モリちゃんの酒中日記 6月その4

6月某日
「保守の遺言-JAP.COM衰滅の状況」(西部邁 平凡社新書 2018年2月)を読む。先週読んだ保阪正康の西部との交流を綴った「Nの廻廊」に触発されて西部の本を読むことにした。西部は18年の1月に自裁しているから本書は最期の著作である。西部は60年安保の指導者から後に東大教授、東大教授辞任後は保守派の論客として知られる。しかし本書を読む限り、私は西部を穏健なナショナリストと呼びたい。核武装論者としての西部は「日本領土が核攻撃された場合にのみ報復核として相手国に打ち込むことが許される」と極めて限定的な核武装論者である。私は日本国憲法の平和主義を支持しているが、論理的に分析的に支持しているわけではなく感情的にセンチメンタルに支持しているに過ぎない。そうした意味でも西部の論は再評価されるべきと思う。本書の終了間際に「ごく最近、僕の旧友の未亡人唐牛真喜子さんが71歳で身罷った」の一文がある。私は生前の真喜子さんと親交があり何度か食事をした。西部の自殺を知ったとき真喜子さんが気落ちしているだろうと電話したら、知らない女の人から「唐牛は死にました」と知らされた。癌を患っていたそうだが、誰にも知らせなかったという。西部も真喜子さんもそれぞれの死を死んだというべきか。

6月某日
小中高校が同じだった佐藤正輝君。札幌でコンピュータソフトの会社を起業した。正輝君が上京するというので、山本君が音頭をとって高校の同期が集まることに。5時50分に神田駅北口集合ということで定刻に行ったら誰も来ていない。山本君の携帯に電話しても出ないので予約していた中華料理屋に行っても誰も来ない。7時まで待っても誰も来ないので、お店の人に「行き違いがあったようです」と言って店を出る。神田から上野に行って駅構内の釜めしや「シラス釜めし」とビールを頼む。ビールを呑んでいたら山本君から携帯に着電。
約束は明日であったことが判明。

6月某日
神田駅北口に5時50分に集合。9人ということだったが1学年下の井出君が少し遅れるということなので8人で出発。上海台所という中華料理店に向かう。少し道に迷っていたら井出君が先についていた。女子2名、男子7名で乾杯。私と山本君と佐藤正輝君は室蘭市の外れの水元町出身だが、本日はそれに上野君が加わる。上野君は青学の英文科出身で卒業後はJALに就職した。本日は飲み放題食べ放題で3800円だったが、一律3000円で残りは正輝君が負担してくれた。「さすが社長!」。帰りは私と山本君は千代田線で新お茶の水から帰り、それ以外は神田から帰った。

6月某日
「労働の思想史-哲学者は働くことをどう考えてきたか」(中山元 平凡社 2023年2月)を読む。著者の中山元は1949年2月生まれ、東大教養学部教養学科中退とある。私と同じ学年で東大中退ということは東大全共闘だったかもしれない。本書は働くことの意味を古代から現代まで、思想家たちはどのように考えてきたか概観している。中山はマルクスやカント、ルソー、ヘーゲル、ウェーバーの訳者でもある。人類の誕生は数百万年前、類人猿が二足歩行を始めたのが発端と言われている。前足を「物をつかむための道具として」利用できるようになり、同時に「頭蓋が発達して大きな脳髄を収容することができるようになった」。そして「口と舌と喉が、言語を発する器官として発達していく」。言語の獲得、これこそが人間を他の動物と区別する最大のものだろう。旧石器時代を経て新石器時代になると人々は定住と農耕を始める。やがて都市が形成され、余剰生産物が蓄積される。穀物の量を記録するために文字が発明され、文字を操る官僚組織が誕生した。官僚や神官を統御し、対外戦争を指揮する王権も生まれた。「労働は苦痛」という労働観が広がり、労働を修行ととらえたのが修道院である。
「労働するということは、今そこにある欲望を抑制し、消失を延期させることだ」としたのはヘーゲルである。ヘーゲルにおいて「労働はたんなる労苦ではなく人間らしさを形成するものとして」きわめて肯定的に描かれた。資本制社会における分業の重要性を指摘したのはアダム・スミスである。スミスとヘーゲルの思想を受け継いだマルクスとエンゲルスは「労働の疎外を廃絶するためには、現在の所有の形式に依拠し」ている国家を「革命によって廃絶しなければならない」と考え、分業が廃止される協同社会(ゲマインシャフト)、すなわち共産主義社会の実現を主張した。20世紀はフォーディズムやテーラーシステムによる大量生産大量消費の時代であった。20世紀後半に登場したロボットとAIは生産性を大幅に向上させる。マルクスが描いた分業が廃止された共産主義社会「私は今日はこれをし、明日はあれをするということができるようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、朝には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批判をすることができるようになる」(ドイツ・イデオロギー)が可能になるのだ。