4月某日
大学のときの同級生で今、西新橋の弁護士ビルで事務所を開いている雨宮弁護士を訪問。少し遅れて同じ同級生の内海君が来る。3人で弁護士ビルの1階にある割烹「舞」に行く。ビールで乾杯した後、日本酒をいただく。内海君は飲めないのでウーロン茶。お刺身の盛り合わせや鴨鍋などをいただく。私たちは1968年の入学で1972年に卒業した。確か1年28組でクラスには50人以上が在籍していた。学生運動が盛んな時期で私たちのクラスも民青系と反民青系に分かれていた。クラス委員の選挙では私がいつも民青系の清君に大差で負けていた。秩序派が民青と手を結んだためである。しかし雨宮、内海、そして岡、島崎、小林、吉原君、女子では今は清君の奥さんになっている近藤さん、私の奥さんの小原さんは私を支持していてくれた。あれから50年以上経っているけど、元気なうちは一緒に酒を呑みたいね。
4月某日
「無人島のふたり-120日以上生きなくちゃ日記」(山本文緒 新潮社 2022年10月)を読む。著者は1962年生まれ、2001年「プラナリア」で直木賞、「自転しながら公転する」で中央公論文藝賞を2021年に受賞する。2021年4月、著者はステージ4bの末期の膵臓がんと診断される。本書はその年の5月から亡くなる10月までの日記である。私も何人かの友人をがんで亡くしている。会社の同僚だった大前さんや本田さん、年住協の部長から結核予防会の専務になった竹下さんがそうである。今回、本書を読んで末期がん患者の心理の一端を知ることができた。末期がんの患者を見舞うのは辛いことである。そのため私は見舞いを控えた記憶がある。しかし辛いのは何よりも患者本人であることが本書を読んでよく分かった。
4月某日
「結婚は人生の墓場か?」(姫野カオルコ 集英社文庫 2010年4月)を読む。主人公は小早川正人、大手出版社に勤務し、年収は1000万円以上。普通は人も羨む境遇である。だが小早川の実情は違う。ローンに追われ、仕事に追われ、趣味の散歩すらままならない日常。姫野カオルコは「結婚は人生の墓場である」と言いたかったのか?まぁそれもあるかも知れないが私としては、人生の幸福は収入や勤め先にあるのではなく、家族や友人たちに恵まれることではないか、と思ってしまう。姫野さん、違いますかね?
4月某日
家にあった村田沙耶香の小説を2冊続けて読む。「地球星人」(令和3年4月 新潮文庫)と「消滅世界」(2018年8月 河出文庫)。「地球星人」は家族と馴染めない少女、奈月が主人公。毎年夏におばあちゃんのいる長野へ家族旅行する。そこで会ういとこの由宇と結婚の約束をしている。奈月は塾の講師から性的いたずらを連続して受け、講師を殺害するが事件は迷宮入りに。10数年後、長野の家に由宇が移住しそこを奈月が訪れる…。「消滅世界」は近未来の東京が舞台。夫婦のセックスは近親相姦として禁止され、妊娠は性交によらず人工授精が原則。主人公の雨音によると「家族というシステムは、生きていく上で便利なら利用するし、必要なければしない。私たちにとってそれだけの制度になりつつあった」ということだ。性や家族が村田沙耶香のテーマなのだ。「消滅世界」を読んでいて私は全体主義国家の社会を連想してしまった。出産さえも、そしてセックスさえも国家にコントロールされる社会だ。少子化に歯止めがかからない日本では出産一時金の増額などが実施されるようだが、私にはちょいと「いやな感じ」。
4月某日
「女たちのジハード」(篠田節子 集英社文庫 2000年1月)を読む。単行本は1997年1月に発行され、本作で同年の直木賞を受賞している。中堅損保会社に勤めるOLたちの暮らし、恋、夢を描く連作が13編。本作が出版された97年は今から26年前、当時のOLの暮らしはほぼ30年ほど前のものと考えていいだろう。小説中に携帯電話は登場しないのが、現在の暮らしと違うくらいで、それ以外はまったく古びていない。当時とは格段に女性の社会進出が進んでいるが、社会の意識はそれに追いついていないように思う。解説は田辺聖子先生。田辺先生が解説を書いたのは70歳くらいのときか。田辺先生が大阪の働く女たちを活き活きと描写した小説を執筆したのは半世紀ほど前のことだろうか、携帯電話などもちろんなく、女たちは親と同居か四畳半の風呂無しアパートに住んでいた。でも田辺先生の小説は未だに香気を失っていない。「女たちのジハード」も同様である。
4月某日
「ミライの源氏物語」(山崎ナオコーラ 淡交社 2023年3月)を読む。著者の山崎ナオコーラはフェミニズム系の小説家と思っていた。それはそれで大きく間違ってはいないと思うのだが、本書は山崎の視点からの現代的な源氏物語論。ルッキズム、ロリコン、マザコン、ホモソーシャル、貧困問題など14の視点からの源氏物語論だ。山崎は國學院大學日本文学科卒で卒業論文は「『源氏物語』浮舟論」。私などと違って真面目に授業を受けていたようで本書でも各章に源氏物語の原文とそれにたいするナオコーラ訳が添付されている。源氏物語は私の浅薄な理解では光源氏という地位も財産もある持て男が、多くの女性と恋愛をしまくる話だが、山崎はその源氏物語をジェンダーの観点から読み解いて行く。源氏物語の冒頭は「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらいたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありける」という有名な文章から始まる。桐壺帝に寵愛された桐壺更衣の紹介である。桐壺帝と桐壺更衣の間に生まれたのが光源氏。桐壺更衣は早世し、光源氏によって理想化され、山崎によれば「ゆがめられていく」のだが、山崎の見立てではそこにこそ真実がある。「どの性別であろうと、誰だって、世間の中でゆがめられています。世間の中でしか自分の形を作れません。…みんな他者の視点によって、自分の姿を形作られています」。