モリちゃんの酒中日記 2月その1

2月某日
「大審問官スターリン」(亀山郁夫 岩波現代選書 2019年9月)を読む。1917年の10月革命でロシアも権力を掌握したボルシェビキ(ロシア共産党)。強力な社会主義政策を実施したレーニンが死去した1924年1月以降、実質的な権力を掌握したのがスターリンである。著者は1949年栃木県生まれ、68年に東京外語大学ロシア語学科に入学。東大大学院博士課程単位取得退学。東京外語大学教授、同学長を務める。著者が大学に入学したころは学園闘争の最盛期で東外大もバリケード封鎖中、著者はほぼ独学でロシア語を学び、ドストエフスキーを原語で読んだということをどこかで読んだことがある。私は48年北海道生まれ、1浪後に早大政経学部に入学し第2外国語はロシア語であった。私は積極的にバリケード封鎖に加わり、購入したロシア語の教科書と辞書は埃をかぶったままであった。
それはさておき、本書は権力を掌握した以降のスターリンが、次々と政敵を粛清していく過程が同時代人の証言を交え明らかにする。レーニンの同志だったトロツキーは追放され、カーメネフ、カウツキーらの党幹部も次々と死刑判決を受け銃殺されていく。本書によるとレーニン死後の権力闘争でキャスティングボードを握っていたのはジノヴィエフとカーメネフだったが、2人はトロツキーに対する近親憎悪と逆にスターリンは組みやすいとの思惑からスターリン支持に回った。「スターリンはあまりに粗暴すぎる。この欠点は…書記長の職務にあってはがまんならないものとなる」というレーニンの遺書があったにもかかわらず。本書では独裁者スターリンの孤独が描かれる。グルジア(現ジョージア)という少数民族の出自、帝政時代に秘密警察と通じていたという疑い(オフラナファイルの存在)などがスターリンを脅かす。私はここでロシアのプーチン大統領を思い起こす。プーチンは現代のスターリンか? 独裁者ということではそうだと思う。プーチンの死後、そのことが暴かれることになるのだろうか?

2月某日
月に一度の中山クリニック。アビスタ前からバスに乗るつもりだったが本日は土曜日、バスの本数が少なく天気も良いので歩くことにする。15分ほど歩いてクリニックに着く。「どうですか?」「花粉症以外は好調です」「また花粉症の薬出しておきましょう」「血圧もたいへんいいですね」。この間、2~3分。中山先生は全然偉そうでもなく優しい先生だ。東大医学部出身なんだけどね。帰りは我孫子駅前からバスで若松へ。薬局のウエルシアに寄ったら薬剤師のお姉さんが「1時間くらいかかります」と申し訳なさそうにするので「後で来ます」といったん家へ。食パンにバターとチーズ、ハムを乗せてトースト、「5種の生野菜」を乗せスープとともにいただく。再びウエルシアへ、薬を貰う。図書館へ寄ってリクエストして本を借りる。今日はこれで1万歩を超えた。

2月某日
「波流 永山則夫 小説集成1」(共和国 永山則夫 2023年10月)を読む。昨年末に2を読んだ。この小説集成には永山が生前に発表した「N少年」「N」を主人公にした全作品を発表順に2巻に分けて収録している。したがって1には比較的初期のものが収録されていて2の作品と比べると私からすると完成度は低いと感じる。永山は北海道の網走に5歳まで育ち、5歳のとき母親が自身の故郷である青森県板柳に兄弟をつれて帰郷してしまう。残された永山と兄弟は今でいう育児放棄された状態にあった。永山と兄弟は翌年、市の福祉関係部局により板柳に送られる。板柳においても母親は行商で忙しく永山は小学校4年から新聞配達のアルバイトを行う。またこの時期次兄から激しい暴力を受ける。永山は小学校でも中学校でもまともに授業には出席しなかった。家庭では母親から半ば育児放棄され、兄からは家庭内暴力を受けて教師からは無視されていたと言えよう。永山の文章について「完成度は低いと感じる」と書いたが、次のような文章を読むと才能の片りんを感じさせる。「木橋から美しい岩木山が見えた。この木橋から見る冬の岩木山は格別だ。Nは好きだった。林檎園の木々は黒かった。辺り一面銀の世界の中で、その木々の黒さは目立った。岩木颪が顔面に当たると心の眠気がいっぺんに醒めた」(破流)。永山は小学校4年生から新聞配達をはじめ、中卒後東京渋谷のフルーツパーラーに半年ほど務めた後は土工や荷役などの肉体労働を続ける。大阪での米屋での就労は安定していたが、戸籍謄本の提出を求められ出奔することになる。出生地が網走市呼子番外地となっていたためである。当時、高倉健主演の「網走番外地」が人気で、永山は網走刑務所で出生したと誤解されることを恐れたのである。1969年4月、19歳の連続射殺犯の永山は逮捕される。「永山則夫の罪と罰」(井口時男)には、そのとき押収された「社会科用語辞典」の余白に次のように記されていたという。「わたしの故郷で消える覚悟で帰ったが、死ねずして函館行きのドン行に乗る。どうしてさまよったかわからない。わたしは生きる。せめて二十才のその日まで。(後略)」。

2月某日
上野駅の公園口で香川さんと待ち合わせて、東京国立博物館の特別展「本阿弥光悦の大宇宙」を観に行く。本阿弥光悦は江戸初期の芸術家にしてプロデューサー。なのだけれど、もともと本阿弥光悦にそれほど関心はなく、説明文を読むのも上の空。身体障害者手帳を見せると私と付き添いは入場料無料。それで上野の博物館や美術館に行くのだが、タダということからどうも真剣味に欠ける鑑賞となってしまうようだ。香川さんにバレンタインの義理チョコをいただき、上野駅構内で食事。

2月某日
我孫子在住の吉武さんに誘われて表参道のイベントへ。ところが我孫子始発の千代田線直通の電車に遅刻、携帯を忘れたので吉武さんに連絡もとれず。表参道の駅前はねじり鉢巻きに法被姿の老若男女がいっぱい。なんでも紀元2684年の奉祝パレードが明治神宮まであるということだ。パレードをチラ見して我孫子へ帰る。結局、花粉を浴びに表参道まで出向いたことになる。