手賀沼縁の「水辺のサフラン我孫子店」へ、サンドイッチを購入。手賀沼公園内のベンチで食べる。

1月某日
御徒町の清瀧上野2号店で3時から新年会。3時に会場に行くと石津さんが来ていた。少し遅れてHCM社の大橋さんとデザイナーの土方さんが来る。会費3000円で足りない分は大橋さんと土方さんが出してくれたようだ。私はビールと日本酒、ウイスキーのソーダ割をいただく。気がつくと7時を過ぎていた。4時間以上、呑んで食べてしゃべっていたわけだ。石津さんからお煎餅とハンカチをいただく。石津さんは4月いっぱいで年友企画を退社すると言っていた。そのときはまた呑もうと思う。土方さんは地下鉄で石津さんは京浜東北線で帰る。私と大橋さんは山手線で上野へ。私は上野から常磐線で我孫子へ。大橋さんは出張で仙台へ。

1月某日
指名手配されていた東アジア反日武装戦線の桐島聡が、末期がんで入院している病院で自ら桐島聡と名乗り出た。半世紀前の爆弾容疑という。東アジア反日武装戦線といえば、同じ頃に丸の内の三菱重工ビルで時限爆弾を爆発させ多くの死傷者を出した事件が記憶に残る。犯人の大道寺夫妻は逮捕され死刑判決が確定した。夫はガンにより拘置所で死去、妻は確か大使館占拠の人質と交換に国外退去となった。大道寺夫妻と同時に逮捕され、直後に服毒自殺したSさんは私の中学校、高校の1学年上。秀才で現役で東京都立大学に合格した。当時、盛んだった学生運動とは一線を画しアイヌ解放闘争や朝鮮人差別問題に取り組んでいたようだ。Sさんの想いはどのようなものだったのだろうか? 桐島が名乗り出たというニュースを知ってそんなことを思った。

1月某日
末期がんで入院中に指名手配が判明した桐島聡が入院先の病院で死亡したことが報じられた。実名を明らかにしてから数日の命であった。桐島に家族はいたのだろうか? 逃亡中は家族を持たなかったのか、両親や兄弟は健在なのか? 世間の無責任なまなざしにさらされることのないように祈るばかりだ。私は田辺聖子先生の「夕ごはんたべた?」を思い出す。昭和50年に刊行されたこの小説は尼崎下町の開業医、吉水三太郎が過激な学生運動にのめり込む子供たちに悩まされながらも「やさしさ」を忘れない日常を描く名作である。田辺先生は三太郎の眼を通して当時の過激派学生たちを「若者たちに、透徹した見通しや、大衆を納得させる現実的な理論があったとは思いにくい。だから、それら若者の情熱はいくらでもエスカレートしていった。大衆の支持と共感を離れ、突っ走ってしまった」と描く。「そうして大気圏の中で燃えつき、消滅し、あるいは、再び戻ることのない屑星となって、あてどなく遊弋し、闇に消えていった。紛争学生の烙印を捺され、放逐され処刑され、ふるい落とされていった」。この一文を私は桐島に読ませたかったと思う。これは田辺先生からの紛争学生に対する挽歌のように感じられるのである。

1月某日
「風葬」(桜木紫乃 文春文庫 2016年10月)を読む。単行本は2008年10月に出版されている。舞台は根室と釧路。著者は北海道釧路生まれ。裁判所職員を経て作家デビュー。現在も北海道在住だったと思う。小説はまだロシアがソ連と呼ばれていた頃の話である。1990年代頃か。密漁、恋愛、サビれゆく街などテーマ満載の小説である。この小説に限らず桜木の小説を読むと、この作者は「強い作家」と思う。人物描写に容赦がないのである。

1月某日
「永遠年計」(温又柔 講談社 2022年10月)を読む。温又柔は1980年台北生まれ、両親ともに台湾人。幼少期に来日。台湾というのは地域というか島の名称で、国の名前としては中華民国。でも中華民国として正式に国交を結んでいる国は少ない。日本も1972年に中華人民共和国と国交を回復し中華民国とは断行した。でも日本人の多くは中国本土よりも台湾に親近感を持っているのではないだろうか。民主主義という共通の価値観を有する国として。本書には表題作の「永遠年軽」と「誇り」「おりこうさん」の3作がおさめられているが、「誇り」で主人公の大伯父が、主人公に「日本は、台湾を二度捨てた。わかるか?一度目は天皇陛下に。二度目は田中角栄に。俺たちは捨てられたんだ」と語るのが紹介されている。「一度目は天皇陛下に」というのは1945年の敗戦で日本は植民地としての台湾や朝鮮半島を失ったことを指している。小説を離れて私は台湾と日本そして中国本土との関係は現状維持が望ましいと思っている。いつの日か、中国が民主化され平和的に台湾と中国が一緒になれる日まで。