モリちゃんの酒中日記 1月その4

1月某日
「せんせい。」(重松清 新潮文庫 平成23年7月)を読む。巻末の「文庫版のためのあとがき」で重松は「僕の描くお話に登場するおとなの職業は、おそらく九割以上が教師」と書いている。そういえば12月に読んだ「どんまい」にも教師志望の男が出てくるし、朝日新聞連載中の「ひこばえ」では主人公の息子が新米教師だ。重松は同じ「あとがき」で「僕は教師という職業が大好き」と述べる一方で、「僕は同時に、教師とうまくやっていけない生徒のことも大好き」と書いている。考えてみると教師という職業は生徒がいるから成り立つのであって、逆に言うと生徒という存在は、教師がいなければ存在しないともいえる。そうであるが故に教師と生徒の関係を題材にした小説は、両者の関係のバランスの微妙な揺れを描くことが肝となる。「せんせい。」に収められた6編の短編は、とても上手にこの「揺れ」を描いているように感じた。「ドロップスは神様の涙」は優等生だった女の子がクラスの女子から虐めに会い、保健室に逃避しているうちに保健室の先生「ヒデおば」によって自己を再生させていく話。「泣くな赤鬼」は野球の強豪校の「赤鬼」と渾名された監督が、レギュラーを期待されながらも野球部を辞め高校も中退した男と病院の待合室で再会、男は結婚して子供もいるのだが実は末期のがんを病院で告げられる。監督は高校中退とはどういうことか、野球部を辞めるとはどういうことか、考える。人生は考えようによっては挫折の連続である。監督は挫折して野球部を辞めていった多くの生徒のことを考える。末期がんの男の病室を訪ねた監督は「俺の生徒になってくれて、俺と出会ってくれて…ありがとう」と伝える。泣けますね。高校中退のこの男は「教師とうまくやっていけない生徒」の代表である。

1月某日
居候をしているHCM社の大橋社長とデザイナーの土方さん、映像プランナーの横溝君と新橋の「おんじき」へ。「おんじき」は青森料理のお店で青森出身の大橋社長に何度か連れて行ってもらったことがある。土方さんが今月52歳になったと言っていたが、私が70歳、大橋社長が60代、横溝君が恐らく40代、年代も職業も所属する会社も違うが、この4人で呑むと私にとってはなぜか居心地がよい。日本酒のぬる燗をついつい呑み過ぎる。大橋さんにすっかりご馳走になる。

1月某日
「自白 刑事・土門功太朗」(乃南アサ 文春文庫 2013年2月 単行本は2010年3月)を読む。乃南アサは1960年生まれ。私よりひと廻り(12歳)下である。この小説はシリーズ化されなかったようだし、ネットで読後感を検索しても評判もいまひとつだ。だが私は気に入ってしまった。この小説は4つの短編で構成されている。最初の「アメリカ淵」は入院中の土門が警視庁捜査一課への係長職への辞令を受け取るのが「プロ野球のペナントレースで藤田監督率いる読売ジャイアンツが四年ぶりに優勝した翌日」とされているから、1981(昭和56)年の秋である。第2話の「渋うちわ」は土門が長女の美咲と次女の菜摘に開園したばかりのディズニーランドに連れて行くようにせがまれるシーンが描かれているから1983(昭和58)年の春だ。第3話「また逢う日まで」では三島由紀夫が自衛隊の市谷駐屯地で「自らが結成した「盾の会」の会員と共に割腹自殺をする事件が起きた」と書かれているから昭和45(1970)年の晩秋である。最後の「どんぶり捜査」では「今年は正月が明けて間もなく」ホテルニュージャパンが火災に見舞われ「33名が死亡、重軽傷者も149名にも及ぶという大惨事になった」と記されているから1982(昭和57)年である。私が22歳から34歳までの昭和の晩年、私の青春時代と重なるのである。刑事が主人公だから犯罪小説、警察小説のジャンルではあるが、次女の誕生や姉妹の受験のエピソードも盛り込まれて家庭小説、ホームドラマの趣もあるのだ。私の青春時代の昭和の晩年が舞台で、ホームドラマの趣もある警察小説、私が気に入った理由である。

1月某日
家の本棚にあった「彰義隊遺聞」(森あゆみ 新潮文庫 平成20年1月)を読む。本を買った記憶があるが中身は全然覚えていない。買っただけで読まない「積ん読」だったのかもしれない。森まゆみは1954年生まれ、地域雑誌「谷中・根津・千駄木」の編集人として知られるが同誌の終刊後もノンフィクション作家、エッセイストとして活躍している。日本人は「判官贔屓」というか歴史の敗者を好む傾向がある。義経、大坂の陣の豊臣方、そして戊辰戦争では賊軍とされた彰義隊や長岡藩、会津藩など。明治以降では西南戦争の西郷隆盛、2.26事件の青年将校か。彰義隊は1968(明治元)年、鳥羽伏見の戦いに敗れ上野の寛永寺に蟄居していた徳川慶喜の警護を名目に旧幕臣や一橋家の家臣を中心に結成されている。一時は江戸の市中警護を幕府から正式に依頼された。巻末の年表(年月日は旧暦)によると慶応4年1月3日に鳥羽伏見の戦いがあり、大阪城に退いた慶喜は6日に側近とともに海路江戸へ逃れる。翌7日には慶喜の追悼例が下り、10日には慶喜以下17人の官位剥奪、領地没収が決められている。ここら辺の手際の良さは王政復古が薩長連合プラス岩倉具視、三条実美ら一部公家のクーデターであったことを疑わせるに十分である。
2月に入って回状が回され、12日に彰義隊の初会合が雑司ヶ谷鬼子母神の門前茶店茗荷屋で開かれる。23日には浅草本願寺に130人が集まり、彰義隊が結成される。26日には幕府から市中取締りを命ぜられているから、ここから彰義隊は公権力の一翼を担ったと言ってよい。しかしこの時点では京都には明治政権が成立し、東征の軍を進めることが決している。
つまり日本全体が二重権力的な状態にあったのだ。3月13日、芝高輪の薩摩屋敷で西郷と勝海舟が会談、江戸城の総攻撃は中止となる。3月中旬に彰義隊はそれまで本営としていた本願寺から上野寛永寺へ移る。4月11日に江戸城は無血開城され、慶喜は謹慎していた寛永寺を出て水戸へ向かう。旧暦のためこの年は4月が2回あり閏4月29日、田安亀之助の徳川家の相続が決まる。5月1日、大村益次郎が江戸に入り、彰義隊の市中取締の役を解くように要請している。慶喜が江戸を去り、徳川家の存続が決まり、その上市中取締の役が解かれるとなると、彰義隊の公権力としての正当性は大きく揺らぐ。彰義隊による官軍への斬殺事件が発生するが、これは公権力の発動とは言えずもはやテロであろう。14日、官軍・大総督府は彰義隊に宣戦布告、15日払暁より戦闘は開始される。彰義隊は善戦するも日没前に大勢は決する。森は一連の彰義隊を巡る動きを地域の古老や当時の文書、明治期以降に明らかにされた関係者の手記などで明らかにしていく。言い伝えや手記などには食い違いもあるが、森はそれをそのまま綴っていく。日本人の持つ彰義隊的なメンタリティ、それを森は見事に表現していると思う。